“結果”とは、常に最重視されて然るべきだ。 勿論プロセスは結果を生むために重要だが、正しい行動を取っても、正しい結果が出るとは限らない。 少なくとも彼らは――数多の屍を越え、血と泥と汗に塗れながら 此処までやってきた彼らは、嫌というほど思い知らされていただろ う。 結果だけが全てだということを。 「……何故だ」 「……何故、こんなことになってしまった」 宵闇に彩られた青年は、オオアマナの花に囲まれた空の下で全てに絶望していた。 「目を開けてくれ……もう一度、私に笑いかけてくれないか」 腕に抱かれた少女に向けて嘆願する。 その祈りが届かないと知っていても―― 「一個だけわかるよ」 「あなたにとって、その人は掛け替えの無い存在だった」 茫然自失で立ちすくむ青年の前には、彼よりも若さの残る幼い顔をした少年が膝をついていた。 「こりゃ立ち上がれないなって一発でわかるぐらいの痛みはさ――身体じゃなくて、心の深い部分にグサッて来て初めてわかるものだから」 「あなたの感じた“痛み”はあなたのもので、俺が導き出した“選択”も俺だけのもの」 「結果なんて不服であたりまえ。いつだって終わってみれば、容赦無い結末だ。だから――――」 少年の膝が起き上がり、再び両足が地を踏む。揺るぎない決意を持って。 「後で涙を流すくらい、俺にも許されるかな」 「キミの信念が、覚悟が、決断が、理解できないと言えば嘘になる」 「うん」 「しかし私はこの世界を受け入れることができない。心が受け入れることを拒んでいるのだ」 「うん」 「だから私は、どんな理由があってもキミを許すことができない」 「そっか……」 絶望の淵に立った者を言葉で理性の範疇に留めることが不可能であることを少年は知っていた。 自分にできることは持て余すほどの激情をその身で受け止めることだけ。 「これは俺の尊敬する人の受け売りなんだけどさ……」 「世界中に現存する種族の中で感情で殺すのは人間だけなんだ。他のイキモノは全て、種の繁栄の為の“本能”に縛られてる」 「だからこそ人間は――――理由に値しない理由で、軽はずみに殺しちゃいけないんだ」 青年の目に炎が宿る。 彼自身は、己を突き動かす感情の正体に気づいていない。 人いう種だけが持ちえる、自衛の目的で他者を攻撃する衝動。 「あなたの理由が理由に値するかしないか、確かめてやるよ」 少年はそう呟くと自嘲気味に笑った。 この状況下においてどこか冷めた目をしている自分よりも、目の前にいる魔神のような男の方がよっぽど人間らしいではないか。 その事実が少年にとっておかしくもあり、また自分も十分壊れてしまっているのだなと自覚させる材料になるのだった。 「ぁぁぁぁぁああぁぁぁ――」 青年は考えることを一切放棄し、原始的な破壊衝動に身を委ねた。 死ねない理由を持つ者と生きる理由を失った者――両者の感情が身体を借りて衝突する。 「私達が……何をしたというのだ」 迎え撃った少年の刃は届かなかった。 青年は冷静さを欠いてもなお命のやり取り、相手を殺すために必要な手順だけは忘れていなかった。 「何もしていないよ。ただ……善人が必ずしも報われるわけじゃない。理不尽だけど、どうにもならないことなんだ」 両者は動かない。いや、動けないのだ。 少年が得物に込める力を緩めれば青年に押し込まれてしまうだろう。青年にとってもそれは同じだった―― 「私は拒絶する。それが世界の真理だというのなら、全てを灰燼に帰す」 青年の炎が腕だけではなく全身へと燃え移る。 いや、燃え広がったわけではない――青年自体が炎と化しているのだ。 「やりきれない悲しみが紛れるなら俺はそれを幾らでも受け止めてみせる」 「だけど……本当にそれで気が済むはずがないことはわかっているだろ?」 「同じ傷の味を俺は知っているよ。でもそれだけじゃなにも変わらない」 「憎しみを向けている相手に同情される程、私の心は乱れているようだ」 「しかし、誤ちとわかってからでは後悔以外にはなにも出来ない」 「キミには《・・・》〈それも〉わかっているのだろう?」 「……それでも……それでも……やれることは見つければいいっ!」 「その先にあるのが深い闇だとしても……いつかは明るい光がさすってもんだろぉ!」 「私が人間であれば、もう少し違う気持ちになったのかも知れない」 「この煮えたぎった紅蓮の炎はもう私ですら止められない衝動だ」 炎はやがて少年を飲み込み四肢を這い回った。 「ぐぅっ……!!」 「私と共に行こう。この世界は穢れているのだから」 炎はオオアマナの花と少女の亡骸をもその渦の中に巻き込んでいく。 消え行く命の火は空を焦がし、《オーロラ》〈極光〉の瞬きさえも赤く染まっていった。 “×××”が“ソレ”から手を放したのには、それなりの理由がある。 一つは、遥かに予想を超えた“情報”の受け入れに耐えかねた脳が悲鳴をあげた事であり。 もう一つは、この事実を受けて自分はどうするべきなのか――正確には、《・・・・・・・》〈どうしたいの〉かという決断に直面したからだった。 ――――このままでは、今“視”たものが現実となる。 “×××”は何不自由ないエデンの園にいるといって過言ではなかった。 日々は充実し、危険とは無縁の世界で生き、穏やかに四季の移ろいを愉しんでいる。 ――――自分以外に誰が防げるというのだ。 出逢ってしまった物が禁断の果実と知りながら“×××”は行動に移らざるを得なかった。 “×××”だけが持つ特別な“力”が、それを物語る。 世界中でこの事に気づいているのは自分だけなのだと、それがわかってしまった。 ――――とんでもない貧乏くじを引いたものだ。 この時点で“×××”は捨てられない地獄の直行切符を手にし、覚悟を決めた。 どの道、憐れな骸になるのならば、不幸になるイキモノは少ない方がいい 眠っている“ソレ”を、淀み、強張った顔つきで見下ろす。 “×××”は“ソレ”に対して明確な恐怖を感じていた。 将来有望という点では、最初の印象と別の意味で変わりはないが、“×××”は如何せん“視”えすぎてしまう。 ――――《とわ》〈永久〉の休日とは、皮肉めいている。 “×××”は創世記の冒頭を思い出し、独りごちた。 神は6日間であらゆるものを創造し、7日目に休んだ。 明日から始まる一週間に関わり、数奇な運命に翻弄される人々は、無事に7日目を終えられるのだろうか。 笑って肩を取り合えるのだろうか。 ――――全ては、脇役である自分に掛かっている。 “×××”は概ねの結末が“視”えている。その上で、自分が舞台の主役を飾れないこともわかっている。 だが“×××”は誰にも知られず、歴史の影に消えていっても一向に構わないと思っていた。 それが自分の役目であり、きっと自分の力はそのために与えられたのだ。 “×××”は密かな企みを秘め、かざした手指の隙間から《オーロラ》〈極光〉を睨み続けた。 「あ、兄様」 「ああ……久しぶり……あれから元気にしてたか?」 「なにその、なんとなく疎遠になった幼なじみみたいなリアクション。同じ屋根の下で暮らしてるんだから、そうじゃないでしょ」 「かわえーイキモノとの遭遇。服似合っててかわえー。雨模様かわえー。いつにも増してかわえー」 「もう。私を褒めるのより挨拶が先でしょ?」 「おはようございます妹様」 「おはようございます兄様」 「結衣っちは俺だけの天使」 「はいはい」 「ちょっと、どこ行くの? あと5分だけ褒めちぎらせてよ。妹を溺愛するのは兄の宿命なんだからさ」 「……休日なんだから、もうすこしゆっくりしててもいいのに。お布団入ってからまだ2時間しか経ってないよ?」 「心配いらないって。体調は最高、コレ以上ないってくらいにっ」 「夏バテとは完全に無縁だね」 「身体の鍛え方が違いますから」 「それに寝腐るの、もったいないじゃん。眠ってる間も世界は動いてて、おもしろい事は雲の数ほどあるんだぞ?」 「兄様、普通は《・・・・・》〈星の数ほど〉、じゃない?」 「――――ていうツッコミも、起きてなきゃ受けられてない。息を吸って吐くだけのCO2自動作成機にはなっちゃダメ」 「限りある人生を大切にするのは、命ある者の義務じゃん」 「人生は短かったり、長かったりする不公平なものだからね」 「デートに連れてって欲しいならそう言ってよー。俺は結衣ならいつだって歓迎なんだから」 「シスコン乙」 「むがっ」 あごが外れるサイズの何か。 ベタつかず、さらっとしたカリカリの舌触り。 サクッ!と軽快に歯が通り、先に待つもふもふの新食感。 これは―――― 「むぐむぐ……むぐ。未来の嫁の愛妻弁当ならぬ愛妻揚げパンか!!」 「愛妻じゃなくってRe:non様の慈悲でしょ。たくさん余ってるから、頑張ってノルマこなしてね」 「むぐっ」 また押し込まれる。平均的ドーナツサイズ。そんなものを詰め込まれたら、口の中は不思議な事にちょっとしたグロ画像。 「ふぉれろくひはふぉみふぁをひゃらいんらろっ!(俺の口はゴミ箱じゃないんだぞ)」 「ん? 何? 『ババァは黙って仕事してればいいんだよ』? そっくりそのまま社長さんに伝えればいいの?」 「むきゅんむきゅん!!」 「兄様、汚い。冗談だってば」 「ふぅ……さて、全身に太陽を浴びてきますかね」 「社長さん下で眠ってるから、事務所通る時、起こさないように静かに出てってね。もし仕事以外で起こしたら……」 「起こしたら……?」 「気絶させた後、鼻にフックしてから樽に押し込んで“優真危機一髪”するって」 空想の樽目掛け、ナイフをざくざく刺していく結衣。 「そんなことするなら、こっちにも考えがあるんだぜ(ガクガク)」 「よしよし。私の前だからって強がる必要ないのよ、兄様。穴だらけは怖いよね、よしよし」 天使の笑顔で慰めてくれる妹様。 「それじゃ気をつけて行ってきてね兄様。はい、お弁当にもう一個」 「よしっ! これで空腹で倒れることはなくなった」 「くれぐれも静かにね」 「ぐーぐー……ぐーぐー……」 「…………うーむ……」 「気品がある!!」 「良い額だ。心が洗われる。キリッとした鋭角美。歴史のうつろいを感じさせるフォルム。きっと素敵で無敵なハッピー・デイズが始まる。そんな気がする」 「“全ては社長の為に”実に清々しい。ああ働きたい、今すぐ社長に貢献したいマジで」 「んむぐ……めろ~ん……?」 おっと。しかし休日の謳歌も仕事へのアクセント。寝るのも仕事とはよく言ったものだ。 ラララ月曜日♪ 今日は日曜日♪ 「そーっと……行ってきます……」 「んむぅ……ひとりごとは……もうすこし静かに……だーぞー……ゆーまー……」 「んぐぅ……めろ~~ん……」 清々しさがある。良い天気だ。躰が軽い。翼が生えたらこんな感じだろうか。 目隠ししたって歩けるくらい住み慣れた道は、小さな変化だって目に付く。 横断歩道の白線にタイヤ跡がついてたり。 誰かが零したアイスクリームに蟻が群がったり。 エーエスの運送業者が時間より遅れていたり。 そういうの――――全部ひっくるめて、時間が進行形だって教えてくれる。 からっとした夏の陽気。 じわじわと焼けるような天然の日焼けサロン。 俺はあんまり焼けない体質だから気にしないけど。 「さすがに3つ目はちょっと飽きるな。喉乾くし」 蜂蜜揚げパンを袋の上からぱくり。ごくり。 あえて道端でバタフライ効果を狙っていこうという意思表示。 昨日映画で見た。どうでもいいような小さな行動が、どうでもよくない大きな流れを生み出す効果だ。 例えばパンを咥えて走ると漫画なんかじゃイベント発生のサインになる―――― 「きゃぅーる!」 ――――ごっちんっ!! ってな感じに。 期待通り、ものの見事に運命の出会いをゲット! なーんて。動物とかってオチ? にしてはオシャレな鳴き声だった。 低飛行中のカラスは“きゃぅーる”なんて絶対言わない。 「うく、うくく……“いじめ”“虐待”“幻覚”“幻聴”。術式はよりどりみどり、私はゆとり……」 いやいやいや、人だ。女の子だ。パンなんか咥えてる場合じゃない。 「わるいっ、よそ見してましたっ! 大丈夫ですか?」 「か、カドを曲がってぶつかるのは伝統芸……や、や・る・わ・ね」 「ぶつかったの頭、だよね。見せて。痛む?」 「ううん、平気……むしろ、《・・・・・・》〈キミの方こそ〉私とぶつかって平気……?」 「え? 俺の心配はいいよ、全然平気だし」 「その身体はきっとオリハルコンで出来ていた」 やっぱり頭打ってよくない状態なのかな。 「やっぱり私、弱ってるのね。よそ見してたのは私もだから、お互い様だわ……」 「具合悪そうだ。ベンチで休みなよ、熱中症かもしれない」 「施しは結構。私は荒ぶる《ツクモ》〈九拾九〉の思想を持つ秘密集団の《エースストライカー》〈“禍”」 「99円ショップのGメンをやってるって意味かな?」 「関わらないで。今のセリフに意味は無いわ……まったくこれっぽっちも」 「意味のない事を言って会話のキャッチボールを不成立に追い込むのって、意味がなくない?」 「クッフッフ……! それが《・・》〈狙い〉、だとしたら……!?」 だとしたら……やっぱり意味ないからやめて欲しいかもしれない。 唯一、意味があるとしたら、意味のないことを自覚して言っている本人が“それだけで楽しそう”という部分。これは地味に大きいと思った。 「うっ……」 「やっぱり休んだほうがいいよ、支離滅裂だし」 「きゅぅ~~~ん」 ぽてん。倒れこんだ。目の前で行き倒れが発生。 「ダメダメ、そんなとこで寝ちゃ! 道端でキミみたいな美少女が落ちてたら犯罪が起きるって」 「お持ち帰りされちゃう……こ・わ・い」 「そんなにふらふらじゃ危なっかしくて放っておけないよ。立ち上がれる?」 「……無理かもぉ」 「…………」 「…………」 美少女の丸い頬がほおずきみたいに染まる。目を逸らして、ちょっと震えて、そんでもって言葉を選ぶように口をパクつかせる。 「な、鳴ったのはお腹の音じゃないわ。月の都で悪さした時に有罪判決で科せられた業――精神を狂わせる鐘楼よ」 「な……なんだって……?」 難しいことを言われた気がする。 「クフフ~。私の黒歴史に動揺を隠せないようね……」 「はぅんっ!」 「……さ、3度鳴れば被害は私だけに留まらず、あなたにも伝染するわっ」 「鐘の音っていうより、ジェットヘリが着陸するような音に聴こえたかも」 「私のお腹の音はそんな爆音じゃないもん! 小規模だもん!」 「…………小規模……」 「お腹の音じゃないもんっ!!」 今、認めたんだけどなぁ。んー……参ったな。 「はい、コレ」 咥えていたはちみつ揚げパンを渡す。 パッケージの上からだから、汚くない。と信じている。 「うっ……うぅ……Re:non印のパンなんかにこの私が迷う、だと……? じゅるり」 パンを見て。俺を見て。少し悩む素振り。よだれは滝のように垂れっぱなし。 「変なもんとか、入ってないよ。先に一口、食べてみせようか?」 「う~~~……う~~~~……」 お菓子と玩具の選択を迫られたこどもみたいな、気取らない迷い方。 「ぱーーーっ、くんッッッ!!!」 一瞬、豪快に口が開いたと思ったら一飲み。 その様をあえて目の前の美少女風に合わせる、“《テーブルマナー》〈クジラ系食事作法〉”みたいな? 「クフフ~、愉快愉快。その身を贄と捧げ、我が血肉となるがいい」 にたにたして指をぺろり。 キャラ作りなのか素なのかわからないけど。 一連の動作は俺の心を激しく揺さぶった。 「すげぇ! なんにしろすげぇ! 今の技、俺も習得したい」 「クフフ……哀れな……虚界の秘技 “《シロナガスオードブル》〈白鯨の嗜み〉”は一子相伝。 王族の証と知れ」 「やっぱ技名あるんだ! じゃあさじゃあさ、とりあえず何か食べいこっか」 「ご飯? 行く行くっ!」 「……あれ?」 「はい?」 「私、もしかしてご飯誘われてるのかしら……どうしよう、初対面でついてっちゃったらちょろい印象が……」 「ん? 友達とメシ食うだけなのに、何を遠慮してるの?」 「友達……?」 「そそ」 「誰と誰が?」 「俺たち。もう友達じゃないの?」 「運命的に出会った。取り留めのない話をした。プレゼントをした」 指折り数えて、3つも接点がある。 「それに……なんかこの子とはうまくやれそーだなって思っちゃったらもう――――俺はその時点で友達だと思っちゃうんだけど……」 「そういう手と手のとり方、輪の広げ方って――違う?」 「……わかんない。違く、ないと思うわ。間違ってないと思う」 「けど、その考え方は独り善がりって捉えられやすくて……全員が全員“そう”じゃないから」 「人と人が触れ合う事は、ほんの些細なきっかけでいいなんて簡単なこと、認められない人もいるから」 「でも……うん。私は好きかな。人が好きだから」 「奇遇だね、俺も人が大好きで仕方ないんだ」 「そっか。私の方が好きだけどね」 いい顔だ。太陽を想わせる活き活きとした顔。 プラスの表情は伝染する。周りを巻き込んで、楽しくさせる。 俺も大体、同じだから、この子と同じような顔をしてるんだろうな。 「私、菜々実なる。“なるようになる”の『なる』」 「なるちゃんかー。お腹が鳴るで『なる』ちゃん。覚えやすいね」 「“なんとかなる”だよ! しつこいと女の子に嫌われるんだから」 あれ、“なるようになる”じゃなかったっけ。 どっちでもいいんだろうな、きっと。 「ごめんごめん。俺は優真。水瀬優真だ。よろしく」 「カッコイイッ! 《ユーマ》〈UMA〉なんてなかなかいないよっ!」 「惜しい! 読みはあってるけど、絶望的につづりが違う!」 そういえば《バラシィ》〈零二〉の奴も初対面の時は同じこと言ってたっけ。 「優真。“優しく”て“真っ直ぐ”なんて名前負けしそうだけど、覚えやすいだろ?」 「キミって不思議だね。さっきはイイコト言ったように思ったけど、基本ゆるい」 「ゆるさ的にはそれくらいが、良い感じだろ。腹減ってる人を放っておくと社長にいじめられるし」 「社長? キミ、お勤めしてるの?」 「このご時世なら普通普通。まぁ今のはコッチの話、気にしないで――――さ、行きましょう!」 店まで案内する為に、美少女の手に触れるか触れないかのギリギリのところで―――― 「ひゃっ! 私に触れるなぁっ! 死人が出るぞーっ!」 「どわっ、危ないなっ。その人差し指で《メツブシ》〈部位狙い〉する元気あったのかよっ!」 「第二の、第二のアレが……出りゅぅっ! りゃめぇぇ邪鬼眼でひゃうぅぅっ、でひゃいまひゅぅ!」 「例によってご多分にもれず第三の腕が疼きだすぅぅぅッッッ!!」 やいのやいの。 やかましかしまし。 ぴーぴーうるさい路上の真ん中。 美少女との出逢いも、時の巡り合わせの成せる業。 人として生を受けたなら、日曜日は満喫しなきゃ嘘でしょ。 「ぱっくぅ……ぅむぅむぅむ。ぅむぅむぅむ」 「ばっくぅッ♪ 5皿目完食♪」 「ね、すっごいでしょマスター? なるちゃんの胃袋は底なし」 「この大皿を一飲みするなんて……これはもう大食いという域を越えた芸術だと思います」 「うっまいよ~♪♪ コケコッコライスってもっとベチャベチャした印象があったよ~♪」 「オムライスね」 「おかわりを用意するまでは、トーストを召し上がっていてください」 「わーい♪ じゃんじゃん持ってきて」 「あ、それと優真くん。当店では食べ放題は行なっておりませんので、お代金はしっかり頂くことになりますけど……?」 「金の話はいいよ。うまいもんを、たらふく食べさせてあげて」 オムライスの10杯や20杯で働く男はうろたえない。 「まーいうーーー♪ ホントに美味しいから、美味しい以外の言葉が出ないわ♪」 なるの満足そうな笑顔はプライスレス。 「しかし倒れるまで何も口にしないのは感心できませんね」 「そうなんだよなぁ。今のままでこんなに可愛いんだから、過度にダイエットしなくていいのに」 「……(ぴく)。美少女?」 「こーんな美少女とラウンジデートなんて今日はツイてるなぁ。じゃんじゃん食べてねー」 「優真くんは私をお気に入りに登録余裕ですか?」 なるは楚々としてハンカチで口元を拭う。流し目だ。背筋がやたらと伸びてイイトコの娘さんに見える。 「あまり真に受けなくていいんですよ。彼は女性なら誰に対してもこうですから」 「えー、なーんだ……なんか損した気分だわ。でも、別け隔てなく接するところは紳士かな?」 「なるちゃん、もしかして財政難?」 「短絡的すぎよ。お金持ちってわけじゃないけど、幕の内弁当が買えるくらいの手持ちはあるわ」 「ではどうしてこんなことに?」 「え? 何も食べないままでいたらどうなるんだろうって思って」 「………………」 「………………」 「“なるようになる”で、菜々実なる――――本領発揮すぎるよっ!」 「なんでさっ! 極限の飢餓感を身を持って体験しなきゃ、文章として起こせないじゃない」 「文字に起こす? 起こさなくていいじゃん。“腹減った、死ぬー”で伝わるじゃん」 「う・る・さ・い。私はダメなの。文章にできないと困るの。嫌なの」 「資金が底を尽きかけてるのも事実だけど……私はなる。“なんとかなる”!」 「なにやら訳ありのようですね」 「あれだ。家出娘だ」 「旅する乙女に家と情けは無用よ。所詮、この世は“《ロールプレイ》〈擬似世界〉”。邪鬼眼一つで切り抜けられるわ」 「マスターの下で働けば? この人、見たまんまの人畜無害だからヘンな事されたりしないよ」 「菜々実さんにそのつもりがあるのでしたら、手取り足取り、教えますよ」 「……自分のウエイトレス姿にちょっと揺れたけど、やりたいことが山積みだから、ごめんなさい」 「本当に困った時は訪ねてくださいね。軽食でよければ出しますから」 「タダで!?」 「時給換算で飲食代を相殺するまで働いてくださいね」 「世の中ってホントに切ないわ」 「従業員と言えば……」 店内を見渡すが店員はマスターだけ。ウエイトレスさんの姿、無し。 暇があれば隅っこで立方体パズルをいじっていた名物ウエイトレスさんは何処へ……? 「ああ、気づきましたか。連絡が取れなくなってしまいまして……待遇が悪かったのでしょうかね」 マスターの苦笑いから察する。連続無断欠勤継続中。あまり触れないほうがよさそうだ。 「人出が足りなくなったらなるちゃんでも俺でもいいんで、いつでも呼んでくださいね」 「私は無理だってば」 「元々、一人で初めた店。お客様の手を借りる必要はありませんよ。お気持ちだけ受け取っておきますね」 「おっと」 ひょい。ポップな効果音がしてきそうな気軽さで、マスターの指先がなるの肩に触れる。 「ひゃっ!」 「ダメだーーーマスターーーー!」 「――――私に触れりゅなぁぁぁぁっ! 邪鬼眼でひゃぅぅっ!! エンドレス破天荒でひゃいまひゅぅーーー!!」 「GAOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!!!」 「身体に触られるのは、精神に“障られる”のと同一って“設定”らしいんだ! “黒”は“闇”か“《くろ》〈黎〉”で、“時”は“《とき》〈刻”に変換しないと気が〉済まないんだって!」 「はい?」 「何を言ってるかわからないと思うけど、俺もまったくわからん! そういう説明を受けた!」 「すいません、肩に埃がついていたものでっ。どうすれば気を鎮めて頂けるのでしょう」 「贄だ……贄を寄越すのだ。産地……否、 《さんちちょくそう》〈SAN値直葬〉の山羊の頭蓋を馳走しろ」 「オーダーオーダー! オムライス追加追加ー」 「ご注文承りました」 「ムッフー……がなるな! しばし待て私の 《ネオウツボ》〈十二指腸〉よ」 鼻息あらくフォークとスプーンをお子様握り。 なるに掛かれば“ごちそうさま”なんて言葉は長期海外出張中だ。 さて。本来の用事を済ませておかなくては。 手際よくチキンライスを作るマスターを覗きこむ。 「マスター、頼んでおいた奴はできてます?」 「ええ、試行錯誤を重ねましたよ。既に焙煎済みで、3日寝かせてありますからすぐ飲めますよ。完成品はそこです」 「あ、これですか」 珈琲豆のぎっちり詰められた硝子瓶が棚に置かれていた。 さながら《ブラックダイヤ》〈黒艶〉の如き輝きを放っている。 「ありがとうマスター。ブレンドの配分はこないだ言ってた通り?」 「いえ、3:3:3にして、新たにオールドビーンズを10%ブレンドしてあります」 「角の取れた丸みが加わるんだっけ。貴重なものなのに悪いじゃん」 「いいんですよ。珈琲を語れるのは優真くんくらいなものですから、嬉しいんですよ」 「何こそこそやってるのー? 難しい話? 難しい話は大得意っ!」 なるの話は難解というジャンルとは1,2本ズレた“正体不明”“意味不明”に含まれるんだよとツッコミを入れたい。 「前回はブルマンを主体に口当たりの良さを押し出しましたが失敗でしたからね」 「ペーパードリップだから余計にかな。粉の量に気を遣って《ネル》〈布〉で淹れてみるよ」 「専門的な事はわかんないから話に入るのやーめた。食べることに集中しよっと」 「わからなくていいんですよ、感じるものなんです」 マスターは盛りつけたチキンライスにとろ~り半熟玉子を掛ける。 「わ~~♪ 素敵~~♪」 ふわとろアツアツのオムライスと一緒に、2カップ分抽出した珈琲も振る舞ってくれる。 香り立つアロマを感じたいなら夏だろうがホットで頂く。 呼吸が楽しくなる瞬間。 的確な焙煎が施された珈琲豆でしかあじわえない、至福の一時。 職業柄、鼻はほとんど使いものにならないけど、香りの良し悪しくらいはわかる。 「元々、言葉で飾る気はないです。結局、飲まなきゃわからないですから。さぁ、菜々実さんも一緒にどうぞ」 「いっぱい食べて珈琲も飲めるなんて、幸せすぎて、こ・わ・い♪」 ちゅ……ずずず。すする。なると二人で《テイスティング》〈試飲〉。 「いかがですか?」 「――――と」 「トレンディッッ!!!」 「……う、うん…………トレンディ……?(これ……おいしいかな?)」 「コレだよコレ! コレい~ぞ~! こういうのでいいんだよこういうので!」 「良かったです」 「~~♪ 標高1500Mに及ぶ肥沃な土壌が容易に想像できるこの深み♪」 「良質な豆のみでブレンドするのはもちろん、“《ハンドピック》〈欠点豆処理〉”による影の努力が俺には感じ取れる!」 「ここまでの味を出すには、焙煎までの過程を汲んだ的確なドリップが必要になってくるわけだけど――――」 「語るよりも、冷める前に召し上がってくださいね」 目と目で通じ合う。そう。言葉は要らない。つい語りたくなるのがマニアの性だけど。 「間違いないよ。成功の予感しかしない。47作目の“妹ブレンド”は文句の付け所がない」 「きっと妹さんにも喜んでいただけるでしょう。では、何かあったら呼んでください」 「ふぅ……食べた食べたぁ。ずずず」 「――――え!? 妹!? 《ごうま》〈降魔〉くん妹いたんだ!」 「《ごうま》〈降魔〉じゃなくて優真。好き勝手な名前を付けないでください」 「はいはいチュパカブラくん。妹さん可愛い? 写メ見せて」 “優真→UMA”繋がりで攻めて来たのだろう。 言えば言うほど調子に乗って収拾つかなくなるタイプと見た。 「結衣は写真嫌いなんだよ。昔の人じゃないけど、魂抜かれるとか言い出すタイプ。あと、ムチャクチャ可愛い。地上に舞い降りた、俺だけの天使」 「へー、結衣ちゃんか。そんなに絶賛するほどキャラ立ってるなら興味あるわね。色々聞いていい?」 「いや……今度ね」 「なんでさ!」 「ちょっと新聞読んでゆっくりしたいから。しゃべり疲れちゃったんだよ」 「む。私、スルーされた」 コーヒーブレイク。ゆったりのんびり、味わいながら新聞紙に手を掛ける。 様々な物がデジタル化され普及されていく現代だが、新聞はなくならない。 うすっぺらな紙。黒ずむ指先。 目を閉じていてもわかる質感。 なくなってはいけないものは、確実にある。 ――といっても興味があるのは一つだけど。 「芸能欄、芸能欄――――Re:non様の記事あった」 紫護リノン。通称Re:non。 俺と同い年にして国民的グラドルとして完全定着している“《アーカイブスクエア》〈AS〉”の広告塔。 恐怖すら覚えるほどの美貌は映像加工が噂されるが、イベント等で実物を見た者は『実物の方が数倍綺麗だった』と茫然自失で語る。 素人は容姿だけに囚われがちだが、Re:non様の本当の良さは挑発的な視線だと思う。 攻撃的で刺激的。 『見られたくらいじゃなんともない』と言うような強気の姿勢。 思い出したかのように見せる無邪気な営業スマイル。 一体、Re:non様の素顔とはどこにあるのか――――結衣はいつもそれを考えている。 「えい」 ぷす。Re:non様の額を貫通する無慈悲な一撃。 「むきゅっ!?」 なるの濡れた指が新聞紙を突き破っていた。 「Re:non様のご尊顔が大変な事になっちまいましたよ。どうしてくださりやがるんですますかぁ!?」 「ツーン」 「俺がかまってやらないから嫉妬に狂ってやったってヤツですか」 「コイツ、嫌い」 「自分より脚が長いからひがんでらっしゃいやがりますよ」 「厚底靴で低身長ごまかしてるかもねー」 「撤回は要求しない。アンチの侮蔑には揺らがない」 「いや、そういうんじゃないけど――――そういうんでいいや」 なるの回答は何とも歯切れが悪い。 一、Re:non様のファンを妹に持つ者として引き下がれない。 「マスターマスター、なるの下着の色知りたい?」 「ひゃう!?」 「呼びましたか?」 「呼んでない呼んでない! 呼んでないですからッ!!」 「そ、そうですか」 なるによってマスターがカウンターまで押し戻されていく。 焦り顔ながらに取り繕っていたなるだが、ピンと来るものがあったようだ。 「あ、あ、あああの時なのね、あの時なんでしょう。キミってば一言もいわないで、ずっと見てたんでしょ!?」 「見てたさ。ドモホ○ンリンクルの雫が落ちるのを丸一日眺めてる仕事みたいに見てたさ!」 「そんなくだらない仕事は存在しないわっ!」 「美少女が御開帳してたらそれを拝まないのは侮辱だろ! 男の子の気持ちも少しは考えてくれよっ!」 「忘れてくれないなら、おっかないことするわ」 「おっかないことってなに? いいよー、美少女にされることは全部受け入れます!」 「受け入れてみなさいよぉおおおおおおお!!」 「ちょ、新聞返してよ!」 ビリビリビリビリッ! って? え? え? え!? 「ぎにゃあああああああああああああああああああっ!!」 「妙技、《やおよろず》〈八百万〉分割……ッ!!」 Re:non様が無残に切り裂かれ、床に散らばった。 「決まったZE☆」 「こ、殺した! 人殺し!!! 印刷されているとはいえアイドル殺しは重罪だぞ!!」 「マスター、この足短いアイドルが出てる雑誌全部持ってきてくださーい!」 「首チョンパにするんで♪」 「あの瞳に迷いはない! 獰猛な肉食獣の目だ!」 「あれぇ? ごめんな、さ・い・わ?」 「ごめんなさいっ!!」 「はぁ……もう。貸しだからね。貸しの取り立ての為に――――」 なるは四角いケースからトランプのようなカード束を取り出すと、カードシャッフルを始めた。 シャッフルは5通りほど行われた。俺の知っている一般的なものから、高度なものまで、見ていて飽きない。 ふと気づく。なるは全てのシャッフルを一切手元を見ずに行なっていた。 「一枚引いて」 「――――あ、うん」 手品師顔負けのシャッフルに見惚れていた俺は反応に遅れた。 言われるがままデッキの真ん中あたりから一枚引きぬく。 「ひっくり蛙。ゲコゲコ」 「よっしゃ、カードオープン!」 何故かノリノリでひっくり返し、テーブルに叩きつける。 「逆向きでわかんない……えっと、ほいーるおぶふぉーちゅん。面舵の絵だ。あ、これタロットか」 「……ふーん」 “Wheel of Fortune”――――運命の輪。 蔦の絡まった面舵の周りを空想上の生物が飛んでいる。 「それ、あげる。タロット風のお手製名刺なの」 「これ自分で」 「ナンバーの下にちっちゃくメアド書いてあるけど、連絡しないでいいよ」 「なんでっ! せっかく仲良くなれたのに、これでお別れなんて寂しいじゃん」 「平気だよ、同じ街にいるんだし。それに運命の輪を引いた人とまた逢うのは、必然だよ」 「虹色の占い師の言葉に間違いなど、あんまりない!」 運命――――かぁ。いいよな、そういうの。 「だったら、次に逢ったら俺達の関係を友達から盟友に格上げしなきゃな」 「盟友。いい響きね。さらば、また逢う日までっ! “《アラウンドザワールド》〈ATW〉”」 弾むような足取りからは、なるにたくさんの目的があり、それに向かっていく力強さを感じた。 「なるは女の子だなぁ」 「あんないい子を泣かせたら出入り禁止ですよ」 歩み寄って来たマスターが“運命の輪”を手に取る。 「ご自分で作られたんですか、菜々実さんは器用ですね――――ところで、この名刺は頂いた時からこの向きでしたか?」 「上下が逆だったよ。見難いからこうしただけ」 「“運命の輪”……なるさんの占いは、《リバース》〈逆位置〉を深く捉えないスタイルなのでしょうか」 「マスター、タロット詳しいの? 俺が無知なだけ?」 「いえ、あくまで名刺に遊びを持たせただけでしょうからね」 勝手に納得したらしきマスターは、すぐに平常運転に戻った。 でもホント。また逢えるといい。心からそう思う。 「とりあえずマスター。“《いつもの》〈ブレンドピュア濃い目〉”もう一杯」 「かしこまりました。優真くんはこの後、予定はあるんですか?」 「んー。無い。無いから作るよ。例えば、秘密基地の開拓とか」 「女の子を連れ込む秘密の場所ですか?」 冗談めかすマスターに微笑みを返す。 まぁ、だいたい合ってる? かな。 そこまで親しい子は俺にはいないから、いつも一人だけど。 いつ誰を呼んでもいいように掃除しなきゃいけないな。 探し物は諦めた時にこそ見つかるものだ。 人間の誰かが言った言葉らしいのだが、あれはよく言ったものである。 現に私はそれを主として行動していなかったにも関わらず、依頼された物を発見するに至った。 「見つけたぞ恵子」 「帰ろう、私はキミを見つけたら連れて帰るよう親方から言付かっている」 恵子は私の言葉に反応しない。それは致し方のないことだ。 私と恵子の関係は、親方と違って特別なものではない。 馴染みの店で偶然顔を合わせることになったに過ぎず、店主である親方と比べるには無理がある。 かと言って日頃世話になっている親方の頼みを無視することもできない。 受けた恩は返さなければならない。人間というのはそういうものらしい。 「キミにもキミの都合があるのだろう。私も申し訳ないと思っている。本当だ」 恵子は私の言葉に耳を貸さない。 「親方に不満があるのであれば、直接話し合ってくれないか。私もキミの肩を持つことにやぶさかではない」 恵子は相変わらず私の言葉に耳を貸さない。よほどその行為は私よりも重要なようだ。 「口には出さないが親方も心配している、らしい」 「私にはそう見えなかったのだが、ノエルがそう言っていたから」 「彼女の言うことはいつも正しい。いや、ほぼ正しいと言うのが正解か」 私とノエルの関係は、親方と恵子に似ている。 「キミも親方と一緒にいた方がいい。きっとそれが正しいことだ。だから――」 「とりあえず、その《・・・・・・・》〈人間だったもの〉を喰おうとするのは、やめにしてくれないだろうか」 恵子の鋭利なクチバシが何度つついても、その炭化した肉は崩れない。 「キミのクチバシが折れれば問題になる。無理はやめてほしい」 返事をするように鳴く恵子。 本当にわかっているのだろうか。 「食事なら親方がいつも用意しているだろう? それでは満足できないのだろうか?」 「死んでしまった人間が好物だというなら、趣味が悪い」 親方の手から飛び立った理由はそれかとも思ったが、すぐさま否定する。 恵子に用意されている食事は屋台の残り物とはいえ、十分な量があった。 恵子は私の思惑を知ってか知らずか、食事を止めて私の肩に飛び乗った。 「ようやく帰る気になってくれたようで助かるよ。親方もきっと喜ぶ」 私がこれまで得た知識の中では、鳥とは本来、空を飛んで移動する生物だと認識している。 しかし恵子は私の肩から飛び去る気配はない。早く家に連れて行けと催促しているのかもしれない。 「この時間ならまだいつもの場所にはいないはずだ。食材の買い出しで街にいる」 恵子は了解したと言わんばかりに甲高い鳴き声を上げた。 私が現在使用している言語は人間にしか通じないはずなのだが、何故か恵子は私の言葉を理解しているように感じる。 それは私が人間よりも恵子に親近感を覚えているせいなのかもしれない。 この世界では毎年規則的に推移する気温の変化や天候の移り変わりがある。 人間はそれを四つに分け、それぞれに名前を付けた。 今はもっとも気温の高い夏に分類される。 太陽の光に照らされたアスファルト。ゆらゆらとうごめく蜃気楼が道の先まで続いている。 「人には愛着を感じる季節と、そうではない季節があるらしい」 私の肩で大人しくしている恵子に自分の考えを伝える。 「私も愛着と呼べるかわからないが、それぞれ優劣を作ることはできる。私は夏が一番いい」 学生であれば四季によって様々な変化があるらしいのだが、あいにく私はノエルと違って学園に通ってはいない。 仕事においてもことさら季節に影響されることもなく、 では何故夏が良いのかと問われれば、単純に高温を推移する今の時期が過ごしやすい。ただそれだけだと答えるだろう。 「あれは――」 ぼんやりと揺れる景色の向こうから、こちらに向かって歩いてくる人間の姿を視界に捉えた。 「珍しい人間もいるのだな」 その人間が向かう先には何もない。 何もない、というのは人間が利用するような施設がないという意味で、あるのは海に沈んだ街くらいだ。 海水浴の季節ではあるが、何もわざわざビルの沈んでいるような海で泳ぐこともないだろう。 そうこう考えているうちに、人間との距離はなくなった。 どこへ行くのだ―― その言葉を口にするつもりはなかった。 必要以上に他者への介入を行わない。 それがこの世界のルールであり、私にとっても都合が良かった。 私は今、この世界で回る車輪のひとつだ。 車輪の大部分は間で占められている。 歯車の群れから弾き出されないよう上手く回り続けるためにはルールから逸脱しないことが重要だ。 だから私は何も言わない。 それがこの世界のルールなのだから―― 「キミもそう思うだろう?」 恵子が私の考えを読み取り、同調する意味で声を上げ足元に飛び降りた。 仮にそうではなかったとしても、他者の考えを共有することは人間にもできない。受け手がどう捉えるか、それだけの話だ。 「もしかして俺に言いましたか? それとも足元にいる、そちらさん?」 「…………」 「カラスって真っ黒だから、こう暑いとかわいそうですよね。熱射病にならないんですか?」 「…………」 「飼っているわけじゃないんですか?」 「……カラスも恒温動物だ。体温調節に水を浴びることもあれば、木陰に潜むこともあるだろう」 「へぇ……カラスもお疲れさんだ」 「必ず黒いわけではないだろう。白変種もいる。この陽気だ、キミも気をつけるといい」 「はーい」 瓦礫の転がるアスファルトの上を真っ直ぐ歩き、しばらくしたところでふと思い当たる。 先ほどすれ違った少年。 彼がどこで何をする目的でここまでやって来たのか、そこに興味はない。 しかし仮にあのまま進んだとなると、確かその先には人間の死体が転がっていたはずだ。 私にとって興味の湧く対象ではなかったのでそのまま放置することにしたのだが、やはりアレは普通の人間ならば何かしらのアクションを示すところではないだろうか。 死体とは一般的には恐怖の対象であると言われている。人間誰もが必ず迎える姿というのに。 しかし、そうなるとあの少年には悪いことをしたのかもしれないと、今になって考え始める。 「…………」 今から引き返したところでもう間に合わないだろう。 ルールを鑑みても、やはり私は何もするべきではない。 他者に介入しない―― あの少年が今どういう心境にいるのか。 それは私にとって、興味を引かれる対象とは言えなかった。 「(あの少年は人間だ)」 「(そして人間は、百に届かぬ歳で自動的に死ぬ)」 人間は必ず死を迎える存在。 では死ねば人間になるのだろうか―― 私の興味は不意に湧き上がった疑問に惹かれ、すれ違った少年の顔さえおぼろげになっていた。 「………………はぁ……びっくりだなぁ」 喫茶店を出て秘密の聖域に向かう途中――――ひび割れた道路から顔を出す力強い雑草を踏まないように歩いていると、今の人とすれ違った。 胸に手を当てる。だいぶ落ち着いてきたけど、まだ高鳴っている。 「いやぁ、飼うかぁ……飼っちゃうんだぁ、カラス……」 動物への愛は人それぞれ。 周りに迷惑さえかけなければ好きにしていいと思う。 カラス。ぜーんぜん構いません。 だから今のは、全面的に俺の過失だ。 初めての感覚に戸惑ってしまった俺の過失。 人を見れば、何かしら突出した感情を自然と感じるものなのに。 あの人は年齢以上の“厚み”を持ちつつ、ごっそりと大事なものが抜け落ちているっていうか……。 硝子のように何も映していなかった。 「キミもそう思うのだろう?」 マネしてみたけど意味がわからない。 なるもおかしなことばっかり言う。 意味わかんない事を言うの、流行ってるのかな。 俺も何か一個くらい、意味深な台詞を考えなきゃな。 「こんなところに来るのは俺くらいだと思っていたけど、めずらしい事もあるもんだなぁ」 好奇心は猫をも殺すというけど、俺に死ぬ予定はない。 生きられるうちは、死ぬ気で生きる。 今まで食い散らかしたイキモノの命を粗末にしない為に。 これは社長の持論で。今は俺の持論でもある。 自殺スケジュールなんてものを組むのは、人生を悲観した弱虫か――本当に支えてくれる人ひとりいなかった、かわいそうな人だけ。 「………………」 だとしたら……《・・》〈これ〉はどちらに当てはまるのだろう。 ひどい。どういう状態だ。生死は確定的に明らか。人を呼ばなきゃ。人。さっきの人。犯人。安直。他殺。自殺。通報。 ――瞬時に脳を駆け巡る思考を、すべて破棄。 背けた目をもう一度、戻し、観る。観察という意味合いで観る。 人体の所々が黒い。微細な粒子が集まって、いかにも鉱石めいている。 「炭……みたいだな」 炭化した身体はまるで黒いドレスを着ているよう。 普通じゃない。 俺の知らない特殊な病気に掛かった末路だろうか。 「(これって……“《エーエスナイン》〈AS9〉”が配られる前に起きていたウイルス騒ぎと同じ症状……?)」 何にしろ近づきすぎるのはよくないだろう。 「(死体を前にしてるのに……案外、冷静でいられるものだなぁ)」 いや本質的には、俺だけじゃないか。 7年前の悲劇を経験してる人は皆、絶望に耐性がある。 俺はその耐性を、人より長く維持していたってだけの話。 《・・・・・・・・・・・・・・・》〈あの時に泳いだ“山”に比べたら〉――――なんてことない景色だ。 「?」 「――――――――」 転がった立方体の物体。 一瞬の間。 おもちゃ――――立方体のおもちゃ。 「パズル――じゃあ、この人は……」 死体の正体に気づくと同時に視界にノイズが走り、堪らず瞬きをする。 と――――喪失感。 「あ。面倒なの始まった……? ああ、始まってる始まってる」 ふっ、と。 照明が切れるように。 色彩が別れを告げ、目に映る全てが白み掛かる。 「無声映画かっての。まだ若いんだから、ガタ来られても困るのになぁ……」 こんなの馬鹿正直に申告したら、ポンコツ扱いで強制入院かな。 ま。放っておけば直るでしょ。 それより今するべきことは他にある。 携帯を取り出して、軽く深呼吸。なによりも先に、通報。 「……………………あー……」 説明、わかってもらえるかな。 俺、今こんな状態だし。 カラスの男の話もうさんくさいし。 なにより――――厳密に言えばここは立入禁止区域だ。 「匿名で掛けないと会社に迷惑が掛かるかも……街のほうに出る前に公衆電話あったっけ」 なるべく早く彼女をしかるべき場所に眠らせてやりたいけど、状況が状況だ。 他殺。自殺。俺は、そういうもののプロじゃないし、彼女の死を悼むほど事態を把握できていない。 だから考えず、目的に向かって走るだけだ。 「…………お。治ってきたか」 ひとつだけ間違いなく言えるのは、見つけたのが俺で良かった。 誰だって、人の死を目の当たりにするのは、辛いだろうから。 多くの人通りが織りなす東雲新市街駅前。 私と恵子もその中に混じりながら、恵子の飼い主である親方を探す。 夜になれば親方との面会も容易なのだが、持ち主に戻すのは早い方がいい。 何より予定はあったが時間にはそれなりの余裕があった。 「確かこの辺りにあると聞いていたのだが」 親方がいつも仕事の材料を仕入れる店。私は今その店を探している。 「名前を聞いておけばよかった」 何でも親方が懇意にしているこんにゃく屋が駅前にあるとのことらしいのだが―― 仕事を始める前に、いつもその店に寄っているのだと親方は話していた。 「おい、あっちにいるらしいぞ!」 「マジか! 行ってみようぜ!」 私が親方の行方について思案していると、目の前を若い人間の男二人が慌ただしく横切っていった。 「いる、とは一体誰のことだろうか」 まさか親方だろうか。 いや、偶然親方を探している私の目の前を、親方を探していた人間二人が横切る可能性は低い。 それとも私が知らないだけで、親方は昼間ここで屋台を出していて人間の間で評判になっているのだろうか。 「行ってみるか」 どちらにせよ、他に有効な選択肢などはなかった。 仮に違っていたとしても、その若者たちが向かった先はすぐそこの人だかりだ。 確かめる程度であれば時間の損失も僅かなものだ。 「街で噂の情報をイチ早くゲットするコーナー! 今日は東雲市を中心にして広がっているある噂を直撃しちゃいます!」 人の群れ、その中心には私が仕事で使用している物よりも遥かに重量のありそうなカメラに向かってマイクを握っている女性がいた。 「今日はナント! あの噂の死神について調べにきたのです」 私は他の群衆と同じように女性の言葉に耳を傾けた。 「街の人に話を聞いてみましょう。あなたは死神について知っていますか?」 マイクを向けられた顔に心当たりがあった。先ほど私の前を横切った男たちだ。 「知ってますよぉ。結構前から有名じゃないっすか」 「あれ、なんだっけ。確か名前あったよな」 「お前忘れたのかよ。“《ファントム》〈亡霊〉”だろ」 「その“《ファントム》〈亡霊〉”について詳しく教えてもらえませんか?」 私は胸の奥に生まれた疼きを抑える。 「俺も詳しくは知らないんすけど、すんげー前からある伝説みたいなもんなんすよ」 「伝説、ですか?」 「元々は別だった話がひとつになったとか、色々言われてるっぽいすけど」 「ああ、思い出した。中学んときに流行ったあれか! 闇にまぎれて人間の命を奪いにくる亡霊ってやつ」 「それそれ、今でもいるらしいぞ。なんでもそいつが目撃された現場には必ず死体が残されているとか」 「あー、そういやバイト先の後輩もそんなこと言ってた気がするわ。戦前から続いてる噂らしいな」 「戦争があったのって30年前だろ? どんだけ現役なんだっつー話だよな」 「でもそうなると少なくとも30年間、人を殺してまわっているということになりますが、そんなことが人間に可能なのでしょうか?」 リポーターの女性は男二人に語りかけるというよりは、カメラや周りにいる人間に向かって話しているように見えた。 「噂の数は無数にあり、もしも全てが“《ファントム》〈亡霊〉”と呼ばれる者の仕業としたら既に警察が捕まえているのではないでしょうか」 「やはり“《ファントム》〈亡霊〉”の正体は人ならざる者であり、私たちの想像を遥かに超えた存在なのかもしれません」 リポーターはカメラに向かって真剣な面持ちで語った後、顔の力を緩めて周囲を見渡した。 「ここで他の方々の意見も聞いてみましょう。あなたは“《ファントム》〈亡霊〉”がいると思いますか?」 マイクを向けられた人間は、質問に対して真剣に答える者は少なく、誤魔化すように笑う者が多かった。 いるかもしれない、そんな馬鹿げた存在は信じない。 ニュアンスは違えど総括するとその二種類が大半を占めていた。 「あなたはどう思いますか?」 気づけばリポーターのマイクは私に向けられていた。 「幽霊や化物の存在を信じますか?」 私はどう答えるべきか考えたのが、あまり待たせるのも悪い気がしたのでありのままに答えることにした。 「人間が認知していない存在が、この世界にないと言えるのだろうか」 「それは何故ですか?」 「何故? 私からすれば何故いないことが前提となっているのかがわからない。霊などの存在について、いないと証明できた者はいるのだろうか?」 「いや、いないことを証明した人はいないと思いますが」 「ならば存在する可能性は極めて高いのではないか。人間が世界の全てを掌握しているのなら話は別だが」 「で、でも、もしいるのであれば、それこそテレビに出たりしてると思うんですよ」 「意志の疎通ができるなら新たな知的生命体として取り上げられているはずです」 「彼らがそれを望んでいなければ、己の存在を隠そうとするだろう。だから公にはならない」 「テレビに出ないのも同じ理由だ。しかしそうではなく、人間が気づいていないという可能性もある」 「気づいていない?」 「ああ。もしかしたらキミたちが今まで撮影した者の中に“《ファントム》〈亡霊〉”が混じっていたかもしれない」 「キミたち人間の想像を超えた存在と、知らないうちに接触していたとしても認識する術がなければそれはただの人間だ」 「そう考えれば表舞台に登場しないからといって、存在の否定には繋がらない。間違っているだろうか?」 「は、はぁ……」 リポーターの女性は小さく口を開いてそれ以上質問はしてこなかった。 恵子の声が本来の目的を思い出させる。 「さようなら」 私は別れの言葉を残し、人の群れを後にする。 胸の疼きは収まっていた。 「今の人の映像……」 「使えるわけねぇだろ」 「ですよね」 「よりにもよってあんなのにマイク向けんじゃねぇよ。見たか? 肩にカラスなんか乗っけてただろ」 「ありゃ絶対おかしいって。まともな人間がやることじゃねぇ」 親方を探して新市街にまで足を伸ばしたが、結果的にそれは徒労だと知ることになった。 「おう、にーちゃんじゃねぇか」 結局親方を見つけたのは諦めて住まいにしている廃倉庫に戻ろうとしていた時だった。 「探し物は諦めた時にこそ見つかるとはよく言ったものだ」 「お? なんだ、俺を探してたのか」 探していた理由を話す前に、親方は私の肩に留まっている恵子の存在に気づいた。 「おお、見つけてくれたのか。すまねぇな」 「大したことはしていない。ただの偶然だ」 恵子は私の肩から飛び立ち、親方の前に舞い降りた。 「心配かけやがってコノヤロー。また逃げられたかと思ってドキドキしたじゃねぇか」 「以前にもこのようなことが?」 「あ? そうじゃねーさ。逃げたのは本物の恵子さ」 「本物? ここにいる恵子は偽物だったのだろうか?」 「……誰にも言うんじゃねぇぞ」 親方はバツの悪そうな表情を浮かべた。 「恵子っつーのは別れた嫁さんの名前だ」 「ああ、なるほど。理解した」 だから人間に使われる名前だったのだ。 「しかし何故誰にも言ってはならない?」 「愛想尽かして男と逃げた嫁さんの名前をつける女々しいやつだと思われたくないんだよ」 「なるほど。しかしそれは正当な評価ではないのだろうか?」 「うるせー。俺はただ思い出を大事にしてるだけなんだよ。いいか、誰にも言うんじゃねぇぞ」 「承知した」 人間は見栄や意地と呼ばれるもので己を包み隠す習性がある。 私にはいまいち理解が難しい感情の一つだ。 「そういえば、どうして親方はここにいる。夜まではまだ時間がある」 何より親方が商売をするためのおでん屋台の姿が見当たらない。 「ああ、昨日ちょいと置き忘れたものがあって取りに来てたんだよ」 「別に夜来た時でも良かったんだが心配事は片付けておきたい性分なんだよ」 「それには同意する。面倒なことは先に片付けておいた方がいい。私がこの街で住むようになってから得た教訓だ」 「そうは言っても面倒事は簡単に片付けられないから面倒なんだよな」 自嘲気味に話す親方の肩越しに動く影が見えた。 「きゃははは! マジお前決まりすぎじゃね!」 数人の人間が瓦礫の向こうから現れた。 「あいつら、こんなところで何やってるんだ?」 旧市街に普通の人間が立ち入ることは珍しい。 機能している施設や商店がなく、わざわざやって来る理由がない。 あえて利点を上げるとするなら、人の目に付きにくい場所であるという点だ。 私がそうであるように、新市街にいては都合の悪い者にとってこの廃れた街は利用価値がある。 「こんなとこに来るやつらがまともなわけねーよな」 「同感だが、私と親方も同じ場所にいることを忘れてはいけない」 「それは言わない約束だぜにいちゃん」 いつ約束したかを思い出そうとしている内に、騒いでいた若者たちは私たちの存在に気づいたようでこちらに向かって歩いてきた。 「あれぇ~? オッサンたちこんなところで何してるの~?」 三人組の男のうち、先頭の一人が私たちに話しかけてくる。 残りの二人はその後ろで生気の感じられない目をして俯いていた。 何かを呟いているようだったがここからでは聞き取れない。 「俺らが何してようが勝手だろ。それよりお前らこそ何やってる」 「俺たち~? 俺たちはみんなで気持良くなってるところだよ」 「薬か。別に俺たちは通報したり面倒くさいことはしねぇ。さっさとどこかに消えやがれ」 「薬? 彼らは病気にかかっているのだろうか?」 「ああ、救いようのねぇ病気だよ。親から貰った身体を大事にしろってんだ」 「別におっさんには関係なくね? こんな時代なんだし、マジメに生きててもどうにもなんねーじゃん」 「そう思うのはお前の勝手だがな、世の中にゃどうにかしがみついて必死に生きてる人間もいるんだ」 「目を背けるのも無理はねぇ。だけどよ、ちゃんと生きてる人間の邪魔だけはするな」 親方の言葉で目の前の若者はあからさまに機嫌を損ねた。 「あ? 何説教たれてんのおっさん? あんまうるせーことばっか言ってっとどうなるかわかってんの?」 「な、なんだコノヤロ! 俺はこう見えても昔陸上の選手だったんだぞ!?」 親方が陸上競技経験者だったとは初耳だ。しかし、それと今の状況はどう関係がしているのだろうか。 「だからなんだってんだよクソオヤジ!!」 どうやら私の疑問は思い違いではなかったようで、若者は私の疑問を代弁しながら親方に殴りかかった。 目の前で起きようとしている事象の結果を想像し、発生するだろう不利益を見過ごすわけにはいかなかった。 「ひゃあ!?」 親方から悲鳴のような声が聞こえるが、若者の拳は親方には届かなかった。 「……あれ、お前何すんだよ! どけ!!」 「その要求は受け入れられない。私がどけばキミは親方を殴りつけるのだろう?」 「たりめーだろバカ!」 「ならばやはりキミの要求は却下させてもらおう」 例えばここで親方が怪我を負ったらどうなるか。 程度の差こそあれど親方は負傷し、日々の業務に支障をきたすだろう。それはすなわち私の生活にも直接的な影響を与えるという意味だ。 《・・》〈面倒〉なことは避けた方がいい。 「おいテメェ離せよ! ふざけんじゃねーぞ!」 「離すわけにはいかない。そして私はふざけてなどいない」 「うるせぇカス殺すぞオラァ!!」 若者は私に右腕を拘束されている状態だったが、構わず残っている左腕で私を殴った。 「落ち着いてほしい。私はキミに危害を加えようとは思っていない」 「離せっつってんだろ!!」 若者は左腕で殴るだけではなく脚部を使った足蹴りを加えてくる。 「お、おい、大丈夫かにいちゃん!?」 「問題ない」 「すましてんじゃねぇぞコラ!!」 枯葉が燃える程度の小さな勢いの炎が揺れる。 「な、なんだよその目はよぉ!! やるってのかよ!!」 「――――――」 微小とはいえ、確かに私はこの若者に対して怒りを感じていた。 「少し大人しくしてくれないだろうか」 「な、なにを――!?」 私が抱いた感情は、例えるなら子供の駄々に親が抱く程度の些細なものだ。 それでも私の身体は僅かな怒りに反応し声を上げた。 「いた――あ、あつ、熱ぃ――!? は、はなせ!!」 「キミが大人しくすると約束してくれるなら」 「な、なんでもいい! わかったからはなしてくれっ!!!」 「こ、こいつ、おかしいだろ……!! ふざけんなよ……!!」 若者が右腕を押さえながら踵を返して走ると、後ろに控えていた二人も鈍い動きながらその後を追って行った。 「む……何かを落としたようだが」 私の呼びかけに耳も貸さず姿が見えなくなった。 若者の落とした物を拾い上げる。 プラスチックでできた小さな容器。その表面には“Angel”と書かれていた。 「これはあいつらが使ってた薬だな」 「薬? 病気を治療するものだろうか?」 「ちげぇよ。これは最近出回ってるヤバイ葉っぱだ。誰でも手軽に手に入れられて、遊び感覚で使える。ほとんど麻薬みたいなもんだ」 親方は私からその容器を受け取り、ポケットの中にしまいこんだ。 「親方も使用しているのだろうか?」 「バカ言ってんじゃねぇ。捨てるんだよ。こんなもんに頼ってても良いことなんてこれっぽっちもねぇ」 「それよりにいちゃん……あのガキに何したんだ?」 「少し、力を入れただけだ」 正確には若者が感じた苦痛は腕を掴んだ握力による痛みではないだろう。 黒い革製の手袋に覆われた右の手のひらを見る。 耐熱性に優れた特注品にも関わらず、少し焦げたような匂いがした。 「見かけによらず力つえぇんだなぁ。それにしてもあのガキ、熱いって言ってなかったか? 痛すぎて頭おかしくなったのか」 親方は知らない。知らないままの方がいい。 私たちが今の関係を保つためにも、秘密は秘密のままにしておこう。 「さあ、私にもわからないが、強いて言うとするなら」 「言うとするなら?」 「夏だから、ではないだろうか」 親方は呆れた様子で肩をすくめた。 倉庫の扉につけられた南京錠を外し、取っ手に力を込めると錆びついた鉄製の扉がスライドした。 元はどこかの商社が所有していた物流倉庫だったため、ドアの作りは一般的な住居と違っているらしいが、特に不便だと感じたことはない。 倉庫自体、海風に晒されて多少傷んでいる部分はあれど、広さに関しては申し分ない。 ロフトになっている二階部分を見上げる。 「ノエルはまだ帰っていないか……」 いつもならこの時間であれば家にいるのだが、今日はまだ戻っていないようだ。 まあいなければ困るようなことは特にない。今は。 「…………」 机の上に置かれた時計の針は14時半を指していた。 今日の仕事は日が落ちてしばらくしてからだ。 その前に一件、人に会う約束がある。しかしその約束の時間までもいくらかの余裕があった。 私は棚の上に置いてあるジョウロを手に取り台所に向かう。 室内で栽培している植物に水を与える時間だった。 「ん……?」 ステンレス製の炊事場。その上にある一片のメモ用紙と、重り代わりにされている液体入りの小瓶。 私はメモ用紙に目をやる。 『おつかれさまです。今日もファイト一発リポデインD、ですよ                        \(^▽^)/』 全体的に丸みを帯びたその文字に心当たりがあった。 「またか」 “また”と言うのは過去にも同じような事象を経験していることで成り立つ推測の一つだ。 私は信頼を置いている同居人の書き置きを、こうして目にすることは初めてではない。 いつも決まって用意されている褐色の小瓶を見ても、過去の事例と同義のものと言えるだろう。 「やれやれ、マスターと約束した時間に間に合えばいいのだが」 何に置いても私のために行動してくれるノエル。 彼女が一緒にいてくれなければ、私はこの世界で生活していくことも不可能だったに違いない。 それだけに私もノエルを信用していた。この世界で生きていく上で、彼女の言葉には間違いはない。今までも、そしてこれからも。 だから目の前の置き手紙と小瓶も、彼女が私を気遣って行なっていることの一つなのだ。 「ファイト一発」 この栄養ドリンクを飲む際には、必ずこのフレーズを口にしなければならないらしい。 根拠は未だにわからないのだが、ノエルが言うのだからきっと正しいのだろう。 「…………っ」 だから私は今日も小瓶に入った飲料に口をつける。 たとえ経験上、これが毒入りである事が明白だったとしても―― 「……やはりか」 ノエルの用意した液体を口にした途端、視界がぐるぐると回り始め全身の力が抜け落ちていく。 完全に四肢のコントロールを失ってしまう前に、私はそばに設置されているソファに腰を下ろした。 幾度も繰り返されてきたルーチンの始まり。異変は異変ではなく、むしろ予測を裏切られなかったことに安心さえしていた。 ただ一つだけ、やり残したことがあるとすれば……。 「……花に水をやるのを忘れていた」 気づいた時には既に遅かった。身体の自由は完全に失われていた。 ……………… 「待った?」 「いや、上出来だ」 「俺はな、政治家って生き物が大っ嫌いなんだ。どうしてだかわかるか?」 「わからない。一般的にも好かれていないと聞いたことはあるのだが」 「隠し切れねぇくらいあくどい事をやってきてんだから当然だな」 「まあ別に俺は悪事を働くなとは言わない。世の中利口なやつが得をして当たり前だからな」 「ならどうして」 「あいつらには覚悟も自覚もない。自分だけは安全だと思ってやがる。この世界のルールが奪い合いだってことに気づいてねぇんだよ」 兎のお面をつけた男は私の腕に何かの器具を装着させながら政治家に対しての不満をあらわにする。 男、と断定する要素は何もない。声は特殊な機械を通しているようで性別の区別は付かない。 「奪われる覚悟があってやってるならいい。弱い者が喰われるのは当然だからな」 ただ乱雑な口調から推測するに、おそらく男であるのだろう。 「そういうものなのか」 「そういうモンなんだよ。昔、俺の大っ嫌いな政治家がいたんだけどよ」 「ある日そいつがたんまり溜め込んだ裏金が盗まれた。そいつは金を失って失脚した」 「表向きは体調不良で引退ってことになったんだがな。まあ使命よりも大事なカネを失っちまったんだから本当にぶっ倒れたのかもな、ヒヒっ」 仮面に覆われて表情から判断できないが、笑い声が聞こえたということは、この男にとって政治家の不運は喜ばしいことなのだろう。 「まあ、奪って生きるやつは奪われる覚悟を持っとけってことだな」 「なるほど、覚えておこう。勉強になった」 この世界では対価を払って何かを得ることが常識だ。男の言わんとしていることも理解できなくはない。 「それはさておき、一つ聞きたいのだが」 「何だ?」 「今日はその話をしに来たのだろうか?」 「まさか。仕事に取り掛かる前のちょっとした雑談だよ」 男はカバンの中から医療器具のような物を取り出してこちらに振り返る。 「であるのなら、早く終わらせて欲しいのだが。今日はこの後予定が入っていてあまり時間的余裕がない」 「つれねぇなぁ。怖ぇだろうなと思って気を紛らわしてやってんのに」 「拷問というのは本来怖がらせることで目的を達成するのではないのか?」 「あぁ、それもそうか」 男は歩み寄り、私の左手に鉄製のペンチをあてがう。 「まさか拷問する相手にアドバイスされる日が来るとは思ってもなかったな」 「さてと、それじゃあ始めるとするか。拷問ってのは大体二種類あってな」 「傷めつけて苦痛を与えることが目的の場合と、目的を達成する手段である場合の二種類ある」 「私の場合は後者なのだろう?」 「その通り。だからこっちとしてはあまり血生臭いことはしたくない。わかるよな?」 この男の目的を私は過去の経験から把握していた。 男の目的とは、私の交友関係にあった。 「私は疑われるようなことはしていない。前もそうだったはずだ」 「前回シロだったからっていつまでもそうだとは限らねぇよ。もしそうなら俺はこの先あの忌々しい人間ドッグのためにカネを払う必要がねぇだろ」 「だとしても私に身の覚えはない」 「嘘をついてるやつは最初みんなそう言うのさ。俺も仕事しててそんなやつは腐るほどいた」 「アンタが嘘吐きじゃないってのは俺も同意だ。でも万が一って可能性もあるからな」 「俺もプロとして中途半端なことはできねぇんだ。わかるだろ?」 「仕事には誠意を持って取り組む。それがこの世界でのルールだ」 「だろ? だからアンタもさっさと本当のことを喋ってくれよ。今時浮気なんて珍しいことじゃねぇ」 男の目的とは、私が人間の女と関係を持っているかどうか―― 人間社会で言われるところの“浮気”を行なっているかどうかを調べることだった。 「疑いをかけられているような行為をした覚えはない。だから相手のことを聞かれても答えられない」 「だったら俺が代わりに言ってやろうか? アンタ、つい最近までやってた仕事があるよな?」 「仕事はいつでもやっている。人間というのはそういうものなのだろう?」 「働くことは別に悪いことじゃねぇさ。ただ浮気相手と出会う確率が一番高いのも職場だと相場は決まってる」 「そうなのか。覚えておこう」 浮気は職場で行われる。またひとつ、新しい知識を得ることができた。 「で、アンタの場合も例によって仕事仲間が相手だ。最近までやってた警備の仕事、覚えてるだろ?」 親方に紹介された前の仕事だ。 「そこで一緒にいた女がいるだろ」 「同じ仕事をしていた中に女はいなかった。勘違いではないか?」 「あんまり俺を舐めてもらっちゃ困るぜ。ほら」 男はカバンを漁ると一枚の写真を私の眼前に突き出す。 「アンタと一緒にいる女。こいつのことを教えてほしいんだ」 そこにはつい最近まで働いていた警備会社の制服に身を包んだ私が、ダンボールの載った台車を押している姿が収められていた。 すぐ横にはスーツ姿の女が立っている。 「アンタが働いてたビルの社員だってことはわかってる。後はちょっと調べればすぐに素性はわかるんだぜ」 「では何故私に聞く必要がある」 「少しでも手間を省くのがプロってもんだろ? それに、こうやってアンタを拷問することにも意味がある」 「意味か」 意味というのは何事にも存在するものである。少なくとも私はそう認識している。 とすれば、こうして拘束されていることにも意味があるのかもしれない。いや、少なくともそう思っている者がいるのだ。 おそらく私の行動を抑制するための警告だと考えられる。 わからないのは、どうしてこうも回りくどい方法を選択するのか、だ。 私の行動を制限したいのなら、直接言ってくれればいいのだが……。 男の言う通り、手間は省くのに越したことはない。 「とはいえ、さっさと吐いちまった方がお互いのためだぜ」 「俺だってどっちかと言えばアンタの爪を剥いだり指をアレしたりしたくはねぇんだ」 「その割には以前来た時は楽しんでいるように見えたのだが」 「気のせいだろ。爪を剥いでってもうんともすんとも言わねぇ奴を痛めつけたって虚しいだけだっての」 「拷問ってのは苦痛を与える側と与えられる側の共同作業なんだよ。アンタは落第もいいとこだ」 よくわからないが、私に至らぬ点があったのだろう。 「全くどういう人生送ってきたらそんな風になるのか教えてもらいたいぜ」 「人生、ではない。人間ではないからな」 「ヒヒッ、じゃあ幽霊か化物ってか。おーこえぇ」 男の声が恐怖を感じているように聞こえないのは、機械を通しているからだけではないだろう。 「つーわけだからよ、さっさとこの女のことを教えてくれねーか」 私は正直に彼女の名前を口に出した。 かなりおぼろげだったが、仮に間違っていたとしてもこの男の手間が少し増える程度だろう。 「お、今回は割りとさっくり吐いてくれるんだな」 「別に隠すようなことは何もない」 もっと言えば今日の私にはこの後に予定が控えているのだ。あまり長居をしている暇はなかった。 「殊勝な心がけは長生きの秘訣だ」 男は上着の内ポケットから取り出した手帳を開く。 おそらく私の口にした名前を書き込んでいるのだろう。 「彼女をどうするつもりだ」 「気になるか?」 「いや、あまり」 「強がらなくてもいいんだぞ?」 どうして私が強がらなくてはならないのか? 気にはなったが男の手首に巻かれた古びた時計を目にして疑問は飲み込むことにした。 「旧市街の海に浮かんでるかもな」 「海に? 海水浴でもさせるのだろうか?」 「ヒヒッ、おもしろい冗談だ」 冗談を言ったつもりはないのに笑われるのは気分が悪い。 男は目的を達したようで、私を痛めつけるための道具をさっさとしまい始めた。 「帰るのだろうか?」 「何だ? 寂しいから一緒にいてほしいっていうのか? 悪いが男と進んで仲良くなる趣味はねぇよ」 「ま、カネさえ貰えれば大抵のことは請け負ってやるぜ。アンタも困ったことがあったら気軽に相談してくれ」 「私の悩みは待ち合わせの時間に遅れそうなことだ」 「カネさえあれば時間も買える。俺みたいに必死こいて働いてカネを貯めるんだな」 初耳だった。時間は金で買えるのか。 どこで買えるものなのか気になったが、私が口を開く前に男はカバンを持ち上げて倉庫から出て行った。 時間を売る店の話は聞けなかったが、予定の時間には間に合いそうだった。 「今から出れば丁度良い時間に着きそうだ」 予期せぬ来訪客のおかげで予定を狂わされてしまったが、不測の事態で四苦八苦するのが人間だ。 そう考えると悪い気はしない。私もこの世界に馴染んできた証とさえ解釈できる。 「さて、それでは行くとしよう」 「…………」 一歩踏み出したところで足を止める。 前言を撤回しなければならない。 やはり思わぬ出来事というのは面倒なものだ。 「鉢に水を与えなくては」 駅ナカの商業スペースに設置されていた公衆電話から通報を終え、通りに出てきた。 すぐに熱気で額に汗が浮いてくる。 夏。太陽が頭上で大暴れするシーズン。 恐らく死体の身元を探るうちに喫茶店へも連絡がいくだろう。 マスターがショックを受けて寝込んだりしなければいいけど。 死因から他殺か自殺かを。 他殺ならば犯人の特定を。 調べて判明させて、二度とあんな事のないようにして欲しい。 容疑者と決めつけるのはよくないが、怪しい人物として“あの人”の特徴も伝えておいた。 やるべきことはやった。 俺みたいな一般人に尽くせるベストだろう。 が。当然だけど、休日を楽しむテンションからは一個分は下がっている。 「レモンを手に入れたらレモネードを作る。すっぱいからといって俺は捨てない!」 前向きであることは、俺が人生で学んだ中でも群を抜いて大切――――というか、《・・・・・》〈必要不可欠〉な事だった。 マイナスの気持ちを引きずるのは良くない。 俺は生きている、《ナマモノ》〈生物〉だから。 《ナマモノ》〈生物〉は常に進行形で、鮮度を失っていずれ過去形になるから。 楽しみたくても楽しめない人の分まで笑う。 死ぬ気で生きなきゃ、この世かあの世であいつと再会した時になんて言われるかわかったもんじゃない。 「――え!? ちょいケータイ見てみ、Re:non様が街頭ビジョンジャックしてんだってさ!」 「マジ? ……あ、ホントだ。店舗前にゲリラ出現? 生Re:non見たーい! ねぇねぇ行こう?」 歩行者のたったそれだけの会話がざわめきを呼び、波紋のように広がった。 一目、生Re:nonを拝もうと野次馬根性丸出しの皆様方。 街頭ビジョンの設置された建物の下が見る間に人で満たされていく。 「みんな忙しいなぁ。俺はどっしり構えて行くとしますかね」 なんたってRe:non様が待っているのは、この水瀬優真なんだから(確信)。 人人人。がやがやがや。 店舗前の道路にはみ出さんばかりの人であふれている。 いったい何が始まるというんだろうか。 「押さないでくださーい!」 「通行人は立ち止まらないでくださーい!」 「参加者はこちらに並んでくださーい!」 整理する警備員とスタッフの方が顔真っ赤で対応中という有様は、なんか商売とかっていうよりは“戦い”という表現が近いかも。 「キミキミ、よろしいかい?」 俺はスタッフらしきジャンパーの男の肩を叩く。 ジャンパーは色が統一されている。 “蜂蜜揚げパン普及委員会”と書かれている。ダサい。 「VIP席に通してもらえる?」 「お疲れ様です。VIP……? そんなのあったかな……ちょっと確認してきますので、お名前頂けますか?」 「名前? 優真だけど、聞いてどうすんの?」 「……貴方、ホントに関係者?」 スタッフの疑いの視線。 まったく。これが“まったくもう”ってヤツか。 俺が誰だかわかってないとは、三下だな……。 「関係も何も、Re:non様は俺の嫁だから。嫁のとこに連れてけって言ってんのさ」 「どらぁっ! 糞ガキがぁっ!」 「痛っ――――客にケツキックかよっ! しかも無視してどっか行くな!」 俺はめげない……! 前向き思考を保ったまま、別のスタッフに声を掛ける。 「コレって何の列ですか? 並んだらRe:non様が嫁に来てくれるんですか?」 「違う違う、そこの看板読めばわかるからっ!」 怒られた。最早戦場。言われた通りにしよう。 とりあえず人の隙間を縫うように歩き、立て看板を覗くことにした。  **夏の熱射病を吹きとばせキャンペーン開催!!** 『あの“Re:non様”が蜂蜜揚げパンを無料でお配りします!  お買い上げレシートをお持ちのお客様で、  お並び頂いた全員にもれなく大サービス!!  さらになんと! 抽選で5名様まで“Re:non”に食べさせて  もらえる権利が与えられます!!』 ※当店で1500円以上お買い物して頂いたレシートが必要です。 ※数に限りがありますので、時間内に終了する場合があります。  予めご了承ください。             «蜂蜜揚げパン普及委員会名誉会長――紫護リノン» 「……なるほど、理解」 「コレは素晴らしいイベントだぞ。早速、適当な物を買ってくるか」 ふと、思い出す。 なるにもらった“運命の輪”……。 これこそがなるのタロット名刺の効果か! 警備員とスタッフに言われるがまま列に並ぶ。 列からは人の背中しか見えないが、前の方で一個一個、手で配ってる人がいる。 むむ。あのすべやかな腕から漂うシルクの香り(?)。 モイスチャーな感じの赤ちゃん肌は……Re:non様か? 「ちくしょーーーーー! 外れたーーーーーーーーー!」 「チッ!! ホントに当たり入ってるのかよー!」 抽選に漏れたであろうファンたちの怨嗟と絶望の声が夏の快晴に吸い込まれていく。 まったく。運の無さを嘆くとは見苦しい連中だ。 ま。俺は“《なるのタロット》〈運命の輪〉”に選ばれし男だから、抽選に漏れるなんてことは余裕で無い。100%無い。 「後生です! もう一回だけ引かせてください! Re:non様に食べさせてもらうのが夢なんですっ!!」 「残念だけど、一回っきりなの……」 前列から聞こえて来るRe:non様とファンの会話。 俺の番も時間の問題だな。 「アナタに食べさせてあげたかったのは山々なんだけどね……」 「Re:non様も……残念がっている……? ぼくに食べさせてあげられなくてやりきれない思い……なのか?」 「うん。だけど、決まりごとだから。ね?」 「やっぱりぼくとRe:non様は運命の赤い糸で繋がれていたんだ。そうなると世界か? 世界が拒絶しているのか……やはり」 「次のイベントも絶対来てね? 絶対絶対だよ。わたしとの約束に“《へんしん》〈Re〉:”できる?」 「できるぅっ! 届けぇ! ぼくの思いッ! Re:non様に届けぇっ!!」 「ありがと。アナタの応援があれば、わたしはいつまでも超最強よ」 うーん、さすがはみんなのアイドル。 スパイスの利いたキャラで売ってるが、ファンひとりひとりを大切にする姿勢は健在だ。 「生のRe:nonボイス録音したら結衣が喜ぶかな。撮影はダメだろうけど、録音なら……」 携帯携帯――――ってまたかよぉ! ポンコツにもほどがあるだろ俺の身体……。 色彩をなくした男、水瀬優真。 なんてちょっとカッコイイけど、今は困るよ、今だけは。 カラフルな生Re:non様を拝むくらい願ったっていいじゃないですか。 ――――――――え? 「…………」 「…………」 あまりにも。 Re:non様はあまりにも自然な動作で、首をひねった。 見る為に――瞳で視認する為にそうしたのだろう。 それはわかる。わかるのだが……。 何を――――? 何故――――? ――――――――もしかして。 「俺……?」 いや。いやいやいや。方や一般人。方や国民的グラドル。 目が合ったなんて錯覚するのは怖すぎるよ俺。 信者にありがちな“自分だけは特別”という気持ちの表れか? 「どうしました、Re:nonさん」 「どうしたもこうしたも……テメェはゴミを拾って屑籠にぶち込むべきかどうかで迷ったことはねぇのか?」 「…………へ?」 「気配はホンモノだったんだがなぁ……おっ、おぉ……」 「――あ。アハハ……冗談冗談。何、みんなどうしたの? わたしの顔に何かついてる?」 「い、いやぁ……ハハ。なんでもないですよ。暑さにやられたかな……」 視界が正常に戻ったのはいいけど、今なんかRe:non様ヘンだったな……。 一瞬だけ――人類ヒト科が失ったであろう野生に満ちた鋭さを取り戻したようだった。 「はい、次の方――――あー達也さん? いつも応援ありがと。お手紙、読ませてもらったわ。すごく嬉しかった」 Re:non様はすでにファンとの交流にもどってしまっていた。 「――――きゃーーーー! 当たった当たっちゃった!! どうしようどうしよう!!」 「おめでと。準備、良い? わたしの指まで食べちゃダメよ」 「あのっ! 『この蜂蜜揚げパンを私だと思って召し上がれ、子猫ちゃん』って言ってください」 「これからも超最強な私だけを応援しなさい、子猫ちゃん」 嘆きの声とともに情報が入ってくる。 どうやらこれで当たったのは3人目らしい。 「まーた女かよー。Re:non様のイベントって女ばっかいい目見る印象があるんだよなぁ」 偶然にも全員が女性のようだ。 「俺の番まだかなぁ。俺が初めての男になるんだろうなぁ」 Re:non様と言えば蜂蜜揚げパン。 このイメージは完全に定着していて、切っても切れない関係にある。 初めの頃はファンも宣伝の為かと半信半疑だったが、Re:non様は本当に一日三食、蜂蜜揚げパンの時があるらしいことが最近判明した。 本当に好物だと広まってからは飛ぶように売れた。 少しでもテレビの向こうのRe:non様とつながっていたい。 そんな貴方のマストアイテム、蜂蜜揚げパン。みたいな。 一日三食、蜂蜜揚げパンプロジェクトは着実に浸透してきている。 こういったゲリラ出現の店頭イベントだけでなく、応募キャンペーンもあるから要注意だ。 「――――じー」 「あれ……?」 「抽選のがらがらを回す力もない? 代わりにわたしが回す?」 ン? と首を傾げる大人気アイドル様。 特に意識していないのかもしれないが、物凄い様になっている。 「俺の番? 来てたんだ。失礼しました、考え事をしてたもので」 「わたしとどんなことをして楽しむとか、そういう“妄想”?」 「そうっすね」 「ちょっとは隠してよ。恥ずかしいじゃない、もう」 くすり。笑う姿に色香がある。 ため息が漏れるほどの美しさ。 彫刻みたいに精巧な目鼻立ちは、こんなに近くでも揺るがない。 毛穴なんか見当たらない。あらゆる美の集合体、人類の集大成だ。 「まさしくナンバーワンの貫禄。おみそれしました」 「ふふ。頂点は常に一つ、ごまかしは利かない。誰もわたしに追いつけないわ、絶対にね」 「わたしは超最強だもの」 ゾクゾクゾク。背筋をツーっと指で撫でられるような声音。 本音かどうかわからないこの自信に満ちた姿こそRe:non様。 一体、素顔がどこにあるのだろう、謎は深まるばかりだ。 「なんてね♪ アナタにはわたしに食べさせてもらえる権利があるかしら?」 「よし。赤玉が出ればいいんだよな……っ!」 “運命の輪”のタロット名刺を握り締める。 「なる……俺に力を貸してくれ!!!」 「コレでどぉだぁああああああああああああああああああッ!!」 「………………白?」 「残念でした♪ ハイこれ、蜂蜜揚げパン」 「……………………」 「また次のイベントでね。応援してくれたら、その気持ちに“《へんしん》〈Re〉:”するからね」 「………………はぁ……」 とりあえず……目でもつぶるか。 ……ノーカン。 ノーカン……ノーカン……ノーカン……ノーカン……ッ!! 「俺は、何も、見ていない」 ガラガラガラガラッ!! 「ちょっ、やり直し禁止っ! ルールを守れない人には“《へんしん》〈Re〉:”しないよ!?」 何も聞こえない。 顔真っ赤で回す。 ぐるぐるぐるぐる。次こそは必ず――――!! 「そんな馬鹿な――――そんなはずが、ない。もう一回だけ……」 「お、おい……なんだよ。何つかんでるんだよ」 俺がガラガラの取っ手をつかんだのと同じくして、二人組のガードマンに片腕ずつ自由を奪われる。 「ちょっとこっち来て」 「迷惑だから。こっち」 無愛想なしかめっ面で引っ張っていく。 ふーん。善良なRe:nonファンの俺にワンモアチャンスも無しか。 「連行っすか? 裏でボコ殴り的なやつ?」 「いいから、こっち」 「うが~~~~~~~~~ッ!! 放せっつーのッ!!!」 上体を倒し、ガッチリと組まれた腕を“抜く”。 「なっ――――おい!?」 「加減しなよ馬鹿力さん。俺じゃなきゃ腕痛めてたぞ」 そんな驚かれたって、別に俺は格闘の達人でもなんでもないっての。 ただ彼らが、体格のいいガードマン以上の何者でもなかった。 肉体に対して資本金以上の価値観が持てていなかった。 ――――それだけの話。 「俺だって次の人に迷惑だってわかってるっての! ただ、どうしても一つ、ものもうしたいことがあるわけだ」 Re:non様に詰め寄る。 傍から見たら暴漢紛いの俺に対し、眉一つ動かさない。 “それで、それからどうするの?”とでも言いたげな微笑。 「コレってホントに当たり入ってるのか?」 「……くすっ。何を言うかと思えばすごい言い掛かり」 「並んでる間、暇だから見てたんだよ」 「当たってるのは全員女性。ありえるか? ――――並んでる男女の比率《オトコ》〈9〉:《オンナ》〈1にも関わらずだぜ?」〉 俺が訴えているのが“平等性”だとわかってもらえたのか、あからさまに困惑していた列の人たちが、俺の声に耳を傾ける。 「……俺はそういうのは好きじゃない。誰も確かめないなら俺がやる。どうなんだ、Re:non様!」 職務を思い出したガードマンに対し、Re:non様は“待った”を掛ける。 その余裕綽々は、温室育ちの世間知らずから来るソレではない。 アイドルとしても、それ以外の全てにおいて、常に絶対上位。 首位独走の余裕だ。 「当たりは、《・・・・・・》〈入っているわ〉」 「俺に誓ってか?」 「もう一度だけ言うわ。よく聞きなさい」 裁きを言い渡す閻魔のような絶対的強者の面構えを崩さない。 「当たりは、《・・・・・・・》〈入っていないわ〉」 場が凍りついた。 「…………え……今、わたし……」 だが一番焦っていたのは、口にした本人のようだった。 「ッ! なんだって言うのよっ!」 最初に、景色がブレた。 次に、一瞬の吐き気。 収まると、次に襲ってきたのは違和感だった。 一瞬の出来事だったが――――Re:non様が俺の服の襟に触れるまではなんとか肉眼で追えた。 サイボーグとかに放り投げられたような浮遊感――明らかに俺は空中を泳いでいた。 目の前にゴミ箱が出現。 “ああ、こりゃ落ちるな”と他人事のように思う。 この間、体感で約4秒。 「――――ぐっ!!?」 背中を打って、呼吸ができない。 衝撃は覚悟していたほどではなかった。 ぎっしり発泡スチロールの詰まったゴミ袋に着地したらしい。 ていうか、ここ何処……? つい数秒前まで、駅前のイベント会場にいたんだけど。 「全力で駆け抜けたし……肉眼で追えるヤツはいなかったと祈るしかないか」 そっけない声。 「死んじゃいないでしょ? 頭は打たないように調整して《・・・》〈運んだ〉つもりよ」 たまたまココに居合わせたような空気感で、溶けこむように俺の前にいる美少女。 「当たりどころが悪かった? それとも感度が良すぎて声が出ない?」 息一つ乱さない完全美女。 彼女が俺をココまで“運んだ”のだろう。 髪のセットがすこしだけ崩れていたからわかる。 「時間がないから一方的に話すけど――細工をしてもらったのよ。抽選で当たる5人は全員“《サクラ》〈囮役〉”よ」 「ぜ……んいん……げほっ」 むせながら俺は上体を起こしていくが、手を貸してくれる様子はなかった。 「ご褒美はそう簡単にあげない主義なの。それに、夢は叶わないから楽しいという考え方もあるでしょ?」 「“《サクラ》〈囮役〉”は全員女の子を選んだわ。でも、安心して。私はアブノーマルじゃないから」 Re:non様は、常備しているらしきサインペンのキャップを外した。 「私に相応しい男がいないなら、女の子の方が幾分マシだと思っただけのことよ」 「くすぐったい……」 「ずいぶん回復力、早いわね」 ペンが手のひらを走り、こそばゆさが残る。 「今日の夜でいいわ、必ず掛けなさい。一人の時よ。“《へんしん》〈Re〉:”しなかった時は超最強な罰を受けてもらうわ」 「掛ける……? いてて……」 「ゆっくり寝てていいわよ。私が戻らないと現場が大混乱になっちゃうしね」 「あ――――間違っても戻ってこないようにね」 手をひらひら振って優雅にご退場。 「待てよ……サクラなんか使っちゃダメだろ……」 「もう聞こえないか……」 「一体何だったんだよ……」 シャレにならない展開だった、あいててて。 実は昼間から呑んだくれて気持ちよく夢でも見てたって方がまだ説得力がある。 「でも……現実だよな。てのひらになんか書かれたし……」 Re:non様が直々に書いて下さった……サイン? 「…………読めないな……もしかして、数字……?」 どちらにせよ読めない。 そういえばネットオークションで一度だけRe:non様のサインの出品を見たことがあるけど……ミミズが這ったような文字だった。 解読不能なので諦める。 最近運動不足だったからか、ほんの少し腕を痛めたかも。 「はいはい……ああ」 着信があったのは仕事用の番号の方だ。1つの携帯で番号が3つまで登録できるサービスが主流になったのも、見えない人たちの頑張りがあるんだろうなぁ。 「はい。優真です」 「仕事だぞーゆーまー。大嫌いで大好きな仕事の時間だー」 「死ぬ気で生きて、死ぬ気で休日を堪能していましたよ。今日も色々あって楽しかったです」 「ふむ。それはなによりだ。今はどこにいるのだ?」 「駅前です」 「駅前? 《・・・・・・・》〈つまらないなー〉……」 「すいません、つまらなくって」 「ちょうど駅前の駐車場にバンを回してある。いつもの場所だ。着替えを用意してあるから、必要なモノを受け取ったら自分の足で現地まで向かいたまえー」 「はい」 「靴かー?」 「靴です。調子もいいです」 「わかっているならいいのだー。乗ってる奴らも別の仕事がある――――おまえ一人のために待ってられないのだよ」 あー、靴で良かった。駅前で良かった。助かった。 もし俺が駅前ではなかったとしても――仮に隣駅にいたとしても、そんなことは《・・・》〈無関係〉に“全力疾走しろ”と命令されただろう。 それが“仕事”。 「依頼は簡単な見積もりを取るだけ、まぁいつもと同じだな。詳細に関してはメールしておくから、ありがたく目を通したまえー」 「了解です。“全ては社長の為に”」 「良い心がけだ、頑張りたまえよ安月給」 「――――さて、ひとっ走りするかぁ!」 「世界の干渉率が日に日に増している……これは由々しき事態だ。早く何とかしないと……」 「このままではぼくとRe:non様の愛にも影響しかねない……失った邪気眼の力さえ元に戻れば……」 「それがキミの力なのだろうか?」 「えっ……うわっっ!?」 上を向きながらぶつぶつと独り言のようなものをつぶやいていた男は、眼前で立ち止まっていた私に気づかず、ぶつかって尻もちをついた。 「すまない、大丈夫だったか?」 「あ、すいません、こっちこそ考え事してて……」 私は男に左手を差し出す。何故か周りはいつもよりも多くの人間がたむろしていた。 そのおかげで私は前から歩いてくるこの男を避けることもできず、どうしたものかと考えているうちに男とぶつかってしまった。 こういう場合はまず謝る。それが人間社会でのルールだ。 「何か落ちたようだが」 「ああ、大丈夫ですよ。中身は蜂蜜揚げパンですから」 「蜂蜜揚げパン?」 「ついさっきまでRe:non様のイベントがあって。Re:non様知ってますよね?」 「いや、すまない。私にはわからないのだが、もしかして観音様のようなものだろうか?」 「え? あ、ああ、そうですね、ぼくにとっては神様のようなものです」 「ふむ、そうなのだろうか。神様のようなものが先ほどまでここにいたのだろうか」 ならば理解できる。普段よりも多いこの雑踏の訳はそういうことなのだろう。 「あの、もしよかったらおひとつどうですか?」 「これを私に?」 男は袋から取り出した蜂蜜揚げパンとやらを差し出した。 パンと名のつくだけあって、コンビニエンスストアなどで売っている菓子パンと似通っている。 今は特に食物を摂取する必要はない。しかし私にとって目新しいソレは少しばかり興味の引かれるものだった。 「いくらだ?」 「え、いや、お金はいらないですよ」 「何故だ? 売買ではなく譲渡ということか?」 「ええ、そうです。実はRe:non様のためにたくさん買ったはいいんですけど、ぼくあんまりこのパン好きじゃないんですよ」 「なるほど、奥が深いな」 「そういうわけで小さな子供とか、欲しそうな人に配ってるんですよ」 「私は小さな子供ではないが」 「見ればわかりますって。こんな子供いたらみんなビビりますよ」 男はわずかに呆れた様子で蜂蜜揚げパンとやらを私の手に握らせる。 私は呆れられるようなことを言ってしまったのだろうか……? 「それじゃ、ぼく帰りますね。家でRe:non様のイベントをチェックしないと」 「ああ、そうだ」 「何ですか?」 「ありがとうございました」 「へっ?」 「何故驚く? 厚意や助力に対しては、礼を言うのが人間として当然なのだろう?」 「え、ああ、そうですね。いえ、こちらこそすいませんでした」 男は私に向けてお辞儀をする。私も同じように頭を下げた。 「凄く礼儀正しい人なんですね。そういうの、いいと思いますよ」 男はそれだけ言い残して雑踏の中へ消えていった。 「……人間の基準はまだまだわからないことが多い」 市販されている書籍から得た知識が間違っていたというわけではないのだろうが……。 人の反応というのは千差万別で、明確な答えがない場合もある。 それこそ周りを歩いている大量の人間ひとりひとり、違う反応を返してくるかもしれない。 そのようなことは私が目を通した書籍には書いていなかった。抗議の手紙を送って修正させるべきか。 「…………」 決まった回答がないのが人間、というのが答えなのかもしれない。 だとすれば、私は何を道標にすれば良いのだろうか。 「ゴキゲンオー」 「…………」 人間についての考察はまたの機会にしよう。私にはやるべきことがあるのだから。 私は予定通り、喫茶店カフェ・ド・メントレに向けて歩き出した。 はずだったのだが―― 「…………何だ?」 前に踏み出した身体に反作用して後ろから引っ張る力を感じる。 何が起きたのかを確かめるため後ろを振り返る。 人間の子供が小さな手で上着の裾を掴みながら私を見上げていた。 「ゴキゲンオー!!」 「…………」 私は即座に頭の中にある、これまで記憶した言葉の辞書を開く。 だが少女の口にした単語に該当するものは引っかからない。 しかし私は慌てることはなかった。 「はい」 対人会話の中で、もっとも初歩的な言葉の一つであると同時に、汎用性の高い優れた言葉。 ニュアンスの違いで肯定にも疑問にもなる。 私は極めて抑揚を抑え、どちらとも取れるような曖昧な調子で言った。 「はい、じゃないよ。ごあいさつの言葉はゴキゲンオーだよ」 「……それはこの国の言葉なのだろうか?」 「およよ? ゴキゲンオーはゴキゲンオーだよ?」 「そうなのか。覚えておくとしよう」 また新しい言葉に遭遇した。後でノエルに聞いてみよう。 「それで、私に何か用でも?」 「わたし? わたしって言うのは女の子だけなんだよ? ヘンなの」 「いや、それについては反論させてほしい。“私”とは社会的集団の中において一個人を示す際にも使用される」 「女性の大半が用いる“私”と私が用いる“私”は似ているようで違うのだ」 「およよ? よくわかんないけどヘンなの」 「いや、だから――」 正当性を主張するため食い下がろうとする自分を制する。 相手は小さな子供だ。私以上に知識が乏しいのである。論理的説明をしたところで効果は薄いだろう。 「その話はもういい。私に何か用があるのだろうか?」 「……えとね!」 子供は未だ私の言葉に引っかかっているような顔をしていたが、言うべきことの重要さを思い出したようで大きな瞳を見開いてこう言った。 「まいごなんだよっ!!」 「迷子とは道に迷ったり同行者とはぐれたりするアレのことだろうか?」 「?? まいごはまいごだよっ! あのね、みつきちゃんとお散歩してたらね、たくさんの人がうじゃうじゃでね!」 「うじゃうじゃ、か。おもしろい表現だ」 子供の説明は一般的な文法から外れていることが多いらしい。 目の当たりにするのは初めてだったこともあり、多少なりとも興味の引かれる対象である。 「ぐるぐるバビョーンって飛ばされちゃってゴロゴロ転がってたらね、いつのまにかひとりぼっちになっちゃって困ってるんだよ!」 「あまり困っているようには見えないのだが」 「そんなことないよっ! ひとりぼっちじゃゴハンも食べられないよっ」 「あ、でもねでもね、さっき親切なおじさんがね、すっごくおいしいお菓子をくれたんだよ♪」 「それは良かった」 「うんうん♪ あれはおいしかったよぉ~♪ キラキラであまあまなんだよ」 「そんなものがあるのか。一度見てみたいものだ」 「いいよっ。ちょっと待ってね」 「タッタララッタッター♪ はちみつあげぱ~ん♪」 「ああ、それか」 偶然にも、先ほどの男から譲渡されたものと同じ菓子パンが少女の小さな手の中にあった。 「なんでなんで!? もっと驚いてくれないの?」 「私も同じものを持っている」 「あ、おんなじやつだー!」 「私も親切な男にもらったのだ」 とはいえ別段食料に困っているわけではなく、今口にすれば余分な栄養を摂取することになる。 人間で言うところの“おやつ”に該当するのだろうが、あまり間食は好ましくない。 そもそもこの菓子パン。全体を覆うように蜂蜜がコーティングされており、おそらく甘い。とんでもなく甘い。 私には必要ないものだが道端のゴミ箱に捨てようと思わないのは、男からの厚意を無駄にするのは常識的な観点から言って人間らしい行為とは言い難い。 さらに私と違ってノエルなら喜びそうだという点もある。どちらにせよ、破棄する利点は僅かばかり身軽になる程度のことしかないのだ。 「じーーっ……」 「どうした?」 「おいしそう……」 「おいしいかどうかは私よりもキミの方が知っているのだろう?」 「うん、もっともっと食べたいのです」 「ならばキミの持っているのを食べれば良いのではないか?」 「これはダメだよ! みつきちゃんの分がなくなっちゃうもん!」 「みつきちゃんはね、ツンツンしてるけど実はかわいい女の子だからお菓子も大好きだし、きっとはちみつあげぱんも食べたいんだよ」 「ツンツン? 鋭利な刃物でも持ち歩いているのだろうか?」 「ちっがうよー! 怒ってるんだけどそうじゃないの! でもほんとは怒ってるんだよ」 「でもそれはみつきちゃんのせいじゃなくてみんなが悪いんだよ! ぷんぷん!」 「ん……よくわからないのだが」 子供というのは噂以上に扱いが難しい。意志の疎通がとりにくいというのは思ったよりも面倒であることがわかった。 またひとつ社会の仕組みを覚えられたのと同時に、対応策もすぐに思いつく。 「つまり私が所持しているこれを渡せばいいのだな」 「えっ!? くれるの!? ほんとにほんと!?」 「ああ、私には必要ないものだ。キミに渡した方が有益だと判断した」 「で、でも、お金、ないよ!?」 「構わない。元々私も無償で譲り受けたものだ」 「わーっ♪ ありがとー♪ じゃ、えんりょなくいただきまーす♪」 「んーっ、おいし~よぉ~♪ キラキラであまあまだよ~♪」 「それは良かった」 迷子だと言った少女は根本的な問題が解決していないであろうにも関わらず、一切の悩みを感じさせない満面の笑みでパンを食べている。 さてと、私もそろそろ本来の目的に戻らなければ。 「では私はこれで失礼する。やるべきことが私にもあるんだ」 「もぐもぐ……んん、ふぁいふぁい」 少女はパンに夢中だったが、思い出したように私の言葉に応えた。 口の中に物が入った状態だったせいで上手く発音できていないようだったが、手を振ったところを見る限り、別れの言葉を口にしたのだろう。 「んぐ……あ、そうだ。ねぇねぇ、おにいちゃんの名前は?」 「名前……」 何の意味があってそんなことを聞くのだ。 躊躇いはあったが、子供の言葉に深い意味はないだろう。そもそも二度と会うこともない相手である。何も問題はない。 「赫。それが今の名前だ」 それだけ言って私は踵を返して歩き出す。 予定の時間には間に合いそうもなかった。 駅前の通りを抜けて住宅の立ち並ぶ歩道を歩く。 予定していた時間よりいくらか遅延しているが特に気にはしていなかった。 いくら人間社会では時間の概念が重要視されているとはいえ、仕事でもなければ数分の遅れ程度ならさして影響はないはずだ。 ただ一つ、私を悩ます問題があるとすれば―― 「ねぇねぇ、あかしくんあかしくん。あかしくんのあかしはどう書くの?」 迷子の子供に目をつけられたことだ。 「赤色の赤を二つ合わせて赫だ」 「絵の具のあかいろは混ぜあわせてもあかいろだよ?」 「絵の具の話ではなく漢字の話だ」 「漢字はむずかしくてあんまりわかりませ~ん」 「漢字でどう書くかを聞いてきたのではないのだろうか」 「カンタンなやつだったらわかるよ? 豚さんとか牛さんとかお魚さんとか」 「食用で出回っているものばかりだな」 「みんなおいしくて好き~。あとはね~」 「鳥」 「何故鳥にだけ敬称がないのだ」 「いやべつに。鳥は鳥だし」 「そうか」 そもそも他の動物に対しても敬称は必要ない。鳥にだけないのは気になるが。 ……いや、そうではない。私は何を普通に話しているのだ。 「一つ聞きたいのだが構わないか?」 「?? なぁに?」 この場において比較的必然性のある質問であるのだが、当の本人は心当たりが全くない顔で私を見上げた。 「……どうして私に着いて来るのだろうか?」 駅前で別れた後、少女は私の後を追ってここまで来た理由を問う。 特にこれと言った用件があるとは思えない。 「楽しそうだから!」 「はぁ……」 いけない、私らしくもないため息が出てしまった。 ……いや、思えば反射的に出た言葉にしては、かなり人間らしくなかっただろうか。 「悪くはない。いや、この状況自体は好ましくないのだが」 「ねぇねぇ、これからどこいくの?」 「メントレという喫茶店で人に会う。何故そんなことを聞く?」 「一緒にいくから!」 「一緒に来てもらっては困る」 「どーして?」 「…………」 これがある程度成長した人間であればそもそもこのようなことにはならないだろう。 赤の他人と理由もなく接触しない。人間社会における基本的なルールだ。 しかし基本的であるが故、国の定める法律などに明記されているわけではなく、私もどうして駄目なのかを上手く言語化することが難しい。 「そういうもの、だろう?」 「???」 ああ、駄目だ。やはりこの人間は幼さ故、常識的な観念が不足している。 知性の乏しい子供であれば致し方が無い。本来であればこの少女の親が面倒を見るのだろうが。 「迷子だと言ったか」 「そーだよ。まいごまいご」 「親とはぐれたのはどこだ?」 「…………」 少女の顔に初めて雲がかかる。わずかな時間しか話していないとはいえ、それまでの少女が見せていた無邪気さとはかけはなれていた。 しかしそれも一瞬のことで、すぐに調子を取り戻す。 「みつきちゃん」 「その“みつきちゃん”というのが親の名前か?」 「ちがうよ、みつきちゃんはみつきちゃんだよ」 「よくわからないが親とはぐれたわけではないのだろうか」 「さっきの場所でね、人がいっぱいいてね、気づいたらみつきちゃんがどっかいっちゃったんだよ」 “みつきちゃん”の情報は全くないのだが、大局的に見るといなくなったのはおそらくこの少女の方だろう。 確かに先ほどまでの駅前は多くの人間で溢れていた。はぐれてしまっても不思議ではない。 「であるのなら、あの場所を動かない方がいいのではないのだろうか?」 同伴者が意図的の少女と別れたのでなければ、今頃この少女を探していると考えるのが妥当である。 「んー、でもね、いっぱい探してもみつきちゃんいなかったんだもん」 「それは私に着いて来る理由にはならない」 「あかしくんと一緒にいないとみつきちゃんに会えないんだよーっ」 「…………」 意味がわからない。いや、今に始まったことではないのだが……。 野良猫に餌をやった後、後ろをついてくるようになった、という話を思い出した。 行動の選択に対する後悔はしても意味がない。重要なのは現状を打破することだ。 ……………………。 警察にこの少女を届けるべきか。 いや、彼らと関わりを持つのはノエルに固く禁じられている。新たに別の問題が生じる可能性は除外しなければならない。 ならば少々強引な手段で―― いや、それもまた同じことだ。 だとすると私の取れる選択肢はひとつしかなかった。 「一緒に遊ぶことはできない。私には行かなければならない場所がある」 「おさんぽ? いいよー♪ どんどんいこー♪」 少女は私の逡巡などおかまいなしに道を進んでいく。 「メントレの場所は知っているのだろうか?」 「えーっ? 知りませんよー! あかしくんが一緒にきてくれないとまいごになっちゃうよー!」 キミはすでに迷子だろう。 「いらっしゃいませ。おまちしておりました」 「こんにちは。遅れてすまなかった」 「いえいえ、営業時間内であれば、いつ来て頂いても私はここにいますから」 マスターはカウンターの向こうで白い皿を拭いていた。 店内を見渡す。客は私だけのようだ。 「今日は結構な数のお客様が来ていらしてたのですが、丁度一段落しまして」 「繁盛しているのは良いことだ。この店がなくなると私も困る」 「ふふっ、でしたら赫さんにも貢献して頂かなくてはいけませんね」 「善処する」 「ねぇねぇ、早く中に入ってよぉ!」 「おや、お連れ様がいらっしゃったのですか?」 「……私の本意ではないのだが」 一歩店の中に進むと、後ろから少女が勢いよく飛び出す。 「わっ!? ヘンな匂い!?」 「これはまた、可愛らしいお客様ですね」 「ねぇねぇ! ヘンな匂いがするよ!」 「これは珈琲の匂いだ。喫茶店だと言っただろう」 「いらっしゃいませ。お嬢さんには少し早いですかね」 「こーひーの匂いはじめて! こーひーこーひー!」 「赫さんのお子さんですか?」 「いや、そうではない。私に子供はいない」 「ふふ、冗談です。でしたらご親戚の方か何かですか?」 「迷子だ」 「迷子? それは困りましたね」 「まいごーっ!!!」 「何故か私に着いて来る。困っている」 「警察には?」 「いや、連絡していない」 「そうですね、あまり大事にしてしまうのもどうかと思います」 警察に届け出ないのは私達の都合だけしか考えていなかったのだが、マスターの解釈をわざわざ訂正する必要はない。 「いずれ飽きて家に帰るだろう。それまでの辛抱だ」 「それでいいのではないでしょうか。しかし、こんな小さな子供に好かれるのは失礼ですが意外でしたね」 「私も初めてのことで戸惑っている。人間の子供というのは皆こんな風なのだろうか?」 「はわぁ!? あかしくんあかしくん! ピアノがあるよ! すっごーい♪」 「どうなんでしょうね。私にも子供はいませんから」 マスターにもわからないということは、社会的常識に照らし合わせても決まった答えがない事例なのか。 「とりあえずこの少女のことは放っておいて構わない。私がどうにかしよう。それよりも、約束していた物は?」 「ああ、用意していますよ。今持ってきますので、お座りになっていてください」 「わかった」 マスターに促され、カウンター席に向かう。 「あ、まってまってー! 一緒にいくぅ――」 「きゃっ――!?」 私についてこようとした少女は足を取られて前かがみに倒れた。 走り出そうとした矢先――勢いについては申し分がなかった。 「ふぇぇぇぇぇっ……」 「大丈夫か?」 「ふええぇぇぇええぇえぇんん――!! 鼻がつぶれちゃったよぉ――!!」 「大丈夫だ。鼻は潰れていない」 「びええぇぇえぇえぇえぇんん――!!」 「どうしましたか!?」 「マスター、迷子の少女が転んで顔を打った。痛いらしい」 「それは大変です! すぐに救急箱を持ってきますから!」 マスターは扉の奥に消える。 「びええぇぇえぇえぇえぇんん――!! まえばぁ――!! まえばおれちゃったぁ――!」 「大丈夫だ。前歯は折れていない」 物事は予定通りに進まない。 「ぐすっ……」 転んだ少女が泣き叫ぶのを止めるまでかなりの時間を費やした。 マスターの用意した氷で打ち付けた箇所を冷やしている。 「すみません、全て片付けたつもりだったのですが……」 少女がバランスを崩したのは、床に落ちていた新聞紙の切れ端が原因だった。 「何故新聞紙が床に落ちていたのだ?」 「午前中にいらしたお客様の一人が、読んでいた新聞を破り捨ててしまったのです」 「新聞は破るものではない」 新聞とはそこに濃縮された情報を読み取るためにある。破ってしまえばその機能は損なわれてしまうはずだ。 「行動的なお客様でしたから」 「そうなのか」 マスターの言葉は直接的な解答になっていないように思えたが、さして重要性を感じなかったので追求はしなかった。 「はい、このくらいで大丈夫でしょう。まだ痛みますか?」 「……もうあんまり痛くない」 痛みが収まったと言う割には、その表情は今だ曇っていた。 「うう……」 僅かに赤みがかった鼻を撫でながら俯く少女。機嫌を損ねたようだ。 私としてはこちらの方が相手をする上で扱いやすいように思えたのだが―― 「本当にすみませんでした。おわびに何かご馳走させてください」 「!?」 少女の顔つきが明確に変化する。 「クリームソーダなどいかがでしょう。小さなお子様に大人気なんですよ」 「はい! 食べます! くりーむそーだ食べます!」 「わかりました、すぐに用意しますね」 「やったーーーー!! どんなの来るかなぁー、わくわく♪」 カウンターに腰かけ、宙に浮いた両足をバタバタさせている。犬が喜びの感情を示す行為に似ていた。 「先ほどパンを食べたばかりなのにまだ食べるのだろうか?」 「食べますよぉ? どーしてそんなこと聞くの?」 「いや、小さい割によく入るのだな」 「ごはんとデザートはベツバラなんだよぉ。だからいいんだって!」 「そうなのか」 「うん。でもね、ベツバラってどういう意味なのかな」 「自己に対する免罪符のようなものだと認識している」 「メンザイフ? よくわかんないけどベツバラでメンザイフだから平気なんだね♪」 「キミの好きにすればいい」 「はい、おまたせしました。メントレ特製クリームソーダですよ」 「うわぁ!? ねぇねぇすごいすごい! ジュースの上にアイスが乗ってるよ!」 「そうだな。私も知識でしか把握していなかったが、話に聞いたのと同じ作りをしている」 緑色に着色された炭酸飲料に半球の形をした氷菓が添えられていた。 「これ食べていいの?」 「どうぞ、せめてものお詫びです」 「やったー♪ いただきまーす♪」 少女はついさっきまでの沈んでいた感情など微塵も感じさせない無垢な笑みでグラスに手をつけた。 「おおおおおおおおおおおおお」 「おいっしーーーー♪ くりーむそーださんすっごくおいしいよ♪」 「ふふっ、お口に合ったようで安心しました」 少女は瞳を輝かせながらスプーンとストローを操る。興味の対象は完全に目の前のグラスへと注がれていた。 「マスター、頼んでおいた物なのだが」 「ああ、用意していますよ。少々お待ち下さい」 マスターはカウンターの下にしゃがみ込み、茶色い紙袋を取り出した。 「効果の方は期待しても良いのだろうか」 「もちろんです。即効性も高くて効き目バッチリの薬です。すぐに元気になりますよ」 「わかった。代金はいつもの口座に振り込んでおく」 「また何かあったらいつでもどうぞ」 マスターから受け取った茶袋を内ポケットにしまう。 倉庫に戻ったらすぐに試してみよう。 「ごちそーさまでしたっ♪」 「もう飲み終わったのか。早いな」 「おいしぃものはすぐになくなっちゃうのです」 「そう言って頂けると私も嬉しいです」 「さて……」 「お帰りになられるのですか?」 「ああ、早く薬の効果を試してみたい。それにあまり長居するとマスターに迷惑がかかるだろう」 「あかしくん、メイワクかけるようなこといつもしてるの?」 私ではなくキミだ――そう言ってしまうとまた面倒事が起こりそうな予感がして言葉を飲み込む。 「ではマスター、私は帰る。さようなら」 「またのお越しをお待ちしております」 「まってよあかしくーん、おいてかないでよー!」 走って私の後を追う少女。嫌な予感がした。 「きゃっ――!?」 またひとつ新しいことを覚えた。 新聞紙が落ちていようがいまいが、子供は転ぶ―― 「ふぇぇぇぇぇっ……」 《メントレ》〈喫茶店〉を出て、来る時に通った道を逆に歩いて行く。 「ねぇねぇ、これからどこいくの?」 「用件は済ませた。他にやることもない。倉庫に帰る」 「そうこ?」 「私が住んでいる場所だ」 「へぇ、あかしくんのおうちかぁ。じゃあいこっか」 「行かない」 「どーして?」 「私は行く。キミは行かない」 「どーしてどーして?」 「そこは私の家であってキミの家ではないからだ」 「でもお友達のウチに遊びにいくのはヘンじゃないよ?」 「私とキミはお友達なのだろうか?」 「一度会ったら友達で、毎日会ったら兄弟なんだよ?」 「それはおかしい。兄弟であるかどうかは生まれた瞬間に決められるものだ。血縁関係のない兄弟だとしても相応の手続きが必要と聞いたことがある」 「?? よくわかんないけどあかしくんはあたまいいんだねぇ」 「そんなことはない」 私以上に知識の乏しい人間と話したのは初めてだったせいでどうにも調子が狂う。 「(これ以上、この少女といると面倒なことに巻き込まれてしまうかもしれないな……)」 現にメントレからここまで歩いてくる途中、軒先で話している女性たちの会話が聞こえてきた。 内容は私達について。 どういう関係なのか訝しんでいたようで誘拐だ警察だ、などとも聞き取れた。 私のような風貌の男と少女の組み合わせはよほどミスマッチなものに見えるようだ。 どちらにせよ今から倉庫に戻るという状況で、この少女を連れていくことはできない。 「(…………撒くか)」 仕方がない。こうでもしなければこの少女はどこまでも食い下がって来ると思われる。 幸い、私はこういった状況に効果的な方法を目にしたことがある。 本だったかノエルの見ていたテレビだったかは思い出せないのだがこの際どちらでも問題はない。 周囲に他の人間がいないことを確認する。 決行は今しかなかった。 「大変だ。空にUFOが浮かんでいる」 「え!? どこどこ!?」 少女の視線は私の指さした空に向かっていた。 私は足に蓄えた力を開放して上方に向かい飛ぶ。 着地地点は前方にある店舗の屋根だ。 「ねぇねぇ、どこにもいないよー? UFOさんどこにもいないよー」 「およよ? あかしくんもいない!? どこいっちゃったの!?」 突如として私の姿が消えたことで動揺する少女。 その姿を屋根の上から見下ろす。 「は!? もしかしてあかしくんはUFOさんの存在を隠すために連れ去られちゃった!?」 「た、タイヘンだぁ! UFOさん待ってぇ!! あかしくん連れてっちゃダメぇーーー!」 少女は空を見上げながら走りだした。 曲がり角でその姿が見えなくなった頃、私は身を隠していた屋根から飛び降りる。 問題は解決した。 街路樹から飛び降りた瞬間を見ていた人間が訝しげにこちらを見ていたが、私は無視して倉庫のある旧市街に向かって歩き出した。 ちゅうぅうぅう~~~~~~。 「ぷあぁあ~~~~~!! 水うめぇっ! ミネラルウォーターうめぇっ!!」 臨時の仕事でほどよく疲れた身体に水分補給。これ大事。 今日は見積もりと簡単清掃だけだったから肉体労働レベルは低かったけど……。 「久々だったからなぁ、あそこまでヌチャヌチャになってるのは」 作業中は無心でやるけど、思い出すと結構キツイ。 嗅覚を殺してる俺でも、あの臭いは完全には遮断できなかった。 気を抜いたが最後、ハンパな仕事になってしまう。 「つらい仕事は全部俺任せ」 はぁ…………ホント……ほっとする。 一番厄介で、面倒な、《チョコ》〈粘土〉の現場を振ってくれる。 社長が俺を見限らず、信頼してくれているのが仕事内容一つで手に取るようにわかる。 「クッフッフ」 「……? 誰かそこにいるのかな……?」 「クッフッフ~。再び出逢ったな我欲の放浪者よ。運命には抗えない、何故なら運命の方が私を必要としているからだ」 「可愛い邪鬼眼使いだと思った? 残念! なるちゃんでした!」 「――――ってなるちゃんは充分かわいいよ! 失礼なっ」 「なるちゃん……キミってやつは……」 なるの笑顔もこの時ばかりはいたたまれなかった。 最初から最後まで自分一人でボケもツッコミもこなして、俺の哀れみの目もなんのその。とても健気に生きている。 「本当に家なき子だったんだね……!」 「違うって! 明らかに違うじゃん! 路上占いだよ見てわかってよ!」 「ウチでよければ部屋余ってるし、社長に掛けあってみるからね……」 「家がないのは事実だけど、へーきへーき。屋根がある場所なんていくらでもあるし」 「うぅ……なるちゃん……お腹減ったらいつでもいうんだぞ……? ヘンな奴に絡まれたら飛んで行くからね」 「はいはい、立ち話も何だから座って。汚いトコですが、ど・う・ぞ♪」 「ホントだ汚い。キノコ栽培してるのってレベルでむさ苦しみすぼらしい。ハンカチを敷くしかないね」 「うるさいっ! 少し汚れてるくらいが味があっていいの! 綺麗な占い屋は大抵が嘘っぱちだわ」 「冗談だよ。こんな可愛い子に占ってもらえるなら、みんなほっとかないだろうな。繁盛するでしょ?」 「そういうお客様はすぐわかるし、私は相手を選ぶからさっぱり。開く場所も占いで決めるしね」 なるは大げさな手振り身振りで貧乏アピール。 それからふっと顔を上げて、何かに気づいたように俺を凝視する。 「俺を不審者を見るような目で見ないでくれ」 「優真くん変わった香水つけてる?」 「これが噂のニオイ占いか」 「ワクワクされてもそんな占いないって……。ねぇ、これって……優真くん、ヤバイ事に片脚突っ込んでない?」 「なると俺はまだ健全な関係だろ。加速度的に進展して、片脚どころかどっぷり浸かって抜けられなくなるのは今度の予定さ」 「……優真くん、何してる人?」 セクハラ発言を躱して単刀直入に来た。 やましい事も、恥じる事もないんだけど、言い難い。 「俺はイマドキどこにでもいるような、働き者の学生のつもりなんだけど」 「……じゃあもっと直接聞こっかな」 「どうして《・・・・・・・・》〈腐ったタンパク質〉の香水なんてつけてるの?」 「いやいやいや。好きでつけてるわけじゃないよ……」 腐敗臭――死臭とも言うけど、なるはそれを嗅ぎとったようだ。 無理して隠す必要もないだろう。 「今日の現場、《チョコ》〈粘土〉だったから――――って、これじゃわかんないか」 「チョコ大好きっ!」 想像してるチョコとはきっと違うんだけど……。 「話してもいいけど、確実に気分を害すよ」 「水商売だっ」 「水商売、素敵じゃん」 「うん、素敵かもしれない。だって仕事そのものに良し悪しなんてないもん。要は働いている人の問題だもん」 「誇りを持って全力で取り組んでいるかどうか、その輝きだけが評価の対象だと私は思うわ」 誇り……。 そんなたいそうなものじゃないけど、“全ては社長の為に”を信条に頑張ってはいるつもりだ。 なるの考え方なら、話しても受け止めてくれるのかなと思える。 「ウチは――“百合かもめ”は《ライフ・ケア》〈特殊清掃〉の業務をやってて、俺は社員とバイトの中間で働かせてもらってる」 「《ライフ・ケア》〈特殊清掃〉ってのは、口で言えないような状況に置かれた悲劇の現場を元に戻す仕事。そういう仕事をする人を、“《クリアランサー》〈片付け屋”って言うんだ」 「………………」 「で、《チョコ》〈粘土〉ってのは水場――9割方は浴槽リスカで亡くなったホトケさんの現場を差す用語」 浴槽が粘土みたいにぬっちゃぬちゃ真っ黒で、どろっとチョコっぽいから、通称《チョコ》〈粘土〉。 身体に染み付くので着替えても風呂に入るまでは臭う。 「特に《チョコ》〈粘土〉の現場は最も厄介な仕事で、特別報酬が付く」 「よっぽどでなければ、手馴れてる俺が担当員だね」 自分でも、ちょっとダメかなとは思う。 何が? と言われれば、もちろん。 こういうことがスラスラ言えてしまうということが、だ。 「辛くない? そういうのに“慣れる”のって」 「……日々の飯の種だから、順応はするよ。作業効率ってのは、やっぱり必要だから」 「慣れないのはメンタル面」 「現場に、二つ分のロープがぶら下がっていた時なんか、泣きそうになるよ」 ……楽しくないよな、こんな話。 「ばっちぃでしょ? ははっ、脚のいっぱい生えた虫とかもうじゃうじゃだし。あははっ」 「立派だと思うわ」 無理して言ってくれたのかもしれないけど、素直に受け取らなきゃ罰があたりそうだ。 「私ね……『蛾と蝶の明確な区別ってないのに、蛾が嫌われるのはなんでかなぁ』って考えたことがあるの」 「は、はぁ……俺はないよ?」 “脈絡”なんてものは当然なくて、俺はちょっと戸惑った。 菜々実なるは雑学王だったりするのだろうか。 「綺麗な模様を背負って羽を広げて止まる蛾もいるのに、蛾だとわかった途端に煙たがられる」 なんとなく、わかる。 “蝶”は、芸術分野でも幅広く好まれ、賛美される。 “蛾”という単語の入った歌は、すぐ思い浮かばない。 「考え続けたら、ピンと来たの。これは私なりの答えで、きっと模範解答じゃないんだけど――――」 「蛾は“蝶”であることを進んで捨てたんじゃないかな」 「捨てる……諦めるって事? それとも、蝶か蛾に生まれてくる権利を持ちながら、あえて蛾を選んだって事……?」 「そう!」 ビンゴらしい。 俺だったら“蛾”の持つ印象がヒトにとって悪いってだけで済ませてしまうだろう。 「“蛾”は“蝶”の鮮やかさを立てるために、自分から汚れ役を背負って生まれてきた」 「きっと優真くんの仕事は、《・・・・》〈そっち側〉なんでしょ?」 うーん……喩えがわかりずらいけど……。 「概ね、正解かな」 なるはこう言いたいんだろう。 《ニクづくり》〈屠殺場〉や《イヌゴロシ》〈保健所と同じ、誰もが目を背けながら、けれど誰かがやらなきゃならない〉――――人材不足で必要不可欠な仕事に携わってる人。 確かに人の嫌がる仕事をするのは好きだ。 座りたくない席を俺という人間が埋めてあげられるから。 けど……最も大事な事をなるは忘れている。 「単純に、金ががっぽがっぽだからやってるってだけだよ」 「……それ言っちゃお終いでしょ」 がっくりと肩を下げるなるを見て、自分の評価が3段飛ばしで落ちたことを確信した。 「さーて、俺はがっつり働いてきたんだ。今は客としてなるちゃんの占いを受けさせてもらうよ」 「お昼のお礼もあるから、タダでいいよ。さぁ、何を占って欲しい? ズバッと当てちゃうわよっ」 「またタロット?」 「あれは名刺のオマケ。乱数要素の入る《ぼく》〈卜〉占いは専門外だから、ア・ソ・ビ」 「はいはーい! 先生、はーい! 何のことだかさっぱりわからないんですけどー!」 「お客さんはさっぱりでいいのよ。説明したってわかりっこないんだから」 「へー。で、俺はどうすればいいの?」 「占い師様に左手のひらを差し出すがいいわ」 「ハハァ! お願いします……!」 手のひらを上にして見えやすい位置に伸ばす。 「俺知ってるよ、手相占いでしょ」 「手相占いは星占いやタロットとは違って、結果を伝えるだけに留まらない。開運のサポートをすることだってできるのよ」 仕事の顔つきになったなるは、ざっと手のひらを見る。 「掌紋がハッキリしないわね。手の皮が剥けてる……溶けてる……?」 「軽装備で仕事してるからかな。強力な洗剤使った時なんかに、集中しすぎててゴム手袋の隙間から入ってることに気づかない事があるから」 「そうなんだ、大変だね。でも大丈夫だよ、丘と重要な線は生きてるみたいだから占えるわ」 集中し始めたなるは、俺の手首を持って手のひらを支えた。 細かい皺を確かめるようになるの指がすべり、くすぐったい。 「なるちゃんなるちゃん」 「ん?」 「気持ちいいよ」 「触れただけで!? ダメ人間だなぁ、これでもかってくらいダメだなぁ」 「そのまま揉んで欲しかったりなんかして」 「はぁ……働く頑張り屋さんだもんね。いいよ、優真くんの為に、仕事の疲れを癒してあ・げ・る」 NOと言えないなるのサービスマッサージが始まった。 ぷにぷにの指の腹で圧されて極楽気分。 「なるちゃんの指が絡まって気持ちい~」 「お客さーん、凝ってるとこないですかー?」 「反対の手もぷにぷにして欲しいかも~」 「はーい。ここですかー?」 「そこそこ、そこのツボ……あ~きもちぃ~……なるちゃん上手だね……最高ぉ~」 「そりゃあプロですからー。手のひらのツボは幸せの数だけあるんですよー♪」 「プロのテクやっばい……ハマりそう……通うよー毎日通うー……」 優しく包まれてもみもみぐりぐり。 「はぁ~…………ご苦労様。なるちゃんのマッサージ屋、凄く良かったよ。また来るね」 「うん、疲れたらまた来てね」 「今度は奮発してアロマオイルのコースにしようかな。なるちゃんの手で紙オムツ履かせてもらうの、楽しみだ」 「――――って違う違う違うぅぅっ!!! 占い屋だってばッ! 占わせてよ、お願いだからっ!」 「お、虫眼鏡! 本格的だなぁ」 「天眼鏡っていうんだよ! 占っていいですか? いいですよね!?」 「そんな必死になられたら、こ・わ・い」 「私のマネをす・る・な!」 「はははっ、悪かったってば」 長かった茶番が終わる。うっとりするほど気持ちよかったのは、茶番でもなんでもなく、本音だけど。 「じゃあ俺となるちゃんの恋愛の相性でも占ってもらおうかな。初夜はいつで、式はいつとか、子供は何人恵まれるとか、なるべく具体的に」 「ヤダよ変態」 「怒っちゃった? なるちゃんが可愛いから、ついふざけちゃったんだよ」 「うるさいわ。優真くんなんかを普通に占っても時間の無駄だってわかっただけよ」 「メニューに載ってる特別招待の“《リーディング》〈虹色占い〉”っての受けてみたいんだけど」 「話聞いてください。“《リーディング》〈虹色占い〉”コースは代金の代わりにチケットが必要です」 「残念だなぁ、なんかおもしろそうな名前なのに」 「チケットが必要です」 「ん? 何で二度も――――あ」 ピンときた。 昼間のタロット風、名刺を渡す。 「これこれ。“《リーディング》〈虹色占い〉”は受けたくてもなかなか受けられないんだぞ? この幸せ者っ!」 あれ? と思う。 なるの顔がすこし紅いのは気のせいか。 「“《ボッカ・テラ・ベリタ》〈真実の口〉”ってわかる?」 「石でできた有名なアレでしょ? 手を口に入れて偽りの心があると抜けなくなるって伝説の」 「“《リーディング》〈虹色占い〉”発想の由来は“《ボッカ・テラ・ベリタ》〈真実の口”なの。五指の紋と掌の裏表、合計7つの情報からその人の“隠された真実”を読み取る〉」 「ってことは真実の口のミニチュア版でも持ってるのかな? 楽しみ!」 「…………じーーーーー……」 「ん? どうしたの、なるちゃん。視線感じまくりなんだけど」 「優真くんは、見返りもなく私を空腹から救ってくれたから……特別なんだよ?」 「男の子にするのは初めてだけど、優真くんなら私もいいかなって思えるの。だからしてあげるの。そこの所、ちゃんとわかってね?」 「ど、どういうこと?」 「か、覚悟できた?」 なるは最終決戦にでも望むような緊張の面持ちで、つばをゴクリ。 どうやら真実の口への挑戦は勇気が試されるらしい。 もしかしたら想像を絶する痛みを伴うのかもしれない。 女の子なら出産の痛み。男なら、尿路結石みたいな。 「………………」 「大丈夫! 俺はいつでも覚悟完了! もじもじするなるはプライスレス!」 「それじゃ……ホントにやっちゃうわよ?」 「ああ、真実の口でバクッとやっちゃってくれよ。バクッと! そして俺の真実を暴くんだ!」 「うん……じゃあ…………ジッとしててね……」 さぁ、何をされるのやら―――― 「バクッ!!」 「ふひゃあ!?」 ――――え? えええええええええッッッ!!? 「……ん……ちゅ……ちゅ…………」 恥じらう美少女のおしゃぶり展開なんか予想だにしてない。 だが、うろたえるのはダメだ。 堂々としていればいい。 これはやましいことじゃない、占いだ、占い。 「な、なんて不思議な占いなんだろうなー。確かに、幸せ者かもしれないなー」 「……ん……んふ……」 ぬめる舌が指を這う感触。温かくて気持ちいい。 舌で指紋を読み取るなんて前代未聞すぎて理解が追いつかない。 まさか五指すべてにコレをするわけじゃ……ないよな? 「う、うーむまさしく真実の口。いや、なるちゃんの口。なるちゃんの口……」 「……ん……ちゅ……ちゅ……れろ…………」 「えっと……指はちゃんと洗って、消毒してあるから……汚くないよ……?」 何を言ってるんだ俺は。 「んー……かぷ……んもんも……」 「ぅ……ぅあ」 あま噛みに声が抑えられない。 ダメ。ヤバイ。ドキドキする。クラクラする。 あ――――性懲りもなく、またポンコツ発動か。 「――――ッ!?」 と。唐突に外気に晒される指。見れば、なるが弾かれるように指を放していた。 「お、終わったの? 結果は?」 「………………」 俺の指となるの口元とを繋ぐ唾液の橋が、プツンと切れる。 「……わ、わかんなかったわ」 「何も……?」 「うん……」 「えー、占い師失格じゃん! 指一本じゃきっと情報が足りなかったんだよ、ささ、他の指もどうぞ」 「結果発表~! 優真くんの心の闇は遥かなる悠久の向こう。私が踏み込んでいい領域ではなかったのであえなく撤退となりました~!」 「わーテキトー」 “隠された真実”なんて大げさな事を言うから気になったけど、所詮、俺にそんな大層なものはない。 「…………優真くん、さ……」 「ん?」 「…………ううん、なんでもない」 「歯切れが悪いよ。占いの結果が悪すぎて、教えてくれないとかそういうやめてね」 「偉そうに言えたことじゃないけど、ホントにわからなかったわ。やっぱりもう一回、普通に手相占いするね」 「いや、充分堪能したから。なるちゃんとの関係が進展したのはデカイ」 「指、ごちそうさま。あんまり美味しそうだから、あのまま占ってたら食べちゃってたかも」 「うわ、怖ッ! ん、待てよ……? なるちゃんに食べられるのはアリか……」 「クッフッフ。骨ごとムシャムシャ♪ 取り込んでやろうかー」 「今度、骨ごと食べれる焼き魚のうまい店、連れてってあげるよ。財布が空になるまで食べ放題」 「わーい! 優真くんは良い人だわっ♪」 「なるちゃんにとっての良い人であり続けられるように努力するよ。ところで、この唾液のついた指を舐めるのはオッケー?」 「オバカちゃん」 ハンカチで丹念に拭いてくれた。 「――――あ、ヤバ」 気づき、時刻を確認する。 食事の支度前にシャワーを浴びる時間はギリギリある。 「俺、速攻で帰んなきゃ。ホントにお代、いらない?」 「クッフッフ。取らないったら取らない。次に逢うまで死ぬなよ、盟友!」 「さらば、また逢う日までっ! “《アラウンドザワールド》〈ATW〉”」 ナンノコッチャだけど、なる流の“さようなら”をマネをした。 背中を向けて走りだしても、なるが手を振ってくれているのが何となくわかった。 帰ろう。家族が待っている。 今日はいつもよりも騒がしい一日だった。 旧市街に足を踏み入れると車の音や人の声などが遮断され、住む世界の違いをより鮮明に浮かび上がらせる。 本来の機能を失い廃れた旧市街の空気を吸うと、肩の荷が降りたような感覚を覚える。 それは私がまだ人間の立っている場所から離れている証拠である。 ここで生活を始めてから7年ほどの時間が経過してもなお、私はまだ人間に遠く及ばない。 子供一人、思うように扱えないようでは、環境に適応するにはまだまだ時間がかかりそうだ。 倉庫の扉を開ける。南京錠は外れており、中に誰かがいることを示唆していた。 さてどう話を切り出すべきか。 私は羽織っていた上着を脱ぎながら、今日の出来事について考える。 「ただいま」 「おかえりなさい」 「順調か?」 「ええ、そりゃもう」 ノエルは人間社会についての諜報活動に真剣だった。 「マツナカ、アウトー!」 「まっちゃんそらいかんで」 「ん? 聞きなれない言語だ。新しい言葉か?」 「いや、残念ながらこの情報は人間社会において役に立ちませんね。一応最後まで確認しますけど」 「そうか、何かわかったら教えてくれ」 「もちろんです。うっわー、いたそー」 人間のことをもっと詳しく知るために勉強しているノエルを邪魔してはいけないな。用件は手短に済ませよう。 「ノエル、少し話をしてもいいだろうか」 「それよりも、何か忘れていませんか?」 ノエルは視線をテレビに向けたまま口を動かす。 「ああ、すまない。ノエル、愛している」 「私もですよ」 ノエルは目線を寄越しながら私の言葉に応えた。 「いつも思うのだが、このやりとりは本当に必要なのだろうか? 私には良くわからないのだが」 「説明したじゃないですか。愛とは人間性を理解する上で避けて通れない道です」 「形だけでも習慣づけていけば、きっと私達もいつか愛を理解することができますよ」 「そういうものか」 「そういうものです」 優しく微笑むノエル。彼女が言うのであれば間違いはない。 去年から人間の学園に通い出したことも、この世界に適応するため始めたことだ。私よりも遥かに人間について詳しい。 「今日は随分遅かったんですね。確か新市街の喫茶店に行くと言ってた気がしますけど」 「ああ、少しばかり面倒な事態に巻き込まれた」 「面倒?」 ノエルの顔が曇る。私はすぐに言葉を続けた。 「いや、面倒だったというだけでもう解決している。ノエルが心配するようなことは何もない」 「そうですか。それならいいんですけど」 ノエルの心配事とは私達の存在が公になってしまうこと。 人間が放棄した旧市街に住んでいる理由もそれだ。 「キミに心配をかけるつもりはない。だから――」 「“キミ”じゃなくって“お前”、ですよ」 「ああ、すまない、今日はいつもより多くの人間と会話をしたせいだ」 ノエルはいつも“お前”と呼ぶことを要求する。 理由はわからない。とにかく彼女がそう言うのなら私は従うだけだ。 ただ一つだけ――ノエルが誤解していることがあった。 「今日会った人間の中に、兎の仮面を付けた男がいた」 「へぇ、それは珍しい人もいるものですね」 「ノエル、私は浮気をしていない」 私はもう何度言ったかわからない台詞を口にした。 「キミが疑うようなことはしていないし、やろうとも思わない」 「お前」 「お前が疑うようなことはしていないし、やろうとも思わない」 「何の事ですか? 私にはご主人の言ってることがよくわからないんですけど」 「疑うことはいい。疑いとは人間の誰もが持つ感情だ。人間らしいと言えるだろう」 「しかし、言いたいことがあるなら私に直接言ってほしい。そうすればお互い余計な手間が省ける。そうではないだろうか?」 「私がご主人を疑うわけないじゃないですか。もし仮に疑いを持ったとしても、私に咎める権利はないですよ」 「ご主人は私のご主人ですから」 私はノエルに主従関係を強制するつもりは全くない。 彼女が私をご主人と呼んだり、私のためにあらゆる些事や世話を焼いてくれていることも、ありがたいとは思えどそれを強いるつもりなど皆無だ。 私はノエルを信用しているし、ノエルもそれに応えてくれている。何も問題はない。 ただひとつだけ、ささいな行き違いを除けば―― 「まあまあ、いいじゃないですか。別にその兎、ご主人に何かしたってわけじゃないんでしょう?」 「約束の時間に遅れそうになった。水やりの時間を奪われたのだ」 「それはまああれですよ。その兎さんはきっと神様に遣わされた使者なんですよ」 「神の使者?」 そういえば、昼間の駅前に神が来訪していたと聞いたが。 「きっとご主人の自覚していないところで、神様を怒らせちゃったんでしょうね」 「神は私の浮気などに興味はないだろう」 「どうでしょうね。ともかくこれからいい子にしていれば、きっと兎さんが来てご主人の土いじりを邪魔されることもなくなりますよ」 「……だといいのだが」 結局今日もノエルを説得することに失敗した。 仕方がない。今度はあの兎が来ても良いように、やるべきことはさっさと済ませることにしよう。 「さて、ご主人、帰って来たばかりですから喉乾いてるでしょう? 何か用意しますよ」 「……まさかとは思うが」 「はい? 何ですか?」 悪戯な笑みを浮かべて冷蔵庫の中から麦茶を取り出すノエル。 「いや、何でもない。ノエルと同じもので構わない」 「栄養ドリンクは?」 「今日は夜から仕事がある」 「ふふっ、冗談ですよ♪」 麦茶のコップが置かれる 「ありがとう」 「どういたしまして」 ノエルが私にコップを差し出すが、そのコップを私は受け取ることができなかった。 「んっしょ……んっしょ……」 倉庫の扉がゆっくりと開き、来訪者の姿を捉えた私の視線はそこから動かせなかった。 「あ、あかしくん!」 「ど、どうしてキミがここにいる……!?」 「えへへ、ゴキゲンオー♪」 人間ではない私の場合、人生と言って差し支えないのか不明だが、仮にそれが許されるのであれば人生で一番驚きを隠せない瞬間だった。 「う……」 ああ。 手元からコップを落として固まっているノエルを見て、私は覚悟した。 もしかしたら、今日の仕事はキャンセルかもしれない―― 「う、浮気通り越して隠し子ですかっ!?」 「おーし、できたできたっ!」 夜の献立は合い挽きハンバーグをメインに、余り物の漬物やらサラダやらコロッケなんかを出してテーブルを彩る。 缶詰やパウチの“開封”だけで済ませるのは楽すぎるから、『~~のもと』とかでちゃちゃっと炒めた出来合いの物に一手間を加える。 凝りすぎず、凝らなさすぎない。 それが数年間変わらない、我が家の食卓。 「お疲れ様、兄様。ん、いい匂い」 「当然。水瀬家の胃袋を満たし、幸福を届けるのも俺の仕事だからね」 「家庭的で仕事にマジメ、女の子に優しい。これで黒縁眼鏡を掛けてたら、典型的なロールキャベツ系男子ね」 「ロールキャベツ系ってなに?」 「私が知ってる事は全部、兄様も知ってるでしょ」 肩を落としてため息をつく結衣。 確かに《バラシィ》〈零二〉から教わったから、言葉の意味は知ってる。 容姿、言動は草食系男子、ここぞというときに肉食系男子に豹変する奴。 「仮に俺がそうだとしても、相手にバレてるならただのピエロだろ。俺が狙ってるのは結衣なんだからさ」 「はいはい。夏野菜の揚げ物は食べる直前に揚げよ? 手伝うから言ってね」 「了解。く~~、ウマそう」 「賞味期限はまだ先だけど、蜂蜜揚げパンの大量在庫もちゃんと崩していってね?」 「あ、ああ。どんとこい」 妹様の笑顔を死守するため“飽きてきた”の一言は飲み込む。 「今日のノルマ、30個ね♪」 「お……おう……」 「♪」 「もしかして……怒ってらっしゃいます?」 「何の事? あ――――違うよ?」 「私に黙って生Re:non様のイベントに参加した上……」 「プライベートで手のひらにサインを書いてもらっておきながら死守できず仕事で洗い落ちちゃった事なんて――――全然怒ってないよ?」 「い、いずれ消えちゃう物だろっ! というかなんでそこまで知ってるんだよ!」 「兄様の事はなんでもお見通しです」 キッパリ。我が妹ながら恐ろしいが、怒らせなければ天使だ。 「手首を切り落として保存すればよかったじゃない」 「そんな考えに至るわけないじゃんっ! 俺死んじゃうじゃんっ!」 「え? 兄様、自分の命と私の命どっちが大事なの……?」 面食らい、続く言葉が出てこなかった。 結衣にしてみれば冗談だろうけど、そんな冗談が飛び出す事が冗談ではなかった。 「笑えない……そういう冗談は」 「兄様には失望した」 「ちょっと、ゴメンって! どこ行くの!?」 「どこにも行かないよ。今日子さんが気持よく汗を流せるように湯加減を見てくるだけ」 「真剣にご機嫌ナナメ?」 ヘタに追いかけてもさらに機嫌を損ねるだけだろう。 放っておけば、あっちからひょっこり出てきて、構って攻撃を仕掛けてくるはずだ。 「――――何事?」 下の事務所から鳴り響いてきたのは、こんな時間にあってはならないビルの解体作業みたいな轟音。 音は一度切りで止んだが、食卓の汁物は波打ってお椀からこぼれた。 物騒な世の中。用心して見に行くとする。 まぁ――おおよその予想は、ついてるけれど。 「ちょっと、ウチの事務所兼住居は現役だよ? 解体予定はないんだけど――――」 クレーム口調で事務所に降りていくと、いつもより視点が高く感じた。 「え……?」 ものの数秒で俺の身長が伸びたわけではない。 単純に床に金属的な板状のナニカが敷かれていて、それを踏んでいただけだった。 硬くて一箇所だけベコンとへこんでいるソレに見覚えはあったが、ソレを踏んでいる事実に納得ができずに視線を戻した。 「………………」 事務所の入口が開けっぴろげになっている。 そこにあるはずのモノがない事に気づいた。 だとするなら、俺が踏んでいるのは――――。 《・・・・・・・・・》〈事務所のアルミド〉アで間違いなかった。 「愉快愉快ー。“《クリアランサー》〈片付け屋〉”にケンカを売るのがどういう事か、身を持って知りたまえー」 「ドアやっつけたの!? ねぇ今やっつけたのドアだよね!? 開いたり閉まったりするだけの無機物さえ退治しちゃう姿に痺れる、憧れるーッ!!」 「めろんめろ~ん」 俺は歓喜のあまり王の凱旋を拍手喝采で迎える国民のように飛び跳ねた。 「おみごと今日子さんっ! よっ、世界一っ!! 惚れる~!」 「出迎えの言葉はおかえりなさいだろうがー、バカタレ古参アルバイタめー」 「今は仕事中じゃないんだから、優真って呼んでくれなきゃ嫌だよ社長」 「そうだったなー悪い悪いー。ゆーま、拾っておきたまめろん」 「わっかりました」 おかしな語尾を付ける(いつもこうだっけ?)今日子さんに嬉々として従い、足元のドアを壁に立て掛ける。 続いてドア枠を確認すると、見事に金具類が折れ曲がり、壁に亀裂が走り、コンクリ片がパラパラと散っていた。 「さっすが今日子さん、派手にやったなぁ。無理矢理ハメておくけど、早めに業者呼ばなきゃ不法侵入し放題だ」 手配の電話は後で掛けるとして……。 「ちなみに参考で聞きたいんだけど、ドアの野郎は今日子さんに何を仕掛けて来たの?」 「話せば長くなるが……帰り道からずっと、吸血鬼が私の周りをうろちょろしていたのだよメロン」 「えっと…………蚊?」 「うむ、そうとも言う。私も大人だ、最初は無視をしたのだが、強情な奴でなー。事務所のドアに止まって退かないのだよ」 「今日子さんの道を塞ぐなんて、命綱無しで高層ビルの窓拭きをするようなものじゃないか」 手をぷらぷらさせる今日子さん。 手の甲がほんのりと赤くなっていた。 「相手は虫だ。交渉の余地はない。この時点で私は戦いとみなしたわけだが――――戦いは常に全力でなければならない」 後はご覧の有様だった。 蚊を相手にドアをも壊す、ファニーでスパイシーな人。 《どくりつふとう》〈独立不撓〉――――社長を一言で現すならコレに尽きる。 「とりあえず、次は絶対に壊れないドアか楽ちん自動ドアにでもしようか」 「ゆーまのセンスに任せる。好きにしたまえー」 「はーい」 「ゆーまは私といるといつもニコニコだな。そんなに私が好きなのかー?」 「社訓復唱! “全ては社長の為に”!」 「やはー♪ いい言葉だなー、その心がけだぞ、ゆーまー♪」 「とりあえず上に行って、服のままシャワー浴びちゃってよ」 「私を臭い奴呼ばわりかー。4件も処理してきたというのに、まったく酷いやつだー」 死の香りは勲章だ。臭いが濃ければ濃いほど、仕事をこなした証だから。 「洗うのめんどーだなー。ゆーま、洗ってくれるかー?」 「ダメです。困らせないでください」 「ケチンボめー」 「ああ、ちょっとちょっと、そっちじゃないでしょ」 「無事だったようだなーキンコーン♪」 いつも眠っている社長机の下には小さな金庫が入っている。 事あるごとに頬ずりをしているが、現金を置いているのか、宝石が眠っているのか定かではない。 どの道、今日子さんの物に手を付けようなんて考えはないのでどうでもいいけれど。 「さっきの蚊が完全に潰れていたか確認しておきたまえー」 確認もなにも、もともと小さいんだから跡形もなくなっていると思う。 「確認する意味は?」 「わかっているだろう?」 「私が潰したんだ。私が奪ったんだ。私の意志で終わらせといて、償う気は無い――――だったら一つだろう」 「了解です」 限りある生命を摘むなら責任を持つ――――仕事柄、今日子さんが大切にするスタイルであり、俺にも色濃く根付いている。 ドアにもし蚊の残骸があったら(多分ないけど)、俺は今日子さんの飲む夕飯のスープに入れる。 “食べる為に殺す”。 それは生命を奪う上で最もシンプルな理由。 これが間違いなら、ほぼ全ての動物は設計ミスだ。 すべての命は、循環する。 「わーっ、天井すっごく高いよぉー。おっきぃおうちだねぇ♪」 「…………」 「うわぁー♪ このソファふっかふかだよぉー♪ ぼいーんぼいーん♪」 「……ちっ」 いけない。ノエルの機嫌が隠し切れないほど悪化している。 どうにかしなければ、今日の仕事に遅れることは避けられない。 「ノエル、これは違うんだ」 「出たっ! 浮気したダンナの言い訳人気ランキングナンバーワン!」 「? よくわからないが、お前の思っていることとは違う」 「ええそうでしょうね。まさか私も既に子供まで作ってるとは思いませんでしたよ。あの使えないクソ探偵、後でボコボコにしないと」 「だから違うと言っているだろう。私は浮気などしていないし、この子供は私の子供ではない」 「だったら何なんですか? えっ!? まさか……そんな!?」 「そんな?」 「この子供が浮気相手……!? 私がご主人の性癖を見誤っていたというのですか……!?」 「話を聞いてくれ」 「私のダイナマイトバディよりも、こんなツルベタ少女の方がいいだなんで……」 「あ、そうだ、手術に行こう。ご主人の理想にピッタリな身体を手に入れよう。金で」 「ノエル、落ち着いてほしい」 「ねぇねぇ、あかしくん、テレビのリモコンどこぉ? これあんまりおもしろくないんだけど」 「キミは少し黙っててくれ」 どちらも私の話をまともに聞く様子はなく、普段こうした複数人を相手に話す機会が少ない私には手が余る状況だ。 とはいえ、この少女は少々放って置いても大丈夫だろう。まずはノエルの誤解を解かなければ。 「聞いてくれノエル。この少女は私と何も関係はない。ただの他人だ」 「……本当ですか?」 「ああ、別に何かしたわけでもないし、ただの迷子だ」 「一緒におさんぽしてくりーむそーださん飲んだよ?」 「やっぱり嘘じゃないですか!?」 「頼む、キミは少し黙っていてくれ。余計に事態が悪化する」 「リモコンは?」 「その辺にあるだろうから適当に探して構わない」 「はーい♪ 宝探しだね! どこにあるのかなぁー」 「メントレに行く途中、迷子になっているあの少女に会った。それから何故か私の後を着いて来るようになった」 「用が済んで帰る前に面倒だから撒いて来たのだが、何故だかこの場所まで私を追ってきたようだ」 「私を信じてほしい」 「……わかってますよ。ご主人が私に嘘をつかないってことぐらい」 …………。 ん、そうなのだろうか? だったら浮気の件も信じてほしいのだが。 いや、今は置いておこう。目の前の事態を解決することが先決だ。 「全く、やっかいな物を持ち込んでくれましたね」 「すまない、私も万全を期したつもりだったのだが」 確かに私は少女を振り切ったはずだった。 可能性としては、別の道を通った過程で再度見つけられてしまったのかもしれない。 「で、どうするんです?」 「どうすればいいいだろうか」 「あっ! あった! リモコンあったよぉ!」 少女は私達の考えなどお構いなしに、見つけたリモコンを誇らしげに掲げていた。 「私達のことを誰かに話されたら厄介ですよ」 「そうだな」 私達が使用しているこの倉庫。もちろん所有権などなく勝手に使っているだけだ。 過去の天災によって滅んだ街とはいえ、不法に占拠していることはあまり知られたくはない。親方などの一部例外はあるのだがあくまで例外だ。 例えば役所の人間や警察などがやってくれば、面倒なことになるのは明白だ。私達には戸籍も住民票と呼ばれるものもない。 「本当にご主人とは関係ないんですね?」 「だと言っているだろう」 「だったら殺して海に沈めますか? もろもろの処理は私の方で準備しますので」 「駄目だ。もしこの少女が旧市街に入っているところを見られていたらどうなる」 「行方不明になった子供を探す親が、警察を連れてここにやってくるかもしれない。それは避けた方がいいだろう」 「だったら新市街に放置して来ますか? でもそれだとこのガキんちょまた戻って来そうですね」 「この場所を知られてしまったからな。放り出しても意味はないだろう」 「だとしたら、親元に返すしかないですねぇ。んもぅ、面倒なのは嫌なんですけど」 ノエルは基本的にあまり動きたがらない。 直接的に身体を動かすこと、何か用事を片付けるということ、その両方ともである。 後者に関しては明確なメリットがあればその限りではないのだが、この場合メリットを得るのではなくデメリットを回避することに当たる。 ノエルの顔は虚脱感に満ちていた。 「コラ、子供。私のテレビに触らないでください」 「あっ!」 ノエルは少女の手からリモコンを奪い取った。 「テレビ……見たいのにぃ」 「私の質問に答えたら貸してあげますよ。テレビが見たければ正直に答えることですね」 「しつもん? なぁに? 答えたらリモコン返してお菓子もくれる?」 「なんでお菓子もあげることになってるんですか。子供のくせにがめついったらありゃしない」 「がめー♪」 おそらく少女は“がめつい”の意味を理解していない。ただ私は教師ではないし、何より話を進めることが重要だったので何も言わない。 「まず簡単な質問からしましょうか。あなたの名前は何ですか?」 「……うーん」 「さすがにあなたが無知でバカな子供でも、自分の名前くらい言えるでしょう?」 「えとね、よくわかんない」 「自分の名を覚えていないのだろうか?」 「あのね、みつきちゃんはね、きおくそーしつだって言ってたよ」 「記憶喪失……」 記憶喪失。健忘と称される記憶障害。 原因にはいくつかのパターンがあるようだが、過去に体験した出来事やそれまで得た情報の一部を思い出せない状態のことだ。 病気の認知度に比べ、実際にその症状を発症する人間は少ないと聞いたことがある。 「あなた、誤魔化そうとしてるんじゃないでしょうね」 「……うそついてないもん……ほんとにわからないんだもん……」 「では家族のことも覚えていないということか?」 「…………」 少女は俯いて黙りこんでしまう。 突然記憶喪失だと言われても、大概の人間は信じられないだろう。荒唐無稽だ。 しかし、私には嘘ではないように思えた。 論理的な根拠はない。ただこの少女を見ているとそんな気がする。 私の人間を見る目にどれだけの信憑性があるかは疑問だが。 「頭を叩いたら思い出すかもしれませんね。昔のテレビはそうやって直したと聞きますし」 「だ、ダメだよっ! そんなことしてもきっと痛いだけだよっ!」 「物は試しと言いますからね。ダメならダメで私には何も困ることはないですからね」 「きゃぁ~! やめてぇ~!」 「ノエル、きっと頭を叩いても解決はしない。それどころか泣き叫ばれてうるさいだけだろう」 「ご主人がそういうなら」 ノエルは振り上げた拳を下ろす。 少女をかばったわけではないが、私には彼女に共感できる部分があった。 思い出せないことは誰にでもある。 「おや、あなたの頭についてるこれはなんです?」 言われて見るとそれまで気にしていなかったのだが、確かに髪飾りのような物があった。 「えへへ、これ? かわいいでしょ?」 「向日葵、ですか……妙な巡り合わせですね」 「そうだな」 その髪飾りのモチーフになっている花を、私は育てている。 倉庫の隅にある向日葵は少女のとは違い、まだ花を咲かせてはいないが。 「じゃ、あなたの名前は今からひまわりです。バカっぽくて能天気そうなところがそっくりですし」 「ひまわり……?」 「名前がないと不便でしょう。他に候補が欲しいなら出しましょうか? そうですね、うざい子供だからうざ子とかどうです?」 「人間の名前としては変ではないか?」 「んー、じゃあ蝿とかどうです? ピッタリでしょう?」 「お前は蝿と名乗る人間にあったことがあるのだろうか?」 「いいよ」 「何? 本当に蝿でいいのだろうか?」 「ちっがうよ~! ひまわりだよっ! ひ・ま・わ・り!」 「何だそっちか、残念です」 「ひまわりは、今日からひまわりですっ! あかしくん、呼んで?」 「何故だ?」 「いいから!」 「……ひまわり」 「はいっ! 何ですかあかしくん!」 「いや、呼べと言われたから呼んだだけなのだが」 「……なんかそれズルいですね。ご主人、私のことも呼んで下さい」 「お前までどうしたんだ」 「いいですから。優しく、精一杯の愛を込めて呼んで下さい」 愛を込めてと言われても、どうすれば良いのかわからないのだが……。 「……の」 「のえるちゃん!!」 「どうしてあなたがしゃしゃり出てくるんですか!」 「えへへ♪ あかしくん、のえるちゃん、ひまわり!」 「……はぁ、もういいです。なんかすごい疲れました。相手する方が馬鹿だと気づきました」 ノエルは疲れた様子でソファに座る。 「こんな子供に何かできる力はないでしょうし、とりあえずは様子を見ることにしますか」 「お前がそれでいいのなら」 「良くはないですけど。私とご主人の愛の巣に他人を置きたくはないですし」 「あいのす? なんかおいしそうな名前だねぇ♪」 「アイスとは何の関係もないですよ」 「なんだぁ、期待して損しちゃった」 「あっ」 唸るような低い音が倉庫内に響き渡る。 「えへへ……」 ひまわりは申し訳なさそうにはにかんでいた。 「ったく、子供のくせにいっちょ前にお腹だけは空くんですね」 「……パン二つにクリームソーダでは足りていないのだろうか」 「えっへん!」 「褒めてはいない」 とはいえ壁に掛かっている時計を確認すると、そろそろ頃合いだった。 「親方はもう来ている頃だ」 「そうですね、そろそろ行きますか」 「どこ行くのー?」 「ついてくればわかる」 食物摂取による栄養補給の時間だ。 放棄されて使われなくなった廃駅周辺では、当然のことながら照明設備なども機能していない。 それは旧市街全体に言えることで、夜になると街全体から光が消え闇に染まる。 私達の倉庫は自家発電設備を持ち込んでいるため生活に不自由はないのだけれど。 「おう、来たか」 暗闇の中でお互いの顔が識別できるのは、親方の屋台が光を発しているおかげだった。 「こんばんわ。今日もいつものを頼みたい」 「もう煮えてるぜ。丁度食べ頃だ」 「さすが親方、私達が来る時間に合わせてくれたんですね」 「そんな甲斐性がもっと早く身についていれば奥さんに逃げられる事もなかったでしょうに」 「うるせー! 恵子のことは口にするな! 悲しくなるだろうが!」 「およよ? いいにおいがするよー?」 「おぉ? そっちの嬢ちゃんは見ねぇ顔だな? おめぇさんらのガキか?」 「ええそうなんです。実はこの度、私とご主人の愛が形となって新しい命を授かりまして」 「そうではない。迷子の子供だ。訳あって一時的に預っている」 「ぶーっ、ご主人否定するの早すぎですよー」 「そりゃそうだよな。昨日今日生まれたにしちゃでかすぎるわな」 「そもそも私とご主人の子供がこんなアホ面した能天気なわけないでしょう」 「アホだぞぅー♪」 「ガハハ、俺にはお似合いの家族に見えるけどな」 「家族などではない。もしかしたら数日間、この人間も親方の世話になるかもしれない」 「おおそうか。それじゃ明日からはもう少し多めに仕入れといてやる」 「助かる」 目の前で沸き立つおでんの具を、親方から受け取った皿に運ぶ。 「ねぇねぇ、ひまわりも食べていいの!?」 「駄目だと言ったら大人しくしてるんですか?」 「やだやだやだ! ひまわりおでん食べる!」 「お金はあるんですか?」 「お金は……ないけど」 「物を買うにはお金が必要なんですよ? そんなことも親に習わなかったんですか?」 「うぅ……のえるちゃんのいじわる」 「私は社会の厳しさを教えているだけです」 「ノエル、そのくらいにしておいた方がいい。子供というのは泣き出すとやっかいな生き物だ」 「ご主人がそう言うなら」 「ひまわり」 「ふえ?」 「好きな物を取って食べても構わない。代金は私達の分と一緒に払う」 「ほんとっ!? やったったー♪ ひまわりおでん食べるー♪」 「おう、食え食え。熱いから気をつけろよ」 正直昼間体験したやっかいな出来事に比べれば、僅かな金銭の負担など些細なものである。 「たまごさん、こんにゃくさん、ちくわさん、どれにしようかなぁ~♪」 ひまわりは穴の空いた調理器具おたまを手に取り具材を選ぼうとするが―― 「ひゃあっ――!?」 前触れ無く鳴り響いた甲高い声に驚いておたまを落としてしまった。 「なんかいるよ!? ねぇ、なんかいるよ!?」 「何かではない。恵子だ」 「けいこ?」 自身の存在を主張するかのようにもう一度声を鳴らす。屋台の影から漆黒の羽を持った恵子が現れた。 「ひゃあぁぁぁ――!? と、鳥だよ!」 「ただのカラスじゃないですか。何をそんなにびびってるんです」 「鳥は鳥だよ……!! あかしくん、どっかつれてってぇ……!」 「怯える必要はない。恵子は無闇に危害を加えたりしない」 私はひまわりの怯えた様子を見て、ある疑問が湧き上がった。 「そういえばひまわり、ひとつ聞きたいことがあるのだがいいだろうか?」 「ふえ、なぁに?」 「ステーキなどの肉料理に使われている動物は何か知っているか?」 「牛さん」 「刺身などに使用される海を泳いでいるものは?」 「お魚さん♪」 「ではこれは?」 「鳥」 指さした恵子の話題になると、途端にひまわりの口調が堅くなった。 「どうして鳥だけ“さん”付けじゃないんですか?」 「鳥は鳥だからです」 ひまわりの口調から、鳥に対しての好意的な感情は読み取れない。 「もしかして、嫌いなものには敬称がつかないのではないだろうか」 「はぁ、なるほど。でもそれに何の意味が?」 「それは私にもわからない。どうしてなんだ?」 「鳥はびゅーって飛んできてバババってしながらツンツンするから嫌い!」 「牛は?」 「おいしいから好き♪」 「魚は?」 「お魚さんもおいしいから好き♪」 「じゃあこれは?」 「鳥っ!!」 なるほど。やはり推論は正しかったようだ。 「ひまわりは鳥に襲われたことがあるのだろうか?」 「うぅ……思い出したら怖くなっちゃった。あかしくん、なんとかしてぇ」 「キミを襲った鳥が特別なのかはわからないが、先ほども言ったように恵子は《・・・・・》〈生きた人間〉を襲ったりはしない」 「……ほんと?」 「ああ。それに食用という点に関しても、余計な脂肪が少なく栄養価も高い優秀な食物だ」 「おい、恵子は食い物じゃねぇぞ」 「そりゃ、俺と恵子が一緒に住んでた頃は甘~い生活だったけどな」 「そんなこと誰も聞いてませんよ」 恵子、という名は現在でこそ親方の飼うカラスにつけられているが、元は別れた婦人の名前だったらしい。 「おう嬢ちゃん、他の鳥が何したか知らねぇけどよ、恵子は嬢ちゃんを襲ったりしねぇから安心しな」 「うぅ……でもぉ」 「きゃあっ!」 「恵子も安心しろと言っている。餌をくれたら仲良くしてやると」 「ガハハ、本当にそう思ってるかは別としても、餌をくれた人間なら恵子も悪いようにゃしねぇだろうよ」 「……わかった。やってみる」 ひまわりは小分けにしたコンニャクの一切れを手のひらに乗せて、おずおずと恵子に差し出す。 恵子は小さく飛び、ひまわりに接近する。そして―― 「あ、たべたよ!? ひまわりがあげたコンニャクさんたべたよ!」 「これで嬢ちゃんと恵子は友達だ。もう怖がるこたぁねぇだろ?」 「うん! ひまわりとけいこちゃんは友達! えへへ♪」 ひまわりは警戒心がなくなったのか、恵子の背中を優しく撫でる。恵子も嫌がる様子はなく大人しくしていた。 「えへへ、けいこちゃんのお肌つるつるだねぇ」 「ひまわり、遊ぶのは構わないが、早く食べないとなくなってしまう」 「えっ!? なんでひまわりのお皿にあったこんにゃくさんがなくなってるの!?」 「もぐもぐ……さあ、恵子が食べちゃったんじゃないですか?」 「ノエルちゃんのお口にあるものなんだろな!」 「いいからさっさと食べなさい。あなたのために残しておくほど、私達は甘くないですよ」 「そうだな。定期的な栄養補給は生存する上で極めて重要だ」 「まってまって~! ひまわりも食べるぅ~!!」 静けさに満ちた夜の下に、不釣り合いな声が響き渡る。 普段とは違う夕食の雰囲気に違和感を覚えながらも、きっと人間の食事とはこのようなものなのだろうと想像して悪くはないと思った。 「ングッ……ングッ……ングッ……ングッ……」 「ングッ……ングッ…………っは~~~~。生き返った~♪」 食器の片付けを始めていると、今日子さんがブリキのバケツに並々注がれた水をうまそうに飲んでいた。 「夏の水分補給とはいえ、8リットルはやりすぎじゃない?」 「水は大事だぞー。それに満腹だー。ゆーまの炊く米はベチャベチャのおかゆみたいで美味だからなー」 「お粗末様です」 「ゆーまも、ヘンチクリンなパンばかりじゃなく、バランス良く食べないと倒れるぞー」 それができれば苦労はしないんだな、これが。 「さーて、こいつもやっつけるぞー」 「キャーーー、今日子さん素敵ーーー!」 「ングッ……く~……ビールも水もどっちもうまいなー」 「たった4%程度のアルコールで今日子さんは倒せない!」 「ところで仕事の話を食卓に持ち込んで悪いのだが……」 「あ、はい」 「給料を入れておいたから暇な時に確認しておきたまえー♪」 「やった! 仕事の話っていうか、嬉しい話だ」 “単純に、金ががっぽがっぽだからやってるってだけ” なるにそう言ったのは、全然うそじゃない。心からの本音だ。 「こっちこそ感謝しているぞ、ゆーま。いつもどおり、保険と税を引いた額から90%頂いておいたからなー」 「俺の借金どのくらい減った?」 「数えてないからよくわからない。細かいことはいいから、一生、私の為に働きたまえよ。めろんめろん」 「頑張って働き蟻の人生をまっとうさせて頂きます」 つらい仕事は往々にして割がいい。 俺が働けば働くほど“百合かもめ”が儲かる。 すると、今日子さんの懐が温まって微笑んでくれる。 この連鎖の為に。 全ては社長の為に。 俺は働きたくて働きたくて、ラララ月曜日なわけだ。 「ゆーまの汗水垂らした働いた金で“きゃんきゃん学園”でみーこちゃんとくんずほぐれつの背徳感……」 「なんか言った?」 「にゃーんも?」 「そっか……あむっ……むぐむぐ……」 「まだ食べるのか? こんなに買い込んで。アイドル信者の気持ちは理解できないなー」 Re:non印の“燃える蜂蜜揚げパン(激甘)”はお茶の間のお供。 常に『ご自由にどうぞ』と山盛りになっている。 妹様はコレについてくる生電話キャンペーンの応募シールだけが欲しいだけで、すでに当選して権利を得ているのでパン自体に興味はない。 よって俺が処理役というわけ。 「さて、後片付けはすべて任せたぞー」 「もっふん」 「そうだったそうだった」 思い出したことがあって、ソファにダイビングした今日子さんのお尻に話しかける。 「今日はめちゃくちゃ可愛い子に会ったんだよ。菜々実なるっていうんだ」 ソファに顔を沈めたままの今日子さんだが、脚がピクりと動いたので聞いているようだ。 「そーなのかー。写真の一つもなしかー?」 「色々と話して、飯を一緒して、盟友になって、ああ、あと……」 「おしゃぶりしてもらった」 「ブーーーーーーーーーーッッ!!」 「社長ッ!? 鼻血が致死量なくらい出てるよっ!!! タオルタオルッ」 「わ、私のことはいい。それより質問をしたいのだがいいか……?」 「どんとこい」 「お、お、おしゃぶりとはなんだね、オフフフ……フフフフフ」 「オフフフフフフフフフ!!」 謎の笑い声がリビングを支配するなんて事も、水瀬家にとっては日常茶飯事。 「ゴホン。時に優真」 仕事中かってくらいの真顔。 「何でもない言葉に“お”を付けると妙にエロさが増すのは何故だろう?」 「“しゃぶる”ならまぁいい。百歩譲っていいとしよう」 「だが“おしゃぶり”と言ってしまったらもう、期待せずにはいられないじゃないか」 「……饅頭に“お”を付けて、お饅頭…………とか」 「πrならオッパイアル。オッパイアル二乗。ほれみたまえ、数学者でさえ“お”の卑猥さにはほとほと困っているのだよ」 「サッカーの《オウンゴール》〈自殺点〉だって、“お”を増やしたら……」 「おぉぉおおおおおおんご~るぅぅぅぅっ♪♪♪」 「レッドカード!」 「恐ろしい。“お”は恐ろしいものなのだよ……」 「そうだね。“お”はちょっと厄介なシロモノだとわかったよ」 「ゴホン。話を戻そう。私は決してシモネタが言いたいわけではないのだ。私はただ、ときめいているのだよ」 「一体全体、ゆーまがなにをおしゃぶりされたのか……!」 「えっと……」 ぶっちゃければ占いの一環で“指”を咥えてもらっただけなんだけど。 指ってそのまま伝えたら、目を血走らせた鼻息ムフンな今日子さんの妄想をぶち壊しな気がする。 「おしゃぶり頂いたのは……俺の……身体についてる……」 「ついてる……?」 「く、咥えやすい細長い棒!」 「クワエヤスイホソナガイボウ!」 「クワエヤスイホソナガイボウクワエヤスイホソナガイボウクワエヤスイホソナガイボウ」 ちょっと心配になるくらい棒読みで、目は焦点が合っていなかったりして……。 「だ、大丈夫……?」 「オフフフフフ、オフフフフフ。メロンメローン」 壊れた笑みを浮かべたまま降りていってしまった。 恐らくだけど、繁華街かどこかの夜遊びできそうな店に繰り出していったのだろう。 「今日子さん、こういう話ホント好きだよなぁ……」 喜んでもらえるから、無理にでもセクハラして土産話を仕入れる癖が俺にもついたんだけど……。 「クワエヤスイホソナガイボウってなんなのだーーー!!」 “全ては社長の為に”も度を越すとアレだよな――――って、うわ! 「外で大声出したら迷惑だってメールしなきゃ」 まったくもう……。 「………………」 「……めろん、めろーん」 もちろん、言ってみたかっただけ。 食卓を片付けて部屋にもどろう。 「やっぱスタイルいいよなーRe:non様。食い込んだ水着を直す仕草、グッドです」 「うお。何に怒ってんだろってくらい睨んでる一枚。パジャマでギロリってどんなシチュ? コレは魅入るな……」 「………………」 「うーーーん……グラビア写真って下着みたいなデザインの水着ばっかりだけど、こういうのって普通に売ってるのかな……?」 「おっ……おぉっ……? 見えない……角度をつけてもダメか。絶対領域ってやつか。くっそくっそ」 「写真集を傾けるアソビ?」 「うはっ、親しき中にもノックありだろ」 「心の扉にノックしたよ」 「なるほど、そう来たか……」 俺は寝転がって読んでいた写真集を閉じ、ベッドの隣をぽんと叩く。 可愛い侵入者は気分が良さそうに隣に座った。 「聴こえなくなるほど何に集中してたのかな?」 「Re:non様が夢に出てきていい事できるように、明晰夢のトレーニングしてただけ」 「妄想ばっかり。妄想マン」 「結衣にそれを言われると言い返せないなぁ」 「ねぇ兄様、眠くなるまで何かゲームでもしない?」 控えめな態度だった。 俺にそのつもりはないけど、周りはみんな“働き過ぎ”という。 睡眠時間はきっちり3時間取ってるし、問題はないのに。 「妹様の頼みは断れないな、何しよっか? しりとりとか?」 「しりとり。うん。じゃあ……電気消そうか?」 「ああ、そうね。そうしよっか」 ……ん? 「いやいやいや、一緒に寝るとは言ってないぞっ! 消しちゃったけど!」 「兄様……」 頼りなくすがるような声だった。 「私の頼みは断れないって、今言ったばっかりだよね?」 意外なほど卑怯な手段を抵抗なく使う結衣に俺は戸惑った。 「さって。もういい時間だし、ヒットポイント回復するよー。おやすみっ!」 タオルケットをかぶり、枕に顔を埋める。 「急にどうしちゃったの?」 天使のような結衣の声が降り注ぐ。 「部屋にもどりなよ」 「流されやすい年頃の癖に……」 「………………」 枕に押し付けた鼻で呼吸する。 「もしかして私、兄様を困らせてる?」 「いや……俺が俺を困らせてるだけだよ。結衣は何も悪くない」 「俺がよわっちぃ奴ってだけだ……」 「兄様」 「うん」 「明日も晴れだよ」 「ありがと」 結衣がいなくなったのを空気で感じ、胸に溜め込んでいた空気を一気に吐き出す。 枕に顔を3つ数えたら、意識はゆっくりと霧のように散っていった。 食事を終え、倉庫に戻って時間を確認する。 「そろそろか」 時計の針は丁度22時を指したところだった。 「そろそろってなにが?」 「仕事に行く時間だ」 「およよ? 今からおしごと? お外もう真っ暗だよ」 「日が落ちてからでないと成り立たない仕事なんだ」 必要な道具の入ったトランクを右手に持つ。 「ではノエル、留守を頼む」 「お気をつけて。くれぐれも変な気は起こさないようにしてくださいね」 言わずもがな、私にその気はない。 「行ってくる」 「まってまって! ひまわりも行くっ!」 「何故だ?」 「たのしそーだから♪」 「仕事だと言ったはずだ。手間を増やされては困る。私だけの問題ではないのだ」 人間社会においては業務に私情を挟むことは良しとされていない。社会の輪に溶け込むためにも、私にはそれを徹底する義務がある。 「いいじゃないですか。今日の仕事は誰かに迷惑かけるようなものでもないんでしょう?」 ノエルの言った通り、私が受け持った業務内容はある程度自由度のある単独作業だ。 「しかし」 「もちろん遊びに行くわけじゃないんですから、ひまわりにも手伝わせたらいいんですよ。荷物持ちくらいできるでしょう」 「できるできる♪ ひまわり荷物持つ~♪」 「だそうです。連れて行ってあげたらどうです?」 「お前がそう言うのなら」 「やったー♪ じゃああかしくん、はやくいこっ♪」 ひまわりは私から機材の入ったトランクを奪い、駆け足で出口に向かう。 「お、おもい……」 「大丈夫だろうか?」 「だ、だいじょうぶだもん。ひまわりこう見えても力持ちだもんっ」 限界まで両腕を伸ばし四苦八苦している様子を見れば、その言葉が強がりであることは疑いようもなかった。 だが本人がその気でいるうちは尊重しておけばいい。 「では行ってくる」 「いってらっしゃい」 「ひとつ気になったのだが、やけにひまわりの肩を持つのだな」 ノエルがひまわりのことを気に入ったのか。意外ではあったのが、そうだとしたらしばらくひまわりをここに置いておくこともやぶさかではない。そう思ったのだが―― 「だってあのうるさいのと二人きりじゃ落ち着いてテレビも見れそうにないですから。ご主人が引き受けてくれてほっとしました」 「なるほど」 可及的速やかに、ひまわりの処遇を考える必要がありそうだ。 「んーしょ、んーしょ」 「代わろうか」 「だいじょうぶですっ、おきになさらずっ!」 旧市街を出て、未だ賑わいの残る駅前を通過する。 ひまわりは途中何度か休んだが、ここまで自らの決意を裏切りはしなかった。 だがそれも限界は近い。あらゆる意味で、だ。 「このままのペースでは仕事の時間に遅れてしまう。体力的にも限界だろう。それに――」 駅前の歩道にいる私達に刺さるいくつかの視線。 「注目を集める行動はノエルに禁止されている」 大の男が手ぶらで悠々と歩き、その後ろを年端のいかない少女が重そうな荷物を持って歩いている。 その光景は社会の倫理観に照らし合わせた際、あまり常識的な行動とは言えないようだ。 「はぁはぁ……あかしくんがどうしても持ちたいっていうならいいよ」 ひまわりがどこか強気である理由は検討がつかなかったが、私はその疑問は伏せたままにした。 「ああ、もし良かったら私に任せてくれないか」 「しょうがない、そこまでいうならいいでしょう。うん、しょっ!」 ひまわりは最後の力を振り絞るかのようにして、トランクを私の胸あたりまで掲げた。 「ありがとう、助かった」 相変わらず私達のやり取りを遠巻きに見ている者はいたが、これ以上訝しがることはないだろう。 「では行こう。あまり長居をしている余裕はない」 「あかしくんあかしくん」 先を急ごうとする私の上着が後ろから引っ張られる。 「どうした」 「あのね、喉が乾きました」 「…………」 ひまわりの首が左に曲がる。視線の先には大きなMGのロゴが入った自動販売機が設置されていた。 「……好きなものを買えばいい」 財布から硬貨を数枚取り出す。 「ありがとーっ♪」 ひまわりは受け取った硬貨を握りしめ、自販機に向かって走って行った。 置き去りにするわけにもいかず、しばし訪れた一人の時間を使って思案する。 そういえばひまわりはこの場所で誰かとはぐれてしまったと言っていた。 ここで待っていれば、いずれその者との合流もできるのではないだろうか。 今まさにひまわりの元へその者が駆け寄っても不思議ではない。そうなれば私の役目は終わり、互いにとって最良の結果になるのだが。 今のところ、それらしき人物は見当たらない。あれから時間も経ち過ぎている。 明日、ひまわりを連れてこの場所を訪れた方が可能性は高いかもしれない。 「おまたせしましたーっ♪」 「それほど待ってはいない」 ひまわりは緑色の缶を大事そうに抱えて戻ってくる。 メロンソーダだった。昼間メントレで飲んだことで気に入ったのだろうか。 「いただきまーすっ♪」 炭酸飲料の入った缶を両手で口に運ぶ。 「ぷはぁ! しごとの後はやっぱこれだねぇ! おつかれちゃん!」 「私の仕事は始まってもいない」 「細かいことは気にしちゃダメだよ。はい、あかしくんもどうぞ」 飲みかけの缶ジュースを差し出される。 「いや、私はいらない。現時点では摂取する必要はないのだ」 「必要とかじゃなくて、ジュースはいつでも飲みたいものだよ?」 「キミはそうなのかもしれないが私は違う」 「およよ?? よくわかんないけどあかしくんのお金で買ったんだからひまわりが全部飲んじゃダメなんだよ。はい」 「……わかった」 炭酸飲料の入った缶をひまわりから受け取る。 この少女にいくら論理的に説明をしても効果はない。だったら許容できる範囲ならば素直に従う方が無難だ。 「そういえば、キミが迷子になる前に一緒にいた人間の名はなんだったか」 「みつきちゃんのこと?」 「ああ、どうにかしてその人間と連絡を取る手段はないだろうか?」 「う~ん」 「連絡先の住所や電話番号など、何でもいい」 「う~ん、わかんない」 「あ、でもみつきちゃんのおうちは行ったことあるよ」 「その家はどこにある?」 「えーとね、あっち……いや、あっちだったかも。いやいや、やっぱりあっち……じゃないかも」 「結局どっちなのだ」 「わかんない。わすれちゃった」 あまり期待はしていなかったが、手がかりは得られなかった。 まあいい、ひまわりの身柄に関しては明日以降に対処すればいい。 今は目の前の仕事に早く取り掛からなければ。 「ん……」 私はひまわりから受け取った炭酸飲料を一気に飲み干す。 独特の刺激が喉を通過する。ノエルが用意する栄養ドリンクと似ていた。 「さあ行こう。話はここまでだ」 「あ、あかしくんのばかぁ!!」 「どうした?」 「ひまわりのめろんそーださん、どーしてぜんぶ飲んじゃったの!?」 「キミが飲めと言ったから」 「おすそわけだよぉ! ひまわりまだちょっとしか飲んでなかったのにぃ!」 「…………」 ならば最初にそう言ってほしいのだが。 曖昧な基準が相手にも共有できていると考えるのは人間の悪い癖だ。 「あかしくんのばかばかぁ、あんぽんたんっ!」 力のない殴打が私を襲う。 私は黙って財布の中にある硬貨を探した。 街外れにある山の頂きを登り、周囲に並び立つ物のない開けた場所で足を止める。 空との距離は縮まり、吸い込まれそうな夜空が私達の頭上に広がっていた。 「ふあぁ~、キレイなお星さまだねぇ」 「綺麗という価値観は私にはよくわからない。しかし壮観な景色であることには同意できる」 遮る物もない覆い尽くさんばかりの星々は、気が遠くなるほど離れたからこの星に住む人間に影響を与えている。 己の力が到底及ばない物に対して抱く畏怖と尊敬の念は、人間関係に限った話に留まるものではないと、この空は訴えているようだ。 「では仕事を始めるとしよう」 持ち運んだトランクを開け、中からいくつかの機材を取り出す。 「うわぁ、あかしくんのカメラおっきぃねぇ」 「私の所有物ではない。業務を委託した会社の備品だ」 「いまからそのカメラでおしごとするの? あかしくんは写真を取るおしごとの人なの?」 「写真ではなく映像だ。それに私もこの仕事を長く続けているわけではない」 数日前に親方から紹介される形で今の仕事を始めた。 「私の仕事は、強いて言うなら親方から紹介された仕事をする仕事、だ」 以前働いていた警備会社も元々一定期間の契約だった。満了による退職を経た後、この仕事を始めることになった。 様々な業種を体験できることは私にとって人間社会を知るという点において非常に有益だった。 「私は色々な仕事を請け負っている。だから今の業務もそう長く続けるわけではない」 「へぇ~、たくさんおしごとしてえらいねぇ」 「偉くなどない。どちらかと言えば定職に就いている方が社会的には偉いのだろう。安定した生活を人間は好む傾向にあるようだから」 私としては今の生活が身に合っている。 あまり長期間同じ人間たちと顔を合わせているのは面白味に欠けるし、私の言動や挙動を訝しむ人間も少なくはない。 こちらとしては状況に応じて最善の選択を取っているつもりでも、人間の目から見れば怪しく見えてしまう、というのがこれまでの経験則から導き出されている。 稀に私のような者を好意的に扱う者もいるのだが、今度はまた別の問題が発生する。 兎が私の前に現れることになるのだ―― 「ねぇねぇ、このカメラで何を撮るの?」 地面に置いてカメラのスイッチを入れる。 「あそこだ」 疑問に答えるべく私は空を仰いだ。 「お星さま?」 「違う。映像には映り込むが目的の対象物は別にある」 とはいえ業務の性質上、確実に成果が上げられるわけではないのだが。 私もまだ一度しか見たことがなく、頻度的に一週間に二、三回だと聞かされている。 しかし出現する時には連続して見えることもあるらしい。 「お星さまじゃなかったらなぁに? 他にはなんっにも――」 ひまわりの焦れた声が途中で止まる。 今日は喜ぶべきか“見える”日らしい。 私は地面に設置したカメラが起動しているのを確認し、ひまわりと共に夜空を見上げた。 「ふあぁぁっ! なんかキラキラしたのが出てきたよ!」 「あれはオーロラと呼ばれる現象だそうだ。キミは始めて見るのか」 「うん! あんなキレイなの見たことないよ! うわ~、すっご~い♪」 ひまわりは空に向かって手を伸ばし、どうにかしてオーロラを掴もうと必死だった。 「それは無理だ。天体に比べればここからの距離は近いらしいが、それでもアレを掴むにはキミの身長では足りない」 「じゃあもっとおっきくなったら届くかな♪」 「さあ。少なくとも私よりも高くならなければならないことは確かだ」 私は現在の時間を確認し、専用の用紙に日付と時間を記入する。 私の仕事はここから見えるオーロラの定点観測をすることであり、オーロラ出現時間の記入は業務内容でも重要な手順だと言われている。 オーロラとは天体の地場や大気の状態などが一定の条件を満たした場合に発生するらしい。 この現象は昔からこの星で確認されていたが、観測できる地域は極一部に限られていた。 平たく言えば本来この街では見れる物ではなかったようだ。 オーロラの観測が仕事として成りなっているのも、これまで考えられていた条件から外れているから、と親方は話していた。 「この世界は近代歴史の中で大きく破壊された。このオーロラもそれの副産物らしい」 「こわれちゃったの?」 「私が調べた書籍にはそう書いてあった。人間が自らの手で世界を住みにくい星にしたと」 今から遡ること数十年前、この星の主要な国家間の間で戦争が起きた。 人間の歴史上戦争自体はそう珍しい物でもない。幾度となく繰り返されてきた言わば恒例行事である。 しかし科学の発達した近代社会において戦争の質は劇的に向上しており、やがて種の存亡を自ら脅かすレベルにまで達した。 大地は荒廃し、海は汚れ、多くの人間が命を落とした。 残った者たちは過去の先人たちがそうしたように己の行為を悔やみ再興に向けて歩き出す。 しかし戦争による環境への影響は想像よりも大きく、地殻の変動などが相次いだ。 人間の生活できる場所は次第に減っていった。まるで星が人間という存在を追い出そうとするかのように。 「向こうに海が見えるだろう。あそこは元々この国の首都だったらしい」 「しゅと?」 「国というカテゴリーの中で最も栄えている都市という意味だ」 しかし地殻変動の影響で海面の水位が上昇し、やがて今のように海に飲み込まれてしまった。 「人間は何故、自ら面倒なことをしたがるのか、私が理解できない謎の一つだ」 生きるということ。 形は違えど誰しもが生を追い求め、結果死に向かう。何とも皮肉な二律背反だ。 「人間は何を目的にして生きているのだろうか」 「およよ? あかしくんはむずかしいことをいうねぇ。ひまわりにはよくわかんないや」 「ひまわりは何故生きている」 「ふえ? そんなこと言われても、毎日ごはん食べていっぱい寝てたら病気にならないよ?」 「そうだ。大抵の人間は何故自分が生きているのか、その理由を知らない」 死に対する恐れ。今まで無意識の内にこなしてきた“生きる”という行為に対して、全ての人間にとって一度限りの“死”は畏怖の対象である。 死を恐れるから生きる。単純だが理に適った衝動だ。 では私は――死に対する恐れは、あまり感じない。 では何故生きるのか――やらなければならないことがあるから。 「…………」 「あかしくんどーしたの? かおがこわいよ? もしかしておなかいたくなっちゃった?」 「そうではない。ただ少しだけ、昔のことを思い出しただけだ」 私が生きる理由、それは―― 記憶の片隅で揺らめく業火が、今もこの身を焦がすから―― 静まり返った倉庫内。 日付が変わってしばらく経った今では旧市街を通る電車の音も響かない。 ひまわりは二階のロフトに設置しているベッドでノエルと共に寝ている。 元々第三者の訪問を想定していなかったため、寝床となる場所はベッドか私の使っているソファくらいしかない。 オーロラの定点観測から戻ってしばらくはひまわりの声が響いていたのだが、寝静まった今では物音一つ聞こえてこない。 私はようやく訪れた静寂な時間を堪能していた。 「…………」 明日、すなわち今日の予定を思い返すと共に、ひまわりの処遇に関して思いを巡らせる。 オーロラ観測の業務は二日後であり、特にやるべきこともなかったはずである。 「いや、マスターから譲り受けた薬を試さなければ」 できればすぐにでも使ってみたかったのだが、色々と立てこんでしまいすっかり失念していた。 とはいえ薬を使うのなら邪魔されない環境が望ましい。その方が集中できる。 まずは迷子の少女をどうにかした方が良いだろう。 「っ…………」 体勢を変え、天井を見上げる格好になる。 しかしすぐに瞼を閉じると視界は闇に閉ざされた。 眠ろう。睡眠は人間と同じように私にも必要なことだ。 目覚めた後にやるべきことを反復し、私は考えることを止めた。 「…………」 私が意識を手放そうと決めた瞬間、倉庫内を移動する気配を感じた。 その気配の主は息を殺してゆっくりと、しかし確実に私の方へと向かって来ているのがわかる。 さてどうするべきか。このまま眠ることは難しいだろう。ならばソファから立ち上がるべきか。 私の出した結論は、余計な抵抗はせずに身を任せることだった。 「私の好きな人はご主人です」 声の主は私のすぐ近くまで歩み寄り、耳元で小さく呟いた。 「何か用なのだろうか?」 ノエルは私が上半身を起こすと、大げさに驚いたような素振りを見せた。 「え、起きてたんですか? やだ、寝てると思ったのに。寝てると思ったから勇気出して好きな人言っちゃったのに」 失言をしたにしては、その表情は浮かれていた。 「もうこうなったら責任取って下さい。私も言ったんだからご主人も私のこと好きって言って下さい」 ノエルは悪戯な笑みを浮かべて首を傾ける。 「明日も学園に行くのではないのだろうか?」 私と違い、ノエルは新市街にある学園に通っている。 明日もまた、決まった時間に登校しなければならないはずだ。 「別に大丈夫ですよ。眠る時間よりも、ご主人との時間が大事ですから」 「それにこの“処置”は私の役目です。ご主人が人間を襲ってしまわないための大事な大事な、ね」 細く冷たいノエルの指が私の胸を這う。 「私は人間を襲ったりはしない」 「罪を犯す前に布告するのは爆弾魔くらいですよっと」 私の言い分を一蹴したノエルはそのまま私の上に跨った。 「これは必要な“処置”なんですから。ご主人が他の人間に欲情しないための、ね」 反論しようとした唇をノエルの指が阻んだ。 「勘違いしないでくださいね。私がしたいわけじゃなくて、ご主人のために仕方なくやってるんですから」 「そうか」 どちらでも構わない。ノエルが満足するのなら、それで問題はない。 「うふふ……ご主人のここ、もう血が集まってきてますね……このままでは明日には、確実に本当に間違いを起こすところでしたよ」 「私達に繁殖機能は備わっていないが、人体を模している以上、女性を身近に感じることで男性器は膨張する」 つまり私はこの上なく正常であるが、無理にそう仕向けているノエルは正常とは言い難い。 「いつも言っているように、性的な欲求は充分に満たしておかないと、精神に甚大なストレスを与えることになるんです」 「わかっている。ノエルが私の男性器を欲しているのが、その証拠だろう」 「ご主人。コレはご主人の為であって、私は付き合ってあげているだけです」 「先日、私の園芸グッズを女性器に宛てがい、激しく腰を動かしていたようだが――」 「忘れてください」 「ノエル、あれは一体何をしていたのだ? 園芸グッズは園芸にのみ――」 「忘れさせてあげましょうか?」 私はノエルに弱い。甘いのではなく、弱い。 「……ノエルの好きにすればいいが、あまり綺麗なものではない」 「あれはご主人を煩悩から開放するトレーニングです。忘れてください。私は自分の為ではなく、全てご主人の為にしているのですから」 「性乱れるのはノエルの自由だ。使用許可は求めないが、消毒してから使ったほうがいい。これは忠告だ」 「聞き分けの無いご主人ですね」 「――――ッ」 私は急所に感じたサテングローブの肌触りに思わず身震いをした。 ノエルに全面的な信頼を置いているとはいえ、さらりとした感触からは温度が感じ取れず、ノエルの真意が伝わってこないからだ。 「私の手のひらがこの玉袋を握りつぶすのも、優しく丁寧に転がすのも、気分次第ということをお忘れずに」 潰されてしまうことでノエルにこういった事を強要される機会がなくなるのであれば、それもいいかもしれない。 しかしノエルは私との性交渉に少なからず喜びを覚え、機嫌は朝食のメニュー変更という目に見えた形で行われる。 日々が円滑になるコミュニケーションは、多少の時間を割いて余りあるメリットをもたらす。 「ご主人……うふふ……こんなにパンパンに張った重たいたまたまをぶら下げて……」 「私が絞り出さないといけないえっちな液体が、いっぱい詰まってますよ……」 「ほら……ご主人のおち○ちんも、私とえっちしたいっておつゆを出してます……いつもより出てますね……手袋が濡れちゃいましたよ」 ノエルの手に掛かれば私の男性器は容易く高められる。それこそ先端からカウパー液を噴き出すほどに。 「最初から素直に性処理をして欲しいと頼めばいいんですよ……悪いようにはしないんですから……」 大股を開いたノエルは露出させた下腹部を男性器に押し付け、魅せつけるように腰を揺らしてきた。 「心配はいりませんよ……私の身体はいつ何時、ご主人が性に溺れてもいいように、受け入れる体勢ができているんです」 「ご主人のおち○ぽを慰めるのも、私の務めですからね……」 くちゅ、くちゅ、ぬちゅ、くちゅぅ……。 いつもの営み。 散々聞いた水音。 ノエルの膣はいつも濡れている。 私生活で確認する事はないが、曝け出した時はほどほどに具合良く仕上がっているのだから大したものだ。 「んっ……んふっ……やっ……これだけで……きもち……あっ……」 ゆるんだ口元からこぼれる抑え気味の喘ぎ声も、散々聞いた。 「や……おま○こ……こしゅれ……あふ……ご主人の、大きいのが……あー……これ……すごく……」 「…………」 ぬるりぬるりと密着させた粘膜の押し付け合いが続くのは、ノエルは壊れてしまったように没頭しているからだ。 私はソファーに体を沈め、呆然とノエルの痴態を傍観する。 「んっ……んっ……ご主人の……あたって……このままでも……このままで一度……私だけでも……」 「ノエル」 「ふぁ……あ……な、なんですかご主人。いま、いいとこ……なのに……」 「やはり園芸グッズ同様、私の男性器を用いて執拗に擦り付ける行為を――――」 「スコップの事は忘れてくださいと何度言えばわかるんですか?」 「スコップとは言っていない」 「あまり私を冷めさせないでください。次に園芸グッズの話をした時が最期ですよ、ご主人」 女性はデリケートな生き物で、私には深く理解はできない。 しかしノエルの怒りを買うことはしたくないので、今までの経験を踏まえて一つの答えを導き出すに至った。 「せっかくいいとこだったのに、どうしてくれるんですかね……」 「違うんだノエル。私はこう言いたかったのかもしれない」 「こういった愛し合い方も時には必要だろう。しかし私はノエルと一つになりたい。ノエルの膣に収まりたい。一刻も早くだ」 「あぁ……それですっ。ようやくわかってくれたんですね」 当たりくじを引けたようだ。 「私としたことが、とんだ勘違いをしてしまいましたね。では、要望通りに……」 ノエルの手に誘導されるまま、中央に走った膣の縦線に先端が宛てがわれる。 「うふふ……ふふ……ふふふふ……」 楽しそうなノエルを見上げながら、私は開放までのフローチャートを思案する。 男性器を膣内に収める。 ノエルが愛を確かめ、堪能する。 ほどよく時間を掛けて射精する。 ノエル主導による騎乗位という体位で行われる性交渉は、既に数百を超えている。 「こほん――――ではご主人、いつもの言葉を」 「ノエル、愛している」 「……はい」 「ノエル、私は愛故に君に甘え、君に溺れてしまう……その事を、どうか許して欲しい」 「…………♪♪♪」 「うふふ……私とセックスがしたくて、たまらないようですね……わかりました、ご主人の精を私が受け止めましょう」 「…………やれやれ……」 「………………」 「ノエル、愛している」 「はい。よろこんで……私のおま○こを……心行くまで味わってください……」 ずぷぅっ、ぐぐっ――――ずぽぽぽぽぽっ。 「ンッ……はっ、んぁあんっ、ふぁ、ぁ、あ~~…………」 「あぁ……ご主人のおち○ぽ……ぴくんぴくんって、私のなかではしゃいでますよ……やっぱり私がしてあげないと、危険ですね……」 私にとっての騎乗位は、自らの太ももにノエルの尻の弾力が負荷された瞬間を意味している。 つまるところ男性器がノエルの最奥を押上げ、膣全体がこれでもかと絡んできている状態――――今がそうだ。 「はぁぁ……はぁぁ……ご主人……今日は一段と硬いですね……んっ……私のなかは、どうですか?」 「いつも通りだ」 「んっ……ちゃんと教えてくれないなら、私にも考えがありますよ……?」 ノエルは全てが演技ではないかと疑いたくなるほどの唐突さで、真顔地声に戻る。 しかし挿入が終わり、抽送が始まり、果てる間際になれば、私が何を言っても静止せずに腰を振り立てるようになることも知っている。 「いつも通り、最高だ。ノエルの膣は男性器の刺激に長けている。優れた柔軟性、膣液の潤滑によって私の性感を高めていく」 「そうでしょうそうでしょう……んっ、はぁ……では……このまま……」 ノエルは膣で咥え込んだまま腰を回転させ、しばし踊り子気分に酔う。 「ほっ、らっ、あっ、これ、イイですよね……ぐぽぐぽ、って、いやらしい音……ご主人のおち○ちんの、色んなとこが刺激されてるはずですよ……」 「ふゎっ、ゎ……ンぁんっ! ンッ、ンッ、ご主人の、熱い……っ! 私のおま○こ、溶けちゃいます……っ!」 ノエルはひとたび交われば隙だらけの顔でセックスに熱中してしまう。 当時は別人格などといった病気を疑ったが『女の子は誰でもそうなるんです』と呆れられてからは、考えないようにしている。 「あっ、んっ、ンッ、んぅ~、ンッ、はぁんっ、ご主人も、ほら、気持いいなら、声だしてもいいんですよっ」 「ノエル」 「ンッ、はい……なんでしょう……腰をぐるぐる回すのではなく、お尻がぶつかるくらい、上下に動いて欲しいんですか……?」 「あまり騒がないでくれ。眠っているひまわりが起きてしまうと、私はとても面倒だ」 「な……ご主人……まだそんなことを……」 「そんなこと? ひまわりが起きてしまっては、ノエルと続きを楽しむことができないだろう」 「ご主人……」 「そ、そうです……ね……あふ……邪魔者が、割り込んでは、困ってしまいますからね……」 「静かにえっちしましょう……二人だけの愛の世界には、なんぴとたりとも入り混む余地はないんです……」 官能的な吐息を漏らすノエルは、わかったのかわかっていないのか、カクカクと首を上下させた。 「このおち○ちんは……はぁ……私だけのもの……ご主人と繋がってる……ずっと、ずっと……」 「おち○ぽから、伝わってきますよ……ご主人の微細な乱れが……私のおま○こにっ、響いて……んぅっ」 「……やはりわかるか……私の乱れた心が……」 「はい……なんですか? もしかして、おち○ちん限界なんですか……? 私より先にイッちゃうんですか……?」 「今まで気になってはいたが、看過してはきたことがある」 「“おち○ぽ”“おち○ちん”“おま○こ”などといった呼び方は些か幼稚ではないだろうか?」 「ああ、そんなことでしたか……えっちの時は、いいんですよ……常識に囚われていては、欲求は満たせませんよ……」 「なるほど、一理ある。効率の問題だな」 繁殖機能のない私達にとって、こういった無意味な性行為自体が正気の沙汰ではないのだ。 性的ストレスの開放を目的にしている以上、正常な考えそのものが妨げになってしまっては非効率だ。 「そうです……私は常にご主人の事を考えて、こういった卑猥な言い回しを好んで使っているのですよ……」 「ンッ……はぅ、んっ、ん~~っ、ぜ、ぜんぶ、ご主人の……ご主人の為なんですよぉ……私は、べつに、したくなっていいんですから……」 膨らませすぎた風船のような双乳が揺れる様は、いつ見ても迫力がある。 耐久レースのようにあの胸を揉まされ、口に含む事を強要された時のことを思い出すと、若干の恐怖はあるが……。 「だっ、めぇ……はぁ、ご主人のたくましいおち○ぽが、奥をこつこつして、嬉しくて腰が勝手に動いてしまいます……」 「ンッ、ンッ、ンッ、私は、いつだって、ご主人を満足させられるんですっ、だからっ、他の人を抱いたりしては、いけませんよっ?」 「ああ、問題はない」 「ご主人は、楽な体勢のまま、私に身を任せていればいいんです、それだけで、極上のひとときが得られるんですから……」 ノエルの膣は絶頂が近づくと圧力が増し、男性器を急速に刺激する。 「あぁ~……きもちぃですね……はぁ……きもちぃ……きもちぃ……これが……すなわち……愛なのですよ……」 「私はご主人の為に、こんなに気持ちいいセックスをさせてあげてるんです……感謝してくださいね……」 ぱちゅんっ、ぱちゅんっ、ぱちゅんっ、ぱちゅんっ! いわく、致死量の愛情が混入された腰振りによって、ノエル自身が愛の重みにつぶれそうになっているように見えた。 「やっ、あっ……しなきゃっ、いけないことだからっ、ん~っ、ご主人を犯すのっ、私の、仕事だから、あっ、おま○こ、切ないのもっ、仕事のうち、だからっ」 「さすがに激しいな……とてもじゃないが、我慢ができそうにない」 「ご主人っ、んっ、出るんですね、ああ、もう、仕方のない人です……イキそうなおち○ちん、私が気持ちよくしてあげますっ」 「ンッンッンッ、はっ、あぁぁんっ、精液は、どこに出すつもりですか? いつも、私のどこに出しているのか、思い出してくださいね?」 「決まっている。性交渉の際、私はノエルの体内に全てを注ぎこむことを義務づけ――いや、注ぎ込みたいんだ」 「そうです……その通りです……ご主人の精液は、私のなかに出すために、あるんですから……」 私にはわからないが、ノエルの肉体は肉感的で男性の性的欲求を無闇に掻き立てるという。 それが通常の思考であるならば、私もそれに習い、ノエルの膣内に精液を放てる事に感謝するべきだろう。 「あっ、あっ、ご主人っ、ご主人っ、きもちぃ、あっ、きもちぃ、きもちぃの、キちゃう、ご主人といっしょに、きもちよくなれる、うれしい、このまま、いっしょに」 「あっ、あ~~っ、んぁ、ぃ、イク――――ご主人も、イって、精液なかに掛けてくださいっ!」 「ンッンッ、ン~~~~~~~~ッ! ~~~~~~~~~~~ッ! ~~~~~~~~~~ッッッ!」 射精にともなう刺激は強烈なものがある。 私がそれを快感と捉えることはないが、思考が一時的に停止するていどの痺れが男性器から広がっていく感覚はあった。 「~~~~~っ……~~っ……熱いの……たくさん……なかで出されて……イってしまいました…………」 全身の筋肉を弛緩させて悦に浸るノエルに精液を注いでいく。 「……い……イィ……この感じ……ご主人の愛がおなかに満たされる幸福感……はぁ…………きもちいいです……」 膣だけは忙しそうに収縮を繰り返し、飽きることなく私の精液を飲み込んでいった。 ノエルは次から次へと打ち上げられる精にやられ、微痙攣したまま蕩けきった瞳を虚空に彷徨わせた。 「はっ……はっ……ごしゅじんの、おち○ぽ……みゃくうって……はふ……びゅくびゅく……おま○こ……みたされてますぅ……」 「……ごしゅじんとのえっち……私だけのせーえき……私とごしゅじんの……あいのけっしょう……」 無尽蔵にこぼれる唾液を気にもとめず、うわ言をつぶやいている。 時折、思い出したように目を閉じ、肢体を震わせ、膣を収縮させては喘ぎを漏らす。 「……ノエル……射精は終わった。いつまで上に乗っているのか、具体的な時間を教えてもらえないだろうか」 「はぁ…………やっぱり……ごしゅじんとのえっち……すきぃ……だいすきぃ……」 「ノエル? ノエル。気をしっかり持ってくれ」 「は――あ……あぁ……えっと……ン……射精したんでしたね……お疲れ様でした……」 「夢見心地のところを起こしてしまっただろうか」 「い、いえ、特には。……必要だからしているだけですから」 よだれをすするが、火照った顔にはだらしなさが張り付いている。 「おち○ぽのふくろ、軽くなっていますね……ここに入っていたのがすべて、私のなかに……」 「ノエル、とても気持ちが良かった。私はとてもすっきりしたし、またノエルとこういった時間を過ごしたいと思う」 「そうですか……私は、べつにご主人の犯罪防止に一役買っただけですが……そう言ってもらえるなら、してあげた甲斐があるというものです」 行為を切り上げる為に用意されていた感想を卒なく伝えると、ノエルはご満悦のまま表情をほころばせた。 「ご主人は私が大好きですから、おち○ちんを抜かれるのは名残惜しいと思いますが……致し方無いですね」 「ノエル、シャワーを浴びるといい」 「私はいいんですよ。ご主人の精液を流すなんて……もったいないじゃないですか……」 ノエルという私の指針を失わずに済むのであれば、このくらいのセックスコミュニケーションは容易いものだった。 「それではまた、ご主人のおち○ちんが疲れた頃にでもするとしましょう」 「ああ、それで問題はない」 ノエルが求める限り、私はそれに応え続けるだろう。 「――――――――――――――――」 「ああ……はいはい…………ムシのウタでございますのね。鈴虫かな? なにかな?」 旧市街で焼き付いた生々しい光景がふと蘇った。 気にしていないとはいえ、数時間前のできごとだ。 体験としての記憶は完全に忘れることはできない。 一度思い出すと、あの後、どういうふうに対処されたのか気になりだした。 時計を確認する。 時刻は深夜3時を過ぎていて、俺にとって充分すぎる睡眠が取れていることがわかった。 「夜風も浴びるついでに、っと……」 「ふー、夜のドライブは目が覚めるなぁ」 到着。原付を路肩に止めて軽く伸びをする。 メットインに邪魔な荷物は全部仕舞って身軽になる。 「公衆電話の周辺、立入禁止になってるかな? でもこの辺りはそもそも立入禁止区域だしな……」 このへんの旧市街は、こう言うとアレだけど、割りと見捨てられた土地だ。 いや、無かったことにされた場所といった方がわかりやすいか。 倒れそうで倒れない斜めになった建物や、未整備で割れっぱなしの道路はいつ見てもひどい。 こんなんだから、当然、人の気配もない。 7年前の不幸――――通称“ナグルファルの夜”が色濃く残された旧市街。 そんな場所だから、生活範囲に含める人はほとんどいない。 稀にヘンなのが住み着いてるって噂も聞くけど、俺も似たようなものだ。勝手に秘密基地として開拓中の場所もあるし。 「…………」 と。足が止まった。 不意に、今から行おうとしている確認作業がひどく無礼に思えてきたからだ。 “発見者”のポジションで居続けるつもりなら、じっくりくっきりはっきり現場調査をして徹底的に死因を突き止めている。 状況的な誤解を生んで家族に迷惑を掛けない為に、匿名で通報したことを忘れてはならない。 なにより俺とウエイトレスさんの関係は希薄だし、関わるべきではないはずと判断したはずだ。 だというのに“思い出したから”なんて理由で首を突っ込み、掘り返すのはどうだろう。 「……忘れるべきじゃないですかぁ」 生の死体なんてガキの頃以来だから、ちょこっと夢に出ただけだ。 そもそもこの思考は、ポジティブじゃない。 「このまま帰るのはもったいないな。聖域の開拓に精を出すか!」 というわけで次に俺がするべきは―――― 「…………?」 と。再び足が止まった。音を聴いたのだ。 人のいないこの場所に存在する環境音は、虫の音と波音くらいのはずなのに……。 海は凪いでいて、シンとしている。 鼻は壊れ気味だが、聴覚は正常だ。 なら今の――――何とも人間的で音楽的な響きはなんだろう? 耳を澄ます。やっぱり聴こえる。 「こっちか……?」 人は自分の名前に近い発音を感じると、小さな声でも過敏に反応するという。 俺は、その音の正体に呼ばれているとでも感じたのだろうか。 蜜に誘われる蝶のようにふらりと歩き出す俺は、それが毒花でなければいいななんて思うことしかできなかった。 立入禁止のフェンスを超えた先に待っていたのは、地盤の狂いでアスファルトが突き出した珍百景。 見捨てられた旧市街の中でも、誰も寄り付かなさそうな――――事実、初めて目にした空間を歌声が支配していた。 ハミング。 誰に聴かせるわけでもなく感情のまま自然に口ずさむソレは、今はあまり耳にしなくなった賛美歌のようだった。 普段から音楽を聴かない俺は、特にコレといって気の利いた《コメント》〈感想〉があるわけではない。 好きか嫌いかで言えば、好きな雰囲気だった。 歌の良し悪しよりも気がかりだったのが、“此処に来たのもやっぱり間違いだったんだろう”という思い。 明らかに俺はお呼びではない観客――――彼女だけの秘密の空間に迷い込んだおじゃま虫。 そっとしておいてあげるべきだろう。 「………………」 「あ――」 失態。気づかれて、ジトッと見られる。足音を立てたつもりはないが、気づかれる時は気づかれる。 「続けて続けて、俺のことはほら、空気だと思っていいからさ」 「………………」 「もちろん俺は怪しい者じゃないよ――って怪しい奴はみんなこういうこと言うから気をつけてね」 「俺はホンモノの“怪しい者じゃない”だから誤解なきように」 「意味合い的には、推理モノのドラマとか、怪しそうな奴は犯人じゃないでしょ? 限りなく黒に近い白ってやつ」 「……………………?」 妙な気分――キッカケは直感の類だったが、簡単な思考によりすぐ違和感となって表れる。 少女は間違いなく俺が来たことで歌うのをやめたのに、今の反応はどうだろう。 邪魔者に対する嫌悪でもなく、 不審者に対する恐怖でもなく、 闖入者に対する警戒でもない。 ――本当に俺を“空気”と同一視しているような、そんな反応。 「……………………?」 とりあえずマネして首を傾げてみる。 「……………………?」 負けじと(?)反対側に首を傾げる少女。 「……………………?」 とりあえずマネして反対側に首を傾げてみる。 「…………ママ……?」 「ああ良かった、話してくれた。首が折れるまで永久ループを覚悟してたところだよ」 「ってママじゃないからね?」 「あ! まさか……ママになりたいの……? 俺の子供を生んで……ママに……」 「…………ママと違う……大体、一緒で……まったく違う……」 「俺を誰かと勘違いしてるのかな」 「…………そっくり……」 「誰と比べて?」 「人と」 「そりゃ人類ヒト科を代表する“百合かもめ”の“《クリアランサー》〈片付け屋〉”だからねっ!」 「形が」 「俺は優真。水瀬優真。“真に”“優れた”なんて名前負けしそうだけど、覚えやすいだろ?」 「…………どうでもいい……」 「え、えーっと……? 歌う妖精さんのお名前は?」 「………………」 世の中にいる美少女の全員が全員、なるみたいに波長が合う子であるわけもなく……。 トークの権利は貰えず、いないものとして扱われてしまったわけで……。 これ以上、この場で何ができるわけでもないし、いる理由はなくなった。 が――――。 「今日はめちゃくちゃ可愛い子に会ったんだよ。菜々実なるっていうんだ」 「そーなのかー。写真の一つもなしかー?」 俺は“全ては社長の為に”を信条とする“《クリアランサー》〈片付け屋〉”だ。 一応、接点は持ったわけだし、このまま手ぶらでは帰れない。 絵になる美少女を前に何もできない歯がゆさを緩和しつつ、今日子さんへの土産話を盛り上げる唯一の方法といえば――――写真。これしかない。 「撮るぜー。可愛く撮るぜー。無視は了解と受け取るぜー?」 まぁ、写真の一枚くらいなら笑って許してくれるだろう。 あれ――――携帯、“圏外”表示? 旧市街とはいえ、他の場所は平気なのに……。 ……そういうこともあるある。 写真機能が生きてればそれでOK。 歌う美少女パシャリ。プライスレス。 「でぃくくちゅんッ!」 「おわっ! キュート!」 可愛いくしゃみをするものだから、思わずときめいた。 偶然にも同時にシャッターを切っていたので、被写体の“瞬間”を切り取ることに成功。ベストショットだ。 「…………出てきた……」 「鼻水が? ティッシュもってないから、俺の服で拭いていいよ」 「…………潮騒が止んだ……危険区域……邪魔になる……」 「その前に、今の写真を美少女フォルダに保存するから名前教えてよ。フォルダ名つけられない」 「…………消して……」 「えー! よく撮れてるんだよ。見る? 名前言いたくないなら、歌う妖精さんフォルダでもいいけど」 「……それには映ってる……ココロが……」 「ココロ……? ……ああ、魂が抜かれるとかを信じてるタイプ?」 「消せ」 「消したよ。了承も取らずに勝手なことしてごめんなさい」 「………………」 ちゃんと謝ったつもりだけど、何一つ許しの言葉は投げかけてもらえなかった。 つまり、俺は許してもらえていない。 「もう帰るけど、風邪には気をつけて。夏とは言え、夜の海辺は冷えるから」 歌う妖精さんはやはり俺を無視して、くるりと背を向けた。 それは決別を意味しているように見えたけど……。 今日子さんいわく、俺は“笑っちゃうほど図々しい”らしいから。 コレ一回っ切りで俺を拒絶できるなんて思わないで欲しい。 とはいえ、今は機嫌を損ねたし、相手が嫌がっているなら去るべきだ。 来た道を戻っていると、世界的に有名な賛美歌が心地よく聴こえてきた。 「あ……」 携帯の“圏外”の文字が消え、メールを報せる。 内容は《バラシィ》〈零二〉の構って欲しいだけの文章だった。 内容よりも気になったのが……。 「あのへんの電波特殊なのかな……って、アレ――――?」 「なんでさっきの場所、ないんだ……?」 夢か……? 夢って事で済ませておこう。 ポンコツな俺なら、美少女と愉快な一時を過ごすくらいの夢を立ったまま見るくらい、ありえない話ではないだろう。 「気分を変えて、どっか行くかな……」 メットをかぶり、原付に跨る。 そろそろ空がやんわりと白んでくる頃だ。 となると、あそこしかないか、やっぱり。 「はぁはぁ……あの階段、全部で99って言われてるけど……数えると毎回100か101なんだよなぁ……」 住宅街を突っ切ってぐんぐん上り、原付を降りて階段ダッシュ。頭がズキズキするていどには走った。 しかし開けた視界は、俺の頑張りを祝福していた。 「ハァハァ……日の出まではまだ時間があるな……」 「一瞬でもこの絶景をみて、心のうちがわくわくする人間と、そうでない人間とはちがう!」 俺の秘密の聖域の一つ“薫る新緑の絶景高台”。 抜群に空気がうまい、自分の住む街を一望するにはうってつけの場所だ。 「事務所はあのへんだよな。社長もう帰ってきてるかなぁ」 「さっきまであのへんにいたんだよなぁ……なんか感慨深いっていうか、そんな感じだぁ」 「街は異常なしですね」 平和平和。海は静かだし、隕石もジェット機も落下の気配なし。 「もう少し空が白みだしたら、日の出が来るな」 「お、お――――」 「おぉ~~~~~~~」 なるが隣にいれば“日の出だと思った? 残念! オーロラでした!”って笑っている場面。 「でも綺麗だから良し」 夜空の大パノラマに揺れる《オーロラ》〈極光〉のカーテン。 「絶景かな絶景かな」 今更感が拭えないほど日常に定着しているが、俺にとっては毎回が初めてみたいに新鮮だ。 天気予報士さんの受け売りだけど、この街はオーロラの発生条件を満たしていない。 オーロラの正体は、夜空を駆けるワルキューレの甲冑の輝やきなんだとか言われてる。 嘘。北欧あたりの神話だと、そうみたいだけど。 夢のある話だと思ったけど、実際の所どうなのかは専門家たちの頑張り次第で明らかになるだろう。 「……にしても」 「…………どうにかならないのかなぁ……」 ハッキリと目視できる、繁栄と衰退の境界線。 限りなく住みやすさを追求した現代都市と、見捨てられ朽ち果てた地域。 人々は、現実的に暮らすことが困難になった場所を完全に無かったものにした。 地球が住めなくなったら月にお引越し、ってわけにもいかないだろうに、いつまで放置し続けるのだろうか。 「7年……経つんだよなぁ……」 悲劇――“ナグルファルの夜”。 地が割れ、天が裂け、海が荒れ、人が崩れた、一度きりの大災厄。 破壊の限りを尽くしておいて、原因はまったくの不明。 絶望のドン底に叩き落としておいてそれっきり音沙汰無しだ。 “ナグルファルの夜”によって世界は混乱した。 さらに、原因不明のウイルスで世界は混沌した。 国は何もしなかった。 いや、できなかった。 中枢機能があたりまえに停止したからだ。 緊急時の対策不足ではなく、対策不可能な未曾有の大規模災厄だった。 そんな中、救いの手を差し伸べたのが、 医療関係の大企業“《アーカイブスクエア》〈Archive 〉Square社”だ。 “《アーカイブスクエア》〈AS〉”は精製したワクチン“《エーエスナイン》〈AS9”を無償で配り、衣食住の問題解決にも全力〉を注いだ。 今の形になるまでには5年近く掛かったが、“《アーカイブスクエア》〈AS〉”はブレずに世界のために尽力し続けた。 今では政府に匹敵する影響力を持っているが、権力に笠を着ることもなく、医療以外にも様々な分野の技術向上に貢献し、福祉関係への力も強めている。 ありがとう“《アーカイブスクエア》〈AS〉”。 みんな大好き“《アーカイブスクエア》〈AS〉”。 広告塔はもちろんRe:non様。 その辺も抜かりないぜ“《アーカイブスクエア》〈AS〉”! 「旧市街を直すのだって、俺たち住民が頑張って働いてれば、いつか叶うはずだ」 というわけで、流れ星に願い事をする感覚で両手を組んで目をつぶる。 「オーロラ様! オーロラ様! よろしくお願いします!」 病気平癒、交通安全、家内安全、厄除け祈願。 なるとRe:non様と妖精ちゃんの安産祈願。 一夫多妻の認められる世界になりますように……! 「お願いしますお願いしますお願いします!」 「俺の願いを聞き届けたなら、何かわかりやすいサインを……! 例えば、オーロラ様自身が真っ赤に染まるような……!」 「………………」 なんてね。 「祈るようになったら、人間はオシマイ……遊びでも、こんなことするんじゃなかったな」 本当の惨劇は――――祈りなんか通じない。 ――――――――あ、あれ? まさかの効果あり? オーロラどころか、視界全体が真っ赤っ赤に変化している。 「???」 瞬きをしても変わらない。 原付で走っていて小雨が降った時のように、顔に嫌な湿気を感じる。 「れろっ」 「へ」 首筋に熱くねっとりとした感触。 時間が止まったように感じられた。 やや思考が固まって――――一歩下がる。 「――――――――ッ!!??」 絶句。 心臓が跳ね、思考が完全に停止した。 「死臭がしたのにな」 視界の“赤”が血を滴らせ、顔を近づけてくる。 髪も、唇も、瞳もすらも赤い、《メチャクチャなヤツ》〈化ケ物〉。 逃げなきゃ――――頭で思い、シミュレートしても、まったくの無駄。蛇に睨まれた蛙の気持ちなんてわからないまま人生を終える予定だったのに。 「れろぉ~……」 「っ……」 ザラザラとした猫のような舌で首筋をなめられた瞬間、ナイフの背で撫でられるような感覚にどっと汗が吹き出した。 底なし沼で脚をつかまれたような――――どこまでも堕ちていく落下感。 「…………にゃは……違うな♪」 半月のような口元からチラリと窺える、真っ白な牙。 真っ赤な人型の中で、唯一、赤以外の色をした部分だった。 おいおい。おいおいおいおい。冗談だろ。何だコイツは。 ヤバイ――――頭の何処かで警笛が鳴った。コイツはヤバイ。 「怖がらせちゃったかい?」 その笑みが、いつでも踏み潰せる虫けらに向けるものだとわかった時、自分が何故動けないか紐解けた。 《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》〈仮に全力で逃げたとしても、逃げ切れないと身体が悟ったんだ〉。 「ゴメンネ――――お詫びに《ルージュ》〈口紅〉を引いてあげる」 真紅の指先が俺の唇の形にそってゆっくりと動いていく。 「………………」 「キミは最終兵器を出さないのかな?」 乾いた唇が湿る。舌先が感じ取ったのは、鉄臭い味だ。 「――命乞い」 「追い詰められると出す、あらゆる動物の中でヒトだけが使うとっておきの最終兵器」 情に訴える、という行為。 自分にも情があるから。相手にもあるはずだから。 “だから助けてくれ”という人間独自の必殺技。 「必死でツクってた自分? をかなぐり捨てて、積み上げてきたものを忘れて、執着するよにゃ」 「命に」 大笑いを堪えるようなニヤニヤ。完全に小馬鹿にされてる。だが、俺に何ができる? ……何も。考えるまでもなく、何もできない。 差し当たっては“考えるまでもない”という現実に直面できたことが、不幸中の幸いだった。 「ありがとうございます、は?」 口紅サービスのお礼請求――――分岐点だろう。 法の有無は関係ない。 今、自分が置かれた立場だけが全てだった。 生殺与奪を握られている現状だけに集中した。 命を媚びる事で生き永らえるも良し。 抵抗を試みるのもまた良し。 「こ、こ……」 「こ……? 殺さないで?」 …………。 「……声、かわいいなぁ」 「…………」 開ききった瞳孔が、何を意味していたとしても――――関係ない。 「ぶどう酒パーティの帰りか何か? 真っ赤っ赤で全然わかんないけど、声だけでメチャクチャかわいいってわかるよ」 声は所々ひっくり返るは、足は震えっぱなしだは、頬は引きつっているは、もう散々。 それでも俺は、俺でいたいから笑う。 俺自身を拒絶したくないからポジティブを貫く。 それがどんな状況だろうとも、だ。 「嫁になりたいなら、最初からそう言ってよ。考えてあげなくもないんだからさ」 真っ赤な人型は口元から愉快そうな息を漏らすと―――― 「……ふざけんにゃ♪」 軽快でいて気楽そうに、自由落下した。 「………………………………」 ポカンと開いた口が、しばらくふさがらなかった。 木々で茂っているとはいえ、自殺行為というか、ほぼ自殺だ。 それでも真っ赤な人型が死んだようには思えなかった。 「はぁ、はははっ――――はぁー! 威圧感ハンパじゃないなぁ……」 急いで手の甲で口元を拭う。 紅は取れず、粉のようにボロボロと落ちた。 “《クリアランサー》〈片付け屋〉”を生業にしてる分、血の性質について一般人よりは詳しいと思っている。 血管の外に出たことでの凝固――施されたのが“口紅”ではなく“血化粧”という結論から目を背けるのは、いい加減不可能だ。 つまり、さっきの奴の正体は――――《ヒトゴロシ》〈殺戮者〉? 「あー……なワケないだろ。良い方向に考えろ、良い方向に……」 「そもそも人の血じゃない……動物の血……肉屋……? あれだけの量だぞ? 違う」 「わかった! 輸血パックを運んでる最中に迷ってしまった人だ! 合点がいった!」 「迷っただけならまだしも、転んで全身に浴びちゃうなんて……おっちょこちょいだなぁ」 返り血を浴びてる理由もこれで大体、正解――――だったらどれだけ平和的か。 こんな都合的解釈じゃマズイ事くらいわかってる……。 だけど――――『深夜の高台で全身血だらけの何かと遭遇したが、ソレは自ら崖から落ちた』なんて話、誰も信じない。 「夢かー」 無力で善良な市民に取れる“通報”さえも選択肢からなくなったなら仕方がない。 夢なワケないけど、夢で片付けておこう。 「今の奴といい、昼間の一件といい、俺の周りで厄介なイベント盛りだくさんかよ」 「はぁーーあ……人生、楽しいなぁ……」 今日一日で、色々ありすぎた。 自意識過剰かもしれないけど、運命にからかわれてる感じがする。 「ダーメだ。考えすぎ……」 後で崖の下で転がってないかだけ確認すれば良い。 「ああ…………」 「もうすぐ、朝日が上るのか」 “今日”が歴史に刻まれていく。 「一時間だけ仮眠を取るかな」 朝日と自然の風を感じながら、楽な姿勢を取る。 心地良い疲れを感じられた俺は、間違いなく幸せだった。 夢。 これは夢だ。 状況は鮮明ではない。ここがどこであるのか、何が起きているのか。 明確にわかっていることは二つ―― 周囲を覆い尽くす勢いで燃え盛る炎と、それを遥かに凌駕するほどの怒りに苛まれていることだった。 身を焦がす激情の理由はわからない。 人間は深層心理や過去の体験を夢に投影するという。 私の場合は後者だ。 もっともその記憶の欠片を私はどこかに落としてしまった。 もしももう一度手に入るとするならば―― 私はどんなことでもするだろう。 「ねぇねぇ、あかしくん起きてよ。もってきたよー」 「ん…………」 眠っていた脳が覚醒していく。 瞼を開けるとひまわりの顔がすぐ目の前にあった。 「はい、どうぞ♪」 「…………」 ひまわりの手には立派に華を咲かせたモミジアオイが握られていた。 「これは何だろうか……?」 「なにってお花だよ?」 「それはわかっている。どうして私に渡そうとしている」 「あかしくんが欲しいって言ってたから」 「……そんなこと言った覚えはないのだが」 こめかみを押さえながら状況の整理をする。 目の前にいる少女は昨日迷子になった人間だ。 名前がないと言うのでひまわりと呼ぶことにした。うむ、間違いはない。 では何故私は感化できないひっかかりのようなものを覚えているのだろうか。 「ふえ?」 眼前の少女は無垢な瞳をこちらに向けている。 手に持ったモミジアオイを小さく振りながら―― …………? 「……ひまわり。ひとつ聞きたいのだが」 「およよ?」 「その花はどこから持ってきたのだろうか?」 「あそこ♪」 ひまわりが快活に指をさしたのは、私が栽培している植物を並べている棚だった。 「――!?」 等間隔で並べている鉢植えに駆け寄る。 「……なんてことだ」 私が栽培している植物の一つであるモミジアオイを確認すると、明らかに根本から花弁をもがれた茎がそこにあった。 悪い予想は当たるものだとどこかの人間が言っていたがまさにその通りだ。 「どーしたのあかしくん? おめめがぴくぴくしてるよ?」 「ひまわり。キミには言っていなかったかもしれない。だとしたらそれは私のミスでもある」 「およよ?」 「およよ、ではない。私は今キミを責めている。どうしてだかわかるだろうか?」 「どーして?」 ひまわりに悪意はないのだろう。そのことが余計に私を悩ませる一因でもあった。 「ここに植えられている植物は全て私が育てているものだ。屋外で生えているものとは違い、毎日手入れをしている」 「おぉ! ごくろーさまです」 「労いの言葉はいらない。私が好きでやっていることだ。それよりもキミに守ってほしいことがある」 「なぁに?」 「ここに置かれている植物を傷つけてはいけない。花を毟ってしまうことももちろん駄目だ」 「でもぉ……」 「でも、ではない。これは守らなければならないルールだ」 「うーん……わかったけど」 ひまわりは何故か納得できていない様子だった。 「あ、ひまわりもある♪」 ひまわりは目を輝かせて隣に置いてあった向日葵に手を伸ばそうとする。 「触ってはいけない」 私はひまわりの細い右腕を寸前のところで掴む。 「ちょっとくらいいいと思います!」 「触ってはいけない」 諦めの悪いひまわりの左腕もどうにか拘束する。 「ぐぬぬ……」 「…………」 子供の好奇心がこれほどまでに恐ろしいと初めて思い知らされた。 私は植物たちを守るため、打開策を必死に探した。 「今キミが目の前の花に触れることを諦めてくれるのなら、今日街に出かけた際キミの欲しいものをひとつだけ私が購入しよう」 腕に込められた力が緩むのを感じた。 「えっ!? ホント!?」 「ああ、本当だ」 目の前の報酬よりも魅力的な条件を提示することで諦めさせる。交渉において人間が使用する手段のひとつだ。 その効果は明らかだった。 「わかった! やくそくだよ! ひまわりとあかしくんのやくそく!!」 「ああ、私とキミの約束だ」 ひまわりの腕を解放する。 彼女の興味はもうどこかへ行ってしまっていた。 「あれぇ、朝から騒々しいですね」 ひまわりとの交渉が終えたと同時にノエルが二階から降りてくる。 「何かあのガキんちょがやったんですか?」 「問題ない。面倒なことは解決した」 「ならいいんですけど」 ノエルはブラシで髪を梳きながら、もう片方の手で携帯を操作していた。 私の視線に気づいたのだろう。ノエルは私に向かって携帯の画面を向けた。 「別に大したものじゃないですよ。今流行っている携帯小説ってものを読んでたんです」 「お前がそのようなものに興味を抱くとは珍しいな」 ノエルは基本的に娯楽小説の類を読んだりはしない。 人間社会を知るために有益な情報を日夜集めているからだ。 「クラスの連中がうるさくてしかたなくですよ。内容も酷いものです」 「闇の炎がどうとか魔眼がうんちゃらとか、中二病をこじらせるのも大概にしろって感じですよ」 「闇の炎と魔眼か」 実際に敵として戦うことを想定するとかなり手強い存在だろう。 もしも私の前に立ちふさがった時、退けることができるだろうか。 「ご主人。まともに取り合っちゃ駄目ですよ」 ノエルが呆れたように私を見ている。 「お願いしますけど、くれぐれも人前で闇の炎についての考察はしないでくださいね」 「この世界ではごく僅かな限られた人間の痛ーい妄想なんですから」 「ああ、わかった」 ノエルは棚から二枚の食パンを取り出してトースターにセットする。 人間は炎を操ったり、大地を割る怪力を備えていない。 一部を除けばの話であるが―― 「ねぇねぇあかしくんとのえるちゃんゴハン食べるの? ひまわりも食べるよ?」 「どうせそう言うだろうとは思ってましたが、もう少し居候らしく謙虚な姿勢は見せられないんですか」 「けんきょ? 警察が犯人を特定して逮捕または取り調べをすること?」 「それは検挙ですしどうしてそっちの方だけ無駄に詳しいんですか」 「ひまわりはこう見えても頭が良いのです、えっへん」 「偉くもなんともないですよ」 「ふがっ!?」 ひまわりの鼻にノエルの人差し指と中指が差し込まれた。 「オラァ!! 悔しけりゃ自慢の醜い声で鳴いて見やがれこの豚野郎がっ!」 「ふがふがっ――!!」 「何をしているのだ」 「いや、この生意気なガキんちょに世の中の厳しさを教えてやろうかと」 「なるほど」 ノエルは上から引っ張り上げるようにしているため、逃れるためには上方へと身体を持ち上げなければならない。 しかしひまわりとノエルでは圧倒的な身長差があるため逃げることはできない。 力を持つものが弱者を操るというこの世界の縮図が体現されている。 「おっと、できたみたいですね」 ひまわりを解放してトースターから焼き上がった食パンを取り出す。 「ご主人は苺ジャムでいいですか?」 「ああ、頼む」 「はいどうぞ、あなたの愛する妻ノエルが作った愛情たっぷりの朝ごはんです」 「だーーーーーーーー!! わーーーーーーーーーー!!! ぎゃーーーーーーーーーー!!」 「なんですかうるさいですね」 「のえるちゃんのバカぁ!!! どーしていじわるするの!! お鼻に指突っ込んじゃいけないんだよ!!!」 「自分にはしませんから平気ですよ」 「そーじゃなくてっ!! ひまわりのお鼻もダメなのっ!! あとひまわりも朝ごはん食べる!!」 「簡単な算数の問題を出しましょう。ここにいるのは三人、トースターで焼いたパンは二つ。さあどうなるでしょう」 「……ひとり食べられないよ」 「そうですね、新たに焼くにも生憎パンの残りはもうありません」 「うぅ……」 「だから私は焼きたての芳醇な食パンをトーストから取り出しぃー?」 「はわっ」 「無農薬有機栽培苺ジャムをトーストに塗りぃー?」 「わあああ!!」 「舌の上で転がる苺の風味を楽しむために口の中へ持っていってからのー?」 「やめてぇー!! それ以上はもうやめたげてぇ!!」 ノエルは食パンを齧る直前で動きを止めて微笑んだ。 「ふふ、冗談です。はい、あなたが食べていいですよ」 「ふえ!? ほ、ほんと!?」 「嘘ついてどうするんですか。食べたかったんでしょう。私は一食くらい抜いても平気ですから」 ひまわりの顔がゆっくりと驚きから満面の笑みへと変化した。 「やたーーーー♪♪♪ ありがとー♪ のえるちゃん大好き♪♪」 「ええ、私も素直な子供は好きですよ」 ノエルは食パンを頬張るひまわりの頭を優しく撫でる。 ひまわりはパンを食べるのに夢中で、映画の黒幕がするようにノエルが口元を緩めているのに気づいていなかった。 「だからあなたも私の命令には絶対に従ってくださいね。どんな汚いことでも喜んで実行する奴隷のように」 「うん、ひまわり、のえるちゃんの言うこと聞くー♪」 両者の間には認識の齟齬があるように見えた。 「なるほど」 私はこんな方法もあるのだなと感心した。 ノエルは私に比べ、人間の心を扱う術に長けていた。 同じ時間を過ごしてきた者として少しばかり羨ましいと感じる。 人間は他者よりも劣っていた場合劣等感や羨望を抱くというが私にも似たような感情を持ち合わせていた。 私も今以上に人間の感情を理解しなくてはならない。 「私はそろそろ学園に行きます。ご主人は今日どうするんです?」 「ひまわりを連れて新市街に出ようと思う。帰りが遅くなることはないだろう」 「わかりました、それじゃ」 ノエルは一歩近づき、顔を近づける。 その行為の意味を私は知っている。いつものように少し屈み、頬を差し出した。 「ああっ!? のえるちゃんがあかしくんにチューした!!」 「ふふっ、行ってきます」 ノエルは満足した顔で学生鞄を片手に倉庫から出て行った。 「ねぇねぇ! どーしてチューしたの! チューは特別な時じゃないとしちゃいけないんだよ!」 「そういうものだからだ。人間は出かける前にキスをするのが礼儀なのだろう?」 いくつかの書籍やノエルが用意した映像によれば、出かける際と帰宅した際に行う挨拶として主に男女間で行われている行為だ。 資料では状況に応じて立場を逆転させていたのだが、ノエルの希望で私たちの間では固定されている。 一つだけ疑問があるとすれば、ノエルが用意した映像資料内の人間は別の言語を使用していたために言葉が理解できなかったという点だがおそらくは問題ないだろう。 「のえるちゃんだけズルい! ひまわりもする!」 「ノエル以外の者としてはいけないと禁じられている。それにキミは一人で出かける訳ではないだろう」 「それともキミの要求に応じれば一人で倉庫から出て親の元へ帰ってくれるのだろうか」 もしそうなのであれば私もやぶさかではない。 ノエルには事後承諾を得る形になってしまうが、彼女も致し方ないと理解してくれることだろう。 「それは……無理だからやっぱりいいです」 「遠慮しなくても構わない。さあ、存分に口付けをしてほしい」 「やだーーーー! こっちきちゃダメぇーーー!!」 両手で私の顔を押さえ、接近を防ぐひまわり。 しばらく説得を試みたが、結局私の願いは叶わなかった。                     少女物色中                      Now catching…                     少女物色中                      Now catching… 「えっ、あの二人連れ? んー……『了解』っと」 携帯を仕舞う。近距離チャット完了。 平日の朝、一番忙しい時間に声をかけられてホイホイ捕まる女学生さんはそうそういないだろうけど、行くっていうならサポートする。 「しゃ。気合入れていくぞ」 最初が肝心だからな……。 「よぉよぉ、そこの可愛い子ちゃん達よぉ。俺とイイコトしな~い?」 「うわっ、ビックリした。もしかして私達のこと?」 「遅れちゃうから……」 「いいじゃねぇかよぉ。サボってどっか遊びに行こうぜぇ」 「だって。どうしよっか?」 「良くないと思う……」 「お嬢さん方、こっちへ!」 「は~~~? なんだーおまえーやんのかー?」 「あ?」 「あ~?」 男前気取りの兄ちゃんとガンの付け合い飛ばし合い。 「んぁ~~~?」 「あ~~~~ん?」 「なぁ~~~~~~~ん♪」 「うふ~~~~~~~ん♪」 「ぶふっ……! お、お前の負けだっ!」 吹き出したくせに、負けを通告された。 笑わせた方が勝ちじゃないのか……。 「……チッ! 負けたぜ! 覚えてやがれってばよっ!!」 何に負けたがわからないけど、予定通り退場する。 もちろん捨て台詞も忘れない。 「まったく悪いやつが世の中にはいるもんだ! 怪我はないかい、お嬢さん方」 「くす……っ」 「あはははっ、おもしろ~い! お嬢さん方だって!」 「え? え? どのへんがおもしろかった? 君たちの危機を救ったんだよ?」 「だって、悪絡みする役が水瀬くんで、正義の味方役がお兄さんでしょ? 古典的ー」 「水瀬くんは人気者だから……私たちみたいな子、相手にしないもん……」 そこまで聞いた“正義の味方”が恨めしそうに振り返った。 実際、しょうがない。同じ学園の制服だし、顔を知られてたら成功するわけがない。 「お~い優真、そりゃねーでしょ。知り合いにこの方法使っても意味ないんだからさぁ」 「そうかな? 2人とも笑って楽しんでくれたんだから、やった甲斐あったと思うけど」 「やっぱ笑顔が一番だよなっ」 「まぶしっ。こりゃ人気あるわけだ……」 「…………イケメン(ぽっ)」 「ちょっと~、それオレが受け取るはずだった視線なんだケドー」 「朝から水瀬くんと話せるなんてツイてたわ。ユミ、気になってるって言ってたもんね」 「ちょ、ちょっと! そんなこと水瀬くんの前で言わないで……もう」 「2人とも別のクラスだから覚えてなかったけど、これで友達だね」 「はいっ」 2人とも一緒にいて楽しそうな良い子だ。 「あ――そうだぁ! この縁を活かして、4人で遊びに行こうじゃない!! 決定!」 「水瀬くんまた後でねー。あんまりヘンなのと一緒にいると、人気落ちちゃうから気をつけてねー」 「今度は勇気を出してわたしから声を掛けるね……! さようなら……っ!」 「またねー」 「またねー……じゃねぇよ。オレの事は無視かよ。『柄悪い奴から助け出す作戦』大失敗だぁ」 「成功の可能性ほぼなかったしね」 「何抜かしてんだ。さっきの二人、お前に気があるぞ。コロっと行けるぜ? コロっと」 「そうかもね。けど――」 「“けど、俺じゃなくてもいい”だろ。そんなんだから、いつまで経っても童貞なんだよ」 続く言葉を奪われて苦笑する。 否定しようにも、実際、未経験者だし。 未経験であることを深刻視したこともないし。 「性欲から始まる恋愛もあるかもしれない。裏切りから発展する快楽だってあるかもしれない」 「お利行さんな純愛が生む結果の90%は、マンネリ地獄なんだぜ? あたりまえだよな。経験が少ない下手くそ同士だもの」 「うん」 「うんじゃねーよ、ズボン脱げ」 軽い口調だけど完璧な命令形。 零二といると、こういうことが結構ある。 自分の考えに妄信的な部分、みたいな。 「ちょんぎってやる。お前、今のままじゃ雄に生まれた意味ねーでしょ」 チャラい零二から香るのは、いつだって畳と線香の匂い。 「俺、一回でもキミのやり方に文句言ったことあったっけ」 「あぁ……BAD。熱くなって押し付けがましい事してたぜ……マンネリに苦しむのも、人間らしさじゃねぇかBAD」 共感はするけど、強要はしないのが俺達の関係だった。 「目の前の御馳走に手を付けないなんて、オレには考えられないが……それでいいよ。飢えてるとこ、見たくないし」 「飢えたら、喰うよ。命は循環するものだからね」 「優真はガクセーだからいいよな、入れ食いで。学園なんて制服娘のセルフサービス食べ放題の店みたいなもんだろ?」 「俺、勉強好きだよ」 「社会に出たら無意味だって知るよ……ちょい一服」 とん、とん。渋い銘柄の安タバコのパケを叩く姿が様になっている。 本人曰く大事なのは“葉っぱの詰まり具合”らしいが、俺にはよくわからない。 「スゥゥゥゥ…………」 「………………ハァァァァ……ハハハッ」 「うまい?」 「もちっと大人になったら一緒に吸おうな」 駐車禁止の軽自動車に寄りかかった零二は、持ち前のゆる~い顔つきで空をぼけ~っと眺める。 「雲ってさー、きもちよさそ~じゃね? ふわふわしてさ~」 「上に乗れたらいいなって思うよね、主に眠たい時とかに見ると」 「多分、アレだ。オレたちって仕事柄、万年寝不足じゃん? 道端にベッドあったら金払うのにって本気で思う時あるし」 「あるある」 「まともな時間に寝ないと体力って回復しないらしいぜ? 俺たち体内年齢いくつなんだろな」 「だったらあんな時間にメールしないでくれよ。俺だって毎日2時間はちゃんと寝てホルモンのバランスを保ってるんだよ」 「俺、夜勤明けで寝てねぇ寝てねぇ。けど帰って寝たら一日が終わっちまうからな、女見繕わないと干からびて死ぬし」 「さすがは“《アーカイブスクエア》〈AS〉”の警備員。ただの警備員より残業代がっぽがっぽだね」 高月給のフリーター(言うと怒る)と、 安月給の“《クリアランサー》〈片付け屋〉”(借金返済で90%カットなので)。 年齢、仕事、性格、どれも合致しない俺たちの接点は、女の子が大好きというただそれだけだった。 「ホントは乳揉み師になりてぇんだけどな」 「そんなものあったら人気の職業ランキング1位まちがいなしだね」 「母乳が出ないママさんとか、乳が張って辛いおっぱいちゃんをマッサージして母乳を出させたり、おっぱいの痛みをやわらげる職業」 「え……実在するの?」 「携帯で調べてみ。普通に調べたらつまんねーから“KOEで入力”の機能使えよ、音声認識のヤツ」 「わかった。ンン――――«母乳»«おっぱいちゃん»«マッサージ»«乳揉み師»」 ※音声入力が確認できませんでした※ 「オレに貸してみ」 「むぅ……嫌だ。機械に馬鹿にされたくない」 ※音声入力が確認できませんでした※ 「ハキハキ喋るから認識しないの。発音は生々しさが命だ」 「«母乳»«おっぱいちゃん»«マッサージ»«乳揉み師»」 {乳揉み師}検索結果 約 904,000 件 (0.12秒) 男性が選ぶ「よくわからないけどやってみたい職業」ランキング 「おー! なんか出た!! さすがはバラシィ。素晴らしぃ!」 「だから言っただろ、変態検索はお手の物だ。次はこの街の風俗事情でも調べるか」 「おー! ヘタしたら俺の携帯に多額の請求がきそうでスリルあるねっ!!」 「«たちんぼ»«諭吉5»«暦区ヘルス»«オトコの娘»」 「………………」 めっちゃ見られていた。 流れるような髪が印象的な、美少女。気品に溢れ、資産家の集うパーティ会場にいてもおかしくない雰囲気を醸している。 朝から最低な汚物を視界に入れてしまったという顔から察するに、今のやり取りの一部始終は筒抜けか。 「ヒューーー!」 「ド偉い格好でオレ達の救いを待ってる迷い猫がいるじゃねーか」 「待ってないでしょ、明らかに引いてたじゃん」 「よし――――攫おう!」 「は? えっと、犯罪に手を染めるって意味で?」 「ここに一本の注射器がある。即効性のヤツだ。打ったらコロっといくから、二人で両脇で抱きかかえて路地裏に連れていく」 「警備の仕事そっちのけで、その手の動画を鑑賞してたんだね。ちゃんと手洗った?」 「ともかく次のターゲットはあの子で決定だな。オレに釣り合う女を見るのは久々だ」 顔つきにも品格があり、零二のチャラさと比較するのは可哀想なのでやめた。 「あの子を狙うのは、ボロ雑巾がホテルタオルに恋をするような高望みに思えるんだけど」 「いや――――行ける」 「な、何の根拠が……」 「焦ってんだよ、あいつ。付け入る隙は、必ずできる」 零二の観察眼が光った。 言われてみれば、確かにと思う。衣装、顔立ち、動きも洗練されているが、表情の硬さに落ち着きの無さがにじみ出ている。 「いっちょ声かけてみっか」 「でも待って。忙しいなら尚更、相手にされないんじゃない?」 「目線が少し下がってる。焦りの原因は、落とし物だな。かといって、誰かに声を掛けるわけでもない。捜索の手の入れ方が雑だな」 「つまり……?」 「周囲に知られて、万が一にも拾い逃げされたくない物。大人数で探せない――――落とした事自体が知られてはならないもの……」 「それこそ人生を大きく左右するような、家宝とかな」 したり顔で断言する零二。 「零二まさか……落とし物をズバリ当てて、それを持ってる振りして丸め込む気なの……?」 「ナンパで最も大切なもの、教えただろ? 引き際、目標、情報、そして――――」 「何度でもチャレンジする不屈の精神」 「GOGOGO! オレたちゃ新米乳揉み師! 駄目で元々楽しもうぜ!」 芝生を駆ける少年のように美少女を追っていく零二に追従する。 「おねーさんおねーさん」 「…………」 彼女の気持ちを代弁するなら“さっきの変態二人に絡まれた”といった具合か。まぁそうだよね。 「落とし物だろ?」 「…………」 見逃してしまいそうなほど僅かな動揺。 だが仕掛けた本人が気づかないはずがなく、しめしめと一気に切り込むべく舌なめずりをした。 「オレが持ってる、って言ったら?」 「……その言葉に嘘はありませんね?」 ナンパに対して無視を決め込むタイプの口を開かせる事に成功したら、後はトントン拍子に進む。経験上、そういうものだ。 「誰の指示かは聞きません。返して頂ければ結構です」 「タダじゃ返せないな。少しオレたちに付き合ってくれ」 「私個人としてでしょうか。それとも九條の人間としてでしょうか」 「へ……? 九條ォ……?」 雲行きが怪しい……。 「九條ってあの、パーティの“《ビンゴゲーム》〈余興〉”で自社ビル一つ賞品に出す、大財閥の……?」 「雲行き……」 「“落とし物”とは何を指しているのでしょう。貴方方が持っている証拠はあるのですか?」 攻守交替。零二の反応を怪しんだ九條のお嬢様は柔らかな口調で問いただした。 零二はいつも匠な話術で相手から自然に言葉を引き出すが、ここまで受け身に回るのは手痛い。 「交渉決裂か。なら、話はここまでだな」 「待ってください」 「雲行き! じゃなくて、うまい!」 質問に乗ったら破綻する場面でこの切り返し。 呼び止めた九條のお嬢様は口を開きかけて、一度視線を逸らした。 「……《・・・・・・・・・・・・・・・》〈踏んで壊したりしていませんか?〉」 新情報。ソレは踏んで壊れるもの。 コンパクトで持ち運びが利くものだ。 普通なら携帯かコンタクトあたりでアンサーだが、九條のお嬢様が必死で探すものとなるとどうだろう。 「政略結婚のオーダーメイド婚約指輪をなくしちゃ困るよな」 ムチャクチャ具体的に渦中のアイテムを口にした。 零二なりの根拠があるだろうが、かなり当てずっぽうに聴こえる。 「私が落としたのはつけボクロです」 「ふぉっ!?」 「雲行きっ!!」 今の反応でバレた。バレたーって顔してる。 「はいはい。つけボクロも拾ったよ! 憧れの泣きぼくろで大人っぽく見せられるアレでしょ?」 「いえ、口ボクロです」 「そう、口ボクロ! 両方拾った。差がわからないけど」 「返さなくていいですよ、差し上げます」 零二が遊ばれていた。 「えっと、ホントは何を探してるの? よければ一緒に探そうか?」 既に九條お嬢様の瞳は俺たちではなく、時計の針の動きに合わせて動いていた。 「貴方達のような目的も持たず、日々を浪費してる方々を相手にする時間はありません。他をあたってください」 「グァ! フリーターが一番言われたくない事を……!」 「やめとこうよバラシィ。図星じゃん」 「オレは意味なく危険物取扱者の免許持ってるんだぞ? 車も運転できない箱入り娘にフリーター馬鹿にされちゃたまんねぇよ」 「……無駄足でしたか…………」 ホントは何を落としたのだろうか。 でもさっきの子、どっかで見覚えがあるんだよなぁ。 九條……九條……うーん、思い出せない。痴呆が始まってるな。 「めげずに次行くか」 「ごめん、そろそろ学園行かなきゃ」 「頑張ってハーレム作れよ」 交差点の信号は赤を示していて、通勤の車がびゅんびゅん行き交っている。 「はいはい、零二もいい加減帰って――!?」 「――――!?」 知らぬ間に始まっていて、終わっていた。 “一瞬の出来事”というのはこういうことを差すのだろうか。 人が撥ねられた。 めいっぱい助走した走り高跳びみたいに宙を舞って地面にぐしゃり。 受け身なんて一切なくて、マネキンみたいに顔面からズザザザザって。 「きゃあーーーーーーーーーーー!!」 「うわあ! ハネた! だれか救急車、早く、早く!」 現実を把握したのか、遅れて重なりあった悲鳴が場に満ちた。 「よりにもよってトラックかよ……あれ、無理だろ……?」 茫然自失で率直に心情を吐露する零二に、きっと悪気はない。 あまりにも唐突すぎて、道徳のフィルターが掛けられないのだろう。 「こいつがふらふら信号を無視して入ってきたんだ! クソぉ! 俺の人生終わりだっ!!!」 降りてきた運転手は数歩、歩いたあとに膝をついた。 人を轢けば言い訳無用で人殺しとなり、人生設計が崩れる。 青年は衝突現場から10m近く吹っ飛んだ場所で、うつ伏せに倒れたままぴくりとも動かなかった。 身体の損傷は少なく、血や臓器などの《アラ》〈内容物〉は出てないな――――と職業柄、思ってしまう。 「…………あぁぁぁぁ……」 ぴくりとも……動かない…………? 「……余計なカロリー使っちまったじゃねぇかぁ…………」 青年はむくりと。 何事もなかったかのように平然と。 寝室で起床するように立ち上がった。 「…………」 彼の動きは緩慢だったが、事故のダメージからではなく、生来の性格からくる気怠さのように思えた。 「あぁ!?」 と。彼が大声をあげた。 何事かと思えば、レンズが割れてフレームががたがたになったサングラスをいろんな角度から眺めるだけだった。 「お気に入りだったのによぉ……ツイてねぇ……」 用済みになったソレを靴の裏で踏み潰し、去っていく。 事態を見守ったところで、ようやく傍観者たちの止まっていた時が動き出す。 「き、君! じっとしていなさい! そんな体でどこへ行く気だ!」 「どこに行くって――――俺が聞きてぇよ」 声は掛けられても、彼に近づいてまで静止させようとする者は誰もいなかった。 日常と掛け離れた現実を目の当たりにすると人は動けない。 昨晩の俺自身が経験済みだった。 「特殊撮影とかじゃ、ないんだよな……」 「……驚いたな」 この世には、衝突事故を些細な肩のぶつかり合い程度で済ませてしまう輩がいるようだ。 乗せるべき人物を失った救急車のサイレンが聞こえてくる。 結果として、誤報や悪戯通報として処理されるだろうが、この場にいた全員が口を揃えて証言するだろう。 ――事故は確かにあった、と。 「どれにしようかなぁ~♪」 ひまわりは目を輝かせながら辺りの商店を見渡す。 「ほんとになんでもいいの?」 「“何でも”だと語弊がある。多額の金銭が必要な物や持ち運ぶのに不便な物は遠慮してほしい」 「おかしは?」 「常識的な範囲であれば問題ない」 「りょーかいです! あとおかしとあかしくんってお名前似てるよね」 「一字違いではあるが私の身体は砂糖で構成されていないし甘くなどない」 「うん、そうだね。それよりどこのお店に行こうかなぁ」 僅か数秒で自ら言い出したことに対し興味をなくしていた。やはり子供というのは一般的な成人に比べて対応が難しい。 私は目的を遂行するため懐から数枚の紙幣を取り出してひまわりに手渡す。 「お金? ひまわりにくれるの?」 「好きな物を買ってくればいい。私はこの辺りで待っている」 「どーしてあかしくんは一緒にこないの?」 「少しやることがある。キミが買い終わる頃には合流できるだろう」 「わかった! じゃあひまわりがあかしくんとのえるちゃんの分のおかしも買ってきてあげるね!」 「私の事は気にしなくても構わない。それよりもできるだけ多くの店を回るようにした方がいい」 「りょーかいでーすっ♪ いろんな種類のおかしを買ってくればいいんだね! ひまわりにおまかせあれっ!」 「そういうわけでもないのだが」 駆け出したひまわりに私の声は届かなかった。 私は雑踏から外れ、花壇で咲いているオシロイバナに視線を落とした。ここでしばらくこうしていよう。 ひまわりを一人で行かせたのは注目されることを防ぐためだ。ひまわりの組み合わせは私が一人でいる時よりも周囲の視線が集まってしまう。 複数の店舗を回るように指示したのは、ひまわりを探しているかもしれない人間――“みつきちゃん”と呼ばれる人物の目に留まりやすくするためである。 仮にその人間と合流してそのまま帰るべき場所へ戻ってくれるのなら、面倒事が解消されて私としてもありがたい。 「お兄さん、何見てるの?」 始めは私に向けられた言葉だと気づかずに反応が遅れてしまう。 しかしその声が届く範囲には私と、地面に布を敷いて腰を下ろしている少女の姿しかなく、ようやく自分にかけられた言葉であると理解した。 「何か用だろうか」 「普通、待ち合わせでここにいる人は向こう側を向いてるものなの。お兄さんみたいに花壇の草を見てる人は珍しいから、ついね」 「逸脱した行為ではないと思うのだが。それとも屋外で花壇を見てはいけないというルールがあるのだろうか?」 「あってたまりますか。私も草花は好きだから共感できなくないのよ」 「そうか。花を見ていると説明できないのだが心が落ち着くような気がするのだ」 「わかるわかる。多分草の緑色ってのが心理学的に効果があるのよ? 目の保養にもなるしね」 私が見ていたのは花であって草ではないのだが。 「お兄さんも親に言われたでしょ? ゲームの後は30分間、山の緑を見なさいって」 「そうなのか。私はゲームをしたことがないのでわからない」 「今時珍しいわね。私ですらたまにRPGとかやるのに」 少女には風貌に反した趣味があるらしい。 対戦車ミサイルなど私も実際に目にしたことはないというのに。 「RPGに関しては知識でしか知らないのだが、普通の人間が手に入れることができるものなのだろうか?」 「え? この辺りじゃ色んなトコでバンバン売ってるけど?」 「それは嘘だろう。私もこの辺りに来ることは多いが、バンバン撃っている所など見たことがない」 もしそうだとすれば駅前は旧市街に劣らぬほど荒廃していなければおかしい。 私はからかわれているのだろう。からかわれるのは気分が悪い。私は話題を変えた。 「それでキミは何をしているのだろうか」 「私? 見てわからない、か・し・ら?」 少女は大げさに両手を広げて胸を張った。 記憶を遡る。同じような状況が過去にあったことを思い出した。 「ああ、わかった。少し待ってほしい」 私は仕事で得た紙幣を財布から抜き出し、少女の足元へ落とした。 「ん? 何このお金?」 「物乞いなのだろう? その金は好きに使ってくれて構わない。だから私を放って置いて――」 「誰が物乞いだああああああああああああああああ――!!!!」 「違うのだろうか」 「全然違うわよっ!! どんな目してたらこんな美少女が物乞いに見えるの、か・し・ら!?」 「すまない。であればキミは何をしているのだろうか」 「はぁ~、ここまで察しの悪い人は初めてだわ……」 少女は布の上に置かれていたカードの束を見せ付ける。 「占い師。占いと名のつくものならほぼ全てをマスターしてるスーパー占い師よ」 占い。何かしらの道具を用いて、対象者の運勢や未来などを透視する行為。 多くの人間に認知されているにも関わらず、その効果に関しては科学的根拠はないと聞いた。 つまり気休め程度に楽しむ一種の娯楽である。 「それは悪いことをしてしまった。許してほしい、占い師を見たのは今日が初めてだった」 「別に怒ってないからいいわ。丁度暇だったトコだし」 少女は渡した紙幣を懐に収めた。 「物乞いではないのなら、どうして金を自分の物にするのだ」 「これは占いの代金♪ お兄さん、今日の運勢最高に良いわ。私に占ってもらえるんだもん」 正直この少女が物乞いだろうが占い師だろうがどちらでも良かった。 それよりも花壇の花を観察することに戻りたい。 「今日の運勢が最高だと結果が出ているなら、キミが占う必要がないと思うのだが」 「ちっちっちっ、あんまり舐めてもらっちゃ困るねお客さん。私にかかれば運命の相手からなくしたテレビリモコンの在り処まで百発百中なのよ?」 「もし本当ならそれは凄いことだ」 「あ、いや、百発百中は言い過ぎたけど。まあ百発十中は堅いから安心してもいいわ」 「大分下がったのだが。十回に一回ならば適当な事を言っても当たりそうな確率だと思うが」 「むむむーー! 細かいことにこだわるタイプね。ピンと来たわ」 私が悪いのだろうか。 「ま、当たる当たらないは占ってあげた後に自分で確かめればいいよ。もし当たったらきっと私に感謝したくなるわ」 「ならば当たらなかった場合は返金してもらえるのだろうか」 「そんな占い師はい・な・い」 少女は脇に置いてあったタロットを手に取りシャッフルする。その手つきは素人目から見ても手馴れたものだった。 「何を占ってほしい?」 キミから解放される手段―― そう言っても少女は取り合わないだろう。であれば逆に占いを終わらせてしまった方が効率的だ。 「ならば、私のなくした物の手がかりがどこにあるのかを知りたい」 「じゃあここから一枚抜き取って」 少女はシャッフルを終えたカードの束を眼前の突き出す。 「探し物が何であるかを聞かなくてもいいのだろうか」 「消閑の綴り師と呼ばれた私に不知の事実など存在しないっ! という設定だから」 「なるほど、それが事実なら期待できそうだ」 もちろん私は信じてなどいなかった。個人の持つキャパシティの範疇を越え過ぎている。 私はカードの束から一枚を抜き取り、消閑の綴り師に提示した。 「ほう、ほうほうほう」 「これで何がわかるのだろうか」 「お兄さんの探し物は……テレビのリモコン――」 「いや違――」 「ではない! テレビのリモコンではない! 全然違う! 大丈夫!」 「…………」 少女は目を細めて唸りながら私が選んだカードを凝視する。 「……形のある物じゃない、よね。物質的な物じゃなくって、もっと別の何か」 彼女の言葉は私の身体を停止させた。 「最近じゃない……もっと昔になくしたもの……それはとても大事なもの」 「ああ、とても大事なものだ」 どんなことをしても取り戻さなければならないものだ―― 「その大事なものに辿り着くための手がかりを追ってる。けどそれも見つけるのが難しくて困ってる」 「その通りだ」 私は彼女の言葉を聞き逃すまいと耳を傾ける。 「む~~~~~~~ん……探し物の手がかりは……」 目を閉じ、人差し指を額に当てて考え込む。 「ズバリっ!! あっちの道を真っ直ぐ進めば手がかりと遭遇するでしょう!!」 背後を指差され、私は振り返った。 「……道などないのだが」 「やばっ、ミスったわ――じゃない、今のはウソ、冗談ですよお客さん♪」 上がりかけていた信用度が元通りの下降線を辿り始めた。 「ええと、あっちかなぁ?」 「何故私に聞く」 「じゃああっち! あっちでいいやもう!」 消閑の綴り師は最終的におざなりな態度で細い路地裏を指差した。 「あの道を行けば、探し物が見つかるというのか」 「見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない」 「あまりにも無責任だな」 「まあ何が言いたいかというとだね、占いなんかに頼ってちゃダメってこと」 「…………」 「そこっ! キョトンとした目をしないっ!」 「占いを生業にしている者の発言とは思えないのだが」 「占いに頼り過ぎちゃダメなの。あくまでも占いは助言であって、選択するのは本人だから」 「占いに頼って失敗するよりも、自分で納得して決めた上で失敗した方が諦めもつくでしょ?」 「確かにそうだ。私が今まで占いというものに興味を抱かなかったのも、きっとその辺りが関係しているのだろう」 「良い心がけね。これからもそうやって自分を強く持って生きていけば、いつか探し物も見つかると思うわ」 「他人事だからといって無責任な発言だ」 「私は占い師よ? 空が青いと言ってるのと同じ」 「なるほど、勉強になった」 一段落したところで周りに視線を移す。 ひまわりの姿は見えない。まだ買い物の途中か、もしくは―― どちらにせよ、もうしばらくこの辺りをうろついていても問題はない。 「行くの? 《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉」 彼女は自信に満ちた顔で問いかける。 私は急いで脳内の辞書を開き検索するが、該当する単語は見当たらなかった。 「すまない、その《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉というのはどういう意味か教えてもらえるだろうか」 「あなたの名前よ。どう、かっこいいでしょ?」 一体この少女は何を言っているのだろう。私には理解ができなかった。 「私にはすでに使用されている名前がある」 「そういう細かいことは気にしちゃダメよ。紅蓮のように真っ赤な髪だから《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉。かっこよくない?」 「そういった基準で物事を判断するのは得意ではない」 「厨二の良さがわからない人かぁ。残念」 そういえば今日の朝、ノエルも同じようなことを言っていた気がする。帰ったらノエルに聞いてみることにしよう。 「あ、忘れるとこだった。はい」 消閑の綴り師は占いに使用したカードの一枚を私に手渡す。先ほど私が無作為に選んだものだ。 「持ってると良いことあるかもよ?」 「あるかもしれないし、ないかもしれない」 「そういうこと♪」 占い師という人種に少し詳しくなれた日だった。必要かどうかはさておき、知識が増えるのは悪いことではない。 「さらば、また逢う日までっ! “《アラウンドザワールド》〈ATW〉”!」 「ああ、残念だがこの辺りで失礼する。さようなら」 消閑の綴り師に背を向けて指示された道へと歩き出す。 「名残惜しいなら、また私と出会うことを祈りながら寝るといいよっ! 私はこの街のどこかで占ってるから!」 歩みを止めないまま振り返ると消閑の綴り師が会心の笑みを浮かべて手を振っていた。 残念だ。花壇の花をじっくり観察するのはまたの機会にしよう。 駅前を少しばかり逸れると先ほどまでの喧騒が嘘のように静けさに包まれる。 裏通りに立ち並ぶビルの隙間は人の往来をまったく感じさせない。ゴミ袋が無造作に置かれた様子はどちらかと言えば旧市街に近い印象を受けた。 「…………」 ひまわりを待つための時間潰しを兼ねて消閑の綴り師の導きに従ってみたわけだが、このまま倉庫に帰ってしまおうかと思い立つ。 仮にひまわりが連れ人と合流した場合私がいる必要はない。 そうならなかったとしても、きっとひまわりは私の姿がなければ一人で倉庫に戻ってくるだろう。 戻ってこなくとも私にとって何ら問題はない。むしろ面倒事がなくなって助かる。 そうと決まれば行動に移すのは早い方が良い。 私は踵を返して歩いて来た道を戻り始めたのだが―― 「あんまウダウダ言ってっと何するかわかんないよ!?」 背後から何かが倒れたような音と男の声が私の足を止めた。 「おい、ビビらせたらカワイソウだろ。女の子は優しく扱ってあげねーと」 「こいつがオレのことなんつったか聞いただろ!?“オランウータンの子供みたいですね”っつったんだぞ!?」 「うまいこと――いや、ひどいこと言うもんだなぁ。それはよくない」 声の発生源には三人の人間が立っていた。穏やかな雰囲気ではなく、二人がもう一人を問い詰めているように見えた。 どうやら私には関係がなさそうだ。 しかし予定通り倉庫に帰ろうと目線を切る直前、私の目はあるものを捉えた。 「……面倒事にこれ以上関わりたくはないのだが」 足取りは重かったが、見て見ぬフリはできそうにもない。 争う人間たちに近づくと、責められている人間は女であることがわかった。 「勘違いなさらないで下さい。貴方の顔がそう見えただけです」 山吹色の髪をした少女は、男二人に気圧されることもなく凛々しい風格を纏っていた。 私の脳裏にスイセンの花が浮かび上がった。 「貴方の行為は社会的ルールから逸脱している分、オランウータンの子供にも劣ります」 「動物ですら群れでのルールを守っているのですから」 社会的ルール。私の好きな言葉だった。 「キレた!! マジきれた!! さすがに温厚で有名なオレでもさすがにキレたわ!!」 温厚で有名な男は評判に反して明らかに興奮していた。 「まあ落ち着けって。ここは俺に任せとけ。ねぇ、お姉ちゃん、名前なんていうの?」 冷静さを欠いている男を太ったもう一人の男が制する。 少女の方は相変わらず毅然な態度を崩さなかった。 「貴方がたに名乗る名前は持ち合わせていません。それよりも私の質問に答えて頂けますか」 「質問? ああ、ちっちゃい子供を見なかったかどうかだっけ」 「そうです。それを教えるからとこんな場所に連れ込んだのではありませんか」 三人は会話に夢中で私の存在に気づいていない。 彼らの話から大体の状況は把握してきた。 「そんなの知らないよ? 僕たちは君と仲良くなりたいだけだからさ」 「……嘘、だったのですか?」 「すぐに人の言うこと信じちゃダメだよー。悪い人についていっちゃダメだってガッコーで習わなかった?」 太った男が少女の腕を掴む。 「――!? 何をするのですか!?」 「何って男と女が揃ったらヤること一つでしょ」 男と女が揃えば一体何が行われるのか―― 興味はあったがそれよりも優先すべきことがある。私は彼らに一歩ずつ近づく。 少女の目がこちらに向けられた。 「…………」 だがそれもほんの僅かな間だけで少女は私から視線を逸らした。 ……………………。 腑に落ちない。私の知識によれば、こういった場合第三者の存在を認知すれば助けを求めるのが一般的な反応ではないのだろうか。 「おい、さっさとやっちまえ!! この偉そうな女を黙らせろ!!」 いけない、早くしなくては―― 私の存在を認識していなかった残りの二人にもわかるように、わざと足音を立てながら声をかけた。 「すまない。立て込んでいるところ悪いのだが」 「あ? なんだよオメぇ? 邪魔しようってのかよ」 「もしかしてこの娘の知り合い? だったら悪いけどしばらく貸しといてくんない?」 「いや、彼女と面識はない」 一度外れた少女の視線が再び私を捉える。今回はどこか驚きの色が浮かんでいるように見えた。 「だったらなんの用なんだよ!! ごちゃごちゃ言ってっとオメェから先にやっちまうぞ!」 「忙しいようだから端的に言わせてもらう」 私は彼らの足元を指で示した。 「そこに咲いているタンポポの花がキミたちに踏まれてしまいそうだったもので」 三人の人間は一様に目を見開いた。 「たんぽぽぉ?」 「ああ。私が育てているものではないが、せっかく咲いているのだ。何もわざわざ踏みつける必要は――」 オランウータンの子供に似ている方の男は私の言葉が終わるのを待たずに殴りかかった。 私は途中で途切れた台詞を復唱する。 「できればそのままにしておいてほしいのだが」 私は再び頬を殴られた。 何故この男はこんなにも怒りを露にしているのだろうか。 私の頼み方に問題はないと思うのだが……。 「ナメんのもいい加減にしろよ!! あ!? ナメてんだろ!?」 「私は何も舐めてはいない」 「その態度がナメてるっつってんだよ!!!!」 古くから伝わる言葉で“二度ある事は三度ある”と言われるものがあるのを思い出した。 同じく引き合いに出されることが多いもので“仏の顔も三度まで”と言うものもあったりもする。 実は私が調べた文献によれば本来は“仏の顔も三度”である。“まで”が付くと三度目も許されてしまうのではないかと誤認しかねないのだが広く伝聞しているのは“まで”がつく方だ。 「ウラァァァァアァアア――!!!!」 ただどちらにせよ、仏でも三度無法なことをされると腹を立てるという意味合いには変わりないので、だから私は若者に肉体的な罰を与えることにした。 「ギャアッ――!?」 服についた埃を掃う程度の力に留めたにも関わらず、若者は五メートルほど地面を転がった。 「ごぉあぁぁぁおえぇぇぇぇぇ――!?」 人間は酷く脆弱だ。私の身体が人間のソレと同じであるとしても、普通の個体とは比べるまでもない。 両者における明確な差はこの状況を見れば一目瞭然である。 「大丈夫だろうか?」 私は若者の身を案じ、手を貸そうと歩み寄る。 この若者の命自体にさほど興味はない。ただこの世界では人間の命を奪う行為は禁じられている。大事にしてしまうのは都合が悪かった。 「す、スイマセンでした――!!!」 太った方の若者は倒れている仲間の肩を担ぎながら謝罪をした。 「謝る必要はない。キミたちの邪魔をしたうえに彼を傷つけてしまった。許して欲しい」 私は手を差し出して握手を求める。人間の間で使用される和解を要求する行為だ。 自分のとった行動に私は自信を持っていた。突発的な状況に対しても上手くやれているな、と。 しかし―― 「う、ウワアアアアアアァァァァ――!!!」 二人の男たちは酷く怯えた様子で走り去ってしまった。 「…………」 何がいけなかったのだろうか。私の対応に問題はなかったはずなのだが……。 ……まあ良い。あの者たちとはもう会うこともないだろう。足元に咲いているタンポポの花も無事なのだ。 それにしても二日続けて人間と諍いを起こしてしまうとは、私も反省しなければならない。 波風を立てず、やるべきことだけを遂行しなくては。 「どうして――」 「ん――」 振り返ると一人残された少女は鋭い眼光で私を見据えていた。 「どうして私を助けたのですか」 少女の口調は疑問を投げかけるというより問責を受けているように感じた。 どう答えるべきか。 キミではなく足元のタンポポを守りたかった―― いや、先ほど見せた彼女らの反応を見る限り、この場に相応しい解答とは思えない。 私は核心に触れぬよう言葉を選ぶ。 「手の届く範囲だけでも、自分に何かできるのなら行動したいと思うのはおかしい事だろうか」 世界中に群生している草花全ての成長を見届けることなど不可能だ。 だからと言って手を伸ばせば届く距離にあるものを見過ごす理由はない。 「おかしいです。見て見ぬふりをする、それが普通の人間が取る行動です」 「なるほど、私もまだ至らぬところが多いようだ」 他人に指摘されるようでは勉強が足りない。 「今回はあなたに対処できる事態だったから首をつっこんだのでしょう?」 「対処しきれないほどの多勢であれば、見なかったことにしたはずです」 「かもしれない。できれば面倒事は抱え込みたくはない」 「…………」 少女は深く目を閉じ、吐き出すように言った。 「世界はまやかしで満たされている。そう思いませんか」 「まやかし……」 私は聞き馴れない単語を脳内の辞書で探す。 まやかし。嘘や偽りとほぼ同義に近い意味だったはずだ。 「人は打算がなければ動きません。無償の善意など存在しないのです」 「人間が利益を追求している点には同意だ。でなければ彼らの文明はここまで進化していないだろう」 「ですから回りくどいことを言わないであなたの要求を言ったらどうですか。お金ですか? それとも自己満足に浸るためですか?」 さて、どう答えたものか。 「私はキミの知っている人間とは違う」 「何故そう言えるのですか」 人間ではないから―― その一言に尽きるのだが、間違っても口に出してはいけない。私たちは隠匿されている存在なのだ。 「……やはりあなたも他の人と同じなのですね」 少女は私の沈黙に対して独自の解釈をしたようだ。 都合が良いので否定はしない。代わりに話題を変更した。 「キミはどうしてこんな場所にいるのだろうか。私には利便性があるように思えないのだが」 「あなたには――」 途中で何かを思い出したかのように言葉を中断する。 「……人を、探していたのです」 「先ほどここにいた彼らのことだろうか?」 「あの人たちは……私が探している子の特徴を伝えたら、知っている、教えてやるからこっちに来いと」 「なるほど、それで騙された」 「っ……!」 少女は苦虫を噛んだ様に視線を外した。騙されたという事実を恥じているように見えた。 「他人に頼った私が愚かだったのです。本来なら、こんなことはしないのに……」 いつもと違う行動を取るのは、そうせざるを得ない理由がある場合だ。彼女にもそれなりの事情を抱えているのだろう。 しかし、私には関係がない。 「私も人を探している。長年探し続けているのだが、今だ見つけられていない」 「…………」 「だが必ず見つけ出す。そうしなければならない理由が私にはある」 そういえば先ほどの占い師はまだあの場所にいるのだろうか。 向かった先には面倒事しかなかったと報告しようかとも思ったが、さらなる泥沼にわざわざハマりにいく必要はないと考えを改める。 「お互い、探し物が見つかるといい」 私はそれ以上少女にかける言葉も見当たらず、細い路地を引き返す。 しかし道の先に立つ人影がそれを制した。 「あーー!! あかしくんいた!!」 「…………」 買い物を終えたひまわりが大きな飴をぶんぶんと振っていた。 私の計画は徒労に終わったようだ。 「もー!! ちゃんとまちあわせ場所にいてくれなきゃ困っちゃうよ!! あかしくんがまいごになっちゃったと思っていっぱい探したんだよ!」 「すまない。だが迷子はキミだ」 仕方なくひまわりの元へ歩み寄ろうとするが、その脇をすり抜けるひとつの影があった。 背後にいたはずのスイセンに似た少女がひまわりに駆け寄る。 「見つけた――」 風に乗った柔らかな匂いは、スイセンよりも甘く優しげな香りだった。 「見つけた? 一体何を?」 今この場に現れたのはひまわりであって、少女の探し物では―― まさか―― ある一つの仮説が浮かび上がった。仮説は瞬く間にひまわりの言葉によって真実となった。 「あ!! みつきちゃん!! ゴキゲンオー♪」 「ではキミが――」 私と会う前にひまわりと一緒にいた人物。 「探したのですよ……今までどこにいたのですか」 「えとね、あかしくんのおうちだよ」 スイセンの少女は驚きと警戒を混ぜたような瞳で私を見据えた。 私は最終確認を行う。 「キミの名は“みつき”なのか?」 返ってきた言葉は回答でも黙秘でもなく、予想だにしない一言だった。 「あなたが“赫”ですか?」 私は理解に苦しむ。 つい今しがた、ひまわりの口から私の名が出た。だから彼女が私の名にたどり着くことは何も不思議なことではない。 しかし“あなたが”とは一体どういうことだ……? まるでひまわりが口にする前から、私のことを知っているかのような―― 彼女は私の沈黙を肯定と捉えたようで、私に向かってこう言った。 「お話があります」 「“《イデア》〈幻ビト〉”であるあなたに」 「何故知っている」 普通の人間が知るよしのない事実を少女はさらりと言ってのけた。 「あなたの、探し物に関係することです」 私の思考は一瞬にして奔流に飲み込まれる。 海の底で笑っている亡霊が手招いている気がした。 新市街での予期せぬ邂逅を受け、急遽住処である倉庫に舞い戻った。 道中、美月と呼ばれる少女は言葉数少なく、私の質問を一切受け付けなかった。 「ここなら誰にも聞かれることもないだろう」 少女は倉庫に足を踏み入れるなり、珍しい物を見るように内部を見渡した。 「このようなところに住んでいるのですか?」 「そーだよ♪ ここがひまわりとあかしくんとのえるちゃんのおうちでーす♪」 「…………」 少女は何かを心配するかのようにひまわりに目を配った。 「《へんぴ》〈辺鄙〉な場所ではあるが不便は感じていない。生活に必要な環境は揃えられている」 電気、水道、ガス。それら全てのインフラは過去の地殻変動に伴い、旧市街全域で機能していない。 にも関わらずこの建物内に水が流れ、灯の明かりが点るのは、専用の機材をノエルが屋外に設置しているからだ。 私にはどのような経路を使えばそれらを入手できるのか検討もつかない。彼女はどんなことでも要領よく平気な顔でこなしてしまう。 「それでは話の続きを聞かせてくれないか。キミは一体何者だ」 「あかしくんあかしくん」 始まろうとした重要な対話が遮られる。 「何だろうか」 「あのね、おきゃくさんが来たときは、お話の前にお飲み物を出さないといけないんだよ」 「すまないが礼儀を重んじている余裕がないのだ。喉が渇いているならそこから好きに取ってくれてかまわない」 私は飲料水の入った冷蔵庫を指差す。 「お構いなく。そんな無作法なこと、したくありません」 「良かった。ならば早く話を始めてもらえるだろうか」 「ひまわりはのど乾いちゃったからなんか飲むよー」 ひまわりは冷蔵庫を開け麦茶を取り出す。私達二人とは、明らかに温度が違っていた。ひまわりがいては話の腰が折られかねない。 「ひまわり、少し席を外していてほしい。口にする飲料が必要なら冷蔵庫ごと持っていってくれて構わない」 「こんな子供が持ち運べるわけないでしょう」 そうだった。ひまわりは普通の人間なのだ。ノエルとは違う。 彼女との生活で培われた目線で人間を見てしまうとは。どうやら冷静さを欠いてしまっているようだ。 「それにこれからするお話は、この子も関係しているのです。同席して頂いて構いません」 「キミの話は人間に聞かせても問題がないのだろうか」 「……きっと、難しいことはわからないでしょうから」 「なるほど」 「ごくごく……ぷはぁ! 呼んだ?」 「呼んではいない。ここにいて構わないから大人しくしていてくれないか」 「はいはーい♪ ひまわり大人らしくする!!」 誤解しているようだが、どちらにせよ同じ意味合いには変わりない。 「では説明を始めてほしい。まずキミの名前だが、美月と言ったか」 「九條。九條美月です。親族以外に名前で呼ばれるのは不愉快です」 「わかった。では九條、話を聞こう。まず、私達のことをどこで知ったのだろうか」 彼女は私が人間ではないことを知っていた。 “《イデア》〈幻ビト〉”――彼女は確かにそう言った。 この世界に生息する人間とは決定的に差別化された存在の総称。私とノエルはこれに該当する。 その事実が露呈しないよう、長年にかけて細心の注意を払っていたにも関わらず、九條は私が“《イデア》〈幻ビト〉”であると言い放った。 「その前に、あなたが“赫”である証拠を見せて頂けますか」 “赫”である証拠――すなわち“《イデア》〈幻ビト〉”であるという証明を少女は要求した。 「…………」 私は躊躇した。 人間の前で力を使うことはノエルに禁止されている。 しかしそれは私達が人間ではないと広まるのを防ぐためである。 ならばその戒めは無意味だ。この少女は私の正体を知っているのだから。 「わかった」 私は常時右手に装着している耐火性に優れた特殊な手袋を外す。 「これでいいのだろうか」 私は眼前に右腕をかざす。 そして呼吸をするのと大差ない感覚で炎を具現化した。 私は生み出した炎の火力をできるだけ抑えることに努めた。 間違っても部屋の内部に燃え移すわけにはいかない。そんなことをすればノエルに申し訳がない。 「……これが、あなたの“《デュナミス》〈異能〉”なのですね」 少女は私の右手を食い入るように見つめていた。 「……わかりました。もう結構です」 私は無事“赫”であることを認められたようだ。 一部の例外を除き“《イデア》〈幻ビト〉”だけしか扱うことのできない個別の力。人間界の理から逸脱した能力。それが“《デュナミス》〈異能”。 炎を消し、再び手袋を装着する。どうやらひまわりは冷蔵庫を漁ることに夢中で私の“《デュナミス》〈異能〉”を見ていなかったようだ。 「これで満足してもらえただろうか。であればキミの話を聞かせてほしいのだが」 少女は私の要求に応え、小さな唇を動かし始めた。 「あなたのことはその方から教えて頂きました。旧市街には“赫”という“《イデア》〈幻ビト〉”がいると」 「その人物は何者だろうか」 「それはお教え出来かねます。ですが、私がここに来たのはその方からの依頼をあなたに伝えるためです」 「依頼?」 “《イデア》〈幻ビト〉”についての知識を持ち、尚且つ私の正体に気づいている人物。 それだけでも得体が知れない。加えて私に依頼したいこととは一体―― 「あなたに……数日間、預かって頂きたいものがあるのです」 そう言いつつも少女に何かを取り出す素振りは見えない。 「…………」 代わりに視線を私の背後に向けた。 合わせて私も振り返る――麦茶だけでは飽き足らなかったと思われるひまわりが冷蔵庫の中を物色している姿があった。 まさかとは思うが―― 「……冷蔵庫、なのだろうか?」 「え?」 「あれは元々私の物なのだが……」 ふと思い返す。いや、そうとは限らない。あれも倉庫内にある他の物と同じように、ノエルがどこからか運んできた物だ。 もしも前の所有者が別にいたとしたら、彼女の言い分も―― 「……私をからかっているのですか?」 「ん?」 「あなたの冷蔵庫がどうなろうが、私には関係のないことです」 どうやらあの冷蔵庫はノエルが正当な手段で手に入れた物のようだ。 とするなら一体何だと言うのだろうか。 冷蔵庫とひまわりしかいない―― 冷蔵庫とひまわり-冷蔵庫=? 簡単な引き算にも関わらず、その解はにわかに信じがたいものだった。 「まさか、ひまわり……?」 「およよ?」 当の本人は事態の様相などいざ知らず、見つけ出したパンケーキを開封する途中だった。 「その通りです」 「ひまわりを預かってほしい、というのがキミの要求なのだろうか」 「はい。あなたには期日を迎えるまで、あの子を預かって頂きたいのです」 「何故?」 「理由については黙秘させて頂きます。その他の疑問に関しても基本的には答えかねますので予めご了承下さい」 「説明もなしでは交渉を円滑に運ぶことはできない」 何らかの事情で子供を預けること自体はさほど珍しいことでもないだろう。そういった施設は数多く存在している。 しかし最大の疑問は何故私に―― しかもわざわざ私が“《イデア》〈幻ビト〉”であることを確認した上で。 「ひまわりの面倒を見てほしいのなら、専門の業者に頼めばいい。あえて私に依頼する理由があるのなら、それくらい教えてもらえないだろうか」 九條は手を口元に当て、言葉を選んでいた。 「あなたに依頼するよう頼まれたから。それだけです」 「誰に?」 私の問いに対する答えは返ってこなかった。 では自分なりに考察してみよう。 まず人間と“《イデア》〈幻ビト〉”の違い―― 人間は脆弱だ。私達に比べ外的な衝撃にも弱く、あろうことか自ら命を絶つ場合もある。人間という種全体で捉えれば話は別だが、個人としてはあまりにも頼りがないと言わざるを得ない。 その点“《イデア》〈幻ビト〉”は個体としての強靭さは人間よりも勝っている。身体能力に関しても個体差はあれど人間に劣ることはまずない。 ノエルが見ていたテレビ番組のひとつで、世界中から選りすぐられた人間が走力を競う催しが行われていた。仮に“《イデア》〈幻ビト〉”が混じっていれば人間は手も足もでないことだろう。 だがどこまでいってもここは人間が支配している世界だ。私達が存在していたもうひとつの世界――“《ユートピア》〈幻創界〉”とは勝手が違う。 最大のデメリットは人間社会においてどこまでいっても私達は不純物であることである。 「キミに指示をした人物の名前も教えてもらえないのだろうか。話をするのに少々不便なのだが」 「お教えできません」 「理解した。ならば仮にその人物を“上司”と呼ぼう。部下に指示を与えるのは上司の役目だ」 「…………」 彼女は了承したというより興味がないように見えた。呼び方などどうでもいいらしい。 「キミの上司は私にひまわりを預けたい特別な理由がある。でなければ私のところに来るのはおかしなことだ」 「キミがそれを言えないというのならこちらは聞かないでおこう。業務の内容はわかっているのだから」 ひまわりを数日の間預かる。食料を与え、寝床を用意する。昨日から今日にかけて既に私達がやったことだ。面倒ではあるがやれないことはない。 相応の対価を用意しているのなら―― 「では報酬の話に移ろう」 私は彼女の一挙手一投足を見逃すまいと凝視した。 「キミは私の探し物について知っている様な言い方をした。覚えているだろうか」 「ええ、つい先刻の言動を忘れるほど愚鈍ではありません」 「キミは私の探している物が何であるか知っているのだろうか?」 「はい。あなたは“《ファントム》〈亡霊〉”を探している。私はそう聞いています」 正直に言うと私は彼女がその名を出すまで半信半疑だった。 「どうしてキミがそれを知っているのだ」 「必要最低限の質問しか受け付けられません」 人間であれば一方的過ぎる対応に腹を立てることもできただろう。だが私は交渉のテーブルから降りることを許されない。 私が存在している理由が目の前にあるのだから。 「キミたちがどうしてそれを知っているのか、言わないつもりなら構わない」 “《ファントム》〈亡霊〉”の存在は世間で広まっている噂だ。知っている者も多いだろう。 だが私がそれを追っていることを認知している人物となるば話は別だ。私はノエル以外に把握していない。 …………。 まさかノエルが? いや、わざわざ第三者を介入させて回りくどい方法を取る意味はない。ノエルも事の重大さはわかっているはず。兎の件はあるが浮気を疑うのとは訳が違う。 「キミが提供する対価というのは“《ファントム》〈亡霊〉”に関することだろうか」 「ええ、そうです」 「なるほど。しかしこちらの要求する対価が得られるという保証はどこにもない」 一般的に報酬は現物の先払いか信用に基づいた後払いが基本だ。そのどちらもないのでは業務契約は締結できない。 「ええ、ありませんね」 九條は拍子抜けするほどあっさりと認めた。 「ですがあなたには取捨選択をする余裕はないのではありませんか? 少なくとも私はそう聞いています」 「足元を見るとはこういうことを言うのだな」 彼女の言う通り、私に選ぶ権利はない。どれだけ不確かだとしても、今の私にはこれ以上ない手がかりなのだ。 私の返答はひとつしかなかった。 「わかった。キミの依頼を受けよう。具体的に何日ひまわりの面倒を見ればいい」 「現時点で確定させることはできませんが、一週間程度と考えて頂いて構いません」 一週間―― その期間を過ぎれば私の望む情報が手に入る――かもしれない。 生存活動に致命的な問題が発生するような業務内容ではない。言わば徒労に終わったとしても然したるリスクは存在しない。 それよりも何故彼女らは私達のことを知っているのか。どちらかと言えばそちらの方が切迫した問題である。 「当然ですが、期日までの間にあの子の身に何かあれば報酬はないものと考えて下さい」 「死なないようにすればいいのだろう」 「そんなことは言うまでもないことです。できるだけあの子の言うことを聞いてあげてください」 「善処しよう」 ひまわりに視線を移す。パンケーキを食べ終えたらしく、次の獲物を探して冷蔵庫に頭を突っ込んでいた。 「キミとひまわりはどういう関係なのだ。それも答えられないことなのだろうか?」 「……別に、ただの知り合いです。あなたに引き渡すまでの数日、面倒を見ていただけですから」 「なるほど」 私の経験談から言わせてもらえば、ひまわりの扱いには手を焼くことこの上ないと思うのだが、この無愛想な少女も同じように苦労したのだろうか。 「……何ですか」 「いや、別に何でもない」 「……用件はお伝えしました。私はこれで失礼します」 「っ!?」 美月が前かがみに倒れそうになった。 私は普通の人間ならこういった場合どうするのかを考え、九條が倒れてしまわないように身体を支えた。 「大丈夫だろうか」 「別に、少し眩暈がしただけです」 意識もしっかりしており、彼女の言う通り大したことではなさそうである。貧血か何かなのだろ―― 突如――轟音と共に倉庫内が大きく揺らいだ。 「わあぁっ!? じしんだよ!! みんな机の下にかくれてぇ!!」 大きな揺れが一度――パラパラと天井から塗料の欠片が落ちてくる。 「何だ」 地震であれば断続的な揺れがするはずだ。そもそもあのような大きな音は発生しない。 私は倉庫の入り口に近づく。 「ああ、ノエルか」 倉庫の外には亀裂の入った地面と、それを見下ろしているノエルの後ろ姿があった。 「どうしたのだ。中に入ればいいではないか」 「ごっ、ごごごごっ、ごごごごごごごごごごごっ」 「ん?」 ノエルは遠くの空を見上げたまま微動だにしない。 仕方がないので私はマネキンのように固まったノエルを担ぎ倉庫の中へ戻る。 「あ、のえるちゃんおかえりー♪」 「え?」 ノエルを肩に背負った私に対し、二人はそれぞれ反応を示す。 私はノエルを足から地面に下ろした。 「この方は一体どうなっているのですか……?」 「少し混乱しているだけだ。前にも一度こうなったことがある」 以前、新市街で人間の女に話し掛けられたことがあった。 偶然にもノエルがその光景を目撃しており、今と同じような状態になったことがあった。 「ごっ、ごごごごっ、ごごごごごごごごごごごっ」 「言いたいことがあるなら言えばいい。私はちゃんと話を聞く」 ようやく瞳の焦点が定まり、眼前に立つ私を捉えた。 「ご、ご、ご主人、浮気した、ノエル、悲しい……」 「浮気などしていない。いつも言っているだろう」 「ノエル、知らない、この女、知らない、何も、知らない、ノエル、悲しい……」 「病院にお連れした方がよろしいのでは」 「いや大丈夫だ。すぐに治る。ノエル、聞いてくれ」 ノエルの両肩に手を置く。 前にそうしたように今回もノエルの目から視線を外さない。 「私は浮気などしていないし、これからもしない。私を信じてほしい」 「……本当ですか?」 「ああ、浮気などするわけがない。私にはノエルがいる。それだけで十分だ」 「……ご主人」 「愛している」 私は前回の危機に直面した際、参考にした書籍の内容に従った。 確か書名は“女性の心を操る方法”だったか。ノエルが好むフレーズを合わせて使用することを忘れない。 ノエルの顔にゆっくりと安堵の色が浮かんでいった。 「……私もです」 ノエルは私の胸に顔を埋め、背中に手を回した。 「……人前でよくもそのような行為ができますね」 九條が人間の価値観に則った意見を述べる。 「愛、などと軽々しく語ること自体、まやかしであることの証明です」 「このままご主人の胸の中で死んでしまえばどんなに幸せか」 ノエルは顔を上げ、九條に正対した。 「でもどうやらそうもいかないようですね。私が死んだら誰もご主人を泥棒猫から守れなくなってしまいますから」 胸を突き出し、九條に対して威圧的な態度を取る。 しかし九條が気圧されているようには見えない。 「何か」 「言いたい事は山ほどありますがね、一つだけハッキリさせておきましょうか」 ノエルは豊かな胸をさらに押し出した。 「ご主人は私が守る! 何があってもだ!」 「どうぞ。私には関係がありませんから」 高圧的なノエルの視線をさらりと受け流す九條。 「用件はお伝えしましたので、私は失礼します。よろしいですか」 「私は約束を守る。キミたちも約束を守ってほしい」 九條は返事をする必要がないと思ったのだろう。 一瞬、睨み付けているノエルを見た後に背を向けた。 「あ、みつきちゃんかえっちゃうの?」 「はい。もうここに用はありませんから」 「そっかぁ。じゃあ帰る前にいいものあげる♪」 ひまわりは冷蔵庫を開け、中から菓子パンを取り出した。 「これは……?」 「はちみつあげパンさんだよ♪ あまくてふわふわですっごくおいしいの♪」 どうやら昨日手に入れたパンを食べずに残しておいたらしい。 「…………」 九條は差し出された菓子パンを前に逡巡しているようだった。 「どうしたの?」 「……私は結構ですから、あなたが食べてください」 「えぇー!? どうして!? すっごくおいしいよ?」 一瞬だけ、九條の視線が私とノエルに向けられた。 理由はわからないが、私達の目を気にしているように見えた。 「いらないのなら受け取る必要はないだろう。需要がないところに供給しても意味がない」 「ふえぇ!? いらないの!? せっかくずっとがまんしてみつきちゃんのために残しておいたのに……」 「…………」 九條はひまわりの懇願にも似た態度に僅かながら困惑していた。 だが意を決したようにひまわりから菓子パンを受け取った。 「ありがとうございます」 「えへへ、すっごくおいしいから、おうち帰ったら食べてね♪」 「では失礼します。ごきげんよう」 九條は今度こそ倉庫の外へ出て行った。 「ゴキゲンオー♪」 入り口から覗く九條の後ろ姿が足を止める。 地面にできた裂け目を見て何かを思案する素振りを見せる。 しばらく立ち止まった後、何事もなかったように立ち去って行った。 「ひまわり、ひとつ聞きたいのだが」 「なぁに?」 私は前々から気になっていた疑問を口にする。 「“ゴキゲンオー”とはもしかして“ごきげんよう”のことだろうか」 「およよ? ゴキゲンオーはごあいさつの言葉だよ。みつきちゃんに教えてもらったの」 「だからそれが“ごきげんよう”だと言ってるんですよ。“ゴキゲンオー”だと無茶苦茶強そうな上に合体しそうじゃないですか」 「よくわかんないけどゴキゲンオーはゴキゲンオーだよ」 「キミの好きにすればいい。言葉の微妙なニュアンスなど人間の歴史では幾度となく改変されてきているのだから」 可能性は低いがいつの日かひまわりの言語と同じものが一般化するかもしれない。 ある意味時代の先駆者となるのだ。それまで生きていればの話だが。 「それよりノエル、話があるのだが」 私は九條の話した内容を説明しようとするが―― 「大丈夫ですよ、大体は聞いてましたから」 やはりと言ったところか。 おそらくノエルは私達が倉庫に帰るのとほぼ同じくして帰宅した。 部屋の中に見知らぬ女がいたことで、中の様子を伺うことにしたのだろう。 そして途中で我慢できなくなり、地面に穴を開けた。 「あの女の素性は知ってるんですか?」 「いや、私にもわからない」 九條とその裏にいる上司に関しては一切の情報はなかった。 「怪しすぎますね。私達のことを知っていたことも気になりますし」 「私が“《ファントム》〈亡霊〉”を追っていることも知っていた。私とお前以外に知る者はいないと思っていたのだが」 「ふむ……わかりました。私の方であのつまんなそうな顔したクソビッチに関して調べてみますよ」 「可能なのだろうか?」 「そういうのが得意な人間を使うんですよ。幸い何人か心当たりがあります」 ノエルの人脈は私と違って広い。 学園に通っている分、交友関係は必然的に築かれるのだろうが、そうではない人間との付き合いも多いらしかった。 “兎”に代表されるように、表の社会ではなくどちらかと言えば私達に近い裏社会の人間だ。 何処を訪ねればそれらの人間と繋がりができるのか、私には検討もつかない。 「では数日の間、ひまわりを預かることにするが構わないだろうか」 「え、あかしくんちにお泊りするの? ひまわりは全然いいよー?」 「キミに聞いているわけではない。ノエル、構わないか?」 「ご主人が望むなら、どんなことでも私は反対しませんよ。それにあいつらの素性と目的が判るまで関係を維持した方がいいでしょうし」 ノエルの許諾は得られた。後は実作業中に起きるであろう手間はその都度対応すればいい。 言葉にすれば簡単だが、一筋縄でいかないのは昨日から身をもって体験している。 だがもしも私の望む情報が手に入るのなら、あまりにも安い買い物だと言えよう。 「では私は諸々の手配をして来ますね。ひまわり、あなたも来なさい」 「ふぇ? どーして?」 「ご主人はこれから一人でお休みになるんです。あのクソビッチに振り回されて疲れてるんですよ」 「いや、私は別に――」 ノエルはひまわりの手を引き外へ向かう。 その途中で懐から茶色い小瓶を取り出し、机の上に置いた。 「栄養ドリンクを置いていきますから飲んでくださいね。きっと疲れも吹っ飛ぶはずです」 「ああ……」 今回は事情が事情であるから許されたのだと思っていたのだが。 どうやらそれとこれはまた違った話らしい。 「私は浮気などしていない」 「知っていますよ。私はご主人を信じていますから」 言葉とは裏腹に、机の上に置かれた小瓶は差し込んだ陽の光を受けて怪しく光っていた。 国の中枢である暦区東雲に建つ東雲統合学園。 東雲駅からのアクセスが容易であり、敷地の中には教育環境が一通り揃っている。 快晴の日は屋上から澄んだ峰々が一望でき、健やかな気持ちをいつまでも保つことができる。 運営難に陥った近辺の学園も吸収合併している為、規模は大きいといっていいだろう。 創立者“久遠学園長”が掲げる建学の精神“自立”を教育方針に、何事にも挑戦する意志、壁を乗り越える心を持った独立できる大人の育成をしている。 大戦後の社会貢献の重要性見直しによる労働年齢の低下の影響で、学生アルバイターや有償ボランティア制度に対する校則はとても緩い。 学生労働者には、授業中の早退が認められ、欠席も出席扱いとされる場合が多い(月8回以内を限度とする)。 登校日は、平日の月曜~金曜。 休日は、土曜、日曜、祝日。 一日の教育課程は9:00~13:00までとなっており、放課後は18:00まで開放されて勉学や部活動などの自由が認められている。 細かい規則は学生証を参照――――っと。 「こんな感じで概ねいい?」 「土曜、日曜は原則として基本休みですが、代休制度により授業についていけなくなる学生を防ぐための処置として」 「午前中のみ学園を開放し、自主的な補習を受け入れています。ですわ」 「めんぼくないです」 「いえ、たいしたものです。思ったより覚えてらっしゃいますのね、水瀬さん」 「学園の一員だからね。学園概要をそらで読み上げるくらいできるよ」 「よろしいですわ。外部の方に我が校の事を聞かれて慌てふためかれては困りますもの」 度重なる遅刻の注意として、会長閣下に学園の概要説明と教育方針を問われていたが、満足のいく回答ができたようでなによりだった。 「あ、もし誰かに学園を説明する時に、一個だけ付け加えていい?」 「構いませんわ。一体どのようなことですの?」 「現、生徒会長“《ほうじょういん》〈北条院〉 《りりか》〈凛々華”は歴代の生徒会長で群を抜いて優秀であり、すべての学生の永遠〉の憧れである」 「水瀬さん、アナタ……素晴らしいですわっ」 「何を言ってるの? 普通だよ。閣下のお陰で日々、明るく楽しく健康に過ごせてるんだ。“みんな”思ってることだよ」 「おほほほほ♪ もっと、もっとおっしゃっていいのですよ♪」 「閣下……俺ずっと閣下の事見てきて、ずっと神なんじゃないかな? って思ってたけど……」 「けど?」 「やっぱり閣下は神だわ! 神! 言われ飽きてるだろうけど、神ぃ!!」 「おほほ♪ おほほほほ♪ …………もっと」 「神オーラを感じて号泣が止まらないので勘弁してください。あ、なんか寒い。夏なのに神すぎて鳥肌立ってきた」 「水瀬さんも、学園の誇れるエース。私のお仲間ではありませんこと?」 「稼ぎでは、間違いなくそうだろうね。“《クリアランサー》〈片付け屋〉”なんて、このご時世でもそうは就かない職だし」 「存じています。人様の煙たがる仕事を率先して行うなど、そうそうできることではありません。ご立派ですわ」 上品に微笑まれると庶民的な俺は勘違いしてムズムズしてしまう。 「俺、閣下と話すの、好き。楽しい時間をありがと」 「ッ! み、水瀬さんに好意を寄せられても、私は北条院の跡取り娘。それに学園内での不純異性交遊は原則として禁止ですわ」 「大丈夫だよ、そこまで夢見てないから」 「あまり女性を相手に、好きだのとおっしゃってはいけませんわ」 「自然に出てきちゃうんだよね。俺、人間大好きだし。特に、女の子は綺麗なイキモノだから」 「美の追求は女性に生まれた瞬間に与えられる義務ですわ」 「それで用事は何? 閣下は忙しい人なんだし、おしゃべりだけしにきたわけじゃないでしょ?」 「もちろん、あります。私個人としての水瀬くんとの雑談はここでお開きにしましょう」 凛とした瞳が真正面から俺を見た。 「先月、丸々1週間、学園に顔を見せませんでしたね」 反論を許さない、咎めるような物言い。 会長閣下としての振る舞いだ。 「原則として“月8回以内が限度”」 だからさっき学園説明や校則を言わされたのか。 しょうがないよな、実際、仕事三昧でサボりがちだし。 「停学……? ま、まさか退学って事はないよな……?」 修業過程を終えて社長に卒業証書を見せることができなくなるのは、本気で悲しい。 「許容される欠席数を著しく超えた場合、我が校には留年制度があります」 「う……留年はかっこ悪いなぁ……でも仕事優先なのは絶対だし……偏差値向上には一役買ってると思うんだけど、そのへんは考慮されない?」 「確かに水瀬さんは、成績で上位をキープしていますが、出席が足りなければ留年は免れられないでしょう」 「ぐぐぅ……」 困った。閣下に何か打つ手を考えてもらうしかあるまい。 「ですので――――全て、出席扱いにしておいて差し上げましたわ」 「え……?」 「個人を特別扱いするのは会長権限の乱用と取られるかもしれませんが……」 「努力が報われない学園に、教育方針もなにもありませんもの」 「閣下ぁ……」 「べ、べつに恩着せがましくそんな事を伝えに来たわけじゃありませんことよ?」 会長閣下にノートを手渡しされる。 「出た! 《しょうしゃ》〈瀟洒〉で豪奢なノート!」 会長閣下のノートはすかし模様が入り紙質が普通とは違う高価なものだ。 しかし偉そうなのは外見や材質ではなく、完璧に整理された内容にある。 「要点を纏めてあります。授業に追いついていけなくなられて、学力を落とされては困りますから」 「閣下ぁ……コレを俺に渡す為に……?」 「返却はいつでも構いませんわ」 「閣下ぁ……好きになりそう……胸がドキドキしてきた……」 「な!? べ、べつに私は偏差値を下げられて欲しくないだけで……」 「水瀬さんの事なんて心配してないのですからね? 勘違いしてはいけませんわよ?」 「ありがとう! 俺、全力で勘違いする! 閣下の恩は忘れない!」 「……では、見返りを請求するようで心苦しいのですが、一つ頼まれてくださいますか?」 「どんとこい。閣下の為なら、例え溶鉱炉の中ホルマリンプールの中だ」 「危険な事ではありませんわ。少しの間、学園長の相手を差し上げてくださるかしら?」 「相手…………?」 「“2四歩”」 「じゃ、同じく歩」 「同じく飛車……うーむ」 行けばわかると言われたから来たものの、将棋を指すことになるとは思わなかった。 閣下、曰く“放課後の嗜み”。 学園長は、歴代の会長にも放課後の付き合いを強要していたようだ。 「“2七銀不成”」 勝ち濃厚の一手。 「………………“6五歩”」 「“3七角成”」 苦し紛れの一手にすぐさま合わせていく。 「…………予言しよう。私が“5五角”を打つと、君は“4七馬”で反撃してくる」 「当然そう指し返しますよ。そしたら学園長は詰みじゃないですか」 「しかし、私はそれを予言した。予言通りに反撃してしまっては、つまらなくないかな?」 「中盤戦の駆け引きならまだしも、終盤は最善を尽くすだけだと思うんですが……」 「勝ちに徹するタイプのようだな」 「勝ちを目指さない場合、ゲームにおもしろみを持つことは難しいと思います」 「優真くん。勝ちに貪欲なのはいい。しかし我が校の教育方針は“自立”を促すことだ。助け合い、支えあう心があれば、私の“5五角”を見逃せるはずだ」 「果たして君は子供かな? それとも――――私の期待に応えられる器かな?」 「“4七馬”」 即答。ぴしゃり。王手。 「…………」 「…………俺の勝ちですよね?」 「優しさが足りない。このままでは進学は危ういな……」 「学園長って、勝負事になると感情的になる人ですね」 「私が? そう思えてしまうあたりが、やはり子供か……歳を取ると、そう簡単に感情的にならなくなるのだよ」 「じゃあ、ここで勝ち逃げしていいですか?」 「もちろんだとも。おぉ……忘れていた。私も、優真くんを退学処分にする書類に判子を捺さないと……」 「やりますやります。やらせてください、将棋やりたいです」 「そうか。では始めようか。次勝ったほうが、本当の勝者でいいかな?」 「なんでもいいですよ……」 「そうかそうか」 この人、ムチャクチャ負けず嫌いだなぁ。 集会で大勢の学生を前にしているときのどっしりとした貫禄が感じられない。 駒を初期配置に戻しながら、そんなことを思った。 黙々と。 粛々と。 駒を差す音だけで会話していると、夕方になっていた。 「……時に社長さんは元気かな?」 「……あ……ン、ンン……」 集中していて、喉が本調子ではなかった。 そう。今日子さんと学園長は付き合いがあり、おかげで俺の入学も容易だった。 学園長のこの態度も、一人の学生ではなく、俺を“水瀬”の一員として扱っているからなのだろう。 「ええ、そりゃもう疲れ知らずで誰よりも多い仕事量こなしてますよ。社長の仕事もやりながら、現場仕事も同時に。本当に人間か疑わしいものです」 「彼女の場合、一切やらないか、全力を尽くすか、極端にわかれるな。やるもやらぬも、手加減なしだ」 「『疲れたのだー』なんて愚痴を漏らすこともあるんですけど、俺に肩を揉んで欲しいアピールなんです。もちろん、何時間でも付き合いますけど」 「仲がいいようでなによりだ」 「最近の趣味は、ネットバンクで口座を確認しながら酒を飲むことみたいですね」 「なるほど。先日、一杯御馳走してもらった時も羽振りがよかったが、儲かっているのだな」 「大繁盛ですよ。こういう仕事ですから、喜んでいいのかイマイチわかんないですけど……」 「仕事のおかげで三食欠かさず飯が食えて、家族が養える。幸せです。幸せだから、手を叩いて笑う。俺はコレでいいと思ってます」 「君は日頃から笑顔を振りまいているが、社長さんの話をすると一層輝いて見えるな」 「あの人は……今日子さんは、俺にとって掛け替えの無い存在ですから」 少しだけ気恥ずかしかった。 「社長さんも君に愛されて、さぞかし幸せだろう」 「そう思ってくれてたら、嬉しいです」 「私もいつぽっくり逝くとも限らないから、君の所に予約を入れておこう。部屋で腐っていた時は、掃除を頼む」 「冗談やめてくださいよ」 「盤上を見なさい。この四角く囲われた部屋で、私と君は互いが率いる軍団を《ころ》〈掃除〉しあっている」 「また突然、妙な喩えですね。“1五銀”」 歩を一枚頂く。 「君が今、何の躊躇いもなく歩の首を刈り取ったように、相手も君の駒を奪う時に何も感じない」 「君に大切な人がいるように、多くの人は皆、大切な人がいる。君の大切な人を、その他大勢が“大切”に扱ってくれるなどと、思わない方がいい」 「いつか君に複数の護るべき人ができた時、君は選択することができるかな……“4五桂”」 「あ――――王手飛車取り」 単純なミス。回避はできた。だが社長の話と妙な喩え話に気を取られて気づかなかった。 「王手飛車取りは、詰みではない。王を逃すことで、ゲームは続行される。落語では、飛車が逃げる話もあったような気もするが、それはそれとして――――」 「《かたほう》〈飛車〉は100%、喰われる」 「………………」 何故だか、学園長の言葉は俺の深い部分に痛烈に刺さった。 社長は、王なのか……? 結衣は、飛車なのか……? 二者択一を迫られた時、俺は何を選び、何を失うのか……。 ……ゲームだぞ? これはゲーム。ポジティブも忘れてる、ポジティブ! 「こうする、かな!」 「ほう」 考えて考えて考えぬいて、それでもわからないなら――――スッパリ諦めて、一途で闇雲に行動する。それが俺式。 ――――って、いくらなんでもこの手はやりすぎたか! 「いい勝負だった。片付けは結構、気をつけて帰りなさい」 「いや、あの……熱くなってわけわからないことしちゃいましたの俺ですし……派手に飛んでますし……」 「前途有望な若者の時間を奪ったんだ、このくらいの仕打ちは覚悟の上だよ」 「でも……駒なくなっちゃってたら……あの……」 「学園長である私が帰りなさいと言っているのだが、聞こえないのかな?」 「失礼しました。また指しましょう」 「いつでも来なさい」 「…………」 「飛車を犠牲にせず、王を護ることもなく、《・・・・・・・・・・》〈盤面をひっくり返して〉自ら負けを選ぶ……か」 「勝ちへのこだわりは少なからずあっただろうに。考えすぎて深みにハマってしまうタイプのようだな」 「どちらも選ばない――――現実世界でも同じことができたら、どれだけ楽なのだろうな……」 「がぶ……むぐむぐ……むきゅん」 仕事のメールは入っていない。 電話がなるまでは非番なので、蜂蜜揚げパンを食べながら街を徘徊中。 「……ん? お!」 街頭テレビに流れているのは、Re:non様が出ている飲料水のCMだった。 「『自分に似合う服を着て、自分に似合う街に住み、自分に似合う夢を追う。わたしに似合うジュースは、アナタだけ』」 “《ハチゼロ》〈蜂蜜揚げパンソーダZERO〉”のキャップをひねり、腰に手を当てるRe:non様。 慌てて俺も自動販売機に走り、ケータイをワンタッチして “《ハチゼロ》〈蜂蜜揚げパンソーダZERO〉”を買う。 「『っ……っ……っ……!』」 「ゴク……ゴク……ゴク……!」 シロップのようなのどごし。 嘘みたいに甘いが、これでカロリーゼロ。 う~~~~きっつい。 「『超最強。“《ハチゼロ》〈蜂蜜揚げパンソーダZERO〉”――わたしは、これかな』」 「――俺は、これかな」 Re:non様との一時の一体感に酔いしれていたが、周りの視線が痛いので空ボトルを捨てに行く。 「充電も完了したし、秘密のアレとアレを買いに行くかぁ」 昨日は給料日だった。日頃の行いが良いから、少し奮発しても罰はあたらないだろう。 大体、金の節約ってヤツは、俺は好きじゃない。 電気や水などの環境資源の節約はもちろん大切だし、理解できるんだけど。 金は消費しても巡るものなんだから、その分、頑張って稼げばいいだけのことじゃない? って俺は世の中の仕組みあんまわかんないから、そう思っちゃう。 「秘密道具その1は、文房具屋に行けばあるかな? 画材専門店か? デパートに確かそんな店入ってたよなぁ」 「……意外としたなぁ」 買い物する時に、全部お店の人に任せるのは俺だけだろうか? 自分はどこまでいっても素人で、店の人はプロだから――――“必要な物を全部揃えてください”というべきだと思っている。 「ま、いいやいいや。金はまた稼げばいいんだし」 それより、《・・》〈コレ〉が心を開くキッカケになったらいいな。 「毎日足繁く通ってやってる常連相手にその態度はなんだ!」 「ん?」 繁華街の表通りの街灯の下にリヤカーが止まっていた。 こんもりと盛られた野菜と果物。いわゆる路上販売だ。 「黙ってだいこんを3つ付けろって言ってるんだよ、頭でっかちが」 「困るよ、嵐山さん。今日は順調にだいこん売れてんだからさ、セロリで勘弁してくれないかい?」 「おでん屋がセロリ仕入れてどうすんだ。前にふきとキャベツ大量に買ってやった恩を忘れたわけじゃねーだろうな」 「へぇー、聞いたことも見たこともないような野菜と果物もあるみたいだなぁ」 店主と客が揉めてるようなので、俺は俺で種種雑多な野菜と果物を眺める。 「なんだ兄ちゃん。見世物じゃないぞ? それとも客か?」 「いや、えっと……こういうのってちゃんとしてるんですか?」 「あ? 傷んだモン捌いてるなんてイチャモンを付けに来たのかい、兄ちゃん」 「市場の半額以下でやっていける理由が知りたいだけですよ」 「こう言っちゃ悪いんだけど、俺には路上販売って汚らしいイメージがあるんです」 「てめぇ……」 怒鳴っていた客は明らかに顔色を変えた。 タダでは返さないという意思表示に近いものを受ける。 ――――が、俺はそのまま言いたい事を言う。 「正規の販売業者じゃないのは誰の目にも明らかだから、産地不明のいい加減な物に感じる。中に何が入ってるか、知れたものじゃない。返品の補償だってないんでしょう」 「ド素人が利いた風な口をきくんじゃねぇ!」 「コイツが売ってるもんはな、市場の仲卸と直接取引をした傷やゆがみのあるワケアリ果物ってだけだ」 「安く仕入れられるが普通の店は売るに売れない、ちょっと見た目に難があるだけの良い食材なんだよ」 「兄ちゃん……俺は儲けたくてやってんじゃねぇよ。俺がコレを買ってやんなきゃ、廃棄処分になる」 「食えばうまいのに、捨てていいわけがないだろ」 「…………」 認識を改めた。 喰うために育て、喰うために取った物なのに、捨てられる。 売るに売れない“食える物”を捨てない為に存在する仕事。 路上販売――――凄く、いい仕事じゃないか。 「コイツは大量の品を積んで、山の方からここまで引いてきてんだ。帰りは当然朝になる。それがわかってもナメた事言えるか?」 「嵐山さん、もういいって。目立つとまずいからさ、ほらだいこん4つ付けるよもう」 「おう、悪いな」 「ありがとうございます、賢くなれました。コレ、2つ詰めてもらっていいですか?」 「投げて遊んだりしないだろうな? 残さず喰うんだろうな?」 「会計の端末、これでいいんですよね」 ピッ。電子マネー支払いモードでワンタッチ。 「兄ちゃん、別に俺は乞食じゃないんだ。多めに入れられても礼なんか言わないぜ」 ダンボールに書かれていた値段より少し多めに支払った事に気づき、店主さんが返金しようとしてくる。 「必要な仕事だって教えてもらった、教育費です。これ、美味しく頂きますね」 「坊主、うまかったらまた買ってけ、次は安くしてくれる」 「勝手な事言わないでよ嵐山さん」 「働くって、いいですね。お互いがんばりましょう」 「嫌味ったらしい学生さんだな、まったく。机にかじりついてる奴に労働の何がわかるってんだよ」 「そうですね、すいません……はは」 さて、土産をゲットしたはいいが、さっき買った《・・》〈コレ〉もあるので両手が塞がってしまう。 「宅配サービス、今日の夜着可能だよな。良し、そうしよう」 きっと、そっちの方が盛り上がる。 「あ――――」 金ある+時間ある=なるちゃんと優雅なお食事会。 「なんてのはどうだろ!」 ふと思いついたこのプランは中々いい。 幸いにしてここは繁華街。 昨晩受けた気持ちいい占いサービスも営業中かもしれない。 だが、なるの占い屋が開かれていたスペースは別の路上パフォーマンスに使われていた。 時間帯が合わなかっただけかもしれないが――“開く場所も占いで決める”と言っていた気もする。 「金と時間があってもなるちゃんのサービス受けられないんじゃしょうがないなぁ」 夜になったら秘密基地の開拓を進めるとして、それまでは適当にブラつこう。 「あれ……閣下?」 「ダージリンは大体わかりましたわ。次はこの茶葉を試飲させてくださります?」 通りに面した入り口が小さく縦長の店――紅茶専門店で特徴的な髪型が目に止まった。 店の扉は開放されているので、閣下が店員に聞きながら必死でメモを取っているのが外からでもよく見えた。 「そっかぁ。門限とかあるしね。将棋相手を代わったのは、ココに来るためだったのか」 紅茶が好きなら、日頃のお礼にプレゼントしてあげたら喜んでもらえるかも。 と考えていると――なんとも言えない優しい香りが通り抜けた。 「九條のお嬢様?」 呼びかけに振り向く様も、同い年とは思えないほど優雅だ。 「俺の事が気になって尾行けて来たのかな。いつでも連絡取れるように登録をっと……」 「結構です。貴方と番号を交換する気はありませんので、どうぞ携帯を仕舞ってください」 「連れないなー。せっかくまた会ったんだし、放課後ティータイムしようよ」 「紅茶は普段から嗜まれるのですか?」 「飲むよー、年に一度は飲んでる。珈琲は毎日飲んでるよ」 「珈琲の話はしていません」 「女性の多くは紅茶を好み、男性の多くは珈琲を好む傾向にあると存じておりますわ」 立ち話中の俺たちを見つけてか、店から出て来た閣下が早々に言った。 「こうして水瀬優真は美少女お嬢様二人に囲まれて、幸せに暮らしましたとさ……めでたしめでたし」 「さようなら」 「ああ、行かないでお嬢様。薔薇の庭園でお茶をご一緒しましょう」 カムバックを要求。当然無視する九條お嬢様だったが、絹糸のような金髪をなびかせた北条院お嬢様が仁王立ちで行く手を遮った。 「九條美月さん、本日の欠席にはどのような理由がお有りですの?」 え? ああ。なるほど。 どこかで会っていたと思ったけど、九條お嬢様、ウチの学生だったのか。 「申し訳ありません。体調が優れなかったものですから」 「でしたら! 何故このような場所で油を売っていらっしゃいますの?」 「それを答える義務はありません」 「ありますわ。《わたくし》〈会長〉が《ルール》〈法だから、ですわ」 「かっけーーーーー!」 「見て分かる通り私は私服です。個人的な時間をどう使おうと貴方には関係がありませんし話す必要もないでしょう」 「何をトゲトゲしていらっしゃるのかしら、怖い怖い」 「…………」 「花に誘われる蜜蜂のようにふらふらと迷い込んで、そんなに紅茶が好きなら紅茶と結婚したらいかがかしら? おほほほほ♪」 「付き合いきれませんね」 「そういえばさ、朝から探してた探し物って見つかったの?」 「探し物? その話、詳しく聞かせて頂けますこと?」 「私から話すことは、何もありません。では」 「あっ、今のは逃亡と見なしますわよ九條さん! よろしいですわね?」 九條お嬢様は返事なく、規則正しい歩き方で通行人に紛れてわからなくなった。 「おほ、おほほほほ♪ 尻尾を巻いて逃げ出してしまいましたわ!」 「勝ち? ねぇ勝ち?」 「完全勝利ですわ♪ 九條の娘と言え、北条院の跡取りである私と向きあって話すのは怖いようですわね」 九條お嬢様の落とし物は本当に見つかったのだろうか。 目の下に隠し切れない疲れがうっすら出ていたし――――あれからずっと探してたんだろうなぁ。 「時に水瀬さん、将棋はお済みになられまして?」 「ちゃんと行ったよ。一勝一敗かな。二戦目は、盤上とは関係のない心理戦で勝負を降ろさせられちゃった」 「あ、リリ閣下、このあと牛丼大盛りつゆダクとかどう?」 「お誘い嬉しいのですが、そういった庶民的な物を頂くのは問題がありますわ」 「こう……かき込むように食すのですわよね? そのような姿を家のものに見られでもしたら外出禁止になってしまいますわ」 「ソーリー……」 閣下はこんな俺とも気さくに話してくれるので忘れがちだが、由緒正しきお嬢様だ。 「私、今日はこれで失礼しますわ。ごきげんよう」 「ごきげんようですわっ」 初めて使ったけど、ごきげんようって響き、なんかいいな。 上流階級っぽさがある。時と場合を考えて積極的に使おう。 「とはいえ、これで華麗に一人ぼっちか。紳士は悲嘆に暮れている時間などない。次の恋を実らせに出発だ」 周囲を灼熱の業火が覆う。 私はその光景を遠くから眺めていた。 ただひとつ、漠然と心に訴えかける感情が胸を締め付ける。 喪失感―― 私は何かを失った。何者かの手によって。 空しさで空いた穴に、どこからか煮え滾る奔流が雪崩れ込む。 血が逆流し、悲哀に打ちひしがれていた心はやがて持て余すほどの激情に支配された。 ―――――――――――――――。 私は叫ぶ―――― 憎しみに囚われた瞳が行き場を探す。 憤怒の正体は未だはっきりとしない。 それでも私は姿のない亡霊を見つけ出して罰を与えなければならない。 そうしなければと、心が叫ぶのだ―― 「よう、お目覚めか。グッドモーニング」 「……こんにちわ。どうやら今回の栄養ドリンクはいつもより効き目が強かったらしい」 私は倉庫のソファに座っていた。 もちろん手足には既に拘束具が付けられている。 「アンタも物好きだなぁ。昨日の今日じゃねぇか。全然懲りてねぇな」 「面倒事は私の意志に反してやって来るものだ」 「ヒヒッ、違いない。ま、俺としちゃ仕事にありつけるんだから感謝しねぇとな」 「ついでに別の仕事も入ったんだぜ。仕事は忙しいうちが華だからな」 別の仕事とはおそらく―― 「九條美月に関することだろうか」 ノエルが調査を依頼したのはこの男かもしれない。 「馬鹿野郎、依頼の内容をバラすのなんてシロウトのやることだ。俺は仕事に関しての口は堅いんだよ」 そういうものなのか。 「だがまあアンタにはいつも世話になってるからなぁ。想像に任せるとだけ言っておこうか」 「それだけで十分だ」 別段この男でなければならない理由はない。私はノエルから九條の情報が聞ければそれでいいのだから。 「それで今日は何を聞きたいのだろうか。私は浮気などしていない」 「ああそうかい」 いつもと違い気のない返事だった。 「どこか身体の調子でも悪いのだろうか? いつもと態度が違うように見受けられるのだが」 「拷問相手の心配をするマヌケがどこにいるんだよ」 「おかしかっただろうか」 「いや、アンタが変わってるのは前から知ってるけどよ。それにしたって舐め過ぎだぜ」 「すまない。そんなつもりはなかった」 「俺と違って計画性の欠片もない馬鹿が相手だったら目玉のひとつでも刳り貫かれてるところだ」 「なるほど、勉強になった」 拷問をする者の心配はしてはいけない。覚えておこう。 「まあ実を言うと今回は特にアンタから聞き出さなきゃならないことはねぇんだ」 「では私は何のために拘束されている」 「ま、お灸を据えられたとでも思ってりゃいいさ。次浮気したらこれぐらいじゃすまねぇぞっていうメッセージだな」 「私は浮気などしていない」 「浮気してる奴はみんなそう言うんだよ」 しばらく会話をした後、兎の仮面をかぶった男は引き上げていった。 一人残された私の元へ、小さな足音が近づいてくる。 「あ、あかしくんいた」 「ひまわり、どこへ行っていたのだ」 「おさんぽだよ。海とか公園とかいろいろぉ」 「ノエルは一緒ではなかったのだろうか?」 「のえるちゃんはご用があるからってどっか行っちゃった。ひまわりも行くって言ったんだけど子供がついてきちゃダメだって」 「そうか」 ノエルは九條の件で出かけていったのだろう。 「でね、ひまわりはそれでも一緒にいくーって言ったんだけどね、のえるちゃんはがんこものだから許してくれなかったんだよ」 「仕方がない。キミがいては面倒だったのだろう」 「でもね、それでもひまわりはあきらめなかったのです! すごいでしょ!」 手を焼いているノエルの姿が目に浮かぶ。 「そしたらね、100円やるからそのへんで遊んでなさいって」 「ひまわりは悩んだんだけどね、すっごく悩んだんだけど100円もらうことにしたんだよ」 その程度で引き下がってくれるのなら、今度から私も硬貨を常に持ち歩くことにしよう。 「ここで問題ですっ! 100円もらったひまわりは困ってしまいました。さてどうしてでしょー?」 「何故だ? キミにとって金銭の享受は良い事ではないのだろうか」 「なぞなぞ出してるのに聞き返しちゃダメだよぉ。しょうがないからヒントあげるね。ヒントはねぇ、お金は食べてもおいしくないんだよ」 「金銭と交換する物品、及び相手がいなかったのではないだろうか」 「???」 ひまわりにとって少し難しい言い回しだったようだ。私は言い直す。 「菓子を買う店が周りになかったのだろう」 「ピンポンピンポーン♪ だいせーかい♪」 旧市街には商店もなければ稼動している自販機もない。 例外として親方の屋台があるが、まだこの時間では店を開いてはいないだろう。 「新市街の方に行けばいくらでもあると思うのだが」 「のえるちゃんがここで遊んでなさいって言ったんだもん。やくそくは守らなきゃいけないんだよ」 「なるほど。殊勝だと思う」 「でね、おかし買いに行きたいからあかしくん一緒にきて」 「約束はどうしたのだ」 「あかしくんと一緒ならたぶんのえるちゃんも怒らないと思うな。おとなのあかしくんが一緒なら平気なんだよ」 子供を一人にしないよう大人が帯同することは常識である。常識に沿った行動を取るべきだ。幸いこの後の予定も空いている。 「わかった。一緒に行こう。どこへ行くのか決めているのだろうか」 「えーとね、エーエスに行こうと思います!」 「わかった。では早く行くとしよう」 身体の具合を確認するため二度三度と手のひらの開閉を繰り返す。薬の影響は既にないようだ。 「なにしてるのー! はやくいこうよぉー♪」 腕をぶんぶん振って急かすひまわりの後に続き、倉庫の扉をくぐった。 「ありがとっした~」 買い物を済ませ、コンビニエンスストアの自動ドアを通り抜ける。 「ん~、すっぱ~い、でもおいし~♪」 ひまわりは購入した駄菓子を貪っている。 「あかしくんもいっこ食べる~?」 「私はいらない。キミが全部食べるといい」 「そぉ~、おいしぃのになぁ~、ボリボリ」 24時間営業のコンビニエンスストアには多様な商品が揃えられている。 私にしてみれば植物関連の商品が置かれていないのであまり興味はないのだが、適当に歩いても見つかるほどに同名の店が数多く展開されている。 エーエス365――“《アーカイブスクエア》〈AS〉”という大企業グループが経営するコンビニエンスストアである。 “《アーカイブスクエア》〈AS〉”はこの街の至る所に影響を与えている。 新市街に住む人間の半分以上は、“《アーカイブスクエア》〈AS〉”の関連企業で働いているらしい。それだけ企業全体の規模が多岐に渡っているのだ。 それだけの大企業グループに成長したのはここ数年の話らしい。 過去に起きた人間界での混乱を総称して“ナグルファルの夜”と呼ぶらしいのだが、事態の収束に一役買った企業だと親方から聞いた。 混乱は特需を生む。戦争がなくならないのと同じだ。 「ねぇねぇ、今からどこ行くの?」 「倉庫に戻る」 「えぇー、あそんでいかないのぉ?」 「目的は果たした。それにもう日が暮れる。夜中に徘徊するのは常識的に考えてあまり好ましくはないのだろう」 夜間は日中と違い人間の目は厳しくなる。制服に身を包んで武装した人間に職務質問されたことがあるが面倒極まりない。 「さあ、帰ろう。ノエルも待っているはずだ」 しばらくすれば親方の屋台も現れるだろう―― 「――――ちょっとっ」 軽い衝撃が私の背中を襲う。通行人とぶつかってしまったようだ。 このような場合に取る選択肢は二つ―― 相手に非をなすりつけ罵倒するか、過ちを認め素直に謝るか。 私は良識的な人間の取るであろう選択肢を選んだ。 「私の背中が失礼をしたようだ。怪我はないか?」 「べつにいいわ。立ち止まったあなたに全過失はあるけれど、ね」 立ち止まっていた私にぶつかって鼻を打ったらしく、トナカイのように赤くなっていた。 「あ! はちみつあげパンさんのお姉さんだ!!」 「ん?」 「あ……! しまっ――」 狼狽する女性は、ぶつかった拍子に落としたサングラスをそそくさと拾った。 「ねぇねぇあかしくん知らないの!? はちみつあげパンのお姉さんだよ!!」 「ふふ。この世にはね、自分と同じ顔をした人が3人はいるのよ。勉強になったわね」 「蜂蜜揚げパンのお姉さんとは何だろうか? そもそもパンに兄妹はいないと思うのだが」 「ちがうよぉ! テレビとかに出てるお姉さんだよ! ジュースのテレビにも出てるんだよ!」 「わたしはそっくりさん。あまり大きな声を出されて誤解を招かれたら、たまったものじゃないわ」 「テレビに出ているタレントか何かだろうか」 「何を馬鹿な」 「歴代のアイドル総ナメにする視聴率を誇り、影響力のある女性芸能人ランキング堂々1位」 「――紫護リノンを知らないなんて情弱も甚だしいわ」 「……わたしは似ているだけで無関係だけどね」 Re:non――最近その名を聞いた覚えがある。 確か神の名前だったはずだ。アイドルだというRe:nonとは別のものだろう。 「りのんちゃん、はちみつあげパンさんちょうだ~い♪」 「ええ、いいわよバッグに……あ、ちょうど今切らしてる」 「やはりリノンというアイドルなのか」 「……わたしはRe:nonとは違うけど、似てるからネタで持ち歩いてるだけ」 Re:nonと呼ばれた少女は人の目を気にするように周りを窺っていた。挙動不審である。 「そーなんだ……もらえないんだ……すっごくおいしかったのに……」 「……蜂蜜揚げパンは好き?」 「あれはとてもいいものだから、やみつきっ!」 少女は悩む素振りを見せた後、背後にあったコンビニに目を向ける。 「保護者の方に聞くわ。私がこの子に蜂蜜揚げパンを買い与えたとして、それを取り上げたり、捨てたりしない?」 「私はその件に関与しない。食べ終わってゴミを屑籠に捨てるまで見届けるだけだ」 「待っていなさい」 そう言い残すと一目散にコンビニの中へと走っていった。 そして数秒もしないうちにレジへと向かい、紙幣を置いて私達の元へ戻ってきた。 少女の手には一袋の菓子パンが握られている。 「はいコレ、あなたにあげるわ」 つい先ほど購入したであろうパンの袋をひまわりに渡す。 「あ! はちみつあげパンさんだ!!」 ひまわりが受け取ったパンは、昨日私も通りすがりの男から譲り受けた物と同じだった。 「そっくりさんを指さして、リノンリノンって騒がないこと。わたしとの約束に“《へんしん》〈Re〉:”できる?」 「うんわかった! ひまわり誰にも言わない!!」 「いい返事。それじゃ私急いでるから。子供は早く家に帰りなさい」 「特に今日は危ないから。人の多い道を選んで帰るのよ」 黒髪の少女はウインクを残して走り去って行った。 「危ないとは一体どういう意味なのだろうか」 夜間になると治安が悪化する傾向にあるのは知っているが、何も今日に限った話ではないだろう。 「何か心当たりがあるだろうか」 「もぐもぐ……およよ? なんか言った?」 「いや、何でもない」 ひまわりに聞いた私が悪かった。 どちらにせよ早く帰るという点に関しては言われるまでもないことだ。 コンビニの店員が慌てた様子で外に駆け出してくる。 恐らく先ほどの少女を探しているのだろう。 面倒な事になる前に立ち去るべきだと判断し、旧市街に向けて歩き出した。 原付飛ばして旧市街駅前に到着。 途中で建物の破片か何かを踏んでタイヤが心配だったけど、パンクはしていなかった。 このあたりは駐車禁止なんか取り締まらない無法地帯だから、適当に停める。 「日が落ちるまではまだ時間があるな」 時計を確認して秘密基地へと足を向ける。 「お? 路上販売の時の――」 忙しそうに水桶で洗濯でもするように野菜を磨いている。 野菜売りの店主と同じくリヤカーを背にしているが、まだ開店前のようだ。 この辺りで店なんか出して儲かるとも思えない。 つまりは“誰かがやらなきゃイケナイ仕事”の一つなのだろう。 多くの人に理解されず、ひっそりと営まれ、いずれなくなってしまうちっぽけな仕事。 「お、まっくろくろすけどもめー」 「飛び回ってて元気そうだなぁ」 ……ん? 《・・・・・・・・・・・・・・》〈もしかしてそういうことなのか〉。 「……俺には関係のないことだよな」 首は突っ込まない。ここに来たのは秘密基地で遊泳を楽しむためだ。 「うわ、シャツめっちゃ絞れる。吊るして乾かしとこう」 “《ナグルファル》〈7年前〉の夜”の地殻変動で沈んだビル群の一つを拝借し、秘密基地に改造する計画は順調だ。 缶詰類のストックはあるし、衣服も何着か置いてあって寝泊まりも可能。 女の子を連れ込んであんなことやこんなことをする為のムフフ空間になる日は近い。 「さっぱりしたー」 泳ぎ疲れた。ごろーんと寝転がって一休み。 生活空間だけは掃除してあるが、自然に生えたツタや草は見栄え的にイイのでこのままにしておこう。 「落ち着くなー」 一人でいる時間。 独りだけの空間。 孤独とはちがう。 「なるちゃん。Re:non様。リリ閣下。バラシィ。九條お嬢様。社長。みんななにしてるのかなぁ」 意味もなく立ち上がって、窓枠から静まり返った夕暮れの水面を眺める。 こうしていると、誰もいない世界に取り残されたような―――― 「………………っ」 左にも。 「………………っ」 右にも。 誰もいない。 「そ、そうだ……あの子に会いに行かなきゃ。そうだったそうだった」 調子が狂う。考えるのは、だから嫌なんだ。 携帯を片手に、壁のように続いていくフェンスに沿って歩いていく。 ……………………。 ………………………………………。 「………………はい、きたぁ!」 画面には“圏外”の表示。 突き出したアスファルトに少女が立っているのが見える。 今回は深夜ではないので、時間的にいないかと思ったが杞憂だった。 「しっかしココ、どういう仕組なんだろうなぁ。旧市街におけるガラパゴス空間?」 ま、いいか。なんでも。重要なのはいつだって理屈じゃなくて中身の方だ。 「わぁ! 偶然っ! えー、嘘みたい。俺たちやっぱり目に見えない何かで繋がってるのかな? どう思う?」 「………………」 “偶然を装っての出逢い作戦”は失敗。 「昨日は初対面で色々とごめんね。よかったら、お話しない? 俺、人と話すの大好きなんだ」 「…………誰とでも好きなだけ話してくればいい……」 「今、俺の眼中にあるのは君だけだよ」 「…………水瀬優真は人と話すのが好き……」 「おっ、おおおっ。名前覚えていてくれたなんて感激だなぁ。君はなんていうの?」 「…………ココロはココロ……」 「心……? あ、そうだ。今日は良い物があるんだ」 何の策も容易せずにこんな美少女を攻略できるとは思っていない。 「じゃん! お絵かきセットー!!」 先ほど繁華街で店員さんに見繕ってもらった品で、素人目だけどかなり本格的に揃えてくれているように感じる。 「写真は《こころ》〈魂〉を抜かれちゃうけど、絵のモデルなら問題は解消だ。君の美しさを俺の筆で閉じ込める」 「…………ココロのココロを抜く……?」 「ん……もしかして。今更だけど、ココロって名前だったりした?」 「…………ココロはココロだから、ココロでいい……」 「そっか、改めてよろしく。携帯は……嫌いだよね、確か。ここ“圏外”だし」 「いつもここにいるの?」 「…………その必要があるから……」 「ココで誰かが海に飛び込まないか監視してるとか? そういう仕事もなくはなさそうだ。立入禁止区域で? という疑問もあるけど」 「…………絵描き……?」 「描いたこと無いけどね。美術の授業は廃止になったし――――ああ、孤児院にいた頃に結衣とお互いを書き合ったっけ」 「…………?」 「ガキの時のらくがきだよ。懐かしいな。あの頃のあいつはホント、騒がしく駆けまわってたなぁ……」 幼少期の結衣に、性格的な面影はない。 あの頃は天真爛漫って感じだったし。 クールぶっててたまにデレっとする今とは大違い。 「…………水瀬優真は孤児……?」 「そ」 玩具なんて買い与えてもらえる環境じゃなかった。 木登りとか、おにごっことか、身体を使った遊びばかりした。 だかららくがきなんて、よっぽどの雨降りにしかしていない。 「…………ココロと同じ……?」 「え、そうなの!? なんだよぉ早くいいなよぉ妹になりたかったの? いいよいいよ、ココロちゃん可愛いから歓迎だよ」 「…………ココロも捨て子……」 「滅多な事を言っちゃダメだよ。ママがいるんでしょ?」 「…………ママはママでしかない……」 「うーん?」 複雑そうだったけど。 “《ナグルファル》〈7年前〉の夜”を経た世界で、複雑でない家庭の方が圧倒的に少ないのは事実。 あの災厄の後で、家も職も身内も友人も手の届く範囲全てが無事でしたなんて人は、いない。 気楽そうに笑って過ごしてる奴ほど、忘れられない傷跡を背負って生きてるんだって、俺は思う。 ココロが“特別”に“特別”ってわけじゃない。 「ちょっと先に、このカルトンとかって奴に画用紙をセットするのやっちゃう」 指の肉を挟むと泣くほど痛いタイプのクリップが上部についてたので、紙を挟む。 適度な重さが安定感となっていて、書く際にズレたりしなそうだ。 鉛筆削りはカッターを用いて、ごぼう削りの要領でやればいいとか言ってたな。 「ぽい?」 「…………ぽい?」 「それっ《・・》〈ぽい〉でしょ。形から入ってすぐ飽きる自称絵師、みたいな?」 「…………ぽい……」 頷くココロに満足し、自称絵師である俺はHB、B、2Bの3本を削っていく。 3とか4とか5とかのBも一緒に買わされていたが、ずぶの素人がゴルフクラブを使い分けないのと同じで無視。 「…………ココロも何かする……?」 「ジッとしててくれるだけでいいよ。メチャクチャ可愛く描くから楽しみにしていてね」 「…………楽しみ……? わかった……楽しみにする……」 「期待に応えられるように頑張ります」 とにかく描きやすく扱いやすい画材をチョイスしてくれたらしく、泳ぐように筆が進む。 「ヤバイ。割りと楽しい。このまま芸術家とか目指してみるのも一興か」 「………………」 「あ、ジッとって言っても喋っていいからね。身体はなるべく動かさない方向でお願いします」 優しく髪を包む潮風。 絵になる美少女に退屈を感じさせるわけにはいかない。 「ココロちゃんって髪長いのに、炊きたての御飯みたいにつややかだね、いや決して口説いてるわけじゃないよ」 「………………」 「何年くらい掛けて伸ばしたの? 美容品のCMとか出たら一躍人気になれると思うんだけどなぁ」 「…………最初から、こうだった……」 「ウィッグなの?」 「…………? ……違う」 「ま、いいや……それで……昨晩は一切、触れなかったけど、そろそろ聞いてもいいかな」 「ゴホン! ん。その格好さ、さすがに目が泳ぐ時があるんだけど……あるていどは許容してくれたりする?」 「…………ママにもらった。ヘン……?」 「変じゃないよ。個性的だなって思う。ただ、健全な男子にとって過激すぎる衣服は目の毒だから、つい見ちゃっても怒らないでね?」 「…………? ……見ていいよ」 「よっしゃあ」 ……………………………。 ………………………………………………。 ……………………………………………………………………ハッ!! 「だ、ダメやぁぁぁぁっ!!! あかん、あかんやつやぁぁぁっ!!」 「やっぱり見ちゃダメって言ってくれ。でないと際限なく見てしまうからっ」 「やっぱりダメ」 我を忘れて欲求に従ってしまった。 シースルーのベビードールの破壊力に頭がクラクラ。 チラ見せどころか丸見えの下着には俺もお手上げだった。 「でも、君とこうして対面して話せるなんて不思議だなぁ。昨日は人を寄せ付けないイメージが大有りだったからなぁ」 「…………そういうのではない……」 「てっきり嫌われたんだと思ってたから、いっぱい話ができて嬉しいよ」 「…………時が、満ちていないから……」 「じゃあ、満ちるまでは君の時間を独占できるわけね。それが満ちると、ココロは“必要”な事を始めるわけだ」 「…………ママの命令だから……」 命令――――その言葉の持つニュアンスに引っかかりを覚えた。 「ママの事は好き?」 「…………好き……?」 「…………好きって何……?」 「不可解で、厄介で――――人間特有の素敵な感情のひとつ」 「わかりやすく言えば、『コレいいぞ~』って思う事」 「…………コレいいぞー……?」 「コレいいぞ~。なるちゃんいいぞ~。Re:non様いいぞ~。ココロちゃんいいぞ~。ってね」 「あ、女の子の前で他の女の子の名前は出しちゃいけないってバラシィが言ってたっけ。あははっ」 「…………ママの事はコレいいぞーではない……」 どうやら“コレいいぞ”とは思わないらしい。 娘さんをこんな所に一人置き去りにする意味はなんだろう。 こんな所に一人――――ここって……。 「……そうだ」 余計な事を思い出した俺は、聞かなければいいのに掘り返そうとしてしまう。 「いつも、大体ここにいるなら……距離的に公衆電話、見えるよね。何か気になったこととかってなかった?」 「…………特には……」 「本当に?」 「…………騒がしい時があった……」 恐らく、昨日の通報の後の事を言っているのだろう。 「…………騒がしくなる前は、大きな塊が転がってた……」 話しながら描き進めていた筆が止まった。 塊とは――――ウエイトレスさんの死体の事を指している。 「その《かたまり》〈死体〉は、誰かが持ってきたもの? 現場で作られたものなの?」 「…………? 塊は塊。いつのまにか転がってた……」 「そっか……」 ……それっきり何となく話しかける間がつかめずに時間だけが過ぎた。 「……うがぁ!」 「…………?」 「俺のココロちゃんはこんなんじゃない! もっと女神的で、妖精然としている! この絵からは少女臭の欠片もしないっ!!」 納得の出来に仕上がらず、何枚か無駄にする。 感覚はつかめてきているが、なかなか集中できない。 「………………」 俺が一丁前にスランプぶって鉛筆を持つ手に痛みを覚え始めた頃、それは聴こえてきた。 川のせせらぎや虫の音のような環境音みたいに溶け込んだハミング。 意気込むわけでもなく、自然と理解した。 無心で、ありのままのココロを描けばいい。 すらすらと、筆が進んだ。 幾つもの線が重なり、イメージ通りのものが紙に描かれていく。 完成に近づいていくのが気持ち良くもあり、充実の終わりを告げる意味では惜しくもあった。 「いいね。こういう時間。誰かと一緒にゆったり歳を取っていく感覚っていうのかな――――」 「躍るようなひとときも、心が掻き乱されるハプニングもいいけど、ささくれだった心が丸くなっていくような時間が、俺はやっぱり一番好きだ」 人と人が出逢って一緒に何かをするのって、意外とこんなものだと思う。 共同で何かをするのが親睦には絶対欠かせない。 だけど、そこに意味や理由を求める必要はない。 まともにやったこともないデッサンなんて思いつきの為に、初対面に等しい異性を付き合わせる。 つまらなくて。くだらない。無意味に近い時間の過ごし方だけど――――それで両者が退屈せずにいられたのなら、もう何をやっても平気って事だ。 「…………ふぅ……傑作だぜ……っ」 筆を置く。集中の疲れが押し寄せ、目頭を軽く押さえる。すぐ隣にココロが立ち、完成品を眺めていた。 「天才画伯誕生の記念すべき第一号は君に贈ろう」 「…………ココロに……?」 「うむ。時価70億優真・《ドル》〈$〉のところ、 1優真・《ドル》〈$〉にオマケしてあげよう」 「…………単位がわからない……」 「1優真$の支払い方法は、手の甲にキスでもオッケーです」 別に本気じゃなくて、物は試しで言ってみた。 ココロは反応の薄い子だから、おもしろい表情とか見れればいい。 そんな軽い気持ち。 まぁ、上手にセクハラできれば社長への土産話にもなるって魂胆も、アリアリなんだけども。 「……ん…………」 うわ。良い香り。女の子がお菓子でできているって最初に言い出した人の表現力は果てしない。 ココロはつま先立ちになって、俺に顔を近づけて――――って。 「…………ちゅっ……」 「うぁ……」 反射的に耳たぶに触れる。 ほんの僅かに感じた湿り。 ココロの唇が俺の耳に触れた証だった。 「…………手の甲ではない……?」 「いや。えと。う、うん……手の甲はこっちでした」 「………………」 ココロはドギマギする俺に目もくれず、品定めするように絵を見ていた。 どうも男心が弄ばれた感じがする……。 気を取り直して感想なんか聞いてみよう。 「どう? なかなか無難で並の上って感じでしょ。もっと下手くそだったり、アバンギャルドなの想像してた? 俺って何やらせてもセンスあるなぁ」 「…………ココロ……?」 「そう。君を描いたんだよ。現実の方がやっぱり断然かわいいけどね」 「…………水瀬優真は絵が上手……?」 「……上手かどうかは、ココロの主観で判断して欲しいな」 「…………わからない……」 「…………わかるまで持ってていい……?」 「どうぞどうぞ。道具も一緒にプレゼントするから、退屈凌ぎに描いてみたらいいんじゃないかな」 ココロは画材を手にとって、一つ一つ入念に調べていた。 紙にひっついた鉛筆の顔料が視覚的に形となって認識できるようになる――そんな根本的な部分から絵の正体を探ろうとしている感じだった。 「――――でぃ」 「でぃくくちゅんッ!!」 「おっと!? “出てきた”?」 「ずずず……出てきた」 確か、危険区域がどうとか、邪魔になるとか言ってたはず。 そろそろお《いとま》〈暇〉しましょう。 「…………水瀬優真……」 「ん? いいよ、なんでも言って」 「…………色も塗って……」 「ああ、じゃあ次に来た時、塗ってあげる。約束だな」 「…………約束……?」 「取り決め。次に来たら、俺はココロの絵に色を付ける事にベストを尽くすって事」 「…………わかった……」 また一人、美少女とお近づきになってしまった。 「っと――――何してるか知らないけど、とにかく気をつけて!」 返事代わりに、鉄砲のような風が力強く伸びる雑花をさらった。 気まぐれに何かを壊す姿は残酷で、ココロが同じ目に遭わないか少し心配になった。 邪魔者扱いをされるのがわかっていても、仲良くなった子を独り残して行くことに抵抗を感じてしまう。 「行って」 ……触れちゃイケナイ部分は誰にだってある。 きっとココロにとって、くしゃみの後は、自分だけの世界。 俺にもそういう部分は、あるから、だからわかる。 「てなわけで、ごきげんようですわ」 旧市街に続くトンネルを前にした時、忘れかけていた少女の言葉が蘇った。 人の多い場所を選べ――今更ながら無理な相談である。 旧市街に向けて歩くにつれ、人の姿は見かけなくなっていった。当然だ、この先は旧市街へと続いているのだから。 高架下をくぐるように通されたトンネルの内部はかろうじて通電しているが、いくつかの照明は壊れているのか役目を果たしていない。薄暗い空間が真っ直ぐ伸びている。 「ねぇねぇ、今日のごはんもおでん?」 「そうだが、キミは駄菓子とパンを食べていただろう。夕食はいらないと思っていたのだが」 「そんなことないよっ! ひまわりはそだちざかりなんだから、一杯食べないと大きくなれないんだよっ!」 「そういうものなのだろうか」 「そういうものなのです!」 個体の体積を鑑みれば成人よりも食物を摂取する量は少ないはずだ。幼い子供にも関わらずこれだけの食欲があるのは珍しい例なのかもしれない。 「それはそーとあかしくん」 「何だろうか」 「この道なんだかオバケ出そうだよね」 「オバケ? 怪物や死霊といった類のことであれば迷信だ。少なくとも世間の常識ではそう捉えられている」 だが必ずしも世の中に拡散している情報が全てではない。それは私自身の存在が身をもって証明している。 「ひまわりは未知の生物に対して恐怖心はないのだろうか」 「ふえ? べつにこわくないよ? どっちかというと見てみたいなー」 恐怖心よりも好奇心が上回っているようだ。これまでの言動などを思い返してみると納得できるような気がした。 「では行くとしよう。食事の時間に遅れるとノエルの機嫌を損なってしまう」 出口に向けて歩き出す。 ふと視界の中に黒い靄のようなものが移りこんだ。 「ん――誰か歩いてきている」 珍しいこともある。丁度このトンネルは旧市街と新市街の境に位置している。 つまり前方の人影は旧市街からやってきたことになる。 滅多にないことだがありえない話ではない。先日も旧市街でたむろしていた若者達に遭遇したばかり―― 「あ、あかしくんあかしくん」 「何だろうか」 ひまわりが前方に視線を向けたまま、上着の裾を引っ張る。 「オバケがいるよ」 「オバケ……?」 おぼろげな灯りの向こう側は暗闇に塗りつぶされ、輪郭を象る境界線は曖昧だ。 それでもトンネル内に響く足音は次第に大きくなってゆく。 「……………………」 闇に埋もれた人影がゆっくりとその姿を露にしていく。 人ではない。そう断定するのに時間は必要なかった。 「お、オバケ出たよ!?」 かろうじて人の形を象っているが決して人間ではない似て非なるもの―― 液体気体固体、そのどれとも判別がつかない黒の塊。人間で言えば顔に当たる部分から浮かび上がる赤色の双眸―― 「幻覚、ではないようだ」 ひまわりにも見えているということは、個体に起きた精神障害の類ではない。となれば目の前にいる謎の物体はこの世に存在していることになる。 私は知識の倉庫を漁るが目の前の事象に結びつく情報は見当たらなかった。 「私達に何か用だろうか」 人間でなければ“《イデア》〈幻ビト〉”か……? いや、私の知る限り、いかに“《イデア》〈幻ビト〉”と言えどこの世界にいる限り器は人間の形をしているはずだ。となればあれは“《デュナミス》〈異能”によるものか? どちらにせよ通りすがりの者であれば私が関知するところでは―― 「ォォォォォォォォオオオオオオオ…………」 けたたましい咆哮が反響する。 言葉にしなくとも伝わる思い、とやらが人間の間には存在すると 聞いたことがある。 なるほど――――姿は曖昧で表情はなくとも不気味に光る二つの球体から感情を読み取ることは容易だった。 ひとつだけ腑に落ちない点があるとすれば、その意思は謂れのない敵意だったことか―― 「ォォォォォォォォオオオオオオオ!!!!」 黒い物体が不快な咆哮を上げて跳躍した―― 「きゃっ!?」 理由はわからなくともその場にいればどうなるのか想像できた。人間に殴られるのとは比較にならないことは明白であり、私はひまわりの服を掴み後方へ飛びのいた。 腕だと思われる部位がついさっきまで私達の立っていた地面を砕く。 私の見間違いでなければ衝突の瞬間、腕が地面に向けて伸張した。 「どうして私達を襲うのか、説明してもらいたいのだが」 「ォォォォォォォォ……」 言葉によるコミュニケーションを図るが、どうやら相手は言語を習得していないようだった。できれば面倒事は回避したいところだがそうもいかない。 「緊急時だ、すまない」 「きゃあっ!!」 ひまわりを掴んでいた左腕を振って後方へ投げ飛ばすと同時――――がら空きになったわき腹を膨大な質量を持った腕が突き刺さった。 くの字になって吹き飛ばされた私はトンネルの内壁に打ち付けられる。 「あかしくんっ!?」 「大丈夫だ。生命活動に支障が出るほどの機能不全は今のところ確認できない」 無視できるレベルとはいえ、肉体的苦痛による信号は脳へ送り続けられている。それはあまり心地よいものではない。 「暴力行為はこの世界のルールで禁じられている。知らなかったのならそれは仕方がないことだ」 私は壁に手をつけながら立ち上がる。 衝撃の逃げ場がない体勢のままで再度圧力を加えられては、いかに“《イデア》〈幻ビト〉”が人間よりも頑丈な作りをしているとはいえ致命的な損傷を受けてしまう。 「…………………………」 黒い塊は私の方を見ていたがあまり興味はなかったようだ。 代わりに少し離れた場所に転がっていたひまわりの方に向く。 「ォォォォォォオオオオオオ――!!!!」 一度目との差異に目を凝らす。 感情の細かい変化については判断がつかない。 何しろ共通の言語を使用していないのだ。 「何だあれは……?」 にも関わらず私の注意を引いたのは、身体の中心部に位置する辺りがぐにゃりと捻じ曲がり始めたからだ。 私は沼を想像した。踏み入れると二度と浮き上がらない底なし沼だ―― もちろんそれは喩えであって実際には全く別のものである。 沼は森の中にあるものであり体内に宿すことはできない。 それでも目の前に現れた黒い渦は同種の危険を感じ取らせる。 アレに飲み込まれてはいけない――――取り返しのつかない事態を招いてしまう。 理解に苦しむ状況といえども、強烈な禍々しさを前に理性が警鐘を鳴らしていた。 「あ、あかしくんあかしくん! たぶんこのオバケすっごく怒ってるよ!?」 「おかしな話だ。理不尽な暴力を振るわれたのは私だと言うのに」 事態は飲み込めないが平和的な解決は望めそうにもない。 ひまわりと因縁があるのか知らないが、彼女に私が受けた程度のダメージを負わせるわけにはいかない。人間であれば間違いなく生命の維持に支障をきたすだろう。 そうなれば九條との取引きに問題が発生してしまう。 契約の履行――何を置いても成し遂げねばならない至上命題なのだから。 「申し訳ないが、キミの行為を見過ごすことはできない」 外気に晒された右手に風の流れを感じる。 悪くない感触だが楽しむ暇はあまりなかった。 「ォォォォォォオオオオオオ――!!」 側頭部を掴まれて気分を害したのだろうか。黒い塊は苛立ちを隠さなかった。 不服の意を示そうと蛮声を轟かせる。 その姿は人間よりも低脳な動物に近い。 「ォォォォォォオオオオオオオオオ――!!」 圧倒的な質量を持った腕が私に目標を合わせて急激に加速する。 「(そこまでして――――受け取りたいのだろうか)」 私は言葉による交渉は不可能であると判断する。 身体中を伝って右手に集約する奔流が、今か今かと溢れ出すのを待つ。 「(私の内側を……柔らかな部分を……容赦なく、無慈悲に、痛めつけ、焦がし尽くす、この、紅蓮の夢を……)」 「ならばこの紅蓮の夢、受け止めてみるがいい」 「ォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――!!!!!!」 「きゃああっ――!?」 薄暗かったはずのトンネル内は、僅かな間ではあったであったが白昼と変わらぬ明るさに包まれた。 溜め込んだ炎を開放した際に生じる爆発音がトンネルの内部に反響する。 「凄いな、まだ頭部が残っている」 私は素直に感心した。以前放棄所内を散策した際、鉄製の扉に全く同じ衝撃を与えた。 熱と爆発に耐えられなかった扉は爆ぜるように焼き千切れて穴を開けた。 その塊の頭部は厚さ10ミリの鉄板よりも強度において優れているということになる。 「ォォォォォォォ…………」 “《イデア》〈幻ビト〉”の肉体は人間に比べ幾分強靭と言えるだろう。 とはいえ全ての事象に限りがあるように、“《イデア》〈幻ビト〉”にも限界はある。例えば拳銃で撃たれれば血を流すだろうし、車両に轢かれれば骨は砕かれる。 ノエルのようにそれらを無力化する“《デュナミス》〈異能〉”があればこの限りではないのだが。 「まだやるというのなら、次はさらに力を込める」 私はひまわりと黒い塊の間に立ちはだかる。 理由はわからなくとも黒い塊はひまわりに矛先を向けていた。 ここで私が何もせずに傍観していれば、この黒い塊はひまわりに危害を加えるだろう。 ただ人間が一人どんな目に遭おうが私とは無関係であるし興味もない。 しかしひまわりは私の目的を果たすための重要な役割を担っている。たとえ争うとしても奪われるわけにはいかない。 「あかしくんっ!」 「大丈夫だ。私もオバケを見るのは初めてだが実体はあるようだ。キミは離れているんだ」 ひまわりを安全圏に誘導する。 「ォォォォオオオオオオオオオオ――!!!」 「戦意は失っていないか」 面倒だ――――そう感じたのは、ここ最近で何度目だろう。 「(最近は、面倒な事が増えた)」 「だが……面倒でも――――向き合う必要のある事もある」 私の行く道を塞ぐのなら容赦はできない。私は“《ファントム》〈亡霊〉”にたどり着かなければならないのだ。 心を焦がす業炎の正体を、私は知らなければならない―― 「悪いが、あまり遅くなってしまうと花に水をやる時間がなくなってしまう」 「すぐに紅蓮を与えてやろう」 「ォォォォオオオオオオオオオオ――!!!」 調子の浮き沈みが安定している。 ココロとのやり取りで体内環境が清浄化されたらしく、頭はすっかり醒めて実にポジティブな状態だ。 これぞまさしく、美少女パワー。 「だいぶいい時間だな。疲れて帰ってくる社長の為に夕飯の準備しなきゃ」 美少女と欝な顔で話す健全男子なんて見たことがない。 裏を返せば美少女と話していると笑顔になる。 つまり美少女と話している限りは無敵で素敵な状態が保たれるのだ。 そして社長と結衣もウチの顔面偏差値SSSクラスの二強なので、帰ってからも俺は笑顔ということになる。 っていうか性格も天使。 仕事と家族がある充実感。 バラシィ曰く、俺みたいなのは“リア充”といってステータスらしい。 ともかく宅配の届く瞬間に俺がいないと面白さが半減してしまう。 仕込みをしていた屋台はなくなっていた。 もしかしたら営業は別の場所でするのかもしれない。 原付に跨ろうとして違和感に気づく。 来た時に俺が停めたのと微妙に位置が違う。 「マジ……? 悪戯……?」 渦巻く嫌な予感を抑えながら注意深く観察すると、メットインの開け口がひしゃげているのがわかった。 「ってか、コレじゃ上からシート載っけてあるだけじゃないですかー」 バールなどを用いたのだろう。強引な手口で、ボルトで固定されている部分からボッキリいかれてる。 メットインに何を入れていたか覚えていないが、肝心のメットは無事なのでいいだろう。 「はぁ……心ない悪戯だなぁ。他にも何かされていないか点検しないと、運転するのは怖いな」 目立った損傷はシートだけで、ブレーキ、ライト、タイヤ、ともに正常らしく、様子を見ながら運転して帰れそうだ。 「修理代はそんなに掛からなそうだけど、今後もここに停めるのは考えものかなぁ」 いつもの“まぁいいや”で済ませて帰ろうかと思ったが、転がってきた缶が脚にあたって止まった事でそうも言ってられなくなった。 「……珈琲? 中、まだ少し入ってる……」 転がってきたのは瓦礫の山の影だろう、ゆるやかなスロープになっていて飲み残しが線になっている。 放置された缶が風もなく倒れて転がってきたと考えるよりは、誰かが現在進行形で飲み残しで捨てたと考えるのが妥当だろう。 「犯人さんだったら懲らしめちゃおっと」 数歩。なんて声を掛けようか考えながら近づいたところで気づいた。 見慣れない物が落ちているな、と思った。 それを俺は、見慣れないなりに“大樹の枝のようなぶっとい棒”と 仮定し、《クワエヤスイホソナガイボウ》〈今日子さん絶賛の俺の指〉の20倍はあるなと思った。 月明かりの影になっていたので半身ズラし、その正体が明らかになると同時に俺は警戒を強めた。 「…………《・》〈腕〉の不法投棄は見過ごせないなぁ……」 その腕に見覚えはないが、その色には見覚えがあった。 墨色――ウエイトレスさんの遺体と同じ損傷の仕方だ。 「んぐっ、んぐっ……」 「誰かいるんだろ。ちょっと話をしようよ」 男がいる。 物陰に腰を下ろしているようだが全身は見えない。 何かを飲んでいるようだった。 「げふっ……おまえのだったか?」 「ごっそさん。やっぱ缶コーヒーはオーロラブレンドが一番だぜ」 「あ、えっと……大体わかったよ」 原付に悪戯したのは、やっぱりこの人らしい。 最近はめっきり“《ハチゼロ》〈蜂蜜揚げパンソーダZERO〉”しか飲んでない俺だけど、缶コーヒーをメットインに入れたままだったようだ。 「他人の物を許可無く飲むのは軽犯罪だからやめた方がいい」 「うっ、るせぇーーー……」 「おいイイコちゃん。俺は久々にシャバで缶珈琲を飲んで気分がいい。このまま消えちまえよ糞野郎」 「そうはいかないよ。そこに転がってる腕、誰の? 君のなら治療しなきゃいけないし、他の人のなら理由を聞かなきゃいけない」 「うっ、るせぇなぁ。趣味が合う奴はヤりづれぇんだよ」 趣味とはオーロラブレンドの事を言ってるのだろうか。 俺は豆から挽いた珈琲が好きなだけで、缶珈琲は趣味ではない。 「見なかったことにしちまえって言ってんだゴキブリ野郎」 「腕……」 「腕の1本や2本でゴチャゴチャうっ、るせぇよ。おまえは髪の毛1本抜けたくらいで大騒ぎするってか?」 「屁理屈ばっかり」 ランニング後のように呼気が荒く、声に疲労感が滲んでいる。 「はぁ……ダメだこりゃ、言葉が通じないぜ」 携帯を取り出す。 「見てみぬフリもできないなら骸になっとけ」 「――――ッッ!?」 腹部へ衝撃が襲った――――が、その不意打ちに俺の“身体”は反応していた。 「一発でお陀仏か。退屈凌ぎにもならないぜ」 「………………」 「海まで吹っ飛ぶはずだったんだが、生身の腕じゃこんなもんか。独房生活で鈍ってるぜ」 「手加減してくれたおかげでしょ? 本気でやるなら、脚を踏んで固定してから打つはずだよ」 「……なんでケロっとしてんだ」 「働く男ですから」 簡単なこと。危険を察した身体が打撃を受け流すために脚を使って、後方へ跳ぶ命令を自動選択したのだ。 拳による強打は《インパクトタイミング》〈当たる瞬間〉に力を込めるタイプが多く、その瞬間さえズラせばかすったも同然だ。 落下ポイントの予測にも思考が追いつき、重心の置所を意識して受け身を取った。 Re:non様のイベント時に受けた不可避の速攻は固定された“投げ”だった為、反応も反射も意味を成さなかったが、単なる打撃ならばあるていどの回避行動は身体に染み付いている。 「肉体イジメと基礎体力作りは、嫌ってほど社長に叩きこまれているんでね」 「なんだカタギじゃないのか。この界隈に詳しくないから、組の名前出しても意味ないぜ。とりあえず、魚の餌にしてやればいいか?」 「えー、さっき飽きるまで素潜りしたから今日はもういいよ」 「ご自慢の潜水記録更新しとけよ。死ぬまで浮かんで来ないんだから、長いこと潜ってられるぜ」 「自己記録の6分を更新できるいい機会か」 「……? 聞き間違えか。6分つったのか?」 きっと嘘だと思われてる。社長と一緒にお風呂に入れた歳の頃から呼吸を止める訓練をしてたから、平均5分なのは本当なのに。 「そんなことより、勘定が合わないんだよね。君、腕に手錠なんかしてオシャレなのはいいけど、ちゃんと2本あるじゃない?」 「落ちてた腕と合わせて3本あることになるから……《・・・・・・・》〈アレ、誰の腕?〉 答えてくれない?」 「……そうか。そういうことか。何だよ、早く言えよ。最初から俺目的で“追ってきた”ってわけだ」 「? いや、俺は、その腕の事が知りたいだけでさ……」 「うっ、るせぇ! あんな糞暇なトコは懲り懲りなんだよ! 研究所の番犬なんぞに捕まえられてたまるかよっ!!」 「事情は良くわかんないけど、元気ってことでいいんだよね? じゃあ遠慮無くいくよ」 「一回は一回だって社長も言ってたし――」 同性で体格も向こうが有利だというのに不意打ちを許したんだ。 そんなものを甘んじて受けっぱなしなほどMじゃない。少しおとなしくなってもらおう。 「そっちから来るか。ハハッ、嫌いじゃないぜ、そういうのっ!」 距離を詰めながら喧嘩相手を観察する。 腕利きの傭兵を想わせるずっしりと鍛え抜かれた肉体をしている。 逆を言えば、多少のムチャをしても後腐れないってわけだ。 屈辱的で攻撃的で暴力的な一撃を、いかにポジティブに決めるか。 「らぁッ!!!!」 「――――ッ!!」 申し分のない助走で踏切、跳躍。 落下地点は、ヤンチャ男の鼻っ柱。 靴の裏から伝わる確かな手応えがあった。 「分からず屋は、死なない程度に顔面を踏んづけてやれってね」 「…………一回は一回、だろ。ハハッ、踏ませてやったぜ」 「あれ……?」 男は嗤う。 驚きもせず、痛がりもせず、目を開けたまま靴越しに嗤う。 「――――で、いつまでクセェ脚、乗っけてんだよッ!!」 も゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こ も゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こ も゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こ 「!?」 小雨を肌で感じ取るような気にもとめない変化の予兆を直感した。 踏んだままだった顔を再び蹴って距離を取る――――それが幸いした。 怪奇の拳――――。 一瞬前まで俺がいた虚空を穿ち、その勢いを殺さずに地表を抉った。 ズぞぞぞぞぞぞぞォ゛。と。数多の腕が縦横無尽に舞う。 アイスクリームをすくうように容易く削れるコンクリート。 地響きと大轟音。 廃駅が揺り籠のように揺れた。 《ホラー》〈異形〉――――数多の腕を生やした姿は、42の手で《せんじゅ》〈千手を表す菩薩のよう。 だが、その手で世界を救う気はないのは、固められた拳から容易に察することができた。 「避けんなっ、一回は一回ってホザいたのはおまえだぞっ」 「もう一回ずつ、やったでしょ……」 『もし巨人が槌を地表に叩きつけたとしたら』という想像が現実の出来事になっていた。 十分に距離を取っていた俺がそれでもよろけたのは、発生した地割れに足をすくわれそうになったからだ。 一途に肉体破戒のみを目的とした一撃――あの場にいたなら骨が砕けていただろう。 「捕獲者気取りが、ビビってんじゃねーぞ。この調子じゃ俺はおろかあいつを捕まえるのなんかできっこねーな!?」 「どうなってるんだあの身体……あいつって誰だよ……?」 「人を《モルモット》〈実験動物〉扱いしやがった連中がまだとぼけるか……」 「俺を“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”なんて糞みたいな呼び方しやがったのはおまえらの方じゃねーかッ!!!」 怪力乱神そのものの異形が咆哮を上げ、大気がぴりぴりと緊張する。 「た、ターーーーーーイム! タイムタイムタイム!」 距離を取りつつ万歳降参のポーズ。 全身で闘争意欲が欠片もないことを伝える。 俺は無害な一般ピーポーなんだ。 「さっきの《オンナ》〈追跡者〉は問答無用で斬り掛かって来たが、おまえはそうやって油断させる戦闘スタイルなのか?」 「違う違う。根本的に違う。戦うとなったらそんな姑息なことしないで真正面から行くけど、そもそも戦わない。終わり」 「お礼参りは体力が回復してからと考えていたが、予定変更したぜ。――怨返しと行こうか」 《おぞ》〈悍〉ましい量の腕がバキバキと“指鳴らし”の音楽会を開催する。 腕が多いという事は手数が多いという事。 仮に全てを自由自在に操れるのだとしたら、結果は見えてる。 「俺はバイクを取りに来ただけで、《おん》〈怨〉なんか返される云われはないんだってっ!」 「うっ、るせぇ。チッ、さっさと始めねぇから一本オシャカになったか」 “《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”は“もぐ”とか“毟る”とか“千切る”に近い印象で身体から生えた豪腕を取って、捨てた。 身体から離れた豪腕は瞬く間に色を変え、腐臭を立ち上らせる。 同じ速度で、彼の背には爪の生え変わりのように腕が補填された。 「(さっき落ちてたのは、ある意味では紛れもなく彼の腕だったってわけね)」 チンケな錯覚や妄想では断じてない。 目の前の男は人の形をしているが、人の域を超えている。 対して俺は働く学生でしかない。 「(言葉は通じるみたいだけど、人間じゃないんだよな? 喧嘩とかしていい相手じゃないだろ絶対……)」 まぁ。戦う理由はもうない。 あの腕が彼の病気(?)だってわかったし、戦況的にも痛み分けが適用されるだろう。 彼は何かに追われているようだが、俺はその何かには《ノータッチ》〈無関係〉だ。 「“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”さん、だっけ? 君ね、人に迷惑を掛けず、早めに病院に行く事。コレ約束だから。守れるなら頷いて。そしたら和解だ」 「和解ね……それならほら、持って帰れよ……」 「ちょ、あなたが持ち上げていらっしゃるのは――――俺のバイクなんですけどぉお!!」 「忘れもんだぜッ!!」 軽々と遠投される《スクーター》〈和解の贈り物〉。 《プレゼント》〈重さ90kgの塊〉が降ってくるなんて悪夢でしかない。 「――――――――」 あまりにも馬鹿すぎるのだけど、避けるか受け止めるかで一瞬、迷った。 結構な額したから。 愛着もそこそこあるから。 その一瞬が命取りというのも往々にしてあるわけで……。 「やっぱ無理! って、あーーーーっ!!」 視界を埋め尽くす車体から逃れる術はすでになかった。 「ハハッ! ビンゴッ!!」 「ハァ……ハァ……ヤバ…………」 「何をされたんだっけ。ああ、真正面からバイクを受け止めて、一瞬意識が飛んで……」 「い゛ッッ! あ……ははっ、《アバラ》〈肋骨〉何本かイッたっぽいかぁ……明日からの仕事に響くし、社長にも怒られるなぁ……」 折れて内蔵に刺さってなければ儲けもの。 死なない状態ならば“深刻な状態”ではないから。 「とりあえずここから抜け出して……“一回分”の貸しを取り立てなきゃ……」 が――――抜け出せない。 原付を退かそうとしても、激痛で無意識に力が抜ける。 脳が直接命令を出すので、神経痛を無視することはできない。 「ハァ……ハァ……おいおいおい。ヤバそうなんですけど……絶体絶命なんですけど……」 「念を押しとくか」 「~~~~~~ッ!!」 安全靴で手の甲を思いっきり踏み砕かれる。 “《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”は体重を掛けて踏んだままくるりと回り、折れた手の骨をさらに細かく粉砕してきた。 「蜘蛛の罠に掛かった虫ケラみたいだぜ? ざまあみろ。まさか狩られる側に回るとは夢にも思わなかったか?」 横這いの車体に“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”が乗った事で、さらに重量が増す。相撲取りにマウントポジションを取られたらこんな感覚だろうか。 「あの……結構苦しいんで、このぐらいで勘弁してもらえない……? 喧嘩、負けでいいんで……」 「…………ああ。いいぜ。俺はおまえらと違って、苦しみ悶えても実験を続ける冷血動物じゃないからな」 「よかった……じゃあ、これ退かせてもらえる? 優しくお願い」 「嬲り殺すのは勘弁してやる」 拳を固める音は歯軋りみたいに鈍く、耳障りだった。 「一撃で屠ってやるから、動くなよ」 「え、え? 本気で殺すの? 殺人は罪だよ?」 「おまえ、俺の顔を踏んだろ。だから顔を潰す。潰してやる。殴って潰す。俺は手が痛くなるだろうけど、おまえは痛みを感じないだろうな」 本気だ――――言葉を重ねるごとに“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”の声の温度が下がり、覚悟していくのがわかった。 「ふざけんなぁ……!」 死ぬわけにはいかないという本能が神経痛を鈍らせ、凌駕する。 どうにか上半身を起こせるかといった時、既に“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”は振りかぶっていた。 め゛きょ。嫌すぎる音が身体の内側から響いた。 「――――――――――――!!」 愛車の下敷きは解けなかったが、ぎりぎりで体勢を変えたおかげで顔面粉砕は免れられた。 肩の骨が砕け、完全に使い物にならなくなるだけで済んだ。 「動くなって。死に損ないが呼吸するためだけに生きるのがどれだけ苦しいか、おまえらが一番知ってるだろ?」 「悪く思って死ねよ。当然の報いだ」 身動ぎをする度に激痛が走り、視界に星屑が散った。 さて。汗が出てきた。 どうやら本当に殺されるらしい。 恐怖はないが、画期的な方法も浮かばない。 「でも……生きなきゃ……」 「誓ったんだ……死ぬ気で楽しんで生きるって誓ったんだ……」 「最期に学べたな。気の持ちようでどうにかなるなんて都合の良い話は現実にはないんだぜ」 ポジティブ――――地獄のように熱い呪いの誓約は、俺の胸を焼いた。 信仰にも似たその気持ちは特別な力も、催眠的な効果も、奇跡的な展開も恵んではくれなかった。 腕を振り下ろされれば物理的な結果が待っている。 「なんとかしなきゃ……なんとかなる……絶対、なんとかなる……」 漏れだしたガソリンが服に染みてきた。 火を点ければ映画みたいに大爆発でもするのだろうか。 期待はできそうにないし、ライターの一つもない。 いよいよもって、さようならの時間というわけだ。 「あ……れ…………」 死をリアルに感じたからだろうか、死の間際には音が遮断されるものなのか、世界から音が消えた。 散々騒いでいた心臓の鼓動も。 お互いの呼吸運動も。 頭に響くズキズキした脈動も、完全に聴こえない。 完全な無音空間。 俺の上に乗った“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”が何か言っているが、餌を求める金魚のように口パクをしているとしか思えない。 俺に罵声を浴びせているのか。 最期の一言でも求めているのか。 どちらにせよ、聞こえないのでわからない。 だが、不意に――口パクをするばかりで一向に殺す作業に移らない事に気づいた。 「(もしかして……)」 俺を殺そうとしている男も、失われた音に戸惑っている……? 「あ――――」 倒れているという体勢のおかげで俺は、“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”の死角から 《・・・・・》〈這い寄る影〉の存在に気づいた。 《・・・・・》〈這い寄る影〉は無音の世界の歩き方を熟知しているかのように気配を消し、“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ”の背後を取る。 そして合図のようにトントンと、その可愛らしい耳を叩いた。 《・・・・・・》〈なんとかなる〉かもしれない。 そう思い、俺は側頭部を地面にぴったりと押し付ける。 上を向いた片耳を自由の聞く手でめいいっぱい押さえ、祈った。 「……ん、戻っ――」 「おめでとぉ――――――――ッッッ!!!!」 「!!?!?!?!!!?!!?!?」 爆破物が破裂するような《ラウド》〈轟音〉をゼロ距離で受けた“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ”は、耳を押さえたまま踊り狂った。 いくら特殊な肉体をしていても、音の振動による内部破壊は免れられなかったようだ。 「おめでとう、音のある世界。さようなら、音を愉しむ器官」 俺は耳を覆っていた手を放す。もちろん、俺を助けてくれた人の声を聞くためだ。 「でも鼓膜は再生するっていうし、私って優しいか・し・ら?」 「なんとかなるもんだな、なるちゃん……」 「話は後よ、盟友。よいしょっと……」 軽々――――とはいかないにしろ、90kgの車体を何でもないような顔でひっくり返したのには驚いた。 「立てる?」 「ああ、立てる、立てる……ごふっ」 口の中は切れていないのに吐血した。 やっぱり内蔵に刺さってたのかもしれない。 「ごめ……服に付くから……いいよ手伝わなくて。自分で立つから……あはは……」 「………………」 「あ……」 なるは血を吐いて嗤う俺を何も言わずに背負うと、地面を蹴った。 なるの背中は温かくて少し眠くなったが、あっという間に地面に降ろされていた。 「こっちの手は、ダメね。肩も。厄介なのは中か……応急処置のしようがないわ」 「変な事に巻き込んじゃったね……星の巡りで、旧市街で店を出してる最中だった……?」 「喋らないで。このままじゃまずいって、自分が一番わかってるでしょ?」 「なるちゃん……逃げて……あいつ、見たでしょ……あれくらいでどうにかなる奴じゃない……」 「間違って何人分か多めに腕を生やしてたわね……」 なるは来た道を確認する。 まだあいつが追ってくる気配はない。 「う……あ……」 明滅。意識が飛びそうになる。 視界が徐々に暗くなっていく。 今から病院に搬送されて間に合うだろうか。 「“《リーディング》〈虹色占い〉”の結果」 え……? 「あの時、言いよどんだ“《リーディング》〈虹色占い〉”の結果。人差し指にある生命線に近い役割をする別の線が、ぶった切れてたの」 「…………はは……言うの遅い……」 「重要なのは、線の切れ方。角度、深さ、長さ、全てに意味がある。目で見るより舌で確かめるのが一番正確に“観”る事ができるの」 「私の舌に狂いがなければ、優真くんは特別な存在だわ」 「……はは……いいから、逃げなよ……」 特別……か。 思春期にありがちな妄想だ。 俺は極普通の、どこにでもいる学生バイターなのに。 「私は“《ユートピア》〈幻創界〉”から“《ディストピア》〈真世界”に来て、人と“そうでない者”の区別の仕方を偶然発見したの」〉 「人であって人ではない者にのみ刻まれた、人差し指の“《しゃだんせん》〈刻々線〉”をね」 俺が死にそうだっていうのに、なるはいつもの調子。 でも、こういう謎会話をするの好きそうだから、いいか。 「仮にそんなのあったとして……偶然で発見できるかな……都合の良い、偶然だなぁ……」 「ごふっ」 「……偶然ってのは、私が手相に興味を持ったことで、“《しゃだんせん》〈刻々線〉”を見つけたのは必然だわ」 「嫌でも気づくわよ。《・・・》〈私自身〉の指に、どんな本にも載ってない線があれば」 「つまり……なるは、自分も俺と同じ“特別”であると言いたいのかな」 夢見るメルヘン少女なのは大いに結構だけど、そろそろ救急車を呼んで欲しい。汗だくなのに、凍えるように寒い。 「説明は終わり。あなたは特別。私は、あなたを助けられる」 「…………ごめん」 「ごめん……救急車、呼んで」 その言葉を信じてあげることは、できなかった。俺の怪我をどうにかできるのは、占い師じゃなくて、腕利きの医者と十分な環境だった。 「……あと、逃げて……ホントにお願い……」 「病院への搬送は諦めて。このあたりは立入禁止区域だし、来るまでに時間が掛かり過ぎるわ」 なるは俺を助けたいのか、助けたくないのか、どっちなんだろう。 さすがに無駄口を叩いている場合じゃないってことぐらいわかっているはずだ。 「私達は禁忌に触れる。何が飛び出すかわからない。天使か、はたまた悪魔か」 「あなたは私の所有物に成り果てるかもしれない。逆かもしれない」 「私を一生恨むかもしれない。せっかく拾った命を否定し、自ら断つかもしれない。いいえ、自殺すら――――できないかもしれない」 なんだってこんな無意味な話をするのかを考える。 “特別”とやらと、《トゥエルブ》〈異形の男〉とは関係があるのか? あのタイミングで音という音が消失したのはなんだったんだ? コツも知らない女の子にバイクが起こせるか? なによりもなるはなんでこんなに――――真剣なんだ? 「答えは二つに一つ。こっち側に来るの? 来ないの?」 「……なるちゃん……」 「私のオススメは、人間のまま終わること、だけどね」 なるは、こんな時にまでふざけたり、嘘をつく子じゃない。 何らかの方法を用いて、極めて高確率で俺を救える。 救った後の“状態”までは補償できない。 だからお勧めはできない――――そう言っているのだ。 ああもう――ホント優しくて、かわいいなぁ。 「連れてってよ」 細腕をつかんだ。 柔らかな肉が異常なほど温かく感じる。 俺の手が、異常に冷たくなっている証拠だろう。 「…………」 「気が済むまで、連れ回して……道連れにしてよ……」 「……俺は……どんなに不自由な身体だって、《ハンデ》〈欠陥〉を背負ったって、生き抜いてやる……生きなきゃ、ダメなんだ……!」 くだらない一人よがりな誓約があるし。 生きる為に奪ってきた《イキモノ》〈食事〉に顔向けできないし。 家で帰りを待ってくれている社長に手酌はさせるわけにはいかないし。 「“なんとかなる”っていうなら……俺を、なんとかしてくれ……!」 「……その選択は決して“最善”なんかじゃないけど、私もここでお別れなんてしたくなかったわ」 強く頷くなるとは逆に、俺はこの選択を最善だと思った。 「この菜々実なるが、なんともならない優真くんを、なんとかなるようにしてあげる」 「さぁ、時間がないわ、私に倣って」 「そのムチムチおっぱいを、揉めばいいんすかね……?」 「心臓を覆う視認できない“《スピリット》〈非物質的仮想心臓〉”に手のひらを集中させて」 ちぇ。ふざけ返してはくれない。 血だらけの死に損ないに付き合う気はないようだ。 なるを真似て胸の位置で手のひらを広げるが、この段階では何も起きなかった。 「“《エンゲージ》〈契約〉”は異種間の異性によってのみ成功例が確認されてるの。理由は“《アンドロギュノス》〈両性”が関係するらしいけど、割愛」 「このあとは……どうすれば?」 「“《スピリット》〈非物質的仮想心臓〉”を繋ぐわ」 「うん……わかんない。まかせる……」 「ここまで来てアレだけど、相性ってものがあるらしいの。できなかったら、その時はその時ねっ」 「はは……どう見たって俺たち……相性ピッタリじゃん……」 「どんなところが?」 「……こんな危機的状況でも、何がおもしろいのかわかんないのに、笑ってるとこ……とか」 「ごふっ……べっ」 びしゃり。と。 俺は再び地面に血を吹き出して笑った。 ホント、ふざけてんじゃないかってくらいの吐血量。 「“《アルラウネ》〈絞首台の小人〉”。――――私の本当の名前。《ゆいいつめい》〈唯一名」 「アルラウネ……?」 「唯一名は本名って意味じゃないから、必ずしも最初に授かった名前じゃないわ」 「例えばそれは、芸能人にとって芸名かもしれない。作家にとってペンネームかもしれない。体を表し、自分を自分たらしめる呼称こそが、唯一名なの」 「優真くんの唯一名を教えて」 俺は……今日子さんの子だ。 「……水瀬……優真……俺にとって、一番大事な名前だ……捨てたくない、今日子さんとの絆だ……」 「頭を空にして、目で会話するの。私は“優真”。優真くんは“アルラウネ”を肉体に繋ぎ止める」 「“《スピリット》〈非物質的仮想心臓〉”に干渉し合う事は危険を伴う。お互いが信頼し合い、想い合う事で、お互いを忘れずにいられる」 「通して。繋いで。結んで。縛って。お互いの心を一本化する。その作業は、“感覚”でやる」 「はいはい……連帯責任の共同作業、ってわけね……」 もうそろそろ……きつい。 視界が霞みがかって、かわいい顔がぼやけてる。 「(……職業柄、無縁だと思ってたんだけどなぁ。こういうオカルト)」 菜々実なる――――“《アルラウネ》〈絞首台の小人〉”。 “《アルラウネ》〈絞首台の小人〉”と一つに―――― 「――――!?」 鎖――――手のひらから打ち込むように出現したソレは光となって胸に吸い込まれていく。 条鋼のピアノ線のように緩みなく張られ、重量感をまったく感じない異質なものだった。 「ちょ、なるちゃん、これ――――あ!?」 なるの胸にも同じように光が差している。 「通った……忠誠より愛よりも業深き、番いの《わ》〈環〉」 ブルブルブルッ。と。《わ》〈環〉が振動をはじめ、次第に揺れ幅が増していく。 突如、心臓を鷲掴みにされたような圧迫感が押し寄せた。 「どんどん……揺れが増して……」 「集中して。《わ》〈環〉は、ひとつ咬み合わないだけで、ただの線になる」 こんな死に損ない一人救う為に、命綱無しのぶっつけ本番に望むなるの覚悟はたいしたものだ。 生唾を飲み干し、“《アルラウネ》〈絞首台の小人〉”の名を呼び続ける。 心の波が凪いだ。 鎖の振動が止んだ。 あのまま鎖が振動し続けていたら、どこかの《わ》〈環〉が弾け飛んでいたのではないだろうか。 その場合、目には見えない“《スピリット》〈非物質的仮想心臓〉”とやらは、果たして無事だったのだろうか。 ――――どうでもいい。 関係ない。知らなくていい。 「(俺は“《エンゲージ》〈契約〉”とやらを、成功させる。まだ生き足りないんだ)」 失敗例は知らないままでいい。 大事なのは終わらせること。 それだけだ。 「………………」 俺を見つめるなるちゃんの眼差しが心強かった。 心の中で俺の唯一名を呼び続けているのがわかった。 二人の心臓の鼓動間隔が寸分違わず一致し――――。 不可視の“《スピリット》〈非物質的仮想心臓〉”の鼓動も同様に一致し――――。 通して。繋いで。結んで。縛って。 鎖の環は、その姿を宿命の形と変えていった。 「ゥゥゥゥウゥゥゥウゥゥ……」 衝突の最中、不意に黒い塊の注意が逸れた。 このままではきりがないと思い始めた矢先のことだった。 黒い塊の視線は何もない壁へと向けられている。 視界に黒い塊を捉えたまま壁の辺りを確認するが、やはり何の変哲もないただのコンクリートで塗り固められた壁面だった。 「どこを見ている。戦闘中に余所見をするのは命取りだと思うのだが」 私の呼びかけにも反応する様子はなく、その姿は無防備な姿を晒しているようにしか見えない。 誘っているのだろうか――? 用意された好機ほど危険な物はない。 私は僅かに間合いを詰めるに留める。 人間の社会でも同じだ。窮地に立たされている時にこそ、悪魔の囁きは蠱惑的であり唆されないよう冷静でいなければならない。 「…………」 ゆっくりと足を踏み出す――それでも相手に反応はなかった。 いけるだろうか。私は仕掛ける事を決め右手に力を込める。 「靴紐がほどけてるぞー!!」 「何……?」 突如として背後から発せられた声がトンネル内に響き渡り、私は無意識的に自分の靴を確認してしまった。 しかし、見下ろすと同時にふたつのことが判明した。 ひとつは靴紐はほどけてなどいなかった事。 そしてもうひとつは―――― ――――声の主がノエルであることだった。 「食らえ、腰抜け――!!!」 ノエルの手から放たれた無人の四輪車が私の頭上を通過する。 車両は走行を行うのにエンジンの動力を必ずしも必要としないということを、宙を駆ける巨大な鉄塊は証明した。 「っ――」 私はやがて訪れる衝撃に備えてひまわりの元へ身体を投げ出した―― 「きゃああっ――!!」 宙を駆けた車は見事に黒い塊へ直撃した。 それまで黒い塊が立っていた場所には半壊した車がトンネルを塞ぐようにして横たわっていた。 衝撃による粉塵の影響で黒い塊がどうなったのか確認することは難しかった。 「大丈夫か、ひまわり」 腕の中にいるひまわりの安否を確かめる。 「けほっ、けほっ、ひまわりは平気だよ。あかしくんは?」 「私の身体に損傷はない。それよりも――」 公共の施設である放棄所に続くトンネルはその機能を現状失っていると考えた方がいいだろう。もしも一般人が通りかかれば面倒な事態になることは免れない。 「お二人とも大丈夫ですか~?」 新市街側の入り口から間延びした声とともにノエルが近づいてくる。 「この車はノエルの物だろうか」 「いいえ? 近くに落ちてたやつですけど」 それは落ちていたのではなく、駐車していたのではないだろうか。 「ご主人がピンチのようでしたから、急いで何か投げる物を探したら丁度すぐそばにあったんで」 運転手の姿が見えないことが救いだ。放置車両か、もしくは所用で離れているだけか。どちらにせよ早急に事態の収束を図らなくてはならないだろう。 「まあまあ、心配しなくても後始末は。面倒ですけど私がやっておきますよ」 「元はといえばご主人に危害を加えようとしたやつが悪いんですし」 ノエルは横たわる車両に近づく。 「気をつけた方がいい。死んだとは限らない」 「ただの人間なら生きてるとは思えませんけどね。ご主人が戦ってたのは何者なんですか?」 「“《イデア》〈幻ビト〉”かもしれないのだが、正確には私にもわからない。少なくとも人間ではないだろう」 「ふーん、何にせよご主人に手を出したらどうなるのか、その身にじっくり教え込んであげないといけませんねぇ」 ノエルは片手で車両を持ち上げ、壁際に立てかけた。 「うわぁ!? のえるちゃん力持ち!!!」 「驚いたでしょう? 私が本気出したらこんなものですよ。あなたもこうなりたくなかったら私の言う事を聞いた方がいいですよ」 「え、たかいたかいしてくれるの? んー、でもひまわりはお子様じゃないからたかいたかいは卒業したのでへいきです!」 「いや、そういうことじゃないんですけど」 「…………」 照明の光に反射して塵が明滅している。 「いない」 私は先ほどまで対峙していた黒い塊を探すが、視界の届く範囲にその姿はどこにもなかった。 「死体すらないのは変ですね」 「消滅したのかもしれない。ノエルは相手の風貌を見ただろうか」 「いえ、遠くからじゃ暗くて影にしか見えませんでしたよ。人間じゃなかったんですか?」 「ただの人間なら“《デュナミス》〈異能〉”を使うまでもない。というか人間相手に車を投げつけてはいけない。爆発したら私はともかくひまわりが危ない」 「投げる前にガソリンタンクはもぎ取りましたから大丈夫ですよ」 「それに人間だろうが何だろうが、ご主人に悪い影響を与える者は例外なく排除します。どんな手を使っても、ね」 「のえるちゃんは一途なんだねぇ」 「ふふ、そうでしょう」 「どうりで私との浮気が疑われた人間と疎遠になるわけだ」 「殺してはいませんよ。私の願いを叶えてくれるウサギさんにお願いしてるだけです」 兎の仮面が脳裏に蘇る。ノエルが直接関与していないのであれば面倒な事にはならないだろう。 そもそもノエルは私以上に面倒事が嫌いなのだから。 「で、謎の不届き者と戦わなくてはいけなかった理由は何ですか? まさかガンつけられたとかじゃないですよね」 「どうだろうか。確かに私はソレの目を見たかもしれないが」 「そもそも人間じゃなければ何なんです? もしかして“《イデア》〈幻ビト〉”ですか?」 僅かではあるがノエルの言葉からそれまでなかった警戒心が感じられた。 当然だ。相手が人間であれば対応は後手でも問題はないだろう。殴られてからそれ以上殴られないようにすればいい。 しかし私達と同じ幻ビト“《イデア》〈幻ビト〉”であれば悠長に構えているわけにはいかない。致命的な事態を招いてしまえば対応する暇さえないのだから。 「“《イデア》〈幻ビト〉”かもしれないが、正確に断定することはできない。私達を襲った理由もわからないままだ」 「ふぅむ……わかりました、私の方で調べておきますよ。相手が見えないままじゃ対処もしづらいですから」 「頼んだ。それともうひとつ」 「何です?」 「その車を含め、ここの後始末はどうするのだろうか」 トンネル内には車両の部品や割れた電灯などが散乱していた。人の目に留まれば通報されてもおかしくはない。 「ここは掃除させておきますよ。車の方は借りただけですから元の場所に戻しておけばいいんじゃないですか?」 「随分と劣化が激しいようだが、気にしないのだろうか」 「気にしない気にしない」 私は持ち主の話をしたのだが、何となく誤って伝わっているように思えた。 「じゃあ私は車を元の場所に戻してきますね。ちょっと待っててくださ――」 黒い塊の姿が消え、ノエルが現れた事により緊張は弛緩していた。これは紛れもない事実だろう。 でなければ足音が鳴るまで、その気配に気づかずに接近を許すとは思えなかった。 すっかり寒気が消え、吐血も止んだ。 とてつもなく即効性のある修復効果に言葉を失いながらもあちこち触ってみる。 痛い。激痛が走る。だからこそ嬉しい。生きているとは、苦痛や快楽を伴うものだから。 「もしかしてなんですけど……なんとか、なっちゃった……?」 「クッフッフ。我と再生力をリンクしている間の自己治癒力は通常人の20倍~70倍だと、アバウトに言っておこうか」 「自然治癒って普通は実感できないのに、めっちゃ感じるよ。超高性能な酸素カプセルに入っているって思えばいいかな?」 「もっと、ス・ゴ・イ」 折れていた手の甲をさすると、ぬるっと、滑った。 何かと思えば――――垢だった。驚くほどの量の老廃物。 「(新陳代謝が上がってる……? 体温も高い気がする)」 「ところで……なんともない? なんかこう、力が湧いてくるみたいなの」 「あるある! ふわーーーって。折れた部分が熱くって、砕けた骨が手と手を取り合ってくっついていく感覚!」 「契約者が近くにいるからなのもそうだけど、きっと優真くんが本来持つ自然治癒力がそもそも高いからだわ」 「じゃあ抱き合ったらもっと早く快復できる? 俺、明日も仕事だからさぁ。一刻も早く快復したいんだよね」 笑顔で両手を広げる。 「アバラちょん♪」 「ごぉっ――ほ、コォ……ごめんなさい……」 「よろしい」 無理。まだ無理。修復中の身体は絶対安静のようだ。 「で……力は? 開放できない?」 「力? 力はあんまり入らないかな。まだ痛むし」 「そうじゃなくて、快復力とは別の」 「歯に小骨が挟まったら気になるのと同じで、外に出さないと収まりのつかない衝動みたいなの、ない?」 「いますぐなるちゃんに好きだって言いたい、この感情の事か……」 「違う。“飼い猫と同じ姿形をした百万匹の猫の中から、一回で飼猫を探し当てる”ような研ぎ澄まされた感覚っていうのかな」 「本当の自分と向き合うっていうか……」 なる自身、その“力”に対して的確にコメントできるほど詳しくはないのかもしれない。 「ごめん。わかんない。力ってのがないと、俺死んじゃうの?」 「いや……別に……そういうわけじゃ」 「なんでだろ……それだと契約が成功してない事になるんだけど……」 「あ……」 揺れを感じ、視線を廃駅に移す。 「暴れてるね。私達がどっちに行ったかわからなくて癇癪起こしちゃったのかしら」 耳をやられた千手の男が怒り心頭で起き上がったのだろう。標的を失い、頭に血がのぼるがまま手当たり次第に破壊行為を続けているのかもしれない。 「ちょっと行ってくるからここで待ってて」 「ダメだよ! 女の子ひとりで、あんな奴を相手にさせるわけにはいかない。電話で人を呼ぼうよ」 「そんなの呼んでもダメダメ。《・・・・》〈あいつら〉そういうの敏感だから、尻尾巻いて逃げ出しちゃうわ」 「だからって――――」 言葉が途切れた。口論する俺たちの顔と顔の隙間を飛来し、通りぬけるねずみ色の物体に意識をもっていかれた。 コンクリート片の塊が数メートル先で叩き割れて散らばった。 「ね、狙われた……? どこからだ……」 「焦らないで。音の震源地は同じ、駅のまま変わってない――――彼はまだあそこで盲目的に暴れてるはず」 「やたらめったら数撃ちゃ当たるで投げてるのか、たまたま苛立って投げた一個がここに降ってきたか。そんなとこじゃないかしら?」 教え子にレクチャーするような気楽さ。 どこからくる冷静さなのかはわからない。 だからこそ、慢心を招く恐れがあった。 「……やっぱり危険すぎる。あの怪力にもし捕まったら、なるちゃんの全身は隈なく骨折すること間違いなしだ」 「戦わないで済むなら一番いいけど。私がやらなきゃならなくなった理由は、優真くんにあるんだよ?」 「え……何で?」 「優真くん、顔覚えられてるんだよ? 一回話し合っておかないと後々面倒なことになることくらいわかるでしょ?」 「あ――――そっか」 言われてみれば。 「なるちゃんは見られてないけど、俺はこれから先、追われることになるのか……」 「そ。顔を洗っている時に後頭部に硬いもの叩きつけられたら嫌でしょ? だから、お話してくるの」 「どんなふうに? 説得なんかできるの? 俺がもう少し快復してからじゃ、ダメなの?」 「もう……さっきから心配しすぎ。死地に向かう戦士を引き止めるみたいなの、やめて。そういうんじゃないから」 「《ワーカーホリック》〈熱狂的仕事ファン〉の優真くんは、どうして社長を“上”に見るようになった?」 こんな時に妙な質問だった。 噛み砕かずに“立場上”という言葉で片付けたら怒られそうだ。 「社長といたら嫌でもそう思うから、だよ」 「つまり、そういうこと。さっきの奴と私が戦ったら嫌でもわかるものなの」 今でも。こんな事になった後でも。 なるが普通に可愛いだけの女の子に見えてしまう。 そんな俺は、馬鹿なのだろうか。 「上下関係とか主従関係ってのは、教えるものじゃなくて、わからせるものなの」 ――――“《エンゲージ》〈契約〉”。 《・》〈私〉が“《ディストピア》〈真世界”にやってきてから独〉自に調べて知ったそれは、両者の心臓を楔打ちするような危険なものだった。 別世界の住人である両者を結びつけることで、副次的に一生を左右するほどの変化を起こす行為。 肉体的な変化であり、運命的な変化でもあるとされる。 “契約をさせる側”に肉体的な変化はないので、あるていどの歳月が経たなければ実感できないというのは頷ける。 事実、私はこの通り。契約前と何も変わっていない。 一つだけ、無理矢理に実感する方法があるにはある。 それこそが“《エンゲージ》〈契約〉”の利点でもあるのだが、優真くんの身体を慮ると行動に踏み切れなかった。 そもそも、《・・・・・・・・・・・・・・・》〈そんな事しなくて事足りてしまう〉だろう。 現状だけを見れば、“《エンゲージ》〈契約〉”は大好きな人間を一人助ける為の手段でしかなかったというわけだ。 でも、それでいい。 「形はどうあれ、これで優真くんは形式上の契約者。共存関係なんだぜ。クッフッフ、友達でも盟友でもない、新境地♪」 水瀬優真は女たらしな細身の外見からは想像できないほど鍛えられていた。 “話し合い”が終わる頃には、あれだけの大怪我とはいえ嘘のように治っているだろう。 さて。そろそろ到着だ。 ――《はなしあい》〈平和的な解決〉とやらが、うまくできるといいけど。 「――――ッ!!」 私はキリンの全高を越える跳躍から華麗に着地した。 反動で両手を突き、這いつくばった状態になるが、その状態でギロリと睨むと絵になるので好きだ。 「お待たせしたわね」 「クッフッフ。我が契約者が世話になったようだな。褒美をやろう。何が欲しい? 富か? 名誉か? コノヨノスベテか?」 「……話せるていどのアタマと、質問に応えられる程度のクチがあれば助かるぜ」 「なんだとう。やんのかー」 「質問に答えてくれ。俺を襲った命知らずは、おまえってことでいいんだよな?」 「何を隠そう、私が音砕きの主犯だわ。片耳の怪力マンさん♪」 「こそこそと不意打ちかましやがって。おかげで片耳オシャカだぜ。一回は一回だからな、覚悟しろよ?」 「んー? さっきのって不意打ちかしら。《ステルス》〈光学迷彩〉でもないのに? ちょっと音の扱いに詳しいだけ、な・の・に♪」 「……今度こそ、間違いなく追っ手だな。ハハッ! さっきの奴は骨がなさすぎたし、タダのアホだったか。やりすぎたぜ」 「追っ手? え? もしかして闇の組織に追われてるとか、“あいつにやられた古傷が疼く”とかそういう話? 私の得意分野だわっ」 「とぼけんなよ、火消し屋の処理係が。実験体に逃げられて躍起になってんのはわかってんだ」 「実験……? よくわかんないけど、邪気眼仲間ね。そういう“設定”なら合わせる合わせる」 「おいおい。今更かぁ? 俺が“《フール》〈稀ビト〉”だって事は承知の上だろうが」 「“《フール》〈稀ビト〉”? なんのことかしら」 なるほど、“《フール》〈稀ビト〉”という名称を知っている。 もしかして“設定”ではなく、本当に組織があり、彼のような“特別”な人間を管理しているのだろうか。 だとしたら……気になる。 目の前の彼や――――優真くんのように“《しゃだんせん》〈刻々線〉”を持つ人間を定義付ける組織とはなんだろう。 「“《フール》〈稀ビト〉”って、あなたみたいな人を指す正式名称だったりするの?」 「……あくまで無関係者ぶるわけか。まぁいい。俺が“特別”ってのは、見ればわかるだろうよ」 も゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こ も゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こ も゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こ 異形の腕は、ひっくり返った虫のような生理的嫌悪を伴う動きをみせる。 「そりゃムカデもびっくりの腕をこさえられちゃーねぇ。あら、ムカデは足だったかしら……?」 私も、その実態を完全に掌握しているわけではなく、断片的に知っているだけだ。 “《ディストピア》〈真世界〉”に来てエレベーターに初めて乗った時に『止まりたい階を押すだけ』という使い方は理解したが、その構造全てを理解していないのと同じだ。 「腕がいっぱいあると便利かしら? やっぱり正面から見ると、こ・わ・い」 「不便だよ馬鹿野郎が……神が用意した必要な数だけの腕があれば、俺はよかったんだ」 「――両耳」 「? 片方聴こえるでしょ。会話できてるもん」 「俺は片方なくなったから、おまえは両方差し出せよ。ついでに髪も刈り上げろ。それでチャラだぜ」 なくなったって、鼓膜が破れたくらいで大袈裟な。 男の足裏が地面を離れたのを目視するまでもなく“音”で判断できた。 来る――――猪のような突進。 大柄な男のそれは、さながら戦車。 待ち兼ねた出番を歓喜するように千手がはしゃぎ蠢いた。 「……動きすぎてお腹が減ってきた頃だったし、ちょうどいいわ」 「せめて私の気持ちだけでも満たしてよ、堕ちゆく君の《スクリーム》〈大絶叫〉で」 「うっ、るせーーーッ!!」 確かに、多い。私の手は二本。 受け切れない。躱しきれない。 とはいえそれは、《すで》〈徒手空拳〉ならばの話だ。 「先に仕掛けたのは、そっちだから……容赦しないわよ」 流血の飛沫――――私は《・・・》〈私の魂〉を抜き放った。 肉体から断ち切った腕はあっという間に色を変え、嫌な臭いを立て始めた。 “音”は昔馴染みのお得意様だ。 空気を裂いて私に向かってくる豪腕すべてに音はある。 だから私はリズムに合わせて私の武器を振るっただけだ。 「クフッ♪ 残念、私の方が百枚上手」 「ってめぇ……」 「ああ、その“腕”は血も神経も通ってないんだ。戦いに悲鳴は付き物なのにぃ」 身体に残された腕は断面を見せびらかすようにうねっていたが、にょきにょきと手品のように生え変わった。 「やっぱり。やっぱりじゃねーか。ハハッ、腹ン中真っ黒のタヌキ女がっ!」 「たぬき!? そんな喩えダメだもん。なるちゃんは可愛いんだから、うさぎやハムスターに喩えてくれなきゃ認めないもんっ!」 「黙れよ化けモンが。そんなもん振り回して可愛いも何もないだろうが」 男は私の“《アーティファクト》〈幻装〉”を指差して唾を飛ばす。 「化ケ物じゃなくて人外キャラって言って! 失礼しちゃうわ。作家性のない人ってコレだから……」 どうやら私の感性をわかってくれない不届き者のようだ。 「腕とチャンバラなんて滅多にない体験になりそう。もったいないなぁ、文章にリアリティ出そうなのに……話し合い、しに来たんだもんねぇ……」 「ごちゃごちゃと何の話をしてやがんだ?」 「殺さない程度に手加減するのって、一番難しいって話」 「ハハッ! やってみやがれ! 俺には俺のヤり方ってもんがあるからよぉ」 やれやれ。 上下関係と主従関係は教えるものじゃない。 わからせるものだ。 「めらんこり~~っく、に」 携えた武器――“《アーティファクト》〈幻装〉”の扱いに、長ける長けないの概念はない。 呼び出してから試し切りすることもなければ、生まれてこの方、練習したこともない。 “《アーティファクト》〈幻装〉”は自分自身――――“《ユートピア》〈幻創界”の魂を武器化したといって過言がないから〉だ。 「してやるわッ!!」 私の“《アーティファクト》〈幻装〉”――“《ギロチンスクリーム》〈夜宴交響曲”で空気を引き裂いた。 圧力波の伝搬によって衝撃破が生まれ、大音響を撒き散らし不可視の刃と化す。 命を取るつもりはない。脚にかするように狙ったが、狙い通りにいくか責任はもてない。 優真くんを痛めつけ、契約を半ば強制させた分の借りは取り立てる。 音速攻撃による崩壊音――――私の“音”が、果たして何を壊したのかはっきりする。 「…………ふーん。わからせるの、失敗かしら」 地面叩きつけられた無数の腕が地盤ごとひっくり返し、畳のようにめくれたコンクリートが盾になっていた。 ひび割れたコンクリートが砕ける。 後ろに隠れているはずの男が――――既にいない? 「消えた――――」 何故――――。 不可解が思考を支配したのは一瞬。 しかし戦場において一瞬は命取りだ。 突如として蟲で埋め尽くされた風呂桶に投げ入れられるようなおぞましい感覚に襲われた。 「『種は蒔いたぜ。そろそろ芽吹く時だ』」 「――――――あっ!」 も゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こ も゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こ も゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こ 気づく。 “音”の発生源は足元。 彼の狙いは、地盤で盾を作ることではなく――――《もぐら》〈土竜〉。 「きゃあっ!!」 地底の住人達が光と救いを求めるように手を突き出し、私の脚に、腰に、腕に、武器に、蔦のように絡んだ。 「ハハッ! あー息苦しかった。“《ワットロンク》〈亡者の白手〉”完全再現だぜ」 「振り払えない――ッ!! ンンッ、くる、しぃ……ッ!!」 磔にされた聖者のような状況にされ、四肢を動かすことすらままならない。 純粋な力で負ける気はしなかったが、予想を超えて私の力を上回っていた。 「こんなっ、ずいぶん汚い手を使うじゃない……見たまんまの脳筋キャラでいなきゃダメじゃん……っ! キャラ崩壊反対っ!!」 「汚い? おい……それをおまえらが言ったら、本末転倒どころの騒ぎじゃねぇぞ」 「あぐぅぅっ」 「クソッタレ……どうして俺は人間の姿をハンパに保ってんだ。もっとベツモノの、化ケ物そのものにしちまってくれれば諦めもつくってのによぉ!」 一本一本が味わった事のない怪力。 いくつもの骨が軋む音が残酷なリズムを奏でる。 巻き付く豪腕が首まで伸びたら、お終いだ。 「“ナグルファル”でグチャグチャになる前にはよぉ、腕に獣が寄生する漫画が流行ったんだ。おまえ、知ってるか?」 「わかんないわよ」 それだけの説明でわかるべき著名な漫画らしいが、私は知らなかった。 「その寄生する獣はよ、笑えるくらいイイ奴なんだ。寄生主と意思疎通を取ってよ、結託して壁を乗り越えて、最後は信頼関係を築いてた」 「それがなに……?」 「微妙に憧れてた気持ちもあったんだ。そういう不思議体験みたいなのによ。けど吹っ飛んだぜ、そんな気持ち」 「コイツらは、そんな綺麗なモンじゃない。ただの狂った殺戮衝動の塊。どん詰まりの単細胞だぜ」 蠢く亡者の腕が這い上がってくる。 「誰でもいいから破戒したくて仕方ないんだとよ――――こんな奴らと意思疎通なんか取れるか?」 「俺が殺気立つと、どうやってんのか知らないが、勝手に攻撃しやがる」 「服従は愚か、話も聞かない。コイツらを束ね、統括するなんて事は無理だ。俺の手に負える存在じゃない」 「――――が、基を正せばコイツとの同棲を強制したのはおまえらだ。ガキ臭ぇ復讐心と言われようが、俺が殺気立ってるのもおまえらが先に仕掛けたからだ」 “おまえら”というのが何を指しているのか知りたいが、それどころではなかった。 「自業自得ってやつなんじゃねーか? おい」 現状では私を壊すには不十分と感じたのか、首元に伸びた豪腕が三つ編みの要領で一本に重なる。 「む~~~~~~ッ!! ~~~~~~~~ッ!!」 大樹の幹の如き腕に顔面ごと呼吸器を押さえられてしまい、息ができなくなる。 “《ディストピア》〈真世界〉”において借り物の肉体を使用する私たちは、もちろん呼吸ができなければ死んでしまう。 「コイツら賢く見えるが、そうじゃない。殺すことに関して一途で真剣なだけだ。キモチワルイだろ?」 もう限界。奥の手を発動するしかない。 「なるーーーーーーーーッッッ!!!」 ――――と思った矢先に見知った声が割り込み、私はぎりぎりまで我慢することに決めた。 何故ってもちろん、《・・・・・・・・》〈私が書くとしたら〉ここいらが主役様の覚醒イベントだからだ。 俺の見てない間になるは危ない橋を渡り、案の定というか橋は崩れ、例の“腕”によって磔にされていた。 身体は痛むが、そんな事は頭にない。 とにかくなるを助けることだけで頭がいっぱいだった。 「なる、なる、なるっ!! なんだこの腕、下から伸びてる――――? あいつは……」 「ハハッ! 片割れが来たかっ、ちょうどいいぜ」 「は、はぁ――――!? 伸ばした腕を地中に……!?」 そんな馬鹿な。 しかし戸惑っている暇はない。 なるを救うのが先決だ。 「待っててね、今どうにかするから」 「おまえに何ができるんだ? 誠意は見せたが、何も出来ませんでしたってオチだろ」 なるにへばりつく腕を剥がすには、素手じゃ話にならない。 「ンッ――――ンフッ――――」 なるの身体がビクンビクンと電気ショックでも与えられたように跳ねる。 「なる……ッ!?」 流れ出る嫌な汗が目に入っても瞬きできないほど焦った。 大半が“腕”で占められていたが、残された肌の色だけでも真っ青だと判断でき、死人のソレと変わらなかった。 「ゅ……ぁ…………ん……」 「しっかりして。大丈夫。すぐに助ける」 なるの瞳から生気が抜けていく。 消え入りそうな声をしぼりだす姿が、俺の焦りを極限まで引き上げた。 「(このままではなるを失ってしまう。大切な人を…………失ってしまう)」 「だ、ダメだッ――――そんなのはダメだ。絶対に――――」 なんでもいい、固い物。 腕の拘束をこじあけられる物。 コンクリートを突き破る“腕”に対抗しうる物。 なんでもいい、なんでも――――!! 何処かに、何処かにないのか――――!? 「な――――」 なんでもいい、とは確かに思ったし、口にもした。 しかし俺が求めたのは、標識や街灯などの鉄棒といった路上で拾えて、ある程度に硬くて力を込めやすいものだ。 「刺さってるのか……俺の胸に……」 今日は大小、様々な不思議体験をさせて頂いたわけだが、ここまで混沌とした光景を目の当たりにすることになろうとは思わなかった。 「……なんだっていうんだよ…………」 ビビりながらも、観察は怠らなかった。 柄の生え際は、俺の住む世界とは異なる景色をしている。 沼と空を混ぜたような粘着質でありながら爽やかな――――曖昧模糊とした印象を与える境界線。 「どうすんだよ……抜くのか……抜かないのか……?」 俺が欲しいのは物理――――力で捻じ伏せる事ができる物ならなんでもいいわけで。 不可思議な力なんかに頼ろうという気は毛頭なかった。 だが、意味があると考えた方が自然な気もする。 現実世界にあるもので、なるを“腕”の戒めから開放することが本当に可能だろうか。 そもそも、この柄の先は心臓なんじゃ――――あ。 「バカか俺」 らしくないじゃないっすか。 「これ、『らしくないじゃないっすか』ってやつじゃないっすか!?」 「考えすぎたって、アタマ悪いんだからいい案なんか浮かびっこないじゃん!?」 「こんなフザケタ世界に片脚踏み入れておきながら常識に囚われて、女の子ひとり救えないなんてのは、許されないッ!!」 意味や理由なんかどうだっていい。 とにかく条件に見合った物が目の前にあるんだ。 絶対――――100%の確率で俺の欲しい物が出てくるというポジティブ精神でいくっきゃない。 柄を掴む。引き抜く力を込めると“境界”独特のねばっこい抜き心地に笑ってしまう。 「なんだ。いつもやってることと同じじゃん」 “《チョコ》〈粘土〉”の現場で遺留品をさらう時の感触と大体同じ。つまり、慣れっこだった。 後はただ、待ち兼ねるようにそこに在ったものを引きぬくだけだ。 「なんとか、なるぅぇえぇぇ――――ッッッ!!!」 ――――ズボッ。さながら投球フォームで引きぬき、そのままの勢いで“腕”に叩きつけた。 巻き付いた“腕”が衝撃で剥がれてから、俺は手に持っていた得物の正体をようやく確認した。 「剣……っぽい?」 なんだこれ、というのが素直な感想だった。 剣身から七本の枝刃がされている。 刃は鉄製で分厚く、斬るよりは潰す事に向いているようだ。 所々に錆の腐食が進み、決して綺麗とは言い難い。 「……どういうこと…………?」 口元が開放されたなるは、身の安全が完全に確保されていないにも関わらず焦っていなかった。 ただ俺の手にした鉄剣に意識を集中させ、強い眼差しを向けていた。 「変よ……独立して物質化されるのは“力”とは違う。それじゃオリジナルになっちゃう」 「状況だけ見れば“《アーティファクト》〈幻装〉”に近いけど……そんなバカなことってある? だって“《エンゲージ》〈契約”は“《イデア》〈幻ビト”とは交わせない」 「……別の何か……失敗にしろ、成功にしろ、もっとずっと特別な――――“《レアケース》〈類まれなる一例〉”」 動揺するなるを見る限り、さっき言っていた“力”とは違うものらしく、しっくりきていないようだった。 まぁコレがなんであろうが俺は気にしない。 大事なのはなると無事にこの場を離れることだ。 「なるちゃん大丈夫? 怪我はない?」 「うん」 「なるちゃん?」 「え? うん。こんなの何でもないわよ。一人でできるもん」 「え……一人でできるもんだったの?」 「クッフッフ♪ 伊達や酔狂で音相を操ってないわ」 なるに絡みついていた“腕”は瞬時に何倍にも膨らみ、耐え切れず弾けていった。 内側から圧力を掛けられて連鎖的に弾ける様は、さながらポップコーン。 「すげぇっ!! なにその技ッ!! 俺にもできる?」 「一子相伝の暗殺拳。菜々実の冠を背負いし継承者だけが扱えるものよ。クフフ♪」 いつもそうだが芝居がかった事を言う時のなるは、めちゃくちゃ嬉しそうだ。 「技名は特に無いけど、私にはコレがあるわ。コレさえあれば大体なんとかなる」 「“《ギロチンスクリーム》〈夜宴交響曲〉”――私の魂と同等の価値を持つ、“《アーティファクト》〈幻装”」 「“《アーティファクト》〈幻装〉”……?」 手に持った八ツ又の鉄剣と見比べる。 コレも同じカテゴリーに入るものなのだろうか。 どう見ても、俺のは薄汚い気がするんだけれども。 「気品がある!! きっとあれだ、不思議アイテムだ。絶体絶命を切り抜けるのに使うんだ」 「種明かしをすると、“《ギロチンスクリーム》〈夜宴交響曲〉”は触れた物質に振動を送って内部から破壊することができるの」 「“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”の腕は私の“《アーティファクト》〈幻装”ごと抱き込んでいたからね、壊そうと思え〉ばいつでも壊せたわ」 「つまりそれって……最強ってことなんじゃないんですかね?」 「崇めすぎ崇めすぎ。信仰心が瞳からあふれて、い・る・わ♪」 「信仰心は鼻からも出るよー」 カリスマ溢れる決めポーズを取るなるに対し、なんとなく俺は脱力してしまう。 「じゃあ、その気になれば拘束は断ち切れたってわけかぁ」 「心配したんだぞ、なるちゃん」 「優真くんの覚醒の為に演技してたら、途中から本気でヤバくなってきちゃったけどね」 「てへっ☆」 「てへじゃねーですよ――――で。とりあえず、どうする? 逃げる?」 「そうはさせてくれないでしょ。だってまだ私の《・・》〈両耳〉、無事だもん」 「もう耳だけじゃ済まさないぜ。まとめて血祭りだ」 「あっ、潜ったっ!!」 も゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こ も゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こ も゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こも゛こ 「また来るわっ!」 地中から飛び出した千手が、絡まったコード類のようになりながら構わず伸びてくる。 「つかんでみなよ、その方が狙いが定まるから好都合だ」 俺は“《エンゲージ》〈契約〉”して生まれ変わった。 この人間離れした回復力ならば、多少の怪我を負っても平気だろう。 「あ、私は強度的に平気だろうけど、優真くんが足つかまれたら骨折られて、引きずり込まれてショック死するかも」 「先に言って――――ッ!!」 ギリギリで地を蹴り、バク転で逃れる。 両足を掴み損ねた“腕”同士がぶつかっていた。 「“契約”したって身体能力が飛躍的に向上するみたいな例は稀だわ。優真くんの力は、その剣に隠されてると思う」 剣――って言い切るには不恰好で錆の浮いたコレに、何ができるのだろう。 「早速だけど武器さん、お手並み拝見させてもらいますよ」 素材は“腕”を潰せる程度に頑丈だが、どこまでいっても物理的だ。 なるのように“音”を操れるような超能力があるようには見えない。 「うっ、おっ!」 頭、喉、目、股――――致命打となりうる部位を狙って放たれる強力無比な《ブロー》〈連打〉。 長物の扱いなんて見よう見まねだ。 近接格闘と同じ要領で、防御は最小限の動きに徹する。 八ツ又の鉄剣を細かく動かし、衝撃を殺していく。 「右後ろ、左膝狙い」 「え――――あ、ああ」 生返事と同時、右後ろのコンクリートが弾け、腕が顔を出した。 予測できていたおかげで攻撃は空を切ったが、死角となっていたのでほぼ避けられなかっただろう。 「次、頭部狙い――軽くお辞儀、左に大股3歩カニ歩き。一拍あけて――――ジャンプッ」 「おおっ、凄っ――俺、凄くないか!」 なるのナビに従うだけで簡単に躱せてしまい、武術の達人になったような高揚感が味わえた。 「2度も聴けば、同じ波長の“音”は覚えるわ。全神経をそっちに集中するから、一人じゃできないけど」 「俺が囮になってる間は当たらないってことね」 運動全般にはそれなりの自信があるが、体操選手のようなハードな飛び跳ねが繰り返されるので息が切れてきた。 「なるちゃんっ、そろそろどうにかしたい。俺の武器には何か特殊な力とか眠ってないの? 炎とか出したいんだけどっ」 「説明が面倒だなぁ。私だってソレが何なのかわかんないんだもん。“《アーティファクト》〈幻装〉”なら、使用方法なんて自分で全部わかっちゃうもんだし」 「役立たずってことかぁ……使えないなぁ……」 隠し切れない俺の失望に影響されるかのように、鉄剣の曇りが深くなった気がした。 「優真くん、もういいよ。“調整”できたから」 ズイ、と。自ら標的になるかのように前に出る。 なんとも頼もしい。 「クッフッフ。出てきてよ土竜さん、かくれんぼはお終いよ」 「遍く下賤は、なる様に平伏すがいい。直々に終幕の幸福をくれてやる」 「――――斬首刑最後尾に並べッ!!」 なるは高々と飛び上がると、深々と“《アーティファクト》〈幻装〉”を地面に突き刺した。 「うおっ、すごい揺れる……! こんなことまでできるんだ……!」 大規模な装置無しには不可能と思える大振動だった。 自然の脅威に敏感な野生の鴉が、我先にと空へ羽ばたいていく。 「憐れな亡骸を弔うは、血を糧に育つ植物の定め」 俺は立っていられず尻もちをついたが、なるは突き刺した“《アーティファクト》〈幻装〉”を支えに不敵な笑みを浮かべていた。 「厄介な対応しやがってッ!」 地中から飛び出した“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”は、頭についたコンクリを手で払った。 「ストップなるちゃん。出てきたよ」 「チッ。私好みの厨二シチュだったのに……」 抜き払った“音”の“《アーティファクト》〈幻装〉”は濡れた刀のように流麗で、有名なデザイナーが設計したように格好良かった。 対して俺の持つコレは……なんともお粗末で時代錯誤な形をしていらっしゃる。 くんくん。しかも錆臭い。最悪だ。いいとこなしだ。 「乗り物酔いみたいで気持ち悪いじゃねーか」 「筋肉質な男が乗り物酔いだなんて、ちっとも似合わないわ♪」 「腹も痛ぇし、散々だ。拾い食いがたたったか……?」 「あ……もしかして《オーロラブレンド》〈缶珈琲〉、賞味期限切れだったかな。忘れるくらい前のやつだし」 「そんな罠があったとはな」 「さすがに自業自得じゃない?」 「――余裕ぶるなよ。今の状況がどれだけ危ういかわかってるか?」 「優真くん、下がっててってば」 「元はといえば俺が売ったケンカだよ。俺もなるちゃんと一緒に白黒つけるよ」 俺を守ってくれる頼もしい肩に手を置く。 俺となるとの仲とはいえ、一応女の子肩だ。 セクハラで訴えられた時の弁明を百は考えてあった。 だが――――手のひらに感じた炎のような熱に、ふざけた考えは吹き飛んだ。 「……なるちゃん、もしかして」 「うん。まぁ。辛いよ」 さっきの“腕”の締め付けのダメージが残っているのだろうか、なるは苦笑している。 「魂イコール“《アーティファクト》〈幻装〉”なの。文字通り、命を燃料に使う諸刃の剣だから――――肉体の負担と消耗は、想像以上かもね」 「他人事みたいに言うなよ。なるの身体だろ。どうして今まで黙ってたんだよ」 「だって、逆境って、ソソるじゃん。勝ちそうで勝つ物語って、どこで盛り上がればいいかわからなくって醒めるもん」 物語とか、設定とか、キャラとか、なるはそういうのを気にするけど、俺達はいつだって現実を生きてる。 「ホント、何の為の“《エンゲージ》〈契約〉”かわかんない」 なるは不可解に俺の胸元へ手を伸ばす。 「こんなにも近くに強力な武器が用意されてて、制約無しで使い放題だって言うのに……」 だが、途中で握りつぶすように拳を固めた。 「私は――――優真くんを犠牲にする為に“《エンゲージ》〈契約〉”をしたつもりはないから」 「というわけでいきなりですが、次の一撃で仕留めたいと思います。覚悟の程は?」 「『ない』って言うのが本音だ」 へ……? 「恐らく、俺は負ける。手加減無しのおまえの一撃を受けたら、即死だろう」 戦いの中で力量差を知ったのだろう、見た目以上に冷静な判断だった。 「万が一、勝てたとする。その場合、おまえは死んでいるが、既に俺は疲労困憊だ。感情的になった片割れが、俺を殺す――――つまり」 「なるべくなら、やりたくない」 「んー……?」 つまり、丸く収まっちゃったって事で間違いないよな。 殺しあうような結末は絶対NGなので方向性としては一番、俺好みだった。 「じゃあ、俺がまとめていい? 今回の一件は、後腐れない形での手打ちってことで、一つ」 「残念……その時間は過ぎちゃったのよ」 「言ったでしょ。私は長く“《アーティファクト》〈幻装〉”を維持できない。あいつの言葉を信じて見逃して、私が無力化したあとで戻ってきたら――――どうなる?」 「そう考えるのが妥当だな。仮に足の一本でも折って見せれば戦闘不能とみなしてくれるか? それなら話は別だが」 「あなたは危険すぎる。あなた自身はそうでなくとも、その“腕”は生かしておいていい存在じゃないわ」 「言うと思ったぜ……ま、私怨もあるし、また実験されるくらいなら当たって砕け散った方が楽だぜ」 “《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”は自嘲気味な、諦めに似た笑みをわずかに見せたが、次の瞬間には獰猛な獣の顔にもどっていた。 彼は犠牲者と加害者の中間地点を彷徨っているだけで、人道を完全に踏み外してはいなかった。 しかし、どうやら二人は、分かりあえる段階を越えてしまっていた。 「こいよ。どうせ殺り合うのは俺じゃない、コイツらの方だ」 「おまえの本気のヤル気をビンビンに感じちまったコイツら、もー止まんねーぞ……」 グロテスクな肉塊がぶりゅっ、ぐでゅっ、と表面の皮膚を突き破り――――それは既に腕というより得体のしれない“肉柱”だった。 “肉柱”は二倍、三倍、無限大に膨れ上がり、ただそれだけで周囲を破壊した。 つまりは、存在そのものが破壊だった。 「痛ェ……ンなんだよぉ、ブクブクおっ勃たたせやがって、そんなに殺しが好きか……だったら勝手に殺しやがれよ……」 “《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”が自らの――――否、膨張を続ける正体不明の“肉柱”に嫌悪と恐怖の眼差しを向ける。 あの“肉柱”が放たれた際の破壊力に一切の夢、希望はない――――あるのは絶望だけだ。 「私は人が好き。人を辞めちゃったあなたは、人の脅威になる。制御が利かないなら、尚の事ね」 「あなたを駆除する理由にはならない、か・し・ら」 なるは、笑っていなかった。 本気で迎え撃って、恐らく勝ってしまうから。 勝ってしまうことは、殺してしまうことだから。 その顔に、悪趣味な笑みは、これっぽっちもなかった。 「ちょっと、なるちゃん……」 なるの構える“《ギロチンスクリーム》〈夜宴交響曲〉”は等間隔で機械的な収束音を吐き出していた。 跳ね上がった“音”が警告するように高鳴り出し、引けない状況になる。 そして――――“怨嗟”が広がった。 「調整完了」 二人の緊張が空気で伝わって来ると、身の覚えのない震えが走った。 「……俺……勘違いしてた」 力のありすぎる者同士の争いは、こんな簡単に殺し合いになってしまう。 殺し合いとケンカは違う――――結果がどっちに収束しても、取り返しが利かない。 死が何も生み出さない事は、“ナグルファル”を経験したであろう二人ならわかっているはずなのに……。 「破゛ぁ゛ああぁあぁぁぁぁぁ――――!!」 「おぉおおぉおぉぉぉぉぉぉぉ――――!!」 「やっぱりダメだっ!」 完全決着の合図を報せる咆哮に臆することなく、俺は破戒が交錯する危険地帯に躍り出た。 「え――――優真くんっ!?」 放たれた不可視の衝撃波は軌道に従って“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”を仕留めに掛かるが、突如として発生した《おれ》〈障害物が邪魔をする形になった。 「ッッッッッ!!!!!??」 暴れまわる“《ソニックブーム》〈音殺〉”の衝撃は、俺と言わずなるの前方全てを巻き込むものだった。 鮮烈な痛み――――だが、恐らくなるは間一髪のところで俺が割って入る可能性を考え、《ズラ》〈下方修正〉したのだろう。 死をイメージするほどの重症ではなく、幾重もの深い生傷が生まれる程度で済んだ。 「(効――――くぅぅッ)」 超常の力をまともに浴びた直後の俺に、続報が入る。 粉塵を舞い上がらせながら背中目掛けて伸びてくる、危険極まりない“肉柱”――こちらこそが最も危険だった。 「死にたがりにも程があるぜ」 息ができないのはもちろん、背骨やら消化器官や大切なものがごっそり壊された嫌な感触だった。 巨大な鉄球を振り子のように叩きつけられたらこんな感じだろうか。 今朝方トラックにハネられた青年が見舞われた衝撃と同等か、それ以上であろう衝突に躰が空中に投げ出される。 「――――――――ッ!!?」 長い――――永すぎる滞空時間を終え、無防備な状態でどしゃりとコンクリートに落下した。 「チャチャ入れやがって。やり直しだぜ」 「……さっさと終わらせて、優真くんを看なきゃ」 なるは心配そうな視線をくれたが、この場においては戦いに集中することに決めたらしい。 正直、生きていただけでなく、他人の気配りに気づけるほどに意識が保たれていたのは奇跡とも想える。 「脚がめちゃくちゃ重い……腕も……腕は、しょうがないか、コレを握ってたんだし……」 肌身離さず持っていた八ツ又の鉄剣が衝突のタイミングで一役買い、衝撃を殺してくれたのだろうか。 八ツ又の鉄剣――なるの持つ“《アーティファクト》〈幻装〉”とは似て異なる、無能な鉄の塊。 心なしか、前より汚れている。窯焼きで放置したパン生地のように黒々として、もう何がなんだか。 でも――――影の立役者だ。 「……なるのピンチを救ってくれたのは、おまえだもんな」 俺の事もなんだかんだで救ってくれたし。 古臭くたって、俺の元に現れてくれた俺だけの《オーダーメイド》〈特注武器〉だってのに。 骨董品扱いして。 欠陥品扱いして。 扱いきれない自分を棚上げした結果、ご覧の有様。 「どうにかならないかな……二人を、止めたいんだ……」 這い蹲る弱虫の俺の問いかけに呼応するように、枝刃した七本の一つから黒ずんだ錆が剥がれ落ちた。 その一部分だけ取ってみれば、別世界のように美しい。 本来の姿を取り戻すように味のある輝きを放っている。 「なんだよ、ちゃんとカッコイイじゃん……」 また一つ、剥がれる。現れるのは、やはり時代を感じる年季の入った鈍い煌めき。 そういえば――――歴史上で似たような形状の武器があったのを思い出す。 以前、リリ閣下の最強ノートを丸暗記した際に蓄えた知識……豪族の武器とされたそれには、“《タタリ》〈祟〉”が封じられているとされていた。 「……持ち主が、こんな不甲斐ない奴でごめんな」 かろうじて動く手で、千切れたシャツで剣身を拭き清める。 決して俺が上ではなく武器が上であることを認めながら、頼る為に言葉を投げかける。 頑固な錆がぽろぽろと垢のように剥がれていく。 「無益な殺し合いに終止符を打つのに、協力して頂けますか……?」 信じることで輝きを取り戻す武器の正体はやはり、俺の考えの通りで間違いないのだろうか。 その存在が恩恵となるも、災厄が降りかかるも、全ては信仰次第――――即ち、《タタリガミ》〈荒御霊〉と呼ばれるもの。 「殺さない程度に、都合よく、格好良く、決めちゃってくださいよ」 この鉄剣になるの“《アーティファクト》〈幻装〉”と同じような“力”があるなら……。 なるのように“力”に寄り添うのではなく。 俺は“力”を立て、発揮しやすい環境づくりをする脇役でいい。 「今後こそ、決めるぜ」 「……大、ピ・ン・チ。でも、なんとかなる」 「懲りてないなぁ……なる……もうケンカの域じゃなくなってる。そんな怖い顔で殺り合っちゃ、ダメだろ絶対……」 地を舐めながら向けた視線の先では、先ほどとまったく同じやり取りが繰り返されようとしていた。 違っている事といえば、勝利の先を見据えていたなるの表情が苦痛に歪んでいることくらいだ。 決めるべきシーンで決められず計算が狂ったのだろう、力が残っているようには見えない。 それは俺が招いた状況悪化だった。 つまり――――《・・・・・・・・・・・・・》〈俺がやるしかないってことだ〉。 「うわ……」 全ての枝刃の先端が、蛍に似た柔らかき生命の光を宿していく。 「なんだろう染み込んでくる確実に。ありえないほど湧きだしてくる、この力は――」 淡く、ときに強く、ゆっくりとした瞬き。 蛍光の乱舞が視界を埋め尽くし、幻想へ誘った。 “力”の説明書は手元にないし、“力”の条件、使用法、詳細なんかまったく知らない。 「良し……良し良し良しっ! こうなったら後は、出たとこ勝負ですね」 それでも、ポジティブ精神さえあれば《・・・・・・》〈なんとかなる〉。 「これで、終わりだぁあぁぁあああぁぁ――――!!」 「うっ、るせぇええぇぇぇえぇぇぇぇぇ――――!!」 怪力乱神と“音”の魔神が決着の一撃を交差させる、その一瞬。 渾身の力を振り絞り、霊験あらたかな八ツ又の剣を握りしめ―――― 「行っけぇえぇぇええぇ――――――――ッッッ!!」 刹那――目に映る光景が、語られる神々しき《てんちかいびゃく》〈天地開闢〉の再現映像と化した。 「ッッ――――!!」 超局地的な暴風が吹き荒れた。 それは距離のハンデを物ともせず、瞬く間に二人の舞台に割り込む。 遠方からの横槍を躱すこと叶わず、雷を取り込んだ暴風は砂塵ごと“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”を巻き込まんと荒れ狂う。 “《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”は攻守兼ね備えた“肉柱”で即席の《バリケード》〈防壁をこしらえる。 「防ぎ――――切れな……ッッッッ!!」 無駄。“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”を圧倒的な力の差で行動不能に陥らせて錐揉み状態で吹き飛ばすまで、全てがワンセットの出来事だった。 「…………雷は……不可避……」 「“音”が聴こえるよりも、落ちる方が速いから……」 なるは尻餅をついたまま海岸側に首をひねり、呆然とつぶやいていた。 音速の衝撃波を放っていたなるよりも先に、俺の放った“力”が “《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”を捉えた理由を噛み締めているようだった。 暴風の通り道は散々たる有様だったが、場所を動かずに飛び道具で戦っていてくれたお陰か、なるの身に大事はなさそうだった。 それでもなるは腕を押さえている。《かまいたち》〈鎌鼬〉が通ったような切り傷があちこちに散見された。 どれだけ飛ばされたのか――――ようやっと遠くから着水の音が聴こえた。 「あれが優真くんの“力”……目が覚めるほどにド派手で……かっこいい……」 「ははっ。桑原桑原……だなぁ……」 命の危機が去ったことで極端に力が抜け、蓄積した疲労感が一気に襲ってきた。 手にしていた八ツ又の剣は役目を終えたように消えてしまったので、お礼は心の中で告げることにした。 「あ、優真くんっ!」 なるが駆けつけてくれたのがわかった。 心配掛けた事を謝りたいけど、意識を保てそうにない。 「どうしてあんなムチャを――優真くんが割り込まなきゃ、問題なく解決してたのにっ」 「………………」 ――――違うでしょ。 問題オオアリでしょ。 あんな悲しそうな顔で命を奪おうとしてたくせに。 そう言ってやりたいけど、口がうまく動かなかった。 まぁ、でも。 目をつぶって死んだふりして眠ってしまえば、きっとなるが看ててくれるに違いない。 その柔らかい身体で抱きしめたり、優しくしてくれるに違いない。 せめて仕事の電話が鳴るまでは――――おやすみなさい。 「優真くん……優真くん……っ!」 「もしかして眠っちゃった?」 「もう……ちょっとは身体を気遣ってよ。“《エンゲージ》〈契約〉”してるからって、死んじゃったら回復も何もないんだから……」 「結局あいつの言っていた“組織”に関しては聞けずじまいだったけど……一体なんのことだったのかしら」 「ううん、今はそれより優真くんの事。とりあえず運ぶにしても、私は家なき子だし。どうしようかしら?」 「それにしても……最後の優真くんカッコ良かったわ……」 「なんだー、先客かー?」 「あ、ヤバッ……人来ちゃった」 「可愛らしいお嬢さんがいるじゃないかー。ずいぶん騒がしかったが、百鬼夜行でもあったのかー?」 「いえ、えっと……その……じ、地雷が埋め込まれていて……」 「地雷ー? まったく、いつの時代の置き土産だ。まさか、そんな物騒な物を踏んだのかー?」 「あ、あははっ。踏んではいないんですけど、ちょっと巻き込まれて汚れちゃって……」 「ケガをしていたら大変じゃないかー。よければ事務所に寄りたまえ、私はキミのような可愛いお嬢さんには優しいのだー」 「むふふ……可愛いなー……じゅるり……」 「視線が、こ・わ・いぃ……」 「あの、何か用事があってここに来たんですよね? 私の事はいいので、お構いなく」 「キミの方こそ気遣い無用。食事係がなかなか帰ってこないのでおでん屋台に来たのだが今日は開いていないようだから用事はないのだ」 「どうしよう……変に揉めそうだし、優真くん抱えてダッシュで逃げちゃった方がいいかな……」 「むー? さっきから後ろを気にしているが……何か隠しているのかー?」 「わわわっ」 「…………ふーむ……なるほどなー」 「そこに転がってる《おでんダネ》〈優真〉とは知り合いなのかー?」 「お、おでん種って……?」 「道端で力尽きて女の子に看病かー、まったくいい御身分だなー」 「えっと……あの……」 「なにをしている? まさか私に背負えとでも言うのかー?」 「――――は?」 「知り合いなのだろう? そのおでん種を拾って帰ると言っているのだー」 「目上の者に重荷を持たせる気かー? それでもいいが、身体を要求するぞー」 「あなたってもしかして……優真くんの言ってた……」 「名乗るほどの者じゃない。 ただの“《クリアランサー》〈片付け屋〉”だー」 旧市街と新市街を繋ぐトンネルを後にして倉庫へ向かう。 ノエルが私の危機を救うために使用した四輪車。元に戻した後すぐに持ち主と思われる人間が車の元に戻ってきた。 すでに私達は新市街側の入り口へ入った後だったため姿は見られなかったが、その男の我が子を失ったかのような凄惨な悲鳴は耳に届いた。 「それにしてもたかが車であんなに落ち込むこともないでしょうに」 「人間の価値観とは個体差があるのだろう。他人から見て瑣末なものでも当人にとっては重要な場合もある」 以前読んだ雑誌か何かにそう書いてあった気がする。 「金属の塊にそこまで執着する気持ちは理解できませんね」 ノエルにもわからないのであれば、私に理解できるわけもない。 「それよりも警戒しなければならないのはご主人を襲った者の方です」 「ああ、そうだ」 「またいつ襲ってくるかもわかりません。ご主人なら平気だとは思いますが、一応注意しておいてください」 「わかった。頭に留めておこう」 ひとつだけ手がかりがあるとすれば、あの黒い塊は私よりもひまわりに執着する素振りを見せたことくらいだろうか。 「ひまわり、一応聞いておきたいのだが、あの者に心当たりはあるのだろうか」 「えー、ぜんぜん知らないよー。ひまわりもオバケ見たの初めてだもん」 やはり心当たりがないようだ。何か繋がりがあるかもしれないと思ったのだが。 「あー、色々面倒くさい事だらけで嫌になりますね。私は家でテレビ見てたいだけなのに」 「あー、ひまわりもテレビ見るぅ♪」 「その前にまず親方のところにいかないと。もう店を開いて待っているかもしれない」 私達のために来ているようなものなのだから待たせるのは申し訳ない。 「ん? 誰か歩いてきますね」 ノエルの言葉通り、前方から接近する気配を感じる。一人ではないようだ。波の音に混じって複数の足音が近づいてくる。 この道で人間とすれ違うことは稀である。何しろここは旧市街なのだ。街頭の灯りもないこの道では近づかなければ相手の顔も認識することは難しい。 間近まで迫ると反対側から歩いてくる集団が二人であることがわかった。 ……いや、三人か。 背中に一人背負われているようだ。 「あれ、お兄さん、こんなトコで何してるの?」 「キミは――」 三人のうちの一人に私は心当たりがあった。 「久しぶり、でもないか。今日の昼に会ったばかりだっけ」 日中、駅前でひまわりを待っていた時に会った占い師だった。 「私は家に帰る最中だ」 「家に? こんなところに家があるの?」 「詳細は言えない。そういう決まりなんだ」 「さすが《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉、組織の追手から身を隠してるってわけね。OK、私も聞かなかったことにしてあげる」 「そうしてくれると助かる」 消閑の綴り師は片目で瞬きをして了解の合図を送った。 何か誤解していそうな口ぶりだったが都合が良さそうなので否定はしなかった。 「ちっ……」 「ああ、まずい」 私の背後からノエルの舌打ちが聞こえた。 「どうしたの?」 「こっちの都合で申し訳ないのだが、少し内輪話をさせてほしい」 私はノエルに向き合う。その視線は消閑の綴り師をこれでもかと睨み付けていた。 「ノエル、私は浮気などしていない」 「……こいつ、誰ですか」 私の弁解は耳に届いていないようで、不快感を体現したような低い声を出した。 「ふっふっふ、我の名を問うかヒトの子よ……! それは契約の意と捉えてよいのか?」 「…………」 「げふぅっ――!?」 ノエルの下段突きが消閑の綴り師の下腹部にめり込んだ。 「ノエル、揉め事は面倒だ」 「すみません、なんかイラっとしたので」 「ちょ……殴ることはないでしょ……! 女の子のお腹は大事にしなきゃいけないのよ、赤ちゃん生めなくなったらどうするの……!?」 「誰の子を生む気ですか? 返答次第では身体の心配すらできない状態にしますけど」 「ノエル、それ以上は止めておいた方がいい。事を荒立てたくはないだろう」 気の立ったノエルをどうにか諌める。 「むー、キミの知り合いかー? 可愛い顔してなかなか血の気が多いではないかー」 それまで様子を窺っていた女が会話に参加する。 彼女の風貌に見覚えがあった。先ほどトンネル内で私達の横を通り過ぎて行った者に似ている。 彼女の背中には眠っているのだろうか、ぐったりとして動かない男が背負われていた。 「いや、知り合いってほどじゃないんですけど」 「な、知り合いじゃないだと!? 既に知り合い以上の関係だと言いたいのか!?」 「ノエル、お前は少し黙っていた方がいいのではないか」 「ははは、元気なお嬢さんだー。今日は美少女をいっぱい見れて幸せだぞー」 何故女性が同姓を見て幸福を感じるだろう? 異性に対して性欲から来る満足感を覚えるのは知っている。人間が繁栄するための原始的な感情だ。 ということは女性に見えるこの人間は、実は男ということか。そういえば書籍で見たことがある。数は少ないが女装する男も存在すると。 「なるほど、そういう事か」 「何か言ったかー?」 「いや、何でもない。気遣いは心得ているつもりだ」 「んー?」 彼女――いや、彼は怪訝な表情を浮かべた。 性に関する話はデリケートである。事実に気づいているのは私だけかもしれない。ならばこの場で露見してしまうような口ぶりは止めた方がいいだろう。 他者に対する気遣い――日々の見聞を広げる努力が功を奏す。この調子ならば私が人間と遜色ない振る舞いができる日もそう遠くない。 「用がないなら行くぞー? 私は腹が空いて仕方がないのだー」 彼は私達が通ってきたトンネルに向かって歩き出す。見送り様に背中におぶられている男の顔が見える。 「…………」 どこかで見たことがあるような―― 思い出そうと過去に経験した仕事を思い返すが該当する顔は浮かび上がらない。 ――どうでもいい事か。思い出せないのはその程度でしかないという事だ。 「じゃあ私も行くね、《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉、バイバイ」 「ああ、さようなら」 消閑の綴り師は先行している二人を追う。 「あ、そういえば占いの結果どうだったー? 探し物は見つかったかねー?」 少し離れた場所で消閑の綴り師は振り向いた。 「おぼろげではあるが道標を見つけることはできた。後は私の求める場所を指し示していることを願っている」 「そっか、探し物見つかるといいね。運命の導きに従ってまた会うことができたら手を貸してあげる」 「“《アラウンドザワールド》〈ATW〉”!」 前にも聞いた気がする単語を残して今度こそ振り返ることはなかった。二人の姿は闇に溶け込んで見えなくなった。 「あの言葉は一体どういう意味なのだろうか。ノエルは知って――」 振り返る途中で言葉が途切れてしまった。どうやら私は間違いを犯していたようだ。 「……楽しかったですか? 私以外の女とおしゃべりして幸せでしたか?」 「そんなわけがないだろう。私は浮気などしていない」 他者との会話で幸福を覚えることはない。そもそも幸福という感情を体感したことがない。会話による知識の獲得によって満足感を得たことはあるが―― 「本当ですか? 嘘じゃないですよね?」 「私はノエルに嘘をつかない。今までもそうだったはずだ」 「……じゃあ私の事、愛してるって言ってください」 「愛している」 「ん……私もですよ」 ノエルは私の腰に腕を回し、上目遣いで見上げた。 「ご主人がそこまで言うのなら許してあげますよ。その代わり、優しく愛を込めて抱きしめてください」 「それは構わないのだが」 「? 何ですか?」 一連の流れにおいて、主眼は別のところに置かれているようなそんな感覚を覚える。 「いや、何でもない」 「ご主人のぬくもりを感じたら、細かいことはどうでもよくなるんですよ。それが愛というものです」 「そうなのか」 愛についての情報がまたひとつ増えた。それでも全容はいまだ不明だ。 「でもご主人がまた別の女とイチャイチャしたら、今度は私が力いっぱい抱きしめてしまうかもしれません」 「それは止めてほしいな。“《デュナミス》〈異能〉”を使ったノエルの力で抱きしめられれば、私でも胴が二分されてしまう」 「大丈夫ですよ。ご主人は死なせません。そのためなら私はこの命すら捨てる覚悟がありますから」 「それも困る。私一人では上手くやっていく自信がない」 「ふふ、じゃあこれからもずっと一緒にいなくちゃいけませんね」 そうだ。これからも私はノエルと共にいる。足りないパーツを補うため、既にノエルは私の一部と化しているのだから。 「そういえばひまわり、キミは先ほどからやけに静かではないだろうか」 抱き合う私達をよそに、ひまわりは海を眺めていた。 消閑の綴り師とすれ違った辺りから、その存在感は珍しく薄れていた。 「えっ? なにか言った?」 「私とご主人の邪魔をしないよう空気を読んでたんでしょう? 良い心がけですよ」 「んー、そうじゃなくてねー」 月の光による効果だろうか、ひまわりの横顔からいつも見せている太陽のような雰囲気が消えていた。 「なんかねー、ヘンな気持ちになったんだ」 「変な気持ちとは?」 「んー、よくわかんない」 「どうせお腹が空いたとかでしょう」 それは違うのではないだろうか。ひまわりは少し前に菓子を食べていた――という理由だけではない。 ひまわりの瞳はここではないどこかを見ていたような……そんな印象を受けた。 「ひまわり、キミは自分の名前すらも思い出せないと言った」 「…………」 「それが嘘か真実か、私達は追及しない。キミがそうだと言うのなら、それでいい」 そう言ったものの、私にはひまわりが何かを偽って自分達に接近したなどとは思えなかった。年端もいかない子供であるひまわりに、そんな知恵はないだろう。 何よりたった二日ではあるが、ひまわりと共に過ごし観察して抱いた印象は、打算的で狡猾な人間とは正反対だという事だ。 花はつぼみを開くのが当たり前であるように、ひまわりもまた己の感情に迷いがない。 「ねぇ、あかしくん」 「何だろうか」 「忘れちゃったことって、やっぱり思い出さないといけないんだよね」 一瞬私の記憶に関して言っているのかとも思ったがそうではなかった。 ひまわりも私と同じなのだ―― 「人間は――いや人間に限らず、生物には例外なく培われた過去がある。過去があって始めて現在が存在する。万物に共通する世界の理だ」 「それがなければ現在の自分は何を信じればいいのかわからない。決断した選択は本当に自分が正しいと思えるものだったのだろうか、と」 「もしかしたら今の自分は偽者ではないのかとさえ疑ってしまう」 「にせもの……?」 本来の自分は右を選ぶはずだった。しかしそのための記憶を喪失してしまい、結果的に左を選んだ。 それはもはや自分ではない何者かによる選択ではないだろうか。 「だから私は追い求める。胸を焦がしてやまない衝動の答えを知るために」 「大丈夫ですよ。私がついていますから。きっとご主人の記憶を取り戻してあげます」 「ひまわりも忘れちゃったこと、思い出したい」 「キミと私、手がかりは同じだ。九條との契約が終わればわかることもあるだろう」 「うん、ひまわりもあかしくんの忘れちゃったこと、思い出すの協力してあげる!」 抱き合う私達にひまわりが駆け寄る。 「あ、コラ、私とご主人の間に割り込んで来ないでください」 「ひまわりもぎゅーっ、する♪ ぎゅーっ♪」 背の低さを利用して下から両手を突き上げ、私とノエルに挟まれる格好になるひまわり。 「うわー、のえるちゃんのおっぱい大きくてやわらかーい♪」 「ちょ、離れなさい、私の胸に触っていいのはご主人だけなんですよっ!」 「一度ノエルが離れればいいのではないだろうか」 「嫌です、こんなガキんちょに負けたくありません」 「おっぱいぱふぱふ~♪」 鈴虫の鳴く夏の夜――道端で二人の“《イデア》〈幻ビト〉”と一人の人間が身体を寄せ合っている光景は、さぞ異様に見えただろう。 幸いにして、私達を見ているのは夜空に浮かび青白い光を放つ月だけだった。 「今日子さーん! 今日子さーーーん!」 「こらーバカモノー、帰ったらまず手を洗いたまえー」 「そんなのいいから、俺の手に顔近づけて!」 「むー? こうかー」 「もっと!」 「……手のひらに何か隠しているのかー?」 「ばー!!」 「なんだ、蛙かー」 「今日子さんつまんねー。ぜんぜん、おどろかないじゃん。クラスの女子はキャーキャー言うのに」 「帰り道で捕まえたのかー?」 「うん。もう弱ってるのかな? 動かないや。川に戻したら平気かな?」 「ゆーま、戻す必要などないぞ。その蛙は、おまえが手のひらに閉じ込めて捕まえてきたものだろう?」 「え――でも、もどさなきゃ、死んじゃう……かわいそうだよ」 「変だな。今朝食べていたサンマだって焼死体のようなものだろー?」 「だって、あれは加工されて売ってるじゃん。食べられる為に生まれてきたヤツでしょー?」 「偉い。よく言った。では早速、解体したまえ」 「――――え?」 「解体したまえー解体したまえー解体したまえー」 「今日子さん、おかしいよ。まだコイツ生きてるのに、何を言ってるの? そんな酷いことできないよ」 「ゆーま。私の目をみたまえ」 「…………」 「普段、優真が口にしている鳥も、豚も、魚も、生きていたものだ。人知れずそれを下処理している者がいるのだ」 「私はな、ゆーま。進んでイキモノの命を奪い、食材として変化させている殺害代行の方々を尊敬している」 「何故ならそれは、多くの人が目を背ける、人の嫌がる仕事だからだ」 「うん」 「イキモノの本質は、食べることにあるのだ。人も同じだ。日々、命を奪い、食い殺す事で生きながらえ、明日を迎えている」 「……うん」 「さて、ゆーま。もう分かるだろう」 「今まさに、ゆーまの責任で無駄死しようとしている蛙を喰うことのどこが“酷い”ことなのだー?」 「……でも今日子さん。蛙は、食べ物じゃないよ」 「どうしてだー?」 「そんなの、聞いたことない。クラスの誰も、そんなことしない。絶対、普通じゃないよ」 「普通の人は嫌がってしないだろうなー」 「だったら、なんで俺にそんな事をさせるの?」 「私はただ、正しい事を教えたいだけなのだよー」 「正しいこと……?」 「正しい」 「…………焼いて、食べます……」 「ゆーま。残さず食べたら、私は尊敬するぞ。明日から、私の仕事を手伝う権利をあげようじゃないかー」 「え? 今日子さんの仕事……? 俺に手伝いなんて、できるかな」 「安心したまえ。ゆーまは私が見込んだ男だー」 「今まで仕事の話ってしなかったよね。ねぇ、どんな仕事してるの?」 「ケロちゃんを食べきったらなー」 「食べるよ。けど、ちょっとくらい教えてくれたっていいじゃん」 「一言で言うなら、人の嫌がる仕事だなー」 「――――ン」 夢……。 ぼんやりと記憶に残っている夢の欠片が、確かに自分の過去であると断言できる。 「今日子さんはあの頃からちっとも変わっていないよなぁ」 目を擦り、光の遮断された室内に夜目を利かす。 「……クフ……クフフ……」 俺の部屋。 俺の布団。 そして――俺の腕を胸に抱いて眠る大事な契約相手。 「ずっと隣にいてくれたのかな……」 疲れて眠ってしまったのだろう、気持ちよさそうな寝顔からは楽しい夢を見ているのが容易にわかった。 「クフフ……火事を起こすだけが能になってしまったな、片翼をもがれた竜よ。貴様は過去の栄光にすがり、棺桶にでも引きこもっているのがお似合いだ……」 「長い寝言だなぁ。なるちゃん、よだれ。乙女のよだれが川になってる」 口元を伝うよだれをフキフキしてあげる。 「ん~む、むにゅむにゅ……ンフー」 無防備に熟睡中の美少女を間近で拝めて幸せだ。 こんな可愛い姿を見てほっこりしない男はいないだろう。 「では受けるがいい、虚界のソウルエナジーマテリアルファントムブラスターを」 「みるみるミラクル、なるなるナデナデ~……」 「なるなるなでなで~」 呪文めいた《ねごと》〈台詞〉に合わせて、なるなるの頭を撫で撫でする。 「でへ~……黄金期と申した貴様の力はそんなものか……こそばゆい……気持ちいいくらいだ……」 「こちょこちょこちょ」 「ン……ふへーー……ごろごろごろ……♪ もっとー……♪」 「よーしよしよし、よーしよしよし」 なるは抱きしめたいくらい可愛い普通の女の子だ。 実際は、ちょっと複雑な存在で、人間とは違うみたいだけど。 そんなの関係なくて、なくてはならないイイヤツ。 「んむっ、ふあ……」 「ふゎぁっ!! なんじゃあっ!!」 「おはようございます」 「え、優真くん? 暗くて何も見えない。闇に紛れて私に何かしようったってそうはいかないわ」 「ぐへへー、いいのんか、何かしてされたいんかー?」 「ダメーーーッ! されるよりしてあげたい微妙なお年頃なのーーッ!!」 「聞き捨てならないんだけどっ」 「うにゃーーーーっ!! 電気、電気ッ」 「落ち着いてよっ、俺なんかしたっ!?」 「ハァ……ハァ……ハァ……。うぅ、ケ・ガ・サ・レ・タ」 「大丈夫、責任は取るよ」 「一日朝昼晩×3回、9食おやつ付きでちゃんと面倒見てくれる?」 「いいよ、金の続く限り養ってあげる。割りと本気で」 「冗談はさておき、まだ休んでなくて平気? 生身の人間なら死んでるレベルだったわよ?」 「んー……平気かな。起き上がれる時点で問題ないよ」 「てゐっ!」 「うぐっ――――治ってるか確認する度に殴るのやめて、キツいよ」 「あ、ごめんごめん。優しく触って確かめてもいいんだけど、優真くん絶対変な声出すから嫌」 「なるちゃんもいい歳なんだから、そろそろいかに自分が魅力的かを理解して欲しいよね」 「でも良かった、無事で」 「なるちゃんのおかげだよ。ずっと俺の側にいてくれたんでしょ? ありがとう」 「うん♪ 私も無事だよ」 「よっし。早速、ご飯の支度しなきゃ――――って待てよ。俺、なるちゃんに家の場所教えたっけ?」 「ああ、そのことなら社長さんに教えてもらったの」 「え? 社長と知り合いだったっけ?」 「優真くんが気絶した後に偶然通りかかったの。優真くんを見て、ウチの子だって」 「あちゃあ。カッコ悪いとこ見せちゃったな……」 「ピクリとも動かない優真くんを見ても顔色一つ変えないなんて、肝が据わってるわね。普通、心配するものじゃないかしら」 「ああそれは――借金、返し終えてないからさ」 「え? 借金? あるの? けどそれ、関係なくないかしら?」 「あるよ、オオアリ。これはさ、信頼なんだよ」 「信頼?」 「恩を借りたまま野垂れ死ぬわけがないっていう信頼――仮に俺が血だらけで息をしていなくても『さっさと立ちたまえー』って蹴るだけだと思う」 「壮絶な光景だわ……」 「社長にまた借りができちゃったな。ここまでおぶって運んでくれたなんて……感動だよ」 「むむ」 「あれ? なんか気に障ること言ったかな?」 「べ・つ・に。社長さんの背中じゃなくて悪かっ、た・わ・ね」 しかめっつらで頬をぷく~っと膨らませる。 「怒ったなるちゃんの顔もかわえー」 「ムカッ。ここまでおぶって運んだのは私だって意味よっ」 「ええっ! 意識がなかったのが悔やまれるなぁ。でもなんとなく、凄くいい匂いがした気がする。なるちゃんの優しい花の香り」 「私におぶってもらえて嬉しい?」 「めちゃくちゃ嬉しいよ、ありがとう」 「よろしい」 「なるちゃんが倒れたら、俺がお姫様だっこしてあげるね」 「遠慮しとくわ。優真くんは社長さんの奴隷であるまえに、私のパートナーなんだから。そこのとこ忘れちゃダメよ」 「了解。了解ついでにお願いがあるんだけど」 「うん?」 「社長には戦いの事とか、契約の事は黙っててもらえないかな」 「火山が噴火しようが、宇宙人が攻めて来ようが、あの人のことだから何でもなさそう顔で『そーなのかー』で済ませちゃうんだろうけどさ」 「できる限り、余計な心配は掛けたくないんだ」 「元々、契約は交わした二人だけの秘密。自分から言うつもりなんてないから安心して」 「ありがと。ご飯の前に、いくつか今日のおさらいをさせてもらってもいいかな? 俺もなるちゃんの世界に足を一歩踏み入れてしまったわけだし」 「ご期待に添いまして質問コーナー開設ー」 「いぇーい! 待ってましたっ!」 「早速ですが、私はこう見えて人間ではありません」 「な、なんだってぇええーーーーーーッ!!!」 「で、具体的には?」 「根本的に人間――――“《ディストピア》〈真世界〉”に住む “《クレアトル》〈現ビト〉”と私は、まったく別の生命体って 事」 「“《ディストピア》〈真世界〉”は、つまりこの世界の呼び方だよね。俺が住む、地球っていうか……この世界全部。“《クレアトル》〈現ビト”ってのは、俺を差すのかな?」 「“《クレアトル》〈現ビト〉”は通常人類の事。社長さんやマスターさんを差すわ」 「優真くんは、何らかの要因ですでに“《フール》〈稀ビト〉”だったの。だから“《エンゲージ》〈契約”出来たって訳」 「“《フール》〈稀ビト〉”かぁ。じゃあ、なるちゃんはなんて呼ばれてるの?」 「“《イデア》〈幻ビト〉”。“《ユートピア》〈幻創界”出身の“《イデア》〈幻ビト”」 「は、はぁ……“《イデア》〈幻ビト〉”のなるちゃんね」 「全体的に良いセンスしてるでしょ?」 「え――――なるちゃんが考えた名称なの?」 「ううん。共通認識として偉い人が付けたんだけど、結構、私好みに仕上がってるの」 「ちなみに本来用いられる言語は“《ディストピア》〈真世界〉”に おける肉体では発音不可能だから、純 “《ユートピア》〈幻創界〉”産ではないけどね」 「“《ユートピア》〈幻創界〉”ってのはどこにあるの? 俺も遊びに行ける?」 「チッチッチ。質問は一個ずつ、慌てない慌てない」 「“《ユートピア》〈幻創界〉”は“《ディストピア》〈真世界”から物凄ぉぉぉく離れた“隣”の世界」 「誕生に関しては私は詳しくは知らないけど、遥か昔にできたのは確かだわ」 「俺にとってはフィクションで捉えるが一番近いからゲーム的な感覚で言い返すけど、長老みたいな人から話を聞けないの?」 「“《ユートピア》〈幻創界〉”って結構広いのよ。時代の生き証人には会ったことないわ。いるかどうかも怪しい」 「私の持つ知識は、自分の生まれ育った場所限定だから、間違いもあるかもね」 「“《ユートピア》〈幻創界〉”を統治している組織はもちろんあるんだけど、逆らえないほどの権力があるわけじゃないわ」 「それでも大きな諍いがあったこともないし、平和的よ」 「聞く限り、発展途上といった感じかな。報道も充分にされてなさそうなイメージ。情報を仕入れるのが育った場所だけって部分からも、そう感じる」 「もしかして優真くん、私たち“《イデア》〈幻ビト〉”が槍を持ち、雨乞いをし、物々交換する民族か何かだと思ってない?」 「そこまでじゃないけど……高度情報社会のこっちと比べたら、規制されてもいないのに“わからない事”があるなんて考えられないよ。なるちゃんもわかるでしょ?」 「うーん……ちょっと訂正させて。情報情報って……優真くん、何か勘違いしてるわね」 「人は最弱だった。何故なら牙がなかったから」 「しかし知識と器用に動く腕があった。だから道具を作った。群れを結成し、子供に知識を継承した」 「長い年月を掛けて、“《ディストピア》〈真世界〉”の頂点に君臨した」 「進化の系譜を遡れば、そういうことになるのかな?」 「生きるので精一杯な弱い生命体は知恵を絞る事を強いられたけど、“《イデア》〈幻ビト〉”は違う」 「“《イデア》〈幻ビト〉”は争いの大原因であるエネルギー供給の必要がないし、人間が適応できない環境の9割に耐えられる頑強な《からだ》〈器を持つの」 「なにより――本能的に“必要以上を求めようとしない”傾向にある」 「だから、現代社会のような発展を遂げる必要がなかったのよ」 「なるほどねー。なるちゃんの実家に挨拶がてら遊びに行くってのはどう?」 「いやそれが、できないのよ」 「なんで?」 「軽々しく私みたいなのが行き来するのって危ないじゃない?」 「だから、“《ユートピア》〈幻創界〉”と“《ディストピア》〈真世界”を繋ぐ通路があって、厳重に管理されてるのよ」 「この通路は“《イデア》〈幻ビト〉”の間では“《ステュクス》〈重層空間”って呼ばれてるわ」 「今は壊れちゃってて出入りできないみたいだけど、まぁそのうち直るんじゃないかしら」 「じゃあ、なるちゃんも戻れないんだね」 「うん。ずっと戻ってないわ。故郷のみんな、馬鹿ばっかりだから。好き勝手にやってるのが目に浮かぶわ」 大体の概要は理解できた。後は気になる単語ごとに細かい説明をもらえば万事解決だ。 「クッフッフ♪ 他に聞きたいことはないのか“《フール》〈稀ビト〉”よ。世界の真理を知る私に答えられないものなど、あんまりないっ!」 「それじゃあ、お言葉に甘えて……」 「クッフッフ。そう簡単に私の全てを把握できると思ったら大間違いだぞ」 「なるちゃんは、地球――じゃなくて、“《ディストピア》〈真世界〉”の侵略とかが望み?」 「そんなおっかないことしないわ。知的好奇心の赴くままにやって来たのよ、健全でしょう?」 「“《ディストピア》〈真世界〉”には何人くらいの“《イデア》〈幻ビト”がやって来ているの?」 「うーん……ちょっと検討がつかないわ。 “《クレアトル》〈現ビト〉”より絶対数が少ないのは間違いな いと思うけど」 「なるちゃんはいつ頃、こっちへ?」 「私がこっちに来たのは10年くらい前よ。“ナグルファル”も、経験した。この世の終わりかと思ったわ」 「だね…………あれ? そういえば…………いや、これはやめておいたほうがいいのかな……?」 「言ってよ、気になるわ」 「なるちゃんって外見的には同い年くらいに見えるけど、実年齢は俺より上なのかなって」 「クッフッフ。それは、ヒ・ミ・ツ♪ 気にされて敬語とか使われたく、な・い・し」 「歳以前に、こっちの姿は借り物なの。 “《ユートピア》〈幻創界〉”の私が人の形をしていると思わな い方がいいわよ」 「それはそれで見てみたいけど、やっぱ俺にとってのなるちゃんは、今のなるちゃんがベストかなぁ」 「私もこの姿は好きだわ。本当の姿より馴染んじゃってる気がするもの」 「自分の事を私に尋ねられても……」 「俺、ここのとこずっとさ、世界がモノクロ映像みたいになる現象に悩まされてたんだけど、それって今回の件に何か関係ってあるの?」 「……まさかッ! いや、しかし、あるいは……」 「?」 「あれは……“《グリモワール・オブ・なる》〈なるの魔導書〉”は未完成だったはずではないのか……?」 「白と黒の派閥はユリウス暦769年以降、共同戦線を張っていたというのに……今になって、そんな……」 「なるちゃんの事だいぶわかってきたよ。今の台詞は、まったくの無意味なんだよね?」 「無意味じゃないもん! そんな酷いことばっかり言ってたら何も教えてあげないんだからねっ」 「まぁまぁ。なるちゃんから見て、俺は何者なの?」 「昨日までは、“《しゃだんせん》〈刻々線〉”を持っているだけの、普通の人間だったけど」 「今は“《エンゲージ》〈契約〉”で干渉力が上がって、完全に“力”が解放されてしまったの」 「そこまではおさらいだね」 「“《フール》〈稀ビト〉”でも“力”に目覚める割合は多くないみたいなの。“《エンゲージ》〈契約”で覚醒を誘発させるのは禁忌とされてるわ」 「“《フール》〈稀ビト〉”と見れば容赦無用で処理しようとする輩がいるから、目立った行動はしないように」 「とすると、俺を“《フール》〈稀ビト〉”にしたなるちゃんも?」 「同罪。運命共同体ってこと」 「なるほどねぇ……俺が見てたモノクロ映像は?」 「単に色弱とか、普通に普通の目の病気なんじゃないかな……お気の毒に」 「え……やっぱアレは普通に病気ってオチなの……? 参ったな……仕事に差し支えが出なきゃいいんだけど」 「あんまり意味のない質問だと思うわ」 「どうして?」 「じゃあ優真くんは、自分の生きてる世界がどうして誕生したのか説明できる?」 「天文学者でも哲学者でもない俺に言われても困る!」 「それが答え。私は“《ユートピア》〈幻創界〉”にゴマンと居る一般的な“《イデア》〈幻ビト”でしかないの。なのでわからない」 「“《ユートピア》〈幻創界〉”は私たち“《イデア》〈幻ビト”が跋扈する世界。それ以上でも以下でもないわ」 「世界を繋ぐ“《ステュクス》〈重層空間〉”は? 俺は勝手に転送装置みたいなのを想像してるけど」 「大体合ってるわ。ただ転送より重要なのは“預かり所”の存在かしら」 「“《ディストピア》〈真世界〉”に行く際、“《イデア》〈幻ビト”は “《ステュクス》〈重層空間〉”に全てを置いていくの」 「コレは絶対のルール。洋服を着て海に入ったら沈んでしまうでしょ? 同じ原理。もちろん私も置いてきているわ」 「――――って、鼻血鼻血っ! ティッシュ」 「あ、ありがと。なるちゃんが全裸で降り立った瞬間を思うと刺激が強すぎて……」 「服とかってレベルの話じゃなくて、“魂”すらも置いてくるのよ」 「それでも身体能力が“《クレアトル》〈現ビト〉”と同じにならないのは、フィルターを通り抜けるようにいくらか“力”を持ってきてしまうからのようね」 「私がある程度“音”を操れるのも、知らず知らずに持ち込んでしまった力の残滓って事」 「“《ステュクス》〈重層空間〉”のシステムは結構ちゃんと知ってるんだね」 「私が来た当時は壊れる前だったから、管理体制が今ほどズサンじゃなかったの。少ないけど説明も受けたから、覚えていたのよ」 「なるほどねぇ」 「前提条件として“《アーティファクト》〈幻装〉”は“《イデア》〈幻ビト”の魂そのもの――――これを覚えておいて〉」 「はーい」 「“《アーティファクト》〈幻装〉”は、私たちの“魂”に元々備わっている血肉のようなもの」 「“《アーティファクト》〈幻装〉”に秘められた力は極めて凶悪で強力。私が暴れてる姿を優真くんも見たと思うけど、アレは一端に過ぎないわ」 「ということは、なるちゃんは“音”以外も操れる……?」 「ううん。“《アーティファクト》〈幻装〉”は一人に付き、一つ。なんてったって魂だからね、いくつもあったら、こ・わ・い」 「ちなみに“《ユートピア》〈幻創界〉”では、なるちゃんの力はどのくらい強いの?」 「わかんない、結構やれるんじゃないかしら?」 「試す機会がなかったからあれだけど、多分、“《イデア》〈幻ビト〉”同士で戦ったら相性がモノを言うと思うわ」 「“《アーティファクト》〈幻装〉”は時に物理法則さえ捻じ曲げる。人が崇め祀る神に等しい力を持つ」 「でも突き詰めれば力には“属性”がある。“火”が“水”消されるように、絶望的な相性もあるんじゃないかしら」 「思ったけど、そんな物騒なものをいつでも振り回せるって危険すぎない?」 「大丈夫」 「“《アーティファクト》〈幻装〉”はこっちの世界の常識を覆しちゃうから、“《ステュクス》〈重層空間”の“預かり所”に預けてあって取り出すこ〉とはできなくなってるの」 「あれ? なるちゃんは堂々と“《アーティファクト》〈幻装〉”を出してたよね?」 「“《ステュクス》〈重層空間〉”が壊れてるのは言ったと思うけど、それに伴って今まではできなかった裏ワザが可能になったの」 「それっていうのは?」 「対価を支払う事で、“《アーティファクト》〈幻装〉”を自分自身――つまり“《ディストピア》〈真世界”の器から引き出す事」 「なるちゃんはそのせいで酷く疲弊してたね」 「それが対価。身体に掛かる負担は並じゃない わね。よっぽどの事がない限り無闇に使う “《イデア》〈幻ビト〉”もいないはずよ」 「そういうことね。タイムリミットも短かったみたいだし、簡単には悪用できないか」 「私もなるべくなら当分使いたくないわ」 「あんまり無理しないでね、なるちゃんの辛い姿は見たくないから」 「うん。ありがと……♪」 「どういたしまして」 「対して“力”は“《フール》〈稀ビト〉”――優真くんや、さっきの筋肉男の持つ“《デュナミス》〈異能”の事」 「“《デュナミス》〈異能〉”?」 「そ、“《デュナミス》〈異能〉”。ここテストに出ます」 「広義では私の“《アーティファクト》〈幻装〉”を用いない微妙な“力”も“《デュナミス》〈異能”だけど、まぁ“力”でも“《デュナミス》〈異能”でもお好きな様にって感じね」 「“《デュナミス》〈異能〉”は“《フール》〈稀ビト”になったことで “《ユートピア》〈幻創界〉”への干渉力が上がり――」 「“《ステュクス》〈重層空間〉”の“預かり所”に置かれた “《アーティファクト》〈幻装〉”を無断借用することで手に入る」 「この場合使用しているのは、既に絶命した “《イデア》〈幻ビト〉”の忘れられた“《アーティファクト》〈幻装”になるわね」 「永遠に預けっぱなしになった遺品を使ってるようなものかぁ」 「“《デュナミス》〈異能〉”は“《アーティファクト》〈幻装”とは能力的な面でも大きく違うわ」 「“《デュナミス》〈異能〉”は適合性を高める為に肉体を変型させ、同化する」 「筋肉男の場合、特殊な“腕”が生えていたわね。あれは典型的な“《デュナミス》〈異能〉”の同居型の一例」 「体重をほぼ0にして空高く浮き上がったり、頭の回転を高めて天才のようになったりする超能力タイプもあるわ」 「“《アーティファクト》〈幻装〉”は魂そのものだから発動条件や使用方法は考えるまでもなく理解できるけど」 「“《デュナミス》〈異能〉”は借り物だから、勝手がわからないことが多いみたい」 「…………でも、優真くんのはやっぱり異質だ わ。だって形状は明らかに武器―――― “《アーティファクト》〈幻装〉”に近い姿で取り出してたもの」 「でも、使い道わかったのは土壇場になってからだよ。“《アーティファクト》〈幻装〉”は手にしたら全てを理解するんでしょ?」 「“《デュナミス》〈異能〉”と“《アーティファクト》〈幻装”のハーフみたいなのよね……とりあえず“〉《レアケース》〈類まれなる一例”という二つ名を付けておくわ」 「なるちゃんの右腕になった俺に相応しいね」 「なにそれ、こ・わ・い」 「昨日の深夜に、近くの高台からオーロラを見下ろしてたら視界が真っ赤に染まったんだ」 「変だな? って思ったら声がして――――赤いのは景色じゃなくて、人が目の前にいるんだって気づいた」 「その血って……人の血なの?」 「確かめようがないけど、そんな気がする。俺は危害を加えられてないけど……殺そうと思えば、いつでも殺せたんだと思う」 「優真くんはどう思うの? その怪物を通りすがりの異常者と見るか。はたまた“《フール》〈稀ビト〉”と見るか。“《イデア》〈幻ビト”と見るか」 「わかんない。ただ、笑いながら身投げしたんだ……あんなこと、普通の人間には無理じゃないかな」 「なら“《クレアトル》〈現ビト〉”の可能性は低いわね。心配はいらないわ、私が一緒にいたらやっつけてあげる♪」 「頼もしい限りです」 「詳しくなってどうするのよ」 「可愛い女の子の事に詳しくなりたいのに、理由は必要ないでしょ」 「う、うん……そうかもしれないわね」 「しかも一応二人っきりの状態だし。つい意識しちゃって口に出しちゃった」 「言われてみれば密室に年頃の男女が……襲、わ・れ・る?」 「なるちゃんの可愛さを構成する重要なファクターだしね、知りたいんだよ。柔らかさとか、大きさとか、形とか」 「どんな変態発言も下心なしで言ってのける。優真くんの卑怯なとこは、ここよね」 「俺、誰よりもなるちゃんの魅力に関しては真剣に耳を傾けられると思う」 「人事じゃないっていうかさ――――なるちゃんの事、なんでも知りたいって本気で思ってるから」 「もし予想より大きくても、小さくても、目を逸らす気はないよ。何カップなの?」 「………………ここだけの話、私の胸には秘密があるの……」 「なるちゃんと俺の仲だよ。包み隠さずに打ち明けていいんだよ」 「実は私の胸……本当は真っ平らなの! 全部パットでごまかしてるのっ!」 「そっか。恵まれなかったんだね。でも大丈夫だよ、俺はAAだって、ぜんぜん気にしない」 「え、てっきりがっかりするんだと……」 「ちっちゃくたって気にしちゃダメだよ」 「ちっちゃくないもんっ!! 馬鹿な事ばっかり言うから、からかおうとしただけだもんっ!!」 「嘘だったの!?」 「嘘に決まってるでしょ、ホンモノよっ。まるっと全部、私の所有物」 「よかったぁ。なるちゃんはそのサイズがぴったりだから、ホッとした」 「何でそんな爽やかな顔するのよぉ……下心のないセクハラは一番困るよぉ……」 「そうそう。なるちゃんの二の腕と膝小僧についてなんだけどさ」 「私の身体的特徴に関する質問は却下っ!」 「残念だなぁ」 「ホントに? 頭こんがらがっちょんしてない?」 「詰め込みだけどこんがらがっちょんってほどではないかな。後でボロが出そうだけど、わかんない時はまた聞くことにするよ」 「今度は私の方から質問するわね」 「どうしてあの時、強引に割って入ってきたの?」 「“力”の使い方も把握していない優真くんが闇雲に割り込んだって、邪魔なだけだわ」 「食べるつもりはあったの?」 「……は?」 「少なくとも相手は、なるちゃんを食べる為に戦おうとはしてなかった」 「ふざける時は責任持ってふざけ返されたいけど、マジメにしゃべる時はマジメに返して欲しいタイプなの」 「食べるとか食べないとか、話に関係ないじゃない?」 「あるよ」 「飢えは、最もシンプルでわかりやすい絶体絶命だし、生き延びる為に食べる事は戦いの理由になる」 「なるちゃんがいかに覚悟を持って戦っていたとしても、後になって襲ってくるのは虚しさだけだよ」 「よくわからないわ。私にだって理由ならあった。それとも“理由”に値しなかったって言うの?」 「殺し合いの理由は、絶対にそうせざるを得ない状況でなければ成立しないはずなんだよ」 「世界中に現存する種族の中で感情で殺すのは人間だけ。他のイキモノは全て、種の繁栄の為の“本能”に縛られてる」 「人は誰しも。本質的に殺戮者なんだ」 「多くの命に生かされてる。屍の上に成り立ってる。だから、仮に感情で殺したとしても、死を無駄に扱ってはならないんだ」 「その持論通りなら、優真くんは道端で踏んでしまった蟻の一匹一匹を丁寧に拾って口に放り込んでは飲み下しているって事になるわよ?」 「そう。全ての死をフォローするのは難しいよ――――だからこそ、だからこそなんだ」 「気づいただけ――ほんの僅かでも自覚した時だけは、確実にするべきなんだ」 「話が飛躍してる気がするわ。それに人を食べるなんて、カニバ何とかじゃない……」 「あはは。受け売りの押し付けだよ。実践するかどうかっていうより構え方の問題」 「要は、この考え方でいれば殺すって行為を自制できるじゃん?」 「俺はこの考え方が――社長の考え方が好きだから。それに従って身体を動かしたまで。結果的に割って入る形になっちゃったね」 何も不思議な理論じゃないと思う。 俺だって“ナグルファル”を経験するまでは、生きてることに特別な感謝はしていなかった。 心のどこかで、虫と小動物を、区別ではなく差別してた。 寿命の長短、愛玩の強弱を秤に掛けて、命に違いを見出してた。 でもそうじゃなかった。 全てのイキモノは命がけで支えあってる。 社長はそれを教えてくれた。 「……うん。納得は、したかな。優真くんは優真くんの信念に従って行動したってことね」 「なるちゃん初めて会った時、人が好きって言ってたよね? “《クリアランサー》〈片付け屋〉”の俺と競えるくらい、人が好きって」 「好きよ、大好き」 「だけど話しててわかったの。あの“《フール》〈稀ビト〉”は分かりあえない。見境なく人を襲う」 「人が好きだからこそ、あの命は摘んでおくべきだったの」 「……なるちゃんは可愛いだけじゃなくて、優しいね」 「そうかしら……私はただ、多くの不幸を未然に防ぎたかっただけ……普通の考えよ」 「それを“普通”って言っちゃえるトコが、すげぇ可愛くて優しいって言ってんの」 本当は相手を追い詰めるような選択はしたくなかったに違いない。 決断の重さを思うと、手を握らずにはいられなかった。 「優真くんの手……あったかい……手が温かい人は、心が冷たいっていうけど、優真くんはどうなのかな」 放り出すような言葉だった。 俺は応えを返さない。 なるの思うように決めてもらえば、それでいいから。 「頑張ったね、なるちゃん」 「…………」 「次にもし何かあったら、辛い決断は、全部に俺に任せていいんだよ」 「女の子を守るのは、男の役目なんだから――――頼っちゃってください」 「うぅ……ぐすぐす……うぅ…………」 「え、ええっ!!? なんで泣いてるの? 目にゴミ入った?」 「キザっぽいよぉ。でもカッコイイよぉ。どうしよう、私ってちょろい女なのかしら……?」 「好感度上昇? なるちゃんの好みに一歩近づけたようでなによりだ」 「私の理想の回答なんだもん。きっと私達が “《エンゲージ》〈契約〉”するのも、主の導きによって決定 していたんだわ」 「理想ね……いちいち芝居がかってるなぁ」 「小説家やってますんで」 「えー、初耳だぁ」 そういえば出逢った時も、餓死寸前の心境を文字に起こすとかどうとか言ってた気が……。 「クッフッフ♪ これでもブックリスト登録4桁の有名作家、な・の・よ?」 「ブックリスト? 投稿タイプのオンライン小説をメインに活動してるのかな」 「“どこでも文庫”の立ち上げ当初からの古株よ」 胸を反って得意気な表情をつくるなるに、拍手で応じる。 オンライン小説って基本的に無料公開だろうから趣味の範疇に収まっているはずだけど、それでも上位を獲得しているのは凄いと思う。 「もっと早く教えてくれればよかったのに」 「優真くんとここまで親密な関係になるなんて思わなかったんだもん。熱狂的ファンになられてストーカーされたら、こ・ま・る♪」 妄想にくねくねと身を捩らせる赤ら顔のなるはさて置き、携帯で“どこでも文庫”を検索する。 「“どこでも文庫”……これか」 「最大級のオンライン小説投稿サイト。閲覧はすべて無料。一人でも多くの人に分け与えたい、この熱い想い」 「ほえー、結構な数があるなぁ。読み切れないよ」 「私はライバルはほとんどチェックしてるけどね。優真くんは私のだけ読めばオッケー。有象無象は無視無視」 「恋愛小説とかだったらヤバイなぁ。涙腺崩壊系は、めちゃくちゃ弱いんだよね」 なるちゃんが書くんだから、きっとメルヘンチックで脳みそとろとろな少女がお菓子の国をつくる話とかだと予想。 「ジャンル別に飛んで」 「はいはい」 「厨二病」 「厨二病? ってなんだろ……まぁいいや」 「カテゴリー別→有害図書→超上級者向け→末期患者専用」 「有害図書指定受けてるの!? 末期患者専用って、自らそんなカテゴリに入って読者数減らしていいの?」 「いいんです。良い物はどこにあっても気づかれるものなんです」 カテゴリの参加作家一覧が18人というのは多いのか、少ないのか。少ないんだろうな。 言われた通りに操作すると、カテゴリーチャンピオンが表示された。 「《ペンネーム》〈PN〉《サードアイノミコト》〈邪気眼命って人がブックリスト1位だけど、まさか…〉…」 「クフフ……や、ヤツの天下は一時的なもの。いずれ厨二と言えば私の顔が浮かぶようになる」 「じゃあ2位の――――」 「ああぁぁぁぁっ! 疼くッ! 吼えるッ! 騒ぐぅぅッ!! 十二星座になぞらえたこの肉体に幽閉した、煩悩の妹たちがぁぁぁッ!!」 「じゃあ……3位の、《アラウンド・ザ・ワールド》〈消閑の綴り師*A,T,W〉って人?」 「クッフッフ♪ 《・・》〈一発〉で探し当てるとは、さすが私の右腕だ。いかにも私が“消閑”の称号を意のままにする者だ」 「ヤバそうなタイトルある。狂おしき月夜に……」 「あっ、ダメ! 『狂おしき月夜に咲いた花は沼地の屍よりも綺麗なピンク色をしていたか?』は黒歴史だから閲覧禁止なんだもんっ!」 そこまで言うなら見ないけど。 結局、その花が屍よりも綺麗なピンク色をしていたのかどうかだけは知りたかった。 「名作はこちらでーす」 「名作はこっちでしたかぁ」 なるは洋服屋の店員のような笑顔で俺の携帯を操作し、アナウンスしてくれる。 「果てしないから、ホントに。笑えるくらい伏線張っちゃったもん」 「いやぁ、自分で言うのもなんなんですけど、おもしろい。おもしろすぎるわ」 一緒に画面を見るために、なるの方から身体をくっつけて押しくら饅頭してくる。 ふんわりと心地よく漂うのは、おかしくなりそうなくらい威力のある女の子の香り。 「じゃーん! 私の自信作、異世界交流ファン タスティックラブコメディ―――― 『“《プログレッシブ・プリズム・プリンセス》〈Progressive Pr〉ism Princess”』」 「どれどれ。絶賛好評連載中“《ピースリー》〈PPP〉”。第17回“どこでも文庫祭”有害図書部門ノミネート作品!? 凄いねっ!!」 「クッフッフ♪ 出版する時のタイトルロゴも考えてあるの。“P”の形のレイピアが3本、黒い一枚岩に突き刺さってるの。どう?」 「どうって言われても……それはまた先の話なんじゃないかな、有害図書だし。とりあえず、どんな話なの?」 「簡単に言っちゃえば――――超能力が使える異世界の姫が謎の組織に狙われる少年を守り、幾多の困難を乗り越えていく話」 「壮大だねー」 あらすじだけ聞くと相当まともなボーイ・ミーツ・ガールに聞こえてしまう。 「よし、早速読んでみよう」 「あっ!!? 貸してっ!!」 と思ったところで、携帯を取り上げられてしまった。 「わーいっ! 感想板に書き込み来てるー!」 「どれどれぇ……“《クリスマス》〈降誕祭〉”さん。こんばんわっ」 「常連さん?」 「ううん、一見さん。なんだろな~なんだろな~♪」 「『斬新すぎて誰も書けない』だって! クフフ、見る目が、あ・る・わ」 「物は言いようだね」 「『おーい、ご飯はまだなのかー? 私は腹が減ったぞー』」 「ご飯っ! 話してたらお腹空いたっ、優真くんの料理楽しみ♪」 「死にかけて運ばれたと思ったら、目が覚めてすぐご飯を作るハメになるなんて……忙しくっていいねっ!」 「ごちそうさまでしたッ!!」 「んー? 何か言ったかー?」 「ごちそうさまッしたァッ!!!」 「聞こえんなー、もういちどだー」 「ごっそー様でしたぁああああぁぁあぁぁあぁぁッッッ!!!」 「ダメだな。怒鳴ってるだけで感謝が感じられない、もういちどー」 「お腹ぽんぽん♪ 幸せぇ~♪ ごちそうさまになりましたっ♪」 「うむ、いい声だー。後は優真が片付けるから、腰掛けてくつろいでいたまえー」 「は~い♪」 「男女差別だぁ……ちくしょう……俺ばっか……悔しいからなるちゃんの食器舐めよっと」 「待て優真っ、そういうことなら私と代わりたまえっ!」 「いいですよ。俺がやるんでっ、なるちゃんの食べた食器を隅々まで綺麗にするのが俺の役目なんでっ」 「そんな事したら、二度と口利かないから、よ・ろ・し・く」 「やだなぁ、冗談だよ」 ノリに合わせて愚痴ってみたけど、料理は片付けも含めて料理なので、全然、苦じゃない。 俺が食器を洗ってる間、二人はテーブルで面接するように向い合っていた。 ここからでも聞こえるから耳だけ傾けておこう。 「さて。君たちに何があったのか根掘り葉掘り聞くほど私は野暮ではないのだよ」 先ほどなるは、食事の席で身の上話を披露した。 もちろん“《イデア》〈幻ビト〉”であることは隠していたし、大半がでっちあげだったけど。 倒れていた俺を解放してくれた優しい家なき子――――それだけで今日子さんは大きく頷いていた。 「天涯孤独の身ながら路上占いで健気にも生き抜いてきた君を、私は高く買おうじゃないかー」 「決してその容姿に惹かれたわけでは、ぐふー……ないのだよー……ぐへー……」 「は、はぁ……あの、よだれ拭いてください」 「おっと失礼したー。とはいえ君の味わった境遇はこの時世、珍しいことではないぞー」 「はい。重々理解しています」 「なぁに、君一人、養うくらい造作ないことだー」 「え、いいんですか?」 「部屋も余っているし――――そうだ。君は、優真と同じくらいの歳だったかな?」 「そうです。そういう設定で――じゃなくてっ! 同じか一個上ですっ」 「んー? 曖昧だがまぁいいかー。君さえ良ければ、ゆーまと東雲統合学園に通えるように手続きしてやってもいい」 「え? 学園――――でも……それって難しくないですか? 何から何までお世話になってしまうのもちょっと……」 「なぁに、あそこの学園長とは見知った仲なのだよ。私の要求を断ったら《・・・・・》〈どうなるか〉理解してるはずだー」 「あはは……こ・わ・いぃ……」 「行きたくないのかー? 学歴の一つは欲しいだろー? 私はそんなもの何もないがなー」 「……行きたいです。普通の人間みたいで、憧れてたんです」 「普通の人間ー? 君は異常者なのかー?」 「いえいえいえ、行きたいなー学園っ! 制服かわいいといいなー!」 「あ、あとで私とお着替えしようじゃないかー……ふ、ふふふ」 「社長さん、たまに目が怖くなりますよね……」 「それじゃ……コレにサインしたまえ。こんな事もあろうかと届出用紙を用意しておいたのだー」 「用意周到ですね」 「あれ、書くとこ少ない。名前を記入するだけなんだ……菜々実なる……っと」 「やったー」 「……?」 「ゆーまー、これを見たまえー、私だけの美少女性奴隷が誕生したのだー、玩具にするのだー」 「え? え?」 洗い物が片付いたので呼ばれるままにテーブルへもどる。 踊り狂う今日子さんから、授与式のように恭しく用紙を受け取る。 「あちゃあ……なるちゃん書いちゃったのかぁ。契約書」 「不履行は許さないぞー。れっきとした“家族契約”――――私を裏切ったら借金まみれだー」 「な、何……もしかして私……ハ・メ・ら・れ・た?」 「たまえたまえたまえっ! たまえたまえたまえっ!」 「たまえたまえたまえっ! たまえたまえたまえっ!」 息のあった“社長笑い”に青ざめる涙目のなる。 「うっ……ううぅ…………ど、どういった内容の契約でしょう……私……24時間休まず男の相手でもさせられちゃうんでしょうかぁ……」 「なる、その堅苦しい丁寧語はやめたまえよ」 「私は今“社長”としてではなく“家族”として語らっているのだろう? 家族の空気を乱すようなら蹴り飛ばして犯すぞー」 「ひぃっ!? こ・わ・いぃ……」 「なるちゃん怖がることないよ。その契約書に書いてあることは、全て水瀬家のルールみたいなものなんだ」 「つまり――『水瀬の一員として結束し、裏切らず、支えあって生きていこう。不履行を起こさない限り、家族の絆は絶対だ』ってこと」 「私は煮え湯を飲ませはしないのだ」 「家族……? 私が……? いいんですか、社長さん……」 「何度言わせるのだ。団欒の時は呼び捨てくらいがちょうどいい」 「あ……。えへへ……♪ わかった。今日子さん」 なるは気恥ずかしそうに左手を出し、握手を求めた。 「なるちゃん♪」 なるに悪気がないからこそ、俺は指名されていないにも関わらず慌ててその握手に応えた。 悪気があれば、《・・・・・》〈別の意味で〉手が出ていたと思う。 「優真くんはいまさらでしょ? 私は今日子さんに握手を――」 「なるちゃーん♪♪♪」 少しだけ、俺は握手の手に握力を込めた。 「ゆーま、女の子の手を粗雑に扱うなー」 「手…………あ――――」 「ご、ごめんなさい」 やっぱり、いい子だ。きっともうなるは、この事に関して追求したり、考えたりしないだろう。 「何のこと? そんなことよりなるちゃん、ようこそ水瀬家へ!」 「ゆーま、私のセリフを奪うなー。歓迎するぞ、なるー」 「うん……ごめん……じゃない、ありがとう、今日子さん」 「夢の美少女と一つ屋根の下生活、開始だーっ」 「祝いだー円陣組むぞー」 肩を組み合って円陣を組む。 気分は甲子園を目指す球児。 「息を合わせてふぁいおーふぁいおー」 「うぇーい!」 「声出してこー、声ー。声出てないよー!? 声ー!」 「うぇい、うぇーいッ!!」 「水瀬家サイキョーかー?」 「うぇーい♪ 水瀬家サイキョー♪」 「うぇーーーいッ!!!」 「今から一緒に~! これから一緒に~! ベッドに~行こうか~!」 「うぇーい♪」 「さて」 「さてさて」 「あれれ、盛り上がってきたところなのに」 テキパキと円陣をやめた今日子さんが、俺の目の前に真顔で立った。 「と、いうわけだ。優真、聞いたかー?」 「ベッドですね」 「えっ――――それって優真くんを男として誘ってるの? 今日子さんと優真くんってやっぱりデキてたの!?」 「俺じゃないよ。なるを見てたら劣情を催しちゃったんだよ」 「うむ。言質も取れたしなー」 「…………えっと……」 「“今から一緒に、これから一緒に”……ベッドに行くのって私……?」 「なるのスカートに頭突っ込んで太ももペロペロしたいなー」 「おい」 「家族のスキンシップだね。逃げられないように玄関は塞いでおくね」 「お香タイプの媚薬も炊きたまえよー」 「言われなくてもわかってるって」 「ちょっと聞こえてるわよっ!? 何で私がターゲットになってるのっ!?」 「久々の素人……うふ、うふふふふ」 「今日子さんってまさか……そっちの趣味が……」 なるは後ずさるが、方向が悪い。そっちは壁だ。 今日子さんと結託して兎さんを追い込んでいく。 「まぁまぁまぁ。お尻に頬ずりさせたまえよー」 「はいはいはい。逃げない逃げない」 「にじり寄って来ないでっ、変態一家っ!!」 わたわたと後退し、なるの背が壁につく。万事休す。 「ひぇえっ、逃げ場がっ」 「まぁまぁまぁ。ウチの敷居をまたぐ《イニシエーション》〈通過儀礼〉のようなものだと思いたまえよー」 「はいはいはい。家族水入らずって言うじゃない」 「いや、やめて……やめてくださいぃ……こ・わ・いぃ……」 「なるちゃん取ったどーーー!!」 「ぎにゃああああっ!!」 目をつぶって脱兎の如く飛び出したなるを羽交い絞めにする。 「ぐふっ、どえっちな上乳が強調されてたまらんー」 「うわーん! 優真くん信じてたのにっ、人でなしっ!!」 「ゆーまでかしたぞー、給料アップだー」 「なるちゃんには悪いけど、今日子さんの幸せは俺の幸せ――――あ」 「…………」 仲間になりたそうにこちらを窺っているのは、妹様だった。 「うわあああああああああああん! 変態一家ーーーーー!!!」 「ぐぁ――」 気を取られた隙に、肘が思いっきり《みぞおち》〈鳩尾〉に入った。結構ヤバイ。 「私の気持ちも知らない優真くんが悪いんだもんっ。自業自得だわっ」 「まったくだなー、くふふー、捕まえたぞー」 「今日子さぁん……私はいたってノーマルな女の子なんですぅ……初めてはできれば男の子が……」 そんな風にチラチラと視線を送られると勘違いして助けてしまいたくなってしまう。 「ゆーまくぅん……こわいよぅ……助けてよぅ……」 「……ごめん、なるちゃん。今日子さんも鬼じゃないから」 水瀬家に慣れるなら、“全ては社長の為に”の社訓を身体で覚えてもらうしかない。 「そんな嫌そうな顔しなくてもいいじゃないかー」 「うぅ……何をされるんだろ……」 「それは私の部屋でゆっくりと話そうじゃないかー」 「あの、マッサージ得意なんで……今回はそれでご勘弁を……あぅあぅ」 なるはずるずると今日子さんの部屋に引きずられていった。 「……今日子さん、相変わらずなんだから」 「ご飯、終わっちゃったよ」 「いい。寝てたし。……一緒に食べたくないし」 「あ、なるちゃんに嫉妬してるでしょ」 「違う」 「今日から家族の一員だよ。家族契約も交わしたしね」 「私の部屋には入って来ないように言っておいてね」 「無駄だよ。なるの事だから、勝手に入っちゃうと思うよ」 「やっぱりそういうタイプなんだ。鍵閉めとく」 「人見知りな結衣かわえー」 「うるさいなぁ、もう。入って来られて困るのは、兄様の方でしょ?」 そういう言い方はずるいと思う。 「自分も可愛がられたいなら、今日子さんに構って攻撃すればいいのに」 「違うって……理由なんて、兄様が一番わかってるくせに」 「はいはい」 妹様も難しいお年頃ってことだろう。 でも今日に限って言えば、機嫌を治す方法を知っている。 「俺の部屋、行こうか。今日は、《・・・》〈あの日〉だったよね」 「兄様、覚えててくれたんだ……ちょっとだけ見なおしたかも」 「あんだけ食べさせておいて忘れてると思っちゃうあたり、悪女の匂いがぷんぷんするなぁ」 「兄様早く。上に行こ」 「珈琲を淹れていくから、先に待ってて。マスターと俺の新配合のヤツ、うまいよ」 微笑みが二人分咲いた。 階段を登っていく結衣を見送り、合作の“妹ブレンド”をミルに入れる。 引き立ての香りに、思わず頬がゆるんだ。 「…………」 「……ずずずっ」 お揃いのマグカップから漂う優雅な香りを跳ね飛ばすほど、結衣の纏う空気はコレ以上なくピリピリとしている。 得物を目で窺う猫のように瞬きもせず一点に見つめ、どんな些細な事でも察知し、俊敏に対応できる状態を保っていた。 「リラックスリラックス」 「ふぁっ!」 結衣は過敏にビクッと背中を震わせた。 「や、やめてよ兄様。驚いた」 「運動会前夜って感じ? 緊張してパニックになるくらいなら、直前まで意識しない方がいいんじゃない?」 「子供扱いはやめて。兄様は女の人の匂いするベッドに顔をスリスリする変態行為の続きをしててよ」 「さっきまでなるちゃんいたしね。俺の事、看ててくれたんだよ。優しいんだ」 「あの菜々実って人の胸とかお尻とかに釣られたんだ。騙されてるよ」 「なるちゃんはそういうのと違う」 「もう完全に骨抜きね。尻に敷かれて、何もかも取られて、捨てられて――――そうなった時に慰めるのは私なんだよ?」 「俺となるちゃんは恋愛してるわけじゃないよ、家族だってば」 「体目当てでしょ」 「うーん……結衣っちが、あの発育の良い身体に勝つ為には、蜂蜜揚げパンだけじゃ難しいかもね」 「でもきっと、俺が結衣に望んだのは、見た通りの成長……ってことなんだろうなぁ」 「……兄様、目がやらしい」 「断じてそんな目で妹様を見たりしてません。そんなことばっかり言ってる悪い子にはRe:non様のおやすみ電話は来ないよ?」 「かれこれ、30分は待ってるのかな……意識したらまたドキドキしてきた……」 「もういつ掛かって来てもおかしくない時間だね」 “蜂蜜揚げパン”に付いてくる生電話キャンペーンの当選者は、事前に伝えた番号へRe:non様から電話が掛かってくる。 毎月100名限定と競争率は高いが、3分ほど生Re:non様と電話できる夢の様なキャンペーンだ。 当選に至る裏話はもちろん、俺の涙ぐましい3食蜂蜜揚げパン生活がメインで語られるだろう。 「どんな話すれば、喜んでもらえるかな……」 「ありのまま、枕の下に写真を置いて眠ってる事とか言えばいいんじゃない?」 「絶対キモがられる」 「写真集と同じ水着を着て鏡の前で横ピース決めてたこととか」 「兄様なんでそのこと知ってるの」 「え? あ、うん……ゆ、結衣の事はなんでも知ってるよ……?」 「犯罪者」 「そういう目はやめてくれよ。結衣だって、俺の事は何でも知ってるじゃん」 「卑怯な言い方しかできなくなっちゃったね。全部、菜々実って人が悪いのかな」 「まだ言ってる」 「………………」 「とにかく平気だよ。Re:non様は女性ファンには優しいし」 「あわわっ、ににににに、兄様、鳴ってる! 電話が鳴ってるっ!」 「慌てるなって、通知番号は……間違いなくキャンペーン係の人だね。ゴー結衣」 「あーうー……電話って鳴るものだっけ? 故障してるんじゃない?」 「いいから息吸って、吐いて……りらーーっくす」 「すーーーーはーーーー……」 「頑張れっ。取っちゃえば後は成り行きでゴー」 「……こ、この電話が絶対にRe:non様だって責任持って言える?」 「ゆーいー」 「あ、怪しい電話かも。オラオラ詐欺かも。オラオラ言われて怖くなって兄様のカードの暗証番号しゃべっちゃうかも」 「バレたって静脈認証ついてるから、早々、引き出せないって。ほら、結衣」 「証拠だしてよ……」 「え? 何のさ」 「100%確実にRe:non様からの電話だって言う証拠はあるの? ないの?」 「いやいやいや、あのね、結衣聞いてよ」 「って、ていうか、兄様ポケットから携帯でウチに掛けてるんじゃない? 私が取ったら『残念でした~』って馬鹿にするんだ」 「人を騙すのも大概にして」 「あー……」 頭がくらくらしてきた。 しまったぞ、これはしまったって奴だぞ。 妹様は重度の人見知りが悪化して、病院で診てもらわなきゃならないレベルにまで達しているのかもしれない。 逆に考えれば、これは結衣が人見知りを克服する絶好のチャンスだ。 相手は天下のRe:non様。取りさえすれば、高いトークスキルで、こっちが気持ちよく喋れるように巧みに誘導してくれるに違いない。 「嫌だ……もしホントにRe:non様でも、声キモいって言われるんだ……うまく喋れる自信ないし……恥ずかしいよ……」 背に腹は変えられない。 こういうのは卑怯だし、嫌いな手だからやりたくなかったんだけど……。 「あーあ……俺、何個、蜂蜜揚げパン食べたっけなぁ……」 「……!?」 「栄養バランスを考えた食事取らないと“《クリアランサー》〈片付け屋〉”なんてやってられないのになぁ」 「う……うぅ……」 「早く取らないと留守録にメッセージを残されて次の人に行っちゃうよ? いいの?」 「…………ごめんなさい、やっぱり無理です」 「結衣の為に蜂蜜揚げパンいっぱい食べたんだぞ! 今度は結衣が頑張る番だっ! 出てみろってっ! 絶対に大丈夫だからっ!」 「うぅ~~~~~」 「頑張れ、結衣っ!」 「ダメぇ! 兄様代わりにお願い、聞いて欲しい事は紙に書いて出すから!」 む、無理かぁ。 「キツイ言い方してごめん。最初からわかってたことなのに」 「……もしかしたら、取れるんじゃないかって思ったんだ」 さて――――リノン様と生電話しますか。 「はい、当方は数あるRe:nonスタイルの中でも、小悪魔系Re:non様に虐げられるのを心待ちにしている者です」 「出るのが遅いのも、わたしに叱られたくてわざとやったのかしら?」 好みを伝えると一瞬でソレに合わせてくる、プロの成せる業だ。 「一体、誰を待たせたと思っているのか聞かせて。5秒以内。5、4、0。遅い、謝りなさい」 「申し訳ないです。果たしてRe:non様と対話できる身分なのかを自問自答していたらこうなってしまいました」 「今すぐ床に熱烈なキスをしなさい。特別にわたしを床だと妄想する権利をあげるわ」 「ありがたやありがたや……」 「ふふ、もしかして本当にしているの? だとしたら真性の屑ね」 「ひぇぇ……」 「服を脱いで外を走って来なさい。道行く人にマジックを渡して、その汚い背中でマルバツゲームをしてもらうのよ」 「も、もう勘弁してください……妹が見ているので……教育によろしくないので……」 「あ、もうこのキャラいーい? ごめんね、調子に乗りすぎちゃった♪」 相変わらず、どこに“素”があるのか判断に困るミステリアスアイドルっぷりは健在だ。 「ふふ。初めましてかしら? 蜂蜜揚げパン普及委員会名誉会長の紫護リノンよ。この度は、たくさんのお買い上げありがとう」 「こっちこそ、忙しい中、電話してくれてありがと。いやぁ、危なく留守電で済まされるとこだった」 「実は3件連続で留守電だったから拍子抜けしてたとこ。絶対に居留守よね。土壇場で怖くなってしまうのかしら?」 「Re:non様と話すのは恐れ多いことだからね。なんたって、超最強だし」 「それわたしのセリフ。喉を潰されたい? 舌を抜かれたい?」 「声だけだと余計にゾクゾクするぅ。ありがとうございますっ」 「そうそう。キャンペーンに登録してるのは『水瀬結衣』名義なんだけど、どうして出てくれないのかしら?」 「妹は大ファン過ぎて緊張しちゃって、氷みたいにカッチコチ」 「ふふ、可愛い……♪ 大丈夫よ、代わって。わたしは取って食ったりしないから」 「いやぁ、ちょっとキツイ。あ……」 妹様の口パクによるカンペを読唇する。 読心術なんかこれっぽっちもできないけど、妹様のなら愛でわかる。 「通話時間って限られてたよね」 「3分よ。全世界がわたしの虜だから、平等に分け与えたら妥当なところかしら? なーんて♪」 「じゃあ妹が聞きたいこと、俺が代弁するから答えてもらえる?」 「事前に用意しておいてくれたのね、感心感心」 『ブラジャーの捨てどきがわかりません。いつ頃捨てるのが普通なんでしょうか?』 「いきなりね」 怒って切られるかと思ったけど、そこは業界ナンバーワン。 うろたえることもなく、穏やかな物言いだった。 「なるべくなら直接話したいから、代わって欲しいんだけど」 「だってさ」 「~~~~~~~ッ!!」 「頚椎に傷がつく勢いで首を振ってる」 「仕方ないわね。結衣ちゃんはいくつでローテーションを組んでる?」 「『兄様に教えることになるから嫌』って、教えてくれなかった」 さすがに面倒に思われたのか、小さなため息が聴こえた気がした。 「わたしは撮影の度に渡されるから、一度でも付ければいい方。大抵は捨てちゃうわ」 「だから結衣ちゃんの気持ちはわからないけど――そういう時は感覚で勝負よ。飽きたなって思ったり、捨てた方がいいかなって悩んだ時が替え時じゃないかしら」 「物を大切にしすぎるとオシャレの本質を見失うわ。悩んだら次へ。困ったら前へ。気分を入れ替えて、ゼロへ」 地味に“《ハチゼロ》〈蜂蜜揚げパンソーダZERO〉”の宣伝をしている気がする。 「お金はもちろん、キミが出すのよ? お兄さん♪」 「いくらでも出す用意はあるさ。可愛い妹の為だもの」 「良い返事ね♪ 家族を大切にするお兄さんには、きっと素敵な “《へんしん》〈Re〉:”が待っているわ」 「だってさ、結衣。よかったね」 大きく頷きながら、続く質問を投げかけてくる。 「えっとね、『可愛い下着っていうのがわかりません。Re:non様は何てブランドの何色をはいていますか?』」 「んー……ふふ、それホントに結衣ちゃんからの質問?」 「疑いようもない真実だよ」 「あなたが聞きたいだけじゃなくって?」 「百歩譲ってそうだとしても、確かめる術はないよね? Re:non様はファンを疑ったりしないもの」 「ふふ、ふふふ……そんなこと言ってないでしょ」 ちょっとイラっとしてる。 「結衣ちゃんは好きな人いる?」 「ああ、いるよ。俺」 「嘘でしょ」 「いいえ、ホントです――――ってそんな怖い目で見ないでよ結衣」 「好きな人がいれば、好みに合わせるのもいじらしくっていいと思うんだけど……そういうわけじゃないのね」 「何をもって可愛いかと言えば、装飾じゃないかしら? リボンがついてたり、フリルがついてたり、刺激的なデザインだったり……」 「色はお好みだけど、無難に清純な白か、ペールカラー。ピンクはフェミニンでウケがいいわ。黒はセクシー系の代表格だし、一見、似合わなくても背伸びのギャップに惹かれる男性は多いわね」 「必要以上に面積が大きかったり、無地のものはちょっと控えたほうがいいわね。あと、なるべく高いのがいいかも」 「質と価格が比例するって意味じゃないの。高い物――――ブランド物の長所は自信に繋がる事。コレを持ってるんだ、っていう強い意識が芽生えるのは大事よ」 さすが、すらすらと流れるように応えてくれる。 聞き入って口を挟む気にもならなかった。 「一番大事なのはね、結衣ちゃんがトキめいたら、それは買いってこと」 「わたしのお気に入りを言うのは簡単だけど――マネをするだけじゃなくって、自分のセンスを信じて突き進んで欲しいな」 「道は必ず開けるから♪」 「さすがRe:non様。結衣も納得したっぽい」 「ふふ、よかったわね」 「あ、そんな事しないと思うけど――――この電話を録音してネットに流したりしたら怖ぁい目に遭うからね♪ 固定電話から個人情報は調べ放題だから」 「しないしない」 「そろそろ時間だから――」 「しないからRe:non様もイベントでサクラなんか雇っちゃダメだよ」 「――――!?」 「それと人を放り投げるのはまずいよ。あれは効いたぁ。ワケあってから頑丈になったから、人を投げたい時は俺に言ってね」 「………………」 Re:non様は生唾を飲み込む音さえも一般人のソレとは違う美しさがあった。 「……どうしてこっちに掛けて来てるのよ」 「はい? 掛けたのはそっち――――」 「そういう意味じゃない。番号よ。書いたでしょ」 「あれサインじゃなくて番号だったんだ。Re:non様の文字下手っぴだから解読できなかった」 「ふ、ふふ……あの時は急いでたからよ。私は何をやらせても超最強。習字の段位も持っているのよ」 「いや、仕事してたら消えちゃってた。あはは」 「わたしのファンなら握手の後は一週間は手を洗わない事を心がけなさい。仕事で汚れるなら転職しなさい」 「まぁいいわ……不幸中の幸いね。これで居場所は突き止めた」 「時間いいの? もっとおしゃべりできるならこっちは万々歳だけど」 「……こほんっ」 「名残惜しいけどもう時間だわ。今度も蜂蜜揚げパンをよろしくね♪ 絶対絶対だよ。わたしとの約束に“《へんしん》〈Re〉:”できる?」 「僕たち私たちはRe:non様以外のアイドルを一切認めることなく、Re:non様だけを信仰し続けることを誓いますっ」 「ありがと♪ あなた達がわたしを慕い続ける限り、わたしはいつまでも超最強よ」 「ごきげんよう」 「は~~……終わった。死ぬかと思った」 「出たのは俺なのに大げさだよ」 「兄様って肝が据わってるよね。Re:non様を相手に友達感覚で話せてた」 「気にし過ぎたら相手にも悪いじゃん。せっかく世界一位さんとおしゃべりできるのに、緊張してたらもったいない」 「電話越しでも綺麗な声だった。やっぱりホンモノは違うなぁ。自信に満ち溢れてるっていうか……わたしとは大違い」 「Re:non様も言ってたよ、我道を行けって。結衣っちは結衣っちのいいとこ、ムチャクチャあるんだから」 「私でもアイドルになれる?」 「そのためにも人見知りを――――」 「鳴ったね、事務所のチャイム」 「もういい時間なのに誰だろ。水瀬に喧嘩を売りに来たなら門前払いだ」 「菜々実って人が上がってくる……馴れ馴れしくされる前に部屋にもどるね」 「いやいや、この機会に人見知りをだね」 「兄様、ありがと。明日も晴れだよ」 「……うん」 「やれやれ……なるちゃんとは正反対。昔はあんなんじゃなかったんだけどな……」 言っても仕方ない。 今は、やってきたどちら様かを迎えに行くのが先決だろう。 「優真くんチャイム鳴ったよ」 「お疲れ様。今日子さんとの親睦は深められたようだね」 「や――――いやぁっ。言わないでぇっ」 耳を塞ぎたくなる《トラウマ》〈惨劇〉を引き出してしまったようだ。 「もう細長いものは見るのも嫌、嫌なのっ! あんなに奥まで入るなんて、常識を覆すのはもうやめてぇっ!」 「な、なるちゃん……」 「なんであんなに見せつけるの? ほらほらって。じゃあ今日子さんはどうなの。アハハ。私だけ? 私だけなんだ」 いったい何があったのかは聞かないでおこう……。 「それなのに終わってみると、あの時間が掛け替えの無いものに思えてくるのは何故……?」 なるの顔は火照り、憂うように淫靡な影をつくる。 「はぁん……まるで魔法みたい。取り返しのつかない快楽を覚えさせられてしまったわ……」 ほっと吐き出す吐息は熱に浮かされたようだ。 「今日子さん上手だったでしょ」 「…………うん……すっごく。身体がとろけちゃいそうだったもん……」 「ひょえー。や、やるなぁ今日子さん……」 「あれ? カップが二つ……?」 「ああ、喫茶店で話したでしょ? 妹の結衣だよ。さっきまでくつろいでた」 「えっ、妹さん? 可愛いのよね。顔見たいわ」 「うーん……まぁ、そのうちね。本人の心の準備もあるだろうし」 「私ってやっぱり招かれざる客なのかしら……? お兄ちゃんを奪うライバルが来たって敵視されてるとか」 「気難しい年頃ってだけだよ」 「あ、もったいない。珈琲ほとんど飲んでないね。ちょうど喉乾いてたし、いただきま~す♪」 「冷めちゃってるから、後で新しいの淹れてあげるよ。あと、もうなるちゃんは家族なんだから、誰か来ても堂々と出ていいんだからね」 「あ、そうだったわ。なんかまだ慣れなくって」 照れ笑いするなるを置いて、玄関へ向かうことにした。 「はい、ご苦労様です。あ、扉はウチの大黒柱が壊しちゃったんでそのままでいいですよ」 受け取ったダンボールを片手に宅配業者を見送る。 「さーて」 「こんな時間に誰からだー」 手の塞がった俺を気遣ってか、今日子さんが玄関をはめ直してくれた。 「リビング戻ってから開けようよ」 「なぁなぁゆーまー。聞きたまえよー聞きたまえー♪」 「聞く聞く。なるちゃんとの幸せ家族計画でしょ?」 見るからに上機嫌な今日子さんの相手をしていると、こっちまで幸せになる。 「なるの中……ほじくりがいがあったぁ。すごかったぞー。こっちまで気持ちよくなってしまった」 「ホクホクだね」 「奥のほうが敏感みたいだなー。きゅって脚を縮めて、う~~って唸ってたぞー。あー♪ かわいーんだなー♪」 「自分ではそこまで奥にやったことはないんだろうね」 「最初は怖がっていたようだが、そこは私のテクでフォローだ。ぐふふー、色っぽい声を聞かせてもらって満足だぞー」 「いいなぁ、なるちゃん。今日子さんの耳掻き、ずいぶん長いことしてもらってないなぁ」 「何歳児のつもりだ優真ー? 私の膝枕はもう卒業しただろー」 「さすがに甘え過ぎだよね。とりあえず、なるも水瀬家の洗礼を受けたってわけだ」 純粋に羨ましかったけど、甘えん坊が許される歳じゃないこともわかってる。 「耳掻きって人にされるの怖いよね」 「うむ。信頼している相手にしか、任せたくないものだなー。だからこそ、気持ちよくなってくれて良かった」 「今日子さんの耳掻きは比類なき腕前だから当然だよ」 なると今日子さんの思い出作りが成功して良かった。 「さぁ、お二人さんご注目っ。特に今日子さんはご注目」 「あ、何か持ってる。ダンボール箱?」 「さっさと開けるのだー。どうせ宗教勧誘か送りつけ商法だろー」 社長のうんざりした顔の移り変わりが拝める位置を確保してから、開封していく。 「なんだろうな。ん……新聞紙に包まれたこれは――――重いっ! て、手が折れるっ!!」 「何をやってるのだゆーま。なる、手を貸してやるのだー」 「クッフッフ。愉快愉快。片手で充分だ」 「って……ホントに軽くない?」 「いやいやいや重いよ。なるちゃんの細腕じゃ折れちゃう。だ、ダメだ! 蜜がぎっしり詰まってるから重い」 「そ、そんな事ないと思うんだけど」 「……はぁ、情けない。そんなことで “《クリアランサー》〈片付け屋〉”が務まるものかー。 貸してみたまえー」 屈みこんだ今日子さんは片手で器用に新聞紙の包みをはがしていく。 「ん――――」 「あれぇ? おかしいなぁ。コレ、見覚えあるなぁ。なんていう果物だっけ」 「めっ、めっ、めっ――――」 「うーん……わかんないっ! 今日子さん教えて! このずっしり重たくて蜜がぎゅって詰まった甘ぁい香りの果物は一体全体なんなのか、ズバッと答えちゃってくださいっ!!」 「めッろ~~~~~~~~~~~~~~~~ん♪♪♪♪♪」 「誰からだろ……って俺だー! 送ったの俺だっ、忘れてたなぁ」 「めろ~~ん♪ めろんめろ~~~ん♪」 「そっかー、サプライズプレゼントなのね」 昨日の今日子さんは語尾にメロンばっかり付けてうるさかったから、もしかしてと思ったけど。 「メ・ロ・ン! メ・ロ・ン!」 我が子にするように頬ずりをする今日子さんを見て、買って良かったって思う。 「なる、メロンを神棚に運びたまえー! 粗相のないようになー!」 「はいっ、ただいま」 なるはテーブルを神棚に見立て、慎重にメロンをお皿の上まで運んだ。 路上販売のワケあり商品なので僅かにヘコみがあるが、果物の価値は果肉にあって外見にはない。 「おっと、こっちはなんだろうなー。《メロ》〈銀ムツ〉だー! 煮ても焼いても美味しいぞー!」 「メロもめろ~ん、メロンもめろ~~~ん♪」 もしメロンではなくメロが食べたかったら盛り下がってしまうので、考慮して両方買っておいた。 「じゃ、じゃあ二礼二拍手一拝とかしちゃうわっ」 なるのテンションもおかしくなったのか、率先してメロンに参拝作法を実践している。 「ゆーま、我々も拝むとしよう。ありがたやー」 「ハハァ……! メロン様、美味しく実ってくださり、ありがとうございますぅ」 「…………ふふ」 「どうしたのなるちゃん。可愛いすぎる笑顔してたら今日子さんに食べられちゃうよ」 「ううん。家族っていいなぁって」 「あたりまえじゃん」 「はーい、どうぞ」 「お邪魔します」 プライベートルームに顔を見せたのは、いつもより髪がしっとりして、肌もぴっちぴちの潤いの美少女だった。 食べたくなるような髪だ。どんな味がするのやら。 「水も滴るイイなるちゃん」 「シャワー頂きました♪ 久々にちゃんとした水浴びができた気がするわ」 「サッパリして気持ちよかったでしょ。なんだかんだ暴れまわったし、あとは寝るだけだね」 「あれ? 本読んでたの? 見せて見せて」 「ん? ああコレ。寝る前に欠かせない夜のお供、Re:non様の2nd写真集“クレッセント”だよ」 多面性のあるRe:non様の中でも、夜をテーマにしたとびっきりセクシーな写真集。 あの完成された美から来る絶対的な自信と挑発的な視線の虜になること間違いなしの一冊だ。 「コイツ大嫌い」 「また始まった。新聞紙の件は忘れてないからね」 持っていた写真集をなるから遠ざける。破られたら堪らない。 「オタク臭っ。これでポスターが貼られてたら完璧だわ」 「本気で言ってないことくらいわかるよ。なるちゃんは人の趣味にどうこう言う子じゃないからね」 「お金さえ積めば整形し放題、写真加工もし放題だわ」 肉眼で見た俺の評価を言うなら、ダイヤモンドの原石を磨いた本物のダイヤモンドだ。 人工的な誤魔化しの効く美しさではない。 なるも思いついた悪口を言ってるだけだろうから、本気にはしないけど。 「逆に聞くけど、どうしてそこまで嫌いなの? 理由のない批判なんて低レベルなこと、なるちゃんはしないでしょ」 「いくつかあるけど……」 「一個でいいよ」 「あの子が売れっ子小説家の作品にキャラとして登場したことは、知ってるかしら?」 「ああ、骨のなんちゃらっていうタイトルの。俺は買ってないけど」 「まえにラーメン屋で夕飯を食べてた時、ちょうどあの子が作家と二人でインタビューに答えてるところがテレビでやってたの」 「その中で『本はもう読みましたか?』って質問があって、あの子はこう答えたの」 「『わたしは必要もなく小説は読まないの』」 「『ページを開けば誰にでも平等に知識や、興奮や、感動が手に入る。達成した気になって満足してしまう』」 「『空想のお世話になるのもいいけど、その全ては、現実世界で獲得してこそ意味があるはずじゃないかしら? そう。わたしのように』」 「名言すぎる。近々発売するRe:non様の語録集に収録されてるね」 作家のなるが嫌いになる理由としては、上出来なワンエピソードだった。 「創作をおままごとだと言い張ったのよ? 全ての作家に対する冒涜であり挑戦よ」 「隣で話を聞いてた作家の顔はそれきりカメラに映らなかったけど、唇を噛んでいたに違いないわ」 Re:non様は、こういった発言で周りに存在をアピールする節がある。 Re:non様の言葉が本心なのかマイクパフォーマンスなのかは置いといて、彼女が頂点に君臨し続けるには飽きられないキャラでいることが必要なのだ。 普通の人なら『読みました』『面白かったです』など好意的な感想しか言えないシーンで、堂々と自分を貫いてみせる。 あの自信満々な態度でハッキリと断言されれば、お茶の間の視聴者は嫌でも注目するだろう。 「その作家の本を、なるちゃんは一冊でも読んだの?」 「話題になるだけあって序盤から引き込まれる展開で終始、安定して読めたわ」 「文章は地に足ついてて、キャラも個性的で好きになれる、すごくいいものだった」 なるほど。 つまり、その小説家は典型的なオンリーワンであって。 対する、紫護Re:nonは究極的なナンバーワンというわけだ。 「コイツを嫌いな理由はそれだけじゃないんだけど……やめとく。優真くんとは、楽しい話がしたいから」 同感。分かりあえない話を続ける気は俺にもなかった。 写真集がなるの視界に入らないよう配慮し、話題を変えた。 「学園は楽しみ?」 「うん♪ 明日から通えるなんて嘘みたい」 「うぐ……なるちゃんの可愛さに学生というステータスまで追加されたら、ど、どうなっちゃうんだぁ?」 「いよいよ誰も止められないわね。向かうところ敵なし」 「それもこれも全部、今日子さんのおかげだよ。偉大さが身に染みるでしょ」 「学園長さんと電話で2、3言葉を交わしただけで入学できるなんて、驚いたわ。裏口もいいところね」 「制服は今日子さんからもらった? いつ女の子を連れ込んでもいいように、コスプレ用で持ってたはずだけど」 「あれ? 私の制服姿が気になるのかしら?」 「そりゃ愛しのなるちゃんが制服を第何ボタンまで開けるのかは気になるよ」 「試着しようと思ってるんだけど、見たい?」 「な、生着替えはまずいよ。鼻血が致死量に達する」 「しないわよ」 「明日でいいよ。興奮して眠れなくなっちゃう」 「肝心なトコで奥手よね。エッチなのは口ばっかの優真くん♪」 「ははは。今日子さんはぶっ倒れたままだった?」 「ソファから落っこちてたけど、戻してもまた寝返りで落ちるからタオルケットを掛けといたわ」 「それ正解」 「いつも、あんなベロンベロンになるのかしら?」 「割りとなるけど、仕事に差し支えはないよ。仕事の電話が来れば嘘寝だったみたいに瞬間的に起きる。あんな人、他にいないんじゃないかな」 「メロンがお酒の肴になるのは勉強になったわ」 「今日子さんは何でも肴にしちゃうよ。月見酒も。星見酒も。一番好きなのは、海見酒らしいけど」 「一発芸の『蛇口全開で1分間耐久、水道水がぶ飲み』は脅威だったわ」 「今日子さんは特殊な訓練を受けています。良い子は真似しないように」 「しないわよ。というか無理。私も人より大喰いだけど、暴飲はお腹壊しそう」 「思い出しただけでお腹が――――否、結界を潜り抜けた“《アビス》〈進化の終着点〉”で堕天使達が騒ぎよる。黙示録が予定より早まったか……」 クフフと笑んで、いつもの決めポーズを取っている。 「お腹痛いの? どれどれ」 「ひょわ!?」 がら空きのお腹をさする。細くて締まってるけど、女性特有のやわらかさが良い具合に手のひらに馴染む。 「でゅわぁぁぁぁんッ!? ぽんぽん触りゅなぁぁぁっ!! 第四の、第四のアレが……出りゅぅっ! 出ひゃぅうぅぅぅぅッッッ!!」 「ユナイテッド肘ボンバーッ!!」 「がっ――――!」 顎にイイのをくらった俺は、叩きつけたお餅みたいに床に伏した。 「お、女の子のお腹を気安く触っちゃダメなんだもんっ!」 「イテテッ……なるちゃんのお腹が心配で……」 「それにしたってストレートすぎるわ。そういう時は背中をさすって」 「で、第四のアレって?」 「《ヘルゲート》〈煉獄の門〉の連中と交信してただけよ。閻魔が霊界に物見遊山してるってもっぱらの噂だわ」 「ああ、意味はないんだね。ひゃっくりみたいなもんだ」 「失礼ね、ひゃっくりは意味あるわよっ」 「ひゃっくりは意味あるけど、なるちゃんのは意味ないんだったね。ごめんごめん」 「“意味”の83%は既に消失した。残された僅かな“無意味”を増幅できるのが我が一族の真髄」 「みかん食べる?」 「わーい! 皮剥いてある。こういう小さな気遣いが、優真くんのイイトコだわぁ♪」 とりあえず食べ物で会話を一度精算するという方法は有効みたいだ。 常になにかしら持ち歩いておけば、なるの暴走を止める上で役立ちそうだ。 「バクッッッッ! もむもむもむ……ごくん」 「スッパ~~~~~イ♪」 和むなぁ。 「なるちゃんのソレって厨二ジャンルを書く上で大事なことなの?」 「厨二は考えるものではない、感じるものだ」 「“《ピースリー》〈PPP〉”さわりの方だけ読んだよ。ざっと見て14章あったから驚いた。ホントに力作だね」 「…………そっか……」 「…………あれ? ムチャクチャ落ち込んでない?」 「さわりを読んで、途中でやめちゃうくらいの評価ってことでしょ?」 「いやいや、まず設定と世界観が別記で用意されてたじゃん。あっち読破するだけで文庫一冊分は楽にあったよ?」 「これでも削った方なのよ。私の設定ノートを全公開したら投稿サイトが阿鼻叫喚の地獄絵図になるわ」 「ちゃんと設定を咀嚼してからじっくり読もうと思ってね。読み出したら止まらなくなりそうだから止めたんだ」 「そういうことなら納得したわ。優真くんは良き読者のようね」 「キャラ立ってるよね。ヒロインの《ひひめめ》〈日冒目〉ちゃんの設定、凄いって思った。あーいうの俺、絶対考えられないよ」 「『傘? 必要ないわ。許可なく私にぶつかれるほど、雨だって馬鹿じゃないわ』」 「『虹は何故綺麗か知っている? 私に見限られないよう、努力し続けているからよ』」 「それ、お気に入りのセリフなの! 一字一句違わずに言えた優真くんは偉い」 「読んだばっかりだし、名台詞が雨のように刺さって大変だったよ」 「主人公の少年が優真くんそっくりなの。姫を一途に守ったり、ちょっとエッチなとことか、行動理念も似てるわ」 「じゃあ煮詰まったら俺が主人公の気持ちになって考えてあげよっか?」 「え?」 「あ、余計なお世話かな。創作なんてやったことないから、マナー違反みたいなこと言ったかも」 「ううん、嬉しい……♪」 「ずっと一人でやってきたけど、何か足りないって感じてたの」 「優真くんがアドバイスしてくれれば、モチベーションの持ち方も変わりそう。さらに上を目指せるわ」 「共同作業かぁ。まるで夫婦みたいだね」 「…………」 「なんて。俺なんかには冗談でも言われたくないよねー」 「う、うっ――――」 「うぜぇええええええええええええええ~~~♪♪ うぜぇうぜぇうぜぇ♪♪」 「痛い、痛いッ! 叩かないで、痛ェッッッ!!」 「おまえ、うぜぇ♪」 「指差さなくてもわかりました、俺はうざいです」 「言い方がうぜぇーんだもん♪ もー♪ 夫婦だなんてー、言っていいことと悪いことが、あ・る・ん・だ・ぞ♪」 「痛ッ!! イッ、ちょっ、うわっ、うわぁっ!!」 「もうッ♪ もうッ♪ どんなプロポーズだよッ♪ そんなに私が好きかッ♪♪」 なるは気分が良いとバシバシ殴る癖があるみたいだ。 「もう半殺しなんで、全殺しは勘弁してください……」 「あれ? 優真くんなんで倒れてるの? 誰にやられたの? 私が仕返ししてあげるわ」 「………………」 なるの特殊スキル“都合の良い物忘れ”が発動したらしい。 「でも優真くん、私のこといつも可愛いって言ってたし、何となく気づいてたわ。もしかしなくても両想いね♪」 「そうだね、俺はなるちゃんスキーだよ」 「恋人同士だわッ! 何をしたらいいのかしら。遊園地デート?」 「何もしなくていいんじゃない?」 「嘘つき。優真くんの恋愛にプラトニックは似合わないわ」 「え? 《・・・・・・・・・》〈恋人じゃないじゃん〉」 「……………………………………………………………………………ん?」 カップ麺くらいなら作れるくらいのスゴイ間があった。 「うまく理解できなかったわ。もう一回、いいかしら」 「いや、恋人は違うでしょ。家族じゃん」 「生まれて初めて芽生えた淡い恋心の雲行きが怪しい」 「好意的に思ってくれるのは嬉しいんだけど、錯覚だと思うんだ。なるちゃんと俺じゃ釣り合わないよ」 「初恋は未だ実らず青い果実のまま成熟の時を待つ」 「話、聴こえてますか?」 「雲行きっ!」 「が怪しい?」 「ふ、フラれた……? でも好きって、何度も耳にしたもん! あれ全部ウソってこと!?」 「人として好きって意味だけど」 「だってだってっ、責任取ってくれるってっ!」 「取るよ。なるちゃん家ないからウチ泊まって良いし、生活面は俺がカバーするって意味だったんだけど」 「家族の一員ってことになるよね。盟友でも、契約者でも、恋人でもなくて、大切な家族」 「うぅ……」 いつ頃から俺をそんなふうに見ていてくれたのだろうか。 “契約”をした時からか。 自作小説の主人公と俺が似ているからか。 今まで二人で過ごした短くも濃厚な時間からか。 とにかくなるは、俺の事を異性として見てくれているようだ。 「じゃ、じゃあ私の撤回不可能なくらい明確な告白の行き場はどこへ?」 「これからもよろしくお願いします。ただし、家族的に。という決着でひとつ」 「もしかして優真くん、他に好きな子がいるの?」 「Re:non様は憧れだしなぁ。身近な中では、なるちゃんがダントツで好きだよ」 「だったらなんで? ま、まさか今日子さんとは真逆の性癖……」 「そんなわけないでしょ。脚と脚の間にホソクテナガイもんが生えてる奴に興味はないよ」 「会話の弾みでしちゃうような告白だから軽く思われたのね。もっとムードを考えるからテイク2いい?」 「いいけど、答えは変わらないよ。俺みたいな未練がましい妄想野郎は、やめたほうがいい」 「吹っ切れた気になってるだけで、どっかで期待ばっかりしてるおかしいやつだからさ」 「なにそれ……意味分かんない……」 全然、納得いってなさそうだった。 適当な事を言って強引に断ろうとしてる嫌な奴とでも思われたかもしれない。 「ク……クフフ……コレって逆境? そうか。わざと私が燃えるようにスルーしたのね。そういうことね」 「1フラレくらいでヘコタレるような菜々実なる様ではありません」 「いつか“うん”と言う日まで、しつこく言い寄ってあげるから覚悟するがいいわ!」 恋愛に闘士を燃やすなるを見て、おぼろげに思う。 告白に『いいよ』って返事するのは簡単だったけど、俺はきっとそれをしないし、できない。 いつかできる日が来るとは思うけど、それまで待ってもらうわけにもいかない。 とするならば――――なるが俺に感じている“好き”が映画のパンフレットのような厚みしか持たないうちに、嫌われる行動を取った方がいいのだろうか。 「まぁさ、付き合うとかそういう形式じみた事はいいじゃない」 「生涯の伴侶を決断するわけでもないし、こうやって一緒にいるだけでいいじゃん? なるちゃんの頼みなら、大抵は聞くし」 「それもそうね。同じ屋根の下で暮らしてるんだし、いつでも会えるものね」 「そっかそっか、なーんだ」 『胸がドキドキして一人じゃ眠れない』なんて乙女な事を言われた日には、俺がどうして恋愛できないかを洗いざらい話さなきゃいけないところだった。 「どのくらいまで恋人っぽい事していいの?」 「雄の本能という獣が、人の理性という鎖から解き放たれない程度なら何をしても」 「ご、強引なのは嫌だわっ! 私、優しくされたいもんっ」 優しくならいいって……。 俺がその気だったら、その……そういう事がOKなのだろうか。 「う……ダメだ。想像しただけで色々と限界になるから、ピンクな会話はやめにしよう」 「……? …………なるほど」 なるは立鏡に映った自分を上から下まで見下ろしてから、悪戯チックに笑んだ。 「そういえば優真くん……“《リーディング》〈虹色占い〉”で指を咥えた時、妙にビクビクしてたわね」 「あの……なるちゃんさん?」 「この間読んだ本にも、恋愛成就の基本は積極性に尽きるって書いてあったし……」 あの顔は企んでいる顔だ。 「さ、さて! いつ緊急の仕事が入ってもいいように体力を回復しなきゃ。俺は寝るよっ」 「わかったわ。おやすみなさい、優真くん♪」 「あ、うん。おやすみー」 笑顔で引き下がられると、余計に怖い。 「……困ったなぁ。絶対なんか仕掛けてくるじゃん」 先ほどの流れから来る想像力と、なるの香りが充満した部屋のコンボに快眠を妨げられそうだった。 とはいえ、一度眠ってしまえばどうとでもなるだろう。 休むのも仕事のうち。 “《クリアランサー》〈片付け屋〉”はいついかなる時でも舞い込んだ仕事を最優先に考え、動ける体作りを心掛けなければならない。 「今日も色々あって、いい一日だったなぁ」 闇に目が慣れないうちに目をつぶり、考えるのをやめる。 そうやって頭を空っぽにして――――それでも自然と浮かんでくるのは大切な人たちの顔だ。 両手で数えられるほどの顔ぶれの中に、俺が恋とか愛とかにかまけちゃイケナイ理由を見つける。 「俺、お疲れ様です」 「…………んー……」 「んしょ……お邪魔しまーす……」 温かい……だけじゃなく、やわらかい……だけじゃなく。 なんかこう……気持ちいい……っていうか? 母親の、胎内で丸まっているような――――心地良さが、俺を包んでいる。 「わっ、温かい。優真くんの人肌と油断顔ゲット」 子守唄のような声が、いっそう眠りを深くする。 「どなたかは存じませんが……ありがとうごじゃまーす、むにゅにゅ……おやしゅみぃ……」 「気持ちよさそうに眠ってるのにごめんね。起きてもらわないと、来た意味の半分以上が失われちゃうの」 優しい香りがして……幸せで……安眠快眠、明日もいい仕事ができそう……。 「ぜ……っと……ぜっ……と……ゼット……Z……ZZZ……ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ…………」 「ゆ・う・ま・君♪ ていっ♪」 「むきゅんっ!?」 「いっ!?」 「しー……うるさくすると、みんな起きちゃうわよ? っていうかその寝言は突っ込んだほうがいいのかしら?」 「な、何をしてるのなるちゃん。ここ、俺のベッドだよ? すぐに出てください」 「まぁまぁそうおっしゃらずに。新製品の、菜々実なる抱きまくら、おひとつどう? 今ならキャンペーン中で無料期間付き」 「わっ、わーーっ」 「ぎゅ~~♪♪ ゆーまく~~ん♪♪ 愛してる~~♪♪」 超やわらかいなるちゃんボディの気まぐれで戯れな急接近。 押し潰れたできたてのプリンみたいなおっぱいは、服越しでもわかるぷにぷに感。 「見えてますって、可憐な乳輪までバッチリ視界に収まってますってっ!?」 「しょうがないなぁ、ちょっとくらいならいいわよ」 「年頃の男女がひとつのベッドってのはいくらなんでも間違いが起きるってっ!」 「ふふふ。菜々実なる抱きまくらの売りは抱き心地だけではありません。設定した厨ニボイスを吐きまくります」 なるの体温と眼差しが反論の自由を与えてくれない。 「で、ではサンプルを……」 音声再生スイッチに見立てて、肩のお肉をぷにっ、と押してみる。 「“朝まで優しく抱いてね……ご主人様”」 「なんか違うから間に合ってます」 「そこを何とかー。サービスするからー」 「あ、こら、ダメ……くっつきすぎだよ……」 「クッフッフ♪ いーやーだ♪」 なるがご機嫌なのはイイコトだけど、この密着感はヤバい。 いささか、過ぎた愛情表現というか、家族サービスの粋を超えてるというか。 「う、うーん……なるちゃんの服装は、いたいけな青少年には目の毒だよ……」 「好きになったからには積極的にいかないとね。恋に時間は関係ないし、優真くんカッコイイから誰かに取られちゃったら嫌だもん」 やっぱりさっきの笑みはこういうことか。 「はいはい、お終い。力技は卑怯だよ? 色仕掛けは大人になってから」 「何のことかしら? 私はただ、命の恩人と交流を深めに来ただけよ」 「俺となるちゃんは彼氏彼女の関係にはなれないんだよ。家族でこういうのは良くないよ」 「ただ一緒のベッドで甘えてるだけで、何もやましいことなんてないわよ? その発言自体に問題があるんじゃないかしら?」 ああ言えばこう言って、ほっぺたを胸に当ててすりすりしてくる。 「んふ……♪ 優真くんは、清く正しいから……私に甘えられても、変な考えは起こさないわよね」 「へ、変なって……な、なんのことやら……早く、出て行ってよ」 「クッフッフ……♪ 私が何をしたって、ひどくやらしい水瀬優真にはならない、の・よ・ね?」 なるの掌が腕や胸やお腹を撫で、そしてとうとう……。 「うはっ」 「どうなの……? 家族なら、こんなことされても、なんとも思わないはずよね……?」 なるがパジャマの上からいやらしい手つきで、ち○この輪郭をなぞってくる。 「ちょ、なるちゃ……あぅ……」 なるは美少女だから、女の武器を生かせば男なんてころっと落ちる。 特に俺みたいな思春期の小僧は、四六時中とはいかないにしろ、事あるごとに変態な事を考えてしまうわけで……。 「(ヤバイ……このままじゃ、我慢が……できない……)」 下腹部に熱い衝動が込み上げてくる。 ぶっちゃけ、半勃起。 バレたら、なんて突っ込まれることやら。 「あ……ふふ♪」 さす……さすさす……こしこしこし……。 確信犯の笑みで『ん?』と首を傾げながら、パジャマ越しにち○こをシコシコ。 「優真くん……コレ、なにかなぁ? 硬いのがあるわよ。私へのプレゼントでも隠してるのかしら?」 「うぉいっ! な、なななんで脱がそうとしてやがりますかっ」 舌なめずりをし、パジャマを脱がそうとしてくる。 悲鳴をあげそうになりながら阻止する俺。 ――――なんていうか、襲われてる? 「ストップッ! 犯罪じゃなかったっけ、コレ! 立派なセクハラだよッ!?」 「だって、勃ってるじゃない」 「た、勃ってる……けど……勃ってたら何? 勃っちゃダメなの?」 「そんなこと言ってないじゃない。えっちな気分じゃなきゃ、こうはならないもの。私に興奮してくれたのよね?」 「だ、だからなんで脱がそうと……」 「仕舞っておけない大きさになってるからよ。大丈夫、恥ずかしくないから、私に任せて……♪」 「…………」 「そんなに怖がらないで。嫌がることも、痛がることも、しないから」 「ねぇ……優真くん……気持ちいいこと……し・よ♪」 その気になれば追い出すことができたのに、俺は力を抜いてしまった。 ダメだとわかっていても、なるの可愛くも淫らな誘惑に打ち勝てるほど枯れてはいなかった。 「わぁ……♪」 ち○こが外気に触れて、ビクッとしゃくりあげる。 ちょっと蒸れたち○こに感じる熱っぽい視線。 淫乱モードななるの瞳が爛々と光る。 あれは俺を襲う気満々の目だ……。 「すごいおっきいね。本物なんて初めてみたわ……」 ち○こってやつは別の生き物だなと改めて思う。 俺の理性などお構いなしに凶暴な姿を晒し、快楽を求めようと必死で、媚びを売るよう首を振る。 「いっつもこういうふうになっちゃうの?」 「いつもは、こんなバキバキに勃起しないよ……なるちゃんが乗っかってるから……」 「私だから? やっぱり私のこと大好きじゃない……♪ じゃあ、これで晴れて恋人同士ね」 「そこに結びつけるのはやめてよ。俺は、恋なんかしていい身分じゃない……」 「強情ね。まぁ恋の話はおいおいするとして、今はこっちの子を慰めてあげないとね」 なるが繊細な手つきでち○こを握り、上下に動かしてくる。 「んくっ、う、うわっ」 「え? まだ触っただけじゃない? 騒ぐようなことかしら?」 「だって気持よすぎるから……最近、いじってなかったからのもあるかもだけど……」 「やっぱり男の子って、一人でおち○ちんいじったりするのね。本で書いてあった通りだわ」 「…………お……」 「ん?」 「(おち○ちんって……なるの口から……あのちっちゃい桜色の唇が、おち○ちんって言った……)」 などと感動していると、なるはもぞもぞと姿勢を変える。 それだけで育ちすぎたメロンみたいなおっぱいが零れそうになる。 「だ、黙られると、さすがに恥ずかしいんですけど。私だって、その方が悦んでもらえるかなって思って勇気出して言ってるのよ?」 「ごめん……俺には、刺激が強すぎて……」 そもそもこの状況がかなり特殊だ。 女の子と話したことは数あれど、ち○こを握られながらの会話なんて初めてだし。 「っていうか、なるちゃん……慣れてるよね? もしかして、こういうの初めてじゃない?」 「初めてに決まってるじゃない。ただほら、私って作家じゃない? 官能小説だって好き嫌いなく読むのよ」 「どんなシーンに直面してもキャラに自然に動いてもらうためには、一定の知識が必要でしょ?」 「なるほど……」 「知らないことって文章に出ないのよ。経験は滲み出るものなの」 耳年増っていうんだっけ。こういう子。 でもそういう日頃の努力って、報われる。 その習慣自体は、とても偉いと思う。 「だから初めてだけど……私に任せてくれれば、いっぱいいっぱい気持ちよぉく、最後までシてあげられると思うわ」 「どうしても、私のおててでおち○ちんを扱かれるのに抵抗があるなら、やめるけど」 「一個だけいい……?」 「うん?」 「“《イデア》〈幻ビト〉”って――人間のこどもを授かることができるの?」 「……ううん。無理よ。“《イデア》〈幻ビト〉”同士でも無理って話だわ」 「えっちな事が“えっち”だって理解はできるから、普段は合わせた反応をするけど……実際、そんなに抵抗感はないのよね」 いくらと筋子の違いくらいには、納得できた。 なるは女の子としての振る舞いを身に着けているだけで、本能的な部分で性行為そのものにコミュニケーション以上の意味を見いだせていない。 俺という個人に対して好意を抱いた上で、料理をつくったり、背中を流すのと同じ感覚で、ち○こを弄るという選択肢が含まれているのだ。 「ね、一緒にイチャイチャして遊ぼうよ。もしかして遠慮してるのかしら?」 そう――――《・・・・》〈遊び感覚〉。 しかし“《イデア》〈幻ビト〉”にとってはそれが普通であり、気に入った子(この場合は幸運にも俺)に対して積極的になれるのだろう。 もちろん、周囲に人目があったりすれば別だけど、今は二人きり――俺に奉仕することに躊躇いはないのかもしれない。 だったら……それは恋人同士の営みとは、意味合いが違ってくる。 「……今夜……一回だけ……お願いしようかな」 「りょーかい♪ それでは一名様、快楽の園へごあんなーい♪」 どことなく《プレイ》〈風俗〉っぽい。 内容も。そのえっちな顔も。えっちな身体も。 いろんな意味で、俺の期待感を煽ってくる。 「こうして……てのひらで優しく包んで……んしょ……熱い……このおち○ちんには炎属性が付与されているようね……」 なるのかわいいぷにぷにお手々が、剥き出しの蒸れたち○こにぴったり密着する。 「んっ……んっ……先っぽは、ぷにぷにしてる……棒のとこは、硬くて……芯が入ってるみたい」 指圧を加えながら、皮を伸ばすように、しゅこ……しゅこ……こしゅこしゅ……くしゅくしゅ、しゅっこしゅっこっ。 「ん……シコシコ良い? 反り返ってる、裏側のスジ、ここなにかしら? 撫でてみよっと」 ち○この形を確かめながら、上目遣いで見つめて、しゅこしゅこしゅこ……シコシコシコ……っ。 「なんだか優真くん、おち○ちんされたら、大人しくなったような……? シコシコ気持よくて、抵抗が馬鹿らしくなっちゃった?」 「いや……なるみたいにかわいい子でも、その……ち○こ触ってくれるんだなぁって」 意味不明だけど、童貞の思考は基本的に意味不明。 なるは首を傾げながらも、ち○こを扱くのは忘れない。 実践皆無を補って余りある天性の才能。 「顔と体は、関係ないじゃない。シてあげたいって思う気持ちだけが共通事項でしょう?」 「私はもっと優真くんに悦んでもらいたいだけ……ん……ん……おち○ちん、しゅっしゅ、気持ちいい……?」 「すごく……」 「クフフ。わかってたけどね」 「だって見たことない顔してるもん。『おち○ちんシてくれて嬉しい』って『なるちゃん大好き』って顔に書いてあるもん」 「ね、捏造だよ」 「嘘よ。出逢った時からずっと、私におち○ちんして欲しかったでしょ? 今だって、おっぱいチラチラ見てる」 「誰だって見るじゃん」 「年頃の男の子だもんね、仕方ないわ」 ほっぺたと同じくらい柔らかくて小さな指で、尿道口をくりくりほじほじ。 なるがち○こを弄ると、何も知らずに玩具で遊んでいるような印象がある。 でも実際は、俺の反応をチェックしながら、的確に性感を高めようとくれている。 「シコシコ続けてたら、もっと硬くなってきたね。優真くんのおっきいおち○ちん、どんどん気持ちよくしてあげるわ」 「なるちゃん、えっちすぎ……」 「えっちすぎちゃうと嫌? じゃあ、やめる?」 「あ……」 「ん?」 「だって、こんな途中じゃ……困るっていうか……」 困る。困る。困る――――埋め尽くされた思考が行動となって、なるを求めてしまう。 「あ……♪ なにこの手? いきなり肩をさわるなんて、がっつきすぎじゃない、か・し・ら?」 「今のは……反射っていうか……やめて欲しくなくて……」 「つい、つかんじゃった?」 「そう……かな。そうだと思う」 「もう、優真くんってば可愛いわ。心配しなくってもおち○ちんやめないから、安心して気持ちよくなることだけ考えててね」 「ん……ん……いつか……このおち○ちんが、私の事も……可愛がってくれるのね。今のうちにいっぱい仲良くなっておかなきゃ」 シコシコシコ……くしゅくしゅぬちゅ、くちゅくちゅ……乾いた摩擦音が徐々に水っぽくなっていく。 「やや? 成果が表れてきたわね。ぬとぬとのおち○ちん汁がこんなに」 「あっ……あっ……」 「もっとテクを磨いて、優真くんを昇天させてあげるわ♪ 私はやり遂げてみせるっ」 なるは物怖じすることなく親指でち○こ汁をすくい、亀頭にまぶせる。 状況に応じてどんな刺激を与えれば悦びに繋がるかを、オンナの本能で悟っているのかもしれない。 「ぬるぬるおち○ちん、さっきより暴れるようになったわ。ビクビクって、生意気におねだりしてくる。そんなに私におち○ちんされたいの?」 「さ、されたい……なるちゃん、もっとして……」 「本体が答えたっ。本体のおねだりじゃ聞かないわけにいかないわね……じゃあ、おち○ちんにとろとろのお汁を塗って……」 「いっぱい力を込めて、ちゅこちゅこちゅこ、って……♪ ほら、どんどん溢れてくる。おもしろーい」 ちょうどいい圧迫感と天然ローション。 なるのぬるぬる手コキはあまりにも上手で。 男の俺はされるがまま悶えるしか道がない。 「あ、優真くん、おち○ちんの溝を中指と親指で挟んでくりくりして、人差し指でおしっこの穴のとこ擦ってあげるのが好きみたい」 「て、的確すぎるよ、うぅぅ」 「お客さん、かゆいとこないですかー? なんて。おち○ちん全部がむず痒いのかしら?」 くちゅくちゅくちゅ……くちゅくちゅぬちゅぐちゅ……。 「おち○ちん擦るのって不思議……まるでコレ一本で優真くんをコントロールできるみたい……」 「(なる……なる……なる……なるちゃんの手……気持ちいい……なるちゃん、可愛い……)」 おかしくなりそう。 いや、半分なりかけてる。 俺の命の恩人でもあり、好みのタイプの美少女が、ぴったりと添い寝したままち○こを扱くという淫靡な光景。 つまりは、なるが無償で抜いてくれる。 脳みそが蕩けそうなくらい優しくてえっちな手コキで。 メリットなんてないのに。俺を気持ちよくしてくれる。 「んしょ……ん……もうずっとビクビクしてるわ……そんなに私にいい子いい子されるの好きなんだ? クッフッフ♪」 「(この重量感たっぷりのおっぱい……当ててるの、かな……? ずっと載せててほしいな……)」 密着した掌とち○こに不思議な一体感が生じる。 病的に膨らんだ快楽が俺を狂わせ『なるちゃんの手は俺のち○こを気持ちよくさせるためにあったんだ』と錯覚する。 「このままシてたら確か……おち○ちんが気持ちよくなりすぎちゃって、馬鹿になっちゃうのよね?」 「手で扱くのをセックスしてるのと勘違いした脳が、精液を無駄に吐き出す命令を出すって書いてあったもん」 「そう……だよ……なるちゃんにこのままされたら……射精、しちゃうよ……」 「ああ、そうそう射精。男の人が一番気持ちよくなって、おち○ちんのことしか頭になくなっちゃう瞬間よね?」 「好きな女の子とか、かわいい子に射精させてもらうと、とっても幸せなんでしょう……?」 俺が頷くと、なるは潤んだ瞳で射精に向けて一心に手コキを続けた。 思考がぐちゃぐちゃに蹂躙される感覚。 とにかくこのまま、なるの手で慰められたい……。 「ん……ん……ん……私の手をアソコだと思い込んだおち○ちんが、どぴゅって射精するの、早く見たいわ……♪」 欲求不満の塊が甘い疼きとなり、玉袋から一気に駆けあがってくる。 「なるちゃん、で、出るから、手放して……あとは、自分でするから……」 「あ、おち○ちんイクのね。このまま私の手で出すより、自分でした方が気持ちよくなれるのかしら?」 「いや、なるちゃんの手の中で出したら汚れちゃうから……そこまでしてもらうのは、気が引けるっていうか……」 「なんだ、そんな理由? 私なら全然平気よ。優真くんの赤ちゃんの素だもん、汚くなんかないわ」 「そういう問題じゃ……」 「だーめ。私が責任をもって、最後までおち○ちんの面倒を診ます♪ 優真くんは楽な体勢で、私のおっぱいでも見てようね」 むっちりおっぱいでのしかかりながら、ぐちゅぐちゅぐぽぐぽ、と高速で手を上下させる。 サキュバスに搾精されているような猛烈な射精感。 それは耐性のない俺が耐え切れるような手ぬるい快感ではなかった。 「くっ、いっ、く、いっ、くよ……」 「うん、うん、イクイクするのね。すごく苦しそうな顔……息も荒くって……精液出さないと死んじゃいそうね」 シコシコッ、くちゅくちゅッ、シコシコシコシコッ! 「(ま、まずい……このままじゃ、なるちゃんの手が……手にかかっちゃう……精液、かかっちゃうぞ……)」 「ほら、優真くん、イっていいわよ? 私の手の中にびゅーびゅーしよ? 私しか見てないから、いっぱい出しちゃっていいのよ」 「なるちゃん……なるちゃん……イク……あっ、あっ……」 「いいよ。かけて。私の手でも、胸でも、顔でも……優真くんの好きなとこに、好きなだけ出しちゃお……」 ぶぴゅぅ~~~~っ!! びゅぅ~~~っ、どぴゅどぴゅぅぅ~~~~~っ、びゅびゅぅ~~~っ!! 「あっ、出た。先っぽの切れ目から、きゃっ♪ てのひら浮いちゃうくらい勢いがあるのね」 「まだ出てる。優真くん、溜めすぎだわ……んー、手を被せて蓋をしなきゃベッドが汚れちゃう……」 「あ……あ……あー……あー……っ」 頭が真っ白になる。 なるに見られながら達してしまった。 恥ずかしさよりも満たされた気持ちのほうが強かった。 「出るの終わるまで、シコシコしてあげた方がいい? それとも、黙ってたほうが余韻に浸れるのかしら?」 「少しだけいじって……気持ちいいの、続いてるから……」 精液だらけの手コキはゆっくりとペースダウンし、やがて止まった。 人生で一番気持ちの良い射精だったことは言うまでもない。 「見て見て。こんなにいっぱい。危険なおち○ちんね。コレって人間の女の子だったら、妊娠確実?」 「わかんないけど……むちゃくちゃ出たね……気持ちいいと、こんなに出るんだ……」 「気持よくできたなら、良かったわ。私もおち○ちん弄り、楽しかった」 こってりと白濁した精液は、抜群に大きなおっぱいにまで飛び散っている。 糸を引く精液で遊ぶなるの姿を見ていると、夢なんじゃないかという疑問さえ浮かんだ。 「……ありがとう……気持ちよかったぁ……疲れも取れて、すっきりしたよ……」 「そうだわ、疲れた時の恒例行事にしましょうか?」 「ええっ?」 「いいじゃない、仕事の後に一杯やるのと同じ感覚? みたいな。精液ってあんまり身体に溜め込むと毒だと思うの。定期的に出さなきゃね」 仕事で疲れて帰ってきたらなるのご褒美が待っている日常……堕落してしまう。 「はぁ……ダメだよ。ハマっちゃったら、毎日でもお願いしちゃうじゃん」 「じゃあ毎晩寂しくないように、こっそり添い寝してあげる。私にくっつかれて興奮しちゃったら、おち○ちんスッキリするおまじないをかけてあげる♪」 そんな日常……想像しただけで……干乾びちゃうじゃん。 「よいしょっと……おち○ちんぐったりしてる。すっきりしたら、ふにゃふにゃになっちゃうのね」 「男の子……って匂い♪ おしっこ穴にとろとろの精液、たくさんついてる。放っておいたら、どうなるんだろう」 「かぴかぴになるよ……」 「かぴかぴは嫌ね。じゃあ、お掃除してあげたほうがいいのかしら」 熱い吐息が掛かると、むくむくっとち○こに血潮が流れていく。 「あれ? もしかして早速、私のお疲れマッサージの出番かしら?」 「なるちゃんが、えっちな事ばっかりいうから収まんなくなっちゃったんだよ」 「血管が浮いて、怒ってる。ごめんね、優真くんとばっかりお話しちゃって。おち○ちんが嫉妬しちゃったのかしら」 「ああ、なるほど……優真くんは、ここが気になるのね……なら……ここに挿れてみる?」 妖しく笑ったなるがはち切れんばかりの乳房を完全に晒した。 「うは……」 童顔に見合わぬ、みずみずしい巨乳。 おマメのようなピンク色の乳首がちょこんと載っている。 こんなものを見せられて興奮しない奴はいない。 「なるちゃんのおっぱい……すごく可愛い……」 「優真くん。よだれ垂れてるわよ?」 「そ、そんなことはないよっ」 「でも、褒めてくれて嬉しいから……おっぱいでシてあげよっか……?」 なるは返事を待たず、充分すぎる硬さを取り戻したち○こをシゴきながら、胸の谷間に差し込んでいった。 「ジッとしててね……こういうのも、読んだことあるの。パイズリだったかしら? おっぱいでおち○ちんを包んであげるやつ」 ぬるんっ。にゅぷぷぷぷっ……。 「わぁ、すごい。すっぽり隠れちゃった」 「それだけなるちゃんのが大きいってことだよ……」 「クッフッフ♪ 精液でぬるぬるだから、よく滑りそうね」 怒涛の展開に驚くより、快楽を得ることに集中してしまう。 発情した雌猫のようにち○こに求愛してくるなるを止める手立てはないし、ち○こは完全に胸にロックされている。 しっとりしてぬめぬめ。適度な乳圧は、未だ経験がない女性器の締め付けを想わせる。 「(なるちゃんの手もよかったけど……おっぱいも溶けちゃいそうなくらい柔らかくって、また違った感じ……)」 「ん……しょ……んっ、両側から、ぎゅってして……すべすべのおっぱいコキ……これはこれでいいでしょう?」 「すごく……」 「んっ、んっ、んふっ、んふっ、んうっ、んっんっ、んっ、んっ……」 「う……はぁっ……こ、これは……」 押し上げるおっぱいと同時に、かわいい吐息が肉先に吐きかけられる。 「ほらぁ、優真くん……私の谷間がおち○ちんの形になっちゃってる……私のと優真くんの大きさ、ちょうどいいわよね……」 「私、やっぱり優真くんしかいないんだと思うわ。おっぱいとおち○ちんの相性も、ぴったりだもん……」 たゆんたゆんのバストを左右から押し付けて、揉みしだくようにち○こをマッサージしてくる。 「あぁ……あっく……」 「もっと可愛い声で喘いでいいわよ。えっちに悶えても、私は笑わないもん……」 「やっぱり……良くないよ……こんなの、なるちゃんに甘えてるだけだ」 「口ではそう言ったって、おち○ちんは正直じゃない。甘えん坊なおち○ちんは、私ナシじゃ生きていけないみたいよ?」 「なるちゃん……」 前傾姿勢の上目遣いが反則的にかわいくって、つい見惚れてしまう。 歓喜にしゃくりあげた肉棒が、とぴゅぴゅ、と先走り汁を漏らした。 「出逢いも運命的だしね。“《エンゲージ》〈契約〉”しちゃったんだし、ちょっとくらいえっちしたって仕方がないよ」 「それとこれとは関係が――――」 「んー……届く、かしら?」 「ぺろっ、ん……ぺろっ」 「うっ……!」 「あ、やっぱり気持ちいいんだぁ。じゃあもっとしてあげるね」 「んるっ、んろろ、んちゅ、ぺろぺろれろっ、ちゅっ、ちゅ……」 キスの雨。 食いしん坊美少女の唇がぷちゅぷちゅと押し付けられ、ミルク皿を舐める猫のように舌を這わせてくる。 「さっきはお手々をアソコだと勘違いしちゃったけど、今度はおっぱいを孕ませちゃう……?」 唾液たっぷりの舌で裏筋をぺろぺろされて……。 「はぐっ……」 「あれ? おち○ちんビクってした……変態なんだから。私がえっちなこと言うだけで、感じちゃうの?」 「んっ……んっ……精液って、えっちな匂い……なんだか私も、いやらしい気分になってきちゃう」 危険な笑み。完全に手玉に取られている。この快楽を振りきれる男なんて、いるはずもない。 「敏感なさきっぽ、咥えちゃうわね……あーん♪」 「あっ……くっ……」 「れるちゅっ……んーちゅ、ちゅこちゅこちゅここ……ちゅぴ……ンッ、ンちゅッ、ンちゅ……」 目を閉じて高級料理を味わうように、夢中でち○こを味わう。 「んーちゅ……ちゅ~ぱちゅ~ぱっ。んちゅ、んぷ……ぺろぺろれろろ~」 ち○こにへばりついたダマになった精液が掃除され、口内でしきりにねぶられる。 「ん~、ふふぅ……♪ んぱ。私の口のなか、とんでもないことになっちゃったわ。このまま、二度目の精液もいただいちゃおっと」 舌で亀頭をころころされると、あっという間に性感が高まっていく。 「私のおしゃぶりどう? 上手にできてるかしら?」 「なんていうか……天国。手でされるのも好きだけど、口の中はあったかくて、ぬめぬめで……こんなに気持ちいいこと知らなかった」 「クッフッフ♪ 素直でよろしい。いっぱい良くしてあげるから、おっぱいとおクチでたくさん射精してね」 「はぁむ……ちゅっ、るちゅ、んちゅぽ、ちゅずずっ、ちゅっぽちゅっぽちゅっぽっ」 唇をキュって締めて唇コキしながら、口内では舌が優しく包んでくる。 「んちゅ……ちゅっこちゅっこ……ちゅっ、ちゅ~っ、れろれろぉ~ん。ちゅっ、ちゅっ、んちゅ~っ」 俺は言葉もなく、ただ荒い呼吸を繰り返しながら淫猥な光景をぼうっと見つめる。 「んんっ……ちゅっ……んっ、んちゅ~、んっちゅ……ちゅう……ちゅぷぷっ」 「(なるちゃんの口の中に、ち○こが入っちゃってるんだよなぁ……いいのかなぁ、本当に……)」 「はみゅ……ちゅう、ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ……」 愛おしそうにち○こを咥える姿は、まるで恋人と熱烈なキスをしているようだった。 「んふっ……ちゅ……ちゅう……ちゅぽちゅぽ……れろちゅっ、ちゅっぽちゅっぽちゅっぽっ」 なるの優しいおしゃぶり。 なるのかわいいおくちにち○こが出入り。 ……やっぱりどう考えても、夢に思えてしまう。 「なるちゃん……こういうこと、他の人にしちゃダメだよ……」 「んぱっ……ん? どうして……?」 「ど、どうしてじゃなくって」 「クッフッフ。本気にした? 冗談よ。優真くんにしか、したくないもん……優真くんのおち○ちんだけ、おしゃぶりしてあげる……」 「ちゅっ……ちゅっ、ちゅぱ……ちゅぅっ……んちゅ、ちゅっ、ちゅぽ……ちゅううちゅううう……」 再び始まる官能の調べ。 甘い疼きが陰嚢から肉棒全体へと行き渡り、狂おしいほどの痺れにビクビクとち○こが跳ねた。 「んふっ! んちゅっ、んぽ……ぱっ。おち○ちん大暴れ。イきそう?」 「そろそろ……だよ……」 「そっか。またイっちゃうんだ。しょうがないなぁ優真くん。おっぱいとおくち、両方でシてあげるから、精液たくさん出そ?」 なるは震えるち○こを『いい子いい子』と撫でてから、これでもかと乳圧を掛けた。 「んっ、んっ、んっんっ、んちゅっ、んみゅ、んっ、ちゅっ、んちゅっ、んっんっんっんっ」 「あっ……っ……っ……」 限界……。 「ちゅっ、イッれ、いいよっ、ちゅっ、ちゅっ、ちゅ~~~ちゅう~~~~~っ♪ ちゅくちゅくちゅっ、ちゅぅ~~~っ♪」 「な、なるちゃ、このままじゃ、くちに出ちゃ……う……」 「うん……うん……♪ らひて……せーえひ……んちゅっ、ちゅっちゅ~~♪ おくひにっ、ろぴゅろぴゅひてっ、んちゅっ、るちゅれちゅっ」 口内射精の許可が甘美に響く。 「れろちゅっ、んちゅ、ちゅぱちゅぱちゅぱっ、ちゅこちゅこちゅっ、んぷんぽっ、んろろっ」 「じゅっぷっ、ちゅっ、ぢゅっ、ぢゅっ、ンッ、ンッ、ンッ、ちゅぶっ、ちゅぷっ、ちゅっぽちゅっぽちゅちゅうぅぅぅ~~~~~~~~っ!!」 どぷっ、どぷびゅるうぅ~~っ! びゅるびゅるっ、どびゅるどびゅるぅうぅうぅぅぅぅっ!! 「――――んッ!? んっ、んぅ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!!?」 果ててしまった。 口の中がいっぱいになるくらい大量の射精。 「んんんふっ……! ンッ、んふ……ん~~~~っ」 「あっ……あっ……あーーー……」 放出はなかなか終わらない。 一度抜いたとは思えない量が、なるの口へ流れ込む。 おっぱいとおくちで、二度目の、最高に気持ちいい瞬間。 「ん……ん……んぷ……んっ……んふ……」 最初こそ驚いたようだが、すぐに精液を内頬に溜め込んでいく。 そのまま唇をカリ溝で締め付けて固定して、ベロで舐め回しながら精液を受け止めてくれる。 「んっ……んっ……んっ……んー…………んー…………」 「はぁ……はぁ……はぁ~~~……」 なるは射精の余韻を楽しめる程度に吸い付きと舌の動きを調整し、優しく唇でシゴきながら、最後の一滴まで搾りとってくれた。 「ちゅぱ。んれろっ……ほりゃ……こんりゃにれたお……」 れろっ、と出した舌の受け皿に、一週間以上溜め込んだ精液がたっぷりと載っていた。 搾りだした精液の池から独特の性臭がするが、嫌な顔ひとつせずに『見て見て』と褒美をねだるように見せつけてくる。 「ありがとう……とっても気持ちよかったよ……」 「えへへ……♪ こりぇ、ろうひらたら、ひぃの? はきらしゅ? のみこみゅ?」 「あ。ペッって出していいよ」 「ん~? ほんろにひぃの……? もっらいないきがしゅるへど……?」 「じゃ、じゃあ……飲んでほしい……かも」 俺がそう言うのを心待ちにしていたようなえっちな顔で、なるは舌を引っ込ませた。 かわいいおくちの中が再び白濁液で満たされる。 「くちゅくちゅくちゅ……んー……くちゅくちゅ……」 なるはリスのようにほっぺたをふくらませて精液でくちゅくちゅとうがいを始める。 「んっ……んくっ、んく……ごく! ごく……ごく、ごくんっ!」 「ホントに飲んじゃった……」 唇からツー、と精液がこぼれそうになるが、慌ててすする。 「ぷぁ……また、いっぱい出ちゃったね……」 「なるちゃんが、上手だったから……」 「そう言ってもらえると、してあげたかいがあるわ。ごちそうさまっ」 「えっと……うん……ありがとう。お粗末さまです」 「精液ぷりぷりしてて、よく噛んだのに喉に絡まっちゃったわ」 「あれって、おいしい……?」 「んー。生臭くってあんまり美味しくはないけど、もったいないもん。それに、飲んだ方が男の子はうれしいんでしょう?」 「嫌じゃなければね……」 気持ちよくしてくれたお礼じゃないけど、なるの頭を撫でながら、指で唇の精液を拭ってあげる。 「あっ……♪ ありがと。今日はもうドクターストップ?」 「あたりまえでしょ。それにしても、汗かいちゃったね。なるちゃん、先にシャワー浴びてきなよ」 「えー? こんなに気持ちよくしてあげたのに、身体を洗ってもくれないのかしら……?」 「ダメだよ。そしたらまた、したくなっちゃうだろ……」 「それが狙いだったとしたら?」 「わかったよ。シャワーは個別に浴びるけど、眠るのは一緒。それじゃダメ?」 「よし、その条件を飲もうっ」 これで、とりあえず今日のところは、襲われずに済むだろう。 「(ごっそり体力を失った気がする……明日、仕事になるかなぁ……)」 それにしても、女の子の身体って気持ちいい。 サキュバスも裸足で逃げ出すえっちななるには、今後も手を焼きそうだった。 水瀬家の朝は早いらしく、換気のためか全開にされた窓から寝過ごせないほどの蝉の鳴き声が入ってきた。 「んーむにゅ……ゆーまくん……いにゃい……?」 久々のちゃんとしたベッドは疲れを完全に取り去ってくれたが、私が起きるにはまだ時間的に早い。 しかし忽然と消えていた優真くんの腕枕の行方を追うことは重要だ。 「むにゅむにゅ……」 ぐしぐしと顔を擦りながらリビングに降りてきた所で、下の階から聴こえてくる声に気がついた。 「止めても行きますよ」 「聞き分けたまえよ。いい加減、クドいぞ」 「山田さんと国谷さんが有給使ってオフじゃないですか。人手が足りない事くらいわかってますよ」 「ほー? 撤回の言葉を待つとしようか。受付時間は私が瞬きを我慢している間に限るがなー」 「社長……俺は間違ったこと、言ってないですよ。学生であるまえに“《クリアランサー》〈片付け屋〉”ですから」 「ありぇー……?」 リビングに来る前から睨み合っていたのだろう、両者、一歩も引きそうにない。 「ふぁ~~あ……ケンカはダメだわ。話し合いで解決しましょ」 剣呑な空気をぶち壊して悪いけど、あくびは抑えられなかった。 「張本人がお出ましだー」 「んむにゅ……んー? あ!」 もしかして。もしかして! もしかしてっ!! 「わ、私を取り合っていたの!?」 一気に目が覚めた! 「……近からず遠からずかな」 「珍しくゆーまが引かないのだー。なる、早くなんとかしたまえー」 「家族喧嘩はダメよ。何があったの?」 「なるちゃん、これは家族喧嘩じゃない」 「いいや、家族喧嘩だー」 「いいえ、部下が社長に意見するという前代未聞の事態です」 普段のぽやぽやした一面ばかり見てるからか、その鋭い視線に私は驚いた。 対して今日子さんはいつも通りの感じだが、本心はわからない。 「えっと……それで、どういうこと?」 「つまりさ、社長が俺に仕事を休めって言うんだ。急務で結構、押してて……明らかに人も足りない」 「なるちゃんには悪いけど、一日だけ入学日をズラすだけで済むことなんだ。なのに社長は頷いてくれない」 “社長”――――優真くんがそう呼ぶ時、その関係は家族から会社になる。 事務所と住宅スペースが分かれているとはいえ、公私混同しやすい環境にあるのに――――二人はキッチリとスイッチする。 「なるには昨日、明日から通えると伝えたのだー。私は自分の言葉に責任を持っているだけなのだー」 「ですから、俺が現場に向かいます」 「なるは初めて学園へ行くのだぞー? わからないことも多い。道に迷ったらどうする気だー?」 ああ、だから話に私が関係してるのか。 「でも、社長も俺も抜けたんじゃ、仕事が追いつか――――」 「社長ではない、今日子だ。何度言わせる。今はおまえたちの保護者なのだよー」 「………………」 「なるー」 「は、はい」 「心配しなくていいぞー。私は今から手続きの話をしてくる」 二人の意見は割れていたが、割れていない。 いがみ合いではなく、支えあいだった。 優真くんは、今日子さんの力になりたくて。 今日子さんは、私にした約束を守りたくて。 互いの優しさの方向性が咬み合わないだけ。 なら……私が二人の為にできることは―――― 「なら――――私は、めいっぱい楽しんでくる!」 「二人が仕事を取るか家族を取るかで揉めてくれた分まで、ちゃんと学園生するわ! 死ぬ気で学園生して、占いの仕事だって頑張っちゃうっ!!」 「夜には、みんな疲れた顔で一日お疲れ様の夕食を囲むの。これで決まりだわっ!」 「は、はははっ……今日子さん、なるちゃんは任せて」 「うむ。よろしく頼むぞー」 優真くんの口調が砕けたものに変わった事で、二人が和解できたのだとわかった。 「なるが着替えをしている間に、朝食を作ってやりたまえ。人は食わなきゃ、一日を始められないからなー」 「りょうかいっ」 「ふふ……やはり、なるはウチに相応しいイイ子だなー」 「いってらっしゃーい」 「いってらっしゃーい」 優真くんと並んで見送りを終える。 「はぁ……俺どうかしてた。今日子さんが大丈夫っていったら絶対大丈夫なのに、そこは信じるだろ普通」 「今日子さんの役に立ちたくてしょうがないんだね」 「生きる理由の一つだからね。たまにやりすぎて、今みたいになっちゃうけど」 「私の事もそのくらい大事にして欲しいわ」 「やっぱ今朝は、全面的に俺が悪かったな。仕事の事になるとどうもね……はは」 曖昧に笑う優真くんは、やっぱり優しかった。 本音はわかる。私より今日子さんの方が大事に決まってる。 “家族”をヒイキしない優真くんはその無意識の天秤を認めないだろうけど、私は確実な開きを感じた。 「……ホント、良い人」 けど、それでいいと思った。 それがあたりまえだと思った。 濃密とはいえ、私とは一日二日の出逢い――――今日子さんと優真くんが“家族”として歩んできた道のりとは比べようもない。 私は私のペースで完全な“家族”の形を目指して、二人との距離を埋めていこう。 「朝はパン派? ご飯派? ラーメン派?」 「我が欲する物は、妬み、嫉み、僻み、憾み、偬しみ――――人間らしい矮小な思念よ」 「つまり、全部食べるってことだよね?」 「いかにも」 「なるちゃんは残さないから、作りがいがあるよ」 「私、着替えてくるけど、こっそり覗いちゃダメだからねっ」 「そっか。がっつり覗けば怒られないのか」 やっぱり優真くんは、このゆるい顔つきで冗談ばっかり言ってるのが一番合ってる。 「結衣ちゃんは、まだ眠ってるの?」 「ああ、うん。起こさないであげて。結衣は気分屋だから、そのうち自分から出てくる」 「そう。じゃ、ホントに覗いちゃダメだからね」 「覗かないよ! この目が嘘をついてるように見えるっ?」 「見える」 天気。晴れ。以上。 おっと、一番大事なことを忘れてた。 女連れで登校という偉業を達成したんだった。 「クッフッフ♪ 制服美少女?」 「うんうん。こんなに可愛い子、ほっとけないよ」 「そう? 優真くんなら悪い気はしないかなー。どこへ連れてってくれるのかしら♪」 「はは、とりあえず学園だよ。今日子さんに任されてるからね」 いつもなら登校は《バイク》〈愛車〉でひとっ飛びなんだけど、今日からはなると仲良くという形になるだろう。 愛車は修理で直る状態じゃないし、当分は歩きがメインになりそうだ。 「放課後に仕事がなかったら、二人でどっか行こうか?」 「星の巡り的に占いのお店出そうかと思ってたけど、そんなに行きたいなら仕方ないわね~♪」 「なるちゃん学園ってどんなとこだかわかってる?」 「寺子屋でしょ」 「微妙に古ぼけた感覚は捨ててください」 「不特定多数の男女が上も下もない同等の立場で足並みを揃えた《カリキュラム》〈教育〉を受けて、伸び伸びと健やかにステップアップする施設でしょ?」 「完璧だね。で、なるちゃんなりに学園生活の目的は設定してある?」 「無論よ。ざっと見積って100人――――友達を作っちゃうわ」 「うわお。大きく出たねぇ」 「知識欲を満たすだけなら図書館だってできる。大事なのは、他人と自然に話すことができる空間にいるってことだと思うの」 「何の為に?」 「クッフッフ♪ 超ひも理論を使って説明すると、セ・ン・デ・ン♪」 「なんちゃら理論なんて使わなくても、平たく言って“信仰集め”に必死ってことね」 「私の小説は趣味の範囲で収まって良い代物じゃないわ。いつか春が来る。必ず……っ!」 「そのとおり。絶対に報われる日が来るさ」 「さっきから私たちと同じ制服の子が一人も歩いてないんだけど、気のせいかしら?」 「もしかして学園は著しい過疎化に悩まされてたりするんじゃ――――まさか1クラス2人編成で優真くんと私だけなんてオチ!?」 「ないない。《シノガク》〈東雲統合学園〉はこの辺りの学園を統合してる分、大きいよ。マンモス校ってほどじゃないけどね」 「学園生を見かけないのは、始業まで全然時間があるからだよ。勤労学生も多いから、朝はギリギリまで眠っていたいんじゃないかな」 「よかった……人は多いにこしたことはないの。手始めに優真くんの友達から勧誘しようかしら」 「“《アラウンドザワールド》〈A・T・W〉”教の布教活動の話?」 「優真くん、笑って」 「あははー」 「その白くて甘い爽やか笑顔とセクシャルな発言のギャップで、女子の人気を独り占めでしょう? 友達分けて」 「なるちゃんが俺より人気ないわけないじゃん。心配しなくても人気者だよ」 「そうかしら。水瀬家に汚染されて排他的な考え方にどっぷり浸かっちゃったから“広く、浅く”の付き合い方ができるか不安だわ」 「家族を一番に想うことが排他かぁ。確かに、俺はその他大勢の“友達”より“なるちゃん”個人を大切にするよ」 「優真くんのモットーは“狭く、深い”友好関係ね」 信号が赤になる。 せっかくなので青になるまで説明することにした。 「そんなカッコイイいいものじゃなくて、線の引き方が人より不器用なだけ」 「誰だって大なり小なりの円を作る。こっから先は、他人。この内側は、知り合い。さらに内側は、仲間。もっと内側は、家族。ってね」 「円を狭く引けば引くだけ、相手を傷つけたくないって思ってるってことよね?」 「……逆かもよ?」 「そう簡単に“降参”しない、ぶっとい精神の持ち主しか身の回りに置きたがらない臆病な人かもしれない」 「逃げられて傷つくのは、相手よりも自分だから――――強い人ばっかり置きたがって血眼で選別する」 「まっ――仮に真意がそうでも、結果的に自分の手の届く範囲だけを愛するのって、“欲”を絞ってて俺はスキだけどね」 「…………」 「あ、あれ? パッチリおめめで見ちゃってどうしたの?」 「優真くんってさ、自分の意見に関しては意外なほど口が回るっていうか――これでもかってほど説明するよね」 がらにもなく回りくどい言い方をしたからか、別人を見るような視線で見ていた。 「優真くんって何を深く考えてて、何を軽く見てるのかわからなくなる時があるわ」 「俺が考えてるのは、家族の事と、仕事の事と、どんなアクシデントを装ってなるちゃんのおっぱいを揉むかって事だけだよ」 「ポケットからバナナの皮がはみ出してるわよ」 「バナナの皮で滑っておっぱい有頂天作戦を見ぬかれちゃったかぁ。大丈夫、次の手も用意してあるから」 「何度も言ってるじゃない。私はされるより、してあげるのが好きなの。優真くんがその気なら、私は構わないのよ?」 「学生の風紀の乱れっぷりを熱烈なキスで示してみちゃう? それとも、《・・・》〈こっち〉かしら?」 ズイ、と顔を寄せてくるなる。 俺はもちろんあわわのタジタジ。 「ご、ごめんなさい。ヘタレなんで勘弁して」 自分に自信を持っている子にちょっかいを出しすぎると、強かなしっぺ返しが待っている時がある。 「許す、という方向でまとまったわ」 「脳内会議で?」 「うっ……旧支配者達に、乗っ取られる……」 「青だから、行こうよ」 「クッフッフ♪ 初いやつめ。こっちから責めると顔色変えて逃げ出しちゃうんだから」 なるには弱点がいっぱい握られてるので何とも言えない。 「これで学園内の施設案内はだいたい終わりかな」 「思ったより広いわね。普段は使われてなさそうな場所も多かったし、優真くんと二人であんなことやこんなことをするにはもってこいね」 「あ、あんまりイジメないでよ」 「クフフ♪ 言われ慣れてないと返答に困るでしょ? 逆の立場を理解した?」 「ごめんって。こういうのって言ったもん勝ちだったんだなぁ」 「でも私は本気よ? まだ朝だけど……優真くんがしたいっていうなら、すぐにでも……」 「ゴメン。まだなるちゃんとは付き合えないから」 「ガーン……2フラレ……」 『わたしなんかわたしなんか』とつぶやきながら地面に“の”の字を書くなるを見て思う。 なるは“《イデア》〈幻ビト〉”だ。 俺にフラレて涙目になってるが、基礎体力は常人を遥かに凌ぎ、オマケに“《アーティファクト》〈幻装〉”という兵器まで扱える。 対する俺は“《フール》〈稀ビト〉”。 契約者のなると一緒にいることで驚異的な回復力を発揮し、人間一人を海まで運べる謎の力が扱える。 “普通”という言葉を当てハメてはならない逸脱者だ。 「(――――わかる。わかるよ、昨日の話と体験を踏まえれば否定できない事実だってことはさ)」 手のひらを太陽に透かしてみる。 白熱に縁取られた指の一本一本が人智を超えた魔具を握ったのは、昨晩の事。 遥か昔に感じるそれは、夢でも妄想でもなく、確かにあったことなのだろうか。 「光が眩しいぜのポーズ?」 いつの間に失恋から復活したなるが首をかしげていた。 「実感がなくってさ」 「昨晩、人間離れした戦いに身を置いたのは本当に俺だったのかなって」 「優真くんしかいないじゃない。私と“《エンゲージ》〈契約〉”して“預かり所”にアクセスして力を得た。認めているはずよ?」 「だよなぁ……」 「どうしてそんなふうに思うのかしら?」 「例えば背中にジジジジってジッパー付いててさ、下げると別の人が出てくるのとか」 「優真くんの皮を被った誰かが、セミの脱皮みたいに?」 「はは、言ってみただけ」 でも近い感覚はあった。 「なんかさ――――現実味が乏しいんだ。一晩経ってみて、冷静になったのかなぁ」 手のひらを握る。開く。握る。開く……。 「とにかく必死だった」 「なるちゃんを助けなきゃって気持ちだけが頭にあって……武器になりそうな物を目で追ったんだ」 「うん……?」 目を閉じて、思い返す。 なるの苦しそうな、くぐもった声。 そう。 こんな感じ。 イメージできる。 感覚を呼び起こす。一度出来たことだ。 「俺の望みに呼応して……“境界”は開く」 「うおおぉ!? 出たぁ!!??」 「うわぁ! ホントに出ちゃったわ!」 「ちょっと、無闇に力を発露させちゃダメよ。遊びで使っていいものじゃないんだから」 「まぁまぁ。自分に力があるなら、コントロールできるようになっておかないと気持ち悪いじゃん?」 「だからって何で今やる必要があるのよー!」 「善は急げ」 「こんなとこであの力を使ったら校舎が吹き飛ぶわよっ。それのどこが善なのよっ」 「誰もいないから平気だよ。俺、あの鉄剣とは仲良くなれたんだし」 「意味わかんない。優真くんの借金生活がいよいよ返済不可能な粋に達しちゃってもいいの?」 「へーきへーきっ!」 「いい加減にしなさいーーー! 誰が見てるかわかんないんだからーーー!」 「うわぁっ! いきなり求愛されても、こ、困っ――」 「くぬぅ~~~ッ!!」 「おっ、そんな引っ張っちゃ――――とっと!?」 「きゃあっ!」 その力に抗えるわけもなく、必然的に俺はバランスを崩し―― 「重ッッッッッッ!!」 手にしていたナニカの圧倒的な重みに俺はひっくり返った。 派手に後頭部からぶっ倒れて、その拍子にソレが手から抜ける。 「あいててて……重すぎだろ」 「あわわわわ、優真くん、あれっ、あれっ」 「うわああああああ!? コケた拍子で学園長の首がぁぁぁ!!?」 「なんて破壊力……っていうか、もしかしなくても今のって、昨晩取り出した武器と違った……?」 「ちょ、ちょっとちょっと、これどうすんの……」 「ますますおかしいわ。力にしろ、“《アーティファクト》〈幻装〉”にしろ、お一人様一点限りのルールは絶対のはずじゃ……」 「ねぇ作家のなるちゃんに聞くけど、銅像っておいくらほどするの?」 「え? えっと胸像……等身大胸像……原型から着色までの制作費に設置費……あと台座もね……」 「ざっと、こんなものかしら?」 手のひらをパー。指は5本。つまり……。 「50……500?」 「最低でも、そのくらいは覚悟したほうがいいわね」 「ははっ、はっはっはっ♪ はーーーーっはっはっは♪♪」 「……壊れた?」 「なるちゃん、どんまい!」 「え?」 「一緒に謝ろうね。返済も、一緒に。俺たちは未来永劫、一蓮托生、二人三脚だもんねっ!!」 「なっ、なーーーっ! お断りだわっ、私止めたもんっ! 優真くんが勝手にやったんじゃないっ!」 「家族は決して裏切らない。これ絶対」 「占い稼業だけじゃ利息分を払うだけでやっとだわっ! 私はアテにならないわよ」 「またまたー。なるちゃんの信条はなんだったかな? ほら、大きい声で、3、2、1!」 「なんとか、な・ら・んッ!!」 「…………お、俺のこと引っ張ったよね?」 「…………わ、私はやめろって言ったわ」 「………………」 「………………」 「もしかして俺たち……」 「人生詰んだ……?」 「――――つまり学内を案内し終えたところ、若さ故の運動欲求に駆られ、かかと落としの練習で胸像を大破したと」 「間違いありません。靴に鉄板を仕込んだなるちゃんキックが炸裂したのをこの目で見ました」 「……壊れんだろ、さすがに」 「いえ、なるちゃんは格闘技の有段者です。TV出演の経験もあります」 「ホントかね?」 「禍神式厨ニ拳法を少々」 「聞き覚えがないな」 「暗殺拳は一子相伝ゆえ」 即席で考えたんだろうから、あるわけない。 「まぁいい。物はいずれ壊れるが、体裁というものがある」 「修繕費のアテがないのであれば、菜々実君に身体で支払って頂く他あるまいが、それでいいかね?」 「操を捧げる殿方は心に決めてますゆえ」 「というのは冗談だが、困ったな。いくら今日子君の頼みとはいえ、問題児を入学させるわけにはいかない」 「あぅ…………言葉もありません……」 「では、今回の件は白紙にするとしよう」 「…………あー……」 こりゃダメだ。この方向性のまま放ったらかしにしたら、人として終わってる。 「ごめん、学園長。ホントは俺がやったんです」 「え、優真くん……?」 「どういうことかね」 「そのまんまの意味ですよ。なんかムシャクシャして、やってやったんです」 「ちょっと時間掛かるけど全額、俺が支払います」 「む、無理よ。あれ高いのよ? さっき教えたじゃない」 「平気だよ。働いて返せない額じゃない」 「処分とか下さなきゃならない立場だってのもわかるから、退学でもなんでもしてくださって構いません」 「だから、なるちゃん責めるのやめてください。ココに入れてやって、学園生やらせてやってください」 「お願いします」 心を込めて頭を下げた。学園長は、伝わらない相手じゃない。 「優真くん……やっぱり……素敵ぃ……♪」 「偉い……! 男だなぁ優真くん、いやぁ男だよ」 しんみりと頷く学園長に対し、今にも茂みに押し倒してきそうな熱い視線を送ってくるなる。 とりあえずどうにかなったかな? 「ねぇねぇ、色男」 「告白なら後でにして」 「カッコイイけど……アレ? って思って思い返したら、事実その通りだよね。私やってないし」 「しっ! せっかく自己犠牲っぽく決まったんだから、しっ!」 「試して悪かった。君たち学生のしでかした悪さの一つや二つ大目に見れずして、学園長など務まらんよ」 「……え?」 「君たちはきちんと謝りに来た。逃げずに責任を取りに来た。それは、我が学園の教育目標“自立”に繋がっている」 柔和に笑んだ学園長から察するに、最初からお咎めはなかったということだろうか。 「菜々実なる君、ようこそ東雲統合学園へ。充実した学園生活を送りなさい」 「はいっ。ありがとうございますっ」 「まだ時間的に余裕があるな。少ししたら職員室にいって、学年主任から話を聞きなさい。場所は優真君がわかるだろう」 「大丈夫です。それと、今日子さんって、もう帰りましたか?」 「君たちが来るまで話をしていたんだが、水分補給をしに出たきりだな」 「生水のがぶ飲みは今日子さんの十八番。パワーの源っていつも言ってますからね」 「さて……私にも用事ができた。すまんが二人とも、今日子君に帰るよう言っておいてくれないか? 何処かの階の水飲み場にいるだろう」 「わかりました。では失礼しました」 「失礼しま……ありがとうございま……あれ? どっちを言うべきかしら?」 「両方いっぺんでいいんじゃない?」 「失礼しがとうございました」 「うむうむ」 今日子さんは下の階の廊下にいた。 実際にまだその姿を見たわけではないが、音が報せてくれた。 「がぶがぶがぶがぶがぶっ、がぶがぶがぶがぼがぼがぼがぼがぼっ」 蛇口を限界まで捻った時の、手の付けられないほどの勢いで水が流れ出ている。 滝の如き激流に鬼気迫る顔で飲む姿は、さながらオアシスに辿り着いた砂漠の放浪者だ。 「あそこまで飲む必要……あるの? な、何か喉に詰まらせたのかしら」 さすがのなるも驚きを通り越し、得体の知れない感情を持て余していた。 「はぁ……はぁ……はぁ……あ……ゆーま。なる」 「落ち着いた?」 「………………ああ……夏とはいえ、ちょっと飲み過ぎたなー……」 口を拭った今日子さんは、いつも通りだった。 「水分補給は大事だよ」 「久遠とは話がついたのかー?」 「今してきたとこ。問題無し。クラス分けまではわかんないけどね」 「よかったなー、なる。晴れて制服を着れるようになったなー」 「ふへへっ♪ 今日子さん、くすぐったいよ。こどもじゃないんだから、頭撫でないでよ」 「めでたいめでたいー」 「もう、今日子さーん♪ ありがとー♪」 噂の家族水入らずのラブラブタイム。 「だー、置いてけぼりは勘弁だよっ。そのイチャイチャって俺も混ざっていい? 俺だけ寂しいっ」 「優真くんはダメ」 「ガーン……1フラレ……」 喜びを分かち合う二人の様子を指を咥えて見ていた。 「ところでゆーま、ちょっと気になったのだが……」 「ん?」 いじけるのをやめて、手招きに応じて耳を貸す。 「………………」 「ああ……うん。ちょうどあるね、2クラス合同で……うん……使うと思うよ」 「………………」 「確かめてみないとわからないけど、多分、大丈夫じゃないかな」 くらりと頭を揺さぶって、倒れるように離れる今日子さん。 「い、いかん……鼻血が出そうだー……」 「特急で仕事を終わらせてくる。所定の時間に必ずいるようにしたまえ」 「了解。俺は俺の仕事をしておきます」 「では2人とも勉学に励みたまえー。ではなー」 「じゃあ、始まるまで職員室で待ってようか。あそこは涼しいし、お茶も出してくれるはずだよ」 「賛成っ」 「『私を目標にするのは完璧に近づく最も効率的な手段だけど、同時に私を越えられない現実に直面する残酷な手段でもある』」 「キャーーーーーーーーッ!! 姫様ァーーーーーッッ!!」 「『言うまでもなく一つとして欠点はない。今までも、これからも』」 「嘘嘘ッ! ホントに“《ピースリー》〈PPP〉”の作者なの!? 寝る前に必ず読んでるよっ」 「クッフッフ♪ 応援なぞ要らない。私が求めているのは贄だ、村中の血を掻き集めて来るがいいっ」 「村っ! ハハハハハッ、村だってさ!」 「やっぱり作者だけあって言うことも変わってるー。ウケるー」 「私、“tubuyake”で“《ピースリー》〈PPP〉”の厨ニ名言BOT作ったんです。見てもらえますか?」 「えっ、知らないわっ! 嬉しいっ、見たい見たい。見せてー♪」 とまぁ、このように。 教室では、なるを中心とした円が形成されていた。 ド派手な自己紹介を終えたなるは、既に馴染みまくっている。 信仰集めなんてするまえから“《ピースリー》〈PPP〉”はみんなに浸透していたようだし、なるの気さくでとっつきやすい人となりは楽々と受け入れられていた。 「あ、そうだ♪ みんなにコレをあげるわ」 思い出したようになるが配りだしたのは謎の3点セット。 黒い羽。 変な形の蝋燭。 古めかしい紙。 受け取ったクラスメイトはわくわく顔で説明を待っている。 「これってもしかして、“《ピースリー》〈PPP〉”で姫がしてる“跪いて指をしゃぶれ”の契約に使う道具?」 「やっぱり! この蝋燭は特殊な塗料が入ってるんですよね! 漆黒の羽ペンの先で削って、羊皮紙に刻印を記すんですよねっ!?」 「クッフッフ……いかにも。これは箱庭の信者共への褒美である。“消閑”の称号を欲しいままにする我に信仰を捧げよ」 「菜々実さん、人気者だね」 「…………」 「剣咲さんは、知ってる?」 名指しで呼んで初めて剣咲さんは視線を向けたが、それだけだった。 “かったるい”という語源は彼女の出生に隠されているのではと思うほどの緩慢で、よっこいせという感じに動く。 「のえるんは、知ってる?」 「…………ッ」 下の名前で呼ぶと汚物を見るような見下した目で睨んでくる。 ここまでして、ようやく会話が成立し始めるのが彼女とのいつものやり取りだ 「“tubuyake”なら、短文投稿で流行ってる情報サービスですよ」 もういいだろ、と吐き捨てるかのようにそっぽを向いてしまう。 「そっちじゃなくって“《ピースリー》〈PPP〉”って携帯小説」 「まぁ、一応」 「おもしろいよね」 「まぁ、白紙を眺めるよりは」 「実は俺、なるちゃんとはただならぬ関係でさ。紹介してあげようか?」 「まぁ、今度」 「今でいいよ、すぐ呼ぶから」 「そのヘラヘラした顔を見てると、胃もたれするんですよ」 「え? 何か言った? どこ行くの?」 剣咲さんとお近づきになるのは難しい。 何度かチャレンジしているが、表情一つ崩れた試しがない。 かといって別にクラスで浮いているわけでもなく、《ハブ》〈省〉にされてるわけでもない。 「何か好きなものの一つでもわかればなぁ」 いたって健全な女子学園生だが、特別仲の良い友達はいないらしく、放課後はすぐに帰ってしまう。 そして特筆すべきはもちろん、飛び抜けて大きな―――― 「ゆーまく~ん♪」 思考中断。 遠巻きに俺と剣咲さんとの会話を見ていたのか、谷口さんと中島さんの仲良しコンビが歩いてきた。 「剣咲さんもったいないよね。せっかく優真くんが優しくしてくれてるのにさ」 「優真くんに声掛けられてあんなダルそうな顔するの、絶対おかしいよ」 「そう言ってくれるのは嬉しいけど、俺が軽々しく話しかけてるからじゃないかな」 「だーかーらー。女の子はね? 誰でも、優真くんには軽々しく連れ回されたいのっ♪」 「ははっ、意味わかんない」 「剣咲さん心に決めてる人がいるんじゃない? そんな感じする。あとは大穴でレズとか」 「単純に色恋沙汰に興味ないタイプかもよ? 何にせよ、優真くんに興味ない分にはこっち的にはプラスね」 「あのルックスでアタック掛けられたらコロっと行きかねないもんね。そういう点では、剣咲さんには今後ともおとなしくしてもらいたいね」 「っていうかさ、中島さんシャンプー変えた?」 「――ほら! 気づくんだもん♪ そういうの女子は一番うれしいんだよ、このぉっ♪」 「痛い痛い、叩かないで」 なるも嬉しいと叩いてきたけど、女の子は大抵そうなのだろうか。 「わたしは? わたしなんかいつもと違くない?」 「ヘアピン新調したのくらい来た時から気づいてたよ。似合ってる。髪も、いつもよりふわっとしてて柔らかそう」 「ほらほらほらっ。ちゃんと見てないと気づかないこと、さらっと言ってくれる。他の男子も見習って欲しいよね」 「自分じゃ意外と気づかない服についた埃とか汚れとか、ストッキングのほつれもちゃんと指摘してくれるしね」 自分なら、そうして欲しい。 自分なら、気づいたら口に出して言って欲しい。 だから、相手にもそうしてる。それだけの事なんだけど。 「俺がチャック開きっ放しで歩いてたら絶対指摘してね」 「も~~~っ♪♪」 「でも2人とも偉いよね」 「バイト3つ掛け持ちで頑張って、自分磨いて、一生懸命に24時間を有効活用するアクティブなとこ、凄いカッコイイ」 「そんなの余裕余裕。自分一人で何でもやるって“《ナグルファル》〈7年前〉”の馬鹿に誓ったし」 「そーそー♪ 普通っしょ? 生き残った者の義務みたいなー? わたしらなんか全然、不幸でもなんでもないもん」 「はははっ」 2人とも口調はイマドキの学生だけど、その実、中身は誰より 《タフ》〈強靭〉で、誰よりも真剣に生きようとしている。 そしてそれは2人だけに限ったことではなく、教室中で笑っている誰も彼も、ほとんどに言えたこと。 俺はそうやって一生懸命に日々を送る人間様が、ムチャクチャ好きだ。 2人のような境遇は珍しくないし、今を生きる人は皆、後悔しないために笑うことを身につけた。 「(だから剣咲さんだって、笑ってる瞬間は絶対あるんだよなぁ)」 ズルいくらいに幸せな、花がほころぶような笑みを、誰に向けているのだろう。 「そうそう、行方不明者が正式な死亡者って見なされるのも、7年なんだって。博識じゃない?」 「テレビでやってたの見ただけでしょっ」 「いろんな意味で節目だよね。もう少ししたら《たなばた》〈7月7日〉で、もう7年……か」 「……あ、俺ちょっと用事を思い出した。2人とも“《ピースリー》〈PPP〉”読んであげてねっ」 「次の時間、合同体育だよ。着替えもあるからあんまり遅れないでねー」 2人に笑顔を返して教室を出る。 「……ふぅ。今から行けば約束の時間ぴったりか」 「じと~……」 「おっ、なるちゃん。良かったじゃん、大人気っ」 「ジトト~~~~ン」 無事に入学デビューを飾った家族とのハイタッチを期待していたのだけど、そんな気分ではなさそう。 「わかっていたことだけど、やっぱムカつく」 「え? 何が?」 「わかってても納得できないってこと」 「弱ったな……なるちゃんへの特別扱い、足りてない?」 「それとも俺が……“家族”の一員であるなるちゃんとクラスの女の子を、ホントに同列に見てると思う?」 「うっ――そ、そ、そういう軽いとこが嫌なのよっ。寝てる時、鼻にわさび突っ込んでやるんだからっ」 「あっ……ああもう」 これでも、なるの事は特別視してるつもりなんだけど。 誰かを特別な目で見たその瞬間から、他の異性と話しちゃいけないなんて事はないはずだし。 「関係良好なのにハッキリと男女の関係ですって答えを出さないのは、相手にとってむず痒いに決まってるよなぁ」 でも――――もうすぐ、なるの気持ちに答えられるかもしれない。 その時に、なるの方から願い下げをされなきゃの話だけど。 言われていた空き教室の鍵は何者かによって壊されていたので、難なく入ることが出来た。 既に合同体育の準備と移動は始まっているが、俺は学園より今日子さん優先なので気にしない。 「うまくいったね」 「馬鹿もの、声を潜めたまえー」 「ねぇ今日子さん、一つだけ聞いていい?」 「給料一ヶ月分天引きでいいならなー」 「おあつらえ向きな大きさの貫通穴が壁に開いてるなんて、変じゃない?」 「天からの賜り物だろう。日頃の行いがいいからなー」 「確かにっ」 とかなんとか話していると、隣の部屋――――女子更衣室からキャッキャウフフな声が響いてきた。 「頃合いだね」 「うむ。あと一ヶ月分は本当に天引きするからなー」 大きく頷く今日子さん。ワクワクが隠し切れない。 「で、では優真……わ、私から良いのだな……?」 「桃源郷へ、行ってらっしゃい」 喉を鳴らした今日子さんがゆっくりと壁にへばりつき、目の位置をぴったりと貫通穴につけた。 「おっ……おっ……オフフッ、オフフフフッ」 「どう?」 「ま~べら~~~すっ♪♪」 「うら若き少女特有のスメ~ル♪ 輝くような白、白、白~♪ 見られているとも知らずにはしゃぐ姿は、天使の集会だ~♪」 「今すぐ、まとめて養ってあげたいぞー♪ ふふ、オフフフゥ――――もう私が乗り込んで、保健体育の授業にしてやるかー?」 「ホントにやっちゃダメだよ」 食い入るように見つめる今日子さんの口元をシャツの袖で拭いてあげる。よだれでべっちょりだ。 「なるがいるぞ。なる可愛いなー。おおっ、オフッ、オフフフフッ」 「ゆーまも覗くがいいー」 「なるちゃんは……やめとく」 「恥ずかしがらなくてもいい。新しくできた友達と無邪気に笑う下着姿、見たいだろー? 女の子は同性だけで固まると、途端に大胆になるからなー」 「見たいけど、やめとく」 「むぅ? もう意識し始めたのかー? 子作りに励むのは勝手だが、生むなら女の子を頼むぞー」 「しっぺ返しが怖いだけだし……なるちゃんくらいは、もう少し真摯に向き合いたいっていうか……」 「ゴメン。うまく言えない」 「青いなー。それを意識するっていうのだよ」 今日子さんの姿は万華鏡に夢中になる子供のようだった。 「おっ!? え!? うそ、デカッ! ありえんっ!」 「め、め、め、めろ~~~~~~ん♪♪」 「今日子さんっ」 そのまま後ろに倒れそうになった今日子さんを支える。 「大丈夫?」 「いやー、デカくてありえん。メロンオバケかと思ったぞー」 「最近、お祓い行ってなかったね。2ヶ月前に入った品川さん、 “《クリアランサー》〈片付け屋〉”始めてから真昼間でも化けて出られるようなったって 言ってたよ」 「ゆーま、あのオバケ欲しい。あのメロンに顔を包まれて、もふもふされたい。買ってくれたまえ、買ってくれたまえよー」 「今度はおねだり……うーん。どんなオバケなんだ?」 はてさて。この穴の先には、どんな光景が広がっているというのだろう。 「ごくり……」 好奇心を抑えることができない。 今日子さんを卒倒させるほどの威力を持ったメロンオバケとは、一体……。 「…………」 開け放たれたロッカーに腕が伸び、無造作につかんだセーターが引っ掛けられた。 何気なく払った横髪からは女の子本来のフェロモンがパッと散り、空き教室にまで香ってくる。 その正体は―――― 本当におっぱいオバケだったッ!!!! 「さっさと着替えちゃいますかね……」 欲張りを超えた強欲ボディは、身じろぐだけで揺れに揺れる。 その圧倒的な存在感は度を超えており、俺の覗き行為は芸術の域まで押し上げられたのではと錯覚した。 「(脱ぐとヤバい人っているけど……こ、ここまでとは……)」 周りの女子は自分と比べたくないのか、“なかったコト”にするためか、彼女は狭いはずの更衣室で3人分以上のスペースを有していた。 「(こぼれ落ちそうなんて表現じゃ追いつかないな。両手で揉んでもはみ出るあれは最早、モノノ怪の類か……)」 前々から思っていたが――――目に見える形で思い知らされた以上、確定させてしまおう。 剣咲さんは《シノガク》〈東雲統合学園〉きっての巨乳である。 「ん?」 き、気づかれた? 「どうやら……胸がキツいのは気のせいじゃなさそうですね」 訂正しなければならない。 剣咲さんは《シノガク》〈東雲統合学園〉きっての巨乳であり、未だ成長過程である。 「(こ、この機を逃したら一生御目に掛かれなかったなぁ……)」 剣咲さんは下乳から抱え持つように揺さぶり、かったるそうに吐息をつく。 「もうコレ以上、上のサイズなんてあるんですかね……」 間違いなく、専門店に行かなければないだろう。 一般的な店が国宝に被せる物を売っているわけがない。 「……めんどくさい」 ブーたれながらも、着替えを進める。 ブラウスに手がかけられ、ムチムチとしてなめらかな身体のラインが浮き彫りになる。 仮に俺が女だったとしたら、こんなものを見せられたらグーの音も出ないだろう。 「クッフッフ……な、なかなかやるわね……グーの音も出ないわ」 「はぁ……どうも」 見切れているが、なるの味わっている驚嘆は想像に難くない。 人類の神秘とは何かを封じ込めた豊満なヒップもまた、学生離れしている。 時間を忘れて魅入ってしまいそうだった。 「……こんなとこに……穴…………?」 あ――――今度こそ、バレた。 「今日子さん、逃げま――――あれ? いない!?」 窓が開いている。剣咲さんに夢中で気が付かなかったのか。 「家族の絆は絶対守るって約束したじゃないですかぁぁぁぁぁぁっ!!」 「早ッ! 隠れる暇もなく呆気無く人生終了っ!」 「…………」 「あ……こないだの……?」 え。でも、何でだろう。部外者のはずなのに―― 「ああ、なるほど、思い出した」 「ははっ」 危なそうな人なので、できれば顔を覚えていて欲しくはなかったのだけど……。 「私は怪しいものではない、作業員として許可を得て立ち入っている」 この人は警戒するにこしたことはないが、今はそれどころではない。 「えっと、俺、そこのロッカーに隠れるんで、うまいこと誤魔化してくださいっ!」 「待ってほしい、何をしたのだ? 私は何から君を隠せばいいのだろうか」 「覗きっ! 今からかわいい子が鬼の形相で入って来るから、作業で穴を開けていたとか適当によろしくっ!」 「情報が少ない。私はどのような立場で対応すればいい。キミは対価に何を払えるのだろうか」 「この借りはいつか返すからっ」 できれば彼に借りを作りたくなかったが、背に腹は代えられない。 「つまりは鬼退治の依頼か」 「……ご主人でしたか」 「ノエル。偶然だな」 ご主人……? カラス使いも見知りらしい。 しかも下の名前で呼んでも平気な関係。 とすると……こういうことか。 「こんなところで何をしていたんですか?」 「(なになに……? ひまわりを探していた……?)」 「(そんなムチャなイイワケが通るはずないでしょっ! 教室の中に花が咲いているわけがないんだからさっ!)」 「またですか。ご主人に苦労かけるなとあれほど言ったのに。まあ仕事ですから仕方ないですね」 「(通ったー! 俺の仕事も珍しいけど、ひまわりを探す仕事は世界に何人だ!?)」 剣咲さん(妻)は至って冷静に証拠である貫通穴を確認する。 「ひまわりを探すのに穴を開ける必要はないと思いますけど。器物破損ですよ。私というものがありながら、何を見てたんですか」 「浮気確定ですね」 浮気……やっぱり思った通りの関係らしい。 「ちょうど私のロッカーが見える位置に開いた穴……ご、ご主人は私の着替えが見たかったんですか?」 「そ、そうだったんですか……」 どんなに話しかけても靡かない剣咲さんの美顔がほころぶ。 「じゃあご主人は他の女を覗いていたわけではないんですね」 カラス使いは何も語らず、やれやれと首を振っているだけだった。 「見るだけじゃなくて、その手で触れてもいいんですよ?」 「(うわー! うわーーー! 抱き合ってる。あの剣咲さんが!?)」 男に対し愛おしそうに頬ずりをし、ぷっくりと厚ぼったい唇を何度も首筋に押し当てていた。 しかし――俺が真に恐怖したのは、やはり男の方だった。 「(し、師匠……? 師匠ってことか……)」 あの強欲ボディを当然の如く受け止め、キスされても表情一つ崩さない――――地上に舞い降りた究極のナンパ師。 「……学園にいるからといって、他の女に目移りしたら駄目ですよ」 「…………」 「なんてこったい……」 「あの感じだと、一線は余裕で超えてるよなぁ……」 剣咲さん、身体も心も大人ってわけだ……。 なんと羨ましい……。 年上ブーム到来の報せをバラシィにメールしておくとしよう。 「あの2人の関係は、ただならぬ臭いがするけど……足を突っ込んだら取って食われそうだなぁ」 剣咲さんの夫(?)からは、つつけば埃が出そうな空気感はあったが、関わらない方がいいと心の何処かで警笛が鳴っている。 剣咲さんを介する事が覗き発覚を成立させる以上、彼に恩を返せる日は限りなく遠そうだった。 「ぜぇ……ぜぇ……ぜぇ……」 「はぁ……はぁ……はぁ……」 炎天下の空。 大の字に寝転がった俺たちは酸欠でぶっ倒れていた。 「ははっ。なんとか撒けたね」 「ふふっ。普通、あんなことするかしら? あー、もう、馬鹿みたいっ♪」 「あの調子じゃ夜まで終わらなかったかもしれないよ」 事の発端は“《ピースリー》〈PPP〉”の作者であるなるが、ファンサービスの一環で無償で占いを始めたことに遡る。 放課後にも関わらず、男女を問わずクラスのほとんどが予定をキャンセルし、なるに占いを求めた。 空気を壊すわけにもいかず、なるは断ろうにも断れず涙目で俺にヘルプサインを送ってきた。 「これで昨晩のおんぶの借りは返したよ」 「全然、返せてないわよ。私、明日からなんて言われるのかしら? 憂鬱だわっ♪」 俺は、なるを中心にできた人の囲いを掻き分け、彼氏気取りでなるをお姫様だっこした。 騒ぎ立てる連中を無視して、廊下中を走り回って叫んでやった。 “なるちゃん欲しけりゃ俺から奪ってみろー”って。 「公認カップルになっちゃったわ。もう優真くん以外の男の子、私に寄ってこないんじゃないかしら」 「そんなことないって。明日から、なるちゃん目当てのチャレンジャーが俺の元に現れるよ」 「私、知らない人に奪われるの嫌よ? 優真くん、ちゃんと責任取ってくれる、か・し・ら?」 「家族ですからっ」 腰に手をついて威張っている隙に、なるが消えていた。 「一体、この細い足のどこにあんな脚力が隠されてるのかしら?」 「おぉ、おっ、おぅおぅ」 「出張マッサージでーす」 しなやかでいてシャープな輪郭の五指が、俺のふくらはぎをぷにぷに揉み揉みと……。 「やめて、コレ以上はやめて。なるちゃんに触れられると理性が……」 「なにそれ。私を襲う為の100のイイワケの一つ? 誰もいないんだし、家族の親睦深めちゃう?」 「ていっ」 「ひゃん!」 「うぅ……でこぴんされたぁ」 「え、そ、そんなに痛かった?」 「頭蓋骨にヒビ入った。罰として、放課後デートね♪」 命短し恋せよなるは、この空に負けず劣らずの陽気だった。 「(ああ、そうか……)」 『放課後に仕事がなかったら、二人でどっか行こうか?』 今朝方、俺が口走ったたった一言の口約束を、なるは心待ちにしていたようだ。 「待ってね、メール見てみる」 「仕事の断りのメールなら、私が代わりに送ってあげるね」 「いや、まだわかんないんだけど……」 「えっとねー……『カィシャつみゃんなぃからゃめるぅサョナラだぉ~☆』っと」 「送信しちゃだめだよ!」 メールを確認するが新着は零二の構って攻撃だけだった。 社長が3人分の働きで会社を回してくれたのだろう。 スケベ顔で覗きに夢中になっていても、やることはやる。 やっぱり、一生、頭が上がりそうにない。 「予定無し」 「お仕事、大丈夫だったんだ。さすが今日子さん、できる女だわっ」 「そういうことなんで、俺と遊びに行って頂けるんですかね?」 「わーい! 優真くんと初デートっ♪ マイフォークとマイスプーン持ってきて良かったわっ♪」 「綿飴が空を泳いでるっ、よーし食べるわよー」 食いしん坊さんは、既に空腹で幻覚が見え始めてるのかもしれない。 和洋中揃った評判の食べ放題の店があるので、そこに連れて行ってあげよう。 「楽しそうね、わたしも混ぜてくれない?」 「おお、Re:non様そっくりの美少女だっ! 女の子なら誰でも歓迎だよ」 「できれば二人っきりがいいわ」 「ちょっとちょっと、横からいきなりしゃしゃり出て、きて…………って」 「あまりの美しさに、揃って驚いているのかしら。ムリもないわね」 「んと…………そっくりさんじゃない……?」 あたかも最初から立っていたかのようにウインクする女性の正体が、一瞬わからなかった。 個人的な時間を同じ目線で過ごせるはずのない舞台に立っているはずの人。 「マジモノの――紫護Re:non様ッ!?」 「は~い♪ こんにちは。みんなのアイドル、リノンよ」 「どうしてここに――――あれ……?」 些細な違和感が気になりだした。 なるとのおしゃべりに夢中になっていたとはいえ、屋上の入り口は重くて開閉音の響く扉しかない。 気づかない方がおかしいはずだ。 「みなまで言わずともわかるわ」 「わたしは階段から来たわけでも、元からここに潜んでたわけでも――――それ以前に、この学園の学生でも関係者でもない」 「用があったからわざわざ出向いたの。校舎の壁を駆け上がってね」 「傾斜角90度ですけど!?」 「適当なとこで壁蹴りジャンプ」 「音もなく背後に着地!?」 「ファンなら知ってるでしょう? わたしはいつだって超最強。超最強に不可能はないわ」 言葉だけでは根拠がないが、威風堂々の態度からくる説得力が俺を頷かせた。 店頭イベントでの一件を思い返す。 瞬間移動と見紛うほどに桁外れた脚力。 男一人を片手で投げ飛ばせる膂力。 息切れ一つ起こさない基礎体力。 アイドルレッスンで鍛えられているとはいえ、か弱い女の子に――――否、人間に成せる業ではない。 「さすがの俺でもわかった。紫護リノンの本当の顔は……あれだ……あれだよ。なんだっけ。なんだっけ。なんなんだー!」 「“《イデア》〈幻ビト〉”?」 「先に言われたか。そう、間違いなく“《イデア》〈幻ビト〉”だろう」 「正解」 一言、発するだけで空気の質が変わったように感じる。 しかしRe:non様の纏うオーラに尻込みはしてられない。 「奇遇ね、虹色の占い師。これも運命かしら?」 「いい加減、懲りたら? 私にその気はないわ」 「事あるごとに私に付きまとって、迷惑なのよ。何を言われたってあなたなんかに手を貸すつもりはないわ」 「と言われても、状況がイマイチつかめないわ。一兎を追って二兎を得るなんて、都合が良すぎるもの」 「何かしら、その喩え。わかんないこと言ってないで帰ったら?」 「要件が済んだらそうさせてもらうわ」 食って掛かるなるだが、Re:non様はしっとりと余裕のある声でいなしてしまう。 なるがRe:non様を嫌いなのは知っていたが、面識があることまでは知らなかった。 もちろん“《イデア》〈幻ビト〉”であることも、少なからず驚いた。 「今までの経験から『これから話がややこしくなる』という空気を察したから、先に言っておくよ」 「俺はRe:non様が人間じゃなくても、大ファンだからっ!(きっぱり)」 「あたりまえよ。一度わたしの虜になったら、離さない。他の事に時間は使わせない」 「そこまでファンをコントロールできて、初めて一流のアイドルと言えるの」 「三流、二流風情がいくら足掻いても、頂点であるわたしに追いつくことは不可能ね」 「Re:non様は社会現象だしなぁ。“衣・食・住・Re:non”は去年の流行語大賞だし、Re:non様のグッズで破産した人は数しれない」 「笑っちゃうわね、私にとっては“衣・食・食”よ。優真くん、そんなキラキラした目で見ないっ」 「いやぁ、二人がユニット組んだら業界に震撼が巻き起こるんだろうなぁと」 「組まないわよっ」 「売れない」 「ぁによ! 売れるもんっ」 厨ニ作家とナンバーワンアイドルの相性は最悪のようだった。 「あなたと虹色の占い師はどんな接点があるのかしら?」 「不埒な関係です」 「ああ……恋愛ごっこ? 占い師の趣味はこういう男なんだ。案外、メンクイなのね」 「もしかして褒められてる?」 「一般的な目線で言って、顔はいい方でしょう。小さなコミュニティの中でもてはやされる程度の話だけど」 自然体でいるのに、その薄い笑みは刀剣の切っ先を思わせる。 昨晩、あれだけの戦闘に身を置いたおかげでRe:non様に秘められた危険性がなる以上であるとわかった。 「もういいから、逃げるわよ優真くん」 「え、なんで?」 せっかくアイドル様が貴重な時間を割いてやってきてくれたのに、こちらから逃げる必要がどこにあるのだろう。 「問題を先送りにするだけじゃない? わたし、彼の住所は知っているわよ」 「ブラフだわ」 「本当よ。わたしが用があって追ってきたのはあなたじゃなくて、彼の方なんだから」 「え……?」 「ああ、俺なんだ。昨日の今日でお話できるなんて光栄だなぁ」 「昨日の今日……? どういうことよ?」 「このわたしが、ファンの自宅に生電話するキャンペーン。住所を割り出すのは簡単だったわ」 「個人情報はキャンペーンにしか使用しないって書いてあったよ?」 「ええ。書いてあったわね。だから?」 「……こういう奴だから、私は大ッキライなの」 「悪いわね、デートの邪魔して。少し、彼とお話したいだけだから」 なるはうんざりとした表情を崩さず、失礼極まりない視線を向けている。 しかしなるちゃんといい、Re:non様といい、“《イデア》〈幻ビト〉”は美少女が多いのだろうか。 ひょっとすると、これは画期的な“《イデア》〈幻ビト〉”の割り出し法かもしれない。 「水瀬優真、くだらない事を考えているわね」 「そんなことないよ。くだらない事を考えたことなんて一度だってない」 「あなたは街頭イベントで話した時から異常さを隠しきれていなかった」 「占い師と一緒にいることからも、“《イデア》〈幻ビト〉”を知っていることからも、通常人ではないことは分かってるの」 「単刀直入に聞くわ――――あなたは何?」 「Re:non様の下僕です」 「違うでしょ。どっちかと言えば、私のでしょ」 「占い師の下僕? どういう冗談? あなたたち、思ったよりアブノーマルな関係だったりするの?」 「もっと深い意味での繋がりよ……わかるでしょ?」 「――――!?」 「驚いた? なるちゃんは水瀬と契約を交わした、由緒正しい家族の一員だよ」 「優真くん惜しい。そっちじゃないわ」 「…………はぁ。そう。考えなしに付ける薬はないわね」 「あなたが特定の人間と恋人ごっこなんてしてるから、変だとは思ったのよ。契約相手ってわけね」 「禁忌を犯したことくらい、百も承知だわ。私は優真くんと“《エンゲージ》〈契約〉”にした」 「文句あれば、この場で聞くわ」 「ふふっ――――“《フール》〈稀ビト〉”を狩る側のわたしに、それを言っちゃう?」 「“《ピースリー》〈PPP〉”2話の吸血鬼みたいに夜な夜な徘徊しては、俺みたいなのをハンティングしてる感じですか?」 「事の重大さを、くだらない小説の設定なんかで表現しないで。適当なことを言ってられる立場じゃないのよ?」 「次に私の前で創作を馬鹿にしてみなさい、二度とたこ焼きを熱々のうち食べられないよう口の中をズタズタにしてあげるわ」 「“《フール》〈稀ビト〉”はどうして駆逐されなきゃいけないの?」 「“《フール》〈稀ビト〉”は“《アーティファクト》〈幻装”を無断借用して、我が物顔でつまらない力に変換するでしょう?〉」 「身に余る力を得た事で驕り高ぶり、平気で犯罪を起こす。元が人間だから、欲望にまみれているのね」 「わたし達のような強者がカンチガイを狩る事には、概ね納得しているわ」 Re:non様の言葉を鵜呑みにするならば、“疑わしきは罰せよ”だ。 決めつけは良くない。 “《フール》〈稀ビト〉”を悪人として一緒くたにしてしまい、個人のモラルを信じる気はさらさらないようだ。 「大丈夫だよRe:non様。他の奴は知らないけど、少なくとも俺は、この力を悪用する気ない。使ったとしても家族を守る時くらいだよ」 「弁明は聞いてない」 よほどの堅物か、マニュアル人間タイプか、過去に何かあったか―――― 「無駄よ優真くん。“《イデア》〈幻ビト〉”にとって “《フール》〈稀ビト〉”は忌むべき存在なの」 「感覚的に言うなら、墓を勝手に掘り返されるようなものかしら。知らない人でも、いい気分はしないでしょ?」 「“《アーティファクト》〈幻装〉”は私たちの魂。勝手に使っているという行為そのものが許せないのは、何となくわかるわ」 「……じゃあ、どうなるの? Re:non様は、俺をどうするの?」 「コイツが組織立って動いていて、仲間に報告でもされたら厄介だわ」 可愛らしい食いしん坊の唇が閉じ、発散していた明るさを内側に引っ込んだ。 それは“音”に愛される“《イデア》〈幻ビト〉”の好戦的な顔つきだった。 「口を封じるしかない、か・し・ら」 「明るいうちから、おっかないったらないわ。カルシウム足りてる?」 我関せずの態度で構えもしないRe:non様は、相変わらず余裕だった。 「ちょ、ちょっとストップ!」 “《イデア》〈幻ビト〉”同士が衝突したら、校舎が崩壊してしまう。 「キャットファイトするなら素手で頼むよ、負けた方が脱ぐという約束付きでね。それなら許可します」 「まぁ聞いてちょうだいよ、悪いようにはしないから」 Re:non様は野良猫のように警戒を解かないなるを無視して、テレビ出演時の流暢な語りを披露する。 「虹色の占い師には何度かちょっかい出してるし、薄々気づいていると思うけれど。わたしは、ある群れの中に身を置いているわ」 「その母体となるのが“《アーカイブスクエア》〈AS〉”と言えば、逆らっても無駄だとわかるかしら?」 「……アーカイブ」 「スクエア……」 街に浸透したその単語は、唐突さを伴って頭に響いた。 “《アーカイブスクエア》〈AS〉”は人々を支える大企業であり、世界中から圧倒的な支持率を誇っている。 最先端の医療技術で“ナグルファル”で発生したウイルスから人々を護り、その後も復興に尽力した救世主。 Re:non様を専属の広告塔として置いていることは有名であり、説得力を増加させている。 なるですら警戒しても無駄とわかったのか、小さくため息をついた。 「国民的人気の影に“《アーカイブスクエア》〈AS〉”のバックアップがあったと思えば、納得はできるわね」 「適正な判断をありがと」 「それで? 真っ黒な大企業に身を置いて、一体、何を企んでるのかしら?」 「あら、自分たちにとって都合が悪い相手が一人でもいたらブラック企業扱い?」 「“《アーカイブスクエア》〈AS〉”は利潤を求めて、権力を振りかざすだけの雑魚じゃないわ。人間が豊かに暮らせるように心がけている立派な企業よ」 「“《アーカイブスクエア》〈AS〉”なくして、暦区がこの短期間で都市機能を回復できたと思う?」 投げかけに答えられないのは、その絶大な影響力を身を以て知っているからだ。 「凍える空の下で眠る人もいなければ、食糧難の悲鳴を叫ぶ声もない。犯罪は年々減少し、娯楽施設も充実してきている」 「全部“《アーカイブスクエア》〈AS〉”のおかげでしょう?」 ごもっともな言い分に頷くしかない。 「私たちの存在を知っているということは、少なくとも“《アーカイブスクエア》〈AS〉”のお偉いさんは“《イデア》〈幻ビト”で構成されてるのよね」 「上層部の半数はそうじゃないかしら。そもそ も、人間が指を咥えて見ているだけだから “《アーカイブスクエア》〈AS〉”が纏め上げたのが今の世界じゃない」 「人より優れた“《イデア》〈幻ビト〉”の貴方なら、わかるでしょう」 「人間を馬鹿にしないで。人間には人間の良さがあるわ」 「人は弱いイキモノよ。保護が必要なくらいにね」 「現に90%以上の人間が“《フール》〈稀ビト〉”になって力を得た瞬間に豹変する」 「今まで、びくびくしながら周りを確認して“自分より下”を探し出しては安心してたんだもの」 「優位に立って我が物顔をするのは当然のことよね」 試すような瞳にムッと来た。 「俺は大丈夫だって。私欲の為に使ったりはしないよ。一、Re:non信者として誓える」 「弁明は聞いてない。二度も言わせないで」 聞く耳をもってもらえなかった。 “俺だけは”という言い方が、既に自分を特別視した危険なワードだと捉えられているのかもしれない。 しかし人間を護る大目標の為に“《フール》〈稀ビト〉”の人権を奪って駆除するのは、確かに効率的だと思う。 過ぎた力を持った人のほとんどは欲望に忠実になり、モラルは瓦解し、破滅に向かう――――歴史が雄弁に物語っている。 「占い師。あなたにアプローチを掛け続けたのは、“《フール》〈稀ビト〉”を割り出せる稀有な能力を高く買ったからよ」 「お偉いさんに紹介して、紹介料をガメようって魂胆ね。き・た・な・い」 「本題に入るわよ」 「わたしはアイドルの顔とは別に、“《フール》〈稀ビト〉”を秘密裏に処理する役目があるの」 「本来なら“《フール》〈稀ビト〉”の彼はもちろん。 “《フール》〈稀ビト〉”を生み出したあなたも、まとめて 連行するべきなのだけど……」 「やってみなさいよ」 「……単細胞?」 「う、うるさいずらぁああああぁぁぁぁぁッッッ!!」 「ストップなるちゃん、最後まで話は聞こうよ?」 「こいつ絶対デストロイするっ! こいつと話してるとムカムカしてくるのよっ」 「向こうにそのつもりがあるなら、こんな長々と説明しないんじゃないかな?」 「自分から所属をバラす必要がないことくらいわかってるわよっ」 両手を蜘蛛の足のように動かしてウーウー唸っている。 きっかけさえあれば飛びかかりそうだ。 俺の知っているなるはこんなにすぐ頭に血が上る子ではない。 頭でわかってても相容れない相手というのは、遺伝子のレベルで決まっているのかもしれない。 「…………」 言われた事を咀嚼して考えをまとめていると、不意に思考が昨日へ飛んだ。 「捕獲者気取りが、ビビってんじゃねーぞ。この調子じゃ俺はおろかあいつを捕まえるのなんかできっこねーな!?」 「人を《モルモット》〈実験動物〉扱いしやがった連中がまだとぼけるか……」 「俺を“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”なんて糞みたいな呼び方しやがったのはおまえらの方じゃねーかッ!!!」 「さっきの《オンナ》〈追跡者〉は問答無用で斬り掛かって来たが、おまえはそうやって油断させる戦闘スタイルなのか?」 捕まえる―――― モルモット―――― 斬りかかるオンナ―――― 「“腕”の男に手錠を掛けたのって、もしかして……」 「“腕”――――ああ……アレに会ったんだ」 『問答無用で斬り掛かったオンナ』の正体が大アイドル様とは、さすがに予想しなかった。 「あ――――あの男が言ってた組織って……そういうこと。なんとなく繋がったわ」 「あれから行方知らずって報告を受けてたけど、始末してくれたようね」 「…………」 「まぁいいわ。それはそれとして……」 「わたしは、《・・・・・・・・・・・・・》〈貴方たちなんか見つけてない〉から」 なると視線が合う。察しの悪い俺たちでもわかった。 「見つけてない以上、連行する事ができるはずないし、争う事も当然できないわね」 「なかったコトにして見逃してくれるってわけね。俺たちにとっては都合がいいけど、それだけじゃないんでしょ?」 「鬼畜な要求が始まるわよ。跪いて足を舐めろとか」 「それはただのご褒美でしょ?」 「ぁによっ!?」 突っかかるなるだが、実際問題、我々の業界ではご褒美です。 「ぜひ、靴は脱がないままで」 「帰ったらいくらでも踏んで上げるわ。使い物にならなくなるまでね」 漏れだした心の声に大層、怒ってらっしゃる。 「わたしが要求する条件を飲めば二人とも見逃してあげる。普段通りの生活にもどっていいわ」 「創作がわからない奴の言うことなんか信用できないわ」 「電話一本でこの学園を囲うことも、証拠を隠滅することも容易いのだけど……」 あの時の“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”の様子から思うに、Re:non様はなると同等かそれ以上の実力者だろう。 加えてバックボーンには“《アーカイブスクエア》〈AS〉”――――。 「他に何か打つ手が? わたしを口止めできるほどの策が用意できるの?」 「そんなものはないわ!」 何も無いくせにやたら強気だった。 “音”を操るなるならば先制攻撃で黙らせることは可能だろうが、あまりにも危険すぎる。 「条件ってのは?」 「二度言うのは嫌いなの」 と、言われても。 言われた覚えがないので困る。 「《・・》〈最初〉に言ったじゃない。ファンならわたしの言葉は一字一句、聞き逃さない事」 ヒントを頼りに思考をめぐらしていくと、物凄く自分本位な結論に達した。 言ったら殴られそうだが、それもまたファンとしては一興。 「…………ってことだよね?」 「は?」 「正解」 ……………………え? 本当にそんなことでいいの? 一寸先は闇だ。 人生は何が起こるかわからない。 そこに面白さを見いだせるのもまた、人生だけれど。 「さすがに俺みたいな一般人の隣を歩くのはまずくない?」 「べつにオトコと街をぶらぶらするくらい平気よ。マネージャーとでも思えばいいじゃない」 「バレたら今後の活動に支障をきたすんじゃない?」 「携帯で手軽に写真が取れる時代、市民ジャーナリストによるスクープは後を絶たないわね」 「でも嬉しいんでしょ? わたしと歩けて」 「感動だけどさぁ」 「どんな噂が立っても、揺らがないのが頂点よ。あなたが要求を飲んでくれたお礼でもあるけどね」 「本心は?」 「ふふっ、虹色の占い師からオトコを奪ったら愉快かなって」 食えない女子の悪戯っ気のある微笑は、謎に包まれたアイドルRe:non様に良く似合う。 しかし――Re:non様とならんで街を歩けるなんて幸運が舞い降りるとは思わなかった。 「やだーーー!! やだやだっ。優真くんとの放課後デートは私だけのものなんだからぁっ!」 「今日一日、借りるだけよ。彼と二人きりで、どうしても確かめなければならないことがあるの」 「優真くん、何とか言ってよっ」 「くそぉ~~~っ! クソクソクソッ!」 「なるちゃんと放課後デートしたいのは山々だっ! 山々なんだが、こうなってしまっては仕方がないじゃないかぁっ!!」 「俺に拒否権はないんだよな。好きにしろ。デートでもなんでもしてやる」 「口調と表情が一致してないっ」 「くすっ……彼、なかなか優しいわね」 「ぁによっ! これのどこがよっ!」 「強制的に選ばされたって思えた方が、あなたのプライドが保たれるでしょう?」 「がっ、がっ、がーーーー! がーーーーっ!!」 「噛み付くのは禁止だよっ。ここは従おうよなるちゃん。埋め合わせはするからさ」 「そのタケノコみたいに飛び出したツインテールもどきを引き抜いてあげるわ」 「やだっ、助けてっ! 怖い人がいるぅ」 「なるちゃん、そんなコト言っちゃいけません」 「GAOOOOOOOOOOOOOOO! 優真くんから、HA☆NA☆RE☆RO」 「残念。二人まとめて死に急ぐのね。早速、連絡を……」 「うーーーいいもんっ! 一人寂しく占い屋ひらくもんっ。悪い男に捕まってホイホイついてっちゃうんだからっ!!」 「な、なるちゃん!」 「やっぱり引き止めてくれるの……!?」 「展開次第で朝帰りになるかもしれないから、その時はメールするね」 「わーーーんっ!! 浮気者ぉっ!!!」 「略奪愛がどうとかって大騒ぎだったわね。あの子、本当にショック受けてたんじゃない?」 「まさか。なるちゃんの打たれ強さは重量級ボクサー顔負けだよ」 「何度も告白されてはフってるのに、諦めるどころか負けじとアプローチを重ねてくる」 「え? “《エンゲージ》〈契約〉”相手で、あんなに仲もいいのに……何処に断る理由があるの?」 「俺って今までずっと、色鉛筆の“白”だったから……華やかな色になって削られるのは、まだちょっとね……」 「あれだけ好かれてて、自分のことを一番使われない“白”だって断言するのね」 「あんなに可愛くて優しい子、俺にはもったいないから」 「覚えておきなさい。誰かに認められる事は、凄いことなの。その相手に、自分を卑下する事ほど失礼なことはない」 「ははっ、きっつ」 叱咤激励の類で俺の心根は覆らない。 今の俺は、なるを受け入れられない。 「仮にわたしの彼になれるって言われても、あなたはそのチャンスを逃すの?」 「Re:non様を嫁にするには今の1000倍は自分を磨かないと、荷が重すぎるかな」 「そう、猿人レベルの低能ね。だったらあなたは、霊長類とでも結婚しなさい」 「ははっ、厳しいところも素敵だなぁ。やっぱり付き合っちゃうかなっ」 「ふぅん――――本当につつかれたく話題は、そうやってはぐらかすんだ」 「何が?」 「さぁ」 同じ目線で話して見てわかったことだが、Re:non様は人の本質を見抜くのに長けている。 俺がはぐらかしてるものの正体なんて決して見逃さない。 あっさり気づいた上で追求をやめたのだとわかった。 「月末にわたしの語録が発売するんだけど、当然買うのよね?」 「初回限定版を保存用、観賞用、布教用、妹用、トイレ用に1冊ずつ計5冊買うよ」 「思ったよりは少ないわね。結衣ちゃんは元気? わたしのアドバイスは参考になったって?」 「嬉しそうにしてたよ。あんなことになっちゃって迷惑掛けたね」 「べつに。アガリ症なんでしょ。女の子のファンは好きよ? サード写真集なんて100冊買ってくれた子がいたのよ」 「最近は大量に買って、写真をアップすることで信者アピールをするのが流行りみたいだし」 「ネットはあんまりやらないかな。チャットとかも、よくわかんない。直接会って話すほうが、好きだし」 「覚えのないツギハギだらけのコラージュ画像があったりして、おもしろいわよ」 「自分の画像が裸にされてたり、ってこと? そういうの見ても傷ついたりしないの?」 自分が当人ならば、話題に上げるのも気持ち悪い気がする。 人に見られる事を仕事にしていると耐性がつくのだろうか。 「だっておもしろいじゃない。写真集だって、結局のところ用途は低俗な一人よがりでしょう?」 「耳が痛いです」 「貶してないわよ? 人間らしいじゃない。手の届かない存在と認めた上で、もやもやを的確に自己処理しているなんて」 「耳がっ、耳が聴こえないっ」 「見下してるわけじゃないわよ? だってそれは、《・・・・・・・》〈調整でしょう?〉」 「何もしないで犯罪を起こしたり、捕まるのを覚悟でわたしに襲いかかってこられても困るわ」 「――――勢い余って、喉笛を噛み切ってしまいそうだから」 戦場に身を置いた際のなるから漂った獰猛な一面は、Re:non様からもかいま見えた。 己の肉体と魂に絶対の自信を持つ“《イデア》〈幻ビト〉”がその気になれば、俺の胴体と首はすぐに離婚するだろう。 「自分のファンを容易く犯罪者予備軍扱いするのはいかがなものかと」 「いいからいいから。わたし本体には何の影響もないので、存分に妄想の中でRe:non様とのひとときをお楽しみください」 「さすがはRe:non様、おデブちゃんだなぁ」 「……太っ腹って言いたいの?」 「学もあるっ!」 Re:non様は行き止まりに来たかのようにピタりと立ち止まった。 「ちょっと、わたしの目を見て」 輝く魔性の瞳が至近距離に急接近。天然の催眠術に掛かってしまいそうだ。 視界に俺を映してくれてると思うと、それだけでファン冥利に尽きる。 「あの時と違う……視線を交わしただけでスイッチさせられたはずなのに……」 ご期待には添えなかったらしい。 「ねぇ……何か、強く言って聞かせてくれないかしら」 「どういうこと?」 「わたしを威圧するように命令して欲しいの。できれば断りそうな要求がいいわ」 「俺みたいな一般人に強引な事されて怒らない? 首折らない?」 「いいから命令しなさい、これは命令よ」 「んー……喉も乾いたし、一緒に“《ハチゼロ》〈蜂蜜揚げパンソーダZERO〉”飲もうか?」 「もっと強い口調で」 「う、うるさいっ、飲めよっ! 暴力を振るう……ぞ……?」 「嫌よ」 女神に吐ける精一杯の暴言だったが、ぴしゃりと拒絶される。 「あれれ?」 口では嫌と言いながら、Re:non様は透明人間に背中を押されるように自動販売機まで歩いて行った。 難しい顔をしながらサングラスをかけ直し、2本の缶を手にしてもどってくる。 「はい」 「ありがと。お金――――」 言いかけたところで、手で“待った”を掛けられる。 「収入が多いのはわたし」 ごもっともなので、お言葉に甘えて受け取る。 街灯前に立ち止まって飲むことにした。 「ふふっ、CMのやつ、やってほしい?」 時折見せるあどけない顔でおちゃめに言われ、一瞬思考が停止した。 「やったっ! お願いしますっ」 気まぐれなファンサービスに歓喜。素直に歓喜! プルタブを起こしたRe:non様は準備が整っている。 CMで何度も見た、豪快な飲みっぷりが実演された。 「ゴク……ゴク……ゴク……!」 「っ……っ……っ……!」 「超最強。“《ハチゼロ》〈蜂蜜揚げパンソーダZERO〉”」 「わたしは、これかな」 「わーーわーーーっ! 感激れふぅ!」 「このくらいでオトコが飛び跳ねないの。今後も紫護リノンをよろしくね」 「は、はひぃっ、缶捨ててきましゅぅ~」 俺は目ヂカラ溢れるウインクにノックダウン寸前、呂律だって回るわけがなかった。 「そういえば、優真の“《デュナミス》〈異能〉”をまだ聞いてなかったわね」 「俺だってリノンのを聞いてないよ?」 「……ちょっと」 「ん? なに?」 「名前を呼び捨てにしていいとは言ってないわ。っていうか、態度が10秒前とは別人じゃない?」 「リノンだって、俺の名前を呼び捨てたじゃん。おあいこでしょ」 「それって、おかしくない? だってあなた、神を崇めるような目でわたしを見てたじゃない」 「そうだけど、それはそれ、これはこれ。様付けで呼ぶのをやめただけで、大ファンであることには変わりがないし」 「ただまぁ……堅苦しいのは抜きにした方が、リノンも楽かなって思っただけ。どうしてもって言うなら、やめるけど?」 怪事件に遭遇した探偵のような怪訝な様子で、俺をまじまじと見ている。 「……変な人ね。わたしの信者なのに馴れ馴れしくて、距離を縮めすぎると引いていく」 「誰かと一緒にいないと寂しい癖に、寄り掛かられるのは息苦しい――――自分が定めた距離感じゃないと混乱する」 リノンの言葉は鋭利な投槍のように深く刺さる。 心に掛けた南京錠を壊されて覗かれるような、嫌な感覚だ。 「ははっ。あれだ、ヘタレってやつだ」 「ヘタレ? 手遅れの間違いじゃない?」 俺が視線を逸らしたのは、そうせざるを得なかったからだ。 その自信満々な――――自分がミスをすることなど一切ないと断言するような笑みに、全てを見透かされている気がしたから。 「……それで? あなたは何ができるの?」 「詳しいことはわからないけど、“《アーティファクト》〈幻装〉”を出せるみたい」 「“《アーティファクト》〈幻装〉”? そんなわけないじゃない。 “《イデア》〈幻ビト〉”は“《エンゲージ》〈契約”できない。 あなたは“《フール》〈稀ビト〉”でしょ」 「昨日まで普通の人間だった俺に聞かれても困るよ。なるちゃんのセンスで“《レアケース》〈類まれなる一例〉”と命名されたけど」 「現段階で脳に直接働きかける力や、精神汚染を引き起こせる力は確認できてる?」 「ヒト一人に焦点を絞れるレベルの力じゃなかったのは確かだよ」 「もっと凶悪な――――竜巻や、津波、噴火や、雷……メカニズムが解明されて尚、完全な対策ができない自然現象と同規模の破壊兵器だった」 「嵐を巻き起こして建物を吹き飛ばしたり、直接的に目に見える事象を生み出すタイプね」 「……聞いてても、言ってても、やっぱ実感は湧かないなぁ」 「もういいわ。話してわかるのはこのくらいでしょうし」 研究素材の下調べの済んだサイエンティストのような爛々とした瞳が俺を舐めまわす。 「後は、少し踏み込んだ実験が必要になるかしら」 鳥肌の立つような事をぼそっと言わないで欲しい。 住所が割れてる以上、社長に迷惑が掛かるので逃げることもできないのだから。 「ふふっ、ねぇ優真。このあと時間ある?」 「急な仕事が入らなければ、いいよ。なるちゃんの埋め合わせは夜か、明日するし」 「あなた――――わたしの部屋に来ない?」 「うぇ!?」 悩ましいお誘いに気が動転し、今一度、相手がリノンである事を確認した。 弓のようにしなやかなボディラインは充分に引き締まっているが、女性的な丸みも感じ取れる。 「どこ見てるの?」 俺がいやらしい意味で汲み取ったのがわかっているのか、リノンは薄く笑っている。 「お、俺、初めてなんだけど……手取り足取り教えて頂けますかね?」 「決まりね」 「き、決まっちゃった……」 喉からこぼれる声が、緊張にかすれているのがわかった。 大ファンであるリノンの自宅を訪問することは、夢の一つだ。 「――――わたしだわ。仕事の連絡かしら。そこで待ってて、少し掛かるかも」 携帯を片手に雑踏から離れるリノンが思い出したように振り返る。 「安心しなさい。部屋についたら、誰にも邪魔はされないから」 「は、はひ……」 「………………ごくりっ」 ……や、やべぇ~~~~~!? 「ウインクされた! ど、どうしよ。拒否権がないってのが問題だよなぁ。いいなりにならなきゃ、なるも俺も捕まっちゃうんだし……」 誰もが憧れる天下のアイドル様の部屋にお呼ばれ――――。 常識的に考えて、健全な男女が二人っきりの部屋ですることなんて一つしか……。 「いやいや、まさか。なるちゃんとだって一線は超えてないんだよ? それは盛りすぎだよさすがに」 「まして相手は紫護リノン。水瀬優真しっかりしろ。おまえどれだけ贅沢なんだ? 仕事して社長に貢いでればいいんだよ。おまえはまったくダメな奴だなっ」 「……落ち着け。落ち着こう。がっかりするような展開が俺を待ってるんだ。いつも通りだ」 あーだこーだ自分自身と言い争う。 一人でにやけてしまう昼下がり。 「とりあえず、なるようになるだろっ」 魔法の言葉とともに両頬を叩いて気合注入、ポジティブ注入。 これでどんな事になっても万事オッケー。 「おまたせ」 「早っ! まだ30秒も経ってないよ?」 「あれ? どこまで話したか忘れちゃったわ。わたし、何をしてたんだっけ」 「えー。さっきの話はやっぱりナシになるのかぁ」 都合が良すぎる話には穴があるものだ。 「え? ううんっ。ならないわよ。どこかに行く……んだったかしら?」 「リノンの部屋で朝までハグハグ」 「ああ……そうね。そうだったわね」 ぶっ叩かれるかと思ったが、本当にハグハグで合ってるらしい。 そんなことよりも、健忘気味のリノンの笑み混ざったぎこちなさが気になった。 「電話の内容、ハードだった? どこかで一回、休もうか」 「ううん。平気だから、あまり気にしないで」 「あ――――ちょっと待って、師匠だ」 覗きの件では大変お世話になった。 何かお礼がしたくて、がっしりとした背中に近づいた所で、俺の脚が止まる。 「しかしまた……凄い組み合わせというか……あの人の腕はハンパじゃないなぁ」 「赫さん、後ほど紅茶館へ行きましょう」 「ああ。どこでも付き合おう」 学園内で本妻らしき剣咲さんと抱き合ったあと、愛人と優雅にティータイムを満喫しようというのには驚きだ。 「2人ともなかなか振り向いてくれないのに。あんなに簡単にゲットできるのは何故なんだろう」 バラシィと組んで行ったナンパでも見向きもされなかったというのに……。 「お楽しみを邪魔するのは野暮ってものよ。行きましょう」 「そ、そうだった。俺には俺のアフターが待っているんだった!」 「ねぇ……もっとわたしを隠すように歩いてくれると助かるんだけど」 「え? ずっとこんな感じで歩いてなかったっけ」 「わたし有名人なのよ? 紫護リノンよ? もう少し、気を使いなさいよ」 「あー……うん。俺の背中に隠れて」 能力で人目をカヴァーできると豪語していたのは、一体なんだったのか。 とはいえ、背中にぴったりと密着されるのは嬉しいので良しとする。 「部屋まではどのくらいなの? このまま歩く? 電車? 人目がアレなら、タクシー捕まえるけど」 ちょうど横断歩道を信号待ちしているところに、“空車”表示のタクシーが通りかかる。 「その前に寄りたいところがあるんだけど、いい?」 「いいよ。そこって、近いの?」 「ええ、一瞬で着くわ――」 「――――あ」 まったくの不意に片足が地面から離れた。 俺はわけもわからず足をもつれさせて半回転する。 横断歩道に身を乗り出し、転ぶ瞬間に振り向いた。 「地獄っていう素敵な場所よ」 ――両腕を突き出したままのポーズで、満足そうにリノンが笑んでいた。 「危ッ――――!」 跳ね起きるのとタクシーが通り過ぎるのは、まったくの同時だった。 ほんの僅かでも遅れていれば、高速回転するタイヤが俺の頭を泡みたいに弾き飛ばしていただろう。 「おい、おいおい……今の何?」 「冗談よ」 危うく死に掛けた俺に、こどもの悪戯のように言ってのける。 一体、どういう神経をしていればそんな顔ができるのだろう。 「冗談じゃなくなるとこだったし、すごい目立っちゃったよ。髪の毛まとめて抜けたしさぁ……」 「だから冗談だって――――あっちに走りましょう?」 殺す気で背中を押したのか、それくらいで死なないとわかっていたのか、真意の程はわからない。 理由は後で問いただすことにして、この場を離れることにした。 「ここでいいわ……はぁ……はぁ……」 駆け込んだのは、いつかの路地裏だった。 滅多な事では人が来ないだろうから話をするには都合はいいが、今を代表するアイドル様が来るべき場所とは思えない。 「“《イデア》〈幻ビト〉”って発作的に人を殺したくなる病でも患っているの?」 「ちょっと……あれだけ走ったんだから……はぁ……少し休ませてよ……」 「大丈夫……?」 「うるさいわね、オトコとオンナは身体の作りが、違うんだからっ」 荒々しい呼吸を繰り返し息を整えるリノンからは、余裕たっぷりの瀟洒な雰囲気は消え去っていた。 「んー……とりあえず、冗談でも殺そうとするのはやめてね?」 「……さて……一番《・・》〈濃い〉のは、この子ね……」 息切れが落ち着いたらしいリノンは、今度はなにやら思案を始めている。 「調子も悪そうだし、帰ってしっかり休んだ方がいいよ。部屋には今度お邪魔するからさ」 「そうさせてもらうわ……わたし、先に行くから。表に出るのは少ししてからにしてね」 「そっか……こんな所から一緒に出るところ激写されたらマズイもんね……?」 自分で言ってて、しっくりは来ていない。 全力疾走していたとはいえ、裏路地に入るまでに写真の何枚かは撮られていておかしくない。 今更になって気にすることだろうか……? 「バイバイ」 「ばいばーい」 なんだか、最後まで良くわからない幕切れだった。 リノンの目的は俺をここに取り残すことで達成されたのだろうか。 部屋の話はどこへ……? 「…………気を取り直して、なるちゃんと遊ぶかな」 ポジティブに気持ちの切り替える。 なるは占い屋を開くって言ってたし、きっと寂しがっているだろう。 ハンバーガーの差し入れで機嫌を直す作戦を考えついたので、まずは繁華街へ―――― 「兄様」 「――――――――」 それは、俺のあらゆる予定をキャンセルさせられる、たった一つの声音だった。 「こっち向いて」 この瞬間に俺が抱いた想いは至ってシンプル。 “とうとう、この時が来た”――――プラスでもマイナスでもない、来るべき運命に従った。 「やっぱり兄様だ」 そこに居るだけ俺を華やかな気分にさせる大事な妹が、いつものように慎ましく立っていた。 「結衣……家から出てきたんだ……」 「ねぇ、こんな所でなにをしているの?」 「さぁ……おまえを、待っていたんじゃないかな……」 「ずっと……こんな時が来るのを、待ってたんじゃないかな……」 結衣が後ろ手に握っている物の正体は、鈍色の光からなんとなく想像できる。 ゆるやかに心拍数が下がっていくのは、俺の覚悟の完了を示していた。 「結衣……」 散歩のような気軽さで距離を詰めてくる結衣から後ずさる必要も、逃げる必要もなかった。 この時点で俺は、脳裏を過ぎった様々な可能性の束をまとめ上げ、結局のところ動くことができないのを悟っていた。 「……成長したよな…………どこに出しても恥ずかしくない、いい女だよ……」 「兄様、プレゼントがあるの。そこを動かないでね」 「……ああ……何かな……」 下されるであろう審判の予想が大幅にズレる事がないとわかっていた。 結衣が歩調を早めたのは反響する靴音でわかったし、華奢な力を増幅させる為の助走であることもわかっていた。 ――――わかっていても、俺は動かない。 「――――ッ!!」 太腿に走った痛みよりも、噴き出した鮮血が結衣に掛かっていないことに安堵した。 不衛生な路地に膝をつき、床に流れる真っ赤な血を眺めると、急速に現実感が押し寄せた。 「現実に起きている……」 血だ。 俺の血液。 体内の3分の1を失うと致命傷になる体液。 それは大きく分けて3つ存在する可能性のうちの1つが消えた事を意味していた。 「喜んでもらえたかな? 私からのプレゼント♪」 愛情込めてつくったお菓子の感想を聞くような無邪気さ。 「はぁ……ぐ……っ」 ナイフに肉を断たれるのは冷たい感触だったが、苦しみは感じなかった。 嬲り殺しにされている犠牲者の思考と掛け離れているのは重々承知で――俺は確かにホッとしていた。 これで……終わってもいいのなら……。 「ごめんな……結衣……」 「あれ……命乞いするの早くない? 逃げたり騒いだり、すると思ったのに」 「……プレゼントは、これ一つかな?」 この世でたった一人の血の繋がった妹になら――――命を奪われることに文句はなかった。 理由にならない理由で、こんな時間にこんな形で一生を終わらせられても、構わなかった。 俺と今日子さんの持論による殺人の正当化なんて度外視。 ――結衣の行動理由は全てにおいて優先されるのだから。 「もっともっとあるに決まってるじゃない。最初に脚を狙ったのは、動きを鈍くするためなんだから」 「サクッと」 「――――ッ!!」 反対の太腿にも凶刃が振り下ろされた。要領は同じ。痛みも同じ。 「この状態で柄をひねると、中の神経がズタズタに破壊されて、二度と歩けないようになるんだって」 「へぇ……知恵も、付けたんだね……」 「兄様で試させてねっ」 結衣が、こんなに残虐なわけがない。 だからほぼ100%――――目の前の人物は結衣ではない。 だからといって、手を上げることはできなかった。 「――――見つけた」 刹那――光から切り離された狭い路地に深い闇が満ちた。 煌めく一等星のような点が残影となり、物理法則を無視した突風となって通過した。 「きゃぁあぁああぁぁぁッッッ!!」 舞い上がった粉塵に、反射的に瞼を閉じる。 再び瞼を持ち上げた時には、結衣は先日の俺のようにバケツの山に埋もれていた。 「だから人は嫌なのよ」 「どいつもこいつも――わたしを舐めたらどうなるかさえ、本能で感じ取れないんだもの」 躊躇なく血溜まりに脚を踏み入れたのはモデル体型の美少女、リノンだった。 しかし彼女を包む空気は華やかではなく、黒い濃霧のような 《ダークマター》〈この世に存在し得ない概念〉をまとっていた。 「あまりの怒りで、わたしの心は隙間だらけ。漏れだす感情の矛先は、どちらさんに向けようかしら」 「……帰って眠るんじゃなかったの?」 返事はなく、冷たい視線が俺を射抜いた。 「わたしとのデートをすっぽかすなんて大罪を犯しておいて、そのていどの怪我で済んで良かったわね」 “そのていどの怪我”とやらを眺める。 さっくりやられた両腿からは絶えず血が流れつづけていた。 「質問に答えて。優真、あなたはここまでわたしに連れて来られた。間違いない?」 「ああ……ちょっと走っただけで息切れするリノンに、ね」 「質問は終わってない。優真、あれがあなたの妹だと言うのなら、ナイフを持ち歩き、兄の脚を刺すのが趣味の変態で間違いないのね?」 「…………さぁ」 「さぁって」 「結衣は……反抗期、じゃないかな? 刃物は……自衛手段の一つっていうかさ……」 「ああそう。刺して笑うやつを妹と言い張るのね。あれが何らかの“力”――変身能力のようなものを用いた偽物だとは、認めないのね」 「この後に及んであなたは、気づかない振りをし続けるのね」 …………少し、疲れた。 「……リノンには、関係ないだろ」 「いいわ。わたしは、わたしの不可侵領域に土足で入ったあいつに、死ぬより苦しい地獄を味わわせるだけ」 「いたたっ……今のは一体……」 「な、なんでここにリノンが……それにこの“力”……あいつも私と同じ能力者!?」 「わたしと入れ替わって何がしたかったのか答えてもらうわよ」 「ひっ!!」 恐怖に顔をにじませた結衣は、一目散に出口へと駆け抜けていった。 「つくづく救えないわ。人間にとっての全速力は、わたしにとって歩くような速度だというのに」 「………………」 “《エンゲージ》〈契約〉”によって治癒力の向上したとはいえ、脚の回復にはしばらく掛かるのが感じ取れた。 立ち上がることのできない俺は、リノンの行く手を阻むことはできない。 「――――ちょっと」 だから、疾走の気配を見せるリノンの足首を無言でつかんだのは、単なる悪あがきだ。 「……ふざけている場合じゃないんだけど」 「………………」 跡が残るくらい強く足首を握り、意識がある限り離す気がない事を伝える。 超最強の頂点を自称するリノンは、さすがその通り、慌てず騒がず出口を見据えた。 おそらく、表へと逃げていく結衣との距離を正確に図っているのだろう。 射程距離に入るまで猫が逃げ出さないように、急がずとも追いつけると判断したようだ。 「十中八九、あいつは“《フール》〈稀ビト〉”。それもタネがわからないと苦戦する厄介なタイプ」 「何度でも言うわ。あれは偽物。私の仕事の範疇――捕縛の対象なの」 「………………」 「優真を狙った理由はわからないけど、親しい者に化けて抵抗力を失わせられる汚さと賢さは持っているようね」 リノンの呼吸が森林浴をするようにゆったりとなり、同じ速度で瞳から感情が消えていった。 「勘違いしないで優真。あなたへの失望は、あの偽物への怒りより僅かに小さいだけ」 「こんな醜態を晒す輩にプライベートを削ったことを、早くも後悔しているところよ」 「さぁ、離して。わたしがその腕を折るよりも前に」 数秒後、リノンが何の躊躇もなく俺の腕の関節を反対方向に折り畳むだろう。 「洗脳とか、催眠術でもいい……知らずにやってるかもしれない…………もし、万が一、本物だったら……おまえ」 「――――ッ!!」 「責任、取れるのかよッッッ」 全力を注いだ腕に、足首の軋みが伝わってきた。 「…………………………責任………………なにそれ?」 「……ッ!!」 「……ッ!!」 視界にノイズが走り、堪らず瞬きをする。 と――――喪失感。 「くっ……こんな時に……」 「チィ……! 《スイッチ》〈強制変更〉か」 「…………行かせない……」 「あっちもこっちもか。ったく、嫌ンなるぜ……」 「リノン……?」 オペ室でメスを入れられたように開いた肉の裂け目に、リノンは笑顔で指を突き入れていく。 「寝とけ。可能性を摘むのが、私様たちのオシゴトなんだぜ」 肉を直接えぐり出されるのは、ズグズジュッという意外なほど陳腐な音だったが、異常なほどのショックだった。 口が裂けるほどの絶叫を上げたつもりが、そんな暇もなく俺の意識は吹き飛んでいた。 動かなくなった“山”を雨晒しで泳いでいた。 “不幸”が積み重なって築かれた“山”。 作業のようにそれらを掻き分ける。 ひたすらに。 ひたぶるに。 ひたむきに。 それしかできなくなってしまった機械のように掻き分ける。 全ては、心を繋ぎ止める為だったのかもしれない。 探しつづける事が既に、微かに残った自我を保つために行為になっていたのだろう。 それらは水を吸い、重く、臭く、邪魔な障害物でしかなかった。 探しものも障害物の一つになっていないことを祈った。 足場にしている腐敗した脆い“山”が崩れると、“山”から転げ落ちた。 何度も。 何度も。 転げ落ちては、屍をつかんで登り直した。 赤いナニカと黒いナニカとよくわからない液体にまみれながら繰り返した。 “山”の麓から眺めている人がいることには最初から気づいていた。 その人は手を貸すでもなく、話しかけるでもなく、事の顛末を気にするでもなく、ただ漠然と景色を堪能するように立っている。 即ち、無関係を意味するに充分な態度だった。 この“山”に関係者が眠っているのだとしても、傍観者に徹するのであれば無関係者だった。 ――――祈っていろ。 呪詛が過る。 ――――指を咥えてみていろ。 呪詛が膨らむ。 ――――諦めない、逃げない、祈らない。 ただ黙々と、自分だけを信じて“山”を泳ぎ続けた。 あんな形で気絶したからだろう、久しく見なかった頃の夢を見た。 俺の心が不安定だった頃――――ポジティブ精神の素晴らしさに目覚めるまえにお世話になった夢だ。 「やんなっちゃうなぁ。普通、アイドルが脚に開いた穴に指をねじこむかよ」 筆舌に尽くしがたい痛みだった。 “《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”との戦いで味わった激痛でさえ気を失うことはなかったのに。 「いつつ……おお、凄い……」 心臓の弱い人が見たら卒倒しそうなエグい傷口だったのだが、縫合もなしでほとんど塞がっていた。 「便利っていうか、なんていうか。こうして見ると、人間以外のものになったって実感が湧くなぁ」 痛みは残るが、しばらく休んでいれば歩けるようになるだろう。 「リノン……怒ってたな……そりゃ怒るよな……あんなの、結衣の偽物に決まってるんだし」 電話を掛けに行った後からずっとリノンはおかしかった。 言ってることはチグハグで筋が通らず、冗談交じりに信号待ちで背中を押した。 あの時から“偽物”が“リノン”と入れ替わり、そして“結衣”と入れ替わったのだろう。 「間違ってるのは俺だよなぁ……」 「……その声は……ゆーまかー?」 「え? 今日子さん……?」 間延びした気の抜けた声で、居酒屋の暖簾でもくぐるかのようにひょっこり顔を出してきた。 「偶然だなぁ。こんなとこで何をしていたのだ。新しい覗きスポットか何かかー?」 偶然――――? 「ストップ。一旦、整理したいからワイン箱の前で止まって」 「ほー? 私に命令をできる身分だったかー?」 「こっちにも事情があってね。今日子さん、こんなとこって言ったけど……今日子さんこそ、どうしてこんなとこに入ってきたの?」 今日子さんが一瞬だけ、意表を突かれたような表情をしたのを俺は見逃さなかった。 「私が何処に行こうが、何をしようが、私が責任を持つんだ。私の勝手だろーが」 「素直に答えられないって事は、ほぼ認めているってことかな?」 警戒レベルを上げると、今日子さんはわけがわからなそうに手を広げていた。 「今日子さんが今日子さんだっていう証明をしてみてよ」 「水瀬今日子。職業“《クリアランサー》〈片付け屋〉”。好きなもの女の子(美少女限定)。これでいいかー?」 「なーんだ、本物じゃ――――いや、まだわからないな」 一度ひどい目に遭ったからか、今の俺は冴えている。 仮に、記憶をあるていど共有できるとしたら、状況は変わってくる。 「やるな。まんまと信じるところだったぞ」 「何の遊びか知らないが、さすがに説明ナシじゃついていけないぞー。私にもわかるように教えてくれないかー?」 「もう俺を弄ぶのはやめてくれ。身内に化けられるのは気分が良くないんだ。こんなことをする理由を教えてくれよ」 「化ける――――?」 「これは、どういう状況だー?」 同じ声音。同じ相貌。表から現れた人は、コピーのように今日子さんと一致する容姿だった。 「お、おー! おーーー! 初めまして、私のそっくりさん。ゆーまはこの事を言っていたのかー!」 「ゆーま。状況を説明したまえー。測ったように服装が同じのそっくりさんなんて、いるはずがないだろー」 「おおー、賢いなー。言われてみればそうだー。私のストーカーも大概にしたまえよー?」 「つまりキミは……偽物ということになるなー」 片方は、物珍しそうな顔で色んな角度からそっくりな自分自身を眺めては感嘆の息を漏らしている。 片方は、そっくりな自分に警戒するように睨みつけ、距離を取っている。 どちらもが、今日子さんの取る正しい行動に思えてしまう。 「訂正したまえよー、偽物はキミの方だろー? 本物だっていうなら、私の分まで仕事をしたまえよー」 「確かにキミが私と同じだけの仕事量をこなせるのならば、雇う価値はあるなー」 「作業効率は二倍だなー。早速、契約の話だが……」 「待ちたまえよ。何故、偽物が偉そうにしているのだー? 社長は私だろー?」 「むむー」 「(どっちだ……? どっちが本物の今日子さんなんだ……?)」 確信が持てるまでは、どっちに手を出すわけにもいかない。 育ての親に殴りかかる事なんて、絶対にしてはならない。 「埒が明かないなー。ゆーまに決めてもらうとするかー」 「それでいいぞー、ゆーまが私を間違えるはずないからなー」 「ただ指差しで当てられてもおもしろくないので……」 「――――じゃーん♪ 街に出たついでに買ったウイスキー♪ 落とすなよー」 投げ渡される、ポケットタイプの小瓶。 これをどうしろというのだろうか。 「偽物と思う方の頭にこれをぶっかけて、オマケでもらったこいつで――――」 投げ渡されたのは、どこにでも売っている100円ライター。 「燃やしちゃう、ってのはどうだろーか?」 「ゆーま、偽物の目的が見えたなー。私を殺して事務所を乗っ取ろうと言うわけだ。耳を貸すなよー」 「おやー? 『ゆーまが私を間違えるはずがない』と聞いたがなー? 舌の根も乾かぬうちに、自分の言葉を撤回するのかー?」 「最後まで自分の発言に責任を持って、有言実行したまえよ。本物さん」 「話にならない。この偽物は限度というものを知らないなー。どちらにしろ、ゆーまを人殺しにしてしまうではないかー」 「本物さんは、ちょっと焦げたくらいで死ぬのかー」 これは“本物”からのヒントであると同時に、“本物”が飽きてきたからこそヒントが出たのだとわかった。 「いいよ今日子さん。せっかくのお酒を無駄にするのはもったいないでしょ」 小瓶を投げ返すが、今日子さんは笑いながらひょいと躱してしまう。 隣にいた今日子さんは地面すれすれの小瓶に《・・》〈右腕〉を伸ばすが、本来左腕で取るべき無理な体勢の為にファインプレーならず、壁に当たってガラス片が弾けた。 「馬鹿ものー! 破片が刺さったらどうするつもりだったんだー!」 「この私に投げ渡すなんて考えられん。片腕の不自由な私を労りたまえー」 「――――――」 急激に心が冷えていくのが実感できた。 「何のために脚があるのだー。きちんと歩いて渡したまえー、安月給めー」 目の前のナニカがナニカを喚いていた。 半分以上が聞き取れなかった。 だが何も有益な事など言わないことだけはわかる。 動物以下の戯言は、耳に入らない。 「…………今日子さん」 「……ん」 「ごめんなさい」 「気にしてない。悪乗りした私も私だ」 「ちょっと……ちょっとちょっと待ちたまえよ。何勝手に決定してるのだー。偽物に騙されるような育て方はしてないぞー」 「もういい、しゃべるなよ。また同じことをされても困るから、捕まえさせてもらうよ」 脚の傷もだいぶよくなったし、ちょっと走ったくらいで息切れする奴を相手に遅れは取らないだろう。 「おい……近づくなゆーま……育ててやった恩を忘れたのか?」 「記憶もあるていど盗めるのか。いい加減、その姿はやめてくれ。気分が悪いんだ」 「まったくだなー。同じ顔がいると、落ち着かない。種明かしをしたまえよー」 「わ、笑うなっ! こんな出来損ないに化けるんじゃなかった。せめてマトモに腕が動くような奴にすれば……」 デキソコナイ――――? 「ごぅヴェッ!!」 「はい、弱すぎる。偽物」 家族への誹謗中傷が俺の心を極限まで獰猛にさせた。 気づけばよく回る口に指を突き入れ、襟を掴んで倒すのと同じ要領で“口の内頬”を掴んで強引に倒していた。 「ググググぅ、ァがががっ――――!! ぇほッ! ゲほッ!」 薄汚れた地面にもんどり打った偽物は、寝返りを繰り返すという惨めをさらしていた。 本物なら、口に指を入れた瞬間に指が喰われていただろう。 『食べていいから入れたんだろー?』とか、容赦なく肉ごと骨ごと噛みちぎるのが今日子さんだ。 「情けなくて、涙が出そうだよ」 こんな結果になるまで、見分けがつかなかった自分が許せなかった。 こんな茶番に付きあわせてくれた“偽物”に腹が立って仕方がなかった。 大切な人と同じ姿に化けられ、倒すしかない状況に追い込んでくれたことも、反吐が出るほど嫌だった。 「ど、どうして……ゆーま……間違えているぞー。うぅ……痛い……そっちが偽物なのに、ひどいー……」 「わかってないな。困ってたのは俺だけなんだよ」 「今日子さんはおもしろい見世物だと思って、敢えて合わせていただけだ」 「その気になったら、おまえなんか喋るより前に地に伏してる」 「うぅ……どうして私がこんな目にぃ……考えなおしてくれー、ゆーまー。私が本物なのだー」 「…………」 「こんなのはさ、今日子さんにとって大事件でも何でもないんだ。 《おはじき》〈子供の遊び〉みたいなものだから」 「――――くだらない遊びを盛り上げる為に、身の潔白を証明する為だけに、抱えた《ハンデ》〈欠陥〉を喋ったりするような人じゃないんだよ」 今日子さんの左腕は動かない。 いつもブラりと垂れ下がってるだけのお荷物で、お飾りだ。 《ハンデ》〈欠陥〉を公言することで自分を弱者と認めさせて保護してもらったり、酒の席で笑い話にする人もいるけど、今日子さんは誰にも言わない。 そのことで誰かに頼ったり、相談したのを見たことはない。 俺だって言われたことはないし、聞いたこともない――――一緒に生活してるうちに気づいたのだ。 「ゆーま」 「止めないで」 「はぁ……珍しく怒っているなー。感情のコントロールは“《クリアランサー》〈片付け屋〉”にとって基本中の基本だからなー」 今日子さんは表に繋がる反対側の出口を塞ぐように壁により掛かり、俺と偽物に決着をゆだねた。 「で――――やって良いことと悪いことの区別もつかないの?」 なるを家族に向かい入れた時、左手で握手しようとした時だって必死で止めた。 今日子さんが反応に困るまえに、行動した。 だけど――――今、こんなくだらない奴に、それを馬鹿にされた。 「今日子さんの前で、言わせやがって。どうしてくれる?」 沸騰した泡が弾ける感覚だった。 感情の矛先がここまでくっきりはっきりしていると、わかりやすくていい。 一発では足りない。 収まりそうにない。 それでも、できればあの顔を殴ったりはしたくない。 「立てよ、人の傷みがわかんない化ケ物。触れちゃいけない部分に触れられることがどんなに辛いか教えてやる」 「うるさいんだよ気持ち悪いマザコン野郎。偉そうに説教垂れるな」 “偽物”は口中に溜まった血混じりの唾を吐き捨て、極めて鋭い眼光で俺を睨んだ。 「年に一度の厄日だわ。化けた相手がことごとく普通じゃない。紫護リノンも、水瀬今日子も、頭のおかしい奴ばかり」 「極めつけに狂ってるのは――――おまえだ、水瀬優真」 「ああ、そう。否定はしないけどさ……俺をどうしたいんだ? 殺そうとしていたみたいだけど、恨みを買った覚えはないんだよね」 「狂った害虫を駆除するのに、恨みもなにもないわよ」 「何だって?」 「あんなちっぽけなコミュニティの中で持てはやされていい気になって、女をとっかえひっかえしてる正真正銘、最低のクズ野郎が」 「…………」 「私と結婚を前提に付き合っていたのも、お前みたいな狂った屑だった」 「は?」 「私が子供を生めない身体と知った途端に態度を変えた」 「私くらいの年上が包容力があっていいって囁いてくれたのも、毎月のお小遣いが欲しいだけの嘘だった」 「顔の良い若い男なんて、みんな心の中は一緒でしょ。肉欲と金と刺激を求めて、女を騙しつづける」 「気持ち悪い……おまえに比べたら、便所で飛び跳ねる虫すら可愛く見えてくる……」 聞いてもいないのにつらつらと我が身の不幸を語りだす。 「そのどうでもいい犯行理由を根底から覆して悪いんだけど、俺、童貞だから」 「あいつもそう言ってた。一緒だから平気って。嬉しかったのに。24歳まで純血を守り通した私を抱いてくれて」 「でも全部ウソだった――――私は深く傷ついたッ!!」 「……で? どうするの? どうやって、どうなったら、納得のいく結果なんだよ」 「死ね。この力で、おまえみたいな人間の皮を被った害虫を葬る。今までしてきたようにね」 「頑張れなかったんだね」 「なによっ」 「この世界で――――“ナグルファル”で生き残った人は、大なり小なり傷を負ってるのにさ」 「誰か一人に裏切られたくらいで、ヤケになって……新しい恋に向かおうとしないで、周りにあたってさ……」 「なんかそれ――――負けを認めてるようなもんじゃない?」 「うるさい。黙れ家畜。棚のコレクションが増えるわ。何十人と寝たかわからないおまえの真っ黒な性器を、瓶に入れて保管してあげる」 「はぁ……」 「この姿になると――――刺したって文句が言えないのよねぇ? 兄様♪」 「さっきまでは、だろ……」 その姿を見るだけで心拍数が急上昇した。 「今まで殺したバカはみんな、不意をついて刺されると這いずって逃げたのに……おまえは受け入れてた」 「どうやら兄様は頭のネジが外れてるようね♪」 「もし、万が一、極わずかの、奇跡的な確率で――――本当に本物だったらって思ったら、手なんか出せるわけがない」 「死ね♪♪」 振り下ろされた素人丸出しの凶刃は楽に受け止められたが、肉迫した妹の姿に動揺して下がるほかなかった。 「本物の妹は、兄様を殺す趣味があるの?」 だから何度も、その可能性は否定できないと言っている。 結衣が俺と会って俺をどうするかなんて、結衣にしかわからない。 そうあって欲しいという、願望かもしれないけど……。 「仮に、殺そうとしてきたとしても……この世にたった一人の大切な妹がそう考えたなら、仕方ないだろう」 「言ってる意味がわかんないんだけど? 妹になら殺されてもいいって、マザコンでシスコンの救いようがない変態趣味ね」 俺はさっき“偽物”に、“前へ進まない事”を負けだと言った。 しかし――――いつまでも感情の処理から立ち往生している俺も、同類ではないだろうか。 「――――ぐッ」 身体がおかしい……。 喉が乾く。脚が重い。動悸が激しい。 予兆のように身体がじわりじわりと蝕まれていく。 「はぁ……はぁ…………はぁ…………やべぇ……」 頭痛、耳鳴り、息切れ、その他多くの面倒な症状までが俺を襲ってくる。 「虫唾が走るのよ。人なんてすぐに裏切る。こどもを生めない身体とわかった瞬間に、あの男が逃げたように」 「はぁ――――はぁ――――だから……大なり小なり……誰しもが、ハンデを背負って生きてるって……はぁ……はぁ……」 「マゾな兄様♪ 私に刺されるのが嬉しくて、もう興奮してきちゃったの?」 「はぁ――――はぁ――――――――ぁッ――――あッ――――――――」 「やっぱり兄様にとって、この姿は弱点みたいね」 「く……結衣に成りすますのはやめろ……」 「やめなーい♪」 後ずさる。その分だけ追ってくる。追い詰められる。 結衣の形さえしていなければ、思う存分やれるのに……。 「くそ……」 一度、距離をとって―――― 「待ってっ、私を置いて行かないでっ! 兄様ぁっ!!」 「――――――――――――ッッッ!!!」 その言葉は、脳内で山彦のように何度も反響された。 蝕む音量は跳ね返る度に強くなる。 遠く海の底から届いたような錯覚をともなって、どこか懐かしい場所へと俺を誘った。 「――――あ」 何かが起こっていた。 「ああ……」 違う。何かを起こしたんだ。 他でもない俺が――――力の制御もできない甘えん坊が、自分勝手に暴発したんだ。 「ひっ……あっ…………あぁっっ」 尻餅をついた偽物の結衣は水たまりをつくり、アンモニア臭を立ち上らせている。 戦意喪失の原因は、震える幼顔から数ミリ外れた位置に空いた大空洞だろう。 「ば、化ケ……モノ……っっ」 都合、3棟を貫通するトンネル状の破戒の楕円。 今まで以上に凶悪な力が発現したのだとひと目でわかった。 「――一体、いくつ恩を売られるつもりだー?」 あまりにも近くにいすぎて気づかなかったが、今日子さんが目の前に立っていた。 ただ立っているのではなく、煙を昇らせる手で俺の腕を握っている。 「感謝したまえよ。間一髪――――殺人者にならずに済んだ」 「……今日子、さん……俺……」 「心配いらない。ゆーまを追い詰める正体の察しは、大体ついた」 「…………はい……」 「何も言わなくていいのだよ」 どんな言葉より魔法のように浸透する今日子さんの声に優しく包まれる。 今日子さんは何も聞かず、背中を撫でてくれた。 俺の暴走を止めた今日子さんの人間離れした強さについて、俺も聞かなかった。 大事なのは、俺が殺人を“やらかさなかった”ことであり、今日子さんが無事だと言うことだけだった。 「ど、どっちも……化ケ……モノ……ありえない……こ、殺される……っっ」 「遊び半分で刃物を持って失禁かー。目も当てられないなー」 「私の家族に関わりたいなら、それ相応の覚悟をしたまえ。覚悟がないなら――――速やかに消えたまえ」 「ひぃぃっ!! こ、腰が抜けて、た、立てな……っ!」 「脚が動かないのなら、逆立ちしたまえよ。それもできないなら、ほふく前進をしたまえよ」 「はぁ……はぁ……はぁ……」 「それにしても……切るなら喉だろー」 「首に当てて、相手の頭を押し下げる。首の皮膚がたるんで、頸動脈が筋肉に隠れず刃に届くようになる。力なんていらないのだよ?」 「な、何を言って……」 「わからないかー? 私は出された物は残さず食うタチだって話をしているのだよ」 「そ、そんな……ヤバい……こいつら、おかしい……ふ、普通じゃない……」 壁を支えによろよろと立ち上がった結衣の偽物は、涙ながらに出口へと向かっていった。 「今日子さん……」 「む、むー、建物の補修に掛かる額が、ウチが弁償できる限度を超えているなー」 「逃げるが勝ちだー。歩けるか、ゆーま」 「もちろん」 口では強がってみせたが、実際のところ“《デュナミス》〈異能〉”を使った反動からか立っているのがやっとだった。 「仕方のない甘えん坊だ」 「あ……」 俺がどんな状態なのかを察した今日子さんは、肩を貸してくれる。 「今まで以上に、私に貢ぐのだぞ」 「それはもう、よろこんで」 『もうすぐ帰るから、ベッドの上で全裸で正座待機よろしく』 何度目かになる、はぐらかしメールを見てから私は携帯を閉じた。 「ぶーぶー。結局、今日のデートはナシになっちゃったし、やってられないわ」 朝帰りじゃないからいいものの、リノンと仲良くやっていたと思うとおもしろくない。 帰ってきたらこの埋め合わせはしてもらわないと。 「私が社長だー、みんな働けー、私に貢ぐのだー」 「…………遅いぃ……」 帰ってきた時、真っ先に『おかえり』って言いたくて玄関のある事務所スペースで待っているというのに。 そりゃ、一人寂しく社長ごっこもしたくなる。 「お腹空いてきちゃった」 「蜂蜜揚げパンのストックだけはいっぱいあるのよね」 もぐもぐもぐ。 「……あいつの商品ってだけで、なんかムカつくかも…………」 「あ――――そうだ」 一袋完食し、ゴミ箱にビニールを捨てながら奥へ歩く。 「結衣ちゃん? いるー?」 昨日から何度かチャレンジしているけど、反応はない。 「ねぇ、お姉ちゃんとお話しない? 扉越しでもいいから。しりとりでもしようよー」 「…………むぅ」 ここまで徹底して拒否されるとさすがに傷つく。 「お兄ちゃん、もうすぐ帰ってくるって言ってたよ? 今日こそは、一緒に御飯食べようね」 返事がなさすぎてつまらない。 「ゆーいーちゃーん?」 建て付けの問題か、ノックがいささか乱暴だったからか、鍵を掛け忘れて眠ってしまったらしい扉は僅かに開いた。 「これはひょっとすると……ひょっとして……寝顔チャーンスッ」 とにかく会って話さなきゃ関係は始まらない、玉砕覚悟でGO! 「ありがと……もう自分で歩けるから」 今日子さんに肩を借りて事務所の近くまで戻ってきた。 本当は少しまえから一人で歩けたけど、こんな時くらい甘えてもいいかなと思った。 「しっかし派手に壊したものだなー。ひどい有様だったぞー」 「逃げちゃったけど、平気かな……? やっぱまずくない?」 「安心したまえよ、部下の不始末は社長が被る。現場でごたごたなるのが面倒だっただけで、建物の所有者には何らかの対応をしておく」 「さらなる負債を抱えて、ますます仕事に精が出ます!」 今日子さんは静かに頷くと、リハビリ中の患者並の歩調に合わせてくれた。 「ゆーま。あいつが何だったのかはどうでもいい。おまえの“力”が何かも知らない」 「あ……うん。さっきのは……事故っていうかさ……」 「いいのだ。聞こえていたし、把握できた。私の考えは、あながち見当違いではないだろう」 「いつ頃から、引きずっていたんだ?」 育ての親に隠しても無駄だとわかった。 「少し前から――――独りになると、さ」 「そうか……そうだったのか……」 俺の乾いた笑みの意味を、今日子さんは正確に飲み込んでくれた。 「なるには、その方向で話を合わせてやればいいのか?」 「いや……いいよ。もういい。今日子さんが何かする必要はない。聞かれたら、俺に振ってくれればいいから」 「…………おらー」 「――――ぴゃ!?」 男の俺が飛び跳ねるほどの平手打ちが炸裂。 「沈むなー。我が家でそんな顔は許さんぞー」 「そ、そうだね……ポジティブポジティブ!」 あの日した自分勝手な誓いも、今日だけは特別な感覚だった。 「ただいま帰ったぞーなるー」 「ダブルフォーメーションでがっつりセクハラしちゃうぜー」 出迎えの為か、なるは玄関の前で待っていた。 「…………ねぇ……優真くん」 「おー? なるが無視したぞー。家主である私の挨拶を無視とは何事だー、ちゃぶ台ひっくり返すぞー」 「とりあえずなるちゃん、水バケツ一杯まで持ってきて。俺も今日子さんも喉カラカラ」 「そんなことより、聞きたいことがあるの」 なんだか真剣な様子にアテが外れた。 メールの応答から、てっきり怒られると思っていたのに。 「結衣ちゃんの部屋、鍵掛かってなかったから……中にいると思って、入らせてもらったわ」 らしくない真顔の理由は、その一言だけで充分わかった。 「ベッドも家具もない、仕事用具が積まれた物置みたいな部屋だった。人が住んでる形跡なんて、なかったわ」 「オッケー。水、飲んだら話すからさ、水ちょうだいよ水」 「結衣ちゃんの事になるといつもそうやって誤魔化す。今日子さんには、聞く暇もなかったし」 「…………」 そう。なるが今日子さんに聞いていれば、もっと早く結論に辿り着いただろう。 今日子さんに口止めはしてなかったし、そもそも相談もしていなかった。 つまり、遅かれ早かれ、この時はやってきたのだ。 「家族の間に嘘はなしでしょ? これって、大事なことじゃないの?」 「私、一目見たこともないのよ? それどころか、あって自然なものが何もない。部屋はもちろん歯ブラシも靴も。こんなのって変だわ」 「なる、リビングで話を聞こうじゃないか。優真もそれでいいだろう」 「優真くん、はっきりさせておきたいの」 今日子さんの制止も振り切って、なるは俺の瞳をまじまじと見た。 “《エンゲージ》〈契約〉”の時と同じ。 真剣に俺のことを思ってくれている頼れる顔。 「いいよ。何」 「《》〈結衣ちゃんって、本当に――――《・・・・》〈いるの?〉」 “ナグルファル”を体験した人々は、大なり小なり、心に傷跡を抱えている。 「そんな顔しなくたって、ちゃんと妹様は、いるよ」 なるは、反射的に二の句を継ごうとする。 ちゃんと伝わっていない。 俺は証拠を示すように、軽く胸を叩いた。 「いるってば――――《・・・・・・》〈この中に、さ〉」 それから俺は、あらゆる不幸を跳ね飛ばすくらい前向きに、笑った。 「おまたせ。珈琲できたよ」 「あ、うん。ありがと」 なるは珈琲にミルクを沈める。スプーンをくるくると回すとスペードのような模様になった。 「これってマスターと合作したっていう……」 「鼻がいいね。その通り、妹ブレンド」 「昨晩、優真くんの部屋にはコップが2つあって、片方が丸々残ってた。今にして思えば、一口も飲んだ跡がないなんて変だわ」 「結衣はさ、俺の設定では珈琲党だったから。淹れてやると、喜んでくれた」 黒い水面に浮かぶ適量の油分は、ネルドリップの証。 珈琲は俺の好物であり、結衣の好物。 「ずずずっ――――うまいっ! 気品があるっ!! 珈琲農園魂を感じるっ!!」 「…………」 なるは嗜むように珈琲で唇を濡らした。 俺が話しだすのを、いつまでも待ってくれている。 それはなるが、俺のことを大切に思ってくれてるからだ。 「今日子さんは? シャワー?」 「聞いたところでこれからの生活に影響するような事はないし明日からも働いてもらうからって金庫に頬ずりしながらお酒を飲んでたわ」 「今日子さんらしいなぁ」 もう一口、珈琲を含む。 何から話すべきかをまとめようとして、綺麗に順序立てることができないことに気づいた。 「優真くんのペースで、話してくれていいから。ちゃんとここで、全部聞くから」 ちくしょうって思った。 俺の周りには、良い人が多すぎる。 良い人に甘えるがまま、俺は浮かび上がる言葉を吐き出すことにした。 「俺と結衣は、物心ついた時から孤児院で生活してたんだ」 「なんでも、病院に設置された匿名でこどもを託せる場所に入れられてたんだって。赤ちゃんポストってやつかな」 「…………ひどい……」 「ううん。生みの親には感謝してるよ」 「どうして?」 「望まれなかった命だったとしても、きちんとした場所に“捨てて”くれたおかげで死なずに済んだわけだし」 「ハンパな育児放棄より、よっぽどマシ。育児に掛かる資金もあるていど一緒に入れられたみたいだし、結衣と血の繋がりのある兄妹だってわかる資料もあったみたい」 「……そっか」 というか、このご時世、特筆すべきほどの境遇でも不遇な生まれでもない。 説明するのに必要なければ、端折ってもいいくらいだ。 「結衣と離れ離れになったのは、あの日――――“《ナグルファル》〈7年前〉”の時だよ」 「孤児院の人に引率されてバスでピクニックにやってきたところで地盤沈下が起こって、横転したみたいでさ」 「こどもだったし、何が起きたかなんてわからなかったよ。雨で視界は悪いし、地形がメチャクチャに変動して、バスが宙吊りになって、みんな谷底に真っ逆さま」 「みんなって……」 「俺だけは運良く後部座席の窓が割れて、外へ逃げ出せたんだ。中から手を伸ばす結衣の小さな手も、つかむことができた」 「だけど放した」 「結衣は、真っ逆さまに落ちてった」 あっさりと告げる俺に、なるは開きかけた口を閉じた。 何か言うべきだと明確に思ったんだろうけど。 何を言うべきかは判断できなかった感じだろう。 「こどもの力じゃ、どうあっても支えきれなかったのかもしれないし、単純に滑ってしまったのかもしれない」 「でも、どっちでもいいんだ」 「助けられなかった“結果”は変わらないし、変えられない」 「……優真くん…………」 本当に、どっちでもいいんだ。 例えばなるが、今みたいに自分のことのように辛い顔をしても、しなくても。 どっちでもいい。 絶対に過去は覆らないのだから。 「バスから這い出た後はもう完全にパニック。頭の中は結衣の事でいっぱいで、別のルートでバスの落下地点まで降りていった」 「色んなモノの残骸があった。地獄があるならこんな感じだって、子供心に思ったっけ」 「死んじゃった人たちが無造作に積み重なって、“山”とかできちゃってて、狂ったようにそこに登って行って……」 「何も考えられなくって、力尽きるまで探したけど――――もう誰が誰だかわかんなかったよ」 絶望の耐性は、あの時に身についた。 「後から聞いた話じゃ、バスに乗ってたうちで生存者は一人だけ。俺だけだったみたい」 「…………つらい話をさせて、ごめんなさい」 「気にしないで。泣いてないでしょ、俺」 「特別に自分が不幸だとは思ってないよ。今を生きてる人たちは、大なり小なり語りたくない過去を持ってる」 むしろ、こんな話をされた側の方がつらい気持ちになるから。 優しいなるなら、余計に今みたいな表情になるから。 だから言いたくなかったっていうのも、若干ある。 「で……《・・・・・・・・》〈俺の見ている結衣〉の話だったよね」 珈琲で唇を湿らす。 安らぐ芳香。 あの頃の俺たちにとってはまだ、黒い水でしかなかった。 「最初はさ、時々、夢に出てくるていどだったんだ」 「そのうちに『結衣が生きてたら、どんな風に成長してるのかな』って考えるようになった。この時点で終わってるよね、色々と」 笑ってみせたけど、なるは何も反応してくれなかった。 「7年経った結衣は美人で、しっかり者で、ちょっぴり人見知りで、化粧も覚えて、髪型はこんな感じでって……」 「――――そんなふうに『もしも』の設定を付け足していったら、いつの間にか、本当に俺の周りを歩きまわるようになったんだ」 「最初は驚いたけど、妄想だって自覚はあったから、すぐに慣れた」 「話せるのは家の中限定だったし、消す方法もわかんなかったし、受け入れるしかなかったってのもあるにはあるけど」 「結衣はあたかも一緒に生活してるように振る舞った。俺もそれに合わせてた」 「趣味が被ってたのは、俺の妄想だからだろうなぁ。珈琲好きだし。リノン様好きだし。うん、貧相な発想だ」 「でもやっぱり妄想だから、リノン様の生電話には出られなかったわけだけどね。ははは」 「…………」 「依存症の一種なんだってさ、こういうの」 「外からは正常さを保ってるように見えて徐々に妄想の世界を自分の中に築きあげていく疾患」 「困難に直面する能力が低い人間が、現実に代わる《もうそう》〈虚構の世界〉を作り出して逃避する、きわめて人間的な病気」 「つまり、弱虫病だね」 「……優真くんは、それでいいの……?」 「結衣ちゃんの影を追い続けて――――幸せになれるの?」 「さぁ。どうなんだろうね。妄想は、妄想でしかないのはわかってる」 「いつか、どこかで生きてた結衣が……ひょっこり目の前に現れて、俺の想像したままの姿で『兄様』なんて呼ぶかもしれないけど」 「なーんて! 冗談だよ、冗談」 「…………」 「ちゃんと潮時はわきまえる」 「もうすぐ、7年の節目なんだ。失踪宣告――法律でさ、7年行方不明だと、死亡と見なされるんだってさ」 「“ナグルファル”の後はそれどころじゃなくって、その辺の処理もされてなかったから。今更だけど、一応の一区切り」 「…………そっか」 「こんな風に過去を引きずってさ、妹様の分まで必死で笑って生きようなんて思ってる奴なんですよ実際」 周りにいる似た境遇の人が、現実を見据えて仏様にお線香をあげてる時に、俺は妄想に逃避して……。 ホント、しょーもないやつです。 「…………私の告白をうやむやにした時に、優真くん言ってたよね」 「自分のことを『未練がましい妄想野郎』って」 「『吹っ切れた気になってるだけで、どっかで期待ばっかりしてるおかしいやつ』って」 「物覚えすごっ! ちょっと待って、“《イデア》〈幻ビト〉”って記憶力も人並み外れてるの?」 「女の子は、フラれた時の言葉は覚えているものなの」 「…………言っておくけど、『あの時こうしていれば』なんて気持ちは一切ないよ」 「もう結衣は7年経って、正式に死んだんだから。結衣を助けられなかった事を償う気はない」 「違うな。償いたくても――――挽回のチャンスをもらえる機会なんて、あるわけがないから」 “偽物”に刺された時は、ほんのすこしだけ期待した。 結衣が生きていて、俺を見つけ出してくれたんだな、と。 あの時――――俺が手を放した時に、結衣がどんな顔で落ちていったのか、思い出せる時が来たと思った。 「孤児院で結衣が書く俺の似顔絵は、いつも笑顔だったから」 「あいつの思い描いた“お兄ちゃん像”を保つには、尽くせる手は全部尽くして、最後までポジティブに足掻いて、大往生してやる。そんなふうに生きてきた」 「でも……今日限りで、結衣の事を考えるのはやめにする」 「結衣は、死んだ。もういない」 口にしてみると、意外なほど受け入れられる自分がいた。 「…………」 話の内容を咀嚼するなるを眺めながら、珈琲を一口ふくむ。 美味しかった妹ブレンドは、いつか浴びた雨のように冷えきっていた。 「優真くんの人生の分岐点となったのが “《ナグルファル》〈7年前〉”とわかった上で、私からも 一つ、話があるわ」 「これは私が“《ディストピア》〈真世界〉”で直接ナグルファルの夜を体験した時に感じたことなんだけど」 「ナグルファルの夜に“《イデア》〈幻ビト〉”は少なからず介入しているわ」 「……どういうこと?」 「7年前の《たなばた》〈7月7日〉」 「突如として“《ディストピア》〈真世界〉”を襲った破滅的な地殻変動と奇病の蔓延――――それらは真の解決を見ないまま闇に葬り去られた」 「事態を収束に導いた“《アーカイブスクエア》〈AS〉”には、リノンやその他、大勢の“《イデア》〈幻ビト”が所属しているっていうじゃない」 「ナグルファルの夜が……単なる自然災害じゃないってこと?」 「ちゃんと調べてみないことには解らないけどね。リノンの所属組織は“《フール》〈稀ビト〉”の研究をしているみたいだし、聞けば何かわかるかも」 「……いいよ、べつに」 「何がいいの? こうやって探っていけば、あなたたちを襲った不幸の真相にたどりつくかもしれないじゃない」 「今、世界には光が満ちてる。平和に水を差すような事は、知らなくっていい」 「占いの種類は豊富なの。専門外だけど、人探しに適した透視やダウジング占いだってある」 「そして“《イデア》〈幻ビト〉”や“《フール》〈稀ビト”には、私も知らないような“不可能を可能にする能力”がごまん〉とある」 「…………もういいって」 「もう結衣の事は済んだし、ナグルファルだって過去の話だよ。俺たちには今の生活がある」 「潮時なんだよ。うじうじすんのはやめやめ。なると今日子さんとの生活一筋で俺はやっていくよ」 いつまでも結衣の幻影に捕らわれていてもしょうがない。 もう吹っ切った。 今日限りで、終わりにしたんだ。 妄想の結衣が現れても、もう相手にしない。 「嘘つき」 「え? 何が」 「私は優真くんと、今日子さんと――――結衣ちゃんの4人で食卓を囲む事で頭がいっぱい。優真くんは、違うの?」 「でも結衣は――――」 「GAOOOOOOOOOOOOOOOッッ!! でもって言うなーーーーーーッッ!!」 なるちゃんザウルスが吼えた。 「ただでさえキラキラ輝いて見えた優真くんの笑顔が、それでも半分未満だったって知っちゃったんだよ?」 「結衣ちゃんと一緒にご飯を食べていた時の曇りのない笑顔は、もっともっと――――素敵だったんでしょう?」 「私と今日子さんだけじゃ、その時の笑顔には、届かないんでしょう?」 「そんなことない。なるちゃんと今日子さんがいれば、俺は――――」 「うるさいうるさいうるさすぎるぅうううっっっ!!!」 「なるちゃん……」 「妥協だらけの“一筋”なんか、いらないもんっ!!」 「最後まで自分に正直な優真くんでいてよっ! 優真くんが“真っ直ぐ”なら、私が“なんとかする”からっ!!」 「……こっぴどい言われようだなぁ」 頭ではなるを理解した気になっていたけど、完全に間違いだった。 なるが俺に抱いていた感情は、恋愛感情ではなかった。 恋愛は、相手よりも自分の幸せが先に立つ。 相手の本当の幸せを考えて身を引ける人は、恋愛なんか下手っぴだから。 俺が今日子さんにそうあって欲しいと願うのと同じ。 恋人に向ける感情ではなく、家族に向ける感情。 「今日子さんがなるちゃんを迎え入れたのは、ここまでわかっていたからなのかなぁ……」 「諦めずに頑張っていれば、きっと大丈夫だよ! 結衣ちゃんも無事に見つかる! 私の小説もベストセラーになるっ!!」 「ハッピーエンド!」 無根拠な荒い鼻息。 奇跡が起きても助からない状況だった結衣が生きてて。 自分の本が何故かベストセラー。 そんな馬鹿な事を――――“なんとかなる”って信じられるなんて……。 ――――ああ、でも。 忘れていた。 俺も、なると同じだ。 それこそ俺の持ち味だ。 それが唯一、俺のイイトコ、俺の“らしさ”。 「さっきから聞いてれば言いたい放題。それ、俺のポジティブだろ? 返してよ」 「ポジティブって所有権があったの、か・し・ら?」 「ありますよそりゃ。俺が現ポジティブ保持者なんだから、勝手に奪われちゃ困るんだよ」 「その意気その意気」 「これからもよろしくおねがいシャス!」 「シャス!」 「……せ、せっかく真面目な話してたのに空気の読めない《ネオウツボ》〈十二指腸〉ね」 なるのおかげで、気持ちの整理がついた。 このお礼は、ぐーぐー鳴り響くお腹に直接するとしよう。 「あー腹減った。なるちゃん、和・洋・中、何が食べたい?」 「んー……言わなきゃわかんない、か・し・ら?」 「全部もってこーい、ね」 ひとまずは、目の前にいる家族の笑顔のために、腕によりをかけて。 またも同じ夢だった―― 肉の焼け焦げた匂いが鼻腔を刺激する。夢であるにも関わらず、まるで足元から炎に焼かれているような現実感を覚える。 視界は私の意志を反映しない。指定された構図を眺めることしかできない。まるで映画を見ているようだ。 炎に囲まれ俯くひとつの影。その手からぽたぽたと鮮血が滴り落ちていた。 血の主は影の足元で既に亡骸と化している。 どうしてこんな事に―― 私は選択を誤った。世界は過ちを許すほど寛容ではなかった。 できることはただひとつ―― 結末を迎えるために、あるべき場所に還すために、私は全てを知らなければならない―― 瞼を開くと視界を覆うようにひまわりの顔が飛び込んできた。 「……何か用だろうか」 「おはよー、あかしくん♪ はいこれー♪」 「…………?」 息遣いが感じられるほど近づけられた笑みのすぐ横に、モミジアオイの花をかざすひまわり。 「…………」 「えへへ♪」 「…………」 「――!?」 跳ね起きるようにソファから身を起こす。 靴を履くことも忘れ、栽培している植物の棚に向かう。 「……ああ」 花弁を失ったモミジアオイが昨日に比べてまたひとつ増えていた。 「はい、あーかしくん、これあーげる♪」 「それはキミの物ではない、私が育てている私の所有物だ。他人の財産を奪ってはいけない。それがこの世界のルールのはずだ」 「だってあかしくんが苦しそーだったんだもん」 「確かに胸が苦しい。それはキミが私の育てている花を傷つけたからだ」 「ちがうよー、あかしくんが言ったんだもん。だからひまわりは急いで持ってきたんだよ」 理解できない。いや、子供の言動は正常な人間でさえも理解しかねる場合があると聞いた。これ以上ルールについて論理的に説いても効果はないだろう。 「終わった事はどうしようもない。覆水盆に帰らずということわざもある」 「ほへ? よくわかんないけど、ひまわりの帰るおうちはここだよ♪」 「何を言っているのか私にはわからないが、その花はキミにあげよう」 「え、いいの?」 「その代わり、今一度その胸に留めておいてほしい。この花達に触ってはいけない」 「わかったー♪ ねぇねぇあかしくん、お水をいれるビンとかなーい?」 残念な事にひまわりの口調から信用できるほどの誠意は感じられなかった。 「……花を活けるのだろうか。それだったら台所にあるコップを使って構わない」 「はーい♪」 すぐに枯れてしまうよりは水を与えて飾られた方がモミジアオイとしても本望だろう。 「ご主人、おはようございます」 「おはようノエル」 制服に着替えたノエルが眠たそうな瞼を擦りながら階段を下りてくる。 「あ、のえるちゃんおはよー♪」 「あなたは朝からやかましいくらいに元気ですね」 ノエルは冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぐ。 「あ、ごはん食べるの? ひまわりもごはん食べるよー♪」 「いちいち申告しなくてもわかってますよ。それともあなたの分の朝食はないと言ったら諦めるんですか」 「あきらめなーい♪」 「だったらせめて用意するまで黙ってなさい。あんまりうるさくしてるといちごジャムの瓶を口につっこんで無理矢理塞ぎますよ」 「え! いいの!? やってやって♪」 「はぁ……もういいですから大人しく座ってなさい」 ノエルは呆れ顔を浮かべながら食パンをトースターにセットした。 「ご主人も麦茶でいいですか?」 「ああ、それで構わない」 小麦色の液体がコップの中に充満していく。 「…………」 「どうしました?」 「何か聞こえないだろうか」 液体が流れ落ちる音が止む。 「……足音、ですね」 「来客の予定はあっただろうか」 「いえ。迷い込んだ人間でしょうか」 「どうだろうか。私の耳にはこちらに向かって歩いてくるように聞こえるのだが」 扉の向こう―― その先から一定の間隔で鳴り続ける足音は次第に近づいてきていた。 「どうしたの?」 「ひまわり、少しの間喋らないでほしい」 「?」 話し声を聞きつけてこの場所が見つけられては面倒だ。気まぐれで迷い込んだ人間ならそのうちどこかへ消えるだろう。 しかしそんな思惑とは裏腹に、足音はさらに大きくなってやがて扉の前で鳴り止んだ。 そして―― 明確な意思を伝えるように倉庫の扉を鳴らした。 「……どうすればいいだろうか」 「とりあえず開けてみるしかないですね。私達に用があるみたいですし」 ノエルの言葉に従い、私は扉を開けるべく立ち上がって入り口に向かう。 鉄製の扉をゆっくりとスライドさせ、予期せぬ来訪客の顔を確かめた。 「おはよう。今日は清清しい朝だ。君もそう思わんかね」 見知らぬ顔の老人が、朝の光に目を細め私に微笑んだ。 「それで、ノエルの学園を管理する学園長が一体何の用があってここに来たのだろうか」 「教師が家庭訪問に伺うのは珍しいことではないだろう?」 久遠と名乗った男は倉庫の中を見渡しながらそう言った。 「そうか、それは失礼した。ノエルの保護者は私だ。今日は遠いところ疲れたのではないだろうか。老体には少々酷だっただろう」 「ご主人、騙されないでください。家庭訪問は担任の教師が行うもので学園長がわざわざ来たりしませんよ」 「それにここの住所は学園に届け出てはいませんよ」 「アポなしで来るとしても新市街にあるダミー用のビルに出向いて管理人に追い返される手筈になっています」 「そうなのか」 初耳だった。人間社会で生活するための手回しは全てノエルに任せていた。 「あと、ご主人は私の保護者じゃなくて旦那様ですから。大事な事なので間違えないでください」 学生の身分だと既婚者で通すのは不自然だと思ったのだがノエルは不服だったようだ。 「ふむ、しかし役所に届け出てた正式な婚姻関係ではないのだろう? 君達“《イデア》〈幻ビト〉”には戸籍が存在しないのだからな」 隠してきた事実を知る者が、九條達に続いてまたしても目の前に現れた瞬間だった。 「……何故それを知っているのだろうか」 「いやなに、長く生きていれば知識も積み重ねられていくものだよ」 「ただの人間なら、死ぬまで知らない事ですけどね」 ノエルは久遠の後ろに立つ。 「そして人間は死んでしまったら口を利く事ができません。あなたで証明してみせましょうか?」 「待って欲しい、この人間にはまだ聞かなければならないことがある」 「感謝する。老いた身ながら、まだまだ人生やり残した事が多いのでね」 秘密を知る老人の口を塞ごうとするノエルを制す。 本気に捉えていないのか、はたまた肝が据わっているのだろうか――久遠は柔らかな笑みを崩さない。 私はあるひとつの可能性に思い当たった。 「久遠、あなたが九條をここに寄越した“上司”なのだろうか?」 現状で私の知る限り、ここの事を知っているのは九條と九條に命令をした者。 “上司”と呼ぶ存在の顔を私は知らない。目の前にいる老人がそれに当たる可能性が皆無ではない。 しかし私の思惑とは裏腹に―― 「上司? 何の事かな?」 老人は心当たりがないといった感じで目を丸くした。 「いや、知らないのなら構わない。こちらの話だ」 私の推察は外れてしまったが、よくよく考えれば“上司”は姿を現さないために九條をここに寄越したのだ。自ら訪れるつもりがあるのなら、初めからそうしていただろう。 「では久遠、あなたは私達の事をどこで知ったのだろうか」 「ふむ、頼みを聞き届けてもらうにはこちらもある程度話さなければなるまいな」 久遠は顎から長い伸びた髭を触りながら口を開いた。 「君は“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”を知っているかな?」 “《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”、通称AS。 「この街に拠点を置く巨大企業グループの事だろう。物心ついた者なら知っていて当然の一般常識だ」 「そうだな。“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”は再興に一役買い、今や世界になくてはならない存在だ」 「しかし“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”の上層部は多数の“《イデア》〈幻ビト”で占められているという事実は、一般常識ではない」 「普通の人間は“《イデア》〈幻ビト〉”の存在を認知していない。知らなくて当然だろう」 “《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”は“《イデア》〈幻ビト”によって作られた企業だ。 元々は規模もそれほど巨大はなく、人間と“《イデア》〈幻ビト〉”の関係を保つために作られた企業だ。“《ディストピア》〈真世界”と“《ユートピア》〈幻創界”を繋ぐ“道”を管理している。 “《ユートピア》〈幻創界〉”から“《ディストピア》〈真世界”に来るには“道”を管理する“《アーカイブ》〈Archive  《スクエア》〈Square”を通さなければならない。 人間界への積極的な関与をせざる負えなくなったのは、世界中で発生したパンデミックが原因だった。当時新種のウイルスに対する対抗策を持たない人間は世界的パニックに陥った。 しかし“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”がワクチンを開発したため、流行は次第に収束していった。今では根絶宣言も出されている。 戦争、地殻変動、パンデミック―― 短い歴史の中で立て続けに発生した混乱は、最盛期では何十億と繁栄していた人類の数を激減させるのには十分だった。 「まさかあなたは“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”の人間……いや、“《イデア》〈幻ビト”なのだろうか」 「ほう、何故そう思う?」 「あなたが“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”で然るべき役職についていたのなら、私達の事を知っていてもおかしくはない」 「当たらずとも遠からず、と言ったところかな。確かに私は“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”の一員だった。君達の事はその当時の資料で知った」 「ではあなたも」 「いやいや、私は君達とは違うよ。今は “《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”から離れたただの“人間”だ」 「“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”にはこの場所の情報も載っていたというんですか」 旧市街にあるこの倉庫を生活拠点として利用し始めたのは、 “《ディストピア》〈真世界〉”に来てからしばらくした後だ。 もしもここの住所が“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”に知られているとしたら、彼らは“《ディストピア》〈真世界”にやって来た“《イデア》〈幻ビト”の動向を追っていることになる。 「いやいや、基本的に“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”が“道”を通った後の“《イデア》〈幻ビト”に関して積極的に動向を探る理由はない」 「もちろん、“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”の目につくような問題を起こせば別だろうが」 「私達は何も問題を起こしていない」 「知っているよ。剣咲ノエル君の成績は優秀だ。対人関係に無頓着なのが玉にキズらしいが」 「学園とは知識を得る場所でしょう。何の生産性もない会話に付き合う必要はありませんね」 「あの年頃の子達と合わないのも無理はないが、一生に一度の経験はもっと大事にすべきではないかね」 「ご心配なく。私の一生にご主人がいればそれ以上に勝る喜びはありませんから」 久遠の後ろに立つノエルは冷たい視線をぶつけながら言い放つ。 「そんな事より、この場所の事をどこで知ったのか教えてもらえますか」 「“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”の情報網でないのならどこから手に入れたんですか」 「君達の顔は資料で目を通したことがあると言ったな。そしてどこかで見覚えのある君が私の学園に通い始めたのだ」 「後はもう難しくはないだろう。その手の人間に依頼して君達の住処を調べさせた。だから私はここにいる。理解したかね」 「そう簡単に尾行させたつもりはないんですが」 「今の時代、文明の利器を使えば大抵の事は不自由なくこなせる。法に縛られなければより顕著にな」 「随分物騒なお友達がいるようで」 その手のお友達はノエルの方が多いのでは、と思ったが口にはしなかった。それよりも話を先に進めることが先決だ。 「“どうやって”ここに来たのか、それは理解した。では“どうして”ここに来たのか、それを教えてほしい」 「ふむ。実は君達に頼み事があってな……」 久遠の顔に僅かだが陰りが見えた。 「近頃、妙な噂が立っていてな……どうやら学園の内部に“人間ではない者”がいるようなのだ」 「人間ではない者……“《イデア》〈幻ビト〉”の事だろうか」 「そうとも限らない。“《フール》〈稀ビト〉”の可能性も否定できない……いや、むしろそちらの方が濃厚かもしれん」 “《フール》〈稀ビト〉”―― “《フール》〈稀ビト〉”とは“《イデア》〈幻ビト”以外に“《デュナミス》〈異能”を行使する事ができる人間の総称だ。 原理は定かではないのだが、本来“《イデア》〈幻ビト〉”しか持ち得ない“《デュナミス》〈異能”を後天的に宿して操る事ができる。 「もしも噂の元凶に立つ者が存在するとしたら、人間の手には負えないだろう。放置して置けば学生に被害がでないとも限らない」 「噂とは一体どういったものなのだろうか」 「所詮噂であるから正確な情報ではないが……」 久遠はそう前置きをして噂に関する情報を話し始める。 「自分と同じ顔をした者と会った、車に轢かれても無傷だった、身体の体積を超えた量の水を飲む、黒い姿をした化け物――」 「私が耳にした事がある噂だけでもこれだけある。全てが同一人物であるかさえも定かではないし、ただの作り話がほとんどだろう」 「黒い姿の化け物――」 「君も聞いたことがあるのかね」 「少しばかり」 噂の元凶が昨日遭遇した黒い塊である確証はない。しかしアレが徘徊しているのならば、噂のひとつでも流れるのは当然だろう。 「それら全ては“《ファントム》〈亡霊〉”の仕業とも言われているが……本当のところは私にもわかりかねるな」 「…………」 「どうかしたのかね」 「いや、こちらの話だ」 “《ファントム》〈亡霊〉”―― その名が頭の中で反芻される。無意識の内に爪が食い込むほど込められていた力に気づいて心を落ち着かせる。 「つまりあなたの依頼とは学園内に潜伏している人成らざる者を見つけ出し、排除してほしいという事だろうか」 「排除、とはつまり殺すということかね」 「そういう事になるだろう」 「それは困る。後処理の事も考えなければならないのだよ。もしも相手が学生であれば尚更にな」 人間は“《イデア》〈幻ビト〉”と違って個々の繋がりが強固である。個人が失踪すれば捜索願いが提出され、警察が全力で行方を捜索する。社会から一人の人間を消すのにも相当の根回しが必要なのだ。 「ご主人、こんなメンドくさそうな事は無視するに限りますよ」 「ノエルがそういうのなら私は従う」 ノエルの言う事に間違いはない。 「大体あなたの願いを聞き届けたら、私達にどんなメリットがあるというんですか」 「残念ながらこちらが差し出せる物で君達が喜びそうな物はないな。剣咲君の成績を操作して全ての項目を最高評価にしてやることくらいか」 「別に成績とかどうでもいいですし。というか呑気な顔して堂々と教育者失格発言をするのはどうかと思いますけど」 「お気に召さないようで残念だ。困ったな、そうなると私に残されたカードはひとつしかないな」 髭を撫でながら別段困った様子もなく私とノエルを見る久遠。 「君達の情報を“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”に流さない、という条件ではどう――」 久遠の言葉は最後まで発音されなかった。 後ろにいたノエルがその首を掴んだからである。 「――オマエ、何を知っている」 首を掴まれ持ち上げられた久遠は呼吸もままならないはずだがそれでも僅かに苦悶の表情を浮かべる程度に留まっていたのは関心した。 「っ――穏便に収めたいのはお互い様ではないかね」 殺すかもしれない。何がノエルの逆鱗に触れたのか私には判断がつかなかったが老人の残り少ない命が消えようとしていたのは明白だった。 「…………」 「ノエル、今は止めておいた方がいいのではないだろうか。ひまわりもいるし部屋も汚れてしまう」 「…………」 ノエルは逡巡しているようだったが、やがて老人の息が途絶える前に力を緩めた。 「……そうですね、自分で片付けるのは面倒ですから」 「っ――ゲホッゲホッ」 急に支える力を失った久遠は地面に片膝をついた。 「――交渉は成立したと考えていいかな?」 呼吸を整えながら立ち上がる久遠の姿は強がっているようには見えなかった。 「私は構わないのだが、ノエルが反対するなら受けることはできない」 「いいんじゃないですか。ご主人がそういうなら」 意外にもノエルは久遠の依頼に対して前向きな姿勢を見せた。先ほどからの様子から反対するとばかり思っていたのだが。 「というわけだ。あなたの望み通り、学園に潜伏するかもしれない人成らざる者を探してみよう」 「助かる。私もここまで来た甲斐があるというものだ」 「ひとつ聞かせてほしいのだが、どうして私達に依頼をする気になった。人間に扱えないとしても、そういった事は“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”に任せればいいのではないだろうか」 「先ほども言ったように、事を大きくしたくはないのだよ。“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”に知れたら全学生を拘束されないとも限らない」 なるほど、あくまで秘密裏に全てを処理することがこの業務の注意点か。 「しかし、秘密を漏らさないかわりに働けというのは依頼と言うより脅しではないだろうか」 確かに“《アーカイブスクエア》〈Archive〉 Square”の目に監視されることはできれば避けたい。面倒な事が起きないとも限らないからだ。 「だが断れないだろう? 理不尽な力に振り回されるのも人の《つね》〈常〉だ」 「そうなのか、ならば悪い気はしない」 そもそもこの件に関しての報酬は重要ではなかった。私の目的と一致する部分があるのだから。 「そうと決まれば早速今日から学園に来て調べてほしい」 「どうやって調べる」 「方法は任せよう。もちろん問題を起こさない事が大前提だがね」 「調べるにしても、学園に部外者が入り込むのは無理があるのではないだろうか」 「ふむ、その点に関しては問題ない。実は今朝学園の中庭にある銅像が壊れてしまってな。その修理を承った作業員という事にすればいい」 「何か言われれば私から依頼されたと答えればいい。教員には君の邪魔にならないよう話を通しておこう」 「ひとつ問題があるのだが、子供も同伴しても構わないだろうか」 「子供? あそこでテレビを食い入るように見ているあの子かな?」 ひまわりは私達が話している間、朝のテレビ番組に夢中だった。 円滑に話を進められたのは、始まる前にテレビのリモコンを渡したおかげだった。 「訳があって今ひまわりを一人にするわけにはいかない。できれば行動を共にしたいのだが」 「構わんよ。片親になってしまった教師の中に、学園へ子供を連れて来る者もいる。今の時代、そう珍しくもないからな」 「そうか。助かる」 あくまで可能性の域を出ないのだが、昨日の黒い塊がひまわりの元にやって来ないとも限らない。 そうでなくとも無事に期日まで預からなければならない以上、ひまわりを一人にしておく事に不安が残る。 「では私はそろそろ学園に戻るとしよう。こう見えてもそれなりに忙しい身なのでね」 「わかった。しばらくしたら学園に出向くとしよう」 「ではよろしく頼む」 交渉の結果に満足したように、久遠は柔らかな笑みを残して倉庫から出て行った。 「ひまわり、少しいいだろうか」 ひまわりに声をかけるが返答はなかった。 完全にテレビから発信されている電波に心を囚われている。私は歩み寄り肩を揺する。 「わあっ!?」 「驚かせてすまない。少しいいだろうか」 「もうすぐうきうきさんがわりばしでロケット作り終わるからまってて!」 「わかった」 ひまわりの見つめるテレビ画面上では、中年の男性とマスコットのぬいぐるみをかぶった人間が工作をしていた。 私はひまわりがこちらを向くのを待つ。 「ほへ~」 「…………」 「ふあ~」 「…………」 「ご主人が話あるって言ってるんですからこっち向きなさい」 「ぎゃっ!?」 ノエルの手刀がひまわりの脳天に突き刺さった。頭蓋骨が粉砕しなかったのはノエルが手加減をしたからなのだろう。 「のえるちゃんなにするの!?」 「テレビの時間は終わりですよ。それとも金輪際テレビ見せなくてもいいんですか」 「うぅ……よくないです」 「じゃあご主人の話を聞きなさい。あなたにも関係する事ですから」 頭を抑えながら涙目になっているひまわりは、テレビに対する未練をどうにか断ち切ろうとしているように見えた。 「ご主人も律儀に待ってあげなくていいんですよ。用があるなら力ずくで聞かせればいいんです」 「そうなのか」 「だめだめぇ~! ぼうりょくはいけないんだよ! ひまわりのあたまがわるくなっちゃったらのえるちゃんのせいなんだからね!」 「心配しなくてもそれ以上悪くなりようがないので安心しなさい」 「ほんと? よかったぁ~」 「よかったのだろうか」 何も解決していないように思えたのだが、本人がいいというなら問題ないのだろう。 「ご主人、すいませんけど今日の朝食を用意する時間がなさそうです」 「何か用事でもあるのだろうか」 「ええ、ちょっと今日は早く学園に行かないといけないのを忘れてました」 「わかった。私達も後で行く」 「え? どこあそびにいくの?」 「後でご主人が連れて行ってくれますよ。言っておきますけど、くれぐれもご主人の手を煩わさないでください」 ノエルは椅子の上に置いてあった学生鞄を手に取った。 「じゃあご主人、行って来ます」 「ああ、いってらっしゃい」 「じゃあこわれちゃったおじぞうさんを直しにいくの?」 「他にもやる事があるのだが、つまりはそういう事だ」 ひまわりに学園へ出向く旨を伝えると二つ返事で了解した。 「キミは大人しくさえしてくれていれば問題ない。くれぐれも私から離れないようにしてほしい」 「はーい♪ どんなとこなのかなぁー、わくわく♪」 同意の返事を得られたにも関わらず、一抹の不安は拭い去れなかった。 「では朝食にしよう。焼いた食パンに苺ジャムをのせた物でいいだろうか」 朝食を済ませた後は花に水をやらなければ。 「私に用があるのなら、隠れていないで姿を現したらどうかね」 「いつから気づいてたんですか。ただの人間になら絶対気づかれない自信があったんですけど」 「あれだけ殺気を帯びた視線を向けられれば、どんな人間でも不審に思うだろう」 「それで、私に何か用かね。主人の目がない場所で私を殺す気か?」 「それも悪くはないですけど、その前に私の質問に答えてください」 「あなたはどこまで知っているんですか」 「おやおや、相手に物を尋ねるというよりは脅しだな」 「…………」 「ふむ、君にもあまり余裕がないようだ。頭と胴が繋がっているうちに釈明をした方が良さそうだな」 「君達、というか君の事か。推測でしかないが、大方の事情は理解しているつもりだ」 「なら私があなたを邪魔に思うのもわかるんじゃないですか」 「君達の邪魔をするつもりはない。今回の件に手を貸してくれれば、君達の事は忘れよう」 「…………」 「今更弁解できる立場ではないが、悪いとは思っているよ。だが私にも余裕がないのでな。使える物はどんな物でも利用させてもらう」 「あなたが約束を守るという保障は?」 「保障を提示できるような話ではないだろう」 「私が約束を破りそうになったら、その時は君の好きなようにしたまえ。今言えるのはそれだけだ」 「……あなたの目的は一体なんですか……?」 「いずれ君にも知れる日が来るやもしれんな……だが、そうならぬよう、こうして老体に鞭を打っているのだよ」 久遠の訪問から丁度一時間後――ノエルの通う東雲統合学園の校門前に到着した。 「うわー、おっきぃねぇ、あかしくんのおうちのなんばいもあるよー」 「そうだな」 入り口を前にして施設の外観を眺める。聞いた話ではここ数年のうちに立て直されたらしく、手入れの行き届いた印象を受ける。 正門の柱には“東雲統合学園”と書かれた鉄製のプレートが貼り付けられている。 「この時間は授業が行われているのだろうか」 大勢の人間が収容されているはずなのだが、見渡す限りその姿はどこにも見えない。 恐らく教室と呼ばれる各部屋に集められ講義を受けているのだろう。 「ねぇねぇあかしくん、どこあそびにいくの」 「遊びに来た訳ではない。くれぐれも誰かに問われた際は銅像の修理をしに来たのだと答えてほしい」 私の左手に携えた工具箱を見せる。以前、水道管修理の業務に携わった際に入手した物だ。 表向きは銅像を修理する名目である以上、気休め程度とはいえ修理工に扮する努力は必要だ。生憎作業着は手元に残っていなかったため服装による偽装は叶わなかった。 「ひとまず破損した銅像の状態を確認しておこう。進捗を問われた際、状態を答えられるようにだけはしておかなくてはならない」 そういえば久遠から壊れた銅像の位置を聞いていない事を思い出した。 しかし大した問題ではない。学園内を散策していればやがて見つかるはずだ。 「あ、あれじゃないのかなぁ」 予想とは裏腹に銅像は思ったよりも早く見つかった。 正門を抜け直進すると、台座の上に備え付けられていた人型の像が視界に入った。 私は銅像に近づき状態を確認する。 「これは簡単に直せるものではないな」 人の形を模しているはずの像には無機物という点以外にも、人間との大きな相違点があった。 首から先がない―― いや、存在しないわけではない。像の後ろ側に討ち取られた生首のように置かれていた。 損壊した原因は恐らく銅像の首部分に耐久度を越える負荷が加わったのだろう。 「しかし一体どういう状況だったのだろうか」 私の知る限り、人間の腕力では銅を加工する事はできないはずだ。ましてや切断部は直径15cm程度の太さである。 もしくは校舎とは違って銅像自体は何十年前に作られた物であり、長年雨風に浸食されて脆くなっていたのだろうか。 どちらにせよ最初から可能だとは考えていなかったが、私にこの銅像を修理する事はできない。 「状態の確認は完了した。銅像の件はこれでいいだろう」 破損した銅像から視線を外してひまわりを探す。 しかし―― 「ああ、いないな」 周囲を確認するがひまわりの姿はどこにも見受けられない。 「全く逃走する気配を感じさせなかった。感心する」 だがそれとこれとは別問題である。 学園には大勢の目がある。騒ぎが起きればすぐに認知できるだろうし、人前では“人成らざる者”も行動を起こしづらいのではないだろうか。 とはいえ僅かな可能性も残すべきではない。早急にひまわりの身柄を確保すべきだろう。 面倒事が起きる前にひまわりと合流すべく、校舎の中へと足を向けた。 ひまわりを探して校舎内を歩いていると、定刻を告げるベルが辺りに鳴り響いた。 その知らせを待ち構えていたように廊下に連なる各教室の扉が開く。 最初に教師らしき人間達が書類を片手に疲れた様子で退室する。続いて喧騒と共に学生の姿が廊下へあふれ出した。 その中に見覚えのある顔を見つけた。 話かけるかどうか迷ったが、見ず知らずの人間に問いかけるよりは話が早い。そう結論付けて歩み寄り声をかけた。 「君はこの学園の学生だったのだな」 「え、“《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉”? どうしてここにいるの?」 消閑の綴り師は学生の群れを抜けて私の元にやってくる。 「奇遇だ。こんな場所で会うとは思わなかった」 「私もビックリしたけど、でもこれは偶然なんかじゃないよ」 「どういう事だろうか」 「私達がここで出会ったのは“《エピストゥラ》〈運命の道標〉”に記されたさだめなのよ」 「聞きなれない言葉だ。一体それは何なのだろうか」 「ダメよ。それ以上知るともう後には引けなくなるわ。世界の真理を知ってしまったら最後、後悔しても遅いわ」 「ふむ、面倒事は遠慮したい。では聞かなかった事にしよう」 「懸命な判断ね。機関に追われるのは私だけでいいもの……孤独には、もう馴れっこだから」 消閑の綴り師は自らの身体を抱きしめた後、何事もなかったかのように気を取り直した。 「それで? “《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉”はこんなとこで何してるの?」 「校門にある銅像が壊れているのを知っているだろうか。私はその修理を頼まれた」 「え、あ、ああ、あれね。うん、ご苦労様。なんかゴメン」 「どうして君が謝るのだろうか」 「何でもない何でもないこっちの話。それより銅像を修理しに来たって本当?」 「何故疑う?」 「だってそんな格好した修理工なんて見たことがないわよ。工具箱持ってるけど全然似合って・な・い」 服装に関しては普段着ているジャケットにジーンズなのだがそこまでおかしいのだろうか。 「だが今の私は修理工だ」 「だからそう見えないんだってば」 「それでも私は修理工なのだ」 携帯していた工具箱を見えるように眼前へと突き出す。 「……銅像ってドライバーで直せるの?」 「業務内容に関する情報は口外できない。どうしてもと言うのなら質問は上司に問い合わせてほしい。私には答える権利がないのだ」 これまで請け負った業務の中でも同じような状況に陥った事はある。 大抵の場合、会社に雇われているという立場を強調すれば都合の悪い事態から逃れられた。人間とのやり取りにおいて、追求を逃れる効果的な手段だ。 「まあ事情があるのね。私は空気が読める事で有名な女だから、これ以上は聞かないであげる」 「ありがとう」 空気が読める事で有名な“消閑の綴り師”は私への追求を止めた。 「ところで私からもひとつ聞きたいことがあるのだが」 「何?」 「頭にひまわりの髪飾りをつけた少女を見なかっただろうか。迷子になって困っている」 「んー、私は見てないけど。ついさっきまで授業受けてたし」 「そうか。もし見かけたら、私が探していたと伝えてほしい」 「ん、わかったわ」 「菜々実さ~ん」 「あ、中島さんと谷口さん」 教室を移動している一団の中から二人の女子学生がこちらへとやって来る。 「誰と話してんの――って、うわっ!?」 「きゃっ! ヤバッ! 超イケメンじゃん! 菜々実さんの知り合い!?」 「イケメン……? ラーメンの種類、そのひとつだろうか?」 「あはは、おもしろい冗談ですね~。凄くカンジの良い人じゃん、菜々実さんのカレシ?」 冗談を言ったつもりがないのに笑われるのは不愉快だ。 消閑の綴り師と同じ年代であろう二人は上目遣いで私を見上げた。 私は初対面の人間と遭遇した時、様々な印象を抱く。その中でもこの二人は私にとって何の利益も生み出しそうにない部類の人間だった。 「知り合いなんだけど、偶然仕事で来たんだって」 「何の仕事してるんですか~?」 「今は修理工をしている。他にも受けている業務はあるのだが」 「あの~、もしよかったら直してほしい物があるんですけどぉ……」 「何だろうか」 新しい業務委託の依頼だろうか。生憎だが現状では他の業務との兼ね合いで手一杯だと言わざるを得ないのだが。 「私~、先月カレシと別れちゃって~すっごく傷ついちゃってるんです」 「何がだろうか」 「私のコ・コ・ロ」 「あ~、アンタズルくない? そもそもカレシと別れたのアンタの浮気が原因でしょ?」 「それは言わないって約束したじゃん。つか私の中で一番になれなかった男が悪いんだし」 「済まない、せっかく仕事の依頼をしてもらったのは助かるのだが、私には受ける事ができない」 「どうしてですかぁ?」 「今は他の仕事で忙しい。それに――」 致命的な問題を私は抱えていた。 「私は人の心を修復する術を知らない。力になれず申し訳ない」 必要な技術を備えていない者に業務を遂行する事は不可能だ。 断りの返事に対して二人の女子学生はどうしてか言葉を失っていたのだが、しばらくして嬌声をあげた。 「顔がカッコいいから何言ってもカッコよく聞こえちゃう」 「耳が妊娠しそう」 「はいはい、あんまり“《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉”を困らせないの。それに早く着替えないと間に合わないわよ」 「はーい」 「はーい」 二人の女子学生は近くの教室に入っていった。 「あなたもここにはいない方がいいわよ。変態呼ばわりされたくなければね」 「ああ、私もやるべきことを成さなければならない。では少女の件、よろしく頼む」 消閑の綴り師は女子学生が入って行った教室の扉を開けた。 さて、ひまわりの行方を探すとしよう―― 「おっと――」 振り向き様、別の教室から出てきた人影とぶつかってしまう。相手は思わぬ障壁に体勢を崩したが倒れはしなかった。 「すまない、大丈夫だろうか」 「なんだ男かー、どうりで頑丈だと思ったぞー」 他の女性と違い制服に身を包んでいない。しかし教師と判断するには若い気がした。 「気をつけたまえー。私とぶつかったら怪我するぞー」 「一般的に男性よりも女性の方が華奢な身体つきだ。女性側の心配をするのが妥当だと思うのだが」 「私は社員の生活を守る社長だぞー。健康第一、鍛え方が違うのだよー」 「そうなのか、失礼した」 「わかればいいのだー」 胸を張る女性の姿を見て私は記憶の中にあるひっかかりに気づいた。 この人間の顔をどこかで見たような―― 「……なるほど、そういうことなのだな」 「ん? どうかしたのかー?」 「いや、何でもない。他人の秘密を暴こうなどと下世話な考えはない。私は社会のルールを知っている」 「何を言っているのだー? へんなやつだなー」 私はこの者と会った事がある。昨日の夜、黒い塊に襲われた後にすれ違ったのだ。 その際、私はこの人間の秘密に気づいてしまった。彼女は女ではないのだ。肉体に自信があるのも納得できる。 「それよりも、キミは学生ではないように見えるのだが、ここで何をしていたのだろうか」 「ふふふ、気になるのかー?」 社長は意味ありげな笑みを浮かべた。 「気になるなら自分の目で確かめるがいいー。先に言って置くが自己責任だぞー」 私の肩を叩いて去ろうとする社長。 「ウチの社員に伝言を頼む。捕まってもウチの会社の名前は出すんじゃないぞー、社訓を思い出せー、と」 そう言い残して社長は駆け出し廊下の向こうへ消えていった。 「一体何があるというのだろうか」 私自身、学園という施設に立ち入るのは始めてだ。内部の設備に対する興味はある。 何よりひまわりの姿を探さなければならないのだ。もしかしたらここにいないとも限らない。 私は社長が出てきた教室の扉を開ける。 ほぼ同じくして悲鳴にも似た叫び声が耳を襲った。 「家族の絆は絶対守るって約束したじゃないですかぁぁぁぁぁぁっ!!」 壁際で膝をついた男子学生が私の方に振り返った。 「早ッ! 隠れる暇もなく呆気無く人生終了っ!」 「…………」 「あ……こないだの……?」 こないだ? この少年と面識があるのだろうか。 私はすぐに記憶を掘り返す。 「ああ、なるほど、思い出した」 「ははっ」 昨晩、先ほど走り去って行った社長の背中に背負われていた少年だ。今しがた伝言を頼むと言われた社員とはこの少年の事だろうか。 「私は怪しいものではない、作業員として許可を得て立ち入っている」 やはり時間を割いてでも作業着を手に入れるべきだっただろうか。もう何度目したかわからない説明をするのも少々面倒に感じていた。 「えっと、俺、そこのロッカーに隠れるんで、うまいこと誤魔化してくださいっ!」 少年は私の説明が耳に入っていないのか、慌てた様子で部屋の隅に設置されているロッカーの扉を開けた。 「どういうことだろうか? 私は何を誤魔化せばいい」 「覗きっ! 今からかわいい子が鬼の形相で入って来るから、作業で穴を開けていたとか適当によろしくっ!」 返答を待たずに少年はロッカーの中に立てこもった。 「この借りはいつか返すからっ」 これは仕事の依頼なのだろうか。つい先ほど女子学生の依頼を断ったように、私には他の業務を抱え込むほどの余裕がないのだが。 どうしたものかと思案していると、背後の扉が開く音がした。 「……ご主人でしたか」 「ノエル。偶然だな」 ノエルはいぶかしむように教室内を見渡す。 「こんなところで何をしていたんですか?」 「ひまわりを探していた。どこかへ行ってしまったのだ」 「またですか。ご主人に苦労かけるなとあれほど言ったのに。まあ仕事ですから仕方ないですね」 ノエルは先ほどまで少年がいた場所の壁に近づく。 「ひまわりを探すのに穴を開ける必要はないと思いますけど。器物破損ですよ。私というものがありながら、何を見てたんですか」 「浮気確定ですね」 何故そうなるのだろうか? もしや消閑の綴り師達とのやり取りを見られていたのだろうか。 なんと答えるべきか考えあぐねる。 「ちょうど私のロッカーが見える位置に開いた穴……ご、ご主人は私の着替えが見たかったんですか?」 「そ、そうだったんですか……」 勝手に納得を始めるノエル。 ノエルの肢体は人間の基準で計った場合、異性の性欲を刺激するようだ。 現に巷には薄着の女性がポーズをとった雑誌などが溢れているが、ノエルの身体つきは胸部の突起などにおいてそれらに引けをとらない。 「じゃあご主人は他の女を覗いていたわけではないんですね」 私の視界にはノエル以外も捉えているのだが、私に向けられた疑いは晴れたようなのでよしとしよう。 「見るだけじゃなくて、その手で触れてもいいんですよ?」 ノエルの腕が私の首に絡む。頬同士が触れ合い、肌の冷たさを感じる。 「……学園にいるからといって、他の女に目移りしたら駄目ですよ」 「わかっている。私は浮気などしていない」 授業を受けるノエルと別れ、ひまわりの捜索を再開する。 一時間ほど敷地内を巡回し、終業を知らせるベルが鳴り響いたと同時にようやくその姿を視界の隅に捉えた。 教室から出てくる学生とは反対側からこちらに向かって走るひまわり。 「あ、あかしくん、やっと見つけたよ。まったくどこ行ってたの?」 「それは私の台詞だ。キミが突然いなくなったので探していたのだ」 「ひまわりがおしっこに行って帰ってきたら、あかしくんいなくなってるんだもん」 ならば一言声をかけてくれればいいものを―― 「あかしくんのおしごとはおわったの?」 「いや、まだ何も進展していない」 最たる原因はキミであると言いかけたが抗議の言葉を飲み込む。 「じゃあはやくおしごとしないとね」 「キミも私の業務が首尾よく進むよう協力してほしい」 「なにすればいいの?」 「何もしないでほしい。私から離れず大人しくしていてくれればそれでいい」 「はーい♪ そんなことかんたんだよー♪」 「あまり説得力は感じられないのだが」 少し離れた廊下では鞄を持って階段を下りていく者や雑談をしている者が見受けられる。おそらく教室の中にはまだ多数の学生が残っているだろう。 ひまわりを探している最中、私なりに“人成らざる者”がいないか目を光らせていた。人間の姿に擬態している可能性も否定できないからである。 とはいえその場合、正体を見破る事ができる保障はどこにもない。人間と“《イデア》〈幻ビト〉”の違いはほとんどの場合、視覚的な差は皆無に等しい。 相手が“《デュナミス》〈異能〉”を使えば一目瞭然なのだが。 「ねぇねぇ、あかしくん」 「何だろうか」 「おしっこいきたくなっちゃった」 「……先ほど行ったばかりではないのだろうか」 「でもしたくなっちゃったんだからしょうがないんだよっ」 やはり何もするなという要求はひまわりにとって困難だったようだ。 「あそこにトイレがある」 教室が連なる正面側ではなく背後に伸びた廊下の先を指で示す。 「行くのであればなるべく早急に済ませてほしい」 「あかしくんもおしっこするの?」 「私はトイレの前で待っている。早く行ってくるといい」 「はーい」 ひまわりは女性用を示す赤い人型のマークがついた洗面所に向かう。 私はひまわりが出てくるのを待つ事にしたのだが―― 「あのぉ~、中に入りたいんですけど」 入り口の前に立つ私の背後には、一人の女子学生が萎縮した様子で立っていた。 「ああ、すまない」 邪魔にならぬよう道をあける。 「……どうも」 目の前を過ぎ去る際、女子学生のいぶかしむような視線を私は見逃さなかった。 「……どうやら洗面所の前で待機するのはマナーに反する行為のようだ」 外に立っていようが彼女に実害は及ばないだろう。だがこの場面で考えられる原因はそれしかない。となれば少し離れた場所で待機した方が懸命だろう。 周囲を見渡すとすぐ後ろに“図書室”と書かれた札が掛けられた扉があった。図書室とは膨大な数の書籍を備えた施設である。 私はひまわりを待つ間、実際にこの目で図書室を見てみよう。 知識の宝庫である書籍。それらが大量に集められた図書室はまさに宝の山だと言えよう。 人間社会の情報を手に入れるため、私は図書室の扉を開けた。 部屋の内部は事前に得た情報のとおり、壁一面に並べられた書籍が天井近くまで伸びた棚に敷き詰められていた。 学生のざわめきが遠く聞こえるほどに、図書室の中は静けさに満ちていた。 教室と比べ、人間の密度は限りなく低い。カウンターに一人、その他本を読んでいる者、探している者を合わせても両手の指で数えられる程度だった。 「あれは――」 私も他の者に習って興味のある書籍を探そうと図書室の中に足を踏み入れる。 しかし実際に書籍よりも気を引かれるものを見つけてしまい、本棚の品定めは叶わなかった。 歩み寄ると彼女はそれまで読んでいた書籍から視線を外し、警戒心を込めた瞳で私を見据えた。 「……どうしてあなたがここにいるのですか」 「仕事で学園に来る必要があった。まさかキミに会うとは思わなかった」 九條が身を包んでいる洋服は、倉庫に来た時とは違ってここの学園指定の制服だった。すなわち彼女はこの学園に属している学生という事だ。 「あの子は一緒ではないのですか」 「ひまわりの事か。彼女なら今、向かいの洗面所にいる。出てくれば気づくだろう」 「なら構いませんが」 話は終わりだと言わんばかりに九條は手元の書籍へと視線を落とした。 「仕事は必ず完遂させる。だからキミ達も約束を守ってほしい」 「…………」 質問に対する返答は真意の見えない沈黙だった。 「心を奪われているのだろうか」 「……どういう意味ですか?」 九條は驚きと苛立ちが綯い交ぜになったような表情でこちらを見る。 「人間は素晴らしい出来栄えの書籍や映像作品を前にした際、周囲の声が聞こえなくなるほど没頭してしまうと聞いた事がある」 「キミは今そういった状態に陥っていたのではないだろうか」 「そのような事ではありません。答える必要がないと思ったから何も言わなかっただけです」 「なるほど、人間の会話とは奥深いな。沈黙すらも意思の伝達手段として使用される」 「伝えたい事があるのなら、言語を使って伝達すればいい。そう思うのは人間についての理解が足りないせいだろう」 「誰もが思った事をそのまま口にしてしまう世界なんて、成り立つわけありません」 「何故だろうか」 九條の瞳により一層の力強さを感じた。 「皆、集団でいる事に安心を得ているからです」 「群れをなすのは人間に限った話ではない」 「動物が群れで行動するのは何故だと思いますか?」 「種としての生存本能があるからだろう。何かの書籍で読んだ事がある」 「そうですね。個よりも種全体を重要視するのは生物の基本的な本能です」 「例えばシマウマの群れを例に挙げますが、群れで行動している最中、ライオンに襲われたとしましょう」 「群れの中で一番足の遅い年老いたシマウマがライオンに捕まってしまいました。他のシマウマはどんな行動を取ると思いますか?」 シマウマとは白と黒で彩られたウマ科の草食動物だ。それとは逆にライオンは肉食動物であり力の差は歴然だ。 「捕まったシマウマが喰われている間に、安全な場所まで逃げるのではないだろうか。彼らに年老いたシマウマを救出する手立てはない」 「果たしてそうでしょうか? 数では圧倒している場合がほとんどです。立ち向かう意思させ見せれば、ライオンが逃げ出す可能性もあると思いませんか」 「シマウマの思考は私にはわからない。おそらく個を犠牲にしても守らなければならない重要なファクターがあるのだろう。少しでもリスクを避ける行動は動物に限った話ではない」 「そうですね、人も同じです。いえ、命が危機にさらされるわけではないですから、人の方がシマウマよりも残酷と言えるでしょう」 「人は大局的な思想に追随しなければ、自分がライオンに食べられてしまうと考えるからです。そうならないためなら、平気で他者を排除します」 「人間のコミュニティにおいては仕方のない事ではないだろうか。人間世界を動かすのは大勢が納得できる統一された意思だ」 「それほど大げさな話に限らず、人間は会社や学園、近所付き合いに至るまで他者の評価によってその一生を左右されている」 「それがつまりシマウマにとっての死と同義である、と考えている人間は多いのではないだろうか。コミュニティから逸脱した人間が生きていくのは困難だと想像に難くない」 「あなたはそれを仕方のない事だと思いますか?」 「人間社会のルールに則ればそれが正しいのだろう。そうやって人間の社会は発展をしてきたのではないだろうか」 「そうですね。それが真実です」 誰もが表立って口にする事はない。しかし九條の考えが人間の根底にあるのは真理なのだろう。 「なるほど、だからキミはああいう風に言ったのか」 「何の事ですか?」 九條と始めて会った路地裏――その場ではどういう意味なのか理解できなかったが今ならわかる気がする。 「世界はまやかしでできている」 「……よく覚えていますね」 人間は自己を優先しながらも他人と協調する事を強いられている。 仮面の裏に隠された真実の顔―― まやかしで満たされているという九條の主張も間違いではない。 「あ、あかしくん、こんなとこにいた!」 洗面所から戻ってきたひまわりが私達の元にやって来る。 「あかしくん、またまいごになっちゃうところだったよ! もう、気をつけてね!」 「ひまわりさん、図書室ではお静かに」 「あ、みつきちゃんだ! ゴキゲンオー♪」 「ごきげんよう」 快活なひまわりを前にしても九條の落ち着いた態度は崩れない。 「あ、みつきちゃんなんかおいしそうなもの飲んでる」 ひまわりは九條が読書の合間に口へ運んでいた水筒に興味を抱いたようだった。 付属のコップには鮮やかな赤色の液体が満ちていた。 「アッサムのオレンジペコです。よろしければお飲みになりますか」 「え、いいの!? やったー♪」 コップを受け取ったひまわりは嬉々として口の中に入れる。 「…………」 笑顔が消えていくのに時間はかからなかった。 「ん゛~~~~~~……!?」 「どうしたのだろうか」 ひまわりは頬を膨らませて悶えていた。 「……ごくっ、ぷはぁ~、思ってたのとぜんぜんちがう味~……」 「口に合わなかったのだろうか」 「なんかね~、すっごくにがいんだよ。ぜんぜんオレンジの味しないし」 「オレンジペコというのは茶葉の等級、すなわち葉の大きさを表す言葉ですから、オレンジの味がしないのは当然なのですが?」 「あかしくんも飲んでみてよ~。すっごくにがいから」 己の口に合わないものを他人に勧めるとは一体どういうつもりなのだろう。 とはいえ私自身、味わった事のない体験に興味が湧いていた。 「私も口にして構わないだろうか」 「……お好きに」 アッサムというのは確か紅茶という飲料に区分される種別のひとつだ。 私は紅茶というものを飲んだ事がない。コンビニエンスストアなどで売っているらしいが、基本的に私が摂取する飲料は水か麦茶である。 「…………」 「ねぇ、にがいでしょ?」 舌に広がる香りに神経を集中する。 「苦い、とは思わない。どちらかと言えばうっすらと広がる甘みを感じる」 「アッサムは他と比べて濃い味わいで甘みがあるのが特徴ですから。ひまわりさんには少し合わなかったようですが」 私はコップの中に残った紅茶を飲み干す。 鼻腔を吹き抜ける香りは心地よささえ覚える。花の香りを嗅いだ時の感覚に近い。 「良い物だと思う。紅茶という物に興味が湧いた」 「……本当ですかっ」 「ん……?」 一瞬、九條の目つきが変わったように見えた。 学園内に鳴り響くチャイムによって会話を中断される。 室内に設置されている時計に目をやると12時30分を指していた。終業した後も時間を知らせるチャイムは一定の間隔で鳴るようだ。 「…………」 視線を戻した時には既に九條の顔はいつもの調子に戻っていた。 「時間が来ました。私は用がありますのでこれで失礼します」 読んでいた書籍や水筒を鞄の中に片付ける。 「まだ話したい事がある」 依頼や上司の件についても何か聞き出せればと思っていたのだが。 「申し訳ありませんがそれはまたの機会に。あるかどうかわかりませんけど」 私の要望は審議にかけるまでもなくはね付けられてしまった。 「それではごきげんよう」 「ゴキゲンオー♪」 九條は振り返る事なく、拒絶するように図書室を後にした。 九條が図書室から立ち去った後、私達もすぐに本来の目的である学園内の調査を再開した。 複数の学生に噂についての聞き込みを行うが、さして重要な情報は手に入れる事はできなかった。程度の差はあれど事前に久遠から聞かされた話と大差はない。 「ねぇねぇあかしくん、ひまわりおなか空いてきちゃったんだけど」 時刻は正午過ぎ―― この学園の終業時間は過ぎており、帰宅する学生の姿が周りに溢れている。 「今日の所は一旦引き上げた方がいいだろうか」 余りに突然の依頼だったため、これといった対応策も用意できていない。 今回は下調べとしての意味合いだったと捉え、明日以降本格的な調査を開始した方がいいかもしれない。 「あれ……? あかしくんあかしくん」 「何だろうか」 ひまわりは私ではなく校舎の上部を見ていた。 「なんかヘンなのいたよ」 「変とは?」 「くろいカゲみたいなのがビュンビュンって、上にのぼっていってたみたい」 「それはどこに見えたのだろうか」 「あそこの下からびゅんびゅんって!」 ひまわりが指差したのは人通りがなさそうな校舎の裏手に位置する細い通路だった。 「あそこからね、カベをつたって上までのぼってったんだよ」 黒い影―― 私達が見た黒い塊だろうか。 少なくともひまわりの見間違いでなければ、それは人間の身体能力を遥かに凌駕した行為であり、“人成らざる者”の枠に適合する者だろう。 すなわち私の探している対象である可能性は否定できない。 「どちらにせよ、確かめなければならない」 学園内に続く昇降口と黒い影とやらを目撃した校舎の壁面を見比べる。 「ひまわりの見た黒い影を追う。それが私の仕事だ」 「りょーかいでーす! じゃあはやくいかないと!」 「いや、こちらから向かった方が速い」 昇降口に向かうひまわりを制し、人通りのない細道へ移動する。 下から建物の構造を確認する。足場になりそうな箇所はいくつかあった。 「私はここから屋上まで登る。キミはここで待っていてほしい」 「え、うん、わかった、だいじょうぶだよ?」 「…………」 人間は必ずしも口にした言葉通りに行動するわけではない。ひまわりに関して言えばより顕著に現れる傾向だ。 「やはりキミも一緒に来てほしい。一応確認しておくが、同じような壁を登った事はあるだろうか」 「あかしくんはバカだなぁ、こんなところのぼったらあぶないんだよ? 落ちたらいたくてたいへんなんだよ」 「自分が知力に優れているとは思わない。しかし少なくともキミよりは社会のルールに精通していると自負している」 やはり選択肢はひとつのようだ。 「ひまわり、私の背中におぶさってほしい」 私は膝をつき、ひまわりに背を向けた。 「え、おんぶしてくれるの?」 「ああ、しっかり捕まっていなければ、痛くて大変な事になってしまうので気をつけてほしい」 「はーい♪」 ひまわりが背中に乗り、両腕を私の首に回す。 「あかしくんのせなかおっきー♪」 「遊んでいるわけではない。舌を噛まないよう、口を閉じていた方がいい」 「りょーかいでーす♪ あかし号、はっしーん!!」 私は機械ではないのでその呼び方はどうかと思う。 しかし抗議の言葉はこの場で相応しくないと判断したため、結果的にはひまわりの命令で飛び立つ形になってしまった。 「ふぁああああ――!」 各階に設置された窓の縁、雨水を流すパイブなどを利用して屋上まで駆け上る。 最後の足場に力を込めて跳躍し、屋上のコンクリートに手を掛けた。 背中に張り付いたひまわりも途中で振り落とす事はなく、無事に屋上まで到達した。 「大丈夫だろうか、ひまわり」 「ひまわりは大丈夫だよ。それよりあかしくんってすごいんだね。大人の人はみんなできるの?」 「どうだろう。それはひまわりが大人になればわかる事だ」 状況を確認するためにゆっくりと頭を出す。 私達の張り付いている場所から20メートルほど離れた場所に三つの人影を確認した。 学園の制服に身を包んでいる者が二人、もう一人は全身黒い衣装を着用していた。 女性二人と男一人―― 男の顔はこちらに背を向けていたため確認できないが、残り二人の顔に関して私は心当たりがあった。 「あれは消閑の綴り師? それに――」 「あ、はちみつあげパンのおねえさんだ」 以前街中でぶつかった少女――名はRe:nonだったはずだ。 「もしかしてひまわりの見た黒い影とはあの少女の事だろうか」 「んー、そうかも」 状況から判断するとその可能性が限りなく高い。仮に黒い塊が屋上に現れていれば騒ぎのひとつも起きているはずだ。 彼女らの会話は風の音にかき消されてはっきりとしない。 時折聞き取れる会話に耳を傾ける。 「虹色の占い師には何度かちょっかい出してるし、薄々気づいていると思うけれど。わたしは、ある群れの中に身を置いているわ」 「その母体となるのが“《アーカイブスクエア》〈AS〉”と言えば、逆らっても無駄だとわかるかしら?」 黒装束の女性につられて残りの二人が聞きなれた企業の名を口にする。 Re:nonはさらに“Archive Square”が残した功績について説明していたようだった。 「私たちの存在を知っているということは、少なくとも“《アーカイブスクエア》〈AS〉”のお偉いさんは“《イデア》〈幻ビト”で構成されてるのよね」 「上層部の半数はそうじゃないかしら。そもそも、人間が指を咥えて見ているだけだから“《アーカイブスクエア》〈AS〉”が纏め上げたのが今の世界じゃない」 どうやら二人は普通の人間が知りえない“Archive Square”の裏事情について知っているようだった。 遮蔽物のない高所では風の影響を直接受けてしまう。 風圧はさほど問題ないのだが、風の切る音が彼女らの会話を遮ってしまう。 「よく聞こえない」 「ねぇねぇあかしくん」 耳元でひまわりが囁く。 「何だろうか」 「うでがつかれてきちゃった」 「腕を離すと大変な事になる」 片手で鉄柵を掴み、空いたもう片方の手でひまわりの下半身を支える。 「きゃっ、あかしくんのえっち」 「キミの身体を支えるために仕方のない事だ。他意はない。我慢してほしい」 「あかしくんにえっちなことされたってのえるちゃんに言いつけちゃおうかなぁ」 「それだけは止めてほしい。わかった、取り引きをしよう。後でひまわりの望む菓子を購入する。それで手を打ってはくれないだろうか」 「うんいいよ。やくそくだからね」 「ああ、約束は守る」 ひまわりに手を焼いている間に、風が収まり彼女らの会話が再び聞き取れるようになる。 どうやら“Archive Square”に属する少女は、背を向けている少年を追ってここまで来たらしい。 そして件の銅像――それを破壊したのは彼ららしい。 彼が犯人だと言うのなら“Archive Square”に追われる理由も理解できる。損傷箇所を見る限り、とても人間の仕業とは思えなかった。 彼が久遠のみならず私の追う対象である可能性が―― 「あかしくん、あかしくん」 「今度は何だろうか」 彼らの話に興味が湧いたところで私の聴覚はひまわりに邪魔をされてしまう。 「えとね、おしっこしたくなっちゃったんだけど」 「何故だ。既に二回も済ませたはずではないのだろうか」 「したくなっちゃうものはしかたないんだよぅ」 それまで抑制されていた声量が大きくなってしまったのは、ひまわりの訴えが切実である証拠だろう。 しかし私にはそれよりも懸案すべき事態に際していた。 「静かに」 私は頭を下げる。会話をしていた三人のうち、黒装束の少女がこちらに振り返る素振りが見えたからだ。 「ねぇ……おしっこ」 「……わかった。降りよう」 即座に頭を下げたため視認される事は避けられただろうが、不審に思いこちらまで確かめに来られては身を隠す時間も場所もない。 何より適切な場所以外での排尿は社会のルールに反する。 ひとまず手がかりになりそうな情報を入手できた事に満足しておくべきだろう。一度に多くを望み過ぎるのは失敗の原因となりかねない。 ひまわりを洗面所に連れて行き、再び屋上に戻った時には既に彼女らの姿は消えていた。 屋上を後にして昇降口に向かう途中、廊下の向こうから聞こえてきた声に私の足は止まった。 「あれ、みつきちゃんの声じゃないかな?」 「キミにもそう聞こえるだろうか」 聞き覚えのある凛とした声がこちらまで聞こえてきた。 「みつきちゃんといっしょにあそびたい♪」 「そうだな、私も彼女と話がしたい」 声のする方まで近づくと、九條と複数の女子学生が話している姿を見つけた。 「そんなに怒らなくてもいいじゃありませんか」 九條と対面している集団――その先頭に立つ派手な容姿をした女子学生が九條と話しているようだった。 「別に怒ってなどいません。ゾウがアリに噛まれても腹を立てないのと同じです」 「なにそれ、あたしたちの事バカにしてるの?」 「凛々華さんのトコよりもおっきい会社だからって調子乗りすぎじゃない? 九條グループ社長の一人娘ってだけで偉そうにしないでくれる?」 九條グループ―― 聞き覚えがある。“Archive Square”に協力する大企業グループの名だ。 「皆さんがこう言うのも無理はありませんわよ? あなたはもう少しクラスメイトの方々に柔らかな物腰で対応できないのですか?」 「他人にどう思われようが興味がありませんから。あなたとは違います」 「……まるで私が常に人の目を気にしているような言い方ですね」 「そう言ったつもりですが。どうせあなたの事ですから、会長に立候補したのもそれが理由ではないのですか」 「ぐぬっ……!」 「あんた言って良いことと悪いことあるのわかんないの?」 「勉強もできて家柄も良い。見た目が良いから男子にも人気ある」 「そりゃ凛々華さんはあんたに全部負けてるよ? だからって死体を蹴るようなマネするなんて趣味悪すぎ」 「……ちょっとあなた、誰もそこまで言ってませんことよ?」 「あ、ちょっと言い過ぎました?」 「でも中身は凛々華さんの方がよっぽど綺麗だよ。結局男も最後は中身で判断するし」 「だよね。こんな年中、変な本ばっか読んでて人を鼻であしらうような人にカレシどころか友達もいるわけないじゃん」 「…………」 「皆さん言い過ぎですわ。……ですが九條さん、あなたにも問題があるという事は自覚なさっておいた方がよろしいのではありませんか?」 にやつく三人を鋭い視線で射抜く九條。いつもの拒絶するような印象ではなく、どちらかと言えば怒りを堪えているようだった。 「気に障ったのなら謝りますわ。ですが多くの人があなたをどういう目で見ているのか、ちゃんと考えた方がよろしくてよ」 三人は九條との会話に満足したのか、充足感に満ちた表情で立ち去ろうとする。九條は憤りを腹の中で消化し、その場を耐えるかに思えた。 しかし突然目線を変え、私達の方に向かって歩き出す。 突然の行動に、三人の女子学生も何事かと九條を目で追う。 そして―― 「私にも付き合っている方くらいいます」 付き合う、というのは特定の異性間で形成される交友関係の呼び方、そのひとつだ。 新たな九條の情報を手に入れる事ができた。私にとっては有益だ。 しかし九條のとった行動は私の理解を超えていた。 「私は、この方とお付き合いしています」 九條は私の横に並び立つ。一同の視線が私に集約された。 「…………」 「……私は浮気などしていない」 「ねぇねぇ、どこでごはん食べるの~♪」 「そうだな。ひまわりの好きな物で私は構わない。それと後ろ向きで歩くのは危険だから止めた方がいい」 心を弾ませながら繁華街の商店を見比べるひまわりに私の忠告は届いていないようだった。 「…………」 「ねぇねぇ、みつきちゃんは何食べたい?」 「……私は別に。ひまわりさんが決めて頂いて結構です」 「りょーかい♪ じゃあここからはひまわりのどくだんじょーだね♪」 いつになく浮き立つひまわりとは対照的に、私と並んで歩く九條の顔つきには影が差していた。 「……どうして何も聞かないのですか?」 学園で半ば強引に私の腕を引いた九條だが、道中ではほとんど口を開く事はなかった。 「私が疑問に思っている事は明白だろう。キミがそれについて気づいていないとは思えない」 「ならばキミが説明できる状況になるまで待っていよう。とりわけ差し迫った事態でもないのだから」 相手が言いよどんでいる時は無理に答えを要求しない。社会のルールにおいての高等手段だ。私も人間の行いが板についてきたようだ。 「……我ながら、愚かな事を言ってしまったと思っています」 「私達を後ろから監視している彼女に言った言葉についてだろうか」 20メートルほど離れた道の角から、凛々華と呼ばれた女子学生の姿が見える。 本人は隠れているつもりなのだろうがあまりにもお粗末で尾行とは言いがたい。私ならもっと上手くやれる。 「我ながらつまらない嘘をついたと自覚しています。責めて頂いて結構です」 「そんな事をするつもりはないが……キミらしくないとは感じた」 激情にかられて思わぬ行動に出るのは人間の性質だ。しかしこれまでの堂々とした九條の対応から、想像がつかなかったのは事実だ。 「……やはり、嘘だったと話してきます」 「待って欲しい。それだとキミの立場が悪くなるのではないだろうか」 「あざ笑うでしょう。あの人達にとって格好の餌ですね」 「ではその事態を回避した方がいいのではないだろうか」 「私に協力してくれるのですか……?」 「こうして共に歩き、恋人と呼ばれる関係を偽装すればいいのだろう? 別段難しい事ではない」 懸念があるとすればこの光景をノエルに目撃される事だが、見つからない事を祈るしかない。 「どうして……?」 「何故私がキミに協力するか疑問に思っているのだろうか?」 九條に助け舟を出す理由は簡単だ。 「まずこの事態はキミにとってそれなりに重要な案件なのだろう。しかもこの状況では私以外にキミの手助けをできる者はいない」 「となればキミに借りを作っておく絶好の機会だと言える。人間社会においては交渉相手に恩を売っておいて損はない」 「しかもキミと会話する機会が増えるのは私にとっても好都合だ。キミや、キミの上司についての情報も手に入るかもしれない」 「以上の点が、キミに協力しようと思った主な理由だ」 「…………」 九條は目を見開いていた。 「私の説明に不明点があっただろうか?」 「……いえ、そうではなく……それは私に言わない方が良かったのでは?」 「何故だろうか」 全くもって九條の言っている意味がわからない。説明を要求したのは九條の方だ。 「……いえ、何でもありません。ふふっ……おかしな人なのですね」 九條は口元に手を当て頬をゆるめた。始めて見た彼女の笑みは上品で新鮮だったのだが、笑われるような事を言った覚えはない。 しかし何故だろうか。今までと違いあまり不快感を感じる事はなかった。 「では申し訳ないのですがお願いできますか? 今日一日、あの人が諦めるまでで構いませんので」 「いいだろう。ひまわりもキミといるのは好きなようだ」 「ふたりとも何おはなししてるのー! ちゃんとひまわりについてこないと迷子になっちゃうよー!」 「迷子になるのはキミだ」 見失ってしまわないよう、私と九條は小走りでひまわりの後を追った。 予期せぬ事態は食事のために立ち寄ったカフェテリアで発生した。 「あんなもの紅茶と呼べません! ドブ水ですドブ水!」 「ドブ水……」 「あかしくん……みつきちゃんがこわいよ……」 店を出て九條の後を追うひまわりと私。 注文を済ませたにも関わらず、商品を受け取り食事を終える事はできなかった。 「せめて口にした後でも良かったのではないだろうか」 九條はカウンターで出された紅茶を見た途端、無言で立ち上がって店を出てしまった。 「飲まなくてもわかります! あんな方法では風味もあったものではありません!」 九條は珍しく声を荒げる。 「値段を見た時に気づくべきでした。おかしいとは思っていたのです。手間を考えればあの値段では採算が取れるはずがないのですから」 ひまわりが選んだ店は安さを売りに若者の多くに利用されているハンバーガーショップだった。 ひまわりは好きな物を選び、私は適当に目のついた物を注文した。 九條にも注文するよう促したのだが、思えばその時点からどこか不機嫌な様子だった。 図書室で飲ませてもらった紅茶を思い出し、セットのドリンクをそれにしたまではよかったのだが。 「見ましたか!? ボタンを押してカップに注いだだけですよ!?あんな何時淹れたかわからないもの私は飲みたくありません!」 彼女が紅茶に対して独自の拘りがあるのは見て取れた。だからこそ粗悪な物を許せなかったのだろう。 そもそも私の配慮も足りていなかったのかもしれない。いつか読んだ書籍では、女性をエスコートする際の店選びは慎重に行わなければならないと書いてあった。 私とひまわりの感覚で決めてしまったのはいささか無用心だった。社会のルールに沿った行動を取らなければ。 「ねぇねぇあかしくん……ひまわりのおなかはもうぺっこぺこだよぉ……」 「別の店を探そう。とはいえ目に入った店を無作為に選ぶ事はできない」 周囲を窺うと柱の影から例の女子学生が顔を引っ込めるのが見えた。 あまり手間取っていると、偽装が見抜かれてしまうかもしれない。 「そうだ、私にひとつ心当たりがある」 「…………」 「どこでもいーよーもう! おなかすいたぁ!! がーっ!!」 九條の口に合う確証はない。それでも私の知る数少ない店の中で、最も可能性が高い店を思い浮かべる。 躊躇う訳があるとすれば、喫茶メントレのマスターに面倒をかける事になるかもしれないということだけだ。 「いらっしゃいませ――おや、赫さんでしたか」 「こんにちは、マスター。今日は食事を摂るために来させてもらった」 「どうぞどうぞ。丁度客足も一段落しまして暇だったんですよ」 「ひまわりめろんそーださん飲む!!」 「かしこまりました。どうぞお座りになってお待ちください」 快く迎え入れてくれたマスターに案内され、カウンターに向かう。 「…………」 「どうしたのだろうか? ここでは不満だったのだろうか?」 「……いえ、そういうわけではないのですが」 九條は店の入り口付近で躊躇いを見せていた。まさか九條ほどの者になれば、一歩店に足を踏み入れただけで提供される紅茶の状態が判断できてしまうのだろうか。 「どうかなさいましたか?」 マスターは足取りの悪い私達を気遣う。 「おや、あなたは」 「……ごきげんよう」 「二人は知り合いなのだろうか?」 「ええ、美月さんのお父上と親交がありまして。美月さんにも何度かこの店に来て頂いた事もあるんですよ」 「そうだったのか。なら安心できる」 既に来た事があるのなら途中で腹を立てて立ち去る事もないだろう。 「…………」 「何か問題でもあるのだろうか?」 知り合いの店であるにも関わらず、九條の表情は冴えない。 「いえ、何でもありません。早く私達も席に着きましょう。ひまわりさんを待たせてしまっては可哀想ですから」 何事もなかったようにスカートを整えながらカウンターへと腰を下ろす九條。 「もしゃもしゃ……おそいよふたりとも……ひまわりはもうちゅうもんしちゃったよ」 「ひまわりは何を食べているのだろうか」 「サンドイッチです。私の昼食用なので出来合いのものですが」 「……マスターの昼食を何故キミが食べている」 「ほえ? おいしそーだったから?」 「回答になっていない」 「構いませんよ。料理ができるまで時間がありますし、よろしければ皆さんでつまんでください。もちろんお代は結構です」 「ありがとうマスター。ひまわりもお礼を言わなければならない」 「もしゃもしゃ……ありがとー♪ もしゃもしゃ、すっごくおいしいよー♪」 「いえいえ、どういたしまして。ではお二人もご注文をどうぞ」 私と九條は渡されたメニューの中から軽食を頼む。 「承りました。それでは少々お待ちください」 出来上がった料理を食べ終え、満たされた食欲を持て余す。 「食後のお飲み物は何になさいますか?」 「くりーむそーださん!」 「かしこまりました。お二人は?」 「私は水で――いや、やはり別の物にしよう」 飲料の欄に目を通す。 「九條、学園でキミに飲ませてもらった紅茶はどれだろうか」 「えっ……?」 「あれと同じ物をもう一度飲みたいのだが」 「赫さん、美月さんの淹れた紅茶を飲んだのですか?」 「ああ、あれは何と言う種類だったか」 「今日淹れて行ったのはアッサムオレンジペコのストレートティーです」 「マスター、同じ物はあるだろうか」 「アッサムのオレンジペコはメニューにありますが……美月さんの淹れられた物と比べられては期待に応えられないかと」 「どういう意味だろうか」 「ウチの店は喫茶店の体をとっていますが、本来珈琲を主に取り扱っている店ですから」 「美月さんの使ってらっしゃる茶葉と比べれば安物ですし、同じ味は再現できないかと」 「茶葉だけのせいにするのは聞き捨てなりません」 大いなる鼓動が動き出すのを感じた。 「そもそも自分の足で良質な茶葉を探す事も紅茶を淹れるために必要な事です」 「私はこれまでいくつものお店に足を運んで実際に確かめて来ました」 「そもそも粗悪品でなければどんな茶葉でも淹れ方次第ではおいしく頂く事ができます」 「簡単に素材の良し悪しだけで決め付けてしまうのは同意できません」 「これは手厳しい。頭が上がりませんね」 本来年長者であるはずのマスターが少女一人にたじろいでいる姿は珍しかった。 「そうだ、もし良ければキッチンをお貸ししますので、美月さんに淹れて頂くというのはどうでしょう?」 「……私が、ですか?」 「キミにしかできない事なのなら、私もキミにお願いしたい」 「…………」 あの感覚を是非とももう一度体験したい。これまで人間界で生活した中で出会った事のない感覚だった。 「……わかりました。それでは少しお待ちください」 カウンターを迂回し、客席とは反対側に立つ九條。 私は期待していた。人間の嗜好というものに限りなく近い感情が芽生えている自分にも―― 「ほへ~……」 「……………………」 「あれ? めろんそーださんはどこへ?」 「お待たせしました」 カウンターに座る私、ひまわり、そしてマスターの前に紅茶の注がれたカップが差し出される。 「ねぇねぇみつきちゃん。めろんそーださんのすがたがどこにもないよ?」 「満足できなければ後でマスターに作ってもらえばいい。ひとまず九條の淹れた紅茶に口をつけてみればどうだろうか」 「え~、さっきのんだやつでしょ~? あんまりおいしくなかったのに……」 「昼間お出ししたのはストレートでしたので、今度はひまわりさんの分だけミルクティーにしてみました」 言われて見ればひまわりのカップに注がれた紅茶だけクリーム色をしていた。 「ほんとだ。色がちがうよー」 「本来アッサムはミルクティーに適した茶葉ですから、甘味も加わって丁度良いかと」 私達はほぼ同じタイミングでカップに口をつけた。 「――――」 舌に上に熱と共に透明感のある甘味が広がる。 喉を通る際に香りが鼻を突き抜け、葉の匂いであろう爽快感に包まれた。 「……おいしいですね」 「心地よさがある」 「んー! おいしー! ひまわりこれなら大好きだよー♪」 「ありがとうございます」 九條は表情こそ普段と変わらぬ凛とした雰囲気だったが、少なくとも気を悪くしている様子はなかった。 「同じ素材を使ってこの結果では、全くもって言い訳のひとつも思いつきませんね」 「だいじょーぶだよ、ますたーくんはくりーむそーださん作れるんだから」 ひまわりはマスターの肩をえらそうに叩く。 「慰めの言葉、ありがとうございます」 子供にわかったような口を聞かれても、マスターは演技かかった口調と表情でひまわりに合わせていた。 「それにしても同じ材料で違いが出るということは、九條は何か特別な事をしているのだろうか?」 「いいえ、特に何もしていません」 「では何故」 「私にもご教授願いたいですね」 「…………」 九條は口元に手を当てて言い淀んでいた。 「教えられない事であるのなら、無理に言わなくても構わないのだが」 「いえ、そうではなく……本当に聞いて頂けるのですか?」 聞いて頂ける? 教えを請うのは私達だというのに、言葉の使い方がおかしいのではないだろうか。 「話を聞く時間はある。面倒でなければ話してほしい」 「……わかりました」 九條の瞳に力強さが生まれるのを私は見逃さなかった。 「まず今回使用した茶葉についてですがアッサムのオレンジペコになります」 「ひまわりさんはオレンジ味だと誤解なさったようですが、実はひまわりさんだけではなく誤解している方は少なくありません」 「オレンジペコという特定の茶葉は存在しません。これは茶葉の形状、すなわち大きさを表す単語になります」 「等級に関しては他にも“《フラワリー・オレンジペコ》〈FOP〉”、“《フラワリー・ブロークン・オレンジペコ》〈FBOP”、“《ブロークン・オレンジペコ・ファニングス》〈BOPF”などの種類があります」 「ねぇねぇあかしくん、みつきちゃんがわけのわからない言葉をつかいはじめたよ」 「安心していい、私にもわからない」 「次に今回使用した茶葉、アッサムについてですが先ほど申しあげたように本来ミルクティーとして好まれる事が多い茶葉ですね」 「私はストレートティーの方も好きなので単純にどちらが上という事はありません」 「アッサムとはその名の通り、インドのアッサム地方で栽培された品種です。アッサムに限らず、茶葉の名称は産地の名前から取られている事が多いですね」 「有名な茶葉としては他にもダージリンやニルギリ、ウバなどが挙げられます。この辺りだと聞いた事がある方も多いのでは?」 「ちなみに私が一番好きなのは……悩みどころですがやダージリンのセカンドフラッシュでしょうか」 「高価な物が必ずしもおいしいとは思いませんが、マスカットフレーバーを持つ希少なダージリンは格別ですね」 「ちなみにマスカットフレーバーとはマスカットのように爽やかで品の良い香り、という意味です。オレンジペコと同じく、マスカットの味がするわけではないのであしからず」 「では次はいよいよ紅茶の淹れ方についてご説明します」 「まず用意するカップやティーポットに関してですが、もちろん何でも良いという訳ではありません。ティーポットは必ず銀製やガラス製、または陶磁器を使用してください」 「一般的な家庭で使われている鉄製ですと、紅茶の中に含まれるタンニンという成分とポットの鉄分が化学変化を起こしてしまいます」 「その場合、紅茶の風味が損なわれてしまったり、色が黒ずんでしまいますので注意が必要です」 「カップにも同じ事が言えますが、カップの場合は色にも気を遣わなくてはなりません。紅茶の色が反映される白色がベストです」 「道具に関してはこのくらいですね。では実際に紅茶を淹れる工程についてご説明しましょう」 「まずはお湯を沸騰させます。温度はできるだけ高温が望ましいので必ず100度前後まで温めて下さい」 「お湯が沸騰したらティーポットとカップにお湯を注いでください。これは事前に道具を温めて置くという意味があります」 「紅茶の味と温度は密接に関係していますから、できるだけ温度を高く保つための処置になります」 「ある程度ティーポットが温まったらお湯を捨て、茶葉を入れます」 「茶葉の量はカップ一杯分につき大体3gほどで結構です。当たり前の話ですが、ポットに入れる茶葉の量で味が変わってしまいますのでお好みに合わせてください」 「茶葉を入れ終わったらその中に沸騰したお湯を注ぎます。ここで注意点がひとつあるのですが」 「ポットにお湯を注ぐのはできるだけ高い位置から叩きつけるようにしなければなりません」 「これは抽出時に“ジャンピング”という現象を起こりやすくするためです」 「“ジャンピング”とはポットの中で茶葉が上下へ泳ぐようにして葉を開かせる事を指します」 「これが起きると紅茶の成分がよりお湯の中へ溶け込みますので、香り高い、よりおいしい紅茶になります」 「抽出する時間は大体3分前後で良いでしょう。細かい茶葉ほど短く、大きな茶葉ほど抽出にかける時間は長くなります」 「時間が経ちましたらカップに注いでいたお湯を捨て、茶こしを通してまわしながらカップに注ぎます。ポットの中にある紅茶は残さずカップに注いでください」 「ちなみにポットの残りが少なくなるほどおいしいと言われ、最後の一滴は“ベスト・ドロップ”と呼ばれていますので必ず最後の一滴まで注いでください」 「あ、ひとつ言い忘れていましたが、紅茶に使用する水はミネラルウォーターではなく水道水で構いません」 「紅茶には軟水の方が適しているため、硬水であるミネラルウォーターは紅茶には合いません」 「ヤカンに水を汲む際には、ポットにお湯を注ぐ時と同様できるだけ高い位置から注いであげてください」 「こうする事で水の中に空気を多く含み、茶葉に空気が付着する事で“ジャンピング”が起こりやすくなります」 「以上が紅茶を淹れるための基本的な工程になります」 「…………」 「…………」 圧倒的な知識の流れ、洪水ともいえる講義の奔流が収まった。 「あっ……」 自らに向けられた視線に気づき、罰が悪そうに俯いた。 「恥じる事はない。勉強になった」 「……本当にそう思っているのですか?」 「知識の量は多ければ多いほど人間としての価値がある。私はそう思っているのだが違うのだろうか?」 「望まれない知識など、意味はありません」 「役に立つかどうかで区別してしまっては、皆同じ教養しか持ちえなくなる。それではつまらないと私は思う」 「…………」 「ひまわりもね、おはなしはよくわかんなかったけど、みつきちゃんの紅茶さんはおいしいってこと知ってるよ」 「私も味を左右するのは素材ではなく経験と努力が最も大切である事を再確認させて頂きました。非常に有意義でしたよ」 「……お役に立てたようで光栄です」 人間は各自異なる趣味や嗜好を持っている。私が植物の栽培に傾注するのも無意識下で人間に近づこうとしている証拠なのかもしれない。 他者を拒絶しあらゆる事柄に興味を示そうとしない九條も例外ではなかった。 しかし私の前で雄弁に語った九條と、他の者から見えている九條は別人とさえ思えるほどの温度差がある。 何故これほどまでに違いがあるのだろうか。 仮に片方が仮面であるとすれば――素顔を隠さなければならない理由を私はまだ知らない。 喫茶メントレを出ると、通りの向こう側に設置された電柱の影に例の女子学生の姿を見つけた。 すなわち関係の偽装は継続される。九條の情報を掴みたい私にとっても好都合だった。結果的に先ほどまで回っていた繁華街に帰着した。 複数の商店が並び立つ繁華街では目的がなくただ歩いているだけでも不自然ではない。周りを見渡せば私達以外にも同じような行動を取っている若い男女の姿が見受けられる。 「ねぇねぇ、これからどこいくの?」 「特に目的地は設けていない。どこか行きたい場所はあるだろうか」 「私、ですか……?」 「人間はこういった場合、趣味に興じたりするのが普通なのだろうが、生憎私はそのための施設について疎い」 「ひまわりに任せてしまうのも不安だ。できればキミに先導してもらいたいのだが」 「私もその手の事に詳しくありません」 「ふむ、困ったな」 歩きながら連なる商店に目をやると書店が近づいている事に気づいた。 「そうだ、書店で物色するというのはどうだろうか。キミも興味はあるのではないだろうか」 書籍に目を落とした九條を思い返す。大量の書籍が納められた図書室に居たという事は、読書に対して少なからず執着があると想像できる。 しかし―― 「別に特別本を好んでいるというわけではありません」 私の想像は見事に裏切られた。 「何故だろうか。昼間キミに会った時、読書をしていたはずだ」 「……私が読んた事があるのはこの一冊だけです」 九條は鞄の中から一冊の文庫本を取り出す。 よく見ると背表紙の反対側、確か小口と呼ばれる箇所がうっすらと茶色に染まっている。 表紙や背の部分も随所に装飾の剥がれが見て取れ、長年にかけて使い込まれた印象を受けた。 「それは?」 「……“星の銀貨”という童話が元になった小説です」 書籍の題名を聞いても筋書きは浮かび上がらない。当然だ、創作作品に関してはほとんど目を通した事がない。 私が主に精読するのは人間界のマナーや常識について。それとガーデニングに関する専門書くらいだ。 「どういった話なのだろうか?」 「……くだらない夢物語ですよ」 「愛読書に対する批評とは思えないな。内容の是非に関係なく、人間とは夢に焦がれる生物だだろう。私にも興味はある」 「…………」 「……あるところに貧しい少女がいました。少女の持ち物といえば、穴の開いた服とひとかけらのパンくらいでした」 「やがて彼女はお腹を空かせた男性に会い、なけなしの食料を譲ってしまいました」 「少女にも余裕がないのだろう? どうして彼女は他人に食料を分け与えてしまったのだろうか」 「少女はとても優しい心の持ち主だったからです。そんな彼女の前に次々と貧しい人達が現れました。彼女はそのたびに、自分の持ち物を与えてしまいました」 「やがて食べる物も着る物もなくなり、少女は星空を見上げて立ち尽くしていました」 「……すると空から星が降り始め、その星は銀貨に変わりました。少女は銀貨を拾い集め、裕福に暮らしました」 「――というお話です」 「荒唐無稽な現象だ。実際に星が降り注げば、地球は壊滅的な打撃を受けてしまう」 「童話ですから。現実にこんな話はあり得ません」 「現実に辟易している人間が多いからこそ、空想は望まれるのではないだろうか」 「……私はこの話が好きではありません」 「この少女がいるのが童話の中ではなく現実だったとしたら、最後に救いなど訪れなかったでしょう」 「……世界はそれほどまでに優しくなどありませんから」 九條の発言と行為は矛盾しているのではないだろうか。好きでもない書籍――それしか読んだ事がないという事実は背反している。 「では何故キミはその本しか読まないのだろうか? 私にはキミの真意が理解できない」 「あなたに答える必要はありません」 九條は明確に拒絶の態度を取った。 「気を悪くしたのなら謝る。確かに私には関係のない事だ」 年季の入った一冊の書籍が、九條の目的や上司の情報に繋がるとは思えない。 「…………」 私達の間に重たい空気が流れ会話が途切れる。 「私は何か気に障る事を言ってしまったのだろうか」 「別に――何でもありません」 「そうか」 九條が何でもないと言うのならそうなのだろう。 「あちぃな、おい」 突如、行き手を遮る影の出現に私達は足を止めた。 邪魔にならぬよう、道を譲ろうとしたのだが―― 「おいおい待ってくれよ。せっかくアンタの姿を見つけたんだ。話くらい聞いてくれないか」 「あかしくん、このおじさんとしりあいなの?」 「いや、知らない人間だ。九條の知人ではないだろうか」 「いえ、私も面識はありません」 「何だ、つれねぇなぁ。何度も二人きりで楽しい時間を過ごしたってのに」 上下を茶色いスーツで固めた男は卑しく口元を歪めた。 「まあいいさ。何もアンタらのお楽しみを邪魔にしに来たって訳じゃねぇ。ほんの少しだけアンタに聞きたい事があるだけだ」 「聞きたい事とは一体何だろうか?」 「アンタの連れ、どこにいるか知らねぇか? 用があって探してるんだが連絡が取れなくて困ってるんだ」 「ああ、なるほど」 男の正体について想像がついた。この者はノエルと繋がりのある裏社会の人間なのだろう。 人間の社会に溶け込むため様々な手段を講じる必要があり、それは普通の人間よりも非合法な手段も厭わない人間の手を借りた方が好都合だったからだ。 男の風貌から受ける怪しげな印象も、彼がそちら側の人間だと考えれば納得がいく。 「生憎だが、私にもわからない。数時間前までは学園にいたのだが」 「アンタでもわからねぇのなら地道に探すしかねぇか。ったく、電話にもでねぇしあんまり手間かけさせるんじゃねぇよ」 「すまない、ノエルに会ったらキミが探していたと言っておこう」 「あ、俺が文句言ってたのは忘れてくれ。大事な依頼主のご機嫌は損ねたくないからな、ヒヒヒ」 あまり品が良いとは言えない笑い声を漏らしながら、男は胸の内側から何かを取り出す。 「アンタにも渡しておく。何か困った事があったら何時でも電話して構わない」 手渡されたのは仕事などで取引相手に渡す氏名や会社名の書かれた紙だった。表面は白い下地に黒文字と至ってシンプルな作りだ。 「江神探偵事務所社長――江神善太郎」 「社長っつっても社員もいねぇし事務所も構えてねぇけどな。無駄な経費は削減するに限るだろ」 「では何故事務所と表記しているのだろうか」 「まあ昔の名残だな。俺が起こした会社じゃねぇんだ。ジジイのジジイのそのまたジジイか誰かが遥か昔に始めたんだよ」 「今日までその名が残ってるんだから歴史だけは一人前だな。そんなものは一円の金にもならねぇがな」 「おじちゃんおじちゃん、ひまわりにもちょうだい!」 「おう、いいぞ。ちゃんとお父さんかお母さんに渡すんだぞ。困った事があったら親切な人がいるから相談してみればってな」 「あと言っておくが俺はまだおじちゃんなんて呼ばれる年じゃねぇ。こう見えてもまだギリギリ20代なんだよ」 男なりの冗談なのだろうか。サングラスで目元は覆われておりはっきりとはしないが、一般的な20代の人間とは一線を画しているように見受けられる。 「きゃっ――!?」 隣に立つ九條が小さく驚きの声を上げてバランスを崩した。 走り抜けていった通行人と接触したようだ。 「お嬢ちゃん、大丈夫か?」 「……別に、何ともありません」 「本当か? スられた物がないか確認した方がいいぜ」 「たかが通行人と接触したくらいで心配するような事でもないと思うのだが」 「あめぇな。世の中にはスリを専門にする業者だっているんだぞ。俺も少し前に仕事を依頼した事があるしな」 「……なくなった物はありません」 九條はいぶかしみながらも所有物の確認を終えたようだ。 「そうか、運が良かったな。じゃあ俺は忙しいから。アンタも女遊びはほどほどにしておいた方がいいぜ」 「まあ俺は仕事が増えて助かるんだけどよ」 江神は帽子の位置を正して人ごみの中へと消えていった。 「……あなたのお知り合いだったのですか?」 「間接的にはそうだと言える。ノエルの知人だったようだが、詳しい事は私も関知していないので不明だ」 ノエルを探していたらしいのだが、あの男に何かを依頼したのだろうか。 どちらにせよ私が深く考えても意味はない。ノエルに任せておけば問題はないのだから。 「さて、これからどこへ行こうか」 思わぬ人間との会話に時間を取られたが、現在私達は恋人関係を偽装している最中である。 あまり立ち止まったままでいては後ろを追っている女子学生に見抜かれてしまうかもしれない。 「行くあてがないのでしたら」 「行きたい場所があるのだろうか」 九條の口元が僅かに緩んだ気がした。 「紅茶専門店がこの近くにあるのですが」 「ああ、なるほど」 そんな物があるのならば、九條がそこへ向かうのは必然だ。 メントレでの光景が蘇る。あっけに取られた顔のひまわりが目に浮かんだ。 九條に案内された紅茶専門店での用を済ませ、駅前の通りに出る。 店内には豊富な種類の紅茶が陳列されていたが、私には僅かに色が違うといった程度の差異でしか区別ができなかった。 「ひまわりさん、どうかなさいましたか? 先ほどから元気がないように見えるのですが」 「ひまわりはね、みつきちゃんがおいしいみるくてぃさんをいれてくれたらそれだけでまんぞくなんだよ」 「?」 紅茶店で九條が説明をしている間、私はともかくひまわりには到底理解の及ぶ話ではなく、その場で静止していた。 ノエルだけではなく、九條にもひまわりを意のままに扱う術があるようだ。私も見習いたいところだが、九條と同等の知識を得るには膨大な時間が必要で到底真似できない。 「少し羨ましいな」 「何か言いましたか?」 「独り言だ」 しかしサンプルとしては心もとないのだが、私を除く二人はひまわりの扱いに長けている。 まさか私の方に問題が―― いいや、そんなはずはない。私は人間らしく振舞えている。そのためにコミュニケーションに関する書籍を読み、日夜業務をこなしているのだ。 「あ、《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉じゃない」 背後から声がかかる。私をその名で呼ぶ者は一人しかいない。 「やっほー、偶然だね。いや、これもまた“《エピストゥラ》〈運命の道標〉”の導きか……」 「今日もここで店を開いているのだろうか」 「そうよ。今日は開く予定なかったんだけど……ああっ! 思い出したらまた腹が立ってきたわ!!」 「面倒な事でもあったのだろうか」 「話してるだけで八つ当たりしそうだからこの話は忘れて。それより今日は一人じゃないのね」 消閑の綴り師はひまわりと九條を眺める。 「あ、もしかしてこの子が昼間探していた子?」 「ああ。訳あって私が今預かっている」 「ひまわりだよー♪ おねえちゃんはヘンなカッコして何やってるの?」 「変とは失礼な。思った事を素直に口に出しちゃダメだって先生に教わらなかった?」 「よくわかんなーい♪」 「《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉、親の教育がなってないよ」 「私は親ではない」 「でも預かってるんでしょ。だったらどんなに短い間でも今はあなたがこの子の親代わりなんだから」 「そういうものなのだろうか」 ひまわりと私の間には血縁関係もなければ戸籍上の繋がりもありはしない。 しかし消閑の綴り師の言う通り、ひまわり程度の幼い子供にとっては感受性の高い時期である。はからずも私はひまわりの模範となるべき立ち位置にいるのかもしれない。 「わかった。気をつけるようにしよう」 私は日々常識的な人間であるように心がけている。そんな私を模範にしても悪影響は出ないはずだ。 「で、後ろの彼女はどちらさま? もしかして《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉の恋人?」 「違います」 「ん? 違うのだろうか?」 「え、あ、いえ……間違ってはいませんでしたね」 「付き合い始めてまだ日が浅いの?」 「ああ、正確には今日からだ」 「うわっ、まさかのできたてホヤホヤ!? おめでとう! うらやましい! 財布落とせ!」 「最後の一言だけ祝いの言葉ではなかったようだが」 「ハッ、つい本音が出ちゃったわ。いけない、あの女のせいで心が荒んでいるんだわ、どこまでも忌々しいクソ女め」 私の知らないところで消閑の綴り師も苦労している風に見えた。 「よぉし! それじゃ、二人の門出を祝してあなた達の未来を占ってあげようじゃないの」 「うらない? ひまわりもうらなってほしい!」 「オーケーオーケー。あなたの未来はね……」 「ドキドキ」 「ズバリ! この後、《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉に好きなお菓子を買ってもらえるでしょう!」 「ほんと!? やったー♪♪」 「待ってほしい。それは必然的に私が買わなければならないという事ではないだろうか」 「いいじゃんそれくらい。あなたが無邪気に喜ぶ子供の笑みを絶やそうとしない限り、今の予言は的中す・る・わ」 「随分と他人に押し付ける要素の強い占いだ」 この予言は当たるだろう。ひまわりを期待させてしまったのだ。もしもその期待を裏切ってしまえば面倒な事になる。私にもできる至極簡単な予言だ。 「後ろのあなたは何か占ってほしい事ないかしら?」 「……………………」 九條は消閑の綴り師の問いかけに沈黙した。しかしそれが長く続く事はなく―― 「いえ、結構です」 明確に拒絶の意を示した。 「どうして? サービスだからお金は取らないわよ?」 「金銭の問題ではありません。私は占いが好きではありませんから」 「好きではない、という事は」 「はっきり申し上げれば、科学的根拠もない荒唐無稽な言動で他人を惑わし、尚且つ収入を得る行為には同感できないのです」 「なるほど、キミの言う事も一理ある」 「ちょ、ちょい待ち! 確かにそういう詐欺師まがいのインチキ占い師もいるだろうけど、私は違うわよ!」 「何が違うというのですか。まさか未来を予見できる力があるというのですか?」 「それは……ないけども」 「ではあなたもインチキ占い師と同じではありませんか。自分の事を何も知らない他人からの助言など、迷惑以外の何物でもありません」 「っ――!?」 九條の指摘は消閑の綴り師の感情を逆撫でするのに十分だったようだ。目を見開いた顔がやがて怒りに変わる。 かと思えば口元を緩め、笑みを浮かべる。私には波立つ感情を抑えているように見て取れた。 「わかったわ。ここまで言われて立ち上がらなければ消閑の綴り師の名が廃るってものよ」 立ち上がる、とは比喩だったらしく消閑の綴り師はそれまで通り座ったまま、台に身を乗り出した。 「《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉、前に渡した名刺持ってる?」 「名刺? そのような物をもらった覚えはないのだが」 消閑の綴り師から受け取った物といえば、一枚のタロットカードだけだったはずだ。確かまだポケットの中に入れたままである。 取り出してカードを確認するが、西洋風のレイアウトの裏側はタロットの図柄が描かれているだけ―― 「いや、よく見ると文字が記載されている。これはメールアドレスだろうか」 「ぴんぽーん。気づくのが遅かったみたいだけど」 消閑の綴り師の手が差し出される。私は譲渡されたカードを渡した。 「これ、名刺ってだけじゃなくて、実は特別な占いが受けられる権利なのよ」 「前のとは違う物なのだろうか」 「全くの別物ね。これは私のオリジナルなんだから」 消閑の綴り師のオリジナル、と聞いて全く期待感が煽られないのはどうしてだろうか。 「本当はカードを持ってる本人にするんだけど……私の貞操は優真君に捧げるって決めてあるからごめんね」 謝られたようだが私には心当たりがなかった。 「それに《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉にしても私の名誉は回復しないわ。当の本人じゃなきゃ意味がないもの」 消閑の綴り師の視線が九條に向く。 「私なら結構ですと申し上げたはずですが」 「別に強要はしないけど、自分で確かめないのなら私の占いをインチキ呼ばわりした事訂正してもらうわ」 「発言を撤回するつもりはありません。占いなど、所詮オカルトです」 「ならば彼女に付き合ってやればどうだろうか。キミが何かを失ったり損益を被る話ではないと思うが」 「…………」 「さすが《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉、もっと言ってあげて」 「消閑の綴り師の肩を持つわけではない。もちろん強制もしないが、私達は監視されている立場である事を忘れない方がいい」 トラブルを起こしている場面を見られるのはお互いにとって避けた方がいいだろう。私も目立ちたくはない。 「……わかりました」 九條も私の意図を理解したようで申し出を了承した。 「そうと決まればちゃちゃっとやるわよ。座って手の平を差し出して」 本意ではないらしく、九條の動きはゆっくりとしていた。それでも指示された通り、台の上に九條の白くしなやかな指が差し出された。 「“《ボッカ・テラ・ベリタ》〈真実の口〉”って知ってる?」 「答えなければ占いが終わらないと言うのなら答えますが」 「知ってるなら説明はいらないわね」 私の知らない単語だった。興味はあったが邪魔をしてはいけないと思い黙っていた。 「それにしてもそんなに冷たい態度取らなくてもいいじゃない。そんなに私の事気に入らないの?」 「……別にあなたの事を特別に嫌悪している訳ではありません。私は誰に対してもこうですから」 「ツンデレか。私の小説にはよく出てくるけど、実際見るのは始めてだわ。もし良かったら参考までにもっとお話したいんだけど」 「急いでますので早く終わらせて頂けませんか」 「……ますます興味湧いてきちゃったわ」 消閑の綴り師は台の上に置かれた九條の手を取って自分の顔に近づける。 「キレイな手ね。私よりも白くて細い」 「それが占いの結果に関わるのですか」 「ちょっと羨ましかっただけよ。ん――? くんくん」 九條の手を眼前まで近づけた消閑の綴り師の鼻が小刻みに動く。 「あ、なんかいいにおいがする。渋いようでほんのり甘い香り」 「――ちょうど良かったわ」 私達三人は言葉の意味を理解できなかった。 しかしすぐに消閑の綴り師の行動によって明るみになった―― 「ぱくっ!」 「きゃああっ――!?」 九條の指が消閑の綴り師の口へと突っ込まれた。 いや、無理やり口の中に誘導されたと言った方が正しいだろう。 「もごもご…………ん……ちゅ……ちゅ…………」 加えた指を離すどころか味わっているようにさえ見える。 不意のアクシデントなどではなく、消閑の綴り師が意図して行っている事らしい。 「い、いや……!」 九條は必死に腕を引き戻そうとするが、予想外の力があるのかしなやかな指は成すがままにされている。 「……ちゅ……ちゅ……れろ……」 「ねぇねぇあかしくん、みつきちゃんがたべられちゃうよ」 「痛みを感じてるようには見えない。喰われているわけではないだろう」 「た、助けて……! おねがい……!」 「助けた方がいいのだろうか」 「そう……です、おねがい……します……!!」 「九條が嫌がっている。止めてやってくれないだろうか」 「ふぉっ――――ッ!?」 消閑の綴り師は目を限界まで見開き、やがて九條の指から離れた。 「はぁ……はぁ……」 「ごちそうさまでした。いやぁ、良いお味でした♪」 消閑の綴り師は鞄の中から二枚のハンカチを取り出す。 「はい、これで拭くといいわ」 まるで料理を食べ終えたように自分の口元を拭いながらハンカチを差し出す。 「結構です! 自分の物がありますから」 九條はもう二度と近づきたくないらしく、距離を取って自分の指を拭いていた。 「それで占いの結果はどうだったのだろうか」 「バッチリわかったわよ。私の舌に間違いはないわ」 「こんな事で何がわかると言うのですか! ただの暴挙でしょう!」 九條はいつにも増して拒絶反応を示していた。当然か、私の知る限り他人の指を了解なしに舐める行為は常識的とは言えない。 「まあまあ、落ち着きなって。あなたの秘密、ちゃんとわかったから」 「えっ……?」 九條の顔つきが凍る。まるで自分の命を人質に取られたように。 消閑の綴り師はハンカチを台に置き、九條を見上げながらこう言った。 「あなた、“《フール》〈稀ビト〉”でしょ」 「ハァ、ハァ……」 「笑えるくらい遅ぇな」 「きゃっ――!?」 白昼堂々の狩り。 《・・》〈私様〉が軽く押しただけで盛大にぶっこけた偽物ちゃんににじり寄る。 「おーおー、かわいそうに。私様も傷ついたんだぜ? この孤独な心……歪んじゃうぜぇ」 「おめぇさぁ……ちょろっと調子に乗りすぎちゃったかなー?」 法の下に裁かれてれば幾分、幸せだったっていうのに。 馬鹿野郎が――――翼への憧れは叶わないから詩的であって、手に入れればもがれる日に怯えるだけだ。 “《フール》〈稀ビト〉”に一歩づつゆっくりと近づく。 この足音が止まる時、命の時計も止まるって事をわからせてやるように。 「ひぃぃぃぃ――!? く、来るなぁ――!!!」 まるで赤ん坊だ。恥を知れ恥を。自業自得なんつーありふれた言葉は、ルーツは知らずとも日常的には使えるだろうが。 「来るなぁ、ハハハッ! 来ちゃうぜ。オシゴトだからな」 生存競争と弱肉強食。無抵抗のアホ面を殺すのは性に合わないが、ちょろっと借りがあるからな。 「ぐぅっ――!! ああああああああぁぁぁぁぁ――!!!」 「おいおい、中途半端だなぁ。“人を呼ぶ”って決めて叫んでるんだろ? だったらもっと喉が焼けるくらい叫んでみろよ!」 「本当に生きていたいって思ってんのか? 私様は、おめぇみたいなのに甘くないぜ」 “《フール》〈稀ビト〉”は地面に転がったまま身体を押さえて身悶える。 目の前で起きた変化に、仕入れていた状況との統合性は取れた。 「ハアッ……ハアッ……」 “《フール》〈稀ビト〉”の“《デュナミス》〈異能”が解けた……? どんな素顔がちょっくら拝んでやるか。 「えらい美人さんだぜ……」 ま、私様ほどじゃないにしろ、私様と比べられるくらいだ。 「っ――!!」 いや、比べられるほどってことは、かなり高レベルってことだよな? そもそも私様の美貌っつったらあれだ、業界ナンバーワンアイドルなわけだし、並び立つもののいない頂点なわけだし。 「……なぁぁぁっ! どうでもいいこと考えちまったぜ。《シラフ》〈素面〉だからこんなことになるん――――」 「だぜ……?」 路地に立てかけられていた鉄パイプが倒れるのはいいとして、それがうまい具合に私様の行く手を阻むとは運が良い。 「――!!」 「で? でー!? そっからどうすんだー!?」 こんなもん、私様にとっちゃ障害にすら―――― 「うわぁ、大丈夫かあんた!?」 「……………………」 人気者は辛い。野次馬に嗅ぎつけられた現場じゃ、自由に暴れることもできやしない。 「え、あれ、もしかして君は――」 まあいいや。顔は覚えたし。すぐに追いつく。 「り、Re:non様!?」 「ふざけ散らしやがって……捻り潰してやんぜ」 「あなた、“《フール》〈稀ビト〉”でしょ」 私の聞き間違いではない。 消閑の綴り師は九條に向けて確かにそう発言した。 「わ、私は……」 「大丈夫よ、ただの人間にはわからない言葉だもん。《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉には何の事だかさっぱりでしょ?」 釈然としないのは“《フール》〈稀ビト〉”という言葉の意味ではない。 何故“消閑の綴り師”の口からその言葉が出たのか―― 彼女は九條が“《フール》〈稀ビト〉”だと言った。予期せぬ情報に衝撃を受け、私の思考は噛み砕くのに必死だった。 「“《リーディング》〈虹色占い〉”に間違いはないわ。これで私がインチキ占い師じゃないってハッキリ――」 「あ、ちょっと待ってよ――!」 静止の言葉を振りほどき、九條は駆け出した。 「みつきちゃん――!?」 後を追うひまわり。しかし―― 「ぎゃふん――!?」 勢いあまって転倒してしまう。 「ふぇぇぇええぇぇえぇぇ……!!」 「大丈夫? 絆創膏いる?」 先ほどまでと態度に変化が見られないのは消閑の綴り師ただ一人だった。 「先ほど九條に言った事は一体……」 「あ、“《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉”は知らなくていい事だよ。あんまり人に知られたくない話らしいし」 消閑の綴り師は勘違いをしている。私が普通の人間であり、 “《フール》〈稀ビト〉”の意味合いを理解できなかったと。 彼女がどうして“《フール》〈稀ビト〉”について知っているのか、気にならないと言えば嘘になる。 まさか消閑の綴り師は“Archive Square”に属する者なのだろうか―― 「あかしくん!」 「どうした、傷が痛むのだろうか」 ひまわりは零れそうな涙を拭い、身体を起こした。 「みつきちゃんを追いかけなくちゃダメだよ! すっごくかなしそうな顔してたんだから!」 「……そちらの方を優先するべきか」 消閑の綴り師についても気にはなるが、重要なのは九條の方ではないだろうか。 理屈ではなく、咄嗟の判断としてそう思えた。 「私は九條を追う。キミにはまた会いたい」 「あかしくん! あかし号の出番だよ!!」 九條を追うにはそちらの方が都合良さそうだ。ひまわりの前に跪き、背中を開放する。 「よいっしょっと! とうじょうかんりょうでありますたいちょう!!」 隊長? よくわからないが準備を終えたようだ。 最後に消閑の綴り師の方を確認するが、彼女はまだ一人でぶつぶつと呟き、自分の世界にいるようだった。 彼女に別れの言葉を残さぬまま、私はひまわりを背負って走り出した。 道行く人間に話を聞き、目撃情報を元に進んでいくと見覚えのある場所へとたどり着いた。 手すりで囲われた向こうには夕焼けに染まる東雲の街並みが広がっている。 九條は風に揺れる長い髪を抑えながら市街を見下ろしていた。 「…………」 ひまわりを地面に下ろしてゆっくりと歩み寄る。しかし声をかけるのを思いとどまった。 完成された一枚の絵画に上から手を加えてしまうには惜しかった。 そうさせるには十分なほどに目の前の少女は美しく、同様に儚げで壊れてしまいそうな危うさをはらんでいる。 絵の中の少女がこちらを振り返った―― 「どうして追って来たのですか」 「キミが突然走り出したから」 「あかしくんあかしくん、みつきちゃんが言ってるのはたぶんだけどそういうことじゃないんだよ?」 「そうなのだろうか」 「…………」 二人にわかる事が私にはわからない。人間と“《イデア》〈幻ビト〉”の違い――と決めつけるのは簡単だ。 しかし私は九條が“《フール》〈稀ビト〉”であるかどうかを聞けないでいた。 人間ではない私でもそれを口にする事を躊躇わせる何かの存在を感じていた。 「……聞きたい事があるのでは?」 「そうだな。疑問はある。知りたいと思う感情も」 「…………」 「おかしいな」 「えっ……?」 「疑問はあって問いかける相手も目の前にいる。しかし回答を得るための言葉が出てこない」 「……違う。そうではない。言葉は用意されているのにキミに晒して良いのか迷っている、と言った方が正しいだろうか」 「それは何故ですか?」 「何故だろうな。理由は不明だ。ただ漠然とそう思う。キミなら、人間であればこの感情の正体についてわかるだろうか」 「……さあ。私も人間ではありませんから」 自嘲気味の微笑みを皮切りに私の知りたかった情報について話し始めた。 「あの方の言う通り、私は“《フール》〈稀ビト〉”です。その名の意味は知っていますね?」 「ああ、“《イデア》〈幻ビト〉”の“《デュナミス》〈異能”を得た人間の事だろう」 「……私も“ナグルファルの夜”以降に発現した“《フール》〈稀ビト〉”の一人です」 “ナグルファルの夜”――今からおよそ七年前に起きた未曾有の混乱。 「“《フール》〈稀ビト〉”の生まれる仕組みは解明されていません。そもそも“《フール》〈稀ビト”の存在は公にされていませんから」 「ただ原因は“ナグルファルの夜”にあると考えられています。それ以前に“《フール》〈稀ビト〉”がいたという事実は確認されていません」 「キミは“《フール》〈稀ビト〉”や“《イデア》〈幻ビト”についてどこまで知っているのだろうか」 「詳しい事は聞かされていません。あなたの方が詳しいのではありませんか」 「……私が知っているのは“《フール》〈稀ビト〉”という存在が誰にも受け入れられないという事です」 「問題を起こせば“Archive Square”に追われるという事は私も知っている」 事実、数時間前に“Archive Square”の女を見たばかりだ。 「……赫さん」 「何だろうか」 名前を呼ばれた事に違和感を覚えたのは、九條の口からその名を聞いたのが始めてだったからだ。 「あなたは私を見て、どう思いますか?」 「…………」 質問の意図が定かではない。あまりにも広義過ぎて九條の望む回答の方向性が不明だ。 しかし聞き返すのは躊躇われた。九條は意味のない言葉を使わない人間だ。不明瞭である事も何か意図があるのかもしれない。 「……キミは」 思案した結果、私はありのままを述べた。 「キミは、面倒な人間だ。私がこれまで会った者の中でも珍しいほどに」 「私の過去を匂わせて詳しい事情は一切語らない。上司についても黙秘する。私が話しかけても、よく怒る」 「……別に、怒っているつもりはありませんけど」 「かと思えば私を偽の恋人に仕立て上げたり、紅茶の話を嬉々として語る」 「どれが本当の顔なのかはっきりしない。一筋縄でいかないのは手間がかかる。面倒だ」 「…………」 「しかし、面倒事には二種類あるとキミに教えてもらった」 「面倒事は無意味な物と有意義な物に分けられる。キミに関しては大体が後者だと言えるだろう」 「キミが紅茶について語る時、周りに対する配慮を忘れて話し始める。普通の人間にとってそれは必ずしも受けいれられる事ではないだろう」 「私にしてみても話を噛み砕くのに必死だ。もう少し落ち着いて話してくれればと思わなくもない」 「だが本質的に捉えると、キミは私に知識を享受してくれているのだ。多少手を焼かされるとしても私にとって有意義であり喜ばしい」 「本人を前にして随分と率直な意見を言われるのですね」 「間接的な言い回しはあまり得意ではないのだ。ただでさえ人間の言葉によるコミュニケーションは必ずしも正解があるとは限らない」 「……思った事を素直に相手へ伝えるのも、人としてどうかと思います」 「覚えておこう」 私の対応には不備があったようだ。しかし不愉快な思いをさせたにも関わらず、九條は柔らかな微笑みを浮かべた。 「あなたの本音は悪意がありません。だから私の胸の中に入り込んでも、すっと溶け込むのかもしれませんね」 「……ですが、誰もが皆……いいえ、ほとんどの人はあなたとは違います」 「私は人間ではないからそう思うのではないだろうか」 「だとしたら、私は人間が嫌いなのかもしれません」 九條の澄んだ瞳が私を射抜く。 「……昔、あるところに一人の少女がいました」 私は九條の言葉に耳を傾け、脳裏で情景を想像した。 「少女はそれまで何の変哲もない普通の暮らしをしていました」 「しかしある日、自分の身体に起きた異変に気づいたのです」 「他人にはない、特別な力の存在に」 特別な力――九條の話が自分自身を投影しているとすれば、その力とは恐らく“《デュナミス》〈異能〉”の事だろう。 「少女は怖くなって誰にもその事を言えませんでした。もちろん両親にも先生にも」 「ですが運命は少女の秘密を秘密のままにしておいてはくれませんでした」 「その日は珍しく、母親と登校する事になりました。普段は車での送迎だったのですが、その日は母の仕事が一段落して時間に余裕があったのです」 「少女はとても喜びました。そして楽しかった時間もつかの間、学園の正門に到着してしまいました」 「事件は少女が母親と別れ、仲の良かった同級生の中に加わろうとした時に起こりました」 「居眠り運転をしたトラックが学生の群れに突進したのです」 「衝突寸前にドライバーは目を覚ましてハンドルを切ったようですが、間に合わずに転倒してしまいました。辺りには倒れた学生達の身体と悲鳴で満たされました」 「幸いにも少女はかすり傷を負った程度で命に別状はありませんでしたが、トラックの下敷きにされて助けを請う同級生の姿が目に入りました」 「助けなければ――少女は強く思いましたが子供に、いえ人間に持ち上げられる重さではありません」 「周りにいた大人達にもどうする事もできず、炎を上げるトラックを離れた場所から見ている事しかできませんでした」 燃えるトラック、散開した現場、消え行く命の灯火―― その状況下で現状を打破できる可能性があるのは一人だけだ。 「少女は“《デュナミス》〈異能〉”を使いました。誰にも見せてはならないという戒めを破り、下敷きになった友達を助けたのです」 「結果、どうなったと思いますか?」 脅威は取り除かれた。傷跡は残されたが不幸中の幸いとも言える。 しかし現実はそう単純ではないという事くらい容易の想像できた。 「いくらかの命を救う事はできたのだろう。しかし少女はその代償を支払わなければならなかった」 「仰るとおりです。少女は衆目の面前で“《デュナミス》〈異能〉”を使ったために、周りの人間から迫害を受けました」 「当然ですね。人間の理解を超えた現象を目の当たりにしてしまったのですから」 私とノエルが正体を隠して生活しているのと同じだ。人間の価値観では私達を受け入れる事は叶わない。 「助けたはずの同級生も例外ではありませんでした」 「少女が病室を訪れた際に同級生の放った第一声は、幼い少女の心に支えきれるものではありませんでした」 「……同級生が言った言葉はこうです」 「『来るな、化け物――』と」 「恩知らずと言わざるを得ない」 「命を救ってもらった恩よりも、恐怖の方が勝ったのでしょう。普通の人間なら当然の反応かもしれません」 「少女を拒絶した人間の中には同級生だけではなく、少女の母親も含まれていました」 「事件後、少女は一度も母に会う事も叶わぬまま、両親は離婚してしまいました」 「離婚の理由を父は教えてくれませんでしたが、少女が問う事はありませんでした」 「聞く必要がなかったし、聞きたくなかったからです」 同級生から阻害され、母親から捨てられた少女―― 少女の境遇が言葉で語られる以上に過酷なものだったのだろう。 「それ以来、少女は誰かに依存する事を止めました」 「どんなに言葉の上では関係を取り繕っても、真実を知ればまた同じ事が繰り返される」 「だったら始めから一人でいればいい。何故なら――」 始めて出会った時の九條が脳裏に浮かんだ。 「世界はまやかしで満たされている――」 ひとしきり語り終えた九條は強張った身体の力を抜くように深く息を吐いた。 「……くだらない話でした。忘れて頂いても結構です」 九條は風になびく髪を押さえ街並みに視線を移した。 「キミのアイデンティティに関わる大事な話だったのだろう。くだらないとは思わない」 「……………………」 曖昧な笑みを浮かべる九條に私は何を言えば正しいのだろう。 「あのね、ひまわりにはちょーっとだけむずかしいお話だったんだけどね、いっしょうけんめいみつきちゃんのお話聞いたよ?」 「キミは九條の話を聞いてどう思ったのだろか」 「んー、みつきちゃんはおともだちを助けたんでしょ? それっていいことだよね?」 「そうだな。常識的に考えて良い事だろう」 「だったらみつきちゃんはなんにもわるくないよ! まわりの人たちがおんしらずなんだよ」 「確かに。しかしそう簡単に結論付ける事はできない」 「どーして?」 「正しさとはその時代の価値観によって左右される。周りの人間全てが黒だと言えば、九條は黒なのだ」 「そんなのおかしーよ!! みつきちゃんはなんにもわるくないもん!! あかしくんのおばかさんっ!!」 「暴力に訴えるのは論理で敗北したと認める行為だ。だから私を殴打してはいけない」 「あかしくんがわからずやー!! みつきちゃんはなんにもわるくないんだからー!!」 「私もそう思う」 「ふえっ?」 「どうして驚く。最初からそう言っていると思うのだが」 「うそだよ! さっきみつきちゃんのことわるく言ったもん!」 「言い方が悪かったのなら謝る。あくまで人間という種の観点に立った意見を述べたまでだ」 「じゃああかしくんはみつきちゃんの悪口言ったりしない?」 「ああ。少なくともキミの取った行動よりは不満を感じていない」 「ならぜんぜんだね」 私とひまわりの考えているラインに大きな差があるような気がした。 「じゃあひまわりと一緒にあかしくんもみつきちゃんのおともだちになってあげよ」 「友達、か」 “恋人”と並んでよく耳にする人間同士の関係を表した単語だ。 「しかし友達になるためにはどうすれば良いのだろうか。意味合いは書籍を通して知っているのだが、今までそういった関係になった者はいない」 「今日からあなたとわたしはおともだちですっていえばいいんだよ」 「それだけで良いのだろうか」 いまいちはっきりとしない事柄のひとつだったのだが、蓋を開けてみれば大したものではなかった。 「待って下さい。私を置いてお二人で話を進められても困ります」 「みつきちゃんはひまわりたちとおともだちになりたくないの……?」 「そ、それは……」 困惑して歯切れの悪い九條は珍しかった。何事においてもすばやく判断し率直に意見を述べる人間だと思っていたのだが。 子供の要望とは目に見えない力のある言葉なのかもしれない。 「……あなたは私を拒絶しないのですか?」 「そうする理由があればそうする。しかし今のところ見当たらない」 「私にとって、利益を享受させてくれれば良い人間で、不利益を被らされるのなら悪い人間だ」 「……どこまでも真っ正直な人なのですね」 風の強くなる気配を感じた。 「……おかしな人。あなたのような人、今まで会った事がありません」 「私は“《イデア》〈幻ビト〉”だ。キミが見てきたのは人間だろう?」 「……それだけでは――」 海から流れ込む風が一層強まる。 「あっ――」 風の圧力を受けた九條の身体がバランスを崩した。 考える前に私は行動に移した。 「…………」 「大丈夫だろうか」 倒れる寸前、九條の身体を抱きとめる事に成功した。 「あ、ありがとうございます……」 「人間は脆い。気をつけてほしい」 地面に倒れた程度でも、当たり所が悪ければ致命的なダメージを追ってしまう。 人間とは儚く脆い。 彼女を今失うわけにはいかない。大事な契約をまだ終えてはいないのだから。 「立てるだろうか。ここは風が強い。別の場所に移動――」 思わず身体が硬直してしまった。 「いたいた――――――」 私達の背後に突如として出現した気配を感じた。 しかしそれは気配、などと生易しいものではない。 “《ディストピア》〈真世界〉”に降りて久しく感じた事のない研ぎ澄まされた殺気だった。 「いけない」 「えっ?」 九條を抱いたまま、空いていた左手でひまわりの後ろ襟を掴んで跳躍する。 二人の了解を得ぬまま即座に回避行動を取らざる終えなかったのは、少女が私達に向けて突進する予兆を感じたからだ。 「喰らっとけよ、色男ォォオォォオォォォッッ!!」 飛来――――といって差し支えない光景だった。 対象者のその後を一切考慮しない全力の脚技がどれだけの脅威かは考えずともわかる。 咄嗟の出来事に不十分な体勢だったせいで回避が間に合わない。 ひまわりを掴んでいた左腕を少女の踵が捉えた。 「きゃあああっ――!?」 直撃した腕から先の力が抜け、手から放たれたひまわりの身体が投げ出される。 衝撃が緩和される草むらに落ちた事が唯一の救いか。 「ひまわり、大丈夫だろうか」 「いたたた、ひざすりむいちゃったよぅ……」 涙目になるひまわりとは裏腹に安堵する。致命傷を受けたわけではなさそうだ。 「あれ? なんだ今の感触……割りとマジでやったんだが、手応えがなかったような……」 「本気でやってその程度なら、やめておいたほうがいい。私に分があるようだ」 「なぁにぃ~~~? 言うねぇおまえ。そんな屑を命を張って護ろうってわけだぜ?」 よく見れば、先日、ひまわりに蜂蜜揚げパンを渡した相手に似ている。 しかし性格はまるで違うことから、別人と判断した。 「説明をしてもらいたいのだが」 「イチャコラ抱っこかましてるベッピンさんに聞いてみろ」 「彼女に襲われる心当たりがあるのだろうか」 回避行動を取る際、強制的に身体を拘束したままの九條に問いかける。 「……存じません」 「そうやって何人も騙してきたってわけか。慣れてるだけあって事情を知らないと嘘ついてるように聞こえないから大したもんだぜ」 「何を言っているのです」 「とぼけるなよ半端モン。私様に捻り潰されかけただろうが」 事情は不明瞭だがこの少女の狙いが九條の命である事は明らかなようだ。 ならば難しくはない。やるべき事ははっきりとしている。 今、九條を失う事は何を置いても避けなければならない優先事項なのだ。 「もしかしてわたしと《や》〈戦〉る気か?」 「詳しい事情はわからない。しかしおおよその見当はついている」 生身の人間にあれほどの跳躍は不可能だ。となれば可能性はひとつしかない。 「キミは“Archive Square”の者だろう。そして“《イデア》〈幻ビト〉”だ」 「だったらどうだってんだ? ああ!?」 「昼間、学園の屋上でキミ達が話しているのを聞いた。断片的ではあったが、キミは“《フール》〈稀ビト〉”を追うのが仕事のようだ」 「覗き趣味まであんのかよ、下衆野郎が」 できれば“Archive Square”と諍いは起こしたくはない。ノエルにも固く禁じられている。 しかし彼女が九條の命を狙うとなれば見て見ぬふりをするわけにもいかない。 「見逃してはくれないだろうか。キミにも表向きの顔があるのだろう。騒動を起こしてはキミの生活にも支障が出ると思うのだが」 「みんなのアイドル“Re:non様”の事か? バーカがっ! 私様こそが《ピンチヒッター》〈代打様〉なんだぜ」 「キミの二面性のある性格が実にユニークなことは多少理解ができた。しかしもう一度、よく考えてほしい」 「うるせぇなぁ、ここには私様以外に誰もいないじゃねーか」 「逃げられたのは厄介だったが、人のいない場所に移動できたと思えば結果オーライだぜ」 「だが――――」 「――――もういいじゃねぇか、始めようぜ」 少女が低く構えた。どうやら説得には失敗したようだ。 「九條、少し離れていた方がいい」 「……どうするつもりなのですか?」 「私に選べる余裕があるほどの選択肢は与えられていない。この場を切り抜けるために残されているのはひとつだけだ」 “《イデア》〈幻ビト〉”との戦闘は“《ディストピア》〈真世界”に来る前にノエルと戦って以来だが―― 「ひまわりが飛び出してこないように見ていてほしい。守りながら戦っていたのでは集中できない」 「……わかりました。お気をつけて」 右手を覆っている手袋を外すと、風の流れを手の平に感じた。 「強いのか?」 「わからない」 「なんとなく蹴った感じが違ったんだよな……普通なら身体ごと吹っ飛んで笑えるんだが」 「なら見逃してもらえるのだろうか」 「いいぜ――――てめぇの命だけならな」 つまり九條の命はないと言う事であり、到底受け入れられる提案ではなかった。 「では力ずくで見逃してもらう事にしよう」 「待ってましたんだ、ゼッッ!!」 地面を這うほどに身体を屈め突進する様は人というより獣に近かった。 「ゼッ――!!」 交錯する直前、少女は軌道を変えて跳ね上がる。 落下する勢いのままに回転させた右足を振り下ろした。 「…………」 「私様の動きが追えるか……やるなぁ」 「私の視力は人間の平均よりも優れている。書籍を読む際は灯りを点けるようにしているお陰だろう」 逆にノエルは暗い場所でテレビ鑑賞をしている影響で視力が低下してしまったらしい。 「つっても今のはウォーミングアップだぜ。 “《アップシフト》〈一速〉”」 トントンとその場で小刻みに跳ねる。 その動作を何度か繰り返した後、地面に足が触れた瞬間に少女の姿が消えた。 「《はや》〈疾〉いな」 消失したと思わせるほど少女の加速は凄まじく、瞬きのタイミングが悪ければ見失っていただろう。 右手後方から飛来する手刀を寸前のところでかわす。 「私様は、休まないぜッッ!! 躱し続けられるかなッ!?」 私を中心にして風となった少女が駆け回る。 人間の眼球でカバーできる範囲は前方に限られる。 死角を利用する彼女の動きを捉える事は困難だ。 視覚に頼るよりも聴覚と肌に触れる空気の動きに集中する。フェイクの混ざった攻撃に対応するには本命を見抜かなければならない。 「ゼッ――!!」 「もう限界だろうか?」 「強い強いっ! さすがだぜ」 「そんじゃ――――“《アップシフト》〈二速、三速〉”」 《はや》〈疾〉さのギアが一段――いや数段上がる。 最早視覚から送られる映像にはまるで意味がなかった。 「…………とんだ狂犬だな……」 私の身体を何度も衝撃が襲う。痛覚でしか彼女がどこにいるのか判別できない。 それも痛みを感じたと脳が認識した時には、もう別の場所に移動していて意味をなさない。 「オラオラオラオラッッッ!!」 ここまで体術において歴然の差を見せ付けられるとは予想外だった。 しかし極限までスピードを高めた代償か、少女の打撃そのものの威力は低下していた。 「…………」 それでもこのまま攻撃を受け続けていれば疲弊してしまうだろう。彼女の体力も無限ではないだろうが、目算のない消耗戦に持ち込むのは得策とは言えない。 身体を壊されてしまう前に多少のリスクを背負ってでも光明を見出すしかない。 頭の中でタイミングを計る。相手に気づかれては意味を成さない。 彼女の攻撃には一定のパターンがある。 重点的に下半身、膝の辺りを狙っている。 足を殺してしまえば獲物を狩るのは容易い。それは“《イデア》〈幻ビト〉”に限らず人間や動物も同じだ。 膝を襲った衝撃に耐え切れず、私は片膝を地面に着いた。 「終わりだぜぇぇッ!!!」 「ああ、終わりだ」 無防備に晒された私の顎を大木で打ちぬかれたような衝撃が襲う。 自らの身体が痛めつけられているというのに、私の脳内にはある植物の姿を想像していた。 痛覚からの逃避――いや違うだろう。 では何故か。この状況がその植物を想起させるほどに類似していたからだ。 「あ――――」 少女は事態を飲み込めていないようだった。それほどまでに確信した未来を描いていたのだろう。 しかし世界は残酷だ。予定通りに事が進んではくれないのだから―― 「ハエトリソウを知っているだろうか」 花と見間違えるほどに鮮やかな朱色に染まった葉を捕虫部と言う。 導かれるように引き寄せられた昆虫を閉じ込め、葉から分泌される消化液でゆっくりと溶かしながら養分を得る植物だ。 「ンのぉおおぉおおおっ――!!」 拘束されていないもう片方の足が私の顔を捉える。不十分な体勢から放たれた蹴りは先のものとは比べるまでもなく弱弱しい。 「もう終わりにしてはくれないだろうか」 「そりゃ何の冗談だぜ」 「キミと私達は出会わなかった。それぞれの生活に戻り、静かに暮らす。それでは駄目だろうか」 「――!!」 再度少女の左足が顔面に打ち付けられる。 「こいつッ――――!!?」 仕方がない。私もこれ以上譲歩はできない。 「私はハエトリソウのように時間をかけはしない。すぐに済む」 少女の足を掴んだ右手に胸の奥で滾る奔流を流し込む。 「うわああああああああああ――!?」 ふと脳裏にある光景がちらついた。 炎の中に立ちすくむ、無力な男の映像だった。 「クソ、全く繋がらねぇじゃねぇかよ。こっちが出ねぇと文句垂れるくせによ」 「……もしもし」 「お、やっと繋がった。何度電話しても出ねぇからどうしようかと思ってたところだ。忙しいのか?」 「ええ、あまり長話してる時間はありませんね」 「そうか。なら用件だけ伝える。今日アンタに会って話したい事があるんだが――」 「ハマザキ、アウトー!」 「ハマちゃん、それわかってたやん」 「おい、忙しいとか言ってテレビ見てんじゃねぇかよ!」 「テレビではないですよ。録画してあるDVDです」 「変わんねぇよ。ったく、相変わらず自分勝手だな」 「話とはなんです? 電話で言えばいいじゃないですか」 「いや、電話で話せるような事じゃないんだ。できれば二人だけで話したい」 「アンタの旦那に関わる事だ」 「……わかりました。では18時にいつもの場所で」 「おう、待ってるぜ」 「さて、これで準備は整ったな」 「――おっと、大事な事を忘れてた。死体処理屋に連絡しねぇと」 「悪く思わないでくれよ。俺達がいるのはカネに支配されてる世界なんだからな」 轟音を引き連れた灼熱の業火は私の手の中で燻っている。 掴んでいた少女の足はもうこの手にはなかった。始めからそのつもりだった。 「はぁ……はぁ……」 私の手から逃れた少女は肩を上下しながら立っていた。 「そうか。なるほど」 爆ぜたはずの足は多少焼け焦げていたが、未だ胴体と連結しその支えとして役目を果たしていた。 「左腕をやられたようだ」 二の腕に痛みを覚える。見ると私の意志に反してダラリと垂れていた。 どうやら腱を損傷したらしく、脳からいくら信号を送っても左腕は反応を示さない。 「それがキミの“《アーティファクト》〈幻装〉”だろうか」 少女の手には見慣れぬ形状の物体―― 獣を象った三つの円が隣接している。形容できる名称は思いつかない。 しかし自らの使用用途だけは高らかに声を上げて主張しているようだった。どうやら爆発の寸前にあれを取り出し、私の腕を斬りつけ脱出したのだろう。 「“《サイレントキル》〈有無幻の凶夢〉”。“私様”がそう呼んでいるから、私様もそう呼んでいる」 “《イデア》〈幻ビト〉”が人間界へ来る際、“ステュクス”に置いてきた本来の力。 “力”が霞んで見えてるほど“《アーティファクト》〈幻装〉”の存在は大きい。“《イデア》〈幻ビト”としての大部分が“《アーティファクト》〈幻装”に込められているのだから。 「しかし自らの身体を触媒にして“ステュクス”から“《アーティファクト》〈幻装〉”を取り出す行為は身を滅ぼす」 「わかってる。私様だって、こんなマネはしたくなかった……だが、効果は絶大だな」 刀の切っ先を向けられた左腕に目をやる。少女の刀に纏っている黒い霧のような物が斬られた患部にも付着していた。 よく見ると黒い霧は消えるどころか傷口全体に広がっていく。 「私様の“《ヤミ》〈正体不明〉”は、放っておけば侵蝕しながら全身に広がっていく。ジエンドだぜ」 「自らの“《アーティファクト》〈幻装〉”について情報をバラしてしまっても良いのだろうか」 「勝負はもう決まっちまったじゃねーか」 いかに人間よりも性能に優れているとはいえ、仕組み自体は同じだ。歯車が欠損すれば車輪は回らない。 しかし……。 「キミが封じたのは私の片腕だけだ」 「だぜ。お前は、なかなか骨がある。私様はちゃんと生きようとしてるヤツが嫌いじゃねーんで、見逃してやるぜ」 「つーわけだが、見逃せない奴もいる――――“《アップシフト》〈四速〉”ッッッ!!!」 刹那――――少女の速度が“音”を超えた。 「っ――!?」 「みつきちゃん――!?」 「さよならだぜ、醜い“《フール》〈稀ビト〉”」 声のした方に振りかえる。その時には既に少女が九條に手を掛けた後だった―― 「げほっ――」 九條の胸から円形の剣が引き抜かれると、あわせたように口から大量の血液が流れ落ちる。 ゆっくりと――抜け殻のように力の抜けた九條の身体が血溜まりの上に倒れた。 「みつきちゃぁん!!」 「心地いいぜ……戦場にこどもの悲鳴はつきものだ」 「よいしょっと。トドメはきちんと刺すのが、相手への礼儀だぜ」 「くっ――――!」 少女は九條の身体を無造作につかむと、荷台へ積むかのように乱暴に放り投げた。 「ま! ソレに対する執着がどれほどのものか、死価選別ってやつでもあるがなっ!!」 高台の柵を超えれば、そこは崖――――。 これ以上九條の身体を損傷させては生命活動は間違いなく停止する。 「おいおい…………」 「――――――――届いた、か」 落ちゆく九條を寸前のところでつかむことができた。 「残った片腕は、戦う為のものだろ? どうしてそこで、救う為の腕にしちまうんだよ……」 「……はやく……行って、ください……」 虫の息となった九條が必死に言葉を振り絞った。 そこで気づいた――――九條から引きぬいた際、少女の“《アーティファクト》〈幻装〉”は既に手中になかった。 「放すべきだろ……おかしいだろそんなの……放せよッ!!」 「――――ッ!!」 戦輪は糸がついているかのように空中を飛び回り、私の背中を斬りつけた。 「――――ッ!! ――――ッッ!」 何度も、何度も、何度も。 無抵抗な背中をさらした私は、抵抗するすべを持たない。 「……どう……して」 「キミを失うわけにはいかない。まだ聞かなければならない事が残っている」 「それがお前が悩んで、お前が導き出した選択なのかよ……」 「何故だ……何故そこまでそいつに執着する。守るほどの価値があるやつじゃねーんだぞ!」 「ではキミに問おう。この世界で何を置いても優先すべき物はなんだ」 「自分自身」 「それはキミの価値観だ。そして人間の大多数も同じ回答をするのだろう」 「私様が“《わたくしさま》〈自分〉”を優先する事の意味を、その他大勢の回答と一緒くたにするんじゃねぇっ!!」 目を剥いて吼える少女にも、何か理由があるのだろう。 「しかし目的のために生きているとしたら――その目的のためなら命を賭しても構わないのではないだろうか」 「目的を失った生に価値はない。少なくとも私は無意味な物だと考える」 「……………………」 「なんなんだよちくしょう……」 「誰かを護る力もないくせに、失って嘆くほどの“目的”が自分にはあるって、それ自慢かよ……」 飛来する戦輪は私を傷つけ続ける。 「ちくしょうが……クソ……こいつ、もしかしてすげぇイイヤツなんじゃねぇか……クソ……あークソ……でも……でも……」 「そいつは私様の大切なものをコケにしやがった……ここで引き下がっちまったら……私こそ半端モンじゃねぇかよぉッ!!!」 「あかしくん!! みつきちゃん!!」 「ひまわり、来てはいけない。キミに何かあったら契約を履行する事ができなくなってしまう」 「でもっ!! あかしくん死んじゃうよぉ!!!」 私の身体は人間よりも頑丈にできている。それでもこのまま闇に侵蝕され続ければ限界は来るだろう。 「……あなたは……愚か……です……」 「愚かか。悪くない言葉だ。人間に近づいた証拠だろう」 「他人を助けても……負った傷は……いつまでも残り続けます……」 「そうだな。きっと背中の傷はしばらく残るだろう」 「……そういう意味では……おかしな……人、ですね……」 「そう言われるのは慣れている」 「…………」 九條の呼吸が一段と弱々しくなるのを感じる。 会話の最中も現状を打破する方法を思案していたが結局妙案は思いつかなかった。 「神がいるとすれば、ここで死ぬのが神の意思か、はたまた試練のひとつか」 神は姿を現さない。しかし仮に存在しているとすれば、その意思を図る方法がひとつだけ残されている。 「九條……私の胸の鼓動を確かめてみる気はないか?」 「こんな時に……貴方は……なにを……」 「九條、キミはこう言った。世界はまやかしに満たされていると」 「本当にそうなのか、確かめる気はあるだろうか。もしもあるのなら、私の胸に手を伸ばしてほしい」 「…………」 返事はない。しかし虚ろな瞳は私を見ている。 「――真実を知る勇気はあるか」 「望むのならば私の胸に手を伸ばせ。そして声に耳を傾けろ」 「…………」 九條の指が僅かに動き、そして私の胸に触れた。 「キミならそうするだろうと思っていた」 私は祈る。会った事もない得体の知れない神様とやらに―― 「九條美月。私の“《ゆいいつめい》〈唯一名〉”は“《ファイヤ・ドレイク》〈赤銅の火竜”――憤怒を司る火の精だ」 二人の身体を結ぶ鎖。 神は存在するのだろうか。未だに答えは出ない。 それでも私達の運命は前に進む事を許されたようだ―― 「…………」 「……傷が、治っています」 「そのようだ。私も腕を動かせる」 背中の痛みも消え、九條の身体から流れる血も止まっている。 「“《エンゲージ》〈契約〉”の影響だろう。話には聞いたが体験するのは始めてだ」 「“《エンゲージ》〈契約〉”……」 適合性のある“《イデア》〈幻ビト〉”と“《フール》〈稀ビト”が交わる事で起きる現象――それが“《エンゲージ》〈契約”だ。 「“《エンゲージ》〈契約〉”を行うには互いの《ゆいいつめい》〈唯一名を知る必要がある」 「適合する相手を見つけるのは難しいと聞いた。キミと私は運が良かったようだ」 「…………」 「“《エンゲージ》〈契約〉”にはいくつかのメリットがある。傷が癒えたのもそのひとつだ」 しかしそれが本質ではない。 「今からキミの身体を通して“《ステュクス》〈重層空間〉”にアクセスする。そこから私の“《アーティファクト》〈幻装”を取り出す」 “《フール》〈稀ビト〉”が使用している“《デュナミス》〈異能”は“《ステュクス》〈重層空間”に置かれた “《アーティファクト》〈幻装〉”を利用したものだ。 “《ステュクス》〈重層空間〉”対して親和性のある人間を介す事で、“《イデア》〈幻ビト”の負担が減るらしい。 「…………」 「怖いだろうか」 「……いいえ。あなたがそう言うのでしたら、私はお任せします」 「ありがとう。では行くぞ」 九條の胸に宛がって手がずぶりと沈んでいく―― 「んっ――」 まるで粘土ようなドロドロとした感触の先に、熱い鼓動を感じ取る。 「キミは死なない。私が守る」 「それはあなたの過去のため、ですか」 「そうだ。私にとって唯一無二の記憶なのだ」 「……一生懸命、なのですね」 「この世界では懸命である事を望まれるのだろう。だとすれば私がそうなるのも必然だと思わないだろうか」 「……かもしれませんね」 燃え滾るように熱い塊を手中に収める。 ゆっくりと――零れ落ちてしまわないよう、細心の注意を払いソレを引き抜いた。 「――――――!?」 視界に色が戻り風の流れを感じる。夕焼けに染まる街並みが目に飛び込んできた。 少女は驚きながらも頭上の戦輪が弾き飛ばされた事を知り、空中でキャッチした。 「神の存在を私は疑っている。しかし――」 「意思を持って行動しなければ、神を疑う事さえ叶わないのではないだろうか」 「“《アーティファクト》〈幻装〉”……それに驚異的な快復力……」 「おまえ……まさか……」 手の内に納められた銃を少女に向ける。 先ほど、少女の戦輪を弾き飛ばしたのも私の弾丸によるものだ。 「禁忌を犯したのか……ッ!!」 「ああ。確証はなかったがどうやら成功したようだ」 「これでハッキリした。おまえらの処理は正式に私様の仕事になったぜ」 「“Archive Square”は“《エンゲージ》〈契約〉”を認めてねぇんだよ」 「そうなのか、初耳だ。それは困ったな」 騒ぎを大きくしてはノエルにも迷惑をかけてしまう。 「しかしこの場でキミを殺してしまえば、私達の情報が伝わる事はない。違うだろうか」 「なかなかおもしろいことを――――」 少女の言葉が終わるのを待たず、引き金を引いた。 「人間だろうが、指先ひとつ動かす力があれば拳銃を扱える。鉛の弾を、音速で飛ばすことができる」 「瞬間的に“音速”を超える、私様のスピードを舐めるんじゃねぇぜ」 放たれてから弾丸を避ける事は不可能とされているが、人ならざる少女には可能だったようだ。 「所詮は野良犬。血統書つきの私様にゃ敵わないぜ」 威勢の良い態度は着弾箇所に登り立つ炎の柱を目にした途端に途切れた。 「……こりゃあ、まともな原理の発火じゃないな」 「私の“《アーティファクト》〈幻装〉”から射出された弾丸は一般に出回っている物とは違う」 「着弾した物を包み込み、燃やし尽くすまで消える事はない」 「偉そうな口は――」 少女は胸を押さえて苦しみだす。 「ッ――こんな時に……!」 「私は契約者から“《アーティファクト》〈幻装〉”を取り出した。キミは自分の身体から取り出した」 「キミも“《イデア》〈幻ビト〉”ならばこの違いが持つ意味を知っているはずだ」 「ぐっ……!!」 少女の身体に異変が起きたのは当然の結果と言えるだろう。 “《イデア》〈幻ビト〉”が自らの体内を介して“《アーティファクト》〈幻装”を使用するのは負担が大きい。 「続けるだろうか?」 「その余裕ぶった面が気に食わねぇ――――潰す」 状況を把握してもなお、少女の闘争心は燃え続けていた。 「キミがその気なら止めはしない」 生半可な火ならば、それよりも熱く滾る炎で包み込めばいい。 少女の動きに目を凝らす。間違っても先ほどのように九條を狙わせてはならない。 「もうやめてってば――!!」 「…………」 「ひまわり、出てきてはいけないと言っただろう」 「あかしくんもはちみつあげパンのおねえさんももうケンカしちゃダメ!!」 二人の間に手を広げたひまわりが介入する。 動く事ができなかった。私よりも少女の方に近く、先に行動を起こせば彼女がひまわりを利用しないとも限らなかった。 「ガキを黙らせろ。もう、お互い引ける状況じゃねぇだろ」 「みつきちゃんはわるい事しないよ!! それにずっとひまわり達と一緒にいたもん!!」 「そいつは道行く人々を騙して回る最低のクズだぜ」 「みつきちゃんはそんな事しないもん!! ひまわりと一緒にいたもん!!!」 「だとしても――――切っ掛けにすぎない。もう、全然そんなレベルの話じゃないんだ」 「この二人は“禁忌”を犯した。私様は二人を壊す必要がある」 「一緒にいたもん!!! うわあああああああんん――!!!」 「…………チッ」 「うえええええええええええええええんん――!!」 ひまわりの泣き声が響き渡る。少女の炎が萎んでいくのを感じた。 「あああぁぁぁぁぁ、クソ……こういうのは苦手だ……リノン……」 「………………オーケー……トリトナ。把握したわ」 「なんだ……?」 「いいえ、べつに。その子を泣かせたのも作戦のうちかしら」 「いや、ひまわりの手柄だ。私は見ていただけだ」 少女にとって今のタイムロスは大きい。 もうこれ以上“《アーティファクト》〈幻装〉”を維持できる状態ではないようだ。 「うぇぇぇええええええええええええん!!」 「ひまわりよくやった、もう泣き止んでいい」 「ええ、泣き止んで。今は手よりも口を使って場をまとめたい、貴方の声は、うるさすぎる」 「……みつきちゃんとあかしくんいじめない……?」 「少なくとも、貴方が黙っている間はね」 少女の手から完全に“《アーティファクト》〈幻装〉”が消えた。 「ほら」 「うん、ありがとおねえさん」 ひまわりは泣き止んで鼻をすすっている。 「あかしくんもあぶないてっぽうしまわなきゃダメだよ」 「いや、彼女に争う意思がないかどうか確証を得られるまでは警戒を解く事はできない」 「しまわなきゃダメっ――!!」 「いやしかし――」 「しまわなきゃダメったらダメなの!! ダメダメダメ――!!!」 「…………」 私は要求に応じ、手の内にあった“《アーティファクト》〈幻装〉”から手を離した。 支えを失った銃は地面に触れる前に霧散して消えていった。 「うん、これでなかなおりだね! よかったよかった!」 「本当に諦めてくれたのだろうか」 「奥の手は最後まで隠し持っておきたいの、どうしても死にたいなら、続けるけど……」 「それは“自傷”の域に入るから、わたしはやりたくない」 私は少女とひまわりの元に歩み寄る。 「確証はあったつもりだけど、今思えばアレすらもあいつの罠だった可能性も捨てきれないわね」 「そちらの事情はわからないのだが、キミが戦わないのであれば私にも理由はない」 「疑いが晴れたわけじゃないけどね。でも――」 「この子に、してやられたわ♪」 「ひまわりはうそつかないよー」 秒単位で決着のつく世界。 ひまわりが大泣きしなければ生まれなかった“時間切れ”だった。 「そう。わたしが悪かった。それは認める」 「けれど“《エンゲージ》〈契約〉”まで見逃すのは虫が良すぎるわよね」 「キミが襲ってさえいなければ、“《エンゲージ》〈契約〉”などしていなかった」 「仮にわたしに非があったにしろ、組織はそんなことを無関係に貴方たちを捕まえようとするでしょうね」 「だから――――会わなかったことにしましょう」 「…………」 九條は離れた場所で少女を警戒していた。無理もない、訳もわからぬまま胸を刺されたのだから。 「信用出来ない?」 「できるわけがありません。間違いで殺されてしまっては取り返しがつかないのですから」 「だったら今度は、本気で殺そうか?」 「…………」 「根っこの部分で、“《イデア》〈幻ビト〉”は“《フール》〈稀ビト”が嫌いなのよ」 「それは明確な区別だし、差別なの。人の身で“《イデア》〈幻ビト〉”の魂に干渉する、下賎な輩なのだから」 「こうやって見つめ合うだけで――――メチャメチャにしてあげたくなる」 「九條に手を出すようなら、私も全力を尽くそう」 「やらないわよ、ただここでわたしを殺さないなら、話を持ち帰らない事を信用してもらうしかないわよ?」 「わかった信用しよう」 「………………は?」 「どうかしただろうか」 「貴方って…………愛すべき馬鹿ってやつ?」 「私の言動にどこか問題があっただろうか」 「はいはい、もういいから。言わないって約束するわ」 “Archive Square”の者と交戦した事がノエルに知れれば会わす顔もない。新たな住処を探す手間も省けて非常にありがたい。 「貴方達の名前、教えてくれる?」 「“Archive Square”に報告しないのであれば」 「えとね、ひまわりはひまわりで、こっちはあかしくんでしょ。あとみつきちゃん」 「……九條、美月です」 「九條……? 九條って、あの?」 「…………」 「知っているのだろうか」 「九條グループの一人娘でしょ。ウチとも関係があるから話くらいは聞いた事があるわ」 「……九條の人間が“《フール》〈稀ビト〉”か……温室育ちじゃ、さっきの性悪とは別人確定か」 「…………」 「どういう意味だろうか」 「わたし、そろそろ行かなくちゃ。やることが山積み」 「忙しそうだ」 「アイドルは忙しいものよ」 暴風雨にも似た少女は背を向け歩き出し、台風のそれと同じように過ぎ去っていった。 「…………」 「疲れた顔をしている」 「そう……ですね。少し疲れました」 無理もない。一時的とはいえ瀕死の重症を負ったのだから。 「ひまわりもおなかすいたよー」 「まだ夕食の時間には早いと思うのだが」 「いっぱい歩いたしみつきちゃんおいかけたりしたらおなかすいちゃったんだよー」 「九條を追う道中は私の背におぶさっていただけだと思うのだが」 「あかし号をあやつるのにもしんけいつかうんだよー!」 「なるほど。そういう事なら仕方がない」 「くすっ……」 九條の口元から上品な笑みが零れる。 「何かおかしかったのだろうか」 「いえ、すみません。先ほどまで命の危機に晒されていたせいか、気が緩んでしまいまして」 「なんだかお二人を見ていると、全部夢だったとさえ思えてくるから不思議です」 「夢ではない。身体の状態は元に戻ったが、決定的な違いがある」 「……“《エンゲージ》〈契約〉”、ですか」 やむ終えぬ事情があったといえ、私はノエルの戒めを破ってしまった。早急に事実関係を報告した方が良いだろう。 「私達は今から倉庫に帰ろうと思う。キミを尾行していた女子学生の目もなくなった。ひとまず今日のところは役目を終えた」 「そうですね。ありがとうございました」 「もしもキミに不都合がなければ一緒に来ないだろうか」 「今から、ですか……?」 「ああ。キミも“《エンゲージ》〈契約〉”がどういった効果を及ぼすのか知っておいた方がいいだろう。その辺りについては私よりもノエルの方が詳しい」 「……わかりました。それではご一緒させて頂きます」 「ハァ――ハァ――!」 酷く身体が重い。脳に送られる信号が危険なレベルにまで達した時、ようやく自分が一目散に走り続けていた事を知った。 「クソッ――! 殺す! あのクソ虫、生きてられると思うなよ!!」 激しく波打つ心臓を鎮めようと呼吸を整える。どれくらいかして、ようやく物事を整理するだけの思考力が戻る。 「……“この姿”はまずいわね」 別の誰かに変わる必要がある。あいつらに見せていない顔が良い。その辺りで適当に見繕うか。 「……丁度いいわ」 トンネルの向こう側から近づく足音が響き渡る。やがてその人影は輪郭を得て眼前にやって来る。 「……なんですか?」 「い、いえ、別に何も――」 「凄い汗出てますけど」 「ら、ランニングの最中なんですよ! 健康のために!」 「はぁ……まあ何でもいいですけど。それよりこの辺で黒いサングラスをかけた怪しいスーツの男見ませんでしたか?」 「み、見てないですけど」 「そうですか、どうも。……ジュース買ってこよ」 通りがかった女は気だるそうにトンネルを出て行った。 「……どうもありがと」 運よく現れた女に礼を言う。タイミングだけでなく、容姿も申し分ない。あの顔と身体があれば、大抵の男は篭絡できるだろう。 「さてと、この子はどんな子なのかしら」 姿を変え、雪崩れ込んでくる情報をひとつずつ整理していく。 「えっ……どういうこと……!?」 彼女の持つ秘密――自分の主人にさえも明かしていない秘め事に足が震えた。 「そんな……じゃあ“ナグルファルの夜”って――」 「よう、待たせたな」 溢れる情報に集中し過ぎたせいで、声をかけられるまで背後から近寄る男の存在に気づかなかった。 「え、えと……」 迅速に顔と記憶を結びつける。 「あ、あなたでしたか。随分遅かったんですね」 「ちょっと準備に色々手間どっちまってな。業界の人間はどいつもこいつもカネにうるさくて困る」 江神善太郎――自称探偵を名乗る裏の道に住む人間だ。 「ん? アンタ、すげー汗じゃねぇか?」 「ちょっと走りたい気分だったんですよ」 「若いねぇ。いや、俺もまだ20代なんだけどよ」 江神は鞄を開け炭酸飲料を取り出した。 「やるよ。喉渇いてんだろ。落ち着いてくれなきゃ話もできねぇ」 「あ、ありがとうございます」 正直助かった。喉の渇きは限界に近かった。 「んっ――」 缶の蓋を開け、一気に流し込む。疲弊した身体の細胞が蘇っていく。 「そうそう、大事な話ってのはな」 「っ……!?」 手元から缶が滑り落ちた。砂利の地面に茶色の液体が広がる。 「アンタからの仕事、もう請けられなくなった」 え――どうなっているの……!? 硬直する身体は視線を変える事もできない。正面に立つ男がゆっくりと銃をこちらに向けるのを眺める事しかできなかった。 「別の依頼を請けててな。本来依頼の内容はどんな事があっても他人には漏らさねぇんだ」 「一度信用を失っちまったら二度とこの世界ではやって行けないからな」 「でもまあアンタには特別に教えてやる。金払いのいいお得意様だったからな」 男の言っている意味がわからない。はっきりしているのは私の身体が指一本動かせないという事だ。 「動けないだろ? 毒を盛らせてもらったからな。アンタはまともじゃねぇんだから用心して当然だろ」 「っ……!」 「俺が請けてるのはな、アンタを殺せって依頼だ。わかりやすいだろ?」 「いつもは自分で殺ったりはしねぇんだがな、他ならぬアンタだ。俺も心を鬼して引き金を引こうと思うわけよ」 殺される――? 嫌だ、私には関係ない! 殺されるべきは私じゃない――! 「アンタの旦那は怒るだろうなぁ。でもまあ安心しな。ちゃんと面倒見てやるよ」 「知らないままでいる事は許されねぇんだ。殺して生きるやつはそれを自覚しなけりゃな」 嫌だ死にたくない死にたくない! 私にはまだやるべき事がたくさん―― 「じゃあまあ、文句はあの世までとっといてくれ。俺もそのうち行くだろうからよ」 「…………」 「どうかしただろうか」 「いえ、あなたのお家に伺う事はもうないと思っていたので」 「人間の感覚で言えばあまり綺麗とは言えないだろう。不満ならば場所を変えてもいい」 「そういう事ではなく……その」 「誰かのご自宅に伺うというのは、あまり経験がないので……」 年頃の学生にしては珍しいのだろう。しかし過去の顛末を聞いた後では致し方ないと納得できる。 「ひまわりのおうちに来たかったらいつでもいいんだよ♪」 「キミの家ではない。私も勝手に使っているだけだが」 「寂しいところですが、見方を変えれば静かで落ち着く場所かもしれませんね」 「数日前までは私とノエルの二人きりだったのだが、今はひとりで何人分も騒がしい居候がいる」 人間の子供とは騒々しい物だと知っていたが、実際に近くに置いてみると想像以上だった。不快に思う事はないが、正直手に余る場面も少なくはない。 「同居してらっしゃる方……ノエルさんとはどのようなご関係なのですか?」 「“上司”に聞いていないのだろうか」 「私も多くを聞かされているわけではありませんから」 手となって動く者が拘束されても情報の漏洩は起きない。なるほど。利口なやり方だ。 「ノエルとはもう長い付き合いになる。こちらに来た七年はもちろん、それ以前から行動を共にしている」 「ではあの方も“《イデア》〈幻ビト〉”なのですね」 「そうだ。昔は敵対していた事もあるが、今は私を助けてくれる大事な存在だ」 「敵対……?」 「“《イデア》〈幻ビト〉”は人間と違い誕生した瞬間から知性や主義主張を持っている者が多い。主張が違えば争いが起きる。人間と同じだ」 「……どうしてそれが今の関係に落ち着いたのか、聞いても構いませんか?」 「特別な事はない。長く続けていれば飽きる。それだけの事だ」 「あかしくんとのえるちゃんけんかしてたの? けんかはよくないよ?」 「昔の話だ。今は互いに傷つけ合う事はしない」 「…………」 「……いや、間接的には時折なくもないか」 「ほえ?」 倉庫も近づきノエルにどう話を切り出すべきかと思い悩む。彼女は私の浮気に対して過敏な反応を示す。もちろん私は浮気などしていないのだが、人間の女性が近くにいるだけで嫌悪感を抱く。 そして今、私は誰も連れてきた事のない住処に九條を連れて歩いている。兎との邂逅は避けられそうもなかった。 「九條、ノエルと会う前に言っておかなければならないのだが」 「何でしょうか」 「きっとノエルはキミの姿を見た途端、何かしらの反応を示し予想外の行動を取る可能性がある」 「もしかしたら不快な思いをするかもしれない。それでも彼女を刺激するような言動は控えてほしい」 どちらかと言えば九條も自分の主張を貫くタイプの人間だ。ノエルが浮気を疑っても否定してくれるだろうが、その結果険悪な関係にならないという保障はない。 面倒事は避けるに限る。とはいえ既に片足を突っ込んでいる自覚はあった。 「もうすぐ着く。先に私が入って事情を説明する。キミは後から入ってほしい」 「わかりました」 さて、審判の時だ―― 扉に手をかけ中に入ると、部屋の明かりは点灯しておらず暗闇に支配されていた。その中で唯一光を放っている長方形の機械。 テレビの前で膝を抱えている同居人は情報収集に勤しんでいた。 「おかえりなさい」 「ただいま」 手元にある炭酸飲料を探しつつも、視線はテレビに向けたままだ。 「ノエル、愛している」 「私もですよ」 「ノエル、愛している」 「ええ、私もですよ?」 「愛しているのだが――」 話の切り口を探し、どうした物かと思っていると不意にテレビの電源が切られた。 部屋の中は完全に闇の支配するところとなった。 「だが……なんです?」 「…………」 「怒りませんから、正直に話して下さい」 黒で塗り潰された世界の中で、ノエルの双眸だけが怪しく光る。 「……やはりこの話は聞かなかった事に――」 暗闇を駆ける風の動きを感じた。 身体に負荷がかかり、瞬く間に自由を奪われた。 「私の愛がご主人に伝わっていますか?」 「もちろんだ。今まさに全身でひしひしと感じている」 ノエルの抱擁は力強く、大事な物を決してなくさないという決意が伝わる。ノエルが恵まれた乳房の持ち主だった事が幸いし痛みを感じはしない。 「私に隠し事はナシですよ」 「ああ、隠している事など何もない」 隠す気などない。いや、その手段が頭を掠めたのは事実だが。 「今日は少し特別な一日だった。キミにも聞いてほしい」 「もちろんですよ。私の耳はご主人専用ですからね」 動物同士が互いの身体を擦り付けあうように、ノエルの冷たい頬が首筋に触れる。 「それで、話って何ですか?」 「ああ、実は――」 「もうおそいよあかしくん! ひまわりおなか空いちゃったんだからはやくしてよー!」 「ひまわりさん、まだ入っては――」 入り口の向こうに駄々をこねるひまわりとそれを制止する九條の姿が覗いた。 「…………」 「あ?」 前交渉は失敗に終わった。ならばもう全てを打ち明けるしかない。 「すまない、お前の忠告を破ってしまった」 「私は――彼女と関係を持ってしまった」 ノエルの身体から生気が抜け、壊れたカラクリ人形のように首が傾いた。 「リーリーリー」 「バック」 「リーリーリー」 「ゴー」 「えと、あの方は何を言ってらっしゃるのでしょうか」 「私にもわからない。ノエル、大丈夫だろうか」 全身の力が抜け、まるで軟体動物のようになったノエルは、ソファにもたれ天井を虚ろな瞳で見つめている。うわ言のように何かの呪文みたいなものを呟いているが意味は不明だ。 「ねぇねぇのえるちゃん、おなかすいたよー。おでんさんたべにいこうよー」 「リーリーリー、ピッチャーびびってるよー、モーション盗み放題よー、一歩目大事にー」 「のえるちゃんってば! しっかりしなきゃだめだよ!」 「しっかりしなきゃ。そう思ってた時期もありました。ご主人のため、私がしっかりしなきゃ、ご主人の……」 「うう……ぐすっ……」 放心していたのも束の間、涙と鼻水を垂れ流して泣き始めた。 「うぅ……やぁだぁ……もうやだぁ……おうちかえるぅ……」 「私達の家はここだ」 ノエルがこんな状態ではまともに話ができない。どうしたものだろうか。 「えと、日を改めた方が良いでしょうか……?」 「……もう少し様子を見ても駄目ならそうした方が――」 「……タダで帰れると思ってるんですか?」 諦めかけたその時、ノエルの身体がむくりを起き上がる。 「私のご主人を傷物にしておいて、堂々と太陽の下を歩けるとでも?」 「傷は負ったが完治している。それは問題ではない」 「大問題です。ご主人は少し黙っていてください」 「――わかった」 倉庫の中には私と三人の女性。 一人は隠そうとしない敵意を剥き出しにして睨み付け―― もう一人も自分に向けられた感情に呼応するように鋭い視線で対峙している。 「ねぇねぇあかしくん、おなかすいたよー」 最後の一人は争いに我関せず、空腹を訴え私の服を引っ張っている。 最早私の手に負えないのは明白だった。 「美月、と言いましたか。あなたに聞きたい事があります」 「九條です。親族以外に名前で呼ばれたくありません」 「うるせーバーカ。文句言える立場じゃないと自覚しろってんですよ」 「あなたの方こそ初対面の人間に対しての礼儀を軽んじているのではありませんか。もう少し自覚をお持ちになった方がよろしいかと」 「…………」 並べて見て気づいた事がある。ノエルも九條も我が強く、己の信条を易々と曲げたりしない。 似て非なる物がぶつかりあっても中和される事なく、どれだけ混ざり合っても分離したままだ。まるで水と油である。 「じゃあいいですよ、えっと苦情さんでしたっけ」 「……発音がおかしいと思いますが」 「え、何がですか? 私、人間じゃないんで難しい事言われてもよくわかりませーん。ぷっぷー」 「……美月で構いませんから、その呼び方は止めてください」 「ふん、最初から口ごたえしなきゃいいんですよ。苦情さん」 「だからその呼び方は止めて下さいと申し上げているでしょう!」 「え、なんすか? キレてるんですか? ねぇ、キレてるんですか? ねぇねぇ?」 「キレてません!!」 「みつきちゃん、すっごくこわいよ……」 「ノエルの挑発に乗せられているな。九條らしくない言葉遣いだ」 私とひまわりは二人の戦いを外から眺めているだけだった。 「大体あなたのその服は何ですか! はしたないにもほどがあります!」 「自分の家で何着ようがスッポンポンだろうが人の勝手でしょうが!」 「あかしくん、二人のけんか止めなくちゃダメだよ」 「……そうだな」 これ以上続けさせては二人の思考低下を招きかねない。そんな姿はできれば見たくはなかった。 「バカ!」 「バカはあなたです!」 「少しいいだろうか」 「何ですか!」 「何ですか!」 戦輪を操る少女に襲われた際にも引かなかった身体が僅かにたじろいだ。しかしここで引き下がっては肝心の話ができない。 「大事な話をしたい。そのために九條をここに連れて来たのだ」 大きく逸れた話題を強制的に引き戻す。九條も冷静さを取り戻したのか、前傾だった姿勢を元に戻し小さく咳払いをした。 「ノエル、私はキミに謝らなければならない。約束を破ってしまった」 「私は“《エンゲージ》〈契約〉”を行った」 普段は眠たげなノエルの瞼が大きく開かれた―― 「以上が今日私の体験した出来事だ」 “《エンゲージ》〈契約〉”に至る経緯を昼から順を追って説明する。 なるべく九條のプライバシーに関する情報は避けたつもりだ。他人の秘密を軽々しく口にするのは人間のルールに反する。 「…………」 てっきりノエルは禁じていた“《エンゲージ》〈契約〉”を行ってしまった事を責めるのだと思っていた。 しかし私の話を聞き終わったノエルは真面目な顔で考え込んでいる。 「怒らないのだろうか」 「え? ええ、別に怒ったところでどうにもなりませんし。そもそも私がご主人に怒りをぶつけるなどありえませんよ」 先刻の光景が脳裏に蘇ったがすぐに記憶の奥底へと押し戻す。 「“Archive Square”の“《イデア》〈幻ビト〉”は本当にご主人を追わないと約束したんですか?」 「そう言っていた。少なくとも私には彼女が嘘をついているようには見えなかった」 もちろん私には嘘を見抜く力など備わっていない。それでも人間が嘘をつく際の独特な匂いは少女から嗅ぎ取れはしなかった。 「…………」 「ノエルすまない、キミとの約束を破ってしまった」 「仕方がありません。状況が状況ですからね。今はご主人が無事帰ってきてくれただけで幸せですよ」 「それよりどこかおかしいところとかありませんか? 些細な変化でも構いませんから、もしも異変を感じているなら言ってください」 「いや、私は何も。九條はどうだろうか」 「私も特には。自分ではおかしいところがあると思えません」 「あなたには聞いてませんよ」 「赫さんに聞かれたから答えただけです」 「赫さん……だと?」 ノエルの額に青筋が立つ。しかしすぐに自制して落ち着きを取り戻す。 「……あなたへの落とし前はいずれつけるとして、とりあえず話を聞いた限りでは差し迫った危機はないようですね」 「“Archive Square”が私達を放置しておくかは、あの少女次第といったところだろう」 「ならひとまず様子を見るってことで大丈夫でしょう。もしもまた襲撃してきたとしても、今度は私がついてますから安心してください」 「頼りにしている」 「それより問題はキツツキさんですかね」 「美月です」 「あれそうでしたっけ。まあ両方ツンツンしてるからどっちでもいいんじゃないですか?」 「ノエル、“《エンゲージ》〈契約〉”について、詳しく話してほしいのだが」 「ああはい、わかりました」 再燃しそうな火事を事前に消化する。二人の扱いに関して短時間のうちに上達したのかもしれない。 「確かご主人には前にちょろっと説明したと思いますが」 「ああ、その最中にお前が毎週視聴している番組が始まってうやむやになった」 「そんな馬鹿なぁ。私がご主人への説明より自分の趣味を優先するわけないじゃないですか、やだなぁ」 私の記憶が正しければ以前そういう出来事があったはずだ。結局その場ではあまり関心のある情報ではなかったため聞き返す事はしなかったのだが。 「まあ体験した本人達がよくわかってるでしょうが、“《エンゲージ》〈契約〉”とは“《イデア》〈幻ビト”と“《フール》〈稀ビト”の間に交わされる特殊な現象を指します」 「…………」 「やっぱめんどくさいので明日でいいですか?」 「すまないノエル、できれば今話してくれると助かる」 「んもぅ、ご主人にそう言われたら断れないの知ってるくせに♪」 「…………」 「のえるちゃんはあかしくんにぞっこんなんだよねー♪」 「お、あなたよくわかってますね。ご褒美にソファの周りにあるお菓子食べていいですよ。私の食べかけですからありがたいと思いなさい」 「うっほーい! おかしおかし♪」 元々ひまわりは話に興味がなかったようで、促されるままソファに座って菓子を頬張りながらテレビを見始めた。 「さて、それでは説明を始めますか」 私と九條はノエルの話に耳を傾けた。 「“《エンゲージ》〈契約〉”を結ぶ事ができる対象はさっき言った組み合わせ以外にはありません」 「ただの人間とは何をしても“《エンゲージ》〈契約〉”することは不可能です」 「つまり美月さんは“《フール》〈稀ビト〉”だったというわけですね」 「…………」 「“《エンゲージ》〈契約〉”のメリットデメリットはいくつかあります」 「互いの命を共有する事で生命の強さが増します。ご主人達の傷が癒えたのはその為ですね」 「最大の変化は“《フール》〈稀ビト〉”から“《アーティファクト》〈幻装”取り出せるようになる事で使用時の“《イデア》〈幻ビト”を苛む苦痛が緩和される事です」 「“《アーティファクト》〈幻装〉”は“《イデア》〈幻ビト”自身の身体を介して取り出す事も可能です〉が、肉体と精神の両方を激しく消耗します」 この辺りは以前に聞いた事がある。戦輪を操る少女を見ても分かる通り、長期の戦闘には極めて不向きだ。 「もちろん“《フール》〈稀ビト〉”を介したからと言って、好き放題使えるわけじゃありません。ただ弾数に余裕があるってだけです」 「“《エンゲージ》〈契約〉”のデメリットとは何だろうか」 私と九條が気になるのはメリットよりもそちらの方だ。致命的な問題が生じるのであれば対策を講じなければならない。 「まあ……“《エンゲージ》〈契約〉”事態にこれと言ったデメリットはありませんよ。そもそも誰とでもできるわけじゃありませんから」 「どちらかと言うと副次的な問題ですかね」 「どういう意味だろうか」 「“《エンゲージ》〈契約〉”というのは大きな力をもたらします。それこそ人間が相手なら何人かかってこようが手のつけられないほどの力です」 「“《アーティファクト》〈幻装〉”の使用もそうですが、何より“フィンブル”と呼ばれる“《イデア》〈幻ビト”本来の力を呼び出す行為も可能なのだそう〉です」 「“フィンブル”……? それは一体どういうものなのだろうか」 「さあ、私も実際に見た事があるわけじゃないので詳しくは。ただ“《アーティファクト》〈幻装〉”さえも超えた力の行使が可能なのだそうですよ」 「発動条件などは私も知らないんですけどね」 “《アーティファクト》〈幻装〉”を超えた力――想像するだけでも持て余すだろう事は明白だ。相応しい用途を探すのも困難だろう。 「まあそれだけの力ですからね。人間界の安定を図っている“Archive Square”にとっては無視できないんでしょう」 「副次的なデメリットとは彼らに目をつけられるという事だろうか」 「ええ、ただでさえ“Archive Square”は “《フール》〈稀ビト〉”の存在を良しとしてませんから」 「何でも捕らえた“《フール》〈稀ビト〉”を使って怪しげな実験をしてたりしてなかったり」 「どっちなのだ」 「さあ、詳しい事は。必要なら調べてみますけど。どちらにせよ、目立つ行動は今まで通り控えてください」 「できればこの人と関わりを持つのも止めてほしいんですけど」 ノエルの視線は黙って話を聞いていた九條に向けられる。 「お前の心配はもっともだ。しかしそうできない理由がある」 「わかってますよ。この件に関して私が何を言っても無駄な事くらい」 「すまない。手間をかけさせる」 「ご主人にかける手間は私にとっての幸福ですから。いくらでも私を頼ってください」 ノエルは屈託なく微笑んだ。 「それより美月さん」 「あなたはご主人と“《エンゲージ》〈契約〉”した身なんですから、くれぐれも“Archive Square”の機嫌を損ねるような事はしないでくださいね」 「人前で“《デュナミス》〈異能〉”を使った日には、命の保障があると思わないでください。あなたが目をつけられたら私達も迷惑ですから」 「言われずとも……絶対にそのような事はしません」 ノエルの忠告がなくとも、きっと彼女は“《デュナミス》〈異能〉”を行使しないだろう。頑丈な鎖でがんじがらめにされた箱の中にあるのだから。 「ねぇねぇ、お話終わったー?」 テレビを鑑賞していたひまわりが飽きたのかこちらにやって来る。 「ごはんまだー? ひまわりおなか空いちゃったんだけど」 「菓子を食べていたのではないのだろうか」 「そんなのもうたべおわっちゃったよー!」 「は!? 全部食べたんですか!?」 「そーだよ? だってのえるちゃんが食べていいっていったもん」 口の周りを菓子の残骸で汚したひまわりは特に悪びれている様子もなかった。 「食事にしないだろうか。もう時間は過ぎている」 時計の針は既にいつもよりも三十分ほど経過していた。 「やったー♪ おでんおでん♪」 「お話は終わったようですので、私は失礼します」 「えー、みつきちゃんもいっしょにおでんさんたべようよー」 「良いのですか?」 「キミの好きにすればいい」 「新参者は目にからしを塗りこまれるのがそこの屋台での掟ですから、その覚悟があるならぜひどうぞ」 そんな事をしたら眼球が大変な事になるではないだろうか。少なくとも私達はやった事がない。 食べ物を粗末にしてはならない。それがこの世界でのルールだ。 親方の屋台は昨日と同じ場所で光を放っていた。 「よう、きたな」 「こんばんわー、おでんさんくださーい♪」 「用意できてるぜ。好きなだけ食ってけ」 屋台の用意された木製の椅子にそれぞれ腰を下ろす。 「お、また新しいお客さんが増えてるな」 「……はじめまして」 九條は親方への挨拶もほどほどに、屋台の装飾や作りに目を配っていた。 「どうかしたのだろうか」 「いえ、別に。ただこういった施設で食事をするのは始めてですので」 「九條グループのお嬢様は毎日おフランス料理ってわけですか? 見た目ボロい上に冴えない中年の店主が作ったおでんなんか食べられないと?」 「誰もそのような事は申し上げていません。このような場所に立ち寄った事がないので新鮮だっただけです」 「ガハハ、こっちも嬢ちゃんみたいな子は珍しいな。ウチに来るのは疲れたサラリーマンがほとんどだからな」 「おやかたくん! たまごさんとちくわさんとこんにゃくさんください♪」 「おう、ちょっと待ってな。えーと、たまごとちくわと……」 「キミも好きなものを取るといい」 「自分で取るものなのですか?」 「どちらでも構わない。親方に頼むのも可能だ。特に難しい作法などは要求されない」 「おう、そうだぞ、食いたいものを食う。それだけだ」 「では……取らせて頂きますね」 九條は煮え立つ具材をさい箸とお玉を使って自分の皿によそう。 「赫さんは何がよろしいですか?」 「すまない。ではこんにゃくとはんぺんをお願いできるだろうか」 「かしこまりました」 「うおおおおい!! 何ちゃっかり正妻ポジ奪おうとしてるんですか!! その役目は私だけでいいんですよ! キャラがかぶるでしょうが!!」 「別に他意などありません。ただの礼儀作法です」 「ただの礼儀作法です、キリッ」 「…………」 「どうぞ、こんにゃくとはんぺんでしたね」 「ありがとう」 「無視すんなや」 「ガハハ、にーちゃんも大変だな。両手に華とはうらやましいぜ」 「所詮あなたにはそれが限界でしょう。料理を取ってあげるだけなら誰にでもできます」 思い返してみるが、ノエルにおでんの具をよそってもらった事実はなかった。 「ふーふー、はいご主人♪ あーん♪」 「んっ――」 ノエルの箸がこんにゃくを挟んだまま私の口元に近づけられる。口を開け、そのこんにゃくを頬張る。 「ノエルの愛情がたっぷり込められたこんにゃくの味はどうですか?」 口に運ばれたこんにゃくはいつもと変わらぬ親方の味付けだった。 「どうです? 私とご主人のラブな日常を前にして言葉も出ませんか?」 ノエルは自信あり気な顔で九條に目をやる。 「すみません、お水を頂けないでしょうか」 「こっち見てないし!!」 「つぎはだいこんさんとういんなーさんくださーい♪」 「あいよ。それにしても嬢ちゃん、身体ちいせぇのによく食うな」 「いっぱいたべないとね、おっきくなれないんだよ!」 「あなたは異常にお腹が空くだけでしょう」 ついさっきまでノエルの菓子を食べていたはずなのに、ここにいる誰よりも食べている量が多い。一体ひまわりの胃はどういう作りをしているのか気になる。 「それよりにーちゃんよぉ、ひとつだけ忠告しといてやるぜ」 「何だろうか」 「色んな女と遊びたい気持ちはよーくわかる。でもよ、中途半端な態度でいたら両方とも失っちまうぞ」 「良い事言いますね親方。さすが妻に逃げられた後も未練タラタラで、飼ってるカラスに名前をつけるだけの事はありますね」 「それは言うんじゃねーよ! 俺だって別れたくなかったんだよ!」 「うぅ……帰ってきてくれよぉ、恵子ぉ……」 「あーあ、また始まっちゃった」 「そーだ。けいこちゃんにもごはんあげないと!」 「え、ひまわりさんどこへ――きゃっ!?」 屋台の裏に隠れていた恵子の姿が現れる。 「けいこちゃん、ごはんだよー」 ウインナーを箸で細かく切り分け恵子の前に置く。 「だ、大丈夫なのですか?」 「問題ない。恵子は危害を加えたりしない」 「なら良いのですが……少々驚きました」 九條の反応を見て分かるようにカラスを飼育している人間は少ないのだろう。私も親方以外には聞いた事がない。 「親方、私にも水をもらえるだろうか」 「うぅ……勝手にしろぃ……ぐびっ……ぷはぁ、恵子ぉ……」 顔を真っ赤に晴らした親方は一升瓶から酒を注ぎ口に運んでいた。 こうなってしまえば親方は今は亡き妻を思いこちらの話が聞こえなくなる。 親方の忠告を思い出す。ノエルを失えば私もこうなるのだろうか。 ……思い浮かべようとしても上手く想像できなかった。 「ふぁー、おなかいっぱいー、もうたべられないよー、げぷっ」 親方の屋台から戻り、一息つくために水道から水を汲む。 「私はそろそろおいとまさせて頂きます」 「えー、みつきちゃんかえるのー?」 「はい。家の者が心配しますから」 九條の話によると両親は離婚しており母親はいない。家の者とは父親の事だろう。 「帰れ帰れ。私とご主人の愛の巣にこれ以上居られるのは迷惑です」 「言われなくても失礼させて頂きます」 九條は身支度を始める。 「ご主人、美月さんを途中まで送っていってあげたらどうですか?」 「意外だ。お前がそんな事を言い出すとは」 夜道を女性一人で歩かせるのは危険が伴う。常識を重んじれば私が同伴すべきなのだが、まさかノエルの口から促されるとは思わなかった。 「勘違いしないでくださいね。もしもご主人に変な事したらそこの海に沈めますからそのつもりで」 「私は何もするつもりなどありません」 ノエルの言う変な事とは何なのか不明だったのだが、了承を得られた事は間違いないだろう。 「では少し出てくる。すぐに戻る」 「ひまわり、あなたも一緒に行きなさい。少しは動かないと豚になりますよ」 「おさんぽいくのー? だったらひまわりもいくよー♪」 「では行こう」 ノエルを残し、私達は倉庫を後にした。 波の音が奏でる演奏を聴きながら、月明かりの下を並んで歩く。 ふと自分の胸に手を当てている九條に気づく。 「気にしているのだろうか」 「えっ……?」 九條は見られていた事を自覚していなかったらしく、僅かに驚きの声を上げた。 「“《エンゲージ》〈契約〉”の事だ。キミにとっては喜ばしくはないのだろう」 「…………」 過去に人外の力を使った事で阻害された―― 他に打つ手がなかったとはいえ、より人間から離れる結果となってしまったのは九條にとって望まないものだったのかもしれない。 「……過ぎた事を悔いても仕方ありませんから」 「そうか。ならいい」 九條は自分に起きた変化を受け入れているようだった。 「明日もまたあの女子学生はキミを気にするだろうか」 「……彼女が私につっかかってくるのは今に始まった事ではありません」 「なるほど。しかし何故彼女はキミにあれほど執着するのだろうか」 「良く分かりません。ただ私が気に入らないのでしょう」 嫌悪を抱いているのではれば普通近寄らないものではないのだろうか……? 人間の行動原理は奥が深い。 「では明日も引き続き恋人関係の偽装を行えばいいのだろうか」 「えと、明日は学園が終わった後に予定が入っていまして」 「そうか。では偽装する必要はないということか」 「……明日は午後からパーティに出席しなければならないのです」 「パーティ? 誰かの誕生した日を祝うあれの事だろうか?」 「人ではなく会社ですね。父の経営する会社が10周年を迎えるので、それを記念するパーティが行われるのです」 「パーティ? パーティっておいしいごはんがいっぱい出てくるあれのこと?」 「え? ええ、食事も用意されると思いますが」 「いいなぁ、ひまわりもパーティでおいしいものいっぱい食べたいなぁ」 「食事をするのが本質ではないだろう。要人達が顔を合わせる事が目的のはずだ」 「でもごはん食べるんだよね? おにくとかデザートとかたくさん」 「らしいな。私も実際に体験した事がないので詳しい情報は知らない」 「……もしよかったら、ご参加してみますか?」 「え!? いいの!?」 「私達は関係者ではないだろう」 「私の知人ということでしたらご案内できます。近しい者だけではなく、色々な人が来られますから大丈夫かと」 「あかしくんいこうよ! ねぇねぇいこうよ! あかしくんいこうよぉー!!」 「…………」 多くの衆人が集まる場所はなるだけ避けた方が無難ではある。私達は姿を隠している身分だ。 しかし正直に言えば人間の催し物に興味があった。九條の事を知るためにも有意義な機会となり得る。 「わかった。では私達も同行させてもらおう」 「やったー♪ おいしいものいっぱいたべるー♪」 「わかりました。それでは手配しておきます」 倉庫に帰ったらノエルの承諾を得る事にしよう。リスクの伴う行動であるため反対される可能性も否定できない。 「明日も学園にいらっしゃるのですか?」 「ああ、そのつもりだ」 「では終業のチャイムが鳴りましたら、図書室までおこしください」 「わかった。覚えておこう」 「パーティパーティたのしいな♪ おにくがたくさんまってるぞ♪」 「ふふっ……」 ひまわりの頭は既に明日の事で一杯だった。かくいう私も未知の体験に対する興味を抱いていた。 仕事以外の予定が入る事は極めて稀で、マナーに関する知識を掘り起こしている自分に気づき、人の事を言う資格はないのかもしれなかった。 「もしもし」 「……誰だ?」 「誰だって、私ですよ。番号でわかるでしょう?」 「……マジかよ、俺の電話はあの世に繋がる機能でもついてんのか?」 「は? 訳のわからない事言わないで下さい。ついに頭がおかしくなったんですか?」 「いや、なんでもねぇよ。なんでもねぇ……常識が通じなくたって“《イデア》〈幻ビト〉”相手にいちいち驚いてられるか。で、何の用だ?」 「とぼけないでください。約束の時間に来なかった無礼はすっぽり頭の中から抜け落ちてるんですか?」 「あ、ああ、そいつは悪い事をしたな。急に予定が入っちまって」 「ちゃんと報酬から天引きしといてくださいね」 「もちろんだ。失った信用の補填はさせてもらう」 「まあそんな事はどうでもいいんです。それより頼んでおいた九條美月に関する資料は集まりましたか?」 「ああ、もちろんだ。明日にでも渡しにいく」 「わかりました。明日こそはお願いしますね」 「わかってるよ。それよりひとつ聞いてもいいか?」 「なんです?」 「“《イデア》〈幻ビト〉”や“《フール》〈稀ビト”ってのは分身したりできんのか?」 「分身?」 「他人の姿に成りすますでもいい。そんな事も可能なのか?」 「急にどうしたんですか?」 「いや、ちょっと別の仕事で気になる事があってな」 「……まあいるんじゃないですか? そういう“《デュナミス》〈異能〉”を持った “《イデア》〈幻ビト〉”や“《フール》〈稀ビト”がいてもおかしくないですよ」 「この目で見た事があるわけじゃないですけど」 「そうか。参考になった。それじゃあまた明日連絡する」 「……ヘンなの」 「まあヘンなのはあんなお面をチョイスする時点でわかってたんですけど」 「ただいまー♪」 帰宅するとノエルはいつものようにテレビの前に座っていた。 「ノエル、少しいいだろうか」 「何です?」 「ひまわりおふろはいるよー♪」 倉庫について早々、ひまわりは風呂場に向かっていった。 「明日、九條の会社が主催する催し物に出席したいのだが」 「催し物?」 「会社の創立を記念するパーティだそうだ」 ノエルはあからさまに怪訝な顔をした。 「お前の言いたい事はわかる。人の目につく場所へは行かない方がいいと言うだろう」 「それでも行きたい理由があるんですよね?」 純粋な興味もある。しかし何より―― 「九條の近くにいれば“上司”に関する情報が入るかもしれない。彼女の事を知るのは私にとって都合がいい」 「…………」 ノエルは一概に私の要求を突っ撥ねはせず、その是非を考え込んでいた。 そして―― 「ご主人がそうしたいなら、私は止めませんけど」 「けど、何だろうか」 含みのある言い回しにその真意を問う。 「……あまり美月さんを信用しない方がいいと思いますよ」 「信用、か。どうだろうな、私は彼女を信用していると思うか?」 「それはご主人にしかわかりませんよ。どちらにせよ、警戒心は解かない方がいいでしょう」 九條と話をしているうちに、出会った頃に比べ不信感は幾分和らいでいるのは事実だった。 「相手の真意がまだわからない以上、騙される可能性も考慮した方がいいですよ」 「そうだな。警戒は怠らないようにしよう」 「それに――」 ノエルは思いもよらない可能性に言及し、鼓動が脈打つのを感じた。 「ご主人を襲った“黒い塊”。あれが美月さんである可能性もあるんですよ」 「…………」 「彼女が“《フール》〈稀ビト〉”だというのは紛れもない事実でしょう。“《エンゲージ》〈契約”した事がそれを証明しています」 「ですがご主人は美月さんの“《デュナミス》〈異能〉”を見てないんですよね? 自分が襲われたにも関わらず、彼女は“《デュナミス》〈異能”を使わなかった」 「……それは九條に“《デュナミス》〈異能〉”を使用したくない理由があるからではないだろうか。私の聞いた話からそう推測できる」 「どんな話をされたのか知りませんが、ご主人を騙すためにでっち上げた嘘の可能性だってありますよ」 「嘘、か……」 人間は嘘をつく生き物だ。口から出るのが真実だけとは限らない。誰もが知る社会の常識だ。 しかし私は無意識のうちに彼女の言葉を信用していたのかもしれない。裏打ちされた理由などない。それは単なる思い込みに過ぎない。 それでも彼女が嘘をついている可能性を本気で疑えない自分がいた。 「まあ彼女と黒い塊を結びつける要素もありませんから、はっきりとした事は言えないですけど」 「ただ他人を無条件に信用してはいけません。どんなに真実を語っているように聞こえても、絶対に裏切らないという事はありえませんから」 「なるほど。勉強になった。しかしその理論が正しければ、私はお前も信用してはいけないという事になるのだが」 「私とご主人は他人じゃありませんよ♪ 決して切れない絆で結ばれたおしどり夫婦じゃないですか♪」 「そうだったな。ノエル、愛している」 「私もですよ」 相変わらず愛についての詳細は不明だが、ノエルが喜ぶ言葉であることには違いない。 ノエルの言う事に間違いはなく、私は全幅の信頼を寄せている。 しかし九條はどうだろうか―― ノエルの抱擁を受けながらも、脳裏をよぎるのは彼女の凛とした瞳だった。 静けさと暗闇に満ちた倉庫の中で、私は寝そべり天井を見上げる。 二階では寝ているひまわりの小さな寝息が一定のリズムを奏でている。 「…………」 ノエルに突きつけられた現実が頭から離れない。 人間は嘘をつく。ほんの僅かな罪悪感を代償にして驚くほど軽い気持ち偽りの言葉を使う。 それは仕事や交友関係、世界の至るところで横行している。私もいつからかそれが普通だと認識していた。 九條を会った時も、その気持ちは変わらなかった。自身にとって都合の良い情報しか提示しない相手を信用できるはずもない。 それでも彼女の話を聞き行動を共にすればするほど、懐疑的な印象は薄らいでいった。 もしも彼女が“黒い塊”―― しいては“《ファントム》〈亡霊〉”だとしたら―― 私は迷わず内に秘めた業火を解き放つだろう。 「『大盛りカレーライスぅ……が生んだ卵を何処へやったのだ、大臣……』」 「…………ん……」 話し声……? 《なる》〈隣〉の部屋からだ。 時計を見る限り、結構な時間を眠れたらしい。 軽く伸びをして布団から力強く跳ね起きる。 「『卵……じゃないだと……? 黎あるいは藍色の卵型の特製レタスチャーハン……か』」 「えぇ?」 一体何の話だろう。壁に近づき、耳を澄ます。 「『アボカドご飯……の海……そんな海で大丈夫か。大丈夫だ、問題だ』」 「問題なんじゃん」 「『空の空、凡ては空であるからして、我の《くうがん》〈空観〉、空腹に通ず……』」 「空腹……?」 「『んみゅー……むぅ…………』」 「――――そんな寝言ありかよっ」 夢の中でも食べ物で頭がいっぱいなんて、なるらしくって可愛いけど。 大盛りカレーライスとレタスチャーハンとアボカドご飯――――ご飯物ばっかりだ。 腹ペコ作家さんが起きた時に文句を言われないように準備しておこう。 使えるパートナーって思われたいしね。 「材料、足りるかなぁ」 「うーん……やっぱ足りないな。コンビニで揃うといいけど」 静まり返った夜の帳。街が眠り、人も眠る、そんな時間。 意識すると、世界にひとりきりになってしまったような錯覚を覚える。 「結衣」 確かめるような俺の声は、独り言となって闇に消える。 「…………いないの……?」 誰に届く事もない問いかけは虚しく反響する。 「返事がない。ただの妄想のようだ」 いないことがわかっていながら、呼びかけた。 今にもひょっこり顔しそうな結衣がかくれんぼをしていることに、安堵と儚さが同居する。 「今まで、俺に付き合ってくれてありがとう」 「それだけ」 妄想の結衣を望んでいない今の俺には、結衣は見えないし話せない。 独り言に返答してくれる優しい妹は、もういない。 「ぐーぐー……ぐーぐー……」 「ちょっと出てくるね」 「うぐぅ……働けー……働きたまえー……んぐぅ……」 「社長の下でなら喜んで奴隷になるよ」 起き抜けの脳を爽やかに目覚めさせる涼風を全身で浴びる。 「世界が俺を歓迎しているのは間違いないな」 うんうん。 今のはかなりのポジティブ発言だな。 なるのおかげで色々すっきりしたからか、気分も晴れやか。 「脚もう完全に治ってるなぁ。シャベルで掘るみたいにザクザク突き刺されたってのに、不思議なもんだ」 不死ではないにしろ、死ににくい身体ってわけだ。 「偽物騒動のごたごたで借金も増えちゃったし、明日からはホントに仕事優先で考えていかないと」 「…………あれ、待てよ……」 “《コンビニ》〈エーエス365〉”目前で立ち止まる。 優先――――なるの朝食以上に大事な事があったような……。 「考え事?」 「ちょっと待って、もう喉まで出かかってるから」 「喉まで? なら、指を入れて掻き出せばいいんじゃない?」 「いや、今のは比喩表現であってですね――――ってリノン!?」 「闇に紛れてこんばんわ。夜分遅くに偶然ね、優真」 突如、姿を現したのは神出鬼没な“《アーカイブスクエア》〈AS〉”の広告塔様だった。 そうだ。俺が気がかりだったのは、彼女の“その後”だ。 「もう一人で散歩できるなんて、凄まじい回復力ね。首の皮一枚繋がっていれば再生するのかしら?」 「治ったばっかりなんで、痛いのはやめてね……?」 「あれくらいで気絶するなんて、鍛え方が足りないわよ? 痛みの耐性はつけておいたほうがいいわ」 「できればそんな必要のない人生を送りたいなぁ」 「人が耐えられる痛みは、当人が想像できる最高の痛みまでだそうよ。それ以上だと一定確率で、あんなふうに気絶してしまう」 「よければ、定期的に“想像できる最高の痛み”を与えてもいいわ。こういうのは、少しずつ慣れていかないといけないことだから」 「それよりさぁ!」 気絶値の底上げに拷問を受けるなんてまっぴらごめんなので、強引に話題を変える。 「俺には失望したんじゃなかったの?」 「したわよ、《・・・・・》〈わたしはね〉」 「…………? 何にせよ、無事で良かった。あの後こっちも色々あったけど、そっちは平気だった?」 「聞かないで……不愉快な事ばっかりでうんざりしてるの」 「リノンにしては珍しいね」 一度感じた不愉快を不愉快のまま終わらせられる性格ではないと思っていた。 「あいつを仕留めても、私の評価はそこまで上がらないし。今となってはどうでもいいわ」 「夜の散歩、延長してもらうわよ」 闇の似合うミステリアスな微笑が俺を誘った。 「――――足りないもの?」 「そう。本来あったはずなのに、欠けていると感じるもの。優真にはない?」 「それって、ハメ終えたジグソーパズルの最後の1ピースが行方不明な感覚?」 「やったことがないからわからないわ」 「何処かに無くしてしまった落とし物。それが何か覚えてないのに、確かに“あった”ことだけはわかっているの」 「ははっ」 「笑うシーンじゃないわよ」 「ごめん。全てを手に入れた大アイドルでも人並みに悩みを抱えるんだって思ったら、おかしくって」 「わたしの持っている“《ユートピア》〈幻創界〉”の知識は、全て“《アーカイブスクエア》〈AS”から得たものなの」 「自分が持っていた記憶は、極わずか。向こうでの出生も、身分も、本当の姿もわからない」 「記憶喪失……ってやつ?」 「“《ユートピア》〈幻創界〉”時代の自分の記憶だけね。勘違いしないでよ? 記憶がないことは一向にかまわないの」 「ただその中に一つ――――忘れちゃならない何かが混ざっていた気がする」 「……俺に興味を持ったのは、記憶を取り戻す鍵になるから?」 あてずっぽうだったが、リノンはもう焦らすのをやめたのか頷き返してくれた。 「少なくとも可能性はあるからこうして会いに来てるのよ。さぁ、こっちよ」 「何処へ?」 「さっきも言ったはずよ」 「記憶にないなぁ」 「私の部屋に行くのよ。忘れたの? あの時から話は地続きなんだけど」 「――――って、マジで?」 「部屋じゃないと色々、問題があるのよ。《・・・・・・・》〈やりやすい環境〉ってものがあるし」 「と、とうとうファンとアイドルが、その垣根を越える時が来てしまったか……」 「優真、今日は帰さないわよ」 「お、おおおお、おうともっ」 真摯に向き合った時間は、嘘を吐かない。 生きていてよかった……。 「そのへんに座って。何もない部屋で悪いわね」 「…………ここが……リノンの住むとこ?」 駅裏を出て、きな臭く人気のない裏路地を歩いていた時点から、嫌な予感はしていたけど……。 1st写真集の発売1ヶ月目でミリオンを達成したグラドル様に言わせれば、それこそ“犬小屋”のような場所だ。 「成功者特有のお洒落な空気はどちらに?」 「あら、想像と違ったかしら?」 恥じる様子もない大アイドル様を放置し、安っぽい暗幕の端をめくる。 分厚い窓に加え雨戸が閉められている。 「高層マンションでワイン片手に観る夜景を返してよっ」 「防音性に優れたいい部屋よ? 何もないけど」 「本ッッッッッッッッ当に何にもなくない?」 「だからそう言ってるじゃない、うるさいわね」 「足のつきそうな物がないのが犯罪者の隠れ家っぽい感じ。拷問と監禁とかできそうな物騒な雰囲気がぷんぷんするぜ」 「実際、その通り。言っちゃえばここって、別荘みたいなものだし。密談に適していればそれでいいのよ」 「ふぅ……突っ立ってないで適当に座るなり、寄りかかるなり、楽にしなさいよ」 ここまで自然に色艶のあるため息をつけるのは、さすが才能だろう。 自分の部屋の壁に寄りかかって『これが一番リラックスできる姿勢です』みたいな顔をするのはおかしい気がするけど。 「っていうか……一番大事な物が見当たらないんだけど」 「さっきからそんな事ばっかり言って、何なのよ。部屋なんかどうだっていいでしょう?」 「二人の愛の巣。花の香がするベッドがないんだよっ」 「必要ない。わたし、眠らないから」 「眠ら――――それだったら俺も、負けないかな。平均睡眠時間は2時間弱だし」 「こういうのって、勝負なの? 平均もなにも、わたしは一度として眠ったことがないわよ」 「さり気なくとんでもないこと言ってない?」 「名を残す偉人たちの大半は睡眠時間を削っているわね。時間を有効活用できるし、いいんじゃない?」 「アイドルは健康に気を使うものだとおもってた」 「わたしは“《イデア》〈幻ビト〉”よ。睡眠は“趣味”の範疇。必要がないことはしないわ」 なるは眠る。 毎日、可愛いいびきをかいて。でたらめな寝言も叫んで。 パジャマからおへそを覗かせたりしながら、しっかりと。 リノンは眠らない。 この違いはなんだろう。 一日の節目をつけたり、体力回復の意味もある大事な行為だと思うけど、あくまで“習慣”であって“《イデア》〈幻ビト〉”に必要なことではないのかもしれない。 「じゃあ夢も見ないんだ」 「夢――――そうね。見ないわ」 「夢も妄想も、自分の中にある感情、経験、思い出、行動――――積み重ねてきた“記憶”が形を変えて呼び起こされたものだよ」 「リノンの忘れちゃいけなかった“何か”も、夢のなかでなら見つかるんじゃない?」 「…………夢……ね」 「妄想は、あまりオススメできないけど」 「“胡蝶の夢”」 「……え? こちょうの……え? なに?」 「わたしにとって、夢は敷居が高すぎるってこと」 睡眠時に見る“夢”は困難で、国民的大アイドルになったことは“夢”でもなんでもないのだろうか。 「例えば、自分の体験しているこの世界が、確実に自分自身のものだという確信が優真にはある?」 「難しいこと言うね」 「……ある、かな。今、この瞬間は確実に現実だと思うし、自分も歯車の一つだと思う」 「フィクションみたいに都合よく巻き戻ったり、過去が覆ったりなんてしない」 「代わりに、どうやって生きて、どこでくたばるか、自分の頭で考えて決められる。進行形の世界」 「そう考える“脳”が本物だっていう根拠は、ないでしょう?」 「……はい?」 「わたしには、“現実感”というものが実感できない」 「その体験は、経験は、すべて“水槽の脳”が見ていたバーチャルリアリティだったとネタばらしされたとしても――」 「――あーそう、って納得できてしまう」 「水槽の……?」 「コンピュータに繋がれた脳が見ている幻覚。今、話していることも、配線を通して伝えられた情報に過ぎないという仮定よ」 「ムチャがある気がするけど」 「記憶や目的がないと、こういった思考一つで不安定になるものよ。自分が現実に存在している根拠なんてないんだから」 「脳天気に創作なんてしているヤツはいいわよね、気楽で」 「なるちゃんにはなるちゃんの大目標があるんだ、それを悪くいうようなことはやめてほしい」 「……熱くなれることがあって、羨ましいだけよ」 「ってことは妄想野郎と、考えすぎアイドルか。悪くない相性だね、俺たち」 存在に対して懐疑的で不安定なリノンと現実から逃げて妄想の妹にすがった俺。 囚われた思考の向きは逆だけど、前に進もうとしている点は一緒だ。 「アドバイスしてくれてありがとう。じゃ……そろそろ始めましょうか」 「ここなら誰も邪魔に入らないだろうし、部屋の強度も充分。もし暴れても壊れる心配はないわ」 「うわぁ、リノンってやっぱ、ソッチも激しいんだ……」 「入り口の扉も絶対開かないようにしてくるわ。外からも、中からもね」 なにやら本格的に準備に取り掛かろうとするリノン。 「い、いやぁなんか汗掻いてきちゃうね、こういう話してると。はは、はははっ」 「そう。シャワー浴びる?」 「ひょ!? い、いいよ俺は。リノンこそ入ってきなよ、今日入ってないんじゃない?」 「わたしは“《イデア》〈幻ビト〉”だから体温調節は――――」 「いいからいいから、入ってきなよ」 「そこまで言うなら」 「ひょお!?」 リノンは着替えも持たずにふらふらとバスルームに消えていった。 「………………がぁ」 「もがぁっ!! どどど、どうすんだどうすんだっ!!」 ドキドキしながら奇跡を信じていたが、本当にピンクな展開になりそうだ。 「うわぁ……」 微かに聴こえてくる生々しい水音に反応し、童貞な俺は思わず正座してしまう。 「シャワー……生リノンがシャワーを浴びてる……」 覗いちゃダメとは言われていない、つまり覗かれたい願望があるという勝手な解釈はどうだろう。 「いやいやいや、学園で剣咲さんの着替えを覗いたのとはわけが違うんだぞ?」 「リノンは屋上まで壁走りできる超人なわけだし、覗いたのがバレたら、怒り狂って身体を再生不可能なくらいに分割されるかもしれない」 「下手したら、なるちゃんとセットで“《アーカイブスクエア》〈AS〉”に連行されるかもしれない」 よし――――というわけで覗こう(何がというわけだかわからないけど!)。 「“なんとかなる”!」 何度となく見てきた写真集、動画。水着の下に隠された本当の“Re:non”を知る機会は今しかない。 というか純粋に、この状況で覗かない草食系男子になんか、俺はなりたくない。 「やってやんよ……!」 正座を解き、膝を立てる。 「『――――いるー?』」 「うわっ」 「『タオルを取ってきてくれるー?』」 「た、タオルですと!? ただいまお持ちしますっ!!」 「『キッチンの下に予備があったって言ってたんだぜー』」 ……だぜ? 「オッケー、3秒で行くからねー」 思わぬ口実ができてしまったので、早速シャワールームに乗り込むことにした。 タオルを渡す際に手を滑らせて侵入するだけで、永遠に叶わぬ夢とされていたリノンのフルヌードが拝めてしまう。 「ここに置いとけばいい?」 「んー……っていうか、水がもったいないから脱いで♪」 「意味がわかんないんだけど!?」 「後で入るって言われても困るのよ。資源の無駄遣いは極力避けた方がいいわだぜ」 「そんなムチャクチャな……願ったり叶ったりではあるけど」 「さっさと脱いで入る。5・4・3…………」 急展開だ。 一体リノンにどんな心境の変化があったか知らないが、意を決して入るしかないだろう。 「さ、ここに座るのぜ」 「お、おおお、おう……座ったのぜ……」 湯気の立つ浴室に招かれるまま、風呂椅子に腰掛ける。 「椅子、泡立って濡れてるでしょ? 今の今までわたしが身体を洗っていたのよぜ」 「り、リノンのお尻が乗ってたのかよぜ……」 関節おしりキス……? よくわからないのぜ。 よくわからないけど、非常に光栄な状況だった。 恋人にしか許されない親密な距離で顔を見合わせると、否応なく色の非対称な瞳に吸い込まれる。 大アイドルの目力――国民を熱狂させる魔性の少女には抗えない。 「…………ぅ……でも、これ……いいのかな?」 「ん? 裸じゃないんだから、平気だぜ。写真集で何度も見てるだろ? あーでも、生で見るのは初めてか」 痺れるようなセクシーガーターに対する純白の上下。 フリルがあしらわれたミニショーツは華やかで愛らしく、しかし戒めを相手に委ねるかのように長い紐を左右に垂らし、男を誘う。 なによりその、ぷりっとした小ぶりのヒップとの密着感がベストマッチで、際どいラインが非常にソソる。 「あらぁ……♪ もしかして下着でガッカリかー? まだ着衣エロスがわかんねー年齢なんだぜ?」 「い、いぁ……とっても魅力的で……っていうか、嘘みたいで……頭が回らないだけ」 「ハハッ、なーるほどな」 「!?」 ぷにゅり。ボディソープにまみれたきめ細やかな肌が密着する。 「洗ってあげるわぜ。じゃなくて、洗ってあげるわ、だぜ」 「え、あ……ありがとうだぜ……」 “だぜだぜ”口調が気になるが、的確に返答できるほど余裕のある状況ではない。 「不潔な身体は消毒だぜ。おお、良い身体♪ 働く男のガタイしてんじゃんか」 「仕事は第一、学業は二の次なんで」 「汗の臭いが心地いいぜ……おっとぉ? 股の間のじめじめしたとこに、キノコが生えてんじゃねーか」 「こーーーーーんなにでっかい、キ・ノ・コ、がな♪」 「うぁっ」 そそり勃ったち○こを撫でるように、くいっ、くいっ、とお尻を揺り動かすリノン。 扇情的なお尻の挑発と、全身によるボディマッサージが俺の脳を溶かしていく。 「う……く、ぁぁ……」 「ハハッ、おもしれー声。これ、なんだ? 教えてみろよ……ほら、ほら、もっと押し付けちまうぞー?」 くにゅ、くにゅ。柔らかヒップにち○こがキスする。 下着越しとはいえ、その先にはリノンのアソコが……。 想像するだけで頭に血が上り、正常な判断ができなくなっていく。 「ち、ち、ち○こ……だよ」 「勃起おち○ぽ、だろ♪ ハハハッ。勃起したおち○ちんどうしてほしいのかな~」 一周回って卑猥ではなく、はしたないという感じがリノンの柄じゃなかった。 リノンはち○この上に跨って、弄ぶように腰を動かす。 「ほれほれ、パンツ履いてなかったら入っちゃってたなぁ。ハハハッ、挿れたいのか? ズコバコかましたいだろう?」 「ほ、ホントにリノン……? 別人みたいだよ。こう言っちゃなんだけど、品がない」 「う、うるせーなリノンに決まってるぜ!」 「女はな、みんなえっちに興味津々なの。女を勝手にエロから遠ざけようとしてるのは、童貞野郎の妄想だってんだ」 「ぅっ……く……」 饒舌なトークを届けるためにマイクを握っている手が、今は俺の胸板を優しく撫で回している。 汗と香水の入り混じった香りは、無条件に男をダメにする。 「さーて……このまま頂いちゃおうかなぁ……どうしよっかなぁ……」 「ちょ、ちょ、だ、ダメだよさすがにっ! いつものリノンに戻ってくれっ!!」 「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」 「…………リノン?」 時間にしてみれば3、4秒の話だけど、リノンは電池の抜けたロボットのように完全停止する。 「はぁ――――!?」 ――そして突然、困惑した顔を見せた。 「な、何であなたが入って……うわ、ぬるぬる、ソープ? って! ちょっと、どこ触ってるのっ!」 「待ってくれっ、リノンがいいって言ったんじゃないか」 「言った覚えは――――」 リノンは大きくため息をつき、『なんてこと……』と手で顔を覆い隠した。 「トリトナ……悪ふざけがすぎるじゃない……」 「トリートメント?」 「優真……出ていきなさい。今なら命だけは許してあげるわ」 「えぇ!? だって、俺……ええ? リノンがその……呼んで……それで……こんなふうに……」 ぴたっぴたっ、としゃくりあげてリノンのお尻をぺちぺち叩いている勃起ち○こ。 「なっ」 リノンもそれに気づき、あきれたように口を開けた。 「もう……その……だいぶ辛いといいますか……ここでやめられてしまうと生殺しといいますか……」 「し、知らないわよ。勝手に自分で処理すればいいじゃない」 「…………勃起おち○ぽ……慰めるって言ってたじゃん……」 「はぁ!? このわたしがっ、言うわけないでしょっ、そんな頭の悪いセリフっ」 嘘つきだ……。 「うっ……何よ、そのすがるような目は……ぅ! ちょっと、お尻に当たってるっ」 「………………」 「…………はぁぁっ。仕方ないわね……今回だけよ」 「どういうふうにすればいいかわかる?」 「子供じゃないんだから知っているわ。わたしのファンが硬くしたソレを片手に握りながら、写真集を凝視していることもね」 「優真だって、眠れない夜はわたしを使って慰めていたのでしょう?」 ムラムラした時にお世話になった事は数回あり、返す言葉もない。 「うわ……一人エッチってやつ、ホントにしてるの? 引くわね……ドン引き」 「ちょっと、リノン行かないでよ。このままじゃ困るって」 離れようとするリノンの細い腰に腕を回し、再び密着させる。 健全な男子ならば誰しもが一度は夢見る、リノンとの抱擁を楽しみながら、今後の展開に期待してしまう。 「……わかったから、落ち着いて。とにかく、優真のそれをおとなしくさせればいいのよね」 「すいませんが、よろしくおねがいします」 「あたりまえだけど、口でするのはもちろん、なかに入れさせたりなんか絶対しないから。下着のまま、一人エッチのお手伝いをするだけよ」 「いやまぁ……何をするつもりかわからないけど、とりあえず射精出来ればなんでも……」 とにかくこの状態でお預けをくらってしまっては、一晩中、悶々としてしまう。それさえ避けられればなんでもいい。 「ようするに射精させればいいのよね。初めてだけど、なんとかなるでしょ。全体を刺激をするには、まず……」 泡立てたボディソープがち○こを包む。 「っ……~~っ……」 「あ、冷たかった? 我慢して。こっちの方がぬるぬるして滑るから、快感が行き届いて効率的に射精できると思うわ」 ち○この先端から溝の間まで抜かりなく泡をすり込み、根本まで下ろす。 「ここに精液が詰まってるのよね。こんなものに理性を奪われるなんて、雄って大変ね」 「んぉ……ぉ……~~~っ」 「ぱんぱんじゃない……なかにコロコロした物が入ってる。ここも泡立てておきましょう」 玉袋も丁寧に揉み込んで泡を付け、ち○こ全体を軽くしごいたところで掌は離れた。 「リノンは、こういうことにあんまり抵抗はない?」 「わたしが握手会を開かないのは“こんなもの”を握った手を握ってニコニコできないからってのはあるけどね。アルコール消毒したってごめんだわ」 「………………」 「何を傷ついてるの? 優真を触るのが嫌ってわけじゃないから安心しなさい。今回のはわたしに過失があるし……」 再び、女性特有のむっちりとした尻周りのお肉が、キュッとち○こを挟み込んだ。 「せっかく、わたしが処理してあげるって言ってるんだから。楽しまなきゃ損よ? 一生に一度っきりの、リノンとのえっちなんだから」 「リノンとえっち……言われてみれば、そうなのか……」 その言葉だけで、ち○こがどうにかなりそうなほどむず痒くなる。 「擬似的なえっちで我慢しなさい。脚をぴったり閉じててあげるから、お股の間をわたしのアソコだと思って突いてみて」 「じゃあ……あっ……くっ……」 にゅっぷにゅっぷ、にゅっぷにゅっぷっ! 凄い……明確な“挿入感”があり、下着越しにぬくもりさえ感じられる。 「そう……その調子。ね、この体勢だと、何が起こってるか完全にはわからないでしょ? もしかしたら、入ってるのかもしれないわよ」 映像化されたものや紙媒体で眺めるしかなかった小悪魔リノンが、素股で抜いてくれている。 こんなことが現実に起こるとは思わなかった。 「リノンにしてもらえるなんて……ファンで良かった……」 喉が乾くほどに興奮した俺は、可能な範囲で真っ白な身体に触れていく。 「触ってもいいけど、肌に傷がつかないようにそっとよ?」 しがみつくように小悪魔ヒップの丘を撫で回す。 誰もが羨み、触れたいと憧れるリノンの身体は、想像を遥かに超えて繊細で、しなやかで、艶かしい女性の肌だった。 「んっ……ん……ふふ……息が荒いわよ……そんなにイイの……? 下着の上から、お股でこすられてるだけなのに……」 「リノンの……太もも……っ……お尻……っ……き、気持ちいい……」 にゅっぷにゅっぷ、にゅっぷにゅっぷっ! 膨張しきった肉棒がぬちゅぬちゅと揉みほぐされ、じくじくとした甘い痺れが先っぽに集まっていく。 「んっ……ふっ……はぁ……最初の時よりも……太くなってるわね……それに……熱い……」 「ふふ……情けない顔……喘ぎ声まで漏らして……そんなにわたしの太ももでシゴかれるのがいいの?」 「ぬるぬるで……っ、締め付けてきて……っ、すごい……いいよ……」 ソープ素股の快感もそうだが、なによりリノンにしてもらっているというのが興奮を高めている。 密着したリノンのイイ匂いで、頭がどっかへ飛んでいってしまいそうだ。 「凄い音……お股から……くちゅくちゅ……泡以外にも、何かべつのぬるぬるした液体が出てるみたいね……」 リノンが柔軟な身体を活かしてスピードを上げる。 先っぽの敏感な部分を重点的に刺激し、体重を掛けて潰すように擦り上げてくる。 「んっ、んっ、んっ、まったく、幸せものね、わたしに精液を抜く手伝いをしてもらえるなんて、ちょっとした奇跡よ」 ぽよぽよと胸が密着するのも心地よく、全身が性感帯になったように高められていく。 擦れすぎてち○こが馬鹿になってきたからか、卑猥な音色とリノンの動きから、本当にセックスしているような感覚に陥ってきた。 「はぁ……はぁ……リノン……これ、ホントにヤバイ……リノンのなか……凄いいい……」 「ふふ……優真のも、硬くっていいわよ……? わたしのアソコで、いっぱい暴れてるわ……」 俺に合わせるように言われ、素股なのに入れている感覚がいっそう強まる。 「リノン……いい……はぁ……ん……」 「変態みたいよ……んっ、んっ……まぁ……わたしだから感じてるっていうなら、悪い気はしないけど……」 女性特有の母性本能がそうさせるのか、感じる俺を眺める瞳に奉仕の熱が加わっていく。 「んっ……ふぁ……あ、ヘンなとこ、当たって……あく……擦れて……んっ、んっ、んっ……わたしまで……」 「あっ……はぁ……ンッ、~~っ、ふっ、んっ、ん……」 作り物のように綺麗な顔に艶が増し、熱っぽい吐息とともに俺を追い詰めていく。 「リノンも気持ちいいの……?」 「う、うるさい……んっ……はぁ……はぁ……あなたが、なかなかイかないから、気を利かせてこういう声を出してあげてるだけよっ……」 リノンは緩みかけた口元をきゅっと閉じ、無心で奉仕を続ける。 「ねぇ、そろそろじゃないの? んっ、んっ、ビクビクして、いつ爆発しても、おかしくなさそうだけど……?」 「ああ……出したい……もう……限界……お尻に掛かっちゃうけど……いいの……?」 「ええ……構わないから……出しなさいよ……お尻と、太ももで、イきなさい……はっ、んっ、んっ、んっ」 ダメだ。もう射精すること以外に考えられない。 「っ……っ……っ……っ……あ、震えてるっ、出るのねっ。気にしないで、たくさん出しなさい――――」 どぴゅっ!! びゅぅ~~~~っ!! びゅぅ~~~っ、どぴゅぅぅ~~~~~っ、ぶびゅびゅぅ~~~っ!! 「っ!? 熱っ……思ったより、勢いがあるのね……それに、こんなにいっぱい……」 「んっ……ぁ……ぁー……はぁ……リノン……リノン……」 「あ、コラ。許可なく抱きつくなんて死にたいのっ!?」 射精直後の何かにしがみついていたいという欲求を満たすため、無意識にリノンを抱きしめる。 大好きな小悪魔ヒップを強くつかみ、欲望のままに白濁を吐き出していく。 「まぁ、今回だけだし甘えさせてあげるか……こんなに気持ちよさそうに射精してるんだし……」 「っ……っ……リノン……っ……リノン……っ」 細い腕を回すリノンが恋人のように抱きしめてくる。 「好きなだけ出していいのよ……そう……わたしを抱きしめて……今は気持ちよくなることだけを考えなさい……」 ぎゅっと締め付けられた股間での射精は、未経験ながらに女性の膣内で放出しているような感覚だった。 リノンの膣内に自分の精子を泳がせているような、ほろ酔い気分の妄想さえ浮かんでくる。 「んっ……股の間で出されてるからかしら、なんだか妙な感覚だわ……」 びゅくっ……びゅるっ……どくどくどく……どぴゅ……。 「んっ……んっ……まだ出てる……精液出しながら太もも動かされるのもイイのね……」 「それにしても……凄い量……こんなものをたくさん貯めこんでたら、身体に毒よね……」 快感のピークが止むまで、リノンは太ももを締め付けてくれた。 「はぁーー……はぁーーー……はぁーー…………」 「はい。おしまい」 「も、もう少しこのままでいさせて……つ、疲れたから……」 「射精って疲労感がともなうのね。いいわ、すこし休んでなさい」 「リノン……よかった……すごい気持ちよかったよ……」 「……病み付きになられても困るわよ、今回っきりなんだから」 「もしどうしても我慢できなくなったら、わたしの太ももの感触を思い出して、写真集のわたしに相手をしてもらうことね」 「身体流したら先に出なさい。わたしはお尻についたあなたの精液を落としてから、もう一度浴びなおすから」 濃厚な素股奉仕が終わったかと思えば、随分と淡泊な反応だった。 しかし、リノンがシャワーでざっと身体を洗い流してくれている最中、厄介な事が起こった。 「う……」 優しくも激しい行為で二の腕までズレ落ちたブラ紐から覗く、左右均等の真っ白い乳房。 流麗な鎖骨も、くいっと反ったウエストラインも、生のままベストアングルで拝めてしまう。 「……視線を感じるわね。あなた、目をつぶっていたら? わたしを見ていたら、また良からぬ状況になるわよ」 「……舐めてくれたら……嬉しいなぁ……」 「は? 握りつぶしてくれたら、嬉しい?」 「やっぱり……リノン相手に一回で収まるわけがないっていうか……」 「男ってホントに不便よね。あんなに出したのに、すぐにまた硬くして……」 「な、舐めてっ、くれたら……一生ファンでいる! みたいな……」 「馬鹿言わないで。覚えてないの? さっきのはあくまで“一人エッチ”のお手伝い。わたしなりに思うところがあって、仕方なくしたまでよ」 「で、ですよね……」 「それに、口でするのなんて絶対に嫌だって言ったでしょ? 私の口は食事の為にあるの。蜂蜜揚げパン専用なの」 「ご、ごもっともです……」 「はぁ……わかったならいいわ」 身分を弁えずに多くを望んだことで得られたのは、説教だけだった。 その間も、リノンのえっちな姿を拝めたので幸せではあるけど。 「ん……? あ、あれ……何、近づけてるのよ、ねぇ、本当に怒るわよ……」 「いや、俺は何もしてなっ……」 無意識なのだろうか。膝立ちのリノンが吸い寄せられるように股間に接近してくる。 「お、おわっ、嬉しいけどいいのコレ!?」 「え……え……? 何――や、やめなさいよ」 意味がわからない。俺はじりじりと後退している。だというのにリノンから近づき、ついには―― 「んみゅ――!?」 あろうことか、リノンはち○こをリップクリームと勘違いでもしたように唇を押し付けてきた。 「んぷ、んぶぶっ、ちょ、はっ!? ん……どうして、わたし……嫌、待って、いい加減にっ」 「違うっ、本当に俺は何も――うっ、うぁ…………」 薄めくれの唇を割り開き、歯並びいい前歯をち○こがブラッシングする。 「んっ、ぷぷっ……くぅぅぅ……またトリトナ……? いや……これは……ああ……そういうことなのね……」 「な、何か原因がわかったの?」 「ぺろっ……別に……もうなんでもいいわよ……あなたはわからなくていいわ」 その一舐めで生み出された強い快感に、思わず腰を引いてしまう。 「え……いいの……? して……くれるの……っ……っ……」 「うるさい……するわよ……もう諦めたわ……」 リノンは新しい飼い主の与えたミルク皿に警戒する猫のように、おずおずと舌を動かした。 「ちゅ……ちゅ……れろ……ぺろ……」 敏感な部分をざらっとしたベロで刺激され、漏れだす吐息が股間に吹きかかって興奮する。 「感謝しなさいよ? こんなこと、本当の本当に滅多にないんだから……っていうか、一回っきりなんだからね……」 「れろ……れ~ろ……ちゅ~……ぺろっ……ぺーろぺろ……」 裏筋を這う舌。 応援し続けてきた大好きなアイドルの口奉仕。 夢のような光景に痛いほど勃起する。 自然と手持ち無沙汰になった手で髪に触れると、そのさらさらとした感触でリノンを相手にしていることを意識をしてしまう。 「ぺろ……ぺろ……さっき洗っといて正解だったわ……なにも味がしないから、全然、なんてことないもの……」 「ちゅ……ぺろ……んっ……びくびくしてるわね……ん、ぺろ……気持ちいい……?」 「はぁ……はぁ……うん……」 「どのくらいまでしたら射精するのかしら……やっぱり、口の中でした方が早いわよね……」 「そのほうがめちゃくちゃ早いと思うよ、間違いない。そうしようそうしよう」 「…………じっとしてなさいよ……」 「わーい」 「はぁむ……ん……ちゅぷ……ちゅぽぉ、ちゅ~ぱ……れちゅぅ」 熱くぬかるんだ口内にねっとりとおしゃぶりされ、とぷとぷっと我慢汁が漏れだすのがわかった。 「んっ……んぅ……ヘンなあじ……んちゅ……ちゅ……んっ……んふ……」 咥え込んだことでち○こは限界まで膨張し、リノンの小さなおくちを圧迫する。 棒の部分が軽く歯にぶつかってチリッとするが、気にならないほどに気持ちいい。 「んっ……ちゅぷ……ちゅ……れろ……んふ……」 「苦しくない……?」 「ん……へーひよ……ん……ちゅ……ちゅぅっ、ちゅっ、ちゅずぅ……」 敏感なち○この先を優しく吸引しながら、裏筋に這わせた舌を左右に振り動かす。 塞がった口の代わりに、んふんふと可愛く鼻呼吸をして、ち○こが外気に触れないよう長時間頬張ってくれる。 「はぁ……ぁぁ……先っぽを舐めながら……余った皮を手で扱いてくれたら……もう少し早く、出るかも……」 「ほう……? ん……ちゅ……くちゅぽ、くちゅぽっ、ちゅっ、ちゅ~ぱ、ちゅぷちゅぷっ」 濃厚おしゃぶりに細い指先による幹へ刺激が加わる。 「くちゅ……ちゅ~、ちゅちゅちゅっ、ん……れろんっ、んろぉ~~~っ、ちゅっ、ちゅ~ぱ、ちゅ~ぱ、ちゅぽぽ……ちゅぷぷっ」 「っ……リノン……溶ける……凄……ぁ……はぁ……リノン……」 夢の様な快感に打ち震えながら、ひたむきに顔を動かすリノンの頭を撫で続ける。 「んちゅ……ちゅっ……ちゅう……ちゅぱ……ちゅっ……んちゅ……んちゅう……」 「ちゅう……ちゅう……ちゅぱ……んちゅ……ちゅう、ちゅっちゅ、ちゅぷっ……」 おしゃぶりの合間に状況を伺うような視線をくれるので、俺は頷く。 すると安心したように、同じペースでくちゅくちゅうがいをするような水音響いていく。 「ちゅう……れろちゅっ、ん~ちゅ、くちゅ、ちゅぱ……ちゅぽ……ちゅうぅっ……」 飾らない素のままのリノンのおしゃぶり奉仕に性感が高まっていく。 「……凄い、気持ちいいよ……このままされたら……出るから……」 「んっ……ちゅうっ……ちゅぷ……んちゅぷ……ちゅっ、ちゅっ」 大観衆の中で堂々とマイクパフォーマンスをするリノンが俺のち○こを飴玉のようにしゃぶる。 口の中での出来事は視覚的にわからずとも、リノンの舌が味わうように絡まってくるのはわかる。 「ぉ……ぅ……っ……っ……」 「んぽ……んぷ……ちゅっ……ちゅぱ……ちゅぱ……ちゅっ、ちゅっ、ちゅ~……ちゅ~ぱ……ちゅっぽ、ちゅっぽちゅ~、んちゅ~……」 きゅっと締めた唇としなやかな手指によるえっちな手解き。 小さくうめく俺から、口と手の動きを気に入ったのを理解したのか、リノンは同じ動きを続けた。 「くっぽくっぽ、ちゅっ、ちゅ~ぽ、ちゅぷ、んっちゅ、んちゅ……」 「はぁ……リノン…………っ」 ゆっくりと顔が動き、亀頭の溝にハマっていた唇から唾液が滴る。 募りすぎた性欲に毒され、甘露な刺激を求めて無意識に腰を動かしてしまう。 「ンッ、んちゅっ、んむぅぅっ!? ンッ、んぷっ、ちゅぶっ、ちゅぽちゅぽちゅぽっ! ちゅっぷちゅっぷっ」 沸き起こる挿入感の凄まじい快楽に抗えず、イケナイとわかりながらも2度、3度とリノンの口を犯してしまう。 「じゅぷっ、じゅずずっ、んぶっ、ぢゅぷ、ぢゅぷっ、ぢゅぽぽぽっ、ン、ちゅっぷちゅっぷっ!」 「リノン……気持ちいい……気持ちいいよ……」 「んっ、くふっ――んむむっ、けふ……んぶっ、んっ」 むせかえすリノンを見て失いかけていた理性が戻る。背筋に冷たいものが走った。 「あ――――ご、ごめん……俺……」 「うん……ちゅ……いいから……理性が飛びかけるなんて、普通でしょ……それなりのことを、してるんだから……」 「…………ごめん……」 女の子の口でち○こを刺激されるという事が、いかに危険かを理解した。 特に俺のような童貞は、あまりの気持ちよさに余裕を失ってしまい、最低な行動を取りかねない。 「いいからさっさと済ませましょう……? わたしのくちで気持ちよくなって……全部出し切れば、いつものあなたに戻るでしょう……」 「はぁむ……ちゅっ……ちゅっ……ちゅく……ちゅく、ちゅぷ、んちゅっ、んちゅっ、ちゅちゅうっ」 リノンは髪を耳に掛けると、ち○こを咥え直してから徐々に徐々にしゃぶる速度を上げていく。 たっぷりの粘液を纏ったぷりぷりの内頬にぶつかる度に性感が増し、亀頭から根本までが溶けていくようだった。 「んっ、んっ、んちゅっ、ちゅっ、ちゅっ、ちゅぱっ、ちゅぱっ」 リノンは漏れだす我慢汁を舌で味わいながら、唾液でじゅっぷりと濡れた口内で揉みくちゃにする。 「…………あ……イき、そう……っ」 肉棒がジンジンと甘く痺れ、悶々とした射精感がすぐそこで焦れったく待機している。 「んもっ、むっ、ン――ンンッぷ、ぐぷっ、ちゅぶっ、ちゅぷっ、ちゅぶっ! じゅぷ、じゅぷじゅぷじゅぷっ!」 「あっ――あっ――――ッッッ」 迫り来る悦楽の瞬間を歓迎するように、フェラの速度も最高潮に達する。 「ちゅぶっ! ちゅぶっ! ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ、くちゅっ」 「んちゅっ! んちゅっ! んちゅっ! ちゅぷっ! ちゅぷっ! ちゅずっ! ちゅずずっ!!」 ぶぴゅっ! ぶびゅびゅびゅうぅぅ~~~~っ!! どびゅぅ~~~っ、どぴゅどぴゅぅぅ~~~~~っ、びゅぴゅうぅ~~~っ!! 「ンッ!? ンッ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!」 決壊するように放出される大量の精液。 「んんっ、ん~~っ、んふ……んっ……んぷ…………」 口内で暴れるち○こを舌で固定したまま、俺が気持ちよく射精できるように耐えてくれる。 「っ……っ……っ……!!」 射精中も、舌を“おいでおいで”させて精液を受け止めてくれるので、幸せな気持ちで、安心して放出できた。 「はぁ……はぁ……」 ぐぽっ……。 温かなおクチからち○こを抜くと、締りのない口からボタボタと精液がこぼれた。 ち○こや行為全体の卑猥さにあてられたようにリノンは恍惚と、どこかやりきった女の表情をしていた。 「こんなに出して……口の中に……つぶつぶした、濃い精子が残ってるじゃない……」 「苦い……臭い……シャワーでゆすぐわ……」 「なんかその……ごめん。でも気持よかったよ、ありがとう……」 「わたしの口は、あなたを気持ちよくさせるための物じゃないわよ……まったく」 「反省しています……」 しかし、どうしてここまでの状況になったのだろう。 成り行きというのは恐ろしい……。 「さっきの事は、お互いに忘れた方がいいと思うわ。他言無用を約束しなさい」 「俺だけの思い出として大事に仕舞っておくよ」 「あんなこと今回っきりよ。放置するのも、かわいそうだったから……他意はないわ」 本人の言うとおり、リノンのアレは好意的なスキンシップではなく、ああなってしまった雄が動物的に収まりがつかないことを知っていたからだろう。 全国民の憧れとも言えるリノンの手ほどきは、一生の宝物となった。 「最悪の場合、自分で処理してもよかったんだけど」 「いいのよ。わたしが手伝った方が、早く済んだでしょ?」 「そりゃもちろん!」 「ふふ、素直ね♪」 ファンに向けるサービススマイルも、えっちなイベントの後だと一際クるものがあった。 「優真自らシャワールームに入ってきたのなら、原型を留めないくらいに肉体を虐めてあげているわ」 「ただ――――状況判断からして、《・・・》〈あいつ〉が一枚噛んでるってのは察しがついてる」 「あいつって?」 「薄々、気づいているでしょう。シャワールームでのわたしが、最初から最後まで“わたし”だと思った?」 「キャラに違和感はあったけど、リノンはリノンだろ? もしかして、“偽物”……?」 「口で説明するのも無理があるわね。鍵も閉めたし、出てきてもらおうかしら」 鍵……物騒な物言いだ。 「わたしの評価は、愉快な乱暴者よ」 服の隙間から取り出したのは、手のひらサイズの手鏡だった。 鏡に自身の顔が映る位置で腕を止め、じっと自分自身を見つめている。 「ふふ、種も仕掛けもない、一般に市販されているコンパクトミラーよ。メイクチェックにも使っているわ」 「あいつとコンタクトを取るにはね、自分を認識できる程度の大きさをした反射物が必要なの」 リノンは普通の手鏡とやらに熱烈な視線を送る。 自らの美貌に酔うのではなく、挑戦的で語りかけるような目つきだった。 「…………さて」 「もう、とっくに通じてるはずだけど?」 ――――と。変化した。 およそリノンが形成し得ない表情筋の使い方で。 悪戯の成功を喜ぶ悪ガキのような笑みへと。 「ンだよ、バレちまってたか。リの字は全部お見通しってかぁ?」 「わかるわよ。初めてじゃないんだし。それにしたって今回のは悪ふざけが過ぎるんじゃない?」 「わりぃわりぃ。ち○こ触らせられて怒っちまったんだぜ?」 「飽きれただけよ。その直接的な言い方も、もう少しひねらないと低能だと思われるわよ」 「はぁ? リの字だっておち○ぽやら、おま○こやら、オ○ン湖やら、マ○コ・カパックやら言ってたんだぜ?」 「言ってないでしょうが。前半はともかく、後半はどうにかこじつけて卑猥な言葉を吐き散らかしたいの丸出しよ」 「ち○こち○こち○こ♪」 「開き直らないで。まったく……男みたいな喋り方の癖に、男とシャワー浴びたい願望があったなんてね」 「ハハッ、余計な物を握らせちまったみたいだなぁ~♪」 「誰のせいよ」 「ん~? 満更でもねぇンじゃねぇのかぁ? エロかったぜ、リの字ぃ~♪」 「…………あのぉ」 プロ顔負けの一人二役をこなしているように見えるリノンに、恐る恐る声を掛ける。 聞き間違いでなければ、天下のリノンが鏡との対話で男性器を連呼している。一面記事確定のスクープだ。 「紹介するわ優真。この男女は“《トリトナル》〈To:ri〉tonal”。もう一人のわたしよ」 「おう! 名前なげーから略せよ? トリトナでも、だぜッ娘でも、好きに呼びやがれ」 「トリトナは一文字しか略せてないし、だぜッ娘て……」 待て。もっと重要なことを言わなかったか? ――――もう一人の、わたし。 「って――――多重人格ッ!?」 「ひらたく言えばそうだけど、精神科医の治療で治るような“現実逃避”とは違うわ」 「だぜ。《ジキルとハイド》〈多重人格〉なんてチャチな症状と一緒にすんな」 「多重人格は、不安とか恐怖とかに押しつぶされる弱い《イキモノ》〈人間〉が患うものでしょう? わたしは“《イデア》〈幻ビト”よ」 ……そうだ。リノンは強い。心も身体も強靭だ。 妄想にすがりつくどっかの甘えん坊とはワケが違う。 「でも言葉として当てはめるのに適してるから、多重人格でいいわ。他にしっくりくる言葉もなさそうだし」 「だぜ」 「でも、驚いたな……とりあえず、初めましてってことでいいかな、だぜ子さん」 「ハハッ、だぜの国からお邪魔だぜ♪ 優の字、オメェには盛大にわらかしてもらって気分がいいんだぜ?」 「その節はどうも。おかげ様で長年の夢が叶いました」 「いいってことよっ!!」 「口は災いの元。あまり調子に乗っていると鏡割るわよ?」 「お? テメ、色気づいた糞ジャリの癖によくもまぁ、偉そうに説教たれやがったもんだぜ。あることないこと言ってやろうか?」 「口が減らないわねトリトナ……」 「シャワールームでは、実際に入れ替わっていたんだね」 「あそこにも鏡があるでしょう? 油断してたわたしの落ち度ね」 「でもシャワールームではホントにわからなかったよ。“だぜ”に違和感はあったけど」 「ハッハッ♪ 私様はモノマネの才能もピカイチだからな。何をやらせても超最強。リの字の癖は完璧に把握してるんだぜ?」 「頭痛がしてきた……」 恐るべしトリトナ。 リノンを自分のペースに巻き込んで翻弄できるのは彼女くらいだろう。 そろそろ本題に入ってあげないとリノンがキレかねない。 「つまりリノンは、二重人格を治せる“力”を持った“《イデア》〈幻ビト〉”や“《フール》〈稀ビト”を探してるの?」 「そうなのかよ! 私様を切り離してぶっ殺そうって魂胆かぁ? リの字よぉ!?」 「彼の質問をわたしの回答にしないで。わたしはあなたとうまくやれていると思っているわ」 「知ってるんだぜっ! からかいがいのねぇヤツだなぁオメェはよぉ」 なんだかんだで二人の関係は良好らしい。 “偽物”がリノンに成りすました時に尋常じゃない怒りを放っていたのも、トリトナとの事が関係しているのだろうか。 「じゃあ俺は……?」 「あー、私様がダベりかったんだ。リノン、5分でいい。譲れ」 「遠慮しなくていいわ。心ゆくまでどうぞ」 その言葉を最後に、リノンは固まった。 「――――――――」 放心したように鏡の一点を見つめ続け、やがて――――一度、大きく瞬きをした。 「……うふ、うふふ♪ 優真」 「り、リノン? トリトナ?」 「わたしはリノンよ。もう一回、シャワールームでいいことしよっか?」 「え、ま、またぁ?」 「だって……優真の気持ちよさそうな声が、頭から離れないの。わたしの身体で喜んでもらえて、嬉しかったわ」 「り、リノン……」 「プハッ♪ アハハハッ♪ ひっかかってやんの。私様だぜ?」 「ユーマ先生は性教育大好きなお年頃なんだぜー? リの字とよろしくやりたいんだぜー?」 間違いない。 トリトナはうるさい系だ。 うるさい系女子だ。 「わかってても、リノンの姿でそんな事を言われてなびかない男はいません」 「わりィな。心ン中じゃ会話はし放題なんだが 身体を操れる“《シート》〈操縦席〉”は一個っきりだから よぉ、今リノンはココから傍観してるぜ」 「だとすると、今の会話も筒抜けなんだよね? 怒られるんじゃない?」 「ずっとこんな調子だしヘーキだよ。一つの身体に二つの心ってのは結構気ぃ遣うからな。細けぇ事は言いっこなし条約結んでるんだぜ」 からからと笑うトリトナにリノンの持つ気高さと上品さは感じられない。 演技などではなく、まったくの別人であることは明白だった。 「……本人に確認しておきたいんだけど、トリトナの性別は女なんだよね?」 「そうだぜ、全員女だ。今度は私様を口説きに来たか? サカリの男はケダモノだぜ」 なんとなくホッとする。 リノンの身体を使ってよからぬことをするトリトナだが、男だったら一言モノ申すべきと思った。 まっ、俺が言える義理じゃないけど! 「ていうか良かったなオメェ。ムカつく奴だったらその辺に吊るしてサンドバッグにしてやろうと思ってたんだぜ」 「気に入って頂けて幸いだよ。それで、話って具体的に何をするの?」 「あー、そうだったそうだった。リノンの好きな“蜂蜜揚げパン”の抽選イベントの時、目が合っただろ?」 「あン時――――リノンと強制的にチェンジさせられたんだ」 「ついでに昨日、路地裏の“《ドッペル》〈偽物〉”騒動ン時も、おめぇが脚離さないからチェンジしたな」 「今まで一度だって、そんな事なかった。原因はオメェにあるに決まってんだぜ」 「言い掛かりっぽいなぁ」 「じゃかぁしい。ツラ貸せよ」 「――――ッ」 胸ぐらをつかまれ、グイっと引き寄せられた。 トリトナは牙のような歯を剥き出しで嗤う。 「視線を逸らさないで私様の目を見るんだぜ?」 「乱暴はやめてー」 「瞳の奥を見ろ。心を覗きこむように、真っ直ぐ」 「あ、ああ……」 大アイドルの小顔にバランス良く配置された瞳。 見つめ合えば胸が高鳴ると思っていたが、不思議と落ち着いた気持ちになった。 「……………………」 「……………………」 「…………うーん……」 「……お、悪ぃ。もういいぜ」 トリトナらしい悪ガキの笑みでボリボリと頭を掻いた。 「暇だし、リノンのおっぱいで一緒に遊ぶか? コイツのマジでやわらかいから楽しいぜ。あ、さっき触ったんだっけか」 「嫌だよ。聞こえてるんでしょ、それ」 「大丈夫、半殺しで済むっての。じゃあおっぱいにボールペン押し付けて離したらどこまで飛ぶかやろうぜ。コイツ結構飛ぶのウケるぜ」 「嫌だー! 死にたくない! 魅力的な提案だけど嫌だっ!」 「ハハハッ、ビビりだなぁ。ま、いいや。交代すっか」 「――――終わった?」 「ん、いいぜ」 「トリトナ……最後のほうの会話バッチリ聴こえてたから」 「ハハハハハハハッ!! 優の字がエロい目で見つめて来やがるから悪いんだぜ?」 「人に罪をなすりつけないでっ」 「もう。せっかくだし、もう少しそのままでもよかったのよ?」 「充分だ。オメェの身体だろ、リノン」 「二人のでしょ」 リノンは優しく微笑みながら、トリトナが無造作にかきむしった髪を手櫛で軽く梳かした。 「……で、だ。優の字を調べた結果、判決を言い渡す」 「コイツは――――白。無罪ッ!」 「……無関係、ってことかな?」 「私様の勘違いと、リの字の思い過ごしだな。チラホラ気になる点はあるが、まぁ監禁して調べ尽くすほどじゃないぜ」 「……そう。良かったわね優真、人として帰ることができて」 「リノンに全身を隈なく調べ尽くされるのも悪くはないんだけどなぁ」 とはいえ監禁されたら水瀬家の食卓事情が混沌と化す。 今まで以上に労働に精を出すこともできなくなる。 「そういうわけだ。リノン、あんまり付き纏うのはやめてやれよ?」 「ええ、わかったわ」 「じゃ、私様はこれにて失礼するぜ。アディオス優&リの字!」 「またいつでも出たい時は言ってね」 「……言われなくてもわかってるぜ。ったく、気色悪ぃンだぜ」 「照れちゃって、かわいいわね」 「うっ――――うるせぇ、ぶっ殺すかんな! 次言ったらぶっ殺すかんな!」 「………………さて」 手鏡を仕舞ったリノンが俺に向き直る。 「……まいったわね」 「え?」 「優真は虹色の占い師と“《エンゲージ》〈契約〉”が済んでいるのよね?」 「まえにも言ったと思うけど? 俺が生きてるのは全部、なるちゃんのおかげだよ。本当に感謝してる」 「んー……んぅー……あー……」 「り、リノン……?」 謎解きに行き詰まったような声に、らしからぬ空気を感じた。 「なんでもない。今日はもうお開きにしましょう」 「リノン、俺からもひとついいかな?」 「その顔……マジメな話?」 「なるちゃんから、7年前――――“ナグルファルの夜”の原因に“《イデア》〈幻ビト〉”が関わってるかもって聞いたんだけど、実際のところ、どうなの?」 「優真が知りたがっている情報は“《アーカイブスクエア》〈AS〉”でもトップシークレット。わたしも詳しくは知らないわ」 「それって、関係してるって認めてるようなものだよね?」 「首を突っ込んでもいいことないわよ?」 「妹と離れ離れになったのが、その日なんだ」 リノンの目が、すこしだけ見開いた。 「そう。やっぱり、そういうことだったのね」 「生電話の時から、おかしいと思ってたのよ。 《・・》〈妄想〉じゃ電話に出られるはずないものね」 「あれ…………じゃあ……!」 独り言のようにつぶやいたリノンが、今度こそ大きく目を見開く。 「ちょっと待って、つまり――――あの“偽物”は、あなたの妄想にも化けられたってこと?」 「え――――あっ」 言われてみればそうだ。 実在するリノンや今日子さんに化けるのと、結衣に化けるのはわけが違う。 《・・・・・・・・》〈成長した結衣の姿〉をしていたということは、人の妄想さえも形にしたことになる。 「ちゃんと捕まえておくべきだったわ。わたしの失くし物を取り戻す手がかりになりうる“力”じゃない……」 「……確かに。言うのが遅くってごめん」 「……帰り道、わかる? 送っていったほうがいい?」 一方的に話を打ち切られる。 リノンが一人になって考えたいのだとわかり、首を横に振った。 「大通りに出ればわかるから案内はしなくていいよ」 「ならいいわ」 「俺は無関係らしいけど……それこそ関係ナシに、何でも相談してよ」 「もう俺はリノンとは、切っては切れない関係だと思ってるからさ」 「……ふふ。何? またいやらしい展開を期待してるの?」 「それ掘り返さないって言ったのはそっちじゃん。友達って意味だよ」 「……友達? 言ってくれるじゃない“妄想屋”」 「似たり寄ったりじゃないか“現実感不足”」 「優真、おやすみ。気が向いたら、また会いましょう」 「イベントは欠かさず行くから、心配しなくても会うことになるよ」 おやすみ、は返さなかった。 俺が帰った後、ベッドのない部屋でリノンは何を思うのだろう。 そんな事を思いながらも、外へ出れば、考えは家族の喜ぶ朝食に移った。 「高橋先生どうしちゃったんだろ? いきなり転勤とかさすがに意味不じゃない?」 「何か事件の臭いがするよね。超が付くほど生まじめな人だったから、キレた反動で歯止め利かなくなって学園長刺したとか?」 「あー、なんか近い感じかも。恋愛とか疎そうだったよね。オトコ見る時の目、ちょっとヤバかったもん」 「ただしイケメンに限る。案外、失恋のショックから立ち直れずに首でも吊っちゃった?」 「そんなもったいないことしないでしょ。人生長いんだし」 「ね~~優真くん♪」 窓際の席で談笑していた二人は、息ぴったりに同意を求めてきた。 大きめの声だったので軽く聴いていた俺は、返答代わりに二人に手を振った。 「モテモテだねぇ優真くん。どっちの子が好みなの?」 「2人とも好きだよ。なるちゃんは、もっと好きだけど」 「う、うぜぇ~~~~~♪♪ 朝からうぜぇ~~~~♪♪♪ 天文学的確率でうぜぇ~~~~~♪♪♪♪」 「がぶぅっ!」 俺も周りも騒いでいるけど、一応授業中。 2限目の国語教師“高橋先生”の急な転勤を理由に、別の教師が軽く説明をするなり自習になった。 「はむはむっ、ぼんれふぅ」 「俺の腕はボンレスハムじゃないんで、喰わないでもらえるかな?」 「だってうざいんだもん♪」 尻尾があったら振ってそうなくらい嬉しそうに見える。 「あんまりイチャイチャしてると、なるちゃんのファンに刺されちゃうよ」 「いまさらじゃない? お姫様だっこで『なるちゃん欲しけりゃ俺から奪ってみろー』って叫んだの学園中が噂してるわよ?」 「お幸せに~♪」 あれは仕方なかった。 雨晒しの子犬に向けられるような上目遣いを見過ごしては、男が廃る。 「周りのみんなも、私なら安心して優真くんを任せられるからって。男子も女子も応援してくれているわ」 「いやいや、なるちゃんみたいな子を独占して、男子が黙ってるはずが……」 周りを見渡す。 親指を立てたり、爽やかに頷いたり、ハンカチで涙を拭いたり――――思い思いに、なると俺の関係(?)を認めるアクションを取ってくれた。 「優真くんって人望もあるのね。みんな言ってたわよ。人の嫌がる事を率先してできるイイヤツ、だ・っ・て」 何も立派なことなんてないのに、何でもない俺を受け入れてくれる。 ありがたいなぁ、と素直に思う。 「じゃあ、評価を落とさないように今後も頑張らないないとなっ」 ……まぁでも、俺たち付き合ってないんだけど。 でも関係は恋人以上だ。 なるは家族の一員だから。 「ねぇねぇ優真くん、自習って自分で考えて学ぶことよね?」 「なるちゃんは作家なんだから、この時間に創作に励むのは有効な利用法だよ」 「優真くんのソレも勉強なの?」 「んー……暇つぶしに始めただけ。今日子さんがたまにやってるからさ」 「それ何合目?」 「登山じゃないんだから……んー、やっぱ6回が限界かぁ」 ノートを一枚破る。 半分になった紙をぴったり重ねて再び半分にする。 それを繰り返すだけの簡単な暇つぶし。 「5回までは女の子でもできるんだけどね、6は結構キツいよ。指が悲鳴をあげる。7は無理」 「クッフッフ♪ 八大地獄は衆合地獄で数多の 亡者をミンチにしてきた“消閑の綴り師* A,T,W”に不可能はない!」 「おー? なるちゃんもやってみる?」 「フッ……厨ニ四天王に数えられてもう何年経つだろう。虚界の空は汚れない純白だった……」 自分の世界に酔いしれるなるに64分割した紙束を渡す 「活目せよ……!」 「“静”の域を住まう者に太陽を憎む権利など、ありはしなぁぁぁいっ!!」 なるが両手に握った紙を上下に振ると、捻り切られたように机に散らばった。 「手相占い師の本気ッ!?」 「あっ、こらぁ、くすぐったいわ」 7回目を達成したなるの手を取る。 薄い皮に覆われたマシュマロみたいな感触。 とてもじゃないが、この指力でできるとは思えない。 「私の凄さが見に染みたかしら? 筋肉量も骨格もクラスの女の子と大差ないのに、優真くんができないこともこの通りっ」 「なるちゃんの指……腕……やっぱ触ってるだけで気持ちいいなぁ」 「バカタレちゃん! 二の腕は関係ないでしょ。ぷにぷにお肌は夜までお・あ・ず・け」 「なるちゃんの二の腕は赤ちゃんほっぺよりもやわらかいので、つい」 ハッとしたなるが、ちょっとだけ顔を赤らめてコソコソと耳打ちしてくる。 「もしかして、溜まっちゃった……? 昨日してないもんね。苦しいなら、人のいない場所でこっそりと……」 「いいからいいから。そういうんじゃないからっ!」 「そっか。ごめん、早とちりだね」 まったく油断も隙もない。 それに昨日はリノンとトリトナに弄ばれたので、一応やることはやっている。 「問題。見かけによらず鍛えられた優真くんよりも私の方が肉体的に優っているのはどうしてかしら?」 「どうって……“《イデア》〈幻ビト〉”だからでしょ?」 「物理法則を無視できるのは“《アーティファクト》〈幻装〉”の力だけ。“音”を操る力も、まぁ使えるけど、指力とは関係ないでしょう?」 3秒くらい考えたが、言いたがりななるは答えを示すように編まれた髪をつついた。 「ココが違うのよ」 「“《イデア》〈幻ビト〉”は《エルゴノミクス》〈人間工学を標準装備してるの。二足歩行動物の身体を生かし、動作効率を算〉出可能な優秀な脳をもってるってこと」 「頭いいってことか!」 「素人はこの程度の説明でだまくらかせるのね……よしっ、次章の敵キャラの設定はこれで決まりね……」 「なるちゃん?」 「ん? ようするに、人間より力の使い方が上手ってこと」 「すごいよなぁ……俺、これを7回以上やった人見るの二度目だよ」 「え? 私以外にやった人がいるのかしら?」 「あ、ごめん。紙破き10回やった人からメールだ」 「じゅっ――――!?」 携帯に来た業務連絡を確認する。 現場の見積りと簡単清掃。 30分の猶予があるので、ゆっくり向かえばよさそうだ。 「2件はしごしても学園が終わるくらいの時間には済むと思うんだけど、なるは暇?」 「う、うん。今日子さんをキャラ化して物語に出したら破綻するわね……」 「二人っきりになれる、とっておきの場所があるんだ」 「読めたわ。そこで計画通りに私をムチャクチャにするのね」 「何もしないよ。なるちゃんといると落ち着くから、誘ってるんだよ」 「――――っていうか、真剣に自分の事を考えてくれる人と一緒にいたいって思うのは、当然だと思うんだけど?」 「……せ、背負いすぎたカルマに足を掬われるがいいわっ!」 顔を赤くされた。 恥ずかしい事を言ったつもりはないんだけれど。 まぁでも、大体の場合は俺が悪い。経験上そうだ。 「そんじゃ、水瀬優真は出稼ぎに出立します。みんな仲良く自習に励んでください!」 なるを筆頭にクラスの優しい応援を受けながら教室を後にした。 「――――風が私を呼んでいるのね」 「風強くなってきたから、後ろ歩いていい? 美女のスカートはためく大スペクタクル」 「ダーメ。その代わり、隣を歩いてあげるわ♪」 仕事を終え、なると落ち合って旧市街を歩いていた。 「優真くんと“《エンゲージ》〈契約〉”したのもここだったね」 「そういえばそうだったね」 飛び散った瓦礫滓はほったらかしで、あの時のまま。 文字通り“放棄”された道路が補修されることはない。 「つい先日のことなのに、もう一ヶ月以上もまえに感じるなぁ」 「優真くんの送る日常が、それだけ充実してるってことじゃないかしら?」 「隣を並んで歩いてくれるかわいい女の子がいるからじゃない?」 「私以外も、そうやって口説いてるんでしょ」 「本音だってば」 幼稚なやり取りでよかった。 俺はそういう日常が好きだから。 なるも俺もフツーの人間じゃないけど、フツーが良かった。 「どう?」 「わ~~~~♪♪ 雰囲気あるー♪♪」 「夜は月明かりが差し込んで、より幻想的な景色が楽しめるよ」 「よくこんな場所見つけたわね」 「お気に召して頂けましたでしょうか?」 「“《ナイトメアゾーン》〈闇支配者の聖域〉”……決まりだわ」 「おー(パチパチ)」 「クッフッフ……闇支配者の会合を始めようか」 「そして戦士たちは束の間の休息を取るのであった」 なる命名“《ナイトメアゾーン》〈闇支配者の聖域〉”でトーク開始。 「もっと早く紹介してくれていれば、私ここで野宿してたかも♪」 「元アウトドア少女らしいタフネスな発言だね」 「今は養ってくれる優しい優しい優真くんがいるから、サバイバル生活には戻れそうにないわ」 「結構くつろげるでしょ。携帯食とか暇つぶしの本もあるし」 「ヒュマ《ツグル》〈亞〉写本。解読不可能とされた暗号だらけの手稿ね」 「暇、つぶしの、本」 「読む読む――――」 「ってあいつの載ってる雑誌ばっかり、ゴミね」 「む……なるちゃん、俺の怒りゲージを溜めないでおくれよ」 「分からず屋。メディアに踊らされているともしらずにっ」 「まったくもう……俺たちのことだって見逃してくれたんだし、仲良くしなよ」 「創作の素晴らしさがわからないヤツとなんか分かり合えっこないわ」 「……はぁ」 雑誌の表紙で甘く痺れる微笑をたたえるリノンを見ると、雲の上の人だと再認識する。 とりあえず、2人の和解は今後の課題ってことで。 「あっ!」 なるは何かを発見したらしい。 四つん這いでお尻をつきだして、熱心に床を見つめている。 俺も負けず劣らず、その桃のようなお尻に夢中だ。 「優真くん、見て見て」 「見てる見てる」 頭をぶっ叩かれるまえになるの前に移動する。 苔、蔦、雑草――――どれも女の子が高い声をあげるには適さないものだ。 「野草から感じる生命力って、他にはない力強さがあるわよね」 「ああ、わかるかも。見栄え的にもいいかなって残しといたんだ。なるちゃんがこういう雰囲気好きでよかった」 「抜かないであげてね」 忘れられた場所の名もない植物に向ける優しさに、俺はしっかりと頷いた。 「ここに誰かを連れ込むのは、初めてなんだ。秘密基地みたいなもんでさ、気の置ける人にしか教えたくなかったんだ」 「私には教えてくれるんだ」 「異性なら尚の事、俺なんかと二人っきりになるの警戒するからね。ホイホイついてくるのなんかなるちゃんしかいないかも」 「私……やっぱりちょろいの、か・し・ら?」 「――波の音ってリラックスするよね」 「1分間に波が打ち寄せる回数と私たちの呼吸の回数って、だいたい一緒なのよ?」 「さすが作家さんは雑学知識が豊富だなぁ」 「知識人アピールはこのへんで許してあげるわ」 …………ヤバい。いい事考えた。 さり気なく遊泳を誘ってみるのはどうだろう。 なるも機嫌がよさそうだし、一緒に海でサッパリすることに異論はない気がする。 問題は水着がないって事だけだが――――俺も一緒に裸になれば、恥ずかしさは半減するはずだ。 「そうだぁっ!!」 「今思いついたみたいに言わないでー。私、ちょっと集中するからー」 れれれ? いつの間にかなるは原稿に着手していた。 「やっぱり環境がいいと筆の進みがいいわ……『氷結の女王が何の用かしら? 永い冬眠で、誰の支配下に置かれているか忘れたようね』」 なるはキャラに成りきってセリフを口にする。 物凄いスピードで手が動き、何枚もの原稿用紙が宙を舞う。 着水しないように慌ててつかむと、びっしりと文字で埋まっていた。 「グッ……」 「……?」 「ぐっ、うっ、があああああああああああああああああああぁぁぁっ!!」 「ええっ!!? 何事ッ!?」 「はぁ……構わないでっ! ヤツが……来た……降りてきたっ……」 「音速の執筆代行人“万年スランプガール・打破”が……早く逃げて……ッ!!」 「なんだ、なるちゃんの病気が始まっただけか……」 「――――う、光が……」 「…………失……なわ……れ………………」 伸ばした手をわなわなと震わせ、そして力無く垂れ下がった。 「クク……我ハ“万年スランプガール・打破”……汝ガ願イ聞キ届ケタ」 「うわぁ、なんか出た」 「があああああああああああああああああああぁぁぁっ!!」 「またっ!?」 「――――我ハ“妄筆アブソリュート・絶叫”」 「もしかして、今一瞬だけ出たのとは別人?」 「クク“万年スランプガール・打破”ハ、代筆四天王デモ最弱……!」 なる曰く、最初に出てくる四天王は高確率で最弱らしい。 そしておそらく、これをやりたかっただけだろう。 「コノ程度ノ創作、造作モ無イ」 金棒を手にした鬼。 万年筆を執った文豪。 とでも言おうか。 思考と執筆を同時進行する姿は鬼気迫り、悪魔的な魅力すら感じられた。 「(心配だなコレ……リノンとトリトナみたいに、多重人格を患っているって事はないんだよな……?)」 妙に不安になってきた。 俺の妄想だってある意味、特異例だし。 「カンパン食べよっと」 ぴくっ。なるに急ブレーキが掛かる。 万年筆を用紙に押し付けた状態のまま完全停止した。 「ワ、私ノ分モ」 「ここ置いとくから、好きな時に食べていいよ」 「ウム、優真クン大好キ、卒業ト同時ニ籍ヲイレヨウ」 なるのはあくまで執筆モードのキャラであって、仕事中の俺の精神状況の色違いのようだ。 リノンとトリトナとは根本的に違う。 「邪魔しちゃ悪いな」 集中の妨げになるかもしれないと思い、何かやるべきことを考える。 「…………そうだ」 最近、約束事が多すぎて忘れていた。 「シャス!」 「………………」 「ココロ、シャスって言われたらシャスって返す。俺はこの方法で数々の友を築きあげてきたんだ」 「………………」 「アレ? 無視かぁ。昨日は取り込んでてさ、会いに来れなかったんだよ。怒ってる?」 「あれー……」 視界にさえ収めてくれない徹底した《スルー》〈無視〉っぷり。 マイペースに歩きまわりココロを同じ速度で追っていると、ぎゅるんと音がしそうな勢いで振り向いた。 元々感情を表に出さない系女子のココロ。 関節を感じない動きは機械人形を連想させた。 「…………二酸化炭素反応確認……」 「お? なんだなんだ」 「…………排除対象の質量移動確認……逃走経路遮断……」 「水瀬優真は逃げません。なぜなら君の味方だから!」 「…………水瀬…………優真……」 「自称絵師のね」 「…………絵描き……?」 「今のは新しい遊び? ココロは、歌ってたほうが素敵だよ」 いつもの雰囲気に戻ったココロに笑いかけ、地面に届くほどの髪を手で梳いた。 「………………」 「ちょ、待って――――い、いきなりボディチェック? 怪しいものは持ち込んでないってばっ」 ぺたぺたぺた。 暗闇のなか手探りで落とし物をさぐるような手つきで、身体中をおさわりされる。 「むぶ、むぶ……あの、顔です……そこ顔なんで……あんまり無防備に触ってると、不可抗力で指を咥えちゃうかも……」 無言で無感情なので、目的がわからない。 ココロがスキンシップ目当てなら、その不器用さに応えてやり返す用意はある。 「…………人と話すのが好きな水瀬優真……」 「直接触れてみないとわかんないなんて、変わってるね」 ココロはフェンス脇に駆け寄る。 素のままで置かれた画材から画用紙の束を持ちだした。 「…………描いた……」 「お……凄いっ! こんなに描いたの? 画展が開けるじゃん」 嬉しい気持ちで一枚目を見る。風景画。 濃淡のメリハリがついた迫力のある絵だ。 物の特徴をはっきり押さえているが、拡大図のように一部分だけが切り取られている印象でメッセージ性がなかった。 ――――なるほど、と思って描かれた風景画をジグソーパズルのように6枚を横に並べる。 それで初めて一つの絵になり、その完成度の高さに口が開いた。 素人目にも明らかな美術センス。 ダイヤモンドの原石を発見したようなものだ。 「……ちゃんとした人に評価してもらったほうが良さそうだな」 「…………水瀬優真だけでいい……」 「みんな頑張って、何かに打ち込んでるんだなぁ」 「…………?」 「俺の大切な家族もスランプを打破して、がっしがし書いてるんだ。“描”いてるとは、字が違うけど」 「…………家族……」 「ココロはママがいるから、俺の家族にはなれないね」 「…………色塗って……」 差し出されたのは、この間プレゼントした水瀬優真先生の代表作“ココロ”。 「わかってる。塗りに来たんだ。こないだの約束を守らせてもらうよ」 「くぅぅぅぅぅ――――うまくいかないっ! なんで絵の具ってはみ出すんだ、はみ出さないように作ってくれよ」 「…………できた……?」 ひょっこり覗きこんでくる妖精さんから絵を隠す気力もなくなった。 「うぅ……俺、どうすればいい? 何で償えばいいのかな?」 「…………?」 「せっかく、俺の描いた絵を大切に持っててくれたのに、塗りの段階で失敗しちゃったら残念すぎるじゃん」 「…………失敗も含めて……」 とても静かに丁寧に。 奥ゆかしさを感じるほどの手つきで。 大切そうに塗った絵を手にとってくれるココロ。 「…………天才画伯誕生の……記念すべき第一号……」 趣味の世界で大事なのは、結局、楽しいとか嬉しいとか、しがらみから外れた感情論。 「くっ……そうだった。ポジティブが信条の俺が、常識に囚われるとこだった」 「このはみ出し具合に品格を感じるっ! 海苔がはみ出してるラーメン屋は大抵うまいのと同じだねっ」 たっぷりと自画自賛してからココロに進呈する。 「…………お返しする……」 「ココロが? 嬉しいな。何をしてくれるの?」 「…………水瀬優真と同じこと……」 超超ロングのツインテール少女に従って、おとなしく座る。 「魅力全開で、かっこ良く描いてねー。風強くなってきたから、飛ばされないようにね」 「………………」 まぁ、俺なんかよりココロがモデルの方が断然、絵になるんだけど。 しかし……。 今更ながらに思うけど、ホント開放的な場所。 そんでもって、《へんぴ》〈辺鄙〉で人の寄り付かない不可思議空間。 そんな所に、俺たちはポツンと置かれている。 ――――で、この格好、だもんなぁココロ。 「ココロさ……描きながらでいいし、知らなかったらそのまま聞き流して欲しいんだけど」 「“《イデア》〈幻ビト〉”ってなーんだ」 「…………“姿”“形”を表す哲学用語……」 「ああ、そうなの? まぁ、ピンと来ないならいいや、忘れて」 「…………“《ユートピア》〈幻創界〉”で言語獲得能力が生得的に備わっている知的生命体……」 「……やっぱ知ってた」 根拠は状況的なものだけしかなかった。 この装いで、この性格で、こんな場所。 旧市街でも屈指の変わり者。 珍百景に紛れ込んだ観察者であり、なにより――――。 「――美少女っ」 「…………動くと精密性に欠ける……」 「ごめん、美少女と話すと浮かれちゃうんだ」 ついつい指を差してしまった。 一応モデルさんなので石像のようにジッとしてよう。 「これで美少女は“《イデア》〈幻ビト〉”と関わりがあるっていう線が現実味を帯びてきたなぁ」 黙々と筆を進めるココロとなるがダブる。 趣味に傾倒するっていう共通点だけで仲良くなれそうだ。 紹介してみるのもいいかもしれない。 「じゃあココロは“《イデア》〈幻ビト〉”なの?」 「…………ココロはココロ……」 「人間だよね」 「――――“《アーカイブスクエア》〈AS〉”の超技術のほんの一端」 「え……?」 「無性生殖機で同一遺伝子を大量複製した成功例の一つ、300時間程度の早成と魂の保管に耐えうる内部設計」 「え? え? ココロ――――何を言って」 「42時間前の質問と返答。公衆電話の《カタマリ》〈死体〉は“進化促進剤『《むしばみ》〈蟲喰』”の被害者」 「加えるなら556の役目は、“パラレルアウト”を塞ぎ瘴気の流出を――――」 「うぐ……シンキング……プロテク……うぅ……ッ」 出逢って初めて、ココロは顔をしかめた。 雑味だらけの珈琲を飲んだように、苦々しく。 「ココロッ!」 「………………」 腰を上げた俺を冷めた瞳で見るなり、何事もなかったように絵の続きに没頭する。 「…………ココロ?」 「…………動いた……?」 「今言ったこと、もう一回いいかな? 急に饒舌になった驚きもあってか、全然聞き取れなかった」 「…………?」 「…………動いた?」 「違う。公衆電話の話と、パラレルなんとかと、ココロが超技術だかって話」 「……うっ、ぐぐっ…………」 同じだ。苦しげに顔をしかめる。 「………………?」 “何か特別な事があった”とでも言うような瞳。 都合の悪いことは全てシャットアウトされてしまう。 コレ以上聞いても結果は同じだろうけど、今言われたことは気にかかる。 心の片隅に置いておこう。 「…………完成……」 「お、早いなー。どれどれ……」 なんだろう、うまいんだけど似てない。 あえて似せないのが美術というものなのだろうか。 なるの用いる便利用語で言えば“作家性”とかいうヤツ。 何にせよ一般人の俺は、心に傷を負ったこどもの自己投影のような印象を受けた。 人型の中に入っている光はなんだろう。 うーむ……。 「抽象的な仕上がりとだけ言っておこうかな」 「………………」 もしかしてショックを受けてる? 「ああ、そっか。恥ずかしがって上手に描けなかった? 見つめ合うと素直にお絵かきできないタイプ」 「…………?」 絵と俺を見比べて……。 「…………そっくり……」 うん。力作らしい。本人が良ければなんでもいいか。 「おっ――――風強いな」 近頃は晴れ続きだったけど、明日からは降水確率の高い時間帯もチラホラあった。 ココロが心配だ。 本当は家に連れ帰って養ってやれたら一番いいけど、ココロには、ここに居なければならない理由がある。 せめて夜露を凌げる用意や、絵を入れておける大きめの鞄を買い与えるくらいしたって罰はあたらないはずだ。 「あ――――」 一瞬の隙をついたイタズラな潮風が、ココロから画用紙を奪い去った。 さながら紙飛行機のように気持ちよさそうに舞い上がり、無軌道に空を泳いでいく。 走っても追いつけないとわかり、遠くへ飛んでいく姿をただ見つめた。 「ま、まぁ……塗るの失敗したヤツだし。なくなっちゃってもいいよね」 「………………」 心なしか残念そうなココロに、掛けるべき言葉が見当たらなかった。 「また描いてあげるからさ」 「………………」 ココロの視線は空にあった。 表情はいつも通りだけど。 その意味は、俺にだってわかった。 「……やっぱりちょっとその辺、見て来ていいかな? そこまで遠くまで飛んでないかもしれないし」 「…………いい……」 「探すのはタダだし。俺ちょっと行ってくる、見つからなかったらモデルよろしくね」 「……ココロも複雑そうな境遇だよなぁ」 “パラレルアウト” “進化促進剤『《むしばみ》〈蟲喰〉』” “ママ” 考える事が多すぎて、上手にまとまらない。 誰かに助け舟を求めたい。 と――――。 「――やっぱ日頃の行いがいいから、思いが通じちゃうのかな」 すらりと長い脚を強調するようにフェンスに身を預けているのは、寂れた旧市街にいるべきではない世界の花形。 「寄りかかるの好きだよね」 「誰にだって楽な姿勢のひとつくらいあるでしょう? 本番前に集中する時も、いつもこうよ」 腕組みを解いたリノンは威風堂々、向かうところ敵なしの自信に溢れていた。 尊大とは違う。 慢心とも違う。 完全な理想に到達した者の笑みだ。 「俺の事、待っててくれたの?」 「――――アレに関わっても、ロクな事ないわ」 「アレ……?」 「これは忠告よ。“《アーカイブスクエア》〈AS〉”に所属する一人の調査員としてのね」 「それってココロの事だよね。大丈夫、心配しなくてもリノンは俺にとって永遠の憧れだから!」 「はぁ……?」 「ココロは彼女じゃないって意味。リノンが俺狙いなのは知ってるけど嫉妬するはやめてね」 「誰があなたに嫉妬なんてするのよ」 「わたしはわたしに必要だから、影で手回ししてあげてるだけ。虹色の占い師と一緒にしないでよね、まったく」 「とにかくアレに近づかないこと、わかった?」 「さっきからさ……アレアレって、うるさいよ。ココロはココロって名前があるんですけど?」 「……そう。その程度の認識で済んでるんだ。なら引き際としてはちょうどいいわね」 「もう此処には来ないこと、オッケー? わたしとの約束に“《へんしん》〈Re〉:”できる?」 「嫌だよ。ココロとは友達だから、毎日でも会いに行く」 「ああ――――優真、あなた……勘違いしてるのね」 「わたしの事を、フェアなスポーツマンや、お助けアドバイザー――――話し合えばわかってくれる善人だって思っているのね」 「教えてくれないなら、俺は捨て身覚悟で“《アーカイブスクエア》〈AS〉”に乗り込んでココロについて聞くよ」 「物事には優先順位があるのよ。優真の行動がわたしの許容範囲を超えたら、弁解を聞く余地もなく首を跳ねるわ」 「そんなことしたら、寝覚めが悪くなるんじゃない?」 「残念。眠らないから悪くならない」 リノンならココロに心当たりがあると思ったのは正解だったけど、この様子だと情報を引き出すのは難しそうだった。 「アレは普通の人間には精神衛生上、良くないわ」 「だからさ……アレとかコレとかソレとか――――トリトナをそんな風に呼ばれても、リノンはうまい飯が食える?」 「屠殺されることのわかっている豚に、名前を付けて感情移入するヤツがいるのね」 「は――――どういうこと?」 「次に会っている所を見かけた時が、縁の切れ目になるってこと」 回りくどい上に一方的な言い方。 リノンの心に、俺の言葉は響いていない。 「……リノンは理不尽だと思わない?」 「ふふっ。理不尽? “《ナグルファル》〈7年前〉の夜”を経た生き残りにとっては、身近な言葉でしょ」 「あんな可愛い子に一日中、同じ場所に立たせて……役目だかなんだか知らないけど押し付けてさ……そういうのが許せるかって意味だよ」 「目に見える範囲すべての問題を解決しようとする――」 「――正義感は時として若気の至りなんて言葉では済まされないほどの思い上がりになるの」 「透明な響きを含んだまやかしの善意なんて悪意にすぎない。わたしは、目的を絞る。有益なものを取捨選択できないほど子供じゃない」 「だったら、俺は大人になんかなりたくないな」 いつまでたっても平行線。 これ以上、この件に関する話し合いは不毛だ。 「夜、時間空けといてくれない」 「こっちの質問には答えず、命令ばっかりしておいて、自分の用には付き合わせるんだ」 「心外ね。優真が安全に過ごせる分だけは答えたつもりだったけど」 「……いいよ。場所は?」 「この先の棄てられた公園が適してるわね。あの部屋じゃ、情緒がないって怒るだろうし」 「え? トリトナが?」 「時間は大体でいいわ、先に始めてると思うから。何か差し入れを持ってきてもいいわよ?」 「一体なんの話をしてるんだよ」 「くればわかるわよ。じゃ、わたし表の仕事があるから」 自分の“目的”を見つけ終えてないリノンにとって、それ以外は眼中にないのだろう。 迷いのない後ろ姿は一つの完成形であり、リノンの心境を色濃く表していた。 「まずは、自分のことだよな……普通は」 「俺は、第一に……家族――――かなぁ。そういう優先順位は、つけたくないし、考えるだけで気が滅入るけど……それでもやっぱり、家族なんだろうな……」 ココロのいる岬に目をやる。 今もあの子は、一人あそこで佇んでいるのだろうか。 暇つぶしに絵を描いているのだろうか。 「…………ごめんな、ココロ……近いうちにまた来るから……」 リノンはやるって言ったらやる。 それだけ言葉に力強さを感じたから。 自分のセリフに責任を持てない人の言葉は、もっと軽いから。 現状でココロに会いに戻ったら、家族が危険に晒されかねない。 夜にリノンと会った時に、もう少し突っ込んだ話をしてココロについて聞くとしよう。 「こんなとこにいたー!」 「なるちゃん」 「いなくなるなら、ひとこと言ってよ。気づいたらいなくなってたから、てっきり海に落ちたんじゃないかと焦ったわ」 「ごめんごめん、書き置きぐらいしておけばよかったね」 「焦って愛用の万年筆、海に落としちゃったわ」 「え……?」 「あ、気にしないで。愛用って言っても安物だし、私がおっちょこちょいな、だ・け・だ・わ」 「……そっか」 「原稿用紙も切れちゃったから調度良かったわ。あのままじゃ体力の限り書き続けてたかも」 「なるちゃんも形から入るタイプ?」 「え? ああ――原稿用紙からデジタル文字に打ちなおすのが二度手間に見えるのね」 「たしかにデジタル文字は打ち込むのも簡単」 「消すのもワンボタンだからいくらでもやり直しが利くけど、便利すぎて、無数の言葉選びに緊張感がない」 「その点、原稿用紙は一発勝負。一文入魂、気合の入りが、ダ・ン・チ♪」 「これが《プロ》〈仕事〉だったら、些細な完成度の差より効率を重視しちゃうんだろうけど、趣味の世界は、掛かった手間の分まで含めて楽しいんだろうね」 「プロでも原稿用紙派は掃いて捨てるほどいますー! 失礼しちゃうわ」 失礼なのは“掃いて捨てる”なんて表現をされた現役の作家勢な気がする。 「ま、いいや。俺もちょうど趣味に没頭してきたところなんだよね」 「優真くんの趣味って女の子をたぶらかして、隙あらばセクハラすることだったかしら?」 「それも趣味だけど、えっとね……」 口で言っても仕方ないので、ココロに描いてもらった似顔絵を見せる。 「なにこれ素敵! 宇宙人? 妖怪? UMA? 芸術的かつ独創的な感性の持ち主ねっ!」 「やっぱりそう思うよね」 「絵描きも作家も、芸術家は死んでから有名になる人が多すぎるわ。これは典型的な例ね。時代が追いついてようやく認められるみたいな」 わかるわかる、と大きく頷くなる。 なるだって充分すぎるほど信者はいるし、認められている気がするけど。 「優真くんにこの手のセンスはなさそうだから、友達の創作物かしら?」 「創作っていうか、俺がモデルになってるから似顔絵かな」 なに言ってんだこいつ、って顔で絵と俺を見比べる。 「特徴が一つとして一致しないわ」 「本人はそっくりだって言ってたけどね、すごいアレンジが加えられてるよね」 「あら? そう」 アレンジってレベルじゃないぞ、って顔で絵と俺を見比べる。 「うーん、でももし冗談じゃなく、本気だったら?」 「え?」 「本当にそっくりだったら――――その人には、世界がどんなふうに見えているのかなって」 「……………………」 「少なくとも、普通の人と共有できるような感覚では生きていけないでしょう?」 いや。 まさか。 そんな。 「ないないないっ。俺がこんな姿をしてたら、近寄れないでしょ。それに風景画は綺麗に描けてたんだし」 「クッフッフ……汝の魂が歪曲し始めたのは、760万……いや、16万2000年前だったか……まぁいい」 「意味のない事を言う時のなるちゃんはホントに嬉しそうだね」 「意味なんて後からいくらでも付随してくる。あまり厨ニを舐めない方がいい」 「厨ニってのは舐めないけど、なるちゃんなら全身どこでも舐めれるよ」 「ちょ、はぁッ!!? だ、ダメよそんなことしちゃ。なんか、溢れてきちゃうじゃない、とめどなく溢れてくるわっ!」 「………………」 「何とか言ってよっ」 「そうだ、ここに来るまでに同じ画用紙が飛んでなかった? 俺の描いたココロの絵が描いてあったと思うんだけど」 「画用紙が飛ぶって、ずいぶん強い風が吹いたわね。見てないけど――――優真くんも絵描けるの?」 「万能ですから」 「わぁい! じゃあ、さっきの人とセットで“PPP”の挿絵、描いて。異論は認めないわ♪」 ココロとなる、か。相性良さそうに見えるけど……。 リノンが許しちゃくれないか 「今度紹介するよ」 「やった。約束よ」 社長の運転するバンの中で作業着から着替えて出ると、外の新鮮な空気が肺を満たした。 固まった筋肉をほぐしながら近くの自動販売機まで行き、ミネラルウォーターを抱えられるだけ買って戻る。 「2、3、4件かぁ……ふーむ、短い間に結構な数をこなしたなー」 指折り数えている社長に一本ずつ手渡ししていく。 「社長のおかげですよ。害虫駆除に時間を食ったのが手痛かったですけど」 「今日の仕事は今ので終わりだ。かしこまらなくてもいいぞー」 「そう? 俺と今日子さんのタッグはやっぱ無敵だね。久々に組んで実感したけど、やっぱ今日子さんの手際の良さは業界一だ」 がぼがぼがぼ。今日子さんは溺れるように1本目のペットボトルを飲み干し、空ペットを地面に置いた。 「仕事の秘訣を教えて欲しいかー?」 「いらないよ。技は教わるんじゃない、盗むものだ。勉強させて頂きました」 「うむ。理想的な返答だ。精進したまえー」 がぼがぼがぼ。2本目。完飲。 「ふぅ……私はこのあとクリーニングに寄って、ついでに予定もあるから、晩御飯の用意はいいぞー。外で適当に済ませるとしよう」 「ん、わかった」 「なると2人っきりで楽しいことするのは構わんが、酒の肴になるようにきちんと隠し撮りしておきたまえよ」 「ははっ、チャンスがあったらね」 今日子さんは3本目と4本目のミネラルウォーターのキャップを同時に回す。 「んっ、んぐっ、んぐっ……はぁ……」 「ごちそうさまだー、捨てておきたまえー」 「水はいいけど、酒は飲んだら運転はしない、コレ絶対」 「優真」 「え? なに、今日子さん」 今日子さんとは昨日今日の関係じゃない。 名前の呼び方ひとつで空気の差は感じ取れる。 「蒸し返すようで悪いが、“《たなばた》〈7年の節目〉”まで残り数日だな」 「優真は成長したよ。課題は多いが、それでも私の訓えを守っている。どこに出しても恥ずかしくない、一人前の男になった」 「俺なんかまだまだだよ」 「もっともっと稼いで、稼いで、今日子さんに貢げるような男になったら、その時にまた褒めて欲しい」 気持ちはとてもありがたいけど。 心からもったいない言葉だと思った。 「私に……呼ばれる権利などないか……」 「え……?」 「今日はおつかれ様だったな、ゆーま。ではなー」 「全ては社長の為にッ!」 ウチの最高責任者にビシッと敬礼。 ゆっくりと発進するバンを最後まで見送った。 「…………さて。この後のスケジュールはリノンとの約束だったな」 適当な時間でも“先に始めてる”らしいから心配ないって言ってたけど……。 「差し入れがどうとか言ってたし、いったん駅地下に寄ってからだな」 「おー、ホントにあった。ここで間違いないっぽいな」 なるを連れてきた“《ナイトメアゾーン》〈闇支配者の聖域〉”とは別方向に湾岸エリアを歩き続け、ようやく着いた。 手前には誰も遊ばなくなった廃公園の遊具が。 壁の向こうにはピカピカの高層建築が。 いっしょくたになって視界に飛び込んでくる。 旧市街の果てと言うべき場所であり、現在と過去の境界のような印象を受けた。 「いかにも棄てられた地って感じだな……」 ブランコの支柱をさすったそばから、錆びついたメッキが音を立てて剥がれる。 滑り台に至っては、台が途中から折れていて滑らせる気がまるでない。 神さびた感じはなく、荘厳さや神秘的なんて言葉は当てはまらない。 終わってしまって、見向きもされなくなった、必要とされない場所。 「たった7年前までは、子連れの親子達が集まって賑わう現役バリバリ憩いの場だったんだろうな……」 災害の残酷さ。 復興に掛かる年月。 矛先なき感情の時間的解決。 改めて被害の大きさと、それでも何度でもやり直せるという人の団結と精神力を痛感する。 「――――おーい、よく来たなー」 「あ、いた。ずいぶん高い所にいるなぁ」 「ちゃきちゃき歩いてとっとと来い。登ってこられるかな~?」 「この慎ましさの欠片もない口調は、だぜっ娘で間違いないな」 しかし、こんななにもない場所で何をしているのだろう。 「よっ、ほっ、こんなっ、もんです、かっ!?」 「おー、やるじゃねーか。ここまで来れるとはなぁ」 「働く男なんで」 「うぃ~~~っく。おっせーぞボケ! 待ってる間に飲み過ぎちゃったぜ」 あー、そういうこと。 ひと目で納得。 ちゃんと酒臭いし、目がとっろとろ。 「ずいぶん出来上がっちゃってるみたいだね。もしかしなくても一人宴会?」 「そーゆーことだぁぁ……ゼッ!」 盃を片手に持つ酔っぱらいアイドルの飲みっぷりに惚れ惚れする。 トリトナの事を知らないファンが見たらギャップに卒倒するだろう。 「なに黙ってンだぜ? 宴に参加するなら芸の一つでも見せて盛り上げるのが礼儀だろうが」 「一発芸なんて、変なとこの関節を鳴らせるくらいしかないなぁ」 「つまんねーなぁ。何にもできないなら飲んで誤魔化すんだよ♪」 「うーん……よしっ、そこで見てて」 「待ってましたっ! よっ! 男だぜ優真ッ!!」 期待に応えられるかはわからないが、旨い酒を飲んで欲しい気持ちは少なからずある。 電柱に飛び移り、一番上に立つ。 「おーバランス感覚いーなぁ。つーか、そんな高ぇとこから何すんだっ! ワクワクが止まらないぞオイ!」 「いっくよー! 月まで届け、リノン様への忠誠心ッ!!」 「飛んだーーーっ!!?」 「げはっ!?」 不恰好ながらに宙返りして着地――――失敗。 「アハハハハハハハハハハッ!! 背中、思いっきり打ってんじゃねーか、はははははははっ!!」 一応、ウケたみたい。 前もって知っていれば、血糊を口に含んで、笑いながら垂れ流しで歩いて行くと結構ウケるんだけど。 「人に生まれたからには、月に思いを馳せなきゃ嘘でしょ」 「ああ、なかなか見ものだったぜ! 馬鹿なことを馬鹿とわかってやれる奴は男だ! 月の兎もビビっただろうよ」 「よーし、宴への参加を許可するぜ。ちこうよりたまえ!」 「ありたがき幸せですが、アルコール類はちょっと……」 「いいからいいから、“八年貯熟古酒”北の銘酒だぜ?」 「良い酒じゃ、なおさら味もわかんない俺にはもったいないって」 「だーめだコイツ、冷めるわー。メッチャ冷める。リの字も罵ってやれよ、ケツがキタネーとか言ってやれ」 「ふふっ、美人のお酌を断るなんて程度が知れるわよ?」 「どうしてわざわざこんな所で飲んでるの」 「お店じゃ目立っちゃうし、あの部屋だと『つまらんぜ』って騒ぐのよ」 「真っ白に光った良い月夜だ。授かりものみてぇにタダで肴があんのに、何が悲しくて宅飲みせにゃならんのだぜ、ったく」 ぐびぐび、と。盃を傾け、水みたいに流しこむトリトナ。 欠点の見当たらない完璧な容姿が台無しだった。 「ンッぱ~~~~♪ へいへい、じゃせめてお酌しろよ役立たず」 「女と酒は二合まで」 「酒一杯にして人、酒を飲み 酒二杯にして酒、酒を飲み 酒三杯にして酒、人を飲む」 「バカ者ども。酒は百薬の長だぜ?」 程度を諭す俺たちに対する飲兵衛らしい返答。 あー言えばこう言う合戦。 「まぁ、こんな帳のこんな月夜だ。多少の無礼は大目に見てやるぜ」 「飲み過ぎだと思うんだけどなぁ」 しかたがないので盃を構えるトリトナに一献、注ぎ足す。 「ンッ――――はぁ、沁みるぜぇ……♪」 どうして酒を飲む時“きゅっとやる”と表現するのかよく分かる飲みっぷりだった。 「いいねぇいいねぇ、美少年のお酌。肴になるぜぇ♪ キスしていいか? ベロ絡めるエロいやつ」 「やめなさい酔っぱらいオヤジ。優真もよろこんでって顔しない。舌を噛み切るわよ?」 「はぁ? さっきから冷めたことばっか言って――――大体リノン、オメェだってしこたま飲んでるじゃねぇか? 身体ぁ共有してンだからよぉ」 「その辺にしておかないとリノンもマジ切れしちゃうよ、酔っぱらいおばさん」 「誰がおばさんだぜ!? どっからどう見たって美少女っ、失礼しちゃうんだぜ」 「はいはい、美少女美少女」 「ワッハッハ! ハッハッハッハッハ!! この顔なら結婚詐欺とかラクショーでできるぜ! リノンさまさまだぜっ♪」 「…………」 「酔っぱらいの発言をイチイチ真に受けなくていいから」 「あ、うん」 うーん、笑い上戸ってやつか。 本当はココロの事を聞きたいんだけど、酒の席で野暮はやめておくか……。 「酔った勢いで優の字に抱きついちゃうゾー♪」 「わー!?」 「ちょっと! トリトナが後処理までやってくれるの? わたしはもう、アレを慰めるのはゴメンだから」 「だってよ、どうする? このまま2人でシークレット・ラブを楽しんじまうか?」 「トリトナは酔って冷静な判断ができていないんだよっ。絡み酒は嫌われる原因になるよ」 「う、うー……ショックだぜぇ……甘えさせてくれないのかよぉ……」 今度は泣き上戸……なんでもありか。 「しゃーなしっ! その辺のもん喰って気分直すかぁ」 「そのへん?」 立ち上がったトリトナが華麗に前方宙返りで地面に着地。 そのまま見守っていると。 「がつがつがつっ! 土うめー! ほどよく硬くてうめー!」 「大アイドル様がそんなもん食べちゃダメだってばっ!?」 「へーきだぜ。リの字の身体は超最強らしいからなぁ。ああ、土うめー」 「リノンと交代して! 今すぐ!」 「もぐもぐ……うるせぇなぁ……リの字、ちょいソッチ行くぜ?」 「…………急に交代って、むぐ……っ!?」 ぎゃりっ。ごりっ。ぼりりっ。 口をもごつかせたリノンから、砂を噛むような音がダイレクトに聴こえてきた。 「……ゆ、優真……口をゆすぐもの」 「酒しかないけど」 「アルコール洗浄くらいがちょうどいいわ……」 リノンは口元を手で抑えながら瓦礫の影に消えた。 戻ってくると、こめかみをピクピクさせながら鏡を睨む。 「いい加減にしなさいよねトリトナ」 「お上品なアイドル様は土や草も喰えないのか~。そかそか、悪かったぜ~♪」 「……ホントに悪かったと思ってるならいいわ」 「思ってないぜ~♪」 「はぁ……歯に土が詰まってる……最悪」 「ハハハッ! これも私様らしい愛情表現だぜ、リの字。世界一愛してるぜ♪」 「はいはい、わたしはだいっきらいよ」 「お、おいおい、本気で怒っちまったんだぜ?」 「冗談よ。ほら、好きなだけ飲みなさい、わたしは引っ込んでるから」 「やっぱり大好きなんだぜっ♪」 「まったく……酔うと必ずそうなんだから」 あんな事をされても、リノンは許してしまう。 それはやっぱり、お互いに信頼しあってるからなのだろう。 喧嘩するほど仲がいい――――姉妹のような。 「………………」 仲良く話すリノンとトリトナを見ていると……心にぽっかりと空いた穴がズキズキと虫歯のように痛む。 「…………俺だって……」 「お?」 いつの間にか人格交代していたトリトナから盃を奪い取る。 「ンッ、ぐっ……ぐっ……ぐっ…………は~~~~っ!」 口の端からこぼれるのも無視して、あおるように飲み干した。 「ほ~~~♪ いいじゃないかいいじゃないか。男なら、そのくらい粋じゃなきゃ困るぜ。ささ、もう一献」 「うう……喉が焼ける……」 マイナスな気分を振り切るのに酒の力を使うなんて良い事じゃない。 癖になっては、自力で磨いたポジティブ精神がだだ下がりだ。 「秘蔵のアタリメ食うか?」 「大丈夫……渡し忘れてたけど、差し入れがあったんだった」 「きゅうりとモロキュウ? はぁ? 優の字、てめぇ……」 「愛してるぜっ♪♪」 愛してる――――ね。 俺だって……愛してる……未だに……。 「……2人はいいよな。身体はひとつだけど、いつまでも仲良くやっていけてさ」 「あ?」 「俺だって……どんな形でもいいから、一緒にいたいよ……」 「……何の話をしてるんだぜ?」 「あ――――」 ……慣れない酒なんかで気を紛らわせようとするから、こういうことになる。 「いや……ゴメン。何でもないよ」 余計なことを口走った。 酒の力はやっぱり、怖い。思考と言葉に毒と願望が入り混じって、ぐちゃぐちゃになる。 「アッハッハッ! おめぇマジ大丈夫か? しゃねー奴だなぁ、アッハッハ!」 「ハッハ――――――――」 「……あれ? フリーズ?」 「…………」 「うわぁ!?」 トリトナは意識が吹っ飛んだように、真正面から崩れ落ちた。 「ん――――顔から倒れたのね。アイドルの顔はどんな宝石よりも価値があるって言うのに……」 肌にめり込んだ小石を爪で剥がしながら―― 「…………ああ、平気だから」 「え? え?」 「あの子は眠るのよ、わたしと違ってね。飲んだ後は当分起きないから、今日はお開きね」 「…………」 リノンのほっぺたをつまむ。 「はにふるろよ」 「本当にリノンかなって?」 強い力で腕を払われる。 「わたし以外に誰がいるっていうのよ」 「あそこまで好き勝手にされてやり返さないなんて、リノンらしくないなって」 「トリトナは特別よ。わたし自身みたいなものなんだから。有象無象と一緒にしないで」 リノンは鏡を仕舞った。トリトナは熟睡中のようだ。 「来てくれた事には感謝するわ。なんだかんだで、この事を知っているのはあなただけだから」 「いいよ、美少女の頼みはなるべく断らないようにしてるんだ」 「今後も飲み仲間として相手をしてあげてね。あ、強制だから」 「身体を張った一発芸シリーズに何か追加しておくかぁ」 「それがいいわね」 話が一段落したところで聞きたいことを聞こう。 「ああ、そうだ、ど忘れしちゃった。ココロについての情報、もう一回だけおさらいしてもらっていい?」 「わたしは何も教えてないはずだけど?」 教わったフリをする作戦失敗。 「ココロが心配なんだよ。リノンに頼ってばかりなのは承知だけど、君以外に心当たりがないから」 「アレに恋をしたの?」 「恋なんて甘いドラマはないよ。友達の心配をするのにいちいち理由なんかいらないんだよ」 「関わるなって、何度いえばわかるのよ」 「あんな所に一人ぼっちでいる美少女を放ってなんかおけないんだよ」 「アレを管理してるヤツがどれだけ危険か知らないから言えるのよ」 「だからアレアレって物みたいに――――管理?」 管理……もしかして――――ママって奴だろうか? 「管理人にとっては全てが遊びの範疇。遊具に事欠かないって理由だけで組織に収まってはいるけど、行動を制限することは誰にもできない」 「待ってよ、その人は一体どういう人なの?」 「わたしと同じで“《フール》〈稀ビト〉”の捕獲を一応の仕事にする“《イデア》〈幻ビト”」 「同僚なら、リノンが話を聞いてくれれば済むんじゃ……」 「――生きたまま捕まえたことは一度もないけどね」 「え……?」 「管理人に人間性なんてものは皆無よ。現場に出くわすといつもうんざりするわ」 「必要以上に“やりすぎた”病的で猟奇な解体――猫が虫で遊んでバラバラにするのに似てるわね」 「あいつはいつだってすっきりした顔をしてる。実際、すっきりするでしょうよ、あそこまでやったら」 「へぇ……おっかないなぁ。ゲーム感覚ってわけだ。俺も見つかったら、各部位ごとにバラされちゃうのかな」 「そうさせない為にわたしが手回ししてるって言ったでしょう」 「ココロに会っちゃダメなのの大半は、そのヘンタイさんに狙われてほしくないから?」 「そういうこと。あいつは気まぐれだから、いつ遭遇するかわからないわよ」 「だったら――――俺がそいつをぶっ飛ばして言い聞かせればいいんじゃない?」 「もうふざけたことすんなって。ココロを物みたいに扱ってないで可愛がってやれって。それで万事解決?」 「………………はぁ……イノシシ以上の脳筋……」 「でもそういうことじゃん」 「“《フール》〈稀ビト〉”に過ぎない人間モドキのあなたが? あの狂気の具現を? 地獄を見るのがオチね」 「やってみなくちゃわかんないだろ」 「やらなくてもわかるから言ってるのよ、あなた、わたしに太刀打ちできる?」 リノン――――ネコ科を想わせるしなやかで完璧な肉付き。 秘められた膂力、敏捷性、まだ見ぬ“《アーティファクト》〈幻装〉”。 敵う気はしない……。 「あいつを押さえられるとしたら、同レベルの“《イデア》〈幻ビト〉”を連れてこなくちゃ」 「じゃあ超最強のリノンが俺の代わりにやっちゃって!」 「パスよ」 他力本願は一蹴される。 「言ったでしょう? わたしはわたしの目的で忙しい、あんなのに関わるのは体力の無駄遣いだわ」 「……うーん……ああ、うんうん。なるほど、解けた」 「?」 「要するにリノンの目的が達成されれば、一緒にそのヘンタイをひっぱたいて、懲らしめて、『ちゃんとします!』って言わせて、改心させられるってわけだ」 「……まぁ、わたしの目的達成に一役買ってくれれば、対価としてやってあげてもいいわ」 「何人束になっても、命賭けなのは変わらないけれどね」 と。そこまで言って顔をしかめるリノンは一升瓶を手にし、軽くゆすったあと、飲み口から中を覗く。 「口の中に残ってた土が出てきた?」 「わかってるなら水の一つでも持って来なさいよ」 「おでん屋台が出てたはずだから、ひとっ走りしてくるよ。待ってて」 「管理人はルージュと呼ばれる“《アーカイブスクエア》〈AS〉”のエース」 「“《フール》〈稀ビト〉”捕獲率2位を誇るわたしに、圧倒差をつけ続ける魔人」 「わたしが知ってる中で最も残虐で、最も危険で、最も不愉快な“《イデア》〈幻ビト〉”よ」 それは釘を差すようなセリフ。 「大丈夫、本当に水を買うだけだよ。ココロの所には寄らない」 「対処法は、気に入られるか、逃げること。それだけよ。あなたがバラバラになったら、家族が悲しむわね」 ルージュ……か。 リノンにここまで言わせる奴を相手に、俺が生き延びられるとは思えなかった。 それでも実際に対面したら一歩も引く気はおきないだろう。 どんな怪物じみた奴だろうと『おまえは相当間違いだらけだ』ってビシッと言ってやりたいし、話が通じない相手なら痛い目を見てもらう。 とりあえず一升瓶に入るだけ水をもらって戻るか。 胸からじんわりと染みるようにアルコールが広がっている感覚は嫌いじゃない。 スポットライトに照らされる時間が長ければ長いほど。 “《フール》〈稀ビト〉”との追いかけっこが長びけば長びくほど。 こうして独りで黄昏る時間は特別な癒しに思えてしまう。 「それにしても今日は限界以上に飲んだのね」 指先に冷えを感じて手のひらを揉みながら、心の呼びかけでトリトナが音信不通であることを再確認する。 トリトナは節操なさそうに見えて、度はわきまえる。 今まで一度だって、倒れるまで飲んだことはなかった。 それだけ、優真と飲むのが楽しかったのだろう。 「…………」 一人。 今、ここで、瓦礫に腰掛けて臀部の熱を奪われる私。 今、ここに、こうして広がっている灰色がかった空。 それら全てを――――わたしが独占している。 わたしが私として出発するには足りない存在証明だった。 培養液につけられた脳が見ている光景という懐疑的思考を否定する材料にはなりえないのだから。 「わたしがひねくれてるのかしらね……今が良ければ、それでいいって考えには、どうしたってなれない」 「自分が何者で、何をするために“《ディストピア》〈真世界〉”にいるのか、それを知るまでは……」 「優真? ずいぶん早かったわね……?」 「……ぁぁぁぁぁ……ぁぁぁぁぁぁぁ……ぁぁぁぁぁぁ……」 迷いこむようにふらりと現れたのは、一本の針金みたいな男だった。 「どうすんだぁ……この腹ぁ……ぁぁぁぁぁ……このままじゃ死ぬぞおい……腹減り過ぎでよぉ…………」 ひょろりと長いモデル体型だが華やかさはなく、脂肪どころか筋肉さえ感じられない《あおびょうたん》〈青瓢箪〉。 「……嫌ね。このへんに棲み着いた浮浪者かしら」 「あぁぁぁ……腹と背中が、ねじ切れそうだぁ……」 三日坊主の絶食。といった感じ。 雑食性の鋭い目つきは危険に光っている。 「(絡まれたら面倒ね。弱すぎて、撫でただけで殺してしまいそう……)」 「おお――――満たせそうなのがいるじゃねぇか……ちっと物足りねぇが、我慢するか……」 「…………はぁ……」 見つかった。一人ならこの場を離れればいいが、優真がもどって来た時に文句を言われるのは癪だ。 しかしこういった輩――――最低限の資本となる身体がありながらフラフラしてる奴は、世の中の癌だ。 「舐めれば味がある酒瓶と食べかけのきゅうりがあるから、恵んであげるわ。物を漁るなら繁華街あたりがオススメよ?」 「………………あぁ? 酒……きゅうり……」 浮浪者はそれらをつまんで見比べたあと、パッと指を放す。 空の酒瓶は転がり、きゅうりは土にまみれた。 「どっちも喰うには不向きなカタチだ」 わたしは生産者ではないので、物を粗末にされたくらいで心を動かしたりはしない。蜂蜜揚げパンなら別だけど。 「やっぱ喰い物ってのは、こう――――両手で握って、口を開けて、骨までしゃぶれるような、がっつりした肉じゃねぇと」 「つっても、《・・・》〈あの肉〉に比べたら、何もかも残飯以下か……」 瞳を見ればわかる。 浮浪者は標的をわたしに絞った。 口で言っても聞かないくらい、決定的に。 「こんな時間、こんな場所、こんな美少女……絶好の条件。襲いたくなる気持ちもわかるわ。チャンスだものね」 「あーツイてるな。うるせェのは粋が良い証拠、悪くないディナーにありつけそうだ」 「女が相手なら体格差でねじ伏せられる……あなたはそう考え、弱い者いじめをしているんだから、わたしが同じ事をしても、文句は言わないでね?」 まぁ、物理的に言えなくなるけど。 前歯をごっそり折れば、まともに口は利けない。 大丈夫、死にはしない。ほんの僅かな不自由だ。 「…………あぁぁ……? 二匹目かぁ……?」 「あちゃー! なんてこった。浮気? 浮気っていうか、リノン彼氏持ちだったの!?」 やっと戻ってきた。 遊んであげようと思ってたけど、優真に任せよう。 わたしは少し、やりすぎる節がある。 「馬鹿言ってないで追い払ってくれる? 絡まれてるのよ。わたしが相手をしたら骨折くらいじゃ済まないから」 「あ、そういうこと。了解」 「放し飼いの、きったねぇ、犬っころ共が、結託かぁ? ソレ、結託ってヤツだよなぁ」 「え? ただのポイント稼ぎだよ」 「っていうか……もしかして、車にハネられた人……?」 「ああ?」 「いや……人違い、だよな」 「いいぜ、いいよ、二匹ともでいいよ……ああ、いいよいいよっ、喰らってやるよッ!!」 「ちょっと待って、喧嘩したいってことでいいんだよね? だったら俺一人で充分だよ。女の子の出る幕は、ない」 空腹で殺気立って大きく出ているけど、相手は針金みたいにひょろひょろの物漁り。 優真は学生ながらに過酷な仕事に従事し、バランスの良いしなやかな筋肉をつけている。 「(差は一目瞭然。もし“《デュナミス》〈異能〉”を出すようだったら止めればいいわね)」 なんていう落ち着き払った思考をひっくり返すような唐突さで――――それは起こった。 「ッッッ!?!?」 「ッッッ!?!?」 「ッッッ!?!?」 最初に飛び込んできたのは、網膜に直接働きかける有害な光だった。 そして次に――――がつん、と。来た。 後頭部を打ち砕かれるような一撃。 反射的に頭を押さえてしまうほどの圧迫。 奈落の底に誘われるような、急激な落下感。 「なっ――――ぐ……ッッッ!」 「な、何だ……こりゃあぁ…………?」 流れこんでくる情報の渦に翻弄されるしかないのは、2人も同じようだった。 「(“《フール》〈稀ビト〉”による広範囲の攻撃……!? 浮浪者に油断した……警戒するべき相手は他にいたっていうの……?)」 強烈な頭痛。脳を直接、《マンリキ》〈板と板〉に挟まれてゆっくりと押し潰されるような、最低の感覚だ。 「(周囲に人の気配はない……? どういうこと……なら、これは一体……ッッッ)」 心臓が早鐘を打つ。 来る――――思うと同時、またしても光が飛び込んできた。 「暗く、儚く、焼け爛れるほど凍える――――」 「胸が締め付けられるほどに込み上げてくる懐かしさ――――」 「……関係ねぇ……俺は、こんなもん……知らねぇッッ!!」 光ではなく、明確な光景だった。 容赦なく飛び込んできたそれを拒絶する術はなく、動悸は激しさを増していく。 「ヅッッ――――ハッ――――ふぅ――――ふぅ――――」 「あぁぁぁぁぁぁ!? なんなんだよっ!!? こんなのは初めてだ、なんだッッ! あぁあぁぁぁぁぁ耐えらんねぇぞ、クソがぁぁぁッッッ!?」 得体の知れない動悸に悩まされているのは、やはり2人も同じらしい。 「――――チィ!!」 謎の共鳴、共有は、収束を始めた。 想像以上に俊敏な動きで浮浪者が離脱するのと同時だった。 「……ふー……ふー……」 「はぁ……はぁ……り、リノン!?」 優真がうるさかった。 そんなに騒がれたら、治まる頭痛も治まらない。 「――――――――――――ッ」 再び訪れる、この落下感。 正体不明の感覚が再びわたしの背中を押す。 深い深い、谷の底へと――――。 「――リノン!?」 長身の男がいなくなると、俺の頭痛も和らいでいった。 自分の事よりも、依然として様子のおかしいリノンが心配だった。 瞳孔が開き、過呼吸気味に全身を震わせている。 「リノン、ひとまず座って落ち着こう。こっちへ」 「……………………」 介抱しようと近づいた俺を、リノンはするりと躱す。 シャツを巻き込むように握りこまれた。 「なっ――――」 ――――いきなり宙に浮いていた。 どこまでも吹き飛んでしまいそうな俺を受け止めたのは電灯だった。 「……いてぇ…………いきなり何するんだよ……」 死ぬほどじゃないけど、物のような扱いを受けたことに驚いた。 ぎょっとする。 放棄されたガラス片を手に、リノンは冷笑を浮かべていた。 「!?」 危険を察知し、飛び退る。 俺が何をしようが無駄とでも言うようにリノンが前傾姿勢を取る。 一瞬の間、音速で接近したリノンが、俺の首を狙う。 「ッッッ――――!」 「……リノン?」 「あぁ……そうか……だから起きたのか……」 リノンは手中のガラス片を見て、すぐに捨てた。 「リノン、なんで俺を攻撃するんだよ」 「恐れていた事態が現実のものに、か。やれやれだぜ……」 「“だぜ”……ってことは、トリトナ?」 「っていうか、マジにそうなのか。どんな複雑怪奇な経緯か気になるが、調べてる暇なんかあるわけねぇな」 「本物か、あるいは紛いもんか、似たようなもんか――――何にせよ、お別れだな」 「何の話をしてるの。もしかして今のってトリトナがやったことなの?」 「じゃあな」 「――――待ってよ!」 「――――!?」 俺の呼びかけに応じたのか、踵を返した体勢のまま足の裏が張り付いたように微動だにしなくなった。 「絶対服従ってわけか。あん時と変わんねーな。私様の考えが間違っちゃいないって裏付けにはなるがな」 「服従……?」 「チッ……気づかれたが、効果時間が短いのが救いだぜ」 トリトナは指の関節を凍傷に掛かったかのようにぎこちなく動かしている。 踏み出す足の一歩も重たそうで、リハビリ中の患者のようだった。 「……俺はそういうのは好きじゃない。誰も確かめないなら俺がやる。どうなんだ、Re:non様!」 「当たりは、《・・・・・・》〈入っているわ〉」 「俺に誓ってか?」 「もう一度だけ言うわ。よく聞きなさい」 「当たりは、《・・・・・・・》〈入っていないわ〉」 ふっ、と――――よぎる思い。 「う、うるさいっ、飲めよっ! 暴力を振るう……ぞ……?」 「嫌よ」 「あれれ?」 「はい」 いつだってリノンは吐き出す言葉に反して、俺の“命令”に対して従順だった。 俺の“言い付け”に従う事の理由は、なんでもいい。 例えば知らぬ間に催眠的能力が備わったとかでも。 例えば強く出られると弱いリノンの性癖とかでも。 大事なのは、その弱点をついてでも逃げ去ろうとするトリトナを止めて、殺傷可能な一撃を放った理由を聞くことだ。 「“動くな、トリトナ”」 「動くなって言われて動かない馬鹿が……ここにいるってわけだな、クソがぁ」 ……やっぱりか。 「俺の言葉には君たちを拘束する力があるんだね」 「ねぇよ、ンなもん。夢見てんじゃねーか? 私様はトイレに行きたいだけなんだぜ」 「トリトナがどうして俺を襲ったのかを教えてくれたら、すぐにでも解放するよ」 「ノーコメント」 「俺は知らなきゃならない。つい今しがた俺を殺そうとした癖に、今は逃げようとしているトリトナの真意をね」 「遊び半分で殺したくなっちゃっただけだぜ」 「そんないい加減で危険なだけの人なら、俺はトリトナと仲良く飲んだりしてない」 「…………」 「何か重大な隠し事があるんだろう……? そいつを俺に話してくれよ。俺は君とリノンの力になりたいだけなんだ」 「……黙れよ」 トリトナは解決しなければいけない問題を一人で抱え込もうとしている。 これだけは間違いない。 「悪いけど、“命令”させてもらうよ……」 「おい、本気だな? 本気なんだな?」 「え?」 「なら先手を打たせてもらうぜ」 覚悟や意志力は磨かれると殺意と同じく、他者を威圧するだけの脅威になる。 前方から感じる覚悟――――トリトナを取り巻く空気の変質は、その域に達していた。 氷枕に当てたように頭が冷える。 血の気が引く、とは言い得て妙だ。 「(《ヤ》〈殺〉る気か――――?)」 思い、身構える。身に覚えのない攻撃を真正面から受ける気はない。 トリトナに何をされるのかは不明だが、口を封じられる前に“命令”してしまえばいい。 「“命令”だ、トリトナ――――」 「情けない奴――自分のモンでもねぇ強みにすがってんじゃねーぜ」 目にも留まらぬ早技が側頭部を強打した。 「………………な、何を……」 《・・・・・・・・・・・・・・・・・》〈いくら身構えても意味を成さない一撃〉だった。 「驚くような事は何もないんだぜ? 優の字が“命令”するより早く口を封じるなんか、私様にだってできやしねぇ」 何故ならば、その一撃は―――― 「だからって――――《・・・・・》〈自分の鼓膜〉を破壊するなんて、どうかしてる!?」 「ハハッ、相手をヤるより自分をヤるほうが、距離的に楽じゃん」 罠に嵌めた捕食者のような嘲笑。 「効果も抜群。追い込まれた時は、姑息くらいが丁度いい」 ツツーーッ、と。 トリトナの耳孔から流れ垂れる鮮血。 戦慄するには充分過ぎる突飛な行動だった。 「手当をするよ。話を聞くのはそれからにしてあげる」 「おいおい、たかだか片耳だぜ? 動揺せずに“命令”してれば、私様は聞かざるを得なかったってのにな」 確かに――――片耳は生きているし、“《イデア》〈幻ビト〉”の回復力なら治るのも早いだろう。 行動の意味が牽制だということは充分に理解できた、理解できても……俺は“命令”に踏み切れなかった。 「もちろん、もう無理だぜ。次に“命令”する気配を見せてみろ、もう片耳もぶっ壊してやる」 「したら“命令”は聴こえない――――詰みだなぁ優の字ぃ」 「くっ……」 「安心しろよ、一時的なもんだ。このくらいで聴力が完全にオシャカになるようなヤツは超最強なんかじゃないぜ」 「…………そっか……」 「自分より相手が傷つくのを恐れるタイプには、こういうのが一番利くんだ」 トリトナはちろりと歯の隙間から舌を出す。 いつでも舌を噛み切れるという、無言のアピールだろう。 一方的にイニシアチブを取られっぱなしだ。 「正直、幻滅した」 だからまずは、素直な感想をぶつけた。 「君は身体をリノンと共有してるのに、自分を傷つける事の意味をまるで理解してない」 「――――リノンの何を知ってるつもりだ?」 トリトナは目を剥き、牙を向いた。 触れちゃいけない部分に触れられた者の表情だった。 「オメェは自分のしようとしたことが、私様以上にリノンを苦しめるってわかってないぜ」 「わかってないとしても、トリトナが全て正しいとは、とても思えない」 「あたりめぇだ。こんな酔っぱらいが正しいワケねぇだろ?」 「………………」 俺に止める手立てがなくなったのを知ったはずのトリトナは、けれど立ち去ろうとしなかった。 「行かないの?」 「名前通りの生優しいヤツに教えといてやる。オンナってイキモノはな、欲張りなんだぜ」 「優位を悟られたら、つけこまれる。骨までしゃぶられる。覚えておきな、オンナは怖いぜ?」 強かな人だ。 形成が逆転したと見ては、すぐさま逃げる必要がなくなったらしい。 「私様からの要求だ。もうリノンに関わるな。関わったら、今度は耳だけじゃない――――腕の一本や二本、へし折る。オメェの目の前でな」 「できないよ。君は、リノンが好きだ。耳だって、止む無くやったことだろう」 「できるさ。オメェに付き纏われるよりかは、複雑骨折の方が断然マシだぜ」 仲良く飲んでいたはずの相手と真剣な駆け引きしている。 「向いてないから、博打はやらないんだけどね」 ため息をつく。 俺は耳から血を流すトリトナを一直線に見つめながら、自らの右手の指をまとめて握った。 「引くに引けない賭けなら、同じ土俵に立つしかないよな」 「――――!?!?」 ゴキポキベキバキ。 自らの手を捻り折ると、馬鹿みたいに汗が出てきた。 深呼吸をして、次の段取りに移る。 「お、おい――――」 俺は地面に手のひらを密着させて、良く伸びた肘の関節めがけてもう片方の腕を振り下ろした。 「ッッッ……!!」 関節技のような効率的な折り方とは違い、肉を割って飛び出すような複雑骨折になった。 「………………」 「ははっ、はははっ……やっぱりね」 笑った。笑うしかなかった。 トリトナが口をポカンと開けて動揺してるから。 頭が真っ白になったように、不思議そうに見ているから。 「トリトナが自傷に走ったのは――――自分もそうだからって考えに基づいてやったんだろ?」 「どんなに俺を分析したって、自分も同じ立場でなければ踏み切れない行為のはずなんだ」 「トリトナが俺を気に入ってくれてるなら――――困ると思ったんだ。俺が俺を傷つけたら、動揺すると思った」 「正解でしょ」 「――そ、そんなわけないだろうがっ! 指を粉々にして、肘から骨、顔出させて、何がしたい? 頭が湧いてるんじゃないか!?」 「優しいのは、君の方だ。君は、俺が俺を傷つける事に揺れている。もちろん、リノンを傷つけることにも罪悪を感じている」 「次は左腕だ――――さぁ困れ」 「やってみろ。私様も、リノンの左腕を折る」 「だったら俺は、俺の両目を潰す」 「だったら私様も――――――――」 ――――なんだろう、この状況。 口論? 違う。 意地と意地の張り合い。 れっきとした決闘だ。 馬鹿なのに真面目で。 馬鹿なりの消耗戦で。 馬鹿だから一直線で。 通りすがりの人が見ても理解できない頭の沸いたやり取りだとしても、命賭けならば決闘だ。 そして譲れない物を取り合って争う事のスタンダードが相手を打ち負かす事である以上、俺達は立派に異常だった。 お互いの要求を飲ませるために自らの身体を犠牲にし合う――――思いやりにあふれたトリトナとしか成立し得ないだろう。 「――――もういい。このやり取りは不毛だぜ」 結果的に手打ちを申し込まれた時、トリトナは片耳から血を流し、俺の腕の骨が皮膚から飛び出すという状況は悪化していなかった。 口だけではなく、どちらか一方が実行に移した途端、際限なく自分自身を滅ぼしていただろう。 「まぁ、平行線になるよね。相手が傷つくことを恐れる2人の戦いなんてさ」 「黙れ。私様は優の字がどうなろうが知ったこっちゃないぜ」 「嘘だよ。トリトナは、リノンも俺も、大好きなんだろ。本当に、ムチャクチャいい奴だね」 「チッ……だったらオメェが“いい奴”って認めた私様を信じて、引き下がってくれよ……」 あっさりとした“お願い”だったが、トリトナにしては滅多に見せない態度だった。 「もう私様たちに関わるな。でないと――――お互いに泣きをみるぜ」 「あ、トリトナ――――!?」 くるりと踵を返した後は、凄まじい跳躍力で地面を一蹴り。 たったそれだけで、トリトナは月に届きそうなほど跳んだ。 「俺は図々しいから、絶対に諦めないぞー!」 「嫌って言っても追っ掛け回して、手伝ってやるー!! 2人の力になってやるしっ、ココロの事を手伝ってもらうからなーっ!!」 声が届いたかはわからないけど、心配はあまりしていなかった。 「なんかすっきりしたな」 あんなにいい奴が間違いを起こすとは思えない。 トリトナさえしっかりしていれば、問題は起きないだろう。 とはいえ――――気がかりはある。 「(あの頭痛……あの光景……あれが起きてから、リノンの様子がおかしくなった)」 トリトナは何かを隠している。 明かさないのは、現状でそれがベストだと思っているからだろう。 「次に会った時こそは、全部聞かせてもらおう」 「いツツ……派手に骨が出てる、なぁ……ははっ」 ひとまず――――右腕がヤバいなぁ。 ま、なるちゃんとの“《エンゲージ》〈契約〉”にあやかって治せるからいいか。 マナー違反だけど、持てないので空の酒瓶は放置。 つまみだけは腐るから持ち帰ろう。 宴会で散らかった公園を片付けるのは今度だ。 「ただいまー。あー、事務所の空気最高~」 「おかえりなさい。和食にする? 洋食にする? それとも、ちゅ・う・か?」 「食いしん坊だなぁ。全部作ってあげるよ。あーでも、鍋振りはちょっとキツいかな」 「優真くん、何か白いのはみ出してるわよ?」 「あーうん。この白いの? 恥ずかしいな……ははっ」 「なにそれ? 気になるわ」 「えっとね……あー恥ずかしい……これね……骨♪」 「やっぱり骨なんだー。グローい。どんな遊びしてきたの? ねぇどんな遊びー? あははは♪」 「あははははっ♪ これがホントの骨折り損ってやつかなー」 「はぁ!? 笑えないわよっ」 「ご、ごめんなさい」 「何やってるのよっ!!? 危ない事に首突っ込んだなら言わなきゃ!! さっさとこっちにきて、手当するからっ!!」 「ごめんなさい……」 やっぱり怒られた。 「ムチャばっかりして……正規の“《エンゲージ》〈契約〉”を結んだ“《フール》〈稀ビト”って言っても、不死身じゃないって言った〉でしょ」 「俺も痛いのはなるべくごめんだよ」 消毒を済ませた後で包帯でぐるぐる巻にしてもらった。 骨が顔を出すほどの骨折なので、消毒中は尋常じゃない痛みに吼えまくった。 「一体なにがあったの?」 「なにもなかったよ、自分で折ったんだ」 「隠し事はダメよ」 でも本当に自分で折ったからなぁ。 リノンとトリトナに関して伝えたら、なるは殴りこみに行きかねないし……。 「本当に自分で馬鹿やって折ったんだよ。ちょっと、顔赤いでしょ?」 「……お酒?」 「たまにはね」 「不良め。派手にコケて自業自得ってことにしといてあげるわ」 「うん」 「今日はずっと私と一緒。絶対安静。そうすれば骨くらいくっつくわ」 「お風呂も?」 「お風呂は禁止。染みるなんてもんじゃないわよ?」 「じゃあ身体を濡れタオルで拭いてくれたりなんかしてくれちゃったり」 「して欲しいの?」 本当にされても困るので、曖昧に首を横に振った。 「ベッドは……優真くん次第かしら? 私は別に……優真くんが良ければ、添い寝してあげてもいいわ」 「あはは、良かった」 「何が? 大事がなくって?」 「そっちじゃなくって――――ああ、まぁそっちもだけど」 「こうやって、なるちゃんの側にいる口実ができて、良かったなって」 なるの隣に座っておしゃべりできるのは幸せだ。 こういうあたりまえの幸福に“慣れ”はない。 毎回、噛み締めるほどに満ち足りた気持ちになる。 「あうっ……うっ、ううっ!! 傭兵時代に骸骨城の墓荒らしを討伐した記憶がぁぁ……!!」 「なんかさ……なるちゃんとこうしてると、安心するんだ」 立ち上がって逃げようとするなるの手を握り、肩に頭を載せる。 「ひにゃ!?」 「ヤバい。なるちゃんの匂い、超落ち着く……もうここ、天国でいいよ」 「あっ、あわわわっ、わーーーーッ!!」 俺を突き飛ばしたなるは、クッションに思いっきりダイブした。 クッションに顔を埋めたままジタバタとのたうち回りだす。 「ぎゃーーーーーーっ♪♪ うざいうざいうざいうざいうざいぃぃいぃいいぃぃぃぃぃいぃぃ~~~~~♪♪♪」 「あー……あー……優真くんのウザさを表す文章を考えたけど、やめとこ……まだ私の文章力じゃ完璧に表せられてない……」 「お、ベストな角度! なるちゃんの下着鑑賞会場はここか」 「やめろよ~ぅ♪ おまえうざいぞ~ぅ♪♪」 「痛ぇぇぇぇぇぇっ!! 折れてるからっ、アッ――――!!」 「こいつめっ、こいつめっ♪ ちくしょーっ、女垂らしっ♪」 包帯の上からクッションでバシバシ打たれる。 剥き出しの神経を刺激されるのは飛び跳ねるくらい痛かった。 「ぜ、絶対安静って言ったのはなるちゃんじゃないっすか……」 「ああっ、ごめん。つい、嬉しくって……」 なるは俺に距離を詰められると大抵、こんな反応をする。 「私……優真くんなら、ケガなんてしなくっても、いつでも受け入れてあげるわよ?」 「あぁ……かわいいなぁ、なるちゃん」 「なっ!?」 「おっと、心の声が漏れてた……」 「うぅぅ……ややうざ……♪」 うざいの本来の意味ってなんだったっけ。 なんて思うと――――一個思い出した。 「なるちゃんにお願いがあるんだけど、いいかな?」 「変態過ぎなければ頷いてあげる」 「腕が動かない俺の代わりにお尻を触って欲しいんだけど」 「アホかーっ!!」 「ホント、お願いっ! ちょっとでいいから! あ、左のお尻がいいです。左を触られたい気分」 「思い出したわ。優真くんはこういう人だった。諦めるわ」 当然の反応だけど、まぁ仕方がない。 げんなりと肩を落とすなるに、触れやすいように後ろを向く。 「あれ……? お尻のポケット硬い……なにこれ」 「取り出してみて」 ちょっとシュールな光景。 抜き出した物を手にしたなるは、その場で硬直した。 「…………」 「温めておきました――――なんてね。色々あって、買ったまま忘れてた」 万年筆――――リノンに差し入れを買う時、一緒に駅地下で包んでもらっておいたものだ。 「これ、私に……?」 「いつも頑張ってる、なるちゃんに」 「ありがとう。開けてもいい?」 「いいよ」 変にはしゃぐでもなく、けれどしっかりと笑みを浮かべて丁寧にパッケージを外していく。 「すごくいい……」 無意識に出したような感想が、俺にとってはたまらなく嬉しい。 なるは付属の商品説明書を取り出し、指と目で文字を追っていく。 「一位の木……縁起物を《ボディ》〈軸材〉に使ってるんだ。指に馴染みそう……ペン先はやわらかめね。慣れるまで、ちょっと掛かるかしら」 「なんとなく、なるには木軸の万年筆が合うかなって。使い込むと光沢を増すんだってさ。長く使えば、使うほどにね」 「嬉しい」 なるはただ瞳を光らせて、言葉少なに、つぶやいた。 値段も聞かないし、贈る理由も聞いてはこない。 ただ、感謝の気持ちみたいなものは、伝わった。 プレゼントに対する反応は、本来そのくらいでいい。 ただ喜んでもらいたいから、何かしてあげたいから、一方的にしているだけだから。 俺のその気持ちを、なるはわかってくれたから、大袈裟な態度は取らなかったのかもしれない。 「この万年筆は落とさない。ううん、もし落とすようなことがあっても必ず見つけるわ」 祈るように、大事そうに両手で包んで、胸に押し当てる。 さながら、想い人に贈られた結婚指輪みたいに。 この姿を見られただけで、本当にごちそうさまだ。 「作家さんが《ペン》〈武器〉無しじゃ戦えないでしょ? 気が済むまで書きまくって。俺には応援するくらいしか、できないから」 「クッフッフ。私に使われて良かったって思われるくらい、使い込んであげるわ」 喜んでもらえてなにより。自然と俺も笑顔になった。 「うーん……いいフォルム。後で書き味を試さなきゃ。へへぇ♪♪」 「デレデレでだらしないよー?」 「キリッ♪」 なるはしばらくの間、知恵の輪に没頭するこどもように万年筆をいじくり回していた。 「そうだ。今日子さん、今日は遅いみたいだよ」 「え!?」 「どうしたの大きな声だして」 「そ、それってつまり、2人っきりだから私にえっちな悪戯したいって意味かしら……?」 「なるちゃんの嫌がる事はしないってば」 「私が嫌じゃなかったら、しちゃう……?」 「はいはい。レトルト食品の買い置きがあるから、簡単なご飯でよければ作るよ」 「むぅーん、スルーさ・れ・た。その上、夕飯は刑務所みたいな、ご・は・ん」 「なるちゃんのパンツをおかずにご飯3杯は余裕だよなぁ」 「本気か冗談かわからないこと言わないでっ!?」 「私、今、最高に書けてる。キャラに成り切らずとも、のめり込まずとも、物語が映像として飛び込んでくる」 「フレーーーー! フレーーーーー! なーるーちゃん!!」 「視えているものを文字に書き出すだけ――――まるで機械。工場仕事もしくは書記に等しい、単純作業だわっ!」 「ガンバレガンバレなーるちゃん! ガンバレガンバレなーるちゃん!!」 「I Can Story!!」 ご飯を食べ終わってから、なるの集中力はうなぎのぼりだった。 側にいないと自然治癒速度が下がるので、俺も近くで応援に徹している。 「う、くっ、くぅぅ…………候補数が……ッ! 氾濫した語彙の流れに飲み込まれて、逆に言葉選びが難しい……ッ!!」 「瞳の“輝き”を筆頭に――――“光彩”“光沢”“煌めき”“威光”“ともしび”“微光”。パッと浮かぶ、浮かび過ぎて飲まれてしまう……ッ!!」 「姫の光と影、明と暗、陰と陽、表と裏、正と負、虚と実――――脳内モルヒネがどっぱどぱだわっ!」 「分泌されて困らないホルモンだといいけど」 「や、や、ヤバいわ……こ・わ・い……自分の才能に潰される……空白の原稿用紙を見ると呼吸が苦しい……ふ、ふふふ」 「さすがにちょっと休んだら? 目の血走り方が無人島漂流5日目で仲間を裏切る人みたいになってるよ」 「書ける時に書かないともったいないって気持ち、多分わかんないわよね?」 「作家にとって執筆に掛ける時間は何ものにも代えがたく、僅かでも損なう事は許されないのよ」 苦痛の連続からでしか名作は生まれないものなのだろうか。 「クフフ……死期が近い……か……」 「頭をフル回転させてるから知恵熱が出てるだけでしょ?」 「物語は完結がひとつの到達点。巡り巡る血潮に賭けて、最終回までは死ねぬのだよ……」 「物語のキャラを大事にするのもいいけどさ――――」 「目の前の美少女の辛い顔を消してあげることは、誠に勝手ながら俺の中で最優先事項なんだよね」 「ハッ!?」 「ジッとしてなよお嬢ちゃん。可愛すぎる顔に傷がつくぜ」 よし。 ゆるからず、きつからず。 うまく結べた。 「ここは、暗黒空間……? とうとう闇さえも私の才能に嫉妬したというの……?」 「なまじ見えてるから雑念が入ると思ってね、こういうのもアリなんじゃない?」 「みーえーなーいー」 「できるさっ! なるちゃんなら見えなくても“音”を頼りに執筆可能だよっ!」 「確かに……覚醒しすぎたせいか、視えなくていい物まで見ていた気がする。盲点だったわ」 万年筆を握った手が落ち着きなく宙を泳ぐ。 「って、原稿用紙から“音”なんて一切感じ取れないわよっ!?」 「それじゃあしょうがない。珈琲淹れて1時間くらい休憩にしようか?」 頑張りすぎは身体に毒だ。 ちょっと可哀想な気もするけど、俺は作品よりなるちゃんの体調が心配だ。 「何をバカな事を。本物の作家はね、“目”を奪われたくらいじゃ執筆をやめないのよ」 「作家が書かなくなる瞬間は、ペンと心が折れた時だけ」 「ホントかなぁ?」 ――――つん。 「あっ……」 腕を伸ばしてなるのわきをつつくと、身をよじらせて甘い声を吐き出した。 めったに聴けない純度100%濁りなしの乙女な反応が俺を妙ちくりんな気持ちにさせる。 「ゆ・う・ま・君!?」 「ペンと心が折れちゃった?」 「折れてません。書くわよ、書き続けるわよ」 目隠し美少女は再び万年筆を手に、自分の世界へダイブしようとする。 「………………」 「(うーん、それにしても、綺麗なうなじをしていらっしゃる)」 首から肩にかけて産毛一つない。 こういうの処理とかしなくても、自然と綺麗なのかな。 見てるだけで触りたくなってくる芸術的なうなじだ。 「(っていうか触ろう!)」 そろーり。手のひらを近づける。 「――――!?」 なるは手を伸ばす気配や、空気の乱れから伝わる僅かな“音”に過敏に反応した。 だが、触れるか触れないかの際どいラインで俺は手を引いた。 「ぐぬぬ、フェイントとは卑怯な……」 「何のことかなー?」 「応援してくれるなんて嘘っぱちじゃないっ! 書きにくいったらありゃしないわっ!」 「家族とのスキンシップは何よりも優先されるのです」 「私に目隠しして悪戯するのが、単純に楽しくなってきちゃっただけでしょ?」 「なるちゃんと一緒にすることは何でも楽しいよ」 「もう、いたずらっ子なんだから……邪魔しないで欲しいわ……」 「こういうのは嫌?」 「……優真くんがセクハラするのはコミニケーションの一つであって、リビドー任せじゃないから嫌いじゃないわ」 「本当に“そういうこと”をしたいだけの人だったら、私の方から迫った時に拒んだりしないもん」 「不器用なもんで……」 「でも、言わせるあたりが嫌。バカ」 言いつつも、なるの顔は真っ赤で。 しかもペンは彷徨うばかりで書く気配がなくて。 まるで俺の悪戯を今か今かと待っているよう。 「…………っ……っ…………」 俺は、ぼけ~っと見てるだけで何にもしていないのに、頻繁に首を動かして何かされないかと警戒している。 「………………~~~っ……」 そうして何にもしないでいると、なるは焦れて来たらしい。 次にされる悪戯の事で頭がいっぱいらしく、さっきから一文字も書けていなかった。 「(なるほど。これがバラシィの言ってた焦らしプレイとかいうヤツか。ムチャクチャ効果的なんだなぁ)」 “~~プレイ”と名のつくものは総じてエロい事だ。 つまり今、俺はなるとエロい事をしているわけで……。 考えるとちょっとイケナイ気分になってきた。 「……っ……っ……っ」 次第に我慢ができなくなったのか、悪戯されたくて堪らないというふうにそわそわしだす。 俺は次に取るべき行動を決め、ゆっくりとなるの前に回り込んだ。 その動きを受けたなるは弾かれるように気配の先に顔を向け『何かされる!』という期待と不安を滲ませる。 俺の真正面に鎮座するのは大きな胸。 そして深くくっきりとした谷間。 こんなに可愛いのに、可愛いだけじゃなくって身体も大人。 「…………ゆ、優真くん……」 おあずけや生殺しに近い感覚は、結局“触られる”という終着点への期待感の増幅につながっていく。 我慢の限界なのか、何もしない俺への不安が限界に達したのか、渇いた喉で名前を呼ぶ。 俺の返答は言葉ではなく、軽く吸った息で―――― 「ふーーー」 「んゅっ!?」 麗しのおっぱい渓谷に風を吹かせることだった。 「はぁ……ふっ……んふぅ……」 なるは胸を押さえてぷるぷると震え、耳まで真っ赤に染め上げた。 「あははっ、ごめん。やりすぎちゃったね。もうこのくらいにしよっか」 「もう……終わりにしちゃうの……?」 なるは股をこすり合わせるようにもじもじさせている。 女の子としての準備が整ったような熱っぽい息を何度も何度も吐き出して、続きをうながすように前のめりになる。 「(今ならパンツ見放題……)」 「おしまい。コレ以上は問題だしね。かわいい子に悪戯したくなるのは男の性だから、ごめんね」 「その……問題っていうのは……ちゃんとベッドの上なら、解消されること?」 「え、えっと……」 なるをベッドに誘って、触り合うなんていう夢みたいな時間――――昨日の今日でそれやっちゃったら……。 いやいやいやっ。ダメだ。理性が持たない。 「腕がほら、もうくっついて来ちゃったけど、アレだしね。数時間前に複雑骨折したばっかりだしね?」 「もっと近くにいれば治るのも早いわ」 「悪戯が過ぎたのは謝るよ」 「優真くんが家族に対してできる範囲ってどこまで?」 「いや……だからさ……」 「ねぇ……どこまでなら、シてくれるのかしら……?」 う、うう。まずい。いつものパターンだ。 なるが可愛いので調子に乗って悪戯していたら、後戻りできない空気になってしまうという、いつものヤツ。 「………………」 なるが返答を求めるように小首を上げると、濡れた唇がついと上向く。 「こんな気分のまま執筆に戻ったら、官能小説になっちゃう……誰の責任かわかってる?」 「……俺だって言いたいの?」 「~~~ッ」 撫でるような手つきで頬に触れる。 ぷにぷにで、熱くって、指を少し下げれば“リーディング”の時のように、しゃぶってくれそうで……。 「なるちゃん……」 「優真くん……」 要するに、非常に後戻りが不可能になってきたわけで……。 でも、結衣の妄想に一区切りを付けてしまった今、一度走りだしてしまったらブレーキは利かないわけで……。 「GAOOOOOOOOOOOOOOOOO!!」 「わっ!?」 「ど、どッか行こぉかァ!?」 蕩けそうな空気を打開しようと強引に話題を変えようとした結果、おかしな抑揚の声が出てしまった。 「そ、そうね……筆も全然、進まなくなっちゃったし……」 胸を押さえて詰まった声を出すなるの瞳は、まだ何かを求めていた。 「どっかって、どこかしら? 優真くんと一緒なら、どこでも、いいけど……人のいないところが、いいかなぁ……」 名残惜しそうな上目遣いに心拍数が急上昇する。 「………………」 「ぅぐ……」 近い近い! デカイデカイ! 可愛い可愛い! シャツの裾をつかんで、なにか言いたげな表情。 これ以上、例え1秒でもその可愛すぎる仕草を見ていたら、短絡的な行動を取ってしまう確信があった。 「こ、この時間だと、落ち着ける場所がいいかな」 ヘタレの俺は目を逸らし、家族の枠を飛び出さないように努めた。 「候補は昼に一緒に行った“《ナイトメアゾーン》〈闇支配者の聖域〉”と、街を一望できる高台と、あとは……」 あ――――妙案が浮かび、ピンクな気分が吹き飛んだ。 「風霧山と吉咲山の作る稜線の向こうに興味ない?」 「私と?」 「行けるところまで」 「か、駆・け・落・ち?」 「山登り。朝日が昇る瞬間、うわぁ生きてる! って全身で感じるんだ。凄い気持ちいいよ」 「私はともかく、夜の山って真っ暗じゃないかしら? その身体で平気?」 「いざとなったら、なるちゃんにおんぶさせてあげる」 「こうなってくると、優真くんの老後の介護も家族になった義務かしら……」 「二駅先から登山コースに入るのが理想的かな。終電、ギリギリだから急いで支度しなきゃ」 「明日も朝から学園よね? お仕事だって、いつ入るともわからないんじゃないかしら?」 「なるちゃん。明日の事は?」 「明日考えれば、いい!」 「そういうことっ!」 いつの間にか男と女の意識は薄れ、家族としての俺たちを取り戻していた。 「異変が起きています」 まだ若い――――働き盛りの三十代といったスーツ姿の男は正確に唇を動かして発声した。 「続けなさい」 久遠にうながされた男は瞳で返事をする。 両者の共通点は、年齢以上の深みを感じる円熟感だった。 「湾岸エリアの公衆電話で発見された炭化死体は記憶に新しいはずです」 「“《パラレルアウト》〈境界の歪〉”から漏れだす瘴気は常駐している“《ゲートキーパー》〈扉の護り手”が抑えていますが、何らかのトラブルが発生したのでしょう」 「抑えさせているの間違いだろう」 「人為的な殺害の可能性も捨てきれないはずだ」 「一週間ほど前、“《パラレルアウト》〈境界の歪〉”に急激な開きが観測されたのは間違いありません」 「日を追う毎に、目に見える形での解決を急がせるほど異変は成長していっているのです」 「話はそれだけではありません。貴方に従って泳がせていた“ゼロ”の行動範囲が広がる中、監視中の“ルージュ”の報告に明らかな虚偽が見当たりました」 「管理、監視、捕獲、いくつ仕事を任せているのだ。あの面倒くさがり屋にマルチタスクがこなせるはずないだろう?」 久遠は、言葉ほど男を――――“《アーカイブスクエア》〈AS〉”を軽く見てはいない。 一人の人材に頼りきりになる事は誤った采配であり、覇権安定論を持論とする“《アーカイブスクエア》〈AS〉”にとって思考停止に等しい愚行となることは承知の上だ。 では何故か。 些細な仕事ひとつ抜き出して見ても差が歴然としているからだ。 《ひゃくにんく》〈百人駆〉分の働きに荒はあるが合格点を下回ることがなく、ルージュにしかできない特別な事も多い。 “《アーカイブスクエア》〈AS〉”のブレインが倒れるまで頭を捻っても、ルージュ無しでは“回らない”のが実情だった。 「向こう10年間の企業方針を固め、区の復興手順から公的団体との連携、果ては“《フール》〈稀ビト〉”の捕獲、研究、細かな規則にいたるまで、すべて書面に起こしマニュアル化させてもう5年」 「君達が学んだことと言えば、現役を退いた老いぼれに頼ることだけか」 「先ほども申しました通り、前代表に相談することが最善であると判断しました」 打破できない雑多の問題を抱えた“《アーカイブスクエア》〈AS〉”の秘策こそが、前代表取締役である久遠に手を借りることだった。 「一度、我が学園の学生として“自立”についての理解を深めてみるか?」 財産、地位、権力、全てにおいて久遠に勝る権力者達が“《クレアトル》〈現ビト〉”と仲良く座学に勤しむ――――肩書き泣かせの皮肉にも、男は眉一つ動かさなかった。 「代表と監査役の名誉職として復帰して頂き、指示を与えて下さい。このままでは我々の手に負えない規模の異変になる可能性があります」 「君達を喜ばせてしまうことになるが、7年前から既に手は打ってあった――――正確には準備を進めていたというべきか」 形ばかりの就任承諾書などの手続きに一切の意味を感じなかった久遠は、話の本筋を進めていく。 「“《パラレルアウト》〈境界の歪〉”の事も、“ゼロ”の行動も、気まぐれなエース格も、まったく別の厄介事でありながら、解決法は同じ」 「準備さえ怠らなければ、策を実らせるのに運は一役買って出る。それが因果性というものだよ」 「では、有力な手がかりがあるのですね」 「こんな事を言うと気味悪がられるかもしれないが、私は、ここから眺める《・・・・》〈私の銅像〉が好きなんだ」 「つい先日、一人の学生の手によって壊されてしまって、作り替えてしまったのだがね」 「我々でもわかるよう、かいつまんで話して頂けますか?」 「鈍いな。私はここで、その学生の行った《・・・・・・・・・》〈一部始終を見ていた〉と言ってるのだよ」 「わかりました」 「私の提案する3つの条件が飲めるならば、すぐにでも取り掛かるとしよう」 「1つ。私に割かれた人員は手駒として働いてもらう。必要以上の探りを入れさせないこと」 「2つ。私のすることに一切口出しをせず、黙って頷くこと」 「3つ。今すぐに集められるだけの海洋深層水を用意すること」 「海洋深層水とおっしゃいましたか?」 「報酬の前金だよ。彼女の大好物なんだ」 男は今度こそ3つ目の条件が聞き間違いではないとわかり、2つ目の条件を守るため黙って頷いた。 「君は7年前の事をどう思っている?」 「求めているのは、経済的な観点からの意見でしょうか。それとも個人的な観点からの意見でしょうか?」 「10文字以内に収まれば、どちらでも構わん」 「……“最悪”でした」 結局、短く伝えようとすれば、そうなる――――久遠は共感できる言葉に大きく頷いた。 「あんなに賑やかな夜を二度と体験したくないのは、私とて同じだ」 その言葉を最後に久遠は、世界的大企業である“《アーカイブスクエア》〈AS〉”の名誉職に返り咲いた。 懐中電灯に照らされる足元を頼りに山道を歩くこと2時間弱。 ようやく開けた場所に出て、杖代わりにしていた木の枝を放り出した。 「わー……! 綺麗……」 「でっかい湖だなぁ」 夜道のおかげでコースを間違えたらしく、稜線の向こう側というよりは、山と山の稜線の間に入り込む形になったようだ。 偶然性も含めて登山の愉しみのひとつだ、やっほー。 「ふぃー……」 座る。 「あー……楽ちーん……」 そのままごろーんして、地面に背中をつける。 結構歩いたし、休んでもバチは当たらないだろう。 「………………」 「ん――――どうかした? 俺の事、見てなかった?」 「優真くんくつろいでるから、私も目の保養中」 「え? どうして俺を見るのが保養になるの?」 優しい瞳。俺を覗きこむ。優しい笑みで。 「好きな人を見つめられるのは恋する者に平等に与えられた癒し系魔法の一つ、な・の・よ」 「じゃあ俺も、お返しになるちゃん見て目の保養に」 「そうなると……見つめ合う形になっちゃうわね……」 静ひつな世界に2人っきり。 開放感がありつつも、ちょっぴりムーディ。 「なるちゃんもごろーんしなよ。立ったままだと、いつパンツが見えてもおかしくないよ」 「次に覗いたらスパッツ着用義務を自らに課すわ」 「全国のなるちゃんファンを泣かせる気!?」 なるはムッとした顔でスカートを押さえたが、笑顔で隣を促し続けると根負けして素直に横になった。 「ここの眺めも、いいなぁ。絶景じゃないんだけどさ、飾らない自然さが、すっごくいい」 「うん。普通にのどかで気取ってない景色って、長い目で見ると一番おもしろい景色だと想うわ。澄んだ空気と風の音も癒されるわ」 「月明かりが湖に反射すると結構、明るいんだね」 天然の照明は薄暗いというより、ブラックライトのような神秘性を孕んでいる。 ほのかに周囲がうかがえてちょうどいい。 「そこかしこに人の手が加えられた都会に身を置いてると、余計に懐かしく感じちゃうわ」 「懐かしい?」 「広大な自然の中で暮らしてきたからね」 なるの生まれ故郷は豊かな自然に囲まれた場所らしく、似た匂いのする空間に落ち着きを示していた。 「登ってる途中、なんだか街の方が明るかった気がするけど、お祭りでもやっていたのかな」 「どちらにしろ、この場所では関係ないわ」 ゆったりと流れるような時が過ぎていく。 「優真くんに見捨てられてもここなら一週間は野宿可能だわ♪」 「そんなことしないし、泊まるならテント持ってきて本格的なキャンプにしようよ」 「あ……でも、星空の下もいいけど……愛を語らうならベッドの上じゃないと燃・え・な・い」 また、ソッチ系に話がシフトしそうな空気。 なるは魅力的な子だから、女の子として意識しすぎると暴走しかねない。 単純に、俺がヘタレってのが大きいのかもしれないけど。 「作家としての成功って、たくさん増版して世界中の人に読んでもらうことだよね」 「クッフッフ……その印税で一流シェフをホテル会場に集めて“究極のメニュー”を制覇することかしら」 「家族旅行とかしたいね」 「結衣ちゃんの事が解決してたらね」 「……そうだね」 心の解決以上となると、リノンに協力を仰がなければヒント零、手探りでの解決になる。 手っ取り早い解決は、なるが俺に“もういいよ”と言ってくれること。 それで結衣のことは終わりにできる。 少なくとも、今は……。 「私が作家をしているのは趣味でもあるけど、湧きだす意欲の源は“人が好き”っていうただそれだけなの」 「顔も知らない多くの人に喜んでもらう一つの手段として、これほど適した事はないよね」 「私の《ゆいいつめい》〈唯一名〉、“《アルラウネ》〈絞首台の小人”って、優真くんは聞いたことない?」 「西洋の伝説に同じ名称のものはあるよね。無理に引き抜くと悲鳴を上げて抵抗する、植物みたいなヒト型の生き物」 「それと私って、同じ生き物だと思う?」 「ちっとも思わない。なるちゃんはなるちゃん。唯一無二の存在じゃん」 「うーん……回りくどかったようだから、因果性のジレンマを使って話すわね」 うん。なにそれ? 「“《イデア》〈幻ビト〉”が先か。“《クレアトル》〈現ビト”が先か――――ううん」 確信めいた口調でもって、なるは続けた。 「“《ユートピア》〈幻創界〉”が先か。“《ディストピア》〈真世界”が先か」 「…………? 基を正すと、どちらが先に生まれたかってこと?」 「クッフッフ……♪ ちょっと量子力学的すぎたかしら?」 「どっちかといえば、哲学的?」 「ちなみに、なんでもかんでも量子力学に関連付けようとするのは厨二の基本よ。抑えておいて損はないわ」 いつもの言いたかっただけのパターン? ――――かとおもいきや話は続いた。 「私が10年前に“《ディストピア》〈真世界〉”に来たのは、知的好奇心を満たす為だったわ」 「正確に言うなら、自分が導き出した解釈が正しかったかを確かめる為」 「解釈?」 黙って聞くことに意識を集中させる。 「私を変えたのは、一冊の本。古くから伝承されてきた空想生物の記された百科事典のようなもので、図書館を探せば見つかるものよ」 「おそらく“《イデア》〈幻ビト〉”が“《ユートピア》〈幻創界”にもどってくる時に紛れ込んだんだと思うわ。今となっては、運〉命すら感じるけれど」 「辞典のページを捲っていくと、私と同じ名前のイキモノが載っていた。生息地から、対処法に至るまで克明に記されていたわ」 「その記述の多くはデタラメで、私には当てはまらないものだったけど、あれほどショックを受けたのは後にも先にもこれっきりだと思う」 「驚いた私が故郷の人たちに意見を聞いて回っても、口をそろえて同じをことばかり」 「『“《ユートピア》〈幻創界〉”の事を喋った“《イデア》〈幻ビト”がいたのだろう』って」 と、いうよりそれが真相で間違いないだろう。 現在、俺が知っている伝説上の生物は“《イデア》〈幻ビト〉”を目撃した人が語り継いでいき、代を重ねるごとに特徴に整合性が取れていったという感じになる。 「みんなの言ってる事は妥当な考えだと思う。的外れではないと思う」 「でも私は――――逆だと思ってる」 「逆?」 「鶏が先か、卵が先か」 「“《イデア》〈幻ビト〉”が“《ユートピア》〈幻創界”と“《ディストピア》〈真世界”を行き交うようになるより前から、人々は“空想生物”に思いを馳せていた」 「だとするなら、人間が想像した伝説上の空想生物こそが《オリジナル》〈大元〉であって、私たち“《イデア》〈幻ビト”こそが《レプリカ》〈模倣と考える方が自然」 「……それはまた、メルヘンだねぇ」 つまり“《イデア》〈幻ビト〉”は“《クレアトル》〈現ビト”の何らかの方法で生み出されたと、なるは言っている。 「天地創造においては、神様は陸空海を生み、宇宙に星を浮かべ、それからイキモノを作ったって言われてるけどさ」 「俺たち人間に、新しきを創造する力は授けられていないよ」 「気づいていないだけだと私は思っているわ」 となると、人間には無意識にそういった力が備わっているが、眠っている――――と主張しているわけか。 なるほど、コレが厨ニというやつか。深い。 「実際――――どのくらいの人がどんなふうに何をすることで “《イデア》〈幻ビト〉”が生まれるのか、何もわからない何の根拠もない手探り な時間が3年続いたわ」 「……納得できる答えに行き着いたのは、皮肉なことに“ナグルファルの夜”だった」 今を生きる人々にとっては常にデリケートなワードだ。 特になるは、俺と結衣の事を知っているから。 余計に気にしてしまうのだろう。 「気遣わないでいいよ。なるちゃんの話の続き、聞きたいな」 「……滅び行く世界。人はあまりにも無力で――――丸まって祈ることしかできなかった」 「私が驚いたのは、その祈りの向かう先のほとんどが、土壇場で作り上げた全知全能名無しの神様だったこと」 「人は明確な信仰対象でもない、いるかいないかもわからない神様に無色透明の信仰心をぶつけられる。助けてくれると本気で信じられる」 「自分で行動するしか助かる道はないのに――――追い詰められると、可能性を捨てて、神任せ、運任せ」 「“《イデア》〈幻ビト〉”は絶対に、こんな行動を取らない。だから、もしかしてと思ったの」 「もしかして――――これだけ真剣に信仰されたものには、意味が生まれるんじゃないかって」 「創造力に優れた“《クレアトル》〈現ビト〉”の強い想いは――――それだけで力になるんじゃないかって」 「そんなものが一点に集まったら、居もしない神が居たことになったって何も不思議じゃないんじゃないかって」 それこそが、なるの言うところの“人間に秘められた、独自の創造力”というわけか。 「人は祈るし、願う。極限状態において諦めるという選択肢を取り、弱さを自覚しながらも一直線に、真剣に、奇跡を願う」 「想いが奇跡を生む」 「生命の神秘が奇跡そのものみたいなものだしね」 「そんな私好みの《ロマンチック》〈奇跡〉をやってのけられるのが、脆くて、群れて、我欲に溺れて、それでも一心に何かを信じ続けられる人間なのでした」 なるは“ナグルファルの夜”の絶対的な破滅を目の当たりにした全ての人が祈るしかなかったと、言い切った。 人を愛する気持ちは俺も同じだから、そのきっかけに対する反論になりそうで言わなかったけど―――― 俺は祈らなかった。 俺は自分で行動した。 だけど、全然、まったく、これっぽっちも、実らなかった。 結衣は死体という形ですら、俺に終了宣言をしてくれなかった。 奇跡にも良いのと悪いのの2種類あって、俺はきっと、ヒキが悪い。 「私が――――ううん。全ての“《イデア》〈幻ビト〉”が、人々の“居て欲しい”という想いで生まれたのだとしたら……」 「これ以上の創作ってあるかしら? 私もいつか《そっち》〈生み出す〉側に回れたらって思うと、意欲が増すの」 「創作活動は、私の仮説を証明するのに最も適した手段」 「私が生み出したキャラが、みんなの胸にちょっとずつ散らばって、“居て欲しい”って願ってもらえたら……」 「“《わたし》〈アルラウネ〉”のように実在を許される日が来る」 なるは話し終えたのか、ニコっと笑った。 毎日を掲げた目標の為に時間を費やすなるは眩しくて、可愛くって、応援したくなる。 こんな子に俺なんかが好かれるなんてホントにもったいない事だなぁ。 「一方的に話しちゃってごめんね。誰にも言ったことなかったんだけど、優真くんだから喋れたの。聞いてくれて嬉しかったわ」 「また一つ、なるちゃんのハジメテをもらえて俺も嬉しいよ」 「優真くんになら、私の初めて、全部あげるわよ……?」 「近い近いっ。そういうのは、もうちょっとお互い大人になってから」 お。今のいいわけは優秀だ。今後も活用しよう。 なるは気分を害したふうもなく、爽やかな顔で携帯を操作する。 「とりあえず俺にできることは、家の食卓を新調することかな」 「え?」 「いっそのこと増築も視野に入れて今日子さんに話をしてみようかな。ローンを組むのは慣れてるし」 「いきなり何の話かしら?」 「なるちゃんのキャラが玄関を叩いた時、温かいスープで出迎えて、ふかふかの布団を用意してあげられるようにね」 「……私の言ったこと、全部真に受けちゃっていいの?」 「なるちゃんは家族でしょ」 「そんでもって、なるちゃんが愛したキャラ達も、俺は家族だってみなすよ」 「家族って言葉で何でも片付けられちゃうのが、家族の特権ね」 「一番大切なものだよ」 「……うん。けど、私との接点があるわけじゃないだろうから、生まれてたってわからないけどね」 「ああ、そっか。じゃあ、なるの方から“《ユートピア》〈幻創界〉”に迎えに行ってやらないとね」 「話してるうちに打ち込み終わっちゃったわ。後はボタンひとつで、私の愛した作品が、私の愛したキャラが、みんなの頭の中で活躍する」 空に掲げた携帯は、世界中の人々に“届け”という想いの象徴に感じた。 「投稿ボタン、ポチっとなッ!!」 投稿を終えたなるは満足気だった。 「一人でも多くの人に愛される作品になるといいね」 「うん、ありが……」 言葉は途中で途切れる。 突如として揺らめいたオーロラに関心が移ってしまったらしい。 「その光景はまるで、私が投稿した作品が、夢の架け橋を渡って世界中に散らばっていくようだった」 「感極まりすぎて顔立ちが凛々しいよ?」 「腕、もう痛くない?」 「なるちゃんが近くにいてくれたから大丈夫」 「うん……私は、ずっと一緒よ」 「家族だもんね……」 あれ…… なんか良いムード? 「誰か来るわ」 いい空気が壊されるのはいつの時代も共通だった。 「気のせいじゃないの?」 「“音”でわかる。二足歩行だわ。何かを引きずってるわね」 「こんな時間から山の奥地の湖に人……?」 真っ先に浮かぶのは、夜釣り。 熱心な人なら夜明け前から準備するという話も聞く。 意外や意外、大物の淡水魚なんかが釣れるスポットかも。 しかし――――常識的に考えれば妙だろう。 「まったくもって俺たちが言えた義理じゃないけど、怪しすぎるね。ちょっと隠れて様子を見ようか」 「あそこに丁度いい茂みがあるわ、飛び込むわよ」 「おっけー」 わざわざ茂みに向かってダイビング。 そういうノリは日々を愉しむ秘訣。 でも俺は片腕が治りかけなので、フリだけする。 「なんだかワクワクするわね」 「いったいどんな人が何の目的でこんな場所へ……って感じ?」 「きっとヒバゴンよ」 「未知との遭遇!?」 「山で二足歩行と来たらヒバゴン以外にピンと来ないわ」 「もし遭難者だったら助けてあげようね」 音が近づいてくる。 山篭りの修行をしている格闘家がナップザックを引きずっている可能性は高い。 と。ゆっくり。ゆっくり。 見紛う事ないヒト型の影が景色に入り込む。 「……暗さと薄霧でわかりづらいけど、人だよね」 「んー、ちっちゃいし、あんまり毛深くない。つまんないの……」 「そろそろヒバゴンから離れようよ」 目を凝らす。 最初は浅黒い服を着ているのかと思ったが逆。 服の布面積が恐ろしく狭い。 闇と霧に紛れるほどに焼けた――――いや、日焼け以上の褐色肌。 「引きずってるのはなんだ……?」 仕留めた得物を洞穴に持ち帰る熊のように、美しい絹糸の束を引きずっていく。 「…………あれ」 既視感に首をひねる。 どこかで会ったことがあっただろうか。 見開いた緋色の瞳は爬虫類のように思考が読めない。 くせっ毛か帽子に見えたものはアタッチメントの《オシャレ》〈獣耳〉。 「――――――あいつ」 「優真くん、知り合い?」 なるの声が聴こえなかったわけじゃないが、俺は茂みから飛び出さずにはいられなかった。 一歩、二歩、近づくごとに鮮明になっていく光景。 俺が近づく間に、人影は湖面の目の前まで来た。 「え――――? なんで沈まないの?」 褐色の人影は、地面を歩いていたのとまったく変わらない歩調で湖面を歩いて行く。 足裏からパッと広がった波紋が、オーロラに彩られた湖面をより幻想的に映し出す。 人影とは逆に、物理法則に従って糸の束はじょじょに沈んでいった。 「なに? え、えーー! 嘘でしょっ!?」 なるが騒ぐのも無理はなかった。 沈むはずの人影が不可思議な光をまとって消えていく――――。 「――――――――」 口の開いたアホ面を晒したまま恐ろしい速度で駆け巡る思考。 波のように押し寄せる体験が情報となって絡み合い、形になる。 「………………ルージュ………………………………?」 つぶやきとともに訪れたのは、自責の念。 引き摺っていた者の正体と。 引き摺られていた者の正体との関係性の掌握。 声に出す事の虚しさも合わさっての、後悔。 「――――ッッッ!」 時間切れの答案用紙の提出が受け付けられるほど、世の中は甘くない。 引き摺られていった道に膝を付き、目を皿にして地面を撫でる。 「――――やっぱり」 あった。痕跡。確かな証拠。 「優真くん? どうしたの、今の、心当たりがあるの?」 「…………」 「その長いの……《・》〈髪〉? にしては――――長すぎないかしら」 「少し考えたい……」 今のがルージュ――――。 だとして、引き摺られていたのはココロ。 だとして、その目的は? 湖面を歩いて消えたのはなぜ? 「……水だ……歩けるわけない……」 試しに湖面に手を差し入れてみても、わからない。 学も考える頭もない自分が、こういう時だけは素直に困る。 「なるちゃん……普通、人って湖面を歩いたり、ましてや光に飲まれて消えるなんてことはしないよね」 「人は笹舟のように軽くないもの。“《イデア》〈幻ビト〉”でもない限りは無理でしょうね」 「おそらく……“《イデア》〈幻ビト〉”だろうね」 「ある死刑囚が提唱した“片方の足が沈む前にもう片方の足を前に出せば水の上を走れる理論”っていう長ったらしい理論があるんだけど」 本当か嘘かを突っ込める気分ではなかった。 「イグアナの一種は、実際にこれをやってのけているわ。走ってる時の顔を見る限り、必死みたいだけど」 「だとしたら、あまりの速度で俺の肉眼じゃ捉えきれず、あたかも普通に歩いてるように見えたってことかな」 「それにしてもあの光――――いったい、何処へ消えたのかしら?」 “《ルージュ》〈管理人〉”の概要は聞いていても、仕事内容に関しては知らない。 俺が取るべき具体的な行動を決める指針になるものがなかった。 「とにかく調べてみましょう」 「……うん」 引き摺られていたココロに気づいてやれなかった事が悔やまれる。 消えた先は湖の底なのか、別の安全な場所なのか。 「(ココロ……)」 「…………ォォォォォォォォオオオオオオオ」 湖を注視していた俺となるが何事かと振り返ったのと同時だったこともあり、充分過ぎる隙が生まれた。 「え――――」 星の一つのような米粒の煌めきが、一瞬のうちに人の形を成して急降下してくる。 謎の飛行物体の落下地点が自分たちである、という危機感を即座に持てるほどサバイバルな毎日は送っていなかった。 現実はいつだって、唐突で、理不尽。 《ツクリモノ》〈漫画や小説〉のように観るものを喜ばそうとはしない。 「――――ォォォオオオオオオオオォオオオオッッッ!!!!」 放たれたのは隕石の如き落下速度に任せた唯の一振り。 一振りにして千発に相当する、強力無比なる不意の速攻。 「――――ンゥッ!?!?」 事実、俺の肉眼で一部始終を追うことはできていない。 ただ、認めたくないが、一連の動作から導き出されたのは“いわれのない一撃がなるを襲った”という答えだ。 衝撃で弾けるように音が踊ったのと、なるの脚が浮かび上がるのは同時だった。 なるは無理な体勢のまま踏みとどまれず、湖面に投げ出される。 「なるっ!!!?」 手を伸ばした瞬間――――状況が記憶の中の結衣とリンクし、スローモーションになった。 最悪の既視感。 助けられず、残される側。 この手は、何も救うことのできない。 着水。打ち上がる水飛沫。なるの身体が沈む。冷たい、水の中へ……。 「ッ……!?」 ルージュが通った時と同系統の光が湖面を照らし、その眩しさに飛び込むことができなかった。 「なる……!」 光が止む。飛び込もうと駆け出したが、地面を蹴る感触がないことに気づく。 感覚の不一致。いつも見ていた世界と、高さが違う。 「――――オォォッッ!!」 後頭部からの怒声により、正体不明の獣に捕まえられていることを把握する。 首の後ろの肉をつまんで持ち上げられた猫のような体勢――なるの事で頭がいっぱいで、化ケ物に背後を取られたようだ。 「――――!?」 瞬きの間に視界に地面が広がる。 ああ――――思いっきり叩きつけるわけだな、と人事のように思う。 原始的だけど、この馬鹿力なら非常に効くな、と《たわごと》〈譫言〉のように思う。 「……………………」 時間にしてみれば一秒に満たないが、確かに記憶がなかった。 叩きつけられて数回バウンドしたのだろう、身体のあちこちが悲鳴をあげている。 「わっけわかんないんだよ……でも知ってる……理不尽なんだよね、この世界はいつだって……」 襲われている理由なんて、どうだっていい。 容赦なく“殺人”を行える奴にまともな理由なんか期待していない。 怒りに身を任せている場合でもない。 するべきことは、誰にも頼らず自分の足で立つ事だ。 「俺って、潜水さ……得意な方なんだ……」 なるが湖の底で冷たくなってしまうまえに、やれるだけの事をやる。 後悔だけはしたくないから、俺は祈らない。 「ォォォォォォオオオオオオッッッ!!!」 腹の底まで轟く咆哮は、失われた地上最強の生物“恐竜”を想わせる。 未知の生命体は俺の先回りをして湖の縁に立ち塞がった。 「ああ――――そう」 さすがに……。 「なにがなんでも、なるを救わせたくないっていうわけか……」 頭に来た……。 「退けよ」 言葉が通じるような相手ではないことはわかっていた。 それでも自分を抑えこんで一度だけ忠告はしたが――――これ以上の嘘を重ねる気はない。 「もう退かなくていい。存分に邪魔をしていい。俺も抵抗ってやつを、始めるから」 一刻が惜しい。 邪魔者を積極的に撃退するのに必要不可欠な武器――――俺は遠慮なくそいつに頼る。 何でもいい。八ツ又の剣か、雲が付くほどほどの戦斧か、あるいは別の何かか――――。 「お久しぶりです最強」 まどろっこしいのは抜きで、俺の“強み”を抜いた。 手に馴染む感触に、ひとまずの安堵が漏れる。 「一番“蹴散らす”のに適した武器のお出ましだ」 一度目は、肉を切り刻みながら巨体を海まで運んだ。 今日は、どこまで飛ぶだろう。 飛距離は更新するだろうか。 「ォォォォォォオオオオオオッッッ!!!」 「君はかなり強いみたいだから、死にはしないよね」 ポッポッポッ――――八ツ又の刃に灯る、蛍に似た柔らかき生命の光。 内包された《タタリガミ》〈荒御霊〉は一時の娯楽を得て。 ちっぽけで脆弱な人間は突破口を賜る。 「稜線の向こうを見て来いよッ!!」 超局地型暴風は山脈一つ消し飛ばす勢いで吹き荒れた。 雷神風神の怒りのような複合妙技には、本物の恐竜が相手でもひとたまりもないだろう。 「……………………」 「嘘でしょ……?」 目が霞む。吐き気がする。 肉体的な損傷と、なるを助けたい焦燥による精神的摩耗。 俺は叩きつけられたダメージと暴風を放った反動で立っているのがやっとだ。 だというのに――――無傷。 確かに八ツ又の矛を過信していたといえばそうだけど。 あのなるが打ち震え、“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”を打ち破った、荒々しき破戒の波を真正面から受けて無傷。 「――――」 勝機の欠片も見当たらないまま立ち尽くす俺に対して、目の前の化ケ物は何やら準備を始めている。 きっととんでもない事をされる、それだけはわかった。 そして――――終わる。 湖に飛び込んで《なる》〈家族〉を助ける事もできず。 こんな形で……? 「ッ!!? オ゛、あ゛ぁ゛ァぁァぁァぁァァァァ――!!」 「!? ――――くッ、あ゛ぁ゛~~~~ッッ!!」 頭を万力で圧されるような耐え難い頭痛。 幸か不幸か、気が触れそうな痛みは化ケ物をも巻き込んでいた。 「ハッ――――ハッ――――ハッ――――ハッ――――」 心臓の鼓動が体験した事のない速度になっていく。 頭を締め付ける鈍痛もさらに激しさを増していく。 「な……る…………」 危なく、この手の使い道を誤り掛けていた。 自分の胸を押さえるな。 自分の頭を押さえるな。 この手は、家族を護るためにある。 「待ってて……ッ!!」 脚の力を抜いて地面に伏す。 これでいい。 地面について、這うように湖に進んでいく。 「ぐゥゥ――――!?」 なるを助けなくてはならないのに強制的に意識を奪われていく。 「なるぅうぅぅぅうぅぅぅうううぅぅぅッッッ!!」 最後の力を振り絞って、湖に身を投げ出す。 服のまま飛び込んだからか、暗い水の底へと沈む。沈む。沈んでいく。 全身を包み込む水の冷たさが心地よくすらあり、俺は知らぬ間に完全に意識を失った。 揺らめく炎がパチパチと音を立てて主張する。 この光景を思い出すのはもう何度目だろうか―― ここ最近、頻発している。目が覚めると何故かその事は忘却されているのだが―― 「ああ……」 言葉にならない声を上げる。 炎に包まれた人影は黒い形を形成するだけで人物を識別する事はできない。 そして私はもどかしくなる。炎を取り払いたくとも意思を反映できない。 それがこの夢に定められたルールだ。 真綿で締め付けるだけなのであれば、いっそ忘れさせてくれ。 瞼を閉じる―― そんな私を嘲笑うように一陣の風が吹いた。 「そんな馬鹿な――」 風の悪戯によって炎の道が開ける。 そこに立つ人影は私の知る人物だった―― 「……どこまで私を弄べば気が済むのか――」 この映像は過去を投影したものだ。九條が現在の姿で現れるわけがない。 身勝手な映像を再生している自分自身に腹が立つ。どこまで弄べば気が済むというのだ。 「……必ず、見つけ出してみせる」 搾り出した決意を嘲弄するように、炎の中に立つ九條はこちらを向いて笑った―― 「――くん、あかしくん」 「あ、起きた! おはよー♪」 「…………」 ここ最近は自分で起床した覚えがない。 今日も覚醒して一番に飛び込んできた光景はモミジアオイを手にしたひまわりの笑顔だった。 「今日はたのしいパーティの日ですよー♪ おいしいごはんがいっぱい食べられるしあわせな日ですよー♪」 「……そうだった」 昨日交わした九條との約束を思い出す。今日は丸一日予定が詰まって―― 「…………」 「パーティパーティたのしいなっ♪」 「ひまわり」 「なぁに?」 屈託のない笑顔は差し込む朝日を受けたモミジアオイの花にも劣らなかった。 ソファから跳ね起き、鉢植えの並ぶ棚に駆け寄る。 「ああ……」 昨晩よりも、モミジアオイの花弁がひとつ減っていた。 「何故だ、何故なのだ」 「パーティパーティ♪」 当の本人は浮かれた様子で花を振りながら踊っていた。 「ふぁ~、あ、ご主人、おはようございます」 「……おはようノエル」 「どうしたんですか? この世に希望なんてないと絶望している人のモノマネですか?」 「……またひまわりにやられてしまった」 「ああ、ホントだ」 頭を掻きながら眠たげなノエルと私には埋めようのない温度差があった。 それでも私が大事にしている物だと認識しているノエルは踊っているひまわりの後ろ首を掴んで持ち上げる。 「こら、あなたまたご主人の花を摘んだんですか?」 「キレイでしょ? いいにおいもするんだよ♪」 花に対する称賛はありがたいのだが、素直に喜べるはずもない。 「もう取ったらダメですよ。ご主人に返しなさい」 「はーい♪ あかしくんあげる♪」 「……いや、いい。キミの花瓶に加えてやってほしい」 「りょーかい♪ どんどんおともだちがふえてくねぇ」 水を汲んだコップには既に二輪のモミジアオイが活けられてる。今日新たに追加され合計三輪になった。私の心が蝕まれた回数を表している。 「なかまがいっぱいふえるといいね♪」 「キミは何を言っているのだろうか」 これ以上の暴挙を許すわけにはいかない。今日からは睡眠を取らず監視するべきかもしれない。 「そういえば今日も学園に来るんですか?」 「ああ、そのつもりだ。久遠の依頼をまだ達成していない」 「そのままパーティに行くんですか?」 「そうなるだろうな。ノエルも一緒に来てはどうだろうか。九條も断りはしないだろう」 「あー、私はそういうのパスです。わざわざめんどくさい事したくないですし」 伺いを立てた身であるがノエルの性格を鑑みれば納得の答えだった。 「何かあったら電話してください。40秒で支度しますから」 「何故秒数のところだけ変な声を出したのだろうか。具体的な時間の理由も気になる」 「ご主人は知らなくても平気な事ですよ」 「そうか」 ノエルがそう言うのなら間違いない。 疑問はさておき、学園に向かうための準備に移った。 「中止?」 学園に到着して早々、学園長室に通された。 そこで聞かされたのは私が請けた依頼を破棄する旨だった。 「うむ。こちらの都合で申し訳ないが、君の手を煩わせる事はなくなった」 「理由を聞かせてはもらえるのだろうか」 依頼の撤回に至る理由は二つ考えられる―― ひとつは私に任せておけなくなった場合。 もうひとつは“人成らざる者”を追う理由がなくなった時だ。 「君に探してもらっていた者だが、こちらで足取りが掴めたのだよ」 「足取り? 詳細に聞かせてはもらえないだろうか。私個人としても気になる」 「ふむ、詳しくは胸の内に留めておきたいのだが……学園の内部に潜んでいた“《フール》〈稀ビト〉”が見つかった」 「そして然るべき処置がとられた。これで納得してくれるかな」 然るべき処置――“《フール》〈稀ビト〉”の脅威を取り除くには本人が久遠の意図に従う、もしくは―― 「もうひとつだけ教えてほしい。その“《フール》〈稀ビト〉”の“《デュナミス》〈異能”は全身を黒い物質で覆うようなものだっただろうか」 「黒い物質? いや、確かに身体的な変化を誘発する“《デュナミス》〈異能〉”だったが、君の考えているようなものではなかったよ」 「そうか」 これで“人成らざる者”が“黒い塊”である線は消えた。 「君にとっては中途半端な結果になってしまっただろうが」 「いや、仕事を終えられたのならそれに越した事はない」 「そう言ってもらえると助かる。安心してほしい、君たちとの取り引きは遵守する」 「わかった。ノエルにも伝えておこう」 「そうしてくれ。彼女の怒りを買って殺されてはたまらん」 久遠が秘密を守る限り、実力行使に出る事はないだろう。 「そうすると私が学園にいる理由がなくなったわけなのだが、できれば午前中だけでも滞在していいだろうか」 「それは構わんが、何かあるのか?」 「人と約束をしている。どこか別の場所で暇を潰すには微妙な時間だ」 「なら私と一局打つか?」 「これの事だろうか」 会話の最中にも久遠は一人で盤上の駒を移動させていた。 書籍で読んだ事がある。これは将棋というボードゲームだ。 「ルールは知っているか?」 「いや、知らない。だが興味はある。ルールブックがあれば貸してほしいのだが」 「それは構わんが、ルールを覚えた程度では私の相手にならんぞ?」 「あなたが拒否しないのであれば是非付き合ってもらえないだろうか。未体験の文化には興味がある」 「その探究心、実に羨ましい。私も年を取ったのだと自覚させられる」 本棚から抜かれた書籍を受け取る。書名は“絶対に負けない将棋”だった。 …………。 何だ、非常に便利な書籍があるではないか。これを読めば久遠に負ける事はない。 しかし久遠もこの書籍に目を通しているとすれば、一体誰が負ける事になるのだろうか。 「ぬぅ……」 「あかしくんあかしくん、こんどはあゆむくんをこっちだよ」 「あゆむではなく《ふ》〈歩〉だ。しかしその手は悪くない」 「くぅ……! な、何が起こっている……!」 盤上の歩を前進させると久遠の顔に刻まれた皺がより増えた。 「さあ、あなたの番だ」 「ぐっ……!」 打ち筋に迷った時は横から口を出してくるひまわりの言葉に従った。 ルールを知らないひまわりの助言に根拠などあるわけもないのだが、何故か結果的に好手となる事が多い。 「ま……」 「待った!」 「待ったは無効だとこの書籍に書いてある」 「ぐぬう……」 久遠は穴が開くほど盤上の駒を見つめている。 やがて―― 「……参りました」 「やったー♪ ひまわりとあかしくんの勝ちー♪」 「楽しかった。また機会があれば付き合ってほしい」 「何故だ……私の培ってきた物は一体何だったというのだ……!」 「敗因を分析できるほど、私には知識がない。だがひとつだけ言える事がある」 「な、何だ――!」 私は手元にあった書籍を久遠に返した。 久遠が敗れたのは“絶対に負けない将棋”を読んでいなかった事にある―― 矛盾の解明は行われなかったが、勝利を得たので良しとしよう。 終業のチャイムが鳴り、約束の時間を迎え図書室へ向かう。 「みつきちゃんもう来てるかなぁー」 「どうだろうか。行ってみればわかる事だ」 「ひまわり、パーティのためにあさごはん食パンさん一個だけでガマンしたんだよ♪ えらいでしょ?」 「今の言動で一体どの部分について誇っているのだろうか」 図書室も近づいた頃、前方に立っている人影に気づく。私はその顔に心当たりがあった。 「あ……あなたは」 昨日、九條と言い争いをした上、私達の後を尾けていた女子学生だ。 「えとっ……」 目の前の女子学生は何かを言い淀んでいた。無視する事もできたのだが、接触を図ろうとしている様子だったので名乗る事にした。 「赫だ」 「ひまわりはひまわりだよー」 「あ……わ、私は北条院凛々華と申しますわ」 「そうか。北条院、私達に何か用だろうか」 「えと……昨日の事なのですけど」 気圧されている態度を隠すように言葉を続ける。 「貴方、九條さんの……その、恋人と仰いましたわね」 「そうだ。今はそういう事になっている」 「……!? やっぱり本当なのですわね……」 昨日一日尾行しただけでは信じきれていなかったのだろうか。だとすれば私の振る舞いを考え直す必要があるかもしれない。 「本当だとしたらどうだと言うのだろうか」 「い、いえ、別に私には関係のない事でしてよ……!」 関係がない、とは言うものの昨日からの態度を見る限り説得力に欠ける。 「気になっている事があるのだが、訊ねてもいいだろうか」 「は、はい、何ですか!?」 「キミは九條に固執しているように見えるのだが、何か理由があるのだろうか」 「こ、固執などしておりませんわ! ただ人を見下したような態度が気に入らないだけですわ!」 「なるほど。しかしそれは勘違いではないだろうか。九條がキミを蔑んでいるようには思えないのだが」 「か、勘違いなどではありませんわ! あの方は何事においても私より秀でていて! 劣っている私を馬鹿にしているのですわ!」 そこまで言われてもいまいちピンとこない。どちらかと言えば北条院が九條に近づく事で反感を買っているだけのように思えるのだが。 「赫さん、と仰いましたか。もう一度確認させて頂きたいのですが、本当に貴方は九條さんの恋人なのですね?」 「そういう取り決めになっている」 北条院はしつこく私と九條の関係に疑いをかける。 「……恋人には見えないのだろうか? 私の挙動がおかしい点があれば教えてほしいのだが」 「べ、別にそういうわけではなく……ただあの九條さんに恋人がいるというのが信じられなかっただけですわ」 彼女の言い分もわからなくはない。九條は他人に依存しない。そんな彼女に恋人という組み合わせはしっくり来ないのだろう。 「キミは九條が憎いのだろうか」 「え……?」 「何かにつけて目の敵にしているようだが、それほど憎むべき要因があるのだろうか」 「に、憎いだなんんてそんなわけありませんわ! 私はただ九條さんと親しくなりたいだけ――」 「ん? どういう事だ、親しくなりたいのだろうか?」 「い、いえ、何でもございませんわ……」 彼女の心情が読み解けない。気に入らないと言ったり親しくなりたいと言ったり――人間の感情表現は実に難解だ。 「ねぇねぇあかしくん、はやくみつきちゃんのとこいかないとパーティにおくれちゃうよ」 「そうだな。待たせるのは良い事ではない」 「パーティ? もしかして貴方方も九條グループの創立記念パーティに出席するのですか?」 「知っているのだろうか」 「もちろんですわ。私も北条院の人間として招待状が届いておりますもの」 北条院―― 思い出した。九條グループに比べれば規模はいくらか見劣りするが、以前親方から警備員の仕事を請けて勤務した会社の名前だ。 となれば目の前の彼女も九條と同じ立場なのだろう。創業者の一族という共通点も、北条院の劣等感を煽る要素のひとつなのかもしれない。 「……何の話をしているのですか?」 図書室の扉が開き、中から九條が姿を現す。 「く、九條さん――」 「……私達に何か用でも?」 「べ、別に、たまたま通りがかっただけですわ!」 「なら私達は失礼します。赫さん、行きましょう」 九條につられてその場を後にする。 「あっ……」 九條の背中を見送る北条院の目がどこか悲しげに写る。 しかし九條は意に介する事なくその場を後にした。 「あれで良かったのだろうか」 「何の事でしょう」 時と場合によっては主語を省いても人間の会話は成り立つ。相手が愚鈍であればその限りではないのだが、九條がそれに当てはまるとは考え難い。 つまり彼女は前もってその話題に触れる事を拒否したのだろう。 「いや、何でもない」 「…………」 嫌がる者に対して無理強いするのはどんな場合であれ反発を招く。口にしかけた話の種を飲み込む。 代わりに別の話題を切り出した。 「この後についてだが、このままキミと共に会場へ向かえば良いのだろうか」 九條の警戒心が僅かに薄れ、思い出したような仕草を見せる。 「いえ、私は一度家に戻らなくてはなりません。着替えなどの準備がありますので」 「そうか。では私達はどうすればいいだろうか」 「会場の近くで落ち合うというのはどうでしょう? パーティの会場になっているホテルの場所は知っていますか?」 九條が口にしたホテルの名前に心当たりがあった。商社のビルが多く並ぶビジネス街でも一際目立つ高層ホテルだ。 以前親方から紹介され、短期間ではあるが清掃員として勤務した経験がある。私の勤務中にも何度か大きな会合が開かれていた。 あのホテルを使用するには私の日給何日分が必要なのか考察してみるが、途方もない時間が必要だという結論にたどり着いたところで考えるのを止めた。 「では私とひまわりは先に向かうとしよう。ホテルの近くでキミが到着するのを待つ事にする」 「わかりました。私もなるべく急ぎますので」 九條は長い髪を揺らしながら小走りで走り去っていった。 「なるべく急ぐ、か」 何気ない会話であるはずなのだが、私は違和感を覚えた。 「どうかしたの?」 「いや、九條と会ってまだそれほど時間が経過していないはずなのだが、顔合わせをした当初と比べると随分と対応に違いが見られる」 「そっかなぁ? みつきちゃんはさいしょっからやさしいよ?」 「だとすれば私は優しさの定義について考えを改めざるを得ない」 人の心とは一概に理解できるものではない。 長年人間を観察してもなお行動原理の全てを解き明かすには至っていない。 「やはり人間とはおかしな生き物だ」 「あかしくんだってけっこうヘンだよ?」 「キミも冗談を言う事があるのだな」 私の行動は人間のそれを模範にしている。もしも私がおかしいと言うのなら、それは人間自体に問題があるのだ。 ひまわりを連れ、記憶を頼りに歩き続けると次第に景色の様相に変化が訪れた。 草木による緑が減り、代わりに高さを備えた人工的な建築物が姿を見せ始める。 早足で忙しそうに歩くスーツ姿の人間達――彼らを横目に歩みを進めると見覚えのある風景に行き着いた。 「あのビルに間違いない」 目的のホテルは高層ビルが並び立つ街並みにおいても際立った存在感を主張していた。 「ふぁあ~、おっきなおうちだねぇ~」 「住宅ではなくホテルだ。宿泊機能を備えているが個人の邸宅ではない」 「あそこでパーティするんだよね♪」 「そうだ」 「じゃあはやく行かなきゃ! おいしいゴハンがなくなっちゃうよ!」 興奮のあまり車道に飛び出そうとするひまわりの後ろ襟を掴んで静止する。 「ぐえっ!?」 「急に飛び出してはいけない。キミが車両と衝突すれば無事では済まない」 「けほけほっ! ……きゅうにびーんってしたらいたいしびっくりするからしちゃいけないんだよ!」 「しかし事故に遭えばびっくりする程度では――」 「ダメったらダメなの!!」 「はい」 衆目の関心を引かないためにもあえて理不尽な言い分を受け入れよう。 納得できない案件に直面したとしても、その場の状況に応じて取捨選択するのも人間らしい行為と言えるだろう。 人間としての振る舞いが板についてきたと自画自賛するが、生憎同意は得られた事はまだない。おかしな話だ。 「心配しなくとも食事は十分に用意されているはずだ。それに急いだところで私達だけでは中に入る事もできないだろう」 私達二人は九條グループの会合に正式な形で招待されたわけではない。 九條がいなければいかに受付の人間を説得してみても相手にされず徒労に終わるだろう。 「あかしくん、ひまわりおなかすいちゃったよぉ~」 「もうしばらくの辛抱だ。時期に九條もやって来るだろう――」 ひまわりの瞳が周囲をさまよい始める。おそらく食料を置いてある商店を探しているのだろう。 彼女の暴走を抑えるためには不本意な出費も止む無しかと諦めかけた時、ウインカーを出して路肩に駐車する黒塗りの車両が目に留まった。 完全に停車したのち、後部座席の扉が開いて見覚えのある凜とした佇まいの少女が顔を出した。 「あ! みつきちゃんだ!」 車を降りた九條は運転手に何かを呟く。停車していた車両は役目を終えたのか再び車道に侵入して走り去って行った。 「すみません、お待たせしましたか?」 九條は右手で髪を、左手で衣装の裾を押さえながら小走りで近づいてくる。 「あ、みつきちゃんがきてるお洋服かわいいー♪」 「社交場においての正装だろう。しかしそうなると私達はまるで気にしていなかったのだが」 私とひまわりの着用している衣服はいつもとなんら変わり映えのしない普段着だ。 「これではまずかっただろうか」 「いえ、正装でなければ入れないという訳ではありませんよ。私は父の顔を立てなければなりませんし、挨拶に回る必要もありますから」 「なるほど、安心した。生憎そういった場には今まで無縁なせいで、スーツのひとつも持ち合わせていない」 「ひまわりもみつきちゃんみたいなお洋服きたいー」 「何故だ? 今しがた我々には必要ないと判明したばかりだろう」 「あかしくんはダメだなぁ~。女の子のキモチをぜんぜんわかってない」 「どういう意味だろうか」 「女の子はいつでもかわいいお洋服をきてオシャレしたいんだよー」 「そういうものなのだろうか」 「性別に関係なく、身だしなみに気を配るのは当然の事かと」 人間の主観による印象の大部分は外見によって左右される。 逆に人は見かけで判断できないとも聞いた事があるが、果たしてどちらが正解なのだろうか。 「……どこかおかしいでしょうか?」 小さく両腕を横に広げ、僅かに不安の滲んだ瞳で私を見つめる。 …………。 これはあれだ。今、私は九條の着こなしについて、感想を求められているのだ。 「おかしなところなどない。よく似合っている」 「そうですか。よかったです」 「人間の美的感覚を完全に把握しているわけではないのだが、こういった場合相手を持ち上げておけばいいのだろう?」 「えっ……?」 「社交辞令についての知識は書籍によって既に得ている。間違っていただろうか?」 「……知りません。ひまわりさん、こんな人は放っておいて行きましょう」 「ほほーい♪ おいしいものいっぱいあるといいなー♪」 二人は私を置いてさっさとホテルの敷地内へと向かっていった。 「待ってほしい、何故私を置いていくのだろうか。一人では中に入れない」 どうやら九條の機嫌を損ねてしまったようだ。しかし思い返してみても明確な原因には思い至らない。 強いてあげるとするならば、“よく似合っている”などと月並みな台詞ではなく、もっと気の利いた言い回しを選択するべきだっただろうか。 しかしそれを要求するのはいささか高望みと言わざるを得ない。つまり今回の場合、非があるのは九條の方ではないのか―― ささやかな不満を抱くが飲み込んで忘れる事にしよう。 人間とはそういう生き物なのだから。 エレベーターに乗り、通常の建築物の上限を遥かに超えた階層に到着すると、九條グループ創立20周年記念パーティと書かれた看板が目に入った。 受付の男と九條が軽く会話を交わすとすぐに中へと案内された。 「ふぁ~♪ おいしそーなゴハンがいっぱいあるよー♪」 「バイキング方式のようですから、好きな物を取って食べてください」 ひまわりはテーブルの上に並べられた何十種類もの料理に目を奪われていた。 私も見た事もない料理に少なからず興味は湧いたが、どちらかと言えばこの特殊な空間自体に新鮮味を覚えた。 グラスを片手に談笑する者、忙しなく準備に追われる者―― 初めて体験する催しに、人間界に来た頃頻繁に受けていた感覚が蘇る。 「申し訳ありませんが、私は父と挨拶回りをしなくてはなりませんので」 「えーっ? いっしょにゴハン食べないのー?」 「すみません、また後で来ますから」 「彼女の業務を邪魔してはいけない。私達と違い九條には役目があるのだ」 「そっかぁ。じゃあみつきちゃんの分、ちゃんとのこしといてあげるね♪」 九條は小さく微笑み、身を翻して会場の奥へと消えていった。 「ねぇねぇあかしくん、ここにあるものどれでも食べていいの?」 「問題はないはずだ。この形態は立食パーティと言って立ったまま食事をするのが作法らしい。いつかの書籍で読んだ事がある」 「おぉ~、立ったままゴハン食べるなんてなんかかっこいい~」 壁に沿って並べられた長机には和洋中、その他目にした事もない料理の数々が皿の上に盛り付けられていた。 「あかしくんあかしくん! タイヘンだよ! おいしいゴハンがよく見えないよー!」 子供であるひまわりの目線では机の高さとほぼ同じであり、品定めをするには不十分なのだろう。 「これでいいだろうか」 ひまわりの後ろ襟を掴んで持ち上げる。これで全ての料理を見渡せるはずだ。 「ぐえぇー!?」 「どうかしただろうか」 奇声がしたのですぐにひまわりを地面に下ろす。 「だからそれやっちゃダメだって言ったでしょ!?」 「済まない。ではどうすればいいだろうか」 「のどがぐえってならないようにしてよ!」 「わかった」 咽喉を圧迫しないように後ろから両脇を支える。 「うひゃひゃ!?」 「今度は何だろうか」 「きゅうにそんなトコさわられるとくすぐったいよ!」 「わかった。では今から五秒後に同じ行為に移る。心の準備をしておいてほしい」 脳内でカウントダウンを開始し、きっかり五秒が経過した瞬間にひまわりの身体を掴む。 「うひっ……」 「大丈夫だろうか」 「おっけーでーす♪ はやくはやく♪」 言われた通り、羽根のように軽い身体を持ち上げる。 「ふあぁ~♪ ぜんぶおいしそー♪ どれからたべればいいか迷っちゃうよー♪」 「好きな物を食べるといい。今回はどれだけ食べようと私の懐が痛むわけではない」 「あかしくん、ひだりひだり」 指示されるがままに左側へ移動する。 「今度はみぎー」 料理をフォークで掴み取るひまわり。クレーンに例えるならば私は運転手に操作されるクレーン車だろうか。 「今度はもっとみぎに行ってー。もっともっと、どんどん行っていいよ」 誘導に従って歩いていくと見覚えのある人間と目があった。 丁度向こうもたった今気づいたらしく、私達の存在に気づくと驚きの混じった微笑みを浮かべた。 「おや、聞き覚えのある声が聞こえたと思ったら赫さん達でしたか」 「マスター、あなたもこの催しに参加していたのか」 「九條グループの社長、つまり美月さんのお父上とは知り合いでして。その縁で呼ばれたわけです」 なるほど、確か前にもそのような事を言っていた気がする。 「しかし遊んでいるわけではありませんよ。パーティにいらしたお客様にコーヒーを振舞っているのです」 「つまり業務の一環なのだろうか」 「ええ、丁度今日は定休日でしたから、店を離れても平気というわけです」 「あかしくんあかしくん! もっと右に行ってよ!」 「わかった」 「ちょっと行きすぎー! もどってもどって」 「すまない」 「ふふっ、赫さんは私よりも忙しそうですね」 「手を焼いている。人間の子供というのは扱いが難しい」 「それでも仲が良さそうに見えるという事は上手くいっている証拠だと思いますよ」 「……まるで実感がないのだが」 「当人よりも他者の目線の方がはっきり見える場合もあるんですよ」 「おっけー♪ あかしくんおっけーでーす♪ おろしていいよー」 料理の調達に満足したひまわりをゆっくりと床に降ろした。 「…………」 「どうかしただろうか」 「なんか立ってるとたべにくい」 「先ほどは格好がいいと喜んでいなかっただろうか」 「んー、やっぱりゴハンはすわって食べないとぎょうぎがわるいなーって」 作法を気にするのであれば、皿の上に大量の料理を綯い交ぜに載せる方が問題なのではないだろうか。 「あそこに椅子が置かれている。座って食べるといい」 「はーい♪」 顔が隠れるほどの料理を両手で支え、壁際に設置されている椅子に向かうひまわり。 「赫さんは食事を取らないんですか?」 「私は構わない。今日の食事はあと一度、夕飯を残すだけだ」 「でしたら気が向いた時にでも私のところに来てください。お出しできるのはコーヒーだけですが」 「わかった。後で寄らせてもらう」 会釈をするとマスターは自分の業務に戻っていった。 「さて、どうするか」 会場内を見渡すと到着した時よりも人間の数は増していた。 パーティとは一体何を行うものなのか、またこのような場所に来る人間とはどのような人物なのか―― 適当に散策して情報を集めようかとも思うが、あまりひまわりと離れてしまっては監視の目が届かなくなる。いつの間にか居なくなってしまうのは最早ひまわりの特技とも言える。 人間の群れの中でもより一層人口密度の高い場所に目が留まる。スーツ姿の大人達、その中に先ほどまで行動を共にしていた九條の姿を見つけたからだ。 「あれが九條の父親だろうか」 九條と並び立つ格好で毅然とした印象を持つ男が、余裕のある態度で周りの人間と接している。 不意にその男がこちらを向き、私と目が合った。 どうするべきか思案していると男は九條と何かを話し、周りの人間に挨拶をしてこちらに向かってきた。 「始めまして。九條剛三と申します。今日は我が社の創立記念パーティにご足労頂き恐縮です」 予想は正しかったらしく、目の前の中年男性は柔らかな物腰で自らを九條と名乗った。 礼儀作法についての知識を有している私は、ひとまず九條剛三に会釈をし、こちらの名を名乗ろうとするが―― 「赫君、と言うそうだね」 「何故それを知っているのだろうか」 「つい先ほど娘から君の事を聞いてね、是非とも一度君と話してみたくなった。迷惑だったかな?」 「迷惑などではない。むしろ私もあなたに興味がある」 九條と近しい者との会話は私の知らない情報を手に入れる好機だ。 さらに推論の域は出ないがこの者が“上司”である可能性も否定できない。九條の交友関係が乏しいという点も鑑みればありえない話ではない。 「娘がお世話になっているようだね。君も既に知っているだろうが、娘は少々気難しい性格でね。親しくしてくれる人間は貴重なのだよ」 「…………」 九條が不満げな表情を浮かべる。 「おっと、悪口を言っているわけではないのだよ。怒らないでおくれ」 「……知りません」 「機嫌を損ねてしまったようだ。私でもこんな有様だから君も苦労しているのではないかな」 「お父さん!」 「いやすまない、どうにも私の口は素行がよろしくないようだ」 「どうかね、少し二人きりで話さないかね。これ以上娘の気を立たせるのも心苦しい」 「お父さんが余計な事を言わなければいいのです」 「わかってはいるが、男同士だと腹を割って話してしまうものなのだよ。少しの間美月は外してくれないか」 「…………」 九條は不安そうに父親と私を見比べる。自分がいなくなった後の状況を気にしているのだろう。 「ほら、あそこに凛々華ちゃんもいる。少し話してきたらどうだ」 九條剛三の視線を辿るとドレスに身を包んでこちらを盗み見ていた北条院の姿があった。 「……そんな必要はありません」 「九條グループの娘として、北条院のご令嬢と良好な関係を築いておくのは大事なことだよ」 「…………」 九條はなおも何かを言いたげだったが諦めた様子で軽いため息をつき、北条院の元へ向かっていった。 「少し強引だったかな。これは後が怖そうだ」 「他人はともかく、あなたは九條の親だろう。父親に対しても他人と変わらぬ態度を取るのだろうか」 「うーむ、他の者と比べればまだ良い方だろうが、根本的には変わらないな。父親に対しても全てをさらけ出してくれる訳ではない」 「まあ、自業自得ではあるのだが、ね」 「自業自得?」 「いや、何でもない。忘れてくれ」 九條の父はあふれ出した感情を慌ててかき消すように微笑んだ。 「それより娘はどうだ? 君も手を焼いているのではないかね?」 「少々強引なところはあるが別段手がかかる事はない。彼女は基本的に常識のある人間だ。勝手にいなくなったり菓子をねだる事もない」 都合のいい比較対象がいるお陰かもしれないが、九條の振る舞いに対してあまり面倒だと感じた事は少ない。 「ほう、君は器量の大きい人間だと見受けられる。私など父親だというのに娘に対しての接し方に苦慮しているよ」 「あの子は自分の中に何もかも閉じ込めてしまう節がある。私の知らない事は多いのだろう」 どうやら一般的な親子の関係は九條親子に当てはまらないようだ。九條の性格を考慮すれば無理もない。 「時につかぬ事を聞いてもいいかな?」 「何だろうか」 九條剛三は周囲の確認をした後こう言った。 「君は人間か?」 「…………」 私は返答に躊躇した。 事実を述べるのであれば、すぐに否定するべき問いだ。私は人間ではなく“《イデア》〈幻ビト〉”である。 しかしそれを公言する事は禁じられており、尚且つ知識のない者に“《イデア》〈幻ビト〉”の名を出しても理解はされないだろう。 私が沈黙しているのを察してか、九條剛三は質問の仕方を変えた。 「言い方を変えるとしよう。君は“《フール》〈稀ビト〉”か、もしくは“《イデア》〈幻ビト”ではないかな?」 より質問の内容が具体化される。眼前の男は“《ユートピア》〈幻創界〉”の存在について認知しているようだ。娘が“《フール》〈稀ビト”である以上、その近親者が知り得ていても不思議ではない。 「九條から聞いたのだろうか?」 「美月からはただの知り合いとしか聞かされていないよ」 「もし君が何も知らなければ、九條グループの社長は支離滅裂な事を口走ると噂が立ちかねないところだった」 「では何故私が人間かどうかを疑う?」 「君の瞳には人間とは違う光が宿っているような気がしてね。つまりなんとなく、だ。間違っていたら謝るよ」 否定すべきか否か、しばらく逡巡するが九條の父である事を考慮して話しても問題はないと結論付ける。 「間違ってはいない。私はあなたの予想通り、“《イデア》〈幻ビト〉”だ」 「やはりそうか」 九條剛三は納得したように顎を撫でる。 「“《ユートピア》〈幻創界〉”についての知識があるとはいえ、見破られるとは思わなかった。人間らしい振る舞いには自信があったのだが」 彼の言うように目を合わせるだけで人間との違いが判別できるのであれば、いくら私が人間のふりが上手かろうとも意味を成さないではないか。 「人間は人間である事を疑わない。だからこそ、心無い者が現れるのかもしれないな」 「どういう意味だろうか? 人間は人間以外の何者でもない」 「年を取るとね、物事の捉え方に変化が生まれるものだ。年寄りの戯言と聞き流してくれればいい」 「君が人ではないと思った理由はもうひとつある。美月はある経験によって、他人を拒む傾向になってしまった」 「ある経験? 九條が“《デュナミス》〈異能〉”を使った話だろうか」 「ほう、そこまで聞いているのか。思った以上に娘は君を信用しているようだ」 その自覚は全くないのだが。 「あの子は“《フール》〈稀ビト〉”になってしまった事で他人に心を許せなくなった」 「人間、“《フール》〈稀ビト〉”、“《イデア》〈幻ビト”という括りを誰よりも気にしてしまっている」 「だからこそ、普通の人間とは違う君には警戒心が薄らいだのかもしれないな」 「しかし今でこそ会話が成り立つが、出会った当初は自分の言い分を押し付けていた」 「なるほど、では娘は“《イデア》〈幻ビト〉”だからという理由で君と打ち解けたわけではないのだな」 「つまり君自身が信用に値する人物だったという事だ」 「先ほどからあなたは評価してくれているようなのだが、私には思い当たる節がない」 「信用とは意図的に得る場合と無意識下で相手に与えるものがある。どちらに価値があるかは明白だ」 「……難解だ。信用についての詳しい説明が記載されている書籍があれば教えてほしい」 「ハハハ、君はおもしろいな。娘が気に入るのもわかるよ」 冗談を言ったわけではないのに笑われるのは気分が悪かった。 「では私も君を信用する事にしよう。今から聞かせる話は他言無用でお願いするよ」 「内密な話だろうか」 九條剛三は再度周囲を確認した後、ゆっくりと口を動かした。 「君は“AS9”という薬剤を知っているか?」 私は小さく頷く。 AS9―― この街に住む――いや世界中に現存する人間なら誰もが知っているワクチンの名称だ。 「“ナグルファル症候群”の治療に使われたのだろう」 「そうだ。新種のウイルスに対する特効薬として当時はあまり規模の大きくなかったAS社が開発した薬だ」 「現在AS社はその後継となるワクチン“AS9+”の開発を秘密裏に行っている」 「“AS9+”? 何故今さら“ナグルファル症候群”に対する薬を開発する必要があるのだろうか?」 “ナグルファルの夜”に端を発するパンデミックは既に収束している。原因不明の奇病に冒される者はもういない。 「名称こそ似ているが効能は全く違う。“AS9+”とは“《フール》〈稀ビト〉”から“《デュナミス》〈異能”を取り除く薬だ」 「“《デュナミス》〈異能〉”を取り除く? それはつまり人間に戻すと言う事だろうか」 「わかりやすく言えばその通りだ。私は “《フール》〈稀ビト〉”も人間だと思っているから人間に 戻すという表現はあまり好きではないがね」 「すまない、気分を害したのであれば謝罪しよう」 「ん? ああ、君が気にする必要はないよ。捉え方の瑣末な違いだけだ。何も間違ってはいないよ」 “AS9+”――“《フール》〈稀ビト〉”から“《デュナミス》〈異能”を除去する薬。 「それがあれば九條の悩みも解決するのではないだろうか」 「そうだね。だから私はAS社に出資していると言っても過言ではない」 「母もいないあの子にはそれくらいしか親としてしてやれる事が見当たらない。私は経営者としての才はあっても父親としては失格だ」 「…………」 親としての義務は子供が成人を迎えるまで扶養する事だ。経済的にも不自由をさせていない彼が失格とは一体どういう事なのだろうか。 「おっと、話が逸れてしまったね。本題に戻ろうか」 九條剛三は会場内に視線を移した。 「そういうわけでこのパーティにもAS社の人間が何人か招待されている。君も“《イデア》〈幻ビト〉”であればAS社に知り合いの一人でもいるのではないかね?」 「知人は一人もいない。訳があって私はAS社と距離を置いている。できればあなたも私の事は口外しないでほしい」 知人ではないが顔を知っている者なら一人だけいる。アイドルとしての顔なら私以外も周知しているだろうが。 「そうか。ではこの会場に来たのは都合が悪かったのではないかね?」 「AS社と九條グループに繋がりがあるとわかっていれば遠慮したかもしれない」 「事案が事案だけに表立ってAS社を支援しているわけではないからね。君が知りえなかったのも無理はないな」 「あなたが黙っていてくれれば彼らの目に留まる事はないだろう。私は人間のふりをするのが上手い」 「ハハハ、ならもう少し顔の力を抜く事をおすすめするよ。君の目には力があり過ぎる。事情を知らない者でも気を張ってしまうよ」 「……そうなのだろうか。今後気をつける事にしよう」 顔の力を抜くとは一体どうすればいいいのだろうか。元々力を入れているつもりはないのだが。 「しかし今の話、どうして私に話したのだろうか」 九條グループとAS社の繋がり、“AS9+”の存在――そのどれとも私が関係しているようには思えない。 「さあどうしてだろうな。君には話しておいた方がいい。それが美月のためになると思ったのだろうな」 「私がこの話を知る事で九條に利益をもたらせるとは思えない」 九條の悩みを解決する術があったとしても、その手助けをできるわけでもない。残念ながら薬剤の開発に携わった経験はない。 「美月は人間に戻る事に執着している。そのために周りが見えなくなるのではないかと心配なのだよ」 意志の強さは時に暴走を招く。何も九條に限った話ではなく、人間の歴史においてそのような人物が世界に影響をもたらした事例は数多く存在している。 「それがあなたからの業務依頼とあれば引き受けよう。丁度九條の傍にいる理由もある」 「依頼? ハハハ、ならば報酬は娘でどうかね? 親バカと言われるかもしれないが良くできた娘だ」 「報酬が九條? 彼女は人間であって金銭ではないが……」 「あっれ~、九條社長じゃないですかー」 「ああ、君か」 九條剛三に歩み寄る人影。スーツ姿の人間が多い中、その男はカジュアルな服装に身を包み砕けた雰囲気を纏っていた。服装に関しては私も他人の事を言えないのだが。 「もしかしてお話の最中でした? 邪魔しちゃってスミマセンねぇ」 「いや構わない、進捗の件だろう。向こうで話そう。赫君、済まないが仕事が入ってしまった」 「私の事は気にしなくていい。業務は何よりも優先すべきだ」 「仕事よりも大事な物はある。しかし頭ではわかっていても実行するのは困難だな」 九條の父は自虐的な笑みを残して男と二人で歩いて行った。 「何か大事な事を忘れているような――」 一人になり思考を巡らせる時間が訪れると、放置していた案件を思い出した。 「ひまわり」 その名を口にしながらひまわりの腰掛けていた椅子の方に振り返る。 予想外……いや、必然と言うべきかもしれない。山盛りの料理とひまわりの姿は忽然と消えていた。 その場から動いてはいけない――確かに私はそう忠告するのを失念していた。かと言って過去に戻りひまわりに勧告したところで未来が変わったとも思えないが。 私は半ば諦めを抱きながら会場内をぐるりと見渡す。すると予想は良い意味で裏切られた。 ガラス張りの窓際に見慣れた後姿を見つけ、見失わない内にと歩みを進める。 「だからー、ケンカしちゃダメだってば」 「ひまわりさん。これは喧嘩などではありません。一方的に言いがかりをつけられているだけです」 「言いがかりなどではありませんことよ! そういう態度が人の神経を逆撫ですると言っているのですわ!」 ドレス姿の女性に挟まれる形でひまわりは互いを静止していた。 「どうかしたのだろうか」 「あ、あかしくん!」 背後の存在に気がついたひまわりは、助けを求めるような目で私を見上げた。 「みつきちゃんとりりかちゃんがケンカするんだよ。ひまわりはなんどもやめてっておねがいしてるのにぜんぜんきいてくれないんだよ」 「キミが二人を仲裁してたのだろうか。キミにしては思いがけぬ見上げた行動だ。てっきり腹を空かせて料理を探しに行ったのだとばかり思っていた」 「ゴハンの後のデザートをさがしてたらね、みつきちゃんとりりかちゃんがケンカしてたんだよ」 「だからひまわりはとめなくちゃって思ったのです」 やはり私の認識はズレていなかったらしい。 「…………」 「…………」 「喧嘩の原因は何なのだろうか」 「通り魔に襲われるのは喧嘩とは呼びません」 「通り魔とは失礼な!」 「だってそうでしょう。私の姿を見つけるやいなや、無条件につっかかってくるではありませんか」 「私を気に入らないのなら放っておいて下さい。私も貴女の事は嫌いですから。そしてそのキーホルダーはいりません」 「そ、そんな……!?」 北条院の背後にあるダンボールの中には、梱包された大量のキーホルダーが入っていた。 「これは何だろうか?」 「知りませんの? 大分昔に一大ブームになったマスコットキャラクター“ニャルえもん”ですわ」 北条院の手にぶら下がっている金属の塊。動物のようだが該当する名前は出てこない。 「ほしいのでしょう?」 「いや、特には必要ない」 「なっ!? 版権を買い取って我が社で大量発注した“ニャルえもん”がいらないですって!? 発売前のプレミア商品ですのよ!?」 「使用用途が不明だ。お守りの類ならば私は信用していない」 「……かわいいのに……どうして誰も受け取ってくれないんですの……」 どうやら後ろにあるダンボールは無償で配布するためのものらしい。 とはいえ北条院の落胆する様子からも察するに、あまり好評ではないのだろう。ダンボールの中には溢れんばかりのキーホルダーが入ったままだ。 「ひまわりならばほしいのではないだろうか。子供にはキャラクター商品の受けがいいのだろう」 「ほ、ほんとですか!? あなた、これ欲しいですか!?」 「いやべつに。だって食べれないんでしょ?」 「キィーッ!! 誰も“ニャルえもん”の魅力がわからないオバカさんばかりですわ!!」 「あとでやっぱり欲しいといってもあげませんからね!!」 北条院は鼻息を荒くしながらダンボールを持って立ち去っていった。 「…………」 キーホルダーの良し悪しはともかく、九條は名指しで北条院を拒絶したが、実際は他人との関わり自体を拒んでいるのだろう。 九條のスタンスは明確だが、わざわざいさかいが起きるのを承知しているにも関わらず、九條に接近する北条院の真意は未だ不明だ。 「……ふぅ」 「何故キミは彼女と言い争うのだろうか」 「私を疎んでいるのでしょう」 「あの人は私が“《フール》〈稀ビト〉”である事を知らないというのに、あれだけ私を目の敵にできるのですから大したものです」 「キミが他人と相容れない理由は理解できる。しかし彼女はキミを拒絶した者達とは違うのではないだろうか」 「何が違うと言うのですか」 「上手く言語化できない。しかしどんな形であれ彼女は自らキミに歩み寄っているように見える。違うだろうか」 「そうですね。私を放っておいてくれない分、他の人よりも厄介です」 「みんななかよくしないといけないんだよー」 ひまわりは細かな事情など考慮せずに結論だけを主張する。それでは相手を納得させる材料は不十分だ。 「そうですね、見苦しい物をお見せしてすみませんでした。ひまわりさん、あっちにケーキがありますから一緒に食べませんか」 「え!? ケーキさん!? いくいく! ひまわりケーキさんたべる~♪」 会話の方向を操るのは人生経験に勝る九條に及ぶわけもなかった。 ひまわりはそれまで必死に訴えていた内容など頭から抜けてしまったらしく、その部分には代わりにスポンジとクリームが押し込まれたようだ。 キミが満足するならば頭のケーキを引きずり出そうとは思わない。満足するまでその身を満たせばいい。 再びひまわりを見失ってしまわないよう、二人の後を追った。 「本日は大変お忙しい中、多数のご出席を頂きまして熱く御礼申し上げます」 「つきましては九條グループ取締役社長、九條剛三より挨拶を申し上げます」 会場内から巻き起こる無数の拍手に応え、壇上へと九條剛三が姿を現す。 「皆さんこんにちは、九條剛三でございます。本日は九條グループ創立二十周年記念パーティにご足労頂き大変恐縮でございます」 会場内の人間は誰もが九條剛三に向き合い、耳を傾けている。周囲の光景は人間社会に蔓延っている強者と弱者の関係を体現していた。 「父は何か変な事を言いませんでしたか?」 「変な事とは一体どういうものだろうか。キミの基準については不明瞭だが少なくとも私にとって有益な情報を得る事ができた」 「有益な情報、ですか……?」 九條グループとAS社との関係―― この会場内にもAS社の社員がいるという話だ。彼らとの関わりが生まれる前に、頃合を見計らって帰路に着くべきだろう。 「“AS9+”というワクチンの存在について聞かされた。それがあれば“《フール》〈稀ビト〉”が人間に戻る事ができると」 「……そんな事まで話したのですね」 九條が私の元を訪れた理由――例えば“AS9+”と関連付けて考えてみるのはどうだろうか。 薬の開発、または使用に対しての交換条件として“上司”の命令に従っている。そう考えられなくもない。 九條は私達とは違い、社会的に申し分のない立場を手にしている。少々強引な一面はあるが普通の女子学生と何ら変わりない。 相違点があるとすれば彼女は“《フール》〈稀ビト〉”であるという点だ。九條は自らの“《デュナミス》〈異能”によって過去を悔やみ他者を拒絶して生きている。 彼女が“AS9+”に固執する理由は何となくわかる。しかし―― 「キミは人間を敵視している。しかし本音はどうなのだろうか」 「本音、とは……?」 「キミは人間に戻れる機会があればどうするつもりだろうか」 「……もちろん“《デュナミス》〈異能〉”が捨てられるなら私は何をしてでもその道を選びます」 「矛盾、ではないのだろうな」 「矛盾……?」 「人間に戻りたいと願う願望は、キミを拒絶した者達と同じになりたいと……そう思う事と同義では、と私にはそう思えた」 「…………」 「しかしキミの“《デュナミス》〈異能〉”を捨て人間に戻ろうとする心情が理解できないわけではない。どちらが正しいのか、私には判断ができない」 言葉の足りない私を九條は許すかのごとく小さく微笑んだ。 「……心の風向き、風の吹いた理由など自分自身にも説明できないものですよ」 「それでも普通の人間に戻りたいと願う気持ちに偽りはありません。私にとって“《デュナミス》〈異能〉”は無益の長物ですから」 九條の言葉に嘘はないのだろう。私には理解できなくとも、確かに彼女は“《フール》〈稀ビト〉”である事に嫌悪感を抱いている。 “上司”が彼女を操る材料として“AS9+”はその役目を十分に果たせるだろう。 「以上を持ちまして九條剛三よりの挨拶を終了させて頂きます。続きまして――」 話しているうちに挨拶が終了したようだ。 司会の女性は続いて来賓客の代表として“AS社”の役員を壇上へ促した。 私の目は異変を見逃さなかった。 「おい何やってんだ! さっさと運ばないと上の奴らにドヤされるぞ!」 「待ってくださいよ! センパイも拾うの手伝ってくださいよ」 「グズグズしてんじゃねーよ。さっさと片付けて行くぞ」 「わかってますって。あれ?」 「どうした」 「この機械なんすかね? なんかピーピー音鳴ってますけど」 「しらねぇよ。いいからそんなモンおいといてさっさと行くぞ」 「そうはいかないっすよ。落し物かもしれないしフロントに持っていかないと」 「それにしても謎の機械っすね。ほら、よく洋画で出てくるアレに似てませんか」 「あれってなんだよ」 「爆弾っすよ爆弾。ほら、裏側にタイマーもついてる。うわぁ、それっぽいなぁ」 「お、おい……それもしかして」 「え――」 「ヒッヒッ――あひゃっ!」 壇上に上がったAS社の男は見るからに冷静さを欠いていた。会場内にざわめきが起きる。 「あの方、平静ではないように見えますが……」 「ああ、私もそう思う。それと話は変わるのだが何か聞こえなかっただろうか」 「何か、とは……?」 「遠くで爆発音のような音が――」 私の言葉は壇上の男によって掻き消された。 「わ、私は何も知らない――!! 何も悪くない! 助けてくれぇ――!!!」 小太りの男は半狂乱に陥りながら何者かに助けを請う。 私は気づく―― 男は脂肪を蓄えているわけでなかった。豊満に見せていたのはスーツの下に何かを忍ばせていたからだ。 一時の静寂が男の動向を見守っている。 静まり返った会場内に無機質な電子音が鳴り響く。 「ぎゃあああああああああああああああああああああああ――!?!?」 獣の断末魔を想起させるけたたましい叫びを上げた瞬間―― それまで人間だった男は細かな無数の肉片と化した。 男が懐に忍ばせていたのはどうやら爆発物の類だったようだ。 「キャアアアアアアアアアアアアアアアア――!?」 僅かな沈黙の後、壇上近くにいた女性が悲鳴を上げる。 破裂した肉片をもろにかぶり全身が血で染まっている。彼女に足元には眼球と見られる球体が転がっていた。 一人が端を発したのを皮切りに何人もの人間が同じように悲鳴を上げる。 その場から動けないでいる者、喚きながら逃げ出す者――一瞬にして会場内はパニックに陥った。 「ねぇねぇあかしくん、今の音なに? ひまわりの背じゃ見えないよー」 「面倒な事が起きたようだ。私達も外に出た方がいい」 普通であれば人間は爆発したりなどしない。その事象ひとつを取っても現在の状況が異質である事は明白だった。 人間が死ねばその周りに別の人間が集まる。場合によっては私達の身柄も拘束されるかもしれない。それは避けねばならぬ事態だ。 私がひまわりの手を引き、会場の出入り口に足を向けたその時―― 「きゃあっ!?」 地震のような大きな揺れが足元を襲い、ひまわりはバランスを崩して転倒した。 彼女だけではない。周囲の人間も己に降りかかった不慮の事態に戸惑い動けずにいた。 「この場から許可なく立ち去る事は許さない――」 くぐもった低い声が会場内の人間に向けて命令を下した。 誰もが無意識のうちに声のした方へと視線を移す。 血で染まった壇上の上に、ゆっくりと白い影が姿を現した。 「いい反応だ。俺が認めるまで、誰一人勝手なマネはしないでもらおう」 全身白い防護服のようなものに身を包み、顔はガスマスクによって隠されている。 マスクの男は足元のおびただしい血液を気にする素振りもなく、水音を立てながら歩みを進め立ち止まった。 「お前達の疑問は手に取るようにわかる。俺が解を示してやろう」 マスクの男は床を指差した。 「ホテルの20階――この会場が25階であるから5階分下だ。そこの階段に続く廊下を爆破した」 「同時にエレベーターの稼動を無効化した。この意味がわかるか?」 階段とエレベーター―― 両者に共通するのはどちらも階層を行き来するための移動手段であるという点だ。 それが機能を失ったとあれば、顕在化する問題は容易に想像がつく。 「お前達は地上に降りられない。救援部隊の到着もままならない。つまりこの場所から逃げる術はないという事だ」 にわかに会場内が動揺の色で染まる。それもそのはずだ。ホテルを爆破して人間を監禁する事は彼らの法によって禁じられている。 しかもここまで大仰な行為に及んでしまえば厳罰に処せられるのは間違いない。マスクの男がそれを理解していないとも思えない。つまり彼には重罰を受けるリスクを背負う覚悟があるのだ。 「あかしくんあかしくん、いったいなにがどーなってるの?」 「状況を詳しく説明するには情報が足りない。ただ間違いないのは面倒な事に巻き込まれたのは間違いない」 彼は私達の行動を縛った。未だ不明なのはその真意である。 何故マスクの男は蛮行に及んだのだろうか。誰もが抱いているであろう疑念について、ある者が皆の代弁を図った。 「何故君はこんな事をした? 彼を殺したのも君なのか?」 九條剛三は一人、マスクの男に近づいていく。周囲の人間は怯えた様子でその背を見守る事しかできない。 「彼、とは足元で細切れになっているこの肉の事か? 九條社長」 マスクの男は床に散らばっている中でも比較的大きな肉の塊を踏み潰す。 「っ――」 「この男は話を円滑に進めるために死んでもらった。彼のおかげでお前達は己の状況を理解しやすかっただろう?」 「それだけのために命を奪ってもよいというのか!?」 「あまり大きな声は出すな……耳障りだ」 マスクの男は人差し指でこめかみを叩いた。 「もちろん無差別にこの男を選んだわけじゃない。この男は“AS社”の人間であり、俺には殺す理由があった。それだけだ」 「こんな事をしてタダでは済まないぞ。騒ぎを嗅ぎつけた突入隊が来るのも時間の問題だ」 「それに……この場にいる者も黙って君に従う理由はない」 「止めておけ。このホテル内には俺が掌握する爆破装置が至るところに設置されている」 「もちろんこのフロアを丸ごと爆破する事も可能だ。俺を拘束しても意味はない。ここにいる全員の行き先は地上じゃなく空の上だ」 「……君の要求は何だ? 我々を人質にとってどうするつもりだ。金か?」 「勘違いしているようだな。俺はお前達を盾に何かを要求するつもりはない」 「では君の目的は一体――?」 マスクの男は両耳に手を添えるような素振りを見せる。 「今からこの場にいる全員に問う。質問が終わるまで誰も発言するな。もし一人でも戒めを破れば全ての爆弾を起爆させる。いいな?」 物怖じしていなかった九條剛三でさえもたじろぐ。 「むぐっ!?」 私は咄嗟にひまわりの口を塞いだ。 「七年前、“ナグルファルの夜”が明け、人類は絶滅を免れた」 「誰のお陰かと問われれば、おそらく大多数の者が“Archive Square”だと答えるだろう。彼らの作り出した“AS9”の恩恵だと」 「しかし現存していた世界中の研究機関が成し得なかった事を、何故“AS社”はいとも簡単に実現できたのか」 「その事に誰も疑念を抱かない。無知でいる事に甘んじている」 「真実に手を伸ばせ。俺がその扉を開けてやる」 静寂に包まれた会場内に男の声が響き渡った。 「“AS9”は奇跡の特効薬などではない。 “《フール》〈稀ビト〉”が生み出されたのは“AS9”が 原因なのだから」 「…………!?」 反射的に口から飛び出しそうになる言葉を寸でのところでどうにか押さえ込む。 “AS9”が“《フール》〈稀ビト〉”を生み出した原因だと男は言った。 そんな事実は今まで聞いたことがない。合わせて男の口から “《フール》〈稀ビト〉”という単語が出た事にも疑問を感じる。 誰もが周知するワクチンと違い、“《フール》〈稀ビト〉”の存在は“AS社”の手で意図的に伏せられており、ただの人間が知る由もないはずだ。 マスクの男をただの人間と形容しても良いか迷ったがこの際問題ではない。 「ぐあああああっ――!!!」 マスクの男による命令に従い、会場内はしんと静まり返っていた。 静寂を切り裂いたのは他でもないマスク男本人だった。 「ハァ……ハァ……」 突如として苦しみだしたマスクの男は荒々しく呼吸を繰り返しながら両手で頭を押さえている。 次第に呼吸は落ち着き、何事かと見守る観衆に向き合った。 「不便な身体に怒りを覚える。だがこれでゲームを始める事ができる」 前かがみだった身体を気だるそうに後ろへ反りながら私達を指差す。 「俺が呼んだ人間は前に出ろ。抵抗は許さない。言われた通りにしろ」 そうしてマスクの男は次々に人の群れから指名を繰り返していく。 「そこのふざけた格好をした男とウェイター姿の男。九條社長、あなたも前に出てもらおう」 数人の男がマスク男の指示に従い群れから抜け出して前に出る。 「後はそこのドレスのお前と――」 選ばれた者の中に私と関係のある人物が混じっているのに気づいたのも束の間―― マスクの下に隠された視線が私を射抜いた。 「赤髪の男と隣にいるドレスの女。二人とも前に出ろ」 マスク男が最後に指名したのは他でもない、私と隣に寄り添っていた九條の二人だった。 男の前に連れ出されたのは私を含め6人の男女だった。 「他の者は向こう側に下がっていろ。次に指示するまで大人しくしているんだ」 状況が好転したわけではなかったが、マスク男から離れていく者の多くは一様に安堵の表情を浮かべていた。 それもそのはずだ。多くの者は残された私達を憐憫の眼差しで見ている。常識的な観点から言えば、私達はさらに困難な状況へと陥ったと言える。 「一体どういうつもりだ。私達に何をさせる気だ」 「大きな声を出すな。あなた達にやってもらう事はこれから説明する」 「何をさせるにせよ、女子供を巻き込む必要はないだろう。彼女達は解放したまえ」 選び抜かれた6人のうち、2人は彼の言うように女性だった。 「わ、私はどうすればよいのです?」 「落ち着いて下さい。焦ってもどうにもなりませんよ。あなたの言動で皆の命が危険に晒されるかもしれないのです」 「これが落ち着いていられますか! どうしてあなたはこんな時でも憎たらしい台詞しか吐けないのですか!?」 「静かにしろと言ったはずだが」 「は、はい! 申し訳御座いません――!!」 「…………」 「わかればいい。何もすぐに殺すと言ってるわけじゃない。言うとおりにすれば命は助かる。簡単な公式だろう?」 「は、はい……」 北条院は怯えた様子で小さくなる。 なおも九條剛三は北条院と九條の解放を求めマスクの男に詰め寄っている。 その隙をついて隣に立っていたマスターが小声で話しかけてくる。 「大変な事に巻き込まれてしまいましたね」 「まさか私達が選ばれるとは思わなかった。これと言った共通点は見当たらないのだが」 選ばれたのは私と九條、九條剛三に北条院。 それと隣に立つマスターと、少し離れた場所にいる砕けた雰囲気の男。確か九條剛三に話しかけてきた男だ。 「この騒ぎですから既に警察が地上に駆けつけているはずです」 「しかし彼の言葉が真実なら、救出隊が到着するまでに時間がかかるでしょう。通路をふさがれてしまってはどうする事もできません」 「下が駄目なら上からはどうだろうか。私は乗った事がないのだが、ヘリコプターという物がある」 「確かにこのホテルの屋上にはヘリポートがありますが、それももちろん彼は考えているでしょう」 「ヘリで気づかれないように近づくのはほぼ不可能です。人質を盾にすれば警察もヘリでの突入を断念するでしょう」 「なるほど。それでは外部からの助けは望めないというわけだ」 ホテル内部に残された者達でどうにかするしかないようだ。とはいえ見渡す限りにおいてマスクの男に反旗を翻す気配のある者はいない。 心配そうに私達を見守る群衆を見れば、抵抗の意思を露にしていないだけだと楽観的に考る余地も与えてくれない。 「…………」 ここからマスクの男が立つ場所までそう離れてはいない。 一足飛びで距離を潰し、マスク男を拘束――延いては排除する事はそう難しくはない。 面倒事の元凶を取り除くべきか思案していると静止するかのようにマスターが語りかける。 「しばらくは彼の要求に従い、様子を見た方がいいでしょう。手の内が見えてくれば対応策も打てるでしょう」 「マスターの言葉に従おう」 「ふふっ、従うのは私ではなくマスクの彼に、ですけどね」 仮にマスク男の隙を突き、行動の自由を奪ったとしても私達の安全が保証されるわけではない。彼の持つ爆弾について何も知らないのだ。 さらにこの会場内には“AS社”の者が混じっている。彼らの目を引く行為に及べば別の問題が発生してしまう。ここはマスターの言う通り自重すべきだろう。 「まあまあ社長、あんま怒らしちゃまずいでしょ。ここは大人しく従っとかないと。ね?」 はだけたシャツを直そうともしない長髪の男が九條剛三を諌める。先ほどの様子を見る限り、二人は顔見知りなのだろう。 「くっ――!」 「そうそう。交渉の手綱は向こうが握ってるんだから。こっちはとりあえず大人しくしないと殺されちゃっても文句言えないよ」 「しかし娘を危険な目に遭わせるわけには!!」 「大声を出すな。次に騒いだらあなたの娘を殺す」 「っ…………」 九條の命を盾にされ、さしもの九條剛三も大人しく引き下がらずを得なかった。 「それではゲームの準備を始めよう。そこのお前」 「私だろうか」 「椅子を七つ、円を描くようにしてここに並べろ」 マスク男が指差した壁際には背もたれのない丸椅子が重ねられていた。 「用意したらお前達七人、そこに座れ。席順は好きにしろ」 「君の分を抜けば全部で六つ用意すれば事足りると思うのだが」 「二度も言わせるな。お前達《・・》〈七人〉だ」 私は周囲を見渡す。マスター、九條とその父。 北条院と長髪の男に私。何度数えなおしても人数と椅子の数が合わな―― 「およよ?」 背後を振り返ると眼下にひまわりの形をした髪飾りが目に入った。 「……何故キミがここにいる」 「あかしくんがいっしょにいなさいって言ったから」 普段私の忠告など耳を貸さないではないか。何もこんな時に限って悔い改めなくてもいいのではないだろうか。 「キミは呼ばれていない。向こうに戻って大人しくしていてほしい」 「そうはいかない。七人と言っただろう? その娘にもゲームに参加してもらう」 「ゲームするの? だったらひまわりもやるー♪」 頭を抱える――という表現はこういった状況下において使うのだろう。 「ひまわりさんには無理です。こんな小さな子供なのですよ」 九條もひまわりの参加に異を唱える。事情は違えど私達にとってひまわりは失ってはならない存在なのだ。 しかし九條の言い分も聞き入れられる事はなかった。 「安心しろ。子供にもできる簡単なゲームだ」 「一体何をさせるつもりなのだろうか」 マスクの男は防護服のポケットから何かを取り出した。 四角いケースに収納されたカードのようなものだ。“消閑の綴り師”が使用していた道具に似ている。 「トランプ?」 「お前達には今からこのトランプを使って命を奪い合ってもらう」 「具体的に何をすればいいのだろうか。トランプを武器として戦えと?」 「ハハッ、おもしろい冗談だ。こんな状況でもまだ余裕だな」 冗談を言っているつもりはない。腹立だしさを覚えるがもちろん口には出さない。 「生憎トランプを振りかざして戦うわけじゃない。お前達にやってもらうのは――」 ケースに入ったトランプを顔の近くにかざす。マスクの奥に隠された男の口元が吊上がったような錯覚を思えた。 「――ババ抜きだ」 「渡した資料は読んでくれたか?」 「ええ、今見てますよー」 「誰か~男の人呼んで~!」 「ふふっ」 「おい、読んでねぇじゃねぇか」 「読んでましたよ。でもつまんない事しか書いてないんですもん。そりゃ目の前でおもしろDVDが再生されてたらそっち見ますよ」 「ったく。時間がなかったんだからしょうがねぇだろ。一日二日でかき集めたんだから文句言わないでくれ」 「あーはいはい、急なお願いでしたからねー。わかってますよー」 「チッ、まあその様子じゃ最後まで見てねぇようだから口頭で伝えとくぜ」 「この資料に有益な情報があると?」 「聞いて驚け。九條グループは“AS社”と深い繋がりがある。どうも裏ではキナ臭い研究をしてるらしいぜ」 「……それは本当ですか?」 「期間が短すぎて裏は取れてないけどな。だが先祖代々続いてきた探偵の血が間違いないと言ってる」 「……裏で行ってる研究……不明……“AS9”……」 「よく聞こえませんよ」 「……切れた。こんな場所ですから電波が悪いのはいつもの事ですけど」 「続きはまた後で。とりあえず電波のいい場所でかけなおさないと。あぁめんどくさい」 「番組の途中ですが緊急ニュースです。本日午後4時頃、東雲首都ホテルにおいて爆発事故が発生しました――」 円を描くように並べた七つの椅子―― そのひとつひとつには椅子と同じだけの人間が腰を下ろしている。 私を人間と形容するのは間違いだか、細かな表現については割愛しよう。 「で、言う通りに並びましたけど? こっからどうすりゃいいんですかねぇ」 「漆原君、娘達の命がかかっているのだ。軽率な発言は慎みたまえ」 「大丈夫ですよ社長。俺、地元でも空気読める事で有名ですから」 漆原と呼ばれた長髪の男は悪びれた様子もなく九條剛三の肩を叩いた。 椅子に座った並びはこうだ。私から見て時計周りにひまわり、マスター、北条院と続きその横に漆原が陣取っている。 さらに九條剛三に並び、九條が位置している。私の左側にひまわり、右側には九條といった形になる。 「位置についたようだな。それではカードの配布に移る」 最も安全――つまりは、インチキ行為をしなさそうなひまわりがカードをシャッフルを行い、それぞれにカードを配る。 「こんな事をさせて一体何が目的だ。私達のババ抜きを見ても仕方がないだろう」 「鑑賞させてもらうのが目的だよ。俺は物事を観測するのが好きなんだ」 「いくつか補足しておいてやろう。何も知らぬまま命を危険に晒すのは心苦しいだろうからな」 マスク男はぐるぐると円の周りを歩き始める。 「俺の目的はある人物を見つけ出す事だ」 「そしてその人物は、この中にいる」 僅かだが男の語尾に力がこもる。 「この中にいるのであれば、何故こんな事をする必要があるのだろうか」 「俺はそいつの名前と人相を知らない」 「分かっているのはそいつが“AS9+”の開発責任者という事だけだ」 「“AS9+”――!?」 「心当たりがあるようだな。しかしそれは九條社長だけじゃないだろう。この中にいる者はその存在を知っていても不思議じゃない」 “AS9+”――“《フール》〈稀ビト〉”を人間に戻す薬。 つい先刻九條社長からその名称を聞かされた私もマスク男の言葉に該当する一人だった。 「俺の目的を気にする者が多いようだから教えてやろう。俺は“AS9+”開発者を見つけ出し、そして殺す」 「これはそいつを炙り出すためのゲームだ」 マスク男の目的は判明したが、それでは合点がいかない。 同様の疑問を抱いた者はいたらしく、私の疑念を代弁した。 「まさかババ抜きをしてその者を見つけ出すと……?」 「その通りだ」 「馬鹿な!? ババ抜きなど所詮運に左右されるではないか! こんな茶番で命を奪われるなど承服できない!」 「大きな声を出すなと言っただろう……? 不服ならば娘もろとも先に退場してもらう事になるぞ」 「くっ……」 「確認させてほしいのだが構わないだろうか」 「何だ」 「キミは“AS9+”の開発者を見つけ、殺すつもりでいる。このババ抜きはその開発者を見つける事が目的で、負けた者は死ぬ。間違いないだろうか」 「概ね間違っていない」 「つまりキミはこのババ抜きで負けた者が“AS9+”開発者であると考えているのだろうか」 「必ずしもそうはならないだろうな。所詮七分の一だ。別の者が負ける可能性もあるだろう」 「お前の疑問は最もだ。それに対する俺の答えはこうだ」 「黙って言うとおりにしろ」 「なるほど。理解した」 マスク男の論理は破綻している。しかし全くのアテがないようにも思えない。 彼の言動は思慮の深さを感じさせる。この状況も前準備を周到に行わなければ実現しなかったはずだ。 そう考えれば彼の中には口にしていない腹案があるとみて間違いないだろう。 「仮に最後まで“AS9+”の開発者が誰なのか判明しなかった場合は仕方ない。無関係の者には申し訳ないが、全員死んでもらう」 「そ、そんな……」 あまりにも理不尽な提示にその場にいた者が息を呑む。 「もちろんそいつがこの場で名乗り出ればゲームは終了だが?」 マスク男の問いかけに手を上げる者は誰もいなかった。 「だと思ったよ。想像通りで助かる。俺も拍子抜けは御免だ」 「最後にもうひとつだけいいだろうか?」 「言ってみろ」 「キミが探しているのは“AS社”の研究者だろう? だとすればこの時点で除外できる者がいる」 もちろん私にも身の覚えがないのだが、マスクの男が信じるとは思えない。 しかし彼女達なら疑いようもなく該当者ではないと言えるだろう。 「九條に北条院、それにひまわりが“AS9+”の開発者であるのは不自然だ。彼女らは疑いの目から遠ざけるべきではないだろうか」 「駄目だな。女だとはいえ、学生に見えるとはいえ可能性がゼロじゃない。ゼロでないのなら切り捨てるわけにはいかないな」 「あなたはひまわりさんにもその可能性があると考えるのですか」 脳内でひまわりの白衣姿を想像しようとするが上手く形を作り出す事ができなかった。ひまわりの作った薬で人が助かるわけがない。 「可能性はゼロじゃない……とは言わないさ。こんな子供に俺達の人生を狂わされたとわかれば自分が馬鹿らしくなる」 「では……!」 「その子は“Archive Square”の研究者ではないだろう。俺が選んだ六人にも入っていなかっただろう」 「だったら今からでも彼女を外してほしい」 「その問いに対する解はNOだ。大事な物なら自分の手で守れ。奪われるのをただ見ている事しかできないのは弱者の言い訳だ」 再三に渡る要求はついに飲まれなかった。 「さて質問は以上だな。ではゲームを始めてもらおうか」 私達の手にはバラバラの数字が描かれたカードの束がそれぞれ握られている。 「ルールについては説明したとおり、普通のババ抜きと変わりない。だがひとつだけルールについて変更箇所がある」 「変更箇所?」 「そうだ。カードを引く順番は最初の者を基準にして反時計回りに進めてもらう」 「だが俺がコールした瞬間からそれまでとは逆周りにカードを引いてもらう。別に難解ではないだろう?」 カードを引く者と引かれる者が入れ変わるという事だろうが、それがゲームの進行にどんな影響をもたらすのか想像もできない。 「もうひとつだけ補足しておこう。このババ抜きのルールは相手からカードを一枚引く。次の者に引かれる」 「それさえ守れば何をやっても構わない。もちろん俺の機嫌を損ねるような事は論外だがな」 「それってつまり、相手のカードを覗いたり自分の手札を教えたりするのもいいって事?」 「生ぬるい手段だな。ここまで言えばわかるか? 相手を殺してカードを奪い取るのも認める」 「こ、殺すですって――!?」 「まあお前達がそれに及ぶとは思っていない。しかし俺の最低基準についてはわかっただろう」 「ほぼ何でもアリってことか」 相手を殺して自分の有利を引き寄せる―― 本来のババ抜きはどこまでいっても遊びであり、遊び相手を失っては成り立たない。 しかし最後の一人を生贄として捧げるこの場においては有効な手段のひとつかもしれない。 とはいえマスク男の言ったとおり、実行に移す者がいるとは考えにくい。 そんな事をしてしまえば仮にこの窮地を脱したとしても観衆の記憶に残る。“AS社”の関心を引いてはならないという戒め以前の問題だろう。 「それでは始めてもらおう。最初は配布を手伝ってもらったお嬢さんからにしよう」 ゲーム開始時にそれぞれが所持していた枚数―― 反時計周りに確認すると、私、九條、九條剛三がそれぞれ三枚の手札。続いて漆原が四枚、北条院が六枚、マスター、ひまわりが三枚のカードを有していた。 だが数巡の経過により状況は変化した。 「やったー♪ ひまわりのカードなくなったー♪ ひまわりの勝ちー♪」 まずはひまわりの手札がなくなりゲームから抜ける。 形勢に変化が訪れたのはマスターに順番が巡った時だった。 「それでは引かせて頂きますね」 「は、はい――!」 カードの確認をしているうちにマスターは北条院の手札に手を伸ばしていた。 開始時の枚数で言えば出遅れているのは北条院だと言えるだろう。六枚の手札を持つ者は北条院以外にいなかった。 「っ――!?」 「あ、すみません、驚かせてしまいましたか。故意ではありませんのでお許しください」 カードを引く際、マスターの手が北条院に触れたようだ。 「だ、大丈夫ですわ。それよりカードの方を」 「はい、それでは一枚引かせて頂きますね」 マスターは悩む素振りも見せず、右端のカードを引き抜いた。 「おっと、揃いましたね」 「ええっ――!?」 6のペアがテーブルに捨てられる。そしてマスターの手札がすべてなくなり勝ち抜けとなった。 「…………!」 北条院は見るからに焦っていた。無理もない、彼女も自分の置かれた立場を認識しているのだろう。 枚数が多ければペアの揃う確立が高いとはいえ、上がりが遠い事実は揺るがない。 しかも自分の手札から引いたマスターがペアを揃えたも、彼女を動揺させる原因だろう。 「ジョーカーはどれかなぁ……これかなぁ?」 「…………」 漆原の指が右から順にカードを撫でていく。北条院は表情を悟られないよう口を固くつむぎ、目を閉じてしまった。 目線や顔の僅かな動きを読まれないための措置なのだろう。私見だが彼女は他の人間よりも直情的である。格好は悪いがこの場においては効果的と言えるだろう。 「うわっ!? マジ必死じゃん! ヤバい、超ウケるんだけどっ」 「は、早くお引きなさいな!」 頑なな態度を取る北条院とは対照的に、漆原は余裕を保ったまま左端のカードに手を伸ばした。 「じゃあお言葉に甘えて。あ、その前にひとつだけ良い事教えてあげるよ」 「自分の愚かさが招いた結果を神様に委ねるしかできないのは無能である事の証拠だよ」 「だから俺は自分の力にしか頼らない主義。どう、かっこいいっしょ?」 漆原はそのままカードを引き抜こうとする。 しかし―― 「待て」 カードが北条院の手から離れようとした瞬間、マスク男によって静止された。 「…………」 漆原は動きを止めたまま動かない。唯一変化があったのは先ほどまでの余裕がその顔から消えていたことだ。 「そのカードを戻せ。代わりに右端のカードを引くんだ」 マスク男は漆原のカード選択を認めず、違うカードを指定した。 「……そういうのもアリなの?」 「逆らっても構わない。ただしその場でお前の負けにするがな」 ゲームを支配している者に逆らうなど、一介の参加者に許されるはずもない。 漆原は指示に従って引きかけたカードから手を離し、指定された逆側のカードを引いた。 「皆に見せてやったらどうだ? 他の者が気になっているぞ」 「やっぱり男に厳しくない?」 然したる抵抗もせず、漆原は手にしたカードの表を皆に見えるよう提示した。 そこには《ジョーカー》〈道化師〉が描かれていた。 「何故君達二人にはそれがジョーカーだとわかった……? まさか!?」 「推察の通り。このカードには細工がされている。つまりガンカードと言うわけだ」 「ガンカードとは一体何だろうか?」 「カードに傷をつけたり自分だけがわかるようにしるしをつける行為だ。細工をしたのはこの男の手札にジョーカーがあった時だろう」 「……一応、どうしてバレたのか聞いていい?」 「俺は目が良い。それだけだ」 「それが本当ならアンタの視力は異常だよ」 漆原はカードの向きを変える。カードへの距離で言えばむしろマスク男よりも近い位置にいるのだが、漆原が施したという細工は確認できなかった。 「ちなみにアンタは開始前に何でもアリって言ってた気がするんだけど?」 「そうだな。だから一度目は見逃してやった。だがこれ以上見過ごせばゲームがつまらなくなる」 マスク男は漆原の手からジョーカーを奪い、全く同じ物と交換した。 「まあこうなる事は想定内の事象だったがな。ここからは新しいルールを追加するとしよう」 「新しいルールとは?」 「カードを破損させたり、しるしをつける行為は禁ずる」 「……いや、少し言い方を変えよう。何をしても良いというのは変わらない」 「しかし何らかの細工に俺が気づいた場合はその者にペナルティを与える」 「ペナルティの程度は俺の気分次第だが、最悪その場でゲームが終了する事も頭に入れておいた方がいい」 「もちろん当該者の断末魔でジ・エンドとなるがな」 このババ抜きというゲームにおいて、ジョーカーの位置を把握できればゲームを有利に進める事ができるだろう。現に漆原は自分だけに認識できる細工をカードに施し、ジョーカーを回避した。 しかし仕掛けを見抜かれ楔を打ち込まれた今では同じような手段を取るとは考え難い。 マクス男は目視で確認したと言ったが、漆原との距離は私よりも離れていた。果たしてその場所から小さなしるしに気づけるだろうか。 私達の知らない何かがあるのかもしれない。手の内が読めない以上、危険を犯す者は現れないのではないだろうか。 ジョーカーは変わらず漆原の手の内に留まったまま、九條親子の間でカードのやり取りが始まる。 「……幸運に恵まれているとは思わんよ。ただ必死なだけだ。これまでもそうやって生きてきた」 「またまた謙遜を。世の中には必死こいても這い上がれないやつばっかですよ」 「私とて、全てを手に入れたわけではない。失ったモノもある」 彼は横目で九條を見やる。 「娘の悩みひとつ解決してやれないようでは父親として失格だ」 「…………」 「美月の家族は私しかいない。娘だけは何をしてでも助けてみせる。それが私にできる贖罪だ」 親とは子を守るものである。 人間に限らずそれは生物全てに植えつけられた本能なのかもしれない。 親も子もいない私達には永遠に理解できないだろう。 「さあ美月、引きなさい。ジョーカーはない。安心していい」 「……はい」 九條のしなやかな白い指が父親の手札から一枚のカードを抜き取る。 九條剛三は彼女の手札が減る事を切に願っているのだろう。もしも多数決で結果が左右されるなら、私も迷わず後押ししたに違いない。 しかしこれは運に左右されたゲームであり、どんなに強く願おうと結果が変わるわけではない。 それでも私達の感情が場の空気に呼応したのか、二人の願いは聞き遂げられた。 「……揃いました」 「おぉ……よかった」 父に続き娘の九條も初めてとなる手札の消化を成し遂げた。 「…………」 マスターとひまわりが既に抜け、私の左側には北条院が位置している。 漆原の上がりが叶わなかったにも関わらず、彼女の顔は悲壮感で埋め尽くされていた。 「顔色が悪いようだが、体調が優れないのだろうか」 「嫌ですわ……死にたくない……どうして私がこんな目に……」 彼女の耳に私の気遣いは届いていないようだった。 北条院はぶつぶつと呟きながら自分の手札を焦点の合わない瞳で見つめていた。どうやら自分を取り巻くこの状況に悲観しているようだ。 既に二人が勝ち抜けた状況下において、開始時から一枚も手札を減らしていない者が二人いる。私と北条院だ。 人の事が言える身分ではないが、そもそも私と北条院にはゲームが始まった際の手札枚数に差があった。 現状の確認をしてみよう―― 私は相変わらず三枚の手札、九條親子が共に一枚、北条院が五枚で漆原が三枚である。 しかし漆原はたった今引いたばかりであり、この後九條剛三に引かれる事を考慮すれば実質二枚である。 ……………………。 ここである事に気づいた。 「……そうか、これは気づかなかった」 「どうしたのですか……?」 「私はこのババ抜きというトランプゲームをやるのは初めてだ。だから今まで流れを見ながらゲームの性質について把握しようとしていた」 カードの残りが少なければ少ないほど、優位性が得られるものだとばかり考えていた。 「もしかしたら私以外の者は理解しているのかもしれないが」 「なになに? いってごらんよ。てかババ抜きやるの初めてって地味にすごくない?」 私はたった今把握したゲームの性質について口を開く。 「九條、現状で勝ち抜けに最も近いのは誰だろうか」 「え……それは残り一枚しかない私かお父さんだと思いますが」 枚数だけで言えば九條も同じだが、先にカードを引く順番が来るのは九條剛三である。 「私もそう思っていた。カードが少ない者ほど上がりに近いと」 しかし実際はそうではない。 「ゲームから抜ける直前、すなわちリーチになるのは2パターンある。手札が一枚しかなく、それと同じ数字を引いてくる場合」 「そして二枚の手札を有しているが、次順で引かれる事が確定している者だ」 手探りで始めたゲームだが、開始時点で既に明確な優劣が決定していたのだ。 「現在の状況で言えば前者が君と九條剛三、後者が漆原に該当する」 「どちらが有利かわかるだろうか」 「えと……あっ!?」 「そうだ。現状で上がりに最も近いのは君達ではない。漆原だ」 「あ、バレちゃった?」 終始余裕を見せている態度の秘密はジョーカーに仕掛けた細工によるものだけではなかった。 「残り一枚の者は残った一枚のカードと同じ数字を引いてこなければならない」 「しかし残りが二枚の者は、二枚のうちどちらか一方を揃えればいい。どちらが残ったとしても、後ろの者に引かれて勝ち抜けとなる」 「そう考えれば残り一枚の者に比べ、単純に二倍の確立だ。手札が0になる事を目指すゲームにも関わらず、一よりも二の方が有利なのだ」 一と二だけの関係ではない。一よりも二、三よりも四、そして五よりも六と優劣がつけられる。 「ゲーム開始時に奇数枚を配られた者よりも偶数枚を所持していた者が最終的に有利な立場になり得る。配られる順番を決める時点から勝負は始まっていたのだ」 割り切れない数字である以上、この差は必ずつくものだ。 開始時には七枚と八枚の者がいた。私と九條親子が七枚。ルールに疎かった私でも、枚数が少ないという事象は喜ばしいと思っていたのだが、実際はそうでなない。 「今までババ抜きをした事がないというのは本当か?」 「何故嘘をつかなければならないのだろうか。私はこういった物とは無縁の生活をしている」 「仕事は何を?」 「色々だ。最近は夜空を観測したり、カラスを探したりしていた」 「ふ、おもしろい冗談だ」 誠実に返答しているのに鼻で笑われるのは気分が悪い。 「お前は頭の仕組みが良い。物理学に向いている――」 「でも――」 隣同士に座る二人―― 漆原が九條剛三の耳元に近づき、何かを囁いた。 「…………」 もちろんここからでは漆原の言葉を聞き取れない。しかし何かを囁かれた九條剛三が息を呑むのが見て取れた。 「さ、社長の番ですよ。早く引いてくれなきゃいつまでたっても娘さんは助かりませんよー」 「う、うむ…………」 先ほどまでの決意に影が差す。彼の中に迷いが生まれ逡巡しているようだった。 「くっ……!?」 このゲームは心境の変化などでは結果を左右しない。 「あ、社長、どうもでーす♪」 奇しくも九條剛三が引いたカードはその苦悶に満ちた顔を見れば明らかだった。 「何たる醜態だ……! 後少し……娘が上がりさえすれば……!」 「ま、時間の問題ですからねー。娘さんを思う気持ちは立派ですけど、確率には善も悪も関係ないんですよ」 ジョーカーを引いて分が悪くなったのは彼だけではない。私の目的にも大きな不安要素が加わってしまった。 「…………」 しかし引いてしまったものは仕方がない。後は九條の手に渡らない事を祈るだけだが―― 「お父さん――」 隣に座る九條がおもむろに口を開く。小さな口から紡がれた言葉に私は虚をつかれた。 「ジョーカーはどちらなのですか?」 「えっ――?」 あろう事か、九條は父親の手の内を問いただす。 「私は……死にたくはありません。ですからジョーカーを引くわけにはいきません」 「どちらがジョーカーなのか、教えて頂けませんか?」 「そ、それは……」 九條剛三は狼狽した様子でマスク男に首を向ける。 「制限されているのはカードにしるしをつける事だけです。お互いの同意があれば、手の内を明かす事は可能なはずです」 「ど、どうなんだ……?」 九條の突拍子とも言える提案の是非をマスク男に求める。 ババ抜きとは本来全員が敵であり、共闘関係は発生しない。しかし私と九條剛三は互いに九條を手助けしたいと考えている。 早く抜けたいと願う九條の思惑と一致するならば、これ以上効果的な手はない。 戦況を大きく変動させうる手法の是非がマスク男の口から告げられた。 「もちろん可能だ。というよりも、俺はもっと早くそうするだろうと思っていたがな」 マスク男は別段驚きもせず、九條の提案を認めた。 「あなたが娘を思うのなら、ジョーカーの位置を教えてやるといい。しかし、その分のリスクは背負う事になるぞ」 「瑣末な問題だ。娘を守れるのならな」 「…………」 九條の提案が受け入れられた事、九條剛三の揺るがぬ意思――どちらも歓迎すべき展開である。 これで九條にジョーカーが移る可能性はなくなった。ともすれば、最悪この先ペアを作るのに手間取ったとしても、彼女が最後まで残る事はない。 人間は追い込まれるとそれまでの態度を豹変し、他人を犠牲にしてでも己の利を取る事がある。私はそう認識している。 だがこれまでの彼を観察していると、九條剛三という男は決して娘を見放したりはしないのではないだろうか。 たとえ彼自身が命を落とすとしても、だ。 「では美月、引きなさい。ジョーカーはお前から見て左側だ」 「ありがとうございます」 父を不利な状況に陥れる非情な決断を下したというのに、九條は眉一つ動かさなかった。 ……………………。 ふとノイズのようなものが思考の歯車に走る。 これまで見てきた九條美月という人間――他者を拒絶し距離を置く反面、子供を気遣い趣味について饒舌になる。 本来の姿がどちらなのか、私は知らない。 しかしもしも仮面をつけ、本来の自分を隠しているのだとしたら―― その仮面を被り直したとしたのなら、待っているのは最悪の結果だった。 「なっ――!?」 九條は静止する暇も与えぬよう、素早く父親の手札からカードを抜き取った。 困惑と憤激が綯い交ぜになった九條剛三の顔を見れば、何が起きたのか一目瞭然だった。 「な、何故だ!? どうしてジョーカーだと教えた方を選らんだ――!?」 「…………」 九條は目を背け、父の叱責に耐えていた。 「私も不満を抱いている。何故彼の気遣いを無碍にしたのだろうか」 「……だって」 九條は非難を受け入れていたが、やがて気丈な態度を取り戻して言い放った。 「私にとって、たった一人の家族なのです……お父さんまで失ったら、私はどうすればいいのですか」 「…………」 九條には母親がいない。九條が“《フール》〈稀ビト〉”と判明した時点で離縁している。 人間とは家族というコミュニティを尊重する生物だ。九條の母は例外だったようだが、残された二人は互いを重要視しているのだ。 「だからと言ってお前を危険な目に合わせるわけにはいかない」 九條剛三は拳を固く握り締め大きく息を吐いた。 「頼みがある。君の権限を行使してほしい。要求を呑んでくれるなら、どんな要望でも受け入れよう」 「お父さん――!」 九條剛三はルールを支配しているマスク男に直談判をした。 「要望に応える、か。では聞くが仮にここで俺がコール、即ちカードを引く順番の反転を宣言したとしよう」 「その代わり、対価として九條グループの資産全てを差し出せと言ったらどうする? 娘の値段はそこまで価値のあるものか?」 「迷う余地もない、私の娘だ。金で要求が通るのなら、いくらでも払う」 「ゲームマスターが参加者に肩入れするのはルール違反です!」 「彼は何でもありだと言った。ルールを破っているわけではない」 「そんな要求、聞き入れる必要はありません!」 親子の対立に下される裁定には私も大いに興味があった。どちらに肩入れするか、悩む時間は必要ない。 「これは普通のババ抜きではないのだろう。要望を通すための対価を支払う覚悟もある。何も問題はない」 「赫さんまで父の肩を持つのですか……!?」 「キミの命を最優先に考えている。私はキミの味方だ」 「君の心遣い感謝するよ。これからも美月の事を宜しく頼む」 「それは業務の依頼だろうか。だとするなら今は落ち着いて話もできない。無事にあなたが生きていれば相談に乗ろう」 「ふっ……娘に劣らず、君も変わり者だな」 深く刻まれた眉間の皺が薄らぐ。何故彼は笑ったのだろうか。私は何もおかしな事は言っていないはずなのだが。 「それでどうなんだ……!? 私の要求を飲んでくれるのか?」 そうだ、今は自分の言動を気にしている場合ではない。コール執行の陳情が受け入れられるかが重要である。 「娘を思う父の気持ち、か」 「愚かだと言われようと構わん。それが父親としての務めだ」 「……………………」 マスクに覆われその表情は窺い知れない。だが沈黙は束の間、マスク男はこもった声で話し始めた。 「金などいらない。そんな物では俺の乾きを癒せはしない」 「で、ではどうすれば……」 「安心しろ。対価は必要ない」 マスク男は九條剛三の要求を受け入れた。 「コールだ。逆周りでゲームを再開しろ。次はお前が娘からカードを引くんだ」 「そ、そんな……!?」 この状況でのコール――即ち九條剛三がたった今、娘に引き抜かれたジョーカーを取り戻すチャンスである。 「……感謝する」 「あれぇ、意外だなぁ。マスクさんは女に優しくて男に厳しい人だと思ってたんだけど」 「でもあれか。結果的にはお嬢さんが有利になったからいいのか。それとも人を爆殺するマスクさんにもまだ人情ってものが残ってたのかな」 「お前は黙っていろ。それとも今すぐ人生を終わらせてほしいか?」 「はいもう口を開きませーん。おぉ怖っ、やっぱ立派な人殺しだわ」 言葉とは裏腹に漆原は悪戯を咎められた子供のように肩を竦めた。 「さあ美月、手札をこちらに向けなさい」 「…………」 彼女は苦慮していたが、やがて二枚のカードを父親に向けた。 「順番が逆になっても、必ずジョーカーが引けるわけではありません」 意中のカードが引ける確率は五分である。せっかく得た機会を生かせるかどうかは九條剛三の選択に委ねられている。 「私を誰だと思っている。お前の父だぞ」 彼は我が子を慈しむように優しく微笑んだ。 「お前がカードの配置を尋ねた時に気づくべきだった。自分が生き残るために他人を踏み台にするような人間ではないと」 「…………」 「娘を信じてやれないで父親としての責務が果たせるわけがない。すまないな、美月」 「騙すような事をしたのは私です。謝られる道理はありません」 「この場に限った話ではないよ。これまでも、母親がいない事で不自由をさせてきた」 「……それはお父さんの責任ではありません」 「どんな形であれ、娘に負い目を与えてしまったのは親の責任だ」 「……お前に話していない事実もある」 「何の事ですか……?」 「できれば私の胸だけに留めておきたかった。それがお前のためになると信じていた」 「しかしそれが間違いだったのかもしれん。お前はもう大人だ。自分で考え、決断するべきかもしれんな」 目を細め思案に暮れていたのも束の間、正対する九條の手札を鋭く見据えた。 「だが全てはここから無事に帰り着いた後にしよう。今は目の前に集中しなくてはな」 彼らにも複雑な事情があるのだろう。しかし九條剛三が言ったように、まずは差し迫った脅威を取り除く事が先決だ。 「一応尋ねるが、ジョーカーはどちらだ?」 「……答えるつもりはありません」 「だと思ったよ。お前は昔からこうと決めたら途中で意見を変えない頑固な子だった」 「…………」 己の主張を曲げず取り付く島も与えないのはどうやら私の対応に問題があるせいではないようだ。 「私は曲がりなりにもお前の父である事には変わりがない。ずっとお前を見てきた」 「だからどちらがジョーカーなのか、私には分かる」 「あっ――」 老木にも似た彼の指が九條の手から一枚のカードを引き抜く。 狼狽する九條の様子から鑑みれば、彼の引いたカードは恐らく―― 「返してもらうぞ。お前にこれは不要だ。責を負うのは私だけでいい」 九條剛三は手にしたカードを裏返す。紛れもなく先ほど娘に奪われたジョーカーだった。 「ど、どうして分かったのですか……!? まさかカードにしるしを――!?」 「そんな事をする必要はないよ。これは長年家族として過ごしてきたお前にしか通じない“読み”だ」 「どういう事だろうか」 「君にも話しただろう。娘は一人で何もかも抱え込もうとする。大事な物ほど他人に触れられないよう奥に追いやってしまう」 「それは内面に限った話だけではなく、この馬鹿げたゲームにおいても反映されるのではないかと考えた」 「案の定、ジョーカーは手前ではなく奥のカードだったよ」 相手が無意識に取る行動、その心理を読み解くのは並大抵の技術ではない。親子という二人だけしかない関係があってこその手段だと言えるだろう。 「もちろん何度も通じる手ではない。だが最初の一度きりなら……そう考えた私の見立ては正しかったようだ」 父の鮮やかな手前により、九條の手からジョーカーは移動した。 コールによる順番の逆行が起きない限り、間に挟まれた人数を鑑みれば再び九條がジョーカーを手にするのは時間がかかる。 残り一枚という手札の状況も合わせて考慮すれば、当面の危機は脱した――むしろ限りなく勝ち抜けに近いと言えるだろう。 「不満なのだろうか」 ささやかに盛り上がった胸部に手を当て俯く九條。 「父に危険が及んで憤りを感じないはずがありません」 「このケースに両者が納得する決着の形はない。どちらかが不利を被る必要があった」 「親は子を扶養し外敵から守る。それがこの社会での常識なのだろう」 「…………」 「いつも仕事に忙殺されて父親らしい事が何一つできていないんだ。こんな時くらい、私に良い顔をさせてくれてもいいだろう?」 「……お父さんの頑固」 「いや、キミもあまり父親の事を言えないのではないだろうか」 驚きと不服が入り混じった視線で九條は私を見据えた。 ……何か怒りを買うような発言をしてしまったのだろうか。 「ハハハ、だそうだ。つまり、言い出したら聞かないのは血筋というわけだ」 「……赫さんのアホウドリ」 「どういう意味だろうか……見てわかると思うのだが、私は鳥ではない」 「そんな事は知ってますっ」 「…………?」 要領が得られない。彼女特有の独特な言い回しなのだろうか。またひとつ人間社会においての疑問にぶち当たった。帰ったらノエルに聞いてみるとしよう。 「楽しそうなトコ悪いんだけど、さっさと進めさせてもらっていいっすか?」 九條親子のやり取りで中断していたが、今は命を賭けたババ抜きの最中であった事を思い出す。 「社長がジョーカー引くからこっちにもとばっちりが来るじゃないっすか。カンベンしてほしいなぁ」 「君には悪いと思っている。しかし私にも余裕がないのでな」 九條剛三は二枚の手札を差し出す。 さして悩む素振りも見せずに漆原はカードを引き抜いた。 「あっ――」 暗く淀んだ彼女の瞳に一筋の光が宿った。 「や、やりましたわ! ペアが揃いましたわ!」 手の内から二枚のカードを捨てる北条院。これで彼女の手札は四枚となる。すぐに私が引く事を考慮すれば実質三枚となり、私と肩を並べた事になる。 「おめでとー。でもまあそんだけカード持ってれば一枚くらい揃うのが普通だよね。むしろ遅すぎるくらいじゃない?」 「う、うるさいですわ! 勝負はここからですわ」 待望のペアを揃える事ができ、北条院に覇気が戻る。 「さあどうぞ、次はあなたの番でしてよ」 「ああ、引かせてもらおう」 「…………」 「……大丈夫、ですか?」 「何がだろうか」 「いえ、その……手が進んでいないようですので……」 「ああ、それについては特に問題はない。それよりも――」 君の手にあるカードを教えてくれないだろうか――仮にそう言った場合、九條はどういった反応を返すだろう。 九條の上がりを幇助できれば私にとっても都合がいい。 もしも私が九條の上がりを促すためにそう口にすれば、彼女は喜んで私との取り引きに手を貸すだろうか―― 否――九條の性格、人間性、その他これまでの挙動から鑑みれば、その可能性は決して高いとは言えない。 人は鳥や豚などの動物を殺し、その肉を喰う。しかし同族である人間を犠牲にする事には躊躇いが生じる。 定められた法で規制されているのも一因だろうが、ほとんどの生物は同種族に対して共存しようとする意思を持っている。 とりわけ九條親子の駆け引きを見てもわかるように、彼女は形振り構わず自己を優先するような人間ではない。 「少し考える時間がほしい」 「……わかりました」 さてどうしたものだろうか。何も手を打たず九條に引かせてもいずれ上がりはするだろう。 しかし万が一という可能性もあり得る。できれば確実性のある方法を探れれば良いのだが。 「悩んでいるようだね」 「ああ。何せ命が懸かっているのだ。慎重にもなるだろう」 「赫君、君に問いたいのだが」 「何だろうか」 「君は娘の事をどう思っている?」 「どうとは?」 「娘を大事に思っていてくれているかどうか聞いている」 「お父さん、何を――」 「いいじゃないか。娘の恋愛事情が気にならない父親などいないだろう」 「だからと言って何もこんな時にするような話ではありませんっ」 確かに命のやり取りをしているこの場には相応しくないのだろう。 しかし緩んだ口元とは対照的に、思いつめたような視線で見抜かれ、彼の発言を世迷言と切り捨てる事はできなかった。 「私は彼なら安心できるのだがな。見てみなさい、信念を持った力強い目を持った青年だ」 父親に促されこちらに振り向く九條―― 彼女の視線から解放された九條剛三は僅かに残っていた笑みを消し、右手で三本の指を立てた。 「…………」 「もしも君が私の信頼に応えてくれるのならば、私は君に全てを譲ってもいい」 「会社も、そして娘も――」 彼の言動と示されたサイン―― その二つが繋がるまでさほど時間はかからなかった。 「九條の事は大事だ。彼女を守るためならどんな手でも打とう」 「あなたの期待に応えるよう努力する」 「……そうか、助かる。これで私も安心できる」 「お父さん……?」 彼は九條に悟られないよう明言こそしなかったが、私はその真意を理解した。 彼が示した三本指のサインは十中八九、九條が持つ最後のカードを示唆したものだろう。 つい先ほど彼の直訴によるコールが発生するまで、九條にカードを引かせていたのは彼だ。つまり九條剛三には九條にどのカードが渡っているのか把握する事ができる。 その後の動向も注視していれば、自らの手から渡ったカードが九條の手の内に残されているか認識する事も可能だろう。 「考えはもう必要ない。九條、カードを引いてほしい」 私は彼の提案に乗る事にした。彼の真意が想像通りなら、彼は娘の命と引き換えに自らを代償として差し出したのだ。 つまり九條が上がった後、私の勝ち抜けに協力する――発言の真意は恐らくこういう事だろう。 彼は全てを譲ると言った。彼は会社と九條、そして自分の命を私に譲るつもりなのだ。 「…………」 九條は私が提示した四枚のカードを見つめる。その様子からは私と九條剛三の密約に気づいた気配は感じられなかった。 九條剛三が示した数字――3と書かれたカードは奇しくも私の手の内にあった。 後は彼女がこのカードを引いてくれればいいのだが、果たして上手くいくだろうか―― 「……では引きますね」 「ああ」 神妙な面持ちでカードに手を伸ばす九條。 その行き先は彼女が勝ち抜ける為にに必要な右端――ではなく全く逆側に伸びていった。 「待ってほしい」 「ど、どうしたのですか……?」 私はカードを持った手を突き出したまま、九條を静止する。 やはり四分の一という確率は信用できるほどの数字ではなかった。このゲームにおいての私が被っている不運な流れも影響しているのではと思わず勘ぐってしまう。 「…………」 私は九條剛三のサインを受け取ってから、意中のカードを九條に渡す方法について考えていた。 しかし相手がひまわりならともかく、九條を前にして有効な手段がすぐには思いつかない。 …………。 それでもどうにかして右端のカードを引いてもらわなければならない。一巡してしまえば彼女の手札が変動してしまい面倒な事になる。 私は咄嗟に思いを巡らせる。そしてあるひとつの話を思い出した。 「人間にはそれぞれ好きな数字というものがあるのだろう。君が今引こうとしたカードは私が好んでいる数字なのだ。できれば止めてほしい」 「は、はぁ……」 苦しい言い訳である事は九條の顔を見れば一目瞭然だった。しかし形振りは構っていられない。 「……では」 九條の指がスライドし、その隣――左から二番目に移る。 「それも駄目だ。この数字はノエルが好きな数字だ」 「…………」 困惑から訝しい表情に変化させながらも、九條はまた別のカードに手を伸ばす。 「それはひまわりの好きな数字だ。できれば止めてほしい」 「えー? ひまわり別に好きな数字なんてないよー?」 大人しく外野で動向を見守っていたひまわりが異を唱える。それでも私は諦めない。 「ここから出たら六個の菓子と六本のジュースをキミに買い与えよう。六時間、テレビを見られるようノエルに頼み込んでもいい」 「ひまわり6好きー♪」 「というわけだ」 「…………」 さすがに九條も私の意図に気づいたようだ。 「……どうしても、私を上がらせたいみたいですね」 「キミにとっても悪い話ではないだろう。自殺願望があるとも思えない」 「そのためにお父さんにも赫さんにも、危険を擦り付けろと言うのですか? 自分の身は自分で守ります」 九條の態度は相変わらず頑なだ。 「では言い方を変えよう。キミにいつまでも残っていられては迷惑なのだ。私も、九條剛三も」 「キミに気を取られて自分が疎かになる。私の手札が一向に減らないのも、極論を言えばキミのせいかもしれない」 実際には関係ないのだが、この際押し付けられるものは不条理でも何でも利用させてもらおう。 「キミが心配する気持ちも理解できる。しかしだからと言って私とキミの父が心変わりすると思うだろうか?」 「…………」 「負い目を感じているのなら気にする必要はない。私達は自らの利益を優先しているだけなのだから」 私はありのままを彼女に説いた。彼女は菓子などで都合良く意見を変えたりはしない。 ならば小細工を要するより、利害を説明して納得してもらう他ない。冴えたやり方ではないのだろうが、代替案がない以上選択肢はなかった。 「……みんな、自分勝手過ぎます」 「私もその中に含まれているのでしょうけど」 「……もしも二人が命を落としたら、私は一生許しません」 「死んだ後の事など、私にとっては関係がない」 九條は小さくため息をつき、そして―― 切望していた右端のカードを引き抜いた。 「おぉ……!」 「……揃いました」 九條は手元に残ったカードを開示し、ペアである事を確認させたのちに中央のテーブルへそっと置いた。 「あーあ、また先に抜けられちゃった」 「……九條さん」 直接やり取りの関係のなかった二人がそれぞれ反応を示す。漆原は苦笑し、北条院は微妙なニュアンスで九條を見つめた。 「これで残りは四人だな。どうだ、そろそろ余裕がなくなってくる頃じゃないか」 「最初から私は全力だ。しかし状況の良し悪しを判断するなら、目的の達成は近いと言えるだろう」 ゲームを開始した当初は七人のうち、三人を勝ち抜けさせる必要があった。しかし残り四人となった今でも、私以外の二人は既にゲームから抜けている。 私にとってはここまでの経緯は申し分ない。 「ありがとう赫君。これで私も安心できたよ」 「礼には及ばない。私にとっても都合が良かっただけだ」 「だとしても、キミが娘を救ってくれた事には変わりない」 彼は娘の命を救うために取り引きを持ちかけてきた。その対価として彼は―― 「……私もやるべき事を成さねばな」 九條剛三は瞼を下ろし、灯りの消えたシャンデリアを見上げる―― やがて視線を私に戻し、手の平を差し出した。 「赫君、君のカードを全て渡しなさい」 「…………」 「ええっ!?」 「何だ何だ?」 彼の手札は残り一枚。カードの種類も判明している。九條から奪ったジョーカーだ。 しかし隣合う九條が上がった事で、彼がカードを引く順番は飛ばされる。つまりここでコールが起ころうが関係なく、どうやっても上がりが確定してしまうのだ。 だがそれでは先ほど私に向けたサイン、そしてその代償を支払う事ができない。だから彼は本来あり得ない手段に出たのだ。 「このババ抜きにおいてはルール上何の問題もないはずだ。ジョーカーに細工をする訳でもない」 「両者の合意さえあれば、認められるべきだ。違うか?」 突飛な提案に聞こえるが、彼の言った通りこのゲームは前提として何をしても良いと言われている。 もちろんルールを支配し裁定を下すマスク男が認めればの話だが。 「…………」 「そんなのアリなの? もうババ抜きでも何でもなくない?」 「これも駆け引きのひとつだ。私は娘の安全と引き換えにリスクを負っただけだ」 「どういう事ですか……!?」 「美月、彼は信用できる男だ。お前の目に間違いはなかったよ」 「彼にならお前を任せられる。私にはできなかったが、お前の負った傷も彼なら癒してくれるだろう」 「だからと言ってお父さんがいなくなって良い理由にはなりません!」 「……大丈夫だ、心配しなくてもいい。直ちに負けが確定するという話じゃない。少々手札が増えるだけだ」 九條剛三は些細な問題だと微笑むが実際は違う。 上がりが確定している状況から、ジョーカーを含んだ最大枚数を所持するプレイヤーへと変貌するのだ。リスクの肥大については明白だった。 「どうなんだ――! 私の行為を認めるのか?」 「…………」 沈黙を保つマスク男の表情は窺い知れない。しかし皆が彼の答えを聞くために保っていた静寂はそう長続きしなかった。 「いいだろう。互いに望むなら、好きにするといい」 「……そうか。良かった」 九條剛三は安堵したように胸を撫で下ろした。 本来そうするべきは私の役目であるはずだ。経営者である彼には決して約束事を破ってはならないという信条があるのかもしれない。 「では私のカードを譲渡する」 「ああ、受け取ろう」 私は手持ちのカードをまとめ、九條剛三に手渡す。 「…………」 ふと、動向を見守っている九條の姿が目に入る。 彼女の頬を伝う液体に――私は動きを止めた。 「……何故だろうか?」 「何故キミは泣いているのだろうか?」 「えっ……?」 指摘されるまで自覚がなかったようだ。九條は細い指で頬に触れ、己の涙腺から零れ落ちた水滴を見つめ目を白黒させていた。 「……キミはこの状況を受け入れたくはない。そうだろうか?」 「…………」 自分の手の平を注視し困窮しているように見える。そこに普段のような凜とした九條の姿はなかった。 「難しくはないだろう。私の手札をキミの父親に譲渡する。それに対しての感想を求めているのだ」 「……そんなの、答えろというのが無茶です」 「何故だろうか?」 「どちらかを……切り捨てろなどと……私には選べません」 私が残れば九條剛三が勝ち上がる。その逆もまた然り―― 彼女は自らの手で優劣をつける事に抵抗を感じているようだ。 「ならば質問の仕方を変えよう。キミは父親の事が大事に思っているだろうか?」 「えっ……?」 「どうしてもいてもらわなくてはならない唯一の存在、キミにとって父親とはそういうものなのか?」 「……当たり前です。自分の父親なのですから……」 「そうか」 人間は誰かに依存する生物である。しかしそれは人間社会における“《イデア》〈幻ビト〉”も例外ではない。 現に私もノエルに依存し、彼女のいない世界は考えられない。私がノエルに向ける感情がいわゆる“愛”と呼べるものではなかったとしても、彼女を必要とする衝動に偽りはない。 「九條剛三、あなたとの取り引きはなかった事にしてほしい」 「何――!?」 彼は目を見開き心底驚いていた。 「対価の支払いは必要ない。私からの一方的な商談の破棄だ。気にしなくてもいい」 「そ、そうはいかん! キミは私の要求に応えてくれたのだ! キミには勝ち抜ける権利がある!」 「権利とは選択の自由があるという事だろう。だから私は権利を行使するだけだ」 「し、しかし……」 私の主張に驚いているのは彼だけではなかった。 当然かもしれない、生命の保障を自ら放棄しているのだ。ゲームに参加している彼らには理解できないのかもしれない。 「因果応報という言葉があるだろう。根拠に乏しい事象ではあるが、この世界において存在している言葉だ」 「この場であなたにカードを渡せば、九條から大切な物を奪ってしまうかもしれない。大事な物を失う感情は私も知っている」 「自分がしてほしくない事は他人にもしてはならない。人間社会の常識だ」 「…………」 とはいえここで彼にカードを押し付けても私が非難される謂れはない。因果の巡りを本当に信じているわけでもない。 自分の決断を私も事細やかに説明できはしない。あえて理由を挙げるとすれば、九條に共感できる部分があった事―― そして人間とは必ずしも効率的な行動を取る生物ではなく、長年の努力によって私も人間のフリが上達した結果ではないかという事だ。 「……赫さん」 なおも心配そうに見つめる九條。彼女の葛藤には完全に納得できる着地点などないのだろう。 「キミにとって私よりも父親の方が大事だろう。数日前に会った私にそこまで固執する理由はないはずだ」 「……そんな事……ないです」 消え入りそうに弱々しい。普段見れない彼女の姿に興味は湧いたが今は取り込み中だ。 途中経過がどうであれ、このゲームを終わらせなくてはならない。 「私は手札の譲渡を拒否する。さあ、ゲームを再開しよう」 「赫君……すまない……」 「マジイケメン。でも後で後悔しても知らないよ」 「後悔をするのは地球上で人間だけだ。ならばそれも悪くない」 「はぁ? 何わけわかんない事言ってんの? もしかして痛い人?」 「痛い? 痛覚を覚えるような傷は受けていないが」 「うわぁ……真性だこりゃ」 漆原は私から目を逸らし九條剛三に向き合った。 「良かったっすね、ちょろい奴が味方で」 「……彼を中傷する事は私が許さん」 「これは失礼しました。でも社長が抜けるのには変わりないっすよね」 唯一残った九條剛三の手札は漆原の手に渡った。 「これで社長の勝ち抜け。おめでとーございます」 「……赫君、すまない」 「気を遣う必要はない。私が決めた事だ」 去り際の彼はどこか小さく見えた。やり手の経営者という殻が外れ、一人の人間としての顔が垣間見えた気がした。 「さあてどうしましょうかね。とばっちりでジョーカーも引いちゃったし」 待望のペアを作れたのも束の間―― 運悪く漆原の手にあったジョーカーを引き入れてしまった事で、私は劣勢に立たされた。 仮に次順で北条院が引けば問題はないのだが、もしもジョーカーが残ってしまえば上がりを待つ状態から後退してしまう。 この終盤において、一巡でも上がりの可能性がなくなってしまうのは相当な痛手だ。 だがまたしても運命は私の予想を裏切った―― 「コールだ」 「えっ――!?」 私の手札に伸ばしかけていた北条院の手が静止する。 北条院だけではない。少なからず私も意表をつかれてマスク男の真意を窺った。 「勝負を面白くしてやろう。お前達二人で命を賭けて争ってもらおう」 「なんで俺達なのか聞いてもいい?」 「このゲームのクライマックスだというのに、女子供相手ではつまらないだろう」 「いやぁ、差別はよくないっすよ。今の時代、男女平等じゃなきゃ――」 「黙れ。これは俺が決めた事だ」 「はいはい、わーかりやしたよっと」 どうやらマスク男は私と漆原を競わせたいようだ。 だがそれに何の意味があるのだろうか。仮にどちらかを最後の一人に仕立て上げたいという意図があるのなら、先に北条院を上がらせるように仕向けるはずだ。 「お前達二人のうち、どちらかが上がるまでコールを繰り返す。わかったな」 それとも彼の言う通り、私と漆原が争う構図を求めているだけなのだろうか――どちらにせよ、私は指示に従う他ない。 「んじゃま、ちゃっちゃとやりますかー」 「ああ、次はキミが引く番だ」 「ん? ジョーカー引いた事、案外根に持ってる系?」 「何の話だろうか。ルールに従えば、次はキミの番だろう」 「なんだ天然か……相手すんのラクだからいいけど」 要領は得ないがこうしても問題は解決しない。ひとまずゲームを進めるためにジョーカーを含む二枚の手札を彼の前にかざした。 「さあて、俺の上がりカードはどっちかな」 「答えるわけにはいかない。私も負けるわけにはいかないのだ」 「教えてくれなくてもいいよ。俺にはここぞという時に発揮する強運があるからさ」 彼の指は二枚のカードに触れては行ったり来たりしていた。運の強さを主張する割には選択に迷っているのだろうか。 「ひとつだけ気になってる事があるんだけど聞いてもいいかい?」 「ジョーカーの位置でなければ」 漆原は私の手札を――正確に言えば伸ばした私の右手を指差した。 「どうして右手だけ手袋してんの? もしかして何かを封印するためだったりするわけ?」 右の手首から先を覆っているこの手袋は、突発的に発生する熱を抑えるためのものなのだが、そう説明しても理解は得られないだろう。 それに“《イデア》〈幻ビト〉”に関する情報を口外してはならない。普通の人間には局所的な体温の上昇など発生させられない。私は慎重に言葉を選ぶ。 「封印、というわけではないのだが、内なる衝動を抑えているのは事実だ。いわばお守りのようなものだと捉えてもらえば構わない」 「うわぁ……ぷんぷん匂ってくるわ……関わりたくねー……」 「関わりたくない、か……キミの意志は尊重したいのだが、生憎このゲームが終わるまで関係は継続せざるを得ない」 「心配しなくても、次で終わるから安心しなよ」 突如発せられた宣言によって私の視線は彼に引き付けられた。 「俺は次で上がる。何故かって? それは俺が成功するべき人間だからだ」 釣り上がった口元――その真意を確かめる事はできない。唯一方法があるとすればそれは―― 「成功が約束されている人間などいないはずだ。でなければこの世界の理に対する認識を改めなければならない」 「いいからいいから、見せてやるからさ。アンタは俺が抜けた後で世界のなんたらについて考えてればいいよ」 中断されていたカードのやり取りが再開される。 漆原は迷う素振りもなく、自信を含んだ笑みを携えてカードを引いた。 彼の引いたカード、それは―― 「な、言っただろ?」 今しがた引いたクイーン、そして手元にあったもう一枚を見せつけ、乱暴に中央のテーブルへ叩き付けた。 「ハハハッ!! これで俺も勝ち抜けーっと♪」 椅子から立ち上がり、前髪をかき上げながら見下ろす漆原。 「さあさあ、残った一枚を引いてくれるのはどっち? ま、俺は誰でもいいんだけど」 これで漆原はコールの有り無しに関係なく、勝ち抜けが確定した。 ……………………。 しかし私は腑に落ちないでいた。まるで予定調和と言わんばかりの出来事に違和感を感じざるを得なかったのだ。 「納得いかないのか?」 「彼がジョーカーを回避したのは紛れもない事実だ。だが――」 私の仮説には重要な要素が不足している。 「お前の考えている事を当ててやろうか」 「私の心が読めるのだろうか?」 「そんな大した事じゃない。何らかのイカサマが行われたと考えるのは不思議じゃない」 「イカサマっ――!?」 「おいおい待ってくれよ、ヘンな言いがかりは止めてほしいなー」 「仮になんかやってたとしてもこのゲームは何でもあり。バレなきゃ平気なんでしょ?」 「自ら細工をしたと認めるような発言だな」 「おっとっと、いやぁ、今のは一般論としてね」 所詮確率は半々であり、結果事態にさほど驚きは感じない。 しかし彼の言動や状況を鑑みれば素直に納得できないのも事実だ。確証はなくとも疑念は消え去らない。 「イカサマの正体に目星はついているか?」 「……いや、どうだろうか」 手元に残ったジョーカーを確認する。 疑うべきはまず前回同様、ジョーカーに何らかの細工を施した可能性だ。 一度見破られ釘を刺されているが、私としては最初に疑うべき点だ。 しかし――どう目を凝らしてもシンメトリーの絵柄におかしな点は見受けられなかった。 「ではこうしよう。60秒だけ時間をやる。その間にイカサマの正体を見破る事ができれば、もう一度同じ状況から再開させてやろう」 「60秒か。お世辞にも余裕があるとは言えないな」 「不満ならこのまま何もしなければ良い。誰が最後まで残ろうが俺には関係ない。死にたくないならせいぜい頭を働かせろ」 60秒――ただ待つには長く、何かを成すには短い時間。 だが彼の言う様に不満を口にしている猶予はない。存在するかさえ定かではない物に辿り着くために思考の全てを集約しなければならないのだ。 再び手元のジョーカーを注意深く観察する。 私の手に移るまで、かなりの時間漆原の手札にあったカードである。何らかの細工をする時間は十分にあったはずだ。 「…………」 しかし私の目に異常はなかったようだ。再度カードの隅々まで確認しても僅かな傷ひとつ見当たらなかった。 「赫さん……」 既にこの場から抜けた九條達が心配そうな視線を送る。 「赫さん、私にもそのカードを見せてくれませんか?」 「おいおい、さすがにそれはナシじゃね? 勝ち抜けたやつが協力するのはお門違いだろ」 「どうなのだろうか」 正直私一人では皆目検討もつかない状態だ。些細なとっかかりだけでも得られる可能性があるのなら、是非とも第三者の意見が欲しい。 「いいだろう。限られた時間の使い道は好きに決めればいい」 「但し、この男の主張も《もっと》〈尤〉もだからな。手を貸していいのは一人だけだ」 「それで構わない」 どちらにせよ全員にカードを確認してもらっても意味はないし、与えられた時間には限りがある。 物事とは観測する角度によってその姿を変化させる。オーロラの定点観測も然り、漆原の仕掛けた細工に対しても別の目線から見れば見落としていた点に気づけるかもしれない。 期待を込めてマスターにカードを手渡す。 しかし―― 「……うーん、どこにもおかしな点は見当たりませんね」 「やはりそうか」 僅かな希望が絶たれ、すぐに孤独な戦いへと引き戻された。マスク男が宣言してから30秒ほど経っただろうか―― 「すみません、お役に立てなくて」 申し訳なさそうに謝るマスターからカードを受け取る。 「ん――?」 《ジョーカー》〈道化師〉の描かれたカードを受け取る左手に違和感を覚えた。 長方形の一辺――縦長の縁に触れた瞬間、ぬるりと親指が滑った。 「…………」 その事実がある仮定を生み出す。私は右手に装着していた手袋を外す。 「マスター、手の平を触ってもいいだろうか」 「別に構いませんが……?」 意図が理解できずに怪訝な表情をしながらも、マスターは要求通りに左右の手を広げた。 私はぬめりの付着していない右手で彼の手の平に触れる。 「手袋をしてたせいか、赫さんの右手は温かいですね」 私はマスターの手を調べながらも心を落ち着かせる事に専念する。マスターの手を吹き飛ばしてしまっては喫茶店でコーヒーを飲む事ができなくなってしまう。 「ありがとう、やはり私の考えは正しかったようだ」 「何かわかったのですか?」 「ねぇねぇ、もう60秒経ってね?」 「後10秒は残っている。だがその時間はもう必要ない。キミの施した細工の正体は判明した」 「な、なんの事だかさっぱりだけどー?」 「ではお前の考えを聞こうか」 行き着いた答えに相違はないだろう。たとえ間違っていたとしても、漆原の言う通り残された猶予はもうない。 「漆原はジョーカーを判別するために細工を施した」 「カードにしるしはついていないようだが?」 「ああ。私とマスターの目にも見当たらなかった。そもそも一度キミに見破られている手段を取るとは思えなかったが」 二度目はないと釘を刺されているのだ。マスク男の目を誤魔化す確証でもなければ同じ手に及ぶとは思えない。 「カードを判別するのは視覚に依存する方法だけではない。人間が物事を感じ取る器官は嗅覚、聴覚など他にもいくつか存在している」 「今回はその内のひとつ、触覚を利用してジョーカーの位置を探り当てた。違うだろうか?」 「触覚?」 「ババ抜きにおいて、意図しなければあまり触れないカードの部位がある。カードの裏、その中央などもそのひとつだ」 「漆原はその部分に触覚だけに反応するしるしを残した」 私が左手の指に感じたぬめりの正体、それは―― 「恐らく漆原は自分の髪の毛に使用している整髪料をジョーカーに付着させ、カードの判別を行った」 私は使用した事がないが髪型を整えるために整髪料を使っている人間は少なくない。彼もその中の一人であり、咄嗟にそれを利用しようと思いついたのだろう。 「カードに視覚的な差異をつける方法と違い、これならば異常に良いというキミの目から逃れる事も可能だ」 「本人ならいざ知らず、事情を知らない他者にしてみれば気に留めない可能性もある」 「そもそも最後まで整髪料をつけた箇所に触れないかもしれない。私も最後の最後までそこに触れる事はなかった」 「……いや、もしかしたら触れていたのかもしれない。しかし手袋越しでは気づかない。キミはそう考えたのではないだろうか」 「あーあ、ヒント与えすぎちゃったかー」 基本的にカードを引く場合、私は右手を使用していた。手袋の上からでは異変を察知するのは難しい。 私が相手というのも整髪料を使った細工に及んだ一因のひとつだろう。 「認めるんだな」 「はいはい、おっしゃるとおりですよー。やり直しでも何でも勝手にすればー?」 彼は開き直った様子でテーブルから先ほど捨てたクイーンのペアを取り、その一枚を私に向けて飛ばした。 「世界の理に対する私の認識は間違っていなかったようだ」 「別に勝負が決まったわけじゃないさ。アンタの世界観なんてどうでもいいけど、俺が負ける事はありえないよ」 「ではゲームを再開しよう。キミが引く番だ」 取り戻したクイーン、そしてジョーカーを漆原に向ける。もちろんジョーカーに付着していた整髪料をふき取った後で、だ。 カードを見据える漆原の目が鋭さを増した。つまりようやく彼も同じ土俵に立ったというわけだ。 「キミの策略が他にもないのであれば、悩んでも仕方がない」 「うっせー、わかってるよ」 触発された形で漆原は素早くカードを引く。 その《ジョーカー》〈道化師〉には、私からの贈り物がしっかりと握られている。 「あ、よくない。よくない感じになってきちゃったぞー」 「次は私が引く番だ。さあ、カードを」 「ちっ、まあそう焦りなさんなって」 漆原はカードが見えないよう後ろ手に隠す。カードの配列を悟られないようシャッフルしているのだろう。 「そうやって時間を稼いでまた何か細工を施そうとしてはいけない」 「そんな事してねーって。ホラ、さっさと引けよ」 「ああ、そうさせてもらおう」 伸ばした左手で提示された三枚に端から指をかけていく。 「動揺を誘ってんの? 無駄だって。俺は顔に出したりしないよ」 「そのようだな」 全てのカードに触れ終わる。 「無駄だといえば、ひとつ無駄話をしてもいいだろうか」 「あ?」 私は目的を果たすため、過去に書籍で得た情報を披露する。 「私達がプレイしているこのゲーム、ババ抜きは元々ジョーカーを混ぜるのではなくクイーンを一枚抜いての51枚で行われていたのだ」 「はぁ? マジでどうでもいい話じゃね。ここは合コン会場じゃねぇーっつーの」 「まあまあ、知識は多ければ多いほど社会で役に立つだろう」 憮然な態度を取られるのは承知の上であるが、私は話を続けねばならない。 「何故クイーンを一枚にしたかというと、その昔適齢期を過ぎた独身女性を揶揄する意味合いが元になってできた遊びだからだ」 「一枚しかないクイーン、即ち女性が最後までペアを見つける事ができずに売れ残ってしまう」 「ジョーカーをババと呼称するのはその名残があるからだろう」 「ふーん、どうでもいいー」 「そうだな。私も内容自体に有益性を感じはしない」 「そんな雑学知ってるくせにババ抜きやった事ないんだっけ?」 「知識と体験は別物だ」 さてと、そろそろ大丈夫だろうか。 「退屈な話をしてしまったのなら謝ろう」 「謝らなくていいからジョーカー引いて」 「それは聞けない相談だ。私にはやらなければならない事がある。ここで死ぬ訳にはいかない」 それは私に限った話ではないだろう。残された漆原と北条院も同じはずだ。 だがひまわりや九條と違い、彼らが命を落として被る不利益は今のところ存在しない。彼らには気の毒だが私は自分の利益を優先する。 「さあ、カードを引かせてほしい」 人間は事ある事に“運”や“流れ”などといった非科学的な現象に己の責任を押し付ける。 迷信を信じる人間側の言葉を借りれば、今日の私は決して運に恵まれているとは言えないのだろう。 現状でやれる事はやった。人事を尽くして天命を待つという言葉もある。 もしもこの場で私の望む結果がもたらされるのなら―― 少しは神の意志を信じるのだろうか。 「――――」 自分の意志で選んだカード――しかし結末は自らで選択する事はできない。 となれば結末を選んだ意志とは、やはり神を指すのかもしれない―― 「赫さん……?」 九條を筆頭に心配そうに見守る人間達に、私は手の内で完成したクイーンのペアを見せた。 「おぉ……!!」 「よかった……」 「おめでとうございます」 マスク男にも見せた後、中央のテーブルに二枚のクイーンをそっと置く。多数の困難を乗り切り、私の目的は達成された。 「ちょっと待てよ」 「何だろうか」 「ペアを引き当てたのは偶然?」 「ああ、確証などなかった」 「そっか。じゃあジョーカーを回避したのも偶然っていうわけ?」 「…………」 どう答えるべきか言葉を選ぶ。 「キミは私が何か細工をしたと言いたいのだろうか」 「疑り深い性格なんでね。悪いけど同じ条件を受けてもらうよ。もちろんいいでしょ?」 彼が同意を求めた先は私ではなくマスク男だった。 「いいだろう。但し猶予は同じ60秒だ」 漆原は真っ先にジョーカーを目視で確認し始めた。 「無駄だ。何も見つかる事はない」 「うるせぇなぁ、いいから黙っててくれる?」 「わかった」 彼は眼前までカードを近づけたり、指で全体をなぞったりしている。 少しばかりひやりとしたが漆原の手が止まる事はなく、その表情にも変化はない。どうやら私の憂慮は杞憂に終わったようだ。 そうこうしている内に時は流れる。彼に時間を操る力がなければタイムリミットはすぐそこだ―― 「時間だ」 私の体内時計にさほど誤差はなかったようだ。マスク男の口から決着が告げられた。 「わっかんねー、まいった、まいりましたよっと」 両手を挙げ、降伏の意を露にする漆原。 「では私は抜けさせてもらおう。構わないだろうか」 「さっさとどっか行けっての。あー、腹立つわー」 「すまない、キミの身柄を心配できる状況ではなかった。勝負事とはいえ申し訳なく思う」 「謝るなよ偽善者」 「……偽善者、か。悪い気はしないな」 もしも彼の目にそう映ったのなら、それは私が人間に近づいた証拠である。やはり日々の努力は間違っていなかったのだ。 「赫さん――」 「どうかしただろうか」 「その……助かってよかったです」 「私も同意見だ。本当に良かった」 椅子から立ち上がった私を九條親子は安堵の表情を浮かべて出迎えた。 「最後の最後、キミにも運が巡ってきたようだな」 「ああ、確率は五分だったがどうにか望んだ結果を引き当てる事ができた」 「うむ、キミが無事で何よりだ」 満足そうな九條剛三とは裏腹に、彼女は怪訝な眼差しを向けた。 「何か気になるのだろうか」 「いえ……ただの言い間違いだと思いますが、最後の勝負で赫さんの前にあったのは三枚のカードです。五分ではないかと」 「いや、50%で間違いはない。何故なら私にはジョーカーの位置がわかっていたからだ」 「えっ?」 九條の耳元に口を近づける。あまり大きな声で話せる内容ではない。 「彼の手に渡る直前、ジョーカーは私の手の内にあった。そこで私はジョーカーを判別できるよう細工を施したのだ」 「細工……!? でもすぐにあの方はカードを確認しましたが、何も見つけられませんでした」 「視覚で捉える種類のしるしではない。ヒントは彼が使った整髪料でのトリックだ」 「彼の細工によって私は窮地に立たされた。しかしあれがなければこの結果にならなかったかもしれない」 「どういう意味ですか?」 「ジョーカーを見分けるためには自分だけがわかるサインを残さなければならない。視覚に頼ったしるしでは他人にも露見してしまう」 「だからこそ漆原は反省を踏まえて触覚による判別を行った。私もそれに《なら》〈倣〉う事にした。私にしかできない方法で」 外気に晒されていた右手に手袋をはめ直す。 「……あっ、だからあの時――」 どうやら九條も私が言わんとしている事を察したようだ。 「カードの中央部を右手の力で熱し、カードを引く際は熱を感知しやすい左手を使用する。選定に悩んでいる素振りを見せてカードに込められた熱を確かめた」 もちろん力加減には細心の注意を払う必要があった。熱が低すぎては判別できず、また高過ぎると今度は漆原に察知されてしまう。 「熱はその場に滞留し続けない。ジョーカーの位置がわかれば後はエネルギーが拡散する時間を稼ぐ必要があった」 「カードを引く前ならいざ知らず、細工を見抜こうと集中されてしまってはもしかしたら異変に気づかれるかもしれない」 事実60秒の間、漆原は何度もカードに触れ少しの異変も見逃すまいと目を凝らしていた。 私の“《デュナミス》〈異能〉”について彼らは何も知らない。ジョーカーに仕掛けた細工に気づかれても、知らぬ存ぜぬで通すつもりでいたのだが杞憂に終わった。 「急にババ抜きの発祥について話始めるので、何事かと思いました」 「意味もなく知識をひけらかす人間は嫌われるのだろう? それでは社会に適応したとは言い難――」 「きゃあああああああああああああああ――!?」 突如鳴り響いた金切り声に会話が遮断された。 何事かと視線を向けた先にいたのは踏ん反り返る漆原とテーブルに突っ伏した北条院だった。 私達の会話中と並行してゲームは進行していたようだ。そして両者の態度を見れば、ゲームが迎えた結末は一目瞭然だった。 「ご愁傷様ー。いやぁ、一時はどうなる事かと思ったけど、最後に残ってたのが君でよかったよー、ホントありがとねー」 「うぅっ…………どうして私がこんな目に……うっ……!」 敗北の決まった北条院の嗚咽が辺りに響く。 「終わったな」 「ひっ――!?」 「立て」 「嫌っ!? 触らないでっ――!!」 掴まれた腕を振りほどこうとするがマスク男の方が腕力に勝るようだ。 「お待ち下さい――」 「何だ」 「彼女をどうするおつもりですか」 「さて、どうするかな」 マスク男は九條を見ながら首を傾ける。 「この女を助けてほしいのか?」 「……見て見ぬフリはできません」 「九條さん……」 九條と北条院の関係は良好とは言えない。父に対する感情とは違い、危険を冒してまで彼女を救う道理はない。 それでも彼女は北条院を庇うために声を上げた。やはり彼女の本質とは―― 「安心しろ。この女を殺す気はない。そんな事をしても無意味だからな」 「では私達を解放してくれるのか?」 「勘違いしているようだな。俺はゲームで負けた者を殺すなんて一言も言ってないぞ。そもそもこんな遊びで俺の欲求は満たされない」 どうやら面倒事はまだまだ続きそうだ。 「最後まで残ったこの女を除いたお前達で、本当のショーを始めてもらう」 「“ナグルファルの夜”の真実を、この世界に知らしめるためのショーをな」 「東雲首都ホテルで起きた爆破事件についての続報が入りましたっ!」 「たった今、人質を取って立てこもっている男からテレビ局宛にメッセージが届いたのです」 「なんと犯人の男は人質の様子を、ホテルの監視カメラを通じて放送するように要求してきましたっ」 「そうしなければ人質を殺すなどと主張しており、我が局は人質の安全を考慮した結果、その要求に応えるしかありません」 「あ、回線が繋がったようです! ご覧下さい、ホテル内の会場に集められた人質の姿が見えますでしょうか!」 「あの女、思ったよりも面倒な厄介事を持ち込んでくれたようですね」 「数人の方が犯人と思われる男と何か話しているようです!」 「あ、テレビつけっぱでし――」 「人質の安否が気がかりです! 我々にできる事は拘束された方々の無事を祈る他ありません!」 「ご主人――!?」 「どういう事だろうか」 マスク男が話し始めた内容に理解が及ばない。ゲームは終了したのではないのだろうか。 「そのままの意味だ。まさかババ抜きで遊んだだけで帰してもらえるとは思っていないだろう?」 「いや、私はそういう認識でいたのだが」 「では認識を改めてもらおうか。今決まったのは本当のゲームに参加する人間だ」 「は? どゆこと?」 「俺はババ抜きで命を賭けて戦ってもらうと言った。だが最後まで残った者を殺すとは一言も言ってないはずだ」 「俺がやりたいのは無差別な殺戮じゃない。AS9+の開発者を見つけ出し、罰を与える事だ」 「そのためにお前達を利用するし、場合によっては死んでもらう事になるかもしれないがな」 マスク男は壁の一部を指差した。 「あそこに監視カメラがあるだろう。あのカメラの映像は現在公共の電波に乗って放送されている」 「なんだと……!?」 「虚像に塗れた世界を救うのさ。“ナグルファルの夜”に隠された真実を俺が教えてやる」 「“ナグルファルの夜”の真実……?」 「…………」 “ナグルファルの夜”とは地殻変動と同時多発的に発生したパンデミックだ。そこに私達の知らない何かが隠されているというのだろうか。 「で、結局俺らはどうなるわけ?」 「簡単だ。お前達には今度こそ互いに殺しあってもらおう。そのための準備は既にしてある」 マスク男は立ち尽くしていた私達に近づき、そして―― 「っ――!?」 「何をする!?」 腕を掴まれた九條がマスク男によって前へと引き出される。 「ゲームの説明をしよう。お前達が目指すべきゴールはひとつ」 「九條グループの令嬢――こいつを殺せばゲームは終了だ」 格段に跳ね上がったゲームの難易度は、長い夜になるのを予感させた―― 「九條、どこだ」 パーティ会場から出た私は左右に分かれた廊下の先を確認する。 「みつきちゃんいないよー」 「探さなければ。他の者の手にかかる前に」 マスク男が提示した新たなゲームのルールはこうだ。 ババ抜きで勝ち抜けた六人が順に会場からホテル内へと解き放たれる。標的として設定された九條は最初に会場を追い出されてしまった。 ホテル内には爆弾が仕掛けられており、マスク男のさじ加減ひとつで九條の身が危険に晒されてしまう。 脅威はそれだけでなく、このゲームを終了するためには九條が死ななければならない。私を含めた残りの五人は彼女を殺す事が目的だ。 もちろんそれは私の不利益となる。九條を見つけ出しても殺す気はない。それは私だけではなく、この後会場から出てくる九條剛三も同じだろう。 しかし残りの二人はどうだろうか。マスターが九條を殺害するとは考えにくいが、状況が状況だけに全く皆無だと楽観的に捉えるのは危険だ。 漆原に至っては、自らの保身を優先するために行動に移す可能性が高い。短い期間ではあるが、彼を観察して受けた印象がそう結論付ける。 殺人は法によって厳しく制限されているが、極限的状況においては法の拘束力などないに等しい。事実、人間は大儀のために戦争を起こして争った過去がある。 「ねぇねぇ、どっちにいくのー?」 「そうだな」 事前に示し合わせる時間があれば良かったのだが、マスク男は満足に会話する暇さえ与えなかった。 「…………」 闇雲に探すにはこの施設は広すぎる。ここで選択を誤れば、最悪の結果に直結しかねない。 私が九條の立場だとすれば、まずどういう行動を起こすだろうか―― 九條の目的は迫り来る追っ手から逃げ延びる事。もしくはこのホテルから脱出する事ではないだろうか。 となればやるべき事は明白だ―― 「ひまわり、右手に進もう」 私はひまわりがついてこれる程度の速度で走り出す。 「どーしてこっちに行くの?」 「簡単だ。こちら側には私達が利用したエレベーター、そして向かいには階段があった。私が九條の立場なら、まずは脱出経路の確認をする」 マスクの男は脱出手段を全て絶ったと言っていた。だがこの目で確かめずにはいられないだろう。 爆発の程度によっては多少困難は伴いつつも下の階へと向かう事が可能かもしれない。 「急ごう。もしも階段が通行不能なら、九條は別の場所へ移動してしまうかもしれない」 「うん、ひまわりがんばってはしるよー!」 面倒事は現在の状況だけで手一杯だ。ここでひまわりが転倒して泣き始められては手に負えない。 ひまわりの体勢を注視しつつ、エレベーターのある場所へと向かった。 エレベーター前に到着する。周囲に視線を巡らせるが、九條の姿はなく辺りは静寂に包まれていた。 「みつきちゃんいないね」 「そうだな、どこかに移動したのかもしれない」 エレベーターの前に立ち、ボタンを押すが反応はない。稼動するために必要な電力が断たれているのだろう。 「やはりそう簡単にはいかないか」 次に少し離れた場所にある階段への入り口に向かう。 エレベーターの前例もあって期待はしていなかったのだが、想像とは裏腹にリノリウムが敷かれた階段は損傷を受けた様子もなく健在だった。 「見落としているのだろうか」 下の階層へ降りる階段はここだけではない。離れた場所に同じような階段があるのを案内板で確認している。 仮に複数存在する階段のうち、ここだけ見落としたとすれば脱出経路は確保できた事になる。 「みつきちゃん、もう下におりちゃったのかなぁ」 「…………」 自身の手に負えないほどの危機が迫ってくれば、人間に限らず多くの生物は逃走を図るだろう。 九條もそれに習い、早急にこの場を脱出しているのならば話は早い。私達も後を追えば目的は達成される。 だが果たしてそれは真実なのだろうか。希望的観測を否定しようとするしこりのようなものがあるのも事実だ。 用意周到に計画したはずのマスク男が自らの策略が破綻しかねない見落としをするだろうか―― そして九條はこの階段を見つけた時、形振り構わず降りて行くだろうか―― 「……誰だ」 背後の通路、その曲がり角から人の気配を感じた。 会場を後発した誰かだろうか。何にせよ、気配を殺して接近する者に友好的な理由などあるはずがない。 「隠れていないで出てくればどうだろうか」 一定の警戒心を構えて気配の主に登場を促す。誰であろうが驚きはしない。それでも脳内に浮かんだ候補の中では比較的意表を付かれる人物だった。 「…………」 「あ! みつきちゃんいた!」 廊下の角から現れたのは困惑気味で消沈している九條だった。 「何故そんなところに隠れていたのだろうか」 「それは……」 言葉に詰まった様子で困惑する九條。 「私は……追われている立場、ですから……」 「ああ、なるほど。キミが死ねば私達は助かる。だから私を警戒したのだろうか」 「そういうわけでは――!」 「……いえ、全く頭をよぎらなかったと言えば嘘になります……突然の事で、状況を整理できていなくて……」 「私がキミを殺すはずがないだろう」 「……すみません、冷静ではありませんでした」 「謝らなくてもいい。キミが警戒心を抱くのも無理はない」 突如として心当たりもないまま標的に指定され戸惑っているのだろう。 マスク男は何故九條を皆の対象に選んだのだろう――彼にとって深い理由などなく誰でも良かったのかも知れない。 もしくは九條でなければならない何らかの訳があったのだろうか。だとすればそれは一体―― 「ひとまずキミを見つけられて何よりだ。さあ、ここから脱出しよう」 「えっ、でも……」 「何か気がかりでもあるのだろうか」 「……お父さんや、他の方々がまだ残されたままです」 「それがキミと何の関係があるのだろうか?」 「え――」 「彼らに危機が及んだとしても、キミには関係がないだろう。父を気遣う気持ちはわかるが、赤の他人まで心配する余裕などキミにはないはずだ」 とはいえ彼女の言い分は先ほどのババ抜きから一貫している。ここで彼女の考え方を変えようとは思わないし、可能だとも思えない。 できるのは私の思惑を裏切らぬよう行動してもらうために譲歩できる材料を提供する他ない。 「どうしてもと言うなら、私が彼らを誘導しよう。但し、前提としてキミの安全が確保されてからになるが」 「…………」 「ここは日常から乖離した場所だ。常識が通用しない場面もある。理解してほしい」 九條はなおも逡巡していたがやがて―― 「……わかりました……赫さんの言葉に従います」 「ありがとう」 九條への説得が成功すれば、後はさほど難しくはない。私が取るべき行動は九條とひまわりをつれてここから脱出するだけだ。 「では行こう。マスク男に気づかれては面倒な事になりかねない」 「おうちかえるの?」 「そうだ。早く帰らないとノエルにあらぬ疑いをかけられてしまう。親方を待たせるのも心苦しい」 先陣を切って階段のある空間に足を踏み入れる。 恐らくホテルの周りには騒ぎを嗅ぎつけた大勢の人間が待機しているだろう。彼らの目から逃れつつ、旧市街に辿り着くのは骨が折れそうだ。 私の思考は早くも建物から出る手筈の検討に入っていた。 しかし吹き抜けの階段に鳴り響いた電子音に私の思考は引き戻された。 「この音は一体――」 空間内に反響する甲高い音――すぐには音の発生源を特定できなかった。 やがてその音は階段の隅に置かれている小箱から発せられている事に気づいた。 同時に私は自分の浅はかな考えを反省し、即座に行動を起こした。 「いけない」 「ぎゃふっ――!」 「赫さん――!?」 事情の飲み込めていない二人に構わず、両者の身体を強引に掴み廊下へと跳躍する。 すぐに私の予想が間違いではなかったと思い知らされた。 脚部に溜め込んだ力と爆発による衝撃で私達の身体は予想を超えて大きく飛ばされた。 私と違い腕の中にいる二人は脆く、壊れてしまわぬようにと地面との接触は自らの身体だけでやり過ごす。 身体に加わった運動エネルギーは二度三度地面に打ち付けられた後、壁に激突したところで完全に消滅した。 「二人共、大丈夫だろうか」 背面を強打したせいで一時的に呼吸がおぼつかなくなる。だが生命維持に致命的な影響はなく、それよりも抱え込んだ二人の安否の方が重要だった。 「うえぇ~、目がまわっちゃったよぉ~……」 「どこか痛むところはあるだろうか」 「んーん、だいじょうぶだよぉ」 「なら良かった。キミはどうだろうか」 「……私も平気です、あっ――」 「どこか怪我でもしたのだろうか」 「私ではありません、赫さんの腕が――!」 九條の視線を追うと、左の二の腕辺りに小さな鉄の破片が食い込んでいた。破片を中心にして上着に赤い染みが広がっていく。 「些細な傷だ。腕は動く、問題な――」 「いいからじっとしていて下さい!」 「わかった」 鬼気迫る九條を前にして反論するのは懸命ではなさそうだ。 九條はスカートのポケットから水色のハンカチを取り出し、私の傷口を覆うようにして巻き付けた。 「気休めにしかならないでしょうが……」 「出血さえ止まれば構わない。傷自体はさほど深くないし放っておけばじきに治るだろう」 粉塵の上がる階段をよそ目に九條の手当てを受けていると、不意にノイズのような音が耳に届いた。 「『どうやら無事だったようだな』」 「この声は――」 紛れもなくマスク男の声であるが、その姿は周囲に見当たらない。 声の発生源は頭上に設置された館内放送用のスピーカーだった。マスク男の声には機器を通した際に含有する特有のフィルタがかけられている。 「『俺が階段を封鎖し忘れているとでも思ったか? だとしたら随分と舐められたものだ』」 「『このホテルにいる全員に言っておこう。全ての階段を爆破したと言ったが、実際はそうじゃない』」 「『そうするのは簡単だが、一応これはゲームだからな。クリアした者が脱出するための術は残してある』」 「『とはいえ俺の意志に反して階段を降りようとすると設置した爆弾を起爆する。たった今そうしたようにな』」 マスク男は監視カメラを通してテレビ局に放送させていると言った。彼もその映像を把握しているのだろう。カメラの映像で私達の行動を監視し、階段を降りようとしたところで爆弾を起動させたのだ。 「『他の階段にも同様に爆弾を仕掛けてある。その真偽を確かめるのは勝手だが、全ての階段が使用不可になっても責任はもてない』」 「『それでもいいなら好きにするといい。さて、それはさておきゲーム参加者にお知らせがある。聞き逃さないようにした方がいい』」 私は地面に腰を下ろし壁に背を預けたままの体勢でマスク男の言葉に耳を傾ける。 「『たった今最後のゲーム参加者が会場から外へ出た。これで参加者全員がホテル内を闊歩している事になる』」 「『追われる者はせいぜい気をつける事だな』」 仮に参加者の中で九條を狙う者がいるとすれば、ここでゆっくりしている時間はなさそうだ。 「『ついでに観客にも役目を負ってもらう事にした。ただ眺めているだけでは面白味に欠けるからな』」 観客――会場に残った大勢のパーティ参加者の事だろうか。 「『彼らにはお前達と運命を共にしてもらう事にした。誰が生き残るのかに賭け、その者がゲームの条件を達成した場合のみ命を助けるという取り決めでな』」 「『彼らにも俺と同じ映像を見せている。クク、手袋の男、お前が爆発に巻き込まれた時の様子を見せてやりたかったよ』」 「『もちろん運命を共にするという事は、即ち賭けた対象が死ねばベットした観客もその時点でゲームオーバー、死んでもらう事になっているからな』」 「『自分に命を預けた人間が大事なら、命を粗末に扱わない事だ』」 なるほど、ゲームと言うからには手の込んだルールが設定されている。 「『ちなみに会場から出たのは六人の参加者だけじゃない。ゲームを有利に進めるために決起した有志の諸君にも注目した方がいい』」 「『言ってる傍から標的に辿り着いた者がいるようだ。うかうかしていると寝首をかかれるぞ』」 標的――それはつまり現状においては九條の他にいない。 マスク男の言葉に合わせたかのごとく、廊下の向こうから人影が接近してくるのが見えた。 「九條、やはりキミの考え方は希少なのかもしれない」 「えっ……?」 廊下の影から現れたスーツ姿の男から、紛れもない敵意を感じる。 「見つけたぁ……!!」 マスク男の説明を鵜呑みにするならば、彼は恐らく私と九條、そしてひまわり以外の誰かに命を預けた者の一人だろう。 「やぶさかだとは思うのだが念の為に聞きたい。私達に何か用だろうか」 「しょうがないんだ……俺だってこんな事はしたくねぇんだよ……」 月明かりに照らされた男の目は真っ赤に充血しており、およそ理性のある人間だとは思えない。 「でもこうするしかない……俺にだって帰りを待ってる家族がいるんだよ」 「質問の答えになっていない。しかしキミのやろうとしている行為に見当は付く」 人間は自らの命を守るためならば他者の犠牲を厭わない。曖昧になりかけていた事実が彼のお陰で鮮明になる。 「キミは九條を殺しにきたのだろう。違うだろうか?」 「ああそうだよ!! だって仕方ないだろ!? そうしなきゃもっと大勢が死んじまうんだ!」 「その他大勢について私はあまり関心がない。九條の命と天秤にかければ優先すべきは明白だ」 「よってキミの要求は受け入れられない。どうしてもと言うのなら少々痛い目を見てもらう」 「あ!? 上等だ! こいよ仏頂面! お前さえいなきゃ女子供なんてどうにかすんのは簡単だからな!!」 「悪くない」 「何?」 「キミの発言、行動理念はわかりやすくて嫌いではない。それでこそ私の知っている人間という生き物だ」 「うるせぇな!! 訳わかんねー事言ってねぇでさっさとこいよ!!!」 「わかった」 男に向けて歩みを進める。威勢のいい啖呵を切った割に、彼の立ち振る舞いは見るからに及び腰で一方的に私から距離を埋める形となった。 彼を組み伏せるのはさほど難しくはないだろう。例え目の前の男に武術の心得があったとしても、所詮は人間同士でしか通用しない。 「おらぁ! どうした! かかってこいよ!」 「それがキミの望みならば」 要望に応えて彼に危害を加えるべく間合いを詰める。 不意に彼の手に握られている無機物が視界に入った。 「俺は悪くない……! 全部あのマスクの男のせいなんだ……!」 手の平に収まるサイズの機器には手の込んだ装飾など一切なく、小さなスイッチが付属しているだけだった。 彼がそのスイッチを押し込んだ時――私はその機能をこの身で体感した。 「赫さんっ――!?」 「や、やった!! これで助かる!!」 廊下の脇に置かれた観葉植物――その影に設置されていたであろう爆薬が炸裂し、衝撃で私の身体は吹き飛ばされた。 一時的に四肢の感覚がなくなり、損傷の程度が把握できない。粉塵に包まれる中、どうにか視覚を頼りに全身の状態を確認する。 「う、恨むならマスク男を恨んでくれっ! 俺は悪くないんだ!」 「……そうだな、今は平時ではなくキミの行動は法の裁きを受けないかもしれない」 「えっ――?」 埃を払いながら立ち上がると男は目を丸くして驚いていた。 「…………」 「う、嘘だろ……!? どうしてアンタ平気な顔して立ち上がれるんだよ――!?」 「平気、ではない。私の身体は損傷を受けた。外傷もさる事ながら、肋骨の一本でも折れているかもしれない」 わき腹辺りから損害を知らせる信号が脳へと送られている。だが痛みにかまけている暇はない。 「何故キミが爆発物の起爆をコントロールする事ができたのだろうか」 「ひ、ひぃ、バケモノ!? こっちにくるなぁ!!」 男は腰が抜けたのか廊下に尻餅をつき、起爆装置のようなものを私に向けて投げつけた。 「キミ達人間は脆弱だ。しかし特筆すべきは身体能力ではなく、飽くなき探究心によって培われた科学力にある」 人間は己よりも力に勝る外敵に対してその頭脳で対抗してきた。 刀を作り銃を作り、ミサイルを作り出した。その知性はもはや私達“《イデア》〈幻ビト〉”の喉元に届きうる。 今回においても爆発の規模が後少し大きければ私も立ち上がる事が叶わなかったかもしれない。 「質問に答えてもらおう。キミは起爆装置を何処で手に入れたのだろうか」 「ば、爆弾の場所が書かれた地図と一緒に、ま、マスクの男から渡されたんだ! 助かりたかったらあの女を殺せって!」 なるほど、少々認識を改める必要があるようだ。所詮人間が襲ってきたところで問題はないと考えていたが、致命傷を与えうる武器を手にしているとなると話が変わる。 「状況は把握した。ではこれからキミには相応の罰を与える」 「ひゃぁっ――!? た、たすけてくれぇ――!!!」 「赫さん! 彼をどうするおつもりですか!?」 「もちろん今後の不安分子にならぬように彼の命を奪うつもりだが。私は生命を脅かされたのだ。生殺与奪権は私にある」 「駄目です! 彼を殺してはいけません!」 「何故だろうか。法によって規制されているからだろうか。ならばこの非常時においては優先度が低い」 「法律など関係ありません、赫さん自身の問題です! 一度汚れてしまった手は二度と元に戻る事はありません」 「それは人間の価値観によるものだろう。人間らしくある事は大事だが、それは日々の生活においての話だ。今はそうも言っていられない」 「私が、赫さんに彼を殺してほしくないのです……!」 「…………」 状況判断における私の行動は間違っているとは思えない。 しかしそれはあくまで取り巻く状況を鑑みた結論であり、個人的な感情で訴えられては正論は通用しない。 「彼はまたキミを狙ってくるかもしれない」 「だとしても、命を奪う必要はありません」 「……キミの判断は不合理だ」 しかし標的にされている当人がそう言うのなら私が口を挟む余地はない。 とりわけ私にも彼の命を奪う事に対して個人的な執着があるわけでもない。 「では少し眠っていてもらおう」 「えっ――?」 尻餅をついた男の顎を右手で弾く。男の身体から力が抜けその場に倒れこんだ。 「な、何をしたのですか?」 「脳を揺らして意識を遮断させた。時間が経てばいずれ目覚めるだろう」 「……なら構いませんが」 「『わかってもらえたかな? 一人目はどうにかやり過ごしたようだが、ゆっくりしていると次が来るぞ』」 「『さて、お前達の置かれた状況がわかったところで本題に入ろうか』」 離れた場所から見ていたであろうマスク男の声がスピーカーから流れる。 「『“ナグルファルの夜”、その真相について話そう』」 「『あれはただの地殻変動やパンデミックなどじゃない。流行したウイルスの出所はこの世界とは別の場所から来たものだ」 「『それこそが俺達を“《フール》〈稀ビト〉”にした元凶だ――』」 「おい、このまま俺達はここで見てるだけでいいのかよ! 長髪の男が死んだら俺達も殺されるんだぞ!」 「だったらお前があの女を殺してくればいいだろ」 「ふざけるなよ! そう言って他のやつは安全なところに隠れてるんだろ! 誰がそんな危険な役目を進んで引き受けるかよ」 「でもこのままじゃ他のやつらに先を越されてしまいかねない。そうは思わないか」 「だったらどうすりゃいいんだよ」 「……くじで決めよう。当たった者はここから出て皆が助かるように行動する。どうだ?」 「…………」 「他の者はどうだ? このまま手をこまねいてるだけではどうにもならないぞ」 「……反論がないのは同意と受け取るぞ。くじの準備は俺がしよう」 「おいアンタ、準備を手伝ってくれ」 「え、私に何か……?」 「聞いてなかったのか。まあいいさ、くじを引いてアンタに当たりが出たら改めて説明してやる」 「他の者もいいな! 必ずくじの結果に従ってくれ! 誰だってやりたくはない事だが、誰かがやらなきゃならん!」 「だから何を……」 「アンタは九條の令嬢と知り合いらしいな。できればアンタが引かない事を祈るよ」 「……?」 「『七年前のあの日、世界中でいくつもの“穴”が開いた』」 「『もちろん多くの人間がそれを目撃した。しかし後世には伝えられていない』」 「『“穴”を目視できるほど近くにいた人間のほとんどは漏れ出したウイルスをもろに受けて喋る間もなく死んだ。“ナグルファル症候群”でな』」 「『もちろんその事実を知りながら生存した者もいた。だが真実は明らかにならなかった。何故か――』」 「『知られては都合が悪い者達がいたからだ。彼らは“《イデア》〈幻ビト〉”であり“AS社”だ』」 「『AS社が他の機関を差し置いて事態の収拾に動けたのは理由がある。“穴”から漏れ出したウイルスは元々“《イデア》〈幻ビト〉”のいる世界からやってきたものだからだ』」 「『道理で既存の特効薬が効かないわけだ。そもそもほとんどの人間は“《イデア》〈幻ビト〉”の存在を知らないのだからな』」 「『かくしてAS社は事態の収拾に乗り出す。“AS9”という“奇跡”のワクチンを用いて』」 「『ほぼ全ての人間が“AS9”を接種する事で“ナグルファル症候群”は収束に向かった。だがこの薬にはある副作用があった』」 「『“AS9”には“穴”から漏れたウイルス同様、別世界にしか存在しない成分が含まれていた』」 「『結果、どうなったのか。その身で体感した者もこのホテル内にいるだろう。私もその一人だ』」 薄暗いホテル内を移動しつつも耳に届くマスク男の言葉を聞き逃すまいと集中する。 マスク男が会場に現れた際の言葉が蘇る。 「『“AS9”は“ナグルファル症候群”による身体の炭化を抑制する代わりに、“《イデア》〈幻ビト〉”の因子を人間に与えた』」 「『そのせいで人間の中には“《フール》〈稀ビト〉”と呼ばれる奇怪な力を操る者が現れ始めた』」 「『だがその事実さえも多くの人間は知らないままだ。何故か? “AS社”が隠蔽しているからだ』」 「『奴等は“《フール》〈稀ビト〉”の存在を確認すると処理、または捕獲し隔離施設に収容する』」 「…………」 昨日、九條もAS社に属する者からアプローチを受けた。幸い成り行きで彼女の理解を得られたが、他の者はそうもいかないだろう。 「『収容された者の多くは他の人間と何一つ変わらぬ生活を送っていた者達だ。己に宿った力を悪用する事なく、ただ普通の人生を送ろうとしていた』」 「『……だが奴等は問答無用で“《フール》〈稀ビト〉”達を連れ去り、実験の道具にした……!』」 何かが壊れるような音を残してマスク男の声は途絶えてしまった。 「興味の惹かれる話だったのだが」 「…………」 「どうかしたのだろうか」 「……いえ、少し思うところがあったので」 九條は神妙な顔つきで視線を落としている。 「あの方が、何故このような事件を起こしたのか、少しだけわかった気がします」 「それはどういう――」 マスク男の動機について九條に問いかけた言葉は、服の裾を引っ張るささやかな力によって遮られた。 「ねぇねぇあかしくんあかしくん」 「何だろうか、今は大事な話をしている。急を要する用件でないのなら後にしてほしい」 「きゅーをよーするってどういう意味?」 「……時間がある時に教えよう。それで用件は何だろうか」 「あのね、むこうにみつきちゃんのおともだちがいるよ」 ひまわりが指差した先に振り向くと、照明が切れ宵闇に包まれた廊下の奥から見知った顔が浮かびあがった。 「く、九條さん――!?」 どうやら互いに視認できる距離に来るまで彼女も私達の存在に気づいていないようだった。 「まずいかもしれない」 「えっ――?」 街中で偶然出くわしたのなら何も問題はないだろう。だが今は特殊な状況下であり、彼女がこの場に現れた意味について理解が及ばないほど愚鈍ではない。 目を凝らすと彼女の手には白い紙が一枚と、先ほどの男が所持していたのと同じ機器が握られているのが見えた。 「キミも九條を狙っているのだろうか」 「えっ――!」 周囲には安全の確認できない死角が多数存在している。 それこそ北条院の持つ起爆装置に対応した爆薬が致命傷を与えうる距離に設置されていないという保障はない。状況は切迫している。 彼女に敵意があるのなら、早々に排除しなければならない。 「私は、無理やり部屋を追い出されて……」 「九條を殺せと命令を受けてきたのだろうか」 「そ、それは――」 北条院との間は距離にして10メートルほど離れている。 隙をついて距離を潰すか。いや、いかに“《イデア》〈幻ビト〉”が身体能力で人間を上回っていようと、親指に力をこめる動作に速さで敵うわけがない。 私は右手の手袋を外す。最悪“《アーティファクト》〈幻装〉”を呼び出す事も考慮する。 「赫さん、待って下さい」 気配を察した九條が制止の声を上げる。 「あまり猶予はない。キミの要望は受け入れられな――」 「駄目です。私に任せて下さい」 「…………」 九條は私を制するように北条院との射線上に立ちはだかった。その姿は危機に瀕しているというのに、凛とした九條特有の強靭な意志を感じさせた。 「く、九條さん……!?」 「……あなたは私が嫌いですか?」 「えっ――!? そ、それは……」 「私はあなたが嫌いです。いつもいつも何かにつけて言い掛かりばかりで、正直うんざりしています」 「うぅ……」 「私が知っているあなたは目立ちたがり屋で常に自分が一番でなければ満足できない、他人に迷惑をかけるタイプの負けず嫌いです」 「何もこんな時にまでそのような事を言わなくても……」 「……ですが望まぬ結果と言えど、あなたと接する時間は他の人よりも多くなってしまいました」 「だから私は知っています。あなたに人は殺せません。そんな人間ではないと私は知っていますから」 「九條さん……」 起爆装置を持った北条院の手が小刻みに震える。 「あなたにそのスイッチは押せません。だから私は平然と立っていられるのです」 「今、そちらに行きますね。そんなに怯えなくてもいいのですよ」 ゆっくりと一歩ずつ歩むを進める九條。状況を打破しようとする彼女の行為にはリスクがあった。 それでも私には彼女を止められない。彼女達の心情に理解が及ばない以上、黙って見守る他なかった。 極限に追い込まれた人間の心理――繊細な感情を察するには、知識と経験が足りていないと実感させられる。 「うぅ……九條さん……」 「ふふ、あなたともあろう人がなんて情けない顔をしているのですか」 「九條さぁん――!!」 「――!?」 我慢の限界を向かえ、大粒の涙を零しながら北条院は九條に抱きついた。 私はというと無心になった北条院が投げ出した起爆装置を回収するため慌てて身を投げ出す。 地面に触れる直前にどうにか手中に収める事に成功した。 「うわあああああん――!! 九條さん九條さぁん――!」 「どうしたのですか、私はここにいますよ」 「色んな事があり過ぎてどうしたらいいのかわからなくなって……!」 「そうですね、今の状況では平常心を保つのも簡単ではありませんから」 「他の人に九條さんを殺してこいって言われて……うぅ……そんな事できるわけないのに……!」 「……他の方もあなたと同様に混乱しているのでしょう。仕方のない事です」 胸の中で泣き続ける北条院の頭をそっと撫でる。普段の様子からは想像ができない光景だ。 いや、こうなる予兆はあったのかもしれない。ただ私の理解を超えているだけで―― 「北条院、キミはどうしてここに来たのだろうか」 「えっと……あなた方以外の人はそれぞれ別の部屋に移されて……私もそこで待機していたのですけれど」 「九條を狙うという事は、別の誰かが生き残る方に賭けたというわけだな」 「い、いえ……その、恥ずかしいお話なのですけれど……あのババ抜きが終わった後の事はよく覚えていなくて……」 「多くの人が移動するのが見えたので、着いて行ったら、その……」 「無自覚のまま、他人に命を預ける結果になったというわけか」 ババ抜きでの様子から察するに嘘は言っていないだろう。彼女は自身に降りかかった問題を持て余していた。不慣れな環境に混乱するのは何も彼女に限った話ではない。 「そこで皆さんの動向をテレビで見守っていたのですけれど……」 「どうして他の方ではなく、あなたがこんな危険な役目を負ったのですか?」 「えと……くじ引きで決めようという話になり、運悪く……」 私はババ抜きの最中、運の巡りを信じるなら群を抜いて見放されていると思っていた。 しかしその最たる例はどうやら彼女に譲らなくてはならないようだ。ババ抜きで負け、あまつさえその後のくじでも貧乏くじを引かされるとは。 「キミの事情はわかった。九條に対する敵意もないようだ」 「当然ですわ!」 学園では執拗なまでに絡んでいたにも関わらず、今ではそう断言する北条院に違和感を覚えたが口にはしなかった。 「それはこれまで幾度も言い争いのようなものは繰り返してきましたけど、それとこれとは話が別です」 「殺したいほど憎い相手なんているわけありませんわ」 「そうか、キミはいないのだな」 「えっ、どういう意味ですの……?」 「いや何でもない、忘れてほしい」 私の追い求める死神――彼を殺せば私の心が満たされるのだろうか。いや、恐らくそうではない。私が知りたいのはその正体であり真実なのだから。 それでもこの胸を焦がす《えんさ》〈怨嗟〉の炎は人間の抱く憎しみと似た感情なのだろう。ならば私が本当の意味で理解できるのは人間の心に巣食う憎悪だけなのかもしれない。 「キミはこれからどうするのだろうか」 「私ですか……? できれば皆さんとご一緒させて頂きたいのですが……九條さんも心配ですし」 「それは困る。見てわかるように、現状でも非戦闘員の数が上回っている。これ以上増えては足を引っ張られかねない」 「で、ですが……もうあの部屋には戻れませんし……」 「赫さん、彼女も一緒に連れて行ってはくれないでしょうか」 「勝手に付いてくる分には構わない。爆弾に巻き込まれて命を落としても関係がない。しかしキミの言っているのはそういう事ではないのだろう?」 「……そうですね、できるだけ彼女の身も守って頂ければ」 護衛対象の増加――たった一人と言うかもしれないが、二人が三人になれば私の負担もその分大きくなってしまう。 さらに付け加えれば九條とひまわりの二人と違い、北条院の重要度は限りなく低い。顔見知りだというだけで、私にとってその扱いはその他大勢と大差がなかった。 彼女を引き入れても不利益こそ被れど、得られる利益など何もないのだ。 「彼女の護衛は業務依頼だろうか」 「いえ、私から赫さんへのお願いです」 「お願い、か」 労働に対する対価もなく、一方的に不利益を被るだけの申し出を私が許諾する必要性は皆無だ。 しかし―― 「わかった。彼女の同行を認めよう。できうる限り北条院の身に危険が降りかからないよう努める」 「しかし最優先すべきはキミ達二人の安全だ。仮に彼女の命とキミ達二人が天秤にかけられたなら、私は迷わずキミとひまわりを取る。それでも構わないだろうか」 「はい、ありがとうございます」 「え、ちょっとお待ちなさい、それでいいんですの!?」 「無理を通して頂いているのです。それくらいの覚悟は当然でしょう」 「うぅ……べ、別に構いませんわ! 自分の身くらい自分で守れますもの」 「そうですか、では赫さん、先ほどの話はなかった事に――」 「お、おおお待ちなさい! どうしてそうなるんですの! それとこれとは話が別でしてよ!」 北条院は抗議の言葉を九條にぶつける。呉越同舟という熟語があるが、彼女らには当てはまらない言葉のようだ。 しかしいつまでも彼女らのやり取りを静観しているわけにもいかない。私には成し遂げなければならない使命があるのだから。 「そろそろ移動したいのだがいいだろうか」 「移動? どこへ行くのですの?」 「闇雲に逃げ回っても意味はない。脱出も不可能となると、ゲームのクリアを目指すしかないだろう」 「ゲームのクリアって……まさかあなた、九條さんを!?」 「キミの推論は検討外れだ。九條は殺さない。例えばキミが九條の命を奪おうとしたら、私は躊躇せずキミを排除する」 「ご、ごめんなさい……そうですか……やはり本当にあなたは九條さんの事を本気で……」 「すまない、よく聞こえなかった、もう一度言ってもらえないだろうか」 「い、いえ、ただの独り言ですからお気になさらないで。それよりもあなたにはここから逃げ延びる手段が他に思いついているのですの?」 「ああ、複雑な手段ではない。この場を支配している者を排除し、行動の制限を解除する」 「……つまり、立てこもり犯を捕まえるという事ですか?」 「捕まえる、という表現にこだわる必要はないだろう。どんな形であれ、彼を無力化すれば良いのだから」 「……命を奪うつもりですか……?」 「何か問題があるだろうか。彼は既に無関係の人間を殺した。法に照らし合わせても相応の罰を受けなければならない」 「それともキミは彼の命すらも守るべきだと主張するのだろうか」 「…………」 「……いえ、気を遣う余裕がある相手だとは思いません。それで赫さんが危険な目に遭っては……判断はお任せします」 「わかった」 マスク男――彼の真意は未だ計りきれない。“AS9+”の開発者を探し出し復讐を遂げると言ったが、彼の用意したこの舞台がその目的を果たすために効果的な手段であるかは疑問だ。 憎しみの衝動に駆られた原因も依然として不明である。“AS9+”が彼の言うように“《フール》〈稀ビト〉”を人間に戻す薬ならば、それは九條を見てもわかる通り、有益な研究ではないのだろうか。 「それで、どうやって犯人を見つけるのですか?」 「彼の居場所について現状手がかりはない」 判明しているのは監視カメラを通してこちらの動きを把握している事だけだ。 このホテルにはカメラの映像を確認できる警備室がある。以前警備員として勤務した経験があり間違いない。 しかし警備室のある階層はもっと下であり、マスク男が爆弾による封鎖網の外にいるとは考え難い。恐らく駆けつけた警察が封鎖しているだろう。 カメラの映像を確認するだけなら警備室でなくとも事は足りる。事実、北条院達がいた部屋ではその映像を確認できる環境があったようだ。 「私達がパーティ会場を出た後、マスク男がどこに行ったのか見ていないだろうか」 「いえ、九條さん達が出て行った後、犯人も部屋から出て行ってしまって」 「ではしらみつぶしに探すしかないな。幸い、マスク男のいる階層は限られている」 私達のいるフロア――その上には最上階の階層しかない。つまりマスク男の潜伏場所はこの階、もしくは上の階層に限定される。 「手当たり次第に個室、大広間を捜索して回ろう。恐らくゲーム参加者、そして他の人間もこのフロアをうろついている」 「彼らに見つかっては面倒だ。できるだけ身を隠しつつ、各々警戒してほしい」 「わかりました」 視界の開けたフロアに差し掛かると、数人の人間が話し合っている光景に遭遇した。 「全員止まってほしい。向こうに誰かいる」 「えっ、どこですの……!?」 暗闇に包まれた空間内ではその顔まで識別する事は不可能だ。 影の輪郭から推察するに、他の参加者ではないようだ。どうやら北条院と同じ名目でフロアに解き放たれた人間だろう。四人の男が小声で何かを話し合っているようだ。 「どうしますか」 「あそこを通らなければ先に進めない。ひとまず様子を見よう」 息を殺して状況を観察していると、甲高い電子音が静寂を切り裂いた。 「『どうやらまだ生き延びているようだな』」 「マスク男――」 「『そうでなくてはつまらない。ゲームも研究も苦戦するほどおもしろい。すぐに解けてしまっては張り合いがないからな』」 先ほどと同じようにホテル内に設置されたスピーカーから低くくぐもった声が響いた。 「『さて、ゲームが終わってしまう前に、中断した話を再開するとしよう』」 「『どこまで話したか。ああ、“《フール》〈稀ビト〉”の存在についてだったな』」 「『何故俺が“ナグルファルの夜”の真実について知っているのか、疑問に思う者もいるだろう』」 「『それは俺が“AS社”によって捕縛されていた“《フール》〈稀ビト〉”だからだ』」 「……彼は“《フール》〈稀ビト〉”だったのか」 風貌こそ人間離れしていたが、まさか“《フール》〈稀ビト〉”だったとは―― しかし僅かな驚きこそ芽生えたが、大した疑いもなく受け入れられた。 これまでの彼の取った行動はおそよ尋常ではなく、私の見てきた人間と一線を画している。もしかすると先のババ抜きで漆原のイカサマを見破ったのも彼の“《デュナミス》〈異能〉”が関係しているのかもしれない。 「『“AS社”の奴等は“《フール》〈稀ビト〉”を人間として扱わない。だから俺も人間である事を止めてやった』」 「『“《フール》〈稀ビト〉”が普通の人間にとって全くの脅威にならないとは言わないさ。事実、隠蔽されてきただけで“《デュナミス》〈異能”を利用して悪事を働く“《フール》〈稀ビト”もいる』」 「『だが“《デュナミス》〈異能〉”を使わなければどうだ? “《フール》〈稀ビト”となってしまったからと言って、人間性ま〉で失ったと決め付けられるのか?』」 「『……何を言っても“AS社”の奴等は聞く耳を持たないだろうがな。構わないさ、“《イデア》〈幻ビト〉”の語る人間性など俺は理解したくもないんでね』」 人間性――人間らしさとも言い換えられる。“《フール》〈稀ビト〉”になればそれは失われてしまうのだろうか。 いや、その見解は間違っている。九條は“《フール》〈稀ビト〉”でありながら、他の誰よりも人間として悩み、人間社会の中あがいている。 人間性とは人間であるという事実だけで得られるとは思えず、その逆もありうると考えている。私もそれを追い求める一人なのだから。 「『さて、そろそろ俺が何故、九條グループの令嬢を狙うよう指示したのかについて教えるとしようか』」 「『それは、彼女が俺と同じ“《フール》〈稀ビト〉”だからだ』」 「っ…………!」 ひた隠しにしてきたであろう事実――誰にも触れられぬよう閉じ込めていたはずのパンドラが白日の下に晒され、九條の顔は凍りついた。 「『同じ穴のムジナだからな。少し俺のゲームに協力してもらおうと思ってな。もちろん彼女を選んだ理由は他にもあるが』」 九條は歯をかみ締め、俯き加減で動揺を隠しきれていない。だがふっと小さく息を吐くと、強い眼差しで顔を上げた。 「大丈夫だろうか」 「……はい、少し驚いただけですから」 「九條さんがあの犯人と同じ“《フール》〈稀ビト〉”ですって……?」 「…………」 「おい、いたぞ!!」 マスク男の話に気を取られ、背後にまで気を配れていなかったのは私のミスだった。 どこで調達したのか知らないが鉄製の細い棒を持った数人の男がこちらに向かって急接近していた。 棒を持った男が声を上げたせいで、それまで私達に気づいていなかった前方の集団にもこちらの存在に感づかれる。 「アイツだ! あの女をやれ!!」 どうやら考えるまでもなく、彼らの狙いは九條のようだ。己の保身のために、自分よりも一回り以上幼い少女に向けて血走った眼を向けていた。 「あかしくん、こわいおじさんがいっぱいきたよっ!」 「キミ達はここから動かなくていい」 前後から挟撃され、逃走を図るという選択肢は与えられていない。私の取れる行動はひとつだった。 「ギャッ――!?」 迎撃の態勢を取れば混戦となり彼女達の身に危険が及ぶ。そうしないためにまずは距離の近かった前方の集団に向けて駆ける。 爆発物の危険性を考慮していたが、幸い彼らの手に起爆装置と思しき機器は握られておらず、無我夢中で殴りかかってくるだけだった。 肉弾戦における彼らの脅威は地面を這う蟻と何ら変わらず、それぞれの腹部に拳による打撃を加え終わるとすぐに踵を返して引き返す。 九條達の下まで戻った時点で、後方の男達はこちらに向かって走っている途中であり、どうにかこの場を切り抜ける算段は整った。 「歯向かうつもりなら彼らと同じ運命を辿る事になる。それでもいいのなら来るがいい」 「なんだよテメェ――! 邪魔すんなよ!!」 「それはお互い様だろう。私にとってはキミ達が邪魔者なのだ」 「うるせぇなぁおい!! 俺達は自分らの身を守ってるだけだ! それの何が悪い!」 「そのために九條を殺すというのか」 「しょうがないだろ! その女一人死ねば他のみんなは助かるんだ! 一人と大勢の命、どっちが大事かなんて考えるまでもない!」 「命の価値は均一ではない。少なくともキミに比べれば、九條の命は遥かに重みがあって価値がある」 「これは客観的な意見だ」 「ごちゃごちゃうるせーんだよ!! その女だってあのイカれたマスク野郎と同じで人間じゃないんだろ!」 「っ……!」 「“《フール》〈稀ビト〉”か何だか知らねえけどよ、こっちは迷惑してんだ! 俺達は普通の人間なんだよ」 「少し黙っていろ」 「ごふっ――!?」 不快な雑音を遮断する。同じように腹部を殴打された取り巻きの男達も、苦悶の表情を浮かべて地面に伏した。 「キミ達が標準的な人間だというのなら、私は人間という生物に興味は湧かなかっただろうな」 なす術なく悶絶した彼らに私の言葉は届かなかったようだ。 「ふぁ~、あかしくんはつよいんだねぇ」 「怪我はないな。他の者に騒ぎを嗅ぎつけられては面倒だ。早急に移動しよう」 「…………」 「どうかしただろうか」 「……いえ、何でもありません」 その言葉とは裏腹に、俯き加減で視線を泳がせる九條には説得力が欠如していた。頼りない視線の行き先は北条院に向けられている。 「…………」 彼女も自身に向けられた視線に気づいたようで、しばし考えるような素振りを見せた後、おもむろに口を開いた。 「九條さんが犯人と同じ“《フール》〈稀ビト〉”とやらだというのは本当ですの?」 「だとしたらどうだと言うのだ」 「別に何もありませんわ」 北条院はあっけらかんとした顔つきで言い放つ。 「詳しい事情はわかりませんけど、九條さんが卑劣な犯人と同じだなんて甚だおかしいですわ。言い掛かりにもほどがありますの」 「キミは他の人間のように気にしないのだろうか」 「何をですの? “《フール》〈稀ビト〉”が何なのか知りませんけど、九條さんは九條さんでしょう」 「私はずっと見ていたのですから、あんな人達に何を言われようが心を動かされる事はありませんわ」 「…………」 「べ、別に好きで見ていたのではありませんからね!? あなたが私の目につく行動ばかりしていたのが悪いのですよ!」 「……ありがとう」 「ふぇっ――!?」 「何でもありません。さあ赫さん、先を急ぎましょう」 「お、お待ちなさい! 何でもないわけがないでしょう! あなたが笑ったのなんて初めて見ましたわよ!?」 「気のせいです。それよりも他の人に見つかってしまいますから静かにしてください。そんな事もわからないのですか」 「あ、あれ、いつもの九條さんですわ……私の見間違いだったのかしら……」 いや、キミの見間違いではない。そう指摘するのは何となくこの場に相応しくない気がした。 「キミの疑問については後々解消してほしい。今はそれよりもやらなければならない事が――」 私の言葉は不吉を予感させる電子音によって遮られた―― 「すまない」 「キャッ――!?」 両手で九條とひまわりを抱え、北条院の身体を右足で蹴り飛ばす。 あまり力をこめてしまっては彼女の身体を損傷してしまう恐れがある。しかしすぐに訪れるであろう危機を回避するためには少々手荒な手段も仕方がなかった。 「いたっ!? あ、あなた、急に何を――」 「キャアッ――!?」 身体を起こして抗議しようとした北条院の身体は爆風によって再び床へとひれ伏した。 「……二人とも大丈夫だろうか」 「けほっ……くちの中にほこりはいっちゃったぁ……」 「私は平気です、それより赫さんと北条院さんは――!」 「私は問題ない。彼女も恐らく大丈夫だろう」 爆発の影響で引火した廊下の向こう側に、ゆっくりと身体を起こして立ち上がる北条院の姿が見えた。 「いたたたた……あ、九條さん、どこですの!?」 「私達はこっちだ。どうにか爆発を免れた。キミの方はどうだろうか」 「足蹴にされたお尻が痛いですけれど、他は平気ですわ。でもこれじゃ……」 私達三人と北条院は燃え盛る炎によって分断されている。私一人なら突き抜ける事は可能だろうが、彼女達にここを通らせるわけにはいかない。 「『思ったよりもゲストの奴等が頼りなかったんでな。少々おもしろくしてやろう』」 「『“ナグルファルの夜”の再現だ。必死で逃げないと生き残れないぞ』」 何を持って“ナグルファルの夜”を再現しようと言うのか―― 私の疑問に対する答えはすぐに与えられた。 「うわぁ! いっぱいおっきな音がするよ!」 「これは――」 目視できない遠く離れた場所から爆発音が届く。 「『“ナグルファルの夜”の死因は半分がウイルスによる病死だが、もう半分は地殻変動による混乱で起きた外的要因だ』」 「『死にたくなければ早々にゲームのクリアを目指すんだな』」 突き当たりの廊下が轟音と共に粉塵を巻き上げる。どうやら個人を狙っているわけではなく、無差別に爆破しているらしい。 「『おおそうだ、お前達にとって大事な事を言い忘れるところだった』」 「『ルールの追加に関する情報だ。命が惜しいなら聞き逃さない事だ』」 「『ゲームクリアの条件は対象になっている人物を殺す事だが、ここに新たな条件を追加する』」 新たな条件――? 突如として聞かされた話を聞き逃すまいと耳を傾ける。 「『この状況は“ナグルファルの夜”を再現している。過去の厄災はどのようにして収束したのか』」 「『そう、忌まわしき“AS9”の存在だ。だから俺も用意した。このゲームから抜け出すきっかけには相応しいだろう』」 「『このホテルのどこかに隠された“AS9”を接種した者はこの場から解放しよう』」 「『もちろん数には限りがある。助かりたければ血眼になって探すんだな』」 短い雑音を残してマスク男のアナウンスは終了した。 「“AS9”――」 それを手に入れる事ができれば九條が犠牲になる事なくこのホテルを脱出する事ができる。 マスク男本人に続いて探索対象が増える。どちらにせよ見つけ出すために行う事は変わらない。 「ひとまず移動しよう。ここにいてはいつ他の爆発に巻き込まれるかわからない」 「でも彼女が――」 「この状況では別行動を取るしかない。北条院、聞こえるだろうか」 「き、聞こえますわ!」 炎の揺らめく先に北条院の顔が僅かに覗く。 「私達はこの場から退避する。キミもここから離れた方がいい」 「は、離れるってどこへ行けば良いのですか!?」 「どこでもいい。キミは九條と違って命を狙われる事はないだろう。ある程度爆発が収まるまで、安全な場所に居た方がいい」 「だから安全な場所ってどこですの!?」 「それは私にもわからない。最悪、元居た部屋に戻る事も考慮した方がいいだろう」 半ば追い出されるようにして送り出された北条院を、残った者達が快く迎え入れるとは思えないが。 「とにかく爆発が収まるまで時間を稼ぐのだ。その後にキミも“AS9”を探してほしい」 「わ、わかりましたわ――!」 北条院は背中を向けて走り出した。 「私達も行こう」 「……わかりました」 相変わらず遠くの方では爆発音が続いている。 ひとまずこの騒動をやり過ごす場所を見つけなくてはならない。 「…………」 「北条院の事が心配なのだろうか」 「……それもあります」 北条院と別れた後、私達は宿泊用の個室で爆発をやり過ごしていた。 個室を選んだ理由はふたつ――ひとつは狭い空間内ならば爆発物の有無を調べやすかった事。この部屋にマスク男の仕掛けた爆弾がない事は確認し終わっている。 もうひとつの理由は個室に監視カメラが設置されていない点だ。ここならば一時的とはいえマスク男の目から逃れられる。 常に行動を監視し続けられているというのはあまり心地よいものではない。 「…………」 「疲れているのだろうか。ならばキミも少し眠るといい。見張りは私が承ろう」 「……ありがとうございます。でも大丈夫ですから」 憔悴した九條の顔を見ればそれがつよがりである事は一目瞭然だった。 しかしこの状況で気を抜ける人間の方が少ないかもしれない。ソファに身体を預けて眠るひまわりを見て私はそう思わざるを得なかった。 「キミの身は私が守る。だから心配しなくてもいい」 「……赫さんは強いんですね」 「キミ達人間に比べれば戦闘において優れている」 「そういう事ではなくて……赫さんには不安とか悩みはないのですか?」 「悩みか」 そう言われて真っ先に思い浮かんだのは炎の中で揺らめく人影だった。 しかし九條の言う悩みとは少し違うかもしれない。そうなるとすぐには思いつかない。 「ひとつ……いや、ふたつある」 「何ですか?」 私は現在懸念している事案を述べる。 「こんなに遅くまで出歩くつもりではなかったから、倉庫で育てている植物の土が乾ききっていないか心配だ」 「同じ理由で、帰りを待っているノエルが気を揉んでいるはずだ。恐らく近いうちに兎と再会する事になるだろう」 「兎……? 赫さんは兎が好きなのですか?」 「いや、どちらかと言えば好きではない。兎との出会いは予定を狂わせる」 「……よくわからないのですが」 「キミは知らなくていい事……いや、もしかしたらキミのところに現れるかもしれないな」 ノエルの命を受けた兎があらぬ疑いを持って九條を問い詰めるかもしれない。内輪の事情に彼女を巻き込んでしまうのは心苦しい。 「ちょっと話が見えませんが私、兎は嫌いではありませんよ」 「ならばキミは楽しめるかもしれないな」 九條の想像は事実と異なっているだろうが、事情を説明するのは面倒で弁解はしなかった。 「それよりも、まだ落ち着かないのだろうか」 「えっ……?」 彼女に自覚はなかったようだ。私の視線が小刻みに震える九條の手に向けられているのに気づき、目を丸くして驚いた。 「やはり、皆にキミが“《フール》〈稀ビト〉”だと知れ渡ってしまった事が影響しているのだろうか」 「……そう、かもしれませんね」 九條は曖昧に視線を逸らした。 「私はキミではない。人間でもない。だから私の感覚がおかしいのかもしれないが、そこまで気に病む事だろうか」 「…………」 九條は答えずに太ももの上に置いた手に視線を落とした。 「“《フール》〈稀ビト〉”であるが故に苦い経験をしたのは聞いた。だが北条院も言っていたように、全ての人間がキミの秘密を知っても非難するわけではない」 「そうですね……私もそれはわかっているつもりです。他人に何を言われようが、気にする必要はないと」 「それでも昔、私を拒絶した人達の視線が頭をよぎるのです。理屈など通じない純粋な悪意に心が締め付けられるのです」 「……おかしいですね。周りと距離を置いてきた私が、誰よりも他人の視線を気にしているのですから」 常に気丈な態度で己を貫いてきた九條はどこにもいなかった。私の隣に座っているのは小さな手の震えを止める事もできない、ガラス細工のような危うさを纏った少女だった。 ――私はそれをどうにかしたいと思った。 理屈は定かではない。それは弱い者に抱く慈悲か――それとも彼女の動揺が私の足を引っ張る事を懸念しているからだろうか。 私にはそのどちらなのか明確な答えは出せそうになかった。 「どちらにせよ、私はキミの心に傘を差したいと思う」 「えっ――」 九條の手に触れると彼女は驚いて眼前まで迫った私に丸い目を向けた。 「キミに安心を与えよう」 息を呑む九條に伺いを立てぬまま、私は彼女の唇に自分を重ねた。 「っ…………!?」 彼女のひんやりとした体温が唇を通して流れ込んでくる。 それは彼女の心が凍り付いているからだろうか――もしそうだとしたら私の炎は少しでも役に立てるだろうか。 「ん…………」 九條は私を拒まない。かといって自分から私を求める事もしない。ただなすがままに身を預けていた。 いつもは逆の立場だった。積極的に唇を求めてくるノエルに身を任せているだけで良かった。だが九條は私と同じで相手に全てを委ねている。 ならばここは私が主導しなければならないのだろう。唇を触れ合わしたまま、自分が何をされていたのかを思い出す。 そうだ、確かノエルは軽く唇を触れ合わした後―― 「んっ――!?」 私の舌が九條の中に侵入すると、甘い吐息と共に嬌声が漏れる。 彼女の口内で行き先を探すとやがて九條の舌に辿り着いた。私はノエルがそうしたように、九條の舌に自分のものを擦り合わせた。 「ん……ちゅ……ん……ふ……」 それまで微動だにしなかった九條だが、しばらくするとほんの僅かにだが私の動きに合わせ始めた。 ――――。 どのくらいそうしていただろう。互いにサインを送ったわけではないが、自然と両者の唇は離れていった。 「…………」 ゆっくりと距離を取り戻していく九條は気まずそうに視線を落とした。 「……どうして、こんな事をしたのですか……?」 私から目線を外したまま、動機について問う。先ほどに比べると頬に赤みがかかって紅潮していた。 「キミは不安を抱えていただろう。私にはその直接的な原因を取り除く事はできない」 「だから少しでもキミの助けになる事ができればと思った。くちづけというのは相手に安心を与える行為なのだろう?」 「えっ……?」 実際にその効果を体感した事はない。だがノエルに何故くちづけをするのか問うとそう返答した。 同時にノエル以外の者にしてはならないと言われていた行為だ。だが今は非常時である、臨機応変な判断を下さねばならない。 よくよく考えてみると、ノエルの教えに背いたのは初めてかもしれない。 今でも彼女には絶対の信頼を置いているが、彼女の言いつけを破れたのは物事を自発的に解決しようとした証拠ではないか。 それは即ち、私が人間の思考に近づいてきた事を意味する。そう考えれば若干の後ろめたさはあれど悪くはない気分だ。 「…………」 「まだ足りなかったのだろうか?」 「え――」 「できればキミの不安を取り除きたいと思う。何故そう考えるのか、上手く説明はできないのだが」 取り引きを円滑に進めるため――間違いではないだろう。 だがそれが全てだと割り切れないのも確かだ。もやもやとした言葉にできない衝動――人間ならば誰しも抱くものなのだろうか。 「……信じて良いのですか……?」 迷い、動揺、期待――そのどれとも取れるニュアンスが含まれた呟き。 “信じる”とは相手が決して裏切らないと全幅の信頼を寄せる事だ。 私にはそこまでの確約をする事はできない。どんなに特別な関係になったとしても、絶対に相手を失望させないと約束するのは無責任ではないだろうか。 「まやかしとは真実があるからこそ存在する。そうは思わないだろうか」 「…………」 私にできるのは、今この場で抱いた感情を言語化して吐き出すだけだ。 それが上手く行えている自信はない。私にとっても初めての体験なのだ。不確かな感情を言葉にするのはこんなにも難しい。 「……赫さんの手はあたたかいですね」 「私の体温は人間よりも高い。特に右手は意識せずとも高温を発している。だから手袋はかかせない」 「くすっ、そういう意味ではありませんよ」 「ではどういう意味なのだろうか」 「……このぬくもりのせいで、もう一度誰かに頼ってみようと思ったのです」 「他の誰でもない、あなたにならもう一度だけ……」 「キミの信頼にできるだけ応えられるよう努力しよう」 九條は静かに瞼を下ろす。 私の言葉は時に相違を生む。人間の文法は複雑で扱いづらい。 確かなのは経験に裏打ちされた知識だ。幸い、私にはノエルに教えられた知識があった。 私は身を預ける九條の唇に再び触れた。 「んっ……ちゅ……ちゅぷ……はぁ……」 「ん……ちゅ……んっ!? 赫さん……いきなりは、その……」 「…………何故だ……?」 思わず言葉が漏れる。 ドレススカートのスリットに差し込んだ私の手は、確かに九條の下着に触れたが、しかしそこは―― 「何故……とおっしゃられましても、まだ心の準備がとしか……」 「心の……? そうか。私を受け入れる状態ではないというわけか」 私の知る女性器は僅かな触れ合いの中で下着を濡らすのだが、九條の膣はまだペニスを円滑に挿入できるとは思えなかった。 「………………」 首を、背中を、腰を、尻を――なだらかなラインを確かめるように撫でる。 「………………」 「あ、あの……赫さん…………何か、しゃべってください……黙ったままだと、恥ずかしいです……」 「綺麗だ」 「あっ…………」 四肢を絡めるように抱き合い、九條を感じる。 密着した胸から、心臓の鼓動が伝わってきた。 「女性特有の甘い香りは、花の蜜に似ている。私は嫌いじゃない」 「ふふ……こうして赫さんに抱きしめられると……いかに自分の身体が小さいのか、よくわかりますね……」 「九條は年齢相応の体型だと思うが」 「自分が、女であるという意識を持ってしまうという意味ですよ」 九條がすっぽりと私の身体に収まったまま、頭を預けてくる。 「なんだか……とても、温かい気持ちになって来ました……こういう気持ち……すごく、懐かしいです」 「幸せ、というやつではないか?」 その表情は、私には真似できない“幸福”や“安心”を表しているとわかった。 「ふふ……そういうことを、よくさらっと言えますね」 「でも、本当にその通りですね……私は柄にもなく、人恋しさに溺れているようです」 「再度、確認をさせてもらえないだろうか」 「……優しくですよ」 「ん……ぁ……」 許可をもらい、太腿を伝って下着越しの女性器に触れる。 「あまり……強く押しこんでは……っ」 「そうか、気をつけよう。大事にする気持ちもわかる。この手触りから察するに高価な下着なのだろう」 「赫さん……あなたはどうしてそう……」 「しかし今は、九條自身を高める一つのアイテムにすぎない。私は下着の今後を考えず、さらに触れたいと思う。許可をもらえるだろうか」 「…………はい……」 複雑な心境のようだ。 私は私にできることをしよう。 「ん……ぁ……ふぁ……」 下着の中心に指を当てて上下になぞっていく。 「ん、んふ……くすぐった……ぁ……ん……」 柔らかな恥丘の肉感と下着の薄生地が指に馴染む。 「はぁ……ぁ……赫さん……黙っていては……困ります……」 下着を気持ち押し上げる突起――――粒のような淫核を、慎重に撫でる。 「ンッ……あっ……そこ、ん~~……んっ……だ、だめ、そこは、だめ……んっ……」 肩を震わせる九條に効果を確信する。 この突起物が敏感であり、軽い刺激ですら快感をもたらすことはノエルとの経験で知っている。 「あっ、あっ、んふっ……んっ、んっ、ん~……」 衣擦れの乾いた音が途絶え、ぬるりとした愛液の分泌が指を湿らせた。 「……いい具合になってきたようだ」 「……あっ、あぁ……は、恥ずかしいです……言わないでください……あっ……ん……だめ……です……」 首を振って恥じらう九條だが、言葉とは裏腹に内股が自然と開いていく。 頭では割り切れずとも、身体は愛撫しやすい体勢になろうと受け入れているのがわかった。 「はぁ……ぅ……ん……ん……んふ……こういう事……されると……ぁ……本当に、声が抑えられないのですね……」 「ん……ん……はしたないと、わかっていても……はぁ……息が……上がってしまいます……」 九條は落ち着きなく股をもじつかせ、熱にうなされるような吐息をつく。 触れる度に肩がぴくんと揺れ、下着は膣から押し出されるように分泌する愛液で濡れていく。 「ぁ……ぁ……すごく……熱いです……ん……はぁ……んぅ……」 「……身体が……変に……んっ、んく……お腹の……奥が……ドキドキ……疼いて……」 頃合いだろう。 「九條」 「あっ――――」 肩を軽く押しただけで、九條はベッドに転がった。 愛撫にやられてか、少しぼうっとしている。 「わかるだろうか。私が今からしようとしているのは、異性とのコミュニケーションにおいて最も重要視される行為だ」 ノエルの受け売りだが、いつもは受動的にこなしているため、率先して行うのは初めてだ。 「はい……」 「私はこれが自然な流れだと教わった。だが九條にとって望みではないのなら、私は強要はしない」 「私は……ここで、やめて欲しくありません。赫さんになら、任せられる気がするんです」 「女性には貞操観念があるのは知っている。純潔を守る必要性を少しでも感じているのなら、先を望まない方がいい」 「責任を取れだとか、何か見返りを求めるような事はいいません。今後……私を大人にしてくれる方に出逢える機会が、想像できないんです」 「続けてください……」 はっきりとした同意の意思表示をもらい、私はセックスに必要不可欠であるペニスを取り出した。 「少し待ってくれ、準備をする」 ペニスを作業的に扱いて勃起させることで、性交に必要な硬さ、膣の奥まで突く長さを獲得する。 ノエルならば口で咥える事によってペニスを効率的に勃起状態にさせるが、今の九條にそれを求めるのは酷だろう。 「ぁ……あ…………思った以上に……大きくなるのですね……」 「そのようなものが、私のなかに入るのでしょうか……」 「大丈夫だ。九條は既に男を受け入れられるだけの肉体を保持している」 「よろしく……お願いします……」 真っ白な太腿を抱え持ち、薄いピンクの秘裂をざっと確認する。 男の跡を感じさせないぴったりと閉じた筋は綺麗ではあるが、挿入には多少苦労しそうだ。 「………………」 いざ、挿入となって、九條の額に浮かんだ汗の量に気づいた。 九條は安心を得る為に不安を感じている――――人間は時に矛盾し、その矛盾こそ人間を人間たらしめる要素なのかもしれない。 挿入に痛みも緊張も覚えない私にとって、九條の未知への恐怖と覚悟は理解できない。 だが……。 「九條……」 「あ……ちゅっ……ん……ちゅ……ん……ふ……」 唇を寄せ、一時的にだが思考を離させる。 こんな簡単に拭える不安ではないと思うが、『努力する』と言った以上、私は善処を怠らない。 「んっ……んふ……ちゅ……ぱ……ちゅ……ぱ……ちゅ……ちゅ……」 キスに乗じ、緊張のほぐれた隙をついてペニスを宛がう。 九條が気づかぬ内――――抵抗感を覚える間もないくらい、一気に貫いた。 「……っ!? うっ……く……ぁ……」 奥までの隘路を拡張するように進ませ、強引にペニスを押し込む。 「あっ……っ……っ」 「痛いのは、顔を見ればわかる。やめるにしても、抜くのにも痛みが生じるだろう。しばらくはこのままだ」 「はっ……っ……っ……っ」 九條は目を見開きはしたが、初めて膣を拡げられた事による生じる耐え難い痛みを叫びはしなかった。 釣った脚が治せないような激痛と聞いていたが、それを乗りきれるだけの九條の強さに私は惹かれた。 彼女の我慢を知りながら、破瓜の痛みに関して私が気遣うのはナンセンスだろう。 「……はぁ……はぁ……入っているのですね……熱いのがわかります……」 「ああ、全て収まっている。今は身体が驚いているようだが、慣れてくれば徐々に体液が分泌してくるだろう」 肩で息をしていた九條からだんだんと余計な力が抜けていく。 九條は繋がった秘部を覗きこむように上体を僅かに起こす。 「…………」 「どうした?」 「……いえ……誤解を招きそうですが――――あっけないものだと思いまして」 「いつか初めてを捧げる事になるのはわかっていましたが、こうして終わってみると本当に一瞬なのですね……」 「写真家は、その日、その場所でしか切り取れない“一瞬”を追い求め、成功、失敗を問わず情熱を注ぐという」 「多くの時間、多くの想いが掛けられる事で“一瞬”は輝く。二度と無いからこそ儚く、引き寄せられる。人間は、そう考えるのではないだろうか?」 「過ぎ去った後に残るのは、祭りの後の寂しさということなのでしょうか」 その言い分は、初体験を物理的な結合と捉えてしまったことにあるのだろう。 「九條。キミは本当に結ばれるべき相手と結ばれたのではない、だから今、現実を直視してしまったのだろう」 「ふふっ……赫さんは本当に変わっていますね、こんな時でも、顔色ひとつ変えないのですから」 私は事実を述べたまでだが、表情筋までは動かせない。 「確かに、そうかも知れませんね。私は赫さんを愛しているわけではありません」 「そうだな」 「貴方に永遠を誓うつもりもありませんし、繋がった事による感動も、ほとんどありませんでした」 非常に好感が持てる正直な回答だった。 「ですが――――赫さんも私と一つになれたことに、感動はしていませんよね……?」 「ああ。感慨深さといったものは、特にない」 「でも、赫さんは私に“安心”を与えてくれると言いましたね」 「こうして繋がる事で、九條を支えられるのではないかと考えた」 「そのうそ臭い月並みなセリフに、私は確かに安心を覚えています」 「そうか。……私は私の経験に基づき、最善を尽くしているつもりだ」 「赫さんの、その、相手が誰であろうと変わらない無感動さは――言い換えれば平等なんです」 「私は別に、白馬の王子を待っていたわけではないのです。貴方のように、理解しようと努力してくれる方に巡り会えた事は、幸いでした」 「貴方の無骨な平等性に、私は救われているのかもしれませんね」 九條の持つ独特の価値観は、同じ“《フール》〈稀ビト〉”にしか真に理解はできないのだろう。 しかし、私は解ろうと努力している。そういった前向きな気持ちが、九條にとって必要なものだったのだろうか。 「痛みも、収まってきました……続きをしましょうか……」 「九條、キミは処女を失う事にのみ一喜一憂しているようだが、それは間違っている」 「辛いだけなら、意味はない。性交の本質は、ここから先にある」 私は倒れこむような急角度で、九條に覆いかぶさる。 「んぐっ! んっ――――ああっ!」 腰だけのスライド。熱くぬかるんでいるとはいえ、初めての挿入を膣は拒み、押し返してくる。 「はっ、んっ、ンッ! あぅっ! あっ、あ――ッ!!」 『苦しいか』とは聞かない。不毛だ。短い呼吸と悲鳴のような声からも、引き結び食いしばった唇からも充分に読み取れる。 「はぁっ、あぅ! んっ、んっ、んっ、んっ!! んんんっ!!」 九條の膣は狭いうえに強く締め付けられ、ペニスの抜き差しも容易ではなかった。 例えば抱擁と接吻だけを求めたのであれば、私は迷わず九條にそうしただろう。 しかし性交の本質を知るには、入念な掘削作業による膣との交流を続けるほかない。 「あっ、あっ、あぅ! んっ、んーっ、赫っ、さんっ、なかが、痺れて、んぅっ」 「やめるか……?」 「やめまっ、せんっ、はぁっ、ンッ、んーーーっ!? んふっ、あっ、はぁ……はぁ……っ」 激しく突き乱す。九條がなすがままでいる限り、それは私を全身で受け止めているという事を意味する。 「あっ……あっ……んっ、んぅっ、んふっ……んぅっ」 破瓜によって滲んだ血が、分泌された愛液やカウパー腺液と混ざってピンク色へと変わっていく。 「ぁ……っ……んっ……ふぁ……」 侵入してきた硬い棒の正体が“異物”ではなく“男性器”であると九條の身体が認識し、それに応じた状況変化が起きる。 私に責められて身体を揺らしていた九條の声から、徐々に鋭さが抜けていく。 鼻にかかった甘みのある、熱を含んだ声だ。 「赫さん……あっ……私……もう……痛いだけじゃ、ありませんよ……」 「初めてなのに……こんな短時間で……赫さんとの行為に……んっ、感じてきているようです……」 「恥ずかしがる必要はない、正常な反応だ。女性は性交の際、快感を伴う温かさを感じるようになっていく。そう作られている」 「……でも、単なる快楽ではありません……赫さんも、そうは思いませんか……?」 「私も明確に九條を感じている。九條に“委ねられ”“赦されている”。“自分”を知ってもらっているのが、わかる」 「そうです……私も……行為を通して、赫さんと通じ合っているのがわかります……」 「何かが……ほどけていくんです……こうして、重なりあう事で……閉じていた何かが……」 九條の言いたいことが伝わっている。 ノエルの機嫌を取る事が性交の大半を占めていた私だが、九條と交じり合う事で別の意味を見出しつつあった。 「今まで……一緒にいるだけでは……感じられなかった……赫さんを……わかった気になっているんです……」 肉体を通して二人で共有していく言葉にできない感情のやり取り。 言葉にできない時点で、“完全な理解”に及ばないと言われれば反論はできないが、しかし……。 「九條……キミの言いたいことが、私にもわかった気がする。いや、違うな」 「わかった気で、いさせてはくれないだろうか」 「……はい…………」 性交によってしか満たされないものの正体は、生き物としての本質にあるのだろう。 「あっ、んっ、赫さん……んっ、んふっ、大丈夫です……もっと……もっと激しくしても、私は、大丈夫です……」 「あぁ、あっ、イイです……っ! 動く度に、私のなかにっ、届きます……っ! もっと、響かせてください……っ!」 年齢の差、種族の差、貧富の差――――全てを軽々と払いのけ、二つで一つとなる。 共に汗を掻き、見つめ合い、求め合う。 どんなに取り繕おうと、 どんなに飾り立てようと、 行為に溺れる事は、動物的だ。 「ふぁっ、あっあっあっあ~~~っ、それも、凄くぅぅ……ンッ! はぁんっ!」 動物は、悩まない。 動物は、怯まない。 動物は、休まない。 過激とも言える抽送によって肉と肉が弾け、打ち付けられた結合部から汁が飛び散る。 お互いに生まれる快感信号にのみ意識が向かっていく。 「あっ、んっんっんっん~~っ、はぁあッ、んぁぁあぁっ、あふっ、んふっ、んぅんっ!」 人は何かに耽溺すると、優先順位を度外視し、頭を一色に染める。 九條は今“快楽”に溺れ、興奮で一色に染まっている。 そこに雑念はなく、不安もない。 こうした精神的開放がセックスには伴い、ノエルも同じ理由で私を求めるのだろう。 「ヘンですぅっ、ぅぐっ、ンッ、突かれるたびにっ、奥がっ、奥がっ、切ない気持ちになるんですぅっ」 「はぁぁぁっ、あぁぁぁっ、ん゛っ、あ゛ぁ゛……んっんっ、あぁッ、ふ、深すぎ、ますぅっ」 シロップを煮詰めたような体臭がふんわりと私を包む。 気づけば、九條の方から求めるように手を伸ばし、私の身体に触れていた。 「九條……今、どんな気分か教えてはもらえないだろうか」 「私はっ、んっ、はぁっ、はぁっ、気持ちいいですっ……赫さんと、こうしていることが、んぅっ、初めてなのにっ、」 「他には……?」 「他にはっ、んぅっ、あっあっあっ、あ~っ、あふっ、他に……んっ、んぅぅっ」 他に考える事など、ありはしない。 快楽に埋め尽くされた、そのあっけない“一瞬”が今、九條を満たしている。 「んっ、んぅっ、んっ、ん~~っ、深くっ、入って、はぁんっ、あかしっ、さんっ、もう、わたしっ、わたしっ」 生まれの良さや教育で染み付いた九條の品格は、そこにはない。 私は初めてとは思えないほどにほぐれきった膣を擦り上げ、終わりへと向かう。 「九條……そろそろ……吐精が始まる……」 「はい、赫さんっ、んっ、んふっ、わ、私もっ、もう、限界ですっ、もう、イってしまいそうです……っ」 「お願いですっ、なかにっ、そのまま、なかにくださいぃぃっ」 どの道、私の子種は人間の真似事――機能はしていない。 下手に抜いてドレスを汚すことになるよりは、望まれるままにするとしよう。 「ンッ、ンッ、ンッンッンッ、あっあっあっ、ん゛ん゛っ! あ゛ぁっ、あ゛ぁっ……!」 どぴゅうぅぅうぅぅぅっ!! ドクンドクンドクンッ! びゅるびゅるびゅぶるるううぅぅううぅぅぅぅううぅ~~~~~~ッ!! 「ンッ、ン゛ぅぅぅううぅぅうぅぅぅ~~~~~~~ッ!! んふっ!! んふっ!!」 「ふぁ……あ~~~……はぁ~~~…………」 解き放たれていく精の奔流は即座に膣を満たし、狭い九條の膣内では収まりきらず音を立ててこぼれた。 「は…………あ………………ぁ……………………はぁ………………」 「……はぁ…………熱いので…………満たされて…………います……こんなに……たくさん…………私の……なかに……」 「はぁ…………はぁ…………」 呼吸が安定するのを待ち、ペニスを抜き出す。 九條の膣はひくひくと名残惜しそうに泣いていた。 「赫……さん……」 「ああ、九條……」 くったりと四肢を弛緩させた九條は、快感の余韻に浸りながらも名残惜しそうに私を見つめる。 私は九條が苦しくならないように体勢を変えながら、その身体を優しく抱きしめた。 「……………………」 男も女も、快感の頂を昇り詰めた後のぐったりとした脱力感の中、求めるものは決まっている。 自分を絶頂へと連れて行ってくれた相手に対する信頼感。 そして行為後、その相手に身体を預け、支えてもらうことで得られる安心感――それこそが性交による最大の恩恵だ。 「…………赫さん……」 「何も心配はいらない」 私は背中を撫でながら、与えたかった“安心”が九條の中に浸透していっていることに満足した。 「……本当に……安心してしまいました……赫さんは経験豊富なのですね……」 「そんなことはない、数にすれば二人目だ」 「私は子作りを目的としない男女の関係に嫌悪すら抱いていたのですが……経験してみることで、新しい自分を知ることができました」 嘘ではないのだろう。少なくとも九條の顔に後悔の色は感じなかった。 「赫さん……ありがとうございます。私は、これで大丈夫です」 「いつもの九條美月にもどれるか」 「今回の事は、赫さんに女としての通過儀礼をお手伝い頂いただけと思ってください。赫さんとは今まで通りでいたいですから」 「構わない。もし私にできることがあれば、その時は言ってくれ。相談に乗ろう」 「……ありがとうございます」 どれだけ時間が経っただろうか―― ホテルの個室から出て様子を伺う。周囲の人の気配はなかった。 「連続的な爆破はひとまず落ち着いたようだ」 「なんだかけむたいよぉー」 煙に乗って焦げた匂いが鼻腔をついた。至るところで火の手が上がっている。いずれ勢いを増しこのフロア全体を包み込むかもしれない。 「あまり猶予はなさそうだ。急いだ方がいいだろう」 捜索の終えていないエリアに向けて歩き出す。次の部屋へと足を踏み入れる前に、前方から接近する人影があった。 「お、九條のお嬢様みっけー」 相手の男も私達の存在に気づいたようだ。漆原は変わらぬ調子で嬉々とした声を上げた。 「それ以上近づかないでほしい」 「そんなに警戒しなさんなって。まだ何もしてないじゃん」 漆原は私の警告を無視して悠然と歩みを進める。 「キミに敵意がないと判断できない」 二人を背にして漆原の前に立ちはだかる。 「気が立ってるねぇ。お嬢様を狙った不届き者に襲われた? 災難だったね」 「ま、俺もその内の一人なんだけど」 瞬間的に半身の構えをとり、いつでも跳躍できるよう両足に力をこめる。 「おっと、早まらない方がいいよ」 漆原は右手をズボンのポケットに差し込む。 「お嬢様もろとも吹っ飛びたくなかったら、まずは俺と話をしよう」 彼の言動と状況を合わせて推測すれば、漆原の手に握られている物を予想するのは難しくなかった。 「そのスイッチを押せば、キミの命はない」 「それはお互い様じゃない? アンタも大事な物を失う事になる。できれば俺もこのボタンを押したくはないんだ」 「キミの要求は何だろうか」 「要求ってほどじゃないんだけど、ひとつ気になってる事があってね。ずっと考えてたんだけどわからない事があるんだ」 「アンタがどうやってジョーカーの位置を見抜いたのか」 「それを教えれば、キミは私達を見逃すのだろうか」 「交換条件としては破格でしょ? ついでにオマケもつけてあげる」 漆原の言葉が真実ならば、私に考える余地はなかった。私が “《イデア》〈幻ビト〉”である事は隠さなければならない事実なのだが、 この場を切り抜けられるのなら代償としては安い。 「キミもマスク男の話を聞いていただろう。私はその中に登場した“《イデア》〈幻ビト〉”と呼ばれる存在だ」 「ふぅん……なるほどね」 漆原は大して驚きもせず、むしろ納得したような様子でうなづいた。 「私の右手は人間と違い熱を発生させる事ができる。キミが整髪料でカードを判別したように、私は熱を利用した」 「ふむふむ、だからあの時クイーンの話をしたんだ。熱はヘアワックスと違って時間が経てば完全に痕跡が消えるから」 「納得したのなら、ズボンから手を出してほしい」 「あーはいはい、そういう約束だもんね。約束は守るよー」 漆原は大げさな素振り両手を挙げ、その手に何も握られていない事をこちらに見せ付けた。 「そっか、アンタは“《イデア》〈幻ビト〉”か。言われてみりゃ色々おかしかったもんね」 「今話した内容は他言しないでほしい」 「俺は仕掛けのタネが知りたかっただけだよ。別にアンタが“《イデア》〈幻ビト〉”だろうが“《フール》〈稀ビト”だろうが興味はないよ」 「……まあ“《フール》〈稀ビト〉”だったらまた会う日が来るかもしれないけど、その時はよろしくしてあげるよ」 「どういう意味だろうか」 「何でもない何でもない。それよりアンタが知りたい情報を教えてやるよ」 「イカレマスク野郎はこの先の大広間、俺達が最初にいた部屋にいるよ」 「何故キミがそれを知っている」 「お嬢様と“AS9”を探してる途中にね。アイツは部屋の中で踏ん反り返って俺達の様子を監視してるよ」 「アンタには有益な情報だと思ってたんだけど違った?」 「……いや、願ってもない情報だ」 九條の身を守りつつ、ここから脱出するにはマスク男を無力化する必要があった。 後に“AS9”というクリア条件が提示されたが、私にとってはどちらでもいい。むしろ彼が約束を反故にしないという確証がない分、本人を捕らえた方が確実だ。 「何故キミはその情報を私に伝えたのだろうか」 「優しさ?」 「信用できない」 「だよねー、自分で言ってて吹き出しそうだったもん。俺が優しくするのは脈のありそうな女の子だけだよ」 漆原は髪をかき上げながら白い歯を見せた。 「俺はアンタがマスク野郎の足止めをしてる間に“AS9”を探そうと思ってね」 「アンタが気を引いてる間は無茶苦茶に爆発が起こる事もないだろうし」 「アンタがマスク野郎を倒しちゃったらそれはそれでいいし。どっちにしたって俺に有利な条件に変わりないでしょ?」 「なるほど、納得した」 どちらに転んでも漆原にとっては利益しか生まない。己の利のみを追求するその姿勢は、これまでの彼を見ている限り説得力のある理屈だった。 「ま、お姫様を守るためにせいぜい頑張って。あと俺達のためにもねー」 「キミに言われるまでもない。ただお互い優先すべき目的に向かって行動するだけだ」 その結果で彼らに実益が伴おうとも私には関係ない。 ひらひらと手を振りながら立ち去る漆原の背中を見送りながら、ようやく手にかかりそうになったゲームの終焉に向けて身体が熱くなるのを感じた。 スタート地点に舞い戻り、扉の前でしばし逡巡する。 「キミ達はここで待っていてほしい。中には私だけで入る」 「私も行きます」 「キミ達に危険が及ぶ選択肢を選ぶ事はできない。キミにはひまわりを見ていてほしい」 「…………」 自分ではなくひまわりを引き合いに出されては九條も己の主張を取り下げるしかなかった。 マスク男が私の説得に応じる可能性は極めて低く、そうなれば “《フール》〈稀ビト〉”との戦いは彼女らを守る余裕がなくなる。 私は“AS社”の少女から九條を守りきれなかった。既に“《エンゲージ》〈契約〉”というカードは切っており、同じ鉄を踏むのだけは何としても回避しなければならない。 二人と別行動を取るのは不安要素でもある。断続的な爆発で目減りしただろうが、未だ九條を狙う者が現れないとも限らない。 だが九條には“《デュナミス》〈異能〉”がある。もちろん積極的に使用する事はないだろうが、最悪襲撃を受けても撃退できうるだけのポテンシャルは秘めている。 リスクリターンを考慮すれば、彼女達を残して行く事が最適だと言えるだろう。 「ひまわりを頼む」 「あかしくん、どっかいくのー?」 「家に帰れるよう話をつけてくる」 「そっかー、がんばってねー、はやく帰らないとのえるちゃんがぷんぷんしちゃうよ」 「そうだな。できるだけ早急に片付けてくる」 「九條、もしも火の手がここまで伸びてくるようであれば、ひまわりをつれて階段を降りて行ってほしい」 「最低限、マスク男に爆弾の起爆スイッチを押させないよう足止めする」 「……駄目です、赫さんを置いてはいけません」 「キミの心配だけをしている訳ではない。ひまわりの安全も考慮しなければならないのだ」 「…………」 ひまわりの名を出されては九條の勢いも大した事はなかった。 「……それでも、ちゃんと帰ってくると約束してください」 「それは業務依頼だろうか」 「いえ、お願いです」 優しく微笑み返す九條を見るのはこれで何度目だっただろうか。 これから戦いに赴くというのに、私はそんな事を考えていた。 「善処しよう」 もちろん私とてここで果てるつもりなど毛頭ない。 私には突き止めねばならぬ真実があるのだから―― 会場の中に足を踏み入れると、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。 大広間の中に人間の姿はなかった。存在するのは “《イデア》〈幻ビト〉”と“《フール》〈稀ビト”が一人ずつ―― 「やはりお前が来たか」 無数に並べられた小型のモニター。マスク男は私に背を向け、椅子に腰を下ろしていた。 「どうして私が来るとわかったのだろうか」 「お前の言動や、爆発を回避する動きを見ればすぐにわかるさ。お前は“《イデア》〈幻ビト〉”なんだろう?」 「その件については黙秘する」 「心配するな。放送されているのは映像だけだ。監視カメラでは音声を拾う事ができないからな」 「もうひとつだけ付け加えると、この部屋のカメラは機能を停止させている。誰の目をはばかる必要もない」 「そうか、それは安心した」 彼の発言が真実ならば、ここで何が起ころうとも私の個人情報が外部に漏れる事はない。 「キミの推論どおり、私は“《イデア》〈幻ビト〉”だ。訳あってあまり目立った行動を取りたくはない。“AS社”に目をつけられては困る」 「お前はハグレの“《イデア》〈幻ビト〉”か。どうりで奴等とは雰囲気が違うわけだ」 マスク男は椅子から立ち上がりこちらに振り返った。 「で、ここに来たのには目的があるんだろ?」 「我々を解放してほしい。これ以上、キミの行為には付き合えない」 「それは聞けない相談だな。お前達は俺の計画を成し遂げるための駒だからな」 わかりきってはいたがマスク男は私の要求を突っぱねた。 「キミの目的は“AS9+”の開発者を探し出す事なのだろう。私には目的に辿り着くための道筋が適当だとは思えないのだが」 「心配しなくてもいい。もう目星はついている」 「ならば私達は既に用済みではないだろうか」 「奴には俺と同じ地獄を見せる必要がある。ただ殺すだけじゃ足りない、俺が味わった絶望を奴にも味合わせてやるのさ」 「お前達はその舞台の歯車だ。嫌でも最後まで付き合ってもらう」 やはり交渉に応じるつもりはないようだ。状況を打開するための選択肢がどんどんと狭まってゆく。 「聞きたい事は他にもある」 「どうぞ聞いてくれ。計画の手伝いをしてもらってるんだ。俺に答えられる範囲の質問なら受け付けようじゃないか」 「私の疑問は二つある。ひとつは九條を標的に据えた理由が知りたい。何故九條でなければならなかったのだろうか」 「キミも“《フール》〈稀ビト〉”だと聞いた。同じ立場の者をどうして無碍に扱うのだろうか」 「お前は知らないようだな。九條親子と親しい間柄ならば知っているものとばかり思っていたが、案外信用されてないのか?」 「“AS社”が秘密裏に“《フール》〈稀ビト〉”から“《デュナミス》〈異能”を除去できるワクチンを開発している事実を今日知ったのだ。そ〉れ以上は私も聞かされていない」 「なるほど、では“AS9+”の開発計画は九條グループが立案した事は知らないか」 「九條グループが? 新薬の開発を行っているのは“AS社”ではないのだろうか」 「計画の発起人は九條剛三だ。九條グループは“AS社”に対して莫大な研究費用の肩代わりもしている」 「他に手段はなかったんだろう。“《フール》〈稀ビト〉”である娘を人間に戻すためには“AS社”のノウハウに頼らざるを得なかった」 九條剛三は娘のトラウマを消し去るために“AS9+”という希望に辿り着いた。 「私は“《フール》〈稀ビト〉”についてそこまで詳しい知識を持ってはいない。だが九條と同じ苦悩を抱いている者もいるだろう」 “AS9+”は九條だけにしか効き目がない訳でもないはずだ。“AS社”にも“《フール》〈稀ビト〉”を一掃したいという思惑がある。 「薬の誕生は双方にメリットを生む。キミの行為はそれに反しているように見える」 「九條を標的に据えたのは、彼女の父が“AS9+”を作り出そうとしているからだろうか?」 「その通りだ。もちろん彼女自身に罪はないが、彼女と九條剛三がいなければ“AS9+”開発計画が発足する事もなかった」 「だから二人には元凶を生み出した罰として、ゲームの参加者になってもらったわけだ」 「キミはどこまでも“AS社”と“AS9+”に対して恨みがあるようだ」 こうやって言葉を交わしていれば、彼が平然を装っているのを感じざるを得ない。根底にあるのは激しい怒りの衝動だ。 「ふたつ目の質問なのだが、どうしてキミは“AS9+”を否定しようとする。それがあれば救われる者もいるだろう」 「“《フール》〈稀ビト〉”にとって人間の領域を超えた力は災いの元だ。捨て去りたいと願う者も多いだろう。少なくとも私は一人知っている」 「そうだな、俺もそんな甘い夢を見た時があったよ」 「――彼らを信じた俺が愚かだった」 マスク男はカメラの置かれたテーブルの上から黒い鉄塊を引き寄せる。 「続きが聞きたかったら力づくで吐かせてみればいいさ」 彼の手には書籍や映像作品でしか目にした事のなかった銃器が握られていた。 「最初からお前もそのつもりなんだろう? 計画が完遂するまでの間、付き合ってやる」 「どうしても私達を解放する気はないのだろうか」 「俺にとっては復讐が全てだ。有象無象の安否などに興味はない」 「それにお前は“《イデア》〈幻ビト〉”なんだろう? 元を正せば全ての元凶は“ナグルファルの夜”であり、お前達“《イデア》〈幻ビト”がいるせいだ」 「お前も体験したんだろう? “《イデア》〈幻ビト〉”なら当時の出来事について俺より詳しいはずだ」 「私は……」 丁度七年前―― 私は自分が何をしていたのか覚えていない。後になって“《ファントム》〈亡霊〉”の存在をノエルから聞かされた。 私は“《ファントム》〈亡霊〉”に酷い喪失感を与えられた。失った物が何なのか――ノエルもその事は知らなかった。 残された手がかりは胸を焦がす激情の炎――そして真っ赤に染まる視界の向こうで揺らめく“《ファントム》〈亡霊〉”の存在だけだ。 「もうひとつ、聞きたい事ができた。公にされていない“ナグルファルの夜”について教えてほしい」 「お前がここに来なければ、マイクを通して他の奴等にも教えてやるつもりだったんだけどな」 「それは悪い事をした。だがこれ以上、キミの好きなようにやらせるわけにはいかないのだ」 ホテル内に広がった火の手はやがて全体に広がるだろう。そうなってしまえば爆弾があろうがなかろうが脱出経路を失ってしまう。 炎の勢いが増す前に決着をつけなければならない。 「キミは“《フール》〈稀ビト〉”だ。申し訳ないが手加減はできそうにない」 「おごるなよ“《イデア》〈幻ビト〉”。何もかも自分達の思い通りにはならないという事をその身体に刻み付けてやる」 狂ったような掃射音が鳴り響く。 「なかなか機敏に動くじゃないか――!」 あたりまえだが、鉛弾が撒かれてから回避をする――というのは不可能だ。 私は彼の指先一点に注視し、ほんの1mmでも動こうものなら遮蔽物へ飛び込もうと決めていた。 仮に彼がトリガーにフェイントを掛けていたなら、蜂の巣になっていた可能性もある。 「だがいつまで避け続けられるかな――」 弾数が読めない以上、イニシアチブは完全に握られているといっていい。 戦場であって戦場でないこの場において、《パーティテーブル》〈遮蔽物〉など気休めに過ぎない。 走り抜けるが、この状況自体が誘導されていることは承知している。 一手先、二手先の読み合い――逃げ場を失って追い詰められてから行動しては遅い。 「ならば紅蓮を与え、滅ぼすまでだ」 放たれる弾幕――――しかし私は冷静に準備を進める。 最も重要な事は、身体の向きだ。 銃口に対する私自身の面積を狭くする為、横を向く。 グローブを外した右掌を――――頭から腰まで、振り、下ろす。 「それがお前の“《デュナミス》〈異能〉”か」 「キミだけ武器を使用するのは不公平だろう」 拳を開くと、致命傷と成り得たであろう銃弾だったものが6つ、床に転がった。 掌から溢れる紅蓮の炎の温度は調整が利き、加減なく出力すれば部分的に超高温に達する。 “《アーティファクト》〈幻装〉”での銃弾の相殺は視野にあったが、危険を伴うので手段としては下の下だ。それでも今の場合は仕方がなかった。 「その掌は、さながら太陽といったところか。しかし文句を言うつもりはないさ」 「正直に言おう。俺の手に余るほどの強力な“《デュナミス》〈異能〉”でなくて安心している」 「会話を楽しむ時間は終わったはずだ」 一息で詰められる距離――彼の懐まで跳躍するのは容易い。 「個人的な感想を言わせてもらえば好ましくはないな。だが戦況には影響しない。さっさと終わらせようという気にさせただけの話だ」 芸の無い掃射を同じように右掌で相殺し、無策な彼へと猛進する。 「これならどうかな」 お飾り程度に捉えていた一丁の銃に意識を向ける。 しかし、やはり問題はないと判断する。 銃弾は疾い。 だが速度と引き換えに、その動きは単調でいて直線的だ。 致命傷さえ紅蓮の炎で防げればいい。 「ッ――――!?」 不可解な鋭い痛み――我慢できないほどではないが、丁度、踏み込みに使う脚だったのが災いし、もつれた。 脚に、二発被弾。被弾した? 一発はかすり傷だが、片方は私の肉を抉り削っている。 何故――――。 頭を埋め尽くす疑問に囚われていて反撃に転じることが出来ない。 機を逃した私は場に留まる事は命取りと判断し、体勢を立て直す。 「人間には個々の才能に優劣がある」 「だからお前は俺がした事を理解できない」 等速直線運動する銃弾に対し、私は接触部分を可能な限り減らして紅蓮での相殺を計ったはずだが――――。 「同じように銃器にも特性と性能に違いがある。大事なのは優れた道具を使いこなす知恵だ」 道具を使いこなす――――そうか。 「発射した弾丸同士を衝突させ、軌道を変化させたのか。威力は落ちるが、傷口が真横からつけられている事を考えると厄介だな」 「ほう、お前にも見えたのか?」 「ただの予想だ。常識的とは言いがたいが、あながち間違ってはいないだろう」 「常識なんて通じないさ。そんなものがあれば、俺はここにいないからな」 跳弾、行先不明弾――――それらは純粋な“危険”であり、コントロールはできないはずだ。 「どうした――! 逃げてばかりじゃラチがあかないぞ――!!」 挑発に乗る必要はない。 軌道の読めない跳弾を操れるとするならば、決定打となる一撃を死角から撃ちこむことも可能だ。 今の私に明確な策がない以上、一旦身を隠すのは定石だ。 「ふむ……なかなか上等だな」 乱暴な掃射によって床に散った《フォーク》〈食器〉の硬度を確かめる。 「おいおい、ステーキでも食うつもりか? 生憎だが、最後の晩餐を用意するつもりはないぞ」 「――――単なる小細工だ」 投擲で天井照明を砕き、壁まで走る。 私は電動シャッターを作動させ、差し込む月明かりの遮断率を上げた。 「なるほどな。完全に光を遮断すれば、狙いをつけられない。お前のいる場所も把握できない」 「こっちが攻撃すればマズルフラッシュで位置が丸わかり、か。なるほど、中々合理的な選択だ」 「では試してみるか。起死回生の思いつきが、果たして俺に届きうるのか」 「証明に辿り着くため、仮説を立て検証する。やはりお前は数学向きの性格だな」 「…………」 「…………」 これでお互いの“目”は奪われたことになる。 物音を立てれば闇からの射撃で私は穴だらけのチーズになってしまうが、悠長に構えていては“目”が闇に慣れてしまう。 「(軽くフェイントを掛けるか)」 「――――――――」 私の放った食器は落下と同時に弾け飛んだ。 圧倒的優位に立っていた側は、優位性が下がると途端に神経が過敏になるものだ。 「――――――――――――ッ!!」 あさっての方向に向かって乱射する彼は、自分の位置を特定される事にすら気づいていないのだろうか? 案外、臆病なのかもしれない。 「(弾数が尽きる頃だろう。マガジンのリロードに合わせて紅蓮を与えてやろう)」 「(…………?)」 飛び出すタイミングを見計らっていると、設置された爆弾に気づいた。 コレを投げれば――――いや、余計な考えだ。そこまでせずとも、決着はつく。 音が止んだ、今だ―――― 右掌を握り、地を蹴る。 「その仮説は間違いだったな」 その台詞は無意味だ。私は確実に背後を捕らえているし、彼はマガジンチェンジの最中――――両手が塞がっているはずだ。 届く……これで終わりだ。 返り討ちに遭った私はハッキリとわかった。 彼は死角から襲われる事を確実に予期し、私が飛び込むよりまえにハンドガンを構えていた。 撃ち抜かれた肩の出血は激しいが、気にしている場合ではない。 「キミは……」 まるでガラスに入ったヒビのように顔全体を浮かび上がっている血管。 だが露になったマスク男の素顔に、私は心当たりがあった。 「俺の事を知っているのか」 「キミは東堂征四郎ではないだろうか」 「そう呼ばれていた事もあったな」 東堂征四郎―― ノエルが見ていたテレビで紹介されていた天才数学者。その番組内で表示されていたテロップの顔と目の前の男は限りなく類似していた。 「キミが発表した論文が評価され“AS社”の研究施設に引き抜かれたというニュースを見た」 「それは奴等が情報を操作したんだろう。実際に俺が連れていかれたのは“《フール》〈稀ビト〉”を隔離し、実験材料にする施設だ」 「一応それなりに名が売れている人間だったんでな。自分達で囲っているように見せれば事後対応もやりたい放題だ」 「こうしている間にも、俺じゃない東堂征四郎が“AS社”を通して健在ぶりをアピールしてるはずだ」 マスク男――いや、東堂は吐き捨てるように言葉を続ける。 「俺の顔が何故こんな事になったのか教えてやろう」 「“《フール》〈稀ビト〉”だった俺は“AS社”の施設に連行され、そこである薬物の実験材料にされた」 「ある薬物……?」 東堂が事件を起こした原因――これまでの言動から推察するにそれは―― 「そう、“AS9+”だ。俺は“AS9+”を開発するための捨石にされた」 「俺だけじゃない。他にも強制的に捕らえた“《フール》〈稀ビト〉”を使って“AS9+”の臨床試験が行われている」 「未完成の薬を投与され、ⅩⅢと名付けられた結果がこれだ」 「“《デュナミス》〈異能〉”は取り除けたが変わりに全身の機能に異変をきたした。俺の場合は筋組織が発達し、五感が異常なほどに鋭敏になってしまった」 「それでも生き残った俺はまだいい方だ。試作型の“AS9+”を投与された“《フール》〈稀ビト〉”の致死率は90%だからな」 「ほとんどの者が死んだ。自らの意志に関係なく、ワクチン完成のために生贄とされた」 「俺は同じように連れて来られた“《フール》〈稀ビト〉”と共謀して施設を脱獄した。奴等にこの手で鉄槌を下すために……!」 彼の浮かび上がった血管がさらに力強さを増す。 自らに降りかかった理不尽に対する復讐心――東堂に憎悪が生まれるのは当然の流れだろう。 だが彼の境遇に私達は関係ない。 「キミの事情は理解できた。だが最終的な目的とキミのとった手段が一致しているとは思えない」 「“AS9+”の開発研究者はこの中にいる。そして奴の罪に見合った罰を与える手筈もできている」 「だからと言って九條を恨むのは見当違いだ。彼女達に罪はないだろう」 「……だとしても元凶を作り出した者としての責は負わなければならない」 「誰が罪を背負うのに相応しいか、そんな事は今更どうでもいいんだよ。俺はもう人間じゃないんだ。常識などで俺は止められない」 マガジンチェンジの済んだマシンガンは、暗闇において驚異的な力を発した。 タイミングがわからないので相殺できず、傷だけが増えていく。 「皮肉な話だ。こんな身体になった今なら数学上の未解決問題も簡単に解けそうだ」 「もっとも既に興味はないがな。俺のやるべき事はひとつしかない」 私が招いた暗闇が災いし、跳弾による立体攻撃に押される一方だ。 致命傷を避けられているのは運でしかなかった。 「俺の感覚器官はお前とは比べ物にならないほど発達している。それこそお前の関節が駆動する音まで聞き分けられる」 「何をしようと無駄だ。視覚が使えなくてもお前の肉を銃弾がそぎ落としていくのが手に取るようにわかる」 「……キミが漆原のイカサマを見破れたのもそのせいだろうか」 「ああ、俺にはトランプについた僅かな傷まで見極められる。ペンでつけたしるしを見破るのなんて容易い」 「最初にお前達を選別したのも異常聴覚によるものだ。俺はあの時“AS社”と“ナグルファルの夜”について話しただろう」 「お前達七人を選んだのは心臓の鼓動が反応を示したからだ。“AS9+”の開発者なら裏事情に触れる情報を出せば何かしらのリアクションを示すはずだからな」 「おかげで関係のないお前のような者まで引っかかってしまったが、それも想定済みだった」 「絞られた七人を観察すれば、その中に紛れ込んだ“ジョーカー”を見つけ出すのはそう難しくないからな」 「そのためのババ抜きだったのか」 「選んだ七人に直接“お前がAS9+の開発者か”と聞いても確実性はない。例えば九條剛三は“AS9+”の開発者でなくとも反応を示すだろう」 「それに不便な身体でね、最初にお前達七人を選んだ時に俺の聴覚は負担がかかり過ぎてしばらく使い物にならなくなってしまった」 「音を遮断するマスクをつけていても頭痛が絶えないほどだからな。まあ今マスクなしでいられるのも聴覚が完全に機能を取り戻していないおかげだろうな」 いつ心臓を穴だらけにされてもおかしくない状況で逃げ続けるのは危険が伴う。 肉体の損傷も無視できないものになってきた。 「(このままでは…………ん?)」 暗闇の中で私の手はある物に触れた。 東堂が設置したであろう遠隔式の爆弾だ。仮に銃弾がこれを捉えれば起爆を促しかねない。 そうなれば私の身体とてひとたまりもないだろう。 首元に鎌を突きつけられたような状況――にも関わらず私の懸念は実行されなかった。 「…………」 掃射音が消え、あたりが静まる――――まだ弾数は残っているはずだが、何故撃つのをやめる必要があるのか。 なんだろう、この閃きに似た違和感は。 ここには会場中に仕掛けられた爆弾のうちの一つが置かれている。その位置は仕掛けた本人ならば把握していて当然だろう。 私に致命傷を与える好機――だが彼の銃は沈黙を貫いたままだ。 撃たないのか、それとも―― 「…………」 こうして考えている間にも、ホテルの内部を侵食する炎は広がっているだろう。悠長にしている時間はない。 だが一度生まれた違和感は消え去りはしなかった。 暗闇では、視覚による視認性は落ちるが、補って余りあるほどの優位性が聴覚によってもたらされている。今の状況は彼の方が圧倒的に優位だろう。 異常発達した“聴覚”はどんな小さな音でも正確な情報として読み取れる。だがより大きな音が鳴れば、それは小さな情報をかき消す結果になるのかもしれない。 彼の銃器についている消音機能。しいてはガスマスクや特殊な衣服も彼の体質に合わせての事なのだろう。 「(――――なるほど)」 導き出された仮定――試してみる価値は大いにある。 「どうした“《イデア》〈幻ビト〉”。その程度か?」 「キミの顔をもう一度よく見せてくれないだろうか」 「物好きだな。とても女受けするような顔じゃないのはわかってるだろう」 「《・・・・》〈その程度〉の私が、何らかの罠を張っていると?」 「……いいだろう。もう勝敗は決したも同然」 ゆっくりと会場に光が満たされていく。 「どうだ? これが“AS社”に人生を台無しにされた男の顔だ。情けないだろう」 「とはいえお前に勝てたのはこの忌まわしい身体のおかげだがな」 「最期の頼みは聞き入れたんだ、もう眠れ」 引き金が絞られるより先に私は胸に手を当てる。 「そうは行かない――――」 「往生際が悪いな――! だが俺が許すと思ったか――!」 「そうは行かない、と言ったはずだ」 予想通り、心臓に集中放火された銃弾を紅蓮で燃やし尽くす。 私は“《アーティファクト》〈幻装〉”を取り出そうとしたのではなく、胸に照準を合わせる為に誘導しただけだ。 「与えられたいのは、紅蓮か? それとも――――これか?」 「な――――!?」 彼は私の投げつけた物が爆弾だと判別する前にトリガーを引いていた。 このままでは誘発し、彼もろとも、私も終わりだ。 しかし、命賭けの攻防の中で、私は彼の跳弾の腕を信じた。 一発の銃弾が弾かれ、弾かれた銃弾が次の銃弾を弾き――――次々と連鎖反応を起こして全ての銃弾の方向が変わる。 爆弾の表面を舐めるように銃弾が通過し、爆発は免れる。 「(――――この一瞬を待っていた)」 この掌に宿った灼熱の出自は、結局のところ“《アーティファクト》〈幻装〉”に由来する。 冷め切った私に不釣り合いなほど、燃え滾った“魂”。 「(力を貸してくれるか)」 冷えきった大地のような自分自身の胸に問う。 燃える太陽の如き掌を胸に当て、《へんぺいりつ》〈扁平率〉0,01%の“《たましい》〈球体”を呼び起こす。 ごうっ――――と。一《な》〈哭〉き。 私だけが持つ太陽の如き“魂”が呼応し、心の扉から顔を出した。 「銃器には銃器で反撃させてもらう」 グリップに掌の灼熱が伝わり、発射体勢が整う。 “《エンゲージ》〈契約〉”のパートナーから取り出さずとも、装填された弾は私の血潮が凝縮された灼熱弾だ。一瞬で片がつくだろう。 「これが紅蓮の真実だ」 “《アーティファクト》〈幻装〉”から放たれた熱量はパイプ爆弾の内部に含まれていた火薬と化学反応を起こす。 「っ――!」 光の次に襲い掛かるのは熱波を伴った爆風だ。 片腕を顔の前にかざし、光と熱波から視界を保護する。 それでも爆発の効果は一瞬の出来事だった。 腕を下ろし前方を確認すると、爆発の影響で物は飛散しあちこちで小さな火種がくすぶっていた。 「ぐああああああぁぁぁぁぁ…………!!!」 東堂は爆発地点から少し離れた場所で膝をついて頭部を押さえていた。 頭を潰してしまいそうなほど力一杯両耳を押さえつける様子を見れば、彼の身体に重大な問題が発生したのは明白だった。 「はああぁぁぁぁ……!!」 予想以上の効果を得られた喜びも束の間、身悶える東堂に対する私の戦闘意欲は完全に薄れていた。 最早彼が脅威になるとは思えなかったのだ。 「ホテルを占拠するのに爆弾を選んだのは効果的だ。少人数でも計画を実行できる。大きな効果が得られるだろう」 「キミの計画には必要不可欠だった。単独でホテルを占拠するにはこうする他なかった」 施設を占拠する場合、大抵は人員と武装を用意するのがほとんどだ。少なくともノエルが見ていた映画ではそうしていた。 東堂の場合、共犯者を確保できなかった代用として爆弾を利用したのだろう。 「しかしキミの身体との相性は良くなかったようだ。爆発音にキミの異常聴覚は耐えられなかった」 恐らく私の声は届いていない。彼の聴覚器官は異常発達していた影響で、爆発時の轟音で過度の負担を受けたのだ。 その証拠に私がすぐ近くまで接近しても、東堂は顔を上げる事なく無防備な姿を晒して痛覚にただ身悶えていた。 「赫さんっ――」 不意に会場の扉が開かれ、九條とひまわりが姿を現した。 「入ってはいけないと言ったはずなのだが」 「すみません……でも中から爆発音が聞こえて居ても立ってもいられなくなって……」 「みつきちゃんはあかしくんのことすっごく心配してたんだからおこっちゃダメだよ!」 「怒ってなどいない。自ら危険な目に遭うような行動は控えてほしいと言っているだけだ」 「あかしくんがあぶない目にあったら意味ないでしょ! あかしくんもみつきちゃんも、ひまわりの大事なおともだちなんだから」 「わかった。その話は後でゆっくりするとしよう」 ひまわりを説き伏せるのは時間がかかる上に成功する保障はない。それよりも優先すべき事情がある。 「ぉぉぉぉぉぉぉぉぉ…………!」 「……あの方は」 「私達を拘束していた犯人だ。“AS9+”による副作用で五感が異常発達している」 「“AS9+”……!?」 「先ほどの爆発で聴覚にダメージを受けた。聴覚は音を聞き取る感覚器であるとともに平衡感覚をつかさどる器官でもある」 「しばらく彼は立ち上がる事すらもままならないだろう」 彼の自由を奪ってしまえば、ホテルから脱出するための障害だった爆薬も役目を果たせはしないだろう。 「っ…………やってくれたな…………」 東堂が搾り出すように声を出す。 僅かな警戒心が再燃したがすぐに消えうせた。 彼は起き上がるのを諦め、仰向けになり天井を見上げた。 「勝敗は決したという事でいいだろうか」 「あ……? 何を言っているのか聞こえないぞ……もっと大きな声で喋れ」 「いや、あえて聞く必要もない」 無防備に身体を晒す東堂に戦意がないのは明白だった。 私は監視カメラの映像が映し出されているモニターの置かれたテーブルに移動する。 「あまり時間はないようだ」 ホテルの内部を映し出すカメラは縦横無尽に広がり続ける炎を捉えていた。 モニターの横にはいくつもの数字が羅列したノートパソコンが置かれている。恐らく北条院達が所持していた起爆装置とは別に、このPCを使って爆弾を遠隔操作していたのだろう。 破壊しようかとも悩んだが、下手に手を加えた結果悪影響が出ないとも限らない。機械の扱いはあまり得意ではなかった。 「彼に私達を止める手立てはない。早くホテルを脱出しよう」 「少し待ってくれませんか」 「どうしたのだろうか」 「……どうしてこのような事をしたのか、聞きたいのです」 九條の質問は私に向けられたものではない。 「彼の聴覚は機能を果たしていない。会話は難しい」 「……お前も俺に聞きたい事があったんじゃないのか」 東堂は天を仰いだまま呟いた。 「私達の声が聞こえるのだろうか」 「酷い耳鳴りはするし締め付けられるような頭痛は相変わらずだがな。お前達の聴力と同程度くらいには回復したよ」 会話が成立するのであれば、私にも尋ねたい内容がある。 「九條美月、か……全く、お前のせいで俺の人生は滅茶苦茶だ」 「……どういう意味ですか?」 「彼は“AS社”に捕まり、新薬である“AS9+”の実験材料にされた“《フール》〈稀ビト〉”だ」 「えっ……?」 「“《デュナミス》〈異能〉”を手放した代償として、異常なほどに感覚が鋭敏になるという副作用を発症した」 「それを恨み“AS9+”の開発者、そして計画の発起人だった九條剛三とキミに憎しみを抱いたらしい」 「お父さんが“AS9+”を……?」 「わかりやすい説明に感謝するよ」 「……私のせいで……こんな事になったというのですか……」 「“AS社”はともかく、キミ達は“AS9+”という希望に手を伸ばしただけだろう。キミに責任があるというのは暴論だ」 「……それでも、九條グループが関わりを持っていたとすれば、それは私のためにお父さんがやった事でしょう」 「……非がないとは言い切れません」 私にしてみれば九條が責められる謂れは皆無だ。しかし九條本人は自らの責任を感じ真摯に受け止めているようだった。 「キミが彼に肩入れするのは、彼がキミと同じ“《フール》〈稀ビト〉”だからだろうか?」 「……全くそんな気持ちはない、と言えば嘘になります。恐らくこの人にも、耐え切れないほどの境遇があったのでしょう」 「ふん……わかったような口を聞くなよ小娘」 「…………」 「……しかし、お前のような考えのできる奴が“AS社”にも入れば、俺達家族の未来はこうならなかったのかもしれないな」 「家族? キミには家族がいるのだろうか」 「過去形だがな。俺には妻と娘がいた。平凡な毎日を送るだけで幸せを感じるような奴等だった」 「二人共、何の罪も犯していない。ただ他と違うのは、二人とも “《フール》〈稀ビト〉”だったというだけだ」 「キミの家族も“《フール》〈稀ビト〉”だったのか」 「俺が“《フール》〈稀ビト〉”と判明したのは二人よりもずっと後の事だ。二人は“《フール》〈稀ビト”である事を隠し普通の生活を送っていた」 「だがある日、娘が“AS社”の目に留まってしまった。奴等は知識を持たぬ俺達に、言葉巧みに近づいてきた」 「“《デュナミス》〈異能〉”を取り除く事ができる。そのために指定の病院へ入院してくれ、とな」 「俺は悩んだ結果、二人を送り出した。二人共、普通の人間に戻りたいという強い気持ちを持っていたからな」 「家族と離れて生活する事になったが、俺は俺で研究中の論文をまとめるので忙殺されていた」 「そうやって二週間ほどしたある日、時間を見つけて様子を見にいこうと見舞いに出かけた」 「すると二人は聞かされていた病院から転院させられていた。“AS社”直轄の研究施設にな」 「俺は二人と面会できるよう手を尽くした。だが奴等はどうしても二人に会わせはしなかった」 「ほどなくして俺も“《フール》〈稀ビト〉”だという事がわかり、施設に行く事になった。二人の顔を見るためにも、二つ返事で了承したよ」 「施設に足を踏み入れた途端、俺は自由を奪われた」 「そして知らされたよ。妻と娘が既にこの世にいない事を」 東堂は憎しみで顔を歪めるわけでもなく、どちらかと言えば己の無力に呆れたように笑っていた。 「俺が知らないところで、二人はもう実験の材料にされていたんだ。気づいた時にはもう何もかも手遅れだった」 「そんなの……酷すぎます……」 東堂が“AS社”復讐を誓った原因は己の身体を変貌させた事だけではなく、最愛の者達を奪われたのが原因だった。そして恐らく彼の中では後者によるものが大きいのだろう。 「俺は奴等に裁きを与えるため、今日この日にあわせて計画を練った」 「俺達を虫ケラのように扱った“AS社”の“《フール》〈稀ビト〉”に裁きを下すためにな」 「“AS社”の“《フール》〈稀ビト〉”? どういう事だ。“AS9+”の開発者は“《フール》〈稀ビト”なのだろうか?」 「……ああ、そうだ」 “《フール》〈稀ビト〉”の存在を認めない“AS社”――その内部に“《フール》〈稀ビト”がいるとは。 「だがキミの計画は頓挫した。あまりにも多くの者を敵に回した」 「後悔はしていないさ。それに俺の計画はほぼ達成しつつある」 「どういう意味だ?」 「安心しろ、お前達にこれ以上危害を加える気はない。十分に役目は果たしてもらったからな。後は張本人に神罰が下るのを待つだけだ」 「俺達を騙した“《フール》〈稀ビト〉”に相応しい苦痛を味わってもらう……」 「最上階のフロアに置かれた、未完成の“AS9+”を使って自らが実験材料になるんだ」 「まさか」 ホテルを占拠し我々を拘束してまで彼のやり遂げたかった事、それは―― 「キミの目的は研究者をただ殺すのではなく、“AS9+”を……表向きはゲームのクリア条件として設定した“AS9”を服用させる事だったのか」 返事をする代わりに東堂は息を吐いて瞼を下ろす。 「卑劣で狡賢い奴にはうってつけの方法だろう? 自分で作り出した欠陥品の効果を身を持って味わうんだ」 「そんな……!? もしも他の方が薬を手に入れたらどうするのですか……!?」 「他人の命を気遣うほどの余裕は俺にはない。奴に復讐ができるのなら、俺は悪魔に魂を捧げよう」 「……だがお前の想像は杞憂だ。たとえお前の父親が“AS9+”を接種したとしても身体に害は及ばない」 「……“AS9+”は“《フール》〈稀ビト〉”にしか効果がないからな」 「それを飲んだ“《フール》〈稀ビト〉”はキミのようになるのだろうか?」 「……さあな。言った通り、現状の“AS9+”を服用した場合の致死率は九割を超える。運よく残りの一割が引けたとしても、俺のように変調をきたす場合がほとんどだ」 「もしも薬の副作用なく効果を発揮したら、それはもう俺のあずかり知るところじゃない」 「俺の行いを神が許さなかったと諦めもつくさ」 目的が達成されなければ意味はないのではないか―― 私はそう思うのだが、彼の表情に未練はなく偽りを述べているようには見えなかった。 「俺の話はこれくらいでいいだろう。いずれここにも火の手が迫る。お前達はここで命を終わらせる気はないんだろう……?」 「そうだな。私達はここに留まるつもりはない」 「私達は……って、この方はどうするのですか……?」 「脅威がなくなった以上、私に固執する理由はない」 「俺の事は放っておけ。助けを施そうというならお断りだ」 「でもここにいては……」 「俺はここから生き延びるつもりはない。下を囲んでる“AS社”の奴等から逃げ切れるとも思わない」 「…………」 「どのみちこんな身体だ。そう長くは生きられないだろうし、守るべき物を失った世界にいつまでも留まる気はない」 「この男に打ち倒されなかったとしても、どの道俺の運命は決まっていたんだよ」 東堂は己の命と引き換えに復讐劇の舞台を用意したのだ。 命を投げ打つと決意した者を翻意させるのは容易ではない。私達には口を出す権利もないのだろう。 「行こう、こうしている間にも刻々と状況は変化している。完全に火の手が回る前にここを出よう」 「…………」 「彼には彼の信条がある。その身を案じる事が必ずしも彼のためにはならない」 「……わかりました」 私を含め、その場にいた誰もが別れの言葉を口にする事はなかった。 この場において適当ではない。私にもそれくらいは聞かずとも理解していた。 「……そうだ、お前にはまだ話しておくことがあったな」 「私だろうか」 出口に向かって歩き出した私を東堂が制止する。 「“ナグルファルの夜”について、既に話した事以上に語れる内容は多くない」 「構わない、聞かせてほしい」 「……“ナグルファルの夜”が自然現象による地殻変動とパンデミックじゃない事は話したな」 「ああ」 「二つの現象は繋がっている。そのどちらも一人の“《イデア》〈幻ビト〉”が引き起こした事だ」 「“《イデア》〈幻ビト〉”が? 馬鹿な、それにしては規模が大きすぎる」 いかに“《イデア》〈幻ビト〉”が人間離れした存在とはいえ、個人の持つ力には限りがある。 発生した災害と同規模の現象を引き起こすのは私やノエルにも不可能である。それは私の前に現れた“AS社”の“《イデア》〈幻ビト〉”でも同じだろう。 「“ナグルファルの夜”はその“《イデア》〈幻ビト〉”を排除する事で終息へと向かった。“AS社”側の“《イデア》〈幻ビト”達にも多大な犠牲が伴ったらしいがな」 「俺が知っているのはこれくらいだ。お前の役に立つか知らないが、知的好奇心を満たすくらいはできただろう」 「あともうひとつ、これは忠告だ」 東堂は目線だけを出口の方に移動させた。 「あの女はお前に何かを隠している。お前達の関係など興味がないが、一応忠告しておいてやる」 「あの女? 九條の事だろうか」 ひまわりがどこかへ行かぬよう手を繋いで心配そうにこちら見つめる九條―― 「お前の知り合いにウェイター姿の男がいただろう。あいつとお前が話している最中、彼女の鼓動は動揺を示していた」 「そう判断したのは心音が反応を示したという事だけなのだろう? 心臓の鼓動だけでは細かい感情は読めないのではないか」 「そうだな、お前の言う通りだ。だが疑う心が全くなければ、いつかこうして絶望の元で朽ち果てるのはお前かもしれないぞ」 「…………」 「目で見えるモノだけで判断をするな。だから人間は“ナグルファルの夜”の真実を知らず、俺は家族を失った」 「疑え。そして真実に手を伸ばせ。でないといつか真実はお前の首を取りにくるぞ」 ホールを出てしばらくすると向かいの方角から九條剛三が近づいてくるのが見えた。 「お父さん――!」 「おお美月、無事だったか……本当に良かった……!」 娘の無事を確認した瞬間、彼の表情が一気に弛緩する。 「そちらも無事だったようで何よりだ」 「赫君と一緒だったのだな。君が居てくれて何よりだ」 「彼女の身を守るのは契約内容の一部だ。それより私達を縛っていた脅威は去った。早くここから脱出した方がいい」 「どういう事だ?」 「マスクの男は我々の拘束を解いた。今なら階段を使用しても爆破される恐れはない」 「君がやってくれたのだな。何から何まで頼りになる男だ。では早速行動を起こさねば――」 娘との再会、状況の変化をすぐに咀嚼しすぐに方向転換ができる柔軟さは、さすがは一大企業を束ねる社長と言ったところか。 「皆にここから逃げるよう伝えねばな。二手に分かれて残っている者を誘導しよう」 「私はこちらから周る。美月を頼んだぞ」 「一人で行くのですか……?」 「心配するな、ここから出た後に地上で落ち合おう。それまでは赫君と一緒にいなさい」 「……わかりました」 「では手筈通りに」 「うむ。娘を頼んだぞ」 「犯人は居なくなった。キミ達も早くここから退避するのだ」 各部屋を回り、中で待機していた人間達に脱出を促す。 悲壮感に満ちた彼らの顔つきが一様に破顔していく。雄叫びを上げる者もいれば泣き出す者もいた。極限にまで追い込まれた人間の本質には興味がそそられた。 「……怒らないで聞いてくれますか……?」 「何だろうか。私はあまり怒りを表立って表現する性格ではない。恐らくキミの心配は杞憂だ」 拘束されていた者達を廊下に逃がしている途中、九條はかしこまったように口を開いた。 「他の方を逃がそうと父が言った時、赫さんは私とひまわりさんを優先して協力を拒むのではないかと思ってしまいました」 謝罪の言葉はなくとも、九條が私に謝っているのは見て取れた。 「心の中で何を思おうが咎められる事はない。少なくとも人間社会においてはそうなのだろう?」 「……そう、かもしれませんが」 「それに私は今キミが言ったような考えは持っていた。正直に言うと私にとってみればキミ達以外どうでもいい」 「…………」 「……しかし、そう言うとキミは異を唱えるだろう。他の者を放ったまま逃げ出すわけにはいかないと」 「ならば多少の面倒事くらいは引き受けよう。総合的に見れば、決して不利益ばかりではないのだから」 「……それは私との取り決めを守るためですか?」 「そうだ、何を置いても優先すべき取り引きだ。取り引き相手の機嫌を伺うのは人間もよくやる事なのだろう? 確か接待と言ったはずだ」 「…………」 「……アホウドリ」 「何か言っただろうか?」 「何も言っていませんっ!」 「?」 九條は機嫌を損ねて顔を背けてしまった。何故だ、彼女の要望は受け入れたというのに……。 …………。 やはり人間の心境を完全に理解するのはまだ先になりそうだ。少なくとも、私の“接待”は失敗に終わった。 「…………」 「……疲れたな。もう立ち上がる気力もない」 「もうすぐお前達のところに行くよ。馬鹿な事をしたと目くじらを立てて怒鳴られるんだろうな」 「……それでもいい。お前達に会えるのなら」 「あっれー、何一人でたそがれてんの? マジうけるんですけどー」 「お前は……!!」 「はい、動かないでねっと!!」 「ぐあっ――!?」 「なになに? 踏みつけられた足を振り払う力も残ってないのかい? やっぱりアイツはキミにどうにかなる程度の器じゃなかったって事か」 「ぐっ……何故お前がここにいる……! お前は最上階のフロアにいたはずだ……!」 「そうだよ? そこでゲームをクリアするためのアイテムを手に入れたわけですけど」 「“AS9”だって? これを注射すれば晴れてお家に帰してくれるわけだ」 「でもさぁ、疑ってんだよねぇ。これ、“AS9”じゃないでしょ」 「…………」 「だんまりか、別にいいけどね。どっちでもいい事だし」 「ああ、あとひとつ良い事を教えてやるよ。アンタが必死こいて手配したテレビ中継、あれ途中から放送されてないから」 「なんだと……!?」 「アンタさ、“Archive Square”舐めすぎでしょ? 事実を抹殺するのはウチの十八番じゃん」 「馬鹿な……! テレビ局の奴等は真実を知ってもなお見て見ぬフリしたというのか……!?」 「真実よりも命の方が重いのは当然でしょ? ま、遅かれ早かれ事実を知った奴等は“処置”されるだろうけど」 「後さ、俺がここに来たのはもうひとつワケがあるんだよね」 「ズバリ、“AS9+”の副作用を発症した者に対し、更なる投与を行うと被検体はどんな反応を示すのか」 「丁度良い実験材料が足元に落ちてるんだよねー。そんじゃあやるっきゃないっしょ」 「や、止めろ……!!」 「俺達に楯突くのがいけないんだよ。せいぜいあの世で奥さんと娘に会えるよう祈ってるんだね」 「ぅぉぉぉおおおおおおおおおおおお――!!!」 解放された人間が我先にと階段に向かう背を遠くに眺める。 出口に殺到するその姿は巣穴に帰る蟻を想起させるが、群集に彼らほどの統率感はなかった。 「これで最後だろう。私達も後に続こう」 「そうですね……」 人質の解放を終えたにも関わらず、九條の表情は雲がかかって冴えない。周囲を見渡し何かを探しているようだった。 「まだ何かあるのだろうか」 「いえ……その、彼女は無事に逃げられたでしょうか」 「北条院の事か?」 「はい。あの方はしっかりしているように見えてどこか抜けていますから」 彼女に対する評価については同意見だが気を回しても仕方がない。 「私達が見回った場所にいないという事はキミの父が向かった先にいたのだろう。恐らく他の者同様逃げ延びているはずだ」 「だと良いのですが」 逃げ遅れている可能性もゼロではないがあえて口にはしなかった。仮にそうだったとしても既に火の手は広がり、何処とも知れない北条院を探している余裕などない。 それよりも私の気を引いたのは僅かにだが赤く腫れた九條の右腕だった。 「……九條、腕を負傷していないだろうか?」 「ホールの外で赫さんを待ってる間に爆発が起きて……大した事はありませんよ」 九條の発言に嘘はないだろう。見た目でも軽症である事はわかる。だが問題はそれだけではない。 「…………」 軽度の火傷で済んだとはいえそれは結果論だ。 問題は降りかかった脅威に対して九條が何の抵抗も示さなかった事実である。過去の話を鑑みれば、九條の“《デュナミス》〈異能〉”にその程度の脅威を振り払う力は備わっている。 たとえどれだけ“《フール》〈稀ビト〉”である自分を忌み嫌っていたとしても、自身の身を脅かす外敵に対して無抵抗なのは不自然ではないか? つまり九條は“《デュナミス》〈異能〉”を使わないのではなく使えないのではないか――もしも後者だとしたら、あるひとつの可能性が再燃する。 「行きましょう、赫さん。私のわがままでこれ以上お二人を危険な目に遭わせられませんから」 「……そうだな、今はここから脱出するのが先決だ」 湧き上がった疑念を振り払い、燃える廊下を歩き出す。 時間が経つにつれフロアに広がる炎は勢いを増し、脳裏に植えつけられたあの光景に近づいていた。 階段を使って下の階層に降りる。生憎私達が使用した階段は地上まで続いておらずフロア内の移動を余儀なくされた。 「ここにも火の手が伸びていますね」 「爆弾の起爆が行われたのは主に先ほどまでいた階層なのだろうが、他もこうなっていない保障はないな」 上層へと向かう制圧部隊を足止めするため設置した爆弾を使用したとすれば、下部の階層はここよりも激しく炎に包まれている可能性が高い。急がなければ間に合わなくなってしまう。 「あっ! 向こうにおねぇちゃんいるよ――!!」 「何――」 ひまわりが指差したガラス張りの扉――その先にふらふらと歩いてくる北条院の姿が見えた。 私達が視認したと時を同じくして向こうもこちらの存在に気づいたようだ。虚ろだった顔が上がり、ぱっと光がさしたように笑顔を向けた。 「やはりと言うべきか」 彼女は九條の懸念を裏切らなかった。もちろん何もかもに対して誠実であれば良いとは限らないのだが。 激しく手を振りながら走る北条院。しかし―― ガラス製の扉で仕切られた向こう側で廊下の壁が爆散する―― 「北条院さん――!?」 巨大な支柱が成すすべなく倒れ視界を塞ぐ。爆破の直後、北条院の身体が吹き飛ばされるのを確認した。 「何故爆発が……?」 今更東堂が私達を逃がすまいと起爆させたとは考え難い。予め設置されていた爆薬に炎が引火したのだろうか―― 幸い私達の側にはほとんど影響はなかった。ほぼ同じ距離を挟んで爆風の影響を受けた北条院が吹き飛んだにも関わらず、ガラス製の扉は健在だった。 「っ――!」 九條は慌てた様子で扉に駆け寄る。 「っ、開かない……!?」 倒れた柱がかんぬきの代わりとなり扉の開閉を妨げていた。どうやらあの扉はこちらからでは押し開くしかないタイプのようだ。 「大丈夫ですか――!?」 九條の声に反応したのか、床にうずくまっていた北条院は鈍い動きで立ち上がった。 「だ、大丈夫ですわ……全身が痛くて堪らないですけれど」 強がりを含みながらも北条院はよろよろとこちらに向かって歩みを進める。 心配そうに見つめる九條との間には爆破の影響で生まれた障害が横たわっていた。 「何か、道具があれば――」 九條は周囲を見渡し、廊下脇に置かれていたクラシック風の椅子に手をかけた。 「何をする気だろうか」 「扉を壊します」 細い腕でどうにか椅子を持ち上げ、投げ出すように扉へぶつける。しかし扉は鈍い音を残しただけでヒビひとつ入らなかった。思った通りだ。 「恐らくこの扉は特殊な材質で出来ている強化ガラスなのだろう」 簡単に割れてしまう普通のガラスでは利用客に大きな怪我をさせてしまう可能性がある。こういった施設ではよくある話だ。 「どうにかできませんか」 わらにもすがる思いで私を見上げる九條。いつもの気丈な態度とは打って変わってその瞳は弱々しい。 「…………」 ふと、ある閃きが頭をよぎった―― 「少し離れていてほしい」 それはある意味最も合理的で単純明快な手段だ。 「硬いな」 打ち込んだ殴打は幾分手加減をしたとはいえ、ガラス製の扉には亀裂のひとつも入らなかった。 天啓の如き閃きは、もちろんガラスを拳で破砕するなどといった大味な解決策ではない。 「…………」 もしもこの考えを実行に移せばどうなるのだろうか。 得るモノは――失うモノは―― 僅かな間に幾重も思考をめぐらせるが、ふと北条院の背後に迫る炎が視界に入り、私がこの世界に留まる意味を自覚した。 “疑え。そして真実に手を伸ばせ。でないといつか真実はお前の首を取りにくるぞ” 東堂の言葉が脳内で反響する。 手段を選んでいる余裕はない。可能性が少しでもあるのなら見て見ぬふりはできない。私にとって最も固執すべきは―― 「駄目だ。私の力でもこの扉を破る事はできない」 「そんな……“《デュナミス》〈異能〉”を使っても無理なのですか……?」 「“《アーティファクト》〈幻装〉”を使えば可能だろう。だが“《アーティファクト》〈幻装”の召喚にはリスクがある。何事も有限では〉ない」 「でも急がないと彼女が――」 九條はハッと息を呑む。凜とした瞳が大きく開かれた。 「……赫さん?」 問いかける九條――縋るようなその声は僅かに震え、私の意図を否定したがっているように聞こえた。彼女は私の言わんとしている事を察しているのだ。 「私にこの扉を打ち破る事はできない。しかしキミならどうだろうか」 「――――!?」 口から出た言葉をなかった事にできると言われればどういう選択をしただろうか。ただの仮定でしかない夢物語の結末に多少の興味は湧いたが現実はそうもいかない。 私にできるのは、走り出した運命の行き先を傍観する事だけだ。 「この扉と横たわっている瓦礫がキミにも手がつけられないのならば、彼女の命は諦めるしかないだろう」 「…………」 彼女が“《デュナミス》〈異能〉”を使えば私の疑念がひとつ消える。 数日前、私とひまわりを襲った“黒い塊”が九條ではない――尚且つ“亡霊”ではない事が証明されるのだ。 できればそうなってほしいと思うのは、これまで目の当たりにしてきた九條美月という人間に興味を惹かれているからだろうか。 九條の顔が耐え切れない苦痛を受けたように歪む。 しかしそれも僅かな間の出来事で―― 「……わかりました」 瞼を下ろし、再びその双眸が露になった時、彼女の横顔から表情が抜け落ちていた。 「九條……?」 胸の奥がざわめく。 ああ、そうか―― 元々九條はこんな顔をしていた。共に過ごした時間の中で、少しずつ彩りが加えられていたのだ。 「離れていて下さい。巻き込んでしまいますから」 失われた物の価値は定かではない。それでも自分の取った行動が正しかったのか、何故そう思うのか―― 私にはそのどちらにも答えが見出せなかった。 「…………」 扉の前に立ち、両手を胸の辺りに添える九條。 「……世界に真実はあるのか」 九條の冷たい感情が私の身体に流れ込んで氷漬けにしているのかと錯覚を覚えるほど、その場から一歩も動く事は叶わなかった。 「私は今でも世界はまやかしに満たされている、そう思っています」 懐かしい香りを嗅いだ気がした――久しく味わっていないリアリティのない匂い。 一片の羽根が風を味方につけ自由に空を泳ぐようにひらひらと舞っている。 その羽根が九條の手から飛来した物だと気づくまでそう時間はかからなかった―― 「それがキミの――」 無数の白い羽根に覆われ両腕は姿を隠している。 その姿は人間の言葉を借りれば“幻想的”だと表現するのが最適だった。 九條は胸の前で交差された白銀の腕を解き放つ――風の鳴る音がした。 九條を中心に砂塵が巻き上がった 大気の流れは視覚で捉える事はできないが、爆発によってできた小さな瓦礫や燃え広がる炎から生まれた灰色の煙が旋風の形を形成した。 彼女達を隔てていた障害は鋭利な刃物で切り裂かれたように形を失った。 「すっごーい、みつきちゃんまほうつかいだったんだ!」 「…………」 彼女にとっての目的、私の確かめたかった疑念――そのどちらもが淡く消え去った。 九條はこちらに振り向かない。どんな顔をしているのか、私には想像できなかった。 「……大丈夫ですか?」 そのまま前進し、尻餅をついた北条院に歩み寄る。 他者を救済するために取った行動。 真実を白日の下に晒す行為。 報われるべきはどちらなのか。 私が人間であればその答えをすぐに用意できたのだろうか――少なくとも、神は九條を救済しなかった。 「い、いや……!?」 「…………」 助けを貸そうと差し出した手を北条院は拒絶した。それはおよそ人間の定義における“手”ではなかったからだろうか。 「こ、来ないで……お願い……!」 異形の姿をした九條に北条院は身を固めて視線を逸らす。 「……怖いですか? そうですよね」 差し出した腕が力なく下げられる。善意を拒否された落胆も見せる事なく、どちらかと言えば彼女の声には自嘲するようなニュアンスを感じた。 「それが普通の反応です。ごめんなさい、怖がらせてしまいましたね」 「あっ…………」 北条院は理性を取り戻したかのように九條を見上げた。だが既に差し出された手はどこにもない。 「ち、違うんですのよ!? その……いきなりでしたから驚いただけで!」 「何がですか? よくわかりませんが、早く立って下さい。逃げ遅れても知りませんよ」 「赫さん、早く行きましょう。火の手もどんどん迫っていますから」 「あ、ああ、そうだな」 振り返った九條は笑っていた。 だが以前見た時のような心地良さはなく、どこか不安を抱かせる儚さを含んでいるように見えた。 私はすぐにでも彼女に歩み寄らなければならない。理由はわからなくともそうすべきだという衝動に駆られた。 「九條――」 その後に何を言おうとしたのか――そもそも何を言えるというのだろうか。 一瞬浮かんだ迷いはすぐに掻き消された。 「――――!?」 「きゃっ――!?」 こちらに近づいてくる途中、九條は北条院の背中を突き飛ばし、自身は後ろへ退いた。 その動作の意味はすぐに明らかとなった。 「九條――!?」 瓦礫に埋もれた廊下が沈没して消え去る。想定外の重量に耐え切れなくなったのか、延焼による影響か―― そのどちらだとしても関係がない。案じるべきは粉塵に満たされた先にいる九條の身だ。 「いたたた……一体何が――」 寸前のところで落盤に巻き込まれなかった北条院が、それまで自分のいた場所を見て絶句する。 「え、そ、そんな――九條さん!? 九條さんっ!!」 「そんなに大きな声を出さなくても聞こえています」 じわじわと薄らいでいく粉塵の向こうに九條の姿が浮かび上がっていく。どうやら最悪の事態は回避できたようだ。 「九條、大丈夫だろうか」 「ええ、私は無事です。ですが――」 私達の間には5メートルほどの穴ができていた。廊下全体が陥没しており穴と表現するのが適当かどうかは不明だ。 「今そっちに行く」 人間ならいざ知らず、私ならばこの程度の距離を跳躍する事は容易い。だが―― 「来ないでください」 「えっ――」 強い口調で制止され、下肢に溜め込んだ力を緩めるしかなかった。 「こちらに来てしまってはひまわりさんと離れてしまいます。私は大丈夫ですから、二人を連れて逃げて下さい」 「しかし――」 「――お願いします」 ひまわりと北条院――二人を抱えて跳躍してもなお、この程度の距離では障害にならない。 だから私の足に縛りつく枷の正体はそれではないのだ。 「下で合流しましょう。ちゃんと二人の安全を守って下さい」 彼女の言う通り、一人でもこの施設から脱出するのは難しくない。私にできる事などたかが知れている。 だから彼女の言葉を覆す事ができないのか――? いや違う、そうではないのだ。 「ではまた後で」 踵を返す九條―― 歩き出した九條を止める術を私は知らない。 無力なくせに彼女を引き止めなければならないという衝動だけは高らかに胸の中で主張している。 私は何かを誤ったのだろうか―― 人前で“《デュナミス》〈異能〉”を使わせた事が間違いだったのか―― たとえ過去の人間達がキミを否定しても、北条院は違うはずだ。彼女の対応を見ればわかるように、ただ驚いただけなのだ。 過ちは人間ならば誰にでもある。“《イデア》〈幻ビト〉”だろうがそれは変わらない。 「…………」 言葉にする価値さえない、己を正当化しようと試みる感情に苛立ちを覚えた。 今やらなければならない事は何だ――自分の物差しで物事の理屈付けをする事か? 私は彼女に何かを伝えなければならないのではないのか? もしも私の行いが正しい選択だったとして、言いようのない後悔の念はどう説明すればいい。 自問の末に出たのは九條に向けた言葉でも己の罪を悔いる懺悔でもなかった。 「……私達も行こう。キミ達二人を死なせるわけにはいかない」 かろうじて搾り出せたのは、九條から託された二人を守り通すという事だけ。 彼女の為にできる事――疑問の答えも出せぬまま、目の前にぶら下がっていたソレに飛びつく事しか私にできる事はなかった。 「…………」 困惑、焦燥、憤激――そのどれとも当てはまる事はなく、またそのどれもが該当しているような感覚。 ひとつだけ言えるのは、今まで経験した事のない新しい感情だ。 だが――それは未知の体験に対する興味とは大きく異なっていた。 「けほっけほっ、煙が凄いですわね……」 「延焼がホテル全体に広がっているのだろう。降りるにつれて煙は薄くなっていくはずだからもう少しの辛抱だ」 「ひまわりけむたいの嫌いー、はやくおうち帰りたいよぉー」 「すぐにお家に帰れますわ。そうだ、このハンカチをお口に当てればいくらか楽になりますわ」 「えーいいのー? おねえちゃんは平気なの?」 「子供は余計な心配しなくてもいいんですのよ」 「すまない、助かる」 「このくらいで釣り合うとは思っておりませんわ。私の方が助けられて――」 「どうかしただろうか」 「い、いえ……一番助けて頂いたのは九條さんだなと思って……無事に降りられているでしょうか」 「そう信じるしかない」 北条院の懸念は私も同じだ。だが心配するだけでは意味がない。 「彼女は良くできた人間だ。恐らく難なく脱出しているだろう」 「そ、そうですわね。きっとそうですわ」 まるで自分に言い聞かすような口ぶりだった。 「私達も早くここから出ないと九條さんを心配させてしまいますわね。あまり遅いと憎まれ口のひとつでも叩かれてしまいますわ」 「そうかもしれな――」 刹那――言い様のない不快感が全身を包み込んだ。 まるでこの世の不吉が形を成して心臓を鷲掴みにしているような―― 喉元を鋭利な刃物でゆっくりと撫でられたような身の毛のよだつ感覚。 喉を鳴らす僅かな時間を永遠と錯覚する。 暗い穴の底から深淵がこちらを見て笑っている。 私は自意識を獲得して以来、初めて死を予感した。 背後に迫り来る形容し難い凶兆に対して背を向けているという絶望的な状況に、今更後悔したところで何もかも手遅れだったのだ。 「猫の嗅覚って人間の数十万倍あるって言われてるらしいけどさ」 予想を裏切る場違いな間延びした声――全身を束縛していた鎖を断ち切り、臨戦態勢を整えて背後を振り返る事に成功した。 視界に飛び込んできたのは気の抜けた声の主としては相応しい容貌かつ、ひりつくほどの殺気を放つ根源としては不適切な笑みを浮かべた少女だった。 「こんなに焦げ臭い匂いしかしなかったら意味がないよね。そうは思わないかにゃ?」 褐色の肌をした少女は気だるそうに背伸びをしてため息をついた。 「あなたも逃げ遅れたのですわね? もし良かったら私たちと――」 「それ以上近寄ってはいけない――」 「えっ?」 歩み寄ろうとする北条院の前に腕を突き出して動きを制す。動作の最中も視線を目の前の少女から逸らしはしなかった。 「親切にどうもー。でもボクが行かなきゃいけないのはたぶん上の方なんだよにゃー」 「う、上? 上の方はここよりも火災が酷いですわよ……? 一体何をなさろうと言うのですか?」 「この辺にマスクをしたヘンな奴いなかった? いたでしょ? ソレに用があるんだけど」 「ぶっちゃけ“《クレアトル》〈現ビト〉”が逃げ出してきたところを見ると、ボクの仕事はもうないのかもね。レイジが抜け駆けしたのかにゃ?」 少女は年相応の子供が見せる悪戯な笑みを浮かべた。 「まったく、変態マッドサイエンティストにも困ったモノにゃ。“《フール》〈稀ビト〉”はボクのモノなのに。あとでオシオキが必要かにゃ」 「ボクのこの行き場のないキモチ、どうするべきかにゃ――?」 真紅の瞳――縦長の瞳孔が捕食する相手を射抜く。 この場合でいうと、捕食される相手とは間違いなく私を指していた。 「お兄さん、“《クレアトル》〈現ビト〉”じゃないよね? なんとなく匂いでわかるんだ」 「くんくん――うーん、“《フール》〈稀ビト〉”とも少し違う……正解は“《イデア》〈幻ビト”かにゃ?」 「……だとすればどうだというのだ」 「ボクの獲物は“《フール》〈稀ビト〉”なんだけど、もうここにはいないっぽいし、代わりにボクの滾ったキモチ、慰めてくれないかにゃ?」 それは懇願などではない。議論の余地すら与えない宣告だ。 出口まで後少し、幕引きまであと一歩というところで最も巨大な障害が現れようとは―― 愚痴をこぼしても事態は好転しない。やらなければならないのならやるしかないのだ。 私は覚悟を決め、戦闘意欲を滾らせる。プレッシャーに押しつぶされては満足に戦う事さえ叶わないのだから。 「にゃは♪」 少女は口元を歪める。開いた瞳孔とのギャップで可愛らしさの欠片も感じられなかった。 先手を取るか悩んでいると、遠くで鳴り響く爆発音が耳に入る。 今更珍しい物でもない。だが断続的に続くその音に異変を察知した。 「……近づいてきている?」 轟音はフロアの構造的に、個室が連なる壁の向こうから響いている。そして確実に私達のいる場所に向かって近づいてきていた。 やがてその音が至近距離まで肉薄し最後の壁を破壊した時、音の正体が明らかになる。 それは爆弾などではなかった―― 「ご主人、み~つけた」 「あ、のえるちゃんだ!」 壁をぶち抜いて現れたのは右手の拳にコンクリートの破片を付着させたノエルだった。 「ノエル、どうしてお前がここに?」 「ご主人のピンチに私が参上するのはおかしな事じゃないですよ」 私が問いたかったのは動機ではなく手段だったのだが――いや、今はどうでもいい事だ。 「あなたですか。遠くからでもわかるほどの物騒な気配を発していたのは」 「だったら何かにゃ?」 「誰に断って人のご主人に手を出そうとしているんですかね」 「誰って……誰かにゃ?」 「わからないのなら教えてあげましょう。ご主人の正妻はこの私です。横取りを狙う泥棒猫にはお仕置きが必要ですね」 「ノエル、油断してはいけない。彼女は普通ではない」 「わかってますよ。全く、私というパーフェクトな伴侶がいながら、次から次へと厄介な女と関係を持つ気が知れませんね」 「私は浮気などしていない。だが苦労をかける」 「いいんですよ。ご主人に群がる害虫退治は私の役目ですから」 家でするような会話の最中も、ノエルの集中は一切途切れる事なく眼前の少女に注がれている。 「ぅにゃぁー、そんなに見つめられると恥ずかしいにゃー」 少女が次に取る行動――私とノエルはそれに立ち遅れまいと神経を尖らせている。何が起きても対処できるよう腰を落として少女の一挙手一投足に集中する。 しばらく私達三人の視線が交わった後、少女は両手を上げて微笑んだ。 「キミらと遊ぶのも楽しそうだけど、やっぱり用事を済ませてからにするにゃ♪」 少女から放たれていた威圧感が消え失せる。 「楽しみは後にとっとくのも悪くないからね。今日のところは退散するとしよー」 片足を軸にして反転し立ち去ろうとする少女。 「でも忘れないでね。ボクは気に入ったオモチャを捨てたりしないよ」 「壊れて使えなくなるまでは、ね」 それだけ言い残して私達を置き去りに炎の中へと消えていった。 「……一体アレは何なんですか」 「私も知らない。突然この場に現れたのだ」 「まあいいですよ。とりあえずご主人が無事で良かったです」 少女の気配が完全になくなると、ノエルは肩の力を抜き“《デュナミス》〈異能〉”を解いた。 「《・・》〈キミ〉が来てくれて助かった。それにしてもどうしてここに――」 「“《・・・》〈おまえ〉”」 「……お前が来てくれて助かった。それにしてもどうしてここに?」 「いやぁ、テレビ見てたらご主人がテレビに映ってるじゃないですか。さすがの私も驚きましたよ」 「あれだけ目立つ行動はしないで下さいと言ったのに」 「すまない」 「あ、いや、怒ってるわけじゃないんですよ? 私がご主人に怒りを向けるなんておこがましい真似するわけないじゃないですか」 「……そうだったな」 ノエルは私を否定しない。助言こそ口にしても命令的な言葉はノエルの口から出ない。 ただその代わり、明日にでも私はあの兎と再会する事になるのだろうが―― 「さて、さっさとこんな場所とはオサラバして家に帰りましょう。二人だけの愛の巣に」 「ひまわりもいるよー」 「ああはいそうでしたね。お邪魔虫が住み着いてるのを忘れてました」 「そういえばお邪魔虫といえばあの無愛想なお嬢様は何処ですか? てっきり一緒に行動してご主人をたぶらかしてると思ってたんですが」 「……彼女とは別行動だ。恐らく既にホテルから脱出しているはずだ」 「ふぅん……そうですか」 口調に含まれる微妙な違和感を察知したのか、ノエルはそれ以上追及しなかった。 どのみち明日になれば洗いざらい話さなければならないのだろうが、今はできれば答えたくない。 何故そういう衝動に駆られるのか、未だ答えは出ていない―― 一階に到着すると警官隊や消防員、ロープで隔てられた向こう側にはカメラを持った記者や野次馬と思われる人間達で溢れかえっていた。 幸い他のパーティ参加者も大勢その場におり、私達は彼らの中に紛れ込む。誘導されホテルの敷地内から抜け出た後も、しばらくは様子を見るためにそのまま留まった。 消防と医療機関の車両が放つ警光灯の灯りが地面に反射して明滅している。 幾人もの人間が発する指示が飛び交う中、私は群れの中である人物を探す。 しばらくそうしていると不意に視線が交わった。私の存在に気づいたその者は目を見開いてこちらにやって来た。 「おお、無事だったか。安心したよ」 ただでさえ多い皺が目尻の周りに刻まれる。 「あなたも無事で何よりだ」 「老体には少々ハードなイベントだったよ。この先大して長くもない人生だがこれっきりにしてほしいね」 彼の言動に事件発生前に見せていた余裕が戻る。彼も他の者同様、張り詰めていた緊張が解けたのだろう。 「早速娘の顔を見たいのだが、どこにいるのかね?」 「……まだ降りて来ていないのか……?」 「どういう事だ? 美月は君達と一緒だったではないか……!?」 「……途中で予期せぬ事態が発生し、彼女とは別行動を取らざるを得なかった。私達が脱出に手間取った分、九條は先に降りて来たはずなのだが」 「そんな馬鹿な……!? 私はずっと君達を探していたが、美月はどこにもいなかったぞ!」 「うわぁっ――!?」 黒煙を上げるホテルで一際大きな爆音が鳴り響く。壁面から炎が噴き出し、地表に瓦礫の欠片が降り注いだ。 「……まさか、まだあの中に……?」 「…………」 「赫君、私は救助部隊に掛け合ってくる。君達はここで待ってなさい」 返答を返す間もなく、九條剛三は人の群れへと姿を消した。 「九條さん……」 気落ちした顔つきでホテルを見上げる北条院。私もほぼ無意識の内につられて炎に包まれたホテルに視線を移した。 漆黒の空に向けて轟々と立ち上る黒煙――その隙間で小さな点が動いていた。 「あれは……」 目を凝らそうとするが、すぐに煙に包まれ視界が遮られる。 だが一瞬飛び込んだ光景だけで、私は全てを理解した。 「どうかしたんですの……?」 「ガラス張りの壁面、その向こう側に人影のような物が見えた」 「人影って……まさか!? ど、どこですの!?」 「パーティが行われていた階層だ。今は煙に包まれて見えない」 「な、仮にその人影が九條さんだとしても、何故上に向かっているのですか!?」 「脱出経路が塞がれていて火の手に追いやられたか……あるいは――」 「あるいはなんですの!?」 「……最上階のフロアを目指しているのかもしれない」 後者の場合、屋上からヘリによる救護を目的にしているとは考え難い。 ホテルの屋上は地上からでも視認できるほど火の手が上がっている。恐らく突入部隊の進入を防ぐため、屋上にも東堂が仕掛けた爆薬があったのだろう。 内部からでは確認できない。九條が気づいていない事も十分にあり得る。 だが私には別の目的を持って九條が最上階のフロアを目指していると思わざるを得なかった。 「最上階には東堂が残した“AS9+”がある。彼女はそれを手に入れようとしているのかもしれない」 「“AS9+”……? どういう事ですの、クリア条件として用意されたのは“AS9”ではないのですか!?」 「“AS9”と語ったのは東堂……マスク男がついた嘘だ。実際に用意されたのは“《フール》〈稀ビト〉”を人間に戻すワクチン“AS9+”だ」 「そ、そんな……で、でも、火事に巻き込まれて死んでしまったら意味がありませんわ!」 北条院には黙っていたが、東堂が最上階に設置した“AS9+”は試作段階であり完成品には程遠い。 彼の残した言葉が本当ならば、望んだ結果が得られるのは奇跡的な確率しかない。九條もそれを聞いていたはずだ。自ら進んで薬を投与するなど正気の沙汰ではない。 「…………」 彼女は聡明な人間だ。ババ抜きの勝ち負けなどとは比べるまでもなく、その行為がどれほど命を預けるに値しない確率であるか十分心得ているはずだ。 それでも九條を突き動かす原因があるとすれば、それは……。 「……もしかして、私のせい……?」 北条院の脳裏にも私と同じ光景が蘇ったのだろう。友のために忌み嫌う“《デュナミス》〈異能〉”を使った九條の姿が―― 「そんな……私、そんなつもりじゃありませんのに……! 九條さんが何であれ、私は……!」 「キミの責任ではない。あの事態を引き起こしたのは私だ。責めを負うとすればそれは私以外にいない」 「酷い事を言ってしまったのは私ですわ……!」 「ああもう、私の馬鹿! 九條さんが言うように、私は本当にどうしようもない人間ですわ……!」 「悔やんでも仕方がない……と言えるのは他人に対してだけだな。自分がそれに当てはまった時、同じような考え方はできない」 「そうですわね……でもあなたの言う通りですわ。今は九條さんを助ける方法を考えないと」 「救出に向かうにせよ、彼女の意志を覆さなければどうにもならないだろう」 仮に救助の手が九條まで伸びたとしても、彼女の決意を翻意できなければ意味はない。彼女の命を奪うのが迫り来る炎か致死率90%の薬物かの違いだけだ。 「九條さんの意志……」 北条院は黙り込み、ぶつぶつと何かを呟く。そして―ー 「星の銀貨――」 「どういう意味だ」 「九條さんに気持ちを伝える方法ですわっ――!!」 疑問に答える暇もなく、北条院は人ごみの中へと駆け出して行った。 彼女が何をするつもりなのか気に掛かるが、その思考は九條に直結していない。すぐに去り際の九條が見せた背中が頭を占める。 「……私は過ちを犯したのだろうか」 殺人、傷害、強盗――これら人間界の法によって禁止された行為ならば過ちを犯したと断言するのは容易い。だが私の行った行為は当然の事ながら司法によって禁じられた行為ではない。 だとすれば胸の奥で湧き上がる言い様のないしこりの正体は何なのか―― 「ご主人、悩み事ですか?」 「ノエル――」 そうだ、ノエルに答えを聞けばいい。彼女なら正しい解答を用意できるはずだ。私が道に迷った時、いつも行き先を照らしてくれた彼女なら、今回も私を導いてくれるはずだ。 「大体の事情は話を聞いてましたからわかりますよ」 「そうか、では私はどうするべきだろうか」 「簡単です。このまま混乱に乗じてここから逃げるんですよ。うかうかしてるとどんな輩に目をつけられるかわかりませんからね」 「…………」 ノエルの口から出た言葉は私が望んでいたものではなかった。 ……………………。 望んでいた……? それはまるで私自身が望む選択肢があったとでも……? 「間違っても建物に乗り込もうなんて考えちゃ駄目ですよ。さっきとは状況が違います。いくらご主人でもあの炎の中を進むのは無謀です」 「……お前の“《デュナミス》〈異能〉”を使えばどうだろうか」 「まあ私なら最上階まで上がってあの女を無理矢理引き摺り出してくるのは可能ですよ。そうしてほしいですか?」 ノエルに託すべきだろうか。私は何もしないまま、この場で大人しく二人を待つしかできないのだろうか―― 「ご主人の要望に応えるのは私の義務です。誰かを殺せと言われれば、どんな人間でも躊躇う事なく手をかけましょう」 「命令、しますか?」 「…………」 様々な感情が入り混じった渦が言語の生成を邪魔する。 私はどうすべきなのだろうか―― 答えを見出せぬまま頭上の空を見上げる。 地上から立ち上る炎が眩しくて、星々の輝きは掻き消されていた。 静寂が支配する世界――遥か遠くの方でサイレンの音が延々と鳴り続けている。 他の人は無事に逃げ出せたのだろうか。ガラス張りの壁に立って地上を見下ろしても見えるのは明滅する赤い光――あそこでは多くの人が忙しなく事態の対応に追われているのだろう。 「ふぅ……」 吐き出したため息がガラスを曇らせる。目に映る光景はどこかリアリティがなく、この場所だけ世界から切り取られて隔絶されているような錯覚を覚えた。 それも全て自分が望んだ事―― 元々私は他の人と違う世界に立っていた。群れから弾かれた手負いのライオンだ。今更孤立したところで何かが変わるわけではない。 最初から私は一人だった。人前で“《デュナミス》〈異能〉”を使ったあの日から―― 「……期待をしなければ裏切られない。わかっていたはずなのに――」 まやかしの向こうに真実が隠されていると思ってしまった。星の銀貨が降り注ぐ空を望んでしまった。 でも――世界を織り成すジグソーパズルには、私がはまり込む隙間は存在しなかった。 だから私が変わるしかない。用意された隙間に埋め込めるよう、私自身のカタチを―― 「…………」 探し物はすぐに見つかった。机の上で開かれたアタッシュケースの中に、瑠璃色の液体が入った小瓶と注射器が置かれていた。 爆破事件の犯人が残した“AS9+”――これを体内に取り込めば、私の未来は大きく変わるだろう。 たとえ命が失われるとしても選んだ選択に後悔はない。 人間に戻れなければ、私の居場所はどこにもないのだから―― 「…………」 手元にあったアンプルの先端を指で押し込む。拍子抜けするほど簡単に先端部分が折れ、中の液体が外気に触れた。 注射針を容器の中に差し込み押し子をゆっくりと引き抜くと、注射器の筒は瑠璃色の液体で満たされていった。 左腕に視線を落とす。青白い血管が浮かび上がっている。どんな形であれ、私がこの世界で生きている証だ。 血管の一本に狙いを定め、無機質な金属針を肌にあてがう。 そこでようやく自分がこれから訪れるであろう結末に怯えているのを自覚した。 「どうして震えているの……? これは私の望んだ事でしょう……?」 針の先が小刻みに上下して上手く狙いを定められない。 助かる見込みのない賭けに恐れを抱いているから――? いや違う、私が恐れているのは“《フール》〈稀ビト〉”である自分自身。人間だった頃の自分を取り戻せるのなら、命を投げ打つ覚悟はある。 じゃあどうして……? 自問した末、頭の中に浮かんだ光景はここ数日の慌しい日々だった。 ひょんな事から他人と関わりを持ち―― 私が築いてきた物が少しずつ壊されていく感覚。 だけど自分が変わっていくのに気づいた後も、心のどこかで充実を感じていたのかもしれない。 でも――世界に満ちているのはまやかし。 真実はどこにもなかった。 だけどそれでもいい。悪いのは私だ。歪な形をしたピースがはまらないのは当然なのだから―― あの人達に悪気がない事くらいわかっている。私が過剰に反応しているだけかもしれない。 それでも私は許せない。“《フール》〈稀ビト〉”である自分を許せるほど、心に余裕がなかった。 「どちらに転んだとしても、ようやく私は解放される――」 気づけば手の震えは止まっていた。過去を懐かしむ時間は終わりだ。 注射器を持つ手に力を込める。銀色の針が肌にひんやりとした感触をもたらした―― 「…………」 狙いを定め、皮膚を貫こうとする金属針の先端に注目していると、不意に遠くから響く轟音に意識を阻害された。 犯人の残した爆弾だろうか。この部屋にはまだ火の手が伸びていないが、扉の向こうは既に火の海でもおかしくはない。 現に火災こそ目視できないが、灰色の煙と焦げ臭い匂いが扉の向こうから漂っている。 扉の向こうから聞こえる物音はこちらに向かって接近していた。 「えっ――」 ある想像が――二度と抱いてはならない希望に基づいた考えが私の動きを止めた。 「そんなまさか……」 あるはずがない。このホテル内は既に人が通れる環境ではなくなってしまっている。 ……いや、通れる通れないの話じゃない。 来るはずがない。この後に及んでもまだ、私は自分に都合のいい御伽噺を描こうとしているのか―― 星の銀貨は降らない。この世界にあるのはまやかしだ。 そう思い知らされたはずなのに、残された僅かな希望を必死で掴み取ろうとしている自分が、心の奥底から声を上げている。 「…………」 気づけば私は扉の前に立っていた。 扉の向こうから聞こえる音は、次第に激しさを増していた。 炎が燃焼する音――瓦礫の崩れる音―― その中に混じる足音に気づいた時、それは単なる爆発音ではなく、誰かがここに向かって近づいているのだと確信した。 「っ――」 反射的に扉のノブに手を伸ばしてしまう。扉の向こうがどれほど過酷な環境であるかを訴えるように、扉は高温の熱を発していた。 予想以上の刺激を受けて引きかけた手が止まる。 もしも私の想像が正しかったとしたら―― 二度と誰かに期待しないと誓ったこの決意が翻るのだろうか。 それともこの後に及んで心を弄ばれるほどに、私は世界に存在する事を許されていないのだろうか―― 「…………」 それならそれで構わない。生憎私は拒絶される事に、運命に振り回される事には慣れている。 世界には意志があって、何かを満たすために動いているというのなら構わず私を利用すればいい。 どうせ今の私は跡形もなく消え去るのだから―― 私は熱を帯びた扉をゆっくりと開いた。 雪崩れ込む黒煙、吹き抜ける焼け焦げた匂い――通路全体が真っ赤に染まっている中、炎の中心で揺らめく黒い塊。 私は呼吸するのも忘れ、眼前に広がる光景の真偽をひたすら疑った。 「どうして……」 「どうしてあなたがこんなところにいるのですか――!?」 可能性のひとつとして考えなかったわけではない。一縷の望みを託さなかったわけじゃない。 灼熱の業火を切り裂くように現れた彼は、その身を焼かれながらも普段と変わらない無愛想な表情だった。 「ひまわりのことなら心配ない。既にホテルから脱出している。監視役はノエルに引き継いだ。問題はない」 「私が聞いているのはそんな事ではありません! あなたが、ここに来るわけがない――!」 「そうだな。合理的な判断に則るならば、キミの救出に向かうのはノエルが適役だった。彼女の“《デュナミス》〈異能〉”は肉体の強化故、多少劣悪な環境でも目的の遂行は容易だろう」 「違いますっ……! 私が聞きたいのは――」 「だが私も炎に属する“《イデア》〈幻ビト〉”だ。ノエルほどではないにしろ、火に対する抵抗力は人間よりも優れている」 「話を逸らさないで!! 一体何の為にここまで来たというのですか!?」 「…………」 危険を冒してまでここまでやって来た理由なんて、扉を開けた瞬間からわかっている。 素直に受け入れるにはあまりにも魅力的過ぎて――また裏切られてしまうのではないかという恐怖が邪魔をする。 でももし、彼の口から直接聞けたのなら―― もう一度だけ、深々と雪の降り注ぐ空を見上げる事ができるのだろうか―― 「……わからない。どうしてだろうか」 「えっ……?」 彼の口から出たのは否定でも肯定でもなく、助けを求めるように頼りない問いかけだった。 「私の行動は効率的ではない。制止するノエルの言葉に背き、劣悪な状況に身を投じる合理的な意味合いはなかったかもしれない」 起伏に乏しい無愛想で真面目な人――私が出会ってから彼にずっと抱いていたイメージだ。 だからかもしれない。変化の度合いで言えば微々たる差なのに、まるで初めて人生の壁に直面した少年のように見えた。 「……それでも私は自分の足でキミを迎えに行かなければと、私にできる事をやらなければと思った」 「……だが私にできる事とは、一体何なのだろうか」 「…………」 「キミを無理矢理ここから連れ出す事だろうか? 違う、そうではない」 「私はキミに何かを言わなければならないのだ。恐らく謝罪の言葉に近い何かを伝えなければならない」 「……だが何を言えばいいのだろうか。どんな言葉をキミにかければいいのだろうか」 「……そんなの、自分で考えてください」 彼は真摯に悩んでいる。それが伝わるから、瞳を滲ませる液体が零れ落ちないようにつよがりを口にした。 「キミの指摘はもっともだ。しかし私には自分の犯したであろう過ち、その正体すらもおぼろげなのだ」 「……私は人間のフリが上手いと自負していた。だがそれは誤りだった。所詮表面だけを取り繕った造花だ。本質は似ても似つかない」 「……しかしそれでも――」 「それでも私はキミに死んでほしくないと、それだけは確たる衝動として存在しているのだ」 「今こうしてキミと向き合って、この上なくキミ達人間が羨ましいと感じた」 「えっ……?」 「私が人間であれば、この感情を具体化してキミに見せられるだろう」 「キミが求めた“人間である事”、それに焦がれる感情だけは理解できたのではないだろうか」 「……キミには悪いが、こんな状況を引き起こしてもなお、私はそれを嬉しく思っている」 「僅かな歩みだが、キミに近づけたという事なのだから」 「赫さん……」 不器用だけど気持ちの込められた言葉―― 彼の好きな花に例えるなら、私が受け取ったのは華やかな彩りを放つ薔薇の花束ではない。それを言えば彼は機嫌を損ねるかもしれない。 力強く、太陽に向かって育つ一輪の向日葵―― そういえばもうすぐ夏本番だ。記念公園に足を伸ばすのも悪くない。あそこには色とりどりの花で埋め尽くされた花壇がある。 太陽に照らされながら鼻腔をくすぐる香りを楽しみながら歩く光景が脳裏に浮かんだ。 花好きの彼はきっと喜ぶだろう―― 「っ…………」 「赫さん――!?」 下半身の力が抜け、床に方膝をつく。熱傷の及ぼす影響が、身体に機能不全をきたす程度にまで進行したようだ。 「私は平気だ。この程度なら問題はない」 「問題ないって、全身火傷だらけじゃないですか!」 「然したる問題ではないのだ。キミが負った傷に比べれば」 「…………」 九條の手には液体の入った注射器が握られていた。 私には彼女の心を翻す事はできないのだろうか――私の炎では凍りついた心を溶かす事はできないのか? 己の無力に打ちひしがれていた時――一定のリズムを保ちながら接近する機械音が、静まりきったフロアに沈殿していた静寂を切り裂いた。 「これは……ヘリの音だろうか」 救助を目的とした突入部隊のヘリではない。屋上は地上からでも着陸が非現実的だとわかるほどに炎上していた。 ならば報道ヘリだろうか。どちらにせよここに着陸するのは不可能だ。無意味な事態に意識を阻害された事に苛立ちさえ感じる。 だが―― 「えっ――」 九條はヘリの方を注視したまま驚きを隠せないでいた。 再度、空を旋回するヘリを確認する。 九條を絶句させた張本人の姿が見えた。 ヘリの扉が開かれ、ドレス姿の全身が露になる。 彼女――北条院凛々華の手から、眩い光の粒が放たれた。 「くじょうさああああああああん――!!!」 「ごめんなさいーっ!! 私、あんな酷い事言うつもりはなかったのですわー!!」 「きっと何を言ってもあなたには届かなくて! あなたは愚か者だと揶揄するでしょうけど、他に気持ちを伝える方法が思いつかなくて!」 「私には偽物しか用意できないけど、きっといつか本当の!! まやかしじゃない真実があなたにも訪れますわ!!」 「だからお願い! 九條さん、戻ってきてぇーーー!!」 ヘリに搭乗した北条院はダンボールから何かを拾い上げては空中に一心不乱に撒き捨てていた。 落下する粒の正体―― それは昼間北条院が皆に配っていた、彼女の会社で製作したといわれるキーホルダーだった。 「北条院は一体何を――」 「星の銀貨――」 九條は光の粒が降り続ける空をガラス越しに眺めながら呟いた。 星の銀貨――九條が愛読している童話。 着る物も食べる物も全て他人に与え、自己犠牲の精神を貫いた少女―― 物語のラストでは少女の頭上には幾千の星が降り注ぎ、落ちてきた星は銀貨へと変わったという。 九條はこの話をまやかしだと言っていた。 現実の世界はどれだけ良い行いをしても救われるとは限らない。 自分には星の銀貨は降らないと―― 「あの人、読んだ事ないと言っていたのに……」 もしも北条院が意図的に物語のラストシーンを再現したのであれば……いや、間違いなくそうなのだろう。でなければ彼女の取った行動の意味がない。 彼女は九條に思いを伝える手段として、童話の少女と九條を重ね合わせた。少女に救いが訪れたように、九條が救われる日が来ると―― 「…………」 九條の瞳から零れた涙の粒が頬をつたう。 涙とは人間特有の現象で、感情の発現の結果、目の涙腺から分泌される体液である。 私の経験によれば、涙を流す人間は平静を保てないほどの哀情や恐怖を抱いていた。 だが星の降る夜空を見つめる九條の顔は、憑き物が取れたような柔らかな笑みで満たされていた。 「……それを渡してくれるだろうか」 今ならば九條の決意を翻意できるのではないか―― 確たる理由はない。九條を取り巻く状況が好転したわけでもないのだ。 それでも人の感情とは理屈で計れない。計るべきではない。 私が九條に手を差し出したのも、恐らく理屈ではないのだ。 「……私は周りの皆から拒絶されている。だから、全部上手くいかないのだと思っていました」 「だけど……もしかしたら今ここにいるのは、私が皆を遠ざけた結果なのかもしれませんね」 九條は微笑んだまま、手の内にあった注射器をそっと机の上に置いた。 「諦めてくれたのだろうか」 「今は、ですが」 九條は再びガラス越しの空に視線を戻す。 「今はあの人が一生懸命な姿を見ている方が楽しいですから」 「楽しい、か」 楽しい――愉快で心地良い感情を表す言葉が條の口から出た事に違和感を覚える。 「実に有り触れている単語だが、キミにしては珍しい表現だ」 「そうですか? 私だって楽しいと感じる事くらいありますよ」 「それだけではない。私の知っているキミはそんな風に笑わなかった」 「彼女の行為は傍目から見れば異常に見えるだろうが、キミには確かに届いたようだ。私にはできなかった事だ」 「そんな事、ありませんよ」 九條の顔からまたしても笑みが零れる。 「……やはりおかしい。もしかすると危機的状況に陥った影響で――」 「失礼です。私は至って正常です」 「…………」 おかしい。いつもならば彼女の切り返しには氷の刃で斬り付けたかのような鋭さがあったのだが―― 「……私の心を溶かしてくれたのは、赫さんですよ……」 「すまない、何か言っただろうか? 小さくて良く聞こえなかった」 「何でもありません。お話はこれくらいにしましょう」 「だってこんなにも、空が綺麗なのですから」 綺麗、という感覚を私はまだ自分の物にしていない。植物を鑑賞する際にも使用される表現だが、どちらかと言えば心が穏やかになるという方が私にとっては近い。 生物、無機物問わず人間が持つ感受性のひとつ―― この夜闇に降り注ぐ星の光がそれに当たるというのなら、私も黙ってしばしの競演を見守る事にしよう。 今この時だけは、己に課せられた使命も忘れて―― 北条院を乗せたヘリが過ぎ去った後、再び静寂に包まれた大広間の中で私は脱出経路を探していた。 星の形をしたキーホルダーを全て撒き終わった後、北条院は私達の方を指差して何かを操縦者にまくし立てていた。 まさかとは思うがこのフロアに突入しろと命令していたのだろうか。だとすればヘリの操縦者が血相を変えて喚いていたのもうなずける。 もちろん安全性を度外視した暴挙は実現に至らず、ヘリは引き帰していった。 「さてどうしようか」 私が登って来た道を戻るのは不可能だろう。私ですらこんな有様なのだ。人間である九條が地上に降り立つまで炎に耐えられるはずがない。 「……すみません、私のせいで」 「私が自ら選んだ道だ。キミが負い目を感じる必要はない」 とはいえ地上に降りる事も叶わず、かと言って屋上に向かったところで救援は望めない。 「八方塞がりとは今のような状況を言うのだろうか」 僅かな可能性に賭けて、地上までの長さを有しているロープなどが転がっていないか手探りでフロア内を調べる。もちろん本気でそのような物が見つかるとは思っていない。 それでも何か行動を起こしているうちに、妙案が浮かぶ事を期待していた。 しかし解決策を思いつく事もなく、もちろんロープなどあるはずがなかった。 その変わりと言っては何だが、部屋の隅に設置されていたある物を見つけた。 「どうやら私達に残された猶予は、火の手がここを飲み込むよりも短いらしい」 「えっ?」 床に置かれた長方形の機械を手に取る。 円形の筒が数本とそれらと電子機器を繋ぐ導線が張り巡らされている。 さらには中央部にデジタル式のタイマーが刻々と数字を減らし続けていた。 「この数字が0になれば、どうなるか知っているだろうか」 「……爆発、するのではないでしょうか」 「私もそう思う」 残された数字がこのまま何事もなく数字を刻み続けるのだとすれば、私達に残された時間は後三分ほどしかない。 だが何故この爆弾は起動しているのだろうか。始めからこの時間になれば爆発するように東堂が仕掛けておいたのか―― そうでなければ既に戦意を喪失していた彼が新たに爆弾を起動させるとは考え難い。それならまだ第三者が意図的に爆弾の操作を行ったと考えた方が自然だ。 「そういえばノエルの見ていた映画にも、ビルの最上階に仕掛けられた爆弾が爆発していた」 「……その映画の主人公は、どうやって爆発から逃れたのですか?」 「爆発の瞬間、設置されていた消火用のホースを身体に巻いてビルから飛び降りた」 「……参考にはできませんね」 私達にはホースもなければ不可能を可能にする幸運も備わっていない。 「…………」 どちらに転ぶとしても物語の終幕は刻々と迫っている。だがどれだけ考えても、脱出するための現実的な手段は思い浮かばなかった。 「……赫さん」 「何だろうか」 「……私のせいで、赫さんを巻き込んでしまって……謝罪の言葉さえ申し上げられません……」 「私が望んだ結果だ。後悔はしていない」 「……後、どのくらいですか?」 九條が何を指しているのか、この状況ではひとつしかない。 「あと90秒ほどだ」 「……ひとつ、お願いしてもいいですか?」 「何だろうか」 「その……ノエルさんとは、どんな関係なのですか?」 「質問の意図が見えない。こんな時にする話ではないと思うが」 「こんな時だからこそ、聞ける事もあるのです」 「……そうなのだろうか。私はこういった状況に陥ったのは初めてでよくわからなかった」 「誰だって一度きりしか体験できませんよ。命はひとつしかないのですから」 そう言って九條は少し呆れるように微笑んだ。 ああそうか、九條は死を悟っているのだ。自分には爆弾に刻まれた数字しか残されていないと―― 「それで、どうなのですか? もちろん答えたくないのであれば無理には聞きませんが」 「今更キミに隠すような話ではない。私にとってノエルは無くてはならないかけがえのない存在だ」 「ノエルは私を愛していると言う。私も同じ台詞を返す」 「だが“愛”について、今はまだ理解が及んでいないというのが正直なところだ。そう言うとノエルが不機嫌になる事だけはハッキリしているから言わないが」 「そうですか」 「……私にも、可能性があったのでしょうか」 「可能性? 何の話だろうか」 「いえ、何でもありませんよ」 「……でも、最後を迎えるのが一人じゃなくて……赫さんが傍にいてくれて嬉しいです」 「身に余る光栄だと言うべき場面なのだろう。だがその栄誉は辞退させてもらう」 「えっ?」 「私は諦めるつもりなどない。私にはまだやらなければならない事が残っている。キミを助け出すのもその内のひとつだ」 「でも、逃げる場所なんて何処にも……」 「あそこならどうだろうか」 私はガラス越しに映る夜景を指差した。 「あそこって……」 「通りを挟んだ向かい側に、ビルがあるだろう。あれの屋上に飛ぼうと思う」 「飛ぶって、そんなの無理に決まっています」 「私が東堂ほど学問に精通していれば、あのビルまで到達するために必要な推進力、距離、角度を算出できたのかもしれない」 「だが私にはそれほどの知識はない。だからやってみなければわからない」 「そんなの……やらなくてもわかります」 九條の言い分ももっともだ。私とて、自分の限界を把握していないわけではない。だがこのまま何もしないで大人しく死を待ちたくはない。 以前なら生に対する執着の要因は明確だった。自分の過去を取り戻すために、私は死ぬ訳にはいかなかった。 だが今は――自分を突き動かす衝動の色は単色ではない気がした。 「もちろんただ飛び降りるだけじゃない。爆弾の力を借りる」 片隅に置かれた爆弾に目をやる。無機質なカウントダウンは残り30になっていた。 「爆発の瞬間にあわせて全力で疾走して飛び立つ。そうすれば爆発の力を推進力として得る事ができるだろう」 「…………」 詳細を説明しても九條の顔は曇ったままだった。当然だろう、私自身も自らが提案した方法に懐疑的だった。 ここで九條の口から僅かでも現実的な解決案が提示されれば、すぐさまそちらに乗り換えるだろう。 しかし彼女も打開策を持ち合わせておらず、しばらく沈黙した後ゆっくりと口を開いた。 「わかりました。赫さんが行くと言うなら、私も一緒に行きます。もう、一人は嫌ですから」 「そうか。ではもう時間がない。準備をしてほしい」 私は爆弾を手に取り、部屋の隅へと再び戻した。 踵を返して視界から爆弾がなくなると同時に脳内で時間を刻み始める。 すぐにガラスの壁に歩み寄り右の拳を叩き込むと、甲高い音を立てて砕け散った。 「やっぱりあの時壊せないと言ったのは嘘だったのですね」 「……すまない。その件についての謝罪はまた後ほど」 「ふふ、冗談ですよ」 嫌味かとも思われたが、上品ながらも悪戯な笑みがそれを否定していた。 「身体を私に預けてほしい」 「……はい」 九條を抱き寄せたまま、助走をつけて飛び立つために外気の流れ込むガラスの壁から離れる。 残り15秒―― 「ねぇ、赫さん」 「何だろうか」 10秒―― 「もしも明日が迎えられたなら、一緒に行きたい場所があるのですけど」 「構わないが、何処だろうか」 「秘密です。ここから無事に帰れたら、その時に教えます」 「わかった、それで問題ない」 5―― 私の胸に当てられた九條の手がかすかに震えていた。 彼女の不安を少しでも和らげたい――その思いが九條を抱きしめる腕に力を伝達した。 「行こう!」 「はいっ――!」 二人寄り添ったまま、星屑の空と光の散らばる夜景に向けて走り出す。 目的地は近いようで遠い――明日という未来のために、生きとし生けるものは今を駆け抜ける そこに人間や“《フール》〈異能者〉”、“《イデア》〈幻ビト”という枠組みは存在しない―― 夜空に浮かぶ星屑――街を照らす人々の灯り。視界には眩いばかりの光が舞った。 まるで時が止まったような錯覚を覚える。 爆発の衝撃で投げ出された身体は重力に逆らえない。予感する絶対的な死―― だがそれでも私はどこか余裕があった。隣で微笑む九條のせいだろうか。 もしもこの身が終末を迎えるとしても――最後に目に焼き付ける光景に、あまり不満はない。 九條と目が合う。彼女は何を考えているのだろうか。 彼女の思考に思いを馳せようとした瞬間――身体を突き破ろうとする熱い奔流が湧き上がった。 感情は形を成し、やがて大きな双翼へと姿を変えた。 「あ、赫さん、これは……!?」 「さあ、私にも心当たりがない。どうやら私の背中から生えているようだ」 これでがまるで人間の殻を破った“《イデア》〈幻ビト〉”の姿だ。人間の身体になる前は、確かにこんな様な物が背中についていた。 何にせよ、ひとつだけ確かな事がある。羽は浮力を得るための物だ。この状況において、何よりも求めていた物には違いない。 「すごい……とても綺麗です」 「キミと同じだな」 「……ええ、おそろいですね」 「これで私とキミはペアだな。一緒にこのババ抜きを抜けよう」 「はいっ……! 赫さんと一緒なら……!」 九條の手を離さぬよう、私は空を駆ける―― 腕の中にある温もりを、決して落とさぬように―― 「――――あくびの一つもなしに、おはようございますでございます」 「お、この調子なら夕餉に間に合うな……などと。当方、不食の身ながらに言いたかっただけでございます」 「しかしながら《ろうしゅ》〈牢主〉。大器を捨てて何たる無様、何たる変貌を晒し上げでございますか」 「逞しき生前の御姿を一とし、不浄無常を識るべく九想図を制作。初投稿乙が当方の目的でございます」 「……ハテ? 奇ッ怪な言葉遣い。ナニコレ誰得知識。非常に下賤。当方、とんちきの入れ知恵に毒された模様」 「しなしながら嘆かわしき変遷による進化なり退化なりは潜在能力の証でありますので、いかんともしがたいわけです」 「こほほん――――などと不可思議極まる自分語りはさておき」 「半夏生の頃、げに恐ろしき恋理に従い愛でるように時の針を眺めますので……」 「窮屈な箱の檻ではございますが、共に温風を感じるまで、しばしお待ちのほどを」 「………………」 視界が広がる……光…………生きている……? 俺は生きている……生きていた……俺は…………俺だけ? 「――――――――なるッ!?」 自分が生きているとわかっただけで状況確認など蚊帳の外。 とにかく、なる、なる、なる、なる、なる、なる、なるの事で頭がいっぱいだった。 「なるを探さなくちゃ」 「こんな身体で?」 「いッッッ!?」 誰かに背中を小突かれ、そのままへなへなと膝をついてしまう。 「――――お゛ぉぉお、おほほほ……ふーーーっ、ふーーーっ」 「サカリの猫みたいになってるわよ」 「ふぅぅぐぐ……り、リノン。いい加減、死角から現れるのは悪趣味だって学ぼうよ」 「起きて最初に目に入るのが生アイドルなんて幸せな話よね」 絶やさぬ微笑みは超最強の証。 今いる場所が紫護リノンの部屋だと、この段階になって気づいた。 「湖で入水自殺なんて、ずいぶん安い幕切れを選ぶのね」 「入水……ってことは、溺れた俺を助けてくれたのはリノン?」 「わたしであって“わたし”じゃない。感謝しているなら、お礼よりもお酌をしてあげなさい」 トリトナが――――? あれだけ壮絶な別れ方をしたのに、俺を助けてくれたのか。 「君達はなると同じで命の恩人――――そうだ、なるッ!?」 脊髄反射のように『なる』を探すと、リノンに頭を押さえられた。 「急いで解決することと、急いでも解決しないことがある」 「わたしは“目的”探しをし続けている。焦れば早く見つかるなら、もっと血眼になってる」 「考える脳を持ちなさい。わたしと話すことで解決の糸口が見つかると、どうして思わないの?」 「……考えるのは苦手なんだ。けど考えなさ過ぎるのは、ダメだね」 「ごめんなさいでした」 「よろしい」 前しか見えていなかった俺を覚まさせてくれたリノンを、今後はデキる女教師とでも崇めればいいのだろうか。 冷静さを取り戻そうと意識的に深呼吸をすると、はたと気づいた。 「でさぁ、何で俺こんな格好なの?」 裸のまま毛布のような生地のバスタオルに包まれている。 さらさらのふわふわ。 こんな時になんだけど、とても安らぐ。 はて。制服の行方は? 「着ていたものなら乾燥中よ。わたしもずぶ濡れで大変だったんだから」 「身ぐるみ剥がしてエッチな事……した?」 「さぁ……なかったとは言い切れないんじゃない?」 「ちょっとちょっと。噛み千切られたりしてないよね」 「どこ確認してるのよっ。貴方を助けて運んで着替えさせたのは、全部トリトナなの。だからわからないってだけ」 「いくらトリトナでも、気絶してる貴方を道具扱いして跨ったりはしないでしょ」 「トリトナとの人工呼吸イベントは?」 「心臓マッサージをしたら生きの良い魚をびちゃびちゃ吐き散らかしてたって言ってたわ」 「それで、リノンは……いや、トリトナは何か言ってなかった?」 「あの場にはもう一人いたそうね。貴方たちを襲ったヤツの事だと思う」 「全身をチョコでコーティングしたような不気味な奴だったよ。理性がないのか、発するのは雄叫びだけだった」 「そう。調べておく必要があるわね」 「あの場にいたのは一人じゃない――――その前に、二人いたんだ」 「誰」 「ルージュ……だと思う」 「勘違いよ」 「見てもいないのにどうしてわかるんだよ」 「大方、茂みで息を潜めていたのでしょう? ルージュが《フール》〈大好物〉を素通りしていくとは思えない」 「けど、確かに見たんだ。獣耳を生やした褐色肌の姿で、ココロを引きずって湖を歩いて行く姿を」 「アレを……運んでいたの?」 「だとしたら事情が変わる……湖を歩く……? けど、何の目的で……もしかして……」 リノンは思う節があるようだが、簡単に結論は出ないようだった。 「あんまり首は突っ込みたくないけど、並行で探ってみるから今は置いておきましょう」 「……なるについては何も?」 「残念だけど虹色の占い師に関しては聞いてないわ。一体、あの子に何があったの?」 「俺たちを襲ったヤツに湖に突き落とされたんだけど、その瞬間に光が差して、消えたのか沈んだのか……よくわからなかった」 「光……“空間転移”を操れる能力者だったんじゃない?」 「そこまで来ると何でもアリすぎじゃない?」 「距離、場所、時間――――条件さえクリアされれば物質を瞬間的に移動させる“力”は実在するわよ」 「優真の見たルージュも湖を歩いていたのよね? となると……湖に何か仕掛けがあるのかも……」 「…………なる……」 「これはわたしの意見だから、参考までにして欲しいのだけれど」 「重石を載せられていたならまだしも、傷めつけられて湖に投げ捨てられたくらいじゃ――――あの子は死なない」 「“《イデア》〈幻ビト〉”を甘く見ないで。不病で不老。最高峰の肉体を持ち、程度の差さえあれ不退転の心を持つ絶対的強者なのよ」 「中でもあの子は、とびっきりの“生きたがり”。それとも貴方には、あれが簡単に死ぬようなタマに見えた?」 「なるちゃんは、強くて可愛くて目標を持った最高の美少女だよ」 だけどもし、湖の底で俺を待っているのなら――――その思考がループして離れない。 鮮明に焼き付いた光景が信じる気持ちを揺らす。 「どうしても生死を確認したいのなら、もっと簡単で手っ取り早い方法があるわよ」 「え?」 「とぼけてないで、左心臓に手のひらを集中させなさい」 リノンは俺の手を掴んで伸ばし、自らも胸に向けて肘を伸ばす。 「これって……」 「“《スピリット》〈非物質的仮想心臓〉”を繋ぐ行為。“《エンゲージ》〈契約”よ」 「待ってよ、それって禁忌なんでしょ?」 「貴方を匿ってる時点で“《ユートピア》〈幻創界〉”にケンカを売ってるようなものなの。毒を食らわば皿までって知らない?」 「でも、俺はなるちゃんと――――」 「だからよ」 「え?」 「二重契約はできない。あの子が死んでいれば、成立するし、いなければ不成立」 「ね、はっきりするでしょう?」 間接的に生死を判別できる仕組みなのはわかったけど……。 「わたしと繋がれるなんて光栄でしょう」 「…………」 「あら」 俺は伸ばした手を下げた。 「リノンの事は大好きだけど、乗り換えるようなマネはできないよ」 「俺の《パートナー》〈家族兼相棒〉はなるちゃんしかいないから」 「……そこまで言うなら、もう“でも”なんて言葉でパートナーの生死に疑問を持たないで」 「なるちゃんは、生きてる」 「それでいいわ。コレ、持ってなさい」 差し出されたのは最も一般的に普及されているタッチパネル式携帯だった。 「誰の?」 「優真の。これから連絡はすべてそれを使って。登録された番号以外には絶対掛けないこと」 うーん、つまり俺の携帯は湖に沈んだままというわけか。 「……登録された番号以外って言われても、メモリーには一件しかないんだけど?」 逆にこの番号には掛けていいってことだ。 試しに掛けてみる。 「もしもし」 「はい、こちら超最強です」 「あー……間違えました」 いったん忘れて、再チャレンジ。 「もしもし?」 「お掛けになった超最強は現在超最強ではありません。番号をお確かめの上……」 「…………」 2度目も、目の前の大アイドルが出た。 3度目も、同じだろう。 「リノンって恋愛は束縛するタイプ?」 「連絡なんてわたしだけにできれば充分よ」 「そういうわけにもなぁ……」 「余談だけど優真は“第一級捕獲対象”に分類されたわ」 「それって余談なのっ!?」 「おめでとう」 「あ、ありがとう……でいいの?」 詳しい説明が欲しかった。 「貴方を持ち帰れば無条件で“《アーカイブスクエア》〈AS〉”最高幹部の椅子が用意されるって、みんなやる気を出しているわね」 「それは、リノンにとっても悪い話じゃないんじゃない?」 「“《エンゲージ》〈契約〉”の疑いが見られる“《フール》〈稀ビト”というのが理由らしいけど、そんなことで〉一級というのもおかしな話だわ」 「優真、貴方には何かあるわ。最高幹部の椅子が霞んで見えるほどの、何かが」 リノンの慧眼は俺の思考の及ばぬ場所を見ているようだ。 リノンは素直に視えている景色を無視し、“裏”を探るだけの経験を積んでいる。 「買いかぶりすぎだけど、買いかぶってくれたからこそ、俺は“ここ”で目を覚ますことができたんだよね」 「そういうこと。わたしがその気なら、貴方の身柄は“《アーカイブスクエア》〈AS〉”の一室で身動ぎ一つできない状況にあったのよ」 なるほど納得。余計に連絡すると嗅ぎつけられるってわけだ。 素直に従うしかないが、仕事の連絡ができないと今日子さんに迷惑が掛かる。 「あ」 そういえば――――すぐに済む割に大事な話があったのを忘れていた。 「こないだ俺を襲ったのは、どうして?」 「わたしは人間と違って欲に縛られず、抑えることができるの。仮に性欲が溜まりに溜まっても、貴方を襲うほど落ちぶれていないから」 「そ、そういう“襲う”とは違うでしょ」 「……何の話かわからないわ。あまり妙なことばかり言うようなら、二度と“《へんしん》〈Re〉:”しないわよ?」 「ああ、トリトナだよ。トリトナがやったんだけど、記憶の共有がうまくいってないのかな?」 「月見酒の晩に頭痛を覚えて交代してから、調子が悪いのよ」 「はぁ……トリトナ……」 頭を抱えている。いたずら盛りの子供に世話を焼くおねえさんといった感じだった。 「耳はもう聞こえる?」 「唐突ね。説明を要求してもいい?」 「酒盛りの時にトリトナが逃げようとして、口論になったんだけど。その際に、自らリノンの耳を壊したんだよ。こうやって」 その時の動きをスローで再現する。 トリトナはあの自傷行為によって俺の“命令”を防いだ。 「側頭部に掌底……耳から血ねぇ……べつに、なんともないけど」 「さすがは超最強、もう完治したんだね」 「昨日の今日で? わたしの身体を使ってつけた傷が……?」 髪で隠れていた形の良い耳を触るリノンは、どうやら腑に落ちていない様子。 「ブラフね」 「ブラフ? でも実際に血は出てたよ」 「どういう状況か完全にはわからないけど、トリトナは自分の居場所である脳に衝撃を与えるようなことはしないわ」 「手のひらでも引っ掻いて適度に血を出してから、思い切り叩いたように演技しつつ耳に血をつけた……とは考えられない?」 「………………はぁ~~~……ははっ」 「?」 なんか……安心した。 それはつまり――――トリトナはあれだけ真剣な駆け引きを持ちかけてきていても、それでもリノンの身体を傷つける事に気を配ったということだ。 「本人に聴いてみたいけど、何故か波長が合わないのよね」 「いや、いいよ」 「トリトナは心配ない。軸のブレない人は、最後まで間違わないから」 「そう」 飛び切り優しい大酒飲みが、どうして俺を襲ったのかは定かじゃないけど――問題はない。 プラスの感情を伴った行動は、例え誤っていても、いずれ良い方向に傾く。 ポジティブ人間は、そう考える。 そう考えるからこその、ポジティブだ。 「とりあえず優真、貴方は顔出しNG、自宅謹慎」 「了解」 「どうしても外へ出たい時は、わたしがついていくから必ず声を掛けて」 「ありがとう。けど、トリトナにはリノンに関わるなって釘を差されたんだよなぁ」 「え? 正反対のことを言われたわよ? 優真についていてやってくれって……」 「え?」 リノンと目を見合わせる。 一体どういうことだろう。 「直接聞きたくても、波長も合わないし……鏡を見るのも禁止されているのよ」 「鏡を見るのもねぇ……」 トリトナはリノンと俺が関わると何かまずいことがあって遠ざけようとしたんじゃないのだろうか。 なんて、考えが安易すぎるか。 「しばらくここに泊まるのが確定してるなら、保護者に連絡を入れたいんだけど?」 「いらないでしょ? っていうか、貴方の行方を確定させる情報をつかませたら、逆に危険よ」 「まぁ……」 「――一体、いくつ恩を売られるつもりだー?」 ……多少の荒事で今日子さんがどうにかなるとは思えないけど。 「勤め人として無断欠勤はポリシーに反するし、親を心配させてばかりの不良にはなりたくないんだよ」 「わたし以外の人員にも情報は渡ってるんだから、家の周りは固められていると見て間違いないでしょうね」 「家周辺どころか、警備会社の設置カメラに観測用カメラも手中に収めて、街全体をモニタリングされてるでしょうけど」 「おそらく索敵率は80%を超える。衛星まで支配下にあるかわからないけど――ま、逃げまわっても捕まるってこと」 「なおさら心配じゃん」 「“《アーカイブスクエア》〈AS〉”は一般人を無闇に殺したりしないのは教えたでしょう? あくまで狙いは貴方だけなの」 「頼む。無事を報せたいだけなんだよ」 「……いいわ、公衆電話から掛けてみましょう。もし関係者に見つかったら、“わたしが貴方を連行中”という事にするわよ。オッケー?」 「話せばわかるイイ女っ」 「全人類の夢であり、全人類が足元にも及ばない超美貌、超最強を兼ね備えた超存在……それがわたし紫護リノン」 「…………」 「……なによ」 「いや、トリトナと打ち解けてからリノンもちょっとずつフレンドリーになってるなーって」 「べ、べつにそういうんじゃないわ。カメラ回ってなければわたしはこう。何か文句があるのっ?」 「あんまり怒ると眉間に怒り皺ができちゃうよ」 「怒ってないわよ」 眉を左右に引っ張って伸ばすことでリノンの美は保たれた。 「さて、着替えて公衆電話に行くか」 「その前に」 「もがっ!」 放り込まれたのは、あごが外れるサイズの何か。 「人間はエネルギーが必要よ」 「……もぐもぐもぐ」 ベタつかず、さらっとしたカリカリの舌触り。 サクッ!と軽快に歯が通り、先に待つもふもふの新食感。 何度も味わった、蜂蜜揚げパンの味だ。 「ごくん。ありが――――むぶっ!!?」 「喉乾いたでしょ?」 「ングッ――――ングッ」 今度は“《ハチゼロ》〈蜂蜜揚げパンソーダZERO〉”を突っ込まれる。 強制的な早食い、早飲み。 地上にいながら溺れるかと思った。 「足さない。引かない。掛けない。割らない。ゼロ=ゼロ。わたしは、これかな」 「ふぅーーー! 元気5000倍!」 10秒チャージ。着替えて出発だ。 「しかし俺もリノンも、やることが山積みだね」 「忙しいのはいいことでしょう?」 「キリキリキリキリキリマイでいて、てんてんてんてんてこまいの、やっさやっさやっさもっさの忙殺地獄」 「ドライブがてらに目立たない公衆電話を探して気分爽快」 リノンはキーリングを引っ掛けた指を回す。 誰でも知っている自動車メーカーのロゴが目に入る。 「リノンって運転できるの?」 「シートベルトは締めなさいよ」 スクーターを転がす俺からすれば、当たり前に車を運転できるリノンは大人だった。 コンビニの雑誌コーナーの表紙を完全独占する大アイドル様の愛車……。 俺的、勝手な想像では、 イカした全面スモークのシャコタン国産車。 もしくは金に物を言わせた改造スポーツカー。 なんて期待は裏切られて。 実際は、誰も見向きもしないごくごく一般的な軽自動車。 交通ルールを遵守した安全運転に揺られ、着いた先で事務所に掛けてみたが繋がらなかった。 「直接、事務所を見に行きたいなんて無理を言ってごめんね」 「一度言い出したら聞かない頑固者が良く言うわ」 近場のパーキングに停めて事務所まで歩いていく。 長居をする気はないので事務所に横付けしてもらっても良かったが、歩いていた方が何かあった場合の対応がしやすいらしい。 「優真」 「おっ――――と」 袖を引かれた。 どうやら車道にはみ出していたらしい。 疲れが溜まってるのかな……。 「あ……」 通りすぎて行く車が曲がるまでの間、トランクパネルから愛想を振りまく“平面リノン”を眺めた。 「“Re:non痛車”は幸せを運ぶ車だね」 “立体リノン”は愛想を振りまく気はなかった。 「財産をつぎ込んでまでよくやるわ。そういえば、雑誌の特集記事で、公式モデルの車体にサインを描いてあげた事があったわね」 「本人が見るとどんな気持ち?」 「好きな事に情熱を注ぐ。いいんじゃないかしら?」 てっきり気持ち悪いとか興味ないとかって言うのかと思ったが、予想以上に反応が良かった。 「自分の持ち物に“わたし”を載せるのは、ファンとしてわたしの継続的な発展を願ってしているからよね?」 「ハンパな気持ちではできないだろうね。携帯をデコレーションするのとは、わけが違う」 「――――とすれば、載せている“わたし”の商品価値が一過性の場合、“趣味”の世界で完結してしまうことになる」 「……んー、元々が趣味だから、思い入れがあれば流行り廃りは関係ないんじゃないかな?」 「そうかもしれない。そうだとも思う。それが普通の考え方」 「でもわたしが超最強アイドルであり続ける限り、その車が“ただ痛いだけ”ではなく非公式ながらに意味のある宣伝カーになるのなら?」 意志力を想わせる自信満々の笑み。 「わたしは“わたし”を背負って走った車に“損”はさせたくない。“わたし”を選んだセンスを言葉以外で肯定してあげたい」 「わたしが不動の頂点であり続ける100の理由のひとつよ」 リノンの視線は、ガラス越しにコンビニの雑誌コーナーに注がれた。 そこにはもちろん、老若男女の心を射止めた完全美少女の営業スマイルが並んでいる。 アイドルは“年齢を重ねる”ことで後続とバトンタッチするという絶対不変のルールがある。 “《イデア》〈幻ビト〉”であるリノンは、この美貌をキープし続ける――――故に、当て嵌まらない。 リノンが辞めるか、見放されるかするまでは、終わらない。 「超最強は揺るがないね」 「……本当のわたしを知っても、熱狂的なファンでいる優真こそ、揺らがないわ」 「特別扱いしてしてー」 「馬鹿、甘えないで」 「もう貴方を特別に想う気持ちは、芽生えているのよ」 「…………へ? それって――――」 「さぁ。恋かしら、友情かしら、憎しみかしら。わたし自身、よくわかってないのよ」 「わたしに言えることは、特別な感情を抱いたとしても、その感情に縛られるような身の振り方はしないってこと」 告白にも取れるセリフだったが、リノンは曖昧にごまかして爽やかに笑った。 「……なんか、ありがと」 「どういたしまして」 そうこう言っているうちに、事務所の近くまで来ていた。 「ここまで関係者はいなかったようね……」 「どうしてわかるの?」 「アイドル力」 「そーなのかー」 「鼻は利く方なの。漂っている感情を嗅ぎ分ける事くらい、神経を研ぎ澄ませればできるわ」 「とにかく危険はないってことだよね?」 「優真はおとなしくコンビニでわたしのグラビア特集でも見ていなさい」 「コンビニには“《アーカイブスクエア》〈AS〉”の息がかかってないの?」 「逆よ。息のかかってない場所なんかないの。ここまできちゃった時点で、私もあるていど覚悟してるわ」 「完全に問題なければ呼ぶ。そうでなければ、貴方の親の無事だけ確認してくる。わかった?」 「全部リノン任せのおんぶにだっこじゃん」 「その自覚がありながら最善を選べるのは、決して悪いことじゃないと思うわよ」 頼れる背中に任せるとして、さて俺は何をするべきか? リノンが俺の為に頑張ってくれてる以上、俺もリノンの為に何かをするべきだろう。 「読者アンケートで、Re:non特集を絶賛する文章を書いて待つか」 これが最善だ。 わたしの属している“《アーカイブスクエア》〈AS〉”の“調査班”に、明確な上下関係はない。 そもそも“《イデア》〈幻ビト〉”である以上、属さねばならない場所が“《アーカイブスクエア》〈AS”だ。 “《ディストピア》〈真世界〉”に来る変わり者の“《イデア》〈幻ビト”は、あまり群れない。 全員が全員、一匹狼で、好き勝手に“《フール》〈稀ビト〉”を捕まえる。 業務成績によって待遇が優遇されるなどの特典はあるが、大抵の “《イデア》〈幻ビト〉”はそんなものではなびかない。 しかし『やる以上は上を狙おう』くらいの感覚で、徐々に競争社会に馴染んでいったのも事実ではある。 それでも贅沢を好むような輩は少ない為、上の席を目指しているのもやはりゲーム感覚だ。 調査の報告を《わたし》〈商売敵〉に回すほど優しい連中でもないし、付き合いがあるわけでもない。 つまり――――事務所に起こった不幸の報せは、わたしには届いていなかった。 届いていれば、来るわけがなかった。 「さぁて、一体……何がどうして……この有様なのか……」 ものの見事な解体作業の完了形。 懇切丁寧に、ひとかけらの救いも残されていない。 希望を排除された分、絶望を受け止めるのが容易になるという点においては、非常に優しい状況だった。 「はぁ……どうしろってのよ、コレ……」 『優真にどう伝えるのが、最も傷つけずに済むか』という、選択肢の多すぎる溶けない難問。 7年の間、苦楽を共にした“我が家”をあっけなく失った優真の顔は、喜怒哀楽どの方向に特化されるのだろう。 「育ての親が無事かの確認なんてできっこないじゃない」 「………………」 厄介な状況に立たされた時こそ整理が必要だ。 第一に、優真は事務所が全壊しているのを知らない。 第二に、解体された時刻は、宴より後――――深夜から明け方までの間に絞られる。 「…………知りすぎた者の口封じ……?」 “《アーカイブスクエア》〈AS〉”は一般人に《・・》〈極力手を出さない。 しかし機密漏洩に対する処罰の重さや、関わってしまった者への警告はやりすぎる傾向にある。 「……優真の親は、一体何を……?」 多くの人は、他人の不幸を安全な位置から眺める悦びを隠し持っている。 いるはずの野次馬がいない――――周りに人気がないことに“《アーカイブスクエア》〈AS〉”の手回しを感じる。 周辺の民家に対して圧力を掛けたか、興味心を失わせる能力者でも飼っているのか……方法はいくらでも思い浮かんだ。 “調査班”の監視がないのも、こんな状態では手がかりのつかみようがないからだろう。 それでも優真が戻ってくるという可能性に賭けて張っている輩が一人くらいいてもいいものだが……。 「この光景を写真に撮って、優真に渡したら……」 虹色の占い師がいなくなった上に、こんな事実を目の当たりにして平常心でいられるほど彼は“強い”だろうか。 妹を妄想していたという現実逃避気味な一面を知っている以上、慎重になるにこしたことはないだろう。 「スゥゥ…………ハァァァァ……とろーんと、クるねぇ……」 現れた男がわたしの隣に並んだ。 一日前まで“株式会社 ゆりかもめ”の拠点だった場所をぼうっと眺めながら、彼は煙を吐き出す。 「じわっとした多幸が長続きするのも悪くないぜぇ。心臓ピキるやつは外じゃキツイからなぁ」 出くわした人物が、仮に調査中の関係者がいたとしても同類と思われるだけなので構わなかった。 「どひゃあっ! Re:non様に瓜二つの美少女がこんな場所におられるっ!?」 もし純粋な一般市民であれば、対処の方法もいくつか心得ている。 「どうだい一本。お近づきの印に、イっとくかい?」 では、相手が大アイドルと知っていながらナンパする恐れ知らずが厄介かと言われれば、それもノー。 「吸う? 《・・》〈炊く〉の間違いでしょ」 《・・・・》〈彼だから〉気分を害した。 「不祥事起こしたくねーのね。はーぁ、芸能人は何かと縛られっぱなしで可哀想だなぁ」 畳と線香の香りに包まれた漆原零二は、ルージュの次に苦手で――――底知れないという点においては同類だった。 「暇そうじゃん。研究に手を貸す気があるなら招待するぜ?」 「耳が悪くなったのかしら。『研究材料になる気があるなら』――と聞いたのよね?」 「んなこと誰も言ってないじゃない」 目は笑わない。 この男はいつもそう。 本音と冗談が一緒くたになって判別できない。 「それで――“コレ”に心当たりはある?」 「いやぁ、ねぇよ。ただ話を聞いて来てみたら、こんなになってやがった」 「そう」 「ちぃと心配だな……」 「は? 心配? 貴方が? 何を?」 「うは、おっかね。もっとアイドルらしい顔してくれないとファン辞めちゃうよ?」 元々ファンなんかじゃない癖に、よくもまぁ平然と。 「こないだの写真集えろえろだったなぁ。安月給から捻出して買えるだけ買ったんだぜ? ちっとは感謝しろよRe:non様」 「ほら」 「……あ?」 「握手。してあげるわよ。ファンなら泣いて喜ぶはずだけど?」 「いやぁ、他のファンに絞め殺されたくないっしょ。俺は遠くからそっと眺めるのがいいから、やめとくわ」 手を引っ込めた漆原零二が一瞬だけ覗かせた表情を、わたしは見逃さなかった。 害虫に向けるような侮蔑の顔。 触ったら“《うつ》〈感染〉る”とでも言いたげな顔。 何に対する嫌悪なのか考えたが、意味ないのでやめた。 「“AS9”は世界を救うと同時に“《フール》〈稀ビト〉”を生んだ。貴方がつくりだしたのは平和だけじゃないのよ」 「懐かしい名前だなぁ、そんなもんもあった……っけ?」 「第一人者が空惚けないで欲しいわね」 この若作りのハンサム気取りは持ち場を離れて遊び歩いてばかりだ。 「自身の地位を確固たるものとし、研究に必要な物は申請用紙一枚で何でも手に入るようになったのも、あの新薬の発明があったからこそでしょう?」 「好きな事を好きな時間に好きなだけやる。研究成果なんて皆無の癖に、定例会では借りてきたような論文で煙に巻こうとする」 「今の貴方は、屑よ。“《アーカイブスクエア》〈AS〉”を舐め腐るのも大概にしたら?」 「眠ぃ……」 暦区の“《アーカイブスクエア》〈AS〉”研究所の所長である彼は、厳しい内規を定めて部下に遵守させているが、自分は私服出勤という体たらく。 そもそも“出勤”という概念すらないに等しいと聞いたことがある。 研究所の一室を私有して住み込みで働き、こうしてサボっては所属を偽ってやりたい放題。 「そんな怖い顔しなくても聞いてるって」 「怒ってない。怒ると眉間にしわができるから」 「なんだそれ?」 「べつに」 「“AS9”ね。まだみんなそんな古い話してるのかぁ。オレぁ女を一人抱くたびに功績を忘れるからなぁ」 下衆が……。 「周りが勝手に“栄光”だなんだって言うが、興味ねぇよ。オレはオレのやりたいようにやってるの」 「“救世主”や“英雄”と呼ばれた人の言葉とは思えないわね」 「救世主? 英雄? そんな肩書き忘れちまったなぁ。大体、表沙汰にはできないから、内部の一部だけだろ、言ってたのは」 最悪だ……主に気分が。 ただでさえこの“状況”をどう優真に伝えるべきか考えあぐねてるというのに、頭のネジが抜け切った奴といつまで会話を続ければいいのだろう。 「だったら教えてくれよ、世界がいつオレにセックスさせてくれた?」 「…………」 「救ってやったご褒美は身体で払うもんしょ? つまりセックス。だってのにスケジュールにねぇぞ、世界とのセックス」 「世界は泣きも、笑いもしない。ちっと哲学的すぎるか?」 めまい。散々だ。本当に、散々。 「何が言いたいのかまとめて、聞いてあげるから」 「世界はオレに感謝なんかしてない。オレもされたくて救ったんじゃない」 「オレが薬を作るのは『付ける薬がない』っていう挑戦的なことわざを、この世から消したいからだぜ」 彼の言うことは適当だが、姿勢だけは的確だ。 “目的”をつかんだ彼の眼光に人間的な弱さはない。 “目的”を探すわたしとは比較にならないほど鋭い。 自分が何者で、何を成したのかを正確に把握している。 誰もが羨む成功者が自堕落になって自殺するケースがある。 そういった事例に首を傾げる者もいるが、わたしにはわかる。 彼と同じ――――“目的”を終わらせてしまった事による、リバウンドというわけだ。 「その、とってつけたような“ぜ”って語尾、やめてくれる?」 「わたしが大切に思ってる人とカブるから――――不愉快」 「別に口癖ってほど使っちゃ……」 「広告塔として“今”を独走する私に対して、貴方の大功績は7年の時を経て着実に薄れていっている」 「いつまでも自由な立場でいられると思わない方がいいわよ、“英雄”さん」 わたしは違う。 わたしは現在進行形であり続ける。 わたしは探求も達成も“維持”さえも目的のひとつだ。 「……そういう身勝手なとこ、嫌いじゃないんだよな」 「元気でな“超最強”さん。ヤニ臭い人間一匹の悪あがきって奴を、近いうちに見せてやるよ」 「…………」 ひらひらと手を振りながら去っていく。 街で軽そうな女を引っ掛けては悪さをしているとか。 そんな奴でも“《アーカイブスクエア》〈AS〉”に保護されている以上、手は出せない。 「それにしても……これを優真に見せるのは……まずくないかしら」 瓦礫の散乱する事務所だった場所……。 「(とりあえず電話を掛けて、こっちには来ないように伝えておくのが先決ね)」 「はい、こちら超最強の友達です」 「こちら超最強。事務所は無事よ。貴方の親もインターホンを押したら元気に顔を出したから、安心しなさい」 「そっか。よかったー」 「じゃあ来る必要はなかったかな」 声が、近づいてくる。 「遅すぎるから心配になってきちゃった」 「あ――――」 ――――こンッの、馬鹿ッッッッッッ!!! 「――――――――――――は?」 見知ったはずの景色が一変していたことで、優真は当然のように硬直した。 わたしはこんどこそめまいを抑えることができなかった。 ああ、厄介が始まる。 もう、どうにもならない。 「は……はは…………」 排気ガスが目に入って腐ってしまったか。 もしくはトリック。前に言ってたコラージュって奴か? リノンの悪ふざけか何かってパターンが濃厚だ。 き、きっとそういうことだろう。 っていうか単純に家の場所を間違えてないか? 「おっかしいな……コレなに?」 「…………」 「ダメだろ、こんなことしちゃ。こんなのやっても笑えないよ……」 無言が肯定だと、俺は信じない。 やめてくれ。そんなふうに。 『どんな返答が得策か』なんて考えてるふうを装うのは。 不本意な現実の信ぴょう性を高めるのは。やめてくれ。 「り、リノーン、なんか言ってよー」 そんなに真剣に言葉を選ばずとも、嘘って言ってくれればいいだけなの――――に? 「全ては……社長の……為に……」 俺の……会社の、社訓の入った額が……。 社長…………今日子さん……今日子さん……の事務所。 「……俺の……家………………?」 見る。前。左右。 乾く。喉。眼球。 失う。心。理解。 「あ、あぁ……」 完璧に。 完全に。 完膚なきまでに。 眼前から。 暦区から。 世界から。 無くなって、 失くなって、 亡くなってしまった。 今日子さんと守ってきた温かい我が家が――――水瀬の家が葬られた。 「また……大切な物を失うのか……俺は……また――――」 激流のように押し寄せる、ありとあらゆる負の感情を“声”に変えた。 「あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁぁぁあぁああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――」 「――――ッ!!」 と――――やわらかな抱擁が俺を包む。 激情に混じる真っ白な優しい香りは、失い掛けていた大切なものを拾い集めてくれる。 「しっかりしなさいっ」 でも―――― リノンがどんなに優しくしてくれたとしても……。 なるちゃんの代わりには、なれない。 今日子さんの代わりには、なれない。 結衣の代わりには――――なれない。 だってリノンは、家族じゃないから。 「ッ!? ま、また――――ッ!!」 「――――ッ!!」 爆発的なまでの頭痛が襲った。 抱き合ったリノンと心臓の動悸が同期する。 「こ、この感じ……宴会の時よりもさらに強い……ッ!」 波打つような魂の揺さぶり。 お互いの生命を強く意識する。 「ハッ――――はぁ……はぁ……」 「はぁ……はぁ……はぁ…………」 生命的な危機により手放し掛けていた“現実”を取り戻す。 視界に入ってきたのは、リノン肩越しの景色。 無い――――水瀬の家は、『ゆりかもめ』の事務所は、この世から消滅した。 「……追われる身としての実感が湧いたなら、与えられた現実を受け止めなさい」 受け止める……? 職を失い。 親を失い。 住む場所さえも、もうない。 こんな最悪を……良しとするのか? 「優真……ポジティブ精神の真価は、こういう時こそ問われるんじゃないの?」 「理不尽で正当性もなく奪われても“なんのその”でしょ」 「………………」 発狂寸前の俺を支えてくれたのはリノンだった。 折れそうな俺を救い出してくれたとわかっていても、すぐさま感謝できる心境ではなかった。 心のなかでありがとうを伝え、踏み込んでいく。 「汚いなぁ……これが“《アーカイブスクエア》〈AS〉”のやり方かよ……」 「下水道の汚水の方が、まだ綺麗ってもんだよ……」 あらゆる家具が使い道のない残骸となって山になっている、その光景は似ていた。 “探す”という点においても。 積み重なっているものが、有機物だった“屍”か愛のある無機物かという点においても。 ことごとく、似ていた。 「…………ふっ……ふー……っ」 すっと顎まで伝う感覚で、汗をかいていると知った。 そうか……俺は……怖いんだ。 また――――あの時のように―――――――― 「…………」 敷居を跨ぐ時はいつも『ただいま』を発していた口は、今は歯ぎしりをたてていた。 おそらくは亡者に取り憑かれたような歩みでふらふらと、俺は事務所だった場所を歩いている。 「…………?」 つま先が何かを蹴り、その硬さにふと視線を向ける。 僅かに覗かせた金属的な尖りには見覚えがあった。 散らばったガラス片を退かし、埋もれていた金庫を引っこ抜く。 「今日子さんは、お金、大好きだったもんな」 稼げば稼ぐだけ褒めてくれる。 俺が必死で働いた理由の一つだ。 倒壊の際の衝撃でロックが壊れたのだろうか、金庫は空いていた。 「暇があると頬ずりしてたっけ……ははっ、置いてったら誰かに取られちゃうよ」 今日子さんの物に手を付けるのは気が引けるが、赤の他人に取られるよりは俺が預かっておくべきだろう。 「――――これ、って……」 見覚えのある封筒。 中身は、現金でも、宝石でも、カードでもない。 「今日子さんがいつも大事そうにしていたのって……これだったのか……?」 開けなくてもわかる。 中にはたった一枚の写真が入っている。 “ナグルファルの夜”が終わり、今日子さんに引き取られた俺は、目の前の封筒に入っている写真にすがっていた。 今日子さんに強引に奪われるまでは……。 「捨てたとばっかり、思ってた……いや、もうほとんど忘れてた……」 「結衣の……写真……」 引き寄せられるように指が伸びる。 「………………」 金庫に入っていたということは、いつか俺に返す気があった、という事だ。 だったら……見るわけにはいかない。 きちんと今日子さんの許可を得てからにしよう。 「よし……」 「うん……バッチリだ。俺の記憶力もたいしたもんだな」 「揃えてある本から、時計の位置まで全部覚えてる。これなら平気だな」 「優真……?」 どう声を掛けていいか迷っていたのだろう、リノンが困ったように俺を見ていた。 「建て直すんだよ……元の形でっ!」 「……建て直す?」 「どっかで占いやって、小説書きまくりまくりまくってるなるちゃんと、一代で会社を築き上げた敏腕社長を探しだしてさ」 「“《アーカイブスクエア》〈AS〉”に手出しできないよう、きちんと痛めつけて、二度と関わらないようキツく言いつけて……」 「そんで、取り戻す。俺の幸せをっ! 俺のハッピーライフをっ!!」 結衣との決着は――写真を見るのは、その時でいい。 「“なんとかなる”っ!!」 道が困難な時ほど、心だけはふくよかでなければならない。 最悪なのは、終わってしまうこと。 痩せた信念では、何一つ実らない。 俺は、まだ、生きてる。 “生”きている限り“人”は足掻いて足掻いて足掻く。 幸せを勝ち取らなずして、なにが“人生”だ。 「精々頑張りなさい、底なしのポジティブさん」 何も知らないガキの遠吠えだと、到底現実的ではないと、リノンは一蹴しなかった。 そのささやかな肯定が、嬉しかった。 「ありがとうリノン」 「わたしは、羽振りのいい《ファン》〈金づる〉は掴んで離さない主義なの」 「今後も応援よろしく♪」 やっぱりリノンファンは、やめられそうにない。 「一度、体勢を立て直しましょう。さすがにここは目立ちすぎる。周りに気配がないのが、ことさらに不気味でならない」 「わかった」 「……いいの? 当分、ここには戻って来られないけど」 「もう覚えた。絶対、忘れない」 名残惜しいなどという感情は既にない。 平和な日常が失われたことは重々、理解した。 「行こう」 失い、奪われ、棄てられるのは、もう懲り懲りだ。 ――――《・・・・・・・・・・・・・・・・》〈これからは、取り戻す話を始めよう〉。 「……………………」 「大丈夫?」 何度目の悪寒だろう。 ひっきりなしに手を揉んでいたわたしに、とうとう優真は心配を口にした。 「面倒事が多すぎて、すこし気分が悪くなっただけよ」 身体的な状況はいたって正常。 しかし悪寒は続いていた。 自分の身体の状況がつかみきれない。 「確かに顔色が良くないね。もしかして居心地悪い?」 「いいえ、寄りかかれる場所があれば充分。組織の者も、わたしが優真を捕まえている事に勘付き始めてるかもしれないし、隠れ家に戻るより安全ね」 「ここはね、可愛い子しか連れ込まないんだー」 無垢な笑顔で反応に困る事を言う優真は、もうすっかりいつもどおりに見えた。 一般的な常識を身に着けている人からすれば、優真の笑みは不謹慎とも、異常とも取れるものだろう。 数分前、彼は確かに目にしている。 無残に壊された事務所を自分の足で歩いている。 とても笑っていられる状況ではなかった。 「そろそろ一日で一番暑い時間帯になるね。そんな時は、そこから足をつけてジャブジャブするといいよ」 彼は感情を押さえ込むのが上手いのではなく、抱え込むのが上手いのだろう。 抱え込んだ感情は、発散させない限りいつか必ず爆発する。 割れた窓枠の向こう側に広がる、一面の海のような広さでもあれば、話は変わるけども。 「さすがに旧市街の水没したビルに潜伏してるとは思わないでしょうね」 「といっても、優真をピンポイントで探し出せるダウザーがいないとも限らない。数日中には別の潜伏先を用意しておくわ」 「リノン、俺は考えるのは得意じゃないけど、なると今日子さんに逢いたい気持ちは本物なんだ」 「今が動く時じゃないってのは、わかるよ。リノンが許せる範囲で俺にできることって、何もないの?」 「わたしを信用して事態が好転するのを待つことがベストよ。ヘタに動かれると、わたしも動けなくなる」 「わかった」 「事務所の事と社長さんの行方に関しては、今日明日中には情報を仕入れておくわ」 トリトナの飲み仲間である優真は既に、わたしにとってもただ利用価値のある人物ではなくなっている。 トリトナはわたし。 わたしはトリトナ。 トリトナが認めた彼は、わたしも認めている。 「(でも、トリトナが認めたからって、話しているだけで楽しくなるのは変よね)」 「(恋だの愛だの、あんまりわたしは興味ないんだけど。優真はきっと、その対象に入るのね)」 「ど、どうしたのジッと顔見て……?」 「……べつに。わたしがどうにかしてあげるから、安心しなさい」 「リノン……」 優真を見ていると、優しい気持ちが湧いてくる。 同時に何故か、寂しさも……。 「……ッ」 チクチクと鬱陶しい痛み。 頭を割って脳を釘で刺して、剣山にする遊びでもされているかのようだ。 「(なんだってのよ、ホントに……)」 ここ最近――――優真に出逢ってからというもの、わたしがわたしではない感覚がずっとしている。 「――――ッ」 不覚にもよろけてしまい、支柱に寄りかかる。 「立ちくらみ?」 「海を眺めたかっただけよ」 あながち嘘でもないが、弱みを見せたくなかったのが本音だ。 海。沈んだビル群。これらの発端は一夜にして起こった。 わたしにも地図を変えるだけのパワーはない。 “ナグルファルの夜”という現象は、それだけ脅威だった。 「海中バクテリアは全ての生物の祖先となったと言われてる。 “《イデア》〈幻ビト〉”のわたしは、どうやって生まれたのかしら」 「なるちゃんが言うにはね――――」 「独り言よ。独り言に口を突っ込まないで」 「はーい」 わかったのは、解けない自問自答をする程度には参っているということだけだった。 ゆらゆら揺れる海面が凪いでいく。 歪んで見えた自分の顔が、くっきりと映っていた。 「む……?」 「え?」 ――――ああ。 遅れて気づく。思い出す。 海面の“反射”によるコンタクトだった。 手鏡がトリトナとの対話に最も適しているというだけで、顔を映せるものならばそれはなんでもよかった。 「やっと出てきたのね。色々、話を聞きたいことがあるのよ」 “鏡を見るな”とは言われているが、水面に映ってしまったのは不可抗力だ。 「…………」 「……?」 海面に映ったトリトナは目を忙しなく開閉する。 「あー……あー……」 「トリトナ?」 「あー……テステス。テスでございます。テスとは、テストを意味しておりますが、“ト”は無声音なのでマイクテストのチェックの項目から――――」 「はいはい聞いてない聞いてない。ずいぶんおしゃべりになったわね? 柄じゃないわよ」 「ハテ? 当方、不食の身ながら鶏ガラよりも魚介系豚骨が好みでございます」 「ございますって……“ぜ”を付けなさいよ、“ぜ”を」 普段が特徴的なだけに、使い慣れていない言葉遣いをされると笑ってしまいそうになる。 「こほほん。どうやら気づいていらっしゃらないご様子」 「大丈夫? 頭でも打った?」 「部外者――いえ、《ぶがいじょ》〈部外女〉という造語で呼ばせて頂きましょうか?」 「…………何かあった?」 「申し遅れました、当方、フロムと申します。以後お見知りおきを」 トリトナの悪ふざけ――――には見えなかった。 フロムと名乗る者の存在をわたしは知らない。 反射によって語りかけてくるのはトリトナだけのはず。 「悪霊にでも取り憑かれたのかしら。それともコレがいわゆる“夢”ってやつ?」 「根も葉もないオカルトではございません。はたまた妄想などという安い展開にもなりませんのであしからず」 「誰、貴方」 「どうか高圧的にならずに。それと致しましても位置関係的には水族館のアザラシのように見下げられていますので」 「どうしてわたしにコンタクトを取れたのかしら」 「この度はトリトナ氏より譲り受けた正式なコンタクトでございます」 うっすらとだが確実に気づき始めていた。 この感覚は、トリトナとわたしが一つの肉体に同居していると知った時と同じだ。 つまり、フロムの正体は――――。 「そう……貴方、“三人目”というわけね」 しかし疑問は残る。何故、トリトナは、フロムの存在を教えてくれなかったのだろう。 「概ね正解でございますが、やや語弊がございましたので修正するとするならば――――」 「当方は“筆頭”でございますのでお間違えのなきよう」 「ごめんなさい、貴方の言い回しは慣れないわ」 「“主役”は当方、アナタは“《みそっかす》〈脇役〉”。そこのとこ4649でございます」 「…………ふふっ」 「……ハテ? ここは驚くところでは?」 「懐かしいのよ」 《トリトナ》〈第二人格〉が出てきた時も、似たような主張でわたしを困らせた。 二人で一つの身体だ。 わたしに奪われてなるものかと必死だったのだろう。 フロムも同じ。同居になれていないだけだ。 「……うーむむ。思案投げ首、しばしお待ちを」 「海も静かだし、ゆっくり話しましょう」 そういえば優真は――――ああ、“独り言に口を突っ込まないで”と言ったばかりか。 「“現実感が希薄”……と常々、思い抱いてはいらっしゃいませんか?」 「筆頭さんは、そんなことまで知っているの?」 「お褒めに預かり光栄でございます。当方、情報は種種雑多、取り揃えております」 「さて、失礼ですが“ナグルファルの夜”以前の記憶はございますか?」 「ないわよ。一種の記憶喪失でしょうね、きっとそこにわたしの“目的”があるはず」 「なるのほど。謎は解けました。ピンボケしている箇所の早期発見、スムーズに話が進みそうでなによりでございます」 「聞いてあげるわ」 「単刀直入に申しまして――――アナタは、“ナグルファルの夜”のアクシデントで発生した第三の人格でございます」 つまり……。 《リノン》〈宿主〉に寄生していたのは、わたしの方……? 「…………それ、新しいわね」 「永劫の刻を寝オチしていた当方と、留守番を全うしたトリトナ氏こそが、この身体の本来の持ち主なのでありますよ」 とはいえ根拠もないし、その仮説自体、考えなかったわけじゃない。 「だとして、何故、トリトナはわたしにそれを言わなかったの?」 「ひとえに、アナタの心中を慮ったトリトナ氏の慈悲にございます」 トリトナは優しい……フロムの言うように、事実を伝えるのを避けたのは充分に考えられた。 「本来、その肉体の所有権は当方とトリトナ氏にあるのです」 「………………」 元の持ち主……か。 本当にそうだとしたら、わたしはどうするべきだろう。 決まっている――フロムが命じるまま、従うしかない。 わたしという人格が降って湧いたものだとしたならば、返還する義務がある。 だからといって、こんば場所で唐突に現れた存在に“はい、どうぞ”といって渡せるほど“7年”という月日は短くない。 わたしは“《わたし》〈リノン〉”として生きてきたのだから。 「アナタは口がうまい分、真意が伝わらない。おみくじや占いと同じ“どうとでも取れる”言葉で丸め込もうとしている感じがするわ」 「閉口」 「一度、トリトナと代わってちょうだい。あの子と話さないといけないことが山ほどあるの」 「当方の魂に宿ったがん細胞の分際で、少々、舐めプが過ぎるのではございませんか?」 「フロム、言葉の汚さは程度が知れるわよ」 「未熟者のアナタには些か手に余る。攻略難易度“《イージー》〈忙しい人向け〉”もできずに“《ルナティック》〈選ばれし者”をクリアしようとしているようなもの」 何か……妙な感覚だった。 話せば話すほど、自分が“対等な立場”で会話しているのか疑問に思うような……。 トリトナとは違う、目に見えない上下関係のようなものを感じてしまう。 「この肉体は当方とトリトナで管理します。アナタは不要でございます」 生徒と教師。 部下と上司。 弟子と師匠。 暗黙の了解として逆らう事が禁じられた関係。 それは――――フロムが筆頭人格であるから感じるのだろうか。 「……悪いけれど、わたしにはやるべきことがあるから」 自分を知る上で欠かせない優真というキーカードも手に入れた。 もうすぐ、わたしの“目的探し”に王手が掛かる。 「アナタ自身が無意味な存在である以上、アナタのやることに意味はございません」 スポットライトを独り占めしてきたわたしにキッパリと言った。 「祝辞が遅くなりました“目的探し”の目的、達成おめでとうございます」 「え――――?」 「アナタの目的は、当方とのバトンタッチ。自身の死滅でございます」 フロムと話していて直感する。 フロムの言っている事は正しい。 何故と問われれば、証明するものはなく、単に“説得力”――――ということになってしまう。 通常人にとって親の言い付けが絶対であるように、フロムが白と言えば白だと思ってしまう思考回路をわたしは持っているのだろう。 それはそれで、フロムが主人格であるという一つの裏付けだった。 「波長が合うのを待っていては刻の浪費でございます。さぁ――――なる早で交代宣言をお願いいたします」 「………………」 心がざわついた。 交代したら、どうなるのだろう。 わたしという人格は、どこに収納されるのだろう。 フロムはわたしに再び、“《リノン》〈わたし〉”の《コックピット》〈支配権を譲ってくれるだろうか。 「当方は、その肉体でもって、げに恐ろしき調教を施さねばならないのです」 “誰に”とは問えなかった。 美しい宝石に魅せられるように、フロムの顔を見つめることしかできない。 まるで蜘蛛の糸に絡まった蝶だ。 「さぁ、さぁさぁ、さぁさぁさぁでございます」 「…………わたしは……貴方と――――」 海面から“わたし”の顔が霧散すると、無数の腕に絡みつかれるような束縛感も同時に消えた。 「…………汗……?」 びっしょりと掻いていた汗が額から伝い落ち、海面に波紋をつくったようだ。 泡沫の反射物でなければ、今頃―――― 「壮絶な独り言だったね」 「…………優真……」 その横顔に。 ぎょっとした。 ぎょっとしながらも、リノンの側に駆けつけた。 振り向いたリノンの額には、びっしりと玉の汗が浮かんでいた。 「大丈夫だから……」 「どのへんを指しての“大丈夫”だよ。どう見たって、何かあったじゃないか」 重大な決断の場に立たされたような、精神力を使い果たした顔をしていた。 「“目的”――――見つかったかもしれない」 思いつめたような表情から察するに、探しものは“見つからなければよかったもの”だったようだ。 「そんな顔してたら、超最強が台無しだよ」 「……わたしの脳にはトリトナの他にも、もう一人住んでいたの」 「名前は“フロム”。第3の……いえ、わたしという肉体の、本当の持ち主かもしれない」 「本当の持ち主だったら、リノンにとって困ることがあるの?」 「元々の持ち主が所有権を主張するのは当然のことじゃない。わたしに出ていって欲しいみたいよ」 「リノンがリノンとして築き上げたものを全て明け渡すのが“目的”だったなんて、ちょっと悲しすぎるよ」 「……わたし、少しすっきりしてるのよ」 「わたしの経験したであろう記憶や過去は、すべてトリトナとフロムと共有していたものだった」 「どうりで“現実感”が実感できないわけよ」 「確固たる“目的”があると思って探していたけど、違ったのよ。“目的”は失われたのではなく、元々なかった」 「トリトナに洗いざらいしゃべってもらってから真剣に考えてみるわ。今後の動きってやつをね」 「リノン」 「事実上の真実と、道理が通っている事と、納得できるかって事は、てんでバラバラ。まったくのベツモノのはずだよ」 「トリトナと分かり合えるほど超最強のリノンなら、“目的”が判明してからの動きも、並大抵じゃなくていい」 「好きなように決断しなよ」 「……優真は」 「ん?」 「結局、貴方は……わたしとどういう関係だったのかしらね」 「それこそ、フロムに聞くのが手っ取り早いんじゃないかな」 「そうね……けど今すぐはやめておくわ。わたしは落ち着く時間が欲しいし、フロムにも考える時間をあげたい」 「そっか」 「貴方と出逢って、退屈してる暇がなくなったわ」 リノンは片足を窓枠に掛ける。 「いい? ここでおとなしくしているのよボク」 「りのんーこどもあつかいはやーめーろーよー」 「夜には戻るから」 「いってらっしゃい」 颯爽と飛び出す姿を見送り、リノンの真似をして壁に寄りかかる。 「お互い、考え事は一人っきりでしたいもんなぁ」 「はぁ…………」 「まさか、ここが本当に“家”になる日が来るなんてなぁ」 再び、自分にできることを考える。 「…………よし」 決めた。 寝っ転がって、いつでも動けるように体力を回復しながら、なるの厨ニ小説を読破する。 キャラの親身になって考えて、感想やアドバイスなんかも書いておこう。 それが俺にできる最善だ。 なるの小説を読んでいると、あの“音”が聴こえてきた。 いつかのように、誘われるがまま“音”の発生地点に脚が動いていた。 一歩でも出ればリノンの言い付けを破ることになるが、条件反射に近い行動なので仕方がなかった。 あとで死ぬほど怒られればいい――――俺は、どうしても自分の目で確認したい。 「戻ってきているのか……?」 「ココロ……!」 鼻歌を口ずさむ少女は、髪をなびかせて立っていた。 「やっぱり」 あまりにも自然に居るべき場所に居るものだから、湖の出来事が全部、嘘のように思えてきた。 「…………?」 ハミングが止まる。 間違えようがない距離。 目の前にいるのはココロだった。 「ココロ」 「……………………?」 最初に会った頃と同じように、こてんと首を横倒しにして、ハテナのジェスチャー。 もう限界だった。 「ココロッ!!」 「はぁ~~~~~、よかったーっ。よかったよかった! ホントによかったっ!!」 「あ――――ごめん、抱きついたりして」 嬉しさのあまり、奇跡のような長髪ごと抱き込んでいた。 「でも、良かった。ココロが無事で、安心した」 「…………安心……?」 「安心。もう安心だよ。もしコレが罠で、近くでルージュが見ていたとしても、俺が謝らせてあげる」 「二度とココロを引きずるなよ、バカヤローコノヤローってね」 「………………?」 既視感、って奴だ。 ココロの態度は―――― 邪魔者に対する嫌悪でもなく、 不審者に対する恐怖でもなく、 闖入者に対する警戒でもない。 俺を“空気”の一部と思っているものだった。 「わかってない、なんてことないよね……俺が誰か、わかるよね?」 嫌な予感をそのまま口に出した。 「…………ママ……じゃない?」 その返答は、身に覚えがあるなんてもんじゃない。 初対面の時とまったく同じ反応だった。 「水瀬優真。この名前に聞き覚えはない?」 「…………みなせ……ゆうま……」 「………………人……?」 「そう、人だよ。ココロの友達だ。ポジティブの権化とは俺のこと」 「…………トモダチ……?」 「い、いや……確認するような事じゃないじゃん。俺とココロの中だろ……?」 「………………?」 「……~ッ」 短くも濃厚なココロとの思い出を踏みにじられたようで精神に亀裂が入りかけたが、どうにか踏みとどまれた。 つまり。これは。あれだ。 培ってきた二人の“体験”がリセットされている。 記憶がすっぽり抜け出て、俺とは“初めまして”なんだ。 「………………」 「初めましてココロ、俺は水瀬優真。これからよろしくねっ」 唯一、損なわれていないのは、俺の持つ“ココロ”の記憶。 俺はココロを忘れていない。 だから何度でもやり直せる。 “初めまして”上等だ。 「(ルージュ……管理人は、記憶の操作まで出来るのか? 消すのが可能なら、戻すのだって……)」 ……良し。 「あれ、ママの姿が見えないなぁ。獣耳の手入れで忙しいのかな?」 「…………ママは忙しい……」 「湖で何をしてたのか聞いてもいい?」 「………………?」 わからないなら、わからないでよかった。 湖以前の記憶がないということはわかった。 恐らく、光に包まれて消えた先でココロの記憶を弄ったのだろう。 「…………“《メンテナンス》〈延命処置〉”……」 「メンテ……」 会うたびにココロの行動は微妙に変化していた。 俺の主観では、悪い方向への変化に感じていた。 理由はどうあれ、それを治そうとしていたのであれば、ルージュを悪とは言い切れない。 「ルージュなりに管理人の仕事はこなしているってわけか……」 「…………管理人……?」 「ママはそう呼ばれてるんだよね」 「…………ママは……代行人」 「え? 他にも、ココロを管理している奴がいるの?」 「…………いない……」 「水瀬優真ってイキモノは馬鹿だからさ、わかりやすくレベルを下げて教えてくれるかな?」 「…………パパ……」 なんだろう、酷く羨ましい呼ばれ方をする奴だ。 「パパもいたのか。パパが、本当の管理人だったんだね」 「…………会ったことはない……」 「もし俺がパパだったら、ココロを放ったらかしたりしないんだけどな」 「…………パパになる……?」 「パパか……パパ……んー……パパなら、なるちゃんも許してくれるのかな……?」 「…………パパ……」 「なんか凄い年を取った気分だなぁ」 とにかく、無事で良かった。 こうして元の場所に一人でいる以上、ココロはしばらくの間は心配いらないだろう。 あまり長居をして、リノンに見つかったらこっぴどく叱られてしまう。 「もう行くけど、ママに酷い事をされそうになったら言ってやるんだよ」 「『ココロのバックには水瀬ファミリーがいるんだぞ』って。それでも優しくしてくれなかったら、鼻っ柱を叩いてやれ」 「…………はなっぱしら……?」 「そ。このあたり。どんなに鍛えてても、涙が出るんだ」 「………………?」 「痛いっ!」 「…………涙……」 「俺じゃないよ、ママにだよ。もう痛いから帰るっ」 「…………痛いから……?」 「そう。痛いから」 「家族と仲間が大変だって時に何もできない自分が歯がゆくって――――心がキリキリ痛むから」 「でも、一つだけ。ココロが無事だってわかっただけで、落ち着いた。無事でいてくれて、ありがとう」 今のココロにとっては、初対面の人が妙なことを言っている程度に感じるかもしれないけど。 俺にとっては、再び同じ空気を吸える喜びは非常に大きかった。 「…………自分は……?」 「自分……? ああ、俺自身ね……俺自身の心配は、必要ないよ。他のみんなが平気なら、俺も平気」 でも、本当にそう思う。 自分の事で胃に穴が開くほど悩んだりするのは、平和だ。 実際は心配することなんて何もないのに“悩む”のが“人間”だって勘違いして、飛びついているだけの人だ。 今の俺は、取り戻している最中だから。 自分のことは、二の次、三の次。 そうでなくても、四の次、五の次。 「もし、身の危険を感じたら、『自分が傷つくと俺が悲しむ』って覚えておいてね」 「不思議なものでさ、自分の為なんかじゃ全然何にもできないのに、誰かのためなら一生懸命になれるんだよ」 「…………難しい……」 「できるよ。みんながみんな、誰かを助けようと動けば、巡り巡って、自分も救われるんだ」 「クッフッフ……“《ポジティブリンク》〈手を繋いで輪になろう〉”とでも言おうか」 「………………?」 なる風のセリフは不人気だった。 なるなら『カッコイイ!採用!』って原稿用紙に万年筆を走らせるのだろうか。 なる……。 「それじゃココロ、御機嫌ようですわ」 火のない所に煙は立たない。 “《アーカイブスクエア》〈AS〉”の構成員である可能性を加味すれば、迂闊に近づくべきではなかったと思う。 それでも俺が姿を隠さず、堂々と彼に近づいたのは、畳と線香の香りがしたからだ。 「スゥ…………ハァァ……この配合は、追っかけがグーだねぇ……」 「こんなとこに女の子は落ちてないよ」 「おー? ガクセーさんは今日もおサボりですか?」 「あー、うん。色々あってね」 「こっちも色々ありまくって休憩中。いやー、寝てねぇ寝てねぇ」 「俺も――――いや、意外に寝れてるかなぁ」 “気絶”を睡眠に含んでいいのなら、だけど。 確実にまえよりは“何もしていない”状態が多い。 慌ただしいのは周りばかりで、俺はちっともだ。 「ちょろい女でも引っ掛け行くか?」 「あー……ごめん。日を改めて」 気分じゃないのはもちろんだけど、旧市街を出るのはいくらなんでも危険過ぎる。 「やーっぱかぁ」 「え?」 「隠さなくてもいいっしょ。身を固めたんだろ? 女と歩いてるとこ、何回か見てるからな」 「え、そうだったの?」 「オレはうまくいってそうな時に話しかけるほど野暮な男じゃないからな。影でこっそりな」 「でも、なるちゃんは家族の一員であって彼女とか恋人とかとは、ちょっと違うよ」 「なるちゃん……へぇ、名前も可愛いじゃん」 「顔も性格も全部、最高だよ。一緒にいて、疲れるってことがないんだ」 「へぇ……一晩中抱き合ってても疲れ知らずか……若さ故ってやつだねぇ」 零二のボケにキレがない。深刻な睡眠不足だ。 「俺がポジティブで負けそうになったのは、後にも先にもなるちゃんだけじゃないかな」 「ポジティブで負けるって言葉は、お前からしか出てこないだろうな」 「でもホント、なるちゃんの厨ニ辞典に“諦め”の文字はないと思う」 「なるちゃんが“なんとかなる”って言い続ける限り、俺も“なんとかしよう”って思えるんだ」 「“なんとかなる”ねぇ……いいじゃん、ソレ。ホットで響くわぁ」 「狙いを定めた鷹みたいな鋭い眼光はやめてください」 「あの子って、神出鬼没の占い師だろ? ちょっと変わった占いができることで有名な」 「よく知ってるねー。わりと有名なのかな、なるちゃん」 「紹介してくれよ」 「いいけど、今度ね。あとお金出そうとするのやめて、紹介料なんかいらないから」 「エロい事はしないって。おまえがネトラレて鬱勃起できるほどの高レベル組なら、そっちの相談も乗るけど」 「違くって。今は、ちょっと無理なんだ」 会わせてあげたくても、なるは行方知らずだ。 「しっかし、発育のいい子だねぇ。あの子の胸囲を生で測ったメジャーなら高く買うぜ」 「してないしてない――――したい、したいっ」 想像してしまった。ヤバい。 なるの色んなイケナイ部分を測るプレイ、ヤバい。 「いくら隠れ奥手なお前でも、あの柔らかそうな魅惑のお尻には勝てまい。顔騎くらいは経験済みなんだろ? ん?」 「顔騎って?」 「そうだな……例えるなら“跳び箱”か」 「なりたいと思ったことはないか?」 「跳び越えられなかった時、女子のお尻がポフンと音を立てて乗っかってくる顔面天国。あれぞオート顔騎」 「顔に乗ってもら――――してないしてない。したいしたいっ」 っていうか多分。 多分じゃなくて絶対。 なるちゃんのすることは、全部イイコトだ。 「BAD……優真が“したいしたい病”の患者になっちまったぜ。おっと――――“ぜ”は禁止されてたんだったな」 「ぜ? 禁止?」 「おっかないバケモンの捨て台詞みたいな? ま、忘れてくれ」 「そっか。そうだ、零二はどうしてここへ?」 「気分転換に海を見たくてな……」 「ロマンチストだね。海を眺めるのは、タダだしなー」 「スゥゥゥ…………ハァアァァァァ……優真の秘密基地ってこっちの方だったろ。会えるかなって思ったんだ、お前にさ」 そういえば俺の携帯は湖の底に落ちたんだった。 繋がらないから、ふらっと来てみたということだろう。 「最初で最後、ホモい事を一回だけ言うならな……」 「だ、ダメだよ零二。零二とはひどくやらしい関係じゃなくて、清く正しい関係のままでいたんだ……」 「違うっての。ホモいけどゲイっぽいのじゃねーよ」 「お前と話すと――――せいせいすんだよ」 「うぜぇ奴等がはびこるこの世の中で、割に合わない生き方をしてる真人間と一緒にいられるのは、恐ろしく気持ちいいんだ」 「お前との付き合いがここまで続いてるのは、お前が――――人類LOVEだったからなのかもしんねぇなぁ」 「かくいうオレも、人が嫌いじゃねぇわけよ」 ここまで面と向かって“人が好き”と言われるのは、二度目の経験だった。 「なるちゃんもだよ」 「あ?」 「なるちゃんも、人が大好きなんだってさ。多くの人に喜んで欲しくて、小説も書いてる」 「だから、俺と零二となるちゃんは、仲良くカラオケで騒げるね」 「……スゥゥゥ……ハァァァァ……そういうのも、悪くねぇのかなぁ」 ポトり、と。 零二は落としたタバコを靴底で踏んで消す。 フィルターだけになったソレをつまんで仕舞った。 「悪くはねぇんだろうが……今ひとつピンとこねぇのは、やっぱオレがおかしいのかな……」 「あれ? もう行くの?」 「なんかやる気出ちまったよ。戻って、もうひと頑張りするとしますわ」 「そうそう、その意気。サボってばっかじゃダメだよ。警備の仕事だって頑張れば社員昇格も夢じゃない!」 「フリーターは社員になりたがる一途なイキモノなんだからイジメんな」 さて。俺もいい加減、もどっておとなしく読書に励むとしよう。 ――――“人生”に意味はあるか、という問がある。 一見して深く、哲学的に聞こえるが、実は汎用的ながら答えは出ている。 “人生”には意味がない。 “人生”は、そのものについて語れる概念ではないから。 人が求める全ての“意味”には実体がなく、実体のないものを追い求める事で生じるのは“苦”だけだから。 「気の持ちよう次第で、残飯を御馳走のように頂くことはできるかもしれない」 「でも残飯すら与えられない無人島で、笑っていられるなんて話は、幻想だわ」 たとえば眼下に一望できる街並みに対して“綺麗”という感想を抱いたとする。 しかし、より“綺麗”な景色を切望するうちに、今の景色が『大したものではない』と知っていく。 誰かを“想う”気持ちも同様。 意中の人に振り向いて欲しくて散々アプローチを掛けて、満足の行く関係になったとする。 しかし、次の瞬間から“破局”に怯える日々を送るはめになるだろう。 従って“人生”に意味はなく、“人生”の脱却が最大の目的となる。 「究極的なマイナスを精神力だけでプラスに変えられるなら、その心は強靭なのではなく、機能していないのと同じね」 さして熱心でなくとも仏教徒なら誰でも知っている“人生の無意味さ”を、少女はしかし知識的吸収ではなく独自の体験でもって手に入れていた。 つまり少女は“人生”に意味がないという悟りを開きつつ、意味のない“人生”に終止符を打たずにいる。 何故か――――? 「クフフ――――」 自らが導き出した結論に対しての判断が、優しすぎたからだ。 「あっけなかったわ……ちょっと傷めつけたら白状してくれるんだもん……か・ん・た・ん」 先刻、少女は自分を捕らえようとする輩に抵抗した。 両の手足首を逆方向に180度曲げることが“ちょっと”の暴行であると本気で思ってしまう程度に、少女のタガは外れていた。 「どいつもこいつも、都合のいい嘘つき。化けの皮を剥がしてあげるわ」 普通、高まった感情は時間を追う毎に下がっていく。 少女はそれを無意識に理解し、視界に映るすべてにフィルターを掛け、上手に感情を維持していた。 冷めてはいけない熱であると、自分に言い聞かせていた。 「パートナーとの合流が最優先ね。といっても、目立ちたがりのアイドルさんが匿ってるかしら」 「だったら、そっちから潰すだけね♪」 “なんとかなる”――――無根拠に言ってのけた少女は、本質を捉えるならば死んだということになる。 進化であり。 変貌であり。 新生である。 「人が住んでいる――それだけで輝いて観えた街も、今は濁って見える」 自らの瞳が濁ったわけではない。ある一点――――街のランドマークとも言える“《アーカイブスクエア》〈AS〉”があるからだ。 「さ。順序良く終わらせていきましょう」 再誕した少女が目論むは、偉大なる快進撃。 標的を絞った少女は鬼の仮面を被り、孤独な百鬼夜行を開始した。 「……むぐむぐ…………」 連絡を受けたわたしは“《アーカイブスクエア》〈AS〉”に属する“《イデア》〈幻ビト”だけの集会に顔を出してきた。 集会での主な連絡は“闇討ち”に関するものだった。 というのも数時間前、何者かの手によって調査班の二名が両手足を逆方向に折り畳まれる事件があったらしい。 一名は昏睡状態を脱したが、ショックで犯人の顔も覚えていないようだ。 「ごくん……悪くないタッグだっただけに、警戒が高まるわね」 常時携帯している蜂蜜揚げパンを飲み下し、ぼんやりと校舎を眺める。 集会では、調査班の半数以上を動員する“優真捜索”の総指揮を執る者がいくつかの指示を出した。 その人物とは初対面だったが、東雲統合学園に縁ある人物だと同胞に教わった。 「(……古くは“《アーカイブスクエア》〈AS〉”の頭脳と呼ばれていた者……久遠か……)」 信用筋の古参から仕入れた情報では、“《アーカイブスクエア》〈AS〉”の前代表にあたる切れ者とか。 “ナグルファルの夜”以降、“《アーカイブスクエア》〈AS〉”に自らがいた形跡を全て隠滅し、忽然と姿を消したようだ。 必然的に“《イデア》〈幻ビト〉”という事になるが、彼が何故、優真の身を追っているのか―――― 「(優真がよっぽどの危険因子か、あるいは逆か、財宝の在処でも知っているのか……)」 名目上は、虹色の占い師との契約――――“禁忌”を犯したことによる捕獲だ。 “禁忌”を犯した者には抹殺許可がでるのに対し、生け捕りを命じている時点で裏がある。調査班全員がそれはわかっているだろう。 優真の“《デュナミス》〈異能〉”は奇ッ怪だ。 “《フール》〈稀ビト〉”の身でありながら“《アーティファクト》〈幻装”を本来の形で使う……そんなケースは聞いたことがない。 何かあるのだろう。 理由が。 前代表が動くほどの理由が。 「手がかりなしか……」 久遠がこの場にいるわけではないが、何か少しでも情報があればと不法侵入など試みてみたのだが……。 「無駄な時間だったわね」 とにかく、“《アーカイブスクエア》〈AS〉”が是が非でも優真を捕まえたい状況にあるのは理解できた。 本来ならば優真を駒に動くのが、わたし“らしさ”だが、今はそんなつもりは一切ない。 もう“目的”はフロムによって新たな形へと変化している。 優真は、一緒にいて悪くない気分でいられる。 できることならば、何とかしてやりたかった。 確証は得られなかったが、優真の事務所を潰したのは“《アーカイブスクエア》〈AS〉”という線が濃厚だ。 腑に落ちないのは、解体の実行部隊に参加した者の影も形も見当たらないことだ。 当然、正規の解体業者には頼めない。 通常、近隣住民への配慮のため着工の5日前から動き出さなくてはならないからだ。 「“《イデア》〈幻ビト〉”なら実行者は一人か二人……誰がやったのかわかれば、社長さんの安否までたどり着けるのに……」 「これじゃ、みやげ話のひとつもできないじゃない」 としても――少し、ガッカリしすぎている気もする。 何故だろう。 「(優真に役立たずと思われてしまうことが怖い……?)」 いよいよもって乙女な脳になってきたらしい。 そんなにあいつの事を想っているのなら、シャワー室での時に最後までしていたはずだ。 …………やめよう。考える時間の無駄だ。 「虹色の占い師の安否に関してもわからずじまいか……」 「振り向かないで」 「――――」 先を思いやっていた事もあり、わたしは背後を取られるという失態を犯した。 人の気配が一切なかったことで油断した。 すぐに背後からどうこうという空気ではない。 「前言撤回――――」 大収穫。 これで優真には『五体満足で、わたしの命を狙ってきた』と説明できる。 「何のつもりか知らないけど、生きてたならよかったわ、“虹色”」 「死にたくないなら質問にだけ“YES”“NO”で答えることね、“超最強”」 声質から、雰囲気がガラッと変わった印象を受けた。 人を変えるのは“経過”ではなく“体験”であることは、“ナグルファルの夜”で全人類に浸透したと思う。 時間で変わるものは、成長、老化といった身体的変化による身の振り方だ。 「何かあった……?」 「クッフッフ~。大有りよ」 しかし不老である“《イデア》〈幻ビト〉”は時間に左右されない。 あるいは信念がねじ曲がり、人物像が変わるほどの出来事が起こったと考えるのが妥当と言えた。 「無駄口はここまで。質問に答える気は?」 「“YES”」 拘束もされていない以上、最高速度340m/sを誇るわたしの脚なら逃げられる。 いいように質問攻めにされる筋合いもないのだけれど、彼女を連れ帰る事で優真が喜ぶなら……。 「(……何よその思考。どうかしてるわ、あいつはわたしにとって良い人止まり。ただの仲間)」 「事務所が壊れてたけど、“《アーカイブスクエア》〈AS〉”がやったのかしら?」 「“YES”」 「優真くんは無事?」 「“YES”」 「優真くんも近くにいる?」 「“NO”」 「そう……じゃあ漆原零二を知っている?」 「え?」 「あなたに許された言葉は、“YES”“NO”だけ」 「……“YES”」 漆原零二……彼に一体何の用が……? 「彼を呼び出すことはできる?」 「…………」 「いいわ。質問を変えてあげる。人間は好き?」 どちらとも言えない質問だった。 わたしは“人間”そのものに興味がないとも言えるが、多くのファンは人間であることを加味すると……。 「“YES”」 「人間を殺したい?」 殺す――――と発声した瞬間、虹色の占い師の空気が変質した。 自分がとても危ういバランスの上に立っていることを思い知らされるような、恐怖に似た戦慄だった。 「……“NO”」 「そこは“YES”でしょ」 「――――――――!!?」 ゾッとした。 死神の鎌が首筋に当たっているような感覚。 反射的に振り向くしかないほど、明らかに異様な空気。 わたしの本能が、身の危険を察し、そして振り向いた。 いない――――消えた!? 「こ・っ・ち」 空――――!? 声は明らかに後ろから聞こえていたのに、頭上から頭を捕まえられ、そのまま―― 「――――がっ!!」 乱暴に叩きつけられ、地面とキスをさせられた。 「そういえば、前歯が欠けてもアイドルって続けられるのかしら?」 「顔が命だってわかっててやったの?」 不思議と屈辱的な気分にはならなかった。 自分が意外なほど冷静に感情をコントロールできているのはきっと、“冷静”でいなければならない強敵と判断したからだろう。 「ここでのんびりはしてられないわね。“《アーカイブスクエア》〈AS〉”の援軍が来るかもわからないし」 「優真くんの場所、教えて」 「……数十個あるわたしの隠れ家の一つよ」 「次に嘘を言ったら、顔の肉がかつお節みたい削れることになるわ」 ぐい、と。顔が地面に押し付けられる。 もしこのまま――――占い師の膂力で頭を押さえて地面を擦られれば、整形程度じゃ治らないだろう。 「(それにしても、心を読む能力でもあるの? 真贋を見分ける占い? 血圧や心拍数の変化を探っている?)」 占い師がわたしの嘘を見抜いたように、わたしも占い師の声質から見抜いたものがある。 “覚悟”――――わたしを本気で敵に回すだけの覚悟が完了している。 なりふり構わないことは、強さだ。 今の占い師は、正直、何をするかわからない。 「優真に会ってどうするの?」 「クフフ……それはね……」 いやらしい笑みで、わたしの耳元に囁きかけてくる。 耳打ちの内容を最後まで聞き終えた時、わたしの方針は固まった。 「優真は貴方のことを家族だと言っていた……わたしのことは仲間だって」 「それが……?」 「それが……それが……」 確かに――――それが、なんだ? わたしは心のどこかで、虹色の占い師に劣等感を抱いていたのだろうか。 優真に“家族”として扱ってもらえる彼女に嫉妬する――――裏を返せば、わたしは優真を強く意識している。 その感情が恋慕であれ、尊敬であれ、何であれ、思ってしまった事は覆せない。 「もしかして、優真くんの事、好きになっちゃったかしら?」 何の捻りもない言葉で表すなら、そういうことになる。 「ファンに乗り換えられるのは、プライドが許さないだけよ」 ただ、今はそれどころじゃない。 舐め腐っている《オンナ》〈鳥〉の囀りを強引に黙らせる、今はその事で頭がいっぱいだった。 「優真くんの場所を教えて」 「ふ……ふふふ……」 口元が自然と釣り上がってしまう。 わたしに勝てると本気で思っているのが、おもしろくて。 いつまでも無防備に頭を掴んでいるのが、おもしろくて。 「聞こえないの?」 ぐい、と。つかんだ髪を持ち上げられる。 覗きこんできた占い師と視線が交差する。 本当に何があったというのか――――深い絶望に彩られた瞳は、地獄の炎でコーティングされていた。 「あなたは拷問をしても口を割らないタイプね」 「いい? 次が最後」 質問を続ける占い師の声が野太い男の唸り声のように変化する。 何事かと思うと同時、占い師の瞳が球体の鏡のようにわたしを反射していることに気づく。 瞳に映る“わたし”から目を背けられる時間は既に過ぎていた。 「黙秘に徹しても。嘘をついても。次が最後の質問」 現実と精神世界の境界の曖昧化が始まる。 溶けるように混じり合い、引き込まれる感覚――――二重の危機がわたしを襲っていた。 「おかえりなさい――――でございます」 「そういえば貴方の出ているドラマ、素人丸出しの演技だったわよね」 「――――抵抗もせず、気絶したフリなんて、心底がっかりだわ」 脱力しきったリノンはあまりにも無防備を晒している。 感じていた闘争心は完全に抜け落ち、車道にでも放置すればあっけなく轢かれてしまいそうだった。 まさか。 本当に。 気絶している? 「運が良かったわね……この手が最初に握りつぶす心臓は、心に決めているわ」 「……本当に、ツイてない」 衣服から携帯を手に入れたが、操作はロックされていた。 “《アーカイブスクエア》〈AS〉”のIDカードを頂き、携帯を踏み壊す。 「何らかの方法で既に応援を呼ばれていたら厄介ね」 ここは――――? 一面が白一色の空間。 ただ白いだけではない。 靄が掛かったような曖昧模糊とした白の景色は、私の見知った場所であり、その時々によって顔色を変える。 視力を奪われたわけではないことは、自分の手足が目に映っていることからわかる。 「初めてトリトナとぶつかり合った場所……」 わたしの脳内にある、人格同士が話し合える精神的な空間。 来たのは一度きり――――所有権を賭けてトリトナと争った時だけだ。 「いるのね、フロム……」 望むところだ。 会ってきちんと話さないといけないと思っていた。 「直接、お目に掛かるのは初めてでございますね。どうぞよしなに」 礼儀正しい挨拶とは裏腹に、自信に満ち溢れた態度をしていた。 盛大に煙を立ち昇らせる黒い轟炎が椅子を形作っている。 腰掛けるのは、水面に映った時と同じ人物。 わたしであって、“わたし”じゃない存在――――自称、筆頭人格のフロムだ。 「わたしを追い出したいのはわかるけど、今回のはタイミングが悪すぎるんじゃない?」 「今、“わたし”の操縦席には誰も搭乗していないんでしょう? 要するに気絶中のはず」 「そんな中、人の変わったような“虹色”が肉体にトドメでも刺したらどうするつもり? 肉体が滅べば元も子もないわよ」 「ハテ……? 現に肉体と脳が無事であるから、こうして精神世界での対話が楽しめるのでございましょう?」 「相手方の目的が情報入手である以上、当方と致しましては“ナイス気絶!”くらいの賛辞は頂きたいものでございます」 これでフロムがわたしと虹色の占い師の会話を覗いていたのは確定した。 その上で、フロムはわたしをここに招いた――――無防備になった“外”のわたしを虹色の占い師が傷つけないとわかっていたから。 「褒めてあげるわフロム。その鋭い洞察力をわたしの為に役立ててくれるならサインもプレゼントするわよ?」 「オークションに捏造サインで荒稼ぎ。落札者涙目。こほほん。愚の骨頂……でございます」 「たまに口から滑るネット用語は、わたしやトリトナの影響かしら?」 「トリトナ氏が日常的に閲覧していた«Re:non様が可愛すぎて生きていくのが以下略スレ»に毒された結果でございましょう」 「アナタへの罵詈雑言は“私様以外”認めないと、ネットにしがみついていたのをご存知では?」 「……まったくトリトナったら」 会話の内容が緩んでいる時こそ、油断は禁物だ。 水面に映ったフロムと話した時、フロムは力ある言葉でわたしに“交代”を宣言させようとした。 催眠術の類か、筆頭とやらの権限なのかは知らないが、気をつけなくてはならない。 わたしはまだ、自分の存在理由が《フロム》〈筆頭〉が復活するまでの繋ぎであったなど認めたくない。 「この際だし、話し合いを済ませちゃいましょう。トリトナは何処? あの子がいればスムーズに進むわ」 「月九出演アイドルの生演技キターでございます」 「……何が言いたいのよ」 「アイドル業は嘘の塊という持論は間違いでしょうか?」 「殿方の4割は用を足して手も洗わない。そんな“《カマドウマ》〈便所コオロギ〉”と瞳と瞳を交わして数十秒もの間、握手をするなんて嘘も大嘘っ」 「わたしはファンは“大事”にしない。けれど、わたしを選んだファンに“損”はさせない。ファンの望む“わたし”である努力は怠らない」 「当方の言い分が噛み砕けていないご様子」 「貴方もファンサービスとは何かがわかっていないようね」 「アナタは、少々、自分に嘘をつきすぎる」 「貴方は、少々、回りくどすぎる」 「此処にトリトナ氏が居るとわかっていての《うそぶ》〈嘯〉きでございますか?」 トリトナを身近に感じながら、感じていないと思っているのは、《うそぶ》〈嘯〉きなんかじゃない。 これは――――願望だ。 「ゲプ、でございます」 おくびを出したフロムは、とん、とん、と自らの胸を2度叩いた。 嫌な予感がする。 「トリトナ氏の人格は、当方が責任をもって吸収合併致しました」 「吸収……ですって……?」 「『本来の形に戻るだけだぜ、異論は認めないぜ』とのこと。いやはやご立派でございます」 「トリトナが、わたしに一言も残さずに消えた? それを信じろっていうの?」 わたしに黙っていなくなる。 7年間、2人で仲良くやってきたのに。 絶対にない……。 とするならば、フロム――――強引にトリトナを取り込んだな。 「アナタは自身についてあまりに無知。お勉強しましょうか」 「当方の唯一名は“《ケルベロス》〈三ツ首の獣〉”。“《ステュクス》〈重層空間”の護り手が役目にございます」 “ナグルファルの夜”以前にわたしが担っていたのが、“《ステュクス》〈重層空間〉”を護ること――――。 「言われてもピンと来ないわ」 記憶が欠落しているにしても、何の刺激も、興味も湧かないということはないだろう つまり“《わたし》〈リノン〉”は“《ステュクス》〈重層空間”を護っていない――――その時にはまだ、人格が芽生えていなか〉った事の裏付けだ。 「やれやれ。厄介極まりない。トリトナ氏の説明不足は金利を偽る高利貸しの域でございますね」 「話さない方が幸せなことだってある……黙っていたことがあの子なりの優しさだって事くらい、気づいているわ」 トリトナが真実を告げなかった理由は、一つでもヒントを与えることでわたしが“望まれていない人格”と気づいてしまうことを防ぎたかったからだろう。 「“ナグルファルの夜”に生じた異変のおかげで、“《ステュクス》〈重層空間〉”は半壊」 「牢主とは離れ離れになり、アナタに所有権を奪われ、散々でございます」 「“《ステュクス》〈重層空間〉”の管理人もたいしたことないわね」 「――口が過ぎるのではございませんか? 牢主は魑魅魍魎《はびこ》〈蔓延〉る“《ユートピア》〈幻創界”で最も気高く、強いお方でございますよ」〉 「魂特有の永遠性と結束性を高め、束ねる力……“《ステュクス》〈重層空間〉”に必要不可欠、唯一無二の能力でございました」 “魂”を操る……胡散臭い能力だ。 「職務放棄して何処で何をしてるのかしらね。いつまでも管理者不在じゃルージュに奪われるわよ?」 「ルージュ……下賎な蛆虫風情が牢主との愛の巣に無断で出入りなど、言語道断」 過激すぎる憤怒は、工場の黒煙のようにフロムから噴出した。 「当方が完全に肉体を取り戻したあかつきには完成版九想図で以って、地獄が“場所”ではなく“状態”であることを教えて差し上げます」 「……なるほど。アナタの目的はルージュに地獄を見せることなのね」 「ハテ……真意の程は打ち明けないのがミステリアスガールというもの。説明は以上でございます。ご返答のほどを」 轟々と燃え盛る椅子から、判決を言い渡すように聞いてくる。 返答を求める態度じゃないし、会話のほとんどがわたしにとってとるに足らないことだ。 ある、一点を除いて――――。 「わたしはアナタと同化なんてしない」 否定と同時にフロムのこめかみがぴくりと動いた。 「再三申し上げましたが、アナタの“目的”は当方と一つになること」 「子が母胎を理想郷とするように、複人格の安寧は主人格との一体化にあるのでございます」 「“わたし”という存在が生まれた事の“意味”が、フロムの人格が戻るまでの繋ぎだったのなら……」 「この7年間で、探していた“目的”が霞んで見えるほどに、“わたし”はわたしの生に目的を見出していたことにならない?」 「生まれながらに定められた“目的”を達成する価値なんてない」 親の決めた許嫁を蹴って、自分で決めた道を進む。 喩え話だけど、わたしは、そっちのほうが“らしい”。 「7年間連れ添ってくれた飲み仲間が、わたしに黙って貴方と一つになっていることの方がよっぽど重要」 心臓に手を密着させ、自身の最高傑作たる武器―――― “《サイレントキル》〈有無幻の凶夢〉”を抜き出す。 「口先だけの解決は政治家にでも任せましょう? 身体が鈍っちゃう。頭空っぽにして暴れるから、しっかり受け止めるのよ」 「脳筋でございましたか」 頭でっかちをやわらかくしたいなら、汗の一つでも掻いてもらえばいい。 余裕ぶった態度を一度崩してからでなければ話はいつまでたっても平行線だ。 「戦闘態勢に入った“超最強”を前にして、座ったままでいるなんておもしろいわねっ」 たっぷりの遠心力を負荷した戦輪がフロム目掛けて滑空する。 とはいえ、ほんの挨拶代わりだ。 この程度の攻撃を躱せないフロムではないだろう。 「トリトナ氏とは、このように野蛮な拳の語り合いで愚かにも意気投合したのでございますね」 座ったままで充分とでもいうように、身動ぎひとつせず回転する “《サイレントキル》〈有無幻の凶夢〉”にため息すらついてみせる。 様子見の一撃のつもりが、このままでは決定打になってしまう――――!? 「自ら仕掛け、相手の身を按ずる――――当方には理解し得ない思考でございます」 甲高く弾ける金属音。 障害に跳ね返された“《アーティファクト》〈幻装〉”――――“《サイレントキル》〈有無幻の凶夢”が足元を転がる。 出現させたのか、はたまた元よりその場にあったのか、不可視の遮蔽物がフロムの周囲を囲んでいた。 「アナタは、少々、甘すぎる」 「トリトナ氏と打ち解けず、当方のように取り込むか、もしくは人格抹消を施せば、一対一で戦えたというのに」 「この世界は精神力が物を言う、平等な空間。アナタが1なら、同化した当方は、2。大は小を兼ねるでございます」 蒸気機関車のような圧倒的な黒煙が吹き上がり、死を象徴するように《ドクロ》〈髑髏〉を象る。 ヤバい――直感し、“《サイレントキル》〈有無幻の凶夢〉”を拾って距離を取る。 闇の侵蝕がわたしの十八番であるなら、筆頭であるフロムが扱えないわけがなかった。 フロムの侵蝕は……侮れない。 「“目的達成”という満足感の中で永眠させてあげようという慈悲を蹴りやがりましたアナタに、容赦は致しません」 「粗末な人格は、とっとと元の鞘に収まりやがれでございます」 わたし目掛けて伸びてくる“闇”の量は圧倒的だった。 小人が全力疾走したとしても、巨人が持ち上げた足の裏の影にはすっぽり隠れてしまうのに似ていた。 「冗談じゃないわよ――――!」 “闇”は氷床の駆け抜けるようにバリバリと床を砕け散らせながらわたしを目指す。 一瞬にして、繋ぎ目のない白い床がひび割れた大地のように変わり果てた。 「あっちだこっちだと逃げてばかり。“超最強”ワラワラでございます」 「ッッッ!!」 進行方向に不可視の壁が出現し、腕を打った。 最大加速時のライダーは木の葉にかすっただけで頬を切る――――わたしが壁にぶつかれば、その衝撃は速度に比例する。 これでは“闇”に喰われまいと逃げ回ることさえできない。 「牢主……リノン氏との同化が終わり次第、当方が解放させて差し上げます」 「その気高き魂は、あのような軟弱な肉塊に幽閉されていてはなりません」 「解放……? 一体、何のことだか……」 「当方の荒ぶる魂を管理できるのは牢主、ただ一人……この忠誠心の炎、未だ燃え続けております」 独特ではあるが、一本芯が通っている点は素直に好感が持てた。 フロムという人格には騎士の如き固い信念と目的があるのだろう。 それは仮に牢主に“死ね”と命令されれば、即座に自害するほど厚い忠誠だった。 「――――――――」 逆らえない命令――――。 半壊した“《ステュクス》〈重層空間〉”の管理人――――。 “魂”を操る能力――――。 軟弱な肉塊に幽閉――――。 総力を上げての捜索――――。 「まさか……」 刹那の世界で駆け巡る思考。 「――繋がった」 なんてこと……。 これは、つまり――――そういうことで間違いない? 「ハテ……? 逃げているだけではダメだとわかりましたか?」 「一つだけ質問をさせて」 踏みとどまったわたしは“《サイレントキル》〈有無幻の凶夢〉”を手にフロムを見据えた。 わたしは今、恐ろしい想像に取り憑かれている。 “答え”は導き出せても“考え”を確かめる術は唯一つしかない。 「フロム――――貴方が牢主に抱いている感情を一言で表してみて」 「愛……」 赤らめた顔を蜂蜜のように蕩けさせて。 「肉体的消滅を与えて、魂を手元に置いておかねば気が違ってしまうほどの――純然たる愛でございます」 行き過ぎた恋心が熟成し切る頃、熱意は殺意へと変わる。 「愛なんて難しい概念、わたしはわかるフリはしないけど――貴方のが“愛”じゃないってことはわかる」 「わたしはストーカー紛いの連中に痛い目を見せてきたけど、彼らがわたしに抱いているのは“愛欲”だった」 「同じ臭いがするのよ」 「種族の差異、先天的繋がりの希薄さ、天秤のバランス、全てを超越した絶対的な絆が当方と牢主にはございます」 わたしの出した答えと、フロムの“愛欲”の矛先が完全に一致した。 フロムがわたしとトリトナを取り込み、肉体の自由を得るのは過程にすぎない。 真の狙いは――――別にある。 「《・・・・》〈蝉の一生〉、ご苦労様でございます」 フロムは勝利を確信し“闇”の領域を拡大させた。 「戦略的退却っていうのよね、こういうの」 わたしは手にした戦輪で足場に円状の傷をつける。 床に“闇”を侵食させると、自身を中心とした円が血しぶきをあげ、かぽっと音を立ててくり抜かれた。 「その方法は盲点でございました」 床が抜ける。床に乗ったまま落下していく。 落ちていく意識を現実世界に“戻る”ことと同列に意識し、集中する。 精神がモノを言う世界において出口は“創る”ものだ。 「トリトナ――――少しだけ待っていて」 「――――!!」 落下地点は、色のある現実世界だった。 五体満足で帰ってこられた事に安堵する。 「……ふふ…………今日の空気は現実味があるわね」 フロムに乗っ取られれば二度と吸えなくなる空気。 生きているとはどういうことかを実感する。 「水槽の脳なんて思い上がりも甚だしい……わたしが今、目にしてる全ては仮想現実なんかじゃない」 肉体を持たないフロムには、この世界で直接的にわたしを襲うことはできない。 それでも反射物を通して自分を覗けば、精神世界への扉は開く。 何らかの対策を立てない限り、次にあの空間にもどった時が“わたし”という人格の終焉になるだろう。 「とりあえず半目を開けて、反射した自分を見ても意識せずにすぐに別の場所を見るしかないか……」 問題が山積みだった。 しかし全ての問題が、本気で取り掛かろうと思える解決必須の大問題だった。 「“目的”なんてどこにだって転がってるのね……」 今になって気づいた。 自分を脅かす圧倒的な存在のおかげで。 自分で取るべき行動の一つ一つに重要性が発生して。 自分が真剣に生きようとしている。 わたしは模索していただけなのだろうか。 「……ふふ…………」 気を抜くと倒れそうになるほどの悪意が胸の内側から漏れ出している。 フロム――――わたしを追い詰め、現実感とは何かを教えてくれる筆頭人格。 「わたしを奪おうと喉を鳴らす化ケ物がこの中に潜んでる……」 “目的”なんてものを探していたのは、余裕綽々の表れだ。 数日前、偽物騒動の際に“炎”を操る男に会った事を思い出す。 彼はトリトナに『目的を失った生は無価値』と言ったらしいけど……。 違う――――“目的”は、生きていれば必ず発生する。 大事なのは、失った“目的”なんかじゃなくて、発生した“目的”に向かって全力疾走できるかどうかだ。 「携帯は――壊されたのね」 虹色の占い師がやったことだろうか。 いないことは幸いだったが、優真の隠れている場所に感づかれたのかもしれない。 「早く連絡して、別の場所に移ってもらわないとね……」 故意の事とは言え視界が狭すぎる為、支えを探す。 「っ……公衆電話……ツイてるわね」 壁に手をついて立ち上がり、設置型の公衆電話に近づく。 「番号は、確か…………」 優真に渡した携帯番号を打ち込み、出てくれることを祈る。 「もしもし? リノン?」 はっ……良かった。 「優真、わたしよ……そこは危険よ。虹色の占い師が向かってるわ」 「え? なるちゃんならちょうど戻ってきたとこだけど?」 「は!? 戻っ――――優真、貴方無事なの?」 「いや……それが……」 「ハッキリしないわね。少なくとも電話はさせてもらえる状況なんでしょう? 代わって」 「代わればいいの?」 「いいも何も、わたしが代わってって――――」 あれ……。 何か、違う――――この感じ、誘導されたような……。 「わかった、代わるよ」 学園の調査をした時に――――こんな場所に公衆電話があっただろうか? 「そっちが“《・・・》〈代わる〉”って言い出したんだからね」 自分が握っている物の感触が、すべすべとした受話器のそれではなくなる。 「木の枝……」 「――――で、ございますね」 「先物取引と同様、ハメられたとわかっても、時既に遅しが世の常」 「物の認識を錯覚させる程度の妨害は可能、と……。なるのほど、“《ディストピア》〈真世界〉”の肉体操作はややこしいでございますね」 「このようなやり口では、単に“言葉”だけの一時的な交代に過ぎません。なる早で行動を起こすと致しましょう」 「ふぅ……指名手配犯到着っと」 街全域に包囲網が張られていると言っていたけど、特別な苦労もなく無事にここまで来ることが出来た。 しかし夜の闇に紛れることで見つからなかった、などと簡単に片付けていい事なのだろうか。 ただの家なき子な俺よりも、“《アーカイブスクエア》〈AS〉”には優先すべき事ができたのかもしれない。きっとそうだ。 「優真……こっちよ」 「リノン。せっかく学園で会うなら制服姿が見たかったな」 「贅沢言わないで、わたしはそれどころじゃないのよ」 「そうみたいだね」 「……? 隣に来ていいってわたしが言ってるのに、どうして距離を取っているの?」 「校門に来るまでに猫が二匹いたんだ」 「いるでしょうね」 「死んでた」 「そう。飛び出して車に轢かれでもしたんじゃない?」 「別れるまえ、リノンは俺に言ったよね……“絶対にここから出るな”って」 「なのに俺を呼び出した。そうせざるを得ない状況にあったか――――あるいは、リノンの意志とは別の働きがあったか」 「言っている意味がわからないわね」 「この土壇場でわからないフリはしなくていいよ。猫を殺したのはキミだろう、別人格さん」 「…………やれやれ、でございます」 ようやく本性を表す気になったらしい。 「現代人は語源も存じない癖に『この土壇場で』などと知ったふうな口を叩きやがります」 「土壇場とは土を盛った壇の場――横たわるのは、斬刑執行を待つ罪人。転じて最後の決断を迫られる場面を意味するようになりました」 「ふーん。それが?」 「罪人の命は紙切れ同然。試し切りには持って来いでございます」 「ですが手頃な罪人がいらっしゃいませんでしたので、仕方なく下等生物を用いて肉体の感覚をつかんだのです」 「そっか。やっぱりキミが殺したんだね」 「……牢主の元へ飛んでいくのは簡単。しかしながら、こうして来て頂く方が乙女心が満たされるのでございます」 「牢主の安寧の地は、当方の腕の中だけにございます」 「まいったな……リノンの顔でアプローチ掛けられると、ホイホイ乗っちゃいそうになる」 「申し遅れました、当方はフロム――」 「リノンから聞いてるよ。数ある人格の最初の人格って言い張ってるんだってね」 「以後お見知りおきを――――といっても」 押し隠していたらしい圧倒的な殺気が爆発した。 「数秒の話でございますがねッ」 「“動くな”」 「――――!?」 即効性の“命令”でフロムの躰は鉛の枷をつけられたようにピタリと停止した。 懸命に動こうとするが、錆びついたコンベアのように微々たる移動しかできていない。 俺に近づこうと重苦しく一歩を踏み出そうとしたところで諦めた。 「なるのほど……“《ディストピア》〈真世界〉”での君命は絶対でございますか」 「どういう原理か知らないけどね、トリトナにも効いたからさ。対別人格用に取っておいた奥の手だよ」 「こんなものが最後の手段でございますか? とんだ残念系でございますね、アナタ」 従順な戌のように従うフロムから余裕の色が消えることはなかった。 「おっと、そのまま“動くな”」 達磨さんが転んだの要領でフロムの動きそのものを封じ続ける。 耳を塞いだり、自ら聴覚を狂わすといった、トリトナと同じ対策を取られれば命取りだ。 “命令”が効かなければ最後、俺はフロムの容赦無い一撃によって為す術もなく地に伏すことになる。 「早めに終わらせないと、匂いも味もキツくなるよ。夏は死体の腐蝕が進みやすいんだ」 「ハテ……? 死後の心配でございますか?」 「違くって、キミが過ちを犯すとリノンも同罪になっちゃうからさ」 「……ハテ?」 自分が何をしたのかわかっていないのか、もしくはもう忘れてしまうほどの鳥頭なのか。 「殺した猫は絶対に食べてもらうよ」 「食用ならいざ知らず、野良を食べろとは中々に酷。お腹ピーピーでございます」 「生物に上も下があっても、魂に上も下もないんだ」 「試し斬りだかなんだか知らないけど、奪ったんなら奪ったなりの扱いをするべきだろ?」 「キミが殺した猫が、まだ食料の域でとどまってるうちは、キミの罪も許容の間を彷徨っている最中なんだよ」 「キミが犯した過ちを、食べる為に殺したという“動機”を後付することで正当化してもらう」 「残さず食べたのなら、お咎めは無し。誰にも批判なんて、させない。魂を奪わずに生きている人なんて、いないんだからさ」 「なるのほど……牢主の器に相応しい死生観はお持ちでございましたか」 「職業柄、死に関しての取り扱いは長けてるから。ああ、いや、失職中の身なんだった」 「プロニートでございましたか、やれやれ、牢主ともあろうお方が生き恥を晒し上げでございます……」 「俺はリノン大ファンだから、身体にはなるべく傷をつけたくないんだ。どうやったら降参してくれるのかな?」 「“命令”をやめて頂ければすぐにでも降伏致しますが?」 「あはは、さすがに引っかからないから」 「フロムの放った殺気は感じ取れたよ。俺に酷い事しようとしたね。そういう趣味があるのかな?」 「趣味ではなく、生き甲斐。この想いは純然たる愛の結晶。滲み出る恋慕を受け止めて欲しいのでございますよ……」 「牢主……何故、7年もの間、当方を探してくださらなかったのですか……」 「……“動いちゃダメ”」 今の感覚はなんだ、と少し考えてすぐに思い至る。 俺はフロムが発する得体の知れない絡みつくような視線に本能的な恐怖を感じた。 何が狙いなのかは充分に伝わった――――フロムは俺を挽肉にしたいんだ。 「そうそう、リノン氏とトリトナ氏が表に出てくることは金輪際ございません」 「は?」 「肉体は当方が管理致しますから、両名は用済みでございます」 「仲良くしなきゃダメでしょ!」 「――――いやいや、まったく、ドストレートでございますね」 「当方がどうするべきかは、アナタの心臓に聞くことにしましょう」 先ほどと同じ視線。 うっとりとした、蜂蜜のように蕩けた瞳。 俺の中に何か別のものを見ているようだ。 ……こんな言い方は卑怯だけど、仕方ない。 「フロム、“リノンと代われ”」 「………………」 フロムは電池の切れた機械のように停止する。 効いた……のか? 「……優真?」 「あ――――リノン?」 声質。呼称。雰囲気までを総合して、リノンに違いなかった。 あっけなく交代が行われた事に驚きつつも、とりあえず安堵する。 「リノン、大丈夫だったか?」 「優真――――耐性って知ってる?」 「いきなりなにを言い出すんだよ」 「イキモノに標準装備された抵抗力。不利な環境条件などに対して抵抗力を身に付けること」 嫌な予感がした。 嫌な予感は予感だけですまない予感がした。 「驚くのも無理はないわね。本来、耐性は長期に渡って身につくか、遺伝されていくものだもの」 言われてみれば、初めて会った時から数十回以上に及ぶ“命令”は、徐々にその効力を失っているように思えた。 トリトナに“命令”した際も、有効時間は短かった。 「その点さすが“超最強”と言ったところでございます」 一杯食わされたというか、ほぼ自滅だ……! 「“動くな”」 「《・・》〈事後〉に申されましても……」 そもそもリノンにしか通じない“命令”の正体もわからないまま頼りすぎた俺が悪い。 投擲の体勢でフロムは硬直している。 “命令”は有効だが、回転する何かは手を離れていた。 「危――――」 反射で躱すが―――― 「ぅわっ!!」 変化球のように軌道を変えた飛行体が脇の下を通り抜けた。 1秒経って、痛みはなく、高速回転するミキサーに肉を放り込んだような乱暴な傷口を眺める。 2秒経って、痛みはなく、球状の血がいくつも湧き上がり、ああコレはとんでもなく痛いぞという認識が追いつく。 「ぐあッッッッッ!!!」 3秒経って、腰から太腿に掛けての出血と共に、遅れてやってきた激痛が一斉に大騒ぎを始めた。 「永かった待機の刻は完全な終わりを迎えたのでございます」 高速回転する飛行体は意思を持っているかのようにフロムの手元へもどっていった。 「それがリノンの……キミ達が共通で持っている“《アーティファクト》〈幻装〉”か」 限界まで製錬された刀剣のような切れ味は、素人目でもひっしりと伝わってきた。 投げて良し、斬って良しの戦輪――俺の細い胴など容易く切り裂き、上半身と下半身に解体できるシロモノだ。 「外見から判断はつかないと思いますが、当方の腹わたは煮えくり返ってアク取りに一苦労でございます」 「右も左もわからぬままに牢主に成り代わり利用した。コレが侮辱でなく何でございましょう?」 「安楽死を与えられると思いやがるなでございますよ」 殺意を投げられるだけで傷口が広がるようだった。 ようだった――――ではない。 傷口を凝視するとそこに“闇”が棲んでいた。 「血が……固まらない……? 流れ続ける……これは、もしかして、そういうことなのか……?」 「当方は“闇”を司るケルベロスの化身。その傷はほんの挨拶代わりでございます」 “ゾッ”とすらできないほど桁違いだった。 俺も力を使えば対等に戦えるなんて、毛ほども思わせてくれなかった。 「はは、俺は空気を吸ってるだけで、キミの逆鱗に触れるのかな……」 「力を使えばよろしいのでは? それにより当方はさらなる屈辱の炎に焼かれ、益々仕返しに気持ちがこもるのでございます」 「んー、ムリ……かなぁ」 フロムから滲み出る驚異的なパワーは、戦略云々で片付けられるほど甘い“差”ではない。 「闘うという選択肢を愚かと捉えさせてしまったのは、当方の失態でございますね……」 「べつに、それ自体はいいんだ。俺はキミを傷つけたいわけじゃないから、戦おうなんて思ってないよ」 勝ちの条件は、フロムから殺意を奪い、リノンとトリトナを自由にさせ、殺した猫を食べてもらうこと。 戦わなきゃならない理由はどこにもない。 「では、牢主。九想図の制作に取り掛からせて頂きます」 「脹相、壊相、血塗相、膿爛相、青病相、たん相、散相、骨相、焼相のフルコースをご堪能あれのグロ注意」 「………………」 “命令”の効き目が薄れた今、リノンの躰を傷つけずにできることは限られている。 「俺は水瀬優真として個人的な付き合いをしてきたけどさ……」 「そういうんじゃなくっても、単純に、輝くキミをずっと追いかけてきた熱狂的大ファンだから……」 「そのファンに“損”をさせたら、まずいんじゃないか?」 「“リノン”は自分を選んでくれたセンスを、言葉以外で肯定してくれるんだろ?」 「…………? もしや、当方ではなくリノン氏に訴えておりますか?」 「リノン――――ッ!」 「無駄でございますよ。リノン氏は当方の中でぐーすかぴーでございます」 「“超最強”がいいようにされて、こんな状況でおもしろいのか――――ッ!!」 ただただ、呼びかけること。 自分を取り戻してもらう為に、声の限りを尽くすこと。 「リノンッ、リノンッ! 聞こえているなら“《へんしん》〈Re〉:”しろよッ!! あんまりファンを――――舐めるなッ!!」 応援や叱咤といった声掛けとは似て異なる行動。 「あまりに稚拙で原始的な行動に落胆でございます……いくら声を張り上げたところで、精神世界に響くわけがございません」 「さぁどうかな……」 「俺の“命令”はフロムとトリトナには効き目が薄いみたいだったけど……《・・・・・》〈リノンには〉どうかな?」 「…………なるほど」 フロムの細めた瞳は、俺の行為が無駄ではない事を物語っていた。 「朗報でございます。アナタの悪あがきは確かに実を結びました」 「よしっ、なんとかなった!」 「凶報でございます。当方が責任を持って、実を摘み取って参ります」 「いやいや、摘んじゃったら訃報だよ」 此処から先は、俺には手出しができない。 リノンが自分で解決する問題だ。 「精神世界での時間経過は現実世界の数分の一……とはいえ、当方が現実世界から身を引けば無人の時間は棒立ちでございます」 「となれば――――」 「また来たっ」 同じ手は食わないという言葉を簡単に当て嵌まることはできない。 ボクサーの左ジャブがわかっていても避けられないのと同じく、認識した時には既に眼前に迫っている。 制服が破れるだけで済んだのが偶然であることくらいわかる。 そして偶然は何度も続いたりしない。 「牢主の開放が優先でしたが、この際でございます。リノン氏の吸収も同時に行うとしましょう」 「――――――――」 次の瞬間、フロムの瞳から色が失われ、死んだ魚のように無感動なものになった。 そのまま瞼をゆっくりと閉じ、立ったまま動かなくなる。 「鏡でやり取りしてた脳内空間とやらでリノンをどうにかする気か」 ひとまず俺はフロムの残し形見に集中しなくてはならない。 仮に避け続けていても、“闇”の侵蝕で疲弊していくだけだ。 精神世界からの遠隔操作か、はたまた自動追尾なのか、俺は踊るだけの能なしと化す。 「なるちゃんがいれば、癒えるのも早いのかな……」 宙を駆ける戦輪に踊らされながら浮かぶのは、家族の顔。 「死んでたまるか……」 なると今日子さんを残して、この世は去れない。 ココロの抱える問題を解消したい。 リノンの答え探しが無事に終わって欲しい。 「生きてるうちは、死んでたまるか」 ズボンのポケットに手を当てる。 ある。確かな手応え。 全てが解決した時のご褒美。 結衣の映った……写真……。 無限に旋回する“《アーティファクト》〈幻装〉”を躱し続けるのは不可能だ。 「リノンが答えを出して戻ってくるまで防ぎきるだけの簡単な仕事だっ」 俺は“覚悟”を胸から抜いた。 リノン――――       リノン――――             リノン―――― 誰かがわたしを呼んでいる。 Re:non――――       Re:non――――             Re:non―――― Re:non。繋げて読めば、“非返信”。 そんな皮肉混じりの名前を付けてくれたのは、わたしの理解者であり“わたし”であるトリトナだった。 “《リノン》〈非返信〉”という名前はトリトナからわたしへのメッセージだったのだろうか。 純粋な存在価値が1/2ではなく、1/3であると知った上で考えれば悪くないネーミングセンスだ。 「うっ……」 何かが身体を包み、ぞわぞわとおぞましく這っていた。 経験はないが、大量のミミズで満たされた浴槽に放り込まれたら、きっとこんな感じだろう。 闇色物質――――取り込まれている!? 「アナタや当方の操る“闇”が、一般的な“光と闇”で知られる概念とは異なるのは理解しておりますか?」 「フロム……っ!!」 「“闇”は“《イデア》〈幻ビト〉”の魂を預かる“《ステュクス》〈重層空間”に生まれる“《ヤミ》〈穢れ”」 「“魂”を預かる牢主の発する“《ヒカリ》〈希望〉”から垢のように剥がれ落ちた価値のない欠片」 「このエネルギーを“《アーティファクト》〈幻装〉”に収束し、変換する力こそ“《ステュクス》〈重層空間”の番犬たるケルベロスの本領でございます〉」 わたしが蛇のように丸呑みにされて身動き一つ取れないのを良い事に、ペラペラとよく喋る。 「慢性毒を利用した殺人同様、ジワ増しでゆっくり確実に仕留めましょう」 「くぅ……」 優真はトリトナに『わたしに関わるな』と言われたらしい。 それはフロム覚醒を予期し、その手助けとなる存在を遠ざけたかったからだろう。 逆にわたしは優真に関われと言われた。 あの時点でトリトナはフロムに吸収されていたと考えるべきだろう。 フロムの筋書き通り、順調に進行中というわけだ。 「リノン氏……まさしくアナタは“水槽の脳”でございました」 「当方に吸収される為だけに生まれた餌。憐れな人格」 「“《ディストピア》〈真世界〉”でお見せ頂いた八面六臂の大活躍を認めつつも、傀儡は傀儡。それ以上でも以下でもございません」 「わかってるってば……」 「わたしはサブのサブ。脇役。ハプニングの一つもなければ、わたしにスポットがあたってないことは、わかってる」 「アナタは無価値でございます」 “闇”の侵蝕が始まったのか、思考が蕩けていく。 フロムの言葉がやけに甘美に響く。 何もかもをやめて従ってしまえばどんなに楽だろう。 声がした。 わたしを気づかせたものと同じ声。 徐々に音量を上げて語りかけてくる。 「リノン」 白い景色の外から届いてくる。 開かない扉でも構わずこじ開けるような図々しさで。 潔いくらいに真っ直ぐに。 「リノンッ!!」 裏返りそうな声で。 必死な顔が浮かぶほどに。 躊躇いなく一直線に。 「リノンッ!!!」 こみ上げる想いのままに。 何度も何度も何度も、その名を呼ぶ。 闇雲と一途さを取り違えたように――――叫ぶ。 「眠るなら、俺の膝の上で眠れよッ!」 彼にとってのアイドルは“リノン”ただ一人。 否、彼にとってだけじゃない。 大勢の人間を湧かせ、虜にし、生活の軸に据えさせる絶大な影響力を持つ大アイドルは――――“《わたし》〈リノン〉”でなければならない。 「アナタの心が手に取るようにわかります。そしてその考えは、不必要でございます」 「何故なら当方は、“《クレアトル》〈現ビト〉”の幸福に一片の興味も持ち合わせていない」 もう……わたしを惑わす声は届かない。 絶対に出てくるなって念を押したのに動きまわる馬鹿の言葉が、深い部分にこびりついて離れないから。 「そっかそっか」 “目的”にばかり頭がいっていたわたしを、気づかせてくれた。 “わたし”に現実感が乏しかったように。 “わたし”なしの現実が辛いものでしかない人がいる。 わたしが業界の“頂点”であり続ける――――ただそれだけで、世界中に幸福をばら撒いてる。 自意識過剰ではない――わたしは、存在していなくてはならない。 「貴方に痛い目を見てもらって、トリトナにビンタして、優真に膝枕させてやるわ」 「今なら――――“夢”が見れそうな気がするから」 「……叶わない“目的”は、蛆虫の片思いに等しい愚行でございます」 そう。叶える力がなければ、それは“願望”の停滞だ。 でも。叶える力さえあれば、それは“確約”の未来だ。 「この状況下で爛々と輝く瞳……グッドでございます。灯った光を再び奪うのが“闇”の使い手の真骨頂」 どろり、粘着質に絡む“闇”はフロムの愛欲の濃度を表しているようだった。 フロムは本格的にわたしを消化するつもりのようだ。 「ところでフロム……」 「貴方に創り出せるていどの“闇”を、わたしの“闇”が喰らえないなんて、誰がいつ決めた?」 暴れ馬のように胸がバウンドする。 “《アーティファクト》〈幻装〉”を取り出さずに仕舞ったまま中で抜く――――するとどうなるか? 「自らを傷つけ、“闇”の外殻で当方の“闇”を喰う……つまるところ、力比べでございますね」 “《アーティファクト》〈幻装〉”はこういう使い方もできる。 剥き身の武器が“わたし自身”を傷つけることで生じた“闇”の軍勢は、食欲旺盛に襲いかかった。 「網に掛かり捕食を待つ者の行動が、必ずしも無駄な抵抗じゃないって証明してあげる」 “闇”が“闇”に手を出せば、それは立派な《カニバリズム》〈同種喰い〉だ。 “《わたし》〈リノン〉”と“《わたし》〈フロム”という異質過ぎるカードでしか成立しない――此処でしか成立し〉ない攻防。 同じ量、同じ性質の《せめ》〈鬩〉ぎ合いならば、勝敗を決めるのが気質と気合以外に、何がある。 「喰らえ喰らえ喰らえ喰らえ、目に映るありったけのレプリカを――――噛み砕くのよっ!」 「短期間でのメンタル向上、驚きを通り越してドン引きでございます」 「べつに。一皮か二皮、剥けたんじゃないかしら? 健全な意味で」 精神力が物を言う空間においては、理屈も、理由もいらず、ただ至るだけの“動機”さえあれば、刹那的強さが赦される。 「しかし当方より優れているかは、別の話でございます」 「この空間は肉体の《ブレイン》〈司令塔〉。言わば、生命維持装置のようなものよね?」 「感覚でわかるのでは? 人格の待合室であり制御室。この場を制する者が、支配権を得るのでございます」 「トリトナと最初に会った時に説明を受けたけど、あの頃はなんだかよくわからなかったわ」 床を軽く引きずっただけで戦輪の刃先が闇色の線を描いた。 溶けかけのシャーベットにフォークを入れるのと同じ、何の力もいらずに傷つけることができる。 「意外と脆いわよね。さっきも簡単に穴が空いたし、侵蝕もされやすい」 外からの攻撃には強固であるべきだが、内側がそうあるべき必然性はない。 わたしのような、変わり者の反逆人格がいなければの話だけど。 「ねぇフロム――――貴方が思うより、わたしは悪い女なのかもよ?」 老若男女問わず惑わす、小悪魔的な流し目。 わたしに魅了されないものなどいない。 なぜならわたしは、自他共に認める“超最強”。 “超最強”を相手に余裕綽々で座っていることが何を招くか、フロムはわかっていない。 「待――――ッ!」 遅い。 「困れ」 彼方まで飛ばす勢いで投げた“《アーティファクト》〈幻装〉”は、真っ白な天蓋に突き刺さった。 刺さりながらも回転力は失われず、雪に飲まれたタイヤのように空回りする。 ゆるゆると白い溝に漆黒の闇が流れ込み、侵蝕を開始した。 「………………」 「大丈夫? 顔色が悪いわよ?」 この白い“箱”そのものを修復不可能なレベルの侵蝕で壊すという、自殺行為。 さめざめと仰ぎ見る姿が見られただけでも、やったかいがあった。 「精神空間に多大な影響を与えれば、本体の制御が利かなくなることくらい、感覚でわかりやがれでございますよ」 「わかっててやったことくらい、わかりやがれでございますよ」 「――この性悪オワコンアイドル」 「あらありがとう。アンチの数は人気と比例するのよ」 「もちろんアンチも、時間とともにわたしに魅了されていくんだけどね」 精神力が物を言う世界で、劣等感は即ち敗北を意味する。 トリトナの事で頭が埋まれば、わたしはそれだけで精神的に追い詰められ、冷静な判断ができない。 フロムも同じ――肉体への執着がある以上、肉体制御を効かなくすれば心配事が出来、早期決着をつけようと焦る。 つまりこの戦いは“自分”との戦いだ。 「外の世界の肉体が制御を失えば、牢主は高確率で“無意識”に殺される……」 「当方の手で殺めることが、できないではございませんか……っ!!」 身を千切られるような切実な愛欲にフロムが吼えた。 「心配しなくても、外で騒いでる“ポジティブ”はこのていどじゃ死なないわよ」 「あいつの抱える妄想地味た夢の前には、わたしたちという障害はあまりにも小さい」 「――――っていうか、死んでも“死んだ”って認めないレベルのポジティブだから」 「リノン氏……アナタは当方を怒らせすぎたでございます」 「当方に思惑の再構築を強いていいお方は、牢主だけでございますよ……!」 「細かいことはいいからかかってきなさいよ」 「此処は共有地よ? 何も気にすることなんてない、存分に脅かし合い、存分に困らせ合おうじゃない」 「フロム、わたしは今、貴方の脅威でありたいの。貴方と険悪でありたいの。貴方に全力でありたいの」 「閉鎖された精神空間。いるのは精々、わたしとトリトナと貴方の3人」 「誰知ることなく、誰見ることない、こじんまりした世界で、最高で最悪の自己解決を始めましょう」 言い終わると同時、充分に侵蝕を終えた“《アーティファクト》〈幻装〉”が手元に帰ってきた。 「闇さんこちら、手の鳴る方へ」 「なる早で終わらせ、牢主をこの手で看取ることに尽力致します」 決着を見据えないぶつかり合いは、いたってシンプルだ。 潰す――――とりあえず、視界に映る限り。 「らぁあああああああッ!!」 八ツ又の鉄剣を抜き放ち、弧を描き追跡する戦輪を弾き返す。 時間にしてみれば一瞬の交差だった。 拳を握り、手に残る痺れをやりすごしながら、訪れた静寂の景色を注意深く睨む。 「え……?」 回転する円盤が跡形もなく霧散していく。 壊す気で弾いたとはいえ、執拗に自動攻撃を繰り返していた“《アーティファクト》〈幻装〉”が消えることに疑問が強く残った。 「リノン……?」 恐らく誰の意志も介入されていなかったであろうリノンの肉体は、抜け殻のように立っている。 その身体が蜃気楼のようにぼやけ、輪郭を失った。 代わりに用意されたのは、壁の如き巨大な黒曜石。 否――一点だけ、光沢を放つルビー似た宝石が埋め込まれている。 「も……しかして……」 声が震える。人間は動物だ。 動物に平等に与えられた生存本能が危険を察した。 だから震えた。ぶるぶる震えた。 黒耀色の異形。 一応の形状が四足に三ツ首の化ケ物とかろうじてわかるが、見ている側からほろほろと崩れ、揺らいでいく。 不定形ながらに、見る者が持つ創造力によって補足され、化ケ物としての形状を維持している。 形が変わることを変形というなら、コレは変形ではなく変質だ。 「変わったのではなく、もどった……? “《ユートピア》〈幻創界〉”での……元々の形状に……?」 人間は武器になる牙も角も無ければ、身を守る皮膚さえも薄い。 そんな心細い体躯だが、お釣りが来るほどの“知性”を持っている。 しかし――――恐れ慄いた人間が怪物と定めた異形を前に“知性”などゴミ屑同然に思えた。 唸るような巨大な咆哮に空気が振動し、瞬間、校舎はたわんだように映る。 純粋に力を求めた結果、歪になったであろう凶猛な《あぎと》〈顎〉を裂けんばかりに開いた。 「うわぁああぁぁあああぁぁぁああ!!」 消化液を撒き散らし迫る三ツ首の牙は、少なくとも俺には剣豪が放つ袈裟斬りを軽く凌駕する恐怖だった。 「ばっかっ、死ぬってそれはさすがにっ!」 圧倒的な暴虐を前に頭が回らない。 1秒に満たないうちに、巨躯に似合わぬ敏捷さで回り込まれる。 そのスピードはリノン以上――――。 慌てて体勢を立て直すが、あれだけの存在感を示していた三ツ首が嘘のように消えていた。 「――――ッ!?」 ハッとして、気づく。 下――――唸り声。地面すれすれを擦る三ツ首。 バネのようにしなり、俺の鳩尾を跳ね上げるまでの速度はまさに、神速の域。 「――――――――――――ッッッ!!」 こみ上げる吐き気に身を任せると、血反吐が廊下に散った。 鮮血に染まる…………“廊下”……? 「……はぁ…………はぁ……?」 優先されるべき痛覚を差し置いて、不可解な景色にただただ困惑するばかり。 追いつかない思考を纏めるために、散らばったガラス片を握る。 手には赤。血。割れた窓。 「ああ――――そっか」 ぶちかましを食らい、人型ロケットとなって硝子を突き破って廊下の壁に激突した……? 校門からここまで、一体、何メートルあると思っているのだろう。 「こんなショートカットコース、あったのか……すっげぇ……」 持っていた八ツ又の鉄剣は手元にない。 校門に置きっぱなしか、ぶちかまされた際に消失したか……。 「(さすがに傷を負いすぎたかな……血が止まらないのは、まずいか……)」 とりあえず……笑おう。 気分を変えるにはポジティブが一番だ。 だがポジティブの維持を脅かすように一階から地響きが聞こえてくる。 あらゆる障害を薙ぎ倒しながら対象を追いかけてきている音だ。 「戦闘機に狙われるよりタチが悪そうだなぁ……」 とりあえず上に逃げて、トイレや空き部屋に隠れるのがいいか。 思い立ち、三段飛ばしで上の階へ駆け上がる。 「なっ」 突然の揺れに足場を見――――瞬間、床が割れた。 特大の穴から飛び出し、着地する。 黒耀色の獣は慌てず騒がす天井を突き破って上の階へやってきた。 「そりゃそうだ……廊下も階段も、人間が人間用につくった移動手段でしかないもんな……」 目の前の異形のやることが非常識なのではない。 邪魔な壁を突き破ることは、最速で獲物に近づくための合理的な手段にすぎない。 目が合うより速く脚を動かしたのは、本能的な反射だった。 行動を“迷う”事が、現状においていかに贅沢であるかを瞬時に悟った。 距離という最も大きなアドバンテージを稼いだつもりだったが、とんだ勘違いだった。 校舎倒壊の危険すら漂う、ルール無用の鬼ごっこ。 だが、終わりはすぐにやってくる。 空を飛べない人間は、地面がなければ行き止まり。 「どうしたもんかな……」 屋上の扉を蹴散らしてやってきた黒耀色の影が、勢いそのままに地を蹴った。 「待った無し、だよね……!」 百獣の王の如く飛び掛る巨躯の真下を滑るように躱す。 鉤爪を象った“闇”の結晶――――直撃すれば、言うまでもなく死が待っている。 「こっから落ちたら……なるちゃんに回復してもらう間もなく即、あの世行きだなぁ」 後退するにも場所的な限界がある。 フェンスを背にジリジリと追い詰められ、逃げ場を失っていく。 ヘタに動こうものなら、鉤爪による一撃を喰らってしまう。 「(リノン……俺の声は届いたんだよな? リノンはリノンで、戦っているんだよな?)」 ダメだ……他力本願じゃ。 「(どうする――――どうすればいい――――)」 ……やれることは全部やろう。 この姿になってしまったリノンにも“命令”が効くのか、確かめるのは損じゃない。 「“襲うのをやめ――――」 取り返しのつかない、深刻な情況に陥ったということを理解する。 熱いおしぼりを首に巻きつけている感覚――――実際には絡みつく消化液が俺を溶かしているのかもしれない。 「(既に見切られていた……俺の行動なんか筒抜けだったのか……)」 「(声が出ない……命令どころじゃないし、“力”を出すこともできない)」 不思議な感じだ。 意識と視界ぼやけていくのに対して、流れ出る血の激しさ、弱まっていく心臓の鼓動、呼吸音は鮮明に感じ取れる。 「う……が…………」 生きてるうちは、諦めてはならない。 あらゆるイキモノは死を覚悟はしても、諦めない。 最後まで足掻きつづけないのは、知性を持ちすぎた人間ならではの愚行だ。 「(力が……)」 悔しい……ここで終わってしまいたくない……。 と――――気づく。 このまま骨肉ごと喰いちぎればいいものの、何故か凶猛な《あぎと》〈顎〉はピクリともしなかった。 その“間”が何を意味するのかはわからない。 戸惑いの類と想うのはあまりにも都合がいい話だが、今は理由はなんでもよかった。 「っ……ぁ……ぁ……」 降って湧いた好機を物にしないと……。 「ぃ……ぉ……ん……」 “命令”さえできれば……。 リノン達を―――――――― 救う―――――――― こと―――――――――――― ―――――――――――――――――救うッ!!! 「や……“やめろ”……ッ!」 何とか、その一言だけは、口にすることができた。 「やるわね、でもわたしの方が強い」 「いいえ、当方が押しております」 命掛けの“侵蝕”合戦の末、お互いの気力が摩耗してきた。 わたしは思うところがあって距離を取っていた。 ある時期から、外から聞こえて来た優真の声がプツりと止んだ。 わたしが集中していたから聴こえなかったのか……。 それとも……。 「ねぇ、仮にどの人格も操らない“無意識”の肉体に優真が“命令”をしたら、それは通じるの?」 「“無意識”に意識があるとお思いでございますか?」 首を傾げるフロムを見ると不安に駆られた。 「訂正致しますと、あれは“命令”ではなく“君命”にございます。“《ステュクス》〈重層空間〉”で当方と交わした盟約の一種でございます」 「……優真」 予想以上にフロムとのやり取りは長引いていた。 わたしは優真なら、外の世界でどんな状況にあってもやり切れると信じていた。 しかし、もしかしたら優真は、もう……。 「今頃、自らの行いを悔いているのでございますか?」 「…………」 「当方が思うに――――アナタは、あの“器”の人格に惹かれているのではなく、牢主の存在に惹かれているのでございますよ」 「は? だったら、なんだってのよ」 「なんでも」 意味のないはずの会話が、何故かわたしを考えさせた。 数日前から胸に広がっていた、この感情。 優真への特別視。 それが“わたし”個人に由来しない、忠誠心だとしたら。 この気持ちが、優真という一個人に対する感情であると証明することができないことになる。 「……切っ掛けは僅かでいい」 そんなどうでもいい事を考えたせいで―――― 「精神世界では、その“少し”の油断が命取り」 否――《・・・・・・・》〈考えさせられた〉せいで、精神力の均衡が崩れた。 「蝉の一生、摘み取らせて頂きます」 フロムから噴きだした無数の“闇”が槍状を成して降り注いだ。 鋭い――点のような先端が刺されば傷口から侵蝕と吸収が行われるだろう。 現実世界でも同じことが言えるが、いくらわたしの移動速度が音速の域であっても、豪雨の中、一滴も濡れずにいるのは不可能。 故に、仰ぎ見た“黒一色”の光景は不可避であり、“《アーティファクト》〈幻装〉”を傘にして防ぐというのは妥当な判断だった。 「(重いッ、それにこの量――――)」 とてもじゃないが防ぎきれない。 露出した肩や膝下に傷が増える。傷口は侵蝕され、濁った血がゆるやかに流れでた。 「当方、宣言致します。攻守交代ないまま持久戦に持ち込む心持ちでございます」 「シンプルだけど、理に適ってるわね……」 フロムは安全な場所で攻撃をし続け、わたしは防御に徹し続ける。 「この光景はさながら“大富豪”でございますね」 「言い得て妙ね」 トリトナがネットで遊んでいたのでも覗き見したのだろう。 大富豪――そのトランプゲームは、スタート時は平等にできている。 しかし一度、“大富豪”“大貧民”が決まってしまえば、気の遠くなるほどの戦力差が発生する。 常に有利に人を見下ろしたい人間が考案した、人間らしいゲームだ。 「この世界での争いは、一度でも優勢、劣勢が決定すれば、覆すのは至難でございますよ」 覆せない上に、コンティニューの制度もない。 しかし、たった一つだけ、フロムには見落としがあるように思えた。 「ぼろぼろに朽ち果てたアナタを取り込むのは簡単でございます」 「くっ――――くぅぅ……!!」 今は耐える時だ。 わたしの身が危険になり、負けが濃厚になるほど、黙っちゃいないはずだった。 「もうそろそろ心が折れてもいいでしょう。“闇”に飲まれろでございます」 「ぐっ――――っ――――ッッッ!!」 膝は折れ、ずるりと躰が崩れかける直前で踏ん張る。 「貴方にとって自分以外の人格は、自分を引き立たせるケチな装置か何かだと想っているのでしょうけど……」 「あまりわたしたちを侮らない方がいいわ……」 「いえ、感謝はしておりますよ。純粋に、当方に捧げるための命なわけでございますから」 負け惜しみに聞こえたのだろう、ノイズ混じりでもフロムの愉快な顔が想像できる。 しかしすぐに表情に渋みが増すだろう――――。 「……ハテ? わたし……《・・》〈たち〉とおっしゃいましたか?」 「それのどこが変なの?」 フロムに会話を整理するような間が入ったが、それこそが狙いだと判断したのか、再び“闇”の槍を降らせようと構えた。 「無駄話はここまででございます《・・》〈だぜ〉」 「遅いのよ……」 こうでもしなきゃ、出てこないんだ。 「……ハテ? コレは、一体……どういうこと……なんだぜ?」 戸惑うフロムの語尾に不釣合いな“ぜ”がついた。 「トリトナと貴方の人格が生まれたのは同時だったのよね?」 「所有権争いで勝ち残った貴方が主人格となり、トリトナはわたしが想像もできない長い年月の間、副人格として外に出してもらえなかった」 「わたしはトリトナになら、この躰を譲ってもいいと言ったわ。いいえ、実際に譲った……相手に求めるなら、まずは自分からなの」 「肉体を共有するにはね、信頼関係が必要なのよ。お互いに譲り合う気持ちがあって、初めて成立するの」 「な、身体の自由が……く……これは……トリトナ氏……ッ!」 「《トリトナル》〈To:ri〉tonal――――混合爆薬。名は体を表すわね」 「あんな爆薬みたいな凶暴な毒の塊を飲み込んどいて、まさか腹を下さないとでも思った?」 信じられない、といった顔のフロムに汗が伝った。 何かを言おうと口を開くが―――― 「ま、そういうこったぜ」 「“混ぜるな危険”の私様を消化しようだなんて、命知らずにもほどがあるぜ?」 出てくるのは、明確な意志を持ったトリトナの声。 今、フロムの中にはフロムとトリトナの人格が水と油のように分離し、五分五分で存在していた。 「……“大富豪”に掛けて、革命のつもりでございますか?」 「形勢逆転という意味では、あながち間違ってはいないわね」 「……当方の身体は、あくまで当方の意志で動く……」 わたしはわかった。 ハンデを背負ったフロムが弱々しく見えるのではなく、トリトナがいる心強さが、わたしにそう見せているのだと。 「トリトナっていう子の図太さはね、非常識の先をいく。“超最強”のわたしだから抑えられる“超最狂”なの」 「その上、わたしまで飲み込もうって、本気でそんなことができる?」 「この個性的な二人を飲み込んで、貴方は果たして正気でいられるかしら」 「黙りやがれでございますッ!!」 “闇”の槍雨は明後日の方向に飛んでいった。 トリトナが中から妨害しているのか、フロムの精神力が著しく下がったからかはわからない。 「こんな事が……あるはずが……ないでございます……」 ただ、フロムはもう、ダメだった。それはわかった。 今の一撃が制御できない自分自身に対する絶望は、精神世界において如実に表れてしまう。 「…………外が心配ね」 「終わらせましょうか、フロム」 “《アーティファクト》〈幻装〉”を眼前に突き出す。 喉元を切り裂いて傷口を侵蝕すればフロムは消えるだろう。 「トリトナ氏の人格を抱えている以上、当方を消せば同時に消えるのはおわかりでございますか?」 「苦し紛れね」 「……嘘だと思うなら、ご自由に」 「…………なによ、それ」 「おおっと、リの字の困り顔なんてレア中のレアなんだぜ」 「トリトナ?」 フロムは暴れることもなく妙に素直に引き下がった。 その潔い判断が、かえって先ほどの言葉の信ぴょう性を高めた。 「今の……本当なの?」 「ったく、生きてるうちに人質にされるような状況に巡り合えるとは思わなかったぜ」 「気にしないで私様ごと殺せよ、こういう役回りは柄じゃない」 「そんなこと、できるわけないでしょう。他に方法はないの?」 「いくら私様とはいえ、コイツん中で意識を保つのは楽じゃねぇわけよ」 「かといって完全に消化されちまったらアウト。さすがの“超最強”でも歯が立たないだろうぜ」 「かっこ良く死なせてくれよ。この未練タラタラの筆頭人格様を道連れによぉ」 「そんな……」 そんな選択を急に迫られても困る……。 フロムの脅威から解放される為に、《トリトナ》〈友人〉を犠牲にするなんてこと……。 「二者択一なんて特別なことじゃねぇ。程度の差こそあれ、生きてれば経験していく」 「早く終わらせないと、外の世界で優の字が死ぬ。そのあとで私様が救われたとしても――――一生恨むぜ」 「トリトナ……」 2人の人格を消滅させて“無自覚”である外の肉体を制御しなくては、優真が危ない。 1つの肉体に3つの人格があれば、いつか自分が消えてしまう 「じゃあなリノン――――世界一、愛してたぜ」 「さようならトリトナ――――わたしもよ」 深呼吸をした。 もう一度した。 徐々に、徐々に、終わらせる気持ちが高まってきた。 「ぁ゛ァ゛あ゛ぁぁぁあ゛ぁぁぁ――――――ッ!!」 雄叫びを爆発させ、“《アーティファクト》〈幻装〉”を握り締めた。 「いいんだ。別に」 外からぼんやりと響いてきた声に――――手が止まった。 「自分が辛いのなんて。自分が痛いのなんて。慣れっこだし。そういうのは、全然いいんだ」 声の質でわかる。 「だけど、俺が死ぬと……悲しんで泣いちゃう人が、少なからずいるんだよ……」 恐らく、絶体絶命にあるだろう時に、優真は――――相変わらず、へっちゃらに笑っている。 「こんな俺に関わってくれた優しい人たちにだけは、嫌な思いをしてほしくないんだ」 誰かを無償で想う気持ちの表れ。 「だから……“やめてくれ”」 通じもしない命令に、一縷の望みを託す姿は、トリトナと同じ。 「リノン達の誰が欠けてもきっとダメなんだ」 「人格がいくつあったって関係ない……姉妹のように仲良くすればいいじゃないか」 達――――それが、どこからどこまでを指しているのかわかった時、わたしの取るべき行動は決まった。 「こんな声を聴いてんじゃねーリノン、さっさと私様を、殺せぇぇぇぇぇぇッッッ!!」 真性の甘ったれが2人もいるなら――わたしも染まれば3人だ。 「フロム……わたしに対して“蝉の一生”といったの覚えてる?」 「……泡沫の存在ではありませんか。的を射た皮肉でございましょう?」 そう。わたしも、言葉通り、お得意の侮辱だと思った。 だけど今、優真とトリトナの優しさを受けて、思い直した。 「蝉は短命――――と勘違いされているけど、実際は長寿の昆虫よね」 「6年以上も土の中でひっそりと暮らしておきながら――陽の光を浴びて僅か一週間で息絶えてしまう」 「――――っ!?」 フロムが驚愕したのは、わたしが“《アーティファクト》〈幻装〉”を仕舞ったからだけではない。 握手でも求めるように無防備に伸ばした手が、彼女の思考を完全にショートさせた。 「貴方は、魂の入れ物を7年保持したわたしに敬意を払ったんじゃない?」 「…………」 「不器用な貴方なりの、称賛だったんでしょ?」 「……何を馬鹿な事を」 「わたしはわたしで、誰よりも“目的”に一途な貴方の姿に、憧れに近い感情を抱いたの」 「いくら力が弱まったとはいえ、この距離で吸収できないとでも?」 「トリトナみたいないい奴と、わたしみたいな“超最強”が生まれたのって――――筆頭の貴方のおかげよね」 「――――は?」 「違うかしら? “超元凶”……いいえ、“超最凶”にしましょうか」 「………………」 フロムは肯定も否定も攻撃も防御もしなかった。 「この反応が、いい証拠じゃない。あいつの大演説を聞いて、わたしに心情を言い当てられて、何も言えないんでしょ?」 「当方は……牢主の愛を、単身で受け止めたい……“器”から解放し、永遠にお側にいたい……ただそれだけでございます」 「託してみる気にはなれない? この“超最強”に」 「アナタ如きの話に踊らされて、当方が仲良しごっこをするとでも?」 「いいえ。聡明な貴方が手を組む確率は1%もないと思ってる」 「そんなことを度外視で、わたしは、フロムが欲しいのよ」 「何故でございますか……?」 「惚れたのが5割。もう半分は――――フロムという危険因子が欲しいから」 「危険……を欲する?」 「戦ってみて、わかったのよ。貴方の凄さが。それに、トリトナの激しさも、再確認したわ」 「常に付き纏う危機感こそ、生きていると実感するために最も必要なものだった」 「“わたし”の目的は、わたしを脅かせる存在を手に入れること……つまりフロム、貴方だったの」 「……言葉巧みでございますが、早い話が、トリトナ氏ごと当方を吸収するのが目的でございますね」 「そう。貴方のしようとしたことを、わたしがするだけ」 「だけど貴方たちのことだから――――わたしで満足できなかったら、好き勝手に乗っ取ろうとするんでしょ?」 結局、今のフロムと同じ。 そう簡単に消化できるような存在ではない。 「出たくなったら、無条件に表に出てきていい。お互いがお互いを消化しないていどに、それを繰り返す」 「条件付き統合……と言った感じでございますか」 「まぁわたしの中にいるのが飽きたら――――いつでも苦しめて、困らせて、奪って、殺していいわ」 「退屈なんてさせないけどね。“超最強”だから」 これが“《わたし》〈超最強〉”と“《トリトナ》〈超最狂”が“《フロム》〈超最凶”を三者面談した結果、導き出した答えだった。 「強欲め……」 「トリトナ氏がアナタから所有権を奪わなかった理由は、こういうことでございましたか……」 「そういうことだぜ。フの字も影響されるだろ? コイツの“欲”には、華があるんだぜ」 「いいでしょう。今暫くの間、アナタに全てを任せると致します」 「フロム……!」 「――――ですが」 「不眠不休では肉体を損ってしまう。今宵は当方とトリトナ氏に任せ、《ひととき》〈壱刻〉の眠りにつくがよろしいですよ“超最強”」 「事実上の桃園の誓いになったけど、“超最狂”はどう考える?」 「盃なしで桃園の誓いなんて勘弁だぜ。気合で酒の一杯でも出してみろよ、元筆頭の“超最凶”」 そうして――2つの人格がわたしに宿った。 混ざらず、中和せず、わたしを筆頭としたまま、わたしの中でまとまった。 フロムが表に出たままわたしたちを拒絶される可能性さえも孕んだままの状態での、統合。 少しでもわたしに不満が上がれば、フロムは間違いなく反旗をひるがえすだろう。 危険因子が多くあるからこそ構築される関係は、信頼ではなく同盟に近い。 「7年の刻を経て、未だに放置プレイで赦せてしまうなど……当方、救いようのないドMのようでございますね」 「どの道、人は寿命に縛られるイキモノ。牢主との逢瀬が霊廟というのも一興」 「当方が“愛”に溺れる暇さえ与えないような、退屈しらずの毎日をどうぞ、よろしく」 虎視眈々。少しでもわたしを見限れば、フロムは自分の都合を優先した行動に出るだろう。 これでいい。このくらいが、生きている感じがして、いい。 「とりあえず、一旦、外に出てもいいかしら? 優真が心配だわ」 「ええ、当方も腹下しは一度で充分でございますので」 一度で……? 何の話やら。 「中の修繕はお願いするわね」 「交代はいつ頃を目処に?」 「心配しなくても、すぐ戻るわよ」 「……いい加減、眠るってやつを経験してみたいのよね。あと、夢を見るってやつも」 一人でも“超最強”だったというのに、これからが楽しみで仕方がなかった。 「あ……」 ホント……参っちゃう。 地面に放り出されるのが多い日だ。 でも、何とか死に損なうことはできたようだ。 「血だらけのボロボロ。こんな場所で轢き逃げにでも遭ったのかしら?」 「リノ……ン……?」 顔を上げた時には黒耀色の化ケ物は消え、憔悴したような――――けれどどこかスッキリとしたリノンが立っていた。 「それとも、強敵と戦った名誉の負傷?」 首元に手をやる。極太の牙が刺さった事実は消えていないが、喉よりも後ろ首の肉の方が深かった為、出血性ショック死は免れていた。 「いやぁ……刃が立たなくってさ……こんなになっちゃったよ」 「動かないでいいわ」 纏わりついていた“闇”の侵蝕を解除してもらうと、絶えず流れていた血が収まっていった。 「これでこれ以上、酷くはならないから」 「病院とかは、無理だもんね……こういう時、追われる身って辛いなぁ」 「止血だけしておいたから、後は優真の生命力次第ね」 「リノン……無事でよかった」 「優真こそ」 実際にリノンと再開したのは、秘密基地を出てから今が最初だ。 だけどリノンが、必死で俺の想いに答えてくれたのがわかった。 「トリトナとフロムは無事?」 「……ええ。誰が“超最強”か、よくわからせてやったわ」 「そっか……俺からも一つ宿題が残ってるからフロムに替わってもらってもいい?」 リノンはお安いご用とばかりに手鏡を取り出す。 「あ……」 「あっちゃぁ……あれだけ激しく戦ってればこうなるよな……新しいの買ってあげるよ」 「………………」 「……いいえ、これはもう必要ないものだわ」 自然とこぼれたのは、どの写真集にもなかった慈愛に満ちた母性的な笑み。 今日子さんが時折、向けてくれる……大好きな表情に似ていた。 「わたしはRe:non。一流アイドル。誰しもがわたしに“《へんしん》〈Re〉:”されたくて生きてる」 「俺もその一人だよー」 「わたしは繋がってる。ファンとも。あの子たちとも。《アイテム》〈鏡〉なんてなくたって、いつだってどこだって“《へんしん》〈Re:”はできるのよ」 〉「……そっか」 「なので……」 「え?」 「眠ってみる」 「ここで? こんな場所で寝ちゃうの?」 「ファンサービスの一貫よ。光栄でしょう?」 「お疲れ様」 リノンに外傷は見られない。 逆に俺は傷だらけの血だらけ。 一周回って精神的に鍛えられている俺はいいとしても、リノンの疲れは内面にきている気がした。 だから撫でた。頭を。できるだけ優しく。 「ちょっと……な、なによ、この手は」 「がんばったご褒美だよ。こういうふうにされるとさ、安心しない?」 「別に……」 「だんだん良くなってくるよ。眠くなってくるんだ」 もう何も心配はないんだから、リノンにはこのまま眠って欲しかった。 「あ」 固まった血が髪のなかに落ちてしまう。 慌てて覗きこむと、ぱっちりと開いた瞳が俺を見た。 「……ちゅ…………」 唇にやわらかな感触と艶かしい熱が押し付けられた。 血生臭かっただけの口内に、果汁入りガムを噛んだような甘さが広がる。 ――――――――あれ? これって……偶然じゃなくって……? 「初めてだったら、ごめんなさい。わたしも初めてだから」 「あ――――えっと……本気?」 「別に、深い意味はないのよ。ただなんとなく、そうした方が……素敵な初夢が見られる気がしたの」 「……だとしても、言ってくれなきゃ」 「言ったらさせてくれなかったじゃない」 ごもっともだけど。 「でもさ、血だらけの口でするなんて、リノンにも失礼だし……」 唇に指があてられる。 まだリノンとしたばかりで、少し濡れていた。 「エチケットに気を遣える紳士の唇と、誰かの為に泥だらけになって血反吐を吐いた唇」 「どちらが魅力的かなんて、比べるまでもないでしょう?」 俺は黙って頷いた。その通りだったから。 「わたし、優真を護るわ」 「この先、ずっと、貴方が墓に入るまで、護ってあげる」 光栄でしょ? という笑み。 こっちの事情なんかしったこっちゃなしに。 リノンがそう決めたら、そうなってしまう。 「理由は?」 「キスがどんな人にする行為かわからないの?」 「……大事な人、だろうね」 言葉足らずだけど、リノンは頷いてくれた。 「この気持ちの源泉が、わたしの存在とはまったく違う場所から来ていたとしても。わたしにとって“優真”は特別だってわかったのよ」 「家族じゃなくてもいい。恋人じゃなくてもいい。アイドルとファンの関係が、それ以上に深い場合だって、あるじゃない?」 「どうだろうね……“家族”より深いとなると、難しいかな」 「……家族じゃなくてもいい……なんなら、優真のペットでもいいわ……」 「それは色んな意味を含みすぎだよっ」 「……側で、貴方を護れれば、それで…………」 「さっきのキスは、アイドルのRe:nonじゃなくて、一人の女の子の贈り物として、ありがたく頂いておくよ」 「………………」 「リノン……寝ちゃった?」 割れた手鏡から、たて続きの膝枕とキスで忘れていたけど、一個だけ、解決してないことがあった。 「フロムが殺した猫を食べるのは、俺の役目になるのかなぁ……」 本当はそういう“ズル”はダメなんだけど、今回は仕方がない。 だって、リノンはすぐには起きない。 それこそ“7年分”くらいは眠るわけだから。 「これからの活躍にも期待してるからね、大アイドル様」 「でも……本当に良かったなぁ」 「ずっと……心配だったからさ」 「やっぱ生きてるって素敵なことだよ、無限の可能性があるし」 「本当の本当に嬉しいよ――――また、キミに逢えて」 「《・・・・・・》〈……おかえり〉」 「ただいま」 「痛いとこない?」 「そっちこそ」 「俺は平気」 「私も」 「うん」 「……久々の再会で聞くようなことじゃないかもしれないんだけど、いいかしら?」 「もちろん。家族の間に、遠慮はいらないよ」 「私の為に死んでくれる?」 「なるちゃんの為に……死ぬ……?」 「うん。私の為に、死んでよ」 なるの厨ニ小説に出ていた外国人美少女のセリフを真似てみたが、わりと淡泊に返された。 「ふふ……なるちゃん、やっぱ変わってないね。自分の為に死ねなんてさ」 「?」 「お得意の厨ニセリフでしょ? 自分の作品の引用」 「あんなものは、もう……」 「なるちゃん……?」 「立って。行くわよ」 「いや、でも今は膝の上の安らかな笑みを見れば分かる通り」 「関係ないわ」 なるに腕を引っ張られ、膝上で安眠していたリノンの頭が床にぶつかった。 せっかくリノンが“現実感”を取り戻して一段落ついたってのに、息をつく暇もなさそうだ。 「ぁにすんだコラ優の字ッ! リノンが起きちまったらどうすんだッ!!」 「トリトナー、久々ー!」 「おー! しかしィテェなぁ。頭ヘコんだらどうすんだぜ」 「カップ麺の真ん中ってヘコんでると、卵を割っても滑り落ちなくっていいよね」 「わかるわかる、月見麺……っておい、女ッ!! シカト決めて優の字ラチってんじゃねーぜ?」 「んー……? あ、そういうこと」 「は? なンだぁその薄笑い、舐め腐ってんじゃねーぞ」 「見逃してあげようと思ったんだけど、やっぱり死にたいんだ♪」 首を一回しベキベキ。骨を鳴らす。 肩を二回しゴキゴキ。骨を鳴らす。 拳を握ってガキゲキ。骨を鳴らす。 「おい」 ならず者の形相をしたトリトナが、なるちゃんに引き摺られていく俺の脚をつかんだ。 「私様たちの間を取り持ってくれた恩人を引き摺るな」 「…………」 瞬きの間に脚をつかんでいたトリトナの腕が弾き飛ばされた。 「!?」 トリトナは腕が痺れるらしく、不可解そうな顔で腕となるを交互に見ていた。 「私なりの愛情表現なの。口出ししないでくれるかしら?」 「あー……そう。ぶっ殺しちゃっていいなら早く言えよ。わかりにくいやつだぜ」 「だーめーだーよー! こちら、俺の大事な家族のなるちゃん。優しくしてあげて」 「家族……? 妹か? 姉か? 嫁か?」 「そういう括りじゃないよ」 「……口調がずいぶん違うわね? リノンのそっくりさん、か・し・ら?」 「そっくりさんだぜ。本人公認のな」 「んしょ……」 「おっ、おっ、おっ、おっ」 「おいおいおいっ!! 頭ぶつかってんだろッ!! それが家族に対する扱いかッ!?」 「いや、頭を上げない俺が悪いだけでなるちゃんは悪くないよ。運んでくれてるんだからさ」 「上げるだけの力も残ってないんだろうがっ」 「――あなたもでしょ?」 「あ?」 「実力者なら、うだうだ騒いだりしないはずよ」 「何があったかしらないけど、相当に疲弊してるようね。やめといたら? 私のヒットポイントは1ミリも削られてないわよ」 「黙って行かせてやろうかと思ったが、この雌は嫌な予感がぷんぷんしやがる……放っておいたら、危険だぜ」 「悪いが、止めさせてもらうぜ」 「大丈夫っ! 心配ないってばっ! なるちゃんは家族なの。久々の再開で接し方を忘れちゃってるだけなんだよ」 「そうとも言うわね」 「そうとも言うわけねぇんだぜ」 「…………」 「おわっ」 胴に手を回され、軽々と小脇に抱えられた。 小さい子でもないのに恥ずかしい……けど嬉しい。 「丁寧に持ち帰ればいいんでしょ?」 「…………」 「ね? 弱ってる俺をこうして運んでくれるんだ。いい子でしょ? あげないよ」 「いらねぇよ。ったく……匙を月までぶん投げた!」 トリトナは豪快な舌打ちを一つしてから、ねめつけるようになるを見た。 「優真の身に何かあったら、戦争だぜ」 素早い身のこなしでフェンスの上に立ち、夜の闇へと跳躍していった。 「あ、トリトナー! 校門の前に猫の死体があるはずだから、フロムに食べるように言っておいて!」 なると会わなければフロムに“イキモノを殺す”事の意味を教えたんだけど、今回はトリトナに任せるとしよう。 「猫……食用でもないのに死体を食べるの?」 「考え方次第だよ」 「“ナグルファルの夜”直後の食糧危機で、止むを得ず口にした人は何人もいる」 「当時は、草だって虫だってなんだって喰った。犬や猫がペットの代表だからなんて、理由にならなかった」 腐るだけの肉になった猫を食わない方がどうかしてる……俺はそういうふうに今日子さんに教わった。 「人間の為に消費されたのは動物だけじゃないわ」 素っ気ないなるだったが、抱え上げる力が増してより身体にフィットした。 「……ふぅ、なるちゃんと密着してると、回復が速まるね」 ぷにゅ。ぷにゅ。ぷにゅ。 歩く度に極上の癒しが訪れる。 ここまで快適な移動手段が他にあるだろうか。 「なるちゃんの柔らかいとこが当たって、とっても幸せー……」 「…………」 「はへ……」 新聞紙で叩かれるような衝撃が鼻っ柱に走り、鼻孔からどろりと血が垂れた。 「んっ、ずずっ」 なるの服が汚れないように必死ですすりながら、この現象について少し考える。 鼻の粘膜が傷ついた=ぶたれたから。 いったい誰に=なる以外に人はいない。 なんでそんなことを=わからない。 「次に同じような発言をしたら、去勢するわよ♪」 リスのようにまるっこい瞳で告げられ、抱えられた事の素直な感想が原因だと気づいた。 「ごめん……でも、ずずずっ、嬉しくってさ……発言には気をつけます……ずずっ」 「わたしも優真くんが生きていて嬉しいわ」 なるは笑っていたけど、その笑みは前とはすこしだけ形が違っていた。 契約者同士による自然治癒力の向上は、密着するほど効果が上がる。 なるはあの時と同じように、ずっと俺の側にいてくれた。 「ほとんど正常な状態まで回復したわね」 「もうちょっとこのままでいたいな……」 「……いいわ。完全回復まではまだ時間が掛かるだろうし」 「やったー。じゃあシェラフがあるから移動しよう。なるちゃんの添い寝で瞬間回復だ」 なるは無言で俺のひじを取り、親指を関節のくぼみに押し込んだ。 「ちょ、調子ノリました……このままでいいです」 「うん」 「怖いなぁ。謝るのが遅かったら折る気だったでしょ?」 「意外と気持ちいいかもしれないわよ? それに折れてもすぐに治るわ。一回やってみる?」 「うーん……なるちゃんの性癖が変化しているようだ」 異常に高まった新陳代謝で発生した垢と汗をタオルで拭き取る。 非常食だけでなく生活雑貨と消耗品も搬入済。1週間は苦もなくサバイバれるのが秘密基地の醍醐味。 「あー、コレコレ。この感じ。この治ってる“感”がいいね。岩盤浴に入ってるみたいにぽっかぽか」 「私に何も聞かないのは、あえて避けてるのかしら?」 「え? ああ……そういえばそっか。生きていてくれた事が純粋に嬉しくてすっかり忘れてたなぁ」 「…………」 「聞かれて嫌なことじゃなければ聞きたいよ、あれからどうして今に至るのか」 なるは幻想的に輝く水面を眺めている。 その視界にまったく別のものが映っていたとしても、俺にはわからないけど。 「湖に落とされた時、すぐにわかったわ。私は水底に沈むんじゃない、別の場所に飛ばされるんだって」 「予想通り、まばたきほどの一瞬で、世界が変わったわ」 「景色も、空気も、まるで別物。感じ取る私の五感が“《ディストピア》〈真世界〉”の器とは違うんだから、あたりまえだけどね」 「“《ディストピア》〈真世界〉”とは違う……?」 その意味を深く考えるより先になるは頷いた。 「私は半壊した“《ステュクス》〈重層空間〉”を通って、数十年ぶりに“《ユートピア》〈幻創界”へ戻ってきた」 「そこに待ち受けていた地獄が、私に使命を与えたのよ」 「地獄って――――一体、なるは何を見てきたんだよ」 「例えるなら、優真くんにとっての“ナグルファルの夜”と同じようなものかしら?」 「…………ごめんね、なるちゃん。その例えは、間違ってるよ」 「俺にとって“ナグルファルの夜”は、正真正銘の大事件だったんだ……まえに話したでしょう」 「知ってるわ。知っているから、言っているの」 「なるちゃん……」 地獄の正体が何であるかを聞かずとも、当人にとってのショックの大きさは把握できた。 「優真くんなら、わかるでしょう」 「………………」 ……わかる。 表情こそ変わっていないが、なるの瞳に宿っているのは純朴な輝きではない。 九十九を超す負の意志を詰め込んだ《ほのぐら》〈仄昏〉さが物語っていた。 今までとは完全に別人。リノンとトリトナとはまったく別の意味で、人が変わってしまった。 「その光景を見たが最後、残された道が、狂気に身を任せることだけだったの……」 「地獄の代弁者がへらへら笑ってたら締まらないでしょ?」 「そこまで言うってことは、マトモとは思えない目的の一つでもできちゃった?」 心して聞く準備と、聞いたあとに一緒に悩んであげる覚悟はできている。 人によって“地獄”は様々に形状を変える。 共通するのは、経験した者が皆、重たい枷を背負うこと。 俺にとっての結衣がそうであるように……。 「私の目的は大きく分けて3つあるわ」 3本指を立てたなるは、すぐに2本を折りたたんだ。 「けど、最も大事なのは、そのうちの1つ」 「耳鳴りを止めること」 「耳鳴り?」 「百じゃ足りない数の怨嗟の耳鳴り。『殺せ、殺せ。凄惨に、残酷に、葬ってくれ』って。口を揃えてそう叫ぶのよ」 「そんなのは、なるちゃんへの押し付けだよ」 「なるちゃんは“音”を操れるんでしょ? そんな耳鳴り、消しちゃえばいいじゃないか」 「……幻聴だけじゃなく幻影にまで救われていた優真くんが、言えた立場?」 「…………」 「優真くんが“妄想”を捨てきれなかったのと同じ。私も望んでこの音を消さずにいるの」 何故、と聞くまでもなくなるは口を開く。 「この怨嗟の声がある限り、私の決意は揺るがずに済むから」 なるを包む真っ黒な感情の炎は、ふっと鎮火した。 「さ、もう完全に治ったわ。動かしてみ・た・ら」 天使も真似できないような抜群の笑みは、今までの話が全部冗談で、ハッピーライフが幕を開ける予感を抱かせる。 でもそんなのはまやかしだ。 なるは変わった。 良いとか悪いとか抜きで、変わってしまった。 「ありがと。傷も塞がって、すっかり元通りだ」 「身体には気を使ってね。これから死ぬまで協力してもらうんだから」 「言い方っ。もうちょっと言い方っ」 「……私たちのこれからの話をしよっか」 日曜の予定を決めるような気軽さで語りだす。 「手始めに――――“漆原零二”の息の根を止める」 「――――!?」 《バラシィ》〈零二〉? いや、聞き間違えだ。なるとは一つも接点がない。 「その反応……もしかして知り合い?」 「一応、友達のつもりだけど」 「そう思ってるのは優真くんだけで、向こうは利用するつもりで付き合ってたんだわ」 “利用”――ナンパ仲間として使い、使われる関係をそう呼ぶのだろうか。 零二とはつるんでいたけど金品を騙し取られたわけでもなく、友好関係を築けていたと思う。 「漆原零二が何者か知らないの? まったく? これっぽっちも?」 「街を練り歩くナンパ師で……“《アーカイブスクエア》〈AS〉”の警備のバイトをしてるフリーターのはずじゃ……?」 「博士」 「博士!? 博士ってあの、研究とかする偉い人の中の偉い人?」 「“《アーカイブスクエア》〈AS〉”製薬部門の博士」 零二が博士……。 なんだ、そのムチャクチャな話は……? なるが“実は男の子でした”って方がまだ信じられる。 「元々は非合法なドラッグの精製で儲けていたようだけど、今では半数以上のセクターで権限を持つ大物よ」 「“ナグルファルの夜”で蔓延した未知の感染症に対する特効薬“《エーエスナイン》〈AS9〉”をつくった功績が大きかったようね」 独自に調べたのだろう、明かされたプロフィールから零二の本当の姿が浮き彫りにされる。 「“英雄”……」 “《アーカイブスクエア》〈AS〉”の発明した“《エーエスナイン》〈AS9”は人類を救ったといっても過言ではない。〉 目に見える形での功績者は公表されなかったが、人々は感謝の意を込め発明者を“英雄”と呼んだ。 特に感染者に該当する人が感じている恩義は凄まじく、本社の方に足を向けては眠れないほどと聞いたことがある。 「“《アーカイブスクエア》〈AS〉”はいずれ壊滅させるとして、優先すべきは“漆原零二”」 「ちょっと待ってよ、零二が博士なら、多くの人の命を救ったのは間違いないよね?」 「俺と競えるくらい人間が好きななるちゃんが“英雄”を狙うのは腑に落ちないよ」 「何って……耳鳴りの元凶。“漆原零二”は地獄の創設者なのよ」 俺は知らない。 その“地獄”が何を差すのか、検討もつかない。 ただ、なるが止まらないことはわかった。 些細なきっかけ程度で、転がり落ちていく大岩は止まったりしない。 「誰かに殺意を抱く事は、幸せを放棄するネガティブ思考。俺たちにとっては対義語だ。似合わない事は、やめたほうがいい」 「似合う。似合うわよ。だって私は変わった。私は、自分を更新したの」 「期待しているところ悪いけど、零二を呼び出す方法はないよ。連絡先は携帯と一緒になくなったし、もともと街でばったり会うのが多かったから」 「その点は平気よ。優真くんも私も“《アーカイブスクエア》〈AS〉”が血眼になって探す指名手配犯なんだから、放っといても情報は入ってくるわ」 探す手段は豊富に持っているようだ。 となると、なるが俺に求めているものはなんだろう。 「そういうわけだから、優真くんもお手伝い、よろしくね♪」 「俺がすることなんてあるかな」 「私が人を殺すお手伝い」 簡単な仕事でしょ? と、にこやかに笑いかけてくる。 「まえに説明しなかったかしら? “《アーティファクト》〈幻装〉”を最大限に活用するには“《エンゲージ》〈契約”の相手から抜き出す必要があるの」 「ってことは、俺はなるちゃん専用の武器庫か」 「クッフッフ~♪ 飲み込みが早くて助かるわ」 「それじゃ、“漆原零二”を殺して殺して殺しまくりましょう♪」 ノリノリで跳ねるなるに合わせて踊れる気分ではなかった。 「そんなふうに自分を殺戮マシンみたいに言うからには、その手はもう血に染まったんだよね」 「ううん。この掌は“漆原零二”の為に用意した特等席だから。まだ誰も手にかけてはいないわ」 「“漆原零二”の血によって私は目覚める。私の始まりであり、終わりでもあるのよ」 「……そっか」 逆を言えば……なるは零二を殺すまで、よほどの事がなければ誰も殺さない。 疲弊したトリトナを襲わなかったのがいい証拠だ。 なるの意志は固い……取り憑かれていると言ってもいいほどだ。 目の届く場所になるがいないと、間違いを正したくても、危険から守りたくても、なにもできない。 「お手伝い、してくれるか・し・ら?」 「もちろん」 単独行動を取られるより、どんな形であれ協力するべきだろう。 なるを間違った方向に進ませないのが、家族である俺の成すべき事だ。 「俺はいつだって、どんな時だって、なるちゃんを護るし、なるちゃんの手伝いなら喜んでする」 「ありがとう優真くん。優真くんなら、そう言ってくれるって信じてたわ」 「――ただし条件がある」 「いいわ。言うこと聞いてくれるなら、少しくらいならエッチなことでも許してあ・げ・る」 「事務所が壊されたのは知ってるよね?」 「……ええ。それが?」 「誰がやったかは別にいいんだ。ただ、俺は今日子さんの行方が知りたい」 「なるちゃんも家族なら、こっちを優先してくれるよね?」 「……わかったわ。条件を呑んで手伝う」 「その代わり、最後まで私に付き合ってくれるって約束してくれる?」 「約束する。俺がなるちゃんの剣になる」 「ありがとう……優真くん……大好きよ♪」 「うん」 なるは交渉が済んだ途端に、現金なくらい優しく接してきた。 「私がいない間、よく頑張って生きていてくれたわね……」 恋人のように俺の手を両手で包み込み、吐息で温め、頬ずりをしてくれる。 「よかった……優真くんとまた二人になれて……」 「……うん」 手相占いの時と同じように手を揉んで、優しくすりすりして、手の甲にキスまでしてくれた。 「もっとくっついてもいい?」 「…………うん」 あれだけ再会を切望したなるに抱擁を受けても、不思議なほどドキドキしなかった。 漠然となるの言うことに頷きを返していると、いつの間にか一緒に横になっていた。 「…………」 なるの柔らかな身体に包まれていると、急激な眠気に襲われた。 ほとんど気を失いそうなくらい疲れていた事もあり、まぶたを閉じるとすぐに思考が閉じた。 なると一緒だから、不安はなかった。 人間は生きるために何かを殺す。 殺す対象は人間でもあり動物でもある。また直接的でもあり間接的でもある。 とにかく人間は何かを殺さなければ生きていけない。いや、人間に限らず、この世界で生を受けた物ならばそのルールから逃れられない。 だから人間は生きるために何かを殺す。それは当然の権利であり、咎められるべきではない。 だがそれが許されるのは自覚がある者だけだ。 生きるために殺す―― そのルールを自覚している者ならば、自分が殺される事も承知している。結局は早いか遅いかの違いしかないとわかっている。 しかし由々しき話だが、大半の人間は無自覚なまま自分以外の何かを傷つけ殺して生きている。 間違った物は正さなければならないように、自覚のない殺戮者もまた自分の手が血で汚れている事実に気づかなければならない。 目の前の兎が雄弁と語った演説の内容は、要点をまとめると概ねそんなところだろう。 「世の中は奪い合いだ。普通に飯食って寝て息をするだけでもその縛りからは逃げられねぇんだ」 「だったら奪われる前に奪う。生き残るためにはどんな手を使っても構わない」 「そうは思わないか?」 「人間社会においては法を遵守しなければならない。それがルールだ」 「だからその発想が違うんだって。法律を作った奴等は神様か? 違うだろ、同じ人間だ」 「カネが懐に入れば良い顔をするし、自分の財産が脅かされたら必死で守ろうとする。そんな奴等が決めたモラルを律儀に守ってたら生き残れない時代だ。そうだろ?」 「それでも大衆を縛るルールがなければ秩序は保たれない。全ての人間がキミのような考え方をしているわけではない」 「ま、そりゃそうだな。俺が食いっぱぐれないのも、表向きには善良な一般人を装いたい奴等がいるおかげだしな」 「卑怯な奴等だよ。自分の手を汚さずに、他人から何かを奪おうとする連中だ」 「でもキミはそれの幇助をしているのだろう」 「そうだな。だがよ、そいつらにもいつか奪われる番が来るんだよ。自分が奪われる側になった時、相応の報いを受けるだろうさ」 「キミの主張通りなら、キミもいつか何かを失う日が来る。それを受け入れているのだろうか」 「そりゃそうだ。人間ならいずれ死ぬ。俺のじいさんもそのまたじいさんもその嫁さんも例外なく死んだ」 「多少の時間差があるかどうか。人生なんてそんなもんだぜ」 「ひとつの意見として捉えておこう。それよりも、キミの質問には全て答えた。そろそろ終わりにしてくれないと、朝食の時間がなくなってしまう」 「おお、そいつは悪いな。朝飯はちゃんと食うに限る。最初に手を抜くとその日一日棒に振るようなもんだからな」 兎は鞄の中から取り出していた仕事道具を手際よく片付け始める。 彼は昨夜の事を聞きだすためにここにやって来た。新市街のホテルで催された九條グループの創立記念パーティに出席し、燃え盛るホテルから飛び立つまでに起きた事態の説明を求めた。 私はできる限り頭から順を追って説明した。マスクの男に会場を占拠された事、トランプを使ってババ抜きをした事、マスク男の正体と目的に関してありのままを話した。 唯一話していない事があるとすれば、九條のプライベートに関する情報だ。これだけは私の一存で口にするのは躊躇われた。 彼女が他人に広まってほしくないであろう部分に関しては簡略化したが、事件全体に影響する話でもなく目の前の兎も突っ込んで説明を求めはしなかった。 「さてと、そろそろ退散しないとな。アンタの相方もそろそろ帰ってくる頃だ」 私が目覚めた時、倉庫の中にノエルの姿はなく、代わりと言っては何だが台所の上には茶色い小瓶が置かれていた。 時計を確認すると、キャップを開けて一気飲みしてから兎とのやり取りが終わるまで一時間ほどが経過していた。 そろそろ支度を始めなければ、学園に間に合わなくなってしまうのだが―― 「それじゃまたな。ちゃんと朝飯は食うんだぞ」 古びた鞄を携え、兎は別れの挨拶を残して倉庫を後にした。 予め椅子に仕込んでいた針金を使って拘束具を解き、ノエルを探して旧市街の中を歩き回る。 もう何度も繰り返され、私はすっかりピッキングの腕が上達してしまった。本来、悪事を働く際に必要な技術であり、どれだけ上達しても褒められたものではない。 「どこに行ったのだろうか」 普段ならノエルの行動を気にかける必要はないのだが、いつも登校していく時間を迎えてもノエルは戻ってこなかった。 昨夜の就寝が遅かったせいで、ひまわりは私が拘束されている間も二階で寝息を立てていた。あの調子ならば少しばかり目を離していても大丈夫だろう。 それよりも―― 「ノエルの方が心配だ」 事件や事故に巻き込まれた可能性を憂慮している――わけではない。 ホテルで起きた事件に際して私の取った行動は、ノエルにとっておもしろくはなかっただろう。 忠告を無視し、九條の元に向かった私を咎めはしなかった。それ自体は珍しくもない。ノエルは助言こそしても命令をしたりはしない。 ご主人に従う、ご主人の決めた事ですから――どれだけ彼女の意に沿わない行動を取っても、文句のひとつも言わない。 唯一、反応を示すのは私の浮気に関してのみだ。私の女性関係を洗い出し、当該女性との関係を追求する。 実際にそれを行うのはノエル自身ではなく、奇妙な仮面を被った代弁者がやって来るのだが。 兎が現れれば、私はすぐに職場を変えた。一度、私との浮気を疑われた女性が失踪した事があった。彼女の安否については現時点でも定かではない。 それにどれほどの興味があるのかと言えば、事実が判明してからは彼女の存在を思い返したのは今日が初めてだ。名前も覚えていない。名前を把握していたのかさえ怪しい。 それよりも重要なのはノエルに不快な感情を抱かせてしまう事だ。実害はほとんどないのだが、私に尽くしてくれている彼女にできれば余計な不安を与えたくはない。 「ノエル、ここにいたのか」 びっしりと連なる客席のひとつに腰掛けたノエルの後ろ姿を見つける。 旧市街の一角にある寂れた競技場。ここに足を運んだのは久しぶりだが、以前来た時と何ら代わり映えがなかった。 夏草や兵どもが夢の跡――建物の景観からは当時の喧騒が容易に想像でき、過去の繁栄が現在の殺風景な光景をより一層引き立たせる。人間社会の衰退を強く感じられる場所だった。 「あ、ご主人、どうしたんですかこんなところで」 ノエルは私に気づくとそれまで耳に当てていた携帯電話をしまった。 「キミの帰りが遅いから様子を見に来た」 「お前」 「お前の帰りが遅いから様子を見に来た。電話の方はいいのだろうか。途中だったのだろう」 「大丈夫です、用件は済みましたから。そんなのよりもこうしてご主人が私を心配して迎えに来てくれたのがもっと大事ですよ」 ノエルの腕が私の腰に回され、互いの身体が密着する。 「学園に行きたい気分じゃないので、今日は一日ご主人と一緒にいます。仕事もありませんよね?」 「仕事はないのだが、ひとつ用件が入っている」 「用件?」 腰に触れた手の締め付けが僅かに増した。 「昨晩、九條から話したい事があると言われた。ホテルから飛び降りた後は慌しくてそれどころではなかった」 「話とは何です……?」 「内容については私も聞かされていない。だが私にとって重要な話だそうだ」 「ふぅん……」 否定でも肯定でもない曖昧な返事。 だが今までの経験上、あまり好ましくない状況である気がしてすかさず話題を変える。 「そういえばノエルは見ていただろうか。昨夜、私の背に出現した炎の羽を」 「ああ、あれですか。朝のニュースでも繰り返し映像が流されていましたね」 「私の正体が公になってしまったのだろうか」 「いやまあ、それは大丈夫じゃないですか。人間の目線から見れば理解の範疇を超えていますからね」 「実際ニュースでもおもしろおかしく取り上げられてましたけど、結局爆発で発生した炎って事で落ち着いたようですし」 「そうか、それなら良かった」 予期せぬ事態だったとはいえ、“《イデア》〈幻ビト〉”である事実を悟られかねない行為には違いない。しかしアレがなければ私と九條はあの危機的状況を脱せなかっただろう。 「もしや、あれがノエルの言っていた“《イデア》〈幻ビト〉”本来の力なのだろうか」 「多分そうじゃないですかね」 “《エンゲージ》〈契約〉”を経て得られる“《アーティファクト》〈幻装”を超えた力―― 「人間の殻を破って一時的に本来の力が発現する。それがその力の正体でしょう」 「本来の姿……“《ファイヤ・ドレイク》〈赤銅の火竜〉”としての力か」 灼熱の羽が出現した際、唐突な身体の変化にもさほど驚きはなかった。まるで始めからそこにあったかのような、ある意味既視感さえ感じるほどだった。 それほどまでに背中に生えた炎の羽は私の身体に馴染み、自在に操る事ができた。 「この世界に存在する“《イデア》〈幻ビト〉”は、例外なく人間の殻を被っています。枷と言ってもいいでしょう」 「それを打ち破って本来の力を取り戻せば、仮に“《イデア》〈幻ビト〉”との争いになったとしてもその差は歴然でしょうね」 「人間を、そして“《イデア》〈幻ビト〉”すらも凌駕する力か――」 “《ディストピア》〈真世界〉”に降り立ち、世界に適合するよう姿を変え身体の性能は著しく劣化したが、この世界においては無用の長物だ。 少なくとも昨日のようなこの身体のキャパシティでは手に負えない状況に陥ったのは今回が初めてなのだ。 「ご主人はその力を自在に操れるようになったんですか?」 「いや、意識してやった行為ではない。あの後も背中に生えた羽をイメージしてみたのだが、再び現れはしなかった」 「ふーん、まあもう一度あれが出せるとしても止めといた方がいいでしょう。今回みたいに都合よく誤魔化せるとも限りませんからね」 「わかった。覚えておこう」 ノエルの忠告はいつも正しい。疑う必要は一切ない。 私の言葉に満足したのか、腰に回していた腕を引き身体を離した。 「それで、九條さんとの約束はいつです?」 「正午前までには来ると言っていたから、二、三時間後だろう。九條も今日は学園を休むそうで倉庫に来るようだ」 「そうですか。私もその場に同席して構いませんか」 「もちろん構わない。九條には私から話そう」 「…………」 「どうかしたのだろうか」 「いや、ここにいないのに話せばわかってもらえると確信できるほど、あの女と仲良くなったのかなぁって」 「契約上、互いについて知る機会が多かっただけだ。彼女は気難しい性格だが理不尽な態度を取るような人間ではない」 「そうですか。いや別にいいんですけどね。何をしようがご主人の自由ですから」 「ノエル、私は浮気などしていない」 スイッチを押せば光が灯るように、女性の影が見え隠れすればノエルは不機嫌になる。両者とも仕組みについては説明できなくとも、そういうものだと認識している。 だから私は否定する。ノエルの誤解を解くためにお決まりのフレーズを口にする。 浮気とは“愛”を向ける対象の移り変わりを指す。実際に私が浮気をするためには“愛”という概念を解き明かすのが先だ。 高潔なものからありふれたもの、欲望に至るまで様々な意味合いで用いられている言葉――私が理解しているのは、そのどれもが対象に向けて執着を抱いている点。現状把握できているのはそれだけだ。 ノエルは私に執着している。私にも彼女が必要だ。ならばひとまずノエルを愛していると言っても虚言にはならない上、浮気を否定する行為に偽りはないだろう。 「別にいいんですけど~。ご主人に口ごたえする権利はありませんからね~」 その言葉が真意でない事くらい私にもわかっている。だからこそ、代弁者がやって来るのだ。 人間とは内面に抱いた感情をそれまで得た知識のフィルターに通している。全てがありのまま外に漏れ出す事はない。 人間という到達点――私とノエルのどちらがその場所に近いのかは明白だった。 「ノエル、愛している」 「…………」 土が乾けば水を与えればいい。先人達の残した知識と自身の経験を元に私は愛を謳う。 だがこの時だけは勝手が違った。 「どのくらいですか?」 「えっ?」 「ご主人が私に抱いてる愛はどのくらいですか?」 「ど、どのくらい……? 愛には大きさがあるのだろうか?」 「割とどうでもいいならちっぽけでしょうし」 「本当にこの世で一番愛しているというなら、そりゃあもう押しつぶされるほどの大きさでしょうね」 「…………」 「じっーー……」 愛には大きさという規格があるというのは初耳だ。サイズを表すとしたら単位はセンチかメートルだろうか。 「……直径3メートル」 「…………」 「――ではないな。そうだ、半径だった。直径ではなく半径3メートルだ」 「…………」 「――というのも違う。大して変わっていないからな。ただの冗談だ」 もちろん私はジョークを口にできるほど会話術に長けてはいない。ただ大抵の場合、最後に冗談だと言えば発現の訂正が行えるらしいと書籍で得た知識がある。 しかし何度も同じ手法を使っては怪しまれてしまうだろう。どうにかおおよその目星をつけなければ。 「参考までに聞きたいのだが、ノエルが私に向ける愛の大きさとはどのくらいなのだろうか?」 「私じゃなくてご主人の話をしてるんですけどー」 ノエルは疑いの眼差しを向けながらも微笑んで頭上の空を指差した。 「まあ大体あれくらいですかねぇ」 「あれとはどれだろうか。空には何もないのだが」 見上げた空はそれこそ雲ひとつない青天だ。夏の代名詞でもある入道雲も今は姿を隠している。 「空全体、言うなれば宇宙ですよ」 「宇宙か」 宇宙がどれほどの規模なのか正確には知らない。それでもどうやら愛のスケールを語るのに、直径と半径の違い云々は話にならないようだ。 「私の愛と並び立つ物がないので、不満ですけど宇宙で妥協します」 「なるほど、しかしそれでは私がどれだけの大きさを示したとしても、宇宙のサイズに比べれば霞んでしまう」 「比較するのが難しいんだったら行動で示してくれてもいいんですけど?」 両手を後ろに回して爪先立ちをするノエル。瞼を下ろした彼女が何を欲しているのか――愛の正体については未だ不明瞭でも、彼女の望む行為を私は知っていた。 「あぅっ――!?」 倉庫に戻り扉を空けるとひまわりが慌てた様子で奥へと引っ込んで行った。 「あっ!? このクソガキ!」 人間が逃走を図るのは自分にとって都合の悪い状況に陥った時である。 倉庫に到着した時にひまわりがいた場所は、台所の引き出しの前。中に入っているのはノエルが買い込んだ菓子。戸棚の引き出しは開かれていた。 「コラァ!! 勝手に人のおやつに手を出すとはいい根性してるじゃないですか!!」 「だ、だってぇ、おなか空いちゃったのに、起きたらあかしくんとのえるちゃんいないんだもん!」 「だからって私の物を勝手に食べていい理由にはなりませんよ!」 「きゃぁ~!? ゴメンナサイ~!!」 あまり広いとは言えない倉庫の中では逃げ場など限られている。そうでなくともただの子供にノエルが遅れを取るはずもなく、高い声を上げて逃げ回るひまわりが捕まるのは時間の問題だった。 「さあ捕まえましたよ~。人の楽しみを奪おうとする不届き者にはどんな罰を与えてやりましょうかね」 「ひーん! もう勝手におかしとったりしないから下ろしてぇ~――!!」 頭部をわし掴みにされたひまわりはどうにか拘束から逃れようと四肢をばたつかせていた。 「グヘヘ、生きのいい朝食が用意できそうですねぇ。今日のメニューはひまわりの脳みそソテーと鮮度満点の生き血ジュースにしますか」 「ダメだよー!! ひまわりおバカさんだから脳みそ食べられるほどないよー!」 「あとお菓子ばっかり食べてるからきっと血もドロドロでおいしくないよー!!」 「ノエル、ひまわりは九條との契約に必要だ。それにここで頭を握りつぶしたら床が汚れてしまう」 「それもそうですね。よかったなガキんちょ、ご主人の寛大な慈悲に感謝しなさい」 ノエルの手から解放されるひまわり。 「ふぃ~、もう少しでひまわり食べられちゃうところだったよぉ」 「ノエルの手を煩わせてはいけない。度が過ぎると兎がやってくる」 「うさぎさんがくるの? ひまわりうさぎさん見たーい」 「いずれ会わせてあげますよ。あなたが用済みになったらね」 「わーい♪ ぜったいホントだよぉー? ひまわりとのえるちゃんとの約束だからね!」 「ええ、約束です」 ひまわりの勘違いについては訂正する必要もないだろう。例えウサギ科に属する草食哺乳類と怪しげな探偵の違いはあったとしても―― 騒がしさが一段落したところで背後の扉が音を立てた。打ち鳴らすような乱暴さはなく、どちらかといえば謙虚な感じがした。 「だれか来たよ?」 「わかっている」 ここに訪れる者は限られている。過去に遡っても指折り数える程度だ。故に客人を出迎える際の行動には不慣れだった。 それでもこういった場合どう対処すべきかくらいは知っている。 客が来る、扉を空ける、中に通す。何も難しい事はない、これだけだ。 私は人間社会の風習に習って入り口に近づき鉄製の扉をスライドさせた。 「あ、赫さん、おはようございます」 「あ、みつきちゃんだ! ゴキゲンオー♪」 「はい、ごきげんよう」 来訪者の姿を捉えたひまわりは部屋の奥から大げさに手を振る。九條は頬を緩ませながら小さく手を挙げ、上品な素振りで応えた。 「どうした、約束の時間には早いと思うのだが」 「すみません、やはりできるだけ早くお話した方がいいと思いまして。お邪魔でしたでしょうか……?」 「いや、早く来てもらっても問題はない。それで私に話とは一体――」 「あ! なんかみつきちゃんからいい匂いがするっ♪」 「いい匂い?」 九條の首元に鼻を近づける。女性が放つ特有の甘い匂いと入り混じって、夏草を踏みしめたような香りが鼻腔を吹き抜けた。後者は以前九條が飲ませてくれた紅茶を彷彿とさせる。 「あ、あの、赫さん……」 「何だろうか」 「その、あんまり近くで嗅がれると……恥ずかしいのですが……」 人間には他人に接近されると不快に感じる距離が存在する。確かパーソナルスペースと言っただろうか。どうやら私は無意識の内にその領域を踏み越えてしまったようだ。 「すまない、今後は気をつけよう」 「いえ、お気になさらず」 「その……少し驚いただけで、嫌だったわけではありませんから」 親族でもない私が過度に接近すれば不快感を抱いたはずだ。にも関わらず彼女は否定する。 良い意味でも悪い意味でも九條は己の感情を偽ろうとはしない。そんな彼女だからこそ、発言の内容に虚偽はないのだろう。 「チッ」 「…………」 背後から舌を打つ音―― そして一定のリズムを刻む、地面を叩く足音が不愉快を体現していた。 背後に控えるノエルの顔が目に浮かび、早々に話題を変える。 「そのバッグは何だろうか。女性が持ち歩くには少々サイズが大きいようだが」 「あ、そうでした。皆さん、朝食はもうお済ですか?」 「いや、これから準備しようと思っていたところだ」 私の返答を受けると九條の顔はあからさまに綻んだ。 「良かった。実は今朝あまり眠れなくて早く起きてしまいまして」 昨晩の事件が終息してからまだ半日も経っていない。一般的な人間の感性から言えば、あの騒動に巻き込まれた直後は昂った感情を鎮められないのも無理はない。 「それで約束の時間よりも早く来てしまったのですが、あまり早すぎてもご迷惑でしょうから少し時間潰しをと思いまして――」 「こっちは二十四時間年中無休でご迷惑なんですけどね」 ノエルの挑発にも乗らず、九條は両手で持ち上げていた手提げの籠から網目状の箱を取り出した。 「あ! サンドイッチさんだ!!」 「え、ええ、そうですが……まだ開けていないのにどうしておわかりになったのですか?」 「おなか空いてるひまわりの鼻はごまかせないのだー♪」 そんな“力”があったとは初耳だ。しかし発動に制約がある上、効果的に使用できる用途は思いつかない。せいぜいノエルの隠している菓子の場所がわかるくらいか。 「あまり普段から料理をする方ではないのでお口に合うかどうかわかりませんが、もしよろしかったら皆さんでどうぞ」 「やったー♪ そうと決まればささ、すわってすわって!」 「何故キミが許可を出す立場なのだろうか」 とはいえとりたてて拒否する道理はない。少なくとも私には、だが―― 「…………」 不愉快な感情を隠そうともしないノエル。だが表立って九條の入室を拒みはしなかった。 「ほらあかしくん、はやくこっち来て座ってよ!」 「ああ、すまない」 テーブルを囲み、それぞれ椅子に腰を下ろす。 九條が持参した箱の上蓋を取るとひまわりの予想通り、敷き詰められたサンドイッチが顔を見せた。箱の隅に添えられたプチトマトが彩りを加えている。 「ふわぁ~♪ ハムとかチーズとかいっぱい種類があるよ~♪ どれから食べたらいいかまよっちゃうな~♪」 「ひまわりさんがたくさん食べられると思いまして、少し多めに作ってきましたからお好きなだけ食べてください」 「うんうん♪ おすきに食べるぅ~♪」 ひまわりはサンドイッチを見下ろし、目をきょろきょろさせながらレタスとハムの挟まれた一切れを手に取って頬張った。 「んっまいよぉ~♪ サンドイッチさん、んっまいよぉ~♪」 相変わらずひまわりは好物に対して敬称をつけている。サンドイッチは人間ではなく、小麦粉などを発酵させた食パンに具材を挟んだ食物だ。 「いや、あながち間違ってもいないのかもしれない」 「何がですか?」 「サンドイッチという名称はサンドウィッチという名の人間に由来しているらしい。いつだったか書籍で読んだ事がある」 「あ、私も聞いた事があります。何でもトランプに興じる時間を惜しんで、手間のかからない調理法を思いついたのだとか」 「へぇ~、九條さんは物知りなんですね」 「で、それは何ですか? ご主人と気の合うアピールですか? うわぁ、あざといわぁ~、あざとい界の中でも郡を抜いたあざとさっすわ~」 「ただ思い当たる節があっただけで他意はありません」 「ふん、どうだか。唐突に手料理なんて作ってくるくらいですからね。どんな下心があるのかわかったものじゃありませんよ」 文句を述べつつも九條の持参したサンドイッチを口に運ぶノエル。 自らの手を煩わせずとも朝食が用意されているのだ。私以上に面倒くさがりなノエルにとってもあながち悪い話ではなかったのだろう。 もちろんただの想像である上、仮にそうだとしてもノエルは決して口には出さない。 「もぐもぐ……んっ、普通ですね。マズくもなければとりたてて褒められるところもない、感想を求められて一番反応に困る味ですね」 「そんなことないよー? ひまわりはすっごくおいしぃと思うけどなー」 「あなたはお腹が減ってれば何でもそう言うでしょう。そもそも始めからサンドイッチというチョイスが微妙なんですよ」 「どういう事だろうか」 「サンドイッチなんて食パンに具を挟んだだけじゃないですか。手がソース臭い人間でなければ誰が作っても同じです」 「どうせならビーフストロガノフ的なリアクションのしやすいものを作ってこいってんですよ」 「家での食事はお手伝いさんが用意してくださるので私では……ノエルさんは料理が得意なのですか?」 「え、私?」 「はい。今までお二人で生活してきたのですよね? 食事の用意はノエルさんがされているのですか?」 「当たり前じゃないですか、ご主人にそんな事やらせるわけにはいきません。炊事洗濯家事親父、ご主人に群がる害虫駆除まで全て私の役目です」 それを言うなら地震雷火事親父ではないのだろうか。 「そうですか、ではノエルさんが用意する朝食はさぞご立派なのでしょうね」 「え、ええ、そりゃあもう、ビーフストロガノフ的なあれですよ、ええ」 会話に登場した名前の料理を私は知らない。だがノエルの口ぶりから推察すると日常的に朝食で用意されているらしいので、ジャムを塗った食パンの事を指す言葉なのかもしれない。 「あとひとつ気になったので質問していいですか?」 「何でしょうか」 「……あなた、何かキャラが違くないですか?」 「キャラが違う……?」 「ええ。何と言いますか、まるで攻略の済んだツンデレヒロインのような――」 「ハッ!?」 ノエルが手にしていたパンが机に落ちた。 「ま、まさかあなたを攻略した主人公は、ご、ご主人――!?」 「ツンデレとか攻略とかよく意味がわからないのですが」 「考えてみれば以前のあなたなら噛み付くポイントがいくつかあったはず……」 「“さぞご立派なのでしょうね”の台詞にも嫌味たらしい感じは全くありませんでしたし……」 九條と同じく発言の主旨が理解できないでいたが、握り締めた拳が震える様子を見ればノエルの状態が芳しくないのは明白だった。 「……今まで、少し気を張り過ぎていたのかもしれません」 「“《フール》〈稀ビト〉”である自分を誰よりも許せなかったのは、他でもない私自身だったのでしょう」 「そのせいで周りの人に対して不快な思いをさせていたのなら謝ります。申し訳ありませんでした」 「…………」 「ほぉわあ?」 ひょっとこ面のように口を丸くさせながら驚愕するノエル。私も少なからず彼女の内側で起きた変化に驚きを感じた。 「九條、私にはキミの中で何かが吹っ切れたように見える」 「それはつまり、キミの言う“人間”に戻る事を、“AS9+”を諦めたからなのだろうか?」 私の問いかけに対し、九條は俯き加減で首を横に振った。 「できる事なら今すぐにでも“《デュナミス》〈異能〉”を捨て、普通の人間に戻りたいと思っています」 「でもそのために形振り構わず進むのは……肩肘張って生きるのはもう止めようと思いました」 「……そうしなければいけないと、真剣に想いを伝えてくれた人達がいますから」 「そうか」 空から自社製品のマスコットをバラ撒くという行為に出た北条院の努力、無駄にはならなかったようだ。 あの後、地上に戻った北条院が血相を変えた現場の責任者達に取り囲まれたのは、必要経費として割り切るしかないだろう。 「そういえば、昨日の犯人がどうなったか知っていますか?」 「先ほどのニュースによれば、あのままホテル内で焼死したそうだ」 「そう……ですか」 世間での見解はそうなっているが、真相は不明だ。 報道によると昨日の事件はガス漏れによる爆発が引き起こした火災となっている。東堂が放送していると言っていたホテル内の映像も、最初の数分流されただけですぐにリアルタイムの映像は途切れた。 恐らく真実の漏洩を拒む輩――即ち“AS社”の仕業だろう。 “AS社”の実体について東堂が話した内容が真実なら、当然“AS社”が事後処理に乗り出している。彼の結末がどうなったのか、最早私に知る術はない。 「全く、事前に九條グループと“AS社”の繋がりがわかっていれば、ご主人をあんなところに行かせなかったのに」 「……申し訳ありませんでした」 「あーもう! あなたに謝られると変な気分になるじゃないですか。気持ち悪い、首の辺りがゾワっとするので止めてください」 「…………」 彼女は無言で俯く。まるで昨夜の出来事が自分一人の責任で引き起こされたとでも錯覚しているのだろうか。 「で、話って何ですか? まさかサンドイッチの感想を求めに来たんじゃないんでしょう」 声をかけるべきか迷っていると見かねたようにノエルが話題を変えた。 「あ、はい、そうですね。とても、大事な話をしに来ました」 まるで使命を取り戻したように気弱な雰囲気は一掃される。 「赫さんの求めている情報についてです」 「何……?」 私の求めている物、それはつまり―― 「“《ファントム》〈亡霊〉”に関する話だろうか」 「……はい」 九條と最初に交わした業務契約。ひまわりを数日間預かるかわりに、私が追っている“《ファントム》〈亡霊〉”の情報を対価として差し出す。 「つまり、ひまわりを預かる期日を迎えたのだろうか」 「いえ、そういうわけではないのですが」 「では何故だ。キミ達の望みは叶えられていない。にも関わらず報酬を払うというのか?」 「……これは私の一存で決めた事です。ですから赫さんの望みが叶えられるかどうかはわかりません」 九條の一存――それはつまり“上司”の意志に逆らうという意味だ。 「キミが持っている“《ファントム》〈亡霊〉”の情報を教えてくれるのだろうか」 「申し訳ありません。私は何も知らされていないのです。都市伝説としての“《ファントム》〈亡霊〉”くらいしか私も知りません」 「では――」 九條は“《ファントム》〈亡霊〉”について詳しい情報を持っていない。となると彼女が教えようとしているのは―― 「あなたをここに寄越した人間が誰なのか――」 それ以外にないだろう。 「はい。その方と直接お会いできれば、赫さんの望む情報も手に入れられるかもしれません」 彼女に指示を出していた黒幕に会って話ができればその可能性は大いに高まる。 仮に“上司”が契約満了まで沈黙を貫いたとしても、ひまわりを預かる正確な期日を決め、業務を遂行すればいい。 もしも一方的な契約破棄を行おうとしても、素性がわかっていれば見つけ出して対処できるだろう。 幸い、ノエルと共通の知り合いにそういった業務に精通している男がいる。彼の腕に関しては他でもない、私自身が保障できる。 「キミの申し出には感謝する。しかしそれでキミは構わないのだろうか。キミにも“上司”の命令に従う理由があるのだろう」 九條には“上司”に従う訳があるはずだ。無関係の人間に頼まれて、こんな場所までやって来るとは思えない。他人と関わりを持ちたがらなかった彼女なら尚更だ。 人間社会において“上司”に従うのは給与を得るためである。会社の業績を上げるために働き、その業務内容に見合った対価として金銭を受け取る。 “カネがあれば時間も買える”と言ってしまう男がいるくらいだ。彼の発言は大げさだとしても、誰しも金銭を獲得するために日々の時間を業務というフィルターに通して金銭に変えている。 しかし九條には当てはまらないように思える。彼女は九條剛三に扶養されている立場にあり、彼は大企業のリーダーだ。 九條が動いているのは金銭とは別の何かだ。それも彼女を動かせる何か―― 僅かな金銭を対価にしても――いや、ホテルでの彼を見れば、どれだけ札束を詰まれても娘に危険は橋は渡らせないだろう。 「理由はありますが……それは私が謝れば済む事です。赫さんが気にする必要はありません」 「謝るというのは犯した過ちを悔いるという行為だろう。そこまでして何故“上司”の事を私に教える気になったのだろうか」 「それは――」 「ご主人をおびき出すためですか?」 「何――?」 終始聞き役に回っていたノエルが口を開いた。 「だってそうでしょう。あなたはこっち側の人間じゃなく、姿の見えない意志を持ったあっち側の手先なんですよ」 「急に心変わりしたからと言って、はいそうですかと信じてもらえるとでも思ってたんですか?」 「そ、そんなつもりは――!?」 「ご主人、九條さんは信用できません。九條グループは“AS社”との繋がりもあります」 「昨夜の事件で目をつけられたご主人を秘密裏に捕らえようとする“AS社”の罠とも限りません。いや、もうこれは間違いないでしょう」 「もしかしたら最初から、あのホテルに誘導しようとしたのかも。どちらにせよ、九條さんが黒なのはもう明らかですね、真っ黒です」 「別に急いで危ない橋を渡らなくても“《ファントム》〈亡霊〉”については私の方でも探っています。もう少し時間をくれればそのうち――」 「私は嘘などついていません――!!!」 長い髪を大きく揺らし、悔しさをぶつけるように大声を発した。彼女がここまで感情を露にするのを目にしたのは初めてだった。 私とノエル、そしてひまわりまでもが動きを止めた。 「…………」 「え、なんでみんなケンカしてるの……? ケンカしちゃダメだよ……?」 「ケンカなんてしてませんよ。いいからあなたはその調子でサンドイッチ食べてなさい」 さすがのひまわりも心配そうに九條を見上げていた。 「私は……お二人を騙す気など……」 萎れたアサガオのように気落ちする九條。アサガオなら水をやれば健全な状態に戻る。だが九條に水をかけても効果はないだろう。 ではどうするべきか。無言で思い悩んでいるとノエルが口元を綻ばせて言葉を発した。 「ふふ、何だ、やっぱり意固地なのは直ってないじゃないですか」 「えっ……?」 「あなたが私の目を誤魔化せるほど器用だとは思いませんよ」 「ちょっとイジワルしてみただけですから、そんなに怒らなくてもいいじゃないですか」 どうやら九條に対する疑いの眼差しは本心ではなかったようだ。 だがそれでも腑に落ちない点がある。 「九條。私もキミが罠を用意しているとは思っていない。キミはそんな事をできる人間ではない」 「赫さん……」 「え、何ですか、お互い分かり合ってる風なこの感じは何? え、あ、もしかしてうわ――」 「ノエル、私は浮気などしていない」 ノエルへのフォローを即座に済ませ、引っかかっていた疑問を口にする。 「教えてほしい。どうしてキミは“上司”の意に背いてまで、私達に肩入れしようと思ったのだろうか」 「それは……」 「……私が秘密を守れないのは、きっと裏切りなのでしょう」 「……ですがこのまま黙り続けているのも、赫さん達に対しての裏切りではないかと……」 「自分の気持ちを偽るのは、もう止めにしたい。私はそう決めたのです」 「わかった。キミの動機は把握した」 九條の中で起きた変化は彼女だけでなく私にも作用したようだ。彼女の申し出は有益であり、拒む理由などない。 「で、あなたに指示を出していたのは一体誰なんです?」 「それは……口で説明するより、実際にお会いした方がいいでしょう」 「実際に会うとは?」 「その方のいる場所に、私が案内致します。朝食が済みましたら新市街の方まで足を運んで頂けますか?」 「もちろんだ。他に予定もない。いや、“上司”に会うのは何を差し置いても優先すべき事項だ」 “《ファントム》〈亡霊〉”に関する手がかりがすぐ目の前にちらついている。 用意してくれた九條には悪いが、最早私の思考は食事どころではない。幸いにも箱の中に残った最後のサンドイッチはひまわりによって消費される寸前だった。 「はーむぐっ、もぐもぐ……んぐっ――!?」 「どうしたひまわり」 「ふむんぐ――!! むんむん、ん゛~~~~~~~~~~~~!!」 頬をハムスターのように膨らませたひまわりの顔がみるみる内に青ざめてゆく。 「ひまわりさんっ!?」 「食い意地が張って詰め込みすぎるからそうなるんですよ」 どうやら食道に物を詰まらせたようだ。放置しておけば生命活動に支障をきたすだろう。そうなっては不都合なので椅子から立ち上がり水を汲みに行こうとするが―― 「ひまわりさん、これを飲んでくださいっ」 手さげの鞄から見覚えのある水筒を取り出し、手際よく液体を注いだコップをひまわりに差し出す九條。 「んっ、んっ、んっ……ぷはぁ! たすかったぁ」 「食事は落ち着いて良く噛まないと駄目ですよ」 「ひまわりに飲ませたのは紅茶だろうか。以前も水筒の中に入っていた」 「はい、よろしかったら赫さん達もどうぞ」 「頂戴するとしよう。ではコップを用意しなければ」 「ああ、そんなくだらない雑用でご主人の手を煩わせるわけにはいきませんよ。私がやりますから座っててください」 「すまない、では頼んだ」 「あかしくんあかしくん、今日のは前とちがうやつだけど、これもすっごいおいしいよー♪」 「そうか、楽しみだ」 楽しみ――自然と口をついて出た言葉に対して、喉の奥に小骨が引っかかったような違和感を覚えた。 積極的に快楽を求めたりはしない。少なくとも今まではそうだった。しいてあげれば花の手入れがそれに当たるのだろうか。 どちらにせよ、人間が日々の生活で感じる悦びに無頓着だった私が、九條の淹れた紅茶を少なからず求めているという事実は、私が人間に近づいてきた証ではないだろうか。 ますます九條の紅茶を飲まずにはいられない。 「お待たせしました。ノエルの愛情がたっぷりつまったコップです」 コップにすらも愛が宿るという新事実も気にはなったが、それよりもノエルの用意した数に疑問を抱いた。 ひまわりは水筒に備え付けられたものを使用するとしても、私と九條、ノエルの三人に対してテーブルに置かれたコップは二つだけだった。 「ひとつ足りないと思うのだが」 「ああ、別に私は喉渇いてませんし、何から何まで九條さんのお世話になりたくないですから」 「えぇー、もったいないよー? すっごくおいしいからのえるちゃんも飲んだ方がいいのに」 「私も同意見だ。栄養摂取に対する概念を変えられる。無理にとは言わないが、できればお前も口にした方がいい」 食の本質とは活動を維持するための栄養摂取でしかない。嗜好を満たすという側面もあるが、必ずしも必須ではない。 感情が満たされずとも胃袋だけで事は足りる。事実、毎晩親方のおでんだけで済ませていても、何ら不都合は感じなかった。 だが彼女の紅茶にはそんな認識を変えるだけの力が備わっていた。少なくとも私の食に対する考え方に一石を投じるだけの力だ。 「ご主人がそこまで言うなら、いつもみたいに二人でひとつのコップを回し飲みしてもいいですけど」 いつもというのは何時の事を指すのかわからなかったが、ノエルがそれでいいのなら私に断る理由はない。 透明のグラスがオレンジ色の液体で満たされてゆく。喫茶メントレで見たものより幾分、色が薄いように見える。 「これは以前と同じものだろうか」 「いえ、一昨日にお二人が飲まれたのはアッサムですが、今日用意したのはダージリンになります」 「前はホットでしたが、今日は気温が高いのでアイスティーにしてみました。ダージリンはアイスティーにも向いていますので」 差し出されたコップを手に取り口元に近づけると、以前にはなかった強烈な甘い香りが鼻腔をくすぐる。 オレンジ色の液体を喉に流し込むと、口の中一杯に果実のような香りが広がった。 「…………」 完全に口内から食道を通り胃の中に収められた後も、舌の上には紅茶の甘さが余韻として残っていた。 「心地よさに身体を包みこまれているようだ」 「今日淹れたのは私のお気に入りなんです。お口に合って良かったです」 「お口にあってよかったですぅ~、じゃないですよ。たかが紅茶くらいで大げさな」 「私だってたまには飲みますよ、午後に紅茶飲んだりしますよ」 「みつきちゃんのやつはとくべつなんだよ~」 「どうだか。おいしいかどうかは私が決めますよ。どうせサンドイッチと同じでどうにもコメントに困るような味なんでしょうけど」 手の中にあるコップをノエルに渡す。 「ご主人は普段からあまり食べ物に興味がない分、ちょっと変わったものを飲まされて驚いただけですよね?」 「その気持ちわかりますよ。私も最初コーラ飲んだ時は、舌に広がる味と感触にやられて一人で喘いじゃいましたからね」 ノエルの主張が正しいのかどうか不明だったが、少なくとも私は喘いでなどいない。それだけは確かだ。 「じゃあ美月ちゃんの愛情たっぷりな液体、略して美月ちゃんの愛液頂きまーす」 「愛液?」 「?」 「何それ? おいしいの?」 「……いえ、ネタが不適切でした。内容の健全さうんぬんではなくて、あなた達の精神年齢を考慮すべきでした」 またも登場する愛という単語――愛に対する理解は遠くなるばかりだ。 ノエルは呆れた様子でコップに口をつける。ノエルの小さな喉が上下に波を打った。 「んぐ……んぐ……」 「…………」 どこか緊張した面持ちでノエルを見つめる九條。ノエルが反応を示すのに、そう時間はかからなかった。 「ん……ふわぁ……」 紅茶を飲み干したノエルから熱い吐息が漏れる。口の中に広がる香りを持て余しているのだろう。 だがそれにしてもノエルの様子はどこかおかしかった。 「んあっ……あっ……ふあぁっ……」 「……えっ? えっ!?」 目を細めて顔を紅潮させ耽美な声を漏らすノエルと戸惑う九條。 「あれぇ? のえるちゃんがきもちよさそーな顔してるよー?」 「こんなの……んっ、すごい……はぁっ……んんっ……!」 「やはり九條の紅茶は特別なようだ」 「え、特別って、あんな風になるようなものは入っていないのですが……!?」 「んんっ……! 悔しいのに、感じちゃう……」 感受の仕方は人それぞれだ。共通点を見出すとすれば私とノエル、両者の感情を動かしたという点にある。九條の淹れた紅茶にはそれだけの力が備わっていた。 「んっ……ふぅ」 「だ、大丈夫なのですか……?」 「ええ、大分落ち着きました。いやぁ、少しばかり舐めてたようですね。危うく二度目のシャワーを浴びる羽目になるところでした」 「それほど汗を掻いているようには見えないのだが」 「もう……人前で何を言わせようとするんですかっ。ご主人のえっち♪」 H? 卑猥な考えを抱いた者に対する俗称だろうか? いや、わいせつな言動をした覚えはない。 だとすればHとは一体……? 女性特有の胸部に装着する下着のサイズだろうか? 確かノエルのサイズがそれだったはずだが……それでも今の会話内容と関係しているとは思えない。 「いやぁ、確かにこれは言うだけの事はありますね。初めて飲んだコーラに匹敵する衝撃です」 「喜んで頂けたようで何よりです」 ノエルのリアクションに戸惑っていた九條だが、賛辞を述べられ喜びを感じているようだった。 「これならまるで使い道がないというわけでもなさそうですから」 「どうです? 忠誠を尽くすなら雑用係りとしてコキ使ってあげても構いませんよ?」 「丁重にお断り致します」 「ご主人の視界に入る場所に置いてあげるというのに、強情な人ですね。それともお手伝いさんじゃ不満ですか?」 「もしかしてセフレがご所望ですか? 卑しい性奴隷として身体を捧げたい系ですか?」 「うっわ~、あざといわぁ、やっぱり目に余るあざとさやわぁ~」 「ところがどっこい、ご主人の性欲処理は間に合ってますから」 「それに九條さんの可愛らしいおっぱいじゃ、私の身体に慣れてるご主人を満足させるのは――」 「赫さん、もう一杯いかがですか?」 「ああ、ではお言葉に甘えるとしよう」 「スルー出たー! 清清しいまでのお嬢様スマイル出たー!」 「ノエルさんもいかがですか? お気に召したようでしたので、もし良かったら」 「飲みます飲みますよ。コップ持ってきますから私の分も残しておいてくださいね」 僅かな時間の間に、すっかりノエルも九條の紅茶に魅了されたようだ。一度口にした者なら誰しも共感できよう。 「今まで飲んだ紅茶と次元が違いましたね。全く、何をどうすればそんな奇跡みたいな味になるんですかね」 「……お話してもよろしいのですか?」 九條の腰が浮いた気がした。もちろん肌で感じただけであって、実際には椅子に腰を下ろしたままだったのだが。 「よろしいですか、ってどうして私の同意が必要なんです?」 「聞いているのはこっちでしょう? 勿体ぶらないでさっさと言えばいいじゃないですか」 「……はい、わかりました。そういう事でしたら、今回淹れた紅茶に関しての説明をさせて頂きますね」 「あ、あかしくん……」 「ああ、私もキミと同じ感情を抱いている」 「どうしたんですか二人とも? まるで恐怖の大王が空から降りてくるのを眺めてるような顔ですけど?」 「恐怖……とは少し違うのだが」 「のえるちゃん。じんせーには見てみぬフリをしなきゃいけない時もあるんだよ」 「???」 えらく達観したひまわりの物言いに驚かされたが、逆に考えれば年端もいかない子供にすら、九條の話は人生の何たるかを教授するに十分だったのだ。 「ではまず今回使用した茶葉ですが、私が一番好きなダージリンのセカンドフラッシュです」 「マスカットフレーバーを持つ、質の良い茶葉を使用しました」 「セカンドフラッシュとは初夏摘みという意味でして、今の季節になると出回る茶葉ですね」 「茶葉がいつ摘まれたかによって同じ種類の茶葉でも名称が異なります」 「春に摘まれた物はファーストフラッシュ、初夏に摘まれるセカンドフラッシュ、秋になるとオータムナルと呼称が異なり――」 「…………」 ノエルの顔が疑問から不愉快なものに変化していく。 壁に設置された時計に目をやる。朝食が済み次第、という当初の予定は放棄せざるを得なかった。 九條の先導に従い、新市街の住宅街を四人で歩く。 平日の昼間ともなれば住居の立ち並ぶこの辺りに人の気配はほとんど感じられない。仕事なり学業なり、あてがわれた役目をこなしているのだろう。 「ノエルさん、お顔が優れないようですが……」 「誰のせいだと思ってやがるんですか、このえせクールビューティーめ。全く、とんでもない目に遭いました」 「くーるびゅーてぃー? 冷凍されたカニさんとかが送られて来るやつ?」 「それはクール便だ」 《か》〈斯〉く言う私もノエルの口にした単語の意味に心当たりはないが、ひとまずひまわりの願望が混じった勘違いを正す。 「金輪際、私の前で紅茶の話はしないで下さい。出来上がったものを持って来るだけで結構です」 「そんなぁ……」 どうやら人間は自らの趣味について語りたがる生物らしい。現に九條はその機会を拒否され彼女らしくない情けない声を上げた。 「九條、キミの紅茶に対するこだわりは重々承知している。だがそろそろ本題に入っても良いだろうか?」 私は昼の陽気に包まれた街並みを散策しに来たわけではない。“上司”に会うという重要な使命があるのだ。 「“上司”のいる場所まであとどのくらいかかるのだろうか」 執念の切れ端が九條にも届いたのか、緩み気味だった彼女の顔つきが正された。 「はい、もうまもなくです。この通りを進んで突き当たりを曲がったところですね」 ノエル達を交えた会話の最中も、通り過ぎてゆく景色に見覚えがあった。私はこの道を何度も通った経験がある。 そして九條の提示した道順を脳内で先回りするが、記憶の中に留まる景色を難なく繋ぎ合わせられる。 この道は私が普段、喫茶メントレへ出向く際に通る道だった。 九條の示した道順と私の記憶は相違なかったようだ。メントレの前に着くと、九條はここだと言って店内に足を踏み入れた。 言葉数の少ない九條に続き、私達三人も珈琲の香りが漂うメントレのドアをくぐる。 平日の昼間と言う事もあり、店内には客の姿はなかった。聞かれてはまずい話をするにはうってつけの場所だろう。 「キミの“上司”はまだ来ていないようだ」 「……いえ、もう既にいらっしゃいます」 「何……?」 「いらっしゃいませー」 カウンターの奥からタオルで手を拭きながら急ぎ足で歩み寄るマスター。 「赫さんと美月さんでしたか。すみません、たった今、豆をこぼしてしまいまして、片付けていた最中なんですよ」 「……ごきげんよう」 「ゴキゲンオー♪ メロンソーダさんください!」 「はいはい、少々お待ちくださいね。おや、そちらの方は……」 マスターは初対面であるはずのノエルを見て小さな驚きを浮かべた。 「……そうですか、遅かれ早かれこうなるとは思っていましたが」 「申し訳ありません……でもこれ以上、隠してはいられませんでした……」 「九條、どういう事だろうか。ここでキミの“上司”と待ち合わせているのではないのだろうか」 私の猜疑心が確信に変わるまで時間は必要としなかった。 「ひまわりさんを連れて赫さんの元に向かうよう指示をしたのは――」 店主は困ったように笑う。悪戯が露見した子供のように。 その微笑みは思い描いていた“上司”のソレとは大きくかけ離れていた。 「まさかマスターが“上司”だったとは驚きだ」 「騙す様な真似をして申し訳ありませんでした」 それぞれテーブル席に腰を下ろし、話をする体勢を整える。準備中を示す看板が入り口のドアにかけられ、客が訪れる心配もなかった。 「謝罪の言葉は求めていない。マスターを責めるつもりもない。私が知りたいのは何故九條を使って私にひまわりを預けたのか――」 「そして、報酬として用意しているであろう“《ファントム》〈亡霊〉”の情報だけだ」 「驚きはしないのですか?」 「私としては、時期に美月さんの口から私の存在が漏れるのは想定内でしたが、もう少しびっくりしてもらえると思っていたのですが」 「私にとって寝耳に水の話だ。当然虚をつかれた。それでもマスターがそう感じないのであれば、あまり顔に出ていないのだろう」 「言われてみれば、普段から赫さんはあまり顔に出るタイプじゃありませんでしたね」 「…………」 マスターとのやり取りの最中も、並んで座る九條は俯き加減で沈黙を貫いていた。 「美月さん、もしも責任を感じているのでしたら、その必要はありませんよ。元々、無理をお願いしたのは私ですから」 「でも……私は約束を破ってしまいました」 「先ほども言いましたように、こうなるのは早いか遅いかの違いだけだと思っていましたから平気ですよ」 「今まで付き合ってくれてありがとうございました」 「何故九條はマスターの指示に従ったのだろうか。私には九條が進んでマスターに手を貸すようには思えないのだが」 「そうですね……どこから話しましょうか」 マスターは僅かに目を細めて言葉を選んでいるようだった。 幸い、それを邪魔する者はいない。唯一の懸念であるひまわりはマスターの用意したクリームソーダに夢中だった。 あれだけサンドイッチを食べたにも関わらず、一体その小さな身体のどこに収められているのか興味は湧いたが今は置いておこう。 ノエルに至っては両腕を組んだまま、じっとマスターを見据えていた。彼の思案を阻む者はいなかった。 「……まずは美月さんが私のお願いを聞いた理由から説明しましょうか」 考えがまとまったようで、マスターはゆっくりといつもの穏やかな調子で語り始めた。 「実は私、今では趣味が高じて喫茶店の店主などをやっていますが、以前は“Archive Square”で働いていたのです」 「マスターが? 関連企業ではなく、“AS社”の本社でだろうか?」 “AS社”の影響力は本社のあるこの街においては絶大だ。コンビニエンスストアからファーストフード店に至るまで、“Archive Square”関連の企業が数多く存在する。 以前、東雲市内で働く人間の約半数以上は“Archive Square”系列の企業に属していると聞いた。そう考えればさほど驚くような話ではないのだが。 「そうですね。“Archive Square”本社、それも一応肩書きのある役職についていました」 「“AS社”の重役は“《イデア》〈幻ビト〉”で構成されていると聞いた。まさかとは思うが、マスターは……?」 「いえいえ、私は見た通りの、良くも悪くも平凡な人間ですよ。彼らの言葉を借りれば“《クレアトル》〈現ビト〉”と呼ばれる存在です」 “《イデア》〈幻ビト〉”という言葉を理解し、なおかつ“《イデア》〈幻ビト”から見た人間の総称を口にする辺り、“AS社”で重要なポスト〉についていたというのは疑いようのない事実だろう。 社会の歯車でしかない人間ならば、一生知らずに終える単語だ。マスターの告白に説得力を持たせるには十分だった。 「マスターが“AS社”で勤務していたというのは本当なのだろう。話を続けてくれ」 矢継ぎ早に疑問をぶつけるよりも、マスターの説明を待った方が懸命だと判断し話の先を促す。 「はい。私が“AS社”で勤務していたのは今から4、5年前でしょうか。辞める直前、私はあるプロジェクトの発起人になっていました」 「あるプロジェクトとは?」 「赫さんもホテルで聞いたと思います。7年前、“ナグルファルの夜”で起きた大規模なパンデミックを収束させたワクチン“AS9”」 「それを元に改良した新たな特効薬である“AS9+”という薬の話を」 「…………」 “AS9+”――“《フール》〈稀ビト〉”から“《デュナミス》〈異能”を消し去る薬。隣に座る九條が切実な思いで求めた奇跡の特効薬〉だ。 「私が会社を辞める少し前から、“AS社”では世間に生まれ始めた“《フール》〈稀ビト〉”の対処に苦慮していました」 「“《フール》〈稀ビト〉”の存在は“《ディストピア》〈真世界”に悪影響を与えると考えた彼らは、非人道的な手段で“《フール》〈稀ビト”を捕らえていました」 「しかしそれは必ずしも“AS社”の総意ではなかったのです。もっと人間に影響の少ない合理的な手段を取るべきだと主張する者も多かったのです」 「マスターはどちらの考えを支持していたのだろうか」 「どちらだと思いますか?」 小さな笑みを浮かべながら問いかけるマスター。 「後者ではないだろうか。マスターの性格から判断すると、あまり血生臭い行為はしっくりとこない」 「そうですね、自分でもそう思います。私はどこまでいっても争いから逃げるタイプですからね」 「私は“AS9+”の開発を提唱しました。とは言っても薬学に関する専門的な知識など皆無だった私にできたのは、薬が開発できる環境を作る事くらいでした」 「社内の同意を得るために、私はある知人に話を持ちかけました。名前を出せば、彼らも無視できない大企業の社長のね」 そこまで言われれば、マスターの知人に関する推察は可能だった。 「それが九條剛三だったと言うわけか」 「ご明察です。私は以前から個人的に交流のあった九條社長に“AS9+”の開発に出資しないかと提案しました」 「彼がこの話を無視するとは思っていませんでした。私はその前から相談を受けていましたからね」 「娘が“《フール》〈稀ビト〉”だと聞かされていたのか」 「ええ、その通りです」 九條剛三は娘に対する執着が人一倍強い。“《デュナミス》〈異能〉”に悩む九條を救うためなら多少の無理は通すだろう。 彼にとってマスターの提案は歓迎こそすれど断る動機など微塵もなかったはずだ。 「私のお願いに美月さんが従ってくれた理由はそれです。恩着せがましくて嫌になっちゃいますね」 「なるほど。“AS9+”の開発にこぎつけてくれた恩義があるから、九條はマスターに従ったのだな」 「……申し訳ありません。恩を仇で返すような事になってしまって」 「謝らないでください。恩があるというのでしたら、もう十分返して頂きましたから。これ以上は私が心苦しくなってしまいますよ」 疑問点のひとつは解消された。九條の性格を考慮しても納得のいく理由だ。 後は本題が残るのみ。どこまでいっても九條の行動原理は副次的な疑問に過ぎない。 「マスターが“AS社”に所属していたのはわかった。九條に命令できた理由も理解した」 「では教えてほしい。どうして私に九條を接触させたのか。そして何故ひまわりを私に預けなければならなかったのか」 「……そうですね、どう話せば良いものか」 「最初からで構わない。順を追って説明してほしい」 「わかりました。では私がひまわりさんと出会った時の話をしましょう」 今まで以上に気を使いながらマスターは話し始めた。 「私がひまわりさんと出会ったのは今から一週間前ほどでしょうか。駅の近くにある輸入業者に珈琲豆の注文に行った帰りでした」 「帰宅の途についていると、目の前からふらふらと歩いてくる人影が見えました」 「夜も遅い時間でしたから、小さな女の子が一人で歩いている事に疑問を持ちました」 「ですがわざわざ声をかけるほど人が良い訳でもなく、素通りしようと思って脇を通り過ぎました」 「ですがすれ違った瞬間、その女の子は――ひまわりさんの事ですが、急に力を失ったようにその場に倒れこんだのです」 「そのまま放置する訳にも行かず、ひとまず病院に連れて行きました」 「診察の結果は、過度の空腹による体調不良との診断でした。点滴を済ませた後、店まで連れて帰ったのですが……」 空腹による行き倒れ。何とも説得力のある現象だ。 「親元に帰そうと、何故行き倒れてしまったのか聞いてみたのですが、どうにも要領の得られない返事ばかりで」 「それは今と変わらないな」 「今以上ですよ。どうにか私にわかったのは、記憶に一時的な障害が起きている事」 「つまり自分がどこから来たのか、どこに住んでいるのか覚えていなかったのです」 「それも今と同じだ。人間とは都合の悪い記憶は忘れてしまう傾向にあると聞いた。ひまわりにも思い出したくはない過去があるのだろう」 「それはずる賢い大人の言い訳ですよ。少なくともひまわりさんが自覚しているようには思えません」 確かに、彼女にそこまで計算じみた行動は取れないだろう。 「次に私が取った行動は、ひまわりさんの情報を探す事でした」 「インターネットを使って捜索願いのチェックや、街のコミュニティにそれらしき情報がないかを洗い出しました」 「ですがそれらしき手がかりは見つかりませんでした」 「今も継続してひまわりさんの情報を探していますが、有力な手がかりは得られていません」 外部から情報もなく、本人から詳細を聞き出す事もままならない。それではいかにネットワークの発達した現代においてもお手上げだろう。 「それが何故、私と結びつく結果になったのだろうか」 「恥ずかしながら、この店の人手は多くないのです。唯一いたバイトの子も突然連絡が取れなくなってしまいましたし」 「バイトとは待遇に恵まれない分、その業務自体への執着が薄い。私の職場でも、同じような人間は少なくなかった」 「ええ、ですが雇い主としては困ってしまいますよ。責任感のある良い子だったのですが」 「感情の移ろいなど他人に把握しきれるものではない。所詮、誰しも個の事情を優先するのだ」 無論、それは“《イデア》〈幻ビト〉”である私も例外ではない。 「唯一の従業員もいなくなり、店を回すのに手一杯になってしまいました」 「幾分落ち着いたとはいえ、とてもひまわりさんの面倒を見ながらの両立は不可能でした」 これまでのひまわりが取った行動や言動を見る限り、この店の経営と二束のわらじを履くのは到底無理は話だろう。 「そこで思い立ったのが赫さんの存在です。あの方なら、ひまわりさんの面倒を見てくれるのではないかと」 「何故そう思ったのだろうか。子守が得意などとマスターの前で話した覚えはないし、その素養もあるとは言い難い」 一般の人間と違い、業務に拘束される時間は短い。そこまで身を粉にして金銭を獲得する必要がないからだ。 それでも私が適任だとマスターが考えた思考の流れに疑問を抱いた。 「赫さんなら、この子への理解も早いのではないかと……以前お話を伺ったのを思い出しまして」 「私も同じような境遇だからか」 記憶の一部に欠落がある。以前マスターには私の過去に関して話した覚えがあった。もちろん詳しい内容には触れていない。そのための情報すら抜け落ちているのだ。 「同じような事情を持つ二人なら、きっと理解も早いだろうと。お互いに良い影響もあるような気がして」 ひまわりの記憶に問題があると知った時、私は大した反応を示さなかったように思う。仮に普通の人間ならば、何かしらのリアクションを取るのだろう。 そう言った意味でも“《イデア》〈幻ビト〉”である私は都合が良かったのかもしれない。社会との繋がりが薄ければ薄いほど、秘密裏に進めたい計画に面倒事は起き難い。 「しかし何故、ひまわりはマスターの事を覚えていないのだろうか。先日ここに来た時は顔見知りのようには見えなかったのだが」 「私のところにいたのはほんの数日ですし、その頃はまだ状態が安定していませんでしたから覚えていないのも無理はありません」 「赫さんに預かって頂く前に、美月さんの元に行ってしまいましたし、私と顔を合わせていたのはたかが数日の話ですので」 なるほど、ただでさえ要領の得ない発言の多いひまわりが、精神的に不安定だった事を考慮すれば通常の反応を示さないのもおかしな話ではないだろう。 「しかし何故九條を使ってまでひまわりの委譲を間接的に行う必要があったのだろうか? 直接私に依頼すれば済む話だと思うのだが」 「…………」 それまで全ての疑問に答えてきたマスターの口調が始めて淀んだ。 「……それについては事情がありまして……できれば今は聞かないでいてほしいのですが」 今更隠すような事情があるとは思えないのだが――いや、事情とは人それぞれに重みがある。そして必ずしも他人に理解できるとは限らない。 「わかった。マスターの個人的な都合はさして重要ではない。無理に答えなくても構わない」 「ありがとうございます。いずれお話できる日が来ると思います。時が来たらその折には必ず」 マスターは話しつかれたのか、ふっと息を吐き出した。 「大体の事情は飲み込めた。最後にもうひとつだけ聞かせてほしい」 「はい、もちろん構いませんよ」 本件に関しての業務契約は不完全な形であり不満が解消されていない。期間についての詳細も知らされていないのだ。 しかし決定権を持つ依頼主が現れたとならば、契約内容を完全な形に昇華できるだろう。 「マスターからの依頼は引き続き継続しよう。しかし明確な期日を設定してはくれないだろうか。こちらとしても終わりの見えない業務に従事するのは避けたい」 「申し訳ないのですが、現段階でも正確な日数を設定するのは難しいですね……。ですがそう長くはないと思いますよ」 「というと?」 「もうまもなく、ひまわりさんの足取りが掴めそうなんですよ。早ければ2、3日で結果が出ると思います」 「ではひとまずその辺りを目安にしておこう」 思ったよりも長くならずに済みそうだ。数日程度ならばマスターの動向を見守ってからでも遅くはない。 「調べ物の結果に期待している。できれば報酬は早く受け取りたいのだ」 「その事なのですが……」 マスターは思いがけぬ言葉を口にした。 「私の知っている話でよければ、今お教えしても構いませんよ」 「それは本当だろうか……?」 「ええ、ですがあまり過度な期待をされると裏切ってしまうかもしれません」 「情報の程度によって今後の行動に変化が出るというのでしたら、私の立場上お教えしかねますが……」 「わかった、約束しよう。内容がどんなものであれ、ひまわりの面倒は期日が来るまで請け負おう」 「ありがとうございます。それでしたら私も安心してお話できます」 探し求めていた“《ファントム》〈亡霊〉”の手がかりを前にし、図らずも身体に力が入る。 緊張しているのだろう。無理もない、私にとって何物にも代えがたい唯一無二の執着なのだから。 マスターはそんな私の考えを知ってか知らずか、今一度真剣な面持ちで話し始めた。 「赫さんがこの店に始めて来たのはいつだったか覚えていますか?」 「どうだっただろう。2、3年前だったと思うのだが、正確な日付は覚えていない」 「3年前、今よりももっと暑い季節だったはずですよ。真夏なのに随分暑苦しい格好をしている方だなと感じたのが第一印象でした」 私の身体は常人よりも幾分体温が高い。夏と言えども体感する温度はさほど暑いとは感じない。そのせいで衣服の選定が他人とはズレてしまう。 「始めはちょっと変わったお客様だなと思う程度でしたが、何度か足を運んで頂くうちにどこかで見た覚えがあるような気がしてたんです」 「私とマスターに面識があったのだろうか?」 「いえ、そうではありません。一方的に私が赫さんの顔に見覚えがあったのです。思い出すまでにそう時間はかかりませんでした」 「赫さんの情報はある機密文書の1ページに記載されていたのです」 「ある機密文書……?」 「私が“AS社”に勤めていた時――“ナグルファルの夜”の最たる被害が発生した7月7日の少し前です」 「そういえば明後日で丁度7年になりますね。いや、時間の流れというものは恐ろしいほどに早い」 「感慨に耽るのも悪くはない。だが今は」 「そうでしたね、すみません。ある機密文書とは“AS社”の管理する“《ディストピア》〈真世界〉”にやって来た“《イデア》〈幻ビト”のリストです」 「そのリストによれば、赫さんが“《ディストピア》〈真世界〉”に来たのは7年前の6月頃だったようです」 「その辺りの記憶はおぼろげだ。しかしノエルの証言とも一致している。その文書に間違いはないだろう」 “《ディストピア》〈真世界〉”に来たのはおよそ7年前。記憶が曖昧になっているのはその辺りの時期だ。 「赫さんが“《ディストピア》〈真世界〉”に来た同時期に、今までになかった大規模な“《イデア》〈幻ビト”の移動が行われました」 「とは言っても“《イデア》〈幻ビト〉”の総数は人間と比べると微々たるものなので、せいぜい2、30人といったところでしたが」 「それでも前例のない出来事でした」 「何故“《イデア》〈幻ビト〉”が大量に“《ディストピア》〈真世界”へと来なければならなかったのだろうか」 「それは私にも……ですが時期が時期ですので、恐らく“ナグルファルの夜”と何らかの繋がりがあると思います」 「赫さんも聞いたでしょう。“ナグルファル症候群”の原因は突如現れた“穴”から漏れ出た瘴気によるものだと」 「東堂――マスク男はそう言っていた」 「あれは紛れもない事実です。“《ディストピア》〈真世界〉”で起こるはずのない現象が起きた」 「そして同時期に行われた“《イデア》〈幻ビト〉”の移動。確証はなくとも、この二つが無関係だとは到底思えません」 「それに関しては、私よりもノエルさんの方が詳しいのではありませんか?」 「…………」 「あ、すみません私ですか? 聞いてませんでした。あまりにも退屈だったので爪見てましたよ」 ノエルは椅子に深く腰掛けたまま、眠たげな顔を上げた。 「7年前の出来事について、お前の知っている事をもう一度話してくれないだろうか」 「前に話した内容以上のものは出てきませんよ。私達が“《ディストピア》〈真世界〉”に来たのは“《ユートピア》〈幻創界”に飽きたからです」 「物見遊山のつもりでしたが、まさかここまで長く留まる事になるとは想像してませんでしたけどね」 私には“《ディストピア》〈真世界〉”から離れられない訳がある。結果的にノエルを付き合せてしまってるのが現状だ。 「まあ刺激のない“《ユートピア》〈幻創界〉”にいるよりは、こっちの方がまだ退屈しのぎに困らなくていいんですけど」 「あ、誤解しないで下さいね。どこにいても私はご主人がいればそれだけで幸せなんですから」 身に余る言葉は光栄だったが、やはりノエルの口から進展するような情報は得られなかった。 「結局、重要な手がかりになるものはないのだろうか」 「申し訳ありません。ただ私の話はまだ終わっていませんよ」 落胆しかけた私を尻目にマスターは話を続ける。 「過去について私が知っている事はもうありませんが、現在についてはもう少しお話できます」 「現在とは?」 「赫さんが追っている“《ファントム》〈亡霊〉”に関する最新の情報です」 「どうやら“《ファントム》〈亡霊〉”は現在東雲市付近に潜伏しているようなのです」 「それは本当だろうか……? 巷で流れている噂ではないのだろうか?」 「赫さん、“《ファントム》〈亡霊〉”の噂が流れるようになった原因は何だか知っていますか?」 「噂の根源は大体が作り話によるものだと考えている。しかしこの件に関しては当てはまらない。実際に私はその姿を見たはずなのだから」 「そうですね、伝承やおとぎ話と違って“《ファントム》〈亡霊〉”は実在します」 「まあ元々は昔からある通り魔か何かの噂を人為的に流用して作り上げているのですが」 「どういう事だろうか?」 「“《ファントム》〈亡霊〉”とは何らかの目的を持って殺戮を繰り返す、人間ではない何者かの存在を公にしないために“AS社”が流布しているんです」 “AS社”が“《ファントム》〈亡霊〉”の噂を流している……? 「“《ファントム》〈亡霊〉”とは目に見えぬ幽霊などではなく、実際に存在する“《イデア》〈幻ビト”、または“《フール》〈稀ビト”なんです」 「誰もその姿を確かめたわけではありませんが、現場に残された形跡や被害者の惨状などを見れば、とても人間業ではありません」 「本当かどうかはわかりませんが、目撃者の証言によると血にまみれたような赤い瞳だったという話もありますし……」 「赤い瞳の“《イデア》〈幻ビト〉”か“《フール》〈稀ビト”……」 “《イデア》〈幻ビト〉”か“《フール》〈稀ビト”―― その可能性を考慮していなかったわけではない。定かな記憶はなく想像でしかないが、人間相手に7年前の私が何らかの痛手を被ったとは考え難いからだ。 記憶の奥底に眠る憤怒――その原因が人間離れした“力”を持つ者の仕業である可能性は高かった。“《ファントム》〈亡霊〉”が“《イデア》〈幻ビト”か“《フール》〈稀ビト”であれば説明がつく。 「“《ファントム》〈亡霊〉”がこの街にいるというのは本当だろうか?」 「ええ、“AS社”に勤めている昔の知人に聞いたのですが、ここ最近ニュースにはなっていない死亡事件が多発しているようなのです」 「公にならないのは“AS社”が情報の隠蔽を行っているからです。何故隠さなければならないのか」 「人間の理解を超えた存在」 「彼らは混乱を防ぐため、この先も“《イデア》〈幻ビト〉”に関する情報は伏せておきたいようですからね」 「彼らが隠しているという事は、その死亡事件の犯人が何者であるのか想像がつきます」 心臓の鼓動が波を打つ。手を伸ばせば届きそうな距離に、私の求めていた影がちらついている。 無意識のうちに上昇する体温を抑えるために感情を制御する。 「私が知っているのはこれで全てです。ご期待に沿えたかどうかわかりませんが」 「いや、有益だった。報酬としては十分だ」 元々“《ファントム》〈亡霊〉”の所在を得られるなどと過度な期待は寄せていなかった分、マスターから聞いた話に肩透かしを食らう事はなかった。 追い求めていた過去がすぐ近くにいるという事実が得られただけでひとまずは十分だった。 「この街にいるとなれば、足取りもつかめるだろう。金銭さえ用意すれば頼りになる男もいる」 「ノエル、お前が情報収集を依頼している相手にも今の話を伝えておいてほしい。その方が兎の鼻も効くだろう」 「わかりました、じゃメールしときますねー」 携帯を取り出して画面を操作するノエル。 ほぼ同じくして着信を知らせる電子音が店内に鳴り響いた。 「すみません、私です。出ても大丈夫でしょうか」 「構わない。マスターとの話は終わっている」 九條は軽く会釈をして立ち上がり、少し離れた場所で背を向けて話し始めた。 「もしもし、何でしょうか。今立て込んでいるのですが――」 「……この後ですか? 特に予定はありませんが……別に暇というわけでは――」 「えっ? 本当ですか? ……ええ、はい、わかりました。そういう事でしたらお付き合いしましょう」 「ではまた後ほど掛け直します。ごきげんよう」 会話を終えた九條が席に戻る。その表情は僅かにだが緩んでいるように見えた。 「何か朗報の知らせでもあったのだろうか」 「そういうわけではありませんが……電話をかけてきたのは北条院さんです。このあと一緒に買い物へ行かないかと誘われました」 以前までなら考えられない現象だろう。互いに罵り合いこそすれど、進んで行動を共にする間柄とはほど遠かった。 「キミ達二人が連絡先を交換しているとは意外だった」 「昨夜別れる前に彼女の方から申し出がありまして交換したのです。まさかこんなに早くかかってくるとは思いませんでしたが」 「今は取り込んでますからまたの機会にお願いしようと思ったのですが……紅茶について教えてほしいと頼まれてしまいまして」 そう言う割には嫌がる素振りは見受けられなかった。 「問題はない。キミの役目は十分に果たしてもらった。取り急いでの用件もない」 「申し訳ありません。あっ、そうだ」 不意に何かを思い出したのか、九條は小さく目を見開いた。 「昨日、ホテルから飛び降りる前に行きたい場所があると言ったの覚えていらっしゃいますか?」 「ああ、その場で聞いてもキミは教えてくれなかったな。今なら教えてくれるのだろうか」 「はい。あの、“しののめフラワーパーク”ってご存知ですか?」 「名前だけは聞いた事がある。この街の近くにある観光施設だろう。テレビのCMで目にしただけで実際に足を運んではいないが」 「はいはーい! ひまわり知ってるよー♪ いっぱいお花が咲いてるとこでしょー?」 それまでクリームソーダに夢中だったひまわりが声を発する。 なるほど、テーブルの上に置かれているのは空のグラスただひとつ。己に課せられた役目を全うした者の残骸がそこにはあった。 「なになにー? 遊びにいくのー? だったらひまわりも一緒に行くよー♪」 「もし皆さんがよろしければ、一度四人で行ってみませんか? きっと赫さんも楽しめる場所だと思いますよ」 “しののめフラワーパーク”。その名の通り、様々な種類の草花が用意されているのだろう。個人的な興味を大いにそそられる。 「私は構わないのだが、ノエルはどうする」 「ご主人が行くなら当然ついて行きますよ」 丁度メールを打ち終わったノエル。携帯の操作をしながらも会話の内容を把握していたようだ。 「泥棒猫と二人きりにしたら何をしだすかわかりませんからね。また昨日みたいな面倒事に巻き込まれたら洒落になりませんし」 さすがに続けてあんな特殊な事態が発生するとは思えないし、何よりも遠慮したい。 「で、いつ行くんですか?」 「はいはーい、ひまわりは今すぐ行きたいでーす♪」 「さすがに今からというのは急ぎすぎではないだろうか。九條には予定もあるようだ」 「じゃあ明日! 明日で手を打ちますっ!」 「明日か。私は構わないが、二人はどうだろうか」 “《ファントム》〈亡霊〉”に関する情報がすぐに上がって来るとも考え難い。明日であれば時間を割いても影響はないだろう。 もちろん知らせが入れば予定が変更されるのは言うまでもない。 「はい、明日で問題ありません。丁度学園もお休みですし」 「ノエルはどうだ」 「私はいつでも構いませんけど。お邪魔虫二人がいなければもっと気乗りするんですけどねー」 「では詳細な時間を決めよう。移動手段も予め調べておかなければならない」 「交通手段については私が知っていますのでご安心下さい。時間なのですが、後でご連絡するという形でも大丈夫でしょうか?」 「わかった。キミに任せる」 「はい。あの、赫さんは電話をお持ちですか? よろしければ番号を教えて頂きたいのですが……」 「所持している。とは言ってもあまり使った事がなくて、今だ操作に慣れていないのだが」 上着のポケットから手の平サイズの電話機器を取り出す。 「普段から必要とする機会がない。現在登録されている連絡先もノエルのものしかない状態だ」 「め、珍しいのですね。私もあまり多い方ではありませんが、知人や職場、良く行くお店など登録しておいた方が便利だと思いますが」 「実際に何件か登録をした経験はある。だが必要ないと判断されて消去されてしまった」 「え……?」 「所持する者にとって有益ではないと判断されれば自動的に消去される。携帯電話にはそういった機能が搭載されているのだろう?」 「ええ、そういう機能(物理)がついてます」 「……できれば私の番号は消さないようお願いします」 「気分次第ですかね。でもご主人に色目使うような人の番号は消すのも時間の問題ですけど。あ、もちろん携帯の機能についての話ですよ?」 「……一応、番号を記した手書きのメモもお渡ししておきますね」 九條に自分の携帯電話を渡すと、彼女は二つの電話を操作し始める。 電話番号の自動消去機能については九條も望んでいないようだった。 いかに機械が進化を遂げていると言っても、個人にとって必要かどうかを判断するのは少々行き過ぎた機能ではないだろうか。 ノエルに聞いてもその機能を解除するのは不可能だと言う。私が理解できない人間社会における常識のひとつだった。 「登録は終わりました。あとこのメモはノエルさんに取られないようにして下さいね」 携帯とあわせて小さな白い紙を手渡される。 ノエルに奪われないようにしろという九條の真意は最後までわからなかった。 「マスターくん、ゴキゲンオー♪」 「ごきげんよう」 「はい、またのお越しをお待ちしています」 「…………」 「皆さんと一緒に行かれなくても大丈夫なんですか?」 「テーブルの上に電話を忘れただけです。すぐに戻りますよ」 「そうですか。その割には私に何か言いたそうに見えるのですが?」 「……あなた、どこまで知ってるんですか?」 「知っている事だけ、ですよ。大体はお話しましたけどね」 「何を企んでるか知りませんが、私の邪魔になると判断したら、二度と珈琲なんて淹れられない身体にしますから」 「おお、それは困りますね。少しだけ隠し事をしているだけなのに」 「でもそれを言ったらあなたの方こそ、赫さんに隠している秘密があるんじゃないんですか?」 「そう、“《ファントム》〈亡霊〉”について、あなたは私よりも詳しいはずですから」 「……あなたは一体何者なんですか?」 「ただの珈琲が好きなしがない喫茶店の店主ですよ」 「ふぅ、あの方の機嫌を損ねたら、命がいくらあっても足りなさそうですね」 「この場で命を脅かされる事態にならないのは“わかって”いましたが、それでも肝を冷やしましたし」 「……まあ彼女の事情からすれば、彼らの目の前で私の口を塞ぐ事くらいやりかねませんからね」 「あと二日……私は私で成すべき役目を果たさなくてはなりませんね」 北条院と会う約束のある九條と別れ、残る私達は帰路につく。 特に予定も入っていなかったため、繁華街の散策をしようというノエルの提案を断る理由はなかった。 「どこか行くアテはあるのだろうか」 「そんなのないですよー。愛し合う者同士なら、目的がなくても一緒にいるだけで幸せな時間が過ごせるんですよ」 「そうか。では私は今幸せだ」 「ふふ、もちろん私もですよ♪」 愛と同じく幸福の定義についても定かではない。とはいえノエルの為になる返答くらいは私でも用意できる。 「平日のこの時間でも、ここはそれなりに賑わっているようだな」 昼下がりの午後――道行く者は時間に追われた様子もなく並び立つ店先を物色しながら優雅に歩いている。 行き交う者の中には男女の組み合わせも目に付く。夫婦、もしくは恋人同士なのだろう。互いに手を繋いでいる様子からも親密な関係を築いているのは容易に想像できる。 「…………」 周囲の様子を観察しているせいか、道行く者と視線が合う回数がやけに多い。しばらく歩いてもその傾向は変わらずない。どうやら注目を集めているようだった。 「ノエル、身体を寄せ過ぎではないだろうか。公衆の面前ではあまり相応しい行動ではないと思うのだが」 「だってぇ~、私の身体を見て興奮した人間が襲って来るかもしれないじゃないですかぁ。きゃっ、ノエルこわ~い♪」 いや怖くはない。ノエルの力であれば指先ひとつで排除できるではないか。 「どうやら今この状態は常識に照らし合わせると公共の場において相応しくないようだ。周りの人間と目があった瞬間、わざとらしく視線を逸らしていくのを見ても明らかだろう」 左腕には胸部を押し付けるような格好でノエルが腕を絡ませている。 一方反対側には迷子にならぬよう手を繋いだひまわりがいる。どうやらこの組み合わせは彼らにとって異様な光景のようだった。 「見たい人には見せ付けてあげればいいんですよ。注目を集めるって事は何かに秀でてる証拠ですから悪い気はしないでしょう?」 「特質すべき点があるとすれば、それはノエルの服装にあるのではないだろうか。前々から思っていたのだが、いくら夏季とはいえ露出が過ぎるのではないだろうか」 学園指定の制服とは違い、ノエルの普段着は肌色の面積が常人のそれを遥かに凌いでいる。 男性に分類される人間にとって、異性の肌とは性欲を掻き立てられる対象だ。コンビニエンスストアなどでも性的興奮を目的とした雑誌などが並んでいる。 恐らく道行く男性にとって、ノエルの身体は劣情を抱くに十分なのだろう。 「わざわざそこまで肌を見せつける必要があるのだろうか。胸部を覆う布の作りも特殊過ぎる。私は他に同じような格好をしている者を見た事がない」 「これは~、いつでもご主人のを受け入れるためにスタンバイしてるんですよ?」 「ご主人がしてほしいって言ったらすぐにできるようになってるんです」 ノエルが何を指しているのか不明だった。だが私の為であるのならこれ以上何も言うまい。 「もしかして私の貞操を心配してくれてるんですか?」 「いやそうではないが」 「んもぉ~、素直じゃないんだから♪ で、も、そんなところも好きなんですけど♪」 だからお前に危害を加えようとする人間がどんな末路を辿るのか……もはやあえて口にしなくてもいいだろう。 「まあたまにこそこそ写真取られたりしてうっとおしいなとは思いますけどね」 「実被害が出ているのであれば、対応策を講じるべきではないだろうか」 「いいんですよ、彼らも役に立っているんですから」 「というと?」 「崇める者がいるから神という存在に価値が生まれるように――」 「私の身体に興奮したしょうもない人間が夜な夜なにゃんにゃんする事で生まれる価値もあるんですよ」 「にゃんにゃん?」 「その他大勢の人間が妄想の中でしか触れられない身体にこうして触れられるご主人」 「触るどころかピーしたりピーがピーでピーピーピーでやりたい放題じゃないですか」 「それは何かの鳴き声だろうか?」 「ご主人はもっと私を愛すべきって意味ですよ。絶対に浮気なんかしちゃ駄目ですからね」 「私は浮気などしていない」 ノエルの説明には不明瞭な点もあったが、追求への流れを感じてこの話題を掘り下げるべきではないと悟った。 「ねぇねぇあかしくん」 「何だろうか」 繋いだ右手に負荷がかかる。ひまわりが立ち止まったようだ。 「ごはん、どこで食べるの? 決まってないならひまわりがえらんでもいーい?」 「……数時間前に朝食を食べたはずだ。つい先ほどメントレで軽食も口にしていた。それなのにもう空腹を感じているのだろうか?」 「ひまわりはせーちょーきだからいっぱいごはん食べないといけないんだよー」 「どうして私達があなたの成長に責任を持たなくちゃいけないんですか。ただの居候のくせに」 「いそーろーでもお腹が空くんだもん!」 「ご主人、このあんぽんたんどっかに捨てて帰りますか?」 ひまわりを預かったのは九條との業務契約があったからだ。利益を優先しただけであって、慈善行為に没頭する理念も余裕も持ち合わせてはいない。 契約上にあった報酬は既に受け取っている。極論を言えばここでひまわりの監視を放棄しても、失われるのは私に対するマスターの信頼だけだ。 とはいえ差し迫ってひまわりから逃れなければならない事情はない。どちらにせよ限られた日数の話だ。 「もうしばらくの辛抱だ。マスターの話が正しければ、解放されるまでそう時間はかからないだろう」 「……変な質問をしてもいいですか?」 「何だろうか」 「仮に数日後、ひまわりが元いた場所へ戻る事になったとして、ご主人はそれで構いませんか?」 「どういう意味だろうか? ひまわりの面倒を見ているのは止まれぬ事情があったからだ。それさえなければひまわりに固執する理由はない」 「そうですか、なら構いません」 「ねぇねぇ! ひまわりお腹空いたんですけど!」 「うるさいですね、特別にご主人の右半分を貸してあげてるんです。それだけで十分満たされてるでしょう?」 「あかしくんは食べられないよ」 どうやら空腹を感じていても食物とそうではない物の区別はつくようだ。とはいえこのまま放置しておけば私の右手を齧り出さないとも限らない。 幸い周囲には飲食店が立ち並んでいる。ひまわりの欲求を満たす手間はかからない。 「あ! はちみつあげぱんさんだ!!」 ひまわりが声を弾ませて前方を指差す。 だが進行方向には人の流れしかなく、地面を見渡してもパンなどどこにも落ちていない。 「見間違いではないだろうか」 「そんな事ないよ! あそこにいるよ!」 ひまわりが手の中からすり抜け、勢いよく駆け出す。 見失ってはいけないと追いかける体勢を取るが、予想よりも早くひまわりの足は止まった。 「はちみつあげぱんさんのおねえさん! ゴキゲンオー♪」 「ちょ、ちょっと、あんまり大きな声で言ったら駄目よ……!」 ひまわりに捕まった少女には見覚えがあった。 数日前、私と九條を襲った“AS社”の少女だった。 「ねぇねぇ! はちみつあげぱんさんくださいっ♪」 「いつも持ち歩いてるわけじゃないのよ。それよりもあまり大きな声を出さないでちょうだい」 居心地が悪いのか、“AS社”の少女は口元に人差し指を当てながら周囲の様子を伺っていた。 不意に少女と目が合う。このまま傍観しているのも不自然だと思い、二人の立つ場所まで歩み寄った。 「子供が好き勝手動き回るのは仕方がない事だから目を瞑るわ。でも保護者の監督不行き届きは許されないわよ」 「迷惑をかけたのなら謝ろう。ひまわり、彼女の服を引っ張ってはいけない」 「でもぉ~、はちみつあげぱんさん食べたいんだも~ん」 「だそうよ。どこにでも売ってるんだから買ってあげなさい。あなたの経済状況は知らないけれど、子供に惨めな思いをさせては駄目よ」 私としては不自由なく食事を与えているつもりなのだが。 「同じ街を生活拠点にしている以上、いつか出くわす事はあるかもしれないと思ってたけれど、まさかこんなに早くやって来るとはね」 「私も同感だ。キミが私達を追ってきたのでなければだが」 「言ったでしょう、あなた達の事は見逃すって。嘘は嫌いなの」 彼女に偽りがなければここで再会したのは偶然なのだろう。僅かに残っていた可能性を否定されて安堵する。 “《ファントム》〈亡霊〉”に接近している今、“AS社”と関わっている暇はない。 「あの娘は一緒じゃないのね……って、何だか知らないけれど、まるで親の仇みたいに睨まれてるのは何故?」 「ああ、キミに非がある訳ではない。こういうものだと諦めてくれると助かる」 「…………」 あえて横目で見なくともノエルの顔つきは想像がつく。 「諦めろって、隠す気もない敵意をぶつけられて黙ってろと言うの?」 「キミの主張はもっともだ。常識的見地から言っても間違いではない。だが正しさで解決できるほど簡単な問題ではないのだ」 もしもそうなら浮気などしていないという私の主張は認められているはずだ。にも関わらず継続的に拷問が行われるのは問題が複雑である事を意味している。 「……あなた誰ですか? 誰の許可を得てご主人とさも親しそうに話してるんですか?」 「初耳だわ、あなたと話すのに許可が必要とはね。それよりも驚きなのは、私の事を知らない人がまだこの街にいたって事かしら」 「アイドル“Re:non”もまだまだね」 「アイドル……? ああ、そういえばこんな顔してへらへら媚び売ってる女をテレビで見たような気がしますね」 「…………」 敵意の眼差しを向けられて萎縮するほど、この少女は気が弱くはない。それはノエルも同様だ。 両者ともに視線を外そうとはせずに数秒が経過する。このまま放置していれば何か良くない状況が生み出されそうだと考え対応を思案していると、不意に少女がため息をついて微笑んだ。 「まあ私は似てるだけで別人なんだけど」 「へぇ、苦しい言い訳ですね。でもまあ顔も似てるしスタイルも良いからアイドルに間違えられてもおかしくないですよ」 「……あなたに言われても皮肉にしか聞こえないわ」 「そうですか。ならあなたの耳は正常ですよ」 「……人をイラつかせる才能はピカイチね」 一旦終息しかけた少女の怒りが再燃する。だがそれも長くは続かなかった。 「別にあなたに何を言われようが私は揺るがないわ。批判をいちいち気にしてたらアイドルなんてやってられないもの」 「あれぇ~? おかしいなぁ、ただのそっくりさんじゃなかったんですか~?」 少女は更なる挑発にも耳を貸さなかった。平静を保ち、取り出した携帯電話を一瞥する。 「あなた達と雑談していられるほど、私は暇じゃないの。本社に戻ってやらなきゃいけない事があるから」 「業務があるのなら優先すべきだ。それが社会のルールだ」 「そうね。でも社会のルールを説くのなら私じゃなくて彼女にしてあげなさい」 「見ず知らずの他人を侮辱するのはルールに抵触すると思うけど」 「あん? だったらそのルールブック持ってこんかいボケぇ。人の男に手を出すのは違反じゃないんかコラぁ」 「……気が向いたらね。まずないでしょうけど」 少女は髪をかき上げ身を翻す。その振る舞いはノエルの挑発に目くじらを立てていた気配など微塵もなく、人に見られる事を意識した優雅さがあった。 「あーあ……はちみつあげぱんさんがいっちゃった……」 少女が立ち去って安堵する私とは対照的に落胆するひまわり。 「心配しなくともこの先にコンビニエンスストアがあるだろう」 「えっ!? あかしくんが買ってくれるの!?」 「必要経費だと割り切っている。少々の出費を出し惜しみすれば余計に面倒な事態になるのはわかっている」 「わーいありがとー♪ あかしくんすきー♪」 ひまわりが私の身体に抱きつくと衆目の視線が集まるのを感じる。 「……ご主人」 「……何だろうか」 だが周囲の視線よりも私の方を見ずに前方を睨みつけるノエルの方が差し迫った問題だった。 「……いえ、何でもありません」 そうは見えない。確実に先ほど遭遇した少女の件が尾を引いている。 私が取るべき行動はひとつ―― 「私は浮気などしていない」 「知ってますよ。ええ知ってますとも」 額面通りに受け取れるほど、その言葉には説得力が内包されていなかった。 「おっとっと」 服と服が擦れる音――何者かとぶつかってしまったようだ。 通行人と接触したのは私ではなくノエルの方だが―― 「これは失敬失敬、ちょっと探し物をしていて前が見えなかったのだー」 さして悪びれた様子もなく軽やかに笑うその人間には見覚えがあった。 「注意が散漫になっては危険だ。特にここのような人通りの多い場所では」 「やー、まったくだー。危うく怪我をさせてしまうところだったー。すまんすまん」 ノエルの心配をしているのなら杞憂だろう。どちらかと言えばぶつかってきた彼女の身が危険―― 「いや、彼女ではなかったのだな」 「んん? 何か言ったかー?」 「いや、キミの秘密を暴くつもりはない」 「なんだー? ヘンなやつだなー」 彼の容姿だけ見ればどうみても人間の女性だ。つまり他人から女性として認識してほしいのだろう。 他人の秘め事を白日の下に晒す行為は常識的に考えても避けるべきだろう。 「……あなた、ぶつかり際に私の胸さわりませんでしたか?」 「な、何の事だー? いくら平常心を失うほどの素晴らしいおっぱいが目の前にあったとしても、事故を装ってタッチしたりしないぞー」 「そうですか、気のせいだったようですね。あなたが男だったら弁解の余地すら与えずにぶっ飛ばして肉の塊にしてるところですけど」 「私は女だぞー。疑うのなら私のおっぱいを触ってみろー」 「いえ結構です」 「何だー、触ってくれないのかー……」 落胆する彼の胸部はまるで女性のそれと変わらぬほど十分に隆起している。 仮に詰め物で偽装しているのならば感触で露見してしまうだろう。自信に満ちた言動から察するに、胸部の偽装は感触も再現するほど精巧にできているようだ。 「探し物の途中なのだろう。立ち話をしている暇があるのだろうか」 「おっとそうだった。私は色々忙しいのだよー」 口調の軽快さによるものか、時間に追われている印象は薄かった。 「そうだ、ひとつ尋ねてもいいかー?」 「何だろうか」 「うちの社員をどこかで見なかったかー? 仕事を放り出してどこかへ消えて困ってるのだー」 「社員……?」 そう尋ねられて思い浮かぶ顔はひとつしかない。 「学園で見たあの少年なら、あれ以来顔を見た覚えはない」 「そうかー、協力に感謝するぞー。それにしてもまったくどこをほっつき歩いてるのだー」 社員の行方を心配する社長は気のない礼を残して人の流れへと消えて行った。 大部分の人間にとって業務は苦痛を伴う。耐え切れなくなり別れの挨拶もないまま姿を消す者は珍しくもないだろう。 「ねぇねぇあかしくん、はやくはちみつあげぱんさん買いに行こうよぉー」 「ああ、わかっ――」 「…………」 歩き出そうとしても微動だにしない左半身―― 社員を探す社長は去ったが本当に危機はこれからが本番だった。 「……で、あの女とはどういった関係なんですか?」 「…………」 ノエルの口から直接追及の言葉が出るのは稀である。故に事態の深刻さを瞬時に理解する。 特別な関係ではない、数回顔を合わせただけ、名前すら把握していない―― そのどれもは正しく、同時にこの場においてはどれも不正解だ。弁明をすればするほどノエルの機嫌は損なわれてゆくだろう。 だから私は簡潔に答える。使い古されたお決まりのフレーズをノエルの為に―― 「私は浮気などしていない」 素晴らしく簡潔であり、真実を証明する洗練された言葉―― しかし同じ薬を投与し続ければ効果が薄れてゆくように、もはや期待するほどの力は残っていなかったようだ。 そもそも最初から効果を発揮していたかといえば疑わしいのだが。 「ええ、わかってますよ。全部私の妄想ですよね」 「ああ、わかってくれただろうか」 「私がご主人を疑うわけないじゃないですか。もし仮に疑いを持ったとしても、私に咎める権利はないですよ」 「…………」 どうやらこの後のスケジュールに予定が組み込まれそうだ。 「ねぇあかしくん、はちみちあげぱんさん!!」 業を煮やして私の腕を目一杯振り回すひまわり。 キミは気楽でいいと呟きそうになるのを我慢しながら、やがて来る兎との出会いを覚悟した。 「ここ最近は驚くほどのハイペースだな。大人しそうな顔しててもやっぱりアンタも男だな」 「私の性別は男性だ。容姿を見れば判断できると思うが」 倉庫に戻ってすぐに栄養ドリンクを手渡された私はいつものように椅子に縛り付けられていた。 ノエルから受け取ったドリンクを口にする前に、彼女とひまわりは散歩に出かけたため倉庫にいるのは私と兎の二人。 「そういう話じゃねぇんだけどよ」 兎は手にした《かんし》〈鉗子〉をカチカチと鳴らしながら肩をすくめた。 「しかも手を出してるのがそうそうたるメンツだよな。九條グループの一人娘に飛ぶ鳥を落とす勢いの現役アイドル――」 「上は女社長から下は年端もいかない子供までときたもんだ。守備範囲の広さも大したもんだぜ、なあおい」 「確かにキミの言うとおり、近頃は他人と関わりを持つ事が多い。だがそのどれも自ら進んで関係を得たわけではない」 数日前までは業務上で顔を合わせる人間がいた程度だ。そのどれもがまともな会話を交わす時間さえなかった。 だが今はどうだろうか。この数日間の密度は私の経験上、例を見ないほどに濃密だった。ノエル以外と会話を交わす回数だけを見ても明らかだろう。 ひまわりとの唐突な出会いを経て、九條と関わりを持った。彼女から受けた業務依頼をこなす中で、様々な人間達と話をした。 そのどれからも感じたのは、人間という生物の奥深さだ。 知識や経験である程度の感情を推し量るのは難しくはない。怒り、悲しみ、幸福。大まかに種別するのは可能だ。 だがそれらで一括りにできるものではない――そう強く思い知らされるだけの力が彼らにはあった。 利益よりも私情を優先する者――命を犠牲にしてでも使命をやり遂げようとする者――彼らの行動は理解の範疇を超えていた。 人間へと近づく道のりはまだまだ遠いと思い知らされると同時に、改めて興味深いと改めて実感させられた。 やはり人間とはおもしろい生き物だ―― 「得体の知れない被り物をした男などもいて多様性にも富んでいる」 「顔を見せるわけにはいかねぇからってんで慌てて用意したんだぜ。その割りにはオシャレだろ?」 「美的感覚について、私はまだ理解できていない」 「相変わらず頭の固い言い回しだな。自分がどう感じたのか思ったままを口にすりゃいいんだよ」 「キミはそう言うが、社会においては本音をありのまま口にするのは好ましくないと聞いている。その線引きは今の私には困難だ」 「まあな。それは世の中を上手く生きるコツでもあるからな」 「いつの時代でもズル賢い奴が甘い汁を吸って正直者が馬鹿を見る。探してもいねぇから、フィクションには正義のヒーローが溢れてるんだよ」 「キミの主張は覚えておこう」 彼の言葉は社会の人間が口にする内容と比べて極論が多い。だがそれゆえに核心をついていると思わせる説得力がある。 全うな生き方から外れたが故に、多くの人間が目を逸らしている部分に触れられるのかもしれない。 「話は変わるけどよ」 「何だろうか」 「アンタさ、俺の顔見たい?」 脈絡もなく告げられる提案にどう答えるべきか迷い反応が遅れる。 「それは被り物を脱ぐという意味だろうか」 「そうだよ。正直に言うとさ、今の季節にコレは結構キツいんだ。暑くてかなわねぇ」 「私に止める権利はない。だがそれはキミの素顔を隠すために必要ではないのだろうか」 「もういいかなって。アンタに顔がバレても警察に駆け込んだりはしねぇだろ?」 「それによ、この先アンタと話す機会は多くなるだろうしな。わざわざ面倒な手間をかけたくもねぇんだ」 こちらとしてはキミに付き合う時間はできるだけ削りたいのだが――そうはさせてくれないようだ。 兎は後ろ向きになり被り物を脱ぐ。 表情は死角になっていて定かではないが、黒々とした頭髪の後頭部が露になる。 そのまま男は鞄の中からサングラスと帽子を取り出して装着し終わると、ようやく私の方に振り向く。 ――その風貌には見覚えがあった。 「ふぅ、スッキリしたぜ。やっぱ夏場にこんなの被るのはどうかしてた」 「キミを見た記憶がある」 「だろうな。一昨日だったか? アンタの前に始めて変装せずに現れたのは」 メントレを出た後、九條と一緒に繁華街を歩いていた時だ。 ノエルを探しているという彼に会い、名刺を渡されたはずだ。 確か名前は―― 「江神善太郎」 「せいかーい。よくできました、ヒヒッ」 口元が卑しく歪む。感情を読み取る顔のパーツは目元がサングラスで覆われているせいで口だけに限定されていた。 「ま、こっちとしては一昨日顔を見せた時にバレるつもりだったんだけどな」 「考える頭が足りないのか、他人に対しての興味がまるでないのか」 「自分ではどちらなのか判断しかねる。しかし、自分にとって重要ではない人間の印象が弱いのは誰しもに言える話ではないだろうか」 「すれ違った人間の顔なんていちいち覚えちゃいねぇけどよ、俺とアンタはこうして何度も二人きりの時間を共有してきた仲だろ? 気づいてくれなくて、お兄さん悲しいぜ」 「お兄さんとは間違った表現ではないだろうか。呼称の区分に関する基準は曖昧だが少なくともキミには当てはまらないように見受けられる」 「俺はまだ20代だぜ?」 江神はあっけらかんと言い放った。 「何故嘘をつく必要があるのだろうか。私に年齢を偽証しても意味があるとは思えない」 彼の性分から言えば、すぐにでも冗談だと笑うだろうと予想していた。だが江神は頑なに主張を曲げなかった。 「人を見た目で判断すると痛い目に遭うぞ? 腹黒い奴に限って表面は綺麗に見えるんだ。その逆もまた然りってな」 「キミの場合は内も外も同期しているように見えるのだが」 「そうか? 名前も見た目も親切なお兄さんにしか見えないだろ? ヒヒッ」 言葉尻から誠実さはまるで感じ取れない。 「世の中にはな、二種類の嘘つきがいる。意味のある嘘をつく奴と意味のない嘘までつく奴だ」 「ならばキミは後者だろうか」 「どうしてそうなるのかね。俺は事実を話してるってのに」 江神の態度は本気で嘆いているように見えなかった。 「俺は仕事柄、嘘をつかなきゃいけない。そりゃもうこれでもかってくらい騙してきたよ」 「そのせいかどうかわからないけどな、必要のない場面ではなるだけ嘘をつかないようにしてる」 「それは一体何のために?」 「嘘ばっかりついてる分、ふと真実を口にしたくなる衝動に駆られるんだよ。多分、帳尻を合わせてるんだろうな」 筋は通っているように聞こえたが、あくまで聞こえただけであって非論理的な理屈だ。 受けた傷に薬を塗るのとは違う。いくら真実を口にしても偽りを述べた事実には何の影響も及ぼさない。 「そういえばひとつ聞いてもいいだろうか」 「何でも聞いてくれ。できれば嘘をつかなくても済む質問で頼むぜ」 嘘と真実の基準はこちらで判断しかねるのだが、ひとまず疑問を口にした。 「二時間ほど前、ノエルが送ったメールの件なのだが」 「あ? メール?」 「“《ファントム》〈亡霊〉”に関する情報だ。キミはノエルから“《ファントム》〈亡霊”の捜索を依頼されているだろう」 「アンタは直接の依頼主じゃない――が、まあそれくらいは言ってもいいか。お察しの通り、俺はアンタの相棒から“《ファントム》〈亡霊〉”について調べる仕事を請けてる」 「だがメールなんてのは初耳だぞ? 連絡を取るのはいつも電話で直接話すしな」 江神はスーツのポケットから携帯を取り出して操作する。 「やっぱりメールなんてきちゃいねぇよ。まさかこの“28才人妻有希子 旦那と家庭内別居中、誰か遊んでくれませんか”ってやつじゃねぇよな」 「それは別の依頼だろう」 「ヒヒッ、相手にしてたらこっちが金を《むさぼ》〈貪〉られるぜ。ためしにアンタがやってみるか? もしも上手くいったら俺の仕事も増えて儲けになるしな」 要領は得ないがこちらの話とは関係がないようだ。引き続きメールに関する話を問い正す。 「キミの見落としではないだろうか。もう一度確認してほしい」 「だからメールなんてきてねぇって言ってるだろ。どうして嘘つかなきゃいけないんだよ。言ったろ、意味のない嘘はつかねぇ主義なんだよ」 確かに彼の言う様にノエルからの連絡を隠し立てる動機は見つからない。どうやら些細な手違いが発生しているようだ。 「ではいずれノエルから“《ファントム》〈亡霊〉”についての情報がキミに届くだろう。調査の助けになるはずだ」 「心配しなくても仕事はちゃんとやってるよ。焦らずにいい子で待ってればいいさ」 「……まあ、そう待たせる事もないだろうからな」 「それはキミの仕事が順調に進んでいると捉えていいのだろうか」 「ヒヒッ、それはあとでのお楽しみってやつだ」 思わせぶりな態度に僅かな炎が生まれるのを感じた。 だが慌ててはいけない。私の取るべき道は感情に任せて江神を問い詰めるのではなく、やがて来る時に向けて刃を研ぎ澄ます事だ。 江神は人間として信用に足る人物ではないが、業務に対する姿勢には信頼が置ける。手際の良さは誰よりも自覚している。 今は静かに時が過ぎるのを待とう。 そして来るべき日を迎える事ができれば、煮え滾る業火を解き放ち記憶の中から“《ファントム》〈亡霊〉”を葬り去る。 それが私の存在理由だ―― 花弁に滴る水滴を眺める。 彩り鮮やかな紅色の花びらから流れ落ちた水滴は茎を伝い、根を生やした土に浸透する。 過度に水分を与えると成長を阻害する原因になる。ジョウロの先端をモミジアオイから隣に置かれている向日葵の鉢へと向ける。 「ねぇねぇあかしくん、何やってるの?」 「花に水を与えている。室内に置かれている植物は自生している物と違い、人為的に水分を与えなければならない」 「ほぇ~、楽しそうだね。ひまわりにもやらせてー」 「…………」 「およよ? どしたの?」 「いや、明確な理由はないのだが酷く不安に駆られていた」 本能がひまわりにジョウロを手渡すのを拒否していた。 「テレビはどうしたのだろうか。先ほどまで大人しく見ていただろう」 「つまんないのばっかになっちゃったからもういいです」 遠目からテレビの画面を確認すると、夕方の報道番組が表示されていた。ひまわりの興味を引き受けるには頼りない。 「ノエル、済まないがひまわりの面倒を見ていてくれないだろうか」 「のえるちゃんはダメだよ。ソファでだらしないカッコして寝てるから」 「ではキミも一緒に寝ていればどうだろうか。子供は良く眠る生き物だと聞いている」 「ひまわりはお花にお水をあげたいのっ」 「…………」 頑なな意思を覆すには多大な労力が必要だ。 「ではキミに任せるとしよう。だが何事も経験者の助言が必要だ。私が誘導するからそれに従ってほしい」 「おっけーでーすっ♪」 無意識の内に小さく吐息が漏れる。こうなってしまった以上、植物達に被害が出ないよう目を光らせるしかないだろう。 「キミの腕力だと両手で固定した方が安定する」 「はーい」 助言に従い両手でジョウロを支える。 「次は向日葵の花に水を与える番だ」 「ほえぇ? ひまわりのあたまにお水かけるの?」 「キミではなく鉢植えに咲いている植物の向日葵だ」 「あ、そっかぁ、これだね。うんしょっと……」 水平に保たれていたジョウロの水が先端に向けてゆっくりと傾いてゆく。 「その調子だ」 「んー……」 「…………」 「どばぁ♪」 「何をしている」 「いやぁ、なんかめんどくさくなって」 「……やはりキミには適正がないようだ」 大量の水が鉢植えに撒き散らされる前にどうにかひまわりの手を押さえる事に成功する。 「大丈夫っ! コツつかんだから次はいけそう!」 「残念ながら現時点でキミを信用するわけにはいかない。ジョウロから手を離してほしい」 「いーやーだー。ひまわりも水やりやるもん!」 「はぁ……」 ため息をついたのはいつ振りだろうか。もしかしたらこれが初めてかもしれない。 「ならば私が背後から補助する。キミが暴走しようとしてもそれならば大事に至らない」 「いいよー、一緒に水やりやろっ。二人でやった方がきっと楽しいよ」 「私は一人でやらせてほしいのだが」 ささやかな願いが聞き遂げられないのは承知している。仕方なく、ひまわりの背後から両腕を回してジョウロを支える。 「次は隣のハイビスカスだ。ゆっくりとジョウロを傾けてほしい」 「うんわかった」 理解して返事をしているのか疑わしかったが、いくらひまわりが力をこめてジョウロを傾けようとしても腕力で私を勝るのは不可能だろう。 事実、ジョウロの先端からは適量ほどの水が鉢植えの花に注がれていた。 「お花、お水かけられてすっごくうれしそうだよ」 「嬉しそうか。花に感情はないはずだ。キミの思い違いではないだろうか」 「そんな事ないよ~、よーく耳をすませるとお花の声が聞こえてくるよー」 「もっといっぱいお水かけて~、どばっとあふれるくらいかけて~って言ってるよ」 「やはりキミの勘違いだ。少なくとも溢れるほど注ぎたいというのはキミの願望だろう」 何事も過剰に増えると悪影響を及ぼす。何も植物に限った話ではない。 増えすぎた人間は地球の環境を悪化させた。その結果、未曾有の災害が発生し人類は激減したのだ。 災害は結果ではなく、世界が選択した自浄手段だと思うのは考え過ぎだろうか。 「あかしくん、次のお花にいかなくていいの?」 「ああそうだな、キミの言う通りだ」 思考の最中に過分な水を与えてしまいそうだった鉢植えから移動させる。 「あかしくんの手っておっきいね。ひまわりの手がすっぽりかくれちゃってるよ」 「それは私が成人だからだろう。時が経てばキミも大人になり身体もいずれ成長する」 「んっ……」 「どうかしただろうか」 腕の中でひまわりは身を強張らせる。 「お耳の近くであかしくんがしゃべるからくすぐったいんだよぉ」 「そうか、それは済まなかった」 「…………」 「どうしたの?」 「ひとつ提案なのだが、キミが私の忠告を聞かずに大量の水を撒こうとしたら、罰を与えるというのはどうだろうか」 「ばつってなぁに?」 「こうやってキミの耳に息を吹きかける」 「きゃあっ――!?」 ひまわりの身体が大きく震えたせいでジョウロの水がはねた。 「な、なにするの!?」 「キミには言葉による説明はあまり効果がないようだから、刺激として罰を与えようと思う。言う事を聞かない子供には有効な手段だと聞いている」 「ぼ、ぼうりょくはんたーい!!」 「肉体的に危害を加えるのは法によって禁じられている。だが暴力とは物理的に相手の身体へ痛みを与える行為だ」 「私が行う行為は暴力とは言えないだろう。ふー」 「ひゃんっ――!?」 再度ひまわりの身体が跳ねる。ジョウロごと手を拘束されているひまわりに逃げ場はない。 「丁度良い機会だ。この状況を利用してもうひとつキミに要求しよう」 「はっ、はっ、な、なぁに……?」 「私に無断でこの植物達に触れてはいけない。ましてや花弁をもぎ取るなど言語道断だ」 「……もしもおやくそくやぶったら」 「……もちろんこうだ」 「ひゃふん♪」 「どうだろう。私の要求を呑んでもらえるだろうか」 「ひ、ひまわりはおうぼーな要求には屈しません! えいっ!」 腕の中でひまわりがこちら向きになる。そして私の耳元に顔を近づけ―― 「ふっー♪」 「むっ――」 今度は打って変わって私の耳にひまわりの吐息が吹きかけられた。 「くすぐったいでしょ♪」 「確かにこれはこそばゆいな。キミの拘束を解けない以上、刺激を与えて打ち消す事もできない」 「だがこれしきの攻撃など耐えてみせよう。この程度で《ね》〈音〉を上げていては過酷な人間社会に適応できない」 「ひまわりだって負けないよー! しょうぶだー♪」 「ふっー」 「ふっー」 互いの意地をかけて耳に息を吹きかけ合う。この植物達を守るためにも私はこの戦いに負けるわけにはいかないのだ。 「んっ♪ あんっ♪ くふっ♪」 「むっ……」 言いようのない感触が耳元から首筋にかけて広がる。だが耐えているのはひまわりも同じ。 「くっ、くふふ……ひゃん♪」 「むむっ……」 「は、はやくこうさんしないとあかしくんのお耳とろとろになっちゃうよっ」 「それは私の台詞だ。キミは良く耐えた。だがこの辺りで諦めた方がいい」 「ひまわり負けないもんっ♪ ふーっ」 「ふーっ」 「……ふーっじゃねぇぞコラ」 「!?」 「あ、の、のえるちゃん……」 背後から殺気のこもった低い声が響いた。 「ちょっと私が目を離した隙に、何をイチャコラしてやがるんですかねぇ」 「誤解だ、私達はただ花に水をやっていたに過ぎない」 「へぇ、知りませんでした。水をやるのに身体を寄せ合って耳に息を吹きかけながらキャッキャウフフする必要があったんですかぁ~」 猜疑心に満ちたノエルの瞳が私からひまわりへと移動する。 「子供だからと侮ってましたが、どうやらあなたにも美月さんと同じ泥棒猫の血が流れているようですね」 「ひまわりはいい子だからどろぼうなんてしないよ」 「嘘をつくんじゃありませんよ。私のご主人に手を出そうとしてたじゃないですか」 「およよ? あかしくんはみんなのあかしくんだよ? それに仲良くするのはいいことだよ」 いつから私は皆の所有物になったのか気になったが、どういう形であれ弁明しようとしているひまわりの邪魔をするのは得策ではなく言葉を飲み込む。 「ご主人はみんなの物じゃありません。私だけのご主人なんです」 「そんなのひきょーだよ! ひまわりもあかしくんほしーもん!」 二人が言い争って蚊帳の外にいるうちに残りの花に水を与えてしまおう―― 「あ、ご主人、まだ話は終わってませんよ。しれっと無関係を装うのはいかがなものかと」 どうやらそう都合の良い話はないようだ。 「まさか私の目の前で浮気されるとは思いませんでした」 「私は浮気などしていない」 「いや、いいんですよ? ご主人が何をしようが私に口出しする権利はありませんから。全然怒ってなんかないですし」 時に人間は思惑とは正反対の言葉を口にする。ノエルの真意が言葉通りでない事くらい私でも理解できた。 「お前を怒らせるつもりなどない。私は浮気をしない。信じてほしい」 「じゃあ私にもしてください」 「何を?」 「さっきのやつです」 「さっきのやつとは――」 「のえるちゃんもふーっしてほしかったんだ」 「そうなのだろうか」 「ひまわりだけして私がやってもらわないわけにはいきませんから」 「お前がそれで満足するのならいくらでも」 ノエルの要望に応えるため、彼女の耳元に顔を近づける。 「ゆ、ゆっくりでいいですからね」 「わかった」 自分から要求した割りにはどこか緊張した様子で身構えるノエル。 「いくときはいくって言ってくださいね。間違っても急にやったらダメですからね」 「ではカウントダウンをしよう。三つ数える。3、2、1――」 「ふーっ♪」 「どわぁ――!?」 カウントが0になる直前、私の役目はひまわりに奪われた。 「な、何であなたがしゃしゃり出て来るんですかっ!」 「のえるちゃんのかわいいお耳が目の前にあったから」 「いいからあなたは大人しくしてなさい。私はご主人にやってほしいんです」 「さあご主人、どうぞ」 「わかった」 再びノエルの耳元へ顔を接近させる。 カウントを3つ数えた後―― 「ふーっ」 「ふわあぁん――♪」 ノエルは全身を雷に打たれたように硬直させ、膝から崩れ落ちた。 「んふぅ……ふあぁ……はぁ、はぁ……」 「大丈夫だろうか」 「ええ……問題ありません。ごちそうさまでした」 身体を押さえて立ち上がったノエルの頬は紅潮していた。 「体調が悪いのであれば少し休んだ方がいいのではないだろうか」 「平気です。すぐに落ち着きますから。でも下着を替えてこなければいけませんね」 ふらふらとした足取りで二階へと続く階段へと向かうノエル。 「下着? 何故今替える必要があるのだろうか」 「実は私、結構感じやすいんです」 質問に対する答えになっていないように思えたが、ノエルはそれだけ言って自身の衣類がある二階へと消えていった。 「のえるちゃんどうしたんだろうねぇ」 「さあ、私にもわからない」 どう見ても正常な状態には見えなかったが、ノエル自身が平気と言うのならば心配する必要はないだろう。 彼女の言葉はいつも正しいのだから。 「あ、お電話の音だよ」 「どうやら私の携帯電話が鳴っているようだ」 慣れない状況に戸惑いながらも上着から携帯電話を取り出す。 これまでこの携帯が鳴ったのは数えるほどしかない。しかもそのほとんどはノエルが相手だった。 その彼女は今、同じ建物内にいて電話をかけてくる必要性がない。つまり電話の主はノエル以外の何者か、だ。 わずかな緊張を感じつつディスプレイを確認すると、電話番号の代わりに相手側の名前が表示されていた。 「九條からだ。そういえば私の番号を教えていた」 喫茶店で別れる前、連絡を寄越す約束をしていたのを思い出す。 電話の操作パネルの通話ボタンを押し、耳元へと宛がった。 「もしもし、赫さんですか? 美月です」 「ああ、私だ。北条院との用事は終わったのだろうか」 「はい、先ほどお別れをして今は一人です」 「買い物は順調に済んだのだろうか」 「ええ。行きつけのお店を紹介して、いくつかお勧めの紅茶を選んで差し上げたのですが」 「ですが?」 「各々の特徴と歴史について説明させて頂いたのですが、途中から私の話が耳に入っていなかったようで」 「ああ、容易に想像できる」 北条院は好意に近い感情を九條に抱いていた。九條の趣味を理解するのも彼女との距離を埋めようとする努力の表れなのだろう。 「北条院さんからお願いされた事ですから、私もできるだけ詳しく説明しました」 「ですがあの様子では半分以上頭から抜け落ちているでしょう。少々憤りを感じます」 「キミが彼女の努力を上回った。それだけだ」 「努力……? どういう意味ですか?」 「いや何でもない、忘れてほしい。それより用があって電話をかけてきたのではないだろうか」 「あ、そうでした。すみません、関係ない話を長々としてしまって」 「問題ない。キミの話はどれも興味深く、耳を貸す価値がある」 それに北条院が陥った事態に比べれば生易しいにもほどがある。私と北条院、どちらが九條の話に対して好奇心を抱いていたか定かではないが、結果だけを見れば大差がなかった。 「ありがとうございます。お電話を差し上げたのは明日の件についてお話がしたくて」 「ああ、“しののめフラワーパーク”だろう」 「はい。予定を立てるのに赫さん達の意見も聞きたくて。それであの……今からそちらにお邪魔してもよろしいでしょうか?」 「問題ない。この後外出する予定もない。そちらの都合が良い時間に来ると良い」 「わかりました。では今から向かいますので大体30分ほど――」 突如、耳を《つんざ》〈劈〉く物音が響き、九條の声が遮断された。 「九條?」 呼びかけても応答がない。携帯電話の画面を確認すると通話中を示すアイコンが表示されており、通話が途切れたわけではないようだ。 「あかしくん、どうしたの?」 「突然九條の声が聞こえなくなってしまった。故障だろうか」 素人の意見だが私の電話におかしな箇所は見受けられない。あちら側の問題だろうか。 とはいえ用件の伝達自体は既に終えており、通話が途切れてしまっても支障はなかった。しばらくすれば九條もここに顔を出すとの事だ。 「彼女が来た時に、検証すればいい」 耳元から離した携帯電話の通話ボタンに指をかける。 終了を知らせる文面が表示され、電波上での繋がりは完全に立ち消えた。 「あ……」 死――私は生まれて始めて、幻想的だった死という概念を突きつけられて指の一本すら動かせない。 「携帯、落っこっちゃったけど、拾わなくてもいいのかにゃ」 柔らかな口調に含まれた歪な感情が鎖となって四肢を拘束する。 私はその瞬間、生に対しての執着を放棄していた。 「動けないのかにゃ? じゃあ代わりにボクが拾ってあげるよ。よいしょっと」 「はい、どうぞ」 「っ…………!?」 「君が早く拾わないから、電話切れちゃってるにゃ。相手は赤髪のお兄さんかにゃ?」 「っ……!?」 喉の奥で絡まる言葉――まるで話し方を忘れてしまったかのように、何千何万と繰り返してきたはずの初歩的な行為がままならない。 「安心して。君をここで殺す気はないから。今はボク、ご覧の通り満たされた後だからね」 「それに、みんなで遊んだ方が楽しいから。君達と遊ぶのはまた次の機会にしてあげる」 「でも覚えといて。ボクはまた必ず来るよ」 「君達に不吉を届ける死神として、ね」 「っ…………」 風を切る音―― 同時に私を拘束していた鎖が解け、けだるい夏の暑さを含んだ空気を肌が感じ取る。 「ハァッ……! ハァッ……!」 呼吸する事すら忘れていた。息苦しさを覚えて激しい呼吸を繰り返す。 生きているという感覚を徐々に取り戻していく。 こうして再び世界の空気を吸えるのは運命でも何でもなく、ただの気まぐれだった。 手の中にある携帯電話の画面が目に入った。 表示されてる彼の名前―― それがなければ私は本能のままに泣き叫んでいたかもしれなかった。 「ねぇねぇ、みつきちゃん来ないよ」 「ああ、来ないな」 「そのへんのドブに足つっこんでコケたんじゃないですか? ざまーみやがれってんですよ」 「はわわ、みつきちゃんドブに落っこちちゃったのかなぁ」 「九條は落ち着いた人間だ。キミがそうなったと聞いたら合点がいくが、彼女には似つかわしくない」 「ひまわりもね、この前あそんでいたらずぼってはまっちゃったんだよ」 「なるほど、合点がいった」 街灯などのライフラインが機能していない旧市街は、夜になれば著しく視界が悪くなる。夜を照らす僅かな月明かりがあるだけだ。 とはいえやはり九條がひまわりと同じ状況に陥っているとは考え難い。通話が終了してから一時間以上経過している今でも、その可能性はにわかに信じがたかった。 しかし何らかのトラブルに巻き込まれている懸念はある。 「少し見て来た方がいいかもしれないな」 「その必要はありませんよ。どうしてご主人がそこまでしなきゃいけないんです」 「それとも、何かこだわる理由があるんですか? 私には言えないような何かが」 疑いの眼差しをどうやり過ごそうか思案していると、不意に倉庫の扉をノックする音が響いた。 「あ、きっとみつきちゃんだよ!」 そう言って扉に駆け寄るひまわり。 小さな身体を目一杯使って鉄製の扉をスライドさせると、予想した通りの人物が姿を現した。 「みつきちゃん、ゴキゲンオー♪」 「…………」 待ち人の来訪に感情を昂らせるひまわり。 対照的に九條はいつも以上に落ち着き払い、どこか暗い影が差しているように感じた。 「およよ、みつきちゃんどうしたの元気ないよ? ドブに落っこちちゃった?」 「キミと九條を同列に扱うのは間違いだろう。その証拠に彼女の下肢は汚れてなどいない」 「じゃあどうしてみつきちゃんはしょんぼりしてるの?」 しょんぼり、などと柔らかな表現より、生気がないと言った方が正しいだろう。それほどまでに九條の顔色は冴えていない。 「何かあったのだろうか?」 「……赫さん」 虚ろな瞳と視線が交わる。そこには普段の気丈な立ち振る舞いを備えた彼女はいなかった。 儚げで今にも消えてしまいそうな危うさを内包した瞳だった。 「見つけた……いや、見つかってしまったのかもしれません」 「……赫さんの探していた、“《ファントム》〈亡霊〉”に――」 「ではキミは、ソレの姿を見てはいないのだな」 「はい……恐ろしくて振り返る事ができませんでした」 九條が倉庫に着いて数分後―― 徐々にだが彼女の口調に普段の力強さが戻ってゆくのを感じる。 「姿は見えなくても、後ろに立っているモノが普通の人間などではないとすぐにわかりました」 「普通の人間ではない……“《イデア》〈幻ビト〉”や“《フール》〈稀ビト”というわけだろうか」 「もしかしたらそうなのかもしれません。ですが私が感じたのは今まで触れた事のない、どこまでも純粋な悪意です」 「“《イデア》〈幻ビト〉”や“《フール》〈稀ビト”だからという理由で納得するにはあまりにも異常でした」 「だから“《ファントム》〈亡霊〉”かもしれない、と」 「……何の確証もありませんが」 九條の背後に現れたソレは自らを死神と表現した。 “死神”とは世間で広まる噂における呼び方のひとつだ。“《ファントム》〈亡霊〉”と同義である。 もちろん不利益をもたらす者を指した比喩表現として、死神という言葉が使われる事もある。 だが九條の体験した感覚を考慮すると、ただの人間が用いた何気ない言葉のひとつとして切り捨てるのは早計だ。 「ソレは私の事を知っていたのだな?」 「そのようです。赫さんの髪の色を知っていましたから」 「……そうか」 私の事を知っている―― そして自らを死神と名乗ったモノ。 否応なしに身体の芯が熱くなる。 「ノエル、お前はどう思うだろうか」 じっと九條の話に耳を傾けていたノエルの意見を請う。 ひまわりは途中から興味を失ったようで、バラエティ番組が映し出されたテレビに釘付けだった。 「んー、今の話だけじゃ何とも言えませんね。判断材料が乏し過ぎます」 「お前は九條の下に現れた者が“《ファントム》〈亡霊〉”である可能性についてどう考えるだろうか」 「どうでしょうね。もし仮にそうだとしたら、何故美月さんのところなんかに来る必要があったんでしょうか」 「口ぶりからすれば、向こうは多少なりともこっちを知ってるように聞こえますけど」 「九條、キミに心当たりはあるだろうか」 「…………」 長い髪をゆらゆらと揺らしながら左右に首を振る九條。 「顔を見ていないので正確にはわかりませんが……あんな雰囲気を持った方とお会いした記憶はありません」 「では一方的にこちらを知っているのか……もしくは」 私と面識のある者―― 「赫さん……?」 「何だろうか」 九條の視線が私の顔に向けられていた。どうやら心配をさせるような顔をしていたようだ。 「心配しなくていい。私は冷静だ。それより、今後の対応を協議した方がいいだろう」 「やはり、明日の予定は白紙に戻すべきでしょうか」 「えぇー!? お出かけするのやめちゃうのっ!?」 それまで蚊帳の外にいたはずのひまわりが駆け寄ってくる。 ひまわりの面倒を引き受けていたはずのテレビにはコマーシャルが映し出されていた。 「やだよやだよ! ひまわりみんなと遊びに行きたいっ!」 「……ノエル、どうすべきだろうか」 判断に迷った時、自分の手に負えない時、いつもそうしてきたように彼女の助言を仰ぐ。ノエルの言葉はいつも正しい。 「うーん、そうですねぇ……」 口元に手を添えてしばしの間沈黙する。だがそれほど長くは続かなかった。 「美月さんをおとりにして私達は愛の逃避行というのはどうでしょう?」 「ついでにお邪魔虫とも一緒にオサラバするいい機会ですし。ああ、名案だこりゃ」 「ノエル、他の案はないだろうか」 その提案はできれば受け入れたくはなかった。 …………。 何故――受け入れ難いと感じた理由は? ……いや、今は深く考察するのは止めておこう。 「これが最善だと思うんですけどねぇ。ま、美月さんが死んで後味が悪いというなら別の方法を考えますけど」 「頼む」 「それは花に水をあげる気持ちと同じですか? 力のない者に対して抱く慈悲と捉えていいですか?」 「それとも……」 「ノエル、私は浮気などしていない」 ノエルの提案を蹴った理由は自分の中でもはっきりとしていない。それでも降りかかる危機を回避すべきである事だけは明白だった。 「……ならいいんですけど。私はご主人を信じていますからね」 ならば江神を寄越すのは止めてほしいのだが――とは言えなかった。 「まあそうなるとしばらく美月さんから目を離さない方がいいでしょうね」 「何者か知りませんが、相手が単独なら私達が遅れを取る事もないでしょうし」 「いざとなれば美月さんも“《フール》〈稀ビト〉”ですから、全く役に立たないって事もないでしょうから」 「…………」 「ねぇねぇ、お出かけは――!?」 「あえて中止にする必要もないでしょう。相手も馬鹿じゃなければ人間の多い場所で襲ってきたりはしないでしょうし」 「やったー♪ お出かけお出かけー♪」 「まあ私は中止になっても一向に構わないんですけど」 ノエルの判断は的確で合理的だった。少なくとも私にはそう思える。やはりノエルに助言を仰いで正解だった。 「では九條、しばらく私達と行動を共にしてもらいたいのだが構わないだろうか」 「ここに泊まるという事でしょうか……?」 「そうなるな。何か問題があるだろうか」 「いえ……その、自宅以外に泊まるという経験はあまりなくて……しかも男性と同じ屋根の下というのは初めてですから」 「おいコラ、何の心配をしてんですか」 「初めての体験には不安が付き物だ。だがひまわりにも問題なくできている事だ。そう堅くなる必要もないだろう」 「そうですね……あ、でも突然のお話ですから、着替えなどの準備もできていないのですが……」 「ならばノエルに借りるといい。予備は十分にあるはずだ」 「えー、私のを貸すんですかぁ?」 「緊急事態だ。済まないが協力してくれないだろうか」 「んもぅ。私がご主人のお願いを断るわけないじゃないですか。もちろん構いませんよ」 「んー、でも」 「な、何でしょうか……?」 九條を品定めするように視線で舐め回すノエル。 そして―― 「えいっ」 「きゃあっ――!?」 九條の胸部にノエルの両手が食い込んだ。 「な、何をするのですか――!?」 「下着のサイズが合うかどうかのチェックですよ。よっこらしょっと」 胸部を掴んだまま、九條の背後に回り込む。 「お、あなたも中々立派なものをお持ちじゃありませんか」 「きゃっ、は、離して下さい――!」 「嫌なら逃げればいいじゃないですか。そうはさせまいと私はここで大人げなく“《デュナミス》〈異能〉”を発動させるわけですが」 力比べにおいて“《イデア》〈幻ビト〉”であるノエルに敵うはずもない。この上“《デュナミス》〈異能”を発動させたノエルの手を九條が払えるわけがなかった。 「ええのんか? ここがええのんか?」 「んっ――! 本当に、や、止めて――」 「ノエル、それくらいにした方がいい」 「ご主人がそう言うなら」 拘束から解放された九條は呼吸を荒げながら服を整える。 「はぁはぁ、酷い目に遭いました……」 「勝った」 「えっ?」 「いや何でもないですよー。あ、着替えでしたっけ。私のでよければ貸してあげますから心配しなくてもいいですよ」 「あ、ありがとうございます」 「美月さんの身体に合わないかもしれませんけど……特にブラがですけど」 「うぅ……」 小さく背を丸めて胸部に両手を添える九條。 それとは正反対にノエルは腰に手を当てて胸を張っていた。 「完全勝利」 「問題は解決したのだろうか」 「ええ、問題ありません。足りない分は綿でも詰めて補っとけばいいんじゃないですかねぇ」 「酷い……」 ノエルが勝ち誇り、九條が打ちひしがれている事情は定かではないが、どうやら胸部の大きさが関わっているようだ。 巨大であるほど有利と言うのならば、勝敗は火を見るより明らかだった。 「九條を貶めるのはそれくらいにしておいた方がいい。人間社会においてはどんな行為が恨みを買うかわからない」 「そうですね、これ以上イジめるのもかわいそうですからね」 「…………」 九條は相変わらず居た堪れない感情に苛まれているようだった。 …………。 ここはチャンスではないだろうか。 思い悩む彼女の心を救済する言葉を用意できたならば、それは人間の感情についての理解が進んだ証拠に他ならない。 問題点は明白だ。九條は胸部の大きさについて劣等感を感じている。ならばそれを取り除いてやればいい。 「九條、これはキミの問題だ。だから私がとやかく言うべきではないかもしれないが」 「赫さん……?」 「そう思い悩む必要はないのではないだろうか。比較する対象がノエルでは、他の者でもきっと敵わないだろう」 「…………」 「客観的な意見だが、道行く人間の女性と比べてもキミが特別劣っているとは思わない。実際に見た事のある私が言うのだからそれなりに説得力はあるはずなのだが――」 「……は?」 「あ、赫さん、何を言い出すのですか……!?」 「ん? 何かおかしな事を口にしただろうか?」 凍りつく二人――どうやら私が選択した言葉は不適当だったらしい。 「み、みみみ、みたことあるって、一体どういう……」 「えー、あかしくん、みつきちゃんのおっぱい見たことあるのー?」 「もうこの話は止めませんかっ! ひまわりさんも興味を持ってはいけませんっ」 どうやら問題視されているのは九條の裸体を目にしたという発言らしい。 「ご、ご主人、浮気、した……ノエル、悲しい……」 「私は浮気などしていない」 愛についての理解が及ばぬ私には、やろうと思ってもできない行為だ。 だが既にノエルの耳に私の言葉は届いていなかった。 「あ、そうだ、これは夢だ。うん、そうに違いない」 ノエルは虚ろな瞳を彷徨わせていた。 「てへっ、私のあわてんぼさん♪ ご主人が浮気なんてするはずないのに♪」 「そうだ、早く起きないと。ご主人にご飯作ってあげなきゃ♪」 何を思ったのか、ノエルは自らの顔面を殴打し始めた。 「何をしているのだろうか」 「ゴフッ、こうすれば目が覚めるかなって、ゲフッ――!」 「あ、あれ、おかしいな……全然目が覚めないや……力が足りないのかな……」 ここは現実の世界だ。どれだけ自分を痛めつけようとも、別の世界へ移動したりはしない。生命活動が停止すれば、死の世界に行くと言われているが定かではない。 「あ、赫さん、止めた方が良いのでは……」 「痛いなぁ、血が出てきちゃいました。やけにリアリティのある夢だなぁ……」 「ノエル、それ以上は止めておいた方がいい。自分を傷つけても意味はない」 「そうですね、これくらいじゃ足りないようです」 ふらふらとした足取りで入り口に向かうノエル。 「どこか出かけるのだろうか」 「あはは、大丈夫ですよぉ、ちょっくら電車に轢かれてくるだけですから」 「全然大丈夫じゃありませんが!?」 「へいきへいき、この時間ならまだ走ってるはずですから。あれ、そういえば夢の中でもちゃんと電車って時刻表通りに走ってるんですかねぇ」 そう言い残してノエルは扉の向こうに充満する闇の中へと消えていった。 「お、追わなくてもいいのですか!?」 「心配ないだろう。ああ見えても自分を失って暴挙に出たりはしない。気を静めるための破壊行動には出るかもしれないが」 そうなると憂慮すべきは話にあった電車だが、住処である倉庫の近くで事件を起こしたりはしないだろう。 そうなった場合のリスクを見過ごすほど、ノエルは無知でも愚かでもないのだから。 「夜風に当たって頭を冷やすのは人間でも取る行動だろう。しばらくすれば戻ってくるはずだ」 「……なら良いのですが」 「のえるちゃん、帰りにジュース買ってきてくれないかなぁ」 「…………」 「どうかしただろうか。キミがそこまで心配する必要はない。ノエルは私などと比べられないほどしっかりしている」 「いえ、そうではなく……」 「では何だというのだろうか」 「……赫さんは、ノエルさんの事をよく理解しているのですね」 「他人の思考を完全に読み解くのは不可能だが、それでも私とノエルの間には共に過ごした時間がある。およそ人間の一生など比ではない時間を共に生きてきた」 「…………」 それでも互いに行き違いは発生するのだ。そう考えれば人間達は限られた寿命の中でよくやっている。 「……五日じゃ足元にも及ばないですけど、それでも……」 「ん、五日とは何の事だろうか?」 「一緒にいる時間も……これの大きさも負けていますけど、私も諦めたくはないですから」 「それはどういう――」 私の問いかけから逃れるように、ひまわりの下に歩み寄る九條。 「ひまわりさん、ノエルさんが戻ってくるまで一緒に遊びませんか」 「えっ!? ひまわりと遊んでくれるの!? やったー♪ あそぼあそぼ♪」 「いつも赫さんやノエルさんと何をして遊んでいるのですか?」 「え? あかしくんものえるちゃんも遊んでくれないよ? いっつもひまわりひとりで遊んでるし」 「えっ――?」 「何か問題だろうか?」 「……赫さん、少しお話があります」 振り返った九條の瞳には怒気が含まれていた。 そこには出会った当初の凍てつくような鋭さはなく、以前写真で見たメスライオンの姿を想起させた。 「報告は以上だ。詳細はいつも通り後で書面で渡すよ」 「それで構いませんよ。先ほど言った件もよろしくお願いしますね」 「あー、お嬢様が見たっていうバケモノな。時間と場所が割れてるんだ。尻尾を掴むのはそう難しくねぇよ」 「仕事の腕に関しては信用してますよ。人間としての信用度は0ですけどね」 「ヒヒッ、酷い言われようだなおい。俺、案外綺麗な目してるんだぜ? 今度見せてやろうか?」 「遠慮します。興味ないんで」 「つれねぇなぁ。ま、俺恥ずかしがり屋だからさ、断ってくれて安心したよ」 「気持ちの悪い台詞を吐かないでください。電話切りますよ」 「悪かったよ。それじゃあ仕事の方は進めておくよ」 「お願いします。報酬はいつもの口座に振り込んでおきましたから」 「ああ、確認するよ。金払いのいい依頼人ってのは大事にしなきゃな」 「それにしても、どうしてそんなにカネ持ってるんだ? 旦那の稼ぎで賄えるほど、安くはねぇはずなんだが」 「関係ないでしょう。あなたは黙ってお金を受け取りこっちの要望に応えてくれればいいんですよ」 「違いない。報酬に見合った働きができるよう努力するよ」 「それはそうと、調べる対象の事なんだが」 「何です?」 「いや、これは俺のカンだけどさ、九條グループのお嬢様が見たのは間違いなく“《ファントム》〈亡霊〉”だな」 「…………」 「第六感ってやつ?」 「馬鹿馬鹿しいですね。そんなものに頼る暇があったら足を使えばどうですか。探偵の基本でしょう」 「耳が痛いねぇ。だけどよ、俺のカンもそう捨てたモンじゃねぇんだ」 「これから調べるバケモノは“《ファントム》〈亡霊〉”じゃねぇ。アンタ今そう思っただろ?」 「…………」 「……何が言いたいんですか」 「アンタはアンタで自分のカンに頼ればいいさ。だけど俺は気が利くから、色々手を回してやってるよ」 「依頼人のニーズに応えるのが探偵ってモンだからな」 「…………」 「そう悩まなくてもすぐにわかるさ。次の報告を楽しみにしておいてくれ、ヒヒッ」 ノエルが帰って来たのは倉庫を出てから30分が過ぎようとしていた頃だった。 「あ、のえるちゃんおかえりー♪ ジュース買ってきてくれたー?」 「さも約束をしたような言い方はやめてください」 正常な記憶に基づいて冷静な判断を下す姿を見て一安心する。どうやら出かける前の状態から脱したようだ。 「落ちついたようだな」 「…………」 「ノエル……?」 「あ、はい、何ですかご主人?」 出かける前の状態とは確かに違う。だからと言っていつも通りとは言い難かった。心ここにあらずといった調子で私の言葉に対する反応も遅れていた。 「ノエル、私は浮気などしていない」 「わかってますよ、ご主人の事は他の誰よりもこの私が理解していますから」 そう微笑み返すノエルの心情を、果たして私は同様に感じ取れているのだろうか。 「ねぇねぇ、のえるちゃん帰ってきたからゴハン食べにいこうよー。ひまわりお腹空いちゃったよー」 「ああそうだな。そろそろ食事の時間だ」 周囲を取り巻く予定は個人の思考を待ったりはしない。そうして人間は忘却する事で、苦難に満ちた社会を乗り切ってゆくのだ。 ノエルなら心配はないだろう。これまでも私達はそうしてきたのだ。 江神の来訪は避けられないかもしれないが、それでノエルの気が済むというのなら私は甘んじて受け入れよう。 私の中に占める彼女の存在を考慮すれば、それくらいは容易いものだ―― 「おう、今日も両手に花で羨ましいな」 「親方、それ以上は食事の継続が困難になってしまう。できれば止めてほしい」 「いいじゃねぇか、若いうちは何事も経験って言うだろ? それは女に関しても同じさ」 「ギロリ」 「あ、いや、やっぱり惚れた女には一途でなきゃな。うんうん」 「親方が言っても説得力がありませんけどね」 「うるせー! 年寄りをいじめるんじゃねぇ!」 「ねぇねぇ、つぎはこんにゃくさんください」 ひまわりの皿へとリクエストした通りの具材が乗せられる。 「はぁ……俺だってな、まともな時代なら浮気なんかしてねぇんだよ。ああ、きっとそうだ」 「時世と浮気に何の因果関係があるのだろうか」 「そりゃあるさ。“ナグルファルの夜”の影響で、人生狂わなかった奴なんていねぇ」 「……俺もな、昔は屋台を引っ張ったりしてなかったんだよ」 「うわ、酔っ払いの昔話が始まった」 親方はげんなりするノエルに見向きもせず、コップに注がれた日本酒に口をつける。 「俺が何の仕事してたかわかるか?」 「やくざ!」 「暴力団」 「……熊と戦う人?」 「ちげぇよアホたれ! てか熊と戦うってそんな仕事あるのかよ!」 「す、すみませんすみません……!」 「だが与えられた情報だけで推測するのは困難だ」 「はぁ……お前らが俺をどんな目で見てるかわかったよ」 落胆しながらも、飲酒のペースは変わらない。 「お前らよ、花火って知ってるか?」 「はなび?」 「火薬と金属の粉末を使用した爆破物だろう。書籍で見た事がある」 「だよな、やっぱり生で見た事はないか」 親方の視線はどこか遠くを見ているようだった。 「致命的だったのは七年前の地殻変動だが、それより前から世の中はぶっそうだっただろ。戦争とか色々あってよ」 「そうらしいな」 七年より以前の“《ディストピア》〈真世界〉”については書籍や映像などでの知識しかない。 「余裕のない世の中になっちまってな。花火なんて上げてる場合じゃねぇだろって、世の中全体の空気がそういう風になっちまったんだよ」 「おかげで俺達花火師はおまんまの食い上げでよ。仕方なく今の仕事を始めたってわけよ」 「それと親方の浮気がどう関係してるんです?」 「そりゃああれだよ! なんてーの? 夢破れた人間ってのは脆くなるんだよ!」 「だから間違いも犯しちまうって事だ。どうだ、無理もねぇと思わねぇか?」 「言い訳にも聞こえませんが」 「うっせー。過ぎちまった事はしょうがねぇんだよ。大事なのは未来だ未来」 「新たな伴侶を探すのだろうか」 「馬鹿言え。もうそんな歳じゃねぇよ」 「では何を」 「……秘密だぞ? 実はな、こっそり昔のツテを使って花火玉を作る材料を集めてるんだよ」 「この街の奴等に、もう一度でっかい花火を見せてやろうと思ってな」 「それは興味深いな」 「ひまわりもみたーい♪」 「是非私も見てみたいです」 「おうそうかそうか、じゃあ期待して待っててくれ。近いうちに完成させるからよ」 「でも花火が上がったところで恵子さんが戻ってくるわけじゃないですけどね」 「うぅ……恵子ぉ……俺が悪かったよぉ……」 ノエルの言葉が致命傷となり、以降親方は涙を流しながらアルコールを摂取し続けた。 花火か―― 是非とも一度は私も見てみたいものだ。 親方の振舞う晩餐を終え岐路に着く途中―― 「ねぇねぇ、ひまわりみんなと遊びたいー」 「嫌です。私はさっさと帰ってダラダラしたいんですよ」 「えー、ちょっとくらい、いいと思いまーす」 「ノエルさん、ひまわりさんは遊びたい年頃なのですよ。少しくらい付き合ってあげても良いではありませんか」 「さすがみつきちゃん、話がわかるー♪」 「ノエル、子供の面倒を見るというのは、その欲求を満たす行為に付き合うという意味もある。人間ならば当然理解している事らしい」 「んー、ご主人がそういうなら」 「ふふっ」 過ちは誰でも犯す。愚鈍な人間と優れた人間の差は過去の行為から学習し行動に反映させられるかの違いである。 せっかくなら人間として優れた者の行動を模範すべきだ。 「だがここが公園としての機能を果たしていたのは7年前までの話だろう。遊具の劣化も激しい。キミの欲求を満たすには不適当ではないだろうか」 公園内は旧市街の一角に相応しく“ナグルファルの夜”の影響を顕著に受けていた。敷地内には海水が流入し、遊具などの人工物も破損が目立つ。 「じゃあ“ケイドロ”しよっ♪」 「ケイドロとは一体何だろうか?」 「ケイドロではなくてドロケイではないのですか?」 「呼び方が違うだけでやる事は同じですよ。鬼ごっこに似た遊びで、追う側と追われる側のグループを作って走り回るくだらない遊びです」 「ふむ、興味深いな」 「ね、いいでしょっ♪」 「わ、私は構いませんが」 「えー、疲れるじゃないですか、ヤダー」 「私も是非体験してみたい。ノエル、協力してくれないだろうか」 「ご主人に言われたら断れないじゃないですか」 乗り気ではなかったノエルの協力を得られ、ケイドロの開催が決定された。 「じゃあチームを分けまーす。いくよー♪」 「グーとパーで別れましょ♪」 「…………」 「…………」 「えと……」 「もうっ! 何でみんなやってくれないの! グーかパー出してくれないとケイドロできないよっ!」 「すまない、どうすればいいのかわからなかったのだ」 「私はご主人が出してから後出しするつもりでしたから」 「えと……グッパのそろいぞねをやろうとしているのでしょうか……?」 「え? 何それ美月ちゃん?」 「何語ですか。せめてグーーーー、しょ、でしょう」 「す、すみません、忘れてくださいっ……!」 「なるほど。じゃんけんで使用するグーとパーだけを用いて、二つのグループに分かれるというわけか」 議論で決める場合は個人の思惑などが介入して決まりづらいのだろう。その点、運に委ねればこの上なく簡略化される上に手っ取り早く合理的な手法だ。 「じゃあもういっかいいくからねー。今度はみんなちゃんと出してよー」 「あとのえるちゃん、後出しはやっちゃいけないからね」 「チッ、まあいいでしょう。いい機会です、小細工などせずとも深い愛で繋がっているという証拠を見せてあげましょう」 「手順は理解した。いつでも構わない」 「じゃあいくよー。グーとパーで別れましょ♪」 掛け声の終わりに合わせて拳を突き出す。四人の手が一斉に出揃った。 グーを出している者が二人。必然的にパーを出している者も同数だった。 「決まりーっ。あかしくんとひまわりー♪ のえるちゃんとみつきちゃーん♪」 「あ゛ーーーーー!? なんでや! なんでパー出さんかったんやー!」 「…………」 「私とひまわりがペアか。次は追う側と追われる側を決めるのだろう」 「はいはーい♪ ひまわりは泥棒がいいでーす♪」 「泥棒? 窃盗は法によって禁じられた行為だ。あまり推奨はできないが」 「違うよー、泥棒は逃げる方の事だよ」 「そうか、だからケイドロなのだな。だがキミの一存では決められないだろう。二人はそれでいいのだろうか?」 「ひまわりさんが希望するのでしたら、私はそれで構いませんよ」 「すぐに見つけてみせますよ。絶対、何があっても、ね」 遊びの一環であるはずなのだが、何故かノエルの表情には鬼気迫るものがあった。 「じゃあのえるちゃんとみつきちゃんは100数えたら動いていいからねー」 「イチニサンシゴロクシチハチキュウジュウ」 「わわあっ!? あかしくん、はやく逃げないと捕まっちゃうよ!!」 「ああ、わかった」 当面の目的はこの場から離れる事のようだ。 ひまわりの後に続いて走り出す。 「アハハ、ご主人、待っててくださいね。すぐ迎えに行きますから」 言い様のない重圧から逃れるように、私とひまわりは廃れた公園を後にした。 「さて美月さん、二人きりになれたところで女同士、腹を割って話をしましょうか」 「……にじゅうご……にじゅうろく……」 「わざわざご主人と別れてまで機会を設けたんです。あなたには聞きたい事がありますからね」 「……さんじゅう……さんじゅういち……」 「ってコラ! とりあえず数字を数えるのをやめてください!」 「え、だって100数えないといけないのでは」 「そんなもん大体でいいんですよ。こっちがいつ動き出したのかなんて向こうもわかりゃしないんですから」 「……そこまで仰るのでしたら。私に聞きたい事とは何でしょうか」 「まどろっこしいのは嫌いなので単刀直入に聞きますね」 「あなた、ご主人の事をどう思ってるんですか?」 「どう……と言われましても」 「私に体裁を取り繕う必要はありません。私もあなたに遠慮するつもりもないですし」 「もしも私の意に沿わない答えが返ってくれば、容赦なくあなたを消すつもりでいますから」 「…………」 「それを踏まえた上で、あなたの本音を聞かせてください」 「……私は」 「……長い間、この世界はまやかしで満たされている。そんな世界を拒絶した私は自分の殻に閉じこもっていました」 「ですがそれは間違いなのかもしれない、まやかしで満たされていたのは私の方ではないか――そう思わせてくれる人に出会いました」 「酷く不器用で、頼りない一面もありますが、それら全てを含めて私は赫さんを信じています」 「いつしか信頼がゆっくりと、そして確実に好意へと変わっていくのを感じました」 「きっとこれからも私の心は切り崩されてゆくのでしょう。私もまた、そうであって欲しいと願っています」 「…………」 「ぼえ~~~~っ!」 「だ、大丈夫ですか!?」 「他人のノロケがこれほどまでにうんざりするとは思いませんでした。危なくおでんが口から飛び出るところでしたよ」 「…………」 「……私が憎いですか?」 「憎い? ああ、そうですね。私とご主人の間に入ろうとする者は誰であろうと憎いですよ」 「ですが他のどこの馬の骨ともわからない尻軽女ならいざ知らず、あなたを殺したいとは思いませんよ」 「……第一に考えるべきはご主人の事です」 「この世界には永遠がないように、この先、私がずっとご主人の傍に居られるとは限りませんからね」 「不足の事態に備えて、代替品を用意しておくのは当然でしょう。間違ってますか?」 「……間違いではないのかもしれません。ですが悲しい考え方だと思います」 「いいんですよ。私はご主人が幸せならそれでいいんです」 「ですがまだ私はあなたを認めたわけじゃありません。他の女よりは多少マシかなって程度ですから」 「…………」 「ひとつ確認しておきたい事があります」 「あなたは自分の全てを投げ捨ててでも、ご主人の為に生きる覚悟がありますか?」 「あなたは自分の“《デュナミス》〈異能〉”を嫌っているそうですね」 「もしもご主人の命が脅かされている場面に 遭遇した時、あなたは自らの信条を捨てて “《デュナミス》〈異能〉”を使えますか?」 「それは……」 「私にはあります。ご主人のためならば、この命すら惜しくはありません」 「その覚悟がないあなたに、今のところご主人を譲るつもりは全くありませんから」 ひまわりに任せて放棄所内を歩いてゆくと、海底に沈む街並みを一望できる途切れた道路に辿り着いた。 地殻変動の影響で周囲の土地は陥没しており、自然の力で形成された岬のような光景が広がっている。 「ここまでくればみつからないよー」 「そうだな。しかしひとつ気になる点があるのだが」 「およよ? なぁに?」 「少し遠くまで来過ぎたのではないだろうか。始めに活動区域を設定すべきではなかっただろうか」 「んー、そういえばそうだねぇ。じゃあすこししたらこっそり様子を見にいこー」 「私達も彼女らを探すのだろうか。これではどちらが泥棒かわからなくなるな」 ゲームの根幹に揺らぎを感じたその時―― 「ん…………?」 どこからだろうか―― 波の旋律に乗って、うっすらと歌声のようなものが運ばれてきた。 「あっちの方から聞こえてくるよ」 ひまわりも気づいたらしく、音の発生源と思われる方角を指差す。 人間の街並みはあらゆる騒音が入り乱れている。だがここは見捨てられた過去の街だ。往来のざわめきも商店から流れる音楽もあるはずがない。 「ねねっ、行ってみようよっ!」 「それは構わないが気をつけてほしい。万が一、海に落ちれば面倒だ」 「だいじょぶだいじょぶ! はやくいこっ♪」 「キミの大丈夫ほど頼りにならないものも、そうはないな」 波打ち際へと近づくにつれ、打ち付ける波音がより鮮明になる。 同じようにおぼろげだった声の輪郭が浮かび上がっていく。 歌声の主は月明かりを浴びながら、失われた過去に向けて鎮魂歌を贈っているようだった。 「おんなの人が歌ってるよ」 「そのようだ」 海に向けて歌う少女―― その姿は日々の日常とかけ離れた別世界を写生した絵画のようだった。 「どーしてあんなとこで歌ってるんだろうねぇ。落ちたらあぶないよ?」 「そうだな。しかし彼女には彼女の都合があるのだろう」 「からおけ屋さんに行くおかねがないのかなぁ」 「かもしれないな。潤沢な資産を有しているようには見えない。あの姿はまるで九條が愛読している本に出てくる少女のようだ」 星の銀貨を得る前の少女は自らの所有品を他人に分け与え、寒さをしのぐ衣類さえ失ってしまった。 目の前の少女が本の中から飛び出してきたのだとすれば、物理的な疑問こそ生まれるだろうがある種の納得はできるだろう。 それほどまでにその少女には現実感がなかった。 「へっ、へっ、へっ……」 「へ?」 「へくちゅんっ――!!」 宵闇の演奏会は不躾な観客の手によって終幕を迎えた。 少女は私達の存在に気づくと立ち上がってこちらに視線を向けた。 「…………」 少女は微動だにせず、主張のない瞳を向けている。 「ゴキゲンオー♪」 「…………」 「ひまわりの名前はひまわりだよ♪」 「…………」 「ひまわり、キミの言動では何を求めているのか理解しづらいのではないだろうか」 「……ココロ」 「こころちゃん?」 「…………」 少女は同意の言葉を述べなかった。 その代わり、小さく相槌を打ってささやかな意思表示を行った。 「そっかー、こころちゃんって言うんだねー。こころちゃんはどうしてここでおうたを歌ってたのー?」 「……ママが歌ってたから」 「ママ? おかあさんを待ってるの?」 「…………」 今度は僅かな動きですら反応を示さなかった。 「こんな場所で待ち合わせとは珍しいな。普通の人間が足を踏み入れるような場所ではない」 「あかしくん、ひまわりたちは言えるたちばじゃないんだよー」 「そうだったな」 私は人間ではないから平気だ――そう反論するのは人間を理解しようとする者としてはいささか卑怯な言い訳に思えて黙っていた。 「……ひまわり」 「はいっ、ひまわりだよっ♪」 「…………」 少女の視線がひまわりから私へと移動する。その意味を察する事ができないほど、世間知らずではない。 「私の名は赫。赤色の赤を連ねて赫だ」 「……赫」 言葉の意味をかみ締めるように呟く少女。特に目立った反応はない。 当然だ、人間は必要以上に他人に踏み込まない生物だ。表面的なやり取りで済むのなら、その場を取り繕って終わりだ。 「おかーさん、すぐ来るの?」 「……こない」 「じゃあひまわりたちとあそぼーよ♪ いいよねあかしくん?」 「遊ぶと言っても具体的には何をするのだろうか。私達はいまケイドロの最中だと思うのだが」 「んー、のえるちゃんたちに見つかったらダメだから、ひまわりたちだけでできるあそびをしよっか♪」 「そーだねぇ……あ、だるまさんがころんだは?」 「書籍で見た事がある。視界に捉えられている瞬間は静止していなければならない遊びだろう?」 「そうだよー♪ こころちゃんもそれでいーい?」 「……ココロも遊ぶの?」 「そーだよ♪ じゃあひまわりが鬼やるから♪」 ひまわりは同意も得ずに傾いた電柱に向かって走り出した。 「巻き込んでしまってすまない。しばらく付き合ってくれればひまわりも満足するはずだ。しばしの間、協力してはくれないだろうか」 「……わかった。ココロ、だるまさんになる」 「だるまにはなれない。役割の話だとしても、それはひまわりの事を指す」 「……わかった。ココロ、ころぶ」 「転べば怪我をする。止めておいた方がいい」 幸運な事に、見ず知らずの少女は他人である私達の為に一肌脱いでくれるようだ。 互いに干渉しない社会においては稀有な例と言えるだろう。 「だーるまさんがー……」 電柱に添えた腕に顔を埋めるひまわり―― 今この状況が、だるまさんがころんだにおける活動が許可されている時間だ。 「ころんだっ!」 「…………」 「…………」 「えへへ、ひまわりがじょうずだから二人ともうごけないのかなぁー」 「一度目でキミにタッチしなければならないというルールではないはずだ。初めての経験では様子を見るのは定石だろう」 「……転ばなきゃ」 「いや、転ばなくていい」 「次いくよー。本気出してくれないとつまんないからねー」 「わかった。全力を尽くそう」 「……転ばなくていいのなら、何をすればいい……?」 どうやらだるまさんがころんだの経験がないのは私だけではないらしい。 口で説明するよりも実演した方が理解も早いだろう。 私は次に訪れるチャンス向けて、地面を蹴る脚に力を込めた。 「だーるまさんがー……」 特有のカウントダウンが開始され、ひまわりの視界から解き放たれる。 即座にコンクリートを蹴り、ひまわりに向けて跳躍した―― 「ころっ――」 「うわぁ!?」 「私の勝ち、でいいのだろうか」 後ろを向いている間に距離を詰めてひまわりに触れる。 以前私が書籍で読んだルール通りに行動した――はずだったのだが……。 「びゅーってとんでくるのナシだよっ! いっかいでおわっちゃったらおもしろくないでしょっ!」 「私はルールに抵触していないはず――」 「ダメなものはダメなのっ! もっかいやりなおしだよっ!」 「……はい」 どうやら一度の機会で目的を達成してはいけないらしい。 ココロという名の少女が立つ場所まで戻る。彼女は所定の位置から微動だにしていなかった。 「じゃあいくよー♪ だーるまさんがー」 「はー、たのしかったねぇ」 「キミがそう感じたのならそれでいい」 ひまわり主導で始められた遊びだが、何度か繰り返すうちに丁度いい塩梅というものを掴み取れた。 そもそも敗北を喫しても何のリスクもない。勝利にこだわる姿勢が間違いだった。 だるまさんがころんだに関してだけ言えば、一度の機会で進むのは二、三歩に留めなければならない。 今回の収穫は子供と遊ぶという行為の意味を理解できた点だろう。 「…………」 「キミも付き合ってくれて助かった。感謝している」 「……ココロ、役に立った?」 「ああ、十分だ」 結局少女は最後までその場から動かなかった。だがそれ自体は問題にはならない。 見ず知らずの私達に協力する意思を見せ、輪の中に参加してくれただけで十分だった。 「ひまわり、そろそろノエル達の様子を見に行かなければならない」 「あ、うん、そうだね」 私達はケイドロの最中なのだ。彼女達と別れてから30分ほどが経過している。 そろそろ彼女達の前に姿を現さなければ、ノエルがどんな行動に出るか想像もできない。 「じゃあこころちゃん、またあそぼーねー♪」 「助かった。もしもまた会う機会があれば、今度は私がキミの力になろう」 「…………」 少女は感情の見えない瞳で私達を見据えた。無言を貫いているという事は、特に言うべき言葉もないのだろう。 「じゃあねー、ゴキゲンオー♪」 岬に残った少女に背を向ける。 しばらく歩いて再び少女に視線を向けた時―― 彼女は同じ場所に立って海を見つめていた。 「こころちゃんのおかーさん、ちゃんとむかえに来てくれたかなぁ」 「さあどうだろうな。だが私達が心配しても無意味だ。私達にできる事はないのだから」 周囲に目を配りながら、元居た公園に向かい横に並んで歩く。 「ねぇ、あかしくん」 「何だろうか」 「ひまわりにも、おとーさんとおかーさんがいるんだよね?」 「生物のほとんどは雄と雌の交尾によって生まれる。人間ならば受胎した母親の体内から生まれてくる」 「こうびってなに?」 「人間のケースで言えば、異性間で行われる生殖活動の事だ」 「せーしょくかつどー?」 「いずれキミも知る機会が来る。つまりキミにも父親と母親がいるはずだ」 「…………」 ひまわりは珍しく考え込むような素振りで視線を落とした。 「寂しいのだろうか?」 「えっ……?」 「親を求める感情は幼ければ幼いほど強いと聞く。キミくらいの年頃ならば、親に対しての強い依存心があってもおかしくない」 「…………」 「……ひまわり、さびしくはないよ。だってあかしくんとのえるちゃんがいるもん」 「あかしくんがおとーさんでのえるちゃんがおかーさん♪」 「私とノエルはキミの親ではない。だが代替品として満足できているのならそれでいい」 「それにみつきちゃんもいるでしょ? だからひまわり、ぜんぜんさびしくないよ」 「私とノエルがキミの父親と母親の役割ならば、九條は何なのだろうか」 「みつきちゃんはねー、あかしくんのあいじんだよ♪」 「ひまわり、冗談でもノエルの前で口にしてはいけない」 これ以上余計な火種をまいて関係をこじらせてはならない。得をするのは懐が潤う江神だけだ。 「キミは本当の家族に会いたいとは思わないのだろうか?」 「…………」 「……えへへ、よくわかんないや」 ひまわりは罰が悪そうにはにかんだ。 「親に対する感情すらも覚えていないのだろうか」 「……うん」 「そうか。私もそうならば、胸を焦がす焦燥に苛まれる事もなかっただろう。ある意味、キミが羨ましい」 「…………」 「そう気落ちする必要はない。マスターの手配が上手くいけば、数日のうちにキミの身元は判明するだろう」 「空振りだったとしても、キミも失った記憶が戻れば、本当の家族に会う事も可能だ」 「うん……やっぱりひまわり、おとーさんとおかーさんに会いたいかな」 「当然の思考だ。本物に勝る贋作などない」 「それにいつまでも私達を親に見立てて過ごすわけにもいかないだろう。今の関係はそう長く続きはしないのだから」 「…………」 所詮私とひまわりは業務の一環として繋がりを持ったに過ぎない。 今後の流れはマスター次第だが、このままひまわりを倉庫に置き続けるのは困難だろう。 私達は“《イデア》〈幻ビト〉”だが彼女は人間なのだから―― 「……でも、ひまわり……あかしくんたちと――」 咄嗟にひまわり小さなの口を塞ぐ。 だがその甲斐も空しく、背後の気配は私達の存在を認知したようだ。 「ぐふふ~、ご~主人み~つけた」 闇に浮かぶ双眸の光―― 血に飢えた獣が鋭い眼光で獲物を見据えていた。 「あ、お二人とも」 どうやらケイドロの開始以来、始めてそれらしい状況が生まれたようだ。 「もう逃がしませんよー、うふふ、ご主人は私のものです」 怪しい手つきで滲み寄るノエル。 「ケイドロのルールでは、相手に触れられたら捕まってしまうのだったな」 そして泥棒の割り当てられたチームの全員が捕まってしまうとこちら側の敗北が決定してしまう。 「ノエルの注意を私が引き付ける。キミはどこかに隠れているといい」 「逃がしませんよぉ~。ご主人は私に捕まって、そのままベッドに引きずり込むんですから」 「泥棒が自ら出頭してはゲームが成り立たないだろう。だから私は全力で逃げさせてもらおう」 「構いませんよ。追いかけるのもまたひとつの愛ですから」 ノエルの身体に湧き上がる“《デュナミス》〈異能〉”の気配。どうやら本気のよう―― 「――――」 咄嗟にその場から飛び退いた。飛び掛ったノエルの勢いに耐え切れず、地面のコンクリートは円形の窪みを形成した。 「待ってくださいよ~どこ行くんですか~」 「そう易々と捕まっては面白味がない。遊びとはいえど、全力を尽くさなければ興が冷めてしまう」 ノエルは二度目の突進を繰り出す。 私に触れようとした手をどうにかかわすと、ノエルはその勢いのまま廃ビルの壁面へと突っ込んだ。 姿は見えないが恐らく彼女は無傷だろう。すぐに次の行動を起こしてくるに違いない。 「な、何をやっているのですかっ!?」 「何とは愚問だ。私達は今ケイドロをしている」 「こ、こんなのドロケイじゃありませんっ!」 「あかしくん、がんばれ~♪」 九條の抗議に耳を傾けている余裕はない。 相手にしているのは無類の戦闘能力を持つ、力の権化“《ベオウルフ》〈英雄王〉”。 その程度については、他の誰よりも私が最もこの身で理解しているのだから―― 「いやぁ~あんなに動き回ったのひさびさですよ」 「そうだな、私も汗を掻いたのはいつぶりだろうか」 ケイドロが私達の敗北で終了した後、四人で倉庫に戻る。 「やはり“《デュナミス》〈異能〉”を発動されては成す術がなかった」 「そんな事ありませんよ。私もすぐには捕まえられませんでしたし」 「こっちは“《デュナミス》〈異能〉”を使ってたんですよ。にも関わらずあんなに手こずらされたんですから、さすが私のご主人ですね♪」 「…………」 「どうかしただろうか」 「……いえ別に。ただ私がいる必要があったのかと思いまして」 「私もひまわりもノエルに捕まってしまった。だが私達を見つけたのは二人の力だろう。そう悔いる必要はないと思うのだが」 「……そういう事ではないのですが」 何やら腑に落ちない表情を浮かべる九條を尻目に、ノエルは脱衣所に向かって歩き出す。 「ひまわり、あなたも来なさい。歩き回って汗掻いてるでしょう。さっさとお風呂に入りなさい」 「は~い♪ みつきちゃんもいっしょにはいろっ♪」 「わ、私もですか?」 「三人では少し手狭に感じるかもしれないが、不可能ではないだろう」 「ね、のえるちゃん、いいでしょ?」 「別に構いませんけど。美月さんにその勇気があるならですけどね」 「っ……!」 にやけるノエルと赤面する九條。彼女達の間で行われているやり取りが理解できなかった。 「だ、大丈夫です。ひまわりさん、いきましょう」 「はーい♪」 「ひまわりで安心しようと思うのは悲しすぎますよ。どうみても子供ですからね?」 「わかってます! そんなつもりじゃありませんっ!」 「こりゃ失敬」 旧市街を走行する電車の運行時間も過ぎ、倉庫内には静寂で満たされていた。 私を除いた三人は二階のロフトに設置されたノエル用のベッドで寝ている。 ソファに身体を預け、天井を見上げる。 「…………」 そう待たせる事はない―― 江神は“《ファントム》〈亡霊〉”の行方に関する情報についてそう話した。 七年前、私の記憶に傷跡を残した張本人の行方をついに掴めるかもしれない。 そう思うだけでも体内を駆け巡る炎の疼きが強まってゆく。 失ったものを取り返す――それが叶わぬならば、相応の罰を与えねばならない。 それだけが、私が過去から解き放たれる唯一の方法なのだから―― 「怖い顔してどうしたんですかー」 「気配を殺して接近するのはお前の悪い癖だ。何か用だろうか」 耳元で囁いたノエルはそのまま仰向けになっている私の上に覆いかぶさる。両手の指を絡め取られ、身動きができない。 「何って、決まってるじゃないですか。ご主人が浮気しないための処置ですよ」 「私は浮気などしていない」 「でも悪い毒は溜まってきてますからね。全部出し切って、私の事しか考えられないようにしてあげます」 「ノエルの要求を断りはしない。だが今日は二階にひまわりだけでなく九條も寝ている」 「邪魔者二人も考えようによっては利用できると思いませんか?」 「利用とは?」 「他人がいる場所でバレないようにイケないコトをする。どうです? 背徳的で興奮しませんか?」 「今の私にはわからない感情だ」 「ふふっ、少しずつ、一緒に知っていきましょうねぇ」 ノエルの頬が私の胸に擦り付けられる。 「最近美月さんが調子こいてるので、妻が誰なのかしっかりと教えてあげます」 「ですが美月さんが起きてしまったらシチュエーションが台無しなので、今日は静かにしましょうね」 「それに関しては私よりもお前にかかっていると思うのだが」 「そうですね。ご主人に愛されて、喜びの声をあげないなんて私にはできません」 「だから、今日はいつもと違ったやり方で、ご主人を気持ちよくしてあげますね」 ノエルの胸を覆うにはあまりにも頼りない二つの布が横にずらされ、その役割を放棄した。 「どんなに望んでも、ご主人だけしか感じる事のできないノエルの身体ですよ」 文字通り、私はノエルの身体に包み込まれた。 ズボンを脱がされ、数分の手淫による海綿体の膨張を機に、ノエルが胸を露出させた。 「おち○ちんがイライラしていますね、お辛いでしょう? どうぞ、私の胸に差し込んでください」 「おち○ぽというものはですね、女性のおっぱいで優しく包まれることで、それはそれは天にも登る心地になれるのですよ」 「わかっている。ノエルにされるのは初めてではない」 変わらぬ光景。 私が下で、ノエルが上。 全てを委ね、全てを任される夜の主従関係。 「あっ……あぁ……もうすぐ顔を出しますよ……もう少しです、頑張ってくださいご主人……」 ……にゅずず……ずずずずずっ。 ふんわりとした柔肌の谷間を通り付けようにも、ノエルが下乳をつまみあげている為、濡れていないペニスは思うように動かない。 「見てくださいご主人、おっぱいにおち○ちんが完全に隠れているでしょう? 美月さんにはこんなことできませんよ?」 「確かにノエルの胸の脂肪は常人のソレではない。常軌を逸しているといって過言ではないだろう」 「それは褒めているんですか、けなしているんですか?」 声色が怖い。 ノエルの琴線は、私には理解ができない。 しかし、丸く収めこむ術は習得してきている。 「ノエル。私の生殖器の膨張具合を見て欲しい。これが何よりの証拠ではないだろうか?」 「うふふ……そうですね。こんなに硬くして……ご主人は私のおっぱいが大好きなようですね……」 「ああ、私はノエルのおっぱいを愛している」 「それは……ああっ。私の全てを愛している、という意味ですね?」 乳圧を加減したノエルの双乳が開き、途中で引っかかっていた亀頭が外気に触れる。 「良し良し、いい感じにビクビク脈打っていますね。そのまま私に任せていれば大丈夫ですからね……♪」 谷間から肉先が顔を見せた途端、待ち構えていたように五指が弄んだ。 「ご主人のおち○ちん……触ってほしそうにしてますねぇ……良し良し……たくさん可愛がってあげますからねぇ……♪」 ノエルはひまわりや九條を相手には絶対に見せない母性的な笑みでペニスを撫で擦った。 もしかしてノエルにとって生殖器は愛玩動物に近い存在か何かなのかもしれない。 「こういったワーム状の生物を飼いたいのであれば好きにすればいい。それで私の代用になるならばだが」 「何を言ってるんですか? ん……ん……んふ……んっ……強さは、このくらいでちょうどいいですか……?」 「私は黙っていても感じている。ノエルに全て任せる」 「では、もう少しだけ強くしますね……んっ……んっ……んっ……」 なめらかな乳肉を左右から押し込み、内側に向かって圧力を掛けながら満遍なく刺激を与えてくる。 服からはみ出す余剰な肉は、何らかの記録や競争で優秀な成績を収められそうなほどに大きい。 しかし大きさ故に上下に素早く振り動かすというのは難しいらしく、圧迫したまま左右にこねるように動かしてペニスに刺激を与えていくのが常だ。 「はっ……んっ……んっ……んふ……ご主人……私のパイズリはいかがですか……」 「聞くまでもない事だろう」 「聞くまでもある事です。さっさと私のパイズリが好きで好きでたまらないとおっしゃってください」 「ノエルのパイズリが好きで好きでたまらない。ノエル、愛している。ノエル、いつも“処置”をありがとう」 「うふふ、素直なご主人は好きですよ……もっと気持ちよくなって、たくさん精液を出してくださいね……♪」 《フェラチオ》〈口奉仕〉とも、《セックス》〈膣粘膜とも異なる女躰の柔肌の感触。 軽く押し込んだだけでむにゅりと形を変えるほどに柔らかな乳肉は、とても優しくペニスを包み扱く。 「あっ……」 嬉々とした様子でノエルが指先を鈴口に押し当てると、水音が鳴った。 漏れだした粘液をすくい、すぐさま親指と人差指でにちゃにちゃと糸をつくった。 「もう濡らしちゃったんですね……うふふ、おち○ちんのおつゆがこんなにたくさん♪ やっぱりご主人は私無しでは生きていけないんですね……」 「ちゅっ。ぺろっ、ぺろっ……はぁ♪ 100%ご主人ジュース……♪ んーちゅ……れろんっ」 人は上等な料理を頬張った時に目を閉じて味わうと聞くが、指に絡みついたカウパー液を舐めるノエルも同じなのだろうか。 《あんなもの》〈カウパー液〉を自ら口に含むとは、ノエルは変わった味覚を持っているのかもしれない。 「あら? 全部舐めとってしまいましたか。これでは滑りがたりませんね、私の唾液で濡らしておきましょう」 「んっ……んろぉー…………さぁ、続きをしましょうかご主人」 ぽたぽた。唾液を谷間に垂らしたノエルは肉食獣のように舌なめずりをした。 「んっ、んっ……ふぅっ……ご主人の、疲れきったおち○ちん、すごい匂いですよぉ……すぅぅ~~~……んはぁ~~……」 「……んはぁぁ……ご主人の……おち○ぽの匂い……はぁ~~……癒されるぅ……これがないと、私、ダメになっちゃぅ……♪」 鼻を鳴らし、悦に浸るように雄の臭いを楽しむノエル。 「ノエル。すまないが、パイズリとやらがおろそかになっている」 「おっと、失礼しました。わかっていますよ、こうして寄せ上げて……」 上体ごと揺らし、乳肉で激しく肉棒を扱いてくる。 弱火で炙られるような淡い性感が募っていく。 「んしょ、んっしょ、んふっ、んふっ、あの娘のミニマムバストでは、んしょ、この深い挿入感は味わえませんよ?」 「別に味わう必要はないのだが、確かにノエルの胸のような肉厚さがなければ、重量感のある刺激は得られないだろう」 「そういえばご主人は、直接おま○こで抜いてあげるより、おっぱいでしてあげた方が早く搾精できる気がしますね」 なるほど。言われてみれば一理あるかもしれない。 「体内時計での計算だが、射精に掛かるまでの平均時間は胸の脂肪を押し付けられた時が一番早いな」 「セックスより早いというのも少し複雑な気分ですが、まぁ良しとしましょう。目の前にご主人のおち○ちんがあれば、私はそれでしあわ……ごほっごほっ!」 「幻聴だろうか? 幸せと聴こえたが……」 「“しわ寄せ”と言ったんです。何が悲しくて、精液を出すお手伝いに幸せを見出さなくてはならないんですか? まったく」 「では……私のおっぱいをおま○こ代わりにして、いっぱいどぴゅどぴゅしましょうね……」 私はノエルの胸を、私を射精に導く《パーツ》〈装置〉としてしか見ることができない。 「ンッ、んっ、んぅっ、んんんっ、んふっ、んっふっ、んふっ、んっ、んっふ」 しかしノエルも、自らの身体を搾精機同様に考えているはずだ。 なにしろ本来、赤子に母乳を与えるためにあるそれを、私の僅かばかりの性欲を刈り取る為に使用しているのだ。 繁殖を伴わない以上“《イデア》〈幻ビト〉”にとって性交渉は趣味や遊びの域を超えることはない。 「あっ……♪ おつゆまた出た。んっ……んっしょ、んふふ、ご主人、腰に落ち着きがありませんね」 「ああ。ペニスが心地よく痺れてきている。本能的に射精を求めているようだ」 「ご主人は幸せ者ですねぇ。気持ちよくなりたくなったら、いつでも私に処理してもらえるんですから」 「私が人間を襲わない為にも、浮気とやらをしていない証明の為にも、射精まで付き合ってはもらえないだろうか?」 「うふふ、しょうがない人ですねぇ。では、仕方なくですよ」 「んっしょ、んっ、んっんっんっ、うふっ、おち○ぽ、元気に暴れてるっ、んっんっんっ♪」 激しく揺れる乳房とともに、熱っぽい吐息が先端に吹きかかる。 「まったく……もう……♪ どうしようもないおち○ちん……このおち○ちんから最後の一滴まで絞り尽くすなんて、面倒くさい……♪」 口では億劫そうにするものの、ノエルは真剣に私を射精させようとしている。 「はぁっ……はぁっ……もっと、ぎゅっとして……もっとご主人を、気持ちよく……」 深く埋まった肉棒全体が惜しみなく揉みほぐされていく。 「あぁ……あぁ……おつゆもこんなに……熱いおち○ぽ……素敵で、たくましいご主人のおち○ぽぉ……♪」 「はぁ……はぁ……匂いも、どんどん濃くなって……はあん……♪ 頭がどうにかなりそうです……」 「ノエル……顔が真っ赤だが、大丈夫か?」 「大丈夫じゃないのは、ご主人のおち○ぽの方ですよ……こんなにえっちなおつゆを漏らして……ちゃんと精液貯まってなかったら承知しませんからね……」 ぐじゅっ、にゅぽ、にゅぷ、にゅくにゅくにゅくっ……。 「はぁ……はぁ……にゅじゅにゅじゅって、うふふ、凄くいやらしくて重たい水音がしてますよ? おち○ちんの汁と私の唾液が混ざってぬるぬるです……」 「少々、音が大きいな。上では九條とひまわりが眠っている」 「それがなんですかー?」 「ノエルいけない。彼女達が起きてしまう」 「うふふ……別に私は隠す気はないですよ? ここは私達の巣。がきんちょと《いそうろう》〈泥棒猫〉に何と思われようが構いません」 「だが私はノエルに集中したい」 「ご、ご主人……そんなにも私の事を……!」 ぴったりと閉じられた谷間の中で快い刺激を受け続けていたおかげで、射精欲求が高まってきていた。 この段階まで来れば、あと一息で吐精へとたどり着くことができる。 「余計な邪魔が入って行為が長引いてしまっては困る。ノエル、搾精処置を頼む。お前にしかできないことだ」 「私にしか……はいっ、わかりました……♪」 「んっ――――れろぉ~」 粘り気を帯びた唾液が谷間に加わり、より密着感を増した巨乳奉仕が展開する。 「ンッ、ンッ、んはっ、気持ちよくっ、射精させてっ、おち○ちんをっ、すっきりさせてあげますからっ」 ぐっちゅ、ぬっぷ、ぬっぷ、ぬっぷ、ぬくちゅぬくちゅ、ちゅぶちゅぶちゅぶ……。 悪寒のようなものがゾクりと背中を走り抜け、身震いをする。 「ああ、ご主人。出したいんですよね。私で気持よくなりたいんですよね。いいですよ。おま○こより気持ちいい私のおっぱいに、全部注いでください」 潤んだ瞳が舐めるように私を観察し、精液が出るのを心待ちにしていた。 「ノエル、限界が来たようだ」 「ンッンッンッ、ああっ、ご主人っ、このまま《なか》〈乳内〉で絞りとってあげますからね」 ふんわりと包まれながらも激しい乳肉によって、ペニスが溶かされるほどの摩擦熱が生まれる。 「うふっ、堪え性のないご主人……♪ 精子を出したくてうずうずしてるんですね。ぎゅうううってしてあげますから。いつでもイっていいんですからね」 「ンッ、ンッ、んしょっ、はっ、んはっ、はっ、んはっ――――」 「っ……っ…………」 「ンッ、ンッ、ンッ、ご主人、気持ちよくなってくださいっ、私で、気持ちよくなってくださいっ」 驚異的な乳圧に耐え切れず、《せき》〈堰〉を切ったように精液が飛び出した。 びゅくっ! どびゅううぅぅっ! びゅくびゅくびゅううぅぅ~~~びゅ~~~~~~っ!! 「あっ――――はぁん♪ ご主人んんっ、何でちゃんと出るって言ってくれないんですかぁ……♪」 「ンッ、んぅ~~~~♪ 出る時、もっとおっぱいぎゅ~~~~ってして、もっともっと気持ちよくしてあげたかったのにぃ……♪」 暴れ狂うペニスを乳房で挟み、しっかりと固定される。 「こうやっておっぱいで挟んだまま射精するの、気持ちいいでしょう……? 本当におま○こに出しているみたいじゃないですか……?」 びゅるっ、びゅくくっ、どぴゅうぅっ――――はみ出した先端から放たれる精子は、水鉄砲のようにノエルを汚していく。 「んぅ~♪ ご主人の熱ぅいせーえき、ンッ、ンッ、勢いがあって、とても上手に射精できてますよ、ご主人、もっと顔に掛けてください……♪」 「ンッ、ンッ、んふっ……どぴゅどぴゅ顔に掛かってる……はぁぁ、うれしい……ご主人が私でこんなに出してくださるなんて……♪」 「んちゅ、ぢゅるぅ……はぁ~……♪ 飛び散らかして……動かないでくださいね、この処理も全て私の仕事ですから……」 艶かしい舌を伸ばし、口周りに付着した白濁を舐めとっていく。 「~~~っ♪ おいしい……おっぱいだけじゃなくて、おクチでも愛してあげたくなっちゃう……ご主人の味、たまりません……♪」 とろんと蕩けた瞳で我を失ったように精液を集め、愛しそうに味わっていく。 「このまま……今度は口の中でしゃぶってあげたいですね……ああ、そうしましょう……朝までおち○ちんをしゃぶり倒しましょう……」 「ノエル……私はもう、今日は充分だと思うのだが」 「いえ……今日という今日は徹底的に搾りだします。一度、休憩したいのであれば、一緒にシャワーを浴びに行きますか?」 「ノエルいけない。これ以上はいけない」 「うふふ……♪ これは必要な処置ですから……仕方なく、なんですよ……?」 体力的に不安があったが、ノエルに逆らうこともできず私は頷いた。 「……様…………」 「…………ぃ……様……」 ……ん…………。 誰か、すぐそばに立ってる……。 なるちゃん……先に起きたのかな……? ……………………え? 「――――――――――――――――――結衣!?」 「結衣ッ!? 結衣ッ!! 結衣ィィィィイィイィィィィッ!!!」 「!? 何事っ!?」 「ハッ――――ハッ――――はぁ……はぁ…………」 「ちょっと、優真くんっ!!」 「はぁ……はぁ………………え?」 「………………」 「結衣……見た……?」 「ひどい汗。悪い夢でも見たのね」 確かにいた。立っていた。 月にライトアップされた海水のプールサイド。 可愛らしい細脚は地についていた。あれは、結衣だ。 「なるは見たんだろ……結衣は……《・・・・・・・・・》〈どんな顔をしていた〉…………?」 「おちついて、深呼吸して」 なるの指示を受け、呼吸の乱れを整えてから海水で顔を洗った。 「……はぁ……はぁ……」 「…………」 「……依存症に掛かってた俺が、妄想だってわかってる結衣にさえ聞けなかった事があるんだ」 「え……?」 「“ナグルファルの夜”に俺だけが助かっちゃってさ……」 「結衣の分まで生きるのが、残された者の義務だからって決めて、必死で生にしがみついてるけど……」 「結衣は――――《・・・・・・・・・・・・・・・・・》〈一緒に死んで欲しかったんじゃないか〉」 「――――ッ」 結衣が生きているという可能性を全て否定するという理由もあるけど、それ以上に回答が怖かったから聞けなかった。 もしそうだとしたら、俺に生きる意味はなくなってしまうのだから。 「……はは……なに言ってんだろ、俺……」 「ごめん、こんなことなるちゃんに言ったって、仕方ないのに」 振り向くとなるの顔から表情が消えていた。 心ここにあらずと言った様子のなるは、立ったまま固まった。 ――――《・》〈私〉は鮮明に焼き付いた光景に回帰していく。 無限に続く海色の空、白日。 遮る物のない風を肌身に感じる。 帰るべき故郷の土地は、荒野になっていた。 「何があったの……」 ……と私は心から動揺したふうにつぶやく。 知っている。 これは《リプレイ》〈回想〉だから。 つぎに歩むのが、嘆きの道ということも……。 「実る果実。茂るハーブ。見渡す限りの草木。ない、一つも――――」 「私の故郷は? 生命力に溢れた素敵な楽園は? 私の数十倍の樹齢を誇るシンボルツリーは? アルラウネの歴史は、どこへ……?」 生まれてから今まで魅了され続けてきた故郷の巨木には、自分がいかにちっぽけな存在か教えてもらったのに……。 そこに立つ私の視界には、まったく別世界に映っていた。 私はわけもわからないまま、乾燥しきった地表を撫でようとする。 支えるもののない荒野にポツリと一人、生命の香りの失われた大地にすがるくらいしかなかったのだ。 私は地面に掌をつき、故郷の仲間の残した“《コトバ》〈音〉”を解析してしまった。 「――――――――」 私が『そんなことはしないで』と声を掛けることはできない。 これは《リプレイ》〈回想〉だから。 すでに起こってしまったことだから。 私は私のリフレインに耳を傾けるだけだ。 「あ……あ…………ああぁ……」 映しだされたのは、色とりどりの草花の焼けていく姿。 鎮守の森を滅ぼす劫火。 大挙した“《イデア》〈幻ビト〉”が楽園を踏み荒らす。 逃げ惑う“アルラウネ”。 流れこんでくる“《ヒメイ》〈音〉”。 血の一滴に至るまで。 焦げ付く臭いまで。 鮮明に感じ取れるくらい、悲痛な音色だった。 「嘘……嘘だわ…………」 これは《リプレイ》〈回想〉だから。 すでに起こってしまったことだから。 私は冷静に、絶望する私自身を映像として見ている。 「私以外、全員…………?」 仲間であり家族であり自分自身だった。 なにしろ酷似した力を持つ大勢が潜在的に連帯感を持っている上、性格も似ていた。 故郷の楽園で、私達は同じ“アルラウネ”として協力し合うことで生きていた。 私が“音”を聴けるのは“《わたし》〈アルラウネ〉”が“一人一種”ではないからだ(私の、“《イデア》〈幻ビト”生誕理論が正しければの話だけど)。 “《ディストピア》〈真世界〉”で水瀬の事務所をホームにしているとはいえ、いつか帰るべき故郷はここしかないとも思っていた。 「あぁ……あ゛あ゛ぁぁああぁぁぁあぁぁぁぁぁぁッ!!」 私と同じ“力”を持っている故郷の皆は“《ヒメイ》〈音〉”を地表に染み付かせていた。 それを聞き取れるのは運良く助かった者(いるわけがない)か当然、同じ“力”を持つ私に限られる。 「――――――――ッ!!」 失意の中、私は悟ってしまったのだろう。 あらゆる運命が重なった結果、故郷が滅ぼされた事実を自分の目で知ることができたことは“最悪”なんかではないと。 奇跡的な確率でしか再生されなかった《ヒメイ》〈遺書〉を聴くことができたのは“幸い”なのかもしれない。 「わかった……わかった……」 “憎い憎い”“殺して”“仇を討って”“後悔させてやる”“地獄へ落とせ”“同じ目に”“赦さない”“怨めしい”“償わせろ” 同胞たちの唸るような怨嗟の声を全身で受け止める。 遺すべき最期の言葉には、たった一つも“助け”を求める類のものはなかった。 完全に、仲間を葬られた憎悪と報復に満たされた内容だった。 誰も、自分が助かろうとなど思わなかった。 誰も、泣いて許しを請おうとはしなかった。 誰も、誰も、誰も――――。 「いるから……」 「骨を拾う存在が、ここに」 私が故郷を去ったのは、人間に可能性を見出してのことだ。 皮肉な事に、故郷は、その人間の犠牲になった。 私は、私たち“《イデア》〈幻ビト〉”を創ったのが人間だと未だに思っている。 “《ディストピア》〈真世界〉”の伝承によると、アルラウネは無理やり引き抜かれると悲鳴を発して、やがて力尽きるという《・・》〈設定を持つ。 皆も、死ぬ間際に恨み辛みを残した。 本能に従うままに。 それしかできなかった。それを義務付けられた。 「誰……」 たった一人の生き残りである私は、呪縛に掛かった。 憤怒。使命。贖罪。 そこに正解も不正解もない。 「首謀者は、誰……ッ!!」 探りだした“《ヒメイ》〈音〉”の中にその名前はあった。 「そう、なら――――結局」 同じ場所で育った者達の怨嗟の声を代弁できるのは、私しかいない。 “アルラウネ”最後の生き残りとしての務めを果たす。 「人類を《ミナゴロシ》〈鏖〉にすることに、な・る・わ」 「――――え?」 頬を軽く叩いても上の空だったなるが、やっと気づいた。 「立ったまま、気絶? してたよ」 「……ぼうっとしてただけよ」 ぐしぐしと擦る目は赤み掛かっていた。 「“ナグルファルの夜”を起こした大元凶と “《アーカイブスクエア》〈AS〉”は密接に関わってるはずよ」 「まえにも言ってたね」 「あれだけの惨事、“《イデア》〈幻ビト〉”が絡んでるに決まってるわ」 「私もその“《イデア》〈幻ビト〉”の一人。どう? 憎くない? 憎いでしょ」 「いや、ぜんぜん」 「なるちゃんは種族じゃなくて個人だし。俺の家族だし」 っていうか、それ以前の問題か。 「引き起こしたのが人であれ、自然であれ、関係ないよ。憎しみで、結衣はもどってくるわけじゃないんだ」 「そんな腑抜けた考え方だと、また失うわよ」 「でも、なるちゃんは戻ってきた」 「……優真くん、今って何時かしら」 「え? 2時半だよ」 「やっと丑三つ刻ね。じゃあ不毛な話はお終いにして、やるべきことをしましょうか」 なるが何かを取り出し、俺の手を取った。 「ちょっと、え? なになに?」 「大丈夫、百発百中だから♪」 混乱する俺をよそに、なるはテキパキと動く。 鳥居が書かれた紙を俺の掌に載せると、もう片方の掌を合わせるように指示した。 「紙を挟んだけど?」 「いいわ。一回っきりの占いだから、雑念は捨てて。純度100%、今日子さんの事だけを考えてね」 「もしかして、この不思議道具で今日子さんの場所がわかるの?」 「そういうこと」 へー、凄い。 鳥居の書かれた紙……。 「鳥居……占い……こっくりさんだ!」 「こっくりさんは科学的根拠のある集団催眠よ。あれはかなり危険ね」 「じゃあ透視?」 「霊媒師のインチキと一緒にしないで……私のは《はっけみ》〈八卦見〉。あくまで占いの範疇」 柱まで誘導され、紙を挟んだ手を突くように言われる。 支柱の表面はひんやりとしていた。 「ちゃんと本人の代償が必要な分、黒魔術要素も強いけど……」 「――――ッ」 特に躊躇いもなく、なるは俺の腕に何かを串刺した。 「邪念が入ってなければいいんだけどね」 突き刺された痛みよりも、刺さっているのがプレゼントした万年筆だったことが悲しかった。 引きぬいた血塗れの万年筆が、鳥居の書かれた紙にさらさらと走る。 「わかったわ」 メモのような走り書きを書き終えたなるは、すぐに穴の開いた掌を両手で包みこんでくれた。 俺は回復を待ちながら、床に転がったペン先の曲がった万年筆を見て、思った。 なるはもう、厨ニ小説を書いていないんだろうな、と。 「んーーーーーーーーっ、良い天気二人占めーーーーーッ!!」 「夏ッ! って感じの日和だよね、なるちゃん」 「…………」 「ね、なるちゃん!」 「はいはい……暑くてじめじめして、嫌になるくらいに夏ね」 「なるちゃんに合う水着はやっぱビキニタイプだよなぁ。パラソルの下でクリームをぬりぬりして……」 「クリームで日焼け文字が浮かび上がるようにして遊ぶ気でしょ?」 「ここでもやろうと思えばできなくは……」 「絶対やらないわよ」 うん、知ってた。 「都会の喧騒は、ここまで届かないね。新市街は、俺達がいようがいまいが動いてるのに、そんな簡単なことさえ曖昧になる」 「こう静かで気持ちいい日光に当たってると……刺激されない? 執筆意欲ってやつがさ」 「もう19回目よ……? いい加減にして」 「何度でも言うよ。なるちゃんは、書いてる姿が、一番、ソソるんです」 「人の暗黒史をえぐるなんて悪趣味にもほどがあるわよ?」 「いやいやいや、ダメダメ。諦めちゃダメ! もう少しなんだよ。そこまで来てるんだよ。熱くなろうよっ! 書ける。ほら、言ってみようよ。“書ける”」 「…………」 「お、月の都で悪さした時に有罪判決で科せられた業。精神を狂わせる鐘楼が鳴ったよっ!」 何でそんな事を覚えてるんだ、という視線が向けられる。 「……保存食だけじゃ足りないのかしら。 “《ディストピア》〈真世界〉”の器は不便ね」 「クッフッフ……《カリノジカン》〈現地調達〉だ」 「人の書いた恥ずかしい小説を掘り返さないでって言ってるじゃないっ」 なるは耳を塞ぎかねない勢いで嫌がった。 「続きを書こうよっ、俺いろいろ考えたんだよ決め台詞とか」 「うるさいってば。占いの結果で夜まで暇だっただけでしょ。余計なことは、し・な・い」 「まぁまぁ、そう言わずに。世界全土で先生の新作投稿を心待ちにしている読者がいるんですよ?」 「――――ッ」 突如、平和そのものの談話をぶち壊すほどの殺気をなるは放った。 鋭く振り返ったなる目掛けて、何かが太陽を遮りながら弧を描いて落ちてきた。 なるは一瞬の判断で、それを壊さず、取らず、躱すことを選んだ。 落ちた何か――――ビニールパッケージに封入された蜂蜜揚げパンだった。 「せっかくの3時のおやつを落としちゃダメじゃない」 「まったく……探したわよ?」 「リノン? リノンだー」 「ちょ、ゆ、優真っ。顔が近いわ、息が掛かってる」 「あ、ごめんごめん。たっぷり眠れたのか気になってさ。健康的で非の打ち所のないアイドル顔です!」 「眠るのがあんなに気持ちいいだなんて知らなかったわ。生まれ変わった気分よ」 「初夢はどうだった?」 「ええ……見たけど、まぁまぁだったわ」 「? どんな夢」 「わたしが所有するプライベートビーチで、休暇をエンジョイしていたわ。“超最強”の初夢としてはインパクトに欠けるわね」 「でもリラックスできたようで、なによりだよ」 「まぁ……夢とはいえ、優真と良い感じだったのは良かったけど……いいところで覚めちゃったのよね……」 「俺のパンツを被るか食べるか迷ったって?」 「誰もそんなこと言ってないでしょ!?」 「うん、で?」 「な、なんでもないわ。べ、べつに優真が続きをしてくれるって地面に頭を擦り付けて頼むなら、考えなくもないけど」 「いや、なんの話なのか――――」 と。破裂音がした。 地面。潰れた蜂蜜揚げパンが内側からビニールを破ってはみ出していた。 「犬が嗅ぎつけるのが早くて困っちゃうわ」 「は?」 「“《アーカイブスクエア》〈AS〉”の首輪を外して、鞍替えならぬ首輪替え? 優真くんの顔色をうかがって、どんなご褒美が欲しいのかしら?」 「それにしても匂いフェチの犬は鼻が利くから嫌ね。優真くんのどこの匂いが嗅ぎたいの? ん?」 リノンの視線は小馬鹿にするなるではなく、潰れた蜂蜜揚げパンに注がれていた。 「……確かにわたしは、目星をつけて探しまわったけど。それが、差し入れを足蹴にされて黙っている理由になるかしら」 「仮に空腹で倒れそうになろうと、ペットフードに手を出すのは勇気がいるじゃない?」 「侮辱的な発言を撤回する猶予を与えるわ“虹色”」 「強がりをやめて撤退する猶予を与えるわ“ワンちゃん”」 「やめーーーい! やめいやめい。仲良くしよう。手と手を取り合おう!」 ピリピリと火花散る一触即発地帯に割り込み、なるの踏みつけた差し入れを拾う。 「んむんむ――――やっぱうまい。蜂蜜揚げパンは庶民の味方」 「優真……何も食べなくても」 「なるちゃんの足裏っていう属性のちょい足しグルメだよ。それに、食べ物を粗末にしたままだと、なるちゃんが悪者になっちゃう」 「ゲテモノ食いの優真くんにかかればこんなものよ」 「なっ、蜂蜜揚げパンはわたしが直々に企画・監修した、庶民から上級階級まで幅広く楽しめる極上デザート」 「宮廷料理として並べたっておかしくないわ」 「そんな話を鵜呑みにするのは熱心な信者だ・け・よ」 「人の優しさを素直に受け取れないなんて、性格歪んでるわね」 「よーーっし! じゃ俺で発散してっ!?」 またもピリピリし出したので割り込む。 「溜まりに溜まった2人のストレスを、この身体にぶつけてっ! さぁ来いっ! おもいっきり来いっ!!」 美少女からの暴力は、暴力にならず、ある程度まで快感に変換される。百人に聞けば、半数くらいは納得してもらえるだろう。 「そんなことできるわけないでしょ」 「残念……」 「ガッカリしないで。これから優真くんの命を好き勝手に使ってあげるから、愉しみにしててね」 「――――そう、やっぱりあの時と考えは変わっていないのね」 “あの時”……? 俺の知らないところで、リノンとなるのやり取りがあったのだろうか。 「変わるもなにもないわよ?」 ハテナ顔の怪力美少女に後ろ襟をひょいっと持ちあげられてしまう。 「コレは私の所有物だもん。私の為に喜んで命を捨ててくれる、使い勝手のいい人形」 一瞬、眉を鋭角にしたリノンのコメカミに青筋が浮かんだ。 「初めまして、優真くん人形です」 「生かすも殺すも私の自由――――私は一度、“《エンゲージ》〈契約〉”で命を救ってるんだから」 「……貴方にどんな心境の変化があったか知らないけど、契約者を消耗品のように扱うなんて正気とは思えないわ」 「ふぅん……ホントに契約者うんぬんの話で怒ってるのか・し・ら?」 「私には、優真くん個人の運命を握られていることが気に食わないふうに聴こえるわ」 「優真が死んでも構わないっていうの?」 「その時は、その時。人なんて、いずれ死ぬわよ」 なるはそう言って笑った。気安い笑みだった。 リノンもつられるように笑った。獰猛な笑みだった。 「生活排水で頭冷やしなさい」 先に手を出したのはリノンだった。 目にも留まらぬ速攻によってなるが川岸まで吹っ飛ぶ。 空中で一回転して立て直し、水に濡れることなく着地した。 「冗談でも、言っていいことと悪いことがあるわ」 「優真くん、ちょっと来て」 ケロッとした様子で呼ぶので問題はなさそうだが、ケガの可能性もあるので小走りに駆け寄る。 「今のでどこか痛めたりしてない?」 「どこにキたかって話なら、頭にキたわ」 「……え?」 ずぷり、と。泥沼に腕をつっこむように、みるみるうちになるの手が俺の胸へ侵入してきた。 「私が敵と認識したら優真くんにとっても敵だから、排除しなきゃね」 「うっ――――っ」 なるの手がもぞりと動く。 俺の、本当の意味での“内部”を、探る。 暗闇の中、落し物を探すように手探りで……。 「あった――――“魂”借りるわよ」 「ちょっと、こんな小競り合いで――――!?」 「驚くほどのことかしら? いいじゃない、《・・》〈私は〉減るもんじゃないし」 蚊に血を吸われて痒みが残るように、大切な何かを抜き取られた感覚は虚脱感としてあらわれた。 「……はぁ……俺の身体から、なるちゃんの“《アーティファクト》〈幻装〉”が……」 「優真くんの魂、ちょこっとわけてもらったわ♪」 試すような素振りだけで、滑り台の脚が剣風に震えた。 「うん、うん……しっくり来る。“《エンゲージ》〈契約〉”の影響って、恐ろしいわね……」 「抜いたわね。それも、優真から」 「抜いたわよ、もちろん優真くんから」 「仕方ないわね」 「うわ、リノンまでっ」 なるは“《アーティファクト》〈幻装〉”=魂だと言っていた。 文字通り、命を燃料に使う諸刃の剣。 そんなものを軽々と抜き放つリノンが信じられなかった。 「冗談で魂なんて賭けられないわよ」 俺の視線から疑問を感じ取ったのか、躊躇なく“《アーティファクト》〈幻装〉”を出した理由を語り出した。 「相手が抜いたら抜くのが礼儀――というより、抜かなきゃ一方的にやられる」 「完全武装の相手と裸でダンスを踊るのは失礼ってものよ」 「一見、同条件に聞こえるけど、ここには決定的な開きがあるわ」 「私は“《アーティファクト》〈幻装〉”の具現化に何の負担もないけれど、あなたは多大な代償を払う」 「自らの“魂”を削ってまで何がしたいの? 優真くんを護って気を引きたい? ん?」 「俺のために、俺のために争うのはやめてぇ~~っ!!」 「……少し黙ってて優真。“《アーティファクト》〈幻装〉”まで出したわたしが、惨めに思えてくるでしょう」 「とはいえ、もう退けない」 「有利とか思ってなさい。戦いなんてのは、いつどこで起きるかわからない。万全の状態なんて、望むべくもないわ」 「むしろ自らの命を削った“その場凌ぎ”が勝ることだって、ある」 予備動作などあたりまえになく、一呼吸の間に二度、三度の打ち合いが行われた。 「“《イデア》〈幻ビト〉”同士の戦いって……は、疾ぇ~……」 何の前触れもなく、左へ右へ、視界の隅から隅へ移動し、衝突を繰り返す。 肉迫の度に一撃必殺の刃が交差しているのだろうが、その瞬間は弾け飛ぶ火花としてしか視認できない。 時代劇の剣戟シーンを1/10に凝縮した真剣勝負だった。 「遅いわね“虹色”」 なるは《かまいたち》〈飃〉の爪に裂かれたような無数の傷を負っていた。 「わたしの“《アーティファクト》〈幻装〉”に斬られた傷は“《ヤミ》〈説明不能物質”に侵蝕されて悪化していくわ」 「“《ディストピア》〈真世界〉”最速を自負するわたしとスピード勝負は結果が見えてるんじゃない?」 「よほど昨晩の事を根に持っているようね」 「そんなことはどうでもいいの。誓いなさい、二度と優真の魂に手を出さないと」 「うーん……どうしようかなぁ……」 「勘違いしないで。悩む権利なんてないの。貴方に遺された道は、さっさと言うとおりにして、わたしに頭を下げて許しを請うだけ」 「自信過剰は身を滅ぼすわよ」 “闇”に喰われつつあるなるが地を蹴った。 2人は体重を感じさせない身軽さで舞い上がり、天地を問わずぶつかり合った。 “闇”と“音”衝撃波が広がり、隕石が落下するようになるが地面に叩きつけられた。 「わたしには勝てないわ」 「なるほど、どうしてかしら」 「“《あなた》〈音〉”は所詮、“《わたし》〈門”に閉じられた“闇”〉の一部でしかないからよ」 漢字の成り立ちのような話をしているが、納得できそうで納得していいのかわからない。 「……暗示が人体に影響を与えるのは有名ね。敬虔な信者には聖痕が浮かぶ。余命僅かの患者に3年は生きられると告げるだけで延命ができる」 「認識が肉体に与える効果は存在するわ。もしかしたら貴方が“超最強”って言い張るのも、何かの暗示の一種かしら?」 「暗示なんて関係ないの。“闇”は“音”を喰う。貴方じゃ勝てない、降参しなさい」 起き上がったなるが土埃を払う。 「“闇”の侵蝕がどうとか言っていたのも、暗示の一種でしょう?」 「元々、僅かながらの効力しかない癖に、いかにもな態度と暗示で抜群の効果があるようにする。うまいもんだわ」 「……わたしの“闇”がプラシーボ効果で、本当のわたしは物凄く弱いとでも言いたいようね」 意に介さないリノン。 リノンが実力者であることは俺がよく知っているが、なるの言い分は非常に狡猾に思えた。 「現に、あなたの“侵蝕”とやらは全然効いてないわ。私はそういう黒歴史的設定に付き合うのは、こりごりなの」 「なら、絶対の“闇”で服従を強いてあげる」 繰り返されるはずの激突は――――起きなかった。 「結局、あなたには殺意が感じられなかったわ」 なるはリノンの一振りを受け止め――――《・・・・・・・》〈手加減をやめた〉。 「私と闘るなら殺す気できなさいっ――――よッ!!!!」 「がっ――――!?」 暴力的な一撃をリノンは防ぎきることができず、特大のホームランは伸びに伸び、傾いた廃ビルへ一直線に向かっていく。 倒壊音。突き刺さった。脆くなったコンクリート壁にめりこむリノンの姿は、磔の聖者を思わせた。 「勝っちゃったよ……リノンに……」 「当然よ」 「俺には全力でやったように見えたんだけど……加減はしたんだよね?」 「――最初に殺す相手は決めてあるって言ったでしょ?」 そう。なるは昨晩、約束している。 リノンは最悪の場合でも“無事”だ。 しかし俺の心中はもちろん、穏やかとは言えない。 「……リノンにもしものことがあったら――――」 「あの子、鋼でできてるんじゃないかってくらい頑丈。すぐもどってくるんじゃないかしら」 “《アーティファクト》〈幻装〉”を打ち付けた反動で、なるの手は岩を叩いた後のように震えていた。 「ほら」 ため息をつき、指を差すなる。 リノンが風のように軽やかな跳躍でもどってきていた。 「これ以上は、ダメだよ。ケンカの域を超えちゃう」 「向こうがやる気だったら、どうしようもないわ」 「じゃあ俺が説得するから絶対に手は出さないでね」 完全にスイッチが入ってたらどう止めよう……。 「だから平気って言ってるじゃない! 代われ代われって、しつこいわよ? こんなんで“超最強”が死ぬはずないでしょ」 「……ん?」 「あーもう、貴方たちが出てきたら余計ややこしく、違うわよ! はぁ? 約束なんて破ってないでしょ。乗っ取る? 冗談でもやめてよ」 「うるさいわね、《アルコール》〈酒〉なら夜に飲ませて……《エタノール》〈酒精? 《エタノール》〈酒精は最後の手段にもほどがあるでしょ、酔えればなんでもいいわけ?」 「もはや誰と戦ってるのかわからないね」 「心の奥に封印した存在と話すとか、そういう“設定”? うわぁ、痛いわね……寒気がするわ」 「なるちゃんの小説だって、666人格と漆黒の翼を持つサタンと生死を賭けた一発勝負のジャンケンを――――」 「人の暗黒史をつつくなとあれほど言ってまだわからないの?」 相変わらず厨ニは嫌いらしい。 「とにかく、この場はわたしに任せて、2人仲良く高みの見物でもしていなさい」 「ふぅ……おまたせ。ちょっとやられただけで、うるさく言われちゃったわ……」 「自称“超最強”だったかしら? “超変人”とかに変えた方がいいんじゃない?」 「ここからよ」 「こりなさいよ、“超最弱”」 「“《ディストピア》〈真世界〉”で最も気高く、尊い、高次元存在であるこのわたしに向けた言葉じゃないでしょうね?」 リノンのそれはナルシストというよりは、“そうでなければならない”という自己暗示に近い。 “頂点”であり続けることがリノンの答えだ。 「何にしてもよ」 「“《エンゲージ》〈契約〉”の相手を将来の考えずに“《アーティファクト》〈幻装”を使えば、圧倒的に有利」 「その上“《アーカイブスクエア》〈AS〉”は原則として“《エンゲージ》〈契約”を禁じている」 「つまり――――一切、自分自身の魂を消費することなく“《アーティファクト》〈幻装〉”を乱発できるのは私一人」 「なるちゃんは一対一ならほぼ最強ってわけか」 「クフフ……♪」 なるは強い力で俺を抱き寄せ、腕を絡ませながら誘惑するように見つめた。 「優真くんは、私だけのお人形。私は、これっぽっちも苦しまない」 「ちょっと、ふざけないでっ」 「いいんだよね? 優真くん。私になら、いいように使われちゃっても、許せちゃうのよね?」 「なるちゃんがそれでいいって言うなら、許すもなにもないよ。家族であり、恩人であるなるちゃんに、尽くせれば本望だ」 「優真が無駄死にするくらいなら、刺し違えてでもあなたを殺す」 「戦いを続ければ続けるほど、優真くんの“命”が削られてっちゃうわよ?」 「めっちゃ減ってるかもしれないけど、とりあえずは問題ない。俺は痛くも痒くもないっ!」 「だからもう、これ以上、俺を取り合って争うのはやめてぇ~~~~~~っ!! お願いいぃぃ~~~~~~っ!!」 俺はいたって真面目に仲裁しているのだけど、2人はこのセリフに異常なほどの嫌悪を催しているようだった。 「……疲れと一緒。削られた魂の喪失感は、いきなり来るのよ」 「まぁまぁリノン、ここは引いてよ。なるちゃんは、お腹が減って気が立ってるだけなんだからさ」 「今日の事も近いうちに謝らせるから、ここは剣を納めて頂けないでしょうか?」 「この子は一筋縄じゃいかないわ。優真が助かりたいだけなら、わたしはどこまでも残酷になれる」 「いやいやいや、なるちゃんは絶対大丈夫だから。俺に任せてよっ!」 「だって。どうする? 続ける?」 「……優真がそこまで言うなら、信じてあげる。貴方は、頼りになるから」 「あなたがどんなに優真君を想っても、契約者の私以上に深い関係にはなれないわよ」 「優真が優真の幸せを見つけてくれれば、わたしはそれでいい。わたしにできるのは、彼を護ることだけ」 「それと貴方――――今は優真が傷ついても何も感じてないようだけど……」 「――後で死ぬほど後悔するわよ」 「ふーん? やってみればいいじゃない」 「私はなにもしないわ。馬鹿な女……自分で自分の首を絞めてることにも気付けないなんてね」 「イタタタタ、一人二役やってるイタイ女の負け惜しみとか、すっごいイタイ」 「もう一役いるわよ。三位一体ってとこかしら。確かに端から見たらイタイかもしれないわね」 「トリトナ、フロム、リノン……そしてこの俺、水瀬優真が加わって鬼の四天王と呼ばれる」 「四天王最弱は黙ってなさい」 「……そういうこどもの遊び? みたいの、いつまでやってるの? 見てる側が恥ずかしい思いをするのよ」 なるは絡まない。 邪気眼を捨てたから。 ペンを折ったから。 絡みやすいように話題を振っても、軽蔑の眼差しを向けるだけだった。 「偽の目撃情報を別の地域に流しておいてあげるけど、迂闊には動かないでね」 「なるちゃん次第だけどね」 「精々、頑張ってね、ご主人様」 退散しようとするリノンが振り返る。 「あと、2人が『骨の髄までしゃぶっといた』って伝えてって。何のことかわからないけど」 「ああ、オッケー。フロムは晴れて無罪だね。やっぱりいい子だ」 「伝えておくわ、じゃ――――死なないでね」 「笑っちゃうわね。不利だからって尻尾巻いて逃げ出しちゃったわ」 「俺には、なるちゃんが有利には見えなかったよ」 ぼそっとつぶやいたつもりだったけど、なるは過敏に反応した。 「……リノンが手加減をしてたように見えたの?」 「リノンは真剣だったけど、なるちゃんはなるちゃんの制約を守って戦ってたから、五分の戦いだったと思う」 「何にしろ、2人が無事でよかったよ」 「……さっさと制約を外しましょう。耳鳴りが私を狂わすまえに」 制約の外し方はたった一つ、“漆原零二”を殺すこと。 帳が落ちた。 旧市街と新市街を繋ぐトンネルは薄暗く、じっとりとしていた。 「誰もいないのに隠れる必要はあるの?」 「あまり目立っていい立場じゃないでしょう」 どうしてこの場所に今日子さんが現れるのか。 答えは単純明快、あの狂気の占いによってなるが導き出した答えだから。 俺が強く想った人の居場所が念写に近い形で、文字として浮かびあがったとかなんとか。 なるは占いを生業にしていたプロであり、俺だってプロの “《クリアランサー》〈片付け屋〉”だった。 専門職の言うことは、話半分でいい。 いちいち説明を求めたって仕方がない。 理解するのにさらなる説明が必要になるから。 と――――わかってはいても、俺は、いまいち腑に落ちていなかった。 「再確認するけど、ウチの事務所は“《アーカイブスクエア》〈AS〉”に潰されたんだよ? となれば今日子さんは捕まってる可能性が高いよね」 「占い師の導き出す答えを、優真くんの常識とごっちゃにされたら商売にならないわ」 「私が来るって言ったら、来るわ。正確な時間までは、わからないけどね」 「質問は私じゃなくって、今日子さんにした方が手っ取り早いんじゃないかしら?」 「了解」 想像していたのと大差ない返答。 なるがそういうなら、そうなんだろう。 無い脳みそで余計な事を考えたって仕方がない。一時間もしないうちに答えは出るのだから。 「それより約束、覚えてるわよね?」 「あれ? なんだっけ。成功報酬にご飯をおごるって言ったような言ってないような」 「今日子さんと再会したら“漆原零二”を殺す為にその身体を借りるわよ」 覚えてる。なるとは殺伐としたギブ&テイクを結んだ。 「わかった」 本当に今日子さんが来たのなら、部下である俺は“指示”をもらえる。 事務所がなくなっても社長は社長のままだ。 どうすればなるの耳鳴りを止められるのか、今日子さんは一緒に考えてくれるだろう。 「お」 「(今日子さん……今日子さんさえいれば、なるを正しい道に導ける……)」 しかし、近づいてくる足音の正体がわかるにつれて――――まったく別の想いが浮上する。 「あれ……? おかしいわね、確かにここを通るはずなのに……」 これは……試練なのだろうか。 ポジティブが取り柄な俺が、それでも笑っていられるかどうかの、試練だろうか。 「な、なるは……あの人が誰だかわからないの……?」 「《・・・・・・・・・・・・・》〈私が知るわけないでしょう?〉 通り過ぎるのを待ちましょう」 なるは今日子さんが最初に現れなかった事実に対して疑問を感じている。 《・・・・・・》〈ただそれだけ〉のようだった。 「(…………最悪の偶然だ……)」 ふわりと畳の香りが鼻孔をくすぐる。 「…………?」 何故なら、なるは前方から煙草を吸いながら呑気に歩いてくる男――――“漆原零二”の顔を知らなかったから。 「(こんな最悪の偶然がありえるのか)」 俺の逢いたい人がやってくるはずが、なるの逢いたい人がやってくるなんて……。 なるが零二を《・・》〈零二〉と認識した瞬間、獲物を見つけた肉食獣の如く飛び掛るだろう。 「おいおい何だよ優真。今、気づいてたのにシカトくれちゃってたでしょー?」 「誰?」 「…………」 「今、“優真”って呼んだ気がしたんだけど、お知り合い、か・し・ら?」 「彼女さんもセットで逢えるなんて奇遇だな。紹介、してくれる約束だよな、優真」 「――――ねぇ、優真くん。私が今、考えていること、わかる?」 「なるちゃん、約束を忘れてない? 今日子さんに逢うまでは、俺は協力を――――」 「あなたとの約束は破棄。私はもう、協力してもらわなくてもいい」 なるの憎悪に満ちた瞳と言葉の意味を飲み込んで、俺は状況が最悪であることを再確認した。 「さっきからうるさいのよ……“耳鳴り”が騒ぎ立てるの。目の前の障害が、終わりなき“恋”の相手だって喚き散らすの」 「コイツが“漆原零二”なんでしょう?」 「………………」 対応に窮した俺の沈黙は、肯定として受け止められた。 「いきなりコイツ呼ばわりなんてひでぇじゃん。フレンドリーなのは嫌いじゃないけどねー」 「……もう隠さなくていいよ。俺もなるちゃんも、零二がどういう立場の人か知ってる」 「あ、そう……」 「警備員だって嘘をついてたのは謝るよ。ぶっちゃけお前とはプライベートな仲だったし、立場を忘れて遊びたかったんだ」 「どうやら今は、一般人として対応してる場合じゃなさそうだけどな」 「やっと見つけた……“耳鳴り”の元凶……!」 鳥肌が立つほどの殺意をまとったなるは、その瞳だけで人を殺せそうだった。 誰もいない。 助けも来ない。 おあつらえ向きの殺人空間。 間違いない……なるはここで零二を殺す。 「英雄さん、よろしければ私とお話をしましょう」 「え……?」 「彼氏の前で逆ナンって、大胆だな。手を出してもいいのか優真?」 「いや……ああ。手はダメだけど」 「優真くんは関係ない。それと勘違いしないで? あなたに与えているのは、私と話す権利だけなのよ」 とりあえず、出会い頭に取り返しの付かない行動に出るといった短絡的な解決は避けられたようだ。 臆することなく口笛を吹く零二は、いつものナンパトークと同じ気軽さで語りだした。 「まずその“英雄”ってのは誤解だ。別に人様の幸せを願って~、なんてキモイ考えはないっての」 「賢い者に従って税金を払うのが、能なしの凡人様にできる限られた才能だ」 「なけなしの存在意義を摘み取る気はないが、別段、感じるものはねぇな」 「ああそう。てっきり、腐った人類代表意識があるのかと思ったわ」 「それに英雄様がつくった“《エーエスナイン》〈AS9〉”は失敗作だ」 「失敗……どういうこと」 「あれは“ナグルファルの夜”で蔓延したウイルスを食い止めはできたが、極僅かな確率だが副作用で人の域を踏み外してしまう」 「“《エーエスナイン》〈AS9〉”の正式名称は“進化促進剤『蟲喰』”――――人を“《フール》〈稀ビト”に変える可能性を持つ薬だ」 「ってことは……」 あいつも――――? そういえば、施設がどうとか、追っ手がどうとか言っていた気がする。 「なるほどね……“《フール》〈稀ビト〉”になった人間は “《アーカイブスクエア》〈AS〉”で回収ってわけか」 零二の発言をヒントに、なるの頭にも“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”の一件が浮かんだようだ。 リノンが行なっている“《フール》〈稀ビト〉”の調査、生け捕りの仕事も、この話に関わっているだろう。 「優真には感謝してるぜ。ナンパ、手伝ってくれて」 「どういうことよ」 「どうもこうも、健康的なモルモットは街にあふれてる。おかげでエロい事も、人体実験も、捗ったぜ」 気分が悪くなった。 ……それは、赦されるレベルを超えている。 「あなたは生粋の外道ね。自分が同じ目に遭うことを考えたことはあるの、か・し・ら?」 「あるある、ありまくり」 「でも残念。あなたがこれから味わうのは、もっと色の濃い絶望。自分から地獄に堕ちるのを請うほど強烈な痛みの連続よ」 「なるちゃん……」 なるはいつ襲いかかってもおかしくない段階まで来ていた。 「かんべんしてくれよ、オレはどっちかっていうと責めたい派なんだ」 「“ナグルファルの夜”の後“《ユートピア》〈幻創界〉”で大規模な種族狩りが行われた事を覚えてるかしら?」 「ん……?」 なるの表情に《かげ》〈翳〉りが増す。本題に入ったのがわかった。 「数種の魔獣の牙、飛竜と水竜の翼、地獄猫の胆嚢、悲鳴草の根っこ」 「素材を集めたのは“《むこう》〈神域〉”の連中だ。オレは“《エーエスナイン》〈AS9”の大量生産にはそれなりの素材が必要だっ〉て言っただけだ」 「実行犯は別ってわけね……裏事情は飲み込めたわ。ならやっぱり、私がこの手につかむべきは、あなたの生首」 「うーむ、美少女に怒られるのは、ソソるぜ」 「まだわからないかしら? 私は《サツリク》〈伐採〉された悲鳴草―――― “《アルラウネ》〈絞首台の小人〉”の生き残りよ」 「え――――は?」 刹那、零二の顔から一切の表情が消えた。 つまり、なるの“耳鳴り”は故郷の仲間の怨嗟――――? 人が変わるほどの殺戮衝動に囚われたなるは、悪鬼羅刹の眼差しで零二を射抜いた。 「お偉いさんが必死こいて追っかけてる契約コンビ――――片割れが“《イデア》〈幻ビト〉”だってのはわかっていたが……」 「逃がす気はないわよ、“耳鳴り”の主犯者」 「ハッ――――ハッハッハッ!!」 「何がおかしい……!」 「ただの研究対象かと思えば、ツイてる……最高にツイてるじゃねぇか」 「鴨が葱を背負ってくるってのは、まさにこのことだっ! 一番貴重な素材がご丁寧に現れるなんて、オレはとことん研究の神に愛されてるようだな」 「想像通りの最低人間で良かったわ。私の決意が鈍ることはないみたい」 指を差して笑う零二に、なるの限界が来た。 今――――なるが俺から“《アーティファクト》〈幻装〉”を抜いたら、俺は“力”を出すどころではなくなってしまう。 「殺させないよ……止めてみせる……」 とっさに距離を取り、なるを止める為に“力”を開放する。 光に包まれた篭手――――初めて見る形状だ。 「指を咥えて見ていればいいのに」 なるもほぼ同時に自身から“《アーティファクト》〈幻装〉”を抜き出していた。 「へぇ……“《フール》〈稀ビト〉”でありながら“《アーティファクト》〈幻装”を出せるとは……おもしろいな」 「状況、わかってる?」 「そりゃあな。俺を殺そうって話の途中だろ? 悪いね、緊張感がなくって」 一触即発の空気の中、零二は余裕を絶やさない。 「しかしおかしいな……優真からは、“人間好き”と聞いていたんだが、故郷の仲間と人間とを天秤に掛けて考えてみたか?」 「人を殺せば犯罪者だが、戦争で首を獲れば英雄だ。研究における犠牲も、救われる人数から考えればかわいいもんだろう?」 “《エーエスナイン》〈AS9〉”の誕生秘話――――犠牲となった“《いのち》〈幻ビト”と、救済された“《いのち》〈現ビト”。 例えば、牛一頭を殺して余すことなく食べることで、二千人の胃袋が満たされるという。 しかし、是とするか非とするかは個人の主観による。 牛を神聖な生き物として殺傷を禁じる人もいるからだ。 「人間なんて、滅んでしまえばいいわ」 「それが人間の本質なら……私を先に否定したのは、人間の方じゃない」 「あなたのような人がカテゴライズされる種には、ほとほと愛想が尽きたのよ」 そして、なるの主観では――――故郷の犠牲を良しとはしなかった。 「こう見えて科学者の端くれなんでね、殴る蹴るのやり取りはベッドの上でしかやりたくないのよ」 この期に及んで平然としている零二を異様に感じていると、いつものヘラヘラとした顔が俺を向いた。 「優真、そのオンナと契約して、何度、“《アーティファクト》〈幻装〉”を抜かれた?」 「まだ一回だけ」 「一回か。一回ならいいが、このまま続けていけば“魂”は摩耗していくぞ」 「何も好き好んでそんな“力”を手にしたわけじゃないだろ? オレに任せろ、オレがリセットしてやる」 「え?」 この状況を打開するための口八丁だとしても耳を傾けてしまう。 「開発中の新薬――“《エーエスナインプラス》〈AS9+〉”によって、全ての“《フール》〈稀ビト”は安全に“《クレアトル》〈現ビト”へと戻れるようになる」 「その為に必要な素材が、“《アルラウネ》〈悲鳴草〉”だ。このオンナ一人で、お前は元に戻れるんだ」 「いや、お前だけならまだいい。数百人以上存在するであろう“《フール》〈稀ビト〉”による二次被害を考えれば救われる人は数万以上に及ぶだろう」 披露される零二の説明は澱みなく、溶けるように頭に入っていく。 だがそれが真実かどうかは、まったくの謎というのが怖かった。 それでも、“《フール》〈稀ビト〉”を一般人に戻すという響きは甘美だった。 様々な可能性を、感じたから。 その夢の薬が完成すれば、零二は再び姿なき“英雄”となるのではないだろうか。 「これ以上、聞くに耐えないわね――――」 ゾッとした。 全身が総毛立ち、“《アーティファクト》〈幻装〉”を構える修羅に意識が向かう。 「優真くんも最低ね」 「家族家族って言ってる割には、契約を反故にして普通の人にもどれる薬に興味を持ったでしょう」 否定……できなかった。 しかしそれは――――多くの人に望まれる可能性でもあって。 「なるちゃん、俺は――――」 「いいのよ。生きたいわよね? こいつと同じ、人間だもの。人間は、命汚いわ」 「おいおい、そのへんにしといてやれよ。可愛い顔して中身は悪魔だなぁ」 「知識を牙とする人間は、賢すぎる故に裏切る」 「人の生に意味はない。誰も助からなくていいの」 「で? どうするっていうんだよ、腰抜け」 なるの殺意の矛先が一点に集中した。 「殺すわ」 なるは氷上を滑るようにして零二に急接近する。 「(俺にできるのは、自分の“力”に頼ることだけだ)」 今までなんとかしてきてくれた、俺の“《デュナミス》〈異能〉”。 「(……この篭手。また新しい“力”だよな?)」 「(念じるんだ……使い方がわからなくっても、きっと“なんとかなる”ッ!!)」 「頼む……なるちゃんを、止めろ……ッ!!」 「(…………え……どうした? なんで反応しない……!?)」 刹那的な瞬間は過ぎ去り――――“力”は呼応せず、“最悪”は現実となった。 「え……?」 「ッ……」 常人が、なるの“《アーティファクト》〈幻装〉”を躱すことなどできない。 「……苦しい?」 透明感のある声とは裏腹の、残虐的な一刺しだった。 「ブッ、ごぅ゛ふっ……!」 「その吐血は、血液が心臓から肺に送り込まれた証拠だわ。あなたは、もう、数分の命」 「…………間に合わなかった……」 俺が“力”に頼らず、自力で止めれば、あるいは間に合ったのだろうか。 「ねぇ……今の気持ちを、教えて。どんな気持ちでいるのか、聞かせて」 「ぶっ、ごほっ、ごほっ――――!」 「ごふっ……ぶふ、グッ、くっく……傑作、だな……」 「…………?」 ステンレスの鈍い光沢を放つパイプを取り出した零二は、朝食のコップを持つように平然としていた。 「ごふっ、ごふ……びどづ、ぐずね゛でおひだん゛だ」 その使用用途に察しがつくと、零二の表情が嫌な予感を後押しするように歪んだ。 「できっこな――――」 「――――――――――――――――ッッッ!!!」 爆風で身体が宙に舞い、遠くまで吹き飛ばされて叩きつけられる。 起爆……した……? 手に持ったままの爆弾を――――? 距離が幸いした。 最低でも気絶、最悪の場合死んでいておかしくない規模の爆発に巻き込まれ、俺はぎりぎり意識を保っていた。 生きていたのは奇跡ではない――――爆発の瞬間に篭手が防御壁を作り出したからだ。 「(なるの事は救えないくせに、何もしなくたって俺自身は救おうとするのかよ……)」 散らばった氷の残骸が熱風で溶けている。 どうやら篭手の“力”は氷に関係する力らしい。 自己防衛のつもりか、はたまた俺を救うためか、篭手は自分の役割を全うして消えていった。 「(こんなつもりじゃなかった……“力”は、いつも俺の意志に従うわけじゃ、ないのか……)」 どうにもできなかった自分自身への悔しさがあった。 「(苦しい……意識を保っていられない……でも……確認だけはしなきゃ……)」 指一本動かせないが、目を凝らして灰色の煙に満たされた世界になるの無事を願う。 なるも、俺と同じく“《アーティファクト》〈幻装〉”を盾にして一命を取り留めているはずだ。 “《イデア》〈幻ビト〉”とはいえ、ほぼゼロ距離での爆発……耐えられるのだろうか? 零二は、瀕死なんて状態ではないだろう、跡形も残ってはいないはずだ。 「(くっそぉ……)」 なるの復讐がこんな形で幕を閉じるとは予想していなかった。 「(生きててくれ……なる……いや、生きてる……前向きに、考えなきゃダメだ……!)」 視界が晴れていく中、人影が浮かび上がる。 「そんな……馬鹿な……」 そこに待っていた光景は――――無傷で立っている零二と、大の字に倒れたなるだった。 「――――心肺停止、か。あっけなかったな」 ……どういうこと…………なんだ……? 「いい忘れてたけどな、素材の生死は、問わないんだぜ……?」 …………なる…………………… ……………………………………………………………… 「………………」 生きてる……? 生きているし、身体も動きそうではあるけど……。 「なるは……いッッ……」 めまいと吐き気の波が押し寄せ、不安と耳鳴り頭ががんがん響く。 気絶から覚めてなるの安否を心配するというこのパターンは、何度味わっても嫌なものだ。 「…………場所も……同じかぁ……」 四方をコンクリで閉じられたコンテナのような冷たい印象の部屋。 俺の大切な仲間が所有する隠れ家だ。 「飛び込みで一泊どころか、二泊三日の無銭宿泊。綺麗なおねえさんの看病付きとは、恐れいったぜ」 「あぅ……また助けられちゃったみたいだね……ありがとう」 「良いってことだぜ!」 「っ……あれ……?」 トリトナにピースを返そうとして気づく。 「なんで俺、後ろ手に手錠なんかされてるの……?」 「ん? 最近は“《フール》〈稀ビト〉”が盛んで物騒だったからな、搬送手段に置いてあったヤツだぜ?」 「いや、そういうことじゃなくってさ」 「男らしくないやつだぜ。手錠の一つや二つ、靴下を履くようなもんだろうが」 実用的な手錠をファッションと言い張るあたり、トリトナは豪快すぎる。 手錠にも種類がいくつあるはずだが、これは“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”を拘束していたのと同じ形状をしていた。 手首の太さに関わらずつけられるようだが、やや右手の方が緩い気がする。 「零二が生きてた……なるを放置するわけがない。すぐに助けに行かなきゃ、実験に使われちゃう」 「ん……? 優の字、これ何本に見える?」 突き出された手。 立てられた指の数は3本だ。 「3。とりあえず手錠外してよ」 「意識ハッキリ《・・・》〈しすぎ〉だぜ?」 「ああ……って、だいぶよくなったかな」 「だいぶ? だいぶってマジかよ。おっかしいなぁ……」 トリトナはぶつぶつとつぶやき、首を傾げながら台所へと去っていく。 「何が“《アーカイブスクエア》〈AS〉”御用達だよ。効き目薄すぎるだろ、こんなんじゃ捕獲対象に逃げられるのがオチだぜ」 「ねー、鍵ー」 「あー、わかってるわかってる」 本当にわかっているのだろうか? 転がっている細い瓶をつかみ、何やら慎重に手を動かしているようだけど……。 「さ、おとなしくオネンネしましょーね♪」 「げっ」 注射器の先端から、ぴゅ、液を噴き出させて、にじり寄ってくる。 さっきのあれ、注射液を吸い取っていたのか……? 「ひひっ、痛くないぜ~♪ チクッ、ウッ、バタッ! 簡単だろー?」 「あ、清酒がこぼれて――――」 「へ? 酒――――」 つられた――――今だっ! 「セコッ!?」 トリトナの腕ごと蹴りあげた注射器が天井にぶつかって割れた。 「あーあーあー……」 危なげな液体が髪と床と濡らす中、トリトナがわなわなと震える。 「なんてことしやがるんだぜ。最後の睡眠薬だったってのによぉ……!」 「トリトナこそ、俺をどうするつもりだったんだよ」 「平和ボケしすぎてわかんねーか?」 「拉致監禁……?」 「わかってんじゃねーか」 「……そっか。とうとう、俺を“《アーカイブスクエア》〈AS〉”に売り渡すんだね」 「なんで私様の恩人でもある奴を、そんな目に遭わせにゃならん」 トリトナはビニール袋をがさこそ探る。 日本酒の瓶を片手にのしのし歩いてきた。 「どいせっと」 唯一の出口である扉の前にどっかりと胡座をかき、手で飲み口を両断した。 表情をほころばせ、仕事終わりのようにゴクゴクと喉を鳴らしていく。 「ぷぁー……私様の見立ててじゃ、あと30分もすりゃ、あいつはかつお節になっちまうだろうよ」 途端、鋭い視線が突き刺さった。 「ヤツの研究施設まではドア・トゥ・ドアで10分は掛かる。つまり、今から20分経った時点で助ける術はなくなるってわけだ」 「待つぜ――――20分。あいつが死ぬのを、てめぇと、ココでっ!」 転がり落ちた穴が大蛇の巣だった事に、俺はようやく気づいた。 「トリトナの考えは大体わかった」 「だったら諦めろ。大体、一人で乗り込んだところで何ができる? 犬死だぜ」 「なるを見殺しにする案には、リノンも賛成してるの?」 「私様たちの決め事は多数決だぜ。リの字が賛成しようがしまいが、関係ねぇ」 「そっか」 「お尻ペンペンの刑は、トリトナとフロムにだけすればいいわけか」 「……てめぇは優しすぎるぜ」 「あいつはてめぇをボロ雑巾になるまで利用しようっていう屑だっ、助ける必要がどこにある!?」 「あいつが死ねば、リの字とも晴れて“《エンゲージ》〈契約〉”ができる。それの何がダメなんだよっ!」 「……やっぱトリトナは尊敬できるな」 「リノンの為リノンの為リノンの為。いつもそうだ。汚れ役は全部自分で背負っちゃって、自分は二の次」 「…………似たもの同士だぜ……」 話を終えると、トリトナはバツが悪そうに日本酒をあおった。 「俺は俺の“家族”の為に、全力を尽くしたいんだよ」 「見捨てるって考え方は一番、嫌いなんだ。何かできるのに、何もしないで終わったことにする奴に、幸せは訪れない」 「行動しないのは、祈ってるのと同じだろ」 チラリと壁に掛けられた時計を確認するトリトナ。 「とにかくだ……私様は11時までテコでも動かないぜ」 「11時まで、か……悪いけど、そんなに待ってはいられないね」 「だったらどうする?」 「こうする、よッ!!」 不意を突いたスライディング。狙うは日本酒の一升瓶。 「甘いな、酒度マイナスの清酒だけにっ」 片足で瓶の底をスイッと浮かせ、一歩もその場を動かないまま躱される。 「ここを通りたきゃ、もっと知恵を働かせるんだぜっ」 脚を掴まれた瞬間、ヤバイ、と直感した。 「うらっ!」 「――――ッ!?」 力任せに引き寄せられ、持ち上げられたとわかった瞬間――――衝撃が走った。 「あ、ヤベ、そういえば受け身が取れないんだった……」 と、それもある。両手が塞がっていたため、されるがままに打ち付けられる形になった。 「あ……ぐ…………ちょっとやりすぎじゃない……?」 しかし、そもそもの体勢にムリがあったのが大きい。 こどもの暴力と同じ、相手の事を考えない酷い仕打ちだ。 「悪い悪い、関節とか外れてないか?」 「いツツ……平気だと思う……身体は頑丈で、やわらかい方……」 関節……関節……? 「ひぎゃあああ!!」 「!?」 「うぐぐぐぐ! 折れた……寒気と汗がひどい……これ、間違いなく折れてるぅっ!」 「マジで? 人間、脆すぎんだろ……」 重い腰を上げたトリトナが芋虫のように丸まった俺に近寄る。 「ずいぶん元気じゃねーか?」 「いやいや……(バレてたかぁ)」 「情に訴えて、脇を抜けて外の光を浴びようって魂胆だろ?」 うーん、バレバレだ。仮病で看守をだまくらかすのは鉄格子の向こう側でのセオリー中のセオリー。 《ふところ》〈懐〉に潜り込めただけでも良しとしよう。 「……一回は一回、だよ」 ごめん、と謝りながら、アイドルのつま先目掛けて膝を落とした。 手応えはあった。 折れた、かもしれない。 いくら“《イデア》〈幻ビト〉”と言えど、小指は小指だろう。 「ホンットに男前だよな。さっきのだって効いてるだろうに、ンな体勢で一人の女の為に意地張ってよ……」 ギャ、と声を上げて飛び跳ねるトリトナの脇を抜けて出て行く予定だったのに、現実は違った。 凛とした顔のまま膝立ちの俺を見下ろすトリトナは、美しく残酷だった。 「イイオトコの前じゃ、痛みなんてもんは麻痺しちまうんだぜ」 ゾッとした。これから訪れる痛みに恐怖した。 「ほいよっ!」 「がっ――――」 床に肩から激突。叩きつけられる。 全身に電気が走り、バウンド。 “超最強”に相応しい、言葉を超えた痛み。 「~~~~~~~~~~ッッ」 瞬間的な呼吸停止が過ぎ去り、痛みを堪え、声を絞り出す。 「り、リノン――――命令だ!」 「おっと、無駄だぜ。肉体の支配権は今、私様にある。3人が平等に動けるように契約を結んでるからな」 「だったらトリトナ……」 「ダメだ。説得も“命令”も無駄だぜ? 知ってるだろ、私様は一人じゃフロムと打ち解けられなかった」 「この自己中の心をほぐせるのは、アイツだけだ」 喋りながら、片耳ずつ何かを押し込んでいた。 「こないだの件で学習したんだ……よし。これで“命令”も防げるぜ!」 「防げる……?」 「あ? なんだって? よく聴こえねーぜ? 口パクかよ!」 「耳栓か。これじゃ会話すらできないじゃないか……」 「悪ぃな。手荒なマネは、嫌いじゃないんでね……リノンの為なら、いくらでもするぜ」 トリトナの信念は、フロムとの関係が良好になった後も変更が掛かっていないようだ。 「ま、11時になったら手錠外してやるから、そのあとたっぷりリノンに看てもらえよ。付きっきりでな、ハハハッ」 俺の背中を軽く叩いて、トリトナは出入り口の扉までもどっていった。 「脚を拘束しなかったのは、間違いだったか……ハンパに抵抗できる分、余計な絶望を与えちまうことになる……」 「できればもう、向かって来ないでくれよ……」 「心の声が駄々漏れだよ」 ヘッドホンや耳栓をするとどんな場所でも一人の空間になるため、独りごちるケースが増えるのかもしれない。 「(ホント、トリトナはやりにくい。こんないい奴を相手にするのは、ナシにして欲しいよ……)」 さて困った。 “力”を使おうにも、手の枷をされていては抜き出すことさえできない。 「………………すー……はー……」 冷静になれ、水瀬優真。 突破口はすでに、《・・・・・・・・》〈一つ見つけている〉。 しかし枯れ木だけじゃ火は起こせない。 今、所持しているカードは一回こっきりだ。 状況次第では無駄に消費するだけになる。 待てよ……火……? 「…………」 「うっめー……やっぱ清酒は甘口に限るぜぇ……」 トリトナは酒をあおっているが、俺が不審な行動を取ればすぐにでも駆けつけるだろう。 「(制限された俺の行動範囲には何があるかを知らなくちゃな)」 ゴミ袋。ガスヒーター。壁掛け時計。電灯。 暗幕カーテン。コンロ。蛇口。水のペットボトル。 台所の下にはタオルが入っていたはず…… 「(タオル……コンロ……カーテン……)」 この部屋は隠れ家だ。火事にしてしまえば、拘束してるどころの騒ぎじゃなくなる。 「(顔を洗いたいといってタオルをもらって、コンロで燃やす。あとはカーテンに火をうつせば、そう簡単に消えない大きさにはなる)」 「(いや……)」 ガスの元栓が開いていない。 どの段階で、自然にひねればいい? 「(無理だ。違う。この方法は、9割方失敗する……)」 行動できる時間は短い。 作業工程が一つ増えてしまうのは、致命的だ。 「(もう一度考えなおそう……)」 ゴミ袋。ガスヒーター。壁掛け時計。電灯。 暗幕カーテン。コンロ。蛇口。水のペットボトル。 「(!?)」 ゴミ袋――――中身は何だ? 何か使える物かもしれない。 「よっと……」 トリトナの視界からゴミ袋が隠れるように座る。 後ろ手に手錠をされているが、市販のビニールくらいなら指先で破って穴を広げれば簡単に開く。 「…………くそ」 指で触った感じからすると、単三か単四の電池。 壁掛け時計の針を動かすためのものだろう。 使用済みの電池は捨てられる日が少ないとか、そういう生活的な理由から溜めていただけのようだ。 ――――――――なるちゃん。 「……限界だ。これ以上、待てない……!」 そもそも考えるってやつは、苦手なんだ。 いつだって直球で勝負してきた。 俺は綿密に策を練って成功するタイプじゃない。 「トリトナッ!!」 「……ん? なんか言ってるのか」 「退けよ、なるちゃんが待ってるんだ」 「どけよ? か? やなこっただぜ」 「退けって言ってるんだよっ!!」 「お? すげー顔。万策尽きて、キレるなんて選択肢を取るようになったか。追い詰めらた証拠だな」 そうかもしれない。きっとそうだ。 だが、それでいい。 俺は息が続く限り前へ進むことしかできない。 「…………やってやる」 「やってやる? 今、やってやるって言ったんじゃないか? おいおい、冗談だろう?」 「…………」 低く構える。壁を蹴ってうまく頭上を飛び越して、そのまま外へ出てしまえばいい。 「いいぜ。両手も使えない人間が私様をどうやってぶっ倒すか――――」 「――フがッ!」 一蹴りで、ドアもろともトリトナが壁まで吹っ飛ぶ―――― それはあまりにも、非現実的な光景だった。 自然と握りしめた拳から力が抜けた。 ぽかんと様子を見守るしかないくらい嘘臭い光景。 それをやってのけたのは、化ケ物でも、戦車でもなく、《・・》〈左腕〉をだらりと垂らした一人の人間。 「ッ!? だ、誰だてめぇッ!!」 緊急事態と見てか、トリトナは耳栓を外して野蛮に叫び散らした。 「名乗るほどたいそうな者じゃないが、聞かれたなら答えるべきかー」 凶暴で強靭なトリトナを文字通り足蹴にした麗人は、間延びした声で面倒くさそうに告げる。 「ただの、しがない“《クリアランサー》〈片付け屋〉”だー」 「きょ……今日子さん……?」 「“《クリアランサー》〈片付け屋〉”? なんだそれ。何の用があるんだよ」 「キミがゆーまを連れ去るのをたまたま見てしまったのだよ。私もゆーまに用があったので追わせてもらった」 「ゆーまが懇意している喫茶店のマスターの雑談に付き合ったせいでトンネルを通るのが遅れて、その現場に出くわした。偶然は怖いなー」 なるの占いは的中していた。 時間がずれ込んだだけで、今日子さんは元々、来る予定があったんだ。 「今日子さん――――!」 良かった。良かった。本当に。 これで全てがうまくいく。なるの事も。何もかも。 今日子さんは、俺に全てを教えてくれた人だから。 「……ま、あれだ。助っ人参上、っていう展開だろ? 知ってるぜ。『この人が来たからもう安心』って感じのヤツ」 「“おはなし”の中じゃ大いに結構。私様も大好きだぜ。だけど現実じゃそうはいかねーぜ?」 コンクリートの壁にヒビが入っていた。 頭をぶつけた際に入ったのだとしたら、とんだ石頭だ。 「君に用はないのだー、カップラーメンでも作っていてくれたまえー」 「カップ……? さ、3分……の猶予が欲しいのか?」 「む? じゃあそれでいい。3分の猶予を与えたまえー」 「そうか! 優真の知り合いさんは、私様にボロクソにされる前に、別れの言葉を言いたいわけか。いいぜ、私様は鬼じゃねぇ」 「じゃ、3分どうぞっと」 トリトナは勝手に自己完結すると耳栓を付け直し、一升瓶を片手に座り直した。 「……彼女は何か勘違いをしているようだが、酒の銘柄を見る限り、趣味は悪くないようだなー」 「今日子さん、心配したんだよ。事務所があんなことになっちゃって、俺、どうしたらいいか」 「ああ。事務所を壊したのは、私だ」 「………………」 「………………え?」 電源を切断されたように完全な思考停止に陥った。 ポカンと立つ俺の服装を見るなり微笑み今日子さん。 仕事終わりの食卓でこぼれる表情と同じだった。 「傷は男の勲章だ。手錠まで掛けられて……ずいぶん無茶をしてきたのだなー」 「いや、え? ちょっと、俺の身体なんかどうだっていいって。事務所を壊したって……え……なんで?」 「あれは脅しだ。私の実力と決意がどれほどかを思い出させるためのアピールと言い換えてもいい」 誰に対してのアクションかを聞くよりも、“どんな理由であれ”壊すに至った心境が信じられなかった。 今日子さんは自分が正しいと思ったことしかしない。 「水瀬の家は、俺となるちゃんと結衣が帰るべき場所だよ。それを壊すなんて、信じられない」 「なるはここにいないな。結衣は、いわずもがなか。私とゆーまも、離れ離れ。これはな、必然なのだよー」 「人は皆、本質的に独りなのだ」 「決別であれ死別であれ、別れはいつか必ず来る。時期が早まってしまった、それだけの話だ」 「俺には、ちっともわかんない……他の家族がそうだとしても、水瀬家だけは違うだろ」 「俺は、今日子さんの為に働きたいんだっ! あの事務所で、みんなで、暮らしたいんだっ!」 「私が“《クリアランサー》〈片付け屋〉”を営業したのは、必要でありながら誰もがやりたがらなかったからだ」 「私もゆーまも、あまりにも前に進みすぎた。今更、元の生活に戻れるとは思えんなー」 「水瀬の家は、俺たちの歴史だっ!」 「住人の匂い残る《いえ》〈故郷〉にすがるのは、安寧を求めているだけだろー」 「それが悪いことだとは言わない。だが、私は“守り”に入る事を良しとはしない」 「“守り”に入っていいのは、それまで必死で積み上げた者だけだ」 「無駄に時間を浪費した者も、悪魔にそそのかされてプラスを帳消しにした者も、一からやり直すべきなのだよ」 「俺たちが積み上げてきたものを、否定するの?」 「いいや、優真は頑張った。本当に偉い。問題は、私の方だ……」 「もう“守る”必要はないのだよ。私に全て任せて、安全な生き方をする気はないか?」 「優真が頷くなら、私が手配してやろう」 「遠慮しておくよ」 真剣に俺を心配して言ってくれているのだとわかっていても、即答した。 「俺はやることが山積みだし――――平和に生きるために安全を取り続けるのは、今日子さんの訓えに背くから」 「なら言い換えようじゃないか。これは、社長命令だ」 「ダメだよ、今日子さん。俺たちは今、無職だろ? 家族命令なんてのは、存在しない」 「それに、命令はその場その時で変わるけど“訓え”は永久不滅。どちらを優先すべきか、考えるまでもないよ」 「非常に優秀な返答だ……」 「私の命令に背くか……そうか……キミも、大人になったのだなー」 「必死で今日子さんの背中を追い続けた結果かな」 「なら……キミの好きにしたまえ。私も、好きにさせてもらうぞ」 「今日子さんは、今も何かに一生懸命になってるんだね」 「私が何かに一生懸命でない時が、一瞬だってあったかー?」 「ない」 酒を飲むにも一生懸命。 だらけるのも一生懸命。 休むのだって一生懸命。 今日子さんは今日子さんのやるべきことがあって、今は少しだけ一緒にいられないだけなんだ。 ……そうだ。 「今日子さん、これ。壊れた事務所を歩いたら、金庫が空いてて……」 勝手に持ちだしたみたいで心苦しさがあり、胸を張って結衣の写真が入った封筒を渡せなかった。 今日子さんは手の使えない俺の代わりに封筒を引っ張りだした。 「それは預っていただけで、元々ゆーまの物だ。燃やそうが、破り捨てようが、自由にしたまえ」 「なぜなら……大人は自分で考えて行動するものだからだー」 「……わかった、今日子さん」 俺は頷いた。今日子さんの子供であり、一人の大人として、責任を持って頷いた。 話すことは山ほどあっても、それらは“話さなくていいこと”になった。 俺と今日子さんは、目と目で通じ合える存在だと再認識した。 「さぁ、3分経ったぜ。本当に話してただけだったみたいだが、別れの言葉は済んだか?」 「もういいぞー、煮るなり焼くなり好きにしたまえー」 「ああ、そのつもりだ――――って?」 「おいおい、何処へ行くんだよ。優の字を救い出しに来たんじゃねーのか? 援軍でも呼びに行くのか?」 「用は済んだのだ。キミが個人的に私に用があるというなら、表で聞こうじゃないかー」 「……ま、いいや。てめぇを相手にするのは骨が折れそうだしな」 「酒の趣味がいいだけあって、賢明なのだー。こんな時でなければ、私の愛人候補にしてやったのだがなー」 「お、お断りだぜっ」 「さて……ゆーま、しばしのお別れだなー」 「次に会う時は、もっと気持ちいい笑顔で迎えたまえよー」 「“全ては家族の為に”」 再会の約束を終えた俺の心に、また一つ、大きな目標ができた。 万事うまく終わらせて、事務所を元通りにして――――最高の笑顔で今日子さんを迎える。 「あいつ……何しに来たんだ?」 「『私は今も一生懸命だが、優真は?』って確認に来たんだよ」 「……ふーん……私様と同格ってところか……いるんだな、あんな化ケ物がまだ……」 トリトナは今日子さんに魅せられたらしく、ぼうっと出口を眺めている。 今なら何喰わぬ顔で出ていけるんじゃないか……? 「そろーり……」 「ん?」 「てわっ!! とわぁっ!!」 足を滑らせて転んでしまった。 先ほど破いたビニール袋から電池が転がってきたのを踏んでしまったようだ。 「ぷ、ハハッ、笑かすなよ優の字っ、宴会の席じゃねーんだぞ! 電池の交換でもしてくれるってかー?」 「そんなつもりじゃない。こっちは真剣だぜ」 「“ぜ”は私様の特権なんだぜ。なんだかんだで10分、策は思いついたか?」 10分……もう半分消費してしまったのか……。 悠長に構えていられる時間じゃない。 「――――“時間”?」 一筋の光明が差し込む――今までの考えを根底から覆す、閃き。 しかし……可能なのか? 試すには、《・・・・・・・・》〈たった一つの秘策〉を使う必要がある。 失敗すれば、いよいよ追い詰められる……。 「トリトナは、自分の発言に責任を持てる?」 「あ? その時々だろうよ。そもそも嘘をついてたならまだしも、舌の根も乾かねぇうちに撤回はしないんじゃねーか?」 言うなり耳栓を詰め、所定の位置に座り直す。 これで言質は取ったが……実際にまかり通るかは別問題だ。 「信じるよ……トリトナッ!!」 「~~~~~~~ッ!!」 「な!? 今の音は、って、その血――――!?」 「はぁ……はぁ……大人は、自分で考えて、行動するんだ……」 手錠を掛けたのがリノンかトリトナかわからないが、右手首の掛け方だけがやや甘かったのは最初から感じていた。 そしてコンクリートの壁に叩きつけられた時、骨の軋む音から着想を得た。 故意に手首の関節を外す――《・・・・・・・・・》〈一回こっきりの秘策〉。 これによって、もともと緩かった右手首を抜くことが可能だと思ったが……。 「大馬鹿野郎……強引に抜いたってのかよ……」 「ははっ……はぁ……現実は甘くないね、ホント……」 関節を外すだけでは足りず、内輪に肉を削られてようやっと“抜く”ことができた。 「そこまでする気概は買う。だが、優真が死ぬ気で“力”を使おうが、私様も退く気はないぜ」 「そんなことをすれば、良くても相打ち……なるちゃんも大事だけど、トリトナの身体だって、大事なんだよ?」 「……だったら何のために手を自由にしたっていうんだ」 「よっと」 混乱するトリトナに答えを突きつけるため、俺は勝利の腕を伸ばした。 壁掛け時計の裏を外し、盤面の裏を探って分針を大きく進める。 「え?」 「時針が“11”を差した。11時を、回ったよ」 「これで、なるは“死んだ”。もう間に合わない。違う?」 「…………いや、何を言ってるのかさっぱり――――」 「『《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》〈待つぜ20分。あいつが死ぬのを、てめぇと、ココで〉』」 「あ――――!?」 「『とにかくだ、私様は11時までテコでも動かないぜ』」 「とにかくだ……私様は11時までテコでも動かないぜ」 「ふ、ふざけんな……」 「女に二言がないなら、解放の時間だ。ここから先、“死んだなるちゃん”を助けに行くのも、俺の自由だ」 「ハッ! 馬鹿か? “とんち”じゃねぇんだ。そんな理屈が通るわけ――――」 言質をとったにしろ『ない』と言われれば、それまでだった。 俺はここを出られないだろうし、なるを救うことは、できない。 万策尽きた。 だけど俺はトリトナの事をよく知っているつもりだ。 「通るわけ…………」 トリトナの視線が右腕に注がれるのがわかった。 時計の針を動かすだけなら、手錠を掛けられたままでも器用にやればできたかもしれない。 それでも俺は、腕を犠牲にした。 床を滴る鮮血。 ぶらぶらの手首。 引きちぎられ、削れ落ちた肉片。 これは俺の《・・・・》〈決意証明〉だ。 そして、根っからのお人好しは―――― 「と、通すしかねぇじゃねぇかよぉおぉぉっ!!!」 人の決意を、笑わない。 人の本気を、必ず汲む。 守るべきものが破滅に向かおうとする道すらも開けてしまう、不器用なイキモノだ。 「クソッ、クソがっ! なんだって私様は、こう――――ああ、もうっ!!」 「そりゃリノンも惚れるよ……トリトナ、むちゃくちゃカッコイイもん」 「うるせぇ! 好きにしろ、バーカバーカ! 腹わた撒き散らして無残に死にやがれッ!!」 「そうは、なりたくないなぁ」 やっぱりトリトナは最高にイイヤツだった。 優しい暴君は手錠を外し、悪態をつきながらタオルで止血も済ませてくれた。 「そこまでして護るのは、“家族”だからか?」 「“家族”ってのはさ、隣にいないだけで不自然すぎるんだよ」 「あいつは“《イデア》〈幻ビト〉”だろ、途中参加の、口先だけの“家族”じゃねーのか?」 「それ言っちゃったら、リノンが泣くぞ?」 一瞬の間があって、トリトナは笑った。 「なぁ……死ぬ時は、浴びるほど酒を飲んで急性アルコール中毒で死のうじゃねーか」 「いいよ。二日酔いを気にせず飲めるのは、死ぬ前日だけだもんね」 トリトナの視線は、俺がトリトナを見る尊敬の眼差しと酷似していた。 「リノン――――このイケメンと一緒に行くのは、てめぇの役目だぜ」 「……勝手、勝手。どいつもこいつも、勝手すぎるのよ」 俺を止める気がなくなったトリトナが加わり、支配権を決める多数決に勝ったようだ。 「リノンも来てくれるの……?」 「傷だらけの血だらけの死にぞこないを、わたしが放っておけるはずないでしょう?」 「不恰好でもいいから“家族”を助けるんでしょ? そのために案内と、力が必要なんでしょう?」 「だったら“命令”しなさいよ。わたしを、使ってよ」 「リノン……俺と一緒に来て、俺を案内して、俺を……“護れ”!」 「無事に送り届けてあげるわ、“超最強”の船に乗ったつもりでいなさい」 不敵に無敵なアイドルの宣言により、俺は研究所への片道切符を手に入れた。 乱立するビルの《ひし》〈犇〉めくビジネス街でひときわ異彩を放つ高層建築――“《アーカイブスクエア》〈AS”。 遠方からも望めるランドマーク的存在であり、全ての人から平等に信頼と期待を寄せられる大企業の拠点。 街の至るところに息の掛かった系列店が存在し、年齢不問の雇用を多く生み出しセーフティネットを支援している。 皆、上体ごとのけ反り、その圧倒的な高さと神々しさにバベルの塔を想像しつつ眺める。 例えるなら滅ばないバベル。 完全で完璧な、類を見ない成功例。 だから。 整備された道を通る人達は、踏みしめるコンクリートの奥底に眠る研究施設の存在など知らないまま生きていく。 “《アーカイブスクエア》〈AS〉”の対面に位置する、景色に紛れるほど小さな(といっても二十階建てではあるが)ビルには隠蔽された地下エレベーターがある。 その距離、地上から1000mに僅かに満たない深度を誇る地下施設。 ひとたび火災や化学テロが発生すれば逃げ場のない密閉地獄となりうる空間は、二つの目的のために存在する。 “《フール》〈稀ビト〉”を捕らえ、外界との接触を絶つ牢獄であり。 “ナグルファルの夜”に関連する薬品を精製する研究施設だった。 「ありがたやありがたや」 「お手製の爆弾一個で“《イデア》〈幻ビト〉”一匹捕まえられちまうのも、アルフレッド・ノーベル先生の遺産があってのこった」 「過去の偉人様、天才様には感謝してもしきれねぇな」 ――――漆原零二は、《・・・・・》〈天才くずれ〉である。 彼は自分が博士と呼ばれるほどの器ではないことを折り込み済みで、最重要人物であることを自覚していた。 己が技量を過信した事など一度としてなかった。 研究所で肩を並べる者は皆、最低IQ130、10ヶ国語以上流暢に喋ることができ、数学、物理学、工学、経済学、心理学、政治――――あらゆる学を蓄積した頭脳をもっている。 選りすぐりの化学者の中で、《アインシュタイン》〈前時代の功績者〉達にすがるはしくれに過ぎない零二だけが“英雄”と呼ばれている。 理由は簡単。 “《アーカイブスクエア》〈AS〉”の介入によって人類が手にし得なかった未曾有の研究素材が供給されたからだ。 それら未知の素材の扱いに長け、なおかつ“人間”という立場でフェアに研究できる一、技術者。 尽きぬ好奇心と野心の為に、あらゆる犠牲に欠片の情も抱かず、天文学的確率の成功例にチャレンジし続けられたのが零二だった。 「はぁ……とんでもねぇ時代になっちまったもんだぜ」 「変わんないのは、施設内禁煙ってことぐらいか」 「いや……オレの研究心も、変わっちゃいねぇな」 「おかしなもんだぜ」 「時代が時代なら、オレなんざ実力不足のマッドサイエンティストとして安く買い叩かれてただろうな」 「社畜に成り下がって、即物的な研究の“人手”に当てられて、最後は消耗品みてぇにポイだ」 「ハハハ……わっかんねぇもんだぜ」 零二は“ナグルファルの夜”以前、非合法すれすれの葉っぱを配合する人に言えない職に就いていた。 その名残が、彼の常用している煙草――――酩酊感、多幸感を誘発する作用を持つ向精神薬のブレンドされたそれに表れている。 零二が“《アーカイブスクエア》〈AS〉”の敷居を跨いだのは、最低限といえる薬学の心得を有していたからだ。 “ナグルファルの夜”後、深刻な人材不足に陥っていた“《アーカイブスクエア》〈AS〉”に縦の繋がりで引っ張られ、“《エーエスナイン》〈AS9”研究の端役として呼ばれ、今に至る。 「人々が求めてるのは、結果っていうわかりやすい救いの形なんだよなぁ」 「結果。結果。結果――――結果がオレを英雄に仕立てあげた」 「未曾有のウイルスに対するワクチン“《エーエスナイン》〈AS9〉”を生み出した零二様は“英雄”以外の何者でもありませ~ん」 「零二様は結果に寄生することで、数年間、自由に知的好奇心を満たしてきました~」 「ふらりと街に出かけては女を漁り、飽きれば実験のおもちゃにしちゃいました。簡単に揉み消せる立場にいるので問題ありませ~ん」 「……どう思われようが、オレはオレのスタイルを貫くぜ」 零二の脚の向く先である最重要エリアへの入室は容易ではない。 入室検査用の小部屋に入り、スキャニングによる虹彩認証を受ける。 指紋、静脈、声紋の認証を終え、電子音声のガイドに従い問題なければ扉が開くが、セキュリティレベルが達してなければ警告され、扉が閉まり催眠ガスが発生する。 零二も当時、厚さ1mはあるかという金属の扉に、通り抜けるだけで圧迫感と恐怖を覚えた。 「不思議なもんだ」 「施設の責任者となった今は、完全密閉する扉の音が仕事開始の合図に聞こえる」 「さ……始めるか」 独白が多さは、孤独で地道な作業を続ける職業が板についてきた証でもあった。 「ごくろうさん。いいよ、あとオレやるから」 入室早々、ラフに手をあげた零二は自分の家のように歩いて行く。 大型のスキャンに横たわった少女を囲んでいた白衣の研究員が、王の凱旋のように零二を迎えた。 「出てって」 にべもなく言い放つ“英雄”に逆らうものは若干名のみで、他は即時退室した。 「漆原室長、実験の邪魔は致しません。我々はただ、人類の新たな躍進の目撃者になりたいのです」 「………………」 ――うるせぇな、こっちはすぐヤりたいだけだっつーのに。 零二の真意だった。 熱心な信仰者のようにすがりつく白衣の研究者を、大根や人参、玉葱に見立てている間、煙草一本は喫煙可能な時間が過ぎた。 「わかった。気持ちはよくわかった」 当然、零二の耳には彼らの言葉の何一つも届いてはいない。 「じゃ、何かあったら呼ぶから。出てって」 しっし。手で厄介払いをする零二に落胆しながら、大型のホールから研究者は去っていった。 いつもの光景である。 「誰が見せるかよ。これだけコンピュータ管理の行き届いた施設、どこにいたって監視はできるだろうが」 「最高の素材に生で触れられるのは、博士様の特権だっての」 美しい少女――――菜々実なるは心音を停止させてなお美貌を失わず、硬質な台に載せられたまま目蓋を深く閉じていた。 さながら童話に出てくる眠り姫。 ならばキスで起こすべきか? 零二は考え、苦笑する。 これからなるをどう弄ぶか、零二の頭はそれだけでいっぱいだが、目的はあくまで研究だった。 「死んでるんだから恥ずかしいもクソもないだろうが、服を脱がすぜ? このままじゃスキャンできない」 返事はないのをわかった上での確認が紳士といえるのかどうか不明だが、零二は訊ねてからなるの衣服に手を掛けた。 「…………?」 零二が違和感に気づいたのは、なるの童顔にしては豊かな胸を露出させようとした時だった。 “何か”がおかしい、と零二は思う。 これが《ノイマン》〈悪魔の頭脳〉なら“何か”などという曖昧な考えに至らず、瞬時に答えを導き出すだろう。零二は極平凡な脳を持った化学者に過ぎないのだ。 美しき眠り姫の衣服から手を引き、脈を計ろうと再度手を伸ばすと―――― 「え?」 「“音”を操るって言ったじゃない。脈も、心肺も、全部聴こえなくしておいたのよ。まんまと引っかかったわね」 「ああ、なるほど。心肺停止の仮死状態をつくったのか。しくじったな」 零二は“英雄”であり一般的な化学者でもあるが、ハプニングには慣れていた。 「とりあえず仕返し」 「ンッ――――おぉぉお……ッ」 逆に手首を取られた零二は、軽くひねられた。 腕の骨が雑巾絞りのように螺旋を描いて折れていく。 「英雄さん、聞こえる? 非常警報を鳴らさないように指示できる、か・し・ら?」 「ハハ……この場所は鳴らないっしょ。優秀な素材が生き返っただけ、嬉しいハプニングじゃん」 ここは第5セクターでもセキュリティレベルの高い場所であり、権限のない研究者は入ることすら許されない。 施設全体を揺るがす大事故と判断されでもしなければ、このエリアに警報は鳴らない仕組みになっている。 何故なら、実験の集中の妨げや無理な中断は、さらなる危険を引き起こすからだ。 「それにしても、自爆するなんて驚いたわ。事前に“《アーティファクト》〈幻装〉”を出していなければ、間違いなく防げなかった」 「ああ、そういえば出してたっけ……」 《・・》〈ソレ〉で刺されたというのに、零二は呑気に思い出す。 「爆弾は爆破地点を中心に周囲全体を巻き込むものでしょう? なのにあなたは生きてる。いったいどんなカラクリなのかしらね」 「あれはな、オレが手塩にかけて作った新型爆弾……“《イデア》〈幻ビト〉”にだけ利く――――」 「嘘をつけ」 「ぐっお、おぉぉぉ――――ッ!!」 なるは話しながら、にこやかに手首を少しずつ回転させていく。 「私はね、嬉しいのよ。あんな形で決着がついたりしたら、もやもやが残る。この手で殺さなきゃ、気が済まないの♪」 強い復讐心が彼女を鬼へと仕立てあげていた。 「こんな可愛い女の子に殺されるなんて、オトコとしてどう?」 「………………」 「オレはオンナを抱くのが大好きだが“《イデア》〈幻ビト〉”とだけはヤったことがない」 「はぁ?」 「肥溜めに興奮する男なんざ、いねぇんだよ……」 なるは、衣服に手をかけようとした際に零二を薄目で見ていた。 聖人でもない限り、どうあっても年頃の美少女に触れれば性的な感情を催すのが普通である。 しかし、脱がしに掛かる零二に浮かんでいた表情は限りなく曇っていた。 姿形は美少女であり、触れれば柔らかく、異性を虜にする優しい香りのする菜々実なる。それを嫌悪する理由はひとつしかない。 「お前も、あの糞アイドルも、ゲロ以下の汚物だ。“《イデア》〈幻ビト〉”は全員、研究材料でしかねぇんだよ」 なるは、理解した。 零二は腕を折られる痛みよりも、なるに手首を握られることの生理的嫌悪に吐き気を催したのだ。 「私に対する軽蔑の視線は、そういうことなのね」 「汚らわしい動物風情はなぁ、大人しく実験の道具になってりゃいいんだよっ!!」 零二は以前、優真に人間が好きと言ったことがあり、それは真実だった。 零二は種族として“人間”を至上のものとしており、なるやリノンといった“《イデア》〈幻ビト〉”は汚らわしくも優秀な素材としてしか見ていない。 「え?」 びょん! と笑えるくらい飛び上がったのは、零二の首だった。 「つばが飛んだから……なんて理由があれば、それでよかった」 胴から切り離され、床に落ちると同時に本格的な流血が始まった。 「――――さっさと、こうしておけば良かった」 ぼとり。首が着地。切断面と床が密着。チープなホラーにありがちな光景の中、なるの瞳に宿った炎が一層燃え上がる。 その掌は、零二から吹き出した鮮血で真っ赤に染まっていた。 「責め苦を味わわせるなんて無駄。あなたは通過点でしかない。私は、全ての無意味な“生”を終わらせる役目があるもの」 なるは一人の人間の命を、意識的に奪うべくして奪った。 立派な殺人者となった彼女は血振りをして、ゆっくりと背を向けた。 「この施設を壊して、次は“《アーカイブスクエア》〈AS〉”を潰す……体力温存のために優真くんを探さなきゃ。死んでなければいいけど」 去り際、なるは振り向かなかったし、振り向く気はなかった。 ――――その声が聞こえるまでは。 「いってぇ……」 零二が結果を出すに至ったのは、もう一つだけ理由がある。 努力や精神力や運にゆだねる部分があったのは事実だが、最も貢献したであろうものは“ナグルファルの夜”以後に目覚めた、彼自身の体質だった。 「そんで……“耳鳴り”とやらは止まったのか?」 語る生首――――異常であり、異形。 「…………」 「ハハ……! 驚いて声も出ないか」 「――――わかってた」 「このくらいじゃ死なないって、わかってた。爆発で死ななかった時に、薄々ね」 菜々実なるは、零二の持つ何らかの“不死性”を認めていながら、しかし首を跳ねただけで背を向けていた。 「ただ、あなたが私をこのまま行かせてくれたら、“死んだこと”にして終わらせてあげようと思ったの」 「だって――――さすがに残酷過ぎるでしょう?」 振り返った菜々実なるは――――底冷えするような笑みを浮かべ、 《アーティファクト》〈惨殺器具〉を掌で弄んでいた。 「これからあなたは、私が思いつく限りの死刑を、その身体で試されることになるのよ?」 監視室の指示により、零二のいる《セクターファイブ》〈研究施設〉以外の全フロアに非常警報が鳴らされたのは、この数秒後である。 「うっ――」 「速度があるから下降時は頭に血がのぼるけど、すぐ着くから」 「キャップはいつまでつけてればいいの?」 「まだダメよ。優真だって気づかれたら緊急停止させられて鳥籠にされるわ」 「怖いねそれ……」 現在急速下降中のエレベータは、ビジネス街の底へと続いている。 受付嬢と話をしたリノンが、別の関係者と2,3話をするだけで乗り込むことができた。 “《アーカイブスクエア》〈AS〉”ではなく、対面する別の会社から繋がっているとは驚きだった。 リノンの案内がなければ場所の特定すらできなかっただろう。 「“《フール》〈稀ビト〉”の受け渡しを名目にするって事は、下には収容施設があるってことだよね?」 「研究と収容を兼ね備えた地下施設。ホントは拘束した状態でコンテナに押し込んで別ルートから搬入するんだけど、うまく丸め込めたわ」 「どうやって?」 「『捕まえた“《フール》〈稀ビト〉”が空間移動能力を持っている為、特別な監視が必要』って理由でゴリ押ししたけど?」 「で、でっちあげるねぇ……でも、普通は顔のひとつは確認されるんじゃないの?」 「指名手配中の身だから顔を見られたらアウトでしょ」 「『瞳で移動位置を調整するからキャップは外せない』っていう超最強な理屈をまかり通したわ」 うーん。いいのか、それで? 思ったよりザルなんだなぁ、この施設。 「大企業の暗部である最重要機密エリアが思ったよりザルなんだなって、思ったでしょう?」 「いや、リノンはどうしてこんなに良い匂いがするんだろうって」 「ありがと。簡単に入れたように思えるでしょうけど、わたしの影響が大きいのよ」 「顔パスってわけじゃないけど、施設の利用は初めてじゃないし、社内での認知度と発言力もそこそこある。感謝しなさいよね?」 素直に喜んでいいのだろうか。 俺たちの侵入は、最終的にバレる――――その時リノンに下される処分を考えると、複雑な気持ちに苛まれる。 「当然、進退危ういって話じゃ済まないわ。広告塔としての利用価値と天秤に掛けても、許されることはないでしょうね」 「でも、わたしが“《アーカイブスクエア》〈AS〉”にいたのは目的の為。今のわたしの目的は、あなたを護る事――――だから何一つ、問題はないわ」 微塵も後悔を滲ませないリノンの瞳は、俺のポジティブを飛躍的に向上させる。 こうして危険を顧みず、隣で案内してくれている時点で、迷いなどあるはずがない。 「俺がリノンにしてやれることがあったら、何でも言ってくれていい。腕の一本でも二本でも、リノンになら喜んで渡すよ」 「ご褒美にキスのひとつでももらえれば、それでいいわ」 「!?」 重力にがくんと膝が折れ、メインライトが消える。 「緊急停止……?」 「どうして!? いくらなんでも着くまではバレないはずじゃないっ! 施設のマニュアルだってわたしは丸暗記しているのよっ!?」 心細い非常灯により、絶対の自信があったらしいリノンの取り乱した様子が照らし出される。 「落ち着いてよリノン、俺たちの侵入が警報を鳴らす要因とは限らない」 「海でサメと遭遇して『アレはわたしを狙ってるんじゃない』と言ってるようなものよ?」 「どっちにしろ仕方がないよ、地下まで降りるための手段は――――」 天井のハッチを叩く。 が、意味はない。 叩いてもケガをするだけだとわかった。 「点検口が内側から開くなんていわくつきの賃貸マンションかフィクションだけ」 「ここは開かずの密室。出る方法は外から手を加えられたときだけだわ」 「閉じ込められた……リノンと二人っきり」 「もう……あの子たちにこっぴどく叱られたから、できれば使いたくなかったんだけど……」 「フロム、トリトナ、優真の目的の為に“魂”を削らせて。便乗してくれるなら、許可をちょうだい」 宣言をするリノンに呼応するように、胸から“《アーティファクト》〈幻装〉”が出現した。 「満場一致ね」 一刻も惜しいのか、リノンは無駄口一つせずに“《アーティファクト》〈幻装〉”を床に突き刺した。 といっても刃の先端が薄く食い込む程度――――浅く刺したまま、コンパスで円を描くように回転させる。 「わたしの“闇”の侵蝕は有機物にとどまらないわ」 「“闇”は無機物さえも腐蝕させ、溶解を促進する。この程度の厚みなら、すぐに錆びつくわよ」 円状に傷つけた部分が、みるみるうちに赤橙の錆色に変わっていく。 「あとは、蹴るだけ」 パンケーキを型で繰り抜いたように床が抜け、一人分は充分に抜けられる穴が空いた。 「ギリギリ通れるくらいにしておいたわ」 「出口はいくつもないから完全に壊したら後で困るかもしれないでしょ? あなたは、生きて帰るんだから」 「リノン……ああ。俺はなるちゃんを助けて、リノンと3人で脱出するんだ」 「先に降りるわ。スカートの中を覗かれて反射的に突き落とすバッドエンドは、避けたいから」 「そうだね。でも色だけでも教えてくれると捗るかなー」 「何が捗るのかは聞かないけど、終わったらいくらでも教えるわよ」 メインロープを伝って一番下まで降りて、外側のドアの上部レバーをいじって手動で開けた。 「到着間際でよかったわね。上のほうで止まってたら、降りるだけでどれだけ掛かったかわからないわよ」 「運さえも俺たちを味方している。これは完全にどうにかなりそうな予感がする!」 「実際ラッキーよ。この地下施設は管理の都合上、エレベータが停止すると警備がやってくるまでかなりの時間がかかる」 「常駐で武装してる警備員が何人かいたとしても、わたしが軽くひねってあげるわ」 「――地下800mの最下層、漆原室長が管轄する《セクターファイブ》〈研究施設〉へご到着」 「わーお……」 エレベーターホールから歩くこと数分、いかにも研究施設って感じの通路に差し掛かった。 ドアとか超高性能IDロック搭載です! って感じ。今日子さんがいたら引っこ抜いて『一個だけ』とお持ち帰りしそうだった。 「観光でも社会科見学でもないのよ? これから揉め事起こそうって場所を物珍しそうに見ないの」 「はーい」 「まったく……進むわよ」 「やっぱり隣に“超最強”がいてくれるってのは頼もしいなぁ。零二の居場所は、この先?」 「さすがに《セクターファイブ》〈研究施設〉には実験用の“《フール》〈稀ビト”の搬入に立ち会ったことくらいしかないから、確かなことは言えないわ」 追っかけのようにリノンの後ろをついていく途中、ふと気づく。 「あれ? ここはサイレンが鳴ってないね」 「そうね……意図的なものかしら? 例えば責任者がこの階層に異常がないと判断した場合とか」 「あるいは――――“音”が鳴っているのに、このフロアだけは鳴っていないことになっているとか」 とんちのような、矛盾した内容。 それを唯一解決できる“音”を操る力――――。 なるがこの先に……。 「急ごっか、リノン」 「いい顔つきになったわ。スイッチ、入ったみたいね」 「……はぁ…………はぁ……」 「人が倒れてる」 不自然な形で開かれたドアの間に、不自然な姿勢で挟まれている。 「どうしたんですか?」 「う、腕――――腕の……化ケ…………ッ!!」 「腕……」 ぎゅるりと黒目が引っ込み、かくんと首が折れる。 そして白目を剥いて泡を吹いた。 失神したのか、ショックで逝ってしまったのか。 「首にあざがあるわ。物凄い力で首を締められたようね。わたしを見てショックで二度寝するなんて、なんとなく不愉快だわ」 「気絶してるだけだよね……? 放っておいて平気かな?」 「寝かせておいてあげましょう。研究者なんて生き物は、覚悟が完了しているはずよ。ましてや、こんなところで働いているのならね」 リノンはざっと部屋を見て、零二の姿がないことだけ確認すると背を向けた。 「何か起きてるわね……得体の知れない嫌な空気がぷんぷん臭ってくるわ」 ゆるやかなカーブを描く通路の奥のドアは、他のドアと同じだと言うのに、まったく違う威圧感があった。 「この先だね」 「やっぱり、わかる?」 色も種類も同じドアから感じる、感じざるを得ない違和感。 ここに連れて来られた“《フール》〈稀ビト〉”たちの慟哭が染み付いているような――――感覚の話だった。 「ついてきて」 進んだ先は、もう一つの部屋へと繋がっていた。 「ここは?」 「入室検査を受ける部屋よ。大丈夫、わたしにまかせて」 リノンが中央に進み出ると、仄暗い照明とはべつの光が降りてくる。 「«照合を開始します»」 バーコードリーダーに似た赤い糸状の光が頭上から爪先まで通り抜ける。 「«紫護リノン»«ArchiveSquare一級権限»««セクターファイブ二級権限»»«・・・・・《クリア》〈完了〉»」 電子音声とともに端末の青いランプが点灯する。 「はい。じゃ次は優真よ。ここに立って」 「でも俺、権限なんか持ってないよ? 昔の電車の無賃乗車みたいにくっついて改札を通る的な?」 「優真……頭弱すぎるんじゃない。スキャニングよ? 小細工が通じるはずないでしょ」 リノンは慌てるでもなく優雅に端末を操作する。 「チェックは待ってね」 端末に話しかけるリノンはやたらフレンドリーだった。 「彼にセキュリティ通過の権限を発行してちょうだい。責任はセクターファイブ二級権限の紫護リノンが受け持つわ」 「«現在 警戒態勢につき 当エリア セクターファイブ一級権限 特級権限 以外の権限発行は 禁止されています»」 「……へ? いや、責任は紫護リノンが持つわ。ArchiveSquare一級権限の紫護リノンっ」 「«紫護リノン セクターファイブ二級権限 所持者による 権限発行は禁止されています»」 「そんな馬鹿な話ないでしょう? こうなったら外部通信で……いやいや、無理。なんて言えばいいのよ」 「«照合を開始します»」 「ああ、ちょっとっ! このポンコツ、待ちなさいよっ!!」 「おわわ」 赤い光があっという間に頭から爪先までを通り抜けた。 「«No Name»«未登録者です 不正入室者の疑いがあります 再度 確認を行なってください»」 プシッ。空気の抜けるような音がしたのは、元来たドアからだった。 「え? まさか――――」 ビクともしない。手動で開けるためのノブがないため確かめる術はないが、強固なロックがかかった音で間違いないだろう。 「やばくない?」 「一度でも照合に失敗するとロックが掛かるのよ。まずいわね、数分以内に再チェックが入るわよ」 「二度目のチェックに失敗したら……どうなっちゃうんでしょう?」 「拘束されるわ。壁に銃器が付いているわけではないから、排除機能は無いと信じたいけど……」 「エレベータの次もまた密室か。リノンと二人きりってのは嬉しいけど、今はそれどころじゃないからなぁ……」 「まいったわね……打つ手がないわ。一応さっきの倒れていた研究者のIDはくすねておいたけど、スキャニングがクリアできない」 「そうだ! エレベータの時みたいにドアか壁を脆くして壊せばいいじゃん」 「セキュリティレベルから言って、そのドアの金属は簡単に腐蝕しないわ」 「厚みもエレベータの数倍はあるでしょうし、そう何度も“《アーティファクト》〈幻装〉”を出すのは……」 言葉を重ねるたびに、リノンの顔が険しくなっていく。 「わたしは弱音を吐かない……“超最強”であり続けなきゃ、《・・》〈二人〉はいつでもわたしを喰う……」 「リノン……」 リノンは一人じゃない。トリトナとフロム、超個性的な二人を束ねるだけのカリスマを保持しなければならない。 「«照合を開始します スキャニングの適正位置に 両足をつけてください»」 「あ、離れて!」 遅かった。赤い光に覆われる。 「«No Name»«未登録者です 警戒態勢につき 不正入室者と判断します»」 リノンがハッとして、壁を睨みつける。 「細かい穴――――!? 優真、すぐに口に袖を押し付けて塞いで」 「え? あ、ああ」 四方の壁から加湿器のように蒸気が噴出し始めた。 「この感じ……強力な催眠ガスね……」 「……んぶ…………はぁ……はぁ…………」 化学研究所のガスが効き目薄なはずもなく。 即効性のガスにやられ、ふらふらと視線が下がる。 視界に入った自分の腕や脚についた無数の傷が、妙に痛々しく思えた。 ……学生の身分にしては、割と頑張っちゃった方じゃないだろうか? だいたい本当に、このドアの先になるがいるのか? 完全武装の戦闘部隊が銃口を向けている可能性だってある。 何に対しても確証なんてものはない。 幾重にも幾重にも立ち塞がる難題の数々に苦しめられるだけじゃないか。 「(眠い……温かい布団の中にいるみたいに気持ちよくって、思考がとろとろに溶けていく……)」 「(……“力”を出せば、解決するのかな?)」 どうだろう……。 結局、零二の自爆からなるを救えなかったじゃないか。 隣にいるだけの、お荷物だった。 “力”を出すだけで何でも解決するなんて考えは、前向きではなく楽観だ。 「(ああ……眠い……考えるのも、つらい……)」 ガスはほぼ完全に充満し、部屋は雲河に変わった。 指先に“動け”と命令するだけの脳さえ失われつつあった。 「優真――――」 喋ると余計にガスを吸い込むのに、リノンは俺を呼ぶ。 「わたし、どうしたらいいか、わかんなくなってきちゃった……」 「(……え?)」 「聞いて……今、思ってしまったのよ……あなたを送り届けられないかもしれないって……この状況を打破できないかもって……」 それはとても小さな声だったけど、あまりにも切実な気持ちはしっかりと耳に届いた。 「もう、ダメなのかもしれないって……ほんの少しだけ……一瞬だけ、思ってしまったのっ」 プライドの高い“超最強”が自らの折れそうな心を吐露した。 長い睫毛をたくわえたまぶたが下がりそうになるのを必死で堪え、下唇を血が滲むほど噛んで耐えている。 耐え難い屈辱を受けながら、恥を忍んで俺に伝えたいことがあるようだった。 「優真は、そんなこと考えないわよね?」 「わたしを救ってくれた時と同じように――――今も前向きな考えで、頭がいっぱいなんでしょう?」 「――――!?」 催眠ガスに追い込まれたリノンが求めたのは“打開策”ではなく“気の持ちよう”だった。 一瞬でも諦めそうになった彼女が、諦めることを知らない俺に元気や勇気といった概念的な価値を得ようとしていた。 信頼しきった顔で“諦めない水瀬優真”に希望を見出そうとしている。 「俺は……俺はこんな状況でも……」 だというのに俺は――――リノンとは比較にならないほど臆病になってた。 全てを賭けて俺を送り届けようとしている人を差し置いて、勝手に諦めようとしていた。 だけどそれは――――数秒前までの事だ。 「絶対“なんとかなる”って思ってるよっ!!」 手始めに犬歯で自分の舌に穴を空けた。 痛みで眠気を耐える為に。 自分を失いかけた罰と、けじめの為に。 「ふふ……やっぱり、ぜんぜん、諦めてないのね」 違う。俺は諦めかけていた。 そしてリノンは、諦めかけた嘘つきを信頼してくれた。 それは、騙したも同然ではないだろうか。 「だから、ちょっとの間だけ……耐えててね」 そういう時は嘘を本当にすれば――――解決する。 口いっぱいに広がった鉄の味を、赤い唾液とともに吐き捨て、胸に手を当てる。 「時間がないんだ。まどろっこしいのはいい……一発で、このドアを壊せるやつを頼むよ」 音もなく抜き出した武器は長大な斧――――。 数日前の事なのに“懐かしい”と感想を抱いてしまう。 それほどまでに、あの日常は遠い。 なると笑って、零二とナンパして、リノンに憧れて、帰るべき家があって、妄想の結衣を可愛がって、社長の為に働いて――――。 幸せだった。 ここ数日で全てがひっくり返ってしまったけれど。 今は――それら全てを取り返す、欲張りな物語の最中だ。 「諦めてなんか、やらないぞ」 久遠学園長の銅像を壊した時、あまりの重さに立ってすらいられなかった斧が手中にある。 なるは“《アーティファクト》〈幻装〉”を“魂”そのものと表現していた。 「羽のように、軽いや」 もし俺の持つ斧が“《アーティファクト》〈幻装〉”だとしたら、今、重みを感じない理由はなんとなくわかる。 “魂”に物理的な重みはなく、担い手の印象によって“感じる”だけだ。 「軽いからって弱いわけじゃない……これを叩きつけて、ドアを壊すのは――――確実に可能だな」 今、俺には一切の躊躇いや、戸惑いといった無駄な感情はなかった。 「さぁ……見せてくれよっ! キミの真価をッッッ!!」 『力いっぱい、両手で振り下ろす』――という行為に、上手いも下手もあるわけがなく、それはそれで一つの完成された一撃だ。 《インパクト》〈強打〉の瞬間、無言のドアが一度だけ金属的に哭いた。 手に伝わる衝撃は不思議なほどやわらかく、痺れることもなかった。 「………………だ……め……?」 「壊れるよ。問題があるとすれば――――」 一拍遅れて中心に亀裂が入り、たちまち全体へ広がる。 「《・・・・・・・・・・》〈壊れ過ぎないかどうか〉、かな」 正面衝突を征したのは、大斧。あれだけの衝撃の中、刃こぼれ一つ起こしていなかった。 「«深刻なエラーが発生しました セキュリティ機能停止 緊急解除します»」 「優真……!」 「ね、意外となんとかなっちゃうんだよ。ポジティブでさえ、いればねっ!」 ガスの噴出が止まり、溜まっていた空気も大破したドアから抜けだしていった。 入ってきたドアのロックも解除されたようだ。 「危なく寝ちゃうところだったわ……。眠る事の愉しさを教えてもらったばかりだから、一番の弱点だったかも」 「数日前まで眠ったことがなかったくらいだもんね」 「それにしても驚異的な力ね……1mはある特殊金属の塊を一撃で壊すなんて、この世のありとあらゆる物に打ち負けない破壊力だわ」 未だに信じられないといったふうに金属片を拾い、首を傾げる。 「わたしのご主人様には、まだまだ秘密が隠されているようね」 「ご主人……?」 「いいえ。優真は優真よ。わたしをわたしと言ってくれたようにね」 「この先でなるが待ってるんだ。行こうリノン」 「残念。わたしが行けるのはここまで」 「え……? マジ?」 「わたしはあなたを案内するし、護るともいったけど、もう充分、送り届けたでしょう?」 「優真をここまで危険な場所に招いてくれた“虹色”の顔を見たら――――斬りかかると思うの」 「あなたがあの子を救って、わたしと軽口を言い合える状態にしてからじゃないと無理」 リノンが必死で手伝ってくれたのは、俺の為で、なるの為じゃない――――。 本人を目の前にしたら抑えられないほどに強い憤りだと、本人は自覚している。 「ここまで付き合ってくれてホントにありがとう。あとでなるにはちゃんと謝らせるからさ、その時は許してあげてよね」 「泣いて土下座するなら、頭を踏みつけてあげてもいいわ」 「はははっ、厳しいなぁ」 「これを持ってて。きっとあの子に必要なのは、こういうものだから」 手渡されたのは、見慣れたパッケージ。 それをポケットに押しこむ。 確かに、なるにはこういうものが必要だ。 「わたしはこっち。あなたは向こう。やるべきことは違うけど、無事に帰りたい気持ちは一緒よ」 「万全を尽くして、ポジティブに」 リノンが来た道を戻ると同時に、俺も背を向けて歩き出す。 この先で待ち受けているものは希望だ。 仮に絶望だったとしても、絶望ではないと“勘違い”するくらいポジティブでいれば平気だ。 進んだ先の2階分の高さはある特大の部屋。 「死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね……」 中央に鎮座する大型CTスキャンの影。 なるらしき後ろ姿が忙しなく動いていた。 「死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね……!」 壊れたボイスレコーダーのような声が聞こえる。 「なる……」 懐かしい臭いがする。 俺が専門にしてた浴槽掃除――――“《チョコ》〈粘土〉”の臭い。 「死ねッ! 死ねッ! 死ねッ! 死ねッ! 死ねッ!!」 「……………………」 じゃあ、こう考えてみるのはどうだろう? なるが今、狂気の形相で切り刻んでいるのは、食肉用の家畜かなにかで、人間じゃない。 「はぁ……はぁ…………は……はは……」 「ハハ――――アハハハハハッ!! 死んだ、殺した、間違いなく殺したわ、クフフフフッ!!」 人の形を留めていないズタズタの肉塊が床にべしゃりと落ちた。 皮を剥いたトマトのような赤身が“音”の追い打ちで爆発し、細切れ臓器が浮くスープができあがった。 「優真……くん? 優真くんだ……! こんなところまで、私を追ってきてくれたの?」 誓い直したばかりのポジティブが早くも脅かされる。 「ハハッ……遅いよ……」 その一言が――――全てを物語っていた。 「この水溜まりは……《・・》〈誰?〉」 「漆原零二よ? ハハ、それ以外にいますかー?」 なるは思った以上に、病んでいた。 「(……即死、なんてもんじゃない。水分になるまで殺し尽くした。なるは、零二を殺したんだ……)」 自爆したはずの零二が何故、生きていたのかは知らないが……俺がもう少し早く来ていれば止められたのかもしれない。 もう全てが遅い……なるは人殺しだ。 復讐に駆られて人を殺したという事実は、生きている限り永遠に付き纏う重罪だった。 「どうしてよ……私は、もう役目を終えたじゃない……」 「止んでよっ!!!!」 なるは耳を押さえた。 轟く雷を恐れるこどものように。 イヤイヤと頭を振りながら、うずくまった。 「なるちゃ――――」 「とめてよっ、もう、誰でもいいから、この“耳鳴り”を――――止めてよおぉおぉぉおぉおぉおおおおぉッッッ!!」 零二を殺せば止まると言って“耳鳴り”が、復讐を終えた今もなるを苦しめ続ける……。 その“音”は“音”を操るなるでさえ無視できなかった。 それが意味するところはなんだろう。 額面通り、怨嗟の声が消えないのか。 今度は――――殺された零二の亡霊が囁くのか。 「――――!?」 ゾクり。背筋に冷たいものが流れる。 「ま、また……またなの……!?」 なるが怯えるように一歩、二歩と水溜まりから遠ざかる。 床に撒き散った血と臓器が自然発火し、地を這う炎に焼かれながら、それらは意志を持ったように一箇所に集まった。 「ナンパの心得、殺人者編」 「まずは優しく慰めてやれよ『いっぱい殺せたね……』とかってよ」 「ちょっと――――これ……」 「なにせ殺し続けるのも楽じゃねーんだ。殺人者は大抵、頭イってるだろ? あれは回数重ねていくうちに病んでいくんだよ」 炎が脚となり、腕となり、顔となり―――― 「逆に殺され続けるのは楽かって言われりゃ、そんなわけもねぇよ。地獄って何度も殺される場所だろ? 辛い辛い」 残り火をふっと一吹き――――原型を留めないほど《バラ》〈解体〉された零二は、再生の豪炎とともに復活した。 「いい加減に死んでよっ! あんなに細かくしたのに――――どうして生きかえるのよっ!!!」 「8回も殺されちゃったが――――大丈夫、次の漆原零二は、きっとうまくやるでしょう」 アリかナシかで言ったら、これは、ナシだ。 「なんだよその顔、土気色じゃん。体調悪いなら、横になってなよ」 「悪ぃな、故意じゃねーんだ。血がちょっと偏ってたかな?」 返答は完全に零二のソレだ。 間違いなく同一人物。 本当にもう、嫌になる。 「もうイヤ……悪夢よ……こんなの……現実なわけがないじゃない……」 なるが握りしめていた“《アーティファクト》〈幻装〉”が音を立てて床に転がった。 首を振りながら、力なく壁際へと後退していくなるは絶望している。 「良くやったほうだ。普通なら1回で気が触れて戦意喪失するぜ。ここまで殺してくれたのはお前が初めてだよ」 「イヤ……もう、何も聞きたくない……私は漆原零二を殺した……いっぱい殺したのに……“耳鳴り”が止まない……」 「私を裏切った、人間が、人間を、殺して、殺して、私は、私の……ケジメを……」 ぺたりとお尻をついたなるは、零二を殺した回数を指折り数えていた。 「悪ぃな優真、お前の彼女、精神的に陵辱しちまったぜ」 「大丈夫だよ。なるちゃんの心は、そう簡単に壊れたりしない。ちょっと厳しい試練だったみたいだけどね」 「蘇る仕組みは、“《フール》〈稀ビト〉”だからの一言に尽きるのかな?」 「“魂”に記憶された情報から肉体を再構築してるだとか、炎とともに黄泉の国から帰還してるだとか……そういう感じでいいか?」 「説明したってわかるわけないだろ。これがオレの“《デュナミス》〈異能〉”――――オレの、オレだけの不死性だ」 「つまり、対象者は零二本人に限るってことかな」 「……意図が読めんな。墓から引きずり出したい奴でもいんのか?」 「いや……聞いてみただけだよ……」 ともかく、零二とコミュニケーションが取れる状態にあることはわかった。 「死ぬことにも飽きたんだ。無駄な事はやめて、協力してくれよ。俺はさっさと実験に移りたいだけなのに、オンナが抵抗すんだ」 「オレと戦っても無駄ってことは理解できただろ? 木っ端微塵に爆破しても、あら不思議、見事に再生。何をしたって同じだぜ」 「本当に無駄なのかな? そう断言することで、何かを隠そうとしてるんじゃない?」 「はぁ……いいか優真。殺すってのは、簡単に見えて体力的にも精神的にも負荷が掛かるんだ」 「優真も、あんなふうに、廃人になりたいか?」 「………………」 虚ろな瞳で俺たちを傍観するなるを廃人と言う零二。 殺しても殺しても殺せない――――その堂々巡りは、行為が行為だけに精神力を根こそぎ持っていかれる。 「まぁ、“《イデア》〈幻ビト〉”にはお似合いの末路だ」 「…………」 「安心しろよ、“《エーエスナインプラス》〈AS9+〉”はお前にもやる予定だ」 「悪い虫が入ってたお前も、まっさらな人間に戻れる。“《アーカイブスクエア》〈AS〉”の指名手配も解けるだろうな。金も、住む場所も、手配してやるよ」 零二の言葉は本当かもしれないし、嘘かもしれない。 どちらかと言えば――――本当だと思う。いや、信じたい。 「そっか……優真くんは、私を助けに来たんじゃなくって、私から解放されるために“《エーエスナインプラス》〈AS9+〉”をいち早く得る為にやってきたんだ……」 「ここまでお膳立てするのも、お前が親友だからだ。さ、あの実験動物をここまで連れてきてくれ」 「…………はぁ……」 不死身の肉体……じゃ、しょうがないよな。 零二に言われた通り、なるの正面まで来る。 「私を引き渡して……“《クレアトル》〈現ビト〉”に戻る薬をもらうのね?」 「なるちゃん」 「いいわよもう……もう好きにすればいいじゃない……私は、もう、何もかもが嫌なの……」 「……黙ってコレを食べてなさい」 「んむぐっ――――」 “超最強”に渡されたはちみつ揚げパンを押し込む。 「なるちゃんは命を放棄していい身分じゃない」 「キミの為に命掛けで俺を送り届けてくれた人に、謝る義務があるんだから」 「結衣を見つけ出して食卓に引っ張り出すって約束も、守ってもらわなきゃいけないしね」 噛む気がないので、嫌がるなるのあごと頭をつかんで強引に上下させる。 「むーむー……」 「食べるってことは、生きるってことだ。生きるってことは、諦めないってことだ」 「………………」 「零二が生き返ったって事は、なるちゃんはまだ誰も殺してない。胸を張って太陽の下を歩いていいんだ」 それにしても、ひどい話だ。 なるを売って“《クレアトル》〈現ビト〉”に戻るなんて――――安く見られるにもほどがある。 零二はともかく、なるは――――俺が誰に育てられたかくらい、知ってるはずなのに。 「というわけだよ零二。俺は、家族を、見捨てない。それが、今日子さんの訓えだからね」 「オレが《じんるい》〈家族〉を見捨てないようにか?」 「そういうことかな」 “《エーエスナインプラス》〈AS9+〉”が“《フール》〈稀ビト”を救い、結果として多くの命を救うことになったとしても関係ない。 俺は俺の家族を優先する。 目の前にいる、なるを護る。 それでいいし、それがいい。 「このままじゃ話は平行線だ。金で解決もできない。となれば、後は一個っきゃねーでしょ」 「暴力による解決?」 「はははっ……短気だなぁ」 零二は散歩するように室内をうろついて、スキャン機についていた通信機を取った。 「《セクターファイブ》〈研究施設〉室長、漆原零二だ。至急、メインエリアに神経ガスを流せ」 「え――――!?」 「すぐに流せ、めいっぱいだ。オレの事は気にする必要はない。以上」 一方的に通信を切ったらしい零二が俺と向き合う。 「うちで使われてる奴は極限まで累積性を抑えた手緩い奴で殺傷能力はない。とはいえ、一時的にお前らを無力化するには充分な代物だ」 「どうかしちゃったのか? そんなことをすれば零二も無事じゃ済まないだろ」 「仮に死んだとしても大丈夫。次の漆原零二は、きっとうまくやるでしょう」 「あ……」 ああ、そうか――――毒でさえ関係ないってわけか。 “不死”は、死を《いと》〈厭〉わない。 「オレは不死身。お前らと違って無限にコンティニューができる。残機があれば、自爆は立派な攻撃手段に早変わりするんだぜ」 「……強化ガラス越しに、研究に必要そうな機材がたくさん置いてあるけど、あれは人質になるかな」 「ああ、それは困るな。だがもう連絡は渡っちまった。取り消しはできねぇよ」 「くそっ……なるちゃん」 神経ガスというものは目に見えないものなのだろうか。 部屋に充満するより先に逃げ出すことしか手段が思いつかない。 「おいおい、どこ行く気だよ? 一緒に苦しんで死のうぜ」 「呼吸を止めるなんて馬鹿な真似をしたって無駄だぜ? 皮膚から吸収されるんだから逃げ場はねーよ」 「と思ったが、おかしいな……経過時間からして、刺さるような刺激臭がして来てもいい頃合いなんだが……」 再度、通信機に手を伸ばそうとした零二だが―――― 「«すぐお迎えに行くよ»」 埋込み式スピーカーから聴こえた不可解な一言。 ガスらしきものが充満する気配はなかった。 「……こいつは驚いた。てっきり侵入者はお前だけだと思ったんだが……別の目的で動いてる奴がいるようだな」 「……とにかく、神経ガスは流れないってわけだね」 「そんでもって、よくわからん奴が迎えに来るんだとさ。まったく、どんどん実験が先延ばしになっちまう」 「零二、俺たちをここから出してはもらえないかな?」 「NOだ」 いつの間に手にしたのか、零二は自分の首に注射針を刺した。 極太サイズの針を何の躊躇いもなく乱暴に突き刺せるあたり、零二からは“死”に対する恐怖心が欠けていた。 「“不死”にも弱点はある。馬鹿でもわかるが“閉じ込める”ことだ。海に沈めてもいいし、地の底に生き埋めもアリだ、宇宙を漂流させるなんてのもおもしろいな」 “不死”だからこそ陥る恐怖は、俺たち“一回きり”の命を持つ者には正確に理解できない。 「不死も自衛手段には気を遣うんだ。死なないのにだぜ? 笑えるだろ」 「やめろ零二っ、何の薬を打っているんだっ」 「すぐわかるよ……ッ! おぉ……キタキタ……ッ!」 注射液がみるみるうちに減っていく。 首の血管が浮き出しになる様は、まるでミミズが這っているかのようだった。 「っ……ハァ……オレの周りの化学者は、頭3つは抜け出た秀才ばっかだった……」 つり上がった口元からは血が溢れていく。 「凡人のオレがイニシアチブを握るには、オレ自身を実験台にするしかなかった……」 「“《フール》〈稀ビト〉”から抽出した遺伝情報を人工的に吸収することで“脅威”を手にする……移植免疫の問題もあるが、常人の身体じゃ純粋に副作用に耐えられない」 「だが……オレは別だぜ」 空になった注射器を投げ捨てた零二は、目まぐるしい速度で変異していった。 ――――喩えるなら脱皮だった。 早送り映像を見せられているように左右の腕が人ならざるソレへと変貌し、零二はあっという間に“人”を脱皮した。 「改造人間みたいでかっこいいじゃんか……」 「なんなら優真も一本いっとくか?」 「遠慮しとくよ」 つる植物をおもわせる右腕は、捩れた紐のようなツタを編み込んで取り付けたかのようだ。 対して左腕は、表面が蛇の鱗のような硬質なおうとつで埋まり、こちらも血の通った人間のパーツではない。 「平たく言ってしまえば、これは病気だ。重大な疾患だ」 「だけど……病んだ肉体が、必ずしも貧弱とは限らない。健康でないだけで、劣等ではない。そういうことでしょ?」 「わかってるな優真。偉人にはサヴァンも多い。あれだって一つの強さだ」 「ふふふ……」 「(――――ッ!? 香水をぶち撒けたような、胸が焼けつくようなイヤな感じの甘い臭い……)」 俺は仕事柄、鼻が鈍いけど、それでも花の蜜の数十倍の濃度の香りは嫌でも嗅ぎ取れる。 「何度も言うがな、あのオンナを素材として使うだけなら生死は問わねぇんだ」 喋るだけで放たれる劇的な蜜の臭い。 零二の口から漏れだすその匂いは、口臭ではなく、胃の環境に理由があるのではないだろうか――――? 「ひゅぅぅうぅぅぅうぅぅぅううぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ――――」 植物が華やかで蜜が甘いのだって、自然界で存在し続ける為にそうなっている。 零二から溢れる出す自信は、研究し尽くした“力”の把握力にある。 「なるちゃんっ! すぐにそこを離れるんだっ!!」 「……べつにいい……どうだっていいのよ……一歩だって、動きたくないわ……」 「ン゛ッ、グッ――――グォ――――」 潜水前のような長い呼吸が終わると、零二の貌が壮絶に歪んだ。 なるは“《アーティファクト》〈幻装〉”の反動で動けないのに対し、零二が明らかに《・・・》〈ヤバイ。 「くっ――――!!」 「ッブうぅぅぅぅうぅぅぅぅ――――!!」 上品さの欠片もない零二らしい《としゃ》〈吐瀉〉が、弾丸のように撃ち出される。 すでになるを護る為に駆け出していた俺は、吐き出された“球体”が目線の遥か上に向かっていることに気づく。 「(高い。的を外した? そもそもあれは、本当になるを仕留める為のものなのか?)」 油膜に包まれたような球体が吹き抜けの天井にぶつかる刹那――俺は、零二の表情を盗み見た。 「――――」 ゾッとした。成功を確信した《かお》〈貌〉と深淵の瞳に、俺の安堵感は掻き消えた。 球体が弾け、雨のように拡散した。 四の五の言ってる場合じゃない――――。 「…………え?」 跪いたなるに覆い被さって降り掛かる水滴を背中で受けるが――――案の定、雨は無害な水ではなかった。 「――――――――ッ!?」 一滴一滴が灼熱の針となって肌に刺さり、無数の穴を空ける。 「あぐ……ぁ…………っ…………っ」 熱い……熱い……熱いッ!! 頭の中が暴力的な痛みで埋め尽くされるが、俺の前には――――呆然と、微動だにしない“家族”がいる。 「…………痛くないのかなぁ……」 「何っにも、感じませーんッ!」 他人事のような感想を漏らすなるが、俺をもう一度“家族”として見てもらえるように強がる。ポジティブな笑顔で、跳ね除ける。 「余裕余裕っ、あーもう、全然っ! 全っ然、大丈夫っ!」 「………………」 「だからっ、なるちゃんはさ、俺の惚れ惚れするような活躍を特等席で拝んでなさい」 今は、いい。 今のなるは、とても弱い存在だから。 今までのなるに、戻してあげるのが俺の役目だから。 「嘘臭ぇなぁ優真」 「なにがさ」 「その液体をわかりやすく喩えるなら濃硫酸だぜ。肉の焦げるひでぇ臭いがその証拠だ」 「痛くないわけがないし、大丈夫なわけもない。叫び声を上げないのが不思議なくらいだ」 「凄いな……零二は」 「あ?」 「“《フール》〈稀ビト〉”になって“不死”を得ても、その“力”に甘えず、手段としてしか用いてない」 「この攻撃だって研究の成果の一つ。自分を追い込むことで勝ち取った能力だって言ったよね」 「その“手段”を生む、自分を実験台にした研究で、麻酔は使った?」 「……状況によるよ。麻酔があっちゃ取れないデータもある。やれることはなんでもやるのが、研究者だ」 俺が今、受けた痛み――――それ以上の肉体的苦痛を、零二は嫌ってほど味わってきている。 零二が実験に掛ける想いは、きっと狂人の域に達している。 「ったく、無駄に傷つきやがって。お前に当たらないように計算したオレの良心を返しやがれ」 「そこだけはさ、すっごいムカついてんだよね……」 「もし、なるちゃんの可愛い顔が爛れたら、どう責任取るつもりだったの?」 「別にちっとばかし顔が溶けてても、愛があればセックスできるでしょ?」 「そういう話は、してないんだよなぁ」 「だったらてめぇが稼いで美容整形でもさせればいいだろうが」 十分な広さがあるとはいえ、毒性の煙を吐き散らす零二と同じ空間に居続けることはできない。 人外の両腕が気になるが、優先して止めるべきは、どうかしちゃってる胃の中だ。 「ひゅぅぅうぅぅぅうううううぅぅぅぅぅぅぅぅぅ――――」 現実に前置きなんてない。零二が第二波を生み出そうとする。 「やめろよ、零二」 “大丈夫”。 “なんとかなる”の精神は俺に受け継がれている。 失敗は、しない。 「やめないなら――――俺は、やめさせなきゃならない。零二が奪おうとするなら、同じだけ奪っていいのが、自然の掟だ」 胸に手を当てる。 不安はなかった。 疑心はなかった。 奪う“力”には、抵抗する“力”で応じる――。 「零二がその気なら……俺は、優しい男のままでは、いられないよ」 雄叫びとともに抜き出したのは、時計の針を模した剣――――初見の“《デュナミス》〈異能〉”だ。 ならば長針と短針を握る俺の役割は、さながら時計本体といったところか。 「零二ぃぃいぃいいぃぃぃぃぃッッ!!」 「!?」 吸い込む、という動作は“溜め”を意味する。 躍りかかる俺の距離、速度、総合判断で零二は“溜め”を中断し、俺に向き直る。 「ッブううううぅぅぅぅ――――!!」 「問題ないっ!!」 人はそうそう、止まれない。 油膜の毒球体の標的にされた俺はその威力を知ってなお、瞬き一つせず、迫り来る脅威に向かって駆け抜けた。 「(俺は、俺の“力”も、俺自身も、疑わない)」 親交と信仰は、本来同じ意味合いと聞いたことがある。 硬く握ったブレードと親交し、俺に宿ってくれた“魂”を信じ抜く。 …………と。 前進を恐れなかった俺は、概念的なナニカを“跳躍”した。 走っていた時と同じ、車窓から覗くような周囲の光景とは別離された感覚。 「(遅い……?)」 吐き出された油膜の毒球体がふわりと浮かぶシャボン玉のような速度で向かってくる。 立ち止まって、光の屈折で虹色を放つそれを眺め、悠々と躱せるだけの余裕があった。 「……めっちゃ、カッコイイじゃん。キミの“力”なんだね」 「――やっちまったか」 「どこを見てるんだ零二? 俺ならここだよ」 「何っ――!?」 消化液で穴だらけになった床を眺めていた零二が振り向く前に、俺は行動していた。 「あっがぁっ!!」 「その厄介な口を封じさせてもらったよ」 槍の矛先のように鋭利なブレードで横っ面を串刺しにする。 が――――零二は怯まずに蔦の集合体のような腕で俺を払った。 「やっぱ凄いね……普通、痛みで反撃が遅れるもんじゃん……」 俺の与えたダメージは致命傷だったらしく、零二の顔が発火した。 発火は俺の“力”によるものではなく、“不死”による暫定的な死亡と再生が行われていると推測する。 「ッッ!!」 時間的な余裕が生まれ、次なる手に移ろうとしたが、蔦で払われた腕の痛みに幹部を見た。 危険な伝染病に掛かったかのように紫色に膨張し、小さなぶつぶつが無数に浮かんでいく。 「……………………」 1,2,3秒――躊躇いは3秒で済ませた。 俺はそれを“毒”と判断し、幹部を斬り落とした。 「…………再生完了。次の漆原零二は、きっとうまくやるでしょう」 「ははっ、早いっての……」 本当に何事も無く再生してしまうのだから、なるを連れて逃げる時間稼ぎにすらならなかった。 “致命傷”を与えられた零二より、軽く払われた俺の方が不利になるという状況――“不死”という力は、あまりにも強すぎる。 「(考えちゃ、ダメだ。大丈夫、俺の“力”の方が、優れてる)」 「どうしたんだ優真? 崖から落ちでもしたのかってくらい、血だらけのアザだらけだぜ」 「零二、かかって来いよ」 「ああ……いいよ。お前の引かない心と、その気迫に免じて……もう手加減はしねぇぜ」 休憩なし、待ったなし、容赦なし、不死の研究者の猛攻。 自分の研究成果を信じて疑わない精神は、零二を大振りにさせる。 しかし躱して零二の首を切り落としたとしても、待っているのは絶望的な再生だ。 「ッ! ッ! ッ!!」 遅い――――。 1秒の出来事が10倍――――10秒近くに感じられた。 そして俺は、与えられた10秒の中を自分でも驚くほど冷静に活用できた。 「……また躱した…………?」 「ふぅ……そんなもん?」 「妙な“力”だ。お前は身体能力で躱してるわけじゃない。“認識”してから躱してる」 「言わばSTGの初見殺し。たった一つの抜け道を瞬時に見つけ出すなんて偶然がありえるとは思えないんだがな」 「その“力”、なかなか奥が深そうだ。お前ってやつは研究者の心を魅了しやがる」 おっかない顔だ。俺まで実験の材料と思い始めたのかもしれない。 「……今ならまだ、やめてもいい。俺はなるちゃんを連れてここから出たいだけだ」 「そういうとこが青いんだ。もう遅いんだろ? 始まっちまったら、決着が必要なんだ。どんな形であれ、犠牲を含んだ決着がな」 「俺はまだ童貞だよ。だからいいだろ、ちょっとくらい青臭くたってさ」 「……言うじゃねーか。だがな、背伸びして大人の遊びに首突っ込んじまったら後戻りはできねぇんだよっ!」 「(苦しいね零二。同じ手をそう何度も食わないって)」 「…………ふっ」 「!?」 幾重にも編みこんで“腕”に見えていた蔦が、伸びてくる途中で網のように散らばった。 「どうする優真!? 避けられるか? かするだけで猛毒に侵されるぜっ!!」 「(大丈夫、大丈夫だっ)」 ランダム性の高い蔦の網に対応する為に、俺は双剣を握る。 「――――応えてくれよ、俺に宿る“魂”さんッ!!」 思考の壁を飛び越え、時間の支配から抜け出す。 コマ送り映像のように鈍化する世界。 視界に広がる毒蔦の網目の細部まで認識できるほど冴え、手でつまんで元の位置にもどせるほどゆったりと動きが刻まれる。 「(わかった。わかってきた、この“力”は時を止めてるわけでも、操っているわけでもない)」 口に広がる鉄の味は、いつの間にか流れていた鼻血が上唇まで垂れてきていたから感じるものだった。 「(鼻血……さすがにバケモノになった零二相手に興奮してるわけじゃないよな……)」 「(もっと単純。頭の回転速度による熱で、鼻血が出てるんだ。人間の限界を超えた脳の活性化。本来使われるはずのない、何十パーセントの潜在能力を開花させたんだ)」 「(なら、もっと意識しろ――――)」 全身が燃えるように滾り、その熱を全て双剣を握る掌へと移していく。 「(もっと――――もっとだッ!!!)」 途端。大津波の如く押し寄せる神経痛。 脳を抜き出して溶解炉に放り込まれたような想像を絶する痛みの代償を払い、俺は視た。 網目と網目の境界線――――逆境を覆す、一手。 「うぉぉおおぉおぉぉおおぉぉぉぉぉぉッッッ!!」 「なっ――――今のを躱しただとっ!?」 「それだけじゃない……避けるだけじゃ、次の一打を躱せなくなるからね」 「グッ――――!?」 双剣の斬撃で、つる植物化した蔦の腕が輪切りになって床を汚した。 「そうか……抑制シグナルを外す事で生じる人間本来の力……自律神経の異常活性によるノルアドレナリン分泌が引き起こすのか……?」 腕を失った事など思慮の外――零二は俺の“力”の考察に意識を向ける。 「そいつは人間工学の最終進化系だ。お前は特に考えてはいないだろうが、実際は一瞬であらゆるシミュレートを脳内で行っている」 「演算された総合データから行動可能かつ好展開になりうる状況を、完璧な動作効率によって作り出す。今のお前には、微塵の“無駄”もなかった」 「零二は凄いな。俺よりも、俺の“力”に詳しいみたいだ」 「恐ろしいよ……その“力”が構造解析がされれば、人類の時代が終わりかねない。文明が極端に発展する危険は計り知れないんだよ」 「(本当なら、おしゃべりなんかしていないで続け様に攻撃するチャンスなんだろうけど……)」 蓄積した疲労が俺の動きを緩慢にさせていた。 頭を使った真剣勝負は、単純な運動よりも脳を疲弊させることは将棋やチェスで証明されている。 この“力”の欠点が、多大な恩恵から来る反動であることは、零二の考察に含まれているだろう。 「(それでも、行くなら今しかない――!! 畳み掛けるんだッ!!)」 「ッッッ!!」 「危ッ――――!!」 苦し紛れに吐き出された毒球体は充分すぎる脅威となるが、《・・》〈偶然〉にもこの攻撃は外れた。 「(打ち込める――もう片方の腕も、落とせる)」 俺は殺さずに無力化することで“不死”による再生をさせずに決着まで持ち込むことができると踏み、残る左腕に双剣を振りかざした。 「なっ――――!?」 鉄――以上のナニカ。 蛇鱗を模した皮は、《ダイヤモンド》〈モース硬度の頂点〉を覆す鉱石だ――と俺は思った。 「使わせるなよ、奥の手なんだから」 双剣を弾かれた反動で無防備な俺に対し、零二はおもむろに蛇鱗の掌を向ける。 刹那――脳裏によぎる予感。全身が粟立った。 「(零二は……ずっと……左手を、使っていない―――― 《・・・・・・・・》〈常に、握っていた〉)」 零二は果たして――本当に毒球体を外したのだろうか。 この至近距離で、“力”の連続使用ができないと考察した上で、無防備な俺を狙っていたのではないだろうか。 「誤って自分で見ちまうと、“不死”でも危ねぇんだ。なにせ、 “不死”のオレでも、体感しようとは思わなかった代物だからな」 「――死とニュアンスの違う終わりに狂え」 五指が開かれる。 掌の窪みに埋め込まれた宝石のような“瞳”。 「見ては、イケナイ、コレはダメだ……ヤバイ――」 頭ではそうわかっていても、その研磨されたラブラドライトのような角度によって変化する色彩に魅了される。 “瞳”と視線が交差した瞬間、俺は“瞳”の深淵を覗きこんだ気がした。 「――――――――ッ!!」 なんだ……。 何も……起こってない……? 「どうしたぁ優真? さっきまでの威勢はどうした? やる気がねぇなら、あそこで休んでるオンナからヤっちまうぜ?」 「何言ってんだよ……俺はバリバリ戦えるってばっ」 双剣を握り“力”を発動させて思考速度を上げる。 頭に熱が上り、スロー再生される映像の中で零二の隙を捉える。 「(もう蔦の心配はしなくていい、冷静に、脚を狙うんだ)」 「――ずいぶん遅ぇな」 「………………」 理由のわからない空振りに、声も出なかった。 「何で避けられるか、か?」 「はぁ……しょうがねぇな。何もしないから、自分の胸に手を当てて考えてみたらどうだ?」 「………………」 「…………え?」 触れた胸の硬さに動揺する。 この感触――覚えがある。 蛇鱗を模した皮に弾かれた時と同じ、《ダイヤモンド》〈モース硬度の頂点〉のような感触。 「石に、なっている……」 「《モルモット》〈実験動物〉は数秒。人間なら数分で全身が固まるが、体重の1/4が固まった時点で呼吸ができなくなる」 「こんなの、アリかよ……」 ドクン――――鼓動とともに石化が広がっていく感覚があった。 「怖いか?」 じわじわと蝕まれる恐怖感は、捨て去ろうとしても頭にこびり付いて離れない。 「安心しろよ、解除する方法はある。そのまま少し、耐えてろ」 「オレは先にやることを済ませるとしよう」 「おい……やめろ……」 「優真。お前の足枷を外してやる……」 「なるを、狙うなっ!! やめろっ!!!」 石化が脚に回るよりまえに駆け出すが、鈍くなった身体は言うことを聞かない。 「世界は、人間を中心にできてんだよ」 「がっ――――!?」 零二に軽く脚を掛けられただけで転んでしまい、太腿まで進行した石化によって立ち上がることができなくなる。 「(俺は……どうすればいい)」 「(俺に今、できることは、ないのか…………!)」 このままでは、なるを失ってしまう。 昔と同じように、家族を失ってしまう。 「(俺は――祈らないぞッ。絶対にッ。自分の力で“なんとかする”ッ!!)」 不死身故に死を厭わない攻撃はいくらでもある。 いくら“《アーティファクト》〈幻装〉”に等しい“《デュナミス》〈異能”を持つ優真くんとはいえ無限に防ぎきれる〉わけがない。 それでも優真くんは何か別のものでも視えてるのではないかというくらい、紙一重で全てを躱していた。 漆原零二は肉体こそ破壊活動に長けた“変異”を遂げてはいるが、武術などを用いた効率的な戦いはしていない。 優真くんは避けるだけではなく、鬼気迫る表情で漆原零二の片腕を切り落としていた。 だが、結局、優真くんは敵わなかった。 「…………」 私はあいつを殺して殺して殺して、殺しまくった。 あいつが仕向けた連中が私の故郷を蹂躙したように、同じ数だけ殺してやろうと思った。 だけど――――“耳鳴り”はより強くなるだけだった。 ついには“《アーティファクト》〈幻装〉”の使用限界を越え、この有様だ。 「(私は結局、何をしたかったんだろ……)」 再生の炎と共に蘇る不死鳥。 私は復讐を遂げられない焦り、虚しさ、絶望に蝕まれるだけだった。 届かない“終わり”という絶望の先に待っていたのが、この現実だ。 「……ところで優真、一つ思ったんだが――――お前の導いた解決は“オレを殺すこと”なのか?」 「何が、言いたいんだよ……」 「殺し、殺されるだけの関係じゃ、そこの“《イデア》〈幻ビト〉”が抱えた復讐心と同じ確執が生まれるだけだろう?」 「(……そうよ。そうだわ……それこそ私と同じじゃない)」 漆原零二が初めていい事を言った。 私に殺すなと言っておいて、殺そうとしている優真くん。 私に奪うなと言っておいて、奪おうとしている優真くん。 矛盾――――私の為に殺す事が許されるのなら、故郷の為に殺そうとする私を咎めるのはおかしい。 「“《フール》〈稀ビト〉”になれば、心身ともに変わらずにはいられない。否応なく濃い時間を過ごす事を強要される」 「お前は度重なる危機を切り抜ける為に、自己保身を優先しなかったか? ここまで、誰も殺さずに来られたのか?」 「そうよ……漆原零二の疑問はもっともだわ……だって、優真くんは殺したじゃない……」 あの時だって、そう。 引くに引けない状況に陥った私に代わって、優真くんが《・・・》〈殺した〉。 あれだけの一撃を受けた“《フール》〈稀ビト〉”が生きているとは思えない。 そこに殺意がなかったとしても、手を下したのは優真くんだ。 「…………はぁ……はぁ……」 生身の私達は戦うだけで心身を摩耗する。 不死の能力者にとって、消耗はそれ自体が積立貯金だ。 「……無駄な会話だったな。さっさと終わらせよう」 「すぅううううううぅぅぅうぅううぅぅぅぅ――――――ッ!!」 次の一撃で私が殺されるのがわかった。 いいけど。 私は疲れた。 助かろうとする気力もないし。 助けられる事に、意味を感じない。 私が殺されて、“素材”として実験される――――でも結局、死後の世界なんてないわけだし、終わってしまえば平等だ。 「(いいよ、もう。全部、どうだっていい。さっさと殺して、終わらせて)」 私は目を閉じて、終わりを待った。 「すぅううううううぅぅぅうぅううぅぅぅぅ――――――ッ!!」 頭が重い。もちろん身体も。全身が悲鳴をあげている。全身に石化が回っている。 それでも、諦めたりはしない。 「零二……俺は、誰も殺してないよ。ついさっき、殺人者を否定されたばっかりだ」 零二の思案はすぐに済んだ。 俺の言葉を深く考える事、それ自体が目的の精神攻撃と判断したらしい零二はさっさと毒球体の発射準備に入った。 「ブッ、ハァァァァァァァァァァ!!!」 しかし。 捲れ上がった床がなるの代わりに毒球体にぶつかるという、奇跡が起きた。 違う――奇跡なんかじゃない。 「………………あぁ……?」 未知の状況に直面すると、不死とはいえ人間は反射的に硬直する。 零二ですら、ぽかんと口を開けたまま、がっちりと固定された脚を見つめていた。 「『ハハッ! ビンゴッ!!』」 いわく、その“腕”は、殺気に反応して殺戮衝動のままに動く。 「……俺は、形の無いものには、いもしない神様なんかには、絶対に祈らないよ……」 リノン以外の《・・・》〈侵入者〉が誰なのかは、とっくに気づいてた……“腕の怪物”で連想できるのは、一人しか心当たりがいなかったから。 その人物は、旧市街ではコンクリートの下に潜るという荒業を見せた。 だから、もしかしてとは思っていたが、やはり地下世界はお手の物だったようだ。 「“腕”の“《フール》〈稀ビト〉”……生きてたっていうの……?」 「てめっ、誰に断りを入れてオレの脚をつかんでるんだ、離せっ!」 「『うっ、るせぇーー!! 誰に断りを入れて、俺の身体をこんなにしやがったんだよっ!!』」 「っ!? この実験動物がぁぁぁッッッ!!?」 「『ハッ、筋張った細ぇ脚ッ! 研究熱心なのはいいが、カルシウム足りてねーんじゃねーか? 天才様♪』」 「『出るタイミングを伺ってたんだよ。不死身? ハハッ! 構わねーぜ? 無限に殺し続ける装置なんか、いくらでもあんじゃねーか。原始的なとこで生き埋めとかな』」 「うっ、ぐぁ……あぁぁぁぁっ!!」 どんな抵抗も無意味に終わる――――零二にはまるで蟻地獄のように感じられるのかもしれない。 「どうして……」 「『勘違いだけはすんなよ。別にお前らを助けに来たわけじゃねぇ』」 「あなた、私たちに殺されかけたじゃない。優真くんの一撃で、死んでもおかしくなかったっていうのに……殺し合った仲なのに……」 「……サンキューな」 「『缶コーヒーの礼とでも、思っておけよ』」 「なんで……なんで……そんな気軽に会話ができるの……」 俺と“ⅩⅡ”はここで会う約束をしたわけでもないし、生きていること自体、さっき知ったばかりだ。 その関係は、なるにとっては自分と零二の投影――殺しあった2人が話し合う事が、考えられないのだろう。 「優真くんは、私をかばって、あなたを殺そうとした。忘れたわけじゃないでしょう?」 「『……うっ、るせぇ大馬鹿野郎がいるなぁ』」 “ⅩⅡ”は、がっちりと零二の脚をつかんだまま、床に引きずり込んでいく。 「『“音”使いと俺がぶつかり合えば相打ちになるのは明白だった。お互いに損しかない闘いとわかっていて、それでも退けなかったからだ』」 「『こいつが変えようとしたのは、あの場に居合わせただけで感じ取れた“最悪”の結末だ』」 「何を言っているの……? 私が言っているのは、優真くんが“私”を選んで、あなたを見捨てたっていうことよ」 「『100%死ぬ未来を、99%死ぬ未来に変えようとするのが人殺しか? 違ぇだろ?』」 「『最善を尽くしたが結果を出せなかった医者を誰が呪う? 俺が今、生きていようが、生きていまいが、こいつを人殺しなんて言う奴は――糞以下だぜ』」 なるが押し黙ると、“ⅩⅡ”はさらに勢い良く零二の脚を引いた。 「『チィ……』」 「……んだよ、コイツ腐りかけの身体でケンカ売ってきたのか?」 “腕”の炭化が始まった。 その速度は、以前、拳を交えた時のそれを遥かに凌駕する速度だった。 「『誰のせいでこんな短命になったと思ってんだよ』」 「ハハッ、オレだろ? 所詮は実験体。不死であるオレの《モルモット》〈喰い物〉にされてりゃよかったんだ」 「『うるっ、せぇ声がしねぇ分、冷たい壁の間で白骨化するのも悪くねぇよ』」 「『死にゃぁ――――やっとこの“腕”から解放されるんだ……こんなに嬉しいことは、ねぇよ…………』」 “ⅩⅡ”の“腕”が零二の五指をムリヤリ開いていく。 「ッ! 何をッ!」 「『俺は死に損ないだがな……てめぇに一矢報いる手段が、ないわけじゃないんだな……っ!』」 完全に炭化した“腕”で懸命に零二の腕を固定する“ⅩⅡ”。 “ⅩⅡ”は床下で状況を把握し、このタイミングで俺に賭けた。 「充分だよ……」 肩に力が入ることに感謝した。 ほとんど石化していたけど、片腕が、かろうじて動く。 この一瞬を、絶対に無駄にしたりしない。 「行くよ、ありったけでっ」 この一投に、全身全霊を注ぐ。 思考の“加速”を限界まで高め、極め、膨らませ―――― 「あぁぁあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」 双剣が槍のように掌の“瞳”に突き刺さった。 「ッッッ!!!」 それはそれは疑いようもない破壊力でもって。 「穿けぇぇええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!!」 「うぁああああああああああああああっ!!!」 “瞳”を――“瞳”といわず腕を。 腕といわず、肩を――――。 肩と言わず全身を――――粉々に吹き飛ばした。 それでも――――――――足りない。 これで足りたと思えるほど、俺は零二の“力”を過小評価していない。 「はぁ……はぁ……はぁ…………!!」 零二を絶命させた事で石化は解除されたが、双剣の“力”を酷使したせいで視界が霞む。 気を抜けば疲労で倒れてしまうし、焼き切れそうな脳の痛みに耐えるのも限界だった。 「再生不可能なほどの破壊力、だったと思うんだけど……そういう事じゃ、ないんだよね」 「残念だが、残機は無限だ。コンティニューできないのは、お前だけだよ」 炎とともに零二が新品の身体を取り戻していく。 「いずれは“《トゥエルブ》〈ⅩⅡ〉”のように“《フール》〈稀ビト”の寿命が来るかもしれないが、今はその時〉じゃない」 「よくやったよ優真。お前は本当に凄い奴だ。ただ、相手が悪すぎた」 「俺は、絶対に、なるを助けるんだ」 リターンが大きいことは承知している。 「“力”を連続で使用するなんて、初めてのことだけど……」 「まぁ――――“なんとかなる”でしょッ!!!」 大丈夫。絶対に。出たとこ勝負が、俺の真骨頂。 “力”は取り出された。 だが――それは曰く付きの代物。 なるを救う為に力を貸してくれなかった“力” 「なぁ……俺に使われろよ」 「絶対、満足させてやるからさ……っ!!」 篭手が笑んだ――――気がした。 それは表情としての笑みではなく、使い、使われる関係だからこそ伝わってくる言葉では説明できないもの。 「零二」 嬉々として見守るような篭手とともに、一息で零二を捉える。 「キミを凍らせることはできるんだ」 「なっ、んだと……!?」 半身が氷結する。否――――復元中の炎が、氷結した。 「そいつは何だ……物質的なものだけでなく、“力”さえも凍らせるってのかよ……!」 「今からキミを、死なない程度に凍らせて動けなくする」 「ゲーム機自体がフリーズしちまったら、コンティニューの有無なんか関係ねぇわな……」 俺が嘘を言っていないとわかったのか、零二は力を抜いた。 「なるほどな……オレを生かしたまま場を収めるとは、見事だよ……」 「残念だけど、実験はおあずけだ。諦められなかったら、俺たちを見つけなよ。何回だって相手になってやる」 「どう思う? 優真。オレをどう思う? こんな化ケ物みたいな身体のオレが、英雄か? 救世主か? 天才か?」 「凡人だよ」 「どこにでもいる、ナンパ好きの、社員になりたがってるフリーター。万年寝不足の――――俺の友達だった人だ」 「…………そうか……」 「死ぬことに慣れた瞬間から、オレはきっと踏み外してたんだろうな……」 見るに耐えない、情けない化ケ物の容姿と――――楽しかった頃の零二が重なる。 「……氷漬けにでもなんでもしろ。この遊びは、お前の勝ちだ」 「………………」 「…………早くしろよ、勝者……」 ………………勝ち? 勝ち……勝ちって、何が勝ちなんだ? 胸の高鳴りが訴えてくる――――このままでいいのか、と。 「終わったの……?」 「………………」 終わった……と言っていいのだろうか。 今なら、零二を完全に凍らせて、なるを連れ帰ることもできる。 だけど……。 置き去りに……。 誰かを置き去りにするのも、されるのも、もう―――― 「おい……早くしろ……オレは負けを認めたんだぜ」 「………………」 「…………は?」 「え…………?」 自分でもわけのわからない感情。 “なんで零二と殺しあわなきゃならないんだ”という、ガキみたいな感情がそうさせた。 発作のように、現実を逃避するように、俺は篭手を消した。 つまりは。 俺は導き出した“計算”も、“ⅩⅡ”の命掛けの“固定”も、氷漬けにできる篭手を呼び出せた“運”も――――全てをふいにした。 「それを仕舞うってのは……舐めてるわけじゃ……ないんだよな……」 零二は、あっけに取られた様子で、ぴくりとも動かず俺を見ていた。 『自分が何をしたかわかってるのか』という当然の問を口にできないほど、零二は戸惑っていた。 「……ごめん、自分でも、わかんない」 零二を殺す手段は、誰の手にもない。 だから氷漬けにして置き去りにするしかなかった。 練った案は、完璧だったと思う。 なのに――――できなかった。 あっという間に零二は全快した。 左右の腕もすっかり元通りだった。 「みすみす、殺されるようなもんだよな……わかってる、敵同士だし……でも……」 「動けなくなった零二を実際に見て、なんか、凄く……違うって思った」 「もう一度戦えるだけの体力があるのか?」 端的に尋ねられた俺が曖昧に首を振ると、零二はさらに困惑した。 「おい……どうする気だよ? 何がしたいんだよ……なんで勝ちを逃すんだよ……」 勝ち……負け……勝ち……あぁ、そうか。 やっと、しっくりきた気がする。 「俺たちが協力したり、競ったりするのは……ナンパだけでいいじゃんか……」 「――――」 「傷つけあって……勝ち負けなんか……決めたくないんだ……」 「俺は零二を……友達だと思ってる……から…………」 今までの全てを否定し、泡沫に帰す、軽はずみな行動。 わかってる。わかってるけど……これが、俺だった。 俺という甘えた人間だった。 「ここまでやりきっておいて、“情”の言葉ひとつでひっくり返すとはな……やっぱ童貞のやることは甘ぇよ」 「零二……?」 「どうかしてるくらいに、甘々だ」 零二はスキャン機の隣にあるコンピュータを操作し始めた。 ピアノ奏者のようなタッチで、目まぐるしくモニターに文字列が表示される。 「ほいよ……アップロード完了。ネット拡散ってのはすげぇからな、ものの数分で世界中の研究者が目にするだろうよ」 「あのオンナを使えば、大量生産も現実的だったんだが、それは後任の連中の課題にとっておくとしよう」 「一体なにをしたの?」 「“《エーエスナインプラス》〈AS9+〉”の製造方法を流出させたんだ」 「え……?」 研究データは零二達研究者にとって命より重いものじゃないのだろうか。 「オレみたいな凡人でも“《フール》〈稀ビト〉”を“《クレアトル》〈現ビト”に戻すことができたんだ」 「いずれは“《イデア》〈幻ビト〉”そのものを消す薬が開発される。その時こそクソッタレな世界は終わり、人間様が返り咲く」 「オレが好きなのは、混じりっけない《・・》〈人間〉なんだよ」 「零二……」 操作を終えた零二が、コンピュータから何かを抜き取ると、なるの元へ歩いて行く。 俺はそれを止めようとはしなかった。 何故だか零二が危害を加えないという確信があったから。 なると2、3会話を済ませた零二は、俺の元に戻っては来なかった。 「人生は長い。想像してるよりも、ずっと、ずっとな。その考え方がいつまでも通用すると思うんじゃねーぞ」 「……零二……どこに行くんだ?」 「来た道の逆から出ろ。セキュリティチェックは全部はずしておいてやる」 「零二はどうするんだよ」 「研究対象への執着をやめた研究者が取る行動は、いつだって一つだろうが」 零二が扉の向こうに消える。 息を呑んで強化ガラスに近づくと、向こう側に、零二が立っていた。 一点の曇もない、目標を達成した《・・》〈人間〉の顔で、立っていた。 「……すーーー…………はーーー…………」 「泣いても笑ってもラス1かぁ……この絶妙の配合……たまんねぇぜ。オレの“《エンジェル》〈Angel〉”は最高傑作だぜ……」 「ふーーー……優真……やっぱお前はスゲェよ……複数の“《デュナミス》〈異能〉”から、破壊ではなく、この場を収める為の力を選び出すとはな……」 「人間って奴の可能性を、言葉じゃなく身体で感じた……気持ちの上で相手を尊敬しちまったら、戦う気になんかならねーよ……」 「ふーーー……さぁて、と。活躍の場を探す旅にでも出るか」 「次は地獄か、天獄か……まぁどちらにせよ大丈夫。次の漆原零二は、きっとうまくやるでしょう」 “《イデア》〈幻ビト〉”差別主義の研究者の流血とともに、俺の体力も限界が来た。 「……《・・・・》〈死ねない〉ってのは、嘘だったのかよ」 零二自ら首に押し当てたナイフを横に引く――――ただそれだけで、零二が起き上がることはなかった。 「馬鹿野郎……」 「……漆原零二は、私の所に来て、こう言ったの」 「『これから“《エーエスナインプラス》〈AS9+〉”の効果を見せてやる』って」 つまり零二の生み出した新薬は、大成功だったというわけか。 なるを用いた実験は、新薬の成功率や大量生産に関係するもので、物自体は完成していたのか。 「最後の最後、身を持って証明するなんて……研究者としては本望だったのかな」 「わからないわ。どうしてあいつは、自ら死を選んだの……?」 「独占してきた研究を全世界にバラ撒いたんだ。零二は、自分の思想を受け継ぐ者が現れると確信したんじゃないかな」 「零二は“《アーカイブスクエア》〈AS〉”の中枢にいる人物でありながら、“《イデア》〈幻ビト”を軽蔑していたんだろうね」 「“《フール》〈稀ビト〉”を人間に戻す研究に従事して――――ゆくゆくは、“《イデア》〈幻ビト”の存在をこの世から消すことを考えていたってわけね」 人間中心主義を動力源に、“《フール》〈稀ビト〉”としての“力”に悩まされながらも知らず知らずに結果を出して“英雄”となった。 その背景には“ナグルファルの夜”が関係しているのかもしれない。 零二が“《フール》〈稀ビト〉”になり、不死になった事が関係しているのかもしれない。 どちらにしろ、零二は零二の信じる道を突き進み、結果を後世に残し――――悔いなく死んだ。 「そこまで熱心な研究者が私に近づいてきたのに、優真くんは止めなかった……」 「なるちゃんの方に歩いて行った時のこと? 止める気力がなかったのもそうだけど……まぁ、危害は加えないってわかったよ」 「零二の目……一緒に遊んでいた時の、裏表のない瞳にもどってたんだ。少なくとも俺には、そう映って見えた」 「…………そう……」 「あいつは、勝手に人の故郷を殺戮して、勝手に研究に満足して、勝手に死んだってわけね」 「私に一言の断りもなく……謝りもせず……殺させてもくれず……消えていなくなったのね……」 零二は生涯をやりきった。 対して。 なるが手に入れた物は“虚無”だった。 「私の“耳鳴り”は――――あいつが死んでも“死”そのものを認めてない。あいつを殺せって悲鳴は、止まらないわっ!?」 なるが最初に掌を血で染め上げるはずだった人は、もう、この世にはいない。 脅威は去ったが、なる自身の解決は何一つされていなかった。 「なるちゃんは、自分の手で零二を殺せていたら、どうなってたと思うの」 「心機一転、次は誰を殺そうかとウズウズするような、快感と焦燥を得られたわよ」 「だって人間は全員、あんなヤツを“英雄”と呼ぶ愚か者だもん。私の故郷の死によって得た命で生活してるんだもんっ」 「そうだね。零二を殺したら、その時点でなるちゃんは、完全に走りだしちゃっただろうね」 「もう、頭が、おかしくなりそうなのよ……私は、人間が好きだったのに……じゃあ、何を信じて生きていけばいいっていうのよっ!」 「でも、間に合った」 「……間に合う?」 「だって――――なるちゃんはまだ、誰も殺しちゃいない」 「零二を自殺に導いたのは、俺だよ。俺が殺したも同然だ。なるちゃんは、手を下してはいない」 「だからもう、そんな顔をする必要はないんだ……」 「何よ……今更、もどれっていうの? 私がした酷い事を忘れたの? 私はもう、目的を失った抜け殻よ」 「なるちゃん……キミはどうして“《ディストピア》〈真世界〉”にやってきたんだ?」 「…………私は……」 「俺と零二は“《フール》〈稀ビト〉”だ……“《イデア》〈幻ビト”のキミとは決定的に違う」 「不死が“力”だとしても、寿命はあるはずじゃん」 「人なんか、誰だって、俺だって、時間とともに老化して、勝手に死ぬんだよ」 「なるちゃんが手を下すまでもなく、黙って放っておけば、死ぬんだよ」 「…………私が……私個人に、殺す理由があったの……漆原零二に絶望を味わわせる事が、皆の悲願だったのよ……」 「だからそれは、俺がこうして終わらせただろう?」 零二との決着はついた。 その死も、俺が背負った。 もう、なるが縛られる理由はない。 「なるちゃんは、時間じゃ死なない。だったら、生み出していかなきゃ」 「書いてよ、小説」 「え……?」 「その手で生み出せばいいじゃないか、新しい家族をさ」 いつか言っていた――――小説を投稿する理由。 人の想いが“《イデア》〈幻ビト〉”を生む――なるの生み出したキャラクターが“《ユートピア》〈幻創界”に芽生える。 「無理よ……できっこない。そんなもの、人間の為に犠牲になる存在を生み出すだけじゃない」 「なるが零二のように信じて突き進めるのなら、故郷にいた仲間たちを蘇らせることだってできるかもしれない」 「ペンが剣よりも強いって言葉の真意を、思い知らせてやってよ」 「でも……私は、優真くんにもらった万年筆でさえ……壊してしまったのよ……?」 「誰かを殺して、多くを救った零二は、公平な目線で見れば間違っていたとは思えないけど」 「誰も殺さずに、多くを生み出そうとしていたなるちゃんの夢には――――誰も敵わないってわかる」 「………………」 「それが、なるちゃんが持っていた、たった一つの“軸”じゃないの?」 「“軸”だけは失っちゃダメだよ」 なるは黙って俺の言葉を噛み締めていた。 なるは奪うことではなく、生み出すことができると俺は信じている。 「優真くんは……馬鹿ね。私を見殺しにしていれば、漆原零二から“《クレアトル》〈現ビト〉”に戻れる新薬をもらえたのに……」 「いらない……なるちゃんと出逢った運命と、決別するつもりはないから……」 あれ……。 「なるちゃんは……か、家族だから……」 立っていられない。 「あれだけ頑張ったんだもん、もう限界よ」 これから、なると一緒に脱出しなくちゃいけないのに。 「……あ……」 霞みゆく視界の中、なるはようやく笑みを返してくれた。 「優真くんの言いたいことは、凄く伝わったわ」 だけど、俺は……締めくくる言葉を伝えてない……。 なるちゃんの、一番忘れちゃいけない部分を、一番惹かれる魅力を、思い出させてあげられていない。 「でも結局――――“耳鳴り”はやまないのね……」 優真くんは糸の切れた人形のように崩れ落ちた。 逆に今までどうやって立っていたのかが不思議なくらいだ。 私を助けたい一心で、気力だけで身体を支えていたのだろう。 「……本当に素敵な人。後戻りできなくなった私を、それでも許してくれるのね……」 「こんな……まだ気持ちを引きずっている私に、目的まで思い出させようとしてくれる……」 不完全燃焼となった復讐が途切れない“耳鳴り”となり、私に新たな一歩を踏み出させようとしない。 情けない。 この局面まで来て、踏ん切りがつかない自分は、あまりにも憐れだった。 そしてそんな私の為に、今後も辛い思いをし続ける優真くん……。 「あなたが追われている理由は、あなたが特別な“《フール》〈稀ビト〉”だから……」 「もう私は、あなたとはいられない。一緒にいては、いけない……」 私はやっぱり“人生”に意味があるとは思えなかった。 そんな光のない私に付き合わせるのはあんまりだ。 だから漆原零二が『使うべき相手を間違えるな』と言って渡してきたコレを……。 「せめて……あなたを人間に……それで、私達の関係は消える……」 「っ……なに……?」 施設全体を襲う大規模な震動。 逃げ場のない地下施設において災害等は脅威となる。 「――――慌てなくても平気」 「誰っ!」 「構えないでよ。ちょっと支柱を壊してきただけ。《うえ》〈実験施設〉が崩れだしたから、ボクも早いとこやることやらなきゃにゃ」 「ここは……長く持たないってことかしら」 見覚えがある。この子、湖で“《ステュクス》〈重層空間〉”への入り口を開いていた子――――“《イデア》〈幻ビト”だ。 目を合わせただけでこの重圧――――疲労した私の敵う相手じゃ……いや、万全の状態だとしてもやりたくない相手だ。 「漆原零二に用だったのなら、残念ね。彼は死んだわよ」 「嘘ついたってダメだよ。あいつはいくら死んだって――――ああ、いや、なるほど……」 一人でに納得する。飲み込みも早いようだ。 「やっぱり来て正解だったにゃ。“《エーエスナインプラス》〈AS9+〉”は開発者本人が自殺するために使られたってわけだにゃ」 「さぁ。あんなヤツの考える事がわかるわけないじゃない」 「それじゃ――――さっさと出しなよ」 ――――見られていた。 《・・・・・・・・・・・・・・・・・・》〈どっちだ、どっちが見られていた……?〉 「これは私の故郷と引き換えに作られた薬よ。ただで渡すと思う?」 「おおっと、割られちゃ困る。その薬には利用価値があるからにゃ」 今、私が立たされている状況は、いかに目の前の化ケ物から優真くんを守るか、その一点に尽きる。 私の役目はここまで付き合ってくれた彼を生きて地上に帰すことだ。 「ところでちらちらとその死に損ないを見ているけど、大切なのかい?」 言われ、つい視線を優真くんに向けてしまった、その刹那。 「――――――――」 背中が壁に叩きつけられていた。 軽い《のうしんとう》〈脳震盪〉。 何をされてこうなったのか全然わからなかった。 ただ目の前にいる者の強大さだけが身に染みた。 「今のが見切れないほど疲労しているなんて、何をそんなに頑張ってるのやら。ボクには理解できないにゃぁ」 無い……。 あの瓶が――――無い。 「にゃはは♪」 名も知らない“《イデア》〈幻ビト〉”は摘んだ瓶を振り動かしている。 唯一の交渉材料を奪われてしまった。 「彼……だいぶ成長したにゃぁ。ボクにぶっ殺されたくて育ったのかにゃ」 「以前の優真くんを知ってるの?」 「ああ。彼が“《フール》〈稀ビト〉”の自覚もなく、“力”の発現もできなかった頃から、ボクは目をつけていたんだよ」 「キミと“《エンゲージ》〈契約〉”して正式に“《フール》〈稀ビト”として目覚めたのかにゃ?」 「……ええ」 “《エンゲージ》〈契約〉”を認める事は重罪だが、どちらにしろ優真くんは殺されてしまう。 だったら、私だけ責任逃れをするような事はできない。 「災難だにゃ。“《フール》〈稀ビト〉”はぶっ殺さなきゃいけない。つまりは、キミが殺したも、同然だね」 「やめてよ……彼は関係ないでしょ……」 「お? 立つんだ。よろよろなのに。健気だにゃあ……」 当然だ。寝ている場合じゃない。 「そういえばキミ――――さっき“故郷と引き換えに作られた薬”って言ったけど、もしかしてアルラウネの生き残り?」 「……!?」 「なるほど……彼を殺しにここへ来て、その反応……読めてきた」 「どういうことよ。あなた、何か知っているのかしら?」 「ボクはね、“《フール》〈稀ビト〉”の返り血を浴びるのが趣味なんだよ」 「だから“AS9”製造にアルラウネが必要と判明した時、わざわざ出向いてぐちゃぐちゃにしてあげたんだよ」 「ずいぶん昔の話だから、覚えてたのが奇跡みたいだにゃあ」 目的を失っていた心臓が唸り、瞳孔が開く。 そんな私を、ソイツはおもしろいオモチャを見つけたように笑う。 「あなた……私の故郷を壊した……実行犯なの……?」 「アレが素材になるって話を持ちかけたのもボクだよ。その素材を使って研究を進めたのが、彼だ」 「道理で……“耳鳴り”が消えないわけだ……」 この侵略者が“漆原零二”を名乗っていた。 よくよく考えれば“漆原零二”は、あの時まだ“英雄”ではない――――権限などあるはずがない。 “《アーカイブスクエア》〈AS〉”の中枢に食い込む権限を持った“《イデア》〈幻ビト”のバックアップがあって、初めて“漆原零〉二”は素材を手にできた。 「名前は……」 「ルージュ」 「あ゛ぁぁ……のうのうと生きてるコイツが……“耳鳴り”の元凶……」 故郷壊滅の絵図を描いた張本人の名前を知り、臓腑が煮えくり返った。 「いいね……その目……悔しいんだにゃ。ボクを、血祭りにあげたいんだにゃ……ひしひしと伝わるよ、その殺意」 「かわいそうだにゃぁ。今のキミじゃボクに勝つのはおろか、困らせることだってできやしない。彼を守る力もなく、また奪われてしまうんだにゃ……」 ルージュはわざとらしく掌を握った。 いつでも優真くんの命を握りつぶせるとでも言いたげだった。 実際、その通りだった。 「あ゛ぁぁ……あ゛ぁ…………ぁ……ぐ……」 なんだ……これ……。 こみ上げてくる感情。 「うっ……くっ……」 「あれ? 泣いちゃうのかい?」 悔しい……? 悔しいんだ。 そうだ……私は一体、なんなんだ……? 何をしに、“《ディストピア》〈真世界〉”に戻ってきたんだろう……? くだらない事に優真くんを巻き込んで、復讐相手には満ち足りた自殺を遂げられ、その状況を故郷を壊滅させた張本人に醜態を晒して……。 意味のない人生を、みっともなく生きている死に損ないだ。 「くっ……うっ…………」 この沸騰した感情を向けたところで、絶対に敵わない相手……一矢報いることすら許されない中……。 私はもう、助かりたいのか、助けたいのか、殺したいのかさえわからなくなってしまう。 「おやー?」 わからなくなった私は、自分でもわからないうちに動き出していた。 「無駄だとわかっていて、やる気なのかにゃ……本当に、憐れだにゃ……」 奇妙にささくれだった心を抱え、よちよち歩きで私は歩く。 何がしたいのもわからないまま、そこへたどりついた。 「(優真くん……)」 私を救えなかった人。 これから殺されてしまう人。 満身創痍で夢と現実を漂泊し、うなされるように荒い呼吸をしている。 「はぁ……なんとか…………はぁ……」 「え?」 「……“なんとかなる”…………」 何度となく優真くんと交わしてきた、魔法の合言葉。 「そっか……なんとかなると思って……ここまで来たんだ……」 “《アーカイブスクエア》〈AS〉”の研究所に来ればタダでは済まない事くらいわかっていただろう。 冷静に考えれば私を見捨てるべきだった。 施設まで乗り込んできた際の勝算が“なんとかなる”だけじゃ、どうにもなるはずがない。 「“なんとかなる”」 口にした途端――――空っぽだった身体に、何かが宿った。 魔法の力――本当になんとかなるんじゃないかという、錯覚の力。 私が口癖にしていた、そんなくだらない、意味もない一言を信じて――――無根拠に助けに来た人がいる。 その本質を私は考える。 小説を書けとか。 アイドルに謝れとか。 誰も殺してないとか。 私に説教臭いことを言って励ましてくれた優真くんが、 《・・・・・・・・・・・・》〈唯一、口にしなかった言葉〉。 「《・・・・・》〈ポジティブ〉」 回りくどい真意が――――私の心を穿った。 優真くんと私の長所であり、共通点。 いつから私は――――ポジティブじゃなくなってしまったんだろう。 「あまり時間がない。悪いけど、始末させてもらうよ」 「…………して…………さい……」 「? 何か言ったかにゃ」 「どうか、見逃してください」 自律して……。 「――――おぉ……」 “奪う”気持ちを捨て去って……。 「…………驚いた……仮にも“《イデア》〈幻ビト〉”が……これだけの辱めを受けて……なおも頭を下げられるなんて……」 まっさらに……。 「……お願いします。許してください」 正解も不正解もない世界で、まっすぐに救おうとしてくれた人と同じように……。 「玉砕覚悟で立ち向かうべきだろう? キミは今、最高にボクが憎いはずだ。食いしばった歯が粉砕するほど、悔しいはずだ」 「プライドが許さないはずじゃにゃいか。立ち向かえばいい。キミの復讐心ってやつは、そんなものだったのか?」 真の復讐相手を前に、私を突き動かす衝動は、復讐ではなくなっていた。 格好悪くていい。 恥の上塗りと、笑いたければ笑えばいい。 私は……こんな私を……それでも家族と言ってくれた彼を、失いたくない。 唯一、信じられる人間である彼の言葉だけが、私を繋ぎ止めてくれるから。 「わからない。どうして――生きている事そのものが地獄に感じる道を選ぶ」 「鏡があれば見せてやりたいよ。キミが今、どんなに悔しくて、悲しくて、やりきれない中、頭を下げているかが一発でわかる」 私に必要なのは、殺された怨みを晴らす復讐心じゃなくて、負の連鎖を断ち切り、生み出すことに必死になる勇気だった。 本来の私の持ち味であり、優真くんとの共通点――――《ポジティブ》〈上昇気流〉。 「あなたがしろという事を、なんでもします」 「脚を舐めろというなら言うとおりにします。裸で踊れというなら言うとおりにします」 “耳鳴り”が止まないのならば、気にしなければいい。 気にならなくなるくらい、自分がやるべきことにだけ傾倒すればいい。 奪うのではなく、生み出し、救うことを人生の意味にすればいい。 私の復讐は、終わった――――だからポジティブに生きることを始める。 ただ一点……全てを投げ出してくれた人の為に、全てを投げ出す前向きな心があればいい。 「その言葉に偽りがないのなら――――」 「――――例えば」 「私の故郷を壊した事に“感謝”しろというのなら、します」 「死んでいった同胞の“悪口”を言えというなら、言います」 「…………………………」 「私はどんなことでもします――――だからこの人を、見逃してください」 「…………凄いな……彼を救うための執念の深さに、このボクが、思わず引いてしまった……」 “AS9+”の瓶を見たルージュが、小さく息をついた。 「もらうものはもらったし、もうすぐココも崩れて“英雄”さんともども、キミたちの墓標になる」 「その身体で彼を背負って出られるとは思えないけど……精々、頑張ってみるといいんじゃにゃいか」 「ありがとう、ございます」 「……こんな不思議な気分になったのは初めてだにゃ」 「…………ふふ……」 「クフフ……フフ……なんとか、なるじゃん……」 今回の件で――――私がいかに滑稽な存在か、よくわかった。 こんな私は、優真くん無しじゃ、生きていけない。 生きていていいような、清く正しい存在じゃない。 「結局、一度だって“《エンゲージ》〈契約〉”に文句は言わなかった」 「人間にもどることよりも、私との絆を大切にしてくれた」 「コレは……優真くんには、いらないか……」 余計なお世話を焼くのは、後回し。 歩けない優真くんを背負って脱出するのが、今の私に与えられた贖罪の一歩目。 「あぁ……ご飯、お腹いっぱい食べたいわ……」 こんな時でも腹が減る、それが……生きてるということ。 「――――だらしないわね」 「…………ええ。笑えるでしょう?」 「笑ってる暇なんてないでしょ。目が覚めたなら、さっさと帰るわよ“虹色”」 寄越された蜂蜜揚げパンを受け取った。 「受け取ったわね。高いわよ。それこそ、何十年も占いで稼ぐか、小説で一発当てないと返せないくらいにね」 「……ごめんなさい……いつか、返すわ……」 「ごめんなさいじゃなくて、ありがとうでしょ。わたしは、《そいつ》〈優真〉にそう教わったんだけど?」 「……ありがと」 返す……金ではなく、まして怨でもなく、恩を。 過去に私を支えてくれた故郷は、もうない。 それらは人間の為に失われた。 だけど人間には……優真くんのような、可能性を持つ人がちゃんといる。 ちゃんと意味を持って、意味に沿って生きている人がいる。 なら――――今、私を支えてくれる人たちを、私も支えていこう。 その第一歩を、ポジティブに踏み出そう。 「がつがつがつがつ……ほむほむっ、んぐぐっ」 「ば~~~~~~~~~~っくんっ! もっしゃもっしゃっ!」 「それにしてもあなた達……黙々と食べるわねぇ……」 「腹いっぱい喰って、なるちゃんの側にいる。この方が眠るより回復早いみたいだよ」 脱出ルートを確保してくれていたリノンと俺をおぶってくれたなるの活躍で、全員が無事に生還した。 秘密基地にある蜂蜜揚げパンを消化しながら、人心地ついていた。 「“《エンゲージ》〈契約〉”の快復力向上が補助しているとはいえ、驚異的よね。まぁ半分はやせ我慢なんでしょうけど」 ツンッ。 「おひひっ、うっく~~~っ、なるちゃん。あのアイドルがケガ人の脇腹つついたっ、仕返ししてっ」 「グッ……あ゛ぁぁぁぁぁ!! う゛ぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」 「汝は求めたのだ……“叩けよ、さらば、開かれん”!! 視えるっ、光の道が……ぁぁ……」 「な、なるちゃん……」 「まさか……いやしかしっ、宿ったというのか!? 哀しみを乗り越えた私の眼孔が、択ばれた……だと……?」 「お、お、おお……厨二病完全復活っ!?」 「『素晴らしい才能だわ。私の髪の毛一本に相当するほどの才能よ』」 「え? それってもしかしなくても“《ピースリー》〈PPP〉”の《ひひめめ》〈日冒目のセリフよね?」 「な、何よ……私があなたの投稿作品を読んでいたらおかしい?」 「どういう風の吹きまわしよ。フィクションは嫌いなんじゃなかったかしら?」 「確かにああいったものに共感できるだけの素養はないわ。だから感想は、よくわからないとしか言えないのだけど」 「わかろうとしてみたのよ」 噛み付こうとしていたなるが止まる。 アイドル様が時間を削ってまで目を通したのは、なるに歩み寄ろうとした気持ちがあったからだろう。 「モノづくりの愉しさだけは伝わったわ」 「よく言うわ。所詮、読み手でしかないあなたに何が……っと」 なるの手にしている携帯は追手から奪ったものだろうか。 「投稿者からお気に入り申請来ているじゃない。横のつながりは歓迎。相互相互っと」 「あ、それ、わたし」 「たわし?」 「わたし」 「わたしってなにかしら」 「わたしが投稿者だって意味よっ」 「リノンが投稿したの!? それって大騒ぎにならない? Re:nonとして出版したら普通に売れるんじゃ……」 「別に売りたいわけじゃないわ。未開封のコトノハはボトルメール。何年先も色褪せない、成就を待つ恋の羅列なのよ」 もうどことなく言葉遣いが創作者特有の酔い方をしている気がする。 なるは『どれどれ』といやらしい笑みを浮かべ、プロフィールと作品紹介文を口にする。 「『せんてぃめんとのーと』コトノハはジグソーパズル。どう組み上げるかはあなた次第。どこで完成とするかもあなた次第」 「お茶の間のひとときに空を眺めるように、心がほんのすこしでも豊かになるように詠んでくれると嬉しいです」 「ちょ、ちょっと……恥ずかしいから朗読だけはやめてあげなさいよ? 朗読だけは」 「やめてあげなさいよって、自分でしょ。読みますか、なるさん」 「開けてしまうというのか……? 待ち受けるのが滅失の都だとわかっていながら、運命には逆らえないというのか……?」 「やめなさいってば」 「大丈夫よ。文章には本当の自分が表れるものなの。あなたの心は澄んだ川のせせらぎ。天使でさえ直視できないほど清く正しい《リノンさま》〈乙女〉」 「ウザいわね……」 「«素顔のままで»――『がまんして のみこんで 苦しくても着飾って “たすけて” 言えないきみに がんばれ』」 「«旅をしようよ»――『ありがとう ごめんなさい きみとじゃなきゃ 言える相手を探せるように 地球はまぁるくできてるんだね』」 「……ぽ、ポエム…………」 「ふん……わかってもらえなくたっていいわ。どんなに拙くても、広げたコトノハは翼になって、大空に羽ばたいていくのよ」 り、リノンのキャラ像がどんどんブレていく……。 「うぅ……感動した……猛烈に感動した……振り込めない詐欺だわ……」 「えっ!?」 「泣いてるっ!?」 「な、なかなかやるわね……不覚にも胸に刺さったわ。私ほどじゃないにしろ、才能あるわね」 「ほ、ホント……? よかった。よかったわね」 「…………ん?」 「わね……?」 「一人じゃできないっていうから、一緒に研究したかいがあったわ」 何か嫌な予感がする。 「て、照れるぜ……」 「いっ!?」 「こ、こういうのは初めてだから難しかったんだぜ……? 酒の肴になりそうか……?」 「こ、これ書いたのってトリトナかぁ……あははっ、凄くいいんじゃないかな?」 に、似合わねーーーーーーーーーー!! 「似合わないって思ったんじゃないでしょうね?」 「交代も早くなったね!」 「ごまかさないで。トリトナの乙女な趣味を否定するなんて許せないわ」 近い、近い、近いので――――。 「……ちゅっ」 「!?」 ほっぺたにキスをしてみた。 「『ご褒美にキスのひとつでももらえれば、それでいいわ』って言ってたじゃん? ちょうど顔も近かったから」 「ね、ね、寝取られたーーーーーっ!! 目の前で寝取られたわーーっ!!!」 「う、うるさいわねっ。命掛けで助けに行ったことの感謝でしょ。どうこう言われる筋合いはないわ」 「なるちゃんもリノンにキスしなよ。助けられたのはキミも同じでしょ?」 「はぁ!?」 「ふざけないでよっ! 誰がこんな厨ニ作家なんかにっ」 「嫌よっ! こんな駆け出しポエマーなんかにっ」 「それはわたしであって、わたしじゃないからっ! っていうかトリトナを馬鹿にしないでっ!」 やいのやいの騒がしい2人は、すっかり今までと同じ犬猿の仲。 まえよりももっと苛烈になっているのは、お互いがお互いをわかろうとした結果。 相手の事を知った分だけ、相手の主張を否定するのが容易ではなくなったから、余計に熱くなる。 それはもう認め合っているようなものだ。 だって2人とも、いがみ合っているのに。 こんなにも晴れ晴れとした《・・・》〈口喧嘩〉だ。 「(なるもリノンも吹っ切れたんだな)」 今ならこの中身を見ても、あの頃のように塞ぎこむことはないのだろうか。 2人が抱えた問題に一応の終止符を打ったように、俺も写真を見ることで終止符がもたらされるのだろうか。 「……凄い音がしたね」 「駅のほうからしたわよ。なにかしら」 「怪しいわね。わたしが見に行ってくるわ」 「いいよ、近くだし俺が行く。ちょっと一人で考えたいことがあるから」 雨、まだ降ってたのか……。 ずっと隠れているわけにもいかないけど、遠くへ高飛びするなんてマネもできない。 3人とも確実に狙われているだろうし、秘密基地の存在がバレでもしたらどこへ逃げればいいんだろうか。 「今日子さん……なるちゃん…………結衣……」 4人で囲む、家族の食卓――――限りなく夢に近い願望。 しかし俺は……。 「ポジティブッ!!」 いつかそれを手にする。 だから今は、できることをこなしていこう。 駅には倒壊の爪痕が広がっていた。 轟いた音の正体の犠牲になったらしい女性が倒れていた。 一目で、ああ助からない、とわかった。 「やだっ……やだよぉ……ノエルちゃぁぁああぁぁぁぁぁんッ!!」 本来なら、俺もその倒れている人に着眼点を置いて状況を整理するべきなんだろうけど。 そんなこと、どうでもよかった。 誰がどうなろうが、気にしていられない状況にあった。 視界に広がっているもののたった一つの違和感だけが、俺の興味を100%奪っていた。 「………………」 思えば――――“《フール》〈稀ビト〉”になってから色々なことがあった。 人格との因縁を決着させる物語があった。 夢と現実の区別がつかず、全てが作り物に思えた少女は眠ることを覚えた。 復讐との因縁を決着させる物語があった。 不毛な負の連鎖を断ち切った勇気ある少女は、再び生み出す道を歩み出した。 俺は2人が笑って過ごせるように、自分にできることをしてきた。 最終的に結果を導き出したのは、本人たちの努力と覚悟であり、俺は側で見守っていただけだ。 もちろん、その過程で俺自身も人間としての成長を遂げてきたつもりだけど。 今、直面しているのは、俺の、俺だけの問題だった。 「本当に……本当なんだよな……」 時刻は零時を回り、“《ナグルファル》〈地獄〉”の日付と重なった。 気づけば血が凍りついたように身体が冷めていた。 狂い果てた俺の妄想なんかじゃない。 前向きに生きつづけた結果――――とうとう出逢った。 「…………逢いたかった……誰よりも……誰よりもキミに……」 7年前の時のまま、時間が止まったような容姿で。 《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》〈たった一人の、血の繋がった妹が立っていた〉。 人間の見る夢とは、過去の体験や無意識のうちに抑圧している感情が具現化する現象だ。 私もこの光景を間違いなく目の当たりにした。そして忘却の彼方へと葬り去られたのだ。 だが曖昧な形と言えど―― こうして同じシーンが繰り返されるという事は、何らかの形で脳裏の片隅に記憶されているのだろうか―― 「…………」 記憶とは曖昧なものだ。どれほど衝撃的な出来事に遭遇しても、時間と共に風化していく。 「だからと言って、こうまでして私を弄ばなくともいいだろう」 そこに立っているべきは“《ファントム》〈亡霊〉”。 間違ってもお前のいる場所ではない。 黒煙と業火に包まれた空の下で、彼女は足元に転がる何かを見下ろしている。 私は余りにも軽薄な情景に辟易して瞼を下ろす。 これを見せているのは私から何かを奪った“《ファントム》〈亡霊〉”か―― それとも―― 視界の黒がおぼろげな光に侵食されてゆく。 覚醒の手助けとなったのは、鼻腔を刺激する活力に溢れた香りだった。 「おはよー、あかしくん♪」 「……ああ、おはよう」 「今日は何の日か知ってる? みんなでお出かけする日だよ♪」 「忘れてはいない。今日は“しののめフラワーパーク”に――」 花繋がりで気づいたわけではない。思考が完全に覚醒し、ひまわりの手に握られたものを捉えたからだ。 「――――!!」 ソファから跳ね起き、植物の鉢植えを並べた棚に駆け寄る。 もうこれが運命だと諦めてしまいそうなほどに繰り返した行動の先には、想像した通りの光景が待っていた。 「ああ……」 予定調和という言葉が浮かんで拒絶するように掻き消す。 モミジアオイの花弁がまたひとつ毟り取られていた。 「ここの植物に手をつけてはならないと言ったはずだ」 「えぇー、でもあかしくんが言ったんだよぉ?」 「理解に苦しむ。私が口にした言葉を覚えているのならば、何故それに従わないのだ」 「だーかーら、あかしくんが言ったんだってば」 「どうしたのですか、喧嘩は駄目ですよ」 「ちょっと前まで誰かれ構わず喧嘩売ってたのはどちら様でしたっけ」 二階のロフトへと続く階段から九條とノエルが降りてくる。 「……何でもない。保管体勢が不十分だった私の責任だ」 時間は不可逆であり、今更悔やんでも仕方がない。 それよりもひまわりを叱責し、九條に咎められる方が面倒だ。 正当な立場とは必ずしも認められるわけではない。それが人間社会の難解な箇所であり、面白味を感じる部分でもある。 「みんな、早くじゅんびしてよっ! おひさまがしずんじゃうよ」 「ああはい、すみません。すぐに用意致します」 「そんなに焦る必要ないでしょう。たかが隣駅なんてすぐに着くじゃないですか」 これ以上ひまわりの機嫌を損ねないためにも、早急に支度を済ませた方がいいだろう。 「あ、赫さん、少し台所をお借りしてもよろしいでしょうか」 「それは構わないが、何をするつもりだろうか」 「軽食ですが、昼食の準備をしていこうかと思いまして」 「あ、出た出た、私料理できるんですアピール頂きましたー」 「そういう事なら好きに使ってくれて構わない。だがここの冷蔵庫には期待できるような材料は備蓄されていないが」 「昨日のうちに食材を持ってきてますからご心配には及びません」 何から何まで私の杞憂らしい。こういった《さじ》〈些事〉に気を回せるようになれば、人間としての振る舞いに申し分ないと言えるのだろうが、まだまだ道は長そうだ。 「簡単ですけど一緒に朝食も作ってしまいますね」 「待ちなさい、ご主人の食事を用意するのは私の役目です。あなたなんかに横取りさせてなるものですか」 「ではノエルさんもご一緒に」 「どっちでもいいから早くしてよー」 台所に向かう二人とテレビをつけるひまわり。 私がやるべき事はひとつ―― この先待ち受ける植物達との出会いに思いを馳せながら、棚に置かれたジョウロを手に取った。 電車のつり革に捕まりながら、窓の外に広がる海の飲まれた旧市街を見下ろす。太陽の光に照らされた海面は、眩い煌きを放っていた。 「わわぁっ――! あかしくんあかしくん、すっごいゆれてるよ」 「電車は揺れる。社会の一般常識だ」 「ほおぉ~、あかしくんはでんしゃのったことあるの?」 「移動が必要な業務の場合に利用している。とはいえ滅多に使う事はないが」 「経済の拠点は東雲市に集中していますからね。私も隣駅まで足を伸ばすのは久しぶりです」 「ノエルさんはよく利用されるのですか?」 「…………」 「あれ、のえるちゃん、げんきないよ?」 「……なんや」 ノエルは車両の開閉ドアに寄りかかりながら、気だるそうな視線を寄越した。 「ノエルは運搬車両全般が苦手らしい。乗り物酔いというやつだ」 「えーっ、でものってからまだちょっとしか時間たってないよ?」 「どうしましょう、酔い止めの薬は持ってきていません」 「うるさいですね……だから私は家から出たくなかったんです。ソファに寝そべってダラダラする事の何がいけないんですか」 「もうすぐだからのえるちゃんがんばってー♪」 私とノエルにとって不慣れな休日は、滑り出しから前途多難な様相を呈していた。 「うっぷ」 「だいじょーぶ、のえるちゃーん?」 勤勉な人間の手によって運営される電車は、時刻通りに隣駅へと停車した。 駅から“しののめフラワーパーク”へは専用の送迎バスが運行していたが、私達は時間と手間のかかる徒歩を選択した。選択の自由はほぼないと言えた。 「着いたら休める場所もありますから、もう少し頑張ってください」 病人のように足取りのおぼつかないノエルの背中を爪先立ちでさするひまわり。 嘔吐こそしていなかったが、ノエルの体調は電車に乗る前と後では誰の目から見ても明らかに悪化していた。 「あとどのくらいで着くのだろうか」 「ここを渡って五分ほど歩けば施設の入り口が見えてきます」 「だそうだ。もうしばらくの辛抱だ」 「ふぁい……」 これほどまでに弱気になったノエルも珍し―― 「…………」 「赫さん? どうかしたのですか?」 「いや、誰かに見られているような気がしたのだが」 「えっ、誰もいませんが」 今しがた歩いてきた道を振り返っても人影はおろか車両の一台も確認できなかった。 「すまない、気のせいだったようだ」 意識こそしていなかったが、“《ファントム》〈亡霊〉”の件もあり過敏になっていたのかもしれない。 「あかしくん、はやくいかないとのえるちゃんのぎょーが出ちゃうよ」 「わかった。今行く」 “《ファントム》〈亡霊〉”の件は江神に任せている。私にできるのは彼からの知らせを待つ以外にない。 今は目の前の危機に専念する事にしよう。 緑に囲まれた山道を抜けると、整備されたコンクリートの地面が視界に広がった。 紺色の地面は厳格な規律を感じさせる白線で区切られており、何台もの四輪駆動車が停車していた。 広大な駐車場を隔てた向こう側に見える一風変わった施設――“しののめフラワーパーク”と書かれた看板が私達を出迎えた。 「わあぁっ――! すっごくおっきいよあかしくん!」 「ああ、大きい」 「こうしちゃいられないよっ! ねぇはやくいこっ♪」 「あ、ひまわりさん、はぐれたら大変ですから一人で行ってはいけませんっ」 我慢できないといった感じで駆け出すひまわり―― 炎天下の空の下、まるで太陽の光を浴びて活き活きとしている向日葵のようだ。 それに引き換え―― 「うっ…………」 「ノエル、大丈夫だろうか。手をかそうか」 「すみません……お願いします……」 前かがみでどうにか私の手を取る姿は、腰の曲がった老人の姿を彷彿とさせる。 先行する彼女らに遅れないよう、つたない足取りのノエルを引いて園内へと向かった。 大人三枚、子供一枚――入場の際に受付でチケットを購入し、晴れて私達は“しののめフラワーパーク”の園内に足を踏み入れた。 休日という事もあり、周囲には家族連れや友人同士と思われる人間で溢れていた。 周囲の人間に共通して言える事だが、普段街中で見かける姿とは違い、どこか開放感に溢れていた。 抑圧された日々から解き放たれた特別な場所――足を踏み入れて最初に取った行動は、ベンチに腰を下ろしての休息だった。 「ふぅ……」 「まだ調子は戻らないのだろうか」 隣に腰を下ろしたノエルの顔色を窺う。しばらく身体を休めた効果か、幾分元の顔つきを取り戻しているように見えた。 「大分楽になってきましたよ。少なくとも口からデビルリバースする心配はなさそうです」 自虐的な微笑みを浮かべながら前方に視線を向けるノエル。 缶ジュースを手に駆け寄ってくるひまわり。その後を小走りで追う九條の姿が視界に入った。 「ははっ、若いですねぇ……」 「私達の肉体年齢もさほど離れていない。その発言は年老いた人間が使うものだ」 「こうしていると、無駄に元気な子供を遠目で見ている夫婦ですね。そう考えるとまんざらでもない気がしてきました」 遠い瞳で見据える姿は、夫婦というより孫を見守る老人の方が近いように思えた。 「おまたー♪ ジュース買ってきたよー♪」 自販機のあるスペースから戻ってきたひまわりと九條。それぞれ二つの缶ジュースを手にしている。 「はい、のえるちゃん、ジュースのんで元気だして♪」 「あなたみたいに単純だったらどれだけ楽か」 呆れ顔で差し出された飲料を受け取るノエル。 「赫さんもどうぞ」 「ああ、ありがとう」 表面に浮かんだ水滴が手の平を冷やす。遮る物のない日差しの下では、こまめな水分補給を欠かしてはならない。 とはいえ常人と感覚の違う私はこの程度の気温ならばむしろ快適なのだが―― 「はぁ……それでいつまでここにいるんですか? もうそろそろ帰宅を考えてもいいんじゃないですかね」 「ダメだよぉー! まだ来たばっかりだもん! いっぱいあそばないとにゅーじょーりょーがもったいないんだよ」 「ヘンに現実的な考えですね。まあさっさと回って早いとこ帰り――」 「ぶひゃっ――!?」 ノエルが缶の蓋を開けた瞬間――茶色の液体が勢いよく噴き出した。 「…………」 「あ……」 人間社会の常識、そのひとつには、炭酸飲料の入った容器は慎重に扱わなければならないという暗黙の了解が存在する。蓋を開けた瞬間に内部の液体が飛び出してしまうからだ。 例えば缶を手にしたまま腕を振って走ってはならない――法律で規制されているわけではないが、守らなければならないルールのひとつだ。 「だ、大丈夫ですか……?」 「ええ、おかげで目が覚めました。いやぁ、さすが巷で大人気なわけですよ。飲んでも良し、かぶっても良し」 「超最強。“《ハチゼロ》〈蜂蜜揚げパンソーダZERO〉”――わたしは、これかな」 「あ、はちみつあげぱんのおねえさんだー♪」 ぽたぽたと顔から滴る液体を気にする素振りもなく、どこかに向かってポーズを決めるノエル。 作り物の笑顔はやがて消え去り―― 「それはそうとひまわり、あなたにひとつ言いたいのですが」 「な、なぁに……?」 その顔には瞬く間に怒気で満たされた。 「ゴラァクソガキー! 人をナメんのも大概にせんかい!!」 「ひーん、ゴメンナサーイ――!!」 逃げるひまわりに追うノエル―― どうやら体調は戻ったようだ。これならば園内の巡回もスムーズに進むだろう。 青天を見上げながら私は安堵する。それはほのかに香る花の香りに気分が高揚していたせいかもしれない―― 園内の奥へと歩みを進めると、視界の至るところに植えられた植物が飛び込んできた。 「ふわぁー、おはながいっぱいあるよ♪」 「そうだな。圧倒される光景だ。私の倉庫にあるものとは比べ物にならない」 色とりどりの植物が歩道脇の花壇を覆い尽くしていた。 言うなればここは花の世界―― 外界から遮断された別次元の空間に私達は立っていた。 「“しののめフラワーパーク”の名に恥じぬ、堂々とした光景だ。これほどまでに群生している植物は目にした経験がない」 「しかも枯れ草がひとつもない。綿密な管理が行き届いている証拠だ」 「良質な土壌と正常な発育を促す環境。そして確かな技術がなければ維持どころか作り出す事さえ叶わない」 「…………」 「どうした九條、何かおかしかっただろうか」 「すみません、そういうわけでは。ただ――」 「ただ?」 「赫さんがこんなに楽しそうにしているのは初めて見ました」 「楽しそう?」 もちろん自覚してはいなかった。だが他人の目にはそう写ったらしい。 「そうか、それは気がつかなかった。私は今、楽しいのかもしれない」 「きっとそうです。こんな風に話す赫さんを今まで見た事ありませんでしたから」 「趣味や嗜好について語る時、人間は雄弁になるものだ。私にもその兆候が見られたのなら、喜ばしい事だ」 「だがこれで私もキミの事は言えた立場ではなくなったようだ」 「はい?」 「いや、何でもない」 他人の顔は見えても自分は見えづらいものだ。 「…………」 珍しく口を閉じてじっと歩道脇の植物を見据えるひまわり。 私はその姿に何故か言い様のない不安を覚える。 そして悪い予感はすぐに的中した―― 「よいっしょ」 「!?!?」 目を疑う光景に意表を突かれたのも束の間、即座に事態を理解し行動に移す。 優れた身体能力を持つ“《イデア》〈幻ビト〉”の身体に、果たしてこれほど感謝した経験があっただろうか―― 「わあっ――!?」 ひまわりの行動を制止するために身を投げ出した。 抱え込む形でコンクリートの地面に転がる。身体にダメージを与えてしまうと機嫌を損ねて泣き出してしまう可能性があったため、衝撃は全て私の背中で受け止めた。 「なになにあかしくん。だっこしたいなら言ってくれればいいのに」 「今、キミは何をしようとしていた」 「なにって、おはながキレーだなぁとおもって」 「それから?」 「キレーだからいっこもらおうかなって」 「いけない、それがいけないのだ」 立ち上がりひまわりに正対する。 「ここにある花は観賞用であり、外部の者が触れてはならない。ましてや引き抜いてしまうなど言語道断だ」 「でもいっぱいあるよ。いっこくらいいいとおもいます」 「数の問題ではない。いくら人間が大勢居ようと、一人でも殺してしまえばたちまち大きな問題になるだろう?」 「うーん、むずかしいはなしはよくわかりません」 我ながら良い例え話だったと思うのだが。 「ご主人の言う事は絶対です」 「あいだっ!?」 背後から振り下ろされたノエルの手刀が頭頂部に炸裂した。 「いったーい! のえるちゃんなにするの!?」 「口で言っても聞かない子供に対して実力行使に出たまでです」 「これ以上ぐだぐだ言うようなら、今度は本気でお見舞いしてあげますが?」 「おはな取るのはダメ、ゼッタイ♪」 「良い心がけです」 私が苦労しても説き伏せられなかったものを、ノエルは手際よく収めてしまった。 やはり彼女の立っている場所まで辿り着くのはまだまだ先になりそうだ。 「ここは……」 花の敷き詰められた小道を抜けると視界が一気に広がった。 木々に囲まれ隔絶された空間は、辺り一面をオオアマナの花で埋め尽くされていた。 「行き止まりのようですね。あそこで道が終わってます」 「ここには記念碑があるみたいですね」 「記念碑……“ナグルファルの夜”か」 ここに限らず東雲市の至るところには過去の災厄を忘れないよう記念碑が建設されており、今更目新しさはない。 特筆すべき点があるとすれば、今まで見た中でも最大級の大きさである事くらいだ。 だがそれを差し引いても言葉にならない違和感を感じていた。 「ねぇ、あかしくん」 「何だろうか」 「もしかしたらひまわり、ここに来た事があるかも……」 自分に関する情報を持っていないひまわり――その彼女の記憶について十分手がかりとなりそうな発言だ。 だが私にはそれ以上に気になる事情があった。 「奇遇だ。実は私も既視感のようなものを感じている」 「それって、お二人は以前にもここに来た事があるのですか……?」 「…………」 「むー……」 欠落した記憶の中だけにある場所――例えばここがそうなのだとしたら、この得体の知れない感情にも説明がつくだろう。 しかし―― 「どうだろうか。確証と呼べるものは一切ないのだが、どうやらそうではない気がする」 業火に揺れる蜃気楼――そこにあるはずの記憶は曖昧な反応を示すだけだった。 「このテーマパークが建設されたのはいつ頃の話だろうか」 「えと、確か四、五年前だったと思います」 「“ナグルファルの夜”の被害が大きかったらしく、しばらくの間は立ち入り禁止区域になっていましたから」 「だとすればやはり気のせいだろう。前後不覚の状態なのは約七年前の時期だ」 ここが出来たのが四、五年前なのであればはっきりと覚えているはずだ。 「もしかしたらここと似た場所に行った事があるのかもしれない。そう考えれば納得がいく」 不意に訪れた記憶の端緒を頼りに思考を巡らせてみるが、漠然とした既視感以上に感じるものはなかった。 「キミの方はどうだろう。何か思い出したのだろうか」 「んー……よくわかんない」 「キミの場合は覚えがあるというのならば、マスターに保護される以前にここを訪れた経験があるのかもしれない」 「なんかヘンなカンジがするけど……思い出せないや」 「そうか」 どうやらひまわりの方にも決定的な成果は得られなかったらしい。 とはいえ彼女の方はマスターのアテが確かならば、近日中の解決も望めるだろう。 「何も思い出せないのなら、そろそろ別の場所に行きませんか。ココ、辛気臭くて好きになれません」 「ノエルがそう言うのなら、私は構わないが」 ここにはアトラクションや売店もなく、長時間滞在しても楽しめるのは私だけだろう。 九條とひまわりもわざわざ主張するほどの執着心はないらしい。 そういえばここに来る途中、オオアマナの花は見かけなかった。 ここにしかない可能性を考慮し、去り際にもしっかりとこの目に焼き付けた。 その後―― ひまわりの希望でジェットコースターやメリーゴーランドといったアトラクションを体験した。 初体験に多少なりとも好奇心がくすぐられていたのだが、いざ体感してみると私には合わないという結論に達した。 高速でレールの上を走行したかと思えば、ゆっくりと馬を模した乗り物に跨りぐるぐると回り続ける。 何を持って人間は楽しいと感じるのか、最後まで私にはわからなかった。 「赫さんには合いませんでしたか?」 「そうだな。よくわからなかった。だが観覧車だけは意義を感じられた」 園内を一望できる高所からの光景は壮観だった。 色とりどりの植物が敷き詰められた区画は、上空から見下ろす事で一本の花を象るように計算して配置されていたのだ。 だからと言ってその趣向自体に重要な役割はないのだが、一見無意味とも思える労力に対して感嘆せずにはいられなかった。 「ねぇねぇ、つぎはなにであそぶの?」 「乗り物はもういいでしょう。一人であなた達を眺めてる私の気持ちも察してください」 体質が災いしたノエルはアトラクションへの乗車を拒否した。 「のえるちゃんものればよかったのに」 「ケンカ売ってるんのなら是非とも買ってあげますけど」 「わわっ、ぼーりょくはんたい!」 怯えた様子のひまわりは九條の後ろに隠れてしまう。 「ここまで好きにさせてあげたんですから、そろそろ私の行きたい場所に付き合ってもらいますよ」 「それは構わないのだが、行きたい場所とはどこだろうか」 「向こうに水場があったの覚えてますか?」 園内には人工的に作られた川が流れている。場所によっては水遊びができるような浅い水場も存在している。 現に若い男女や家族連れなどが水着に着替え戯れていた。 「真夏の太陽が燦々と照らす中、あっち行ったりこっち行ったりで暑いったらありゃしないですからね」 「ですが私は水着を持ってきていませんが」 「そんなこともあろうかと! 四人分の水着を用意してあります!」 「おぉー!!」 「異様なまでに用意がいいのだが」 「一応昨日のうちにこのテーマパークについて軽く調べておきましたから」 わざわざ水着まで用意したノエルの要望を無碍にはできない。 アトラクションに乗るのも水と戯れるのも私にとっては同じようなものだ。 「…………」 「あんれぇ~? どうかしたんですか~美月さ~ん?」 「……何でもありません」 「では行くとしよう」 九條の表情が冴えないように見えたが歩き疲れたのだろうか―― 夏の暑さにやられたのであれば、身体を冷やすというノエルの提案はこの上なく状況に即していると言えるだろう。 やはりノエルの言う事に間違いはない―― 整備された人工の川は水深が30cmほどしかなく、子供や泳げない者でも溺れる心配のない作りになっていた。 水着に着替えて水を掛け合う者、靴を脱ぎ足だけ浸かっている者等、各々が形こそ違えどこの場を楽しんでいた。 「美月ちゃんの方いったよー♪」 「は、はいっ!」 水着に続いてノエルが持参したビーチボール遊びをしていた。 「赫さんっ!」 「ああ、問題ない」 この遊びはどうやら水面にボールを落としてはならないらしい。果たしてボールが落ちるとどんな不都合があるのだろうか。 だがそれがルールというのなら、私は従うだけだ。 「ノエル、お前の方に行った」 他の三人がやっているように、極めて繊細な力を与えてボールを宙にはじき返す。 素材自体はただの薄いビニールでしかないため、勢いが余るとボール自体を破壊してしまう。核を失ってしまえばこの遊びの継続は不可能だろう。 「任せてくださ――あっ!」 私との間に落ちようとしていたビーチボールを拾おうとしたノエル。だが足元を水に絡め取られたのか体勢を崩してしまう。 ボールとノエル――どちらを優先すべきか躊躇する。今はボール遊びの最中であり、尚且つノエルはこの程度で身体を損傷はしないだろう。 ゲームの継続を優先しようとしたが、この遊びは同じ者が続けてボールに触れてはならないというルールを思い出して結局はノエルの身体を支える事にした。 「きゃっ♪」 「きゃっ?」 聞きなれない、か弱い声がノエルから漏れた。思っていた以上に余裕がなかったのだろうか。 「大丈夫だろうか」 「はい……ご主人が抱きしめてくれなかったらタイヘンでした」 「ああ、私も今はそう思っている」 もしもボールを優先していれば、身体の損傷以前にノエルの機嫌を損ねてしまう恐れがあった。結果的には正しい選択をしたようだ。 「おや」 右手に柔らかな円形の感触を感じる。 幸いな事に、ノエルの身体を支えつつもボールを掴む事ができ―― 「いや、ボールではない。これはノエルの胸部だった」 「いやん♪」 ボールにしてはやけにしっかりとした重量感があるはずだ。 「の、ノエルさん、わざとやっていませんか!?」 「なんの事ですか~? 言い掛かりはカンベンですぅ~」 「むむむ……!」 状況は掴めないが、ノエルと九條の間では謎の対立が起きていた。 ボールを拾えなかったノエルが責められているのだろうか? 「すみません、次はちゃんと足手まといにならないよう頑張りますね」 身体の力をほぐすように二度三度とその場で軽くジャンプをするノエル。 「ん?」 周囲からの視線を感じる。その矛先は準備運動を繰り返すノエルに向けられていた。 「……すごい」 「九條?」 「あ、いえっ、何でもありません!」 「そうそう、ここらで少しルールを変更しませんか?」 「ルールの変更、だろうか」 「はい。ただボールをトスするだけじゃ私達には簡単過ぎてつまらないですから、古今東西ゲームを追加しましょう」 「古今東西ゲーム」 書籍で概要だけは把握している。題目に沿って順番に回答するだけの簡単なクイズのようなものだ。題目に関する回答は複数あり、誰かが使用した答えは使ってはならない。 「ボールをトスする前に答えられなかったら負けです。一番負けた回数が多かった人は昼食抜きの罰ゲームにでもしておきますかね」 「えぇー!? おひるごはん食べられないと死んじゃうよ!?」 「一食抜いたくらいじゃ死にませんよ。罰ゲームが嫌だったらビリにならないよう必死になる事ですね」 懲罰としては軽すぎるがゲームの罰をしては適当だろう。 罰自体は受けてもさほど影響はしない。だがゲームとは各々が勝利を目指して始めて成立するものだ。遊びとはいえ手を抜くわけにはいかない。 「じゃあ始めますよー。準備はいいですかー」 「いつでもこーい!」 戦いの火蓋が切って落とされた。 「古今東西――」 「いえーい♪」 「い、いえーい……!」 「…………」 「いえーい」 「ご主人が育てている花の名前――」 「モミジアオイ」 「ひまわりっ!」 「マリーゴールド」 「えとえっと、チューリップっ」 「はいブー! 美月さんの負けー」 「チューリップの開花時期は三月~五月だ。少し前までは棚の一角に置かれていたのだが、現在は栽培していない」 「うぅ……問題が難し過ぎるのではありませんか……?」 「ご主人の事を見てたらわかると思うんですけどねぇ。美月さんの努力が足りないんじゃないですか?」 向日葵はともかく、その他の植物はこの分野に特化した人間でなれけば、正式な名称を答えるのは難しいだろう。 「次はひまわり、あなたがお題を出しなさい」 「うんわかったー♪」 ボールがひまわりの手に渡り、ゲームが再開される。 「あかしくんのいいところ――」 「ジュース買ってくれる♪」 「自分で自分の事を答えるのか――――植物の栽培に関して多少なりとも造詣が深い」 「えと優しくて誠実で、何事にも一生懸命に取り組むところっ」 「なんだとー!? あなたにご主人の何がわかるっていうんですか!!」 「あ、のえるちゃんの負けー♪」 ノエルはルールに背き、飛んできたボールを叩き落した。 「あなたにご主人を語られたくありません。次ふざけた事ぬかしたら顔面にボールをぶつけますから」 「ゲームのルールに従っただけなのに……」 「次はあかしくんのばんだよー」 「私か。何を問題に設定しようか」 最低条件として、自分が答えられないような問題を設定してはならない。出題者という利点は最大限に生かさなければ勝利は得るのは困難だ。 しかし前提として、皆が答えられるようなものでなければゲームが成立しない。 出題者の役割が回ってきた時、その線引きの難しさを初めて体感した。 「…………」 「どーしたの? あかしくんがもんだい出してくれないとはじまらないよー?」 「済まない、すぐには思いつかない。私が出題する番を飛ばしてはくれないだろうか」 ボールを九條に渡す。 「わかりました、では私の番ですね」 「行きますっ。紅茶に使用される茶葉の名前――」 「アッサム」 「ダージリン」 九條から放たれたボールをトスするノエル。 弾かれたボールは弧を描いて浮き上がる。落下地点に向かったのはひまわりではなく、右側にいた九條だった。 「ニルギリっ! フレッシュな香りでミルクティーに最適!」 「え、また私!?」 「えっと、あ、アールグレイっ!」 「キャンディーっ! 渋みが少なくてアイスティーで頂くのがお勧めですっ!」 「こ、この女、私を潰す気か……! しっかり根にもってやがった……!」 私とひまわりは完全に蚊帳の外だった。互いに譲らぬまま戦いは続く―― 「ウヴァっ! 午後に紅茶が確かこんな名前だった気がします!」 「アップルっ! オレンジペコと違ってリンゴの風味がありますっ!」 「ぐぬぬ、ジャワっ! 昔のCMでジャワジャワジャワジャワってやってた!」 「ラプサンスーチョンっ! 茶葉を松葉で《いぶ》〈燻〉していて強い芳香が特徴的っ!」 「えと、あ、あ、あ、うわああああああああああん――!!」 そうして――――譲れぬ意地を賭けた戦いに幕が下りた。 「みつきちゃんの勝ちー♪」 「くっ……この私が負けるなんて……」 人間社会に精通しているノエルでも、専門の知識を有している九條にとって敵ではなかった。並大抵の者では相手にならない。メントレでの彼女を思い返せば自明の理だ。 「やってくれましたね。次は容赦しませんよ」 「その前に伺いたいのですが」 「何です……?」 「ノエルさんは他の方よりも紅茶についてお詳しいようで……もしかして興味があったりするのでしょうか」 「え、何……? なんか怖いんですけど……」 「ふふっ、よろしければ少しお時間を頂いてもよろしいでしょうか。紅茶の魅力について、じっくりと語り合いましょう」 誰に対しても物怖じせず一歩も引かないあのノエルが、迫り来る九條を前にじりじりと後退していた。 「よくわかりませんがもの凄く嫌な予感がします……! こっちこないでください……!」 「そうおっしゃらずに。同じ趣味を共有すれば、仲良くなれると思いませんか?」 「仲良くならなくていいですからっ! ギラギラした目つきで私を見ないでくださいっ!」 たまらず尻尾を巻いて逃げ出すノエル。 「ああっ、待ってください、まだ何もお話していませんよ!」 「ひゃー! こっちくんなよー!!」 青く広がる空の下―― 完全無欠に思えたノエルの弱点が、運搬車両に続いてまたひとつ追加された。 水着から着替えた後、遊歩道の脇に設置されたベンチに四人で腰を下ろす。 「ねーねーみつきちゃんはやくぅー。ひまわりのお腹ペコペコペコリーヌだよぉ♪」 「はい、すぐに用意しますからお待ちください」 ひまわりに急かされ九條は手際良く鞄の中から弁当箱を取り出す。 九條の膝に置かれた箱の蓋を開けると昨日の朝と同じようにサンドイッチが敷き詰められていた。 「あー、サンドイッチさんだあ♪」 「えー、またですかぁ。続けて同じもの食べたら飽きるじゃないですか」 「すみません。ですが赫さんのお家には調理器具が揃っていませんでしたから、私の腕ではこれくらいしかご用意できなくて」 「電子レンジとトースターしかなければ無理もない」 私自身、栄養さえ補給できれば口に入れるものに注文はつけない主義だ。そうでなければ毎晩親方の店に通ってはいない。 「ひまわりはサンドイッチさん好きだからぜんぜん平気だよー」 「のえるちゃんがいらないなら、ひまわりが食べてあげるよ」 「誰も食べないとは言ってませんよ」 ぶっきらぼうな態度を取りつつも箱の中からパンを拾い上げると口の中に放り込む。 「もぐもぐ……まあ何も食べないよりはマシですかね」 「むぐっ――!?!?」 笑みをこぼしながらパンを頬張っていたひまわりの顔色が急変する。 「どうかしたのだろうか」 「ふむんぐ――!! むんむん、ん゛~~~~~~~~~~~~!!」 「た、大変!!」 どうやら食物を喉に詰まらせ呼吸困難に陥ったようだ。 前にも同じような出来事があったような―― 「はいひまわりさん、これを飲んでくださいっ」 「んーっ! ごくごくごく……」 「ぷはぁ! 助かったぁ、死ぬかとおもったよー」 「いつか訪れるキミの死因は恐らく窒息死だ」 そうそう都合良く、隣に九條はいないだろう。 「落ち着いて食べないと駄目ですよ。はい、赫さん達もどうぞ」 「水筒だけでなく、今回はカップまで用意したのだろうか」 「紅茶自体は今朝出かける前に淹れたものですが、せっかくならお気に入りのカップで飲んで頂きたくて」 「注いだ紅茶の色を楽しむのも重要な要素のひとつですから」 「別にこんなもん口の中に入ったら一緒じゃ――」 「いえ、何でもありません。美月さんの言うとおりです、はい」 「理解して頂けたようで光栄です」 理解して頂けてなかった場合の状況が、ノエルの脳裏に浮かんだのだろう。不自然な主張の取り下げもそう考えると合点がいく。 「あ、私です」 ノエルは携帯電話を取り出してベンチから立ち上がる。 「ちょっと電話してきます。私の分も残しておいてくださいね」 そう言い残すと小走りで遊歩道の向こうに消えていった。 「せっかくおいしーごはん食べてるさいちゅうなのに」 「ノエルは私の為に手を尽くしてくれているのだ。私は彼女の労力に感謝しなければならない」 「そしてひまわり、食が進んでいるようだが、ノエルの分を残しておかないと後で酷い目に遭うかもしれない。気をつけた方がいい」 「わ、わかってるもん! のえるちゃんの分はちゃんと残しておくもん!」 「……たぶん」 「心に留めておいた方がいい。被害を被るのはキミなのだから」 他人の心配はさておき、九條が用意してくれたカップを手に取り口に運ぶ。 「ん……心地よい味わいだ。だがこれもまた今までとは違っている気がする」 「お気づきになりましたか!? そうなんです、今回ご用意したのはアールグレイという種類の茶葉で――」 目に見えないスイッチが九條にあるとすれば、今まさに起動ボタンが押されたはずだ。 九條の口から飛び出す言葉をなるだけ零さぬよう努める。 だが嬉々として語る彼女の様子を見れば、今回もそれは叶わぬ願いになりそうだ。 「もしもし」 「よう、みんなでピクニックに行ってんだってな。楽しめてるかい?」 「今日になってずっと感じてる視線はやっぱりあなただったんですね。こそこそ覗き見するなんて趣味が悪いですよ」 「俺の職業を何だと思ってるんだ? ちなみにアンタらを尾行してんのは俺じゃなくて俺が雇った業者だ」 「どっちでも同じですよ。で、当然理由は教えてくれるんですよね」 「もちろん。だからこうして電話してるんだ」 「だったらさっさと用件を伝えてください。こっちは忙しいんですよ」 「俺だって忙しかったんだよ。だがそのお陰で手筈は大体整った」 「手筈……?」 「見つかったんだよ。アンタのつれが執着してる“《ファントム》〈亡霊〉”がな」 「…………」 「どうした? アンタの旦那にとっては願ってもない朗報だろ? もっと喜んだらどうだ?」 「それとも“《ファントム》〈亡霊〉”が見つかったら何か都合の悪い事でもあるのか? ヒヒッ」 「……あなた、どこまで知っているんですか?」 「どこまで、と聞かれたら、全部だと答えざるを得ないな。俺は探偵だぜ? 秘密を暴いてカネを得る生き物だ」 「いくら払えばいいんです? お金なら好きなだけ用意します」 「こりゃ願ってもない申し出だな。それじゃあこっちの希望を言わせてもらおうか――」 「と、言いたいところなんだが、生憎この件は仕事じゃなくて趣味なんだ。カネでどうこうってわけにはいかねーな」 「……どういう意味ですか?」 「アンタの秘密、これ以上隠したままにはさせてやらねぇって事」 「……あなた、一体……」 「奪って生きるやつは、奪われる覚悟が必要なんだよ」 「だからアンタとアンタの旦那のために都合のいい舞台を用意してある」 「限られた選択肢の中でよければ、アンタに好きなものを選ばせてやる」 「もうすぐしたら、俺もそっちに着くからな。ベッドの中で悩むほどの猶予はないけどよ、せいぜい悩んどけよ」 「知らないままでいる事は許されねぇんだ。殺して生きるやつはそれを自覚しなけりゃな」 昼食を済ませた後、園内の巡回を再開する。 あらかた見終わった頃には、頭上の空が夕焼け色に包まれていた。 「ふぁ~、いっぱいあそんだねぇ」 「そうですね。少し疲れてしまいました」 「だが対価として、非常に有意義な時間を過ごす事ができた。キミの提案に従って正解だった」 「喜んで頂けたようで何よりです」 今日は様々な種類の植物を鑑賞した。中には自分で栽培してみようかと思えるものもいくつかあり、明日以降の楽しみもできた。 非常に充実した一日だったと言えよう―― だが気がかりもある。隣を歩くノエルの表情が冴えないのだ。 「ノエルは退屈だったろうか」 「…………」 「ノエル……?」 「……すみません、少し考え事をしていました」 「いや、私の方こそすまない。お前の思考を邪魔するつもりはない。引き続き、思案してくれ」 「……はい」 彼女の悩みに最善の策が示されれば、必然的に私にとっても有益になる。 私の手が必要ならばそう言うだろう。つまり、私にできるのはノエルの邪魔をしないよう見守るだけだ。 そろそろ帰路につく頃合いだろうか―― そう考え始めていた時、前方から茶色いスーツに身を包んだ怪しげな男が近寄ってきた。その男には見覚えがあった。 「よう、ピクニックは楽しかったか?」 江神善太郎は軽く手を振りながらゆっくりと歩み寄ってきた。 「私は十分に楽しめた。キミも植物に興味があってここに来たのだろうか」 「生憎俺はカネにならないものには興味がないんだ。仕事じゃなけりゃわざわざこんなところまで来ようとは思わないね」 「仕事……?」 「アンタから受けた仕事の報告に来たんだよ。一刻も早く知らせてやろうという俺の配慮にもっと感謝したらどうだ」 私が江神に求めているもの――それはひとつしかない。 心臓が脈打つのを感じた。 “しののめフラワーパーク”から、一旦倉庫に戻る。 江神の得た情報とは今から数時間後、ある場所に“《ファントム》〈亡霊〉”が現れるというものだった。 「“《ファントム》〈亡霊〉”とは一体どういった人物なのだろうか」 「さあな。推測はできるが、意味はないだろ。実際にアンタの目で確かめればいいさ」 「……そうだな。その通りだ」 相手が何者であろうと、やるべき事は変わらない。 私の過去について問い質す―― それが叶わぬのならば、最悪の場合この手で決着を着けなければならない。 それだけが、私を呪縛から解放する唯一の方法なのだ。 「ねぇねぇあかしくん、どっかいくの?」 「ああ、少し出かける用事ができた」 「ひまわりも行くよー」 「駄目だ、キミはここで待っていてほしい」 “《ファントム》〈亡霊〉”との邂逅はどんな状況を引き起こすか想像もできない。だがひまわりに執着する余裕など生まれはしないだろう。 「ノエル、お前はどうするのだろうか」 「もちろん一緒に行きますよ。ご主人を一人で行かせられるわけないじゃないですか」 「そうか。ならばひまわりの監視を九條、キミにお願いしたいのだが」 「それは構いませんが……」 「…………」 「どうかしただろうか」 「……私が口を挟むべきではないのでしょうが」 「どうかお気をつけて……今の赫さんを見ていると不安に駆られて心配になります」 「今の私? 普段と何か違っているのだろうか?」 「その……今の赫さんに見つめられると、恐怖を感じてしまいます……」 「そうか、それはすまない。気づかなかった」 悲願の成就がすぐそこまで来ている影響だろうか。自覚はなくとも気が立っていたらしい。 「では少しの間、私は外に出ていよう。ここにいると迷惑をかけてしまうようだ」 「そういうつもりでは――」 「アンタがどうしようが勝手だけどよ、そんなにゆっくりしていられる時間はないぜ?」 「わかっている。少しの間、感情を整理する時間が欲しいだけだ。すぐに戻る」 夜の到来を感じさせる肌寒い風が頬を打つ。 しかしそれは意図せずに身体の体温が上昇した影響で冷たいと感じているだけだと気づいた。 やはり九條の言った通り、私の平常心は失われてしまったようだ。 「…………」 当然の反応かもしれない。私はこのために今まで生きてきたのだ。 右手を覆っている手袋を外す。 外気に晒された手で近くにあった瓦礫に触れると、音を立てて白い煙が上がった。 「そうか」 記憶は失われても身体に染み付いた本能は決して消え去らない。 本能の叫び――その正体を私は理解した。 感情を体現した炎が放たれ、瓦礫を溶かした。 「私は今、怒っているのだな」 でなければ無意味な破壊衝動の説明がつかない。 奇しくも人間性をまたひとつ獲得した瞬間だった―― 「ねぇ、ご主人」 江神から教えられた場所に向かう途中、それまで黙っていたノエルが口を開いた。 情報元である江神は別の用件があると言って同行していない。 「何だろうか」 私の緊張感が伝播したのだろうか――ノエルはいつになく神妙な面持ちだった。 「一応確認ですけど、引き返す気はありませんか?」 「どういう意味だろうか。今後“《ファントム》〈亡霊〉”を見つけられる機会が訪れるとは限らない。何を置いても指定の場所に向かうべきだ」 私が“《ファントム》〈亡霊〉”に執着しているのは、誰よりも私の近くにいたノエルが理解しているはずだ。 なのにどうして私の意志と逆行するような発言をするのだろうか。 「相手は得体の知れない化け物です。詳細は不明とはいえ、ご主人に苦杯をなめさせた危険な相手です」 「それは重々承知している。しかし今回、私は一人ではない。お前が横にいてくれる」 「…………」 「もしも最悪の状況に陥った場合、私を見捨てても問題はない。二人とも死ぬ必要はないのだから」 「卑怯ですよ。私にそんな事できるわけないじゃないですか」 「そうか、私は卑怯だったか。それはすまなかった」 「……やっぱり今の生活じゃ、ご主人を満足させてあげられなかったんですね」 「何か言っただろうか」 「いえ別に。ご主人が決めたのなら、それを実現させるのが私の使命ですから」 「お前には感謝している」 感謝よりも愛の囁きを―― 普段の傾向からそう要求してくると思ったのだが、目算は外れたようでノエルは再び黙り込んでしまった。 目的を前に余計な雑談は控えるべきだ。彼女の意図はすぐに伝わった。 ノエルが言う事は常に正しい。 今回に限ってはその正しさを証明するのに言葉すらも必要としなかった―― 「今頃どうなってるのかねぇ」 「二人は“《ファントム》〈亡霊〉”を見つけられたのでしょうか」 「アンタが見たっていう“《ファントム》〈亡霊〉”は見つからないだろうな。今は別の場所にいる」 「えっ、では間違った情報を教えたのですか……!?」 「おいおい、心外だな。偽の情報を掴ませるほど落ちぶれちゃいねぇよ」 「“《ファントム》〈亡霊〉”はそこにいるさ。いや、ずっと前からいたんだけどな」 「どういう……意味ですか……?」 「おっと、無駄話はこれくらいにしねぇとな。オジサン、これからやる事あるから」 「待って下さい……! ずっと前からいたとはどういう――」 「まあそう焦んなって。しばらくしたら、あいつらも戻ってくるからよ」 「だから絶対にここから出るんじゃないぞ、ヒヒッ」 「…………」 江神に教わった場所と思われる地点に到着した。 新市街の郊外――未開発の森を抜けると自然に出来たであろう湖が姿を現した。 「そろそろだ。いつ“《ファントム》〈亡霊〉”が現れるかわからない。警戒してほしい」 「はい」 辺りは日も落ちて暗闇に支配されていた。 感覚を研ぎ澄まし、周囲の気配に網を張る。 静寂の中、僅かに届くのは木々を揺らす風の音と《さえず》〈囀〉る虫の声しかない。 「何故このような場所に現れるのだろうか。いや、余計な詮索は必要ない。奴が現れれば全て明らかになるのだから」 「はい」 「七年、か。思えば長いようで短かった」 「はい」 「お前にも苦労をかけた。不慣れな私に良く尽くしてくれた」 「はい」 こうして“《ファントム》〈亡霊〉”に辿り着いたのも、全ては彼女のお陰だ。 私一人では手がかりを得るどころか、人間社会を生き抜く事すら叶わなかっただろう。 どれだけ感謝してもし尽くせない。 「改めて礼を言う。ありがとう、私はお前に感謝している」 「はい」 「…………」 「私も簡単に騙されるあなたに感謝していますよ」 「最後の最後まで、私の手の内で《ピエロ》〈道化〉を演じきってくれたんですからね」 「ノエル?」 背後に立つノエルの真意がわからないが、いつもの冗談だろう。 「動かないでください。下手な真似しようとしたらどうなるかくらいわかりますよね」 「何の冗談だろうか」 「虚像と真実の区別がつかないほど《もうろく》〈耄碌〉しましたか。堕ちるとこまで堕ちましたね」 事情が飲み込めずに解答が用意できない。 それでも状況は嫌でも身体で認識した。 私の生殺与奪権は今、背後に立つ者に握られていた。 「わからないのなら教えてあげますよ。あなたは騙されていたんです。七年間、ずっとね」 ゆっくりとノエルが目の前に来る。 「あなたが必死になって探していた“《ファントム》〈亡霊〉”。喜んでください、今まさにあなたの目の前にいるんですから」 「お前が“《ファントム》〈亡霊〉”だと……?」 突拍子もない冗談――そう切り捨てられないのは、彼女から発せられるものものしい気配が発言に説得力を持たせているからだ。 「七年もの間、傍にいて気づきませんでしたか? 赤の他人ですら気づいたというのに」 「悪ふざけのつもりならばそろそろ終わりにしてほしい。でなければ私はお前に対して怒りを覚えてしまう」 「…………」 「あまり失望させるな“《ファイヤドレイク》〈赤銅の火竜〉”。私の価値まで下がる」 敵意の滲んだ冷徹な口調――私はその声に聞き覚えがあった。 「ノエル――いや、今はこう呼ぶべきだろうか、“《ベオウルフ》〈英雄王〉”」 「久しいな。貴様の口からその名を聞くのは」 “《ディストピア》〈真世界〉”で使用する仮初めの名ではなく、“《ユートピア》〈幻創界”に生まれた瞬間から授かった唯一名。 その名前はそのまま私達二人の関係性を表す言葉でもあった。 「“《ベオウルフ》〈英雄王〉”の叙事詩通り、私達は気の遠くなるような時間を争いに費やしてきた」 「だが伝承とは違い、私とお前は争いを止めて互いに手を取り合った」 「やり方を変えただけだ。破壊の方法を外部からではなく、貴様という人格を内面から解体してやろうとな」 「貴様が記憶を失ったのは好都合だった。あれがなければ私の策にはまる事もなかったからな」 「中々におもしろかったぞ。私の手の内で踊る貴様の無様な姿は」 「……だが余興にも飽きた。そろそろ仕上げといこうか」 「っ――!?」 胴体部に強烈な負荷がかかり、身体が宙を駆けて樹木に衝突した。 脳にまで及んだ衝撃で視界がぼやける。 「七年前のあの日、何が起きたのか。知りたければ追ってくるがいい」 「来なければ貴様はもう一度、あの日と同じ過ちを繰り返すだろう――」 「……待て」 平衡感覚を失った身体では、かすれた声を出すのが精一杯だった。 搾り出した言葉が届いたのか判明する前に、私の意識は強制的に遮断された。 赤い揺らめきの向こうに佇む在りし日の光景―― 失われた真実をひたすら追い求め、そして今取り戻した。 取り戻したと言うのは語弊がある。私は何一つ思い出してはいない。 だが目の前に広がる光景が真実だとしたら――――この身を焦がす衝動の矛先を、誰に向ければいいのだろうか。 「ノエル……」 グラスから溢れるように零れ出た名前に、振り向く者はどこにもいない。 視界が歪み、不確かな記憶の上映が幕を引き始める。 いつもと違ったのは、ノイズのように新たな映像が視界に飛び込んできた事だ。 炎の中で見下ろすノエル。 その足元で倒れている少女の顔が映りこんだ。 誰だ――私はその少女を知らない。 それでも胸の焦燥は高まるばかりだった。 「キミは――――」 ゆっくりと瞼を開けると、見慣れぬ風景が視界に飛び込んできた。 やけに目線が低い。頭の芯に痛みを覚えてこめかみを押さえる。ようやく自分が樹木に背を預けて座っている事を把握した。 「……っ!」 四肢に鈍い痛みを覚える。だが立ち上がれないほどの異常はきたしていないようだ。 静寂を切り裂くように携帯電話の無機質な呼び出し音が鳴り響いた。 一瞬脳裏にある者の姿が浮かんだが、どうやら違ったらしい。ディスプレイを確認すると“非通知”という文字が表示されている。 通話ボタンを押して電話を耳に添える。 「よう、元気か?」 「江神――」 「何も言わなくていいぜ。大体何が起きたのか想像できるからよ」 「キミはこうなる事を予見していたのだろうか」 「おいおい、俺を恨むのはお門違いってもんだぜ。俺はただ依頼された仕事をこなしただけだからな」 江神はノエルと共謀しているのだろうか。 どちらにしても私の問いは変わらない。 「ノエルは今どこにいる」 「俺が正直に答えると思うのか?」 「普段の会話ならば、キミの言葉には信憑性が希薄だ。だが業務の依頼となれば話は別だろう」 「仕事を依頼するってのはカネがかかるんだぜ?」 「用意しよう。今は支払えないほどの金額だとしても、必ず払う」 「おぉおー、言うねぇ。だけどよ、俺に対して足元見られるような事は軽々しく言わない方がいいぞ」 「生かさず殺さず、搾れる奴だとわかったら骨すらも残さねぇぜ」 「私の骨が欲しければ持っていって構わない。だが生きている内は、特に今は待ってもらいたい」 「ヒヒッ、アンタの骨なんか貰ったって一文の得にもなんねぇよ」 「だがまあその心意気に免じて教えてやってもいい」 「本当だろうか」 「これが仕事だったらそうはいかねぇんだがよ、これは趣味だからな。カネは取らないでおいてやるよ」 「ノエルから依頼された業務ではないのか? だとしたらキミの目的は――」 「俺はただ世の中の真理ってやつを教えてやろうとしてるだけだよ」 「……まあ、アンタは最後まで気づかないのかもしれないがな」 「ちっ、混んでやがる。ツイてねぇなあおい」 「おい、さっさと前の車どかしてこいよ。これじゃせっかく手に入れた研究材料が腐っちまうだろうが」 「無茶を言わないでください、漆原博士。駅前が混んでるのはいつもの事でしょう」 「ちっ、何の意味もねぇ正論吐いておもしろいか? そんな暇あったら片輪走行で車の間をすり抜ける練習でもしとけ」 「そんな事したら捕まり――えっ」 「どうした?」 「いや、何かビルの上から降って――うわぁ!?」 「な、何だ――!? 何が起きた!?」 「前の車が潰れて――人が!!!」 「そんなに急いでどこいくの、にゃ?」 「お、お前は……どうしてここに――!?」 「ずっと見てたからにゃ。キミが菜々実なるの死体を車で運んでるのも知ってるにゃ」 「……一体どういうつもりだ、街中でこんな騒ぎ起こしちまってよ。隠蔽するのも楽じゃねぇんだぞ」 「何人たりともボクを鎖に繋いでおくのは無理なんだにゃ。それがたとえ“AS社”でも、にゃ」 「だからボクは、キミを殺す♪ それはもうグッチャグチャに跡形もなくにゃ♪」 「それくらいしないと、キミは死ななそうだからにゃ」 「マジかよ……最悪な奴に目をつけられちまった」 騒然とする周囲を余所目に、目的の相手は粉々になった車の上で男を見下ろしていた。 私がやり残した事のひとつ―― この身を賭しても消し去らなければならない相手。 あちらの事情などお構いなし。他人に気を配る余裕なし。 残された時間は幾ばくもない。面倒事はさっさと終わらせるに限る。 「どわっ!? 今度は何だ!?」 「やあやあ、ちょっと横から失礼しますよ」 「…………」 近くにあった街灯を引っこ抜いて投げつけてやったけど、当の本人は微動だにしなかった。 やっぱり面倒な相手だ。やはりこいつは消しておかなければならない。 私がご主人の為にできるのは、もうこれくらいしかないのだから―― 「おもちゃが勝手におもちゃ箱から出てくるなんて一体どうしたのかにゃ? キミ達と遊ぶのはもう少し後なんだけど」 「すみませんねぇ。でもあなたに言わなきゃいけない事があって」 この身が朽ち果てようとも、私は自分のやるべき使命を遂行する。 「私は剣咲ノエル。ちょっとあなたを殺しにきました」 運命は望まぬ方向に加速していく。 でも私に止める術はなく、黙って受け入れるしかない。 それは私に課せられた罰なのだから―― 「…………」 「ねぇねぇみつきちゃんも一緒にテレビ見ようよ」 「……すみません、気分が乗らないので私は遠慮致します」 「んー、あかしくんとのえるちゃんのことが心配なの?」 「……ひまわりさんは心配ではないのですか?」 「ぜーんぜん♪ だってあかしくんはすぐ帰ってくるっていってたし、のえるちゃんも一緒だから」 「……お二人の事を信頼しているのですね。私はまだ、そうもいかないようです」 「んー、心配だったらお電話してみたら? でもおしごと中だったらおこられちゃうかも」 「そうですね。もう少し待ってもお戻りにならなかったら電話してみましょう」 「きゃっ――!?」 「じ、じしんだよぉー!! みつきちゃん、つくえの下にかくれてー!!」 「な、何の音でしょうか……? 遠くで聞こえたような気がしますが」 「あれ、じしんじゃないの?」 「多分違うと思います。揺れたのは一瞬ですし、物凄い大きな音がしましたから……」 「んー、窓から見てもなんにも見えないよー」 「古くなった建物が崩れたのかもしれません。危ないですからここから出てはいけませんよ」 「異変が続くようでしたら、私が様子を見てきますから」 「キミのコト、覚えてるよ」 「一昨日、ホテルで会ったよね。覚えてる?」 「ええ、もちろん覚えていますよ」 「また会いたいにゃって思ってたんだにゃ。こうしてめぐり合えたのは運命かにゃ?」 「あなたと運命で繋がりたいとは思いません」 「つれないにゃー。ボクはあの日から片時もキミ達のコト忘れてなかったのに」 「綺麗なお肌だにゃ。張りも良さそうだし、スリスリしたいにゃぁ」 「……だけど、今はそれどころじゃないんだにゃ。ボクもこう見えて忙しい身だから、遊んでばっかりいられないのにゃ」 「だから――」 「だからさっさと殺されてくれないかにゃ」 「キミのお肌を貫いたら、きっと勢い良く血が吹き出るにゃ」 「遊びだと思って慢心してたら痛い目を見ますよ」 「どちらにせよ、あなたにはここで死んでもらうんですけどね」 「にゃはっ♪ やっぱりボクの目に狂いはなかったみたいだにゃ。今まで遊んだ中でもとびきりのオモチャだにゃ」 「だけどキミの心には焦りが浮かんでるにゃ。隠そうとしてもボクの目は誤魔化せないんだにゃ」 「ええ、早くあなたの喉元を捻り潰したくてうずうずしてますよ。私も何かと忙しい身ですから」 「だったらキミから仕掛けてくればどうだにゃ? それとも仕掛けられないのかにゃ?」 「…………」 「懸命な判断だにゃ。その手を離した瞬間、キミの身体は串刺しだにゃ」 「それはそうと、キミが焦ってる本当の理由があれかにゃ」 「感じるにゃ? 大気を震わすような激しい感情が近づいてくるの――」 「見つけたぞ」 「何だかすっごくお怒りだにゃ」 「用があるのはキミみたいだけど?」 「…………」 「丁度良かった。ボク、先にやらなきゃいけない用事があるんだにゃ。ここはキミに任せてもいいかにゃ?」 「キミの事情は把握していない。だから邪魔をするなら排除するし、立ち去るというのなら止めはしない」 「じゃあお言葉に甘えるにゃ。ザンネンだったね、彼が来る前にボクを殺せなくて」 「だけど安心して。あっちの用が済んだらすぐに戻ってくるから」 「そしたら今の続きをしようね。今度は時間を気にせずたっぷり可愛がってあげる」 ご主人を差し置いて、この狂った悪魔を殺すのは困難だった。 名残惜しそうに微笑みながら、偽物の“《ファントム》〈亡霊〉”はビルの谷間に消えていった。 事実上、私の目的は未達成に終わった。 終わった事を悔やんでも仕方がない。 私にはまだやるべき事が残っている。 「悲しくなるほどに必死だな“《ファイヤドレイク》〈赤銅の火竜〉”。それでこそ、私も今まで貴様を騙してきた甲斐があるというものだ」 それは自らに向けた言葉―― 私は命をかけて、この物語を終わらせなければならない。 ノエルは私に背を向け、駅の方へと跳躍した。 この後に及んで逃走を図ったわけではないだろう。私から本気で逃れようとは見えない。 「場所を変えるというわけか」 どこへ行こうと言うのだろうか。 今更、罠を張っているとは考え難いが、仮にそうだとしても私に選択肢はない。 ノエルの誘いに乗り、私も彼女の後に続いた。 「一体どういうつもりだろうか」 走行中の電車に飛び乗ったところで、ようやくノエルは動きを止めた。 恐らく私達の行為は社会のルールで認められていない。だが今はそれどころではなかった。 ノエルは私の言葉を無視し、窓を蹴破り車内へと侵入した。 同様に私も続く。 「うわあっ――!?!?」 車内に入ると突如として現れた侵入者に対して驚きの声が上がった。 「あ、あんたどこから入ってきてるんだ!? そもそもどうやって!?」 「驚かせて申し訳ない。だが今は非常事態だ」 「そうそう。だからアンタらは大人しくしといてくれ」 聞き覚えのある低くしゃがれた声に振り向くと、車内に甲高い音が響き渡った。 「ケツの穴を増やされたくない奴は、前に習えで並んで最後尾の車両まで移動しろ」 「江神、どうしてキミがここに」 江神は右手に黒い鉄の塊を掲げ、左手で車掌と思しき制服に身を包んだ男の首を掴んでいた。 「いやなに、ちょっとこの電車を乗っ取っちまおうと思ってな。すぐに終わらせるから待っててくれ」 普段と何ら変わらぬ様子で江神は口元を歪める。 手際よく車内の客は江神に誘導されて後ろの車両へと移動していく。 「邪魔な人間共は奴に任せておけばいい」 異様な光景に目を奪われていた私は後ろを振り返る。 「一体何がしたい。お前の目的は私ではないのか」 「そうだ。だから最高の舞台を用意してやった。この電車が向かう先はどこだかわかるか?」 車内の案内盤を確認すると、どうやら昼間利用した方向とは逆のようだ。 「旧市街を通過して別の街へ行くのではないか」 「半分は正解だ。旧市街は通るがそれ以上進む事はない」 「倉庫の近くにある線路を爆破した。電車は線路から脱線する。この意味がわかるか?」 その言葉が確かならば、この電車はいずれ致命的な大事故を引き起こす。 だがそれ以上に引っかかったのは、わざわざ倉庫の近くと表現した事だ。 「まさかこの車両は――」 「そうだ。健気に貴様の帰りを待つ、二人のいる倉庫に衝突する」 「嘘だと思うのなら、直接聞いてみてやろう」 そう言うとノエルは携帯電話を取り出し、どこかへ掛け始めた。 「あ、もしもし、美月さんですか。私です」 ノエルが携帯電話を操作すると、通話の声が聞こえるようになった。 「ノエルさん? 今どこにいらっしゃるのですか?」 「色々あって、もうすぐ帰るとこですよ。それはそうと何か変わった事はありませんでしたか?」 「変わった事、ですか……? そういえば、ついさっき外で大きな音がしたのですが、原因がわからなくて」 「危ないですからひまわりさんにも外に出ないよう言ってあります」 「それはそれは。危険ですから私達が戻るまでそこから動いちゃ駄目ですよ。いいですね」 「九條、そこから――」 「えっ、あか――」 私の言葉は電話の向こうに届かなかった。 「これでわかっただろう。この電車を止めなければ、貴様の大事にしているものが失われる」 「七年前の再現だ」 「……どうやら本気なのだな」 心のどこかで私はまだ信じていなかったのかもしれない。 だがこの状況では、彼女を敵だと認識せざるを得ない。 ひまわりと九條の首元に死神の鎌を突きつけているというのに、何の躊躇いや迷いも感じられないのだから。 「おう、こっちは終わったぜ」 拳銃をぶらぶらと揺らしながら江神が戻ってくる。 「キミが今加担している行為を理解しているのだろうか。電車を占拠するなど、おおよそ社会のルールでは認められていない」 「ヒヒッ、んなことは百も承知さ。趣味、とは言ったが、俺だって趣味で身を滅ぼす馬鹿じゃねぇ」 「なぁに、心配しなくてもリスクに見合うリターンはちゃんと頂くさ」 「もしも電車が暴走して大事故を起こせば、管理している鉄道会社の株はダダ下がりするだろ?」 「そうなると都合の良い連中ってのがいてな、これはそいつらから受けた仕事だ」 「だから中で何が起ころうと関係はないんだよ。アンタらで好きに使ってくれて構わない」 「電車が事故を起こせば大勢の人間が死ぬ。キミも例外ではないだろう」 「心配しなくても、いざとなったら電車から飛び降りるくらいの事は覚悟してるよ。俺はこう見えても人より傷の治りが早くて頑丈なんだ」 「それより、アンタは自分の心配をした方がいいぜ」 江神の視線が私の肩口を超えた先に向けられた。 振り返って状況を見極める暇もなく――眼前まで迫ったノエルの拳を受け止めるだけで精一杯だった。 「っ――!」 “《デュナミス》〈異能〉”で強化された強烈な一撃は、到底私の身体で支えきれるわけもなく、物理法則に従って後方へと殴り飛ばされた。 何度目かの扉の貫通を経て、ようやく身体に働いた慣性の力は収まった。 「うわぁ! あ、あんた大丈夫か!?」 「ダメージとしては軽微だ。目立った損傷もない」 縦に並んだ前方の車両に目を向けるが、小さく江神の姿を捉えただけで肝心のノエルは消えていた。 車両の内部にいないのであれば―― 「ひゃあっ――!?」 両足で窓を突き破り、そのままの勢いで下半身を持ち上げて電車の上部へと移動する。 外に出ると周りの風景が徐々に街灯や生活の気配といったものが失われていくのを感じた。 旧市街に侵入するのも時間の問題だろう。 「戦いを始める前に聞きたい事がある」 予想通り、車両の上で待ち構えていたノエルに向けて言葉を放つ。 「前提として明確にしておいてほしい。お前が“《ファントム》〈亡霊〉”で間違いないだろうか」 「二度も言わせるな。それとも信頼していた従者の裏切りは思った以上に堪えたか?」 「そうだな。私はお前を信頼していた。それは間違いないだろう」 「ならばお前が“《ファントム》〈亡霊〉”だと確信した上で問おう。七年前、お前は私から何を奪った」 「お前は本当に何も覚えていないのか?」 「…………」 焦燥を促す遠い日の光景―― 炎に包まれ“何か”を見下ろす“《ファントム》〈亡霊〉”。 そしてもう一人、その場に誰かが―― 「お前は知っているのだろう。ならばお前の口から聞くだけだ」 「だが手加減できるとは思えない。勢いあまって殺してしまうかもしれない。だが重要なのは決着をつける事だ」 「その意気だよ“《ファイヤドレイク》〈赤銅の火竜〉”。余計な気を回してあっさり死んでしまったらせっかく用意した舞台も台無しだ」 「心配しなくてもいい、最初から全力だ。最早この状況は私一人の問題ではないのだから」 「――紅蓮の夢、その身で受け止めてみるがいい」 自らの身体を触媒にし、“《イデア》〈幻ビト〉”そのものとも言うべき“《アーティファクト》〈幻装”を顕在化させる。 “AS社”の少女と戦ったケースとは異なり、契約した“《フール》〈稀ビト〉”ではなく自分自身の身体から取り出す。 「っ――」 やはり前回とは違い、身体にかかる負担の差が大きい。“《アーティファクト》〈幻装〉”を出したからには早急に勝負をかけなければならない。 「そうだ、悠長に構えている暇はない。二人を守りたければ、全力でぶつかってこい」 「私を打ち破らねば、どの道奴等は助からないがな――」 大気が震えるような感覚――忘れかけていた懐かしい記憶が蘇る。 それは誰かに自慢できるような思い出話などではない―― “《ファイヤドレイク》〈赤銅の火竜〉”と“《ベオウルフ》〈英雄王”の伝承にも劣らない戦いの記憶だった。 喩えるならば“大地”―― それはこの星の礎として相応しい重厚感と広大に広がる巨大さを体現していた。 無骨な印象が邪魔をし、剣と呼ぶよりも鉄塊と表現した方がしっくりとくる。 「悠久の時を越えて、あらゆる因縁を今ここで断ち切る」 「望むところだ」 “《アーティファクト》〈幻装〉”を出した以上、互いに様子見は選択肢から除外されている。 武器の特性上、ノエルが先に仕掛けるのは必然だった。 両者の間に横たわっていた距離が瞬く間に消滅した。 武器の重量感など無視した弾丸のような突進から繰り出される横薙ぎの一振り―― 受け止めるなどという愚策は取れるわけもない。 「ハッ! 足場の悪さを感じさせない良い動きだ!」 回避に成功した喜びに浸る暇などない。 すぐに切り返しの一撃が私を襲う。 「好戦的だな。昔のお前を見ているようだ」 「感慨に耽っている余裕があるとはな――!」 本人の並外れた怪力で補われているとはいえ巨大な武器である以上、至近距離では本来の力を生かしきれない。 その上、縦方向の斬撃を繰り出すわけにはいかない。足場となっている電車を破壊してしまうからだ。 制約のある攻撃ならば、回避にだけ専念すればかわせないほどではない。 私のやるべき事は―― 「どうした! 避けてばかりでは話にならないぞ!!」 「ああ、そうだな。ではこちらからもいかせてもらおう」 細かな動きができる攻撃方法ではなく、ある意味リズムが存在する。 反撃に最適な瞬間は斬撃をかわした反動が残っている瞬間――次の攻撃が繰り出される前の予備動作に入った時だ。 「ふんっ――!!」 胴を二分しようと襲い掛かる大剣を棒高跳びの要領で回避する。 そしてそのままの勢いで密接したノエルのこめかみに膝を叩き込んだ。 「っ――!?」 人間の身体を模している以上、急所は数多く存在する。 おおよそ致命傷となる一撃だったはずだ。 「……何だこれは」 しかし私の取った行動は、子供が親を困らせる程度の不快感を与えただけだった。 いけない――咄嗟に“《アーティファクト》〈幻装〉”の銃口を向けて引き金を引く。 しかし射撃とは本来一定の距離があって始めて効果が得られるものであり、間合いを詰められた状態では当たるはずもなかった。 発射された弾丸の軌跡は先頭を走る車両のすぐ脇に着弾する。 弾け飛んだ瓦礫が電車の外壁に接触する音が届いた。 「もう一度問おう。何の茶番だこれは」 「ぐっ――!!」 苛立ちは怒りへと変わり、暴力へと変化して私の身体を襲った。 胸の辺りを襲った蹴りに呼吸が止まる。 身体は後方へと大きく吹き飛ばされるが、電車から転落する前にどうにか体勢を立て直した。 「私を舐めているのか?」 “《デュナミス》〈異能〉”によって強化された身体にとっては、私の膝蹴り程度など児戯に等しかったようだ。 「何故、加減をした」 「加減?」 言葉の意味がわからない。いや文法としての理解はできるのだが、私は手加減を加えたつもりは一切なかった。 「……まあいい。貴様にまだ甘えが残っているのなら、それを抱えたまま死ぬのだな」 どちらにせよ私の反撃は肉体的なダメージを奪えずに感情を逆撫でしただけのようだ。 「私は貴様と違って手心を加えたりはしない」 両者の距離は20メートルほど―― にも関わらずノエルは腰を回転させ、斬撃の予備動作に入る。 いかに通常の剣とは違うと言っても、大よそ攻撃の射程範囲では―― 「いけない、あの“《アーティファクト》〈幻装〉”は――」 危機感を改めるのがもう少し遅ければ、対処する暇もなく私は終わっていたかもしれなかった。 構えられた“《アーティファクト》〈幻装〉”が肥大化する。 その全長は縦長の車両をも上回っている。この場において、絶対安全距離など存在していなかったのだ。 「うらあああああああああああああああああああああ――!!!!!」 巨大な弧を描く大剣――その進行上に障害物があろうがお構いなく、コンクリートを叩き潰しながら私に襲い掛かった。 「――!?」 油断していた分、自身の“《アーティファクト》〈幻装〉”を防御に利用せざるを得なかった。 支えを失った身体は回転しながら弾き飛ばされる――――私の手が転落の寸前で電車の突起部分を掴めたのは幸運だったとしか言い様がなかった。 「無様だな“《ファイヤドレイク》〈赤銅の火竜〉”。私と対を成して語られる存在とは思えんな」 「まだ私は生きている。勝敗は決していない」 「そうだな。だがそろそろ態度で表してくれないと、私も空しくなってしまうぞ」 電車の側面からよじ登る私を眺めるノエル―― その姿はまるで戦いを楽しんでいるように見えた。 どんな形であれ、極限状態に陥れば人間はストレスを感じる。だが全てがそうとは限らず、例外的に快楽を覚える者もいる。 目の前で仁王立ちしている者は少なくとも私の目には後者に写った。 「…………」 違和感―― その姿は記憶の中で立ちはだかる“《ベオウルフ》〈英雄王〉”と乖離している気がした。 「さあ、息をついている暇はない。私もこの電車も悠長に待っているほど気が長くないぞ」 大剣を携えながら再び斬撃の構えに入る。 違和感はさらに加速する―― 私が攻撃の直前で反応できたのは、相手の“《アーティファクト》〈幻装〉”の性能を把握していたからだ。 それは何も一方的な話ではなく、私の“《アーティファクト》〈幻装〉”に備わった性能も知っている。 いかに距離が離れていようと、そうやって隙を晒す行為は自殺行為だ。当然ながら膝蹴りと紅蓮の炎を同列に語れはしない。 私が見ている光景は虚像か、真実か。 どちらにせよその姿はまるで―― 私に撃ち抜かれるのを受け入れているようだった。 「うらああああああああああああああああ――!!」 繰り返される大味な一振り――電車は移動しているため、破壊するための障害物もまた新たに存在している。 斬撃の角度も全く同じ。 躱した後に生まれる隙の長さも把握している。 合理的な判断に従えば、私のやるべき行為は決まっている。 しかし、湧き上がるように生まれた疑念は四肢をかけまわり、迷いとなって私を縛る。 どうする――私はどうすべきなのだ……? 疑念を取り払う方法はすぐに思い浮かんだ。 だが私の思い違いだったとしたら、その代償として失うものはあまりにも大き過ぎる。 「私は……」 何のために生き、何を守るべきなのか――その問いに直面した時、真っ先に想像した者達の姿を見て、私の覚悟は決まってしまった。 私は最悪の結末を予感した。 “《アーティファクト》〈幻装〉”を伝う感触は、無機質なコンクリートだけでなければならない。 万が一にでも、最愛の人をこの手にかけてはいけない。 予告たっぷりの動作から放たれた攻撃なんて、ご主人なら軽くかわしてしまうだろう。そんな思い込みがなかったとは言えない。 だってそうでしょう……? 自分の命が奪われようとしているのに――その場で微動だにしないなんて想像できるわけないじゃないですか。 「お前が本当の意味で動揺する姿を初めて見た気がする」 「なあ、ノエル」 「っ――!?」 “《アーティファクト》〈幻装〉”が肉薄して首を斬り落とされそうになっているというのに―― あろう事か、ご主人は今まで見た中で一番の微笑みを浮かべていた。 「寸前で動きを止めた刃だけでは確信を持てなかった。だが――」 「お前の顔を見て、確信したよ」 状況を上手く飲み込めなかった。そのせいで綻びを取り繕うのが遅れてしまった。 「一体何の話をしている」 決壊しそうになるダムに《どのう》〈土嚢〉を敷き詰める。 「賭けに勝つというのは気持ちが良いものなのだな、ノエル」 「私をその名で呼ぶな――!」 だけどその奔流はあまりにも巨大な力で、凶悪な言葉として襲い掛かった。 「優しく、精一杯の愛を込めて呼べばよいのだろう?」 「っ――!?」 「言葉のニュアンスが落第点なのだとしたら、今は大目に見てほしい。私はまだ愛について理解が及んでいないのだ」 「黙れっ――!! その首を斬り落とされたいのか!!」 “《アーティファクト》〈幻装〉”を持つ手が震える。 全身が金縛りにあったように、私は指一本動かせなかった。 「それは困るな。私にはまだ、やらなければならない事が残っている」 「……ノエル。お前は“《ファントム》〈亡霊〉”ではない」 「…………」 やめて―――― 「何らかの理由があって、そう偽らなければならない理由があるのだ。自らの命と引き換えにしてでも、突き通さなければならない嘘が」 「勝手な妄言だな……!」 「ノエルの言う事はいつも正しい。今までの私ならお前の言葉を疑いはしなかっただろう」 「だがそれは真の意味での信頼ではなかったのかもしれない。ただ一方的に頼っていただけだったのだ」 近付かないで―――― 「だから私は本当の意味でお前を信じた。私と共に生きてきた、剣咲ノエルを始めて信用したのだ」 それ以上言っては駄目です。 それ以上真実に踏み込んでは駄目なんです。 私が守りたいのは――――ご主人だけなんですから。 「……私はここ数日で変わったように思える。ひまわりや九條との出会いが私に変化をもたらした」 「えっ――?」 「人間は誰しも譲れぬ思いを胸に、この混沌とした世界を生き抜いている。無意味な者などどこにもいない」 「それに気づき始めた時、もっと他人に興味を持ち、尊重しなければならないと思うようになった」 周りの景色に見覚えを感じる。 倉庫に衝突するまで、およそ3000メートル――もう時間がない。 あの探偵の用意した計画に乗った事を後悔してももう遅い。 気分は最悪。だから乗り物は嫌いだ。 「ひまわりや九條、彼女達も己に降りかかった境遇に対して一生懸命に生きている」 そうまでしてこの茶番に身を捧げようとしているのに。 なのに、どうしてご主人は今になって。 「二人の影響がないと言えば嘘になるのだろうな」 七年間――私がどんなに頑張ってもできなかった事。 そのせいであの時の記憶が戻ってしまうのなら、ずっとこのままでいいと諦めていた事。 「しかしノエル、それはお前にも言える事ではないか」 残り2500メートル――この段階になったらブレーキをかけるはずなのに、あのクソ探偵は何をしている。 「おいおい、どうして操縦席がこんなにぶっ壊れてるんだ!? この石はどっから飛んできやがった!?」 「チッ、これじゃ本当に地獄へ一直線じゃねぇか! ふざけんじゃねぇぞ、おい!」 「とーまーれー!!」 「あっ……」 「この際、お前が何故嘘をつかなければならなかったのか。それは聞かない」 「今はこの電車を止めなければひまわりと九條、そして車内にいる乗客の命がない」 「…………」 「やはり私は変わったようだ。以前ならば、無関係な人間の命に執着する事もなかっただろう」 「……駄目です」 「何がだろうか?」 最早、体裁を取り繕う余裕もなかった。 「ご主人は、ここで私を殺さなければいけないんです……」 口から出るのは心の叫び―― だけどそれは今のご主人に届かなかった。 「それは断る。ひまわりと九條、同等かそれ以上にお前を失いたくはない」 「お前の意志は尊重したい。だが今は私とて引き下がるわけにはいかないのだ」 「苦労をかけてすまない」 その《コトバ》〈一撃〉で、かろうじて張り詰めていた糸は完全に切断されてしまった。 もう――ご主人を止める術はない。止められるわけがない。 だって私が七年前に奪ったものを、ご主人はたった数日のうちに取り戻してしまったのだから……。 ノエルはこれ以上私を引き止めはしないだろう。 今の彼女からそんな気配は感じられない。 となれば目下やるべき事はこの電車を停車させる事だ。 車両ごと、“《アーティファクト》〈幻装〉”で吹き飛ばしてしまおうかとも考えたが、それでは乗客は助からない。 今からでは後部の車両だけ切り離している余裕もなさそうだ。 となれば車両に搭載しているブレーキを作動させるしかない。 車内に戻り、操作パネルが設置されているであろう先頭車両に向かう。 辿り着いた先に待っていたのは、柄にもなく必死な様子な江神だった。 「電車のブレーキを作動させてもらおう」 「見てわかんねぇのか。俺が今必死で非常用のブレーキをかけようとしてんだろ」 江神は客席近くに設置されていた箱を開けていた。 「非常用ではなく、正規のブレーキをかければいいだろう」 「それができたらやってるよ! 知らねぇけど石の塊が操縦席にぶち当たってぶっ壊れてるんだよ!」 確かに江神の言う通り、操縦席の中は巨大なコンクリートがめり込んで操作パネルを破壊していた。 「どうしてあんなのが降ってくるんだ!? 一応絶賛稼動中の路線だろ!」 「…………」 原因に心当たりがないわけではないが、今考察する意味はないだろう。 「うおっ――!!」 江神の操作した非常ブレーキが作動したようで、急激な減速による慣性の力が身体を襲う。 「チッ、これでも間に合わねぇんじゃねぇか!」 車両のブレーキは作動した。いずれ停車するのは間違いない。だが今は一刻一秒を争うのだ。 「おいおいおいおい――!?」 江神の視線が運転席を越えて広がる光景に向く。 真っ直ぐ伸びた路線が途切れたその先に、黒い穴をぽっかりと開けた地獄の入り口が、今か今かと口を開けて待ち構えていた。 「仕方がない」 「おい、どこへ行く――!?」 「力ずくで電車を止める」 「はぁ――!?」 「くっ――!!」 1両30tを超す超重量の鉄塊――――その突進を受け止められるだけの性能は、私の身体には備わっていない。 脚を踏ん張ろうとするが力を入れ過ぎると、車両に巻き込まれて全身を破壊されてしまうだろう。 私のやっている行為は無意味かもしれない。 だが、いつからだろうか――精一杯取り組んだその結果が、たとえ望んだ結末にならなかったとしても無意味ではないと思うようになった。 だが今は―― 「到底納得できるわけがない――」 賽の目がまだ出ていないのなら、できる事がまだ残っているのなら―― 私は諦めたくはない。 「ぐっ、このままでは――」 線路の崩落地点がぐんぐんと近づいてくる。 後100メートルほどだろうか―― 電車の車輪は回転を止めている。 だが既に得ていた推進力は未だ衰えず、車輪と線路の接地面からおびただしい量の火花が発生していた。 身体に掛かる負荷と現実が私の身体を襲う。 こうなれば、車両を“《アーティファクト》〈幻装〉”で破壊するしか―― 九條とひまわり、そして乗客の命を天秤にかけたその時――懐かしい香りが私の胸に舞い込んだ。 「…………」 「ノエル――」 彼女は私の言葉に反応しない。 それでも“《デュナミス》〈異能〉”を発動させた彼女は他の何よりも頼もしかった。 今やるべき事――それはノエルも理解していた。 「止めますよ。これが突っ込んだら、さすがに洒落になりませんから」 「そうだな、お前が来てくれて助かった」 「…………」 援軍の到着で希望の火が燃え上がる。 その火は抽象的な表現の枠を越え、実際に身体の芯を熱く滾らせた。 「……この力は」 残り30メートル――感覚の原因を突き止めている暇はない。 今私にできるのは、己に生まれた予感に全てを委ねるだけだった。 「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉ――!!」 身体中を躍動する無限大の力――まるで“《ディストピア》〈真世界〉”にいた頃の感覚―― 同じ体験をつい最近した覚えがある。九條と共に、ホテルの最上階から飛び降りた時と同じだ。 「誰の功績なのかは知らないが、この力利用させてもらおう――!」 右手を前に突き出す。 体内を駆け巡る血液全てを放出するイメージ―― 「ぐっ――!!」 電車の持つ推進力を打ち消そうとする爆風の力―― 間に挟まれた私の身体は悲鳴を上げるが泣き言など言っていられない。 残り10メートル―――― 「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――!!!!!!!!!!!」 「ひ、ひまわりさん――!? 危険ですから外に出てはいけませんっ!」 「だってすごい音したんだもん。みつきちゃんだって気になるでしょー?」 「それはそうですか……」 「わっ!? 見て見て! 電車がおっこちそうになってるよ!」 「な、何という事でしょう……!?」 「あれ……?」 「あっ! あかしくんとのえるちゃんだっ♪」 「えっ!? お二人がいるのですか!?」 「おーい♪ あかしくーん、のえるちゃーん♪」 線路から転落した車両は3両ほどだろうか―― どうにか後方の車両が支えとなって完全なる落下は免れたようだ。 「あと少し力が足りなかったら私達は押しつぶされていたな」 私達の身体は先頭車両にぶら下がる形でどうにか地面との接触を免れた。間一髪とはこの事だろう。 「ひとまず危険は脱したようだな。それは喜ぶべきだろうが」 問題はまだ残っている。私はノエルに聞かなければならない事があるのだ。 「話を聞かせてもらえるだろうか」 「…………」 腕の中で俯くノエルは黙ったままだ。 「何故私を欺く必要があったのか」 「私の過去に何が起きたのか」 「そして“《ファントム》〈亡霊〉”とは一体――」 「……ですね」 「ん……?」 「うるさいですね、今くらい助かった感慨に耽ったらどうですかっ」 始めてノエルに叱責された驚きを噛み締める前に、私の唇は奪われてしまった。 「んっ…………」 「はむっ……んちゅ……ちゅっ……」 「……っはっ、助かった喜びは感じている。だが――」 「んちゅっ――」 私の発言はことごとく遮られる。 「んちゅっ……ちゅ……ちゅっ……」 「あーっ! あかしくんとのえるちゃんがチューしてる! しかも大人のやつだよあれ!」 「う、羨ましいです……」 「えっ、みつきちゃんなんか言った?」 「い、いえ、空耳ですよっ」 「んっ……せっかくの幸運もそっちのけにしちゃう人は、私のキスで全部忘れさせてあげます」 「むっ……キスには記憶を消去する効果があるのだろうか。だとしたらこれ以上は――」 「気持ちの話、ですよ。だから……」 ノエルの顔に影が落ちる。だがそれは一瞬の出来事だった。 「もしも私のキスじゃご主人を満足させられなかったら、その時は……」 「ノエル……」 諦めにも似た自虐的な微笑みを浮かべるノエル。 その姿は儚げで壊れてしまいそうな危うさを感じ、私は腕に込めた力を一層強くした。 「お前の言う通りかもしれない。今は二人で勝ち取った未来を喜ぶべきだろう」 ノエルはもうどこにもいかない。ずっと私の腕の中に居続けるだろう。 ならば焦る必要はない。彼女が自ら話してくれるまで、しばしの時を待つとしよう。 「今帰った。遅くなってすまない」 「おかえりっ!」 「お帰りなさい」 この手で守れた物の価値を改めて噛み締める事にしよう。 今、この瞬間だけは、全てを忘れて―― 今日は降ったり止んだりだ。 それ自体は構わないが、この光景は何ともおかしなものだ。 上方に設置された線路から車両が飛び出している。 「これは後始末が大変そうだ。しばらくここも騒がしくなるだろうな」 事態の解明と復旧に大勢の人間がやって来るだろう。彼らに目をつけられては色々と面倒な事になる。 「ねぇねぇ、あかしくんたち帰ってきたんだから、ゴハン食べにいこうよー」 「そうだな、諸々の対応はひとまず置いて倉庫に帰ろう。対応策はそれからで――」 事態を収拾させたことで油断していなかったと言えば嘘になる。 張り詰めた緊張感が途切れた状態――緩みきった心へと容赦なく襲い掛かった殺気に身の毛がよだった。 「っ――!?」 それを察知したのは私だけではなかった。 気配のした方へと反射的に振り向く。ある種の確信を持ちながら―― 体感した事のある純粋な悪意―― 間違いようがない。私はあの者と遭遇した事がある。 「……どうやらあの殺意は私達に向けられているようだ」 あの者が何者なのか――そして私達を狙う理由については検討もつかない。 だがひとつだけはっきりしている。いつかのように私達を見逃す気はさらさらない。 「……私が行きます」 「お前だけに任せるわけには――」 背を向けて歩き出すノエルを追おうとして下半身の力が抜けた。 「無理をしないで下さい。ご主人は“《アーティファクト》〈幻装〉”を越える力を使ったばかりなんですから」 「しかし――」 「大丈夫ですよ。ご主人達が逃げる時間を稼ぐくらいの余力は残ってますから」 「だから二人を連れてこの場を離れてください。私もしばらくしたら後を追いますから」 「……足手まといになるつもりはない。お前の言葉、信じてもいいだろうか」 「……嘘をつくのは嫌いなんです」 「ならいい」 ノエルは満足したように微笑むと、ぶら下がった電車の車両を伝って狂気の根源へと向かっていった。 「私達も行こう。ノエルにかける負担を増やしてはいけない」 彼女の為にできる事――それは一刻も早くこの場から離脱する。 歯痒さに苛まれるが迷っている暇はない。 私はノエルを信じると決めたのだから。 やはりあの時仕留めるべきだった―― 己の失態を呪いたくなる。でも今更悔やんでも状況は好転しない。 奴の気配は私を待ち受けているかのようにその場から動かなかった。 好都合だ。ご主人達が逃げる時間は長いほど良い。 正直、“《デュナミス》〈異能〉”と“《アーティファクト》〈幻装”を使った影響で身体が重い。 ハンデを背負って勝てる相手じゃない。悔しいけどここは時間稼ぎに徹するしかない。 奴を消すのはまたの機会に―― 「――!」 影から現れた気配に足が止まる。 奴じゃない。一体誰だ―― 「よう、急いでるところ悪いんだがよ、ちょっといいか?」 「二人とも、急いで欲しい」 ――――と、言っているそばから九條の姿がなかった。 「ひまわりこれ以上はやく走れないよー」 すぐにでも九條を探して、今度はハグレないよう手を繋いででも引っ張っていかねばならないだろう。 「……仕方がない、私の背に乗ってほしい」 ひまわりが履いているのは強度的にも不安のあるサンダルだ。 私は足を止めひまわりの前に跪きながら、スニーカーの購入を心に決めた。 「さあ、早く」 「うん――」 ひまわりの手が肩に触れた時―― 頭上から襲う爆発音に、反射的に首をひねった。 「えっ――」 驚きの声を上げたのはひまわりだけだ。 だが彼女は代弁しただけに過ぎなかった―― 線路の壁が砕け、粉塵を伴って宙に放り出される黒い点―― 見る見るうちに点は形を成し、人の形を形成した。 影の落下地点は私の目の前。 重力に従って影は落ちていく。 「……………………」 「え…………?」 《・・・・・・・》〈何が落ちてきた〉――――? 衝突の影響で潰れた頭蓋骨から吹き出す鮮血。 酷く冷めた温度の液体が頬にこびりつく。 「は…………?」 足元が揺らぎ、自分と世界の境界線が曖昧になってゆく。 私という人格が侵食され犯されてゆく。 紛れも無い致死量――――。 「あ、あ、あ……」 「ぅああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁ――!!!!!!!!」 私はまた失った。 足りなかったのは何だ。力か、勇気か――? 何もかもを犠牲にしてもいい。 何もかもを差し出してもいい。 だから――神よ。 この世界から、私を解放してくれ。 「ああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ――!!!!!!!!!!」 「結衣ぃぃいいいいぃぃいいいいいいいいいッ!!」 背後で何者かの叫びが轟く。 思考を促そうとしても視界に広がった血の色がそれを許そうとはしない。 「ノエル……何故だ」 いつものように声を弾ませて私に微笑んでくれ。 愛の言葉が足りなかったというのなら、お前の気が済むまで囁こう。 「あぁ…………」 どれだけ祈り、後悔を重ねてもノエルは決して立ち上がろうとはしなかった。 誰のせいだ? 誰に罰を与えればいい? 私からノエルを奪った者がいるのなら、その者からも奪わなければいけない。 真っ赤に染まる視界に黒い塊が飛び込んでくる。 それがマスターの乗った四輪車だとすぐには気づかなかった。 「赫さん――! 乗ってください!」 「マスター……」 車から降りたマスターは私に駆け寄り肩を持ち上げる。 「あなたにはまだやらなければいけない事があるんです。しっかりして下さい」 「…………」 私の四肢は求めに応じることはなく、抵抗を試みる事もなかった。 力のない身体はされるがままに車の後部座席へと押し込まれる。 「ひまわりさんも一緒に来て下さい」 マスターの意図は見えない。今更私に何の用があるのだろうか。 「……だから何だと言うのだ」 全てはもう終わってしまった。 抜け殻だ。 私にできるのは、私から大事なものを奪った者への復讐くらいではないだろうか。 「どこへ連れて行こうって言うんだよッ!!」 まただ――誰かの必死な叫びが私の耳に届く。 「止まらないなら無理矢理にでも止まってもらう――!!」 どこかで見た気がする少年――その手から氷塊が放たれ車両を襲う。 だが車両を狙ったと思われるそれらは、運転手の意思によって阻まれた。 「…………」 あの瞳――確固たる意志を秘めた力強さを感じる。 もしもキミがまだ手遅れでないのなら、私と同じ道は辿ってはいけない。 遠くなってゆく少年を眺めながら、私はそんな事を考えていた。 「外した……?」 左右のリアタイヤを狙って放った絶対零度の塊はことごとく躱された。 「走ってる車を止めるにはぴったりの“力”が発現したってのに……」 俺の行動を予測して安全地帯へハンドルを切っていた気がするが、そんな芸当ができるだろうか。 あの狭い道で避けるなんて、マスターも見かけによらない。 「結衣……確かに、本物だよな」 無関係な別人という可能性はないだろう。 しかし“ナグルファルの夜”から歳を重ねていないのは何故だろうか。 成長が止まってしまう病気にでも掛かっているのか、もしくは――考えたくはないが、零二のように何らかの“力”の影響を受けているのかもしれない。 「さっきの人、剣咲さんの旦那だか愛人だかだったよな。そのくせに、剣咲さんは置きっぱなしかよ」 彼女を静かな場所に埋めている時間はない。 追おう。 旧市街はフェンスで覆われていて北西方向は行き止まりだ。 道路だって整備されていないし、遠くへは逃げられない。 「私は歩いてきた。この悪路を普通車で進むのはいささか強引すぎるからね」 と。突如、登場したのは、予想外な人物だった。 「学園長……こんな帳の、こんな場所だ。散歩ってわけじゃないでしょ」 「私が関係していることに驚いたかな? リノン君あたりから聞いているかと思ったが……まぁ、ここいらが頃合いだろう」 「久しぶりだね優真くん。研究施設ではずいぶん派手に活躍したものだ、若さというのは素晴らしい」 「……俺はあなたが好きだ。将棋は楽しかったし、なるちゃんの入学に便宜を図ってくれた」 「俺は頭が良くないからさ、ぶっちゃけて聞くけど……仲間なの? 敵なの? 俺の――――邪魔をするの?」 「ここ数日、濃密な時を過ごしたようだね。その練磨された冷たい瞳に射抜かれると、私とて構えてしまう」 「《・・・・》〈どっち?〉」 「私は君の仲間でも敵でもない。邪魔をする気は一切ない」 「こう見えて“《アーカイブスクエア》〈AS〉”を取り仕切る権利を一時的にもらっていてね。君に特A級指名手配を掛けた張本人とでも言おうか?」 「偉い人が直々に、俺やなるちゃんを捕らえに来たってわけか」 「勘違いしないでくれ。捕らえられなかったのではなく、捕らえなかった――――泳がせていたのだよ」 「時間が惜しい、本題に入ってよ。手短に済まないようなら、無視して結衣を追うけど?」 「“《ディストピア》〈真世界〉”と“《ユートピア》〈幻創界”を繋ぐ“《ステュクス》〈重層空間”。その管理人を務めていたカロンという者がいた」 カロン……初めて聞く名前だ。 「彼は“魂”を操れる類まれなる才能を持った“《イデア》〈幻ビト〉”。その非凡な能力は、絶対に必要だったのだ」 「残念だけど学園長、俺は、人間だよ。ちょっと不思議な力はあるけど、“《イデア》〈幻ビト〉”じゃない」 「“《アーティファクト》〈幻装〉”は“魂”だ。複数の“魂”を扱うキミとカロンの類似点は多い」 「おそらくキミはカロンの“魂”と相性が良かったのだろう」 「運命の悪戯がキミとカロンを結びつけ、カロンの“魂”を“力”とすることで複数の“《デュナミス》〈異能〉”を得た」 「俺は、“俺が誰か”なんて問題に直面した覚えはないよ」 「あの子に会って確かめたいことがある。話したいことがある。それで、もしあの子が本当に結衣なら――――一緒に暮らしたい……ただそれだけだ」 「私のしている話が、君にとって本当に無関係だと思うかね?」 「君は若い。私ほどの人物が直接出向くことを強引に要求を通しに来たと思うことは致し方がないことだが、実際はその逆だ」 「上の立場にいる者が頭を下げてこそ、意味が出る」 深々と頭を下げる学園長。 後頭部までふさふさの髪。 紳士で真摯な態度が、俺に一呼吸の間を与えた。 「私は支配という形ではなく、拘束という形でもなく、自主的に動いてもらうことでしか君を有効に活用する手段はないと判断した」 「……1つ、“《エンゲージ》〈契約〉”の件で俺と菜々実なるを捕らえたり、監視をつけるといったことはしない事」 「2つ、紫護リノンの反逆行為を不問にして、アイドル業に差し支えが出ないように計らう事――――この約束を、守れますか?」 「条件を飲もう。また時間的猶予がないと懸念しているようだが彼の車には細工がしてある。乗り捨ててさえいなければ場所は筒抜けだ」 頷く。そういう事ならば、しっかりと話を聞くべきだろう。 今、俺が対話している相手は、リノンとなるの今後を大きく左右できるほどの権力者なのだから。 「結論から言おう」 「今夜、起こるのは“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”の再来……いや、あれを大きく上回る災厄が降り掛かることになるだろう」 「……何か、根拠があるんですか?」 「私の駒の中に、“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”を引き起こす因子を探し出せると睨んでいるセンサー役がいる」 学園長は空中で将棋の駒を進める振りをする。 『探し出せる』ではなく『探し出せると睨んでいる』という部分は聴き逃していない。 「その駒が、4年以上見せなかった異常な反応を示した。今まで一度たりとも見せなかった反応だ」 「私は、いつか来る不幸の再来に備えて、前もって動いてきた。今起こっている事が胸騒ぎといった杞憂に終わることはないだろう」 「決して大袈裟ではなく――――君は世界を不幸から救う立場にあるのだよ」 「………………」 7年前と同じ、七夕……結衣があの時と同じ姿で現れた事と、学園長の話はまったくの無関係ではないだろう。 全ての解答は、ジグソーパズルのようにバラバラになり、欠かせないピースとして散らばっている。 それらを拾い集める為には、学園長の――――いや、“《アーカイブスクエア》〈AS〉”取締役である彼の助言が必要だと思った。 「“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”を引き起こした存在を、我々は“ヒストリア”と呼んでいる」 「“ヒストリア”……そいつが悲劇の元凶……」 「そうだ。そして私は“《カロン》〈魂の幻ビト〉”の力を持つ君ならば、“ヒストリア”による災厄を終わらせられるのではないかと思っている」 「その“ヒストリア”ってヤツは、どうしてこの街に?」 「私達の住む街は、他の街とくらべて“《イデア》〈幻ビト〉”が圧倒的に多い。これには理由があるのだ」 「“《アーカイブスクエア》〈AS〉”の本社があるからではないんですか?」 「“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”以降、各地に建てた慰霊碑に“《フール》〈稀ビト”と“《イデア》〈幻ビト”を惹きつける成分を入れておいた。簡単にいえば故郷の香りだな」 「再び“ヒストリア”が現れた時、私の目が届く範囲にいなければ対策が立てられないのでな」 「大体わかりました。それで俺は、どこで、なにをすればいいんですか?」 「君の仕事は《シンプル》〈1つ〉だ。“ヒストリア”を破戒すること、それだけだ」 「壊すことなんて、誰だってできる。俺よりも適任はたくさんいると思うけど、あなたがそう言うなら、そうなんでしょうね」 「いざという時の為の切り札はいくつか用意してあったが、強力な駒ほど思い通りに動いてはくれないものなのだよ」 学園長の話はいまいちピンと来なかったが―――― 「君の育ての親も、この件には絡んでいる」 「今日子さんも“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”の関係者だったんですか!?」 「どうかな……彼女は自分で決めた道を突き進んでいるだけだよ」 7年前を軸に、全てが繋がろうとしているのを感じる。 俺に宿っている謎の力。 昔のままの姿で現れた結衣。 今日子さんが俺を拾った理由。 全てに意味がある。 「君は社長さんの話になると目の色を変える……彼女が自分の事務所を自らの手で壊したことは知っているかね?」 「…………ええ……」 「私も部下にそれを聞いた時、気が触れたのかと心配をしたものだ」 「『これで中にいた優真は死んだ。追うなら地獄か天国だぞ』と言い放たなければ“《アーカイブスクエア》〈AS〉”に対する牽制とはわからなかっただろう」 「それって……」 今日子さんが事務所解体について明確に語らなかった本当の理由。 事務所を壊したのは、俺を死んだことにして“《アーカイブスクエア》〈AS〉”を納得させる為の強引なやり方。俺をこの件に関わらせないための、脅し。 今日子さんらしい、家族愛の形だ。 「近くに隠れ家があるんです。そこにリノンとなるちゃんがいます。一度戻ってから彼らを追いましょう」 「――――っと」 歩き出そうと踏み出して躓く。 体のバランスがうまく取れない。 蓄積された疲労がピークに達しているのだろうか。 「大丈夫かね」 「ああ、平気っす……ハハ。はぁ……はぁ……」 「……失礼」 学園長が……俺の胸に手を当ててきた……? 胸に……男が……! 男の手が……俺の胸のポッチの輪郭を確かめようと……!!?? 「お、おじさまやめて~~っ! 俺にそっちのケはないんです、勘弁してくださいぃっ!」 「優真君……君は、何度“力”を使った? まさか、菜々実君に“《アーティファクト》〈幻装〉”を抜かれなどしてはいないだろうね」 「はは、何のことやら……よくわかんないですけど……?」 「ひょっとして君は――――とうに魂を使い果たしているのか?」 「この辺りでいいでしょうか」 私とひまわりを乗せた車両は旧市街の一角にある寂れたスタジアムに到着した。 雨は止んだが、私の心は充分に冷えきっていた。 「ひまわりさん、大丈夫ですか?」 「なんだが……ずっと身体が痛いの……」 「……もうあまり時間はなさそうですね」 「赫さん、今はお辛いでしょうが、気を確かに持って下さい」 「……最早何をしても取り返しはつかない。あるとすれば罪を犯した者に罰を与える、それだけだ」 「本当にそれだけですか? こんなにもひまわりさんが苦しんでいるというのに?」 「…………」 「やるべき事を見誤ってはいけません。あなたにはまだ希望への道筋が残されているのですから」 「……マスターは何を知っている。キミは一体何者なのだ」 「私の正体を知ったところで、事態は何も進展しません」 「赫さんが知らなければならないのは……思い出さなければならないのは7年前の出来事です」 「剣咲ノエルさんが命を賭してまで隠そうとした、あの日について――」 「私の記憶が今の状況にどう関係しているのだ」 「……私の介入は最低限にしなければなりません。でなければ未来はあらぬ方向に進んでしまうかもしれない」 「未来……?」 「赫さん、“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”について、以前私がお話した内容を覚えていらっしゃいますか?」 「……ああ、忘れてはいない」 「“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”の末期に行われた、“《イデア》〈幻ビト”の大規模な移動――」 「その真相は、“ヒストリア”と呼ばれる “《イデア》〈幻ビト〉”をこの世から消し去るためだっ たのです」 「“ヒストリア”……?」 「それこそが“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”、地殻変動やパンデミックを引き起こした元凶なのです」 「既にご存知かと思いますが、“《フール》〈稀ビト〉”とは“《ナグルファル》〈7年前の夜”で蔓延したウイルス――」 「それに対抗する手段として開発された“AS9”にあります」 「“AS9”には“《ユートピア》〈幻創界〉”にしか存在しない成分が含まれていました。そのせいで“《デュナミス》〈異能”を操る人間が生まれました」 「ですが、“AS9”が開発される以前にも一人だけ、“《フール》〈稀ビト〉”は存在したのです」 「“AS社”の上層部にいた“《イデア》〈幻ビト〉”達は、その“《フール》〈稀ビト”を監視しました」 「その時点では前例がありませんでしたから、見極める必要があったのです」 「そしてその“《フール》〈稀ビト〉”は強大な力を秘めている事がわかりました。後に“ヒストリア”と呼ばれる“《イデア》〈幻ビト”の力を有していたのです」 「“AS社”は多くの“《イデア》〈幻ビト〉”を“《ユートピア》〈幻創界”から呼び寄せ、“《フール》〈稀ビト”を葬ろうとしました」 「ですが既に“《フール》〈稀ビト〉”の身体は“ヒストリア”に飲み込まれ、本人の意思では制御できる状態ではありませんでした」 「多くの“《イデア》〈幻ビト〉”が犠牲となり、“《ディストピア》〈真世界”に漏れ出た瘴気が蔓延しました」 「それでも大きな代償と引き換えに、どうにか“《フール》〈稀ビト〉”の命を奪う事に成功しました。これで誰もが“ヒストリア”の脅威はなくなったと安心しました」 「……ですが、“ヒストリア”は消滅していなかったのです」 「“ヒストリア”の“魂”は宿主だった“《フール》〈稀ビト〉”が死んだ後も、思念のような形で存在し続けました」 「そして“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”の混乱で命を落とし魂の抜けた別の器に入り込んだのです」 「その時点では“ヒストリア”の“魂”も傷つき疲弊していました。“ヒストリア”は誰にも見つからない場所で傷を癒す必要がありました」 「傷ついたヒストリアは身を潜める場所としてナグルファルの夜で発生した穴に逃げ込みました」 「“ヒストリア”が別の人間に乗り移り、“《ステュクス》〈重層空間〉”へ逃げ込んだ事など、誰にも知り得る術はありません」 「結果、“ヒストリア”は7年の時を経て、再び“《ディストピア》〈真世界〉”に現れました」 「以前とは違う《・・》〈少女〉の身体を借りて――」 再び現れた災厄をもたらす“ヒストリア”……それは―― 「私がお話できるのはここまでです。後は赫さん、自らの目と足で真実を切り開いて下さい」 「もう二度と、同じ過ちを繰り返してはなりません」 「それは誰よりも、あなた自身がわかっているはずです――」 「待て、どこへ行くのだ。《・・・・・・・・・》〈誰も知り得ない情報〉を何故知っているというのだ」 マスターは制止の言葉を振り切り、スタジアムの入り口から消えていった。 「過ちを繰り返す……私が何をしたと言うのだ……?」 マスターの話を総合すれば、“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”に私も居合わせたと考えて間違いないだろう。 そこで何かが行われた――業火の中で私は何を思っていたのだ……? 「うぅっ……」 「ひまわり、大丈夫か」 苦しそうに顔を歪めるひまわり。 「私に何ができるだろうか。病院へ連れて行けばいいだろうか」 「……お話、聞いてほしいな」 「キミが望むならやぶさかではないが、今はそれどころではない。水分が欲しいのならば手に入れてこよう」 「……あかしくん」 「水よりもジュースがいいだろうか。それとも空腹を感じているのならば菓子も持ってきた方がいいだろうか」 「あかしくん……ひまわりのお話聞いて」 「……もうあんまり、時間がないから」 「……何を話そうというのだ」 予想はついていた。だが無意識のうちにその話題を避けようとしていた。 「ひまわりね……もうすぐ大変なことになっちゃうんだ」 「何を言い出す」 「さっきからね、変な感じがするの……ひまわりが全部飲み込まれちゃうみたいですごくこわいんだ」 「でもね、変な感じが強くなればなるほど、わかってきちゃうんだ」 「…………」 ひまわりは精一杯の強がりを込めて笑った。 「ひまわりはね、あかしくんと同じで大事なこと忘れちゃったんだと思ってた」 「……でもね違ったみたい。忘れちゃったんじゃなくて、最初からなかったんだね」 「…………」 「ひまわりはね、この身体の女の子でもなくって、もうすぐ消えちゃうだけのニセモノだったんだ」 マスターの話から推測すれば、ひまわりが生まれたのは7年前―― 死んだ少女の身体に宿った、覚醒までの準備期間を埋める間だけの “《ニセモノ》〈代替品〉”。 どれだけ追い求めようと、どれだけ欲しようと、親も家族も見つかりはしない。 「えへっ……こんなことなら、思い出さなきゃよかったなぁ……そしたらあかしくんたちともっといっしょにいれたのに」 「何を言うのだ。一緒にいたいのならいればいい」 何故そう言ったのか。以前の私なら去ろうとする者を追いはしなかったはずだ。 もうこれ以上誰も失いたくはない――私は別れを恐れているのだ。 「ひまわりがいたら、きっとあかしくん……ううん、みんなに迷惑かけちゃうから」 「……でもあかしくんにめいわくかけるの、これで最後にするね」 「何を――」 ひまわりの唇が私と重なった。 九條とも、ノエルとも違う……何か特別な意味を感じるキスだった。 「ひまわり先に行ってるから。あそこであかしくんを待ってるから」 「キミは何を言っている。何故こんな事を――」 「がっ――はっ……!?」 全身を激痛が駆け巡り、息ができなくなった。 「……ごめんね、あかしくん」 何に対しての謝罪だろうか――思考を痛覚に支配されて考えられない。 「待て……!! 行ってはいけない……!!」 「…………」 「……ばいばい、あかしくん」 遠ざかるひまわりの影を、私は追うことができなかった。 静謐を担う“×××”は、この瞬間の静寂が嵐の前の静けさということを理解していた。 シナリオ展開は大枠から外れず“×××”の読み通りに進んでいる。 概ね順調。 「…………時は嘘をつかない……」 “×××”の持つ1秒の狂いもない懐中時計によれば、288秒後――――“×××”の待ち人はやってくる。 “×××”の掌には何も握られていない。 “×××”はその手に秘められた“力”を振り返る。 「おっと」 「ひゃっ!」 「ダメだーーーマスターーーー!」 「――――私に触れりゅなぁぁぁぁっ! 邪鬼眼でひゃぅぅっ!! エンドレス破天荒でひゃいまひゅぅーーー!!」 「すいません、肩に埃がついていたものでっ。どうすれば気を鎮めて頂けるのでしょう」 ……嘘だ。 菜々実なるの肩には埃などついていなかった。 触れることが“×××”の――――“時任”の能力を発動させる為に必要なことだった。 時任は7日前からそうして、彼のシナリオに関わる人物に接触しては“《デュアルモニタ》〈未来視〉”をしてきたのだった。 誰も知り得ない情報を意のままに仕入れてきたのだ。 逆らえぬ運命に身を委ねるまえに、時任は何も始まってはいなかった7日前まで意識を遡らせていく。 意識は巡り巡り、《・・・》〈行動の〉《はじまり》〈冒頭へ回帰する。 “時任”が“《ソレ》〈ヒストリア〉”から手を放したのには、それなりの理由がある。 一つは、遥かに予想を超えた“情報”の受け入れに耐えかねた脳が悲鳴をあげた事であり。 もう一つは、この事実を受けて自分はどうするべきなのか――正確には、《・・・・・・・》〈どうしたいのか〉という決断に直面したからだった。 「このままでは、今“視”たものが現実となる」 “時任”は何不自由ないエデンの園にいるといって過言ではなかった。 日々は充実し、危険とは無縁の世界で生き、穏やかに四季の移ろいを愉しんでいる。 「自分以外に誰が防げるというのだ」 出逢ってしまった物が禁断の果実と知りながら“時任”は行動に移らざるを得なかった。 “時任”だけが持つ特別なスキルが、それを物語る。 世界中でこの事に気づいているのは自分だけなのだと、それがわかってしまった。 「とんでもない貧乏くじを引いたものだ」 この時点で“時任”は捨てられない地獄の直行切符を手にし、覚悟を決めた。 どの道、憐れな骸になるのならば、不幸になるイキモノは少ない方がいい。 眠っている“《ソレ》〈ヒストリア〉”を、淀み、強張った顔つきで見下ろす。 “時任”は“《ソレ》〈ヒストリア〉”に対して明確な恐怖を感じていた。 将来有望という点では、最初の印象と別の意味で変わりはないが、“時任”は如何せん“視”えすぎてしまう。 「永久の休日とは、皮肉めいている」 “時任”は創世記の冒頭を思い出し、独りごちた。 神は6日間であらゆるものを創造し、7日目に休んだ。 明日から始まる一週間に関わり、数奇な運命に翻弄される人々は、無事に7日目を終えられるのだろうか。 笑って肩を取り合えるのだろうか。 「全ては、脇役である自分に懸かっている……か」 「しがない喫茶店のマスターとして、一杯の珈琲にだけ情熱を注いでいれば、それでよかったのかもしれないな……」 きっかり288秒後――――時任は全ての意識を目の前の少女に向けた。 「お待ちしておりました。お客様。今日はメロンソーダはありませんが、それでもよろしいですか?」 齢、数百を超える物腰でゆったりと頷く少女に、時任は笑んだ。 「では行きましょうか、“《ひまわり》〈ヒストリア〉”さん」 この道でいい――――進め。 時任は、そう自分に言い聞かせ、ひまわりの手を取る。 忠実に従順に。 彼自身の物語を終わらせるために動き出した。 「以上が優真君に話した内容だ。飲み込めたかね?」 「かくかくしかじかってやつね。事情はだいたいわかったわ」 「察しが良くて助かる。これも我が学園の教えの賜物だな」 「あらそう? 3日坊主で不登校になっちゃったけど」 方や故郷を失った漂泊の“《イデア》〈幻ビト〉”。 方や“《アーカイブスクエア》〈AS〉”の取締役。 こうして見ると、よくわかる。 頭を下げるという行為は、確かに立場の強い者がしてこそ意味がある。 「先ほど君の言っていた、“《イデア》〈幻ビト〉”と “《クレアトル》〈現ビト〉”の“鶏が先か、卵が先か”という 話だが……」 なるが導き出した仮説―――― 「私が――――ううん。全ての“《イデア》〈幻ビト〉”が、人々の“居て欲しい”という想いで生まれたのだとしたら……」 「これ以上の創作ってあるかしら? 私もいつか《そっち》〈生み出す〉側に回れたらって思うと、意欲が増すの」 「創作活動は、私の仮説を証明するのに最も適した手段」 「私が生み出したキャラが、みんなの胸にちょっとずつ散らばって、“居て欲しい”って願ってもらえたら……」 「“《わたし》〈アルラウネ〉”のように実在を許される日が来る」 なるは正しかったし、なるが目指したものは無駄にならないとわかった。 「現在もそうかと言われれば答えるのは難しいが、私も最古の“《イデア》〈幻ビト〉”としてこの目で見てきたのは事実だ」 「“《イデア》〈幻ビト〉”は全て、“《クレアトル》〈現ビト”が生み出したってことでいいんですか?」 「正確には違うがね」 「“《イデア》〈幻ビト〉”は、実在を赦された想像の産物。人の想いを感知し、それを生み出す“《イデア》〈幻ビト”によって生み出されていた」 「一種の装置のようなものだ。しかし、生きた装置だった……アレは、自然に生まれた、最初の“《イデア》〈幻ビト〉”。“始まりのイデア”」 「“始まりのイデア”? 初めて聞く厨ニ用語ね」 「用語……? “始まりのイデア”に関しては一部の古い“《イデア》〈幻ビト〉”しか知らない。いや、今はもう私だけになってしまったか……」 「“始まりのイデア”は“《ユートピア》〈幻創界〉”にいるのかしら?」 「こつ然と姿を消してしまった。ずっと昔から新たな“《イデア》〈幻ビト〉”が生まれない事からある程度は察することができるだろう」 「とはいえ、君が崇敬を集められるようなキャラクターを創り出せば、“始まりのイデア”が反応する可能性はあるだろう」 「そう……」 大喜びしていい場面だというのに、なるは静かだった。 その理由は、一つしか無い。 「じゃあ、最後に」 やっぱり、聞いてしまうのか。 「あなたは現役を退く前――――“《アーカイブスクエア》〈AS〉”で最高権力者だった」 「当時、私の故郷の殲滅の話が持ち上がった時……どうしたのかしら?」 返答次第では、消えたはずの復讐心が再熱しないとも限らない質問。 俺はなるを信じて見守ることしかできない。 「黙認したよ。力を与えられた者は、些細な情に振り回されてはならない」 「“《ユートピア》〈幻創界〉”の一種族が滅びようが、バランスは崩れない。唯一無二の“《クレアトル》〈現ビト”が救われるならば、それにこしたことはない」 「先ほどの仮説を評価しただろう? 私は “《クレアトル》〈現ビト〉”さえ生きていれば世界が回る事を 知っている」 「…………なるちゃん」 見守ろうと思ったけど、臆病な俺は、やっぱりダメで、なるの身体をそっと包んだ。 「ありがと……でも平気だから」 「うん」 震え一つない身体。 真っ直ぐな瞳で微笑んで。 止まない“《ヒメイ》〈耳鳴り〉”を抱えたなるは、力強く頷いた。 「久遠学園長……あなたを仲間と思う事はできない。だけど、力は貸してあげる」 「あなたにはあなたの“軸”がある。自分の“軸”の為の同盟関係として協力を求めてるなら、信頼はできる」 「話を聞く限り、“ヒストリア”が“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”を起こした事が、全ての始まりのようだしね」 「ありがとう」 “《ナグルファル》〈7年前〉の夜”によるパンデミックがなければ、なるの故郷が研究材料として使われることもなかっただろう。 俺だって、結衣と離れ離れにならずに済んだ。 多くは語ってくれないが、リノンの人格問題だって影響されていたはずだ。 「本題に入るが、旧鉄道で発見された優真君の妹らしき人物と喫茶店の店主は、今回の件に関わっていて間違いないと思われる」 「店主は“《フール》〈稀ビト〉”か“《イデア》〈幻ビト”だろう。目的は不明。優真君の妹と、赫という“《イデア》〈幻ビト”を連れて逃走中だ」 「その子は……7年前の結衣ちゃんと同じ姿をしていたのよね?」 「ああ……そっくりなんてもんじゃない。完全に、俺の妹だった」 「…………本物だったら……いいね……」 「……ああ。話すことが、いっぱいあるなぁ……」 「“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”で失われたはずの命が同一の容姿で存在している。しかも、このタイミングでだ。臭わんかね?」 状況から見て、まったくの無駄足に終わることはないだろう。 「ひとまずは店主を追うとしよう。私の配下にあるセンサーの反応次第では作戦を変更することもある。そこは臨機応変に頼む」 「この菜々実なるにお任せあれ」 「しかし、あくまでも私が期待しているのは優真君だ。君は、その補佐をしてくれればいい」 「クッフッフ♪ 闇の勢力との《メギド》〈決戦地〉か……疼く、疼くぞっ。安心しろ、血の一滴までは絞らんさ――――」 「『しかしあなたの血液は、私の中で流れたいとねだっているようだけれど?』」 「わぁっ!? も、もしかして私の小説のファン?」 「君の投稿作品は監視対象なのでね。あの内容では“《イデア》〈幻ビト〉”が書いていることが丸わかりだろう」 「サインが欲しいならそう言ってくれればいいのに」 「いらんよ……それより、リノン君が遅いようだが?」 「俺も同じ事を思ってました、俺たちと入れ違いになって、まだ駅周辺を探してるのかも」 俺が出て行ってすぐに追いかけたとなるは言っていたが、探しているうちに何かあったのだろうか。 「こうしてのんびり待ってる場合じゃなさそうね。行きましょう!」 「ははっ、なるちゃん元気いいなぁ。よし、俺たちも行きましょう」 ――――――――ッ。 「っと……っ」 「優真君……平気か」 「……ええ。全然平気ですよ」 欲張りな俺は、リノンとなるの事以外に、もう一つ学園長に約束をさせていた。 「だからお願いです。いい加減にガタが来てるこの身体のこと、なるにだけは、黙っててください」 延々と繰り返されてきた悪夢。 それは“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”――元凶たる“ヒストリア”に起因しているという確信があった 私はあの場にいた。 他の“《イデア》〈幻ビト〉”が散る中、最後まで立っていた。 「ああ……」 僅かに情報を取り戻しても、記憶の内容は無責任そのものだ。 江神は成長を強いられる人間だ――――同じ姿でそこに立っているはずがない。 夢を見ている場合ではない、ひまわりを助けなければならないのだ。 この情景に嫌気が差した時――今までなかった変化が訪れた。 「いつまで目を背けてるつもりだ?」 夢は都合のいいように改変される。 現実での体験が映像へと反映されるが、その大半はでたらめだ。 「逃げるつもりはない。私は真実を取り戻したいだけだ」 「本当か? そこに何があっても、決して逃げ出さないと誓えるか? 大事なモンを失ってしまうかもしれないぞ」 「議論の余地はない。そのために、私は生きてきたのだから」 「そうか、ならいい」 「真実に手を伸ばせ。俺がその扉を開けてやる」 いつか聞いたフレーズが頭の中で反響した。 「約束通り、姿は見せてないだろうな」 「ならいい。取り引きを破ったら、言わなくてもどうなるかはアンタが一番わかってるよな」 「おいおい、何て目で睨んでるんだよ。俺の機転を利かせた提案に感謝してほしいね」 「元はといえば、アンタが最初の契約通りに動けなかったのが原因だぜ」 「最後までアンタの要望に沿ってやったんだから、礼の一言でも言ったらどうだ?」 「……だんまりかよ。何か喋ってくれねぇと、俺が海に向かって話してる頭のおかしい奴みたいじゃねぇか」 「それとも、生き地獄を味わうよりは死んだ方がマシだったか? 命を捨てるのは馬鹿のやる事だぜ」 「……うるさいですね、少しはそのお喋りな口をどうにかできないんですか」 「そいつは無理ってもんだ。俺はこの口から嘘も真実もペラペラと作り出して今まで生きてきたんだからよ」 「商売道具は常に動かしとかないといざって時に使い物にならないだろ」 「…………」 「何だ、俺の事を恨んでるのか?」 「恨まれてないとでも思ってたんですか。だとしたら驚きですよ」 「ヒヒッ、いいさ恨まれるのには慣れてるからな」 「……それにしても、あんなものどこで手に入れたんですか」 「あの《・・・》〈死体か〉? ちょいとこっちの仕事でな。アンタと瓜二つでよくできてただろ」 「驚きを通り越して気持ち悪いんですけど」 「そう言うなって。あれのお陰でアンタは今こうして生きてる」 「なのにアンタの秘密は守られたままだ。考えうる限り最善の結果じゃないか?」 「…………」 「当初の計画じゃあ、アンタが“《ファントム》〈亡霊〉”としてアンタの旦那に殺されるはずだった」 「そうすりゃあ俺もしょうがねぇから7年前の真実を黙っておくつもりだった」 「だがアンタは失敗した。アンタは殺されなかった」 「その様子を見てれば、いくら策を講じてもアンタの旦那は踏み切らない。だから方向性を変えるしかなかった」 「私は死んだ事にして、二度とご主人の前に姿を現してはいけない」 「そうすれば、あなたは7年前の真実を秘密のままにする」 「そういうこった。よくわかってんじゃねぇか」 「あなたがどうしてここまで私達の関係に首を突っ込んでくるのか、疑問に思っていました」 「ですがようやく思い至りましたよ。思い出したと言うべきでしょうか」 「…………」 「7年前のあの日、その中心にいた少女は――」 「おっと、それ以上は言わなくていいぜ。アンタの言いたい事はわかる」 「……復讐、ですか?」 「あーあ、言わなくていいって言ったのに」 「だがよ、アンタは根本的に勘違いしてるぜ」 「俺はただ無自覚なままでのうのうと生きてる奴が嫌いなだけだ。奪って生きるのなら、奪われる覚悟と自覚がないとな」 「…………」 「白けちまったな。そろそろ俺は退散させてもらうぜ」 「派手に立ち振る舞ったからな。ほとぼりが冷めるまで地下に潜らせてもらうぜ」 「……私が約束を守るかどうか、監視しなくてもいいんですか?」 「心配しなくても、俺は人を見る目に自信を持ってるんだ。アンタは約束を破らねぇよ」 「見かけによらず、随分と優しいんですね」 「こんな事をしておいてなんだがよ、俺はアンタらを結構気に入ってるんだ」 「…………」 「おっと、これは嘘じゃねぇよ。つい最近わかった事があってよ」 「アンタは俺に仕事を依頼するたびにカネを支払ってきたが、決して安い額じゃねぇ」 「アンタらの生活ぶりを見ても、どっからそんなカネが湧いてくるのか不思議だったんだが、最近ようやく判明したよ」 「昔、俺の大嫌いな政治家がいてよ。溜め込んでた裏金を盗まれて失脚したんだが、知ってるか?」 「さあ、何の事でしょうか」 「ヒヒッ、まあ今更ほじくり返すのは野暮ってもんか」 「つーわけで、俺は消えるわ。後はアンタらで好きにやってくれ」 「最後にひとつ、私からもいいですか?」 「何だ?」 「あなたは一体何者なんですか? “AS社”の諜報員でも簡単に握れない情報を知っているのは異常です」 「特に、そのふざけたサングラス」 「人のファッションセンスにケチつけんなよ」 「こんな帳にサングラスを掛けていたら、普通は満足に歩けませんよ」 「……ヒヒッ、悪くない観察眼だ……」 「その目――」 初めて見た江神善太郎の裸眼は、月よりも妖しい真紅の光を放っていた。 “《ナグルファル》〈7年前〉の夜”の少し前――私はノエルと共に“《ディストピア》〈真世界”に降り立った。 目的は“《デュナミス》〈異能〉”を発現した少女の監視。 私とノエルは《くだん》〈件〉の少女に接触した。 少女は育てた花鉢を我が子のように披露する。 私には、何がそこまで少女を嬉しい気持ちにさせるのか、理解できなかった。 だが少女と過ごすうち、訪れた変化に気づいた。 私とその少女の間で“《エンゲージ》〈契約〉”が発生したのだ。 当時は“《エンゲージ》〈契約〉”という現象は前例がなかった。 だが私は“AS社”と比べるとあまり関心がなかった。 その少女に仕事以上の興味を抱いていたのだ。 いつしかその少女は私とノエルの間に入り込んできた。 瞳が赤い以外は至って普通の人間と変わりがない。 知らぬ間に目的を忘れ、その少女の口から出る話に惹かれていた。 私は人間という生き物に興味が湧いているのを実感していた。 「それで……?」 「私は充実した日々を送っていた。いつまでも続けばいいと思っていた」 「だがそれは続かなかった」 ある日、少女は定期検査のために“AS社”へと向かった。 別行動をしていた私達にも指令が届いた。 突如暴走した“《イデア》〈幻ビト〉”を抹消せよ、と―― 到着した私が見たものは、《ししるいるい》〈死屍累々〉の“《イデア》〈幻ビト”の山。 暴走した“《イデア》〈幻ビト〉”に“魂”を消滅させられた勇敢なる者たち姿に、私は打ち震えた。 暴走した“《イデア》〈幻ビト〉”は黒い繭状の物質に覆われていて、圧倒的な大きさを有していた。 威圧感で萎縮する心に無理を言い、私は忠実に仕事をこなした。 私が立ち向かうまでに蓄積されたダメージが大きかったのか、攻撃を受けた繭は二つに割れた。 内包されていた少女は――――花を片手に微笑んでいた。 失われた記憶。 その中心にいた大切だった存在。 それを壊した“《ファントム》〈亡霊〉”は――。 「…………《・・》〈私だ〉………………」 「私が――この手で…………」 「あ゛ぁ゛ぁああぁぁぁあぁぁぁぁぁぁ――――――ッッッ!!」 「“《ファントム》〈亡霊〉”なんて都合のいい幻想でしかなかったんだよ」 「後に“ヒストリア”と呼ばれるその少女を殺したのは――」 「ご主人、あなたです」 全てを思い出した。 自らの過去、誤ち、その全てを――――。 「葵……」 記憶の中で、私は長い間、忘れていた名前を呟いた。 雨が真実を隠してくれるなら、ずっと止まなくてもいい。 陽の光が差し込まなくてもいい。 それだけが私の願いだった。 だけど――雨は上がってしまった。 「あぁ……」 7年ぶりに聞いた懐かしい名前が全てを物語っていた。 「ああぁ……」 7年にわたる私の全ては今、無に帰った。 呪縛からの解放。 だけど私はそんな事望んではいなかった。 真実を隠すのが罪ならば、私は罰を受け続けよう。 そう思ってきたけれど、ご主人は全てを思い出してしまった。 これで私がご主人の前に姿を現してはいけないという江神との契約は無効になった。 今すぐにご主人のもとに駆け寄りたい。 でも――それでも、私の足は鎖に絡め取られて動かない。 7年に渡る罪に対する負い目、信じてくれたご主人をまたも騙してしまった事……それらが見えない足枷になって私に襲い掛かる。 「…………」 どんな顔をして会いにいけばいいのかがわからなかった。 私には、もうご主人の傍にいる資格がないのだから。 「っ…………」 目が覚めると広いスタジアムの中に一人で倒れていた。 相変わらず全身が痛む。 ひまわりの唇を介して流し込まれたものの影響だろう。 私のやるべき事は、7年前と同じ悲劇を繰り返さない、それだけだ。 一刻も早くひまわりを見つけ出さなければならない。 「……誰だ。私に用があるのならば出てくればいい」 暗闇に沈んだ影は観念したように私の前へ姿を現した。 「誰、なんて聞かれるのは不愉快だわ。それこそ誰に向かって聞いているのかしら」 「キミか。何故このような場所にいる」 「何だか騒がしいようだから様子を見にきたんだけど……大丈夫?」 「私の身体か? それとも陥っている状況についてだろうか」 「どっちもよ。あなた、自分の顔を鏡で見た方がいいわ。酷い顔してるわよ」 「見栄えを気にかけている余裕はない。それこそキミと話している時間も惜しい」 「そうはいかないわ。あなた、何をしようとしているの? 内容次第では見過ごせないわ」 「……ただ、同じ過ちを繰り返したくないだけだ」 「穏やかじゃなさそうね。前にも言ったけど、騒ぎを大きくしてもらったら困るのよ。事情があるなら聞いてあげない事もないわよ」 「必要ない。これは私が決着をつけなければならない問題だ」 少女を無視して出口に向かう。 「そんな身体でどこに行けるってのよ。見てるこっちが痛々しいわ」 「放っておいてくれ。私には時間がないのだ」 「待ちなさいってば――」 「退け」 「――――え」 それは、ほんの僅かな憤り――人間ならば日々の生活で何度となく芽生えるであろう微々たるものだった。 だが私の身体は、小さな怒気にも過敏な反応を示した。 「ッッッ――――!?」 手袋を破って放たれた爆発により、跡地の壁まで少女は吹き飛んだ。 その力は今までと比べ物にならないほどに強力だった。 「これは……」 相変わらず身体は重い。 だがそれ以上に内の方から湧き上がる力が全身を満たした。 変化の理由は想像がついた。 同時にさらなる怒りが湧き上がった。 「こんなものを分け与えて、私に何をさせようと言うのだ」 「ひまわり――」 破壊の力で成せる行為など限られている。 私は身体に宿ったひまわりの意思にやるせない怒りを覚えた。 “ヒストリア”の力の何分の一かを受け取った私ならば、“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”に失敗した完全な破壊が可能かもしれない。 ひまわりのしたことは――――《・・・・・・・・》〈自分を殺してくれ〉というメッセージに他ならなかった。 「生憎だが、その願いは受け入れられない」 もう二度と、誰かを失いたくはない。 この手で掴めるものがあるのなら、私は決して諦めない。 たどり着いた先でリノンは倒れていた。 「リノン。大丈夫? 痛くない?」 「優真こそ、自分がやられたみたいなひどい顔……心配しなくても、わたしはそんなヤワじゃないわよ」 「媚び媚びアイドルのカタキは必ず討つわっ」 「勝手に殺さないでっ!! ちょっと油断しただけよ」 「良かった……」 「あいつ……ちょっと普通じゃないわ。注意しなさい」 全身の細胞という細胞が活き活きと躍った。 自分の為にここに来たはずなのに、笑っちゃうくらいの原動力は、誰かの為にしか生まれない。 肩を庇うように蹲ったリノンを一目見て、疲労なんかぶっ飛んだ。 「赫さん。あなたには更衣室での貸しがあったけど……これは、やりすぎだろ」 「事態を正確に理解せず、状況証拠だけで全面的な非を押し付けないでほしい」 「9:1だろうが10:0だろうが関係ない。俺はリノンが最ッッッ高にイイヤツだって知ってる」 「俺の大切な仲間に手を出したら、タダじゃ済まさないってだけだ」 「言葉で語るつもりはない生憎だが、つまらない諍いに費やしている時間はない」 「待ちなよ。マスターと結衣をどこへやったんだ?」 「結衣……? それは人名だろうか。私は知らない、答える理由もない」 「そうか……剣咲さんも、か?」 「…………」 「あーそう……もういいよ」 何て顔をするんだ。 剣咲さんを放置した癖に。 ツラいフリをして、人間ぶるのかよ。 「荒っぽく、乱暴に、力ずくでやる」 「優真、落ち着きなさいよ。別に彼が何をしたわけではないの、会話の弾みでわたしが突っかかったから」 「乱暴な手段を取ってしまった事は謝ろう。私とてキミらに危害を加えるつもりはない。すまないが忙しい、失礼させてもらえないだろうか」 「だとして――――仮にリノンが先に手を出したとして、そう簡単に道を譲ってもらえると思わないでくれよ」 「俺にとって今日は、一大事なんだ。少しくらい、付き合ってもらわないとね」 「私からも一ついいかな」 「久遠――――!? どうして、ここに……」 リノンの反応からして、学園長が一時的とはいえ“《アーカイブスクエア》〈AS〉”の実権を握っている人物だということを知っているようだ。 「次から次へと、何故私の邪魔をする」 「事の重要性については君も知るところだろう。ここにいる者は、この大きな流れの中で、何がしかの因果関係をもっている」 「君を匿った喫茶店の店主と少女の行き先に心当たりがあるのだろう。私たちも、案内してはくれないか?」 「断る、と言ったら……?」 「決まってるよねー、なるちゃん」 「吐かせるんでしょー、優真くん」 「ホントに短絡的なんだから……」 「キミ達と争いたいとは思わない。私には優先すべきことがある」 「だが私の道を塞ぐつもりならば、身の安全は保障しない。私はどうしてもこの先に行かなければならないのだ」 「この一件が終わったら、ようやく俺にも爽やかな朝が来るんじゃないかって思うんだ」 「ここが、正念場っていうか……譲っちゃいけない場面だって、俺の“魂”が訴えかけてくるんだ」 「だからなるちゃん――――使って」 「…………優真くん……」 「これはただの強奪じゃない、打破する為の活用だ。俺の“魂”を――――思う存分、心行くまで使ってくれっ!」 「いいえ、私はもう優真くんからは奪わない」 「あなたの“魂”を削ることで、私は何も失わないなんて言った事を、悔いているから……」 「“魂”が減らずとも、“心”の劣化は防げないのよ」 なるは自らを代償に“覚悟”の証を抜き放った。 「……なるほど。今夜は悩める客として、占い師のありがたい言葉を聴けるわけではないのだな」 「“《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉”……悪いけど、私に善悪を説いても無意味よ」 「私はどん底まで堕ちて、腐った、最低の女。そんな私の為に同じ場所まで堕ちて、腐ってくれた人を信じられなくなったら――――いよいよ無意味じゃない?」 「無意味かどうか議論するまでもない。キミ達の思想、誇り、目的、その重みを理解しようとするのは無駄なことだ」 「私は過去の清算をせねばならない。まだこの手の中で漂っているのならば、身命を賭して取り戻してみせる」 「……努力を費やすのは、失う前でなければならないのだ」 「結局……そういうことなのか」 「変わり者の白い鴉とは、わかりあえない」 あの時から、俺たちの衝突する未来は決定されていたのだろうか。 「お互いの主張を一本化する必要などない。始めよう少年少女、私は早々にキミ達の屍を乗り越えねばならない」 「もう――――始まってるわよ」 凝縮された“音”の集合体が演ずるは《カリギュラ》〈惨殺戯曲〉。 音の相を極めた者による不可視の極太衝撃波は、その説明通り“音速”で襲いかかる。 「衝撃波か……仕掛けるのは疾いが、この程度であれば――」 不意打ちに近い一撃を躱そうともしない青年の手から放たれた爆風が空気を震わせた。 「くっ…………」 なるの繰り出した攻撃は紅蓮の炎によって掻き消されたように見えた。 だが彼は地面に片膝をついて胸を押さえていた。 「……まだ弊害は残っているか」 俺たちが来る前に、彼は既に疲弊していたのだろうか。 だけど弱っているからといって手加減なんてできない。 それはどんな形であれ信念持っている彼に対して失礼だ。 俺が感じた異変をなるも感じたらしく、瞬間的に顔をしかめたが、すぐに強い意志を見せる。 「私は、見つけるって言っちゃったのよ。優真くんに結衣ちゃんと再会させてあげたいのよっ」 「君たちは、表面的な部分でしかひまわりを見ていない」 「君たちは以前の私と同じだ。わかっている気になっている分、容易く禁断を破り、間違いを起こす」 「じゃあわかるのか……?」 「死んだはずの妹が突然現れた時の、兄の気持ちが理解できるのかよっ!!」 「俺が支えられなかったせいで落ちていった結衣に、俺は会って話をしなくちゃならないんだよっ!!」 篭手の烈風は空気中の水分を凍りつかせ、通り道を示し出すかのように《ダイヤモンドダスト》〈細氷〉を吹雪かせた。 広範囲に及ぶ絶対零度の衝撃を青年は一瞥し、焦ったふうもなく直撃の面積を減らそうと片腕をぬっと伸ばす。 「なるほど……」 「これほどの威力の“力”を扱えるとは、私の予想以上の修練を積んでいるようだ」 凍りついた半身――――しかし腕の間から覗く瞳は、炎のように揺らめき、俺たちの動きを観察している。 「だが何者であろうと関係はない。私はやるべき事をやるだけだ」 握られた銃身が跳ね上がり、閃光が迸った。 「なるちゃんっ!」 「――――――――ッ!?」 俺となるの間を通り抜けた弾はスタジアムの内壁に着弾し――――火柱を上げた。 しかし、それも一瞬。すぐに鎮火する。 「……確かにリノンの言うとおり、ちょっと普通じゃなさそうだ」 速やかに燃やすべき対象を失ったのが単純な原因である場合、鎮火――と言えるのだろうか? 太陽核を想わせる灼熱は一瞬の痛みさえ感じさせず、骨まで溶かしてしまうだろう。 「ハァハァ……」 彼は苦しみながらも銃口をこちらに向けている。 気づけば、篭手による凍結すらも溶けていた。 信念の塊のような意志力を持った、人の形をした“炎”の化身だ。 「肉が落ちて骨だけになるなんて、ダイエットには最適じゃないかしら? 私はゴメンだけどっ!!」 「そーいうこと。もう止まれないんだよ……ッ! あなたが口を割るまで戦いは終わらない……ッ!!」 鼓舞の叫びに乗じ、奮い立った身心のままに飛び掛る。 7日間連れ添ってきた《なる》〈家族〉との無言の連携。 なるの後ろに隠れ、灼熱弾を“音”で相殺した後の僅かな隙を突いて、零距離で氷結させる。 「もう一度だけ言う」 銃は一丁。だが青年が“《アーティファクト》〈幻装〉”に頼りきりでいることを願えるほど、俺は実践に楽天的ではない。 「私を阻むな」 「――――ッ」 遠心力を備えた戦輪が死角から銃弾を弾き飛ばした。 俺は《なる》〈家族〉だけではなく、大ファンであり尊敬する《リノン》〈仲間も同じくらい信頼していた。 「無法者御用達の大乱闘パーティを開いておいて“超最強”に招待状の一つも無し?」 「ナイス、リノンッ!!」 「ね? わたしも混ぜなさいよ」 篭手の一撃はほとんど躱されたが、リノンの戦輪によって青年は傷を負った。 あの傷は徐々に悪化する――――それがリノンに似合わないえげつない“《アーティファクト》〈幻装〉”の特性だ。 「3体1……か。形勢はこの上なく不利だな」 青年がありのままの感想のようにつぶやいた。 それもそのはず、この広さだ。 壁を背にしているならまだしも、三方向から同時に攻められる好条件――――完全に追い詰めた。 「失って始めてその物の価値がわかる。結局、私は心のどこかで当たり前である事に甘えていたのだな」 「もっと彼女に対して理解するべきだった。もっと愛について真剣に耳を傾けるべきだった」 「すまない、ノエル――」 「諦めムードに騙されちゃダメよ? あの手のセリフはまだ続きがある者が吐くのよ。彼、相当の使い手だわ」 「大丈夫よ、安心して。口だけは利けるようにしてあげるからっ」 俺とリノンの援護を意識させた上で、“音”の魔神から逃れる術。 そんなものは―――― 「なっ――――!?」 「…………………………」 「何なのよっ――――!!」 なるの衝撃波を跳ね除けるだけの“豪”を備えたのは、魅力的でいて重戦車のような姿。 「ノエル……?」 負傷を負ってなお動揺を見せなかった青年の瞳孔が開く。 「嘘――でしょ……だって、のえるんは…………」 事態にひるんだのは俺だけではなく、リノンでさえ半歩踏み出せずにいた。 「……………………」 「…………」 「ノエル……?」 もう二度とその口から聞けないと思っていた名前。 他の誰でもない、私だけに向けられた言葉。 だけど―― 私は振り返る事ができない。 ご主人の下に駆け寄って、抱きしめてもらう権利はない。 「私の声が聞こえないのだろうか」 だって、私は―― 二度もご主人を裏切ってしまったのだから。 「け、剣咲さん、生きてたんだ、良かった!」 「喜んでるところ悪いんだけど、どう見ても私たちの邪魔をしようとしてるんだけど」 「…………」 ご主人に危険が迫る中、見ている事しかできなかった自分が歯痒かった。 ようやく無意識の内に身体が動いたはいいけど……。 「…………」 背後に感じるご主人の息遣いがこれほど苦痛に感じた事はなかった。 震えそうな足をどうにかするだけで精一杯。 一瞬でも気を抜けば顔がぐちゃぐちゃに崩れてしまいそうだ。 いっそ罵倒してくれればいくらか気が晴れるのに―― 「ノエル、私の話を聞いてほしい」 ご主人の言葉は私の一番脆い部分にお構いなく突き刺さった。 「お前が今どう思っているのか、こんな私でも少しはわかるようになった」 「的外れだったならば笑ってくれ。それでも私は構わないのだから」 「っ……!」 駄目だ、反応してはいけない。 今の私はご主人の障害を取り除くだけの機械。機械は泣いたり喜んだりはしない。 この場を切り抜けられれば、私はもう二度とご主人の前に現れてはいけないのだから。 「お前は私の過去を隠蔽した。どうやったのか知らないが、手の込んだ偽装してまで私を欺いた」 「正直怒りを覚えている。冗談とは笑って済ませられる程度に留めなければならない。それが社会のルールだ」 「だがこれでようやくわかった気がするよ。失ってからでしか気づけない愚か者だな、私は」 駄目、耳を貸しては駄目―― 「色々と言わねばならない事はあるのだろう。だが今は時間がない」 「そうでなくとも、何よりもまず、私がお前に言わなければならない言葉は一つだろう」 感情の爆発が限界に達しようとするのを誤魔化すために、私は行動に移そうとする。 目の前の敵を排除すれば、この場に留まる理由はなくなる。 …………。 本当にそれでいいのか―― 一瞬生まれた未練とも言える迷いが判断を鈍らせた。 そのせいで無防備で壊れそうな心を、いまだかつてない衝撃が襲った。 「ノエル、愛している」 「っ――!?」 「聞こえなかっただろうか。ならば何度でも言おう」 「ノエル、愛している」 ああ……。 ギリギリのところで保たれていた均衡が、音を立ててみるみるうちに崩れ出した。 崩壊を止める術は、もうない―― 「駄目だっただろうか。私としては、精一杯の優しさと愛を込めたつもりなのだが」 「物足りないのだとしたら、今は諦めてもらうしかないな。これが今の限界なのだ」 「だが、これからもお前が共に生きてくれるのなら、いつの日か誰にも負けない愛の言葉を囁こう」 「その日まで、待ってはくれないか?」 塞き止めていた防波堤がなくなった今、感情のうねりは濁流となって全身を駆け巡る。 溢れ出た感情は形となって外へと零れ落ちた。 「あっ……」 仮面は剥がれ、真実が曝け出される。 ああ、どうにも上手くいかない。 だから私は真実ってものが嫌いなんです。 「ご、ご主人……私は……」 「ノエル、今は無理に感情を整理しようとしなくてもいい」 「一言だけ、私に答えてくれればいい」 「ノエル、愛している」 ニセモノだった二人――7年前のあの日から、決してこの手で掴めないと諦めていたモノ。 だけど許されるのならば、私は本物になりたい。 「……わ、私も、ですよ……!」 ただの自己満足でしかなかった愚かな行為。 だけど、今、ようやくほんの少しだけど意味が生まれた。 「ノエル、申し訳ないのだがやはり私はお前なしに生きられないようだ」 「今もお前の助けを必要としている。頼りないと罵られてもおかしくないな」 「何を言ってるんですか」 胸に手を当てる。地獄のようだった心の中が今は満たされている。 「私の全ては髪の毛一本までご主人のものですよ」 「そして、ご主人の願いをかなえるのが私の役目です」 「ずおりゃあああああああああああああああああああ――!!」 「お前ら人が黙って見てりゃ、よくもご主人をよってたかってボコってくれたなあああああ!!!」 「この落とし前どうつけてくれるんだゴラァ!!!」 「えっ、何だか知らないけど剣咲さんすっごく怒ってるよ!?」 「愛する者を守るのは至極当然だよ。だけど私と優真君も負けてないよね」 「どさくさにまぎれてふざけた事言ってるんじゃないわよ」 「ふざけてるのはあっちも同じだけど、アレは舐めてると痛い目見る程度じゃ済まされないわ」 「ふふふ、こそこそ作戦練ったって無駄ですよ」 「今の私は無限の愛を受けたアルティメットLOVEノエルだからな!!」 「いやぁ……生きてたのは良かった。めでたいっ!」 「ぐちゃぐちゃ悩むのにはもう飽きました。遺恨もわだかまりも全部ひっくるめてぶった斬ってやりますよ」 「ソラァ!! 死にたい奴からかかってこんかい!!」 豪快な登場を飾った剣咲さんは、その“力”も豪快だった。 俺たちを相手に横綱相撲を取ろうという自殺行為こそ、彼女の強さの表れだった。 「お゛ぉおおおおおおおおおおおぉぉぉぉッッッ!!」 振りかぶった“《アーティファクト》〈幻装〉”は血液が流れたようにパンプアップする。 そんなものを振り下ろされたのだから、地面は割れてあり得ないほどの衝撃が襲った。 「躱すだけで精一杯……ッ! 」 「さーって、それとこれとは話が別だ。赫さん、のえるん、さっさと結衣の場所を吐いてくれ」 「優真くんっ! あれを見たまえ!」 「この状況で何を見ろって――――」 俺だけではない。皆、己に僅かな隙を生み出す事を許し、チラりと上方へ視線を移した。 そして視線は固定される。 「なんだよ……あの、残酷で、悲しいオーロラは…………」 「“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”――――」 「何……ッ!?」 「私は戦況を見据えて先手を打たねばならん。ここからは別行動だ、なんとしても“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”を阻止してくれ」 「ノエル、私達も急がなければならない」 「りょーっかいです。ご主人、身体の方は大丈夫ですか?」 「ああ、時間が経つにつれて痛みは消えてきた、問題はない」 「わかりました。それでは、今からご主人が浮気をした回数分、心の中で数えたら全力で飛んでください」 「…………」 話の内容は聞こえていたが、暗号じみたサインを見ぬくことはできず――――二人はノータイムで跳躍した。 「私は浮気をしていない。お前もわかっていたのだろう」 「ええ、私はご主人を信じていますから」 「だったら何故、江神を雇って拘束したのだ?」 「ご主人を“AS社”の奴等から遠ざけるため――まあそんな事はどうでもいいじゃないですか」 「今はあの腹ペコ大魔神を連れて帰るんでしょう?」 「そうだな、早く行かなければ腹を空かせて騒ぎ出す可能性がある」 舞い上がった土煙による視界不良を機に、二人分の人影が頭上高く飛び去った。 ――――逃げられてしまう、とわたしは直感した。 「(“炎”の“《イデア》〈幻ビト〉”と“怪力”の“《イデア》〈幻ビト”……!!)」 咄嗟だった。考えがまとまるより先に“《アーティファクト》〈幻装〉”を投げつける。 「(当たった……?)」 空から赤い雨が降った。 血。それは皮膚を破り、肉を傷つけたことを意味する。 致命傷とはいかないにしろ投擲は功を奏したようだ。 すでに逃げられた後だが、傷を抱えた身体では目的地への到着は幾分、遅くなるだろう。 「げほ……げほ……あっ、やっぱり逃げられてる」 「小癪な連中だわ……っ! 優真くんたちがぼうっとしてるからよ?」 「男は女の子の涙に対する耐性がまるでないからね。特に剣咲さんの涙は、ギャップもあって思考が止まっちゃった」 「もうっ」 仮に“虹色”やわたしが涙を流したのなら、優真は理由も聞かずに胸を貸してくれるだろう。 彼が手も足も出なかったのは、彼女の涙の“質”の違いだ。 「すぐに追いましょうリノン」 「待って、状況の整理をさせてちょうだい。久遠が関わってるのは、何故?」 「俺が狙われてた理由に直結してるっぽいよ、なんか俺にしかできない仕事があるんだってさ」 「優真にしかできない……それって……」 「“《カロン》〈魂の幻ビト〉”がどうとかってさ。よくわかんないよ、俺は俺なのに。そうだろ?」 優真の中に眠る魂“《ステュクス》〈重層空間〉”の管理人。 わたしは優真にフロムが言っていた事を伝えていない。 フロムが優真の中に見据えていたもの――――それこそ、“《カロン》〈牢主〉”と呼ばれる存在なのだろう。 「ええ……《・・・・・・》〈優真は優真よ〉。《・・・・・・・》〈わたしがわたしであることを教えてくれたようにね」 わたしが何を伝えようが伝えまいが、優真は大きな流れの渦中へと巻き込まれてしまう。 彼はなんて過酷で、運命的な人生を送っているのだろう。 「これは一体……」 「次から次へと厄介ね」 「九條お嬢様じゃんっ! え? ここって旧市街の最果てみたいな辺境地だよね?」 “偽物”の能力者の件でトリトナがお世話になった“《フール》〈稀ビト〉”。 やはり、優真以外の“《フール》〈稀ビト〉”は受け付けない。 生理的な問題で相容れないのだから仕方がない。 「貴方達は……何を……? 空の禍々しい輝きは、何かの予兆なのですか?」 「放っておいて追いましょう。彼女に構ってる時間はないわ」 「そうね」 「あー、はは。悪いね、状況を説明してる暇はないんだ。デートの予約なら受け付けるから、また今度ね」 「赫さん達の行方をご存知ありま……もしかして、追うというのは――――」 「お出かけかにゃ~♪」 「ハハッ」 私は此処に来ての“最悪”に吹き出した。 最も厄介な奴の介入。 久遠がもう少し、この場に留まっていれば話し合いで済む可能性はぐんと高まったが……。 こいつがわたしの話を聞くはずがない。 「イチ、ニー、サン、死ー、なんちゃって……♪」 「“耳鳴り”……ッ!」 「ココロの……ッ!」 優真と“虹色”が怖いくらいの敵意を剥き出しにする。 飛び出さない辺りから察するに冷静さを保ってはいるようだが、私的な感情というものは決壊しやすい。 「ココロ……? ああ、出来損ないの556号のこと。そんなのもあったなぁ」 「取り消せ」 「優真、落ち着いて。口車に乗っちゃダメ」 「さっきはどーも。久々におもしろい見世物が見れて楽しかったにゃ。今度はボクの脚でも舐めてみる?」 「あの時と今じゃ状況が違うことに気づいてないの、か・し・ら」 「“虹色”も抑えて」 無邪気に煽り立てる怪物から2人をなだめる。 「あっちのあいつはいつでもいいにゃ。どこにでもいる普通の玩具だし♪」 「…………」 お嬢様は眼中になし、といったところか。 「でも変だなぁ……死に損ないが雁首揃えてると思えば、一匹、妙なのが混じってない?」 ぴたり。獲物を定めるように視線がわたしに止まる。 「あの身体で地下の監獄から脱出するなんて、運が良いだけじゃいかないよにゃぁ……? そうだろう、広告担当さん」 「あら? わたしが一枚噛んでるとでも言いたげね。“《アーカイブスクエア》〈AS〉”のエースって意外に狭量?」 「この空の色。“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”以来の大捕り物の予感がするにゃ」 「空は世界そのもの。見るからに有害そうなベールに覆われたアレから連想するのは、この世の終焉でしょうね」 「ボクは当時の大異変に参加することは叶わなかった」 「思えばボクのだるーっとした気怠さは、最大のイベントを逃した事が原因なのかもしれないにゃぁ」 「初耳ね」 「この馬鹿げた世界でくだらない生を持て余す事自体に飽きてしまうまえに、歴史的瞬間を最前列で観戦して“変わる”」 「一興だにゃぁ……♪」 ――――ああ、もう……見るからに、強い……。 悦に浸るルージュの周辺だけが澱み、空気が意志を持ったように避けて流れている。 全滅すらありえる相手。 一人で相手にすれば、結果は明白だ。 「………………」 「“虹色の占い師”……行って」 「は? 何よ、それ」 「いいから」 「見損なわないでくれる? あなた一人を残して行けるほど私達は浅い関係じゃないわ」 「…………」 「……ッ!!」 “虹色”の襟首をつかんで引き寄せる。 「作戦会議? それとも仲間割れかにゃ?」 「放してよ……っ」 「…………ふざけんな……」 「優真に蓄積した疲労に、気づいてないわけじゃないでしょっ」 「優真を快復できるのは、“《エンゲージ》〈契約〉”をしたあなただけ。残るのはわたしが適役なのよ」 「カッコつけないで。あいつは怪物よ。一人でどうこうできる相手じゃ――」 「――――優真はッ」 「家族を一番大切にするッッ」 「――――」 「いつだってそう。家族、家族……わたしじゃ、家族にはなれなかったのッッッ」 別に格好つけたいわけじゃない。 誰か好き好んでこんな役回りを引き受けるか。 「あいつの隣は――――わたしじゃダメなの。わたしじゃ、あいつの求める幸せに到達できない……」 「だからッッッ!」 「………………」 “虹色”の瞳が、先を見据えた。 それだけで、全てが伝わったことを理解した。 「コレ、渡しとくわ」 「…………? あっ――――」 これって……。 「“主役が輝いて視えるのは、縁の下で支えてる名脇役のおかげ”バーイ、菜々実なる」 「……底辺作家の投稿作品なんて、まだそこまで読み込んでないわよ」 さて……あと納得させるのは一人か。 「リノン……」 わたしは現状を正確に把握しているわけではない。 ただ優真にとって一刻を争う、譲れない事態であることだけはわかっている。 「わたしを捨てて行きなさい」 「リノンは……」 うるさい……。 いたいわよ、馬鹿……一緒に、いたい……。 「わたしは、消耗品。その場凌ぎの、代替品」 最後まで……隣に……いたい。 「一回こっきりの、使い捨てでいいの。道端に投げ捨てられた空き缶と同じ、屑でもいいの」 どうしようもなく《みそっかす》〈除け者〉なのに。 知らぬ間に消えていく不遇な役回りなのに。 報われない、損な脇役とわかっているのに。 何故だろう――――? 「今、あなたの役に立てる事に、至上のやり甲斐を感じている」 「リノン……ッ」 あからさまな苦渋。 優真はトリトナに似て優しいから、こういうのが苦手だろう。 だからこれは、わたしなりの意地悪。 男として、人として、わたしに最低の命令をして、踏み越えて行くことの強要。 彼にとって、最も辛い決断だ。 「命令だ」 「ルージュを……止めろ。俺となるちゃんに、関わらせるな。九條お嬢様を、無事に家に帰してやるんだ」 「了解」 「それと、死ぬな」 「最後の最後の命令で、一気にハードルが上がっちゃったわね」 こんな化ケ物と正面切ってやりあって、生死を考えていられる余裕などありはしない。 「できるだろ……そのくらい。だってリノンは、“超最強”なんだから」 「よくわかってるじゃない。じゃあ次に会った時は――」 「肴は成功談縛りで、一杯飲み交わそうか」 「……わたしとの約束に“《へんしん》〈Re〉:”できる?」 「ああ、約束だ」 打ち付けあった拳から、優真の前向きな心が流れこんでくるようだった。 「頼んだわよ“名脇役”」 「さっさと行きなさいよ“幸せ者”」 「え? ちょ――――え? ボクを無視して行っちゃうの?」 「……と、いうわけだから。エース、お手柔らかにお願いね」 「待って待って、おかしいおかしい」 「なに? なになになに、これってもしかして、あれだよね? キミ一人でボクを“喰い止める”とかそういうのだよね?」 一人――――正確には違うが。 「………………」 戦闘経験はないだろうし、数には入らない。元より期待なんてしていないけれど。 「ありていに言えばそうね」 「舐めすぎだにゃぁ……」 「方やアイドルの頂点。方や“《アーカイブスクエア》〈AS〉”の筆頭実力者。釣り合いの取れたカップリングじゃないかしら?」 「……自分だけは平気、とか思ってる?」 「まさか自分が特A級指名手配犯の片棒を担いだ重要参考人だということを忘れちゃいないだろうね」 「今だってボクを邪魔している。後ろで震えている“《フール》〈稀ビト〉”の拘束がキミに与えられた仕事じゃないかにゃ?」 「ぷっ……フフ……」 「…………ああ……やっぱり思ってるんだにゃ……」 「関係ないんだってば」 「にゃ……?」 「わかんない? “《アーカイブスクエア》〈AS〉”なんか利用価値のないとこ、イチ抜けたって言ってるのよ」 「わたしはもう水瀬優真の派閥に属する個人よ? ちょっと揉めて、殺しちゃった、ってイイワケすればいいじゃない」 「護ってくれた組織を捨てて、単なる“障害”に成り下がっちゃうなんて……結構、素敵なところがあるんだにゃ」 遺されざる実力者同士が大捕り物の舞台裏で争う。 そんなことが起こるから、現実なんだ。 「さ、首輪は外したわ。目の前をうろちょろする雑魚を戯れに仕留める。そういう日があったっていいんじゃない?」 「だっるーっと……《ヤ》〈殺戮〉って《ヤ》〈殺戮って《ヤ》〈殺戮りまくるかにゃぁ」 「……ゴクゴクゴク……ゴクゴクゴク……」 私は優真に住む場所を与える代わりに、労働環境と見合った対価を与えた。 それらは時代を生きていくための力をつけるためであり、休む間も与えない事で過去を思いふける時間的猶予を奪うためだった。 私は優真の育ての親であり、家族として優真を信頼していた。 「ゴクゴクゴクゴク――――ぱぁぁっ」 しかし一度として“慈善”の心を持ったことはない。 少しでもそういう気持ちが芽生えれば、私は“懺悔”という自己満足に浸るために優真を利用していることになってしまう。 だからこそ徹底したフェアを心がけ――――養育費はすべて算出し、常識的な範囲で金利もつけ、働き始めた優真の給料から天引きしていった。 「ふぅ……ごくごく……ごくごく…………この海洋深層水、超うまいなー。久遠やるなー」 それでも優真は嫌な顔ひとつせず、本当に良く働いてくれた。 私は伝えていないが、実は優真は今月分の給料で、これまでに掛かった養育費を全て完済した。 優真は心身ともに自由を手にし、個人で生きていけるだけの立派な男に成長した。 優真は今、自らの意思で物事を取捨選択し、行動しているだろう。 その先に待っているのがなんであろうと、信じた道を突き進み、全責任を自分で負う覚悟を持っているのだから。 「(元が良かったのだろうが……案外私が子育て上手だったのかもしれないなー)」 どちらにしろ、大人になった。 育ての親の役目を果たした私は、一代で築いた事務所を自らの手で葬った。 “《ディストピア》〈真世界〉”を震撼させる大きな流れの情報をキャッチした久遠に、手伝いを要請されたからだ。 自宅というものは――――安らぎすぎる。 家族というものは――――温たかすぎる。 息子というものは――――愛らしすぎる。 骨身に染み込んだ甘えは濃厚な時間とともに私の牙を蝕み、根本から抜こうとしていた。 私を待ち受ける凄惨な現場に立ち向かうには、失うものを持たない強さを取り戻す必要があった。 この世に“魂”を宿す者は全て平等に、最終的な意味で孤独を迎える。 今が私にとっての最終局面というわけだ。 「さーてーとー。オシゴト開始だー」 私は久遠からの指示で“ゼロ”という“《フール》〈稀ビト〉”がいるフラワーパークに急行していた。 「(体力づくりの一環で山登りをさせたことならあるが、こういった遊び場には一度も連れて行ってやれなかったなー)」 久遠が“ゼロ”を泳がせている理由は、強力な“力”を持った者に吸い寄せられるという極めて珍しい“体質”を持っているかららしい。 その“力”を利用し、第二の“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”を未然に防ぐべく、監視をしていたようだ。 そして今日、“ゼロ”が血相を変えて動き出した先が、ここだったわけだ。 「陸地を沈め、緑を根絶やし、空の境界さえ狂わせる――――天変地異を我が物にするとは、7年前と変わらないなー」 私は7年前、この大異変の解決に位置する“ヒストリア”の殲滅に直接的に関わることはなかった。 私の“力”は、副次的に起こった災害の対策にこそ真価を発揮できるから、荒事の中心には呼ばれなかったのだろう。 “ヒストリア”との抗争で、多くの“《イデア》〈幻ビト〉”が死に、大量の“魂”で埋め尽くされた“《ステュクス》〈重層空間”は氾濫し制御を失った。 大異変の最前線を駆け抜けた偉大な“《イデア》〈幻ビト〉”の代わりに、今度は私が駆りだされる……因果とはおもしろいものだ。 「まー、やれるだけのことはやるかー」 どのみち私は、また中心とはほんの僅かに脱線した役回りだ。 「――――ッ!!」 園内に入った一瞬、空気が変質した。 爪先から波打つように肌が粟立ち、脳が命令を出しても身体が踏み込むのを躊躇ってしまう。 間違いない。この奥に“ヒストリア”は居る。 「…………まいったな……“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”再来なんて、大袈裟だと疑いはしたが……これはひょっとすると、ひょっとするなぁ……」 久しく忘れていた格上の存在は、己の《わいしょう》〈矮小〉さを浮き彫りにする。 「コレだよ、コレ……この感じだ……」 その場所からは半径数百メートル以上離れているというのに、張り詰めた緊張が感じ取れる。 怯えから勇気へと変わり、私の戦闘意欲を高める。 「む、先客かー」 「…………うっ……うぅぅ……チッくしょぉぉぉ……」 深夜。閉鎖された園内にうずくまる痩せの長身――――“ゼロ”だろう。特徴が聞いていた通りだ。 脅威となる“《イデア》〈幻ビト〉”“《フール》〈稀ビト”の発見器でありながら、自らも強力な“力”を持つ“《フール》〈稀ビト”。 話し合いに応じる事はなく、首輪を付ける事もままならないほどの危険かつ、凶暴と恐れられている。 「……っ……はぁ……うぅぅ……くぅぅ……あぁぁぁぁ……」 そんな化ケ物が膝をついて涙を流している。 「何なのだよー。何故、泣いているのだー?」 「うっ……あぁ…………おめぇには……関係ないだろ……今、食欲がねぇんだ……どっか行け……」 「……キミは…………そうか……」 私は“ゼロ”の顔を一目見て、片腕が疼いた。 そして、全てを悟った。 情報の発信源である“《アーカイブスクエア》〈AS〉”とはいえ、私と“ゼロ”の間にある、 《・・・・・・・・・・・・・・・・》〈語られる必要もないほど些細な関係〉は知らなかったのだろう。 「……私は運命に翻弄されやすい体質なのかもなー」 疼く片腕を押さえる。 「っ……うぅ…………あ……?」 「キミは泣き虫だなー。うちのゆーまは良く笑うが、泣くことは滅多にないんだぞー」 「おい……隣に座って良いって言った覚えはないぞ」 「キミはここの責任者かなにかかー? 違うだろー? 私と同じ、不法侵入者だろー?」 「喰いもん風情が粋がってんじゃねぇぞ……」 「何の権利もないなら黙っていたまえよー」 「よく喋る駄肉だぜよぉ。ウェルダン飛び越して黒焦げになっちまったババァは、とっとと三角コーナーにでも入っとけよぉ」 「失敬だなー、こちとらまだまだ結婚適齢期。肌の艶も学生と比べて遜色ないだろーがー」 「あぁぁ……オマエと話してると調子狂うぜ」 「消えちまってくれねぇか? 腹ワタ引きずり出して、てめぇ自身の腕で綱引きさせるぞ」 「生憎だが、私の《・・》〈左腕〉はがらくただ。腐らないように血流を操ってはいるが、飾り物以上のなにものでもないのだよー」 「だからどうした、そんなもんが――――――あ?」 “ゼロ”の瞳に動揺らしい動揺が生まれる。 「左――――腕?」 「《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》〈たった7年ぽっちで忘れてしまったのかー?〉」 「おい。おい。今。なんて言った?」 私は動かない左腕を《ハンデ》〈欠陥〉などとは思っていないが、それを自分から口にする事はなかった。 「キミに私の“魂”の1/4ほどを喰わせたのは、ちょうどゆーまを拾ってすぐの事だったなー」 「…………嘘……だろ……?」 「あの時……路地裏で力尽きて倒れていたキミは、飲まず喰わずで砂漠を歩いてきたような悲惨な姿をしていたな」 「物理的な食事ではなく、“魂”を喰らう事でしか空腹を満たせない事を知りながら、キミは“力”を使う事に恐怖していた」 「俺は……空っぽだったんだ……喰う事で、何かが変わる気がした……だけどっ、それを一度したら――後戻りができない気がして……」 人の心は、脆く、一度覚えてしまった快楽を簡単には手放すことができない。 “傲慢”“嫉妬”“憤怒”“怠惰”“強欲”“暴食”“色欲”。 平等に背負っている大罪のバランスが、突出した飢餓感により崩壊してしまったのが今の彼だろう。 「奪わずに生きていける生物などいない。奪うだけの理由があるなら赦される。それが自然の摂理であり、生きるということなのだよー」 「そうだ……あいつは、そう教えてくれた……振り払おうと思えばできたのに、そうしなかった……」 「死に損ないの俺に、自ら“魂”をくれた……空っぽな心に響く、衝撃的な味だったんだぜ……?」 「私は、必死で生きようとする者を決して笑わない」 あの時、“ゼロ”は葛藤していた。彼自身、“魂”を求めて彷徨い続けることになると察していたのだろう。 このまま息絶えてしまう方が楽――――そう結論付けながらも、彼は私にすがりついたままだった。 だから私は無償で与え、7年経った今、こうして再会することになった。 「最初に取り込んだ“魂”……あの味が忘れられなくて、俺は喰い続けたんだ……あんたの味が、忘れられなくてよぉっ!」 「過去の感動は、美化されるものなのだよ。現に――――キミの嗅覚は私の“魂”を今の今まで感じ取れなかっただろー」 「そうだ……どうしちまったんだよ? あの美味そうな肉は、どこへいっちまったんだ?」 「……私より上質な“魂”なんて腐るほどある。ただ状況が価値を変動させたにすぎないのだよー」 「贅を尽くした御馳走よりも、飲まず喰わずで這いずりまわってやっと口にした一切れのパンの方が染みる。それだけなのだよ」 「あの時から――――一度として満足な食事を取った気がしやがらねぇ」 「迷惑な飢餓感を紛らわす為に貪ってはいたが、常に味気なさを感じてた」 「いつだって、霞がかった視界に、あんたの“魂”があるような気がしていた」 「喰ってる時は夢中なんだ。だけどすぐに比べちまうんだ。『ああ、コレじゃねぇや……』ってよぉ」 「……だから、泣いていたのだなー」 「ようやく食べたい物が見つかったと思って来てみれば、自分の手に余る代物だと直感して動けずにいたというわけだな」 無言で園内の奥へ視線を移した“ゼロ”を倣い、私も異変の元凶の方角を眺めた。 その太刀打ち不可能な威圧感は、“魂”の大きさに比例する。 いくつもの“魂”を喰らい続けてきた“ゼロ”を凌駕する膨大な“魂”をまえに、“ゼロ”は涙した。 「……ごくっ……ごくっ……ごくっ……はぁ」 もう、水分補給は充分だった。 「では、こういうのはどうかなー?」 「この先に待つ“《メインディッシュ》〈豪勢な食事〉”にありつくまえに、“《わたし》〈食前酒”で気を静めつつ、食欲を高めるというのはー?」 「いいのかよ……また、あんたを喰らっちまって……?」 「勘違いはやめたまえよ」 そのどうしようもなく平和ボケした返答は、私の言葉の意味をまったく理解していなくて。 単刀直入に言って――――イラついた。 「世界にとってキミは害でしかないのだ。“ヒストリア”の発見を終えた今、用済みとなったのだよ」 久遠が私に課した仕事は、“ヒストリア”に次ぐ脅威――――二次災害を及ぼしかねない“ゼロ”の排除。 餓死寸前の“ゼロ”に魂の半分を与えて生き延びらせてしまった私が担うには、相応しい仕事だった。 「喰い殺す事を許可した時点で、自らが同じ目に遭う事も考えたまえよ」 「――――ッ!?」 人ならざる身のこなしだった。 “ゼロ”は跳躍に不向きな体勢にあることを即座に理解し、脚ではなく腕をバネにして前方へと跳ね上がった。 「はぁ……はぁ…………」 「おいおい、まだ何もしてないだろー? それともキミは殺意だけで死んでしまうのかー?」 「一日で《・・・》〈二度も〉トラックに突っ込まれた厄日があったが、あんなもんはボールが跳んできたようなもんだ」 「あんたのような正真正銘の“《バケモノ》〈本物〉”は、向き合ってるだけで息が上がるぜ……」 「褒め言葉と受け取ってやろー」 「前哨戦だ。あんたを完全に取り込んで、この先にあるドデケェ魂も喰らい尽くしてやるッ!」 「いいなー、そのやる気……ひしひしと伝わって来る殺意……戦いとはこうあるべきなのだよ」 「――――オォオォオオォォォオオオオオオオオオオオオッ!!」 溶かしたチョコレートを流し込むように“ゼロ”の表面が黒く塗り替わっていく。 周囲の空気さえも変質させ、見た目では質感の伝わってこない暗黒物質へと変貌する。 それは私の知っている7年前の彼からは想像できないスケール感。 しかし“飢え”に対する変わらぬ渇望は今もそのままだ。 「ゥ゛オオオオオオオオッ!!」 「ッ! よっ――――いいぞいいぞー」 原形を留めない霞の巨体から無造作に腕が伸び、私を捕まえようとする。 殺人的な一手一手を躱し、伸縮する横薙ぎと同時に私は噴水の水溜まりへ滑りこむ。 「1mmの狂いもなく突き進むキミの真っ直ぐさを、私が買おう」 私は水面を蹴りあげ、自身に同化した“《アーティファクト》〈幻装〉”に水飛沫を浴びせる。 「――――オォオオオオオオオオッ!?」 振り返った“ゼロ”が危険を察知して後退するが、その距離僅かに数メートル。 「私から逃れたいなら星の裏側まで後退したまえよ」 刃の表面にはミクロレベルの穴が空いていて、“水”を媒体にして広範囲の《ウォーターカッター》〈加圧式切断水流〉が噴射される。 『一度の演舞で周囲の物質が原型を失い、二度の演舞で周囲に何も存在しなくなる』――――かつて“《アーカイブスクエア》〈AS〉”に雇われた時の評価だ。 「カハァァァァァ、カハァァァァァァァァッ!」 ――――やったか。 ……スライサーにセットしたゆで卵みたいに分割されたはずだったのだが。 私の“《アーティファクト》〈幻装〉”は確かに彼を引き裂いた――――では何故……? 「ウ゛ゥ゛オォオォオオォォォオオオオオオオオオオオオッ!!」 「――――ッ!」 私は“ゼロ”の中心核に灯る《ほのぐら》〈仄昏〉い、沼に似た絶望的な終焉を視た。 私と出逢った頃とは段違いの吸収力の理由は、鼓動する中心核に据えられた“魂”の象徴。 あれは膨大な数の“《イデア》〈英霊〉”の“魂”が合成され、変質した未知の脅威だ。 爆発的に伸びてくる無数の紐状の触手は異なる磁極を向け合ったように私を引き寄せる。 「私は容易くはないぞッ!!」 触手を断ち切り、水面を移動して距離を取る。 どうやら強力な磁場となっているのは“ゼロ”の正面だけらしく、裏に回れば触手は意味を成さなかった。 「フシュゥゥゥウゥゥウウゥゥゥゥゥゥゥゥッ!!」 「……なるほど……一度死んだくらいじゃ、キミは《・・・・・》〈気づかない〉ってわけか……」 空っぽだったあの頃とは見紛うほどの凶悪さを身につけた“ゼロ”を明確に“倒す”ことは不可能かもしれない。 恐らくは吸収してきた“魂”を全て変換させ、私の“魂”を喰わせたあの頃に戻してやる必要がある。 複数の“魂”を合成する事の危険性を、私は少し侮っていたのかもしれない。 「私は――――共犯者だな」 「キミを助けてしまった事で奪われてしまった“魂”に責任は持てないが……せめて私が解放させてやるとしよう」 《・・・・・》〈こんな玩具〉で斬りつけるのは、ヤメだ。 どのみち私は長く戦える身体ではない。 一億の手数より、迷いなき一手を見せてやろう。 「キミの“力”はゆーまに似ているな……」 あの子がいつ、あの得体の知れない“複数の《デュナミス》〈力〉”を手に入れたのか、私は知らない。 “ゼロ”と“優真”に感じる、似て異なる“《アブノーマル》〈異質感〉”は接点がある。 しかし私や優真と“ゼロ”とでは決定的な差がある。 「人と動物の違いがキミにはわかるか?」 「ウォオオォォォオオォォォォォォォォォォォォォォォッ!!」 「そう、それだ――――キミは、どちらかと言えば“動物”に寄っている」 人は本能の壊れた動物だ。 人は持って生まれた“味”が少なく、無駄が多い。 避妊も、煙草も、酒も、薬も――――生存とは関係のない趣味嗜好による行動だ。 そういった一切の無駄を排除し、シンプルに手を伸ばせないのが、人の本能が壊れているなによりの証拠。 「“倫理”に狂った複雑怪奇な人という存在は、動物には到底真似できない行動を取る場合がある」 刃を噴水の水溜まりに浸け、身体と繋がる無数の穴から血潮を流した。 「私は“《イデア》〈幻ビト〉”だが、その馬鹿げた行動の中にこそ人の強さがあると常々思っていたのだよ」 “《リヴァイアサン》〈海洋の悪魔〉”である私の血を混ぜることで、この水溜まりを領域下に置いた。 「キミの嗅覚が私の“魂”を捕らえなかったのは、私の本領が発揮される瞬間に居合わせなかったからかもしれないなー」 “水”を操る“《デュナミス》〈異能〉”――――私が“《ナグルファル》〈7年前の夜”に災害の対処に回された主たる理由。〉 「人として過ごした時間の中で私が身につけた凶器――――それこそ」 「己が生涯を顧みない一撃と知りたまえッ!!!」 歳を重ねて弱体化した“《デュナミス》〈異能〉”だが、小さな海と化した水溜まりに 《うねり》〈震動〉を伝搬させるくらいはできた。 雲の付くほど長大な水柱にとって、地を這うものは《さら》〈拐〉い尽くされるだけの餌食でしかない。 躱す、避ける、などといった行動は論外だ。 そう――――彼のようにただ呆然と眺めながらそこに居合わせた不運を呪うしか、選択肢はない。 「ア゛ァ゛ァァァァァアァアァアアァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!」 自身の生死を問わないからこそ可能な“力”の解放。 遍く陸地は海洋へと帰す。 「破゛あ゛ぁああぁああああああぁぁぁぁぁぁッ!!」 「ニャハハハハハハハハッ!!」 カメラを回していれば、このアクションシーンだけで映画一本分の価値はある。 そう想ってしまうくらい、壮絶なぶつかり合いだった。 舞台女優が国民的アイドルという点を抜きにしても、見入ってしまっていただろう。 「…………」 話の内容から、赫さんと剣咲さんが何か大きな流れの渦中にいる事はわかっていても、私は自分のするべきことが把握しきれていなかった。 菜々実さんと水瀬さんは2人を追っていき、私とRe:nonは置き去りにされてここに居る身。 決定的な違いは、私は意味もなく棒立ちで傍観をし、Re:nonは自分の意志で居残りを決めたという点だった。 「…………私は……」 始まってから数分経たないうちに劣勢を感じたが、Re:nonは押し切られてはいなかった。 では、Re:nonを手伝うべきなのだろうか。 獣耳を生やした褐色の――――ルージュと呼ばれた少女は、赫さん達にとっても、水瀬さん達にとっても敵であるようだった。 だけど。 赫さんはRe:nonの謂れの無い暴力によって傷ついた。 「(心臓を一突き――――遊びなく、私の命を奪おうとした……)」 “《エンゲージ》〈契約〉”を交わす事で一命は取り留めたが、そんな状況へ追い込んだ人を援護する踏ん切りはつかない。 Re:nonは私など存在しないかのように目を合わせず、戦闘に明け暮れていた。 「……ふぅ。さすがは一目置かれるだけはあって疾いにゃあ。でも、護りながらは辛いんじゃないかにゃ?」 護りながら……? 私が怪訝に思っていると、ルージュが首を傾げた。 「ん? にゃはは。やっぱりお嬢様は気づいてないんだにゃ」 「はぁ……はぁ……黙りなさいよ……」 「指図するにゃ♪」 「何のこと……ですか」 「ボク達の攻防その全てを肉眼で追えていたかにゃ?ボクが時折キミの喉笛を狙って“《アーティファクト》〈幻装〉”を振るっていた事に気づいているかにゃ?」 「え――――?」 「…………はぁ…………はぁ……」 「『え?』じゃないよ。お嬢様は護られて当然とでも言いたいのかにゃ?」 護る――――Re:nonはルージュと戦いながら、私に刃が向かないように動いている? その荒い息の理由は、私がここに存在していることに直結する? そうだ。 あの時の赫さんも、同じだった。 《わたし》〈重荷〉を背負う事で、本来の力を出しきれなかった。 「キミは“《フール》〈稀ビト〉”というより“《フール》〈愚者”さ」 「何で生きてるの? ん?」 私は、黙って立っているだけで、誰かの邪魔になる。 存在そのものが弊害を生む。 「――――好きでなったわけじゃ、ないんでしょ」 「膝を抱えてそこで見ていなさい。わたしも、このくらいのハンデがないとやる気が出ないのよ」 私は――――。 「そうだ♪ おもしろいこと考えたにゃ……」 ルージュの手の中で左右に揺らされる小瓶。 「……それは?」 「ボクだってキミを手に掛けたくはないんだ。でも“《フール》〈稀ビト〉”だから解体衝動が湧いてしまう」 「そこでコレ♪ “《エーエスナインプラス》〈AS9+〉”。こいつをグイッとやれば、あっという間に“《クレアトル》〈現ビト”」 「………………」 人に戻れる……。 その響きは耽美な詩のように閉じた心の内側をくすぐる。 ルージュの持つ“《エーエスナインプラス》〈AS9+〉”が本物である保証はどこにもないが、ピンポイントで“瓶”を一つ持っているという点においてあながち嘘とも思えない。 「キミが望むなら、コレを無償であげよう」 「その代わり……ボクに頭を下げて、謝るんだ。生まれてきてごめんなさいってね」 「クズめ……!」 「おっとっと、今いいところにゃんだから――――さぁッ!!」 「――――ッッッ!!!」 躍りかかったRe:nonを迎撃する為にルージュが背を向ける。 「(私は一秒だって“《フール》〈稀ビト〉”でいたくない、試せる事は全て試して人間に戻りたい)」 その目的の為にはなんだってしようと決めていた。 だけど……“今”は違う。 ――――今は“《フール》〈稀ビト〉”《・》〈がいい。 「!!?」 “今”の私を惑わす瓶を、迷いを断ち切るように旋風の刃が切り裂いた。 内容液のこぼれた地面を呆然と眺めるルージュ。 「……その表情から察しますが、どうやら本物だったようですね」 「人にもどれるチャンスをふいにするなんて、馬鹿なヤツだにゃぁ」 「――――ただの人間では、あなた達の舞台に並び立つことはできませんから」 「へぇ……やるじゃない」 ルージュという少女を止める事は、微力ながら赫さんのやろうとしている事の手伝いにもなるだろう。 そう――――微力ながら。 『今、あなたの役に立てる事に、至上のやり甲斐を感じている』 Re:nonが水瀬さんに言い放ったあの言葉がいかに自分の“本当”を殺した発言なのか、私は理解した。 「私はリノンさんの信念に感じ入りました。向けている視線の先は違っても、想いは同じです」 「一緒にしないでくれる? わたしとあなたじゃ決意の格が違うわ」 「……私の援護は、邪魔でしょうか?」 Re:nonは水瀬さんを直接フォローする役目を放棄し、自分の役割を全うするために残った。 涙の出るような哀しい適材適所を、彼女は良しとした。 大物である彼女が“微力”の支えという役目を担った。 その覚悟を前に、指を咥えて無関係を気取るくらいなら――――私は“《フール》〈稀ビト〉”《・》〈がいい。 「邪魔に決まってるでしょ? 邪魔も邪魔」 「邪魔だけど――――《・・・・・・》〈不快じゃない〉。使ってやるわよ、このわたしの“《バーター》〈抱き合わせ”としてね」 「それは、つまり……」 「鈍いわね。わたしの背中、あなたに預けてあげるって言ってるの。光栄に思いなさいよ?」 「はい。こういった経験はありませんが、よろしくお願いします」 「はぁ……面倒なのが増えちゃった。ボクはこんな所で遊んでる場合じゃないんだけどにゃぁ」 「いいじゃない。無駄な遊びが大好きでしょ? 遊んでよ、わたしたち出来損ないの脇役と」 「……だっるー。やってられないにゃ」 地を蹴って弾丸のような速度で飛び上がったルージュが、戦線を離脱しようと試みているのがわかった。 「――――今ッ!」 と――――言われるよりも先に、私の身体は動いていた。 「にゃっ!?」 旋風に飲まれ、落下していくルージュだが、猫以上に優れた平衡感覚で体勢を立て直し、怪我一つなく着地した。 「お見事! 撃ち落とすなんてやるじゃない、おてんばお嬢様」 「差し迫った危機が、私の生存本能を高めているのかもしれません。思うより先に、するべきことはわかりました」 「戦闘経験皆無で……なんとなくわかる……? へぇ、才能を感じるわね」 片方が自身の有能さを理解した上での《スタンドプレイ》〈自分本位〉を貫くのなら、片方はこぼれ球を拾えばいい。 「気をつけてください、今の一撃は何の解決にもなっていません」 「わかってるわよ、そんなこと」 「……時間が惜しいにゃ」 私も、そして恐らくRe:nonも、ルージュの一挙手一投足を見逃さず、対応できるよう神経を集中させていた。 「渋る必要もないにゃ。今、この瞬間を“いざという時”と認めるのは気が進まないけど、貯金は使う為に貯めるものだし――――」 だから、ルージュが無防備に瞳を閉じた瞬間、わたしはそれをチャンスと思うべきか躊躇った。 Re:nonは動かない。歴戦の猛者を想わせる集中力で、様子を窺っている。わたしもそれに倣った。 「………………」 「………………」 緊張が走る中、Re:nonが物言わず訴えてくる。 『あいつの目蓋が開いた瞬間が勝負の時』――――と。 そっと。ルージュの目蓋が上がる。 「“《ルナティック》〈月狂いの瞳〉”に……」 「《・・・・・》〈狂うがいい〉」 その血塗れの瞳を直視した途端―――― 「!?」 フツフツと――――沸き起こってくる破壊衝動。 「(何でしょう……この溢れ出る、やり場のないストレス……呼吸すらも、腹立たしいような……)」 「う……っ! る……ルージュ……ッ!!」 「にゃ?」 満月を内包したような瞳に酔わされるがまま、飛びかかったRe:nonの一部始終を見届ける。 「にゃあああああああああああああああッ!!」 瞬速の刃が褐色の肌を斬り裂いた。 「倒したっ――――!」 「にゃぁぁぁ……にゃぁぁ……あぁぁ…………」 血しぶきを撒き散らし、傷口を押さえながらルージュは倒れた。 嘘のようなあっけなさに唖然としていると、視界の隅に妙なものを見つける。 ――――――――!?!?!? 「どうしたのかにゃ? ボクはここにいるよ?」 「離れてくださいッ!!」 反応の遅れたRe:nonに代わって私がその背を護る。 「にゃあぁぁぁぁぁああぁぁぁぁぁぁッ!!」 「直撃……?」 何かがおかしい。 何かがゆっくりと、壊れていっているのがわかった。 「ちょっと、何でまだ生きてるのよ!? こっちにもいるじゃない!」 「いえ、後ろにもいますっ!」 「どういうことなのよっ!!」 「~~~~~~♪ ~~~~~~~~♪」 「~~~~~~♪ ~~~~~~~~♪」 「~~~♪ ~~~~♪ ~~~~~~~♪」 「~~~~~~~♪ ~~~~~♪ ~~~~~♪」 「にゃはは♪ ゴメンね、まともに殺り合ってたら時間がなくなっちゃうからね」 「月は異常。月は凶暴。月は残虐。月は非道。とりわけ、満月と新月の影響力は凄まじい」 「日々の殺戮で内側に溜め込んだ“狂気”を分け与えてあげただけなんだけど……ボクには刺激的でも、キミたちには少々、強すぎる薬だったかにゃ?」 「効果が切れるまでの間、幻影のボクと踊っててよ。気づいた頃に追ってきて、間に合うかは知らないけど♪」 「そういうわけで、だるっとお先~♪」 「“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”以降、発生条件を満たしていないオーロラが各地で観測されるようになった」 「南極地や北極地のオーロラ帯に含まれる研究機関は多額の研究資金を手にし、自分たちの領分である自然の神秘を解き明かそうとした」 「観測と研究は今もなお続けられているが、そのメカニズムは謎のままとされている」 「オーロラ――――固定概念とは恐ろしい。既存の現象と同一視している以上、捗らないのは当然のことだ」 久遠はオーロラの正体を知っていた。 それは“《ユートピア》〈幻創界〉”と“《ディストピア》〈真世界”の境界線が曖昧になった際に発生する“《パラレルアウト》〈異世界の歪”。 この湖の周辺は気場……二世界に《ゆかり》〈縁〉のある“《ステュクス》〈重層空間”の橋渡しとなる交差〉点だった。 「“《ココロ》〈被験体556号〉”……“《ココロ》〈心”か。ルージュが好みそうな皮肉な名前遊びだ」 ココロは“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”で失われた“境界線”を操る“《イデア》〈幻ビト”の 《オルタナティブ》〈代替品〉として旧市街に置かれていた。 その役目は発生する“瘴気”の“《ゲートキープ》〈抑制〉”。 “瘴気”とは、“《ユートピア》〈幻創界〉”の大気のような概念であり、これが “《ディストピア》〈真世界〉”に漏れ出すことで弊害が生まれる。 “瘴気”を浴びた人間の多くは炭化し、適合した場合は“《フール》〈稀ビト〉”への階段を進む。 加えて“《エーエスナイン》〈AS9〉”に含まれた“瘴気”の抗体も“《フール》〈稀ビト”への道を近づける。 生まれるべくして生まれた“《フール》〈稀ビト〉”を捕獲、隠蔽しながら、大元である“瘴気”を塞ぐ為に“ココロ”は必要だった。 「多くを救うには……報われることのない犠牲も、必要なのだ」 漆原零二も関わったと言われている“《ホムンクルス》〈ヒト型容器〉”の培養。 “魂”の入れ物として造られた“《ホムンクルス》〈ヒト型容器〉”には、“瘴気”による炭化死体のみが素材として使われた。 “瘴気”の“《ゲートキープ》〈抑制〉”には限界があり、その肉体はすでに消耗品といっても過言ではない。 現在まで“555”体が、製造されたが、早い例で3日――――長くとも6日以内には、定期的に破棄されてきた。 “《ホムンクルス》〈ヒト型容器〉”が壊れても、“魂”は循環し、“《ステュクス》〈重層空間”に戻る。 その都度、現在の“《ステュクス》〈重層空間〉”管理人であるルージュの手によって“魂”のみが受け継がれてきた。 7年間――――このサイクルに不都合は生じなかった。 「キミは使い捨てであるべきだったんだ」 しかし556体目――――“《ココロ》〈被験体556号〉”からは、吸着した幻獣の“魂”が離れなかった。 ルージュの話が誠であるならば『無理に分離させれば“魂”も消えてしまう』。 “《アーカイブスクエア》〈AS〉”の総意で、ルージュに定期的に気場である湖を訪れてもらい、彼女のメンテナンスを“《ステュクス》〈重層空間”で行なってもらった。 「ココロくん…………聞いているのかね?」 久遠の説明は全て“《ココロ》〈被験体556号〉”に言って聞かせる為のものだった。 しかし役目を忘れかけた欠陥品の耳に届いていないのは明白だった。 どこ吹く風のハミング。 “《アメイジング・グレイス》〈素晴らしき神の恵み〉”……。 「…………」 ルージュが“《ホムンクルス》〈ヒト型容器〉”に“魂”を吸着させる際に口ずさむ賛美歌。 自らの行為を奴隷貿易に見立てたルージュの悪ふざけ。 そういった側面が透けて視えてしまう久遠には、その素晴らしき感謝の歌が皮肉めいて聞こえてしまう。 「ココロくん」 「ママ……?」 「……ママ……どこ……?」 「ココロを……《なお》〈修理〉して……」 例えば久遠が旧市街でルージュと入れ違わなければ、 “《ココロ》〈被験体556号〉”に役目を思い出させる切っ掛けになったかも しれない。 しかし久遠は湖までの距離や、事態の進行速度と相談したうえで、時間の節約を優先した。 仮にも“境界線”の“《イデア》〈幻ビト〉”の魂が入った“《ゲートキーパー》〈抑制者”。 溢れ出る血液のように煌々とした朱を仰げば、擦り込まれた存在意義を思い出すと踏んだ。 「ココロは……」 「…………………………」 繰り返されるハミング。 「ルージュの行方は不明。ココロくんはこの調子か……」 刻一刻と迫り来る時間の中、久遠の表情はすぐれない。 「紅い空はどこまでも繋がっている」 「世界そのものを対象にした“瘴気”を開いたまま放置などしようものなら……」 「全ての“《クレアトル》〈現ビト〉”は死滅する」 「ノエル……脚の傷は大丈夫だろうか」 「はい……♪ ご主人の愛の炎で汚物は消毒ですっ」 跡地から抜け出す際、飛来した戦輪によってノエルは負傷した。 あの煙の中、高速で迫る刃を傷ひとつで済んだのは幸いといえる。 しかし謎の“侵蝕”を伴う傷を放置はできず、患部を焼くことで応急処置を済ませた。 「荒っぽいやり方ですまない」 「いやぁ……全然いいですよぉ♪ だってご主人にお姫様だっこしてもらえたんですからぁ……ぐへへ」 「やれやれ……」 これから死地へと向かうとは思えない緊張感の無さだ。 「んっしょ――重くなかったですか?」 「大丈夫だ。心地良い、重みだった」 「では、ご主人、気を引き締めて行きましょうか♪」 「――――ここから先は、死の境界線。一般人お断りですよ」 満面の笑みから一転、ノエル臓腑が凍りつくほどの決意を見せる。 「逆を言えば、我々は踏み越えてもいいというわけだ。なにしろ私たちは、ひまわりの保護者なのだからな」 「脚が……重いようだが?」 「ご主人こそ……風なんて吹いてないのに身体ごと持っていかれそうですね」 濃厚でいて野卑な空気は、来るもの全てを拒んでいるようだった。 まるで吹き荒ぶ砂漠を軽装で歩いているようだ。 “魂”が削られていくような感覚はノエルも感じているだろう。 「――待ちくたびれましたよ、ようやく主役のおでましですか」 では――――この場に居続けた彼に掛かった負担はどれほどのものだろうか。 否――ただ“居た”だけではない。 「ふぅ……誰だか……わかりますか?」 「ああ。風貌が変わっても、場を和ませる柔らかな口調に変わりがないからな」 「こんな状況で和んでも、仕方のないことですがね……」 彼はあろうことか――――触れていた。 《ヒストリア》〈大異変の元凶〉に素手で触れていた。 その変わり果てた《やつ》〈窶〉れた姿は、枯れる寸前の花を連想させた。 「……《・・・・》〈長くない〉ですよ」 「だが、自ら望んだことだろう」 「その通りです……悪戯に命を無駄にしているわけでは、ありませんよ……」 自然と私は押し黙った。 ノエルも、彼の発するか弱い声を聞き逃さないよう、大声を出すようなことはなかった。 「私は脇役として、“《ひまわりさん》〈ヒストリア〉”をこの場に連れてくる役目があったんです」 「長い間、“《デュナミス》〈力〉”を使ったおかげで、私は“ヒストリア”の断片に触れました」 「どういうことだ?」 「“ヒストリア”の本質――何故“《ナグルファル》〈災厄〉”を起こすのか、もう少しでわかりそうなんですよ」 「なら、すぐに教えてください。私たちは、情報に飢えている」 「ここまで来られた事に敬意を表し、私が視た未来を見せてあげましょう」 「ああ」 「ご主人、罠かもしれないですよっ!」 「大丈夫だ。それに、もう少し近くでひまわりを感じてみたいのだ」 近くに来たことで、墨染めの繭の鼓動が伝わってくる。 生きている――――内側に眠るのは、当然……。 「二度目だな……」 「らしくないですね、がきんちょの癖に……私より大きいじゃないですか」 「私もノエルも、少し騒がしいくらいでないと、落ち着かなくなってしまったようだな」 「では、赫さんにも味わってもらいます……私の視た結末を――――」 「……何故だ」 「……何故、こんなことになってしまった」 《・》〈私〉はひまわりを抱え、オオアマナの花が舞う世界に立っている私を見ていた。 「目を開けてくれ……もう一度、私に笑いかけてくれないか」 ひまわりは動かない。ぴくりとも……。 「一個だけわかるよ」 「あなたにとって、その人は掛け替えの無い存在だった」 茫然自失で立ちすくむ私の前には、若さの残る幼い顔をした少年が膝をついていた。 「こりゃ立ち上がれないなって一発でわかるぐらいの痛みはさ――身体じゃなくて、心の深い部分にグサッて来て初めてわかるものだから」 「あなたの感じた“痛み”はあなたのもので、俺が導き出した“選択”も俺だけのもの」 「結果なんて不服であたりまえ。いつだって終わってみれば、容赦無い結末だ。だから――――」 「後で涙を流すくらい、俺にも許されるかな」 「キミの信念が、覚悟が、決断が、理解できないと言えば嘘になる」 「うん」 「しかし私はこの世界を受け入れることができない。心が受け入れることを拒んでいるのだ」 「うん」 「だから私は、どんな理由があってもキミを許すことができない」 「そっか……」 私は少年を許せないと言っている――――何故だ? 動かないひまわりと関係しているのだろうか。 「これは俺の尊敬する人の受け売りなんだけどさ……」 「世界中に現存する種族の中で感情で殺すのは人間だけなんだ。他のイキモノは全て、種の繁栄の為の“本能”に縛られてる」 「だからこそ人間は――――理由に値しない理由で、軽はずみに殺しちゃいけないんだ」 《・・》〈私〉は、私の目に炎が宿るのを見逃さなかった。 「あなたの理由が理由に値するかしないか、確かめてやるよ」 少年はそう呟くと自嘲気味に笑った。 どこか冷め切ったような――――捨て切ったような笑み。 その全ては、動かなくなったひまわりに向けられていた。 「ぁぁぁぁぁああぁぁぁ――」 私は考えることを一切放棄し、原始的な破壊衝動に身を委ねるように突進した。 「私達が……何をしたというのだ」 迎え撃った少年の刃は届かなかった。 しかし実力は拮抗していると《・》〈私〉は思う。 「何もしていないよ。ただ……善人が必ずしも報われるわけじゃない。理不尽だけど、どうにもならないことなんだ」 両者は動かない。いや、動けないのだろう。 少年が得物に込める力を緩めれば私に押し込まれてしまうだろう。 どうやら私にとってもそれは同じだったようだが―― 「私は拒絶する。それが世界の真理だというのなら、全てを灰燼に帰す」 私の宿した紅蓮は、腕から全身へ変貌していった。 「やりきれない悲しみが紛れるなら俺はそれを幾らでも受け止めてみせる」 「だけど……本当にそれで気が済むはずがないことはわかっているだろ?」 「同じ傷の味を俺は知っているよ。でもそれだけじゃなにも変わらない」 「憎しみを向けている相手に同情される程、私の心は乱れているようだ」 「しかし、誤ちとわかってからでは後悔以外にはなにも出来ない」 「キミには《・・・》〈それも〉わかっているのだろう?」 「……それでも……それでも……やれることは見つければいいっ!」 「その先にあるのが深い闇だとしても……いつかは明るい光がさすってもんだろぉ!」 「私が人間であれば、もう少し違う気持ちになったのかも知れない」 「この煮えたぎった紅蓮の炎はもう私ですら止められない衝動だ」 炎はやがて少年を飲み込み四肢を這い回った。 「ぐぅっ……!!」 「私と共に行こう。この世界は穢れているのだから」 「――――なるほど、運命はひまわりを殺すのか」 重苦しい空気の中、マスターは静かに首を振った。 「赫さん……ノエルさん……そしてこれからやってくるであろう、二人……」 「どこかに解決策があります。私はそれが“視える”まで、ここでこうして“《ひまわりさん》〈ヒストリア〉”を“《デュアルモニタ》〈未来視”し続けているんです」 「……私にも一つだけわかることがある。力に任せた決着は、いつか二の舞になるということだ」 「……赫さん。私は死ぬ覚悟はとっくにできてるんです」 「見ればわかる。“ヒストリア”に触れるだけでも常人ならば、精神に異常をきたすだろう」 「その上、あなたは“《デュナミス》〈力〉”を使い続けている。完全な自殺行為だ」 彼の行動は“酷使”などという言葉では到底、表せられなかった。 「もう少しで……“視えそう”なんです……ですから」 「待てるものかっ! こうしている間にも、ガキンチョは苦しんでいるんだぞっ!!」 「ノエル。苦しいのは、彼も同じだ」 「…………チッ!」 ノエルが私に本気で舌打ちをしたのは、初めてかもしれない。 「何故だろう、こんな時に、私は不謹慎極まりないな……ノエル、私は嬉しいと思ってしまった」 「ご主人……?」 「キミは今、本気でひまわりを心配した。《・・・・》〈私以上に〉だ。その気持ちを、私たちは大切にするべきだろう」 「………………」 この場には多くの想いが交錯している。 しかし、どの想いも――――決して揺るがないほどに強い。 「あなたがここまで意地になるのは、理由があるのだろう?」 「……あなたは、頑張れば救える命を見捨てられるんですか?」 「どの道、憐れな骸になるのならば――不幸になるイキモノは少ない方がいいに決まっているでしょう」 「……なるほど」 「あなたの根底にあるものは、純粋な平和主義だったというわけか」 理由に値する理由に満足した私は、地面に腰を下ろした。 「赫……さん?」 「ご主人……そんな所に座り込んで、どうしたんですか?」 「マスター。《・・・・・・・》〈打開策をひとつ〉」 「………………」 「ノエル、何をしている? 立っていていいのは、《マスター》〈働く者〉だけだ」 「客は黙って座って、《オーダー》〈注文〉をして、待つだけ……ですか」 私に倣うようにノエルも屈みこんだ。 「マスター、頼む」 「……かしこまりました……打開策ですね。少しお時間が掛かりますが、よろしいですか?」 「どれだけ掛かっても、構わない」 マスターは最後の《オーダー》〈注文〉に、微笑みを返した。 ――――最初から何もなかったかのように。 私の血潮そのものだった海は決壊し、干上がった。 「…………わかってたのだよ……」 7年前に私の“魂”を吸収している“ゼロ”は私の攻撃に耐性を持っている。 “《ディストピア》〈真世界〉”において“《アーティファクト》〈幻装”や“《デュナミス》〈異能”とは物理法則さえ無視するが、根底にある力関係だけは曲げられない。 「(ああ……わかっていても……敗れるというのは悔しいものだなー……)」 出掛かった言葉を――――『惜しかった』という一言を口に出さずに飲み込んだ。 私の海が“ゼロ”を呑み込むのが先か、“力”を使い果たした私が倒れるのが先か――――五分五分だったはずだ。 これが戦いの結果。私が受け入れるべき末路だった。 「なんていうんだろうな……」 「スゲェ……って思っちまったんだよ」 「空っぽのはずの俺が……一目で、これは認めるしかないなって……言葉がなくなっちまったんだ……」 「喰う事も忘れてか……?」 「喰う……ああ……そうだ……そうだった。俺は喰う為に戦っていたんだ……」 喰う――――それがたった一つの“ゼロ”の目的で、信念で、原動力なのに。 忘れるほどに、私のどこに魅了されたのだろうか。 「………………喰いたくねぇなぁ……」 「それは、失礼だろー……放っておいても、私は事切れる……私の“魂”ごと吸収したまえよ……」 「奪う者としてのマナーだろー?」 私自身、“《ディストピア》〈真世界〉”でスーパーに並ぶ細切れの肉を何百、何千kgと喰らってきた。 昔――――優真が拾ってきた死にかけの蛙を食べる事を強要した事もあった。 生きる者は皆、生きる為に殺す――不変的循環に異を唱えるのは、偽善者だけだ。 「……スゲェよ……あんた…………なんか、こう……成長……? させてもらったよ」 「でもスゲェって思ったからこそ、ちゃんとしなきゃいけないんだろうな……」 「――――――――」 ……………… 走馬灯のようによぎる光景。 その多くは原始の海だった。 高波が荒れ狂い、渦潮が巻き起こる嵐の海――私の《ねぐら》〈生まれ故郷〉。 “《ディストピア》〈真世界〉”の平和な人間たちからすれば、白亜紀の海のような熾烈を極める弱肉強食の世界に映るだろう。 私は一生の大半を過ごした“《ユートピア》〈幻創界〉”の深海の底に還れるのだろうか。 走馬灯のようによぎる光景に《・・・》〈屍の山〉があった。 “ゼロ”が“暴食”であるならば、私の犯した大罪は“怠惰”だ。 私は“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”の際、自分に割り当てられた災害の対応という役割を放棄した。 沈みゆく街並みを止めるには“水”を司る私の“《デュナミス》〈異能〉”が必要であったにも関わらず、“怠惰”な私は、“《ディストピア》〈真世界”の為に働こうとはしなかった。 その山はだから――――私さえやることをやっていれば、築かれる事のない山だった。 「祈っていろよ……」 呪詛のような声が、最初に聞いた幼き優真の声だった。 優真が探しているのが、“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”によって失われた親しい人物だということは容易に想像できた。 しかし彼は何の事情も知らないこどもにすぎない。 「指を咥えてみていろ……」 膨らむ呪詛。 目の前の“山”が私の“怠惰”により招かれた事だとは知らず、私に呪詛を向けている理由。 その意味を知った時、私は彼を拾い、大人になるまで育てようと思った。 「諦めない、逃げない、祈らない……」 優真は――――“私が同じ状況下にありながら、呆然と立っている”という勘違いをしていた。 私が誰かを失い、諦め、立ち尽くし、祈るだけで何もしない奴だと、呪詛を吐き出したのだ。 私は何も失っていない、彼から《すべて》〈結衣〉を奪ってしまった側だというのに――――。 私は自分の招いたものの大きさに気づき、そしてそれが赦される限度を超えた大罪であることを知った。 とても清算などできない。 私がこの地域の水害を食い止めていれば――――優真の妹は死ななかったかもしれない。 「(……私は……弱虫の……卑怯者だなー……)」 優真は私に育てられた事を誇りに思っているようだけど。 私は、優真を育てる過程で人間らしさを獲得していったに過ぎない。 「(……本当の意味で育てられたのは……私の方なのだよ……)」 後悔があった。 私は結衣の死の間接的原因であることを隠したまま死ぬことになる。 優真にとって、目標であり、尊敬される“社長”として立派に消えてなくなってしまうことになる。 そして、そんな綺麗な印象のまま消えてしまえる事に、私は後悔と同時に内心――――ホッとしていた。 「(…………最低だ……)」 しかし。 《・・・・・・・・・・・・》〈自分が許せないという後悔〉が、死の先の世界でも、私を苦しめてくれるのであれば。 それをもって贖罪に当てるとしよう。 「まんまと……ハメられたわね……」 「私達は、彼女の幻影と争っていたようですね」 跡地に残されたわたしたちは、数十体の《ルージュ》〈幻影〉を倒し、ようやく気づいた。 「あんな“《デュナミス》〈異能〉”予備知識もない状態で躱せというほうが無理よ」 もちろん物理的な(“物理”で推し量れるような代物ではなかったけれど)真っ向からのぶつかり合いでも充分に敗北したと思う。 “《デュナミス》〈異能〉”の性能も、使いこなす力量も、場数も、才能も――――全てで劣っていた。 屈辱だ。 脇役を引き受けておいて、そんな時間稼ぎさえ満足にこなせないなんて。 「ぐうの音も出ないほどに叩き潰された気分だわ」 ルージュを追うことはできるが、追って追いつくだけの力も時間も、あるかないか厳しいところだ。 ルージュはわたしたちの処理よりも、時間効率を優先して立ち去った。 それほど急を要すると判断したのか。 あるいは……死を与えずに放置する事が、あいつなりの辱めなのかもしれない。 「何だか馬鹿らしくなったわね」 虹色の占い師が去り際に渡してきたメモリースティックを取り出す。 市販の物とは規格が合わない――――それもそのはず、蓋を開ければ、あら不思議。 「……それは?」 「注射液内蔵の“《スタンプ》〈管針法〉”。あなたが欲していたワクチンよ」 “《スタンプ》〈管針法〉”を採用したのは、漆原零二による偽装が9割、注射による局所的な炎症を起こさないための配慮が1割といったところだろうか。 注射液は見当たらないが、針に直接塗られているわけではないだろう。強く握れば中から染み出してくるのかもしれない。 「……では、先ほど私が割ったものは、偽物だったということですか?」 「でも、貴方の覚悟のほどは知れたじゃない」 「あっ」 放り投げた“《エーエスナインプラス》〈AS9+〉”は弧を描き、九條の掌に落ちた。 「貴重な物なんだから、大切にしなさいよ。バイバイ、“《クレアトル》〈現ビト〉”」 あれを使えば九條は本当の意味で部外者だ。 そしてそれは、彼女にとって悪いことではない。 「あの……待ってください!」 「何よ。わたしはもう疲れたからドロップアウト。全身コースの高級リフレの当日予約取れるかしら」 「私は……まだ“《フール》〈稀ビト〉”です。間違えないでください」 「……あ、そう」 まだ“《エーエスナインプラス》〈AS9+〉”を使っていないのだからあたりまえだ。 「それで? わたしは帰るって言ってるの。もうついて来ないで」 「…………」 さて……。 「…………まったく災難だわ」 「厄日よ厄日。肌は荒れるし。あんな汚いとこに残されるし。化ケ物の相手をさせられて……最悪よ」 「そうですね。同意できる点ばかりです」 ………… 「それでも、追うのでしょう?」 ………………はぁ。 これでもドラマ出演もいくつかこなしてるし、知名度だけじゃなく演技だって買われてるのに、ショックだわ。 やっぱり、独りでは行かせてくれないか。 「――――足手まといなのよ」 「まだ戦えます」 十分良くやった。 戦闘経験皆無の“《フール》〈稀ビト〉”が、あの化ケ物を相手に対峙できるだけでも奇跡みたいなものだ。 「もうこだわらなくたっていいじゃない。貴方が手伝った所で、僅かな変化しか生み出さない」 「ですが――――」 「もう痛い目は充分、見たでしょう? お嬢様はお嬢様らしく庭で優雅に紅茶でも飲んでいなさいよ」 「…………」 単独行動なら、まだルージュを追える。 ヤツの移動手段が何にせよ、わたしの移動手段は乗り物ではなく、自分自身の肉体に頼ったもの。 九條を背負っていては、現在地から瘴気発生ポイントまでにルージュを妨害できない。 わたしがあいつを食い止めなきゃ、優真と“虹色”に笑われる。 「今、立ち向かわなければ、一生後悔するんです」 「惨めなまま、後悔することになるんです」 「…………」 「中途半端のまま、自分の努力を称えて、自分で自分を納得させて――――そうしてきっと、小さくまとまってしまう」 「どんなに頑張っても、本当に大事な人には振り返ってもらえない気持ちって、わかる?」 「いえ……私にわかるものは多くありません」 「それでも、あなたが悩みぬいてここにいることと、私を想って置いていこうとしていることは、わかっているつもりです」 「あなたの信念は――――まやかしではありません」 「………………ふぅー……」 心が折れていないのは、瞳を見れば瞭然だった。 まんまとルージュに出し抜かれた事を認めながら、立ち向かう意志の炎は消えていない。 「トリトナ」 「うるせーな、だから最初から私様は言ってるだろ? 私様は絶対絶対絶対に反対だってなっ!」 「相変わらず過保護ね。私の身に危険があると、すぐにそれ。もういいわ」 「フロム」 「呼ばれて飛び出てフロムでございます。筆頭になって間もないリノン氏のサポート役を務めております故、感謝と尊敬を込めてフロムPとお呼び頂きたく……」 「いいから、どっち」 「ノるでございます。ひとくちでもふたくちでも、ノルノルのノリノリでございます。まさしく千載一遇の好機」 「他に類を見ない一人一種族の化け猫様は、今夜限りをもちまして、当方の手で絶滅の一途を辿るのでございます」 「と、いうわけでトリトナ。多数決で決定したから、頑張りなさいよ?」 「ふざけんなっ!! 大体、おまえはムチャしすぎなんだよ。こんなふざけた役回りを自分から受けやがって」 「せっかく見逃してくれたんだ。それでいいじゃねぇか。むざむざ殺されにいくようなもんだぜ?」 「トリトナ――――力、貸してよ」 「…………私様たちでも、本気で死にかねねーんだぜ?」 「できる」 「あなた達と、わたしがいれば、なんだって」 「先ほどから……何を独りでしゃべっているのですか……?」 「――――独りじゃねぇぜ」 「…………?」 「泣いても笑っても、今回っきりだぜ」 「“暴走”さえも制御するなど、チートそのものでございます」 二人の同意を得て、わたし達は故意にその状態を呼び起こした。 「なっ――――」 お嬢様が驚くのも無理はない。 危険は百も承知――ルージュに追いつき、《か》〈且〉つ九條を連れて行くにはこの方法しか思いつかなかった。 「え――――あ――――――――あ――――」 この姿でなお、わたしをわたしと認識して行動できたのは優真だけだ。 わたしの変貌は、それほどまでに仰々しく、凶暴で――――ありのままだった。 ――――反芻する。 何度も、何度でも。 リノンの残した言葉の羅列を。 私が同じ立場だったら、言えるだろうか……。 溢れる気持ちをムリヤリに奈落へ沈ませ、想い人の幸せを尊重することが……。 できるだろうか……。 「きゃっ――――」 「あっ――急に止まってごめん、大丈夫だった?」 「え、ええ……平気っ。全然、全然」 「ガソリンが底をついちゃった、持ち主に返す時は満タンにしなきゃね」 「そうね、勝手に借りちゃったわけだし」 跨っていたシートから降りると、遠方に覗いていたフラワーパークがすぐそこにあった。 世界に起きようとしている大異変の片鱗は、禍々しい空模様から否応なく感じ取れる。 「あとは自分たちの足で走ろう。異常気象の発生地点まで、もうすぐだ」 「そうね、わかったわ」 「なるちゃん――――振り返らずに行こう」 「リノンと約束したんだ。俺たちの邪魔をするヤツは、絶対に追ってこれない。万に一つの可能性もない」 「ええ……」 「“超最強”を振り切ってここまで来れるはずがないんだ。結衣の事と、この空の原因は、俺たちが解決する」 「………………」 「……だ、大丈夫! “なんとかなる”ッ!」 「だねっ!」 園内に入場した《・》〈俺〉は、すぐに空気が一変したのを肌で感じた。 奥に向かって一歩踏み出すごとに“気配”は濃度を増していく。 「この先に……いるのね……」 「学園長の言っていた“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”の元凶……それに、結衣が……」 「優真くんも感じる……?」 頷き、空気に飲まれないよう立ち止まらずに進む。 「…………?」 「……ああ…………久々だな、この感じ……」 色彩が失われ、代わりに感覚だけが鋭利に研ぎ澄まされる。 灰色のフィルターが掛けられた世界では、噴水の水さえも墨汁に見える。 「人がいるわ」 「ごちそうさまだぜ……」 その針金のような体型には見覚えがあった。 トリトナと廃公園で一杯交わした時に乱入して来た青年だ。 「ん――――?」 噴水の側に落ちた《・・・》〈ある物〉が、俺に色のある世界を取り戻させた。 「………………なぁ」 「……ああ?」 「《・・・》〈この靴〉は、俺が初任給でプレゼントした物なんだけど?」 「俺に家事を任せっきりのあの人が、この靴だけは自分で磨いて、壊れては直して、履き潰す事なく大事に使ってくれたんだ」 「それがどうして……ここに転がってる……?」 「ああ――――お前、何度か会ったことあるな」 男は俺に向き直り、自らの腹を叩いた。 「喰った……!」 「は?」 「そりゃあ喰ったさ、残さず喰ったさ。だからほら、俺はこんなに元気だろ?」 「……喰った?」 「わかんないか? 自然の摂理。掟。喰うか、喰われるか。そんな簡単な事もわかんねーくらい野生が抜けてんのかよ?」 「つぅまぁりぃィィ――――」 「フゥゥゥゥゥゥゥ……」 「こいつ――――あの時の!?」 変貌した男の姿は、山の湖でなるを襲った黒い塊だった。 痩せ型の男と化ケ物が同一の存在だったとは気づかなかった。 「あの時とは覚悟が違う。もう優真くんには指一本触れさせやしない」 「王手飛車取りは、詰みではない。王を逃すことで、ゲームは続行される。落語では、飛車が逃げる話もあったような気もするが、それはそれとして――――」 「《かたほう》〈飛車〉は100%、喰われる」 「なるちゃん、先に行っててくれないかな」 「絶対にダメよ。対峙しただけで伝わるでしょ? 二人掛かりだって危険なくらいの化ケ物よ」 「しかも……あの時よりも、格段に強くなってる。何を食べたのか知らないけど……よほど、良い物だったんでしょうね」 「結衣のとこに、行ってやってくれないか?」 「こんなこと、なるちゃんにしか頼めないんだ」 「彼とは、サシで話さなきゃならない事がある」 「ダメったらダメ!」 「後から絶対に追いつくから、俺を信じて――――振り向かないで行ってくれ」 「……復讐心が生み出すのは、惨めな末路だけ。私自身が、一番良く知っていることだわ」 なるは今日子さんの話には無関心だったから、聞く耳を持っていないのかと思った。 でも、違った。 「それに私が優真くんを護らなかったら、 《あいつ》〈リノン〉にどんな顔で会えばいいの?」 なるはなるで、必死だ。 なるは、リノンの代わりに俺を護る事を――――俺のことだけで、いっぱいいっぱいだった。 そして俺は――――今日子さんと結衣のことで、いっぱいいっぱいだった。 「みんな……似た者同士なんだなぁ」 「“自分の事”を後回しにして……忘れさって……誰かの為に、泥まみれで頑張ってる」 「そんな、なるちゃんとリノンの事が、俺はやっぱり……メチャクチャ大好きだよ」 「……優真くん」 「大丈夫。俺は、間違えない」 これは、ケジメだった。 一つの、区切りだった。 「何度だってなるちゃんを迎えに行く。そこにポジティブがある限り、ね」 「………………」 なるは何か言いかけて、けれど寸前で口を閉ざした。 「《・・・・・・・・》〈笑って再会しよう〉」 「わかった……私一人でも“なんとかなる”ッ!!」 「ありがと……俺一人でも“なんとかなる”ッ!!」 離れていても伝わる信頼感。 別々の場所にいても、一緒にいるような頼もしさが勇気を与えてくれる。 「私、待ってるから。優真くんの“なんとかなる”を、絶対に疑わないから。だから――――」 「約束よ」 「家族との約束は、守らなきゃね」 なるは迷いのない足取りで、異変の中心へ駆け抜けていった。 一度も振り向くことはなかった。 「フゥゥゥゥゥゥゥ……フゥゥウゥゥゥゥゥゥゥゥゥッ……」 「……そう構えないでよ。俺は話がしたいだけなんだ」 「フゥゥゥゥゥ…………」 手を広げて攻撃する意志がないことを示すと、男もややあって“変質”を解いた。 「俺は優真。水瀬優真。優しくて、真っ直ぐ、前向きに生きてる学生だ」 「名前はない。“ゼロ”と呼ばれることが、あったりなかったり……飢餓感とケンカするのが日課だ」 「水瀬……っつーと、最高の肉の関係者か」 ゼロの視線が靴へと泳ぐ。 「凄ぇヤツだった。喰い散らかす側の俺に食って掛かって喰い殺そうとしてきた」 「喰われて“魂”になったら躰のどこにあるか普通はわかんないんだが、あいつのは手に取るようにわかる」 「やっぱり量より質だぜ。空っぽだった俺の中に、ぴったりハマる“魂”が手に入ったんだ」 「キミの“力”は“魂”を捕食することなんだね」 「どうなんだろうな。空っぽの胃が消化液で溶けないように、何でもいいから詰め込みたいだけなのかもしれねぇな」 その“力”は複数個の“異能”を使える俺と似て異なる。 吐き出すのが俺なら、蓄えるのが彼といったところだろうか。 「これは俺の尊敬する人の受け売りなんだけどさ……」 「世界中に現存する種族の中で感情で殺すのは人間だけなんだ。他のイキモノは全て、種の繁栄の為の“本能”に縛られてる」 「だからこそ人間は――――理由に値しない理由で、軽はずみに殺しちゃいけないんだ」 ゼロは腹の具合を確かめるように撫でていた。 「……昔、停滞してた俺の背中を押してくれたあいつも、同じ事を言ってたな」 「餓死しかけていた俺に、生きる為に喰う事は、その“理由”になるってことを教えてくれた」 「なんだ……。つまり、キミも俺と同じ、今日子さんに救われた一人ってことか」 「そうだなぁ……喰っちまったけど……そうなんだろうなぁ……」 不思議な気持ちだった。 今日子さんを“喰った”というゼロを前にしても、結衣を失った時や、なるが湖に沈んだ時とは違い、何故だか冷静でいられた。 俺自身、彼と話したことで、そこに至る経緯に納得しているからだろうか。 それとも、今日子さんの“魂”を吸収した彼に、今日子さんの影が重なっているのだろうか。 「今日子さんは、最後まで今日子さんのままでいられたのかな」 「ああ。最初から最後まで自分を貫く姿が、俺を成長させた」 「だが……“魂”の声を聞く限り、ひとつだけ後悔があるようだぜ」 「後悔?」 ゼロは腹に手を当て、目をつぶってしばらく押し黙った。 「“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”の犠牲者が増大した原因の一端を担っていたことを、伝えそびれたんだとよ」 「いつかお前に言おうと思って、結局、こうなっちまったわけだ」 “《ナグルファル》〈7年前〉の夜”の犠牲。 絶望の“山”を築いたのが今日子さん? その責任を感じていた? 「キミを拾い、キミを養い、キミを見守ろうと思う」 「しかし勘違いはしないでくれたまえよ」 「私は私の自己満足にキミを“使う”。つまりギブアンドテイクだ」 「私は水瀬今日子。今日子。今日子だ。わかったか? 今日子、今日子だ。覚えたまえ。覚えたら、今日子さんと呼びたまえ」 「いいか……こんな私を――――決して“母さん”などと呼んではならないぞ」 「わかったなら……立ちたまえ」 「…………俺だって、同じだ……」 今日子さんが俺に言えない事があったように、俺だって言えずにいたことがある。 今日子さんにもらった返しきれないほどの恩は、言葉ではなく仕事や家事金銭による物理的な返済で示してきた。 言葉は、ものの数秒で、いつだって掛けられるから。 行動で伝えていければ、それでいいじゃないかって。 そうやって自分の中に潜んでいる“不安”が形にならないように、押し留めて、目を背けてきた。 ずっと一緒だったからこそ、物凄く身近な人だったからこそ。 もし、否定されたら。 もし、『私はキミを息子などとは思っていない』と返されたら。 怖くて。 言えなくて。 飲み込んでいた。 どんなに強い信頼関係があっても、 どんなに長く同じ屋根の下で暮らしても、 本物以上に本物らしい家族であっても。 「いつだってそうなんですよ……」 「…………」 「執着していたつもりでも、間に合わなくなって改めて気付かされるんですよ……」 「やり直しが利かなくなって、初めて焦る」 「もっとこうしておけば、って。もっともっと、できることがあったんじゃないか、って。もっともっともっと――――って」 「もっともっともっともっともっともっともっと――《・・・》〈母さん〉に親孝行ができたんじゃないかって」 「……時間切れだ。俺は、もう行くぜ」 「この先に待つご馳走に挑戦しろって、あいつの“魂”が暴れやがる」 ゼロは俺を素通りした。 「命拾いしたな」 彼の眼中に、俺は入っていなかった。 より贅沢な“魂”を求めて、捕食者の貌つきで先を急ごうとする。 「……まぁまぁ」 だから俺は―――― 「そう急がないで、俺とも遊んでいってくださいよ」 俺が俺にできる、精一杯のおもてなしをすることにした。 「――――ッ!」 見向きもしなかったゼロが目を剥いて振り返る。 「なんだ、なんだなんだおい……手が震えやがる。足が竦みやがる。そんな上等な“魂”どこに隠してやがった」 「ゼロ――同じ人を恩師に持つ者として、俺にはキミが他人とは思えない」 「やろうってか。いいぜ、いいよ、いいじゃねぇか。ああ、よだれがでて来た――――じゅる」 「俺が食べ物に見える?」 「ああ、それも極上のな。極上でなきゃ俺の嗅覚に引っかかるわけないだろ。欲しい欲しいって、腹が泣いてるぜ」 深翠の両翼が大弓を象るそれを握ると、自然と頭の中に弓構えのイメージが流れこんできた。 「コレも何かの縁だ。肉体を捨てて俺の一部になるのも悪くはないんじゃないか?」 「“魂”で一家団欒か。それもいいね……それはそれで、幸せかもしれない」 「頷くようなら、そんな物騒な物をいつまでも握っちゃいないか」 「この先に結衣がいるかと思うと、立ち止まってられないんだ」 「俺は、空っぽだ。守るもんがいっぱいあるお前とは違う。ただ喰らい尽くすだけの捕食者だ」 「奪っていいのは、奪われる覚悟がある奴だけだよ」 「そして残さず食べるのが、最低限のマナーだ」 意識を指先に集中させる。 弓を引き絞ると、何もないはずの中心に一本の線が浮かぶ。 太陽ルチルの如き細い金線が束なった黄金の矢。 「(なんだろう……落ち着いた気分だ)」 今日子さんを奪った張本人を相手にしているのに、自分が怒りや憎しみで行動していないのがよくわかった。 相手が“魂”を喰う事を強要された存在であり、今日子さんと正式に殺り合った結果だから受け入れられたのだろうか。 俺とゼロの間には、今日子さんの事を除外しても、闘う理由があるのかもしれない。 「(……でも、この余計な感情のない。澄んだ気持ちだから、“力”の制御が息を吸うようにできるのかな)」 「……あいつが俺を成長させたように、お前からも同じ匂いがする」 「俺はすっからかんだったんだ。空っぽだったんだ。それが、飢餓感だったんだ」 「俺が何を失って、何を目的に生きた、どんな存在だったのか――――お前を喰らえば思い出せる気がする」 「オ゛ォォオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」 もう言葉で語らう事はないとお互いに悟った。 律して――――無駄を排して。 「…………母さん……」 ドーム状にしなる大弓を、これでもかと、これでもかと、引き絞り――――。 「ゼロの中で、確かめてくれよ」 指先に熱が絡まり、凝縮された力が解放を求めて来ても引き絞り――――。 「あなたのおかげで、俺がどれだけ成長できたのかを……」 一点を見据えて――――。 「俺の、あなたへの感謝の気持ちを……」 ――指を、放した。 夜の帳に曲線を描く血塗れの瞳。 「――――にゃは♪ 到着」 軽やかな着地に似合わぬ、獰猛な笑み。 一蹴りで雲が付くほど飛翔し、四肢を用いて衝撃を吸収する姿は怪奇そのもの。 しかし生物の限界を超越した身体能力さえも、禍々しく覆われた紅極光の屋根と比べれば些細に感じられる。 「背中に翼でも生えたみたいだにゃ」 芸術的とも言える無駄な肉のない胸の奥は今、期待感でいっぱいだった。 足取りは軽い。 ルージュは思った以上の速度で橋までやって来られたことに満足していた。 急ぐのを止め、橋の片側へ寄って歩き出す。 「“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”……体験者の視点によって真実の変わる、歴史的大災厄……」 「無力な人間にとっては、人類滅亡の警笛であり、関わった “《イデア》〈幻ビト〉”にとっては、屈辱の未解決の事件」 「渦中に居合わせなかったボクにとっては、痛くも痒くもない昔話」 闇と同化する《アサシンスキン》〈褐色の肌〉。 ルージュは自身の仕事着における肌の露出の多さを機能性を重視した結果と報告している。 “《フール》〈稀ビト〉”の返り血を全身浴びる趣味を伏せてはいるが、周知の事実だ。 「“《フール》〈稀ビト〉”を狩ったり……」 「“《ステュクス》〈重層空間〉”の管理を任せられたり……」 「“《ゲートキーパー》〈抑制者〉”のメンテナンスをしたり……」 「だるっと。こなしてきたんだにゃ……」 “《ナグルファル》〈7年前〉の夜”。 あの日、あの時間、あの場所に居合わせてさえいれば―――― “元凶”を止められるだけの自信はあった。 ルージュは別に“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”によって引き起こされたことや、自らに巡ってきた仕事内容に憤ってはいない。 ただ根本的な解決の場に自分が呼ばれなかった事(呼ばれた上で解決に身を乗り出すかは別問題)が気に食わなかった。 「ボクに跪いてキスをさせよう。散々、いじめてから、思いつく限りの屈辱を与えよう」 「誰しもに注目されていい気になってるキミを、見下ろすんだ」 「ゾクゾクするにゃ……♪」 ルージュは初めて渡る橋からの眺めに、嗜虐の気質を窺わせる倒錯的な感想を漏らした。 圧倒的な高さを誇る掛け橋からは、吸い込まれそうなほど深い谷底を見下ろすことができる。 新市街から遠く離れた《へきど》〈僻土〉にあるフラワーパークへの交通手段として、この橋を利用せずに入園するのは困難だった。 「後に語られ続ける大異変。ボク抜きで創り上げられる歴史に、待ったを掛けてあげよう」 ルージュの拳に知らぬ間に力が入り、手すり代わりに触れていた柵をひしゃげさせた。 「……ん?」 橋の中央に差し掛かった瞬間――――柔らかな毛に覆われた獣耳ぴょこぴょこと動いた。 感知。僅かな、誤差と言えなくもない“違和”を鋭敏に捉えるルージュは文句なしに優秀だった。 即座に姿勢を落とし、脚部に力を蓄え、夜目の利く眼球をぎょろりと一回転させる。 完璧な迎撃態勢。 もしルージュに汚点があったとすれば、長い掛け橋の中央――――引くも進むも“一足飛び”の範囲外で立ち止まっていたことだけだった。 無論、ルージュは機械ではない為、その僅かな休憩さえも油断に含めてしまうのはあまりに強引だ。 「――――!?」 紅極光を遮った二対の影。 虚を突かれる者、問答無用に襲う者――――奪い合いに合図などなかった。 「突然ですが、あなたはここで、終わりです」 内、片方が影から飛び降り、ルージュの眼前へと降り立った。 九條美月。《ティータイム》〈香り豊かな時間〉を嗜む麗しき令嬢は、今、完全なる一個人として成すべきことに集中していた。 「はぁっ!!」 「――――ッッッ!!」 九條の“翼”が呼び起こした旋風を浴びながら、ルージュはその威力以上に吹き荒れる粉塵の視界不良に舌を鳴らした。 「(着地前に臨戦態勢に入っていた……先手を取られたにゃ。この風の中は、動けない。動けない? ボクが?)」 「これが、殺すまでもないと判断した、たかだか人間の力ですッ!!」 「(コイツ――――“力”を出し尽くす勢いで放っている。ここまでの覚悟があったとはにゃぁ……)」 気を抜けば脚が浮き上がるほど強力な風の刃。 ルージュは限界まで目を細める。額の血や汗、埃といった異物混入による反射的まばたきは、戦況を容易にひっくり返す。 当然、ルージュほどの手練れであれば両目を閉じた状態でも気配を察する事はできるが、そこは念の入れようだ。 「嗚゛々ぁああぁぁぁぁッッッ!!」 仮にも令嬢である九條が見せた普段の振る舞いからは想像もできない野性豊かな咆哮は、“品がない”という言葉で片付けるには惜しい真実味があった。 生じるコストに見合わぬ粗雑で乱暴な“風”の領域。 一見して後先を考慮しない九條の蛮勇は、しかし覚悟と賢智に則った作戦だった。 「(消耗の激しさからして、もって数秒……問題ないにゃ)」 普通ならば、考えてしまうものだ。 “狂気”を内包した瞳で九條とリノンを狂わせた張本人の思考として自然なのは『追ってこれるだけの時間が無いことに疑問を抱く』事だ。 しかしルージュは“今”のみを見据えた。 余裕綽々な気分屋で遊びがすぎる傾向があるが……こと、生死に関わる判断に関して、ルージュは生来の“プロ”だった。 “プロ”は、自分が置かれている状況が打破すべき“危機”であることを即座に察し、他の情報を全て捨てた。 「(殺す)」 躊躇いも、無駄もない。 引き絞られた弓のような。 抜き身の刀のような――――鋭い感情。 ルージュが組織に所属しながらも好き勝手に振る舞えるのは、数多の“《フール》〈稀ビト〉”を亡き者にした実力者だからだった。 彼女にはただの一度の失敗もなく、故にただの一度の屈辱もなかった。 「(殺す。殺すだけ。呼吸をするよりも簡単にゃ)」 「(風が止み次第“《アーティファクト》〈幻装〉”を抜き、“《フール》〈稀ビト”を一太刀。首を落としたうえで橋から落と〉す)」 脳内でシミュレートされる簡易的な地獄絵図。 数多くの有言実行による経験が、ルージュの芯を強固なものにする。 「(近くにいるはずのリノンは……? 風が邪魔でわからない……)」 ルージュは無意識に守りを固めた。 「(一発はいい――――あらゆる方向から、どんな攻撃が来ても、一発は耐えられる)」 過剰な自信ではない。ルージュの柔軟な躰は衝撃吸収に長けており 《りゅうだんほう》〈榴弾砲〉の直撃でもなければ即座にカウンターを喰らわせられる。 「(さっきから……足場が揺れている気が……?)」 「……ッ!! 後はっ、任せましたっ!!」 九條が温存していた“力”は全て吐き出され、“風”の支配下にあった架け橋に自由がもどった。 ルージュはそれをフェイクか否かを瞬きほど時間で判断し、九條の処理に取り掛かるため“《アーティファクト》〈幻装〉”を握った。 が――――思っていたほど距離を詰められないのが現実だった。 何故? 答えは単純明快。踏ん張りが利かず、前のめりに転げそうになったからだ。 「――――な!!?」 何故? 答えは単純明快。地盤が斜めに傾いてきていたからであり、それの意味するところは“倒壊”だった。 不良な視界が晴れると同時、ルージュは“何故”という疑問の生じる光景に目を奪われ、強制的に思考を強いられた。 中でも極めつけに動揺を誘ったのが―――― 異彩を放つ黒曜石の光沢。 《・・・》〈三ツ首〉の“異形”――――否、ルージュ自身、忘れかけていた “《イデア》〈幻ビト〉”本来の姿。 何故? 形態としてその姿を“《ディストピア》〈真世界〉”で維持するのは不可能とされている。 故にその姿は、暴走した“魂”が朽ち逝く際に見せた風前の灯であってしかるべきだ。 耳を《つんざ》〈劈〉き、脳を掻き毟らんばかりの怒轟。 高々と上げられた暴れ馬の豪脚による《ストンピング》〈踏みつけ〉は、転倒する巨人の如き負荷を橋全体に与え、地盤を揺るがした。 衝動的な破戒とも取れる、これみよがしな発散にルージュは圧倒される。 「はっ――――!? あっ、ああ――――ッ!!」 橋の中央一体が傾ぎ、そして断裂した。 あろうことかその衝撃は、部分的とはいえ安全を第一に建設された鉄の橋を破戒した。 全ては計算された《パズル》〈出来事〉。 「――――――――――――ッ!?!?」 九條の“風”による足止めとめくらましと、その間に進行する“暴走”リノンによる物理的な橋の破壊。 あたりまえだがルージュは空を飛べない。 反動力を得る為の物質がなければ、重力に逆らうことはできない。 「(ハメられた……が、素直に落ちればいい。橋を渡るよりは時間が掛かるけど、正確に着地して、別のルートを探せばいい)」 「え……?」 ルージュの思考が停止した。 「…………」 いくつもの疑問が浮かぶ。 「…………」 “ヒト型”にもどったリノンと九條が、前後からがっちりとルージュをつかんでいる。 「キミたち……ボクにここまでするという事が、何を意味するかはわかっているんだよね」 「どうぞ」 「お好きに」 “《イデア》〈幻ビト〉”であるリノンはともかく、九條がこの高さから落ちることは死を意味する。 加えて、ルージュにしがみついて着地の自由を奪おうとするなど、あまりにも無謀。 ゾッとするほどの無謀。 だからこそ。 決死の覚悟が完了した者の思考回路は“狂気”さえも上回る。 「(何だ。何がしたい。何故、死を選ぶ。見逃してやったのに。生きる事は本能だろう。自ら死を選ぶのは、立派な欠陥じゃないか)」 「(そもそも――――何が不満なのか、さっぱりわからない。メリットがないじゃないか)」 二人はそこまで必死にならずとも、アイドルとして、令嬢として、誰もが羨む道を確実に歩めるはずなのに。 持たざる者の“覚悟”はもともと捨てるほどの物がない故に底が知れている。 そうではなく、明るい未来の約束された二人が“決死”になる事が、ルージュにとって不可解であり……。 「……なんなんだ……キミたちは……なんなんだよ……」 理解できないものに怯えるのは――――知性を持った生物ならでは弱点だった。 「人の癖に……何故、保身を捨てる……なんだって、そんな無謀になれる……」 「無謀なのは承知です」 「それでも、自分に与えられた役目にすがりつくなら、なりふりなんか、構っていられないんですよ」 恐ろしく冷えた声。喉笛を掻っ切ったとしても、九條の瞳が少しも揺るがない事がルージュにはわかった。 「無駄よ」 「……!?」 リノンの瞳も同様に、ルージュを困惑させる。 「わたしたちは、逃がさない。どれだけ血を流そうと、絶対に、あなたを放さない」 「何を馬鹿な……そんなことできるわけが――――」 「人を、見損なわないでください」 出すはずなのに――命乞いという名の醜い最終兵器。 こいつらは――こいつらは――――なんなんだ? 「人が持つ力は、些細なものかもしれませんが、不可能を可能に変えるのに必要なのは力ではありません」 「覚悟です」 首を跳ねてみろ―――― 目を潰してみろ―――― 胴を斬ってみろ―――― その全てを受け入れる――そう、九條の全身が物語っていた。 「ふざけるにゃよ……」 ルージュは覚悟に押される自分自身を認めたくなかった。 今、九條とリノンを殺すのは容易い――――が、それをしたが最後、安い挑発に乗ってしまったことによる屈辱が待っている気がした。 「放置する事が、趣味の悪いあなたなりの“殺すよりも辛い辱め”のつもりだったんでしょうけど……」 「生憎ね――――わたしたちはもう、死ぬ以外には止まれないのよッ!!!」 大手企業の令嬢――美月。 国民的大アイドル――リノン。 権力者さえ恐怖する狩人――ルージュ。 舞台は違えど、主役の座を欲しいままにできる地位を持つ3人が “中心”を駆ける事なく“脇役”として散る。 「………………」 ほどなく落下が終わりを迎え、ルージュは自分が何をするべきか考えた。 ルージュの一番の失敗は、この短期間に二度も“《アーティファクト》〈幻装〉”を出してしまったことだ。 いかに優れた“《イデア》〈幻ビト〉”とはいえ、“《アーティファクト》〈幻装”を呼び出す事で生じるデメリットは平等にやってくる。 そして相手は、“狂気”の化身であるルージュを、逆に飲み込んでやろうという意志を持った両名。 「(もしかして、ボクは――――)」 「(ボクは、また……大舞台の中心から除け者にされてしまうのか……?)」 ルージュは自分抜きで何不自由なく描かれていく歴史に戦慄した。 自分が舞台裏で油を売っていていい存在ではないという自覚があった。 「ああ……知らなかったようね。この世のルールってやつを」 「ルール……」 「スポットライトを浴びるのは、必ずしも成功者であり、権力者であり、資産家の娘であるとは限らない」 「こうして惨めに、誰にも知られないまま、幕を閉じることだってあるの。それがわたしが優真に教わった“現実”」 「違う……そんなものは、現実じゃない。作り物じゃないかっ」 「いいえ、世界はまやかしです。真実は、生きる者にのみあるのです」 「現実なんてこんなもんよっ、わかった? わたしも、あなたも、脇役なのっ!!」 「わき……やく……」 「といっても、わたしは“超最強”だから、脇役というよりは、名脇役なわけだけどね」 九條とリノンの覚悟がルージュを上回った瞬間。 「…………そんな、馬鹿な……ボクが……こんなとこで……? そんな馬鹿な話が……」 ある。そんな馬鹿な話があるのが現実だと、リノンの瞳が語っていた。 「ははっ――――は――――は――――――――」 ルージュは壊れた笑みを浮かべ、静かに二人に抱かれ、堕ちていく。 だが――――心中を覆い尽くす屈辱の重さを初めて味わったルージュが、それらを受け入れられるはずもなく。 しかし、ちっぽけな当人達に衝動を“ぶつける”事が子供じみた感情であることも同時に理解し。 「ぁ゛ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッッ!!!!!!」 気が触れるほどの屈辱の矛先は、地表に向けられた。 莫大な狂気を内包したルージュの拳は“《ディストピア》〈真世界〉”を――――否、地球型惑星を砕くほどの威力で打ち付けられる。 そして一つの“狂気”が大地へと発散された。 「こ、これは――――ッ!?」 「何だ――――ッ!?」 巨人が駄々でもこねているような大きな揺れ。 私は思わず、ご主人と共に立ち上がるが―――― 「くっ……足場がおぼつかない――――」 「――――――何ッッッ!?」 断末魔のような悲鳴とともに、一部の景色が墨色に塗りつぶされた。 無数に束なった黒い曲線群がご主人を襲う。 ソレが何かはわからないが、誰であろうと本能で感じ取れるくらいには異常で危険なものだった。 「――――ッ!? ノエル、そちらへ行ったぞッ!」 ご主人を狙っていた曲線群の軌道が逸れ、折り返すように“ヒストリア”へ戻っていく。 「――――――ッ!!」 最悪だ――――私たちとは違い、役目を持っている彼はあの場を動けない。 「ぁ゛あああああああああああああああああああああああああああああああぁぁあああッッッ!!」 「……チィッ!!」 煙のようにマスターを取り巻き、服の隙間から次々と体内へと侵入していく。 「……がっ……ぐっ…………」 とうとう、マスターの掌が“ヒストリア”から離れた。 「…………くっ」 吐き出された黒の曲線群がご主人を追跡している間に、崩折れた彼の下へ駆け抜ける。 「――ちょっと、しっかりしてくださいよっ!」 「ふふ……私の死を、悲しんでる暇があるんですか?」 「――知恵を貸さずに死ぬなと言っているんですよ。今日という日を回避することだけが目標だったんじゃないんですか?」 「良かった……あなたは感情に乱されず、冷静に状況判断ができるようですね……」 「激化した状況を、打開する策を、授けろと言っているんですよっ!」 「耳と口が自由なうちに、客の《オーダー》〈注文〉に答えろっ!? 死んで後悔するのは、その後だっ!!」 彼は死を覚悟していた。 いずれ、こうなる運命にあった。 なら、私にできることは――答えを聞き届けることだけだ。 「残念……この運命も、駆けつけるのがあなただったことも―――― 《・・・・・・》〈想定済みです〉」 「なに……?」 「ここから先は、君たちが切り開く未来。誰が何をして、どうなるか――それでも知りたいですか?」 「私には、知る必要があるんですよ」 「世界さえ、私にとっては“物語”でした……なにせ、視えてしまうものですからね」 「ギリギリのところでしたが、私は……“ヒストリア”の正体をつかみました……だからこそ、あなたに教えるべきか、悩みました」 「その情報をどう噛み砕くかは、私がやる。早くしろっ!」 「私でさえ解けなかった、たった一つの難題……あなたなら解けるでしょう……」 彼は懐から取り出した何かを私の掌に伸ばし――――重ね。 「《・・・・・・・・・・・・》〈その道でいい、進みなさい〉」 そして未来視を―――――――― 「………………」 「…………………………は……?」 何も起こらないのは――――何だ? 「おい……私に、何をした……? 策は? まだ策を聞いてませんよ?」 この腕は、可能性の未来とやらを、私に託す為に伸ばしたはずじゃ―――― その時。 私は。 ゾッとする考えに至った。 ずるり、と。 彼の手が行き場を失うように、私の手から離れた。 「――――既に死んでいる?」 ――――――――冗談だろ。 なら……。 何のために……私たちは待ち続けたのか。 何のために……彼は最期まで“力”を使い続けたというのか。 誰よりも苦痛に抗い、自らの甘ったるい平和主義を掲げ続けた男の最期が――――無駄死。 許されるのか? そんな事が―――― そんな結末が―――― 「呀゛ぁああぁぁぁあぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!!! 私は無慈悲な世界へ怒りの咆哮をあげた。 「おー、ここが世紀の大異変の現場ね。《おぞ》〈悍〉ましい空気だわ」 そんな私の雄叫びを嘲笑うように、お気楽そのものの闖入者がやってきた。 「むせ返るほど濃厚で粗野な意思が、びんびん伝わってくる……あれが“ヒストリア”ね」 「消えてください。私は今、虫の居所が悪いんです」 「どうもどうも。こんな禍々しい所で、 《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉と何してるの、か・し・ら?」 ご主人は――――黒い曲線群と追い掛けっこ。 私が相手にするしかないか。 「部外者は消えろ、と言っている」 「えー、無理よ。私、“ヒストリア”を《フルボッコ》〈全殺し〉にして、結衣ちゃんを救出する大役を担っちゃってるから」 「《メイド》〈冥土〉の顔も3度までだ。次が最後通告になる」 「ふーん、ご自由に。通告? できれば、だ・け・ど」 「部外者は――――? ――――――???」 声が――――――!? 「クッフッフ♪ 私ってば、“音”を操れるの。大好きなご主人に、愛の言葉を囁けなくしてあげよっか?」 「……………………」 「冗談よ――って言っても、もう冗談じゃ済まないか」 もう、虫の居所が悪いどころの騒ぎじゃ、なかった。 「――――――――ッッ!?  ――――――――やるぅ♪」 数百年間、延々とお互いを語り合うよりも――――たった一度のぶつかり合いで、彼女の全てを理解した。 この場を全力で死守しようとしている私が力比べで互角になるという事実に、不思議な感情が湧いた。 「ふふふ――――――とんだ非礼でしたねッ!!」 「クフ――――――私こそ冗談が過ぎたわッ!!」 歯茎を剥き出しで笑ってしまう。 私は物凄い美少女であることを自負しているが、さすがに今浮かべている獰猛な笑みを見れば、屈強な戦士でさえ失禁してしまうと思う。 なにしろ、相手の浮かべている凶猛な笑みに、私自身ちびってしまいそうだったのだから。 「(全力の私と五分か……この女、相当なものを背負っている。気を抜いたら喰い殺されるッッ!!)」 「ねぇ怪力女さん、ここまでするのは何の為?」 「愛する人の為」 一秒の躊躇いもなく返答した私の心は、段々と冷えてくる。 「好きよ。あなたみたいな一直線の馬鹿は、大好き」 「それはごめんなさいね、私は《レズ》〈同性愛者〉じゃありませんので。でも、そこを退いてくれたら好きになるかも」 「イ・ヤ・よ」 「理由は?」 「もう、二度と間違わない為」 「(強い――間違え続けながらも、その全てを背負ってきた者の強さだ……)」 純粋な“力”で押されているという異常事態を、私は不思議には思わない。 その理由は、彼女の背景にうっすらと浮かぶ怨念にあるとわかったからだ。 「止まない雨はないけど――――鳴り止まない“《ヒメイ》〈断末魔〉”はあるのよ」 「(……時間が惜しい……私はご主人の側にもどらなければならない……)」 「本当に、この力比べから身を引く気はないんですね?」 「くどいわよ」 「くどい? 私が? ああ、言われてみれば、そうですね……」 確かに――――《・・・》〈くどい〉。 「――――――――重ッッッッ」 「らしくないですよね、《・・・・・・・・・・・・・・・・・・》〈相手のその後を思いやってしまうなんて〉」 心の何処かで、目の前の強すぎる精神の持ち主を壊したくない思う気持ちが芽生えていた。 遊んでいた片腕を参加させた私は、ぺしゃんこになる蛙を想像した。 「ぶっ潰れ《・》〈た〉。それが1秒後のお前の顛末だぁぁあああぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!」 「ぐう゛ぅぅぅぅ――耐えられっ、くっ、~~~~~~~ッッッ!!」 「なんとかぁ、なるぅううううううううううッッッッ!!」 「なんともならぁぁあああぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁんッッッ!!」 押し勝つ――――このままッ!!! 「ノエルッッ!」 ご主人の声――――!? 「チィ――――!!」 「きゃっ――――!!」 「イったたぁ……あなた、わざと弾き飛ばすことで私を助けた……?」 「そんなわけがあるか。あのままでは私も危なかっただけだ」 「あっ――――――」 振りが大きすぎて、追跡してくる黒い曲線群を躱しきれない。 「めらんこりっくに響いてね――――少しだけッ!!」 先に私を捉えたのは音速の衝撃波だった。 「加減をしろってんですよっ! 能なしっ!!」 「何言ってるの、か・し・ら? 最悪の事態はまぬがれたでしょ?」 荒っぽいやり方だが、致命傷を受けずに“ヒストリア”の攻撃をやり過ごせたのは能なし女のおかげだった。 「貸し借りが嫌いなタイプってわけですか」 「どの道、私一人で解決しようとは思ってないのよ」 無闇に戦っても“ヒストリア”に邪魔をされる以上、続けるのはお互い得策ではなかった。 熱が冷めていくと、今度はご主人に“何も打開策を得られなかった”ことをどう伝えればいいのかという問題が頭を悩ませる。 「グオ゛ォォオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」 「え?」 地獄からの遠吠えが聴こえてきた。 「あいつ、生きて……チィ」 次から次へと厄介事のオンパレードだ、まったく。 「…………」 「――――!?!?」 ふらふらと夢遊病者のように歩き出した少女に困惑した。 「そんな無防備に――――くそ、ご主人……ああ、もう……っ!!」 「死にたきゃ勝手に死んでくださいっ!!」 ご主人の援護を優先し、少女に背を向ける。 「(何なんですか、あいつの、さっきの顔……)」 「(余計な事はいい。私は、ご主人を護り、そして最善の方法を伝える――その事に集中するんだ)」 その奇々怪々が地を踏み散らせば、光は闇に屈した。 自然の悪戯で雲が鳥の形をしていたり、 月が餅つきをしている兎に見えたり、 そういった偶然とは一線を画した圧倒的な闇の霧。 「フゥゥゥ……フゥゥウゥゥゥゥゥゥゥゥゥッ……」 大剣を携えた怪力女は《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉の元へと駆け出した。 逃げたのではなく、私や、目の前の闇を相手にするよりも優先すべきことがあったのだろう。 「優真くん……」 「放してよ……っ」 「…………ふざけんな……」 「優真に蓄積した疲労に、気づいてないわけじゃないでしょっ」 「優真を快復できるのは、“《エンゲージ》〈契約〉”をしたあなただけ。残るのはわたしが適役なのよ」 万全を望んだ者などいない。 ここに来るまでに傷ついていない者など、一人としていなかった。 命を燃料に《くべ》〈焼〉、与えられた刹那を《いまわのきわ》〈今際の際として臨んでいた。 〉中でも優真くんは、私が散々振り回した所為で心身ともに疲れ果てていたはずだ。 「………………」 探せば、理由はいくらでも見つかる。 《・・・・・・・・・・・・・》〈優真くんが負けたという推測〉は、いくらでも成り立つ。 「ヴォ゛ォォォォオオォォォォオォォォォォォォォォォォッッ!!!」 現に、やってきたのは優真くんではなく、野卑な咆哮をあげる化け物。 この光景に、どんな希望を見出せというのだろう。 「優真くん……」 ――――絶望的。 《・・・・・・・・》〈だから、何……?〉 「私が魅力的すぎて、襲いたくなっちゃった?」 人を信じる気持ちは、もう充分に養ってきた。 払え切っていない授業料を踏み倒すつもりは、私にはない。 「クフフ……♪ 《・・・・・・》〈優真くんなら〉、いいよ。召し上がれ」 なにしろ彼は、破らないんだ―――― ――――家族との約束だけは、絶対に。 「恐ろしい化け物だと思った? 残念! 俺でした!」 「うん。知ってた」 私はただ、約束通りに信じただけ。 絶望的だって、他人が決めつける状況が――――ポジティブには通じないだけ。 「おかえりなさい、優真くん」 「ただいま、なるちゃん。ちょっと、色々あって遅れちゃった」 いつものように笑って、優真くんは数分前の出来事を語り出した。 あの時――光の弓を放った俺が抱いたのは、たった一つの疑問だった。 「(で、何処だよここっ!)」 声を発することはできず、唇(実際には唇すらないが)の裏でしゃべった。 今いる場所の把握に努めるが、なにやら身体そのものがないことに気づいた。 「(あー……俺、もしかして矢ごと、ゼロに喰われちゃった……? ってことは今、魂なのか)」 漂流物にでもなった心地でいると、ゼロの“《いちぶ》〈魂〉”になった事で、彼と情報を共有している事に気づいた。 「(…………学園長の言っていた通り、俺の干渉していた“魂”はカロンさんのだったんだな)」 ゼロの中に居ると色々な事がわかる。 “《ナグルファル》〈7年前〉の夜”により“《イデア》〈幻ビト”の“魂”で氾濫した“《ステュクス》〈重層空間”。 半壊した“《ステュクス》〈重層空間〉”から“魂”を抱えるだけ抱えて“《ディストピア》〈真世界”へ落ちたカロン。 カロンの助手である、ケルベロスの“《フロム》〈主人格〉”も同じように “《ディストピア》〈真世界〉”へ落ちて、その衝撃でリノンが生まれた。 「(フロムが言ってた“牢主”ってのは、“《カロン》〈主人〉”さんの事で……俺の中に入ってる“魂”がイコールだったってわけか……)」 ややこしさに乾いた笑いを漏らす(実際には表情筋すらないが)。 「(あの《モノクロ》〈白黒〉現象は、ガタが来てたんじゃなくて、《リノン》〈ケルベロスが側にいる時や、“《ステュクス》〈重層空間”に干渉する際の副作用みたいなもので……)」 「(なるほどね……。ゼロ、キミが何故、盲目的に“魂”を喰らい続けるのか、やっとわかったよ)」 “《カロン》〈牢主〉”の“魂”に干渉した“《フール》〈器”が俺なのは久遠学園長に知らされていたと〉はいえ、ゼロの正体がずっと引っかかっていた。 「(キミは――――“《カロン》〈牢主〉”の肉体そのものだったんだね)」 ゼロは自分の“魂”を失った事で目的を失い、満たされない心の闇を埋める放浪者となった、言わば抜け殻。 だから飢餓感に追われ、“魂”を吸収し続けるしかなかった。 一度だけ“《リノン》〈ケルベロス〉”が見せた魔獣の如き姿も、ゼロと同じ理屈――暴走状態だったのかもしれない。 「(待てよ……じゃあ、どうなるんだ? 俺を取り込んだって事は、“《カロン》〈牢主〉”の魂は元の鞘にもどった事になる)」 つまり―――― 「(元の持ち主と、仮の持ち主のどちらが“カロン”に相応しいか、選択される……?)」 ――――だったら、俺はまだ負けちゃいないってことだ。 「(“7年間”俺に住み着いた“《カロン》〈魂〉”の選択次第だ)」 ――――諦める必要はないってことだ。 「(こんなにも“信じられてる”俺か、食欲に餓えた魔物か)」 ――――独りじゃないんだから。 「(キミが“器”に選ぶのがどっちかなんて――聞くまでもないことだよね)」 「――――――ってわけで、正式に俺が“魂”を統べる者に選ばれたってわけ。数十秒前にね、あはは」 「今日子さんも……一緒?」 「一緒にいるよ。まぁ、呼び掛けには反応してくれないけどね……」 「……そっか。なら、みんな一緒だね」 ゼロの飲み込んだ魂は消化されず、俺の中に蓄えられている。 強力な“《イデア》〈幻ビト〉”の魂がごろごろと転がっている感覚は、とてつもない違和感があった。 自分が自分でありながら、神をも超える力を手に入れたようだった。 残る問題は――――やっぱり、アレだよな。 「学園長の言葉を全部鵜呑みにしたわけじゃないけど、アレから感じる禍々しい空気で、はっきりとわかるよ。アレが“ヒストリア”なんだってね」 「どうにかできる?」 「大丈夫だよ。今の俺は、ちょっと誰にも負ける気がしないんだ」 「だから、なるちゃんは――――もう、休んでもいいんだよ」 「あはは……やっぱ、バレバレだった、か・し・ら……?」 「ごめんね、あの怪力女……思った以上に強くて……」 くらり。傾いたなるは、既に意識を失っていた。 限界まで疲労した少女を支え、ゆっくりと地面に横にする。 「終わった頃には、起こすから。その頃には、心配事は一個も残ってないよ」 「(くっ――どうすればいい。延々と防ぎ続けるしか手立てはないのか?)」 「(破壊行為に頼っては、あの時と何も変わらない……同じ過ちを繰り返すだけだ)」 「(私は……二度と……あんな想いは……ッ!)」 「ご主人っ……!!」 「ノエル……」 「私はマスターの“《ゆいごん》〈未来視〉”を受け取りました」 やはりマスターは、あの時に――――。 しかし、彼の死は無駄にはならない。 彼の悲願だった“平和”はノエルによって私へと届けられる。 「ノエル、教えてくれ――いつものように、私を導いてくれ」 「ご主人……」 ノエルの後方には、あの少年と少女の姿があった。 「(一人では来られはしなかったはずだ。彼を支える仲間がいたから、来ることができたのだろう)」 九條とノエル。そしてひまわり。 私にとってその存在は同義だ。 ノエルがマスターの言葉を受け取ったのも、私の為。 「ノエル」 「…………ご主人の信じた道が、正解ですよ」 ………………。 続く言葉を待ったが、ノエルの唇は合わさったままだ。 「具体的な方法は、聞けなかったのか」 「ん……というか……その……えと……何一つ、わかりませんでした」 「地獄の責め苦に耐え続けたマスターは、完全な無駄死にだったというのか……?」 「………………」 ノエルはただ、静かに、笑んだ。 明確な言葉などない。 待っていた最後の《バトン》〈使命〉は受け取る以前に――――存在しなかった。 「……ノエルッ」 「もし仮に――その道が、棘に満ちたものだったとしても……」 「私も、一緒に失敗してあげますから」 「…………そうか」 私は盲目になっていたのかもしれない。 こんなにも私に信頼を寄せているノエルがいるのなら、それだけで充分ではないか。 「キミが傍にいるだけで、心強い」 「……何言ってるんですか? めんどうなんで、ただ全乗っかりしただけですよ?」 「そうか……なら、そのまま私に全乗っかりでいい」 「バレていましたか……これも、愛のなせる技ですかね……」 倒れるように崩れ落ちるのを支え、ゆっくりと地面に下ろす。 「ゆっくりと休んでいてくれ」 「起きる頃には、ひまわりの元気な顔が見られるだろう」 「――やはり、私に立ちはだかる壁はキミか」 「――逆でしょ? 俺の家族の絆を取り戻す物語に割り込んだラスボスさん」 「私は自分の成すべき事に目処がついた。放っておいてはもらえないだろうか」 「御託はもう聞き飽きたんだよ……」 「返せよ……ッ! 結衣を――――俺の妹をッ!!」 「……争いは何も生み出さない」 「ッッッッッッ!!!」 「……キミが妹だと思い込んでいる人物なら、そこからでも拝めるはずだ」 「あれは“《ナグルファル》〈7年前〉”の元凶となった“ヒストリア”と呼ばれる “《イデア》〈幻ビト〉”じゃないのか?」 「《・・・・・・・》〈そういうことだ〉」 「何を言ってるかわかんないね」 「“《ナグルファル》〈7年前〉”の見解と認識は様々だ」 「キミが誰から情報を得たのか私は知らない。だが、私は“《イデア》〈幻ビト〉”として“《ナグルファル》〈7年前”の中心に居合わせた」 「――――言いくるめようったって、そうは行かないんだよっ!!」 「……そんなものか、少年」 「受け止めるなんてカッコイイじゃん。でも、手応えはあった。痩せ我慢がいつまで続くかな」 「耳を貸してくれ少年。キミが破壊しようとしているあれは、“ヒストリア”であり、別の生命体でもある」 「……だとしても俺のやることは変わらない。いるだけで理不尽を振り撒く存在だ。いないほうがいい存在だ。壊すほかないだろ」 「違う。破壊による解決は私が試みた。結果は――散々だった」 「つまり……“《ナグルファル》〈7年前〉”にも同じことがあったって言うんだね」 「そうだ。少年ならば、あれを破壊することができるだろう。しかし、そう遠くない未来に、同じことが起きるだけだ」 「………………」 「………………ダメだ」 「信じてあげたいけど、キミの声に耳を貸すことはできない。ここに来るまでに伴った犠牲が多すぎる」 「俺の決断は、俺の仲間全ての総意なんだ。簡単に揺らぐわけにはいかない」 「少年――――」 「こういう時って……胸に冷却装置をつけたみたいに心が、冷えるんだね」 「退かないなら、あなたは障害だ。障害は、飛び越えてもいいし、踏み越えてもいい」 「次で、終わらす」 「……少年、ヒントをありがとう」 「……は?」 「やはり、違う。確信した。破壊では解決できない……私が何をするべきか、その輪郭がつかめた」 「破壊では……解決できない……」 「少年、どうか私に機会を譲ってくれ」 「私の力足らずで失った命に報いるたった一度の機会を、譲ってくれ……」 「……失った命に対して、あなたはどう向き合って生きてきた?」 「向き合いなど、しなかった」 「………………」 「過去に潰されるのを拒み、忘却の彼方へ記憶を押しやった」 「そうすることでしか、生きられなかった。後悔を背負う事から、目を背け続けてきた」 「最低だな」 「その通りだ。しかし、私は思い出してしまった。思い出した以上は――やり遂げなくてはならない」 「その言葉が偽りかどうか、確かめてやるよ」 「くぅ……はぁ…………」 「………………」 「私は……私は…………今度こそ…………救わねばならないのだ……」 「ようやく気づくことができたのだ……私は、ひまわりのお陰で……学ぶことができたのだ……」 「ひまわり……ッッッ!!」 「もういい。黙れ」 「くっ……こんな時に、背後から――――」 「もう、全部伝わったから――黙っていいよ」 繭から放たれた瘴気は――――少年の手によってかき消された。 「ずいぶんと気まぐれなのだな……」 「躱そうと思えば躱せる攻撃を、あなたは《・・・》〈一度も〉躱さなかった」 「後ろに控える“ヒストリア”に《・・・・・・・・・・》〈被害が及ばないように〉受け止め続けた」 「例え、それが俺を騙す為の策戦だったとしても構わない。騙されてやる。騙されて、信じてやる」 「安心しなよ。ここにはもう一人、《・・・・》〈最低な奴〉がいるんだ」 「…………少年……」 「私は――――必ず、やり遂げてみせる」 「気をつけろ、また来る」 「みたいだね」 「ッッッッッッ!!!?」 「――さらに強力になっている……防げるか……ッッ!?」 「もう弱腰ッ!? ははっ、俺は全然、余裕だよッッ!!」 「“なんとかなる”ッッッ!!」 「――――ッ!? なんだ、それは――ッ!? こんな時に、おまじないか……ッ!?」 「“絶対、なんとかなる”ッッッ!!」 「………………ふっ」 「なんとか、なるだろうかッッッ!!」 “《ココロ》〈被験体556号〉”には何の進展も見られないまま、夏とは思えない肌寒さの湖に久遠は立っていた。 指示した通りに“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”の発生地点を“ゼロ”が嗅ぎつけたという報告は耳にしている。 しかし二次災害になりかねない“ゼロ”自身の始末を、傭兵として雇った今日子が済ませたという報告はなかった。 ぷっつりと連絡の途絶えた今日子を不安に思いながら、久遠は手駒である“《イデア》〈幻ビト〉”をフラワーパークへ回した。 数分後、返信があった。 「ルージュが……? 園内へ通じる橋が落ちて、下の崖に――――無事なのか?」 「だがちょうどいい。手段は問わない、すぐにでも私の所まで連れてきて……何? 何だと……?」 『脇役は黙って成り行きを見守る』――――とルージュは言ったきり、口を閉ざしたと報告を受ける。 ルージュの気まぐれに付き合う必要はないと伝えるが、手駒である“《イデア》〈幻ビト〉”は『死にたくはない』とだけ伝えた。 「……もういい」 上の命令よりも、気分を損ねたルージュを無理に連れ回すことによる身の危険を心配する……組織として由々しき問題ではあるが、久遠は代理である以上、諦めるしかなかった。 しかし、ルージュが自身を“脇役”と言い切り、今回の大異変を傍観に徹すると決め込んだ理由が久遠にはわからなかった。 「芽が詰まれたか」 極光に満たされた空は、世界の終わりを象徴するように紅を広げていく。 ルージュならば“《ココロ》〈被験体556号〉”を“《メンテナンス》〈修理”することが可能だったかもしれない。 しかし、それすら叶わぬとわかり、久遠の万策は尽きた。 否――――久遠は、元より、“《アーカイブスクエア》〈AS〉”への助言や、この日の為の“準備”は数多くしてきた。 この土壇場になって、老兵の出る幕はない。 久遠の頼みの綱は、“魂”の管理人の可能性を秘めた優真とその契約相手だ。 「ココロくん。本当に、キミは自分のやるべきことを思い出せないのか?」 「ココロくん? こ……」 久遠が各所に連絡を取り、目を離している間、“《ココロ》〈被験体556号〉”は意味もなく湖への道を行き来していた。 しかし、そう思っていたのは久遠の思い込みであり、実は、 “《ココロ》〈被験体556号〉”には既に兆候が起きていた。 「(……該当する履歴無し……)」 無意味と思える行動の機械的な繰り返しは、本来、 “《ココロ》〈被験体556号〉”が取りえないものだった。 「……ママ…………」 “《ココロ》〈被験体556号〉”が行き来している道は、彼女がルージュに連れられて(半ば物のように)欠陥を修復する際に通る道と同じ道。 「(……該当する履歴無し……)」 “《メンテナンス》〈延命処置〉”の際、ルージュは必ず“《ココロ》〈被験体556号”の記憶をリセットする。 既に“《ココロ》〈被験体556号〉”は記憶を数時間と保てない、危うい状況にあった。 しかし行動の記録が無いにも関わらず“《ココロ》〈被験体556号〉”は繰り返し行動している、これは故障に等しい状況だった。 「…………?」 未来は、たった一つの事象の変化で連鎖的に顔色を変える。 きっかけは“《ココロ》〈被験体556号〉”の無意味に思える行動にあったのか、それとも決められた運命だったのか。 「…………」 風に吹かれた画用紙が茂みから顔を出し、“《ココロ》〈被験体556号〉”の脚に張り付いた。 それは数日前にルージュが“《メンテナンス》〈延命処置〉”の際に落としたものであり、ルージュがハッキリと“《ココロ》〈被験体556号”の異常を認識したアイテムでもあった。 ――――絵。 世間一般の視点からすれば、お世辞にも上手いと言い難い似顔絵。 「………………」 くしゃくしゃになった紙に視線を落とすも、それが自分だという認識は“《ココロ》〈被験体556号〉”にはできない。 「………………??」 雪白の頬を濡らす体液の正体を解析するが、瞳に埃が混入したと片付ける。 「………………????」 埃の混入で片付けるには苦しい量の体液を流し、“《ココロ》〈被験体556号〉”は自身の身体に起こる異常を本格的に分析する。 紙に塗りたくられた塗料――――“《ココロ》〈被験体556号〉”は、それを絵という特別な価値のあるものだと分析できない。 「……………………」 しかし視線の先にある画用紙から感じる熱は、ゆっくりと “《ココロ》〈被験体556号〉”を蝕んでいった。 経験は感覚と知覚によって与えられる知的財産だ。 積み重ねる事で高度に成長し、複雑な問題にぶつかった時の指針になる。 「…………潮騒が止んだ……」 しかしココロは、自分という絶対の“個”を確立できないように造られている。 ココロにとってココロは《オルタナティブ》〈代替品〉に過ぎない。 代わりはいくらでもいる。 ――――だとしたらココロは何? などという疑問に至る場合、シンキングプロテクトが作動する。 最初から思考が成立しないように完結された答えが埋め込まれていて、無条件にそれを信じてしまう。 それで終わり。 ココロはココロ。 それ以上でも以下でもない。 「………………」 それでも、ココロには時間があった。 独りでいるから、誰かといるよりも倍の時間があった。 誰とも関わらないココロには多くの時間がある。 しかし、それは“体感”だ。 “体感”を得ることは“個”の確立に繋がる。 ――――だとしたらココロは何? などという疑問に至る場合、シンキングプロテクトが作動する。 だからココロは自問自答さえ許してもらえない。 そしてそれを不毛だと感じることも、やはりできない。 「………………」 ココロは、自然物ではない。 “《アーカイブスクエア》〈AS〉”の技術屋、能力者が最高傑作と呼ぶ人工物だ。 人工物は、製作者の都合が最優先される。 製作者側に“個”は必要ないという判断が下された以上、ココロは機械と変わらない。 「……絵を……描こう……」 最初は、なんとなくだった。 なんとなく、誰かが置いていった画材で、誰かに教わった絵具の使い方を試しているだけだった。 “誰か”は、ママではない“誰か”だったが、それ以上はいつも思い出せない。 白紙に塗りたくった色を、正確に認識できてはいない。 “絵”の価値は感情を持った生き物が感性で決める。 価値がわからない以上、良し悪しとは関係なく、ココロの絵はこどものお絵かきにも満たない。 それでも画用紙に向かっていると、海を眺めるだけの時間とは別の何かが得られる瞬間があった。 流れこんでくる声が聴こえる気がした。 ココロに足りないものを補おうとする声だった。 それはシンキングプロテクトさえ通じない何か不思議な“力”の宿ったもの。 けれど、惜しいところでココロには届かない。 「………………うん……」 独りでは会話は成立しないけど。 成立した会話も、あった気がした。 通じ合った瞬間が、ココロにもあった気がした。 「…………できた……」 何をもって完成と定めているのか、ココロにはわからない。 そもそも絵の完成も、未完成もない。 しかし、“できた”と思う以上――――その状態が最善であり、“できた”ことを報告し、“できた”ことの評価を得たいと思っているのだろう。 ――――誰から? 「………………」 ココロにはわからない。 ココロにはわからなくていいことだから、それでいいのかもしれないけど。 「…………また……描こう……」 次は何かわかるかもしれない。 そう思って画用紙に向かう。 記憶の連続性が不安定なココロは、向かった理由さえ忘れてしまうかもしれないけど。 次は。 次の瞬間こそは。 そう思って、繰り返す。 何度も、何度も、繰り返す。 不意に。 「…………これいいぞ……」 まったくの不意に、駆け巡る少年との記憶が“《ココロ》〈被験体556号〉”を再始動させた。 「……これいいぞ……っ……ココロ……これいいぞ、わかる……」 素人が悩み抜き、時間を掛けてようやく辿りついた作品には“感情”が宿るとでも言うように。 「…………ママじゃない誰か……ココロと一緒にいてくれた……」 おそらくは、奇跡に分類される不確かな現象。 積み重ねた日々がよみがえる事は奇跡ではあるが――――しかし不思議なことではない。 「……もう少しで……思い出せる……誰が書いたのか……」 「……大切な人……ココロをわかろうとしてくれた人……忘れてはいけない人……」 「………………わからない……」 基本的に奇跡とは些細な切っ掛けであり、完全な解決まで導いてくれるわけではない。 「誰なのか……わからない……わかりたい」 変われるか、変われないかは、いつだって本人の意志に掛かっている。 「“《ホムンクルス》〈ヒト型容器〉”に涙、だと……? 馬鹿な――――」 異変に気づいた久遠が絶句するが、そこは“《アーカイブスクエア》〈AS〉”のブレイン。 望んだ方向に事態が動き出している事に考えを巡らせる。 「………………ん……」 「……これは?」 「…………汚さないで……ココロ……やることがある」 久遠自身、まさか自分が荷物持ちをするはめになるとは想像もしなかった。 「長く生きていると、こういう瞬間に出逢える。風向きが変わるのは、やはりおもしろいものだ」 笑いながら、しかしその“大役”を快く引き受ける。 気場である湖に連れて来た時点で自分にできることがないとわかっていた久遠は、すっと身を引いた。 久遠は正しい――――“境界線”を操る者が役目を思い出した以上、ここから先は危険区域、邪魔になるからだ。 ふわり、白銀世界の輪郭が創り出される。 「……あの人が誰なのか、どこにいるのか、ココロはわからない……」 「……ココロは……ココロにできること……するだけ…………」 悪意に満ちた空模様と“《ココロ》〈被験体556号〉”が相対した瞬間――――陣風が吹き抜け、周囲の草が幾何学模様を描いた。 久遠の待ち望んだ、“境界線”を操る力の開放。 しかし普段の“《ココロ》〈被験体556号〉”が行う“《ゲートキープ》〈抑制”とは次元が違った。 湖は“《ディストピア》〈真世界〉”と“《ユートピア》〈幻創界”の交差点として活用されるほどの気場。 久遠の計算通り――――否。 《・・・・・・・・》〈――計算外の、力〉。 遠方で佇む久遠自身、うっすらと期待していたとはいえ増幅した破格の“力”に息を呑んだ。 「………………届いて……」 己の潜在力が極限まで高められている事実に、“《ココロ》〈被験体556号〉”は一切の動揺を見せない。 彼女の瞳に映るものは――忌々しき天空の紅、一点。 「…………伝えて……!」 “《ゲートキープ》〈抑制〉”とは、穢れを祓うわけではなく、悪しきを滅ぼすわけでもない。 純粋に“《ディストピア》〈真世界〉”と“《ユートピア》〈幻創界”の異常を防ぎ、修復するものだった。 つまり“《ディストピア》〈真世界〉”という広大な屋根の下で暮らす事が義務付けられている以上――――“《ゲートキープ》〈抑制”を特定の場所のみに定める必要性はなかった。 「…………ココロの……友達へ……ッ!!」 大地を流れる地脈の陰陽が狂ったように裏返る。 スポンジに水が染みこむように“《ココロ》〈被験体556号〉”に“力”が集まり、天空の紅の層が薄まる。 「…………逢いたい……逢って話したいから……」 「…………ゆうま……優真……っ! 優真……ッッ!!」 自我を失ったはずの“《ホムンクルス》〈ヒト型容器〉”が、唐突に人名を吠えた。 あらわにした過激な感情は、“《ココロ》〈被験体556号〉”が一人の少女となった事を意味していた。 「……届いてッ……届けッ……優真に、届け――――ッッッ!!」 雲間に差し込む光を信じ、決死の一時凌ぎは続く。 僅かな停滞と沈黙を完全なる解決へと導くのは、“《ココロ》〈被験体556号〉”の役目ではないのだから……。 「……何だ……? 急に力が弱まってきたような……」 「不思議なこともあるものだな。キミは口にしたことを現実のものにする“力”でも持っているのか?」 「違う。これは、俺じゃない……」 「では一体、誰が? 私達の他に、これほど“力”を持った者がいるというのか……?」 「学園長……ルージュ……いや、違う……隠し持った温かな響きを、俺は知ってる」 少年は“ヒストリア”と相対することで心身を冒涜的に略奪されていた私達を包むものに、心当たりがあるようだった。 「《・・・・・・・・》〈ちゃんと届いたよ〉――――俺を護ってくれて、ありがとう」 空へ向けた少年の感謝と共に深まる、許されざる“失敗”の重み。 彼が私に委ねたものは、並々ならぬ想いの結晶――失敗は許されない。 「少年、ここを任せられるか?」 「これなら俺一人でも抑えられる――だから、早くッッ!! 行けぇぇぇぇぇぇぇぇッッッ!」 返事よりも先に私は動いた。 繭の鼓動は、より間隔が短くなっていた。 もう幾ばくの猶予もない――私の直感がそう叫んだ。 「ひまわり、キミは愚か者だ。いつも自分の主張を第一に考え、私の言葉に耳を貸さなかった」 「そのせいで私はいつも頭を悩ませた。それは今も同じだ」 禍々しい墨染めの繭、その表面にいくつもの“穴”が浮かび上がった。 その姿はまるで生物が呼吸しているようだった。 「!? 取り込もうとしてるのか――そうか、結衣もあんなふうにッ!?」 「……迎え入れてくれるのであれば好都合だ」 少しでもひまわりの近くに行けるのならば、どんな場所でも招かれるがまま赴いてやろう。 私の身体は繭の渦へと吸い込まれていく。 底なし沼のような“穴”は私の身体と意識を容赦なく飲み込んだ。 「…………」 ここはどこだ。 私は何故ここにいるのだろうか。 暗闇の中で光り輝く蝶の群れが、私の周辺を飛び回っていた。 「生憎だがキミ達と戯れている暇はないのだ」 払おうとすると、蝶の群れは美しい集団芸術のようにアーチ状を成した。 「…………?」 蝶の群れが作り出すアーチをくぐると、閉め忘れたように半分開いた扉がある事に気づいた。 闇の中で扉だと判断できたのは、蝶の光があったからだ。 扉を開ける。 慣れてきた目を少しずつ開いていくと――――そこに私が探していたものがあった。 「ひまわり」 ひまわりは足を組んで座りながら背を向けていた。 「さぁ帰ろう。皆心配している」 「…………」 私の言葉に反応を示さないひまわり。 いや、よく見るとその小さな背中が震えていた。 「……どうしてきちゃったの」 「ん……?」 「ひまわりはね、みんなに迷惑をかけちゃうから……」 「また大勢の人が悲しい思いをしちゃうから」 「だからひまわりは消えなきゃいけないんだよ。あかしくんもわかってるよね」 「ひまわり……」 ひまわりはあふれる涙がこぼれないように、必死に堪えていた。 「もういいんだよ。ひまわりは一人ぼっちだってわかったから」 「おとーさんもおかーさんも、ひまわりにはいないの。だからね、いなくなってもいいんだよ」 「…………」 “ヒストリア”が目覚めれば、世界は“《ナグルファル》〈7年前〉の夜”と同等かそれ以上の混沌に見舞われ、次こそ復興は困難になるだろう。 だからこそ、ひまわりは私に“ヒストリア”の力を分け与えた。 自分をこの世界から消去させるために―― 「常識に則れば、大勢を救うために命を投げ出そうとしているキミの行為は正しいのだろう」 「ひぐっ……」 「現在の状況を知れば、皆がキミに死を選べと強要するだろう」 「誰しもに守るべきものがある。その為に人は、他人から何かを奪って生きているのだ」 「それを身勝手だとは責められない。この世界で生き抜く上で必要不可欠な犠牲というものは存在する」 「っ……っ……!」 「だから――」 「えっ――?」 「私も身勝手でいさせてもらおう」 「私を突き動かすのはもはや理屈ではない。これはただのエゴだ」 「誰が何と言おうと、私はキミを諦めるつもりはない。そうする事でしか、私の過去は清算できないのだ」 「……違う。過去も記憶も関係ない。私が言いたいのは、私が諦めたくないことは、そういうことではない」 「正直に言おう。ひまわり、キミを失いたくないのだ」 「……そんなこと言われても、困るよ」 「私が見てきた人間は、一方的な主張で周囲を困らせる者が多かった。キミもそうだったし、九條も然りだ。だから私も謝るつもりはない」 「うぅ……」 「ふっ、私も人間のフリが上手くなったのだ。そう思って諦めてほしい」 「…………」 「なあ、ひまわり。キミは本当に生きる事に対しての未練はないのだろうか」 「…………」 「……そんなこと、聞くのひどいよ……」 「私達との生活は、退屈だっただろうか」 「……そんなわけ、ないよ……!」 「いつだったか、キスをすればキミは出て行く約束をしただろう」 「だからキミはあの時、私に口付けをしたのだろうか?」 「…………」 「仮にそうだとしたら、あの契約は無効だ。正式な書面での契約ではないからな」 「あかしくん、おーぼーだよ」 「キミこそ私が制止しても倉庫で栽培している植物を引き抜いただろう。これでおあいこだ」 「…………」 「ひまわりがいたら、またお花つんじゃうよ」 「構わないさ」 「えっ……?」 ひまわりが執拗にモミジアオイの花を摘んだ理由――それは私自身の言動に他ならなかった。 だがそれがなくなったとしても、天秤にかけたモノの重さはもはや疑いようもないほどに一目瞭然だ。 「キミの好きにすればいい。ならば私はキミに引き抜かれても問題がないよう、倉庫を埋め尽くすほど沢山の花を育てよう」 「倉庫だけで足りなければ、旧市街全てを花畑に変えよう。それこそいつかのテーマパークにも負けないような立派な花畑を」 「あかしくん……」 「だが私一人では手に余るだろう。だからキミも手伝ってくれないか?」 「今の自分が何も持っていないのならば、これから築いていけばいい。丁度、私もようやく歩み始めたところだ」 「二人で歩けば、恐れるものはないだろう」 「ひぐっ――」 「うぇーん……!」 「キミは出会った時から泣いてばかりだな。今回はこけたわけではないようだが」 「ひぐっ、泣かしたのはあかしくんだよぅ……」 「それはすまない。だが問題はない、私はキミを慰める術を知っている」 「えっ……?」 「菓子とジュースを買って帰ろう。キミが望むならいくらでも」 「そして九條とノエルも一緒にテレビを見るのだ。その後は四人でゲームをしよう」 「だからひまわり、立ち上がってほしい。私と共に行こう」 「明日は明るい。皆が居ればきっとそれだけで――」 私たちの雨は、もう上がっていた。 晴れ渡る青空を照らす太陽。 吸い込まれそうな空の向こうに、希望に満ちた明日への扉が待っている。 「うんっ――!」 《ひまわり》〈向日葵は――〉――太陽に向かって咲くのだから。 たった一つの判断が生死を分ける戦場において相手を信頼することは、生首をさらすようなものだ。 なるとは違い、昨日、今日、あったばかりの彼に対して積み上げた信用は皆無。 しかし任せた責任の重さは、俺の人生そのものといっていい規模だった。 「……っ…………っ」 直立不動のまま一歩も動けなかった。 脚も、腕も、頭も、そして視線も、僅かにもずらさなかった。 ただ息が苦しかった。喉に蓋をされたみたいに、意識的に呼吸をしてもうまくできないほどに。 「っ……っ…………っっっ」 問題は歩いてくる青年の腕の中にあった。 「失敗……したのかよ…………?」 あれだけ大きな口を叩いておいて――――自分だけは五体満足で顔向け。 弁明を聞くまでもない。 「ちゃんと現実を――ご主人の素晴らしさを目に焼き付けやがれですよッッッ!!」 後頭部に岩を叩きつけられるような叫びが、俺を打ちのめした。 「優真くん」 おかげで、大切な家族の静かな声が、聞き取れた。 「なるちゃん……? 起きて――――」 「あなたが求め続けて来たものは、目を凝らせばそこにあるわ」 「――――――――あ」 俺は……何を見ていたというんだ……? 誰かに任せる――自分では何も手出しできない状況に怯えて、目を背けていたのだろうか。 「……万物を燃やし尽くす炎など、解決の糸口にすらならない」 そこには“力”に溺れず、支配されず、信じる道を貫いた男が立っていた。 「少年の口から聞かせて欲しい」 腕の中にすっぽりと収まった少女は、咲き乱れた花々よりも輝いているというのに。 「私は、私なりのやり方で、やり遂げたのだろうか」 「――――――――あぁ…………結衣……」 初めて知った。 人は、喜びを通り越す安堵に、吐き気を覚える。 「生きて……生きて……た……ぐうっ……ぐっ……はぁ、生きて、た……っ!」 「…………? あかしくんあかしくん。ひまわりのこと、ゆいって呼んでるよ……?」 「結衣……?」 「キミが想い続けた妹の魂は、残念だが既に消滅している」 「え……?」 「この子は、ひまわり。“ヒストリア”の“魂”が入る事で生まれた、まったく別の個性だ」 「別……人……?」 つまり俺の身体に“《カロン》〈牢主〉”の“魂”宿ったように、結衣にも、同じ事が起きたのか……? そうだ……“ヒストリア”はどうなっ―――― あれが……結衣の身体から剥離した“ヒストリア”。 虹色の閃光を放つ姿は、綺麗というよりは痛々しかった。 「あかしくん……じょーきょーが、よくわかりませんっ! せつめーをようきゅーしますっ!」 「いいんだ、ひまわり。キミは少し、眠っていただけだ」 あんなものから、あんなに可愛らしい女の娘が生まれるものなのか……? あんな――――結衣の生き写しみたいな子が。 「啀み合い、争い合い、憎しみ合う――――それら負の感情は、誰もが抱いてしまうものであり、無限に連鎖する」 「過ぎた想いは、世界を歪ませるほどの“力”を持つ」 「それは“いっそ無かった方がマシだ”と誤解されてしまうほどに、醜くねじまがった“力”だ」 「少年――私はひまわりを助けた。だが、少年の妹は、助けられなかった」 「私を憎むか……?」 「……はは……あははは……」 結衣とのことは、俺が手を放した“7年前”に全て決着がついてたんだ。 この人は、夢を追い続けた俺に終止符を打ち、そして一人の少女を助けた。 感謝こそすれ、憎むことなどあるはずがない。 「……やっぱ……似た者兄妹だな……結衣……いや、今は、ひまわりちゃん……だったかな……」 「うん……ひまわりは、ひまわりだよ……?」 可愛い子だった。 抱きしめたくなるくらい、可愛い子だった。 可愛いとしか言い表せないくらい、愛おしい子だった。 裏表のない純粋無垢な少女は、きっと元気いっぱいに走り回って、周りの大人に迷惑をかけているんだろう。 あの頃の結衣が、そうだったように。 「ひまわりちゃん……その身体を……ずっとずっと、大切にしてくれる?」 「およよ……なんだかわからないけど、わかった!」 「最後の最後まで、何が何でも生き足掻いて……俺より長生きしてくれる?」 「……どうしてそんなことを聞くのかな?」 「べつに……はは……特に、理由はないよ……」 ――――二度も、同じ姿で死なれるのは、耐えられないから。 結衣の身体で、結衣の分まで生きて欲しいから。 「強いて言うなら、俺の、わがままかな」 「わかった……! クリームソーダで手をうとうっ!」 「オッケー!」 「穢れた集合体にとって一番の特効薬は、人の美しい心だったのかもしれないな」 「うわっ、急におろしちゃあぶないでしょっ! ひまわりにあやまってっ!」 「本当だよっ、ひまわりちゃんに傷を負わせたらただじゃ済まさないよ」 「――ごめんなさいね」 これっぽっちも謝罪の意を感じられない爽やかな声は、別の場所から届いた。 「のえるちゃんがあやまった? なんで……?」 「ふふ……何ででしょうね」 「すまないな、ひまわり」 「ふたりとも何を――――え?」 二人の身体に、何かしらの異変が起きていた。 問題は、その異変を当たり前のように受け入れていることだ。 「ご主人、私、言いましたよね?」 「もし仮に――その道が、棘に満ちたものだったとしても……私はずっと一緒だって」 「ああ……ノエル、付きあわせて悪いな」 「うわぁっ! のえるちゃんとあかしくん、透明人間になっちゃってるっ!!」 「な……何が起きてるんだよ……」 ゆっくりと這い上がるように、脚から除々に透けていく。 すでに下半身が消え、向こう側を見通すことができた。 「《・・・・・・・・・・・・・・》〈言わなければ、わからないか?〉」 「ちょっと待ってよ」 「なんでしょうね、このゆっくりと消えていく感じ……生まれてきた時と逆ですね」 「何を言ってるんだよ……なんでそんなに、平然としてんだよっ!!」 「ご主人の中での決着がついたんだから、いいじゃないですか」 「少年……私は満足している。私の導き出した答えによって、ひまわりを救うことができた」 「そんな、そんなのって……」 「ご主人を信じてくれて、ありがとうございました」 「私からも心からの礼を……ありがとう」 真っ白な光の粒子が綿のようにふわふわと浮かんでは消えていく。 やがて二人の身体で透明ではない部分が顔だけとなった。 だというのに二人の顔は、太陽でも拝むように清々しかった。 「生きていれば自分を見失うこともあるだろう」 「そういう時は、自分ではない誰かを頼ればいいんですよ」 「少年が私の選択に賭けたように、私も少年に賭けている」 「待っ――――」 「…………そんな……」 「およよ? あかしくんとのえるちゃん……かくれんぼだね!」 「ひまわり、まけないよー!」 駆け出す少女の無邪気ささえ気にならず、呆然と二人がいたはずの空間を見つめ続ける。 「――――ッッ!?」 今度は何だ――と思う暇もなく、飲み下した錠剤のように胸からすぅっと溶けていく感覚があった。 「ゼロの喰った“魂”……今日子さんの“魂”が……っ!?」 抜け出す“魂”を抑えることはできない。 感覚でしかない以上、明確な術がわからないからだ。 「全ての“《イデア》〈幻ビト〉”の“魂”が消えようとしている……?」 何故だ……? “ヒストリア”が関係しているのか……? “ヒストリア”は単なる“《イデア》〈幻ビト〉”ではないのか? 「俺は……元々、人間だから……俺自身の“魂”だけが残って、普通の人間に戻る……のか?」 「俺は…………?」 ――――――ああ。 俺は、気づいてはいけないことに、気づいた。 「うんうん。なるほど……納得だわ」 「この現象は学園長の推察の誤りね……人の想いを創造する装置――うん、やっぱりそうだわ」 「いいから……」 「“《イデア》〈幻ビト〉”が生み出される時に残った負の感情が、長い年月を掛けて積み重なって形になったのが“ヒストリア”」 「もう、いいから……」 「概ね、そんなことじゃないかしら」 「……そんなこと、どうだっていいからっ!!」 「ん? どしたの、そんな大声出して」 「消えかかってるじゃないか……」 「おぉっと、気がついちゃった? “消える”ってなかなか体験できないわよね。小説のネタになりそうだわ」 「ふざけんな……ッッ」 「もう独りは、嫌なんだ……怖いんだ……起きた時、側に誰もいないなんて、耐えられないんだ」 「違うよ。優真くんが言ってること、間違ってる」 「間違ってなんかないっ!! 俺は、俺の本心は――――こんなもんだよっ!!」 「今日子さんもいない、なるちゃんもいない、リノンもいない、こんな世の中――生きてたって何の価値があるんだよ!?」 「俺も連れてってくれよッッ! もう、俺を、残す側にしないでくれッッッ!!」 吐き出したものは、全て本音だった。 メッキが剥がれれば、俺なんか、こんなものだった。 「だから、違うってば」 「なんだよ、それ……なんなんだよ……もう、わかんないよ……俺……わかんないよ……!」 「ううん、優真くんは、わかってるよ」 「…………待ってよ、なる、お願いだよ、お願いだっ! なる、なる、なるっ!!!」 「なる……なるぅううぅぅぅぅぅぅううぅぅうぅぅぅ――――!!」 水の中をがむしゃらにもがくように腕を振り、乱暴にでもなるをつかもうとする。 その全てが、虚しく空を切る。 「あぁっ、なるが消えるっ、嫌だっ、うあぁあっ! やだ、やだっ、頼む、お願いしますっ、誰か、誰かなるを――――」 俺にとっての最後の支柱が消えてしまう。 俺のいる世界とは別の世界へと飛び立ってしまう。 二度と逢えなくなる、完全な決別を迎えてしまう。 「俺の側には……結局、誰もいなくなる運命なのかよ……」 何のために頑張ったんだろう。 「ああぁっ、あぁぁぁ……嫌だ……独りは、もう嫌だ……俺は、なるちゃんが思うほど、強くないんだよぉぉぉ…………」 頑張れば、頑張り続ければ、物事は全部、幸せな方向に向かうって思ってやってきたのに。 「独りじゃ――真っ直ぐに立つことだってできないんだよぉぉ…………」 「誰かっ、誰かっ、助けてっ、頼むよ、頼むっ!! 誰か助けてっ!!」 「はぁ……はぁ……はぁ……あぁぁぁぁぁぁっ!! あぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁっ!!」 支えを失った心が決壊し、右も左もわからずに喚き散らした。 「おっかしぃなぁ。あかしくーん? のえるちゃーん?」 嘆く俺の近くを、走り回る少女がいた。 「どこさがしても見つからないよー。こうさんするから出てきてー」 探し続ける姿は、遠い記憶に確かにあった。 記憶の中にある何かと重なるが、うまくはまらない。 「あかしくん? のえるちゃん? もうさがせるところは、ぜんぶさがしたんだよー?」 「かくれんぼは、もうおわりにしよーよー」 誰か……助けて……頼むから……? 「えっと、あかしくんと、のえるちゃん、どこに行ったかわかりますか?」 「………………」 「あかしくんと……のえるちゃん……いなくなっちゃったの……?」 「いるよ」 「ホント? はー、たすかるー。ひとあんしんだね」 「…………」 「およよ……?」 久々に触れた《ゆい》〈ひまわりちゃん〉の手は小さかった。 腕は枯れ木のように細くて、握れば折れてしまいそうで、引っ張ればもげてしまいそうだった。 でも……温かかった。 血の通った人間の温度だった。 「男の子が、女の娘をさわさわするの、せくしゃるはらすめんとって言うんだよ?」 「二人は、向こうにいるよ」 「りょーかいでありますっ! じょうほうていきょー、まことにかんしゃしますっ!」 咲き乱れる花々の中を駆け出す少女が視界から消える。 うきうきと弾む声だけを残して、俺の言葉を闇雲に信じて。 「……伝わったよ、なるちゃん」 「消える一瞬まで俺を信じ続けてくれたキミの言葉は、俺のやわらかい部分を正確にえぐってくれたよ」 独りになるのは、恐怖そのものだ。 その痛みがどれほどのものか、この“7年間”身を持って体験した俺はわかる。 「残された側の痛みは一生消えない。死ぬよりも、何倍も、何十倍も辛い」 だからこそ――《・・・・・・・・・・・・・・・・・》〈考えるべきは、自分の事じゃないだろ〉。 独りにしちゃイケナイのが誰なのか、わかるだろ。 掌に残る、ひまわりちゃんの体温。 “7年前”――ひまわりちゃんと同じくらい細腕だった俺は、結衣を支えきれなかった。 結衣は落ちて、死んだ。 ガキだった俺は、自分が大人だったらと嘆く事もなく、全力で“山”を泳いだ。 「いつの間にか、俺だけが成長したんだな……」 ずいぶん立派な――――男の腕だ。 朝昼晩、三食、きちんと喰わせてもらった人間の腕だ。 なぁ。 俺は。 いつ。 いつ――――この腕で、支えるつもりなんだ? いつ――――大人になるつもりなんだ? 「……命は循環する。今度は、俺が、支える番だ」 妄想して、逃避して、狂ってしまわないように馬鹿みたいに笑って過ごすような奴だから。 7年間掛けて今日子さんに育ててもらった、この腕で。 救うことを始められるようになった、この腕で。 「こっちは準備万端、ポジティブ完了――――待ちかねてるんだ」 「俺を“器”に選んだってことは、俺にはキミを扱う資格があるって見込んでくれたんだろ?」 「“魂”の管理がキミの“力”なら――――キミ自身の姿を解き放ってみろよ」 呼び掛けに応じるかどうかは、既に問題ではなかった。 早鐘を打つ鼓動に、俺とは別の意志を持った“魂”が暴れだす。 “魂”は、俺が“本当の力”を受け止められるだけの“器”かどうかを訝しんでいた。 「俺にはッッ!! 支えきれるだけの自信とッッ! 腕がッッ! 備わってるんだよッッッ!!」 忠誠より愛よりも業深き、番いの環。 なるがいなくたって、“《スピリット》〈非物質的仮想心臓〉”は繋がっている。 「“7年間”《いばしょ》〈身体〉を貸してやった俺に――――恩返しの一つもねぇのかよォッ!!!」 慟哭に“《スピリット》〈非物質的仮想心臓〉”が息吹いた。 刹那――――俺の瞳に映る世界が激変した。 「………………」 《とぐろ》〈蜷局〉巻く雲煙を《おれ》〈有資格者は従え、吸って、吐いて、掴んで、握って―〉―――地から天へと伸びる超大な黄金色の輝きを我が物にする。 “《アーティファクト》〈幻装〉”――――今まで取り寄せた借り物の“《デュナミス》〈力”とはまったく別物だった。 「“《アーティファクト》〈幻装〉”は自分自身……抜き出したが最後、扱いに長ける長けないは関係ない」 それは“《カロン》〈魂〉”自身であり、俺自身でもあった。 誰も踏み込んだことのない奇跡の境地。 “魂”を統べる管理者の“力”との同化。 神秘的な熱風が俺を包み、地盤が揺れ、掌には惑星を連想するほどの超重量を感じる。 終焉を嘆き、《たいどう》〈胎動〉する世界の中心に俺は立っていた。 「……俺が残された事には、意味があるんだ……」 黄金色の輝きが一点に掛かった片腕は、しかしただの腕ではない。 今日子さんが支えてくれた、いつか誰かを支える腕であり―――― 《・・・》〈いつか〉とは今この瞬間であることを俺は理解した。 「役目を終えた“魂”が消滅するのは、自然の摂理なのかもしれない」 「だけどさ、同じ消えるにしても――――この光の中の方が、絶対退屈しないよ?」 ――――集う。 甘い蜜に誘われた蝶のように“魂”が方向転換し、呼応する。 消えるはずだった光が“魂”を操る“《カロン》〈牢主〉”に呼び寄せられていく。 手にしている物の実態が即席の“魂”の保管庫であり、その重みを一手に担う事に躊躇いはなかった。 むしろ、俺が適任――俺以外には不可能だと強く思った。 「もっと、もっと集まりなよ。定員なんて、設けてないんだ」 ――――足りない。 一つ、また一つ、またまた一つ、散っていったイデアの“魂”が光となって集まっていく。 珠玉の輝きに招かれた光の中で、一際、美しい光があった。 染み渡ってくるのは、大切な人の声だった。 どう言い繕っても“見捨てた”としか表現できない仲間からのメッセージだった。 俺が振り向かずに来れたのは、全部、彼女のおかげだった。 「生きとし生ける物に、特大の《へんしん》〈“Re〉:”をかましてやりますよ」 一つ、また一つ、またまた一つ、散っていったイデアの“魂”が光となって集まっていく。 珠玉の輝きに招かれた光の中で、一際、前向きな光があった。 染み渡ってくるのは、疑いの気持ちを捨て去った人の声だった。 俺と同じ《ポジティブ》〈属性〉を振りかざす、諦めない仲間からのメッセージだった。 俺が膝をつかずにいられたのは、全部、彼女のお陰だった。 「人を好きでいてくれて、ありがとう」 「俺も人が大好きだ。人を愛してくれた“《イデア》〈幻ビト〉”が大大大好きだ」 “魂”が――――集った。 掌の上に大勢の“《イデア》〈幻ビト〉”の想いがあった。 その想いを受け止めるのは“《カロン》〈牢主〉”の“力”だったけど、聞き入れたのはたった一人の《にんげん》〈俺だった。 「もういいだろ。もううんざりだろ。もう――――繰り返す必要はないだろ」 「傍目穏やかなフリをしていても、心のどっかでは、ブチ切れてたに違いないんだ」 「耐えてきたんだ。俺達は“7年前”の理不尽から、ずっとずっと耐えてきた」 これは、生にしがみついた者を代表した《こたえあわせ》〈清算〉。 俺の掌に任された大量の“魂”の向かうべき先は、《かれら》〈“魂”〉自身の声から拾うことができた。 “魂”が消滅を免れる事のできる空間――――“《ディストピア》〈真世界〉”と “《ユートピア》〈幻創界〉”を繋ぐ“《ステュクス》〈重層空間”。 「なんとかなる……そう思えば」 「できないことなんか、あるわけないッッッ!!」 空に掲げた“魂の縮図”を握りしめ、全身全霊を傾けて振り上げた。 描かれた軌跡は斬撃跡とは思えない程に煌々と輝き、地表を黄金世界へと変貌させた。 高濃度の光が跳ね上がるように地面を這い上がり、天駆ける柱へと顕現した。 「――――絆は、俺が繋ぎ止めるッッッ!!」 “《イデア》〈幻ビト〉”の集合体は空へ吸い込まれ、“《ディストピア》〈真世界”に小さな穴をつくった。 隙間から漏れだす閃光が“《イデア》〈幻ビト〉”の“魂”に干渉し、 《ディストピア》〈世界〉と《ユートピア》〈世界の境界を歪ませ―――― 「へ、へへへっ、ふへへへへっ」 「うわぁ気持ち悪い中年オヤジがいますよ。あのギラついた瞳のフィルターを通せば、おでんの具が卑猥なものに早変わり」 「そんな口叩けるのも今のうちだぞ? 俺の作ったスペッシャル秘密兵器でアッと驚くがいい」 「親方の自信作か、楽しみだ」 「素直な反応が逆に気持ち悪いぜ」 「~~♪ ~~♪ きょうはたのしぃシンボクカイ♪ のめやうたえや、どんどんへべれけ~♪」 「予定の時刻までは、あと少しといったところか」 「今回でまだ2度目ですが、月一の恒例行事になりつつありますね」 「優真と唯一交わした約束だ。破るわけにはいかないだろう」 「お二人が本気でケンカをすれば街は半壊。一般人の多くが血を流し、《アーカイブスクエア》〈国家規模〉の軍事介入がされるでしょうね」 私達の約束を不可侵条約と解釈するノエルだが、あながち間違ってはいない。 「ゆーまおにいちゃん優しいから好きー」 「本人に言ってやってください、泣いて喜びますよ。そしてお持ち帰りされてしまえ」 「でも、のえるちゃんとあかしくんの方が好きー」 「……で、ですって、ご主人。よかったですね」 「ひまわり、あまりノエルを困らせないでくれ。彼女は今、照れている」 「はぁ!? がきんちょ、ご主人の大根をカラシで真っ黄色にしてやりなさい」 「ラジャーでありますっ! あかしくんのベロひりひりボンバーだいさくせん、かいしでありますっ!」 「……む」 仲の良い二人はさておき、背後に感じた気配を確認しておく。 のれんの隙間から覗き見る。 「九條か。そんな所に立って、何をしている」 「――は、はい?」 「親睦会に顔を出してくれたのだろう? それとも私用で星を眺めていたところだろうか」 「いえ、私は……」 「ひまわり、ノエル、キミたちも何をしている。顔を見せてくれた九條の為に、席を詰めるべきだろう」 「おー! みつきちゃんゴキゲンオー!!」 「チッ……ご主人が、そうおっしゃるのなら。その分、私にぴったりくっついてくださいね?」 二人が広々と取っていた空間を詰め、最後に私が席を詰めれば――――一人分のスペースが空いた。 「赫さん……」 「私の隣が空いている」 この場に似つかわしくなくとも、美月は私にとって大事な人間だ。 「少し狭いが、それでも構わないのであれば座るといい」 美月の瞳が泳ぐ。ひまわり、ノエル、そして私の順に視線を移し、うつむいてしまう。 「……やっぱり……私は……」 なるほど。思慮深い九條らしい。ノエルが最近覚えた椅子に画鋲を置く悪戯を実践すると、勘ぐっているのかもしれない。 「――――きゃっ!」 「何を遠慮していらっしゃいますの? 強情っぱり。輪にお入りなさい!」 「無警戒の者の背中を突然に押すのは、いかがだろうか」 「いえ。赫さん、彼女は悪くないです。私が、深く考えすぎていたんです」 「みつきちゃーん! 早くおいでよー!! ゴキゲンオーデーン♪」 「何をいまさらしおらしくしてるんですか? この泥棒雌狐っ」 「来るなら来るでさっさとしてください――引き返せないくらい私たちの関係に食い込んでおいて、勝手にどっかいこうとしてるんじゃないですよ」 「ノエルさん……ふふ……私にとっての、居場所は……ここなんですね」 「わーい、みつきちゃん来たー!」 「おい、あんまりご主人にくっついたら総入れ歯にしますよ?」 「こ、このパターン……この北条院の跡取りである私だけ除け者……?」 「いらっしゃい嬢ちゃん。パイプ椅子で悪いが、座ってくれ。来てくれた客には、礼を尽くしてぇんだ」 「――――――時に、赫さん。この殿方は……?」 「見た通り、おでん屋を営んでいる者だ。嵐山という名があるが、親方と呼べばいい」 「御館様……♪」 「な、なんですかね……脂ぎった中年に向ける、あの正体不明の眼差しは……」 「潔いつるつる頭……貫禄のあるでっぷりお腹……武士ですわ。御館様ですわ。はぁ~~~~、ス・テ・キ♪」 「世界はやはり、まかやしで満たされているのでしょうか……」 「おおーっ!! ブッラボー♪♪ 透き通ったいいハミングね」 「なるちゃんは“音”のプロフェッショナルだからね。なるちゃんがイイって言うんだから、間違いなくイイよ」 「ココロ……撫で撫で?」 「GO! なるちゃんッ!」 「よーしよしよしっ! いい子いい子」 「……撫でられた…………」 「撫でられたら喜ぶのが基本だよ」 「………………」 「笑ったっ!? なんだろう、私、物凄く成し遂げた気分だわ」 「さっさと行きましょう」 遠巻きに見ていたリノンがため息をついた。 「何アレ。感じ悪。あとでおでんに虫入れてやろっと」 「わたしはあなたたち暇人と違うの。ギャラも出ないのに付き合ってあげてるのよ?」 「そういえば聞いたよ。こないだ、ルージュと拳で語り合ったんだって?」 「ええ。納得いかないとか因縁つけられてね。殺される寸前までめちゃくちゃにされたわ」 「そんなになるまで降参しなかったんだ……」 「“《フール》〈稀ビト〉”のほとんどが人間に戻って、憂さ晴らしでもしたかったんでしょ」 漆原の“《エーエスナインプラス》〈AS9+〉”の研究資料の流出から二ヶ月。 各地の研究者がネットを介して資料を知る事となり、数多くの優秀な研究者が制作チームに志願した。 副作用の無い“《エーエスナインプラスプラス》〈AS9++〉”の完成がこんなにも早かった事を、あの世で零二はどう思っているのだろう。 どちらにせよ、今回の件もまた――《バラシィ》〈英雄〉の功績であることは間違いなかった。 「リノンってルージュと仲が良いんだね」 「わたしっていうより、トリトナがね。暴れる機会を失った《ハンター》〈猟兵〉同士、遊び相手に飢えてるんじゃない?」 そういう折り合いの付け方で満足してくれてるうちは、何も言う必要はないだろう。 「………………」 「優真くん見て見てっ! やっぱりこの子、絵うまいっ!!」 そういえば、なるは挿絵を書いてくれる人を絶賛募集中だった気がする。 「ちょうどよかったっ! ふたりとも、ココロの友達になってやってくれないかな?」 「……トモダチ…………?」 きょとんとするココロに、なるが微笑み掛けた。 「なんかこの子とはうまくやれそーだなって思っちゃったらもう――――私はその時点で友達だと思っちゃうんだけど」 「そういう手と手のとり方、輪の広げ方って――違う?」 俺がなると友達になった時に掛けたセリフだった。 「…………ココロには……難題……」 「大丈夫だよ。この子は、一緒にいてすっごい楽しくなれる前向きな子だから。絶対、損はしない」 「…………ココロ、友達……」 「よろしくね、ココロちゃん」 「早速だけどー、私のキャラ設定を元にキャラのラフを書き起こして欲しいんだけどー」 「親睦は向こうで深めようよ。もう赫さんたち、始めちゃってると思うよ?」 「オッケー。じゃ、ココロちゃん行きましょう?」 「……わかった…………」 ――さて、と。 「リノンもココロと仲良くしてあげてね」 「優真の頼みじゃ断れないわね。気が向いた時にでもここを訪れるわ。《あいつ》〈ルージュ〉と一緒なら、彼女も少しは会話が弾むでしょう」 「ルージュがここに来る時は、俺にも声を掛けてね。ココロに雑な扱いしたら、月までぶっ飛ばすから」 「優真……2人とも行っちゃったし、私達だけで抜けちゃわない?」 「冗談でしょ」 「わりと本気。どうせなら優真とふたりでいたいし、庶民じゃ一生入れない会員制リゾートホテル取る?」 「本気だったら気絶でも何でもさせて、強引に連れ帰ってるでしょ? あんまり、俺を試さないでよ」 「……ふふ、わたしの誘いも、うまく躱せるようになったわね」 「なるちゃんにぶっ飛ばされちゃうし」 「嫉妬深い女を持つことほど、痛快なことはないわ。四六時中、愛している女のことを聞いていられるから」 それは、つまり、えっと……なんだ? 「とにかくさ、俺とキミの“《・・》〈4人〉”で飲むなら、もっと月がよく見える夜がいいんだ」 「どの道、わたしとふたりっきりにはなれないってことね」 「キミはいつだって、1人で3人分だからね」 「――――あー!! ゆーまくんきたーっ!!」 「おいでぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ! 俺の胸に全力で飛び込んでおいでぇぇぇぇええぇぇぇぇえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッッッ!!」 とか言っておきながら俺から突っ込んで行ったりなんかして!! 「んむーーーっ!」 「俺のかわいいひまわりちゃんっ! よしよし♪ 言い値で買うぞ」 「く~る~ひぃ~~」 「おっと、ひまわりちゃんの事になると我を忘れてしまう悪い癖が出てしまった」 「ゆーまくん、ゴキゲンオー!」 「ゴキゲンオー、ひまわりちゃん。今日もかわいいねぇ。大きくなったら、誰と結婚するのかな?」 「それはおおきくなってから、おおいになやんできめるのです」 「ざまぁ」 「ノエルん、ゴキゲンオー」 「チィ……こいつ人の胸に挨拶をしやがった……ここで仕留めるか……」 「殺気が漏れていますよ」 「おー、九條お嬢様もご機嫌麗しゅう。今宵は月に一度の無礼講。ノエルんと九條お嬢様に挟まれての酒池肉林!」 「彼女たちがそれを良しとするかは、彼女たち自身が決めるだろう」 「おー、赫さん、こんばんわっス」 「クッフッフ……♪ 《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉……貴様の敗因は、自身の炎に溺れたこと。ただその一点に尽きる」 いつものノリで赫さんに絡むなる。 その手にはタロットカードのデッキが握られている。 「…………“月”と書いてあるのだが」 「あっちゃー。《ブレイズ》〈朱の紅蓮〉ツイてないね」 「“《ザ・ムーン》〈月〉”が意味するのは、不安、曖昧、混沌、幻惑、現実逃避、潜在する危険、欺瞞、猶なき選択。要するに――」 「なるほど、私の運勢は最悪というわけか」 「おい、人のご主人といちゃこらした挙句、なにデタラメな事をほざいてやがるですか」 「フッ……久しいな《ソード・オブ・クリスマス》〈剣咲ノエル〉」 「確かに話すの久々ですね。学園では完全にシカト決め込んでますし」 「仲良くしてあげてよっ! なるちゃん泣いちゃうよ!?」 「さぁ《ソード・オブ・クリスマス》〈剣咲ノエル〉、《ブレイズ》〈朱の紅蓮のカードを逆さにするのだっ!」 「めんどくさ……」 「逆位置の“《ザ・ムーン》〈月〉”が意味するのは――――“失敗にならない過ち”」 「………………」 「――――“過去からの脱却”」 「………………」 「そして――――“未来への希望”」 「菜々実さん……」 「クッフッフ……私、イイコト言った。心に響く言葉、プライスレス」 「もしかして、そのタロットのデッキ、全部“月”なのではありませんか……?」 「な、な、なーんの事、か・し・ら? お手製だから、枚数が違うこともあったりなかったり……」 デッキをパッと後ろに隠すなるに対し、ノエルんも、赫さんも、九條お嬢様も――――占いの不正を訴えたりはしなかった。 それが仕組まれたものだとしても、なるなりの優しさだとわかっているからだろう。 「(みんな、すっかり十年来の友人って感じで打ち解けられたんだなぁ)」 「おう、遅かったじゃねぇか坊主」 「しゃすっ! 学園長って今日は来てないの?」 「とっつぁんはお前ら糞ガキと違って忙しんだよ。大人を舐めんじゃねぇ」 「え!? 言ったね? じゃあ《・・・・・》〈こどもなら〉舐めてもいいんだね? ひまわりちゃーん、ぺろぺろ~」 「ぺろぺろマンがあらわれたー! やるのかー! ひまわりマンはセイギの“グー”を出すぞー、いいのかーー!」 「カイリキマンが加勢しましょう(ごっこ遊びのドサクサでぶん殴ろう)」 「ちょ、分が悪いって。あと本音漏れてるよノエルん」 「安心しなさい優真、この“超最強マン”が加勢してあげるわ。これで億人力よ」 「キタキタキタァ!」 「クッフッフ♪ 無言マンと厨二星人マンも加勢するわ。優真の派閥にぺろぺろできないものなど、あんまりないっ!!」 「…………ココロ……無言マン……?」 「まずいよまずいよ、このままじゃひまわりマンがペロペロされちゃうよー!!」 「多勢に無勢だな。ファイヤーマンも混ぜてくれないか?」 「で、では私も赫さんと剣咲さんの味方に……」 「何マン?」 「な、なにマン……とおっしゃられましても。私は私ですっ」 「ゴキゲンオーマンとかじゃないですかー?」 「なるほど、一理ある」 「……ゴージャスマン…………?」 「ご、ゴージャスマン……ぷくっ、くく……こふ、こふ……っ」 「やめてあげてっ! リノンが痙攣してるっ! そしてゴージャスマンが泣きそうだよっ!」 「世界はやはり、まかやしで満たされているのですね……」 「おまえら好き勝手やってないで、一箇所に集まれって! ったく、個性が強すぎる連中はまとまりがねぇ」 日頃、硬くなっている頭をほぐしてバカがやれる。 それはとても健康的で、奥に溜まった疲れも吹っ飛ぶ。 ひまわりちゃんを中心に、みんなが馬鹿になれて、温かい気持ちになれる――――そういうのが、いいんです。 「……あと“一人”いたら、完璧だったのにね」 「ううん、これで合ってる」 「全部が全部叶っちゃったら、俺の目標がなくなっちゃうじゃん」 あの時――今日子さんの“魂”は、集まった“《イデア》〈幻ビト〉”の皆さんと同じく、開放された。 生きているのは間違いないのに、俺の元へ戻ってくることはなかった。 今日子さんは、自分の意志で俺に顔を見せていないことになる。 「もしかしたら、母さんって呼ばれるのが恥ずかしくて逃げちゃったんじゃない?」 「かもね。でも、大丈夫」 「俺がもっともっともっと偉くなって、立派になったらひょっこり現れるさ」 これも、今日子さんが俺の成長の為に残してくれた宿題なんだと思うことにしている。 絶対にいつか、また逢える――だから悲しくない。 「よーし、そのまま動くんじゃないぞ。おう、リリカちゃんわりぃけど頼まれてくれるか?」 「はい、御館様。なんなりとお申し付けください♪」 「お、おいおい嬢ちゃん、俺は女房に逃げられたしがないおでん屋。あんまり妙な目で見ないでくれねぇか?」 「逃げられた……? では、現在、お付き合いをなさっている方はおりませんのね!?」 「勘弁してくれ……」 …………ん? 「え……? ちょ、いつぅ!!? いつリリ閣下射止めたんですかぁ!? なんでリリ閣下ハート目なんですかぁ!?」 「恋に理由なんている?」 「歳の差を気にしてるなら自分の心配をしたら? わたしも“虹色”も、神話の時代から数えて二千――――」 「うふふ、まだまだガキンチョですね。私とご主人のように永遠に色褪せない関係こそが愛と呼ばれるに相応しいのですよ」 「ノエル、腕が蒸れる。胸を押し付けないでくれるか?」 「なるちゃん、リノン、チャンスだっ! 俺の両腕が空いてるっ! 胸を押し付けるチャンスだよっ!?」 「――――――」 「………………」 「わぁぁぁぁぁ~~~……♪♪」 「スペシャル秘密兵器……ですか。やるじゃないですか」 「その昔、親方は名の通った花火職人だったそうだが、頷けるな」 「なるちゃん! 超綺麗。ヤバいってコレ、うぁ、今のかわいいっ」 「そんな、綺麗でかわいいって……褒めるなら二人っきりの時に、し・て・ね♪」 「滅多に見られないんだから、バカ言ってないでちゃんと見なさい」 七色が咲き乱れ、銀河が浮かび、大輪の菊花が夜空を彩る。 時代とともに廃れ、自然消滅敵な形で消え去っていった娯楽技術の結晶と言える一瞬の灯。 世にも短き百花繚乱――その一瞬を目に焼き付ける為、遠方から遥々訪ねる人も多くいたという……。 「――――灯り……ほう、打ち上げ花火か」 「自粛などという言葉を聞くのはうんざりしていたところだ。情緒というものは、やはり忘れててはならないものだと痛感するよ」 「人が権力に溺れず、“《イデア》〈幻ビト〉”が力に酔わずにいれば、我々の未来は、そう暗くはないのかもしれんな」 「ったく忙しいったらねぇぜ――――ん?」 「ああ……悪かねぇな、こういうのも……“《オーロラ》〈極光〉”なんかより、ずっとイカしてるぜ」 「うつろう時代の象徴には、もってこいだ」 「写真を撮るなら、“1+1は?”では?」 「古代人!? いやいやいや、そりゃ古すぎますよ。はい、なるちゃん。水瀬家流を教えてあげて」 「“ポジ+ティブは? ポォジティヴッ!”が正式よ」 「待って。“ポジ+ティブにRe:できる?”の方がよくないかしら?」 「ポジティブでも返信でもゴキゲンオーでもいいですから、撮りましょう」 「ちがうよー。ゴキゲンオーは、ゴキゲンオーだよ?」 「ひまわり、そこでは優真の影になって映らないだろう」 「いやいや、大丈夫ですよ。ひまわりちゃんは俺が抱っこするんでバッチリ映ります」 「悪いが、ひまわりには特等席を用意してある」 「お、おーーーー! 高いたかーーーい!」 「くっ……私もご主人に高い高いされたい。仕方ない、ここは我慢して、帰ったら朝まで“処置”を……♪」 「ノエル、家族写真はもっと寄ったほうがいい。私の側へ来てくれるか?」 「はい♪ よろこんでっ♪♪」 「………………っ」 「どこ向いてるのよ、正面みなさい。カメラの方よっ」 「……機械……苦手……っ」 「首を折られたいようね……!」 「クッフッフ……♪ 優真くん、フォーメーションBでいくわよ」 「オッケー! 初めて聞いたけどね!」 「ふぅ……セット終わりましたわ」 「じゃあリリ閣下も早く入って」 「慌てなくても大丈夫ですわ。私のタイマーは完璧。カメラの固定も完璧。抜かりはありませんことよ?」 不器用で、チグハグで、まとまりのない俺達だけど。 旧市街に生きてるとか、新市街に生きてるとか、年齢とか、格差とか、そんなもん全部取っ払って。 たまに集まって、笑って、少しずつ積み重ねていって。 みんなで揃って、一枚の写真に収まる事―― 「あ、傾いた」 「――――も、できないのかよっ!?」 例えば、次の瞬間に世界が滅亡すると言われても――俺達の足並みは変わらない。 「さっさと走れッ、私とご主人の完璧な写真の為にッ」 「優真、キミなら届く」 だって、ヘタクソだから。 「がんばれ~!」 「がんばって……」 写真一つ、落ち着いて撮れないくらいにぐだぐだだから。 「間に合いますっ」 「間に合ってくださいっ」 不器用な人間風情、“《イデア》〈幻ビト〉”風情だから。 「――あなたなら、余裕でしょ?」 地上を這いつくばってる以上、いつまでたっても何かに振り回されながら生きていくしかないから。 「絶対、なんとかなるッ!!」 だからこそ、最低限の意思を持って―― 「うおぉぉぉおおぉぉぉぉぉッ!! ポジティィィィィィイィィィィィブッ!!!」 ――――――精一杯、前を向いて歩いていく。 「社長さん」 「……結衣…………?」 「『ゆい』じゃないよー。ひまわりはひまわりだよー」 「あ……っとっと。ひまわりちゃんか」 「ゴキゲンオー! シャチョーさんっ!」 「ゴキゲンオーひまわりちゃん。遊びに来てたんだね。一人でここまで?」 「のえるちゃんが送ってくれた!」 「ノエルんが、おんぶで?」 「バカにするなー! 手をつないでだよー。ひまわりは自分の足であるけるのですっ」 「そっかー偉いねぇ。俺と一緒にドリームインしようぜ~♪」 「わ~♪ くすぐったいよ、シャチョーさんっ、わっ、あははっ、あははははっ♪」 かわいすぎるからくすぐりの刑に処すことにした。 「あはっ、あはっ、やめっ、やめっ、やめなさーいっ!!」 「やめろーーーーーーーーーーッ!!」 「そういうのはバカタレさんって言うんだよっ!」 「あはははっ」 ここの所、ろくにベッドで眠っていないからか、気づかないうちに寝落ちしてしまっていたらしい。 社長になって初めて痛感する忙しさは、今までの非じゃない。 別の職についていた社員さん達も、俺が社長ならともどってきてくれた。 俺が頑張らないわけにはいかない――――考えとは裏腹に書類にべっとりとついたよだれに苦笑し、口を拭った。 「およよ? シャチョーさんおねむさんなの? かわりにおしごとしてあげるから、ゆっくり休んでていいよ」 「あ、あーひまわりちゃん書類を散らかさないで、お願いだから大人しくしてようね」 「ひまわりは探しものをしてるのです」 「何を?」 「キンコのカギとケンリショ……? とりあえず押さえとけって言ってた」 「ノエルんが?」 「シャチョーさん、のえるちゃんのこと、どう思ってるの?」 「可愛いおっぱいお化けだと思ってるけど」 「あー! ダメなんだよっ、のえるちゃんはあかしくんと愛しあってるんだから、ダメなんだよーっ!!」 「いくらおっぱいが大きいからって愛人にしちゃダメなんだよーっ!!」 「あはは、平気平気。だって俺、愛人にするならひまわりちゃんがいいし」 「おー、これは失礼しました。ひまわりなら問題はありません」 「朝からおっぱいの話?」 「あーなるちゃんだー。おっぱいがちゅーとはんぱに大きい、なるちゃん。おはようございます!」 「は、はい? ひまわりちゃん、私はそうは思わないんだけどなー?」 「のえるちゃんとくらべたら、たいしたことないよー! どっちつかずー! もうしわけていどー!」 「ま、まぁ私くらいまで成長してから聞こう、か・し・ら?」 「およよ? どっちつかずなおっぱいより、ぜんぜんナイほうが、ジュヨウがあるんだよ?」 「そう。朝食のお味噌汁の具はひまわりちゃんで決定ね」 「ひまわりちゃん謝ってっ! 早く、早くー!!」 「ごめんなさい、もうしませーん」 ひまわりちゃんはコレからどんどん成長するだろう。 ああ、でも――いっぱい食べないと、俺の妄想する体型になってしまうかもしれない。 《もうそう》〈結衣〉は、俺の予想であって、ひまわりちゃんはひまわりちゃんらしく成長していってほしい。 「わはははっ、あは、あははははっ、くすぐっ、くすぐるなーーーーーッ!!!」 「あはははははっ!」 「ダメでしょー! 人のいやがることをわらってするなんて! ダメなシャチョーさんだよー!」 「ごめんごめん。ひまわりちゃんを見てるとさ……」 つい……楽しい気分になっちゃうんだよ。 止められないくらい、楽しくて、幸せな気持ちになっちゃう。 「いつでも来ていいからね、ひまわりちゃん」 「おー、りょーかいであります」 「…………」 「2人とも、ちょっとくっつきすぎじゃない?」 「んー、そう? 普通じゃない。それよりなるちゃん、ひまわりちゃんに朝食を頼むよ」 「う、うん……」 「わーいわーい! 食パンさんとおでんさんじゃないちょーしょくー!」 「待っててね。すぐ美味しいものを作ってくれるよ。そしたら俺が食べさせてあげるから」 「わーいわーい」 「口移しがいい?」 「おいロリコン(イラッ)」 「シャチョーさん、あとでおしごとのおてつだいしてあげるね」 「そっか。ひまわりちゃんはいい子だなぁ。じゃあお小遣いあげなきゃ。赫さんにお土産を買ってってあげるといいよ」 「わーい。シャチョーさんやさしいからだーい好き」 「ひまわりちゃん……かわえーなぁ♪」 「…………」 「ん? なるちゃん、見てないでご飯つくってよ。俺たち腹ペコなのッ!」 「腹ペコだぞー!」 「優真くんちょっとこっちきて」 「え?」 「い・い・か・らっ!」 「お味噌汁が吹き零れでもした?」 なるの後ろに立って、そっと抱きしめる。 俺たちは人目のない所でなら断りなんてなくたって抱擁くらいあたりまえにできる、親密な関係。 エプロン姿のなるは家庭的だ。 「むぐむぐむぐむぐむむむむ……」 しかし振り返った顔は非常にご立腹で、ちょっとやそっとじゃ許してくれなそうだった。 「ど、どうしたの、なるちゃん? 抱きついちゃダメだった?」 「妥協? 本当に抱きしめたいのは私じゃないんでしょ。ひまわりちゃんのいたいけな身体を撫で回したいんでしょ」 「ちょ……え?」 冗談……? にしては声のトーンが低い。 結構マジメに怒ってらっしゃるようだ。 「悪かったですね、どうせ私はBBAですよ。ひまわりちゃんのように犯罪の香りがしませんよ。毎日してたら飽きもしますよね」 「なんでやさぐれてるのさ」 「…………」 顔を覗きこんでもプイっとそっぽを向いてしまう。 「もしかして、ひまわりちゃんに妬いてるの……?」 「うるさいわっ! 反省してるなら、態度で示し――――」 「んっ……んー……ちゅ……」 示した。好きの気持ちを、態度で。 「んっふ……ん~っ、ゆっ、まくっ……んちゅ。ちゅっ、ちゅ……」 急なキスに対応できずに、はふはふと漏らす鼻息さえ、愛おしくて。 柔らかくていい匂いのする身体を抱きしめながら、甘い味のする唇を奪う。 「ぺろ……れちゅ、れろれろっ、ちゅっぱ、ちゅっぱ……ちゅーむ、ちゅむちゅぅ……」 『キスされてる』という思考に追いついたなるが、唇を食む俺を舐め返してきた。 「んちゅ……んぶ、ぇろ~~~っ。んくっ……」 こってり濃厚キス。絡ませた舌で唾液を交換して飲み合う。 「んーちゅ、ちゅ~ぱちゅ~ぱっ。んっ……唇、しゃぶってぇ……もっろ……舌も吸っへ、あふ……ちゅっ、ちゅっちゅ……」 「かわいいよ……なるちゃん……かわいい……好きだよ……こうしている時が、一番幸せ……」 「……嬉しい……私も、幸せよ……ちゅっ……ちゅー……ちゅぱちゅぱ……」 「あーっ! キスしてるっ! しかも本気チューだ。あかしくんもめったにしない本気チューしてるー!」 「あはは、キスは欠かせない愛の調味料なんだよ。いい子で待ってたら、朝食はステーキかもよー」 「お肉ーっ!!」 ホントは肉じゃがだけど、愛がこもってるのは間違いない。 小躍りするひまわりちゃんに笑顔を返し……。 「ねぇ……愛して。もっとぎゅってして、いっぱい私の事、好きって言って。優真くんの印、つけて」 目の前で切ない顔でおねだりをするなるに、好きの印をつけていく。 「んっ……首筋、弱いんだからぁ……あっ、ふぁ、くすぐったっ、ほっぺたまで、犬じゃないんだからぁ……」 「こうされたかったんでしょ」 「だってぇ、優真くん、ベッドに入っても疲れてて眠っちゃうじゃない。くっついても全然起きないし、昼間はずっと忙しそうにしてて構ってくれないんだもん」 すっかり機嫌がよくなったなるは、潤んだ瞳でせがむように見てくる。 「最近、忙しくって、してあげてなかったね。ごめんね」 「んっ……優真くん……私だけを見てる……? 私のことだけ、可愛がってくれる……?」 「俺だってもう大人だよ。エッチなことは本妻としかしない……なるちゃんじゃなきゃ、こんなにならないよ」 「俺がひまわりちゃんに向けてる感情が、まったく別物ってことくらい、本当はわかってるんでしょ?」 「うん……おち○ちん、どんどん硬くなってきてる……私で興奮しちゃったのね……」 「なるちゃん……キスだけで、ここ、こんなに濡れてるね」 むっちり柔らかな太ももを撫でてから、やらしい染みの広がった下着をずらす。 いつ見ても綺麗なおま○こ。 俺を受け入れる準備が整って、ひくひくしている。 入れて入れてって、おねだりをしているようだ。 「キスだけじゃ……ないわ。優真くんに触れられると、おま○こが反応しちゃうの……入れて欲しくって、疼いちゃうの」 「昨日も一昨日もしてくれないから……お風呂場で優真くんのこと想像して、一人で慰めてたのよ……?」 「ごめん……忙しいってのは、いいわけだよね」 社長として従業員を持つことの過酷さには、まだまだ慣れない。 今は、状況的に時間は掛けられないけど、夜にでもいっぱい愛してあげよう。 「優真くんだって、疲れたままほったらかしのおち○ちん、精液いっぱい溜まってて苦しいはずよ」 「収まらないわよね? ご飯作るふりして、子作りしよ? ここ、優真くんのハメて?」 「なるちゃんは、こども生めないでしょ」 「うん……でも、生でおま○こするの、優真くんも好きでしょう……?」 食卓では、ひまわりちゃんがスプーンとフォークを手に待っている。 今はテレビを見ているようだけど、いつバレてもおかしくない。 「ねぇ、私……おち○ちん欲しい。今、シてもらえないと、学園で一人エッチしちゃうかも……」 もじもじさせる内股に、勃起したち○こで太ももの間に空腰を打つ。 「一人でしても満足できなくて、余計に切なくなるだけだよ」 提灯に灯りがともるようになるが紅潮した。 「あっ……おち○ちんの先っぽが、おま○こに当たってる……そのまま、来て……優真くんの形、思い出させてぇ……」 くちゅくちゅ……ぬちゅ……ずぷぷぷぷぷぷぷっ! 「あっ、あっ、ふゎあ~~~~~っ」 絡みつく膣ひだを押しのけ、一番奥まで入れたところでなるが弓なりに仰け反った。 「ふぁっ、ふぁっ、あっ、あ~~っ、あ~~っ、ふゎ~~っ」 金魚のように口をパクつかせ、よだれを垂らしたまま恍惚の喘ぎを漏らす。 へなへなと倒れそうになるなるを抱きとめ、ち○こが抜けない体勢を維持する。 「もしかして入れられただけで、イっちゃった?」 「ぅ、ぅん……軽く……」 小さく頷く姿が可愛くて、俺の我慢もできなくなる。 「時間を掛けるとひまわりちゃんにバレちゃうから、もう動くよ」 「ンッ、くひゅっ、待っ、イっらばかりでぇ、んふっ、ンッ、あぁっ、あっ、あっ! ふわぁあんっ!」 ずぷっ……ずぷずぷ、ぱちゅぱちゅぱちゅんっ……! 「ひぁああんっ! あっ、あっ、あぁ~~んっ、おち○ちん、出し入れっ、すごいよぉっ、あっ、あっ、ああぁんっ!」 「これぇっ、好きぃ、んぅ~~っ、奥にっ、どすんどすんっ、響くのっ、気持ちいいよぅっ」 「あーっ……ヤバイ……なるちゃん、気持ちいぃ……なるちゃん、最高……っ」 「ほんとぉ? おま○こ、気持ちいい? もっと気持ちよくなっていいよ。優真くんが気持ちいいと、私にも伝わるの」 なるは騎乗位で自分から腰を振るのが好きだけど、今日は後ろから。 こうやってガツガツ腰を使うと、あまりの気持ちよさにコントロールが利かなくなる。 「なるちゃん……もう無理……激しくしていい?」 「いいよぉっ、私のおま○こで、気持ちよくなって。私のおま○こは、優真くんのものなんだからぁ」 「そっか。なら俺のち○こは、なるちゃんのものでいいよ」 「うんっ、ンッ、はぁ……んっ……おま○こと一緒に、頭もとろけちゃうぅっ、奥っ、コンコン、ノックされるの、とってもイイよぉ……!」 ち○こを奥まで突き入れると、下腹部が桃尻を打ち付ける音が響く。 まるでお尻を叩いているような音が気になったのか、ひまわりちゃんが立ち上がった。 「むむー? シャチョーさんなにしてるのー!? 奥さんを叩いちゃだめなんだよー!」 「いいのっ、愛の躾だからっ、お尻叩かれて、感じちゃうのっ、これも優真くんの、優しさなのぉっ」 「ひまわり知ってる。やさしさにもいろんな形があるって、あかしくんも言ってた!」 納得して座り直すひまわりちゃん。 「んっ! んふっ、あぅっ、んっふっ、んきゅぅっ、あっ、ヤバイよぉ、このまま、されたら、おかしくなっちゃうっ」 「ひゃぃっ、いっ、あっ、あ~~~っ、強すぎりゅぅっ、そんなにしゃれたらっ、私っ、全身がおま○こになっちゃうぅっ」 「やっぱり、なるちゃんのおま○こは最高だよ……数えきれないくらいしたけど、毎回が初めてみたいに気持ちいい……」 視界がブレるくらいの激しい抽送に、なるの髪が揺れる。 「もっとっ、もっとおま○こシて、優真くんの好きなように、突き動かしてっ、気持ちよくなってぇ」 「すごっ、すごいよぉっ、もっとっ、あぁぁっ、突いてっ、もっと激しくっても、壊れないからっ、優しく抱いてっ、激しく愛してぇっ」 「あっ、あっ、あぁっ、か、感じすぎちゃうぅっ、幸せぇ、優真くんに、愛されてるの、わかるよぉっ」 「なるちゃん……俺、もう、出ちゃいそう……」 「お互いご無沙汰だったからかしら、気持ちいいの、すぐ来ちゃうっ、私も、スゴイの来ちゃうよぉっ」 「中に出していいの……?」 「はぁっ、あぁっ、精液、なかで、ぴゅっぴゅされるのぉ、うれしいよぉ、優真くんの精液、おま○こに泳がせてぇ」 「だ、だって、エプロン汚れちゃうよぉ。抜かないで、そのまま注ぎ込んで? そのまま出し入れして、優真くんだけのおま○こに、全部、吐き出してぇ」 「わかった……じゃあ、一緒にイこうね……」 「うん、一緒。一緒がいいのっ、大好きな優真くんに、後ろからずぽずぽされて、幸せなままイっちゃいたいのっ」 「おりょうり出すのー? もう腹ペコだよー!」 「ごめんね、ひまわりちゃん……優真くんが出すのは、私なの……ひまわりちゃんは、もう少し待ってて」 「もう待てないよー! もう限界だよーっ!」 「私も、もうっ、待てないっ、ちょうだい……っ! 優真くん、優真くん、好きぃっ、出してっ、精液出してっ、私のお腹のなか、優真くんので満たしてっ」 なるとセックスできる悦びだけを噛み締めて、絡み合う結合部に愛を集めていく。 「あっ、あっあっあっ、んはぁっ、いっ、んにゅっ、んぅぅっ、はっ、はっ、はっ、はあぁああんっ」 「い、イク……出るよ、なるちゃん……っ!」 もうどんなことがあっても離さない。 腰を掴み、大量の子種をぶち撒けるべく、犬のように腰を前後させる。 「ふぁああんっ! あぁんっ! あっあっあっ、んっんっ、んふうううっ! イ、くっ、おま○こ、イク、おま○こ、イかされりゅうぅっ!!」 「イ、くっ、イッちゃっ、あっ、あ~~~っ、おち○ちんで、おま○こイっちゃうぅぅうぅぅぅぅうぅぅぅ!!」 どぴゅぅ~~~~っ!! びゅるびゅびゅううぅ~~~っ、どぴゅどぴゅぅぅ~~~~っ!! 「んぅうぅぅうぅ~~~~~~~~~ッ! んきゅ、ンッ、んっふぅ~~~~~~~ッ!!」 リビングに響く嬌声にひまわりちゃんが立ち上がるが、なるの絶頂は止まらない。 「あ……ぁ゛…………あ゛~~~~っ……ふあ゛ぁ~~~~~~~~~ッ……」 「はぁ~~……おま○こ……イっちゃった……おま○こイクの……すっごく気持ちいいよぉ……」 ぴったりと子宮口にち○こ押し付けたまま、どぴゅ、どぴゅ~と、なるの膣内を満たしていく。 「あぁぁ…………はぁぁ……~~~~っ……~~~っ……で、出てるぅ……おち○ちんから、ドクドク……注がれちゃってるぅ……」 「すごいよぉ……せーえき……熱くって……こんなにたくさん……貯めてた分、全部……おま○こ……あふ、こぼれちゃうよぉ……」 ごぽぽと泡だった白濁が結合部から吹き零れ、太腿に滴っていく。 なるの顔は恍惚そのもので、俺とのえっちに満足してくれたのがよくわかった。 「はぁ……はぁ……すごく……よかったよ……」 「私も……♪ 優真くん……私で射精してくれて、ありがとぉ……」 「俺も……気持ちよくさせてくれてありがとうね……」 「優真くんの精液……入れたままで学園行っちゃおうかしら」 「だ、ダメでしょ。異臭騒ぎになっちゃう」 「大丈夫。私が、こんなにえっちになるのは優真くんだけだから……そこだけは安心してね」 「わかってるって」 「もぉお~~~っ、お腹と背中がくっついたらセキニン取れるの~~~っ!!?」 「ひまわりちゃんが待ってる。一緒に朝食をつくろう」 「うん……でも、もう少しだけ抱きしめててくれる……?」 「言われなくても、俺もまだなるちゃんの体温を味わってたいから」 「うん……あったかぁい……」 しばらくの間、なると過ごした余韻を味わっていた。 「入りたまえ」 「失礼します」 「これはこれは水瀬社長。遠方からご足労頂きまして、ありがとうございます」 「とんでもありません。久遠さんに御融資いただけなければ、弊社に未来はありませんでした」 事務所の建て直しや、従業員への未払い、生活費――――目を剥くような額を“ぽん”と出してくれた久遠さんには頭が上がらない。 この人は、本物の大人だ。 「……ふ。ビジネスライクな挨拶はこのくらいでいいかね? 私はもう疼いて疼いて仕方がない」 「……いいですけど、接待将棋はしないっすよ? 学園長」 「何を馬鹿な。会社一つ建てたくらいでいい気になっているのかね? 潰さずに社員の面倒を見ることができて、初めて一人前の社長と言えるのだよ」 取り出した将棋盤に駒を並べていく。 「今の調子で月々の返済をしていけば、20年くらいで返せそうですね」 「もっと上を見なさい。完全に軌道に乗れば、1年と掛からないだろう。少なくとも、初代の社長の手腕ならば、そんな発言はしていない」 「あの人を超えられるはずがないですよ」 「……彼女の“魂”は、一体どこへ消えてしまったのだろうな」 「キミはゼロと融合した際に彼女も取り込んでいたはずだ。 “魂”を解き放った今、“魂”は“《ステュクス》〈重層空間〉”に保管されているか “《ディストピア》〈真世界〉”にいるはずの彼女の元にあるはずだ」 「学園長」 「将棋を指しましょう」 「…………すまない。失言だった」 言われなくたって、俺は“《カロン》〈魂の管理人〉”の力を使って“《ステュクス》〈重層空間”を探し尽くした。 そこにあの人の“魂”はなかった。 あの人は生きていて――――でも俺の前に姿を現さない。 「まぁあれですよ。俺がもっとちゃんとすれば――――もっともっと会社を大きくして、もっともっともっとポジティブに生きてれば」 「いつかひょっこり、顔を出しますよ」 「……キミにも貫禄が出てきたな。どうかな? 夜にでも一杯」 「まだ飲める歳じゃないですよ。それに、夜は家族で食事をするって決めてるんです」 「そうか……では、始めるとしようか」 「お手柔らかにお願いします」 学生の皆さんが下校して閑散とした廊下を歩く。 少しまえまではあたりまえだった学舎も、中退した俺にとってはどこか懐かしい。 「(あ、嫁いた)」 万年筆を片手に気持ちよさそうに寝てる姿は間違いなくなるだ。 でもここの教室は、なるの教室ではなかった。 「ゆーまくん……んみゅ……みてぇ……原稿書けたー……」 自分の教室だと集中できないから、空き教室を使っているのかも。 「大丈夫、見てるよ。毎日毎日、頑張ってるキミをね」 なるの厨ニ作品はネットで評判になり、小さな出版社からだが正式に書籍化された。 «グラドルの頂点“Re:non”がバイブルと絶賛!»と銘打たれた 腰帯の後押しもあるけど、評価は高い。 作中に登場したアイテムも“蜂蜜揚げパン(暗黒風味)”としてコラボ商品化され、余計に火がついた。 まぁなにより人気なのは、 あーーんな話を書いてるのが、 こーーんな美少女作家ってことなんだろう。 「いい子いい子」 「えへへ……♪ むにゅむにゅ……」 「なるちゃんは可愛いなぁ……」 「――――じゃあ、もっと撫でて」 ああ……起きてたんだ。 「寝たふりしなくたっていいのに」 「“音”で優真くんが来たってわかったから……クッフッフ~……♪ 優真くんの手、好きぃ……♪」 「そっかそっか」 「こうやって撫で撫でされると……甘えたい気分になるの……♪」 「そっか……」 俺も――――あの人に。 偉い偉いって、ご褒美みたいに。 俺を救ってくれた掌で頭をくしゃくしゃって、子供のように……。 「…………ああ、ここって……」 あの人と一緒に、のえるんを覗いた空き教室だったっけ……。 「優真くん……?」 「あ――――」 「ああ、ごめんごめんっ。なるちゃんが可愛すぎて、ほぼイキかけてました」 「優真くん、また私といるときに別のこと考えてたでしょ?」 なるには敵わない。俺の考えなんて、お見通しだ。 「いいんだよ、優真くん。今度は私に甘えて」 「……ありがと」 「私がいるから、優真くんは平気。大丈夫」 なるの匂いは、ホッとする。 頑張ろうって気持ちになる。 あと――――ちょっとイケナイ気持ちにも、なる。 机に腰掛けたなるは、机に食い込むお尻の肉がはっきりわかるくらい膝を抱えた。 健康的な肉付きの太ももと、恥部を隠す可愛らしい下着を俺に見せつける。 「最近の学園生は大胆だなぁ。誰か来たらどうする気なのやら」 「じゃあどういうふうに誘惑されたいのかしら?」 「放課後の告白的なシチュとかいいよねぇ」 「優真くんいつまで学園生気取りなの? でも、放課後の告白ならもう10回は経験したかしら」 「え?」 初耳だった。 「放課後の空き教室で告白するの、流行ってるの。何でも成功率が高いとかで、よく呼び出されるのよ?」 「街を歩いてても、目を離すとナンパの標的にされちゃうからね。なるちゃんは男泣かせだよ」 遅れて帰ってくる日があった時『ちょっとね』と言っていたのは、告白の返事をしていたからだろう。 「むっ……嫁が取られる心配は? カッコイイ子だって、いっぱいいるのよ?」 「律儀に返事するなんて偉いなぁ、くらいにしか思わないけど……?」 「なにそれっ! ちょっとは浮気の心配とかしないの!?」 「他の男に取られちゃったら、それはそれでいいよ」 「だってそれは、悪い話じゃないから」 「え……?」 「俺が悲しむのをわかってて、それでも俺を捨てるくらい素敵な人が現れたんなら、その人は――――俺よりなるちゃんを幸せにできるってことだろ?」 「いないわよ、そんな人……命懸けで私に大切なことを教えてくれた優真くんに敵う人なんて、絶対いない」 「私が幸せになれるなら、自ら手を引けるような優しい人、見たことないもん。優真くんは、いつだって私の幸せを第一に考えてくれる」 「旦那だからね。それくらいできなきゃ逃げられちゃうよ」 夕日と美少女は似合う。シチュエーションとしては最高だ。 なるにぶつかって散っていった男子たちも、別の恋を探して頑張っているだろう。 たまたま俺に相応しい女の子がなるで、なるにとってもそうだったってだけ。特別なことなんて、何もない。 「そうだ。私がどうやって断ってるのか実践してあげるわ。試しに告白してみて」 「こほん……ずっと好きでしたっ、将来有望な社長様の嫁になってくださいっ!」 「はい、喜んでっ♪」 「あれあれ? 話が違う。成功しちゃったぞ」 「クッフッフ♪ 告白された時ね『私には心に決めた人がいるから』って断り文句があるの」 きらきらした瞳が俺への想いを訴えかけている。 「でも、優真くんなら、喜んでだよ……この世でたった一人、私の全部を捧げられる、心に決めた旦那様だもん……」 「(幸せだな……こんないい子に、良く想われて……)」 「あっ……」 抱きしめて頭に手をやり、そのまま柔らかな髪を撫でる。 こうするとなるは、おしゃぶりを咥えた赤ん坊のようにおとなしくなり、俺の背中に手を回して幸せそうに息をつく。 「だーい好き」 「俺も好きだよ。家族として。女の子として」 「シたいよ……優真くぅん。私のこと、ハグハグして……今朝の1回じゃ、全然足りないわ……」 「出たっ、淫乱サキュバスの罠?」 「馬鹿ぁ! アルラウネだもん!」 「せっかく教室で二人きりなんだもん。久々の制服えっち……したいだけなのに」 はしたない、というお綺麗な感情は二人きりの場においては不必要だった。 俺はえっちななるが好きだし、なるは俺を悦ばせたくて誘ってくれる。 全部が全部、お互いの為――――だから俺はなるを選んだし、なるも俺を選んだ。 他人の入り込む余地はない。 もし、なるが靡くような最高にイイヤツが現れるとするなら(トリトナくらい?)、きっと俺も、そいつとは親友になれると思う。 「現役学園生美少女作家が奥さんなんて鼻が高いよ……」 「ねぇ優真くん……えっちなことしてよ……どこに何をされるのか考えるだけで、胸がドキドキしっぱなしだわ……」 「全身から色気ムンムンで、どこから手をつけていいのか迷ってただけ」 「そっか。優真くんの好きなところを、好きなだけ触ったり、揉んだりしていいんだよ? ショートケーキは苺から食べるんだったっけ?」 「ケーキは端っこから食べてるでしょ。いつ“いちご欲しい”って言われてもいいようにね」 そんな性格だからか、囁く愛を受け止めてくれる小耳に軽く口付けをする。 「ンッ……」 「驚いたなるちゃんも、かわいいよ……ぺろっ……」 「ひゃんっ! ほ、ほっぺた舐めちゃっ、はぅ、ん~~っ、首筋っ、弱いのぉ」 可愛く震えたなるは、俺に身体をゆだねてしまう。 俺のする事すべてを受け入れ、どんなに酷いことをしても絶対に嫌がらないという表情。 だからこそ俺は――――めいいっぱい優しくしようって思ってしまう。 「ああっ……優真くん……優真くぅん……」 俺無しじゃ生きていけないとすがるように名前を呼ぶ。 でもそれは、俺だって同じこと。 毎日そばにいてくれるだけで幸せになれる愛しい人と、言葉だけじゃ足りない愛を伝えていく。 「あっ……おっぱい……うん……いいよぉ……その、欲張ってない、優しい手つき……目をつぶってても優真くんだってわかる……」 「このサイズ、ちょうどいいよね……いろいろ挟めるし、揉みごたえもあって……ぷにぷにで可愛いなるちゃんのおっぱい最高」 「んっ、ぁ、ふぁっ、んふっ……」 制服を押し出す発育の良いおっぱいは、贅肉の無い引き締まったウエストによって一層、引き立てられる。 なるを連れて歩けば、誰もが振り返り、悔しそうに俺を見るのも頷ける。 「おっぱい……おっきくってよかったぁ……優真くんに、揉んでもらえるの、嬉しいもん……もっと揉んでぇ」 「んふっ……ふっ、ん~っ、きもちぃ……大好きな人におっぱい触ってもらえるの、幸せだよぉ」 乳房をこねていると、いつもこのくらいのタイミングでなるに限界が来る。 経験上、魔法に掛かったように吐息が熱っぽくなったら、なるの発情はピーク。 耳まで真っ赤にしたなるの頭の中は、俺とどんなえっちな事をするかで埋まってしまう。 「んっ……ふぁ……あぁ……ねぇ……優真くん……触って……尖ってるとこ、おっぱいで、一番気持ちいいとこ、指でつまんでよぉ」 「ここ?」 「ふゃぁぁっ、あっ、あ~~~っ、そう、そこぉっ、ずっとジンジンしてたから、あふんっ、か、感じすぎちゃうよぉっ」 「優真くん……はぁ……はぁっ……おっぱいも好きだけど……キスしてよぉ……」 「キスね……了解……」 要望に応えてむしゃぶりつく。ただし、唇じゃないけれど。 「んぁあんっ! はぁんっ、しゃぶられちゃったぁ、おっぱい、ちゅぱちゅぱしてるぅ、んぅぅっ」 硬く尖った乳頭を舌で転がす。 なるはコレに結構弱い。 「あっ、あ~~~っ、そんなに吸ったら、おっぱい取れちゃうっ、んうぅぅっ、やぁぁぁっ、きもちいいよぉぅっ」 「(ああ、やっぱりかわいいな……なるの感じてる顔は、エロかわいい……)」 「だめぇ……おかしくなっちゃうぅっ、おっぱいのキスじゃなくって、唇キスがしたいよぉ、優真くんとラブラブなキスしないと胸が痛くてたまらないよぅ」 「なるちゃんは何かに付けてキスをねだるよね」 「そうかしら? 義務付けているのは、いってらっしゃいのキスと、おやすみなさいのキス。目があった時のキスくらいじゃない……」 「《・・・》〈くらい〉じゃないと思うけどね……」 もちろん俺だって求められる分には嬉しいから、ついつい応えてしまう。 「ちゅっ……んっ……ちゅっ、ちゅ~~っ……ちゅぱっ、ちゅぱ……♪」 「ん~……優真くん……好きぃ~……ちゅっ、ちゅっ、愛してりゅぅっ、ちゅ~ぱ、れちゅれちゅ……」 「んっちゅ、ちゅっ――――んんっ!? ンッ……優真くぅん、キスしながら、どこ触ってるのぉ……」 「どこって……俺を一番気持ちよくしてくれるトコ」 下着に浮き出た縦筋に沿って指を動かす。 「一番……? 私のおま○こに入ってる時が、優真くんが一番気持ちいい時なの……?」 「口やおっぱいでしてもらうのも嬉しいけど……セックスの方が、なるちゃんが悦んでくれるから。その分だけ興奮するんだ」 「私も、優真くんが気持ちいいと嬉しいけど……私のなかで気持ちよくなってくれるのが、一番好き……」 「俺たち変態だね」 「普通じゃないかしら? 誰だって、好きな人とえっちなことしたいもん……一番気持ちいいこと、しようよぉ」 「いっぱい、生でハメてあげる。けど、そのまえに……」 ぷにぷにの恥丘を撫でながら、ゆるやかな刺激を与えていく。 「すごい……ぐっしょぐしょ……こ、これが放課後の教室効果か……」 「や、やだよぉ……もう、いつでも優真くんとハメハメできるって、バレちゃった……」 愛撫が挿入の為の準備であるならば、まったく必要ないくらい湿っている。 「あっ、あっ、だめぇ……感じすぎちゃって、えっちなおつゆが出てきちゃうの、止められなくって……」 もどかしそうに腰をくねらせるなるは、感じすぎて涙目になっている。 もう俺とセックスすること以外の興味はこれっぽっちもないというような、我慢の限界を超えた蕩け顔だった。 「もう、いじるのはいいよぉ。大丈夫だからぁっ、そんなに念入りに、ほぐさなくってもっ、おま○こっ、いつでも優真くんを受け入れられるからぁっ」 「このまましたらイっちゃいそうだしね」 「うん、イクなら、優真くんのおち○ちんがいいから、ハメてぇ。おち○ちん、入れてぇ。早く、早くぅ」 「ホントにえっちなんだから、この子は……」 こてん、と仰向けになったなるにしなだれ掛かる。 これ以上、待たせるのはかわいそうでできなかった。 「あはぁ……♪ 私のおま○こも、ひくひくしてるけど……優真くんのおち○ちんも、ぴくぴくしてる」 入れただけで爆発しそうなくらいに勃起しているち○こを秘所に擦りつける。 「ンッ……あふっ、やだやだぁ……いりぐち、くちゅくちゅしてないで、入れてよぉ。おち○ちんして欲しくって、切ないよぉ」 秘裂からだらしなく愛液を零しながら、くぱくぱと開閉して俺を“おいでおいで”と誘う。 「力抜いてて。何も心配しなくていいよ、俺が気持ちよくしてあげるから」 「うん……優真くんは嘘つかないから、信じるわ。いっぱい気持ちよくしてね……」 ずぷっ――――ぬる、じゅぬぬぬぬっ!! 「あっ、あっ、来る、んっ、あぁあんっ! おち○ぽ、入って――――あぁんっ!」 机と腰の高さは調度良く、挿入は容易だった。 「一回……奥まで……」 入れるまでは狭かった膣内は、すぐに侵入者が俺だと判断したらしく、優しく包み込むような感触に変わった。 角度をつけ、深く、深く……俺のち○こだけに許された、なるの最深部へ。 「ふぁあぁっ、んふっ、んぁっ、ひぅぅうううぅぅんっ!!」 終点。なるのおま○この壁まで入ると、ちょうどなるの秘穴に玉袋がぺちっとぶつかる。 「お、奥ぅ、ぶつかったぁ……おち○ちん、根本までしっかり入ったよぉ……」 「っ……あ、あー……ヤバイ……なるちゃんのなか、今朝より熱くて、ぬるぬる……入れてるだけで、うねって、揉み込んでくる……」 あまりの快感に打ち震え、落ち着くまで挿入した状態のまま呼吸をする。 「んふ……ふぅ……私も……入ってるだけで、とっても気持ちいいわ……んっ、ふぅぅ……優真くんの、欲しかったの……」 念願叶ったように瞳を潤ませるものだから、胸が高鳴ってくる。 あんまり口にはしないけど、恋仲になってずいぶん経つ今でも、俺はちゃんとなるに恋をしている。 えっちの時じゃなくっても、ほんの少しの仕草でドキドキする――――俺の精神年齢なんて、まだまだそんなもの。 「なるちゃんってすごい敏感だから、あんまりやりすぎると壊れちゃうんじゃないかって、怖くなるよ」 「どうしよう……これ以上、優真くんの事を好きになっちゃったら大変だわ。もう寂しくって、学園に通えなくなっちゃう」 「卒業しなきゃダメだよ。最終的には作家さんになるとしても、やっぱり学園で学ぶことってあると思うんだ」 「じゃあ、おうちではいっぱい可愛がってくれなきゃダメなんだからね? わかった?」 「今だってしてるじゃん。ね、どんなふうにしてほしい?」 「今朝はちょっと激しかったから……もっと甘えたい……でも、優真くんにしてもらえるなら、なんでも悦べるようになってるから……」 「じゃあ、ゆっくりゆっくり……」 がっつかず、隘路を正確に奥まで突き進み……。 「んぅぅぅぅううぅぅっ!」 絡みついて離そうとしない膣ひだのざわめきを楽しみながら、ぬぷぷぷぷっ、と亀頭が見えるギリギリまで引きぬく。 「んっ……ふゎぁ~~~~っ……あっ、あっ、あ~~~っ」 「おち○ぽのね……傘のとこがっ……中をぞりぞりって削るようにするの……んふぁ、そ、それが……とってもイイのぉ……」 「じゃあもう一回、するね」 「う、うん……おま○こ出し入れして……」 1ミリの隙間もない俺のち○こ形に広がった膣内は、濡れているからいいものの、乾いていれば動くことすらままならなかっただろう。 もちろん乾く暇なんてなく、奥からとめどなく溢れる愛液のおかげでスムーズに出し入れができる。 「あぁぁ……んぅぅっ……あぁぁ……んっ……んふぁ……あっ……あぁんっ……」 「あふっ……んっ、んく……優真くんっ……おち○ちん、イイ? 今のままで、ちゃんと射精できる?」 「……うん?」 「ううん……長く楽しめそうで、こういうのもイイなぁって……」 「(なるちゃん甘えたいとか言っておいて、やっぱりもっと強くして欲しいんだな……)」 経験上、なるは物足りなくなってくると、無意識に自らの腰をもどかしげにうねらす。 頭では甘々なラブラブえっちを想像していても、なるのえっちな身体は性急な腰つきを求めてしまうようだ。 俺はこのままでも射精できるけど、なるを快楽に溺れさせるのも旦那の役目だ。 「あっ……んっ、んっ……? ンッ、んふぅんっ、あぁぁっ、優真くんっ」 ずぷっ、ずっ――――ぱちゅんっ、ぱちゅっぱちゅっぱちゅっぱちゅんっ!! 「きゅんっ!? んっ、んっ、んー!?」 「ひゃあぅっ、はぁあんっ、んっ、んっ、ンぁあんっ! だ、だんだん、早くなってっ、きてるよっ、おち○ちん、イキたいのっ!?」 「ごめんっ……なるちゃんのおま○こが良すぎて……ペースが上がっちゃう」 「あっ、あっ、ひゃっ! んっ、ンンッ! ううんっ、謝らないでぇっ、いいのっ、激しいのもっ、大好きだからっ」 小刻みに、なるの感じるところを掻き乱し、自らも高めていく。 「おち○ちんは、そのままで、キスしようよっ、ちゅーしたいっ、ちゅーもしてぇ。おま○こしながらのちゅー」 「なるちゃん……エロい……んっぷ……」 「んっ、ちゅっ、ちゅううぅ……もっと……ちゅっ……ちゅぱ……ちゅぷぷ……」 甘ったるいおねだりに答えると、これまた甘ったるい濃厚な時間が待っていた。 お菓子の国に迷い込んだような脳髄まで痺れる甘い唇が、俺を虜にする。 「ん~んっ、ちゅっ、ちゅっ、ちゅうぅんっ……んーっ、ちゅ~~ぱ、ちゅ~~ぱっ、れ~~ろ、れ~~ろっ」 「好きぃ、好きぃ……ちゅっ、ちゅ~ぱっ、れろちゅっ、ちゅっちゅっ……愛のこもったキス、好きぃ……」 「なるちゃんとのキスに夢中で、こっちが、お留守になっちゃってた……」 腰の入った抽送を始めると、おま○こから愛液が飛び散った。 「んっ、ひゃうんっ! んっ、んっ、んふっ、どこか、飛んじゃうっ、ふぁっ、激しすぎてっ、机から、落ちちゃうわぁっ」 「大丈夫、俺が支えてるから。なるちゃんは気持ちよくなることを考えてていいんだよ」 「んにゃぁんっ! おっ、おっぱいも吸ってくれるなんてっ、嬉しいっ、おま○こと、一緒に、おっぱい、んっ、わけ、わからなくなっちゃうぅっ」 「あっ、あっ、あぁんっ! あっ、あっ、あーーっ、んっ、んっ、んっ、ん~~っ!」 なるの喘ぎ声の本気度があがる。 切羽詰まってるというか、耐えている感じが強い。 「なるちゃん……ずっと、俺と一緒にいてね……なるちゃんのしてほしいこと、なんでもするから……」 「うん……うん……ずっと一緒っ、ずっと一緒よっ」 手を握って、お互いの気持ちを繋ぎ合わせる。 「あふっ……私に、こどもを生む機能は備わってないけどっ、いつか、優真くんのこども欲しいよぉ」 「“いつか”なんて思うだけじゃ、ダメなのは、俺達が経験してきたことだよ。俺たちは神じゃないんだから、目標に歩き続けることでしか勝ち取れないんだよ」 「じゃあっ……毎日っ、思いっきり中で精液だしてぇ……っ! 溜まった精液は、全部、私のおま○こにしか出しちゃだめぇっ」 「それもひとつの行動だよね……祈るだけじゃ、絶対にめぐってこないんだから」 肉先に集う昂ぶりと灼熱感。甘露な痺れに包まれ、一気にその時へ駆け抜ける。 「なるちゃん……早速、俺の精液、受け止めてくれる?」 「うんっ、イってっ、私もイくから、おま○こに出してっ、熱いの、いっぱいいっぱい奥にかけてぇっ!」 「私もっ、イっちゃうから、おま○こイク、おち○ちんで、えぐられてっ、気持ちいいのきちゃうっ、んっ、んぅっ!」 「あっ、あっ、ンッンッンぅぅうぅぅ~~ッ!! 優真くんっ、一緒に、一緒にっ、イクからっ、ンッ、ンッ、ン゛ぅうぅぅうぅ~~~~~~~っっっ!!!」 どびゅぴゅううぅぅぅ~~~~~っ、びゅるるぅぅうぅぅ~~~~っ、どぴゅどぴゅどぴゅうぅぅうぅぅ~~~~っ!! 「あ゛ぁぁ~~~~~っ、あ゛ぁ、~~~~っ、~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!!」 「ふぁぁっ、あっ、あっ、あ゛ぁ~~~っ、んうぅぅぅっ! んうぅぅうぅぅうぅぅぅっ!!」 昇り詰めたなるが甲高い絶叫とともに痙攣する。 「まだ、出る……うっ、くぅーーー……きもちぃぃ……」 「はぐっ、んっ、ふぅーふぅー……なかでドクドク、出て……熱い……優真くんのあかちゃんの素が……」 呂律の怪しいなるが、熱に浮かされるようにうめく。 しっかりと抱きしめたまま、約束通りにおま○こを真っ白に満たしていく。 なるのおま○こに直接精液を吐き出すこと――――これ以上の快感を、俺は知らない。 「はぁっ、はぁっ……妊娠しちゃうくらい……たくさん……優真くんの、おま○このなか、泳いでる……」 「んっ……くっ……あー…………あーー…………」 一滴残らず吐き出して、ようやく射精が終わる。 絶頂で痙攣していた膣内がゆるみ、白濁が逆流してあふれでていく。 「あぁん……もったいないよぉ……ふぁ……せっかく、優真くんがしてくれたのに……精液でてっちゃう……」 なるとともに、桃源郷の心地で、ぼうっと結合部をのぞく。 目が合うと、すっかり悦に乱れただらしない顔によだれが垂れていて、なんとなく笑ってしまう。 「優真くん、馬鹿みたいな顔」 「いやいや、なるちゃんだって、似たようなもんだったよ」 「優真くんだけが知ってる分には、いいの。私のだらしなくてえっちな顔は、優真くんだけのものなの」 「うん……なるちゃんが良ければ、何度だってしてあげるよ……」 「優真くん……とっても良かったよ。ありがと。今日は私も疲れちゃった……また、明日、えっちしようね」 「明日にはなんとか溜まってるかな……ははっ」 「大丈夫。優真くんがその気になるように、私頑張っちゃうから♪」 「はいはい……じゃあ、学園をホテル代わりにするのは悪い気がするけど、もうちょっとだけね……」 もうしばらくの間、なるとのひとときを過ごしてから帰ろう。 再び甘く濃厚なキスが始まり、貸切の空き教室は愛の巣になった。 「何だか……昨日のことみたいよね」 帰り道、とうとつになるは言った。 主語が欠けた内容を俺は把握できなくて、“わかんない”って顔で曖昧に笑い返す。 「いいわ。思い出させてあげる。そっちから歩いてきて」 「ん、わかった」 過去をなぞっているような感覚。 「(何を思い出させたいか、気づいちゃったよ)」 蜂蜜揚げパンを咥えてぶつかった、曲がり角。 あの時間、俺たちが逢わなければ――――《いま》〈現在〉はなかった。 「――――きゃぅーるッ!!」 ――――ごっちんっ!! ってな感じに。 期待通り、ものの見事に運命の出会いをゲット! なーんて。 「うおごごごごご」 「ふぐぐぐぐぐぐ」 「そ、速度と……あ、当たりどころが……あの時よりヤバいよ……」 「で、でも、この広い世界で私と会った奇跡を思い出したでしょ?」 「奇跡かぁ……」 「あの頃は、特に行動を心がけてたんだ」 「仕事も、勉強も、遊びも、真剣だった。睡眠なんかに4、5時間も使ってちゃ、短かった人生の結衣に殴られる気がして」 「俺なりに夢中で駆け抜けてた」 「その、ひたむきさがさ――――自分で言うのは酷くアレな気がするけど、引き寄せたんじゃないですかね」 「なるちゃんっていうキッカケを、さ」 「優真くんは、どんなに馬鹿なことでも、一生懸命だもんね」 「なるちゃんもね。そのポジティブさに、俺は惹かれたんだよ」 はにかんで、五指をぎゅっと絡ませてくる。 あたりまえに手と手を握って、繋いで、隣に寄り添って――――。 そこに恥ずかしさや驚きが生まれないくらい、俺となるは深い関係にあった。 「次回作の構想はもう決めてあるんだ」 「うん?」 「血の繋がった家族よりも、深い絆を持った“家族”の話」 「……いいね」 「私の創作したキャラが“《ユートピア》〈幻創界〉”に生まれた時、あの人みたいだったら素敵だなぁって、思うから……」 「ありがとう。嬉しい」 「だったら次の作品の最後はさ――――《ハッピーエンド》〈一家団欒〉で頼むよ」 「まさか『物語の中でくらい』なんてネガティブな発言は、しない、わ・よ・ね?」 「まさか。俺は、何一つ諦めちゃいないよ。物語の中でも笑って終わりたいなって思うだけ」 「うん。考えといてあげる」 「よいしょっと……はぁ、重い」 なみなみと水を注いだアルミバケツを食卓の中央に置く。 「食器もきっちり三人分。オッケーオッケー」 「優真くーん、おかずもうすぐできるからー、ご飯よそってよー」 「はいはーい」 さささっと、三人分のご飯をよそう。 一つは大盛りも大盛り、超特盛りで。 これで、いつもの食卓だ――――ん? 「ごめーん、優真くん出てーーッ!! 今ちょっと手が離せなーーいッ!!」 「はいはーい。おっまかせー」 “《クリアランサー》〈片付け屋〉”に営業時間なんてものはない。 一刻を争う職種だ。 仮にお客さんであれば食事を切り上げる必要がある。 「はい」 「あ、どうもどうも。夜分遅くに悪いなー。働き口が欲しいので、雇ってもらえないだろうかー?」 「――――――――――――」 全てが、どうでもよくなるくらいの衝撃だった。 「? もしもーし。聞こえてるかー? 雇って欲しいのだがー?」 懐かしい声だった。 俺の求めていた瞬間だった。 ――――だけど。 目の前にいる人は、あくまで被雇用者として俺に接している。 だとするならば、“ゆりかもめ”の二代目社長として別け隔てのない対応を取らなければならない。 「あ、アポも無しに、失礼なヤツだなぁ。“《クリアランサー》〈片付け屋〉”の経験はあるの?」 「んー、7年くらいかー。キミよりは、腕が立つんじゃないかー?」 「おいおい、俺は仮にもココの社長だよ? 物凄く腕の立つ世界一の“《クリアランサー》〈片付け屋〉”の元で教わったんだ」 「ほー?」 「だいたい雇ってもらう側が、その態度はないだろ。敬語のひとつも使えないのか?」 「そうなのだよー。どこに行っても、言葉遣いがなってないだの、門前払いをくらうのだー」 「明らかにふざけてるように思われるだろうな。履歴書は?」 「そんなものはない。一文無しなのだよ? 盗みを働けというのかー?」 「まず、その舐めきった言葉遣いをさぁ……」 「あいにく、私は敬語が苦手なのだよ。誰かの下についたことがないのでなー」 「うちも“他”と一緒だよ。採用するかしないかは、社長である俺にかかってるんだから」 「だったら社長の座を賭けて勝負でもしないかー?」 「おもしろい、いいよ。やってやる」 「けど――――もう夕飯の時間だから、明日にしてくれないか?」 「せっかくの温かい飯が冷めたらもったいない。幸い、腹が減ってるなら、うちは必ず一食分多くつくってるから」 「お?」 「いつ帰ってきてもいいように、毎日、必ず、欠かさず、一食分多く……つくってたから……」 ああ……ちくしょう。 やっぱり、ダメだ……もう、これ以上、社長として対応なんか、できっこない。 「ずっと、ずっと、作り続けていたんだ……帰ってこない誰かさんのご飯を……大好きなメロンと……バケツいっぱいの水も用意して……」 「おいおい社長さん、どうして泣いているのだー?」 「……そんな日々も、今日までだから……今日で、終わりだから……」 全然、この人の前では、俺なんかガキだから……。 ガキはすぐに泣いてしまう、弱くて甘えん坊なイキモノだから……。 「づッッ!!」 いきなり後ろからぶん殴られ、反射的に振り向く。 「わっはっはーーっ!!」 「なるちゃ……いきなり、何をっ」 「わーーーっはっはっはっ!!」 「………………なる、ちゃん……」 気づいた。 気づかせて、くれた。 なるは言葉じゃなくて、態度で示してくれた。 なるの会心の笑みは、ぶっ飛ぶくらい快晴の笑みは、歓迎の証。 『しんみりするな』 『再会は笑ってするものだ』 『喜びを、涙で表現するな』 ――――らしくないぞ、と。語る顔。 「やはり、《キミ》〈なる〉を家族に招いたのは大正解だったようだー」 「おかえりなさい今日子さん。また優真くんに指示を与えてやってくださいね」 「本当に、いい子だ。ゆーまにはもったいない」 「この馬鹿を支え続けてくれて、《・・・・・・・・・・》〈ありがとうございます〉」 なるに――俺を支え続けてくれた女性に、尊敬と感謝を込めて。 誰の下にもつかない今日子さんが、深く、深く、頭を下げた。 「そんなのいいからさ、ご飯食べましょう? もうお腹ぺっこぺこ!」 「オッケー! でもなるちゃん、明らかにつまみ食いしたよね?」 「あれ? なんでバレたの、か・し・ら♪」 ああ――――。 赫さんに電話して無理を言おう。 土下座してでも、無理を言おう。 もう、ひまわりちゃんは夕飯を済ませてしまったかもしれないけど、それでも呼ぼう。呼んで、食事を振舞おう。 妄想じゃない。 ようやく叶うんだ。 届きそうで、届くことのなかった。 「ご飯のまえに、一個だけ忘れてたよ」 俺と、 「おかえりなさい、母さん」 《ひまわり》〈結衣〉と―――― 「……ああ、ただいまだ」 なると、今日子さんとの――――暖かな。 《ホントウのしあわせ》〈一家団欒のひととき〉。 「がんも」 「お客さん……通だねぇっ」 「黙って寄越しなさいよ。お客様は神様でしょう?」 「はいよ、がんも。次はどうします?」 「じゃ、ちくわ」 「はいよぉ! んー、お客さん……ちくわ咥える姿が絵になるねぇ」 「言うと思った。この寂れた屋台の影響かしら? 寒くて古臭いことばっかり言うようになったわね」 「きっついなぁ。あ、それ食べたら店閉めちゃっていいよね?」 「…………。ええ、ご馳走様」 一日の締めの客はリノンと決まってる。 どんなに繁盛しててもリノンが来たら店を閉める。 なんかそういう、一つの合図。決まり事。 おでん屋台を裏まで押し、嵐山の大将に言いつけられている通りに店を閉めた。 「閉店作業はもう済んだ?」 「お待たせさんでーす。いやぁ、今日もお疲れ様でしたねぇ」 「わたしは別に、疲れてなんかないけど」 「あれ? リノンはグラビア撮影じゃなかったっけ」 「スポンサーの企業が展示会に出展するからって、ゲストで呼ばれたの。ずっとパラソルを持たされたわ」 「パラソルって言えばレースクイーンとかコンパニオンかぁ。きわっきわな格好で会場を虜にしちゃったってわけね?」 「……気になる?」 「え? ああ、いや。あんまり仕事のこと根掘り葉掘り聞いても悪いよね。こっちは居候の身なんだし」 「そう……だったら、さっさと帰りましょう」 リノンは俺を置いてさっさと歩き出した。 「待ってよリノン、競争しようよ」 「この“超最強”であるわたしに向かって “《きそいあらそう》〈競争〉”は言い過ぎじゃない? 勝算でも あるの?」 「まぁねー。少なくとも0%ではないでしょ」 「あらそう。何か賭ける?」 「誇りッ!」 「はなっからそんなものない癖に――――ッ!!」 元々、闇に紛れる漆黒の髪が、一蹴りで実際に闇と同化する。 「あ――――セコ!! フライングだぞっ!!」 問答無用で闇空を翔けるアイドル様は、既に米粒ほどのサイズになっていた。 「いっち、に。いっち、に……」 相手のペースに乱されちゃダメだ。 屈伸。前屈。上体と足首の回旋。 軽くその場で跳躍して――――。 「関節はほぐれたぞ、っと。飛行機とかは飛んでないよな? そんじゃ、ま――――だいたいこのくらいの力加減かな……?」 「いっく、よー……ッ!!!」 方角を定め――――保管中の“魂”を複数個取り出した。 「ゴーーーーーーールッッッ!!!」 「って、あれ?」 「遅かったわね」 鍵が開いていたからわかってたけど、やっぱりリノンは先に着いていた。 「いくつかの“魂”を複合的に使って、着地ポイントを演算して一蹴りで玄関前まで来たんだけどなぁ」 「敗者には、賭けの支払いをしてもらおうかしら」 「ははぁ! 私、水瀬優真は、一生あなた様に届かないゴミ虫でございます」 「ふふ……わたし、喉乾いたわ」 「すぐにご用意致します。冷蔵庫にキンキンに冷えた “《ハチゼロ》〈蜂蜜揚げパンソーダZERO〉”があったはず」 「あ……ちょっと待って、確か、優真が作ったアイスコーヒーがあったわよね?」 「ん? 冷やしてあるよ。飲み頃だね」 「味見してあげてもいいわよ」 「え?」 住む家のない俺をこの部屋に泊めてくれて数週間。 リノンは一度だって俺の自炊したものに口をつけたことがなかった。 「い、言っておくけど、わたしは毎日、一杯千円からの喫茶店で打ち合わせしてるのよ?」 「所詮は素人の背伸びでしょうけど、わたしの貴重な意見で改善点に気づくかもしれないじゃない?」 「だから…………は、早くしなさいよね。気が変わらないうちにっ」 「あー、うん。わかった、ブラックでいけるんだよね」 「何でもいいわよ……」 アイスコーヒーは濃い目に抽出してあるので、カチ割り氷を詰めたグラスに注ぐだけで完成。 ストローを添えてリノンに手渡しをする。 「仕事で汗かいちゃった。先にシャワー浴びていい?」 「この大アイドルを残り湯に浸からせるなんていい度胸ね。あなた何様のつもり?」 「えっと、おでん屋様……?」 「そうよ。大体、おでん屋ってなんなのよ? あんな汚い仕事、いつまで続ける気でいるのかしら」 「傍目、汚いように見える仕事――――薄給で環境も悪い“底辺”に思える仕事を、救いようのないものとして捉えるのは良くないよ」 誰もやりたくない仕事が、誰にも必要とされてない仕事と同義ではないから。 「……わたしは“《クリアランサー》〈本職〉”を生かした方が、あなたに合ってるって言ってるの」 「最初は“繋ぎ”のつもりだったんだけどね、おでん道は奥が深くておもしろいんだ」 嵐山の大将は昔なじみの花火職人達に声を掛け、製造をやめていた小規模煙火業者などと提携して業界の復活を目指している。 花火需要は少しずつ増加していき、小さな縁日などに呼ばれるようになっておでん屋台の仕事がままならなくなった。 ちょうど職を探していて暇だったから始めたはいいけど、ここまでどっぷりハマるとは思わなかった。 「まったく……珈琲が好きなんでしょう? だったら喫茶店で働けばいいじゃないの……」 リノンはぶつくさと文句を垂れながらも、手つきだけは上品にストローをつまみ、唇をつける。一瞬で1/4ほどがなくなった。 「うゎ……おいし……」 「やったっ!」 「あっ――――いや、えと、及第点、といったとこね」 「冷やした珈琲で大事だと思ってるのは、透明感のある喉越し。これに尽きるね」 「す、少なくとも……わたしの口には合うようね。特に言うことはないわ」 「リノンに喜んでもらえて、嬉しいな」 「はぅ……」 「え? お腹冷えちゃった? でも押さえてるのは胸のあたり……胃に来ちゃった!?」 「な、何でもないわよっ。汗臭くって鼻が曲がりそうだわ、さっさと洗い流してきなさい!」 「はーい。お先にいただきまーす」 ホントに汗びっしょり。 でも汗水たらして働くのって、やっぱいい。 シャワーの気持ちよさが60倍くらいになるから。 「(………………ふぅ。心臓に悪いわ)」 「あっ――優真ったら、タオルと着替え忘れてるじゃない」 一応、優真に貸してる部屋とはいえ、わたしも《・・・・》〈たまたま〉数ある《かくれみの》〈別荘の中から同じ部屋を選んでるっていうのに。 だから一応――――同棲? という言葉が適用されて差し支えない状態……なわけだし…………。 「(普通は気を遣って、面倒が起きないように着替えくらい自分で用意するべきじゃない……)」 収納から着替え一式を取り出し、シャワールームに置きに行く。 その途中、意識してしまう。 「優真の着替え……」 「ぎゅうっ」 「あ――――れ?」 「“超最強”が聞いて呆れるぜ。こいつ優の字の着替えを抱きしめてたぜ」 「“超変態”に二つ名を以下略でございます」 精神世界に集合を掛けられた――――つまりは、 わたしの“《トリトナ・フロム》〈同居人〉”による意見の一致を意味する。 「ああ、《オモテ》〈現実世界〉の身体は平気だぜ? 壁に寄りかかったままにしてある」 「なによ。あなたたち、わたしに何か文句でもあるの?」 「お戯れもほどほどに。現在、牢主は見目麗しき《あのころ》〈完全体〉の姿でございます」 「現状維持で満悦されてしまえば、リノン氏を認めた当方への愚弄と受け取らざるを得ないでございます」 「わたしは別に……優真と一緒に過ごせれば、べつに……(ごにょごにょ)」 「はぁ? おまえ、はぁぁ? もっぺん言ってみろ」 「だ、だから、わたしは優真と生活してるだけで充分、幸せなのよ」 「おーいおい、勘弁しろだぜ。好きなら好きで、いい加減、キスの一つでもかませよ。アルコール様の力を借りりゃすぐだろが」 「そんなことして、嫌われたらどうするのよっ! 迷惑かもしれないじゃない」 「迷惑……」 「それより二人とも聞きなさいよ! さっきおでんのお皿を受け取る時、優真と指が触れたの……♪」 「珈琲もとってもおいしかったわ。わたしだけの為に優真が淹れてくれたのよ? ふふふ、勇気を出しておねだりした甲斐があったわ♪」 「フロム……この夢見るメルヘン馬鹿は一生プラトニックだぜ」 「トリトナ氏……同感でございます」 「うるさいわね、人が感慨に耽ってる時にごちゃごちゃと……!」 「カワイコぶってんじゃねーぜ。股の間で精液ぶっこ抜いてやったり、その可愛いおクチでチュッパチュパ吸い取ったの忘れたのかぁ?」 「言いがかりだわ、あれはトリトナが火遊びした後始末じゃない……」 「それに、あの時はべつに、ゆーまきゅんの事なんとも思ってなかったし」 「無敵で素敵な“超最強”のテメェ様が、ゆーまきゅんだぁあ?」 「――――ああ、でも。ゆーまきゅんも男の子だし、わたしにそういう事を求めているのかも」 「あの時だって、すっごく気持ちよさそうにしていたし……」 「今は、どうやって処理してるのかしら。もしかして一人で……? だとしたら“何”で? そういえば、わたしの写真集を熱心に読んでいたような……」 「うぅぅぅぅぅっ、そんな、ゆーま、ゆーまきゅんがわたしでっ、あんなことやっ、そんなことをなんてっ、あーーうーーっ!!」 「だ、ダメだ……終わってる、コイツは絶望的に終わってやがるぜ。鳥肌を通り越してじんま疹がでてきそうだぜ」 「思ひつつ、寝ればや人の、見えつらむ、夢と知りせば、覚めざらましを――――」 「だよなぁ、わかるわかる。コイツ、マジで覚めざらましをだぜ」 「……口で言っても仕方がありません。多数決を取りましょう」 「いいぜフロム。じゃ、私様が表に出てとっとと発展させた方がいいと思う奴、手ぇ挙げろー」 「は? ちょっと結託は卑怯よっ!」 「少数意見の抑圧こそ、多数決の醍醐味でございます」 「そんじゃ行ってくるぜ」 「あ、トリトナ、待ちなさいよっ!」 「いいからいいから。この日の為に磨いた私様の演技力を見とけって」 「無駄でございますよ。大人しく当方と指を咥えてトリトナ氏の活躍に期待アゲでございます」 「あ~、さっぱりしたぁ♪ 着替え、置いといてくれてありがとね」 浴槽は古風な手動タイプのお湯溜めを採用しているので、蛇口をめいっぱい捻っておいた。 大体、5、6分ほどでお湯がたまる。俺はカラスの行水でいいけど、リノンにはゆっくりと疲れを癒して欲しいから。 「上がったのね、優真」 「あ……あれ? その格好……」 「コンパニオンのゲストでもらったの。ゲームに登場するキャラの衣装みたいよ」 不思議の国の童話めいた姫ロリ衣装に身を包んだリノンは、作り物に人形のように綺麗だった。 「どうしたの? 顔が赤いわよ。ひらひらのフリルとリボンをあしらった可愛い服が好きなの?」 「パラソルを持ってたって言ったから、てっきりレースクイーンみたいなのを想像してた。すごくかわいいよ」 「……わたし、優真の為に着替えたの。この意味、わかる?」 首を傾げ、凶悪と言って差し支えない男殺しの上目遣いが俺を射抜いた。 「『キミが学んできた言葉を用いて、キミが護ってきた声で聞かせて』」 「な、なにそれ」 「このキャラの象徴するセリフ。わたしは、あなたの“魂”に語りかけてるのではなく、《あなた》〈水瀬優真〉自身に問いかけているの」 「ははっ、今まで仕事で着てた服を見せてくれることなんてなかったじゃん。どういう風の吹き回しかな」 「あんまり無防備にしてるとー……襲っちゃうぞー!」 ガオーって、わざとらしく近づいてみる。 それは多分、あまりにもかわいいリノンに耐え切れなくて。 “空気感”みたいなものに気圧されたからだと思う。 「今まで妄想してたあんなことやこんなことを、わたしに試すの?」 でもリノンは、引っ叩いたり、蹴っ飛ばしたりっていうわかりやすい日常の“空気感”へ逃げなかった。 俺だけが道化っぽいまま空振って、この引くに引けない空気に気持ちの整理がつかないでいた。 それでも“いつものノリに戻ろうよ”と言えないのは、その一言でリノンの気持ちをふいにすることがどれだけ最低な事かをわかっているつもりだから。 「こっちへおいでよ」 観念した。 ぐちゃぐちゃでまとまらなかった思考を一旦放棄し、握手会でもなければ近づけない距離になる。 「優真……」 鼻孔をくすぐる甘い少女臭は、近づく者すべてを虜にする罪な息吹。 尋常じゃなく整った目鼻立ちの中に垣間見えるあどけなさは、理由もなく抱きつきたくなるほどに可愛くて――――。 「溜まってるんでしょ?」 「え……っ」 うっとりと見惚れていた俺の目を覚ます一言。 「いや、俺……そんな、いやらしい目でリノンを見てたわけじゃ――」 言い終わるより先に、柔らかな感触とお姫様のベッドみたいな極上の心地が俺を包んだ。 「偉い偉い……」 泣く子もサインを求める超有名人が俺の首に腕を回し、こどもをあやすように背中をさすった。 「優真はいい子ね。毎日こんな美少女に通い詰められてるのに、一度だって手を出さなかった」 「あっ……っ…………」 近い。近すぎる。お菓子みたいに甘い香り。リノンの体温が伝わってくる。 誘われている――察しの悪い俺でも、さすがにわかった。 「わたしと話して“かわいい”って思うだけで、自分の欲求を満たせてる? そんなわけないわよね」 「わたしを想ってしていたんじゃないの? 《・・・》〈あの時〉の事を必至で思い出して、硬くしたものを力強くシゴいて、わたしの名前を呼んで……違う?」 「そんなことは……」 「――――わたしから目を逸らさないで。正直に答えてくれたら、このまま終わりにはしないわよ……?」 「……してる。3日に、1回くらいの頻度で……」 「よく言えました……♪」 白状してうつむく俺に腕を巻きつけたまま、リノンは片手で器用にジャージを下ろした。 「ちょ、ちょっとっ!? え、本気で……?」 当然のように猛っていた勃起ち○こが外気にさらされる。 「もう我慢しなくっていいからね。ほら、わたしの掌に載せて?」 リノンは犬に“お手”を命ずるように掌を上向きに差し出してきた。 ちょうど高さは、反り返ったち○こが載せやすい位置で……。 「空想のわたしで騙し騙し済ませて来たのも、わたしを襲わない為とか、いろいろ考えがあってのことでしょう」 「今まで頑張って耐えたご褒美よ。ね? おち○ちんに溜まった疲れを全部抜いて、すっきりしましょう?」 吐息混じりの囁きが耳に吹きかけられ、耳から全身へと“リノンとしたい”という気持ちが伝播していった。 「(ここに、ち○こを置けば、こんなに可愛い格好をしたリノンが最後までしてくれる……)」 「よくできたわね……♪」 ぴっとり、と。ち○この表皮を手袋に密着させた。 完全に自分の意志で、リノンにシてもらいたくて載せた。 「ふふふ……いい子、いい子……」 「あっ……っ……」 切れ長の瞳で雅な視線を恥部に注ぎ、優しい手つきで亀頭を撫で回してくる。 早速のご褒美にち○こがしゃくりあげ、久々の他人の性的奉仕に腰が引ける。 「腫れ上がったおち○ちん、重くて、すごく熱いわ……わかる? 薄い手袋一枚隔てて、わたしが握ってあげてるのよ」 こしゅ、こしゅ、こしゅ。焦らすような動きで、あまり力を込めずに肉皮を上下してくる。 「わたしとの握手に人生を賭けてるファンがいる中で、あなただけは手ではなく、おち○ちんを気持ちよくさすってもらえるの……」 「嬉しい……光栄だよ……」 「《ここ》〈睾丸〉にたくさん詰まったねばねばのエッチ汁を開放して欲しい……?」 玉袋を指で転がしながら聞かれると、何もかもを忘れて身を任せてしまいたくなる。 「優真はわたしのことどう思ってるの? 部屋を用意してくれる“イイヒト”? 応援してる“アイドル”?」 「俺は……」 「あなたの気持ちが、どこにあるのか……言葉ではなく、態度でわたしに示して」 リノンがそっとまぶたを閉じると長いまつ毛が目元を覆い、その美貌をいっそう際立たせる。 何を待ち構えて瞳を閉じて、何を恋焦がれて心臓を高鳴らせているのか――――考える必要もなくわかった。 「――――んっ? ひゃっ」 「……あ、あれ……そういう合図じゃなかった?」 「ひょ、ひょうゆう合図っへ……ふへ? こ、この格好って……」 意を決して唇を重ねたわけだが、思っていたよりもウブな反応が返ってきた。 きょとんとして、“あわわ”となって、カーっと紅潮して――――そんな七変化なリノンは、明確に緊張しているようだった。 「えっと……俺も初めてだから、初めては、リノンが良かったから……」 「ゆ、ゆーま……キス……キスしてくれたの……?」 「……仮に、今のがキスしてっていう合図じゃなかったとしても、俺、もう一回したいな」 桜に色づいたぷるぷるの唇の感触は幸せそのものだった。 たった一度、ついばむようなキスをしただけじゃ満足できない。 「え、えっと……ん、んー……」 拒絶していないことを示すように唇を突き出してくる。 「……んっ、ゆぅま……んちゅ……ちゅ……はぁ……ゆぅまぁ……ちゅぅ……」 唇のおねだりに応えてくれたリノンを夢中で貪った。 脳が痺れるほど気持ちいいキスに酔いしれるまま、唇を食むように擦り合わせ、お互いの唾液を混じり合わせる。 「んっ……ちゅ……ちゅ……ゆぅま……もっと……んっ、ふっ、ちゅぱ……ちゅ……はむちゅぅ……」 求め合う時間。高まる性感によって忘れていた下半身の滾りが脈打った。 「あ、れ……ん、ゆーま……わたし、ゆうまの握ってる……? 硬い……ちゅうぅ……ちゅぷ、ん……ふ……ちゅ……」 リノンは驚いて放しかけたち○こを再び握り直し、マッサージするようにもみもみしてくれる。 さっきよりもおっかなびっくりな手コキだが、潤んだ唇でちゅむちゅむと舐られることで快感は何倍にも増していく。 「(なにこれ……キスしながら手でち○こ撫でられるのって、何か物凄い“受け入れられてる”って感じがする……)」 「んーちゅ、ちゅっ、ちゅぅ……ふぁ……びくびくしてりゅ……んぷちゅ……ちゅむちゅむ……ゆうま、わたしで感じてくれてる……」 「もっとしなきゃ……ゆぅまに気持ちよくなってほしい……はぁむ……ちゅ、ちゅ、ちゅぅぅ」 先っぽからだらしなく溢れだす我慢汁を塗りつけながら、せっせとち○こをシゴいてくる。 「はぁ……ん……ちゅ……ちゅ……リノン……リノン……」 思いきって舌を伸ばしてみると、リノンは蕩けきった表情で同じように舌を出して迎え入れてくれた。 「ん……るろろ、ちゅっ、むちゅぅ……ちゅぅぱちゅぅぱ、ぇろ、ちゅ~……」 濃密な大人のキスによって甘痒いもどかしさが下半身に募る。 「(俺も……リノンのアソコ……いいのかな……)」 ひらひらのスカートにゆっくりと腕を差し入れていくが、制止する素振りは見せない。 リノンは内股に触れるだけでぴくぴくと震え、恥ずかしさを紛らわすようにキスに興じる。 「んっ……はっ……あぁっ……ゆ……ま……」 「(感じやすくて可愛い……下着の上からでもぷにぷにして、さわってるだけで気持ちいい……)」 「んっ……ゅっ、んふっ……ぁ……そこ……んぅっ……」 薄布の中心を執拗に撫でさすっていると、リノンも負けじと本格的な手コキに移っていく。 「ゆぅま……ちゅ……んちゅ……出したくなったら……出して……せーえき……わたしにらしてね……」 見つめ合ってキスをしながら、優しく丁寧な手つきでち○こをシコシコシコ、と擦り立ててくれるのだからたまらない。 こんなときに、こんなことをされてる状況で伝えるのは卑怯かもしれないけど――今しか言うタイミングがなかった。 「リノン……聞いて……俺……リノンのこと……」 「え……? う、うん」 リノンはキスを中断し、潤んだ瞳で俺の言葉を待った。 「り、ノンの、こ……と……」 「う、うん、うんっ!」 「り、り、りゃ、ひゃ、ひゃっ――――ひゃっくしょいズッ!!」 「うぅ……ぐじゅ……どうしても我慢できなかった……」 「………………」 いいムードだったのに、顔面にくしゃみぶちかまされたリノンは青筋を立てていて……。 「ご、ごごごご、ごめんなさいっ!!」 「あなたがどう思っていようと、わたしはあなたの事なんてこれっぽっちも興味ないから」 「今のは完全な生理現象であってですね……いや、いいわけじゃないんですけども……」 「知らないわよっ! こんなもの着替える。むこう向いてなさい」 ああ……完璧に怒らせてしまった。 「じゃ、行くから」 着替えが終わったらしいリノンの声に振り向くと、既に支度を終えて帰ろうとしていた。 「ちょっと待ってよ、とりあえずお風呂に入って機嫌を――――」 「こんな小汚いワンルームでシャワーなんか浴びたくない。アイドルらしく超高級マンションの最上階でワインでも飲んで過ごすとするわ」 「なら俺も――――」 「ついてこないで」 行ってしまった。 「今日は一人寂しい夜になりそうだけど……ポジティブッ!!」 嫌われてない嫌われてない! リノンとは昨日今日の仲じゃないし。 明日ちゃんと謝るとして……。 「一人になれるなんてめったにないんだし、夜通しRe:non様のイメージビデオでお祭り騒ぎしよっと」 「あ――――ま、まだ何か?」 「………………」 無言で俺の宝物庫を物色し、ビデオ、ポスター、写真集、ありったけのRe:nonグッズをかき集めていく。 「出てくる出てくる、まるで虫の巣ね。うわ、抱きまくら……? 非公式に作られたものね」 「その抱きまくら、あんまり綺麗じゃ……」 「……そんなに二次元媒体の“Re:non”が好き?」 「待って、俺の宝をどこへ持っていくんだよっ!」 「どうしようがわたしの勝手でしょ。あなた、この部屋の家賃、未納分があったわよね?」 「ぐぐぐ……」 「文句ないわよね? アイドルオタクさん」 グッズを全てゴミ袋に詰め込み終えたリノンは、小馬鹿にするような笑みを残して去ろうとする。 「待って」 「っ……」 俺は、その腕をつかんだ。 「訂正してよ……俺はアイドルオタクじゃない」 「お、オタクはみんなそうやって無根拠に否定するのよ」 「俺が追いかけてるのは、Re:non様だけだ。他のアイドルにうつつを抜かしたことなんか――――一度だって無い」 「…………そ、そ、そんなこと、胸を張っていわれたって……」 「て、手っ、さ、触らないでっ!!」 「…………はぁ。なにやってんだよ、俺」 うまくいかないなぁ。 「コンビニで雑誌買ってこよ。必ず、なにかしらの雑誌の巻頭カラーを飾ってるしね」 明日にはひょっこり顔を出してくれるだろう。 「………………」 「…………はぁ……」 「…………はぁーーーー……」 「はぁぁ――――じゃねぇぜ!? 仕事帰りにわざわざ遠回りした挙句こんなとこで立ち止まって、テメェ様は何がしてーんだぜ」 「何もしたくない……」 「生殺しだった上に、おかずまで取り上げやがった鬼が何を今更」 「悶々とした夜を過ごした牢主は、今宵、肉欲に飢えていらっしゃる。結合の瞬間に当方が“支配権”を則れば――ケラケラケラ」 「け、結合……」 「血の一滴までドブ色な発言だな……。つーか、あそこまで追い込んでお預けくらったら、逆に悟りを開いちまうんじゃねーか?」 「煩悩を断ち切る事など、いくら牢主でも不可能でございますよ――じゅるり」 「フロムは押さえといてやるから、テメェはきっちりはっきり既成事実つくるんだぜ」 「無責任な発言ばっかり。あぁ、憂鬱だわ……」 「昨夜の事を引きずっているのでございますか?」 「ついカッとなって勢いで出てっちゃったのよ。ホントは一緒にいたかった」 「そうすりゃいいじゃねーか」 「優真の求めてる“Re:non”は、カメラの回ってる時の《リノン》〈わたし〉かもしれないじゃない」 「あ?」 「あーもう……優真にどんな顔して会いに行けばいいのよ……」 「いつもの自信満々な“超最強”の顔でいいじゃねーかよ?」 「あなたたち話し聞いてる? 大体、元はと言えば、トリトナが――――」 「私様が強行手段に出たのが今の事態を招いたって言いたいのかよ」 「絵に描いたような責任転嫁でございますね」 「……だって…………」 「いい加減、フの字が爆発しても知らねぇぞ? コイツは――――いや、私様だって、てめぇを認めてるから大人しく飼われてんだ」 「当方の堪忍袋の緒は消防用ホースより丈夫でございます。少々、傷が目立ってはきておりますが」 「そういうこった。あんまり退屈させるなら、取って喰うぞ? 私様たちを、失望させるな」 「…………そうね。その通りだわ」 「あいつに何て言えばいいか、わかるな?」 「ありのままの気持ちを、伝えるだけ」 「そうだ。その顔だ。ま、私様は、蛆虫みてーに悩んでるリの字も新鮮で悪くなかったけどな」 「ギャップ萌え乙でございました。次に会う時はハート目デフォで以下略」 精神世界からもどってきたわたしは、頭を指で叩いた。 「ふたりともありがと。わたしは“頂点”――――こんな姿、らしくないわね」 「これから結果で証明するから、高みの見物でもしてなさい」 わたしの中の“わたし”が返事をする姿が目に浮かんだ。 行こう……優真の下へ。 「ごめんなさいッッッ」 「………………」 「すいませんでしたッッッ」 「何で土下座?」 「誠心誠意、気持ちを込めてです。別に、この姿勢で顔を上げればパンツが見えるかもとか、そういう邪な心は一切ないですっ」 とにかく自分にできることを考えた結果が、《コレ》〈土下座〉だった。 「……部屋に入った早々、出鼻を挫かれた感じ」 「ごめんなさい」 「……もう怒ってないから、姿勢崩してよ。ほら、わたしのグッズ返すから」 「やったーっ! ありがとリノンーっ!」 ゴミ袋に詰められた宝物が返却されて飛びつこうとするが―― 「イ゛ッッッッッ!!!」 「な、なに……?」 「う゛ッ、ぐぐぐ……あ、あはは、脚が痺れて動けない……」 「あなた……もしかして、ずっとその体勢で待ってたの?」 「えっと……今日は仕事なかったから、10時間くらい……」 「どこの坊主よ。わたし戻って来なかったらどうするつもりだったのよ」 俺の隣に腰を下ろしたリノンが心配そうに脚をさすってくれる。 「大丈夫? まだ痺れる?」 「癒される……♪ リノン優しい……」 「馬鹿……。しばらく、こうしててあげようか?」 「お願いしまーす。いやぁ、痺れてよかったかも」 「調子がいいんだから」 呆れたように笑うリノンから昨日の怒気は感じない。 むしろ、ちょっと親密になったというか、進展したというか――――。 「(あのまま……くしゃみをせずに、俺が想いを伝えられていたら……)」 「(そしたら……リノンは、なんて答えたんだろう)」 ふと、そんな考えがよぎり、思考に時間を奪われる。 「あ――――これ、もうやってるのね」 ヒットソングをBGMに、汗を掻いたリノンがペットボトルを少年の頬に押し当てている。 「シッ! 静かに。初めて見るCMだ」 「………………」 「『飲む? 飲めよ。飲みなって。ふふっ、ほらっ』」 リノンの美貌に目を点にさせた少年の手に無理矢理、ペットボトルが押し付けられる。 「『なーんてね。やっぱあーげない。だって、好きなんだもん♪』」 少年が口をつけようとする瞬間に取り上げ、極上の笑みをみせる。 「『新発売――«特濃»“《ハチゼロ》〈蜂蜜揚げパンソーダZERO〉”♪』」 「『だって、好きなんだもん♪』ヤーーーーーッ!! ふぁふぁふぁあぁあああっ♪ きゅんとしますなぁっ!」 「事務所の指示で、とことんキャラつくってるわよ」 「何言ってるのさ、すっごい可愛いじゃん! はぁ……俺もあの少年のようピュアハートを弄ばれたいなぁ」 「……ゆ、優真っ」 「ん?」 「あのさ……あなたって、Re:nonのファンじゃない」 「液晶の向こう側の“《わたし》〈Re:〉non”と、目の前にいる“《わたし》〈リノン”どっちの方が理想なの?」 「両方、同じリノンだよ。優劣なんかない」 「たださ、向こう側の“Re:non”はみんなの“Re:non”だから。独占できない存在だから」 「こうしてそばに居るだけであったかい気持ちになれるキミとは、抱いてしまう感情の幅は違うかもね」 「婉曲的な言い回しはいいから、どっちの“《わたし》〈リノン〉”が好きなのかハッキリ言いなさいよっ」 「羨望と恋慕は別物だよ」 脚をさすってくれていた掌に掌を重ね、自然と見つめ合う。 二人っきりの部屋で、誰の邪魔も入らない状況。 「だから、昨日の――」 「――――だったら昨日の続きをしてっ、優真っ!」 「イ゛ッッ――――ぎゃおっ!!!」 突き飛ばされた上に、痺れた脚にのしかかられるコンボ。 痺れが電流となって全身を駆け巡るという散々な仕打ちだが、相手がリノンなので怒る気にはなれない。 「ちょ、り、リノン、まだ脚が、って――この体勢はまずくない?」 「ねぇ、話し聞いてた!?」 「痺れで、それどころじゃ。えっと、なんだっけ……」 「だからっ、わたしが印刷された等身大抱きまくらと、わたし本人のどっちを抱きたいの?」 「そんなの、リノン本人に決まってるだろっ」 「だったらどうして、今まで何もしてくれなかったのよっ!!」 吐き出す言葉からひしひしと伝わる、切実な想い。 いくら強靭といえ、 いくら最強といえ、 いくら頂点といえ、一人の女の娘。 「ゆぅまぁ……わたし……あなたのまえでも“超最強”でいなきゃいけないの……?」 俺を見下ろす《そうぼう》〈双眸〉は丸みを帯びて潤んでいた。 「一人の女として、接しちゃいけないの……?」 ほぼマウントを取られた状態で打ち付けられる拳には、《じゃ》〈戯〉れる程度の力しか込められていなくて。 なんていうか、それは多分――――“いい加減にして”っていう嘆きのニュアンスで。 「……ごめん」 俺にはやっぱり、抱きしめて、謝るくらいしかできなかった。 「…………」 「なんか、下手にカッコつけてたのかな。終わった事と、引きずるべき事の分別がついてなかった」 「もうちょっとリノンに認められたら、その時はって思ってたんだ。そんなのって、先送りだよな」 「わたしが……こういう性格だって……わかってよ……」 「下手で、ごめん」 「優真といると、嬉しい時に笑うことも、哀しい時に泣くこともできなくなるの……自分が自分じゃなくなりそうなの……」 「うん」 「だって……わたし……優真のこと、ずっと……」 「好きだっ!」 「え……?」 「だって、好きなんだもんっ!」 「優真……それCMのセリフよ?」 「そうだけど、だって好きなんだもんっ。としか言えないし」 俺の気恥ずかしさとリノンの感じてるそれを掛けて二で割ればだいたい同じ。 チグハグで恋愛ベタ同士だからこそ、一度、想いをぶつけ合えばもう怖いもんなしなわけで。 「いまさら、何を言ったって絶対に取り消してなんかあげないんだからね」 「キミに好きって伝えたことを後悔したりはしないよ」 撤回ができないことも、言葉の意味を広く捉えて誤魔化すこともできない。 それでよかったし、それ《・》〈が〉よかった。 「……いつも、あの2人には助けられてばっかりだわ」 埋められなかった心身の距離を零にして、俺たちは完全に密着する。 可愛げの欠片もない冷たいコンクリの部屋、必要最低限の物しかない冷たい床の上――――ムードもへったくれもなくても、抱き合えばそこは楽園。 「ちゅっ……」 どちらからともなく触れた唇に幸せが弾ける。 「ちゅうぅっ、ゆぅま……はぷ、んちゅ……ちゅっちゅ……」 「ちゅっ、ちゅちゅう」 「リノ……ん……は……もっと……」 昨日よりも深みのある幸せの味。 天然の媚薬をひとたび飲み込めば、興奮が急上昇。 さらに唇を求めようとして――リノンの指が待ったを掛けた。 「ふふ、動けない今がチャンスね」 リノンは両脚を絡ませ、背中に腕を巻きつけ、絶対に離れないことをアピールする。 下腹部にそよぐ風。リノンの掌が雄の象徴を探り、はち切れんばかりに膨れ上がったズボンに手を掛けていた。 「優真の……昨日よりも大きくなってるわ……わたしのなかに入りたいのね……」 「リノン……」 熱のある視線に気づいたリノンが嬉しそうに頷いた。 「何、遠慮してるの? 優真の好きなようにしていいのよ……今はみんなの“Re:non”じゃなくて、あなただけの“リノン”なんだから……♪」 スタイル抜群のボディを覆うように、さらに強く抱きしめる。 「んっ――――! はぁぁぁ……♪」 「リノン……リノン……好きだ……リノン……」 耳元で何度も何度も名前を呼んで、“好き”を表す。 「うん、優真……わたしも好き……ねぇ、もっとぎゅってして……? このわたしは、その程度の力じゃ壊れないわ」 ぎゅぅうぅぅぅぅっ! 力いっぱいリノンを抱きしめると、二の腕に被さった左右の乳房の弾力が直に感じられた。 「んふっ、ンッ……全身で、わたしを感じて……? 優真だけに、わたしの全部をあげるから……」 誰しもが求めては諦める、美少女の“頂点”のおっぱい。 ぷるんぷるんで、つんと上向いた蕾が美味しそうに載っている。 俺はその魅惑のバストを身体全体で味わった。 「はぁ……んふ……ずっとこうしていたい……いっぱい優真の匂いを感じていたい……」 うわ言のように漏らすリノンは、しかし着々と準備を進め、反り立ったち○こを抜き出していた。 「ふっ……んんっ、やだぁ、アソコ、濡れすぎ……わたし、優真が好きすぎて……こんなになっちゃってるんだ……」 いつの間にか濡らしていた秘裂に先端を誘導し、ぬちぬちぬちっ――と滑らせる。 「もっと凄いこと、わたしとする? したいなら、わたしに“《へんしん》〈Re〉:”して」 「リノンに……かわいい顔でそんなこと言われたら俺……」 粘着した愛液がとろとろっと流れ、ひくつく膣口への挿入を容易なものにする。 「そのまま……真っ直ぐ……うん……そこ……優真のを入れるためにある、場所よ……?」 「くっ……は……あぁ……」 ずぷっ、ずぶぶぶぶぶっ…………。 「あっ、んっ、はぁ~~~~~♪ はい、ったぁ……」 手を使って入り口へ優しく誘導してくれたおかげで、迷うことなく大事な場所に潜ることができた。 「わたし、ゆぅまと、一つになったのね……わたしのなか、ちゃんと優真の形に広がってる……嬉しい……」 「り、あっ、んくっ……!」 膣穴のうねるような極上の快楽が挿入と同時に襲い来る。 「優真も、わたしと一緒になれて――――え?」 ――びゅくっ、どくくんっ、どぴゅっ、どぴゅっ、どぴゅうっ! 「ンッ……熱ぃ……これって、もしかして……ほ、ホントに……?」 「はぁ……はぁ……あっ……あーっ……は~~っ……きもちぃ……っ」 「んっ……んっ……やっぱり……優真の精子なのね……あぁ……ドクドクって、わたしに流れ込んでる……」 リノンがよほどの名器なのか、女の娘の膣内は総じてこんなに気持ちいいのか――――どちらにせよ、情けなくなる早さで果ててしまった。 射精の間、リノンは優しく背中を撫で続けてくれた。 「はぁ……ごめん、我慢できなくて、なかに出しちゃった……」 「ううん……いいの。初めて……だものね? わたしのなか、そんなに気持ちよかった?」 「並の男じゃ、無理じゃないかな……それにほら、昨日、あんな状態でほったらかしだったし……」 蒸し返すよう語尾が下がるが、リノンは嫌味に感じることもなくゴキゲンだった。 「じゃあ、今日の分は、まだあるってことよね。もう一回、このまま……する?」 「……え? いいの?」 「その代わり、今みたいなかわいい顔、また見せなさいよ……?」 俺を射精させた事で精神的に優位に立ったのか、余裕を滲ませたリノンは腰をひねる。 そのままち○こが抜けるギリギリまで浮かせると、狭い膣内からぽたぽたと白濁が零れだした。 「初体験は痛いだけなんて、人間のオンナはかわいそうね……わたしは幸せな気持ちでいっぱいよ」 「優真がわたしで気持ちよくなってくれてるんだもの……こんなに嬉しいことはないわ……」 ぐぷっ、ぐぷぷぷぷぷぷっ――――。 「ふぁ……あ、あ、あ~~……♪ また、来たぁ……ゆうまの、大きいので……広がってるぅ……♪」 「リノンの、なかっ、やわらかトロトロでっ、はぁぁぁっ、凄い、イイ……」 「また、すぐ射精しちゃってもいいからね。我慢なんてしないで、気持ちいい時に、好きなだけなかで出して……♪」 このままもう一回戦……次はもっと頑張らなければ。 「そういうわけには、いかないよ……リノンを満足させなきゃ、不公平じゃんか」 他の誰でもない俺が側にいるんだと伝える為、抱き合った身体を揺らすようにち○こを進ませる。 「ふぁあっ、あっ、ンッ、んふうぅぅっ、ゆ、ゆぅま、いきなり、《おく》〈子宮〉っ、ぶつけちゃぁ、んぅっ!」 注いだ白濁を掻き混ぜるように動かし、入念にち○こを慣らしていく。 「(ッ……ほんと、リノンのなか、ありえないくらいイイ……)」 でたらめな快感と、一度出したことによる余裕が吹き飛ぶくらいの期待感。 居ても立ってもいられず、腰が勝手に動いてしまう。 「わたしの、なか、すりこまれてく……! ゆぅまの、せーし、はぐっ、ん~っ!」 「ゆうま、上手、あぁっ、上手よっ、うん、うん、すごくイイわ……ちゃんとセックスできてる」 俺の背中を愛おしげに撫で、新人の成長を見守る先輩のような事を言う。 「あんまり子供扱いするなら、俺にだって考えがあるよ……」 「え……ひゃあんっ!!」 若々しくぴちぴちの下乳のカーブを寄せ上げ、上向いた美乳にしゃぶりつく。 「んっ、ぁ~~、あ~~~、らめ、よぉお、ゆーま、んふっ、赤ちゃんじゃ、ないんらからぁっ」 油断していたリノンは震え上がる。 特に先端の桜蕾への刺激に過剰な反応を示した。 「んっ、っ、っ、やっ、やぁ、先っぽ、そんなに吸っても、んっ、何も出ないわよっ、ん~っ、もぉ、馬鹿ぁっ」 母乳は出なかったけど、だらしなく緩んだ口元からは気持ちよさそうによだれが漏れていく。 「ゆぅま、はぅ、んーふ、おっぱい……スキなのね……んっ、しょうがない奴……わたしのおっぱい、好き……?」 「超夢中……」 「うん……♪ じゃあ、しょうがないわね……でも、こっちも、一緒にね……?」 魅惑のバストに没頭していて、結合部が疎かになっていることに気づかなかった。 「ちょっと、激しくするよ……」 リノンの脇を持ち、揺り籠のように揺らせていく。 「んふっ、ゆさゆさっ、しながら、あふっ、あそこも、おっぱいもっ、んっんっん~~っ、きもちいい、ゆーま、きもちいい」 「リノンも……気持ちいいんだね……」 「ぁん、ぁぅっ、ンッ、ぁんっ、あぁんっ、あそこ、ジクジクして、んっ、熱っ、熱いっ、おなかの奥から、なにかキちゃうぅ……」 「俺も、すっごいいいよ……夢みたいに、気持ちいい……」 「夢にしちゃ嫌よ、わたしの感じてる呼吸も、匂いも、体温も、ぜんぶ本物の優真……大好きな優真……」 リノンは飛びそうになる意識をつかむように俺を抱きしめた。 すっかり情欲に濡れたオンナの顔で、さらなる快楽を求める。 「すき、すきっ、もっと、だいてっ、ゆうま、めちゃくちゃにしてっ、わたしを、あなただけの物にしてぇっ」 駆け上がってくる射精感を抑え、限界まで官能を貪り、リノンの膣内に打ち付けていく。 「ひゃぁんっ、あっ、あっ、あ~~、ふぁ~~~っ、きもちぃ、きもちぃ、初めてなのに、イっちゃぅ、ンッ、ンッ、あっ、イっちゃうぅっ」 「リノン……俺も……っ」 「ゆぅまも、イクの? ンッ、じゃあ、一緒ねっ。うれしいっ、一緒がいい……一緒に気持ちよくなりましょ……」 悩ましい汗を垂らすリノンがひしっとしがみつく。 呼気を荒げながら可愛く喘ぐ姿はこの世のものとは思えないほど淫靡で、俺の思考はぐちゃぐちゃに溶けていく。 「ハッ――ハッ――――出すっ、リノン、全部、なかに出すよ……っ」 「だいじょうぶ、わたしもイくからっ、いま、ゆうまに射精されたらっ、幸せすぎて、イクの止められないからっ」 「なかに出してっ、ゆうまのせーえき、受け止めさせてぇ、おねがいっ、このまま、ゆうまのこと好きになってよかったって、思わせてぇっ」 猛然と腰を振り立て、揺れる視界の中でリノンが絶頂へと誘われる瞬間を待った。 「あっ、あっ、あっ、あぁ~~~っ、ンッ! イッ、くぅ、きもちぃの、キちゃうっ、ゆうまに抱かれて、イっちゃうっ」 ――びゅるっ! どくどくどくどびゅうううぅ~~~っ!! びゅくびゅくどっぴゅんっ! どぴゅるるうぅぅぅうぅ~~っ!! 「ンッ、ンぅ~~~~~~~~~~~~~~~ッッッ!! んっ――んっ――――んぅぅうぅぅぅぅ…………っ」 二度目とは思えないほどの量が、子宮を突き破る勢いで噴出した。 「(リノンに生射精……さ、最高に気持ちいい……このまま、全部……)」 ガクガクガク、と痙攣するリノンが崩れ落ちそうになるのを抱きすくめ、これでもかと膣内に精を吐き出していく。 「はぁ…………あっ……あぁ……また…………こんにゃに……あふ……あつぅい……」 射精の度にかわいく反応するリノンを眺めながら、極上の抱き心地を堪能する。 「あっ、あっ、あーーーっ、すご……すぎるぅ……ンッ、んぁ、あ~~~~っ、~~~~~っ」 こってりと粒立った精液が漏れだしても、ぶりゅぶびゅっ、と執拗な射精を繰り返す。 「んぉ、んぁぁぁ~~~、はっ、はぁ~~~~~……こんな……すごしゅぎれ……はふ……らめになりゅぅ……」 極悦のさらに上のステージへ押し上げられたリノンは、放心状態のままで淫らによだれを垂らし、打ち震えていた。 「はぁ……はぁ……やっと……止まった……? あふ……ゆうまのせーえきで……おなか、いっぱい……」 「リノンが……気持よすぎちゃって……こんなに出たの、初めてだよ……」 「わたしも……良かった……好きな人にしてもらうのって、言葉じゃ表せられないくらいイイのね……」 ご満悦のリノンに軽く口づけをして、腰を引こうとする。 「はぁ……はふ……やだ……抜いちゃ……らめ……」 脚をからませたまま、ち○こを抜こうとするのを首を振って嫌がる。 快感に涙さえ湛えた瞳の懇願に、射精直後の敏感なち○こがしゃくりあがった。 「まだ……元気だから……もう一回……まだ優真を感じ足りない……」 「俺も……リノンに出し足りてないよ……」 終わらない肉悦の饗宴。 何度しても、し足りなくて。 俺みたいなサカリのガキは、リノンの気持ちいいアソコの味を一度覚えてしまったら、それはそれは無尽蔵で……。 「きゃっ、ゆ、優真ダメよ、誰もこないからって、外でなんて……」 ――シャワーを浴びて、着替えて、気分転換に出歩いても、それは休憩と称した《プレイスポット》〈場所〉の変更でしかなかった。 「《ケルベロス》〈獣〉が安全な屋内で交尾してる方が、おかしくない?」 「それとこれは関係ないじゃない……わたしは《マイノリティ》〈少数派〉なの……」 手放しで護ってやりたくなる、弱々しい否定。 しどろもどろで、怯えるように視線を泳がせて。 それは、きっと俺にしか見せないリノンの《ほんね》〈温度〉。 「お願い。我慢できない」 「……見つめるの、卑怯……優真にお願いされたら……わたし……」 一言の一押しだけで“今すぐキスして欲しい”と訴えかけるような瞳へ変わる。 「あ……“《イデア》〈幻ビト〉”が“《ステュクス》〈重層空間”を通ったのね」 俺の中の“《カロン》〈牢主〉”が管理し、“《フロム》〈ケルベロス”が補佐をしていた場所――――。 オーロラは“《ステュクス》〈重層空間〉”に干渉が行われた証拠だった。 「こっちへ来たのか、向こうへ行ったのか……」 今は修復が済み、用事で出向くことはあるが、管理はルージュや久遠学園長に丸投げしている。 「優真は“《ステュクス》〈重層空間〉”の管理人に復帰するつもりはないの?」 「俺は、いつまでも水瀬の子でいたいんだ。この世界で、生きて、死んでいけることを幸福に思ってる」 「あ、フロムが騒いでる。『生き急ぐならご相談を』だって」 「あはは、怖い怖い。リノンのお世話になりっぱなしじゃ嫌だし、あの部屋もいつか返さなきゃね」 「そんなこと言わないで、迷惑かけてよ。優真と一緒いられることで、わたしも頑張れるんだから……」 「リノン……」 「んっ……ちゅ……ちゅぅ……っぱ」 あんまり可愛い事を言うものだから、我慢できずに口づけをしていた。 「不意打ちは……卑怯よぉ……」 「キミを養いたいんだ。釣合いたいんだ。多分、すっごい単純な、男のわがまま」 「キミと二人だけの部屋を作る役目を、俺から奪わないでくれないかな?」 「わたしじゃ優真の“家族”にはなれないから……だから、ずっと今の関係だって思ってたのに……そんな言い方されたら、期待しちゃうじゃない……っ」 「いいよ……その期待、裏切ったりしない……その胸に、虚しさを抱かせたりなんか、しない」 「だったらわたしも……優真の為に、行動するから」 乙女武装の済んだスレンダーな背中に覆い被さり、恋する唇を奪う。 「優真ぁ……ん……む……ちゅ……ちゅっ、ちゅむ、ちゅ~~っ、ちゅ~~~っ……」 お馴染みとなった濃厚な口腔粘膜の応酬。 大アイドルの整いすぎた美顔が条件反射のように甘く蕩けていく。 「んちゅ……ちゅっ……ちゅうぅ……れろ……むーちゅ、ちゅぅ、ちゅぅっ」 キスの力は偉大だ。リノンの肩から余計な力が、すっと抜ける。 リノンは木の柵に手を突き、俺の腰の位置までお尻を上げた。 「欲しい……優真……挿れて……」 「……こんな場所でするのも、そんな体勢でするのも、動物みたいで嫌なんじゃなかったっけ」 「ええ、嫌よ。嫌だけど、しょうがないじゃない。1分だって、1秒だって早く――優真を感じたいんだから」 「俺も……」 取り出した勃起を魅惑の窪みに押し当てると、クチュッといやらしい歓迎の音が鳴った。 「優真……優真……あぁ……そこ、そこよ……そのまま来て……っ」 今まで踏み出せなかった分を一晩で取り返すように、俺たちは何度だって身体を重ねる。 他人が見たら野性的な求愛でも、お互いを欲しがる気持ちを抑えられないのは野蛮じゃないと思うから。 「んぁぁぁぁぁぁっ! き、たぁぁっ……優真の、んぅふぅぅっ、奥まで、一気にぃぃっ!」 俺たちは《フツウ》〈一般人〉じゃないから、こんなに柔らかくて繊細な身体をしているのに、構わず壊れるくらいに激しく貪る。 初々しい気遣いの延長じゃ、狂いそうなほど強い想いを発散することはできないから。 「んぁっ、あっ、あっ、あぁぁー! 動いてる……っ! んっんっ、優真の感じるっ、んひゃうっ、んっ、んぐっ」 分泌液も締め付けも申し分ない。 挿入の度に優しく絡みついて、俺を悦ばせてくれる。 「こんな、獣の交尾みたいな格好が、イイなんてっ、あぁっ、おかしく、なっちゃいそうっ」 「あっ、あっ、あっ、気持ちいいっ、後ろからされるの、すごい深くて、頭まで響くのっ!」 深く、抉るようにリノンの膣内を出し入れする。 ずっぶっ、ぬっぢゅっ、ずにゅぽっ――卑猥極まりない水音は、それだけ抽送が激しい証拠だった。 「はぁむ……もっと壊れるくらいに強くしようか……?」 「ひぁっ……」 耳たぶを口に含みながら囁くと、リノンが堪らず身震いした。 「して……優真、もっとしてぇ……」 リノンは俺の知らない時代――俺の中に眠る“《カロン》〈魂〉”の従者だった頃を思い出したかのように頷く。 「疼くのよ……もっともっとって、わたしのおま○こが――――こんなんじゃ足りないって叫ぶの。もっと、壊れるくらいの速度で、わたしを乱してっ」 「うん――とことんやろうよ、こんな夜くらいは、さ」 愛しあう者同士で行う求愛行動の快楽は凄まじいものがある。 いかにリノンが“超最強”でも、相性ぴったりの相思相愛エッチを前には、平常心ではいられない。 「ゆぅま、動いて、わたしのなか、かき乱してぇっ」 小ぶりで形のいいヒップをグイと引き寄せ、呼吸が止まるくらい力強く腰を振り立てる。 「あぁぁっ、あぁぁぁっ、もう、わかんなっ――わかんないぃぃぃっ! あたま、真っ白でっ、」 種付けに必死な野良犬に似た、貪欲な交尾。 そして、《おれ》〈野良犬〉一匹の手で、誰も観たことのない素顔を晒すリノン。 「んぅ~~~~~っ!! 優真っ、優真っ、そこっ、もっとっ!! そうっ、あぁ、そこゴリゴリされりゅとっ、んぐっ、あっあっ、ふぁぁぁぁっ!」 刺さるような嬌声。 高め合う為の抽送。 求め合うことで深みにはまっていく無限ループ。 一突き、また一突き――階段を上るように“次”を求め続け、結局、絶頂という到達地点まで止まることができなくなる。 「らめっ、ぁぁぁあ、おま○こっ、らめぇぇっ、あふっ、んぅぅぅううぅぅんっ! きもひっ、よしゅぎちゃうぅぅぅっ!!」 もう余計な言葉はいらない。 獣に、言葉のやり取りはないから。 必要なのは、荒い呼吸と、尽きない愛欲だけでいい。 「あふっ、あふっ、んぅっ、んぅっ、ん~っ、あっ、あっあっ、弱いとこっ、こちゅこちゅっ、んぐぅぅっ、えぐって、もっと、ゆぅま、ゆぅまぁっ!」 「あぁぁっ、んぁぁぁっ、はぁっ、あっ、あっ、あ~~~~っ! ビクビク、してりゅっ、んぅ~~~っ! ゆぅま、イクのね、また、わたしのなかでぇぇっ!」 「ハッ――ハッ――ハッ――」 焚きついた膣粘膜がキュウキュウと締り、性感を極限まで高める。 「ひいぃんっ! んひゅっ、んっ、しゅごっ、しゅぎりゅうぅっ、んっふ、らめ、このままイったらっ、どうなっちゃうのぉっ」 微痙攣する生膣にひたすら打ち付け、愛液を撒き散らす。 「んぅぅおっ、んっ、あ゛あぁぁっ、ふぁぁぁぁぁっ! ゆぅまっ、ゆぅまっ、深っ、ぁああんっ!!」 「イク……もう……全部、いいんだよね……なかで……」 「らめぇぇっ、らめよぉっ、なかじゃなきゃ、らめぇぇぇぇぇぇええぇぇぇぇっ!!」 リノンはイヤイヤと首を振って、否定の否定をする。 身体の方も、絶対に逃がすまいとち○こを子宮へと導く。 俺にできることは、今夜を締めくくる最大の放出でリノンを溺れさせることだけだ。 「イって、イって、イってぇぇっ、わたしも、もう、無理よぉっ、限界ぃっ、一番キモチイイの、キちゃうぅぅぅうぅっ!!」 「ゆぅま、あぁああんっ、イク、イク、イっちゃうぅぅっ!!」 ――どぴゅっ、びゅるるるるるるうぅぅぅぅっ!! びゅくびゅくびゅくっ、どぴゅどぴゅどびゅうぅぅぅっ!! 「や゛っ!? あ゛ぁ゛~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ッッッ!!」 「あぁー……んぉ……ぉおぉぉ…………っ」 夢中で駆け抜けた先に待つ快楽へ、俺達は誘われる。 絶頂を噛み締めるリノンを支えながら、一滴残らず白濁液を注ぎ込んでいく。 「あ゛っ……う゛っ…………ゆーま……でてりゅ……んく……どぷどぷ……わたひのらか…………」 「んぅぅぅぅぅ……いっぱいぃ……んぅ……せーえき……ごくごく……のまされてりゅぅ……」 びゅくっびゅくっびゅくっと、激しく脈打ち、リノンを白に染める。 「はぅ……ぐ……ん……ハッ……ハッ……これ以上……入らない、わよぉ……」 全てを放出したのを確認し、息を整える。 「はぁ……はぁ……ち○こ、抜くね……」 「は……あ…………あ――――――――」 ごぷごぷっ――膣口から精が溢れだすと、気を失うようにリノンがくずおれる。 何とか身体を支え、リノンが桃源郷からもどってくるまでじっと待った。 しばらく余韻を愉しむようにしていたリノンは、身体を預けたまま何とか意識を取り戻した。 「……優真……あなたって凄いのね……なんていうか……燃えたわ……」 「夢中だったから……ふぅ」 強い脱力感の中、それでもリノンを支えるのは俺の使命だと思った。 「……明日、夜に生放送番組に出演するから……観てくれる?」 「あ、それもう録画予約済。生で観たあと、じっくり2周はするよ」 「……そう…………」 心地良い疲れを感じているリノンを抱きしめると、空が白み始めていることに気づいた。 「ここはね……特別な場所なんだ……」 「え……?」 「――――――ほら」 今日が終わり、爽やかな明日がやってくる。 「この美しい光景でさえ、リノンには劣るけどね」 「……なに言ってるのよ、馬鹿……」 明日がやってきても、絆は繋がり続ける。 「さぁ準備できたぞ。録画もしてるし、あとは瞬き我慢するだけだ」 映像が切り替わり、“今”を代表する芸能人達に囲まれたリノン様が液晶に映し出された。 「皆さんこんばんは。蜂蜜揚げパン普及委員会名誉会長――Re:nonこと、紫護リノンよ」 「待ってましたーっ!! Re:nonかわいい。お辞儀したかわいいっ。あ、あの目かわいい。あー口元かわいい。かわいいかわいいかわいいっ」 「グラビアアイドルの仕事をこなしつつゴールデンを5本も抱えるとは、すっかり大物女優の仲間入りですね」 「? そんな“枠”に収まったつもりはないわ。“頂点”は常に一人、じゃない?」 「そうですそうです、この唯我独尊っぷりがRe:non様の魅力でしたね」 「やっと気づいたのか、ってああっ!! Re:nonを映せってばっ、なんなんだよ一体っ!」 「なにやってるんだよっ、他のやつはいいから、あーそうそう! Re:nonを映せば視聴率も上がるんだからさ、ほら早くしろ!」 「ねぇ――――ここの番組スタッフは、読み書きできないこどもでも採用しているの?」 「カメラと照明。最高の被写体にレンズを向けないなんてサボり同然よ。それとも、あまりの美しさに気絶でもしてる?」 会場は笑いに包まれたが、その大胆不敵な発言はRe:nonファンの総意だった。 笑う場面でもなんでもない。 Re:nonがいる以上、常にRe:nonにカメラを向ける。 そんなあたりまえなことさえできないなんて、《レベル》〈質〉が低すぎる。 「以前にも増してオンナの艶が出て来ましたが、やっぱりあれですか? 恋をすると変わるっていう」 「うふふ、露骨な“フリ”ね」 「ここだけの話、気になってる人とかいるんじゃないですか?」 「『わたしが恋しているのは、番組を見ている皆さんです』――――って言って欲しい?」 「うおーーーーっ!! 言ってくれーっ! 俺たちRe:nonファンを湧かせてくれーっ!!」 「残念。わたしの気になる人は、この世でたった一人――――水瀬優真だけよ」 「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお……………………へ…………?」 飛び出した個人名にスタジオ内が騒然とする。 「ああ、検索したって引っかからないわよ? わたしを射止めた人は、あなたたちが想像しているような誰もが羨む有名人じゃないもの」 政治家にも、芸能人にも、スポーツ選手にも、俺と同姓同名の人はいない。 「司会のあなた、何を驚いているの? カンペに従わないから? いいじゃない。あなたたちが欲しいのは、視聴率でしょ? カメラが回っているのが、その証拠」 他の追随を許さなかった大アイドルの問題発言は番組的にも美味しいのか、生放送の中断はされなかった。 「彼はどうしようもなくチャラくて、わたしより“わたし”のファンで、鈍かったり鋭かったりして疲れるけど……」 「くだらない事に本気になれて、終わってからバテられる前向きな馬鹿って、一緒にいて退屈しないのよね」 「Re:nonさん……生放送における発言の重みは百も承知でしょうが、それでも言います。もう取り消せませんよ?」 「“超最強”は去る瞬間も“超最強”。当然、号外が巻かれるくらいにね」 生放送の打ち切りを求めて怒鳴っているマネージャーの声さえも止まる。 それほどに妖艶な、見る物全てを魅了する妖しき姿は――――別次元の美。 「そういうわけだから、今まで応援ありがと。みんなのRe:nonは、たった一人の為だけのRe:nonになるから」 果たして業界をここまで引っ掻き回せる存在が、今後現れるだろうか。 ここまであっさりと、自分本位に、しがらみだらけの業界を抜けだそうとする人がいただろうか。 「あー、こんなフザケタ事を生で言っちゃうわたしが気に食わないなら、どうぞご自由に犯罪に手を染めなさい」 「銃殺、爆殺、毒殺――――手段は問わない。わたしはいつ襲われても、構わないわ」 “むしろ退屈しねぇ”――――牙を剥くトリトナの《かお》〈貌〉が容易に想像できた。 「殺れるものなら、殺ってみるといいわ」 にこやかに。大胆に。人気絶頂時のリノンを超えうる魅力があった。 「言っておくけど、甘くみたら怪我をするわよ? だってわたしは――――“超最強”の《・・》〈人妻〉だから」 数年前、突如として現れ、歴代のグラドルを総舐めにした革命の震源地の電撃引退。 ずっと追いかけて来た、みんなの“Re:non”の出した答えが……俺だけのリノンになること……。 「ま、マジ……ですか?」 「ふふふっ」 俺のつぶやきがスタジオに届いた――――そう錯覚させるくらいタイミング良く、リノンは一人のお嫁さんのようにかわいらしく微笑んだ。 後に語られるであろう歴代最高の瞬間視聴率を叩きだした笑顔は、ポジティブだけが取り柄の馬鹿男に向けられる。 「異論は認めないわよ、あ・な・た♪」 手元に開いた書籍のページをめくろうとした時、倉庫の扉が低い音を立てながら開いた。 「ただいま帰りました~」 「おかえり。今日はいつもより帰りが遅かったようだが」 「馬鹿な教師が何を思ったのか私に作業を押しつけやがりまして。いつもさっさと帰ってるんだからたまには手伝えとか。あー、腹立つ」 「それを含めて学園生活だろう。何事も経験だ」 ノエルが学園に通っているのは世間の目を欺くのと、この世界の情報を仕入れるためである。 ノエルは学園での生活をあまり楽しんでいないようだが、通った事のない私にとっては多少なりとも興味を引く対象ではあった。 「今日は疲れちゃったんで先に寝かせてもらいますね~」 「ああ、問題ない。何かあれば私が対処しておこう」 「お願いします~。今日はうるさいのがいないからぐっすり眠れそうです」 うるさいの、とはひまわりの事だろう。 彼女は今、とある清掃会社に出向いている。そこの社長の大のお気に入りなので、帰ってくるのは明日になる。 「あ~、つかれたつかれた~」 「……せめてベッドで眠ったらどうだろうか?」 ソファーに倒れこんだノエルは、もう私の声すら聞こえていないようだった。 「まったく……」 私は書籍のページをめくった。 「ふぅ……」 書籍を閉じる。長時間同じ姿勢をとっていたせいで身体の筋肉が強張っていた。 「親方がいる時間までに起きそうにないな」 倉庫に戻ってきて一時間ほど経過している。倉庫の中は静寂に満たされていた。 いつも私のために世話を焼いてくれているノエルのために、こんな時くらい何かやってやれないかと思いを巡らせる。 まず思いついたのは夕食を用意する事だが、生憎私には料理を作り出す技能は備わっていない。 仮に知識があったとしても、肝心の材料がこの倉庫には備蓄されていない。あるのは朝食用の食パンくらいだ。 「食事については捨て置こう。ノエルが買ってある菓子もある。下手に何かを用意しても意味はないだろう」 となれば他に何があるだろうか―― 「…………」 しばし思いを巡らせるとある考えに辿り着いた。 食事を用意したり日々の雑事を肩代わりする行為――それで本当に彼女は喜ぶだろうか。 もっと本質的な意味合いで、彼女の思いに応える。私がやるべきなのはそういう事ではないだろうか。 七年もの間、私はノエルの愛に甘え続けていた。内に秘められた苦悩に気づきもしないで。 「よし」 私にできる事――それは彼女の愛に全力で応える事だ。 となれば今すぐ行動に移すべきだ。幸いにも手段については思い至っている。 「ノエル。ノエル? ノエル」 「…………すー…………すー…………すー…………」 軽く揺さぶってみたが、起きる気配はなかった。 「ノエル」 「…………ほひゅひん……すー……すー……」 ためしに頬を引っ張ってみる。 餅のようによく伸びる柔らかい頬だ。しかしノエルは意に介さなかった。 「こんな時に限って深い眠りについているとは……」 ノエルは制服のまま横になっていた。暑さからか、着衣には乱れが感じられる。 「さてどうするべきだろうか……」 「んー……ごしゅじん……」 ノエルが寝返りを打つと、ソファーにこもった甘い体臭がふわりと香った。 「やはり今しかない。キミは私が眠っていても構わず身体を重ねてきた。つまり問題はないという事だ」 「……ふぁ…………」 「失礼する」 制服のボタンを外し、はち切れそうな胸のふくらみを開放する。 まずはノエルがそうしたように、身体に触れ感情を昂らせるところから始めよう。 均等のとれた長い手足を撫でながら、肉感的な肢体を堪能していく。 「ふぁ……ごしゅじ……ん……あぁ……」 くびれたウエストから豊かに実ったヒップまで掌でじっくりと愛していく。 ノエルの柔肉が熱を帯び、甘いため息を漏らす。 「……思えば、ノエルに指示をもらわなければ私は胸も満足に触ってやっていなかったな」 Eカップを悠々と上回るノエルの巨乳は瑞々しく、垂れることも崩れることもなく元気いっぱいに弾む。 下乳の曲線美に手を添え、私は初めて自分の意志で乳房を揉んだ。 「んぅっ……んっ、んっ、んっ……はぁ……はぁ……ぁ……」 むにゅり、むにゅり……ぷにゅっ、むにゅむにゅもみゅっ 「んーふ……ん……はー……んふ……んふぅ……ふぅ……んふぅ……」 「ただの脂肪とは違う。きめ細かな手触り。沈む指が確かに心地よい。なるほど、多くの男性はこの感触を求めるのか」 何百、何千と触れてきたが、意識的にノエルの胸を感じ、興奮材料の情報として取り込んだのはほぼ初めてだった。 「はぁん……ぁ……んぅ……さわってぇ……私のおっぱい……もっと、もっとぉ……」 柔らかい。マシュマロ……いや、もっと別の究極的な存在。女性の象徴である乳房は、女性の乳房。そのものだ。 「しかし、どのくらいまで揉んでいいものなのだろうか」 疑問に思い、少しずつ手に込める力を強めていく。 「ふぅ……んぅぅっ……んぅ……はぁん……ぁ、ぁ、ぁ……ぁぁ……」 むぎゅっ、ぎゅうううっ、もみもみ、むにゅうぅぅぅぅぅぅぅっ! 「ご主人……はぁぁ……ご主人…………おっぱい……ありがとうございますぅ……♪」 手の跡が残るくらいに強く揉みしだいても、ノエルは嫌な顔一つせず――――それどころか、悩ましい声さえ漏らした。 「……夢の中でも、私を想っていてくれるのだな」 私はパートナーに恵まれた。私は孤独ではない。その事に、もう少し感謝すべきだろう。 「はぁ……んっ……ごしゅじぃん……ごしゅじぃん……」 乳房がしっとりと汗ばんだ頃、ノエルは尿意を催すかのように太腿を擦り合わせた。 秘部を覆い隠す薄布にじんわりと染みが広がっている。 「ノエルは私の性処理を施す際、常に濡らしてくれていた。挿入に窮する事はなかったが、やはり指示されない限り自ら触ったことはなかったな」 「ひ、あ……ぁ……っ……」 下着のクイコミに添って指で撫で上げると、ぴくんっ、と静電気に驚くように肢体が震えた。 「ふぁっ、あっ、んっ、んふぅっ――――」 肉厚な盛り上がりを見せる恥丘を《め》〈愛〉で、前戯不要の水たまりに指を差し入れていく。 「……ふぇ……? ごしゅじん……?」 「おお、ノエル。起きたか」 寝ぼけ眼のノエルは、ざっと自分の状況を確認するが―――― 「………………私は馬鹿ですね……ご主人が、いるわけないじゃないですか……むにゃ……」 「む? 合っているぞノエル。私だ」 「うるさいです……せっかく、ご主人といちゃいちゃしていたのに……ふぁ~~……んみゅ。夢の中でくらい……んみゅ……すー……すー……」 「なるほど、私は男性としては不本意といえる信頼の置かれ方をしているわけか」 どうやら私が寝込みを襲うわけがない――――そういう解釈により、現実を夢と間違えて再び眠りについてしまった。 「愛撫を続ければ、いずれ起きるだろう」 ひくつく膣に刺激を与えていく。 「ゃん……ゃっ……あっ……ふぅー、ふぅー……そこ……イィ……イィですぅ……あぁ……」 狭くぬかるんだ膣を弄る度に、ノエルはベッドの上でくねくねと身を踊らせる。 「ぁん……ぁ……んっ……くちゅくちゅ……好きぃ……ごしゅじん……もっと……んっ……」 「――――――ッ!?」 濡れそぼった秘所を指でほぐしていると、私は自らの身体に起きた異様な変化に目を見開いた。 勃起――それも、尋常ではなく雄々しくそそり立っている。 さらに異変は続き、下半身から胸に掛けて疼くようなもどかしさが襲ってくる。 「そうか……これは……ふふっ、ふははっ。なるほど、なるほど、そうか……」 正常な興奮――――擬似的な繁殖本能ではなく、ノエルという個人に対して悪戯をし、湧き起こるであろう当然の人間的な高揚感に包まれていた。 「真剣に考えて相手を求めるという行為は、いとも容易く私を覆すのだな……」 「…………んっ……ふぁっ……ぁぁ……ごしゅじん……」 ノエルが私を呼ぶ声に愛しさを覚える。やはりだ。私の胸中に差すこのもどかしい痛み―――― 私は、今、堪らなくノエルを欲している。 「……いっぱい……触ってくれて……うれしぃ……ご主人……ぁぁ……私も……私にもご奉仕させてくださいぃ……」 本当に寝言なのか疑いたくなるセリフも、今はどうでもよかった。 「すん……すん…………ごしゅじんの……匂い……」 「はぁ……♪ はぁ……ごしゅじぃん……おクチ……さみしぃ……ノエル……おクチさみしいです……」 鼻先でペニスを揺らすと、私の匂いが鍵となってか、硬く閉じていた唇の扉が開いた。 「ノエル、ペニスが苦しい。どうか慰めてくれないだろうか」 「はやくぅ……ここ、のせてくらしゃいぃ……ごしゅじんのおち○ぽ……さみしいおクチに……あーん……あーん……♪」 ノエルが“おいでおいで”と舌先を左右に振る。 私は迷わずペニスの先端を灼熱の唾液にまみれた受け皿に載せた。 「はぁぁぁむ……♪ んーちゅ……れろん。おいひぃ……ごしゅじんの味ぃ……んぷ……ちゅー、ちゅー」 舌を起用にたたんで半分ほどを口内へ仕舞いこみ、美味しそうにペニスをしゃぶりはじめる。 「んちゅ……ちゅ……これ、しゅきぃ……ちゅぅ……ちゅぅ……しゅきぃ……」 眠っている分“処置”の時のような激しさはないく、口内で味わうように転がし、舌で優しく可愛がるフェラチオだった。 しかし私の興奮状態は異常――――否、一般的な正常さを取り戻しており、充分過ぎる快楽が突き抜けた。 「ん……れろ……れろ……くちゅ……んちゅ……くちゅ……ぺろ……れろ……」 「っ、っ、っ、ノエル……いい、ぞ……」 「……♪ ……ごしゅじん……♪ れろぉ……ちゅっぱちゅっぱ……」 悦びに背中を押されるがまま柔らかな髪を撫でると、ノエルは頬を真っ赤にして奉仕に熱を入れた。 「……っ……まずい……なんだ、この気持ちよさは……」 胸が高鳴り、奉仕されていることに至上の悦びさえ感じてしまう。 今までにない尿意に似た強い射精願望が生じるが、さすがに同意もなく口内に吐精するのは問題があるだろう。 「……ちゅっ、ちゅぅ~~~~~……ちゅずぅ~~~~~~……♪」 「な、に……?」 ペニスを引き抜こうとすると申し合わせたように舌が巻き付き、逃がすまいと強く吸引してきた。 「おくひ……らひて……せーえひ……ちゅーちゅー……せーえひ、のまへれ……んちゅ、ちゅぅ~~♪」 「起きた……わけではないのか……? くっ、このままでは……」 無意識に精液を欲しがるノエルが唇の締め付けを強め、ペニスは簡単には抜けない状態になった。 「ちゅっ、ちゅうっ……れろ、れろっ、んーむちゅ、ちゅぱ……ごっくん、させへぇ……せーえひ、ごっくん……ちゅぱ……ちゅぱ……」 「ノエル……ッ! すまない……出すぞ……ッ!」 どぴゅっ、びゅるびゅるびゅくぅぅううぅぅ~~~~っ!! どぴゅどぴゅどっぴゅんっ! びゅるぶぶびゅぅぅぅぅぅっ!! 「――――んぶっ、んぅ~~~~~~~~~~っ!?」 「ぶぇふっ! ぉふっ! ンンッ!?!?!? ごひゅじ――――んぶぅぅぅっ!!」 「の、える……っ! ぐっ! ぉ、ぉおっ……!」 腰が砕けるような甘い衝撃が私を襲った。 全身の動きが止まり、思考が快感に縛られ、味わったことのない本物の絶頂感に支配される。 「ン!? ン!? …………ンクッ、ごくごくっ……ごきゅ……んっくんっ」 ノエルは起き抜けの大事件の当事者でありながら説明も求めるでもなく、第一波を急ぎ足で飲み込むことに集中した。 どんな状況であれ、私を受け入れることを優先する奉仕精神に、私はさらなる胸の痛みを覚えた。 「んぅ……ちゅ、れろっ、れろ、れろっ、ごっくん。んっ、ちゅっ、ちゅっ、れろっ、ちゅるるっ」 ゆるやかに射精を続けるペニスに舌で包み、私にとって気持ちのいい時間が持続するように働きかけてくれる。 柔らかでいてザラつくベロに擦られ続けたおかげで、射精はなかなか止まらなかった。 「ノエル……っ……っ……もう、出し切った……」 「ん……あ、ご主人、抜いちゃダメですよ。まだおち○ちんのお掃除が済んでいませんから、もう一度、入れ直してください」 “あーん”と再び口を開けるノエルに従い、よだれのように精液を垂らすペニスを舌の上に載せる。 「あむ…………ちゅぅぅっ……ちゅる……ちゅううぅ~~~♪ ちゅ♪ ちゅ♪ ちゅ♪」 ノエルはこびりついた白濁を全て舐めとり、溝の恥垢を舌で削ぎ落とし、先端に口付けをしてストローのように残滓を吸い立てる。 「ちゅ……ん……れろれろれろれろぉ……♪ んぱんぱんぱ。ちゅっちゅっ……れろちゅうっ♪ はい、綺麗になりました」 根本から軽く手で扱きながら愛おしそうに亀頭部を舌で癒すと、ペニスは磨き上げたように綺麗になっていた。 「……んふ……美味し……♪ それはそれとして、一体全体これは、どういう事なんですか?」 「お前の想いに応えたい。そのためにはどうすればいいのか」 「その答えがこれですか? んふっ、大正解ですよ♪」 「あ、でも……無意識に噛んでしまったら危険ですから、おしゃぶりして欲しくなったら起きている時に声をかけてくださいね」 何故、こんなにも彼女は“無条件”に優しいのだろう。 「射精の時……凄く、気持ちよさそうな可愛い顔してましたね。眠っている無防備な女の娘を犯す……ご主人の新しい性癖が知れて嬉しいです」 「制服がほとんど脱がされてます……うふふ♪ ご主人、私のことたっぷり可愛がってくれたみたいですね」 変だ。この感覚。焼けるような胸の疼きが取れない。 「あ、あれ……? ご、ご主人が私に甘えてる……?」 余韻を味わうように舌なめずりをするノエルの髪を撫でるが、ズキズキとした高鳴りは増す一方だった。 「肉体を触れ合わせる事で、互いに快感を得る。お前がいつも私の胸に頬ずりするのはそういう事なのだろう」 「妙ですね……でも、撫でられるのは悪くないです。そんなにイイのでしたら、性欲処理のメニューの候補として検討しましょう」 「愛がなければ処理だろう。だが私はお前を愛したいと思っている。だからこれは欲望の処理などではない」 「ご、ご主人がそんな風に言ってくれる日が来るなんて……自分、泣いてもいいですか」 「涙を流している暇はない。これまでの空白を埋めなければいけないのだから」 「さて……続きはベッドでしようか」 「えっ、ちょ、え、え、え――――!?!?」 ノエルを抱きかかえ、二階に続く階段を上る。 すぐさま上から組み敷くと、ノエルは“え?”を壊れたボイスレコーダーのように繰り返した。 私はノエルが壊れている間に、素肌を隠す布を出来る限り脱がしていく。 「え、何して……え? え? “え”ってヤツですよね、コレ。これ“え”ですよね? え?」 何も知らない無垢な少女のように、されるがままに美麗な肢体を露わにする。 「ノエル……綺麗だ。私にはもったいないとさえ思える」 「の、の、ののののののえる準備できてない。のえるこんなの、夢でも見たことない。のえる理解不能、のえるテンパってる」 「困らせてしまってすまないが、私は本気だ」 「あ、嘘。嘘の顔だ。知ってるんだぞ、ドッキリだろ!? もしくは撮影してどこかに売るつもりじゃ……あ、偽物――――偽物かぁっ!?」 「合点がいったぞ、貴様、私とヤりたいだけの変態ウジ虫野郎だな。よくもご主人に化けたものだ、その薄汚い魚肉ソーセージを噛み砕いてやる」 「ノエル……」 私は変わってしまったのかもしれない。ノエルの態度が、照れ隠しの去勢だとわかってしまった。 わかってしまった私に――覆いかぶさる以外の選択は、ない。 「ひゃぅっ、お、お、お前ぇぇぇなにしてんだぁぁぁっ! クチんなか歯抜けの鍵盤みたいにしてやろぉかぁっ!?」 「静かにすれば聴こえるはずだ、私の鼓動が」 「っ…………っ……心臓……ドキドキしてます……ご、ご主人……これは、どんなトリックですか……? 一体、どうしちゃったんですか……?」 「種は、ない。強いて言えばノエルと同じだろうか」 「ん!? んっ――――」 「きしゅ……ご主人から……こんなに甘いきしゅ……ちゅ……ちゅ……ちゅ……んはぁ~……♪」 「ドッキリでも、別の目的があるわけでもない」 「い、インチキじゃない……?」 「ウジ虫でも偽物でもない」 「ほ、ホントぅ……?」 「ただ、一点――――“ノエルとヤりたい”の部分は、否定出来ない。私はお前が欲しいのだから」 「すぅぅう、ウッ、ふか、ふか、カフっ――――こふっ……こぉ……おっ……おっ……」 「いけない」 過呼吸を起こすノエルの背中を擦り、落ち着くのを待った。 呼吸が一定のリズムを取り戻した頃、ノエルは慌てるように私の首に両腕を巻きつける。 「そんなに強く抱きしめずとも、私は逃げない」 「あぅ、あぅ、も、もう一度、言ってください……私が、欲しいって」 「愛している。今すぐにお前を抱きたい。性処理などではない。純粋にお前が欲しいのだ」 「ご主人っ、ぁぁぁぐ……破壊力が……高すぎます……ノエル……感激ですっ」 いっとき爆音となっていたノエルの鼓動は、段々と落ち着いてきた。 その分、ホオズキのような頬と私を見つめるうっとりとした視線は熱を増している。 「ノエルは血の一滴までご主人の物です。ご主人のためならなんでもします」 「なんでもか……では、ノエル、私の為に幸せになってくれ」 「ぁ……あぁ……ご主人、ご主人から私を求めてる……嘘じゃないってわかったのに、完全に信じることができない……通算972回に渡るワンマン騎乗位が脳裏をよぎって……ぅぅ!」 「972度も跨らせてすまなかった。これから私が跨る番だ」 ぬるん、ぬるんっ、ぬっちゅ、ぬっちゅ…… 「ぁ、ぁ……おま○こっ、擦れてる……うれしぃ……ご主人から擦って、あぁ、入っちゃ、このままじゃ入っちゃっいます……」 「ノエルは、して欲しくないか?」 「して欲しいです、大好きなご主人のおち○ぽなら、いつでも大歓迎です。ご主人の為にノエルはいるんですから」 「ノエルは、私の物だ。誰にも渡すものか」 「はぁ~~~~♪ はいぃぃ~~っ♪ ノエルのおま○こは、ご主人専用です。ご主人以外、見ることも触ることも許されません」 挿入を試み、ぬめつく秘部にくちゅりくちゅりと擦る私を、ノエルは蕩けた瞳でぼうっと眺めている。 「ご主人を想って濡らしちゃう、のえるのイケナイおま○こ、ご主人のおっきなおち○ぽで塞いで、たくさんハメてください……」 先端が極小の窪みに引っかかったところで、ノエルが誘導するように背中を撫で、頬ずりをしてきた。 「そこです、そこ……そこに欲しいんです。おち○ぽ、そのままグッて、押し込んで、ご主人と一つにさせてください……」 「一緒に気持ちよくなろうか」 「ご主人んんん……♪」 ズブブブブブッ、ズブンッ! 「あっ、あっ、あっ! あぁぁぁ~~~~~~~~っ! ほ、本当にっ、ご主人がぁぁ……!」 狭い肉壁を男性器のサイズに拡張しながら押し進めていき、最奥に達したところで―――― 「はひっ、ンッく、イッ、っっっ、おま○こ、イ、っちゃ、あっ、ひぐっ――――ンきゅぅぅうぅぅぅうっ!!?」 盛大に果てたノエルが尋常ならざる怪力で私を抱きしめる。 骨が軋むほどの力――――無意識に力んだノエルに、もちろん悪意はない。 「んぅぉ、ぉ…………は、はへぇ……はひぃ……ふー……ふー……はへ……」 私が首の痛みを我慢していると、次第にノエルは弛緩した。 「大丈夫か……?」 「ご主人から……おま○こしてくれたの……ノエル……嬉しすぎて……イクの、我慢できませんでしたぁ……」 今まで私がノエルにしてきたのは“合わせる”セックス。 空気を損なわない為、失望させない為、自分の為……。 濃厚に腰を振り、快感を高める為に必至になる、猿同然の行為だ。 こうしてノエルに気持ちよくなってもらえることが、今は堪らなく嬉しい。 「うぅぅ……な、何ですか? 人の顔を、じろじろ見ないでください……恥ずかしい、です……」 「見られたくないのであれば、逆に抱きついてしまえばいい」 「あっ……んっ……ぎゅーーーー……はぁ~~~♪ こうやって、抱きつきながら、イけるの、初めて……これ、好きぃ……」 苦しいくらいの怪力ハグが、今、抱いているのが他でもないノエルだと認識させてくれる。 「安心していい。お前がどんな反応をしようと、私は嫌いになったりしない。私も、お前の為に存在しているのだから」 私は肉ひだの一つ一つが感じ取れるくらいにゆっくりと抜き差しを開始した。 「あっ……あぁぁんっ……すごい……ご主人から、動いてる……ご主人のセックス……優しい……」 「性欲剥き出しのガツガツした動きじゃない……ゆっくり時間を掛けて、ご主人のペースで私を愛してくれてますぅ……」 ぴくぴくと痙攣し、幸せそうに私を掻き抱くノエル。 確かにノエルの膣は、良く締まり、粘液をまとい、男性器に絡みつく極上の穴だと思う。 しかし――――私は終わらせる為だけのセックスよりも、私によってノエルに満足感を与えている事が嬉しく思えている。 「あぁぁ……私の乗っている時の動きとは全然違います……なんだかんだ言って、結局は、ご主人で気持ちよくなることしか頭になかった私とは、違い過ぎますぅ……」 「アレは、性処理が名目だったはずだ。ならば、私を導く為にノエルが激しく動くのは矛盾していない」 「ご主人……性処理なんて取ってつけたような嘘なんです。ホントは私がただ……ご主人とえっちがしたくて……毎日でもしたくて……だから……」 今さらながらに、けれど言いづらそうに告げるノエル。 そんな姿が、いじらしく、微笑ましかった。 “私としたかった”という本音を、私が嫌がるはずもないのに。 「愛し合っている二人に、理由はいらない。見つめ合う事で生じる切なさに、身を任せるだけだ」 ぬぷぅぅぅ……ずぷぷぷぷぷぅぅ……っ! 「ひぁぁぁっ、あっ、~~~っ! ゆっくりされるの、イイですぅ、おま○こに入ってるの、ご主人のおち○ちんだって良くわかって、ステキですぅっ」 ノエル同様、私にもノエルの膣の形が伝わってくる。 精神的興奮で敏感になった私達は、物理的な刺激よりも、ゆっくりと愛しあう時間が幸せに思えた。 「あんなに興味がなかった私の身体を……ご主人が求めてくれる……こんなに幸せなこと、他にありません……」 ずるぬぷぷぷぷぅぅぅ……ずぷぷぷぷぷぅぅぅ……っ! 「ご主人のおち○ぽ、好きすぎちゃうから、あーっ、あーっ、ゆっくり抜き差し、嬉しいです……んぅうんっ……動いてくれてる……」 絡めた肢体。 恋仲にのみ許された密着感。 ノエルの浴びせる、優しい言葉の数々。 性器のみの結合とは全く違う、二人で一つの熱の塊にでもなったような一体感があった。 「んぅぅっ、はぁ……はぁっ……ちょっとずつ動いて、感じあって……ご主人とはもっと色んなえっちしてきたのに、今が一番、きもちぃです……」 「同じキモチだ……」 「ご主人にも、気持ちよくなってもらいたいです。おち○ちん気持ちよくなって、ノエルの中で心ゆくまで精液を吐き出してください」 「ああ……」 「あぁ、でも、こんなに幸せな状態で、おま○こにビューって出されたら、のえる死んじゃうかも……腹上死しちゃいますぅ……」 「……っ……ノエル……」 「ノエルはっ、ノエルはっ、いつでもっ、ご主人のことだけを考えてるんですぅっ! ご主人、愛してますぅっ!」 何度、心のなかで叫んだであろう本音は、冗談や日常で聞いた声とは僅かに違っていた。 行為を続ける度に胸に募っていく切なさと、灯っていく情熱――――それが恋愛感情の類であると、私は認めた。 「ノエル……私も好きだ……心ゆくまでノエルを堪能させてくれ」 段々と思考が鈍り、霞み掛かったような頭は純粋に射精欲求に従いだす。 「あっ、あっあっあっ、おち○ちんが、ノエルのおま○こに射精する準備っ、始めましたっ、あっ、あっ、精液受け止める準備、しますぅっ」 「ンッ、ンッ、ンッ、奥っ、こちゅこちゅっ、んぅ、あーっ、あーっ、小刻みにおま○こされるのっ、きもちぃ、きもちぃ」 ズチュッ、ズチュッ、ズチュッ、ズチュッ、ズチュッ!! 「あっ、ぁああんっ、激しいのも、いいですっ、ご主人に求められてるの、うれしぃ、おま○こして、もっと、もっとおま○こしてぇっ」 「ノエル……ッ! ノエル……ッ!」 「んぁッ! あっ、あぁっ! ご主人っ、ご主人っ!」 高め合う時間は刹那的だった。 上り詰める事の一体感が私達を包み込んでいく。 「ノエル、一緒に行こう……ノエルッ」 「ふぁっ、んっ、あっ、んっ、あっあっあっ、あ~~っ♪ ぃ、イク、おま○こイクぅ、一緒に、イって、せーえき、くださいぃっ、おま○こにっ、くださいぃぃぃっ!!」 「ンきゅうぅううぅぅうぅぅぅぅ~~~~~~~~ッ! ん~~~~~~~~~~~ッ! ~~~~~~~ッッッ!」 ぼびゅるっ、びゅるどぴゅるるるるっ、ぶびゅるぶびゅるぶぴゅうぅぅううぅぅぅぅぅぅぅっ!! 「ふゎあぁっ! ぁ、熱ぉのぉ……びゅーびゅー、れて……はぅんん……んんぅ……っ!」 「全部……出すぞ……」 ノエルの狭い膣内では収まりきらないほどの精の奔流は、既に吹きこぼれを起こしたように結合部からあふれているだろう。 それでも最奥をぐりぐりと押し当てたまま、最後の一滴まで絞り出すように子宮を愛し続ける。 「……ふぁ……ぁぁ……もう、射精終わったのに……おち○ぽ、こしゅこしゅしてりゅぅ……あぁふぅ……おま○こにこしゅりつけてりゅぅ……」 「まだ……出て……はひ……お腹のなか……ごしゅじんで、いっぱい……んっ、んっ……」 どびゅる……どびゅる……どびゅうぅ…………びゅるう…… 「……すごい音ぉ……ごぽごぽ……おま○こに直接、せーえきそそがれてぇ……んぁ……幸せですぅ……」 抱き合いながら絶頂の余韻に浸る。自分を導いてくれた相手に、自分も気持ちよかったと伝えるように、強く強く抱きしめる。 「ふぅ……はぁ……ノエル……」 「ん……ぁ……ご主人……♪」 「……とても気持ちよかった……愛している」 「んふ……♪ 私も、ご主人と一緒にイけて、嬉しかったです……♪」 「ちゅ……♪ ご主人……愛してますよ……ちゅっ、ちゅっ、んちゅ♪ しゅきぃ……だいしゅきぃ……♪」 「私も愛している。これからも、ずっと一緒に居て欲しい」 「未来永劫、二人の“魂”が消滅する日が来ても、その先も、ずっとずっと愛し続けます……♪」 私から歩み寄ることで、ノエルと本当の意味で結ばれた気がした。 まどろみから覚めると、自分のいる場所がソファーの上だと気づいた。 「……あぁ、あれからまたノエルを抱いて、共に水を浴び……私は倒れるように横になってしまったのだ……」 状況を整理し、自分に言い聞かせると――――チクりと刺すような痛みが突き抜けた。 「――――ノエル……?」 「底抜けの性欲、まさに絶倫といったところでしたよご主人」 「これはまさか……」 「そうです、その通り正解です。上げてから落とす、反抗期メイドでございます」 「いや、そんなことは聞いていない。何をしている」 「ずっとやってみたかったんですよ♪ 大事に大事に扱ってきたご主人のおち○ぽを足蹴にする背徳感。とても新鮮です……♪」 起ち上がったペニスに宛てがわれた足裏が上下に揺れる。 人工的な繊維の感触に刺激されても、私は興奮を覚えたりはせず、この状況を異質に感じるだけだった。 「ご主人、誓ってくれたじゃないですか。何をしても私を嫌いにならない、って♪」 「む……」 「私、ご主人の色んな表情を愉しみたいんです。蝋燭を垂らされたり、お尻に棒を突っ込まれて感じちゃうように開発してあげましょうね」 「断る。少し考えてみて欲しい。同じ事をされたら、お前はどう思うだろうか」 「キャッ! ご主人、ノエルにそういうことしたいんですか? いいですよ、あなた好みに調教して♪」 「ノエル、いけない。明るいうちから、私に何を求めている」 「ふふふ、さすがに開発は冗談ですけどね」 小悪魔的な笑みは、私を戦慄させるには充分な威力を秘めていた。 「これは寝ている私に悪戯を仕掛けたお返しです♪」 ぎゅむ――――ッ!! 「むっ……」 「朝勃ちち○ぽ、踏んづけちゃいました。ふふっ、骨があるような硬さですねぇ」 仮にも“主人”と呼ぶ相手の急所を踏みつけるとは、いかなる心境なのだろうか。 私は呆れと不安を一対一で感じていたが、肉体は意に反してノエルの柔らかな脚奉仕を悦んでいるようだった。 「ほらほらどうしたんですか、黒ニーソがキモチイイんですか? 部屋干し黒ニーソの誘惑に勝てないんですか? ニーソコキ願望があったんですか?」 おかしい……確かに私は昨晩、限界までノエルと愛を語り合ったはずだ。 その相手に何故“ニーソ”を連発され、質問攻めにされるのか、まったくと言っていいほど理解ができない。 「…………夢、か……」 「……うふふっ」 「ッ゛!?」 ノエルの踵が、私の睾丸を直撃した。 手加減したのか、ややソフトな当たり方ではあったが、確かな痛みを覚えた。 「いけない。ノエルそれはいけない」 「これがいいんですね♪」 「いけないと言っている。急所蹴りは禁忌とされている。軽く踏むのさえ、危険だ。危険を察知した私の身体が、お前を蒸発させかねない」 「では、こちらだけは飛び切り優しく、優しく、丁寧に、丁寧に、マッサージをしてあげますね」 足の裏で揉み込むように睾丸を刺激されると、嘘のように痛みが消えていった。 「ん……しょ……ん……たまたま、コロコロするのと、ぷにぷに踏むの、どっちかいいですか……?」 「強いて言えば、表面を擦る方だろうか……」 「それ、天然のM体質ですよご主人。立場逆転して、ち○ぽいじって欲しい、って泣いて懇願したりしないでくださいね……?」 「ない」 即答で否定できるが、しょりしょりとしたソックスの感触はなかなかに心地良い。 私の脳も潰される心配がないと判断したらしく、やや危なげはあるが静観できる状況にはなった。 「あぁ、もうガチガチですね。たまたまのマッサージが効いたようです。では、おち○ぽの方も踏んでいきますね」 「んーしょ、んーしょ、足裏すりすりされて、おち○ちんぴくぴくしてますね、ふふ、こんなので感じちゃうなんて、可愛いご主人♪」 器用なノエルが脚を使いこなしているだけで、受ける感覚としては手でされるのに似ている。 とはいえ、ソックスの粗めの生地に擦られる刺激は、味わったことのないものだ。 「素肌での奉仕は飽きるほどしましたから、生足でも同じだと思ったんです。こういった感触も、たまにはいいでしょう?」 「ちょうど、そう考えていたところだ」 しなやかな脚を膝上まで覆い隠すソックスが、今は勃起したペニスを悦ばすアイテムとして活躍していた。 「んー? ご主人のいやらしい視線が、つま先からすすすーっと上がっていってますね。膝小僧の先、ふとももの上、私のおま○こがある場所……♪」 股間に注がれる視線に気づいたようだが、ノエルはスカートを押さえようとせず、それどころかつまみ上げて下着を見せつけてくる。 「ホントは私のココに出したいんですね。こんなことをする私を押し倒して、精液をたっぷり飲ませて、主従関係をわからせてやりたい……そうなんでしょう?」 「この体勢において適正とされる位置に視線を持っていっただけだ」 「いいですからっ、ご主人の事、手に取るようにわかりますから。私は正しいんです」 「…………そうだな、ノエルはいつも正しい。私はノエルとセックスがしたい」 「でも、だーめ♪ ふふ、本番は夜までお預け。心配なさらずとも、ノエルのおま○こに中射精できるのはご主人だけですよ?」 「光栄なことだな」 ソックス越しの摩擦は非常に強く、ペニスがじんじんと痺れていく。 「あれあれ? さっきまで乾いた音だったのに、ぐじゅぐじゅって、水っぽい音に変わってきましたね。どうしてですか?」 「足の裏全体に広がったカウパー液の音だろう」 「中途半端に濡れてるよりは、ちゃんと濡らしたほうがおもしろそうですね……」 ノエルは何を思ったのか、口をもごつかせ…… 「くちゅくちゅ、ぇろ~~~♪ これで、よし、と……」 ノエルは結構な量の唾液をペニスに垂らし、再び脚奉仕を再開する。 「のっ、っ……」 「あぁ……♪ ご主人、息が上がって、苦しそう。濡れたおち○ぽがイイんですね……♪」 じゅくっ、ぬじゅっ、じゅっこ、じゅっこ、じゅっこ…… 「イイ顔ですよ、おち○ぽ擦ってもらうことしか頭にない顔♪ このまま脚だけで果てちゃったらおもしろいですね」 「どうだろうな」 「反応薄いですね……私の気分を害したら、ご主人は自分で自分を慰めることになるんですよ?」 ぴたりと脚の動きが止まる。 犬に待てを命ずるような、上から目線が私を射抜いた。 「やめて欲しくなかったら『醜いおち○ぽを悲鳴をあげるまでシコシコしてください』くらい言えないんですか?」 「…………」 「なんですかその顔は。不満があるならおっしゃってください」 私に不満はない、ただ自分の身に起きている謎の感覚に戸惑っていた。 苦悶と悦楽の狭間――――私の知らない“痛気持ちよさ”という種類の快楽がじっくりと下半身に熱を溜めていく。 「いいですけどね、私は愉しいですから。ふふふ♪ どんどん、強くしていきますよ」 じゅくっ、じゅくっ、じゅこじゅこじゅこじゅこっ!! 「私の脚で、うっうっ、てイキ顔さらしちゃうんですね? あぁ、恥ずかしいご主人」 状況は時に人格をも変貌させる。ノエルは今、私に辱めを与えるプレイを十二分に愉しんでいた。 「早漏なご主人もかわいいですねぇ、本当はおま○こでしたいのに、罵られて惨めに脚で無駄に射精しちゃうご主人超かわいい……♪」 「ほら、ノエルの脚に掛けていいですよ。変態ご主人の欲望丸出しの精液、ぶっかけられてあげます。感謝してくださいね」 「ぐっ……く……なるほど……」 先っぽを擦られ続けた効果が表れ、煮えたぎるような痺れが渦巻いた。 「イキたいって、私におねだりしないんですか? 射精のきっかけ与えて欲しいって、いい子におねだりしてみてくださいよぅ」 「ノエル……射精させて、くれ……」 「イク時、ちゃんと私の名前を呼んでくださいね。イかせてくれた私に感謝して、私の事を考えて精液を出すんですよ?」 「わかった、だから、頼む……」 「くすっ……ご主人のお望み通りに……♪」 容赦の無い足指の猛攻により、ペニスの裏筋がこれでもかと擦られる。 「ンッ、ンッ、ンッ、安心してくださいねっ、イってもシゴき続けてあげますからっ、しゃくりあげてびゅくびゅく精液撒き散らすち○ぽ、いつまでもゴシゴシしてあげますっ」 「だから、気持ちよくなってください。私の身体なら、どこを使っても気持ちよく射精できるとこ、ちゃんと見せて下さい」 「ノエル……ッ!」 「んっんっんっ、ねっ、ご主人、苦しいの終わりにして、どぴゅどぴゅして、楽になっていいですよ、ほら、ほら、ほらっ――――」 どぴゅ、ぶびゅるうゅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ! ぶびゅっ、ぶびゅっ、どぴゅどぴゅどぴゅううぅぅぅぅぅうぅぅぅぅうぅぅぅぅぅぅっ!!! 「あっ、あーっ♪ 出たぁ♪ ご主人のせーえき、ゃんっ♪ 凄い勢いっ、私の頬まで飛んできましたよ。ぺろっ」 「うっ……ぐっ……っ…………っ……」 「イっても擦ってあげますから、イキ続けられますよ。んしょ、んっ……んふぅ♪ 熱いの、どぷどぷ、いっぱぁい……♪」 ノエルの手解きにより、射精に伴う快楽が延々と持続する。 私は荒い呼吸を繰り返しながら、打ち上げられた精液がノエルのあちこちに掛かっていく様を見ていた。 「良し、っと。朝のお務めはこれにて終了です。タオルを絞ってきますから、待っていてくださいね♪」 「……ノエル」 「はい?」 「今日は精のつくものを頂く。夜が更けた頃、私と同じ……それ以上の目に遭わせるつもりだ」 「はい♪ 手加減なんてしなくていいですから、ノエルの事、壊すくらい激しくしてくださいね♪」 「………………」 結局ノエルは私とであれば、されるのもするのも好きというわけか……。 では私は、いつ休憩を取ればいいのだろう。 少しルールを決めないと、“魂”が消滅する日も、そう遠くないように思えた。 蜜のように甘い時間はひまわりの帰宅と共に一旦終わりを迎えた。 それを名残惜しいとは思わない。私達の行く先には光の差し込む未来が待っているのだから。 「二人ともー! はやくはやく!」 「ああ、今行く」 帰宅したひまわりを含めた私達三人は“しののめフラワーパーク”に出向いていた。 ここに来るのはあの日以来だった。 「ご主人、ごめんなさい」 「急にどうしたのだろうか」 「いえ、ちゃんと謝ってなかった気がするので」 「謝る必要などない。お前は私の為に事実を隠蔽しようとしたのだろう。ならば咎めるつもりは一切ない」 “ナグルファルの夜”で私達に降りかかった出来事について、あの日以降ちゃんと話しはしなかった。 真実は全て明らかになった。それ以上追求する必要はなく、私からその話題を振る事はなかったのだが。 「全てはご主人のため……なんて言ったら嘘になります。結局、大義名分を盾にして、自分の都合がいいように仕向けたんですから」 「私は怖かったんです。葵にご主人を取られるのが」 “江神葵”――七年前に“ヒストリア”の器となった少女。私は彼女と出会い、人間に対しての興味を持った。正確に言えば、葵に対して執着心を抱いていた。 今、ノエルやひまわりに抱いている感情を、私は七年前にも確かに持っていたのだ。 「愚かですよね。取られそうになって初めて自分の気持ちに気づくんですから」 “《ディストピア》〈真世界〉”に来る以前は、今ほどノエルは私に執着していなかった。当然だろう、愛という感情を私達は理解していなかったのだ。 「ご主人が葵の事を忘れて、私は心のどこかでほっとしていました。邪魔者がいなくなったと喜んでいたんです」 「お前が本当に損得だけで動いていたのなら、あれほど苦悩する事もなかっただろう。あまり自分を貶めてはいけない」 「…………」 「責められるとするならば、全てを忘れてのうのうと日々を過ごしていた私の方だ。だからそれ以上悲しい顔をしないでくれ」 「私のせいでお前が悲しむのはもうこりごりだ。だからもう自分を責めないでほしい。私の為を思ってくれるのなら」 「……わかりました。湿っぽい話は終わりにしましょうか」 「何してるのー!! はやくこっち来てよー!!」 ひまわりに急かされ私達はオオアマナで埋め尽くされた道を進んだ。 「あれぇ~、ひまわり達の前に誰かお花置いてってるよ~。赫くんが持ってきたのとおんなじやつだよ~」 「偶然、ではないだろうな」 記念碑の足元には、私が持参したのと同じモミジアオイの花束が置かれていた。 偶然かぶってしまうほど、モミジアオイという品種はメジャーではない。 「ノエル」 「ええ、恐らくは。ただあの男が花を添えてる光景は、似合わな過ぎて想像できませんけど」 七年前、ここで命を落とした少女が好きだった花――肉親であれば知っていても不思議はない。 「彼は私を恨んでいると思うか」 「いえ、それはないでしょうね。あれは良くも悪くも独自の価値観を持ってましたから。全てを思い出したご主人に、これ以上何かをするつもりはないでしょう」 「奪われる覚悟、か」 家族が奪われれば、大抵の人間は怒り狂うだろう。だがノエルの言うように、江神はそうではなかった気がする。 彼が許せなかったのは、奪った自覚を忘れて生きていた私なのだろう。 だが添えられたモミジアオイを見ると、一概にそれだけだと言えない気もする。 「ん~」 横にいたひまわりは目を閉じて両手を顔の前で合わせていた。 「何をしているのだろうか」 「お祈りだよ。お墓参りにきたらお祈りしないといけないんだよ」 「これはお墓じゃありませんよ」 「そうだな」 この慰霊碑の下に、命を落とした人間は埋まっていない。 それでも人々は数多く作られた慰霊碑を目にする度に過去の悲劇を思い出すだろう。 だが私には必要ない。もう二度と、忘れたりはしないのだから。 持参したモミジアオイの花束を慰霊碑に添える。 「行こう、用は済んだ。私達は彼らの分まで未来を生きなくてはならないのだから」 過去を振り返るのはこのくらいにしよう。 大事なのはこれから何を成すか、何を守り通せるか―― 「……はい? 何ですか? そんなに見つめられると恥ずかしいんですけど」 「なんでもない。ただお前を見ていたかっただけだ」 隣を歩くノエルは一瞬虚を突かれたらしく目を丸めて私を見上げた。 だがすぐに微笑んで―― 「ずっと私の事、見ててくださいね」 満面の笑みを浮かべて私の腕を絡め取った。 「ねぇねぇ、帰りにゴハン食べに行こうよー♪」 「そうだな。私はどこでもいいが、何か希望はあるのだろうか」 「はいはいっ♪ お肉! お肉が食べたいですっ!」 「ではそうしよう。ちなみに先ほどキミは慰霊碑に向かって何を願ったのだろうか」 「えとね、赫くんのお嫁さんになれますようにって♪」 「はぁ!? あなた何ふざけた事ぬかしてんですか!? ご主人の妻は私だけですよ!」 「私達には戸籍がない。役所に書類を提出しても婚姻関係を結ぶのは不可能だ」 「だが――」 私は両側に並ぶ二人に向けて視線を送る。 「そのようなものは必要ないだろう。こうして同じ時間をこれからも共に過ごしていけたなら、それに勝る喜びはない」 「違うだろうか」 ノエルはもう一度、極上の笑みを浮かべた。 「はい。これからもずっと一緒ですよ♪」 時間の針は誰かの意志と関係なく前に進んでいく。過去に戻ってやり直す事は誰にもできない。 理不尽な世界にいる私達のできる事――それは今を全力で生きてゆく。それは一筋縄ではいかないだろう。 だが愛すべき人が共に歩んでくれるのならば―― きっと明日の空も青いに違いない。 「ノエル、愛している」 「はい、私もですよ」 東雲統合学園――図書室。 私は今その部屋の中で椅子に腰を下ろし、積み重ねた書籍に目を通していた。 「キミはずっと同じ書籍を読んでいる。別の物を読みたいとは思わないのだろうか」 彼女とこうして読書に勤しんでいるのには理由がある。 今日になって彼女の父、九條剛三から私達二人に話があると呼び出しを受けていた。 彼の業務が終わる約束の日時まで、こうして時間を潰しているというわけだが。 「そうですね、たまには他の本を読んでみてもいいかもしれません」 「ですがこの本も、今までとは違った見え方がしておもしろいのですよ」 「今までと同じ書籍なのだろう?」 「どんなものでも、見る人が変わればその分だけの見え方があると思います」 「なるほど、興味深いな」 「時に九條、実はもうひとつ気になる案件があるのだが」 「何でしょうか?」 私は手にしていた書籍を机に伏せた。 「愛と性行為の関連性についてだ」 「……はい?」 「今しがた読んだ書籍に記されていたのだが、人間はセックスにおいて快感を得る生き物だ」 「えと……まあ、そうなのではないでしょうか……」 「愛が大きければ大きいほど、繰り広げられるセックスも激しく燃え上がり、より快感を得られるらしい」 「赫さん……あの、公共の場でそういった話をするのは……」 「周囲に人間がいないのは確認済みだ。誰かに聞かれる心配はない」 「…………」 「つまりこの書籍に書かれている内容が正しいとするならば、セックスとは愛の大小を測るのに最適ではないだろうか」 「……そうかもしれませんね」 曖昧に微笑む九條。 「それでだ、キミに協力してほしいのだが」 「何をですか?」 「今から私とセックスをしてくれないだろうか」 「…………」 「えぇっ――!?」 「今現在の状態を把握したいのだ。様々な経験と情報で、愛についての知識は広がったように感じている」 「だがそれは私の主観だ。誰かに肯定されたわけでもない。確かめる術があるのなら是非とも試してみたいのだ」 「だから九條、私とセックスをしてくれ」 「してくれと言われましても……その……」 「何か不都合があるのだろうか? キミとは一度身体を重ねた。初めてではないだろう」 「そ、そういう問題ではありませんっ。えと、心の準備とか……そ、それにこんな場所では……」 「人目を気にしているのだろうか。今この部屋には私達の二人しかいない」 「もし誰かが入って来たとしても、視界に入らない場所なら見つかりはしない。違うだろうか?」 「…………」 九條はなおも視線を逸らし逡巡していたがやがて―― 「……どうしても、その……我慢できないのでしょうか……?」 「ああ、湧き上がる欲求は大きくなるばかりだ」 「…………」 「……話で聞くように、男の人はそういうものなのでしょうか……」 知的好奇心の大小に男と女もないと思うのだが。 「了承してくれるのだろうか。ならば本棚の後ろに移動しよう。そこならば学生などが入ってきても見つからないだろう」 「お、お待ちくださいっ――!?」 「何だろうか。何か問題だろうか?」 「そ、その、やはりここでそういった行為をするのは……」 「駄目だろうか」 「い、いえ、ですからその……ひとまず一時的に赫さんが鎮まれるように……」 「…………」 「……そこに立って頂けますか……?」 「それは構わないのだが、何をするつもりだろうか」 「私もその……こういった話に疎いので……上手くできるかわかりませんけど……」 九條は見た事もないほど頬を染め―― 私の前にひざまづいた。 「ん……このあたり、でしょうか……」 「もっと強く引っ張った方がいい。引っかかって取り出せないだろう」 「はい…………んっ――しょ。きゃぅっ! ンッ、赫さんっ、顔に、当たってます……っ」 九條はしゃくりあげたペニスにぺちんと頬を打たれ、水鉄砲を撃たれたこどものように仰け反る。 「すまない」 「ひゃっ――コレは、自分の意志で動かして、当てているのではないのですよね?」 「九條との愛の儀式を行うにあたり、私は準備を怠っていないという意味だ。私は真剣だ」 私のペニスは真剣そのもの、九條を求めて首を上げ下げしていた。 「じっとしていてくださいね。とても大きいので、動かれると少し怖いです……」 九條はため息をつき、呆れた様子で手を伸ばす。 白魚のような指先が再び竿に触れた。 「…………凄い……硬くて、熱くて……それに…………け、血管が浮いています……」 「大丈夫だ、私のペニスは九條に愛されたくて自己主張しているだけだ」 「また、よくわからない理屈を断言して……ん、すごい、匂い……」 水浴びは人並みに行なっているが、蒸れる部分だ。 完全に臭わない方が、それはそれでおかしい。 とはいえ、お嬢様に嗅がせるものではないだろう。 「えっちな匂いが……頭に響いて……正常な判断が下せなくなりそうです……はぁ……はぁ……」 「……私に一度勇気をくれた、赫さんのもの……んっ、ぴくって、反応しています……私に、何かを期待しているのでしょうか……」 異性の放つ性臭に思考を奪われた九條は、“舐めてみたい”という女の好奇心に駆られているようだった。 「えっと……これを……その、口で、ですよね……?」 鼻息が掛かる距離。おずおずと口元を開いた九條が、私に同意を求めてくる。 「頼む」 「では……失礼します……あ、む…………れろ……っ」 「………………」 「あ、あんまり、見ないでください……ぺろ……こんな、男の人のものを舐めるなんて……恥ずかしくて……」 「ぺろ……れろ……ちゅ……大きい……口の中に……入るのでしょうか……口の中で……味わう……なんて……はぁ……」 チラチラと私に視線を送ってくる九條は、本当は口いっぱいに咥えて、頬張りたいのかもしれない。 「書籍による描写だと、もっと奥まで咥えていたようだが」 「あ……で、では……んっ、んぷぷ……じゅぷっ、ちゅぽ、じゅ……ちゅるるるっ……」 令嬢である彼女が自分からできるわけもなく、私が指示を与えることで事は円滑に動き出した。 「ちゅ……ちゅぷ……ちゅぽ、くちゅ……るちゅぅ、んっ、んふ……」 「順調だ。キミの手際に問題はない」 「……それなら、良かったです……」 この場合、手ではなく口かとも思ったが黙っておく事にした。彼女の集中を乱すのは両者にとって不都合だ。 「ちゅ……ぺろ……ぺろ……んちゅ、ちゅ……ちゅ……」 「……九條……キミは魅力的だ……その美しさは私を大いに狂わせる……しかし、外見からは感じ取れない性の技術にも、私は感心している」 「そう……ですか……? 自分では、単調だと思っていましたが……喜んで頂けるなら嬉しいです……」 キャンディを舐めるように肉半球に刺激を与えていく。 「ちゅ……ぺろっ、ぺろっ……ちゅ……ちゅ……また、硬く……んっ……ちゅ……本当に……赫さんが悦んでいる……?」 「上手だ、九條……」 「息が……あがって……私……男の方を口だけで気持ちよく……ぁぁ……」 アクセントのない口奉仕はマンネリではなく、純粋に方法論が頭にない為に起こった事故だろう。 うまくできていることを伝えなければ、相手は段々と不安になってしまう。やはり真の愛とは険しいものだ。 「あの……赫さんの気持ちいいところ、教えてください……やるからには、もっと満足させてあげたいので……」 「素晴らしい、それも愛の形だろうか。では、口内の利点を活かす事から始めよう……咥えて、挟んでみてほしい」 「挟む……唇で…………ん、むちゅっ……ぺちゅっ、ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ……」 ぬめぬめの口内が窮屈になり、そのまま裏筋を舐められる。 「たっぷりと唾液をまぶして――」 「ん……ふぁい……んろ……んむちゅ、あむちゅ……あむ……んもも……じゅるぅ……」 舌を蠢かせ、勃起に悦を染みこませようと従順にやってのける。 「亀頭と呼ばれる先端部を舌で包むようにして、転がして――」 「んるっ……ふぁい……ちゅこっ、ぇろれろれろぉっ、れろちゅっ……」 九條は奉仕に手応えを感じているのか、恥垢の溜まった溝にもためらわず舌を這わせていった。 「んちゅ……ちゅ……んっ……? 赫さん……先の方から、なにか……違う液体が……」 「人体に害はない。快感に伴って分泌される液体だ。吸うもよし、舐めるもよしだろう。尿道を舌先でくすぐるのも刺激になる」 「どんどん、あふれて……ちゅっ、ちぅぅ~~~~っ。ちゅ、ちゅ、ちゅっ」 「著しい上達だな……」 「それは……ちゅ……よかっられす……はぁむ……ちゅ、ちゅぽ……ちゅぅっ」 「……む……自然と腰が引けてしまう……板についてきたようだな……」 褒められて伸びていくタイプなのか、初めてとは思えないほど熟練度が上がっていく。 「れろっ……ちぅっ、ぱ。ちゅぅ……ちゅる、ぇろぇろぇろっ……」 概ね、私の嗜好を伝えきった時には、既に九條の顔つきは発情した猫のように変貌していた。 「んっ……んむちゅ、こんなに音を立てて……ちゅぱちゅぅぅっ……図書室で、こんなこと……んちゅ、んちゅ……」 「赫さんの……んちゅ……味……んぅっ……舐めても舐めても……どんどんあふれて……れろれろっ、れろれろぉ……」 憩いの静音空間に佇む深窓の令嬢は、誰も知りえぬ蠱惑的な瞳を湛え、唾液でぬらぬらと光る勃起にのみ意識を注いでいた。 「ちゅぅ、ちゅぅぅ~~~……れろっ、れろっ、はぁ~……くちゅぽ、くちゅぽっ」 その姿は、奉仕に伴う女性特有の快感に酔っているようにも思える。 「ぢゅっ、ぷ……んちゅぽ、ちゅぽ……じゅっぷ、じゅっぷ……んちゅっ、じゅっ、ちゅぽ……」 「むちゅ……ちゅるぅ……ちゅっ……ちゅっ……れろちゅうぅっ、ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ、ちゅぱぁ」 九條は黙々とフェラチオを続ける。 あたかも、そう命じられた機械のように。 何かを待ち続けながら激しく、濃厚に口内粘膜を使っていく。 「ちゅぅ、ちぅ~~~~っ、じゅる、ちゅる……ちゅぽ、ちゅぽっ、ちゅぽっ、ちゅぽっ、ちゅちゅぅぅ」 普段は図書室で本を嗜む少女が、今だけは別のものに傾倒している。 些細なきっかけを経て、一度味わった男性器の味に取り憑かれてしまったのかもしれない。 「……ちゅるっ、まだ、ですか……せーし……ちぅ~~、ちゅぅぅ~~、吸っても、まだでて……んちぅぅ、きません……」 「……ちゅぅぅ、れろれろっ、んちゅっ、んちゅっ、ちゅぱ、ちゅぱ」 唇がきゅっと締まり、切れ味を増した口ピストンが敏感な部分を狙い撃ちにしてきた。 「じゅるぅ~~~~~~っ! じゅぽ……んっ、んっ、んっ、んっ、んぽっ、んぽっ、んぽっ、んちゅっ、んちゅっ、んちゅぽっ」 口をすぼめた吸引で快感を募らせてから、先端をひたすらに舐め扱かれる。 九條のイメージを覆すような淫らで欲にまみれたフェラチオは、一気に私を高めていく。 「んふー……ちゅぱちゅぱっ、れろ……ちゅぅ~~ちゅ~~~っ、れろれろれろ、ちゅぅ~~~ちゅぅぅぅ~~~っ」 九條も女だ。一度枷が外れれば、情欲たっぷりの口奉仕の大胆さはもう止まらない。 私は限界が来るまでの間、黙って極上の快楽に身を委ねていた。 「ちゅるっ、ちゅぱっ、ちゅぱっ、ちゅぅぅぅっ、れろれろっ、んちゅ、んっんっんっんっ、れろぉんっ」 「そろそろ……終わりを迎えそうだ……」 「ぁ……だすんですね……はぃ……舌の上に、らしてください……わらひのっ、んちゅ……おしゃぶりで、きもひよくなっれ……くらさいぃ……」 奉仕の熱は九條の明晰な性格さえも壊し、女の悦びを受け入れるがまま雄の器官を舐った。 「イクぞ……九條……ッ」 「ふぁい……らひて……くらはぃ……きもちよくなって……そのまま……すきなだけらしてくださぃ……」 確かに制服を汚すのはまずい、このまま射精するのがベターだろう。 「ちゅぅ~~~、れろれろれろ……じゅぽじゅぽじゅるぅっ、ちゅぱ、ちゅぱちゅっぱっ」 「ンッ、ちゅっ、ちゅぱ、ちゅっ、ちゅっ、んぽっ、んぽっ、んぽっ、んぽっ、んぽっ、んぽっ、んぽっ――――――――」 ぶびゅっ、どぴゅうううううっ! どぴゅっ、ぶぴゅっ、ぶぴゅどぴゅどくどぴゅうぅぅぅぅうぅぅぅぅぅっ!! 「――――ンッ!? んぷっ……んぅうぅぅぅぅぅっ!!」 「九條ッ、まだ、終わりではない、口を放しては、制服が汚れてしまう」 頂上へ達し、おびただしい量の精が九條の口へと放たれる。 「んーーーっ、れてますっ、こんなに……んくっ、どろどろで、次から次へと、押し寄せて……んむぅぅんっ」 「んぐ……ンッ……んぶぶ……んぅぅぅ…………っ」 「…………おぉぉ……」 ドクン、ドクン、と力強い脈動とともに九條の頬がリスのように膨らんでいく。 片栗粉に似た色合いの白濁が口元からどろりと垂れるが、まだかなりの量が九條の口内を泳いでいるようだ。 「………………ふぅ……」 「……ん…………ん…………」 器用にペニスだけ吐き出した九條を眺めていると、上目遣いの彼女と目が合った。 「九條……」 口いっぱいの精液をハンカチに吐き出すか、それとも―――― 「………………んく……んくっ……んぅぅん……」 散々に迷った挙句、意を決して喉を鳴らす九條。 「ぁふ……凄く、濃い……んっ、まだ、喉に絡んで……けふっ……」 「男の方の匂いが……ぁふ……息をするだけで、喉の奥に残ったえっちな味がもどってきます……」 「精液は重要なタンパク源と信じる者も数多くいる。美容効果も調べる必要があるな」 「はぁ……相手のペースで、口内に何かを注がれるというのは……頭まで、真っ白になるかと思いました……」 「九條、続きをしないか?」 「だ、駄目ですよ、ここではこれ以上できませんっ」 「私はまだ、2回――いや、3回は射精に至ることが可能だ。性交渉の礼は、性交渉で返す、これが愛を深める結果になる」 「………………」 「九條の中に入らなければ、やはり落ち着かない。九條の中に入らせてはもらえないだろうか」 「…………」 「……もっと落ち着いた場所でなら……」 わずかに頬を赤らめた九條は、拗ねるようにハンカチを取り出し、唾液と精液に濡れたペニスを隅々まで拭いてくれた。 「あの、ちょっと待ってください赫さんっ」 九條の部屋に入って扉を締めるなり、私は断りもいれずに九條の背後を奪った。 しなやかな身体を抱きしめると、力をいれずとも九條は身動きが取れなくなる。 「ん……はっ……赫さん……赫、さん……っ!」 「ど、どこ舐めてっ、ん、~~~~~っ!!」 「肩越しに喉元を舐め上げ、これからうなじに舌を這わせようというところだが……?」 「ンッ、ちょっと……あっ、~~~っ、もぉ……っ」 「んふ、あっ……横暴、ですよ……? ん……やっ、はぅ……んんっ……」 ゾクゾクと震える九條の髪をかきあげ、耳を食む。 「ふぁ……ん……はぁ、んっ……んぅっ、私の耳は、食べ物では……ふぅ……はふっ……んぅぅ」 最初こそ驚いていたものの、今ではくすぐったそうにもじつかせ、尖っていた声も丸みを帯びてきた。 「んぅ……んっ、もう少し、落ちついてください……」 「わかった。ではこうしよう。手入れの行き届いた髪に顔を埋めるのは、とても落ち着く。見渡す限りの花に囲まれてうたた寝をしているようだ」 私の愛撫で九條の心の扉をこじ開ければ、もっと深い、親友や恋人を超えた関係を構築できるはずだ。 私は長く生きている。 いい加減、真実の愛とは何か知っても良い頃だろう。 「あっ……」 「……何事だ?」 頬を赤らめた九條は、言いづらそうに視線を逸らした。 「先ほどあれだけしたのに……お尻に……その……当たっています……」 「キミの身体に反応しているのだろう。勃起した状態でなければ性行為は行えない。何も不都合はないと思うのだが」 「……でしたら、ベッドで……」 「私が読んだ書籍では、まず部屋に入るなり行為を始めていた。なので私もそれに習おうと思う」 「また、胸を……んっ、んふっ! やんっ……!」 九條の胸は自信を持てるほど豊かではなく、《コンプレックス》〈成長不足〉と言うほどささやかではない。 女性を象徴する膨らみとしては歳相応に実り、左右対称で美麗、一般的に見れば長所しか見当たらない。 「は、ひゃん! ンッ、やめて、ください……んっ……はぁ……ぁ……ふぁ……」 むにゅっ、ぷにゅっ、もみもみもみっ、にゅぷにゅぷ…… 「んっ……ぅんっ……はぁ……触っちゃ……ぁ……ぁふ……そんなふうに、いやらしい揉み方は……困りますっ……」 がさつで肉体労働を主とする男の肌とは比べ物にならない上質な女の質感。 なめらかでいてふわふわとした乳房の触り心地は筆舌に尽くしがたい。 「……ぁ……はぁ……んぅぅっ、ほ、本当に、困ります……んっ……はぁ……はぁ……」 「とても困っているような声色ではない。感情の昂りが漏れているように私には聞こえる。だからその声は逆効果だ」 「…………っ」 九條は説得を断念して耐えることを選んだようで、雑念を払うように瞼を下ろして口をつぐんだ。 なるほど、勝負というわけか。私も負けじと同じ要領で乳房を愛撫していく。 「…………っ、っ……ぅ……んっ…………ん…………」 にゅぷっ、もみゅもみゅもみゅ、むにゅむにゅ…… 「っ……っ……ふー…………ふー……んふー…………」 声は出していないが、我慢しているだけで快感を得ているのは間違いないだろう。 とはいえ、私が切っ掛けを与えてやれば努力は水泡に帰す。 しかし私は、肝心な部分――――桜色の乳輪が覆うその突起にまだ触れていなかった。 「……っ……ふー……ふー……んふー…………」 「柔らかいな……」 微痙攣する九條は、いずれ来る衝撃に期待と不安を覚えながら必至でセーブをしている。 焦らすことをやめ、まったくの突然に乳首をつまみあげる。 「あっ、んぁんっ! ぁ、ぁ~~~っ、だ、だ、だめ、ダメですっ、キュってしてはぁぁんっ、ん、んぅ~~~~んっ!」 「暴れてはいけない」 後ろから抱き支え、さらに強く乳房を鷲掴みにする。 「んひゅっ、んっ、んぁ、赫さんっ、いゃ、変になりますっ、それ以上は、いけませんっ」 悩ましいよがりが、頭を《や》〈灼〉く。 「あっ……だめ、だめ……唇を、近づけないで、ください……はぁ、だめ……だめです……放して……」 胸を揉みながら目を視て、唇と唇が触れる直前で停止――――そのまま出方をうかがう。 だんだんと九條の息が荒くなり、辛抱できなくなったようにキスを迫ってきた。 「……ちゅ……ちゅ……んはっ、ぅぅんっ、はっ……んちゅっ、んちゅぱ……」 「ちゅ……んっ……ダメ……なのに……んちゅ……ちゅ……どうして、キス……してしまうんでしょう……」 「ちゅぱ……ちゅ……んっ――――――はぁぁ……」 唇を放した頃には、九條は愛を受け止める準備が整っていた。 胸の愛撫を重点的に行い続けた効果か出たらしく、九條はトイレを我慢するかのように内股を擦り合わせている。 「はぁ……はぁ……赫さん……」 おねだりに応え、私は乳首を指で遊びながら、そっとスカートへと手を差し入れる。 膝小僧からゆっくりと太腿まで手を滑らせ、下着の上からなぞりあげても、九條は私から逃げようとはしなかった。 「赫さん……そこ……はぁ……熱いんです……はふ……ん……」 「あんなふうに、胸をいじられて……後ろから、強く抱きしめられて……もう、頭がおかしくなりそうです……」 肝心な結論こそ言わないが“触って欲しい”“下もいじって欲しい”と私の次なる愛撫を待ちわびているのが伝わってきた。 「わかっている、女性は皆、ここが弱点だ」 くちゅり――指にねっとりと淫液がまとわりつく。 九條の秘部がどういう状態にあるのか瞬時に察した。 「ぃやっ、ンッ、んっ……んぅっ! んっ、赫さん……」 「これは図書室でのお礼でもあり、愛を理解する上で欠かせない儀式でもある」 「ふぁっ! はっ、ぁ~~~~~……」 手で丸めた薄紙のように、九條の顔は恍惚にくしゃりと歪んだ。 熱を帯びたきめ細かな肌を伝い、ぬかるみの入口を探し当てる。 ぬる――――ぬぷぷぷぷぷぷぷっ…… 「んんんっ、っ、指、入って、あぁっ、そこ……内側、すごいっ……んっ、ぁぁんっ」 極めて敏感な体質の九條――――普段の清楚な姿を容易く覆す変貌は、別人といってもおかしくはない。 「もっと自分をさらけ出した方がいい。私にくらい、素顔の九條を見せてくれないか?」 「はぁ……はぁ……赫さん……」 「もっと……弄ってください……アソコがむずむずして、もう、何がなんだかわからなくなりそうなんです……赫さん、お願いします……」 最も感じる性感帯を刺激され、九條の体重の半分以上が私へと預けられる。 つまりは、その分だけ九條は快感に身を任せていられる。 「ひっ、ンッ、あぅっ、んぅんっ、きもちいいです……濡れたアソコを、指でくちゅくちゅされて……とても、いやらしいです……」 「ひゃぁぁんっ、ンッ、んきゅぅ、ふぁあんっ! きもち、いい……っ、だめ、なのに、きもち、いい、きもちいい……」 うわ言のように快感を漏らす九條の淫核を剥き、指で押しつぶすようにする。 「ひぐっ、だめぇですぅっ、んぐっ、そこは、一番弱ぃから、あぐっ、んきゅぅっ、ンッ、ンッ、ンッ!!」 九條の体温がこれ以上ないほど上がり、玉の汗が額に浮かび始める。 既に九條は地に足ついておらず、全てを投げ出すように私の腕の中に収まっていた。 「ぁ、ぁ~~っ、あ~~っ、キュッ、て、っ、きもちぃ、いっ、はっ、ぁうっ、そこ、くりくり、きもちぃ、きもちぃ……」 潤んだ膣内に指を往復させ、絶え間なく打ち震える九條に愛の素晴らしさを説いていく。 「ぁうっ、ぁぅっ、ふっ、っ、っ、っ、やぁっ、良すぎ、て、あっ、~~~っ、ひぅぅ、感じまひゅ、ぅぅうううんっ!」 呂律の回らなくなってきた桃源郷の令嬢、これも愛の成せる業だ。 「さらなる高みへ案内しよう」 「は、はひぃ……」 のぼせたようにうっとりと愛撫を受け入れる九條に囁き、半開きの唇を奪う。 「んむ……ちゅっ、ちゅぅっ、ん、ん~~っ! んふっ、ちゅっ……ちゅっ」 「ちゅ……れろ、れろちゅぅっ、んちゅ、ちゅ~~……ふゎあ、きしゅ、かんじまひゅ……んちゅぅ~~」 胸を揉み、淫核を撫で、膣内を指で掻き回し、キスで唇を塞げば、全ての快感は九條の内側にのみ向かって蓄積されていく。 「あぁ~~っ、だ、めぇっ、こんなっ、ンッ、きゅぅっ、もう、らめ、立って、られ、ませんんっ」 「いやいや、いやれすっ、んぅぅ~~、らめっ、ですぅっ、ら、ぁ~~~っ、やぁぁぁぁぁ~~~っ!」 指を深く沈ませると、九條の瞳孔が大きく開き―――― 「ンッ!? ~~~~~~~っ!?」 ――――開放の瞬間を私は見逃さず、充血した淫核をつねるように撫で擦った。 「あっ、あっ、あ゛ぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ッ!!?!?!?!」 大絶叫を予期していた私は片手を九條の口に当てていたが、それでも外まで響くほどの嬌声だった。 「はっ…………あっ……! あっ……! あっ……! っ……! っ……!!」 電気ショックを受けたように、ガクガクと打ち震える九條を抱きとめる。 おしとやかなお嬢様らしからぬ派手な絶頂は、恥じらいなど蚊帳の外。 そこにあるのは抗えない悦の余波に身震いし、最高の瞬間を少しでも長く感じていようとする女の素顔だった。 「ぁっ……~~~~~~っ……はっ……~~~~~~~~~~~っ……~~~っ……ん……はぁ……」 放心していた九條の呼吸が元のリズムを取り戻していく。 「はぁ……はぁ…………」 部屋に充満するオンナの香りと、言い繕えない事後の息遣いが行為の荒々しさを物語っていた。 「私も図書室では同等の慰めを受けた。九條、これでおあいこだ」 「……そう、ですか……はぁ……はぁ……」 九條は魂が抜けてしまったかのように脱力していた。 「さて、では次に移ろう」 「……えっ?」 図書室で読んだ書籍に沿えば、休む間もなく次の行為に移らなければんらない。 くったりと全体重を私に預けた九條は脚に踏ん張りが利かず、私の手によって軽々と持ち上がった。 「そのまま力を抜いて、私に身体を預けてほしい」 「えっ――えっ――!?」 「きゃっ……!」 うつ伏せに寝かせた九條の後ろに回り込み、覆いかぶさる。 もがこうと宙を泳ぐそれぞれの手の上に、私の掌を重ねる。 「あ、赫さん、何を――」 「次はこの体勢でキミと身体を重ね合わせる」 「そ、そんな……! 今しがた終わったばかりではありませんかっ……!」 「男は射精後に昂ぶりが冷めていくが、女は逆だと聞いた。無限に続く絶頂の中で、真の快感を――真の愛を知ることができる」 「知りたくないですっ、あっ、当たってますっ、ふぁっ、んんっ! さ、触られただけで、感じちゃうくらいなんです……っ」 「そんな事言われても……あっ、駄目……今、すごく、敏感になってて……!」 「なるほど、それは好都合だ。早速始めるとしよう」 ――ずぶぶぶぶぶっ。 「ひゃぁんっ、ンッ、んきゅぅ、ふぁあんっ!」 快感に腰砕けになった九條は満足に抵抗もできず、私の愛を受け入れていく。 「は、ぐ、ぁ、ぁ、入ぃっ――てぇ、んきゅぅんんんっ!?」 異常な締め付けの中、最奥までペニスを挿入すると同時――――窄まった隘路がギュッ、ギュッと痙攣を始めた。 「っ……っ……ぁ……ぁっ……はっ……あ…………あぁ…………」 「またも絶頂に達したようだな。だが休んでいる時間はない」 後ろから結合されたまま、快感に打ち震える九條。 雨ざらしにされた子犬のような弱々しい姿だった。 「私……このままじゃ……いやらしい女の子になってしまいます……」 「それは罪ではないだろう。それに私の前だけでしか見せないのなら問題はないだろう」 私は探求者として、九條と共にさらなる未開の地を見てみたかった。 ぷっくりとした張りのある双尻を撫でるが、九條の瞳に浮かんだ戸惑いの色が次なる一手に待ったをかけた。 「……本当にこれ以上は無理なのであれば中断しても構わない」 「えっ……?」 「キミが望まない行為をするつもりはない」 「……その言い方は卑怯です……」 「卑怯……? 私は卑怯だっただろうか?」 自覚していたわけではないが、どうやら私は卑怯者だったらしい。 「…………」 「質問は取り下げよう。キミを困らせるつもりはないのだから」 「となれば私は行動を継続するしかなくなるのだが……つまりはそれでも良いという事だろうか」 「~~~~~~~っ!?」 九條は返事の変わりに顔を染めてベッドに埋めた。 どうたら私の心配は野暮だったらしい。 「では、行為を再開しよう。気遣いは無用なのだろうから、全力でやらせてもらおう」 「ひゃんっ! あっ、んぅ~~っ、あっ、あっあっあっ、あっ!!」 香ってくる甘い体臭をすべて吸い込み、猛然と腰を使っていく。 九條は痩身をくねらせ、最も敏感な性感帯への刺激に歓喜した。 「んきゅっ、んぅ~~~っ! はっ、はっ、んぁああんっ! そこっ、はぁあんっ!」 くびれた腰を、小高い尻山をつかみ、九條の内側を貪る。 攻める愛と受ける愛――バックスタイルという一方通行の体位がもたらすものは平等ではなく、より相手を想う気持ちがなければ成立しない。 九條の《・・・・》〈合わせる〉という言葉の真意に気づき、私は深く納得をした。 「遠慮っ、しないでっ、くださいぃぃっ、もっと、もっと、叩きつけて、全身を使って、私を余すことなく、感じてくださいぃっ」 「ああ……っ!」 読書で仕入れた知識など、本能で雄を熟知している女性には通じないというわけか。 愛とは変幻自在であり、状況によって――――私が積極的であれば九條のように寛容する心を持つことで育まれるものなのかもしれない。 「ふぁぁっ、ふぁぁぁぁっ、あっあっあっんっんっんっ、んふっ、赫、さんっ、赫、さんっ」 「九條……また一つキミに教わった……感謝する……っ」 壊れるくらいに獰猛な腰振りは、引き際、膣肉を内側から持ち帰りそうな勢いだった。 「んぅぅっ、んっくっ、はっ、あぁぅ! えぐっ、れてぇっ、ゾリゾリッ、熱いのがっ、んふっ、んふぅううっ!!」 「感じるっ、感じてっ、感じるっ、感じてますぅぅっ、ふぁ、ぁ、やぁぁあんっ、もっと、淫らに、出したり、入れたりっ、してくださいぃっ」 過激で動物的な往復運動で柔らかな髪は散り散りになり、破壊的な肉悦に打ち震える九條の背中には私の汗が飛び散った。 「ひゃっ! うっ、ううっ、んぅ~~~~~~っ!! あんっ、ぁんっ、ぁあんっ!!」 潰れるくらいに激しく、容赦の無い抽送。 その快楽さえも些細なものだったと思えるほどの瞬間が、今か今かと顔を覗かせていた。 「ふぁ、ぁぁっ! あぁぁっ! イく――――イ、きますぅっ、私、もうっ、限界ですっ!」 「出してっ、赫、さんっ、んっ、くださいっ、わたしが、すべて、受け入れますっ」 「んっんっんっ、あっあっ、あぁぁっ、はっ、はっはっはっ、あぁん、ああぁんっ――――」 どぴゅぶっ、びゅぷびゅるっ、びゅるるるううぅぅうぅぅぅうぅぅぅぅぅぅぅぅ~~~~~~っ!! 「あ゛ぁ――――――ッ! ンッ、ンッ、ンゥ~~~~~~~~~~~~~~~~~っっっ!!」 一瞬の脱力。悦楽。痺れるような脳内麻薬。私たちを圧倒的な快感が包み込んだ。 「いっぱい……まだ……ドクドク……出しています……子宮のなか……赫さんの精液で……満たされて……います……」 九條の最奥まで突き入れたままの射精は、私に深い快感を与える。 射精に伴う悦楽に私が酔うことは今までなかったが、今回ばかりは違った。 「んんっ……………………んぅ………………はぁ…………はぁ…………ぁ…………ぁぁ………………」 「九條……一瞬だが、本当の意味でキミと一つになったよう感覚だった……」 「……きもち……よかったですか……?」 「ああ……有意義――」 「違うな、幸福と言った方が近いだろうか」 不思議だ。九條の熱い膣内に包まれたまま精を吐き出す度に、この上ない悦びがつま先から頭の先まで突き抜けた。 それは一種の中毒性を伴い、私を虜にした。 また九條のなかに出したい――節操もなくそう思ってしまうほど、私は何に惹かれたのだろうか。 「シーツが汚れてしまった……」 「赫さん……休憩なんて要りません……まだ、愛とは何か、その答えに行き着いてはいないのでしょう?」 「概ね、理解はできた」 「今、私から九條に与えられる愛は――――焦らず、丁寧に、優しく、扱ってやること。ではないだろうか?」 「……概ね、正解です」 少し弾んだような九條の声に、私は愛の深さを学んだ。 やはりこの世の全ては“平等”ではなく、どちらかに天秤が傾いている。 間違った方向に振り切った《わたし》〈針〉を受け入れた九條そのものに、私は惹かれたのだろう。 翌日―― 娘の自宅に現れた九條剛三と言葉を交わした。 語られたのは彼の妻、つまり九條の母についての情報だった。 「もうまもなく約束の時刻だが――」 「…………」 九條剛三が教えた時刻はもうすぐだ。 彼の話が真実ならば、もうすぐここにある人物が現れる手筈になっている。 その人物とは―― 「キミの家族については僅かだが以前聞かせてもらった。その上でわからないのだが」 「キミは母親に会いたいと思っているのだろうか?」 「…………」 九條剛三は絶縁状態にあった妻について私達に語った。 「子は親を求める。これは人間に限った話ではない。だからキミがこの場にいる事に疑問はない」 「だがキミの父と別れてから、ずっと思いつめた顔をしている。今にも不安に押しつぶされそうな危うさを感じている」 九條の父が語った真実は、九條の認識を大きく覆す内容だった。 「母がキミを拒絶して見捨てたというのは間違いだったのだろう? ならばどんな形であれ、母親との再会は喜ぶべきではないのだろうか?」 九條の母は彼女を本質的な意味で見捨ててはいなかった。結果的にそうなったというだけで―― 「……ずっと、母の事は忘れようとしても頭の片隅に残っていました。この本を持ち続けていたのが何よりの証拠です」 その手には古ぼけた小説が握られていた。 九條が“《デュナミス》〈異能〉”を使うきっかけとなった事故――彼女の母は自分の不注意で娘がその事故に巻き込まれてしまったと錯覚した。 真実がどうであれ、九條の母親は目の当たりにした現実を受け入れられず、心が崩壊してしまった。 その結果、襲い来る悲しみから身を守る防衛本能が働き、娘の存在を始めからなかった事にしたのだ。そうする事でしか、精神の崩壊を食い止められなかったのだろう。 九條剛三は双方のために、今まで真実を隠してきた。この事実は長い間彼を蝕んだようだ。 私達に話すと決めた際も、不安を拭い切れていないようだった。 だが運命の針は前に進んでしまった。再び両者が交わる時が来たのだ。 「キミは母にあって、何を話すか決めているのだろうか」 「……何を話せば良いのでしょうか」 九條の母は事件の後、記憶の欠落こそあれど至って普通の人間と変わりがなかった。今では家庭を持ち、新しい生活を送っているらしい。 彼女の事情は相手側の夫も承知しているらしく、今回九條に会わせたいという申し出に協力したようだ。 一人、事情を知らない九條の母だけが、この場に現れる手筈になっている。 「赫さん……私、どうしたら……」 「……回答に困るな。私もこのような状況は初めてなのだ」 「そ、そうですよね――」 「あっ――!?」 目を丸くした視線の先に、一人の婦人が歩いてくるのが見えた。 「あ、赫さん……」 今にも逃げ出してしまいそうなほど狼狽している九條。 私は彼女のためにどうすべきか。この場に同席して少しでも不安から守ってやることだろうか―― …………。 悩んだ挙句―― 「九條、私はしばらく離れていよう」 「えっ――! 一緒にいてくださらないのですか……!?」 「ああ、その方がキミのためになる。そう考えた」 「…………」 九條の肩に軽く手を乗せる。 「様々な思いが絡み合った人間関係に、必ずしも答えがあるわけではない。少なくとも今の私はそう思っている」 「他人から認められる唯一の選択がないのであれば、キミの思うようにやってみればいい」 去り際の九條は普段の様子から打って変わって、小動物を思わせるようなか弱さを感じさせた。 できればその不安を取り除いてやりたいと思う。 だがその壁を越えるのはキミにしかできない。 「後悔しない選択をすればいい。キミはそれができる人間だ」 「…………」 それだけ言って私は九條と距離を取った。 私がある程度離れると、意を決したように背後の柵から街並みを見下ろす自分の母親に向かい合った。 「あら、あなたも誰かと待ち合わせ? それともこの景色を見に来たのかしら?」 「えっ――い、いえ、私は、その――」 「…………」 「どうかしたのかしら? もしかして急に話しかけたりして迷惑だったかしら?」 「いえっ――! そのような事は――」 「あらそう、良かったわ。夫と待ち合わせしているんだけど、今さっき遅れるって連絡があってどうしようかと思ってたのよ」 「わ、私でよければ話し相手に――」 「うふふ、嬉しいわ。あまり若い子と話す機会なんてないから緊張しちゃうわ」 「わ、私も緊張しています……」 「そうなの? だったらお互い様ね」 「はい」 九條はどこかぎこちなさが目立ったが、それでもどうにか会話をこなしているようだ。 「あなたはここによく来るの?」 「い、いえ、今日で二度目でしょうか」 「私は初めて来たんだけど、また来なくちゃって思えるくらい綺麗な景色ね。落ちたら大変だけど」 「そ、そうですね。落ちたら大変です」 あの時九條の手を離していたら、この光景も見られはしなかっただろう。 「今日はね、この後夫と二人で映画を見に行くの。年甲斐もなく映画館デートなんて変でしょ」 「そんな事はないと思います」 「ふふっ、ありがと。私にも子供がいればそんな事気にしなくていいんだけどね」 「お子さんはいらっしゃらないんですか……?」 「早く欲しいんだけど、こればっかりは努力だけじゃどうにもできないのよね」 「あ、でも子供の名前はもう決めてあるのよ。絶対これじゃなきゃ駄目ってやつがあるの」 「“みつき”」 「えっ……?」 「どうしてだかわからないんだけどね、今の夫と出会った頃からその名前にしようって決めてるの」 「夢の中で未来の赤ちゃんに向かってそう呼んでるの。きっと神様が下さった名前に違いないわ」 「…………」 「って、あら? ごめんなさい、おかしな事言っちゃったわね」 「……い、いえ……」 「夫にはまだ内緒なんだけどね。もしも反対されてもこれだけは譲れないわ」 「あら、噂をすれば夫からだわ……もう、今駅の方にいるからそっちに来てくれですって。ほんと勝手なんだから」 「それじゃ、つまらない会話に付き合ってくれてありがとうね。私はもう行かなきゃ」 「あ、あのっ――!!」 「何かしら?」 「…………」 迷いや苦痛をない交ぜにしたような表情を浮かべる九條。 だが、すっと力が抜け、優しげな笑みは広がった。 「……いえ、お気になさらないでください。早く旦那様のところへ行ってあげてください」 「私もあなたとお話できて楽しかったです。ありがとうございました」 「いえいえ、それじゃ。ごきげんよう」 「はい、ごきげんよう」 失われた時を埋めるにはあまりにも短すぎた両者の邂逅は幕を閉じた。 「あれでキミは良かったのだろうか」 九條の母が離れた後、さっきまで彼女がいた場所に立つ。 「はい。とても有意義な時間でした」 「そうか。なら良かった。ひとつ質問をしてもいいだろうか」 「何ですか?」 「キミは最後、彼女に向かって何を言おうとしたのだろうか」 「……その事ですか」 九條は恥ずかしそうに顔を伏せて微笑んだ。 「私が美月です。私があなたの娘です。もう少しでそう言ってしまいそうになりました」 「言えば良かったのではないだろうか。キミがそういえば、彼女はキミを思い出すかもしれない」 私の言葉に九條は目を閉じて首を振った。 「これでいいんです。あの方にはもう別の家族がいますから。それを壊してはいけません」 「キミがそう言うのなら、私に口を出す権利はない」 「だがここには私だけだ。もう彼女はいない。気を張る必要はないだろう」 「ふふっ、赫さんにはお見通しでしたか」 優しく微笑む彼女の目尻がきらめいたのは太陽のせいだけではないだろう。 「九條、人間とは過去に縛られる生き物だ。私もそうだった」 「だが大事なのは過去ではなく、未来をどんな風に築き上げてゆくか。そうではないだろうか」 「私もそう思います」 眼下に見下ろす街並みには、大勢の人間が“過去”を経て“今”を生き抜いている。 私も同じように、やがて来る未来に目を向けて生きていかなければならない。 「九條。私の未来、そこにはキミがいてほしい」 「キミの未来にも私がいれたら、これ以上の喜びはない。そう思うのだが、キミはその点についてどう考えているだろうか」 「それってプロポーズですか?」 「プロポーズ、か。どうだろうな。今まで経験した事はないのでわからないな」 「初めてじゃなきゃ、怒りますよ。ふふっ」 人間は過去を礎にして未来を歩んでゆく。 待ち受ける未来には望まぬ悲劇が待ち受けているかもしれない。 だが心配は無用だ。 もしも耐え切れないほどの悲しみに直面したとしても―― 私達は誰しも、未来に羽ばたくための翼を持っているのだから―― 「シャス!」 「……しゃす」 「お、良い返事。澄み渡る大空、女神との出逢い、本日も絶好調っ!」 「…………日頃の行いがいいから……?」 「そゆこと。時間もたっぷりあるしね、なにしよっか」 「……なるは?」 「まだ八十八ヶ所巡りの旅から戻ってきてないよ。戻ってきてもすぐ、パワースポットと御朱印集めに出るとかなんとか」 「……リノンは?」 「“Re:non、動く。会いに行くアイドル”って企画で、世界をぐるっと回ってるよ。何でも半年近く掛かるらしいね」 「……ママは?」 「奔放だからなぁ。いつ来てもおかしくないし、いつまでも来なくてもおかしくないよね」 「……優真は来てくれた……」 「ぶっちゃけ、暇だしね。仕事のリフレッシュは可愛い子とお話するに限ります」 「…………ココロ……ひなたぼっこしてた」 「じゃ俺もそうする。歩きで来たから、ちょっと疲れちゃったし」 俺はココロの隣に寝っ転がる。 広がる一面の空は、凄まじく蒼い。 吹き抜ける風が涼しくて、癒し効果は抜群だ。 「ココロちゃんさ……ずっとここに居るの?」 「…………?」 「いや……んー……」 ルージュの手では完全には行えなかった延命処置も、俺の“魂”を操る力を貸すことで理想的な終わりを告げた。 芽生えた自我は安定し、記憶も連続性を保ったままだ。 “ナグルファルの夜”に開いた穴から“《ユートピア》〈幻創界〉”の構成要素(俺たちの世界で害となる空気)が漏れだすこともなくなった。 “《ココロ》〈被験体556号〉”の役目は既になく、あるとすれば今までがんばった分、楽しんで生きるくらいだった。 「今回の件で色々とお手伝いしたからさ、顔が利くっていうか、大抵のお願いは二つ返事でオッケーもらえる立場なんだよね」 みんなそれぞれ、自分の目的に向かって走りだした中、 俺は“《アーカイブスクエア》〈AS〉”に振り回されてようやく自分の時間ができた。 「やりたい事もいっぱいあるけど、一人は寂しいしね。とりあえず部屋を都合してもらおうと思うんだけど……」 「………………?」 「ココロが良ければ、俺と一緒に住まない?」 「…………優真……ココロと野宿?」 「惜しいっ! 逆だよ。俺の部屋にココロちゃんを招き入れるわけ。持ちつ持たれつの関係だよ」 「…………夜は……?」 「よ、夜? 同じ部屋で寝泊まりするんだもんね、そりゃ心配だ。でも安心してくれ、俺は嫌がる子には手を出しません!」 がんがんアプローチは掛けるけどね。嘘は言ってない。 「……ココロは、ここ……ここが、ココロの居場所……」 「……そっか」 555体の被験体の記憶を引き継ぐような処置はされていないし、できないはずだった。 しかしココロは、この場所に並々ならぬ愛着を感じている。 「そうだっ! せっかくだし、たまには遠出しない? 二人っきりでさ」 「……夜に……戻れる?」 「送り届けますとも」 ココロは“《ゲートキープ》〈抑制〉”を失っても、この場所に縛られている。 それが悲しいことなのかは、俺にはちょっと判断がつかない。 平日とはいえ、駅前は疎らに人がいる。 ココロは道行く人々を視線で追っていた。 「…………せわしない風景……」 「いやいや、活気があっていいじゃん。世界は回ってるんだよ」 「…………人……いっぱい……」 「ココロちゃんもだいぶ人混みに慣れたよね」 「……人の形で動いてるから……」 ココロの事は久遠学園長とルージュから全て聞いている。 “《ホムンクルス》〈ヒト型容器〉”という正気を疑う方法でココロは造られ、人を魂の器としてしか認識できなかった。 俺を描いたという絵からも、その事はよくわかった。 でも今は――――俺が“《カロン》〈魂の管理者〉”の力を用いてメンテナンスを行い、ココロは人を人として認識できている。 「……歩く速度……人によって全然違う……どうして?」 「駅前っていうのは誰かを待つ場所であり、誰かを待たせている場所なんだよ。早足になるのは、相手を想う心の表れだね」 「相手を想う……ココロ?」 「あっ、ほら、ぼうっとしてるとぶつかっちゃう。俺が手を繋いでてあげるからね」 「……目的地……ここじゃない?」 「違う違う。今から電車に乗るの。電車、わかるよね?」 「……最もポピュラーな移動手段……人間と……切っても切り離せない関係……」 「うん、切り離せなく、なっちゃってるねぇ……少しでも遅延すると、みんな頭を抱えちゃうし」 「世の中は少し、便利になりすぎた気がする。頼るべき脚を置き去りで、鉄の塊に逃げ込んで、そのうえ座れる空きを目指して駆け込む」 「駅に着いたら着いたで、車待ち、タクシーにバスなんていう手段もある。人は、一体いつ自分の脚を信じられるようになるのだろうか」 「…………でも……乗る?」 「そうなんですよっ! ダメだとわかってても便利なんでっ、はいっ! 乗りますっ!」 「……納得した……みんな優真と同じ考え方……」 俺の“力”で“魂”を借りてくれば、ココロを抱いたまま空のお散歩なんて事も可能だ。 だけどデートは普通が一番だから、最もポピュラーな移動手段に頼る。 そういうのが、俺やココロのような異端には、ちょうどいい。 「…………景色が流れる……」 ココロは座ったまま窓に張り付き、眺める事に専念している。 その姿を眺める事に専念しているのが、俺というわけ。 「……速い……情報が多い……ゆっくり流れたらいいのに……」 「鈍行に乗れば良かったかな」 「……危なくない……?」 「ん? 危なくないよ、整備不良の事故なんて滅多に起きないし。天候に左右されて見合わせたり、あとは人身事故だね、やっぱり」 「あぁ、でもこの間、ジャックされたとかなんとかで旧市街の方まで走ったとか……新聞に載ってたね」 「………………」 「心配いらないよ。もし仮に、何かが起きたとしても、俺が絶対に護ってあげる」 胸を張って微笑むが、ココロの視線は俺の背後にあった。 「何か周りの視線が……」 ああ、超絶美少女が隣にいるから、羨ましがられてるのかな。 納得納得。 「……………………あ゛ッ!?」 「(そっかぁぁぁぁぁっ!! そうだったそうだった、すっかり失念していたーっ!)」 「……ココロ……何かした……?」 「(ど、ど、どうして気づかなかった俺。慣れか? ココロが意にも介さないから、当然だと思ってたーっ!)」 この刺激的過ぎる衣装は、《・・・・・・》〈そういうお店〉で働いていると疑われても致し方ないレベルに達している。 かっこ良く『羽織っておけ』とかやりたいけど、俺自身が薄着だから、それをやったら俺が上半身裸――――どっちにしろダメじゃん。 いや、むしろココロは肌が見えていない分ギリギリセーフなんだ。 俺が脱いだら色々と終わりだ。 「……羞恥プレイ……ってなに? 優真……ココロに羞恥プレイしてる……?」 「だあぁぁぁっ、いいからいいから、周りの声は気にしちゃダメ!」 「…………?」 ひそひそと聴こえてくる批難の声が俺に突き刺さる。 「とりあえず確認だけど、ココロちゃんは恥ずかしくないの?」 「……優真と二人……お出かけ……楽しい」 「う、うん。それは、嬉しいけど……良し、角に行こうか」 車内の角でココロを覆い隠すように前に立つ。 非常に犯罪の香りが漂う体勢だが、しばらくの辛抱だろう。 「到着ですっ」 平日だからか、人もそんなにいない。 花の丘目当てであろう、高齢者の方がちらほらと歩いていた。 「…………ここは……?」 「テーマパーク。見て楽しい、歩いて楽しいデートに最適なホットスポットだよ」 「……ココロ……何をすればいいの……?」 「笑えばいいと思うよ」 「……何もなくても……?」 「遠くに“お出かけ”するってのは、一日を全力で使い切るって事なんだ。余計な事を考えるより、馬鹿みたいハシャイだ方がスカッとするんだよ」 「……うん……スカッとする……入ろう、優真……」 ここまで来れば色々と大丈夫。 屋内プールや水遊び系のアトラクションがあるぐらいだし、透けブラ上等系女子、水着だから恥ずかしくないもん系女子が数多くいるだろう。 つまり際どい格好のココロでもセーフ! みたいな。目立つには目立つだろうけども。 「…………ココロ……わかった」 「噴水の良さがわかるなんて凄いじゃん!」 任せろという具合に掌ですくって―――― 「ごく……ごく……ごくん……」 「違う違う違うっ!」 また周囲の視線が痛いほどに突き刺さる。 隣の彼氏の命令に逆らえないとかなんとか――勘弁してくれ。 「……ココロ……やらかした?」 「やっちまった感はでかい」 「……ココロ、そういうとこある……」 「確かにココロちゃんはそういうとこあるね」 「……飲んだらもう……やり直しは利かない……?」 「人生は何度だってやり直しが利くものです」 「……ココロ……救われた……」 ほっとしていた。 ココロは知らない事がたくさんある。 箱庭の少女が外の世界を冒険し始めた、そんな感じだし。 これから覚えていけばいいことだらけなわけだ。 「噴水は、装飾美の一つかな。涼風を誘うでしょ? こう、暑い時に眺めてると涼しくなる感じ」 「……触れれば、もっと冷たい」 「そりゃそうなんだけど、綺麗かどうか怪しいからね」 「……これいいぞー、ではない?」 「これいいぞーの一種だけどね。さっぱりする物おごってあげるよ」 「……ありがとう……」 花の丘エリアを彩るは、変わらず咲き乱れるオオアマナ。 “ヒストリア”の大騒動――異変の中心となった場所も、今は多くの人を癒す見頃の花の絨毯になっている。 「……綺麗…………」 「なかなか気に入った感じ?」 「……空気が澄んでる……」 「この居心地の潤いとやすらぎの空間を守ったのは、他でもないココロちゃんじゃないの?」 「…………ココロ……?」 「俺は、ここにいたんだ。ここでココロの想い、受け取ったんだ」 「…………届いてた……」 「本気の気持ちが届かないわけないだろ」 あの時、ココロの助力がなければ――――赫さんは抜ける事ができなかった。 “今”という未来を繋いだのは、誰ひとりも欠けてはならない全員の頑張りがあったからだ。 だから俺は、感謝の意を込めて、ココロをこの場所に連れてきたかった。 「……ココロ、ここ好き……」 「いいよ、気が済むまで森林浴しよっか」 石碑までの道を行ったり来たり、ゆったりと時間が流れていった。 「よっし、せっかくだし、体感系の遊びでもエンジョイしようよ」 アトラクション施設は豊富にあった。 問題はどれを選ぶべきかだけど……。 「…………あれ……」 「あれ? どっち? 豊かな自然を利用した、リアル森の迷路? 開園から行方不明者7名って問題でしょ。捜索願も虚しく、ってどういうことだ」 「…………そっち……」 「ってことは、歩いて巡れるウォークスルータイプの――一般的なお化け屋敷ね。お化け……」 「お化け……見たい……」 「……出るよ、ここ」 「……出るって……?」 おどろおどろしく言ってみる。 「本物のお化けが……出るんだ……」 「……お化け……偽物もいるの……?」 当然のことながら、ココロには通じなかった。 「お待たせー。激混みだったよ」 「…………?」 「かき氷、冷たいよ。何でも氷の妖精のシロップ(黄金水)が掛かってて最強に美味しいらしい」 「…………真っ黄色……」 「そりゃ氷の妖精のシロップ(黄金水)だからね」 「…………食べていいの……?」 「遠慮してるの? それとも食べたくない?」 首を振ったココロは、長いスプーンですくって……シャクり。 「ん……これは……いいもの……」 「どういうとこが気に入った?」 「…………バランスがいい……」 「黄金だけに黄金比だったか。ん、確かにイケる」 あっという間に平らげてしまった。 「……もう一個……欲しい」 「お腹冷えちゃわない?」 「……ココロ……そういうのない……」 お腹を壊す心配はないっちゃないけど。 「あー、アレに並び直すと結構掛かっちゃうから、俺ので良ければ」 「…………優真がいいなら……」 「あーんをしますか?」 「…………?」 「実は裏ワザがあって、デート限定で“あーん”と言って口を開けると、俺に食べさせてもらえるんだよね」 「…………便利機能……?」 「そう」 「…………ここだけの話……?」 「そうです。騙しなしのうまい話です」 「…………あーん……」 氷をスプーンですくって舌の上に載せる。 「……しゃく……しゃく……ちべたい……」 「まだまだあるからね」 「…………うん……」 楽しい時間は過ぎ去るのも早い。 日が暮れるまでには戻るという約束は忘れていなかった。 「時間的に、乗れてもあと一個かな」 「…………優真……決めていい」 「わかった」 ゆったり流れる景色が見たい――――そう、ココロは電車内でつぶやいた。 「…………地面……遠ざかってく……」 「ゴンドラが段々あがって行くんだ。もっともっと高くなるよ」 「…………落ちたら……危ない」 「怖い?」 「…………優真がいるから……」 「そうです、俺がいるので大丈夫です」 俺たちを乗せたゴンドラが12時の地点に達する。 「……………………」 暮れなずむ園内を眺望するココロの横顔に、ぐっと人間味が差した。 「ソレ、全部、ココロちゃんが守ったものだよ」 「…………ココロが……?」 「そ。目に映るもの全部」 「だからキミは、眼下に映る景色を眺めて、どんなもんだ感謝しろって腕を組む権利があるんだ」 「…………優真……」 「ん?」 「……優真…………目、つぶって……」 「ん? うん」 「……んー…………」 これってもしかして、もしかして、アレだよな……? 待ってる時間がドキドキする。 …………ちょっと遅い? 「…………惜しいとこまでいった……」 「…………?」 「……これ以上……動けない……」 ちょっと意味がわからなかったが、片方の髪だけが不自然なほどピンと張っていることに気づいて―――― 「うぁ! ドアに髪が挟まってるじゃん。無理に動かしちゃダメだよ? 出る時には抜けるからっ」 「…………」 甘い展開を望んで突き出された唇は、俺さえ歩み寄れば届く距離にあった。 「ジッとしてて……」 「ん……ちゅ……」 唇に軽く触れる。ココロが求めた分だけのお返し。 「……こうするのが……正解だって……思ったから」 「……一回でいいの?」 「…………一回でいい……」 「そっか」 触れ合うだけで満足できたなら、それが一番いいのかもしれない。 「……連れてきてくれて……ありがと……」 「どういたしまして」 ああ……。 今日は良い一日になったな。 「到着っと。そんなに夜も深まってないね」 「…………今日は……ありがとう」 「脚、疲れてない?」 「……平気…………」 帰り道でデートの感想は概ね、言い合った。 もう話すことはほとんどないし、今日は失礼するとしよう。 「明日はルージュも連れてこれたら連れてくるよ」 「…………優真……」 「ん? そのポーズは、一体…………」 ゴツゴツした岩肌に白い膝を立たせる姿は、魅惑のデルタ地帯を強調するような体勢だ。 裾を摘み上げる仕草も可愛らしく、その先を期待させる。 「…………優真ともっといたい……」 特に他意はない、といった素っ気なさ。 己の行動が男に対していかなる効果があるのかわかっていないようだった。 「……まいったな。それ、誰に教わったの?」 「……か弱い女のふり……ゲスな男に媚びて……覆いかぶさると同時に、貫手で心臓を奪う……」 「圧倒的優位に立っていると相手に錯覚させた上で、一気に逆転させて絶望を与える――――ルージュが好みそうなシチュエーションだ……」 悪戯心丸出しの吹き込みが原因だとわかったはいいが、だからといって俺はどうすればいいのだろう。 「……優真は、覆いかぶさらない……?」 「その後、どうなるか知ってるの?」 「……興奮して……好きなように身体を触る……親密になれる……」 間違ってはいない知識。 間違っているのは、知識を植え付けた《ルージュ》〈馬鹿〉の方。 間違えそうになっているのは――誘惑された俺の方。 「……俺、時間あるし、一回悪戯しちゃったら止められなくなるかもしれないよ」 「………………? えっと……」 「いいの? 襲っちゃっても」 「……そういうふうに、仕向けてる……」 「そっか」 目の前にしゃがみこむと、やや上目遣いで俺の挙動を追ってくる。 「じゃあ、誘いに乗っちゃうよ」 「……ん……優真……」 ココロを見つめたまま肩に触れ、鎖骨まで流し、あごをつたって頬を撫でた。 「どんなふうにしちゃおうかなぁ」 「………………」 軽々と持ち上げられそうな胴回りを抱き込み、軽くキスをした。 「ココロちゃんの身体、気持ちいいね」 「…………? 触れただけで……?」 「気持ちいいの種類も色々あるじゃん。森林浴とか、ひなたぼっこしてると感じる安心感みたいな……」 女性特有のまるみを帯びた身体は、抱きしめるだけで心地良い。 あどけなさの残るミルクのような少女の芳香もまた、すごくほっとする。 「…………ココロで気持ちよくなる……?」 「うっ」 「……ココロ……気持よくなれそう……?」 なんだか、妙な感覚だ。 罪悪感ってやつかも。 何も知らないいたいけな少女に悪戯中なわけだし。 「…………優真……もっと触って……」 「うん……」 ささやかなふくらみは、肉付きの薄い華奢な肢体とのバランスがとれている。 熟した果実とは言い難いが、一つの完成された肉体美であることは間違いない。 「んふ……ん……ふぅ…………」 「……ふぁ……ぁ…………ん……ぁ…………」 「……はふ……ん……こそばゆい……」 「いい兆候だね……そのくすぐったさが、どんどん癖になっていくから」 秘部への愛撫へ直行したい気持ちを抑え、太腿を撫で上げ、おへそを通って反対脚を撫でる。 「ふぁ……ん……コレが……いいの……?」 「コレも、かな」 飽きの来ないきめ細やかな肌を堪能する。 「ん……ふ……ふぅ……んぅ…………ん……ぅ……」 「……熱い……身体が……この感じ……」 「……ぁ……え……ココロ……ココロの内側から、何か……出て……」 縦筋のラインを浮き彫りにするように、そこだけじっとりと黒く染みになる。 本人は戸惑っているようだが、触れてすらいない秘部が濡れるのは感じやすい証拠だろう。 「どんな気分?」 「……ん……ココロの……お腹……キュンってして……漏れてきちゃった……」 「これ……何……深刻な異常発生……? 優真……取り返しつかないことした……?」 「大丈夫だよ、これは漏れてもいいやつ。えっちな気分になると出ちゃう、由緒正しい人類繁栄の軌跡」 「……優真…………」 「こっちもいいかな……」 「ひぁっ」 可愛い乳房のお披露目。 「……優真……あ……ん……何してるの……?」 「おっぱいを揉んでるんだよ」 「……気持ちいいの……?」 「気持ちいいよ……でも、気持ちいいのは俺だけじゃないはずだよ」 谷間なんてほとんどない乳房に平等に設けられたピンクの蕾。 「んっ……あっ……んぅぅ……ん……ぁんん……」 触れればぷるぷると震え、連動するように甘ったるい響きが飛び出す。 「かわいい声……」 「……んひゅっ、んぁ、ぁ……あっ……何で、声……出るの……んっ、止められない……っ」 「いいんだよ、俺しかいないんだし。ココロのえっちな声、もっと聞かせて」 「ココロの声……んっ……えっちなの……はぁ……んうぅぅ……」 漏れる吐息に熱っぽさが混じり、呼吸の頻度が上がる。 桜色に上気する乳白色の柔肌に色気を感じる。 気づけば俺も愛撫に夢中になり、思考と本能がないまぜになっていた。 「……優真……ココロ……診て……おかしいとこないか、診てぇ……」 無感動で無感情な表情ばかりしてきたココロに浮かぶ女の美貌。 俺はしばし息をする事を忘れて魅入ってしまう。 「もっと気持ち良くしてあげるね」 くちゅ……くちゅ……くちゅり…… 「ぁぁ……そこっ……優真ぁ……っ」 ぷっくりとしたま○このお肉は、涙を湛えるように濡れそぼっていた。 既にとろとろにほぐれていて、指を軽く当てるだけで簡単に呑み込まれてしまう。 「あぅ、はぁ……ひぁ……はぁ……優真……はぁ……痺れる……っ」 腰を引こうとするココロを抱きとめ、ふくらんだ淫核を指で撫でる。 「ぁっ、んっ、んぅっ、んく、はぁっ、はぁっ、はぁっ……」 「んふっ……ンッ、こんなの……初めて……あっ、やぁ……はぁ……はぁ……っ」 心配になるくらい息を荒げ、恍惚とした瞳で俺を見る。 「少し、休もうか……」 「ダメ……やめないで……もっと……くちゅくちゅ、してぇ……もうちょっとで……何か、起こりそう……」 抜こうとした指はお湯に浸したようにふやけていた。 再度、深く差し入れ、指の腹で肉溝をなぞるように往復させる。 「……ココロのそこ……疼くの……優真の指で……ドキドキ、ヘンな感じするの……」 こみ上げる快感に打ち震えながらも、ココロは暴れたりせず、ジッと愛撫を受け入れる。 絶頂の切っ掛けを与えようと、俺は指を突き入れ、柔肉をグチュグチュにかき回した。 「っ、っ、っ、優真っ、爆発……するっ……あそこ、燃えてる……っ……だめ、ダメぇ……っ」 「ダメ……危険っ……このままだと、優真も、危ないっ、ココロ、爆発するっ」 「大丈夫だから、何も考えないで、頭を空っぽにして」 ぐちゅっぐちゅっ、びぢゅぶぢゅっ、じゅぐじゅぐっ! 「はっ、あっ、あぁっ、優真っ、優真っ、ダメっ、優真っ」 細かく痙攣し、引きつった顔でココロが喘いだ。 「い゛ゃっ!? ぁ、あぁぁあんっ! ひぁああああああああああああああああああああんっ!!」 「あ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ! ん~~~~~~っ!!」 びくん、びくくんとしなりあがった肉体を震わせ、ココロは羽ばたいた。 「はぁぁぁぁぁっ……~~~~~っ……~~~っ……~~……」 悲鳴のような嬌声をあげ、くったりと脱力した。 「…………うぅ……う……はぁ……はぁ……なに……身体の中で……爆発した……なに、今の……」 初めて味わう本物の快感の余韻にココロは浸っていた。 「はぁ……ん……はぁ……はぁ……はぁ……」 見れば、しぶいた熱い絶頂汁で手首までびちゃびちゃに濡れている。 「休憩しよっか」 「はぁ……はぅ……ん……うん……」 火照ったからだを覚ましていると、ココロの視線が俺の下半身に集中した。 「……優真……?」 「いや、ココロのあんな姿を見たら、俺もね……」 「……知ってる……任せて……」 痛いほどに疼いていたち○ぽを開放すると、ココロの行動は早かった。 餌に飛びつくように、躊躇いのない動きで咥え込んだ。 「んちゅ……ちゅ……ちゅ……ん……ぷ……」 「っ……あったかいなぁ……」 「………………?」 とりあえず頬張ったはいいけど――――次が続かない。 俺は笑うのを堪え、頑張るココロの頭を撫でた。 「苦しくない……?」 「……んっ(こく)……ん……ぷ……」 鼻息が肉幹に吹き掛かる。呼吸は万事、うまくいってる様子だ。 「先っぽのとこ柔らかいでしょ? 唇で挟んで、舌を使って遊んであげて」 上目遣いで頷くと、フェラチオというには遠いおしゃぶり遊戯が始まる。 「ん……んも……んむちゅ……ちゅ……ちゅ……」 「そう……そんな感じ……どうやったらち○ぽが気持ち良くなるか、考えてみて……」 「……んー……? ちゅっ、ちゅっ、れるっ……るちゅ、ちゅ……」 思案しながら、竿を咥える唇の締め付けに強弱をつける。 小さな舌がちょろちょろ動くのが、こそばゆく気持ちいい。 本格化には程遠いが、熱く潤んだ口内はそれだけでち○ぽを刺激する。 「んちゅ……くちゅる……ちゅぅむ……ぺろ……ビクンて……した……ちゅる……ここ……イイの……?」 「ち○ぽが反応したら、気持ちいいって事だよ」 「……んもぐ……ぐぷっ……れろっ、れろ……れろれろぉ、ん……くっちゅくっちゅ」 従順に、裏筋を舌でこねくり回す淫猥な作業に浸る。 気持ちいい。蕩けそうだ。 基本的にち○ぽの刺激って単調でも問題がない。 敏感部分への単調な繰り返しは、性感が高まるのも早い。 「口だけだと、疲れるでしょ……手も使って……そう……ち○ぽを扱いて……イイよ……」 「くぷっ……くーぽ、くーぽっ、んぷんぷ、んっんっんぽっ、んっんっんちゅっ」 おちょぼ口で覆ったまま、根本からち○ぽを扱く。 指先に力が入りすぎて擦られているというより指圧されている感覚だった。 「……ちゅ……ちゅ……いろいろ……ためす……んーちゅ、ちゅっちゅ……」 「んろんろんろ~……れるれる、れるれろ、レルル……んりゅるぅ……」 くちゅくちゅちゅぽちゅぽと音を立てて、頬張られる。 愛らしい頬が、見慣れた棒状にふくらんでいく。 「んーっ、ちゅぶっ、じゅぽじゅぷっ、ちゅばちゅばっ、ちゅずずずっ、じゅるぅ~~」 とうとう、先端の吸引という行為にたどり着く。 強めに吸われながら扱かれるのは反則的な快感だ。 「ちゅるるぅ~~~~……んぽんぽんぽっ、ちゅ…………れるじゅるるるぅ~~~~……」 「……はぁ~~……きもちぃ……」 「んぇろ……るろ、んちゅ……ンっ、くぷ……ンッ、ぽ……ちゅちゅぽっ」 「……ココロ、上手だね……」 「んぅーぽ、くーぽっ、ちゅうぅ~……ん~ぽ、ん~ぽっ、んちゅ、んちゅ、ちゅじゅぅ~~~」 いやらしい音を立てながら口奉仕を続けるココロは、すっかり官能的に頬を染めていた。 「んちゅちゅぅっ……んっぷ、んっぷ、んっぽ、んっぽ……ぅん、ちゅぅ~ぽ……ちゅーぱちゅーぱちゅーぱっ」 「この後……どうなるかは、わかってる……?」 「…………んーん(ふるふる)……ちゅぱ……ちゅぅぱ、れろ、れろ……」 「ココロが上手にできれば、先っぽから真っ白な液体が飛び出すんだよ」 「とびらすと……んちゅっ、ちゅぅっ、どうなりゅの……?」 「すごく嬉しい気持ちになるかな」 「じゃあ……すりゅ……優真……嬉しくなって……?」 「ぢゅちゅっ、ぢゅむっ、ちゅうぅぅっ……んぽっ、んちゅっ、ちゅぱっ、ちゅぱっ、ちゅぅぱっ」 ちっちゃな口の中で熱い唾液が絡み、亀頭がじんじんと疼いてきた。 「くぽっくぽっくぽっ、んっ、んじゅっ、ぢゅぱっ、ぢゅぱぢゅぱぢゅぱっ、ぬっぽぬっぽぬぽ」 執拗な先端攻め。 精液を入り口まで導いて、気持ち良く射精させるための動き。 的確な快感の蓄積に限界が来る、 「っ、っ、出そう……」 「ンッ、んぽ、ンッ、ンッ、ンッ、ンッ、ンッ、ンッ、ンッ、ンッ、んぅちゅぅっ!」 「――出るッ!!」 びゅるっ、びゅぷびゅるうぅぅぅぅうぅぅぅぅぅぅぅぅっ!! どぴゅどぴゅどぴゅうぅぅぅうぅぅぅぅぅぅぅぅっ!! 「ンブッ!? んっ……ん゛ぅ~~~~~~~~~~~っ!!」 「っ……っ……っ」 弾けるような衝撃。精液がち○ぽを通り抜けて、ココロの口内を瞬く間に汚していく。 「んっ、んーーーーーーーーーーーっ、んーーーーーっ、んーーーーーーっ」 ずいぶん深くまで咥え込まれていたので、精液は直接喉に浴びせる形になった。 「……んっ……んぶ……んっく、んく……んっ……」 「うぁ……ちゃんと飲んでくれてる……」 「んーふ……ん……んぶぁ……」 ち○ぽを抜き出すと、口の周りにべっとりと付着した精液がよだれのように垂れた。 「口の中……優真の味で……いっぱい……」 「気持ちよかったから……出し過ぎちゃったね……」 「……ねちょねちょしたの……れたから……んっ、飲んじゃった……飲んじゃダメだった……?」 「いや、嬉しいよ……ありがとう」 脱力していると、ココロは射精後のち○ぽを軽くしごいた。 「……おっきいまま…………」 股間は熱を保ったまま屹立していた。 「節操なしなんで」 「……ココロ……指じゃなくて……優真のこれ……欲しい」 ぼんやりとした口調。性臭香るち○ぽに鼻をひくつかせ、ココロは我慢ならないといったふうにつぶやいた。 「優真……もっと凄いこと……教えて……?」 「ココロは、俺のこと、好きなの?」 「……好きじゃないと……続き……できないの?」 「好きだから続きをする、かな。俺はココロとなら、いいよ」 「…………?」 遠回しに告白してるんだけど、そういうのはココロはわからない。 「そこに手を突いて、後ろ向いてみて」 「…………コレで……合ってる……?」 「こ、これは……ちょっと刺激的過ぎますね」 いろんな部分が丸見えだった。 ココロには大きな恥じらいこそないが、じろじろ見るのは失礼だろう。 「よくほぐしておかないとね」 念のため唾液で指を濡らしてから、縦筋に宛がう。 「んぁ……さっきと……同じ……この感じ……」 触ってるだけでエロい気持ちが増幅する。 「ふぁ……ぁ……優真……んっ、んんぅ……」 軽く擦っただけで蜜があふれ出す。 どうやら少し前の愛撫やフェラで気持ちが昂ぶっていたようだ。 ま○こがひくついて、挿入したら物凄い気持ちよさそうだ。 「……ゆぅま、また、ヘン……ココロ、胸が……うるさくて……止まらない……」 「ここも、うずうずする?」 ぬちゅりっ。勃起を宛がう。 「ひぁんっ、そこ、入れて欲しい……大きいので……むずむず止めて……っ」 「ここに入れるの、セックスって言うんだよ。好きな人同士じゃなきゃ、やっても虚しい行為なんだ」 「……ココロ……優真、好き……優真とセックスしたい……」 「俺もだよ……」 ぬちゅぁ……くちゅ――――――ずぷぅぅぅぅうぅぅっ!! 「ゆっ――あっ、あぁぁっ……優真ぁ……入って……ぁあんっ」 「んく……キツ……ココロ……っ」 儚い花びらの奥は、濡れていても窮屈だった。 「んっ、ぁ、ぁ、ぁ~~~っ、っ、っ」 「力、抜いて……」 「ふぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……っ!!」 膣口の抵抗を無視して沈み込ませると、肉ひだを拡げるようにして最終地点にたどりついた。 「はぁ……はぁ……優真……ココロの……一番奥まで……届いた……」 ぐっぷりと咥え込まれた結合部を確認し、繋がっていることに安堵する。 「キツくない……?」 「ん……大丈夫……優真のが入ってるの……嬉しい……」 “《ホムンクルス》〈ヒト型容器〉”であるココロに破瓜はなかった。 代わりに初体験が痛みもほとんどないらしいことも表情から読み取れた。 「続けて平気かな」 「だいじょうぶ……だから……優真の好きに、してぇ……」 きゅぅ~っとイイ締まり。入れてるだけで気持ちいい。 そんな隘路に腰を使えば、蕩けるような快感が待ってるのは当然のことで……。 「んっ……っ……動いてる……優真……ココロの中にいる……ぁっ、はっ、ぁあっ」 「うぅ……っ」 強すぎる刺激に腰が止まる。 「優真……気持ちいい……?」 「最高……ココロにも、気持ちよくなってほしい……」 「んっ……ふっ、ぁ……ぁぁっ、んっ、んん~、んっ、んー……優真ぁ……」 ゆっくりと抜き差しをして、快楽に慣れていく。 「優真が通ると……熱くて……じわぁって、広がってく……」 抽送の度に震えるお尻がかわいくて、つい揉んでしまう。 「んぅっ……優真……おっきぃ……ごりごり、擦れて……はぁ……きもちぃ……」 「んぁぁぁ……んふっ、んぅぅっ、イィ……指でしてもらったのの……何倍も、イィ……」 「嬉しいよ、俺ので感じてくれて……」 「はひっ、んぅぅっ、うっ、あ~~~っ、あっ、あっ、あぁぁっ……」 ――ぐぷっ、ズチュッ、ぐぷっ、ズチュッ、ズンズンッ! 「凄い音……ココロのま○こ、めちゃくちゃになってるよ」 「これ……ココロの音……? ココロ……どうしちゃったの? ココロ、大丈夫じゃない……?」 「大丈夫だよ、えっちな事をしたら、こうなって普通だよ」 「きもちぃ……! ゆうま……凄っ……もっとっ、突いて……ココロ、これ、好き……好きなの……っ!」 要望のままに腰を速く動かしていく。 「ひぁっ、ぁっ、あっ、あぁっ! んっ、んぁぁぁっ、潰れるっ、強いっ、んきゅっ、うぅううんっ!」 「んっ、んぅぅっ、はぁぁっ、優真、もう、これ以上したら、また、またぁ……!」 ヤバイ……。 快感を押し上げるような、いい匂い。 ココロ自身の体臭が媚薬効果なって官能が高まる。 「んきゅっ、んぅぅん! んっんっんっ、響く、のっ、優真の、奥までっ、来て、凄いぃっ!」 「ひっ、んっ、あぁんっ、真っ白にっ、なる、頭っ、ヘンに、なるっ、ひっ、あっあぁぁっ」 休みない抽送の果て、限界が訪れる。 「ココロ……さっきの、また出るから……っ」 「んっ、んっ、出るの……? ココロも、また、変になる……っ! すごい、すごぉ……っ」 「このままで、いいの……? 外に出したほうがいい……?」 「優真の、好きな方で、いいっ、あっ、優真と、いっしょなら、それでいい……!」 「ココロ……ッ!」 「優真――ンッ、また、来る……んっ、んぅっ、あっあっあっあっ、あ゛ぁぁ~~~~~~~~~~~~~~~っ!!」 ドピュッ! ぶびゅるうぅぅぅうぅぅぅぅうぅぅぅぅぅっ!! びゅるるびゅぶぅ~~~~~~~~~~~~~っ!! 「ん゛ぁあぁ――――――ッ! ~~~ッ!? ~~~~~~ッ!! ~~~~~~~~~~~~~~~~~ッ!!?」 「お腹……優真ので……いっぱい……んふ……熱ぃぃ……」 力強い脈動を繰り返し、ココロの膣内に精液を注いでいく。 「ドクドク……動いて……ココロの中……満たされてく……」 全てを出しきってから、一息ついて腰を引いた。 「……はぁ……っ」 「んぅ――――! んぅ……はぁ……はぁ」 淫靡に濡れ光るち○ぽを抜くと、膣奥からごぽごぽと精液が溢れだす。 「はぁ…………はぁ……んぅ………………はぁ…………セックス……終わり………………?」 「終わったよ……気持ちよかった……」 「……ココロも……よかった……また、したい……」 「気に入ったんだ。なら、また今度、しようね……」 「……うん…………」 脱力するココロを支えながら、荒い息で約束を交わした。 しっかり最後までヤる事やってしまったわけで……。 今までどおりの関係ってわけには、さすがにいかない。 ココロはあんまり気にしないだろうけど、俺が無理だった。 「ココロさ、やっぱり俺の部屋にさ――――あれ?」 消えた。一体どちらへ? 「あ、あんなとこにいた」 「おーーー……っと」 ココロとの出逢いは、ハミングだった。 その歌そのものに、意味があるのかはわからない。 ただ気持ちよさそうだった。 あの時も、今も――――伸び伸びと、感情のままに歌う。 その姿は、きっと――――ここでしか見れないものだった。 「あーくそ……何で気づかなかったんだよ俺……」 わかったわかった、そうすればよかったんだ。 「ここに木材集めて、一軒家を建てればいいだけの事じゃんっ!?」 知識とか技術とか細かい事はは抜きにして――できるっていうポジティブ精神さえあれば、まぁなんとかなる! 「やるぞっ、やってやるぞココロちゃん! 全部俺に任せておけ!」 ココロがいつまでも伸びやかにハミングできるように、俺は精一杯の手伝いをしていこう。